ぜんぶ秦恒平文学の話

文学作法 2013年

 

* 深刻で記憶に刻まれる初夢であった、夢とも覚えず、眠れなくて頻りに頻りに考え続けていたようで、やはり寝ての夢であった。目覚めて夢をみていたと分かった。で、その長時間の夢とは。

「此の世のことはみな夢・幻」と聴きに聴いてきた。般若心経にも千載集にも閑吟集にも聴き続け、だが、それらの文句・字句に聴いて覚えたではなく、実感として、ほぼそれがわたしの自覚に成ってはいる、だが「成正覚」には程遠い。そのせいであろう、夕べの夢で問い続け答え続けて悶着していたのは、「此の世が夢の夢の夢の世」ならば、「夢から覚めた後の世界はどういう景色であるのか」ということ。そればかりを執拗に問い続け答えようとしていたのである。悶着以外の何でもあり得なくて、そのままわが初夢は醒めた。

 

* 起きてからも、まだものを思い続け、そしてふと思い出したのは、山折哲雄さんとの対談『元気に老い、自然に死ぬ』の中で、何度か、執拗に山折さんに問いつめていたこと。般若心経の中に、「心無 礙 無 礙故 無憂恐怖」とある「 礙とは何でしょう」とわたしは聴いていた。山折さんは「障りでしょう」とただ字解のみを答えられた。同じ質疑のどの辺でか、わたしは「 礙とは、人間が何にも彼にも吐き続ける、リクツ・理屈」ではないでしょうかと言うていた、「それだ」とわたしは初夢での惑いに向かい答ええた気がしたのである。

夢の世界と覚めての世界と、視野になにの変化もない、ただ、夢に夢見ている中では人は果て知れず理屈を付け理屈を言い自分の理屈に酔うて惑うている。そんな夢から覚めた人は、まったく同じ世界に在ってしかも何ひとつ理屈をつけない、理屈など知らない世界に生きている、暮らしている、行為している。

わたしは今も仕事をし、病と向き合い、またペンと政治との関わりに生き、原発を憂え、悪政に立ち向かっているが、それも夢。しかし夢から覚めてもそれらとは変わりなく向き合い続けているだろう、多くの言葉も吐いているだろう、批評も非難も感動も感謝も無くなりはしない、ただそれらに理屈をつけていない、思索にも行為にも理屈はつき纏わない。あるままに、なるままに向き合い立ち向かうだけ。「心無 礙 無 礙故 無憂恐怖 遠離一切 転倒夢想」なのである、のではないか、と。

お笑いぐさだが「それも理屈を付けているだけじゃないか」と他人様に言われる前にわたし自身に忸怩たる恥ずかしみが有る。有ります。だから、ここまで。

2013 1・2 136

 

 

* 今は昔、東工大の「総合A」の学生諸君に、「『日本』の説明・理解に資する『一』文字」を書いて見せてほしいと出題したことがある。下記はその集成。数字は答えた学生の人数である。、

 

☆ 「日本」の説明・理解に資する「一」 文字

「和」 79  「島」 23  「金」 22  「義」 16  「内」 11  「神」 10  「勤」 10  「狭」 10  「心」 10  「桜」 8   「小」 8

が、10位を占めた。意のあるところを説明せよとは求めなかった。挙げられた「一字」は、加えてなお191字、合わせて202 字もあって、今の霞み目で全部を挙げるのはおやめにするが、上の11字をそれぞれご自分なりに、読み解いてみられれば、なかなかの自問自答が出来上がるだろう。

じつはこんな質問を投げかけた以前に、私自身、丸善が出している近代日本で最古の雑誌「學鐙」にまる三年間、つまり36文字を選んで読み解き続け、『一文字日本史』として平凡社から出版していたのだった。今は湖の本34 35 『日本を読む』上下巻に成っているが、わたしがごく批評的に選んだ「漢字」は、

「徳」「位」「例」「式」「名」「親」「本」「折」「色」「侍」「茶」「客」「蛇」「筋」「遊」「外」「縁」「楽」「葬」「祝」「職」「私」「土」「金」「家」「手」「身」「治」「天」「死」「人」「暦」「物」「女」「花」「風」

だった。学生君達の「11」字中でダブッているのは「金」一字だけ。むろん、もう三年も連載していたら別の36字が選べていたろう、それはどんな字になり、どのようにその一字一字から「日本が読める」か、惹かれる課題であり、なによりもこんな試みは、何方にも出来る課題でもある。

じっくりと「日本」を読み替えて行く時機へ来ている気がしてならない。やってみるかな。わたしが学生諸君に回答結果を整理して示したペーパーには、上の36字以外に、また学生回答の202 字以外に、こんなのも「考えられよう」と幾つかを挙げている。

「時」「俗」「官」「都」「能」「医」「空」「「清」「会」「衆」「制」「性」「藝」「一」「流」「氏」「派」「隣」「船」「旅」「株」「型」「聖」「今」「老」「墓」「変」「論」「勘」「想」「他」「草」「雪」「虫」「霊」「怪」「月」

書き写しているうちにも、わたしの読み解きが澎湃として迫ってくるから面白い。本気で、またやってみようかな。

2013 1・4 136

 

 

* ドラマといえばこのところ何度も「仁」というのを面白く興深く観ていた。こういう手法は、わたしの太宰賞受賞作の「清経入水」や「初恋」「風の奏で」などより以前には小説でもドラマでも見なかったものだ。

さて「イ・サン」が今夜で終わる。

2013 1・13 136

 

 

*夜前というより暁暗に、半ば眠ったまま「女の身」となり、妖しく妄想していた。

 

白妙の白よりわれの肌身かな

 

湯気のなかへ誘はるる身の除夜の鐘

 

年の瀬の逢ふ瀬にうかぶ乳房かな

 

こりこりと乳首ふふまれ明けまして

 

元朝や萬行快楽(けらく)「一」致して

 

試みている或る「寓話」との気脈であろうよ。

2013 1・15 136

 

 

* 115の「序にかえて」にも書いたが、いわゆる「読者」には「作品だけ派」の人と「作者も派」の人が有る。わたしも少年の頃は、はなから漱石や藤村や潤一郎や直哉の「作品だけ」を愛読し、「作者たる人」には予備知識も関心もなかった、まったく「作品だけ」で満足していた。しかし、追い追いにそれでは済まなくなった。「作者も」その人の作の「読み」を深めるのに、どうしても必要、と言うより、「作者の人」にも魅された、佳い読書のためにも必要だった。詳しい年譜を求めて作の読みのための必須の栄養として大事にした。

今度の『秦恒平のベンと政治』も、「作品だけ派」の人には政治なんてと爪弾きに遭うか知れない、が、幸い「湖の本」読者には、「作者も派」の方々の多いのが事実であるように想われる。この作者にはこの方面への傾斜もあるのだと発見するのは、わたしの体験から言っても嬉しいことだった、へえ、そうなんだ、と。

そういう向かい方は、とくに有能な編集者には必備の姿勢で、初対面の場合は「作品だけ」で評価するとしても、作者が有能であればどうしても「作者も派」として立ち向かうようになる。必要になる。

2013 1・19 136

 

 

* 心嬉しい一つ事を、まず書いておく。

谷崎潤一郎『文章読本』を心底敬服しながら何度目かを読み進んでいるうち、記憶にもれていた以下の言及に再会した。

谷崎は文章の「調子について」 一 流麗な調子 二 簡潔な調子 三 冷静な調子 四 飄逸な調子 五 ゴツゴツした調子 を詳論の末尾に、こんなことを思い入れ深く書き加えている。

 

☆ 谷崎潤一郎『文章読本』に聴く。

(承前) もはや此れ以上細別するにも及ぶまいと思ひますから、此のくらゐにして止めますが、唯お断りして置きますのは、總べての作家が判然と此の五種類の孰れかに属してゐると云ふ譯ではありません。體質と云ふものは生れつきでもありますが、その人の境遇、年齢、健康状態等に依つて、後天的にも變化します。ですから、若い時代には流麗派であつたが、年を取つてから簡潔派になつたり、或はその逆であつたり、いろいろであります。しかし實際には、さう純粋に一方へ属してゐる作家は少いのでありまして、或は流麗調三分に簡潔調七分、或は冷静調五分に簡潔調五分と云つた工合に交り氣がある。又、幸田露伴氏の如きは 外に劣らぬ學者でありながら、その調子は冷静でなく、むしろ情熱的であつて、流麗と簡潔とを兼ねてゐるのであります。

純粋なのは、その生一本で清澄な所を取るべく、交り氣のあるのは、その多角的で變化に富む所を取るべく、それぞれ美點がありますから、一概に孰れがよいとは申し切れません。

しかしながら、私はゲーテの作品を原文で讀んだことはありませんが、英譯や日本譯によつて受けた印象を申しますと、同じ一つの文章が、視角を變へる毎に、或る時は流麗調の如く、或る時は簡潔調の如く、又或る時は冷静調の如くに感ぜられる。さうしてその三つの長所を、各々十分づゝ、完全に具備してゐるやうに見える。斯くの如きは稀な名文でありまして、その天分の豊かなことを語つてゐるものでありませう。

 

* わたしが殊に喜び読んでまったく同感したのは、「ゲーテ」の天分に触れた箇所で、こんなに適切にわたし自身の感銘を代弁して貰っていることで。「若きヴェルテルの悩み」「ヘルマンとドロテア」「親和力」「ファウスト」また「イタリア紀行」などなどの孰れをとっても谷崎の受けていた感銘は如実だとわたし自身もハッキリ賛成できる。こうも明瞭にゲーテの文章の真価を端的に説いて貰ったことは、ない。

繰り返し云うが、谷崎『文章讀本』は、これから文章を書いてみたい人にも、既に苦心している人にも、優れた道案内だとお薦めする。どこかの社の文庫本としてきっと手にはいるだろうから。

2013 1・20 136

 

 

* 四国の木村年孝さんから戴いた地誌・史料は、ただ読んでいるだけで興味津々、しかも役に立ちそうな観点や知識が具体的に見えてきて、感謝し、興奮している。慌てずに、じっくり思案を深めたい。

 

* 『ペンと政治(二上) 福島原発爆発』から昨年桜桃忌前日までは、この三月十一日に間に合わせる。あまりびっしりと「原発」追及満載なので、息抜きにと、「私語の刻」を拡充して、文学や読書その他の記事をも満たしてみた。わたしは政治的人間ではない。その余の関心の方が遙かに広いと自身を観ている。

『(二下)』も、背信に背信を重ねた野田民主党総理の惨敗・安倍政権の危険な成立などを、まさしく平成の「この時代」の後々に伝える「証言・記録」として、しっかり打ち樹てておく。作家として当然の批評としても。

2013 1・31 136

 

 

☆ 加賀はいつもながらの冬の陽気です。雪が積り、消えて また降り積っています。

「ペンと政治」は、その方面にうとい私にとって、とてもいい刺激ーー特に今の情勢下にあって、物の考え方の方向を導いてくれます。

「お元気」は年並で無事ですが、「お仕事」は彷徨です。万年筆もみんな機能を失って モンブランもシェーファーもパイロットもその他みな、ボトルを置いての漬けペン扱いです。買い替える気も失っています。

「新潮」で黒川創さん(=甥。実兄北澤恒彦の長男)のお作読みました。おもしろいお仕事と拝見しました。黒川さんのお作は何作か拝読しましたが。質的? 秦さんの線上にあるように思いました。

◎ さて「戯号」をうかがいました。徒然なるままにハンコを彫ってみました。私の方も戯刻です。「そうですか」と見て下さればそれで結構です。

先日 高校の同窓会(綜合)新年会に出ました。そこで胃のない先輩後輩なんか何人もいることを知って驚きました。しかもとしも元気でした。一方 胃が1/3も残っているのに、家内の場合はなかなか落ち着かず、グズグズが続いています。じっとがまんして回復を待ち望んでいるこのごろです。大事なのは気力でしょう。秦さんにあやからせたいものです。 いっそうお大切に。

奥様によろしくお伝え下さい。  秦恒平様   加賀  哲

追って。

戯号(=有即斎)の意味するところ、不敏にして解し難く思っています。  推察しますに、「有終」に通じるところがありましょうか。おからだに支障があっても、私は、秦さんに期するところがとても大きいのです。もっともっと「秦恒平の世界」を展開してほしいと思っています。ーー思いすぎでないこと願っています。あくまでも戯れと思っています。

 

* こんな有難いお手紙を年長の文学者から頂戴する冥利に、すこし、ボーっとしている。戴いた印形の美しいことも、嬉しさに頬があつくなる。

「有即斎」  の字面にもわたしは嬉しがっている。「そろそろ終わり」とは思っていない。「いま・ここ」に厳として「有る」なにものとも無心に向き合って、表現したければ表現し、楽しみたければ心から楽しむ日々でけっこう、死も、死後も待たずまた頼まない「いま・ここ」でよしと思っています。そんなの「うそくさい」と思う人はどうぞと。

 

* ホームページ」に写真を入れる手順を見失っていて。すばらしい印形、先日頂戴した「騒談余人」印も、今日頂戴して今も掌にある「有即斎」印も、此処に掲げられないのが残念、残念。湖の本に、美しく表してみたいもの。

有り難うございます。お気持ちに素直に背を押して戴いたまま、へんに気張らないで静かに「書く」日々を重ねてまいります、病気とも静かに向き合いながら。

2013 2・1 137

 

 

* 河出書房から秦建日子新刊、刑事雪平夏見シリーズの文庫本、『愛娘にさよならを』を「著者謹呈」本として贈ってきた。「解説」の冒頭にこの著者が秦恒平の長男だと、珍しく明記してある。ま、それはよい。開巻、本文の第一行半分が、こうだ、これは戴けない。

 

深夜の静謐な住宅街に、銃の残響が盛大にこだまし、

 

あらかじめ云うておくが「静寂」ということば、中村明さんの『日本語 語感の辞典』では「ひっそりと静まり返っている意で、改まった会話や、文章に用いられね漢語」だと説明し、阿川弘之さんの『夜の波音』から例文が採ってある。秦建日子の書き出しには「静寂」でなく「静謐」という漢語が使われている。中村さんの辞典には何故か「せいひつ」が無い。ではわたしが「新潮」に書いていた頃以来愛用の新潮国語辞典では、「静謐」とは「世の中が治まること」「天下静穏」の意味とある。「深夜の(静穏無事な)住宅街」である。静寂といおうと静謐と云おうと問題ないだろう、が、政治的な太平とまでは過剰で、「ただ」寝静まった深夜住宅街の表現としてはみまものものしい。わたしが編集者なら、黙って鉛筆で傍線をひいて著者の推敲を求める。身振りがでかい。

ついで、「銃の残響が盛大にこだまし」が、もっと読者のわたしを困惑させる。おとなしく云えば、こんな状況を体験したことがない、想像は出来る。そして、これで「表現」として過不足ないのかしらんと疑い、疑う以前にもう「へたくそ」な文章やなあとガクッと来る。つまり騒がしい。日本の美学でもっとも軽蔑されたのは「騒がし」゛あった。少なくも「残響」と「こだま」とは強いて謂わなくても同意・同感の範囲内にある。重複している。「盛大に」という強調も、「残響」が「こだま」しているなら、すでに「盛大」感が謂われている。それに、わたしの語感では「盛大」には人の存在、人のもつ景気がかかわっている。「深夜の住宅街」に人気は感じにくい。「銃の残響」を「盛大」とは拙劣ではないか。べつの「表現」をさぐって欲しい。谷崎の『文章読本』では、むやみな漢語の使用より和語を活用するように教えられた。わたしなら最初の出だしを、「静かな深夜の住宅街に」として「シ・シ・ジ」という頭韻に文学の音楽性を求めるだろう、いやいや「静かな」も余分な気がしている。小説の文章にはつとめて「余分な」言葉は乱用したくないから。

 

* 一人前のプロに失礼とも叱られようが、率直に書き置く。秦建日子にだけ云いたいのでは、ない。

ひとつ褒めておきたい、秦建日子の創作には、演劇も、脚本も、小説にも、「花」は匂っている。大事に育てて欲しい。

2013 2・5 137

 

 

* 四国の木村年孝さんに頂戴した詳細な地誌史料は、順に読み継ぐほどに親切な採集で、驚喜している。十分に頭に入れて創作に資したい。木村さんに、どんな御礼をしてもし足りないほど、有難い。

2013 2・6 137

 

 

* 在野の一作家である病老人が、連日連夜こういう「政治へのクレーム」を書きつづらねばならぬとは。情けないどころでない無念の歎きである。

 

* 昨夜「十訓抄」にわたしなりの不足を漏らし述べていた、その辺を、訂正すべきはしながら、追って書きしてみよう。小学館版の日本古典文学全集本を読み出しているのだが、巻頭序かのように編者の感想から先ず読み始めて、先日紹介した「黒いカラスは白いカラス?」の話題になった。上位者のわざとの質問に沈思の面持ちで、切れ者の、つまり如才なく頭のはたらく従者が、「たしかに黒いカラスは白いカラス」に相違ございませんと返事した。それが愛でられて従者は晴れがましく御所がたで地位を得たのである。「これが十訓抄のおすすめの」答えなのだと編者は書いている。失敗例も挙げていて、「よく考えもせず、たちどころに受け応えすることほど、愚かなことはない」と代弁している。「人に何かを尋ねられても、『いや、よくわかりませんなあ』などと答えてくれる人の方が、本当の名人、大家と思われる」と原本の書き手は考えており、編者も支持ぎみに書いている。「知っているからといって、得意げに言い散らすのは『良からぬ人』の常態なのである。知っていても、知らぬと言え、わかっていても、忘れたと答える方が、ずっと奥深い」と、この本は云うのである。

この姿勢は、云うまでもないほど過去形日本人だけでなく現在日本人の多くにじつに濃密に浸潤し、それが「奥ゆかしい」とされている。「奥ゆかしい」とはくらくてよく見えない「奥」が見てみたい、それほど実はそんな日本人といえども、また例外なく自分の本音・本性は隠しておくけれども、他人の本音・根性は見知ってみたいのだ。奥ゆかしい人・状況とは、つまり、「まこと」は秘め隠し、表向きはテキトーに云いも見せもする。これは徹底的に「京」の人と世渡りとに淵源していると、名著ともいって貰っている『京のわる口』の著者私は判り切っている。

編者も云っているが「十訓抄」はあの「徒然草」とほぼ全く同じといえる思想と態度を明示している。兼好さんは十訓抄のいわば「価値判断」につよく肯定的に追従している。似た話題も勧奨も多い。洛北のほととぎすのことを、ことさら「心くらべ」気味にいたずらな女達が男をつかまえては聞く。具体的に答える男はダメ男で、「さあ、どうでしたかな」と答えた男が「奥ゆかしい」と称賛されていたりする。徒然草は江戸時代以降大勢の日本人に愛読され、極端に云えば古代の古今集にも匹敵して、中世以降現代にも至る日本人教育に魅力と威力を持ってきた。

だが、わたしは、「さあ、どうでしたかな」などと云わないし、気色わるい追従もしない。日本の歴史を私なりに学んできたればこそ、変妙で姑息な「奥ゆかしさ」など放棄している。

わたしの生涯の導き手と今も懐かしい昔びとは、中学生で一つ下のわたしに向かい、「ほんまのことは云わんでもええのえ。云わんでも分かる人は分かってはる、分からん人にはなんぼ言うても分からへんの」と教えてくれた。一年上の上級生だった。尊いまでの教訓であった。事実はまことにこの通りで、「なんぼ言うてもわからへん」人、いや「分かっていても分かったとは云わない」妙な人たち、奥ゆかしげな大人達が京都だけでなく、東京にでも大勢をしめていた。そして本音は抱き隠していた。たとえ心情左派を装った人でも投票の際には本音の超保守票を投じたりしている。

わたしは、そんな風には生きにくい人なので京都を振り捨ててきたが、東京も同じ日本の内であるに相違なかった。

「そやから、ほんまのこと幾ら言うても書いても、分からん人も、分かっている人でも、同なしなん。人の云うことは聴かへんという本音でしか人は動かへんの」とでも、あの姉のようであった人は、今出会ってもわたしの顔を見てそう歎くであろう。

 

* 愛読の古典と聞かれれば源氏、平家、徒然草と答えてきた。わたしも日本人であることは幼来まぬかれ得ない。しかし、わたしは奥に思いを隠しておかない。おけないのではない。おかないのだ。本音が汚物のようであるのなら、だからこそ吐きだす。真情・信念でであるなら隠さない。「やっかいな人やなあ、いくつになっても」と笑われるだろう、分かっているけれど。

 

☆ 十訓抄 序 より

(前略)聞き見るところの、昔今の物語を種として、よろづの言の葉の中より、いささかその二つ(=賢なるは特多く、愚なるは失多し。)のあとをとりて、良きかたをば、これをすすめ、悪しきかぢをば、これを誡めつつ、いまだこの道を学び知らざる少年のたぐひをして、心をつくる便となさしめむがために、こころみに十段の篇を別ちて、十訓抄(じっくんしょう)と名づく。すなはち三巻のの文として、三余の窓に置かむとなり。 ( 中略)

そもそも、かやうの手すさみのおこりを思ふに、口業の因離れざれば、賢良の諫めにたがひ、仏の教へにそむけるに似たりといへども、閑かに諸法実相の理を案ずるに、かの狂言綺語の戯れ、かへりて讃仏乗の縁なり。いはむや、またおごれるをきらひ、直しきをすすむる旨、おのづから法門の意にあひかなはざらむや。かたがた何の憚りかあらむ。 (後略)

 

* こう読んでみると、この人、書きマニアで、理屈づく書きたい、書く意味・看板を上げている。「直しきをすす」めるのだ、何が悪いかと身構えている。おまえと同じじゃないかと云われるかも。無駄な抗弁はしない。戯称の「有即斎」に徹する。

2013 2・8 137

 

 

☆ 臨済録に聴く

「法性(ほっしょう)の仏身とか、法性の仏国土というのも、それは明らかに仮に措定された理念であり、それに依拠した世界に過ぎない。」「法は心外にもなく、また心内にもない。いったい何を求めようというのか。」

「仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業。菩薩を求むるも亦た是れ造業、看経(かんきん)看教も亦た是れ造業。仏と祖師とは是れ無事の人なり。」「なんぢ若し心を住して静を看、心を挙(こ)して外に照らし、心を摂して内に澄ましめ、心を凝らして定(じょう)に入(い)らば、是(かく)の如きの流(たぐい)は皆是れ造作なり。」

 

* ファンタジイである仏典の多くは、いかにもファンタジイと知って愛すべく、それは「明らかに仮に措定された理念であり、それに依拠した世界に過ぎない。」あれこれと架空に「造作」された理念などに拘泥していると泥に沈む。

仏や祖師の「無事」とは何もしない意味ではあるまい、して囚われなく、しなくても囚われない。外へも内へもなんら造作しないでしている、していない、のであろう。

2013 2・10 137

 

 

* 一つの「仕事」が、木村年孝さんの助力で、前にすすめる視野を得てきた。人のことは言わない、わたし自身の読みたい小説が成ってゆきそうだ。もう一つの「仕事」は、わたし自身のモチーフで書き進められる、が、たとえ成っても誰にも彼にも見せていい寓話ではない。いまでも公刊すれば。いや、言うまい。さらにもう一つの「仕事」はただじりじりと根気よく整備し整頓して行く内に小説と成ろう。

2013 2・11 137

 

 

* 昔から、地図が好き。見ていて飽きないだけでなく、地図から濛々と想像のオーラが涌いてくる。いまも、木村年孝さんから送っていただいた特殊な現地地図の、まるで山盛りのご馳走のように見えてくる地図を、霞んだ眼で、じいっと。有難い。

 

☆ 臨済禄に聴く。

「名前や言葉に執われるため、凡とか聖とかの名前にひっかかり、心眼をくらまされて。ぴたりと見て取ることができない。例の経典というものも看板の文句にすぎぬ。」「それと知らずに、看板の文句についてあれこれ解釈を加える。それはすべて、もたれかかった理解にすぎず、因果のしがらみに落ちこんで、生死輪廻から抜け出ることはできぬ。」「おまえたちが、もし( 凡を嫌って) 聖なるものを愛したとしても、聖とは聖という名にすぎない。」」

「(真に道破した)良師を訪ね歩いて教えを請うがよい。ずるずると五欲の楽しみを追っていてはならぬ。光陰は過ぎ易い。一念一念の間も死への一寸刻みだ。(因循として楽あれば苦あり遂うこと莫れ。光陰惜しむべし。念念無常なり。)」「人の言いなりなぐずでは駄目だ。ひびの入った陶器には醍醐は貯えておけない。」「何よりも他人に惑わされまい。」「どこででも自らの主人公となれば、その場その場(の今)が真実だ。(随処に主となれば、立処皆真なり。)」「なによりも念慮(分別)を止めることだ。外に向って求めてはならぬ。」

 

* もとより、わたしも、私民であり社会に生き世界に生きている。おのずから行為し、おのずから葛藤する。投げ出せない。ただそれらにも無心に向かうこと、拗くれた念慮・分別を白紙にかえしたまま行為し葛藤することは出来る。わたしは、そうしていると豪語はならないが、そうしたい。

2013 2・13 137

 

 

* 早めに発送の用意がしたく、もう、とりかかった。湖の本(二上)115本は我ながら猛烈な「政治と時事」の追及で、わたし自身が凄みを覚えた。これでは読者も息が抜けまいと、今回はうしろの「私語の刻」に頁のゆとりをとり、そこに、本編記事とちょうど重なっていた時期の「文学や古典や読書や思想等」の文藝連鎖の感想をもゆったりと気ままに連ねてみた。息苦しくなれば、どうぞ「私語」をもお聴き下さい。本編と私語と、どちらが私か、ではない。どちらも私の「ペン」なのです。

 

* わたしの謂う「ペン」とは普通名詞の売り物のペンではない。文士たるものの精魂がその尖端から迸る、真剣にひとしい。そこで思い違いすると「書き殴る」「書きっ放し」になる。推敲こそが才能なのかも知れぬ文学の「ペン」をひとたびでたらめにすり減らしてしまうと。もう容易には戻れない。ま、この日記で誤記・誤植をその場で読み糺していない(=後日、日付順に直して他の場所に保管の際に直せるだけ直している。)のだから、大きなことは言えないけれども。

2013 2・15 137

 

 

* いまのわたしは、湖の本新刊発送用意の作業などいろいろ有りながら、創作つまり小説もトロイカのように少なくも三作の尻に鞭打って楽しんでいる。眼がすっきり見えればいいのになあと嘆かわしいが、手探りにでも、あれに鞭を入れこれに鞭を入れて駆け抜けてゆくしかない。今も霞んだ眼で、いちばん期待している、いやいやどれも期待しているが、その一つに大きな伏線を二つも敷いていた。

さ、もう寝よう、明日のためにも。

2013 2・20 137

 

 

* 神仏の実在は信じないが、神仏にむかいわたしはなみの人よりも敬虔である。ファンタジイを受け入れているわたしは、実人格であった釈迦とイエスとは別として、少なくも仏教の仏達、ファンタジイとしての神さま達を、ごく素直にうやまい。拝礼もたいがいり場合怠らない。

ファンタジイとは夢である。その上に所詮生きてある人生そのものをわたしは夢の内と諦めている。夢から覚める日を心待ちにしている。こんなことは所詮ゆめを書いているまともな小説家なら、リアリストであれイデアリストであれ大勢の小説家が納得していると思う。

毎朝床を出ると、なにより真っ先に、目に入る秦の両親と叔母との位牌が廊下の奥にあるのと向き合う。

わたしは、何のためらいなく「松壽院さん」「心窓さん」「香月さん」と呼びかけ、さらに「おじいちゃん」「おばあちゃん」「あば」とも呼びかけて、「どうぞ今日もごきげんよう、お元気に楽しく仲良くお過ごし下さい」と語りかける、「そして、私たちをどうぞお守り下さい」とあたまを下げている。むろんそんな「言葉」も「礼」も「祈念」もわたしはファンタジイとしてしか信じてはいない。わたしのしていることは演戯の一種に過ぎない、が、それで佳いんじゃないと、本気で亡き人へ声を掛けている。育ての親の恩を想い出すきっかけを、生真面目に実演し実行している。すべては夢のうちの振る舞い、行いである。祈りすら、わたしはファンタジイに真心と身とを寄せていると自認し、拘泥していない。

 

* 「松爵」という、秦代の昔、五品の位をさしていた。始皇帝が山中に雨にあい「五松」( 不明) のもとに雨宿りし事なく雨も晴れた。松を愛でて「五大夫」と名を与えられたのが五品「松爵」の官制とも成ったと。『十訓抄』に教わった。好字ではないか。驕ってではなく、謙ったきもちでわが戯号「有即斎」に「松爵」と冠して観たくなった。呵々

2013 2・21 137

 

 

* 平家物語世界に密に膚接しながら推理の絡んだ現代のファンタジイ、いよいよ動き出して行く。じいっと辛抱してその「世界」に同化しようとして来た甲斐がおいおいに報われるだろう、酬割れて欲しいが。太宰賞から五十年(二一一九年)では遅くなりすぎる。湖の本創刊三十年( 二一一六) までに少なくも追っている二作、三作を追い上げたい。そのためにも気力萎えて病に圧し潰されまい、どんなに、よたよた・よろよろしようとも。

2013 2・23 137

 

 

* 新しい国宝や重要文化財の指定があり、その一つ一つが、懐かしい。快慶といい運慶といい、その他の幾つも、いいものを大事に持ち伝えてきたのが、誇らしく嬉しい。昨日だつたか、既に国宝の東本願寺蔵の「三十六人集」の和歌といい筆跡といい目をみはる用紙の装飾といい、身震いするほどの美しさ豊かさであった。

今の時代、これらに匹敵する何が産まれているのだろう。建築のほかに記憶に値する、千載に残して嬉しく誇らしい何ほどが在るのか、すこし心寂しい。源氏物語や平家物語や徒然草や芭蕉・蕪村や秋成や、これらの「文學・文藝」の上越す千載不滅の業績とは、誰のどんな作であるか。浮薄な現代の嗜好に媚びない「批評」の確かさが欲しい。

かつては、小林秀雄や河上徹太郎、唐木順三、中村光夫、臼井吉見のような優れた批評家の名が広く知られていた。いま、わたしは時代に冠絶した優れた文藝批評家の名をほとんど覚えない。わたし独りの不勉強のせいならいいのだが。、

2013 2・27 137

 

 

* ほんの十数行だが小説を先へ押しておいて、なにより眼の霞みに負けたまま今日を終えたい。

幸い、有効な史料などたくさん贈ってもらった木村年孝さんに、すこしは見映えのする昔の限定本を二種宅送、謹呈した。それほども有難かった。

もう後戻りできない。綴れを織るように、丁寧にわたしのファンタジイを先ずわたし自身が堪能したい。

2013 2・27 137

 

 

* 「湖の本115 」の刷りだし、届く。

この『ペンと政治』三巻六百頁は、昨今ふつうの市販本なら千数百頁に余り、一作家わたしの、「批評」における最大著作、或る一面の代表作となるだろう。

「政治」一般でなく焦点は「原発の安全神話」や「原発危害の今後」に絞ってきたが、もとより、わたしは直接の取材探訪を事とする新聞記者でもジャーナリストでもない、ひとりの、しかも今や市隠とすらいえる只一人の作家である。

しかし、創作家とはつねに「批評」の人であらねばならぬ。朝と書き、犬と書き、小さいと書き、甘いと書いても、すべて批評として文章表現に生かされる。他のもので置き換えられない、その適確で深切であるか無いかが、また他者により「批評」される。

今度の本は100 %わたしの「批評」行為であり、同時にあらゆる「批評」「批判」をも「言論の自由」において受けとらねばならない。当然のことであり、論戦があってもむしろ当たり前のこと。そう思っている。

こんな大部の「批評」仕事は、この時節、どんな出版社も引き受けては呉れぬ。四半世紀を超えて「いい読者」に支えられてきた「湖の本」であればこそ可能なので、羨ましいと、腕を撫している作家、批評家が大勢いるに相違ない。

「三号雑誌なみ」に投げ出すとさと創刊時に冷笑した人もいた。「せめて十巻」は続けたいとわたし自身願っていた。

それがとうに百巻を超え、あっというまにもう百十五巻めが出来、次巻も入稿されている。ひとえに「いい読者」のおかげ、印刷所のご協力、そして妻の支え、で、歩み続けて来た、来れた。

と同時に、わたしが真摯に「創作」し、真剣な「批評」に生きてこなかったら、また元編集者としての「技とセンス」を駆使出来ずにいたら、営利を求め蔵の一つも建てたいなどと願っていたら、とてもとても、二十七年も、百何十巻も、の「出版維持」など可能だったわけがない。不可能であった。

わたしは現代の、昨今の、出版指向の桎梏を拒絶した。そのとき、すでに六十種以上の市販単行本を出していたわたしは、「創作と批評の世界」の市民権を得ていた。

それならば自由自在に創作し、批評し、それらを心ゆくまでに編んで、気に入った自装本を自身で出版し続けたかった。

「敵前逃亡」だと非難する編集者もいた。「すぐさま頓挫」とも笑われた。

わたしは文学者としてなにより自由に生きたかった。それを支えてくださったのは、間違いなく「いい読者」の皆さんだった。

わたしは、趣味で出版ごっこしてきたのではない。きちんと採算を得つつ、「百巻」をもズンズン超えてきた。「購読者」なしにとても出来た話でない、本当に読者の支えがありがたかった。

ま、それもこの時節である、読者だけに頼るのは限界を迎えている、つまり微量ながら出血が始まっているのだが、それこそは、わたしとしてまた「新たな脱皮期」なのである。

「湖の本」で蔵を建てる気などもとよりない。それどころか、住む家が屋根と柱と壁とだけに成る日をこそ覚悟していた。それが「自由」へ支払うわたしからの、代価。

そして今やわたしは癌を病んで苦しみ、ほぼ同年齢の妻もわたし以上に久しく医者がかりの身で。二人ともに幸い傘壽を迎えるとしても、もう三年前後の余命なら、気力に恵まれている限り「湖の本」続刊に、少しも問題はない。同業でもあり父親よりはるかに手広く活躍中の息子秦建日子は、親爺の遺産などアテにしていないに違いない。それ幸いと、わたしは各界の知人、有識者、それと全国のかなり多数の大学・高校に向け、現在1000部ちかくを寄贈し、受け入れてもらっている、自然、それもわたしの「文学活動」であって、そういう仕事も、多年「いい読者」の皆さんに支えてきて戴いたのである。幾重に感謝を述べても、千の一にも足りない。

2013 3・2 138

 

 

* 経産省は、三月一日、エネルギー基本計画を検討する「有識者会議メムバー」から「脱原発」意向の五人をはずし、「原発推進」意向の鮮明な福井県知事など五人を新たに加えた。じつに公平公正を欠いた露骨な人事で、数十年来の自民党体質への「あからさまな逆行」が強行されている。「脱原発」意向の鮮明な顔は十四人のうち僅か二人に意図して減らされたのである。今後、こういう「民意に背いた無恥な政策」が平然と重ねられて行くのは、必至。黙視できない、看過してはならない。抗議運動は絶対に弱めてはならない。八月の参議院選挙に、断乎自民党の暴政阻止の意思表示をしたい。最悪の政権を復活させてしまった。

今朝の東京新聞「筆洗」はこう語っている。

 

☆ 東京新聞「筆洗」 3.03.04

東日本大震災から来週で二年を迎える。津波で家を失った被災者の大半はまだ仮設住宅で暮らしている。原発事故の避難者の多くは家に戻れるめども立っていない▼「かつてない大災害だったにもかかわらず、東京で暮らしていると、人々の被災者への思いが『少しずつ風化しているのでは』と感じることがある」と本紙の「東京下町日記」でドナルド・キーンさんは危機感をにじませる▼原発を動かしたい人々には、事故の風化は好都合なのだろう。経済産業省の露骨な人事が発表された。エネルギー基本計画を検討する有識者会議から、脱原発派の委員五人が外れ、推進派の学者や原発立地県の知事らに代わった▼何もなかったかのように、原発回帰に向かう安倍政権の姿勢が鮮明になってきた。地震列島に五十基を超える原発を造ってきたのは自民党政権だ。その自覚のなさに驚くしかない。

* 安倍総理の地元、山口県上原発新設予定地では、反対の旗を立てていた地元漁協ん゛、補償金めあてに一転賛成している。日本の民意とは、かくも脆弱で恥ずかしいものなのか。

 

* 福島第一原発での作業員の放射線被曝線量は、爆発来二年にして、いまもなお通常の四倍と報じられている。安倍政権はこういった国民の受け手いる被差別には振り向こうともしていない。深まる大多数庶民の「最大不幸」に戦慄する。

原発危害即ち放射線による露骨な環境汚染は、私のような後期高齢者には近まる死以上には問題は小さいが、私の子世代、さらに孫・曾孫世代へ深刻な困惑を、真剣に「防備」しない限り、深まり深まって行く。防備の第一は、言うまでもない「脱・廃・反原発」以外にない。分かって欲しい。

 

* 福島第一原発の爆発から二年が目前に。危害の被害感が風化してはならない、譬えは穏当を欠くのを承知で言うなら、阪神大震災の痛みがかりに風化していったにしても、そこから実害は生じないが、福島の原発爆発は日本列島も海洋もを放射能で汚染し続けていて、忘れかけているかもしれぬあなた、あなた、あなた達自身を、より深刻にお子さんやお孫さんの未来を具体的には深刻な病苦に向かわせるイヤな可能性を持っている。ヒロシマ・ナガサキの原爆被害がそうであった、チエルノブイリがそうであった。福島の爆発はそれよりも程度は深刻なのだと「悪政」に毒されていない誠実な科学者・識者は憂慮している。

* 民主党政権を「原発」問題で回顧すれば、野田総理の「変節」の最大のものは、「原発問題は収束・終熄した」という公言であった。まるで「幼稚な幼稚園児」の高言であり認識不足も極まっていた。菅総理には思惑がらみの批判や非難も聞かれるが、彼の「反・脱・原発」の姿勢には、いい意味で「少年の気概」を見せていた。至らぬ点もあったろうが、彼の在任中、なにといっても「原発」問題の核心は過たず持し続けたのは「健闘」というに値した。

安倍自民党総理は、さる国会答弁で明瞭に「原発問題はけっして収束・終熄していません」という公言は、野田民主党前総理の幼稚さを嘲笑う体であったけれど、彼の「原発」認識は菅元総理の健康な気概・認識とは正反対の、「原発温存・推進を通して、近未来の日本核軍備をすら念頭に置いた」途方もないまたも悪政を強行するための単なる地ならしであった。そう聞こえこ、そう見える。現に強引な「原発推進」の手がやつぎばやに出てきている。とんでもない事態が、当然かのようにリアル化してきている。恐ろしいことだ。

 

* あれから二年、癌の手術後も転移の兆候とわたしは闘いながら、体力のどん底にはまりながら、こと「反原発」に意志と覚悟を集中し、本にすれば千数百頁分の手記を書き続けてきた。ほとほと疲れているし、再びの転倒や病臥にも気をつけねば成らず、それでもそれでも作家・批評家として創作の仕事をぜひしたい。何としてもしたいのだ。

三月十一日まではいくらしんどくても「原発と悪政」に対する「ペン」はとり続ける。その後、皹の重点を創作へ引き戻したにしても、わたしの「重大関事・憂慮」がここに在ることは決して変わらないとだけは、書き留めておく。

2013 3・4 138

 

 

* 唱歌集『美しき歌 こころの歌』二百選の中からわたしが「十五選」してみたのは、順位なく、いまのところ、

松田敏江の「朧月夜」 チェリッシュの「竹田の子守唄」 鮫島有美子の「椰子の実」 都はるみの「嗚呼玉杯に花うけて」 芹洋子の「赤い靴」 山野さと子の「アメフリ」 並木路子の「リンゴの唄」 藤山一郎の「長崎の鐘」 倍賞千恵子の「かあさんの歌」 同じく「遠くへ行きたい」 岸洋子の「希望」 ペギー葉山の「学生時代」 芹洋子の「この広い野原いっぱい」 小鳩くるみの「埴生の宿」 伊藤京子の「蛍の光」 以上。

別格に、美空ひばりの「川の流れのように」 五十嵐喜芳の「オー・ソレ・ミオ」

あくまで歌詞の命をりっぱに生かした歌唱そのものの魅力で選抜してみた。別格の二人は、ひばりは流行歌のクイーンであり、五十嵐の歌唱は海外歌の魅惑と声楽家の本領を讃えたかった。

「十五選」はとても難儀だった、二重丸をつけた歌唱は少なくもこの倍は有った。歌詞と歌唱と感動を重くみた。美声だからとて歌詞の命の音を削って曲にのみ追随した、つまり歌詞の聞き取れなかった、聞きにくかった、のは捨てた。

十五曲からさらにベストテンとして順位までつけるのは、さらにさらに容易でない。

男性の歌唱を藤山一郎独りしか選ばなかったのは、総じて身構えが強すぎて聴いていも素直な喜びや感動にほとんど繋がってこないから。

その点、倍賞千恵子といい小鳩くるみといい芹洋子といいけれんみなく豊かに素直にしかも歌詞を深く読み取って言葉の命を深々と歌いあげていた。都はるみの一高校歌の歌いざまもみごとで、これでは高揚した学生達の歌声が追いかけてくるなあと信じられた。

 

* つぎは、ひまを見つけ見つけ全「唱歌」歌詞からの「詩」の魅力五十選を遂げてみたいなあと思う。秦さんノンキ過ぎませんかと言うひとも有ろうが、やっとそういうことをしてでも「生きている」喜びを表現していい境涯にたどり着いたのだと、これもまた若き頃の日々の創作に傾けた真剣とすこしも質的に違わないとわたしは確信しているのです。作家・批評家として、自由自在に「表現」したいのです。

2013 3・5 138

 

 

* こんなに病気に冒されシンドイのに、それでも放っておけない「収束未了」の頭に来る諸問題・諸現象・諸悪政が充ち満ちて、血反吐でも吐きそうな現実だ。情けない。つくづく情けない。

 

* 昨日は唱歌のはなしなどして憂さをはらしたが。

あの十五選からあえて逸らした一つに、荒木とよひさが若いときに作詞・作曲したという「四季の歌」があり、芹洋子がのびのびと歌っていた。

何故外したか。作詞が、やむを得ないのかどうか、間に合わせで寸が足りていないと感じたから。春を愛する「僕の友だち」 夏を愛する「僕の父親」 秋を愛する「僕の恋人」 冬を愛する「僕の母親」を歌い上げて、小気味よく心温まる歌ではあるが、結局はおなじ芹洋子が晴れ晴れと歌う「この広い野原いっぱい」を選んだのである。

 

* さように、かすかな不満をもった荒木の詩のなかで、しかし二番の、

夏を愛する人は、心強き人

岩をくだく波のような

僕の父親

とあるのには感慨を持った。

もし息子の秦建日子がそういう目でわたしを見ていくれていたら、そしてわたしの臨終の折、胸の内ででも口ずさんで見送ってくれたら、本望だナと感じた。わたしは、これで、この詩句のように生きよう、生きてきたと、少しは自惚れている。

錯覚しないで欲しい、わたしは「岩」として強く生きてきたのではない、この詩のように、ひとひらの「波」のように生きたかったし生きてきた。

「波」とは。一瞬にして川に包まれ海となってしまう「現象」に過ぎない。「波」は川とも海ともちがい、実在ではない、いわば幻像、夢のようなまさに「現象」なのだ。此の世も我が身もじつは「夢」と思う実感にもっとも接近しているのが、わたしには、「波」なのである。そんな「波」であるがゆえに、わたしは「岩」のような現実と闘うことが出来た。「現実」など何ほどのものでもない、多くの場合ほとんど「悪」であると、誰もが心の内で感じている。感じている間にもこの「悪」は千変万化してゆく。いまり日本を観ているだけでも分かるでしょう。「波」というはかない力が、しかし「四季の歌」の作詞者は、そんな「岩」を砕くと観ている、その確かさにわたしは惹かれた。

このところ、私は繰り返し、岩のような「リアル」より、はるかに確かで美しく真相をとらえる波のような「ファンタジイ」を語ってきた。

この感覚は、まだ幾らかの変遷を要するのかも知れない。が、大事にしたい。

2013 3・6 138

 

 

* 親鸞仏教センターから何かにつけ招待や刊行物を頂戴していて、今回は「研究交流サロン」の案内があった。講演会と討論の会で、主題は「<尊厳死>を問い直す  (生きている)から考えていくために」とある。ソレはそれとして、筆者が誰か分からないが、今会の「趣旨」が述べられていて、それは紹介に値する、わたしも同感するところ多い一文なので、以下に掲げさせて頂く。関心者は多かろうと思う。

 

☆ 「〈尊厳死〉 を問いなおす」趣旨   親鸞仏教センター主催

2012年11月、超党派の国会議員による「尊厳死法制化を考える議員連盟」によって総会が開かれ、「終末期の医療における患者の意志尊重に関する法律」の二案が、2013年の通常国会に議員立法として提出される方針が決定されました。この法案は、終末期の患者本人が、書面によって死を望む意志を示している場合に限定し、2 人以上の医師による判定を条件として、治療の「不開始(第一案)」「停止(第二案)」を実行した医師に「刑事・民事・行政上の責任を問わない」ようにするというものでした。このように国会でいま尊厳死法制化への動きが再び活発化しています。私たちはこの「尊厳死」という問題をどう考えて行くべきなのでしょうか。

そもそも、なぜいま尊厳死の法制化が必要とされているのでしょうか。

確かに法律によって死の自己決定権、つまり個人の「死ぬ権利」さえ保障されていれば、過度の延命治療によって余生を苦しみ続けることも、家族に負担をかけることも少なくなるという、誰にでも理解できる素直な感情もそこにはあります。しかし一方で、法制化推進の背景には、社会保障費の削減という財政的、政治的側面があることも指摘されています。また、もし法制化が実現されれば、この「自己決定権」を後ろ盾に、速やかに滞りなく治療の「不開始」や「停止」が実行されていくようになることが予想されます。これによって確かに医療現場の混乱は少なくなるかもしれません。しかし、同時に末期患者は家族のために、死を覚悟しなければならない状況に追い込まれることとなり、ひいては家族のために末期患者が自ら死を選ぶことは当然だという風潮が生み出され、治療不可能な患者が「無駄な命」として切り捨てられていくこととなっていく恐れがあるとも言えます。命の自己決定という聞こえの良い言葉の裏で、社会的立場の弱い人が切り捨てられていく可能性があるというとを、私たちはよく考えて行く必要があります。

無常の命のなか、人間の思いもまた刻々と変化します。もとより他者と個人、さまざまな人生が複雑に関係する命の問題である限り、誰もが納得できる明快な答えというものは存在しないのかもしれません。しかし、だからこそ経済観念や合理性に裏打ちされた、安易な線引きは避けられなければなりません。いま求められるべきなのは「死すべき命をどう扱うのか」ではなく、患者も家族も担当医も、みなそこで固有の命を「生きている」という地平から出発し、議論を尽していくことなのではないでしょうか。

この「尊厳死」という言葉のうえに、皆様はどのような感情をお持ちでしょうか。賛否両論、さまざまなご意見があるかと思います。ともあれこの交流会が、あらためてこの問題に向き合っていくための、一つの機縁となることを願っております。どうぞご参集いただければ幸いに存じます。

発題者  川口 有美子 氏(NPO 法人ALS /MND サポートセンターさくら会理事)

コメンテーター  鍋島 直樹 氏(龍谷大学教授)

 

* この「趣旨」と触れあうところ多い手記をわたしは聖路加入院中に、というより退院まぎわに20数枚の原稿にしてきた。プラトンの『国家』に顕著に見える「自然死」観、「脆弱者」の斬り捨てにちかい観想を現代医療や保健意識との対比のもとに拙く論じかけたものである。

東工大の教壇から学生諸君に「自殺」を尋ねたとき、それは「人間の権利の一つだ」「自殺もまた文化である」という感想が二三にとどまらなかった。

尊厳死ということばは感心しないが、わたしは去年のある段階で、万やむをえぬ病状に陥ったときは、断然、尊厳死をと遺言した。考えねばならない問題だと久しく思ってきた。

2013 3・7 138

 

 

* 念願の「湖の本115 (下一)福島原発大爆発」が満二年の明日直前に予定の発送を悉く終えたのは、よかった。忘れてはならぬ同時代の最大不幸を可能な限り永く伝えたいと願った。もう一冊「湖の本116(下二)満二年原発危害終熄せず」を次の桜桃忌まえに送り出す。現代の作家、事故と同時代の作家として、渾身のこの一仕事はつとめだと思った。

2013 3・10 138

 

* もう暫く前から思案もし決心もしていた新しい「仕事」、気を入れた「自問自答」に取り組み始めた。余人は知らず、わたし自身にはキツイ仕事、だが、わたしとしては或る責任上どうかして果たしておきたい、かなり遺言の気味のある難行になりそう、「湖の本」に入れるときはこれまた二巻を要するのかも知れない。自身につきつけた問は二百問もあろうか、まじめに本気で答え始めればしばしばわたし自身が絶句するかも知れない。「問い」の用意はじつは完全に出来ている。面白づくに書けないことでないが、わたしは、生真面目に立ち向かうのではないか。

今日の日付を覚えておきたい。

2013 3・15 138

 

 

* 今日も、日記よりは「仕事」に向かっていた。創作もあり、自身にもの問う真剣勝負もある。皮を剥かれるようなきつい仕事だが、全力を傾け正心誠意、書き継いで行きたい。

どんなによろけていても、寝てしまいたいと思っているときも、機械の前へよろよろとでも向き合えば「仕事」が出来て行く。しんどいとすら思わない、ただ視野が霞み視力は落ちて行くのだけは、一向に避けられない。これで疲れてしまう。眼科的には視力も回復していますし問題有りませんと言われると嬉しいが、やはり現況は抗癌剤の副作用がきつく眼にきているのだろう。休薬期がもう三週間近くあるのを頼みに、体力の落ちるのを防ぎたい。浴槽への出入りも危ない。二階から降りてくる階段もわたし自身の濃い影が落ちて一段一段の踏みおろしがかなり危険で怖いのを、明日にも業者に補助作業を頼んだ。

このところ歯科受診を転倒後休ませて貰っている。おかげで、今月は妻の心臓術後一年の検査に立ち会う以外に、外出しなくてよい。とはいえ、歩かねばいけないとも分かっている。例年より早いという花を、すこし近隣たずね歩けるといいが。

 

* 十一時、今まで一つ書きかけの小説を書き継いでいた。構想が大きく、わたしの好みなのかかなり入り組んだまま、作の真ん中辺で、大きな大きな多彩な「球」体になって浮かんでいる。さ、この球体をどう手際にほぐすのかが問題だ。課題だ。わたしのなかの平家物語がふうっと息をはいて起ち上がってくれるだろうか、起ち上がらせたい。

2013 3・17 138

 

 

* わたしは、今、真実、何を愛しているだろうか。殺到するように脳裏に、胸に溢れてくるのは、間違いなく、日本、日本の文化史、つまりは古典文学史、古典美術史、古典藝能史を具体的に形造った名作や名品たちと答えるしか思い浮かばない。「人」はこの際論外である。順不同にこころみに主な作や作物を列挙して行けば、文学史はおよそカバー出来ても、美術となると奔流の寄せ来るように、際限がない。嬉しいのである、それが。あんなに日本の政治は、政治家たちは醜く狡く穢いのに、優れた文学や詩歌は、優れた遺跡や建築や彫像や絵画や工藝品は、不動の魅力と表現の深さ・美しさでわたしを圧倒してくれる。ああ、それしか、無い。

2013 3・18 138

 

 

* 是まで何年もをかけて少なくも三つ四つの「小説」になるべき草稿を書き進めてきた。加えて、小説ではないが「有即斎筆記」とでも謂う新作を書き始めて勢いよく進みつつある。小説の一つは『ある寓話』と呼んでいい。もう一つは『父の敗戦』と考えている。今一つの作の題は明かせない。あくまでも自身の発想と表現のまま、『清経入水』『絵巻』『風の奏で』『初恋』いらいのわたしの平家物語を表現してみたいのだ。じりり、じりりと展開している。

こういう日々、嬉しくて堪らない。

2013 3・19 138

 

 

* オーム真理教のあのサリン事件からはるか18年の歳月が流れ、裁判はまだ決着しない。宗教信仰の危険な一面を大きく露呈したあれは大惨事であった。「信仰」とは、そもそもなにごどあるのか。わたしはこう答える。

尊敬や信愛や愛好といった生活感情はべつにしていい。

問題は宗教上の信仰に限っていて、その上できっぱり、わたしは言う、宗教上の信仰とは、つまりは頼りたい「抱き柱」への、いわゆる神仏へのファンタジックでひ弱い「依頼心」であり、真実自由な精神の「腐蝕」状態にほかならないと。阿弥陀の浄土も、神の天国も、いわゆる地獄も、来世も、リアルには実在しない。アイデアルでファンタジックな必要から「創作」された、つまりは頼りたい「抱き柱」として洋の東西南北で「設定」された「文化現象」に他ならない。しかもこれに信倚し盲信すれば、信仰を異にする相手への過酷なまでの侵害から、残虐な戦闘・戦争も起こることは歴史が明確に証言し証明している。「神」という設定も「仏」という設定にも、共通して今述べた同じ危険や驚異や迷惑が常に内在している。

穏和で内省的な信仰生活の存在をわたしは否定しない。しかもなお「信心の元素」は鰯の頭にすら宿っていて、或る意味で笑止、或る意味で、健康な自由精神の腐敗現象としか謂いようがない。

信仰や経典や修行によって「悟り enlitenment 」がもたらされたりはしない。「悟り」とは自由にして無心な平生心にこそ稀まれに訪れる、いや訪れるかもしれない「安心」である。偏頗で儀式沢山で排他的な仰々しい限りの信仰儀礼は、一例で謂えば、カソリックも密教も黒魔術等も、自己催眠にちかい固有めかした遊技に過ぎない。

比較的健康な、宗教的というより「人間の自由精神」に接近し接触しているのは、老子の「道」また釈迦の「禅」、イエスの「愛」、であろうか。

 

* 少年の頃よりわたしはむしろ宗教にこころひかれ、身をよせていた。それ自体はいまも変わっていないけれど、個々の、奇態と想える具体的な信仰には近づかなかった。安易な真似だと思ったのである。それよりは自身を寒いけれど、寂しいけれど、抱き柱から放して自由の利いた自在の覚えある境涯に抛とうとした。

それでよいと思っている。

2013 3・20 138

 

 

* 今日はかなりの時間を小説にかけてきた。この先が八幡の薮知らずのようになる。一寸先も見えない深海を慎重に慎重に潜水艇を移動させている気分。しかし、作は、動こう、動いて行こうと身を揉み始めている。楽しみ。

2013 3・28 138

 

 

* 今日の午後は、きのうまでのと別の小説を、慎重に読み直し、なかなか楽しかった。これもそこそこの中長編になりそう、しかも昨日のそれよりも構想はも愛人 ないし猥褻という無意味う骨組みとして予測し把捉もし得ている。

「或る寓話」と題してあるが、「愛人 ないし猥褻という無意味」とも用意が有る。「愛人」は一般の意味をはずれて、漢文ふうに「人を愛す」の含意。さ、これは本当に公表できるのかどうか案じられる。

2013 3・31 138

 

 

* 機械が稼働までに、「臨済録」読んでいた。

 

☆ 臨済和尚に聴く

 

昔の先輩たちは、どこへ行っても人に理解されず、追い払われたものだが、そうなってこそその貴さがわかる。 どこででも人に受け入れられるような人物ならば、何の役に立とうぞ。 獅子が一吼えすれば、野干(狐)は脳が割れてしまう。(獅子一吼、野干脳裂)

世間には、修習すべき道があり、証悟すべき法がある、などと説くものがいるが、一体どんな法を悟り、どんな道を修しようというのか。そいつらがくだらぬお説教を垂れて人さまを呪縛し、「教理と実践とが即応し、身口意の三業を慎んで始めて成仏できるのだ」などと言わせておる。こういう説をなす連中は春の細雨のように多い。

古人は「道で修道者に出逢ったら、絶対に道の話をしてはならぬ」と言い、だからまた「もし人が道を修めようとしたら道は発現しなくなり、さまざまの異端が先を争って出てくる。しかし一たび知慧の剣が現れ出れば、すべては跡かたもなく消え、明が顕われ出る前に暗が輝き出る(明頭未だ顕はれざるに暗頭明らかなり)」と言い、さればこそ古人はそこを「平常心がそのまま道である(平常心是道)」とも言った。

もし異った心を生じると、心の本体とその現れとが別々になる。しかし一心は異らぬから、その本体と現れとは同一である。

 

* ものごとのゴチャゴチャになった頭から、無用のごみを手づかみに捨ててもらった心地がする。

2013 4・1 139

 

 

* 朝から。小説を、じわりと前進。また前進。前進すればするほど闇が濃くなる。

2013 4・2 139

 

 

* 夢中で、小説のために送ってもらった史料や史料本に目を向けている。たとえ活用し利用するのが断片であろうともそれは氷山の一角。頭の中で築いた全容はもはや懐かしいまでに温まっている。 2013 4・4 139

 

 

* 明朝には、いよいよ「ペンと政治」(二下)の再校が出てくる。

(一)からのこの「ペンと政治」三巻は、現代に生きる一老作家の気概、そして批評として編んだ。

この三巻めの副題は「満二年、福島原危害終熄せず」であり、副副題は「野田総理の惨敗・居座る安倍「違憲」内閣・迫る国民の最大不幸」である。虚しい希望は振り捨てて現実を直に具体的に観測し批評してきた。各一巻の分量は、9ポ46字20行の200頁で換算すればすぐ分かる。400字原稿用紙なら460枚に相当する。いまどきの市販本にはこの半分で一冊の単行本を作っている例が少なくない。

量が多いことは質を保証しない。が、わたしはこの三巻を「文学」の道に逸れないようにと心して書いてきた。遺憾にもこれらを刊行すべく原稿作りから校正・責了・装丁作業にかけた半年は、抗癌剤副作用や眼科手術の後遺症で、なかば盲目にちかかったとすら謂えた。それでも、この「満二年、福島原発危害終熄せず」を見つめてきた「同時進行の証言」として、何としても遺したかった。それがわたしの「ペンと政治」そのものであったから。

2013 4・4 139

 

 

* 三時半、歯科へ。治療後一路保谷へ。駅構内で買い物して帰宅。

晩は、茶の間へ持ち出した大冊の「京都市の地名」また「京都市東山区」とある地誌と歴史を、ひたひたと耽読、多く朱筆を用いた。面白くてやめられなかったが、まだまだ百の一しか読めていない。落ち着いて、そして脳裏に新たな起爆剤を埋め込みたい。

大事典の小さい文字を裸眼で「読める」「読み耽れる」のが有難い。

東山区は、いわばわたしには「家の庭」のようであった。うまい水を吸い込むように記事が頭に入ってくれる。

2013 4・8 139

 

 

* 『ある寓話  ないし猥褻という無意味』と仮題の小説を、書き継いでいた。楽しんで書いている。

もう一つの小説は、題を書きたくない。

この二つとも、少しも急いで急いで纏めようという気はない。小説家として自分の小説創作を堪能したい。

2013 4・12 139

 

 

* 小説を前へ前へ押しだそうとしている。何と謂っても小説を書き継いでいる時が、しんどくも、楽しくも、嬉しくもある。余儀なく二つも三つも併行の創作だが、そのぶん辛抱よく楽しんでいる。

太宰賞以前のわたしが、そうであった。投稿しようの応募しようのという気ではなかった。文壇に入りたいなど考えてもいなかった。こつこつ書いて書きためている内に、文芸誌にも太宰賞にも、向こうからお声がかかった。文壇に招じ入れてもらったのだ。その文壇にも拘らなかった。たくさんな本を出版して貰った、いつしれず「秦恒平・湖(うみ)の本」を自身で創刊し、「騒壇余人」とも名乗って四半世紀を超え、自由に書き、自由に本を出し続けている。何の不自由も不足もない。

2013 4・21 139

 

 

* 新聞の見出しにまで「付け焼き刃」とは頂けない。「つけやいば」と言い慣れてきた。「やいば」は「焼刃」の音便。刀剣の「刃=やいば」も原義は「焼刃」にある。上の例の「付け」はそれらしく見せた「似せ」ものの意味。

何度も謂うが、いまや国民的口癖の「すごい」は書いて字のごとく凄惨、凄絶の意味で褒め称える批評語としては、あまりにトンチンカン。

2013 4・27 139

 

 

* 和歌、短歌、俳句はどうやら読み取れると思っているが、日本語で書かれたいわゆる「詩」は手に負えない。贈ってもらう月々の詩誌の作は、ほとんど理解も鑑賞もしにくい。こっちの能が足りないのだから下さる人には失礼で申し訳ないのだが、どうにもならない。むろん優れた作になればうちこんで読んでいる。いま手元に預かって文藝館に掲載させて貰う岡本勝人さんの長詩もその一例。近代詩では藤村、白秋、朔太郎をはじめ数えれば二三十人の詩人が思い浮かぶけれど、優れた叙事詩は、史詩は、多くない。

たまたま正面衝突、古代ローマの辛辣でかなりけしからん漢字の風刺小説を読んでいて、作中詩人エウモルポスのこんな慷慨の弁を聴いた。いくらか頷けて、だがエウモルポスがどんな程度の詩人かは、すくなくもわたしには判定が難しい。それでも、何か参考のたしにと、世の日本語詩人のまえに遠慮せず書き抜いてみる。

 

☆ 作中詩人エウモルポスの言葉

ペトロニウス作『サチュリコン』より。国原吉之助さんの訳に拠って、

 

おお、若者たちよ。詩はこれまで多くの人を欺いてきた。それというのも、人は誰でも韻律にあわせて行を組み立て、感慨を繊細な楽節の中に織りこむと、もうそれだれけでを自分は詩神の住むヘリコン山に登ったと考えたものさ。

こうして人は法廷の面倒な仕事に悩まされると、たびたび静寂な詩作の中に、そこがあたかも幸福への入口であるかのように、逃げこんだものだ。きらめく箴言をちりばめた法廷弁論よりも詩の方がいっそう簡単に作れると信じてな。

ともかく高貴な詩魂は空疎な言葉を好まない。詩想はいつも文学の大河の滔々たる流れに浸っていないかぎり、子を孕むことも生むこともできない。詩人はみな、言わば安価な言葉をさけるべきだ。大衆が遠ざける言葉をむしろ択ぶべきだ。『余は俗衆を嫌いかつ遠ざける』というホラティウスの標語を実践するためにもな。

その上に、機智に富む句が叙述全体の枠組から外へしぼり出されて目立つということなく、詩の着地の中に織りこまれた色合いを通じて輝くように注意すべきだ。

この証人はホメロスであり、ギリシアの抒情詩人であり、ローマのウェルギリウスであり、ホラティウスの彫心鏤骨の絶妙な表現である。じっさいその他の詩人は、詩に通じる道を心得ていないか、あるいは知っていても踏み出すことを恐れているのだ。

その証拠に見よ。内乱史を主題に壮大な叙事詩を手がけた人は誰でも、文学の教養を満々とたたえていないかぎり、主題の重荷でへなへなとくずおれているではないか。じっさい叙事詩では史実を理解させることが問題ではないのだ。その仕事は歴史家の方がはるかに見事になしとげる。むしろ奔放不羇な詩精神は、暗示的な比喩と、神秘的な霊感の加護と、箴言風な語りの奔流の中へ、劈頭から飛びこむべきた。その結果、史詩は証人を前に誓約して述べられる信頼性の高い雄弁というよりも、むしろ狂気の精神から発した予言の書と思われるだろう。

 

* こわいほど大事なことをこの詩人は口にしている。抜粋しようとしても全文を繰り返してしまうことになる。気づかねばならぬ詩の課題だけが書かれている。空疎な言葉、安価な言葉で簡単に作れるなどと、安直に詩( 文学) をなめてはいけない。

ただこれは心得ていたい、「夕方」は安直で「黄昏」は高尚だと誤解してはならず、空疎・安価は「言葉」の「生かし」という秘跡・秘儀に支えられる。『俗衆を嫌いかつ遠ざける』というホラティウスの標語と同じことを志賀直哉は云いかつ書き実践していたが直哉の文学はきらきらした特段の言葉で書かれたのではない、夏目漱石が見抜いていたように直哉は安価・俗衆を厭う気持ちをごく自然に抱いたまま「思ったことを思ったように」書けたのだ。しかもそこにこそ文豪・詩人たちの価値ある「狂気」が宿っていたとわたしは感じている。

2013 5・5 140

 

 

* Twitter も、わたしにすれば生産的なものでなく、時間と手を割くにあまり値しない気がする。ほどよく撤退しようとも。

小説創作と、湖の本刊行と、ホームページの自在な充実と、「e-文藝館」の文学的充実と、に集中するのが本道に相違ない。

「mixi」よりは、多方面の「声」が雑然と交錯し、いくらかは汚穢な某チャンネルに似て文責は必ずしも明かされていない例が多い。その点は「mixi」の方がまだしも行儀いいが刺激もされない。

2013 5・6 140

 

 

* 昨夜、触れただけで言い及ばなかったこと。まずは、藤田敏雄の作詞『希望』を紹介したい。歌は岸洋子。十五選した歌唱のなかでも倍賞千恵子の『遠くへ行きたい』と対のようにしみじみきいていたのである、が、しみじみの見当をわたしは放恣ないし勝手につけていた。歌詞は三番に分けてある。断っておくがわたしを立ち止まらせたのは歌詞でもあるが、より大きく、岸洋子の歌唱のちからであった。それはここに再現できない。

 

☆  希望   藤田敏雄作詞 歌・岸洋子

 

希望という名の  あなたをたずねて

遠い国へと  また汽車にのる

あなたは昔の  私の思い出

ふるさとの夢  はじめての恋

 

けれど私(あたし)が  大人になった日に

黙ってどこかへ 立ち去ったあなた

いつかあなたにまた逢うまでは

私の旅は  終りのない旅

 

 

、希望という名の  あなたをたずねて

今日もあてなく  また汽車にのる

あれから私は  ただ一人きり

明日はどんな 町につくやら

 

あなたのうわさも  時折聞くけど

見知らぬ誰かに すれちがうだけ

いつもあなたの名を呼びながら

私の旅は  返事のない旅

 

 

、希望という名の  あなたをたずねて

寒い夜更けに  また汽車にのる

悲しみだけが  私の道連れ

隣りの席に  あなたがいれば

 

涙ぬぐうとき  そのとき聞こえる

希望という名の あなたのあの唄

そうよあなたにまた逢うために

私の旅は  今またはじまる

 

* 演歌ではない、おそらくは、シャンソン。それにしても、私(あたし)が向き合っているのは「希望」であり、擬人化して「希望という名の あなた」と唱っているのはまったく妻の云うとおり。当然の読みである。

ところがわたしは、「希望」を、人生の観点からして大事にも重くも観ていない。「希望」に敢えなく「かかずらう」より、「今・此処」に努めることに努め勤めてきた。わたしはこの歌に、生身の女一人の実在を思い、見果てぬ夢を旅に旅して追い続け再会したい悲しみの深さに吐息したのだった。

そういう人が、女であれ男であれ、この広い世には実在するだろう。倍賞千恵子がせつせつと唱った「遠くへ行きたい」には間違いなくそういう生身の人の深い嘆息と悲哀が渦巻いていた。その同類のようにわたしは「希望」という歌を聴いて胸しおれたのである。共感ではない、どんな「遠く」へあてなく寂しく「旅」しつづけても、「希望」とも、「信じ合い愛し合う」人とも、出会えないだろう。そう思っているから、わたしは歌声の寂しさに耳を傾けていたのである。

おまえは、そういう「希望」を持っていないのかと詰問されるまでもなく、わたしにも似た「希望」はある、あった…と云うべきだろう、「遠く」をも想っていただろう、事実わたしは高校を卒業するときに、自身で希望して「宗遠」という裏千家の茶名をもらっていたではないか。だが、わたしは「希望」も「遠くへ」も、力強い「今・此処」に立ち向かい続けることとの「同義語」と把握している、少なくも、今現在は。しかし倍賞千恵子の「遠くへ」も岸洋子の「希望」も、そこに纏綿しているかなしみやあこがれを否認してしまう気はない。

2013 5・6 140

 

 

* ゲーテの『イタリア紀行』で、鱗が落ちるどころか、目玉を抜かれるような洞観に触れ、身震いがした。自分の文学・藝術観の至らなさに忸怩たるを痛感、恥じ入った。ゲーテは、この観想をシチリアの小旅行を主に、イタリア体験の全体から得ていた。ゲーテは、観得て、初めて識り得たと云っている。

 

☆ ゲーテ『イタリア紀行』より

ホメロスに関しては、眼の蔽いが取れたといった観がある。描写でも比喩でもいかにも詩的な感じをうけ、いうべからざる自然味を有し、しかも驚くほどの純粋さと熱誠とをもって書かれている。きわめて奇妙な虚構の出来事といえども、自然味を持っているが、描かれた対象を(=現地を旅し)眼のあたりに見て、私はなお更その感を深くした。

私の考えを手短かに述べると、

彼(=ホメロス)らは「存在」を描写し、われわれは「適例効果」を描写する。

彼らは「物凄いもの」を表現したが、われわれは「物凄く」表現する。

彼らは「愉快なもの」を描き、われわれは「愉快に」描くのである。

それゆえに極端なもの、不自然なもの、虚偽の優美や誇張されたものは、すべてここに由来するのだ。

というのは、効果を出そうとし、また効果を狙って創作する場合には、その効果をいかに読者に十分感じさせようとしても、なお足らぬを覚えるからである。

私の言うところは新しくはないにしても、最近の機会に私は切実にそれを感じたのだ。すなわち私はこれらすべての海岸と岬、湾と入江、島と海峡、岩石と砂浜、灌木の茂った丘、なだらかな牧場、美しく飾られた庭園、手入れの行き届いている樹木、垂れ下っているぶどう蔓、雲に包まれた山といつも晴れやかな平野、断崖と浅瀬、そしてこのあらゆるものを囲繞する海を、千変万化の装いをつくしてわが心の中に生き生きと把持しているがゆえに、オデュッセウスは始めて私に生命ある言葉を語りかけるのである。

 

* ゲーテは、観得て、初めて、識り得たと云っている。誰もが叶う体験ではない。だが、彼の云う実感は伝わる。叶う限り自分もそう努めたいと願う、が、今はそれは措く。

文学は「表現」だと思いこみかつ苦心してきた。この場合の表現とは「適例効果」の追及だった。だから「物凄く」「愉快に」書ければ足るかのように錯覚していたが、ほんものではなくつまり「適例効果」の追求でしかなかった。ほんものは、ほんものにこそ内在する。「存在」に存在し、「物凄い」そのものに存在し、「愉快」そのものに存在する。「物凄く表現」し「愉快に表現」して足ると願うのは、存在の外側を「適例効果」でなぞるに過ぎない。と、ゲーテは悟ったのだ。「適例効果」の描写は、いわば「どんなもんだ」という技術の次元。存在の描写は、まさに観入し体感し即実するのだ。「物凄い」を「物凄く」状態化し、「愉快なもの」を「愉快に」状態化した表現は、所詮「適例効果」の自己満足に終わる。

おそろしいことだ。

2013 5・7 140

 

 

* 仰臥で重い本はからだを傷めるので、文庫本10册を主に読んでいる。おもしろいというか、何というか、読み物系のレマルク「愛する時と死する時」が、いちばん乗りにくい。レマルク作はたいてい面白くなるはずだが、出だしはえらく重苦しい。

では何の作が私を魅するか。他の九册は甲乙つけにくいが、それでも、十四世紀初葉の、詩人にして高名な教父フランチェスコ・ペトラルカのラテン語対話編「わが秘密」と題した対話編が、曰く謂いがたい名品。女神「真理」の立ち会いのもと、ローマ史およびカソリック史上に名高い「告白」のに著者アウグスティヌスと、此の「わが秘密」の著者フランチェスコとの、生死と人間との真相に深く厳しく立ち入っての「対話」編がすばらしい。ペトラルカは中世・ルネサンスに位置しつつ、ソクラテス、プラトンの昔から近代のルソーらに到る数々の優れた対話編にそれは見事に大橋を架けわたし、しかも根はペトラルカの詩性と人間主義をふまえ、得も言われぬ幸不幸の探求がなされている。哲学ではない、文字通りペトラルカ自身の「わが秘密」が赤裸々に追求され検討され、批判されまた主張されている。この著は、ペトラルカの生前には誰一人の目にもふれさせなかった、孤独に対話され推敲され続けた、その一点からも、言葉通り「わが秘密」たる重みははかられる。

高位の教父であったペトラルカは、若き日に出逢ってしかも結ばれることのなかったたラウラという至上理想の恋人を生涯胸に抱き詩にも著述にも讃えた、が、ラウラならぬ女性に二人の私生児を生ませていた。禁欲の清僧ではなかった。そこからまた人間苦の追求と根深い鬱の人生が続いて必ずしも解脱したのではなかった。

死の恐怖とどう立ち向かうか、ペトラルカは恐れ苦しみ、それに対しアウグスティヌスは「意志が弱く、徹底して死に向き合わないから」負けてしまうのだと、微細なまで死体の腐乱等を見据えて目を逸らすなと、凄いことばでフランチチエスコを追い込む。谷崎潤一郎の『少将滋幹の母』に描かれれてい屍観は、はるかにはこの「わが秘密」からの感化であったやも知れないのである。

 

* わたしは、禅や老荘を例外として、いわゆる信仰世界は「ファンタジイ」世界だと見切っていて、カソリックも華厳や浄土教もおなじと思う。軽く観たり侮って謂うのではない、それはそれだと思っている。そのため、ペトラルカの「対話・我が秘密」もまた根本は構想力豊かなみごとな詩的創作であると観ている。そう観たうえで、おもしろく、強く惹かれている。読み進むのが楽しみでならない。

 

* ペトラルカの「わが秘密」が人間苦を救跋するまっとうな探求ないし美徳に類する信仰告白であるに対し、真っ逆さまに、さような美徳ゆえの不幸を、悪徳・悪行の側からあくどく炙り出すことで批評し批判し皮肉に辛辣に人間を価値判断して行くのがサディズムということばの基となったマルキ・ド・サドの思想ということになる。わたしはペトラルカの本を買ったと同時同所でサドの「ジュスチーヌまたは美徳の不幸」を躊躇わず買い求めてきた。

サドはこの本の冒頭で云っている、「この世では、わが身にかかわることだけを悩めばよい。うんと刺激的な快楽から生まれる肉体的な興奮を自分の中に見出せば、衝突したら苦痛となりかねない精神的な情愛など残らず押し殺すことができる。本当の智恵はそんな苦痛の総量をふやすよりはるかに快楽の総量を倍加することにあるのだから、それだけにこの生き方を実行に移すことこそいっそう重要だ。」と。善良な心を非情にするのはむずかしい。しかし「善良な心が味わう喜びは、才気の見せかけの華やかさを色あせさせるものである」とも。

このサドの思想は、大きく真理をひっくり返してみせる価値観をしっかり備えている。わたしが今まさに書き進めている『ある寓話 ないし猥褻という無意味』の行き方にもそれが出ていると思っている。

と同時にサドはこうも銘記しているのを省くわけに行かないだろう。「罪悪がもたらす幸福は錯覚にすぎず、見せかけでしかないのだ。罪悪の成功に惑わされた者たちには神の手でかならず懲罰が用意されているばかりか、彼ら自身も心の奥底に一匹の後悔の虫を飼うことになるのではあるまいか」と。サドにして、人間主義のペトラルカ思想よりも色濃く「神」が持ち出される。ことわっておくが、わたしは「神」を担ぎ出す気はない。在っても無くても神は神で、人間ではない。人間は「人間として」生きたいではないか。

 

* 沈復は「浮生六記」の第三章「浪游記快」の冒頭に、こう書いている。

「私は何事にせよ独創の見を立てることを喜び、人の批評に追随することをいさぎよしとしない。たとえば詩画を鑑賞するにしても、人の珍重するものを自分は棄て、人の棄てたものを自分は取るという気持はつねに抱いている」と。

わたしをよく識っている人なら、わたしがわたしについてこう述べているように思われようか。私家版ではじめて向こうから舞い込んだ太宰賞を受けて以後も、執筆や創作の仕事は受注より自発を取り、ついには文壇を棄てて、「秦恒平・湖の本」を四半世紀余、百十数巻も思うままにつづけてきた。東工大の教壇でも「無免許運転」であることを利とも理ともし、出版活動もそれに徹してきた。それが、いいかわるいかなど考えない。そうしたくて、そう出来ると信じたとおりに、なにごとも、してきた。むろん蔵は建たないことも、沈復と同じ境涯である。それでいいのだ。

2013 5・12 140

 

 

* 「TVタックル」で、「従軍慰安婦」のことを盛んに論っていた。アメリカではこれをつとに「性奴隷」と公式に呼んでいる。

古来戦陣に大なり小なりの性奴隷的な女性が、あるいは身売りのかたちで、あるいは徴集されて男達の性欲に、進んで、ないし不幸の極致として接してきた事実は「歴史的」に否認できない。ただ、それを近代日本国のように「慰安婦制度」などと表沙汰にしていた例はやはり希有であった、大概の諸国が「言わず語らず慣習ないし必要悪かのように黙認」していたのだろう。

「戦争」「闘争」は、太古来、人種の混血を促進した無視しがたい側面をなしていた。戦利を「女」ないし「男の奴隷」と見立てた点は洋の東西無くあまりに普通で、女王クレオパトラすら敗者として性に繋がれた。

わたしは、いかなる弁護人があらわれて陳弁これつとめようとも、日本の軍国主義に巣くった非人道を否認し庇おうという気になれない。少なくも朝鮮半島において、また中国においても、奴隷化の暴虐や残虐をしなかったとは「ゆめ思わない」し、かりに他国にもそれと同じ例があるからといって、罪悪・罪責の「割り引ける」わけは無いと信じている。

論者達は、あまり文学書を読まないのではないか。慰安婦といういわぬのべつなく「性奴隷ふう陵辱の例証」は、すぐれた作品のなかでもしばしばよく読み取れる。さらに、一般家庭や家庭女性への「奴隷意識での乱暴例」など、怒りに震える例はグローバルに実例に溢れ、心ない米軍兵士らにより今日の沖縄や本土でさえしばしば起きている。これは範疇内これは範疇外などと厳密がっても意味はない。悪いことは絶対に悪いので、それを否定しよう、良いことのようにまた無かったことのように取り繕おうというのは「卑劣」というに極まる。

維新の会の橋下代表の陳弁には表面的に聴くべきも含まれてはいた、が、問題は彼の基本の政治思想が、うさんくさく危険に右傾している点にある。彼は、釈明と称して重大なごまかしを言うている。その第一が「民主主義」大切と言いきった点。彼のこれまでに表明してきた「改憲」論は明らかに民主主義を打ち捨てた古びた国家主義と見えている。「維新の会」といった黴臭い旗印に露骨にそれが出ている。明治維新は真っ向国民主権を抑圧した国家主義へ直進した政体であった。橋下氏ら「維新の会」一党は、民主主義確立への姿勢とは真逆、民主主義憲法下の戦後日本を、またもや明治以降敗戦までの国家主義へ、まさに反動的に「再・維新」しようとしているとしか見えないのだ。石原慎太郎やあやしげな老耄らとくっついて必然自民党へすり寄ったていたらくも、それを紛れなく指さしている。

 

* わたしがまだ小学生であった敗戦前後、養家の秦の押入れに、たくさんな名刺大、せいぜい手札大の写真を無造作に容れた紙箱があった。親や大人の目をはばかる必要もなく、退屈紛れにも幼かったわたしはそれら写真をよく手に取り眺めた。大方は秦家のいわば明治以降昭和に到る「生活史」「交際史」などを物語っていた。

が、中に、十枚もあったろうか、異様な写真たちが混じっていた。日本ではない異国の広い街通りに、延々と、ある間隔をおいて行列した人、人の姿があった。一人残らずが地に膝をつき、後ろ手に縛られていた。一人一人の前には深そうな穴が掘られていた。抜剣した、あきらかに日本軍人の姿もあった。のちのちに刑場の知識として識ったいわば「土壇場」が、延々と街路を埋めて続いて見えていた。

べつの写真では、斬首された死骸の列もまた延々と観てとれた。

父は、応召の新二等兵として少なくも二年ほど中国へ出征し、帰国時には一等兵になっていた、らしい。実際の戦闘体験は無かったようで、父は射術で表彰されたり、上官の従兵役だったりした、らしい。兵隊として覚えてきたのは、ハヤシライスやカレーライスの作り方で、わたしが秦の家に貰われていったのは、父が本国へ帰還してさらにだいぶ年を経て以後のことだが、父は気が向くと自身流し場におりてそんな料理をつくってくれた。たいへんな楽しみだった。

幼いわたしが、上にいうそんな写真を手にしても、父は何もいわなかった。この手の写真が、出征地ではよく兵舎内でも売り買いされてたんやと母には話していた。実否は知るよしなく、尋ねもしなかった。印象は強烈で、何度も同じ写真に見入った覚えは今も失せていない。

敗戦後に、疎開先から一年半ぶりに京都へ帰ってきたわたしは、以前に見た押入れの「例の写真」が、もう、どこにも無いのを知った。父も母もそれについては貝のように何も語らなかった、明らかに「急いで処分すべきもの」という判断であったのだろう、家の前を進駐米兵たちがひっきりなしに歩いていた。ジープも来た。あの写真の始末を、わたしも口に出して親に尋ねはしなかった。

死者の人数の問題でない。写真一枚一枚の物語っていた情景の凄惨さは、否定しようがなかった。よその国の兵士達が他国に対ししていたことは、今は言わない。日本軍は「虐殺しなかった」という類の強弁には、拭いがたい恥ずかしさを覚えるというだけを、少年の一体験を足場にし、此処に証言しておく。それは慰安婦の問題とはちがうやないかと言う人が有れば、わたしは、黙ってその人の顔を見つめる。

 

* こういうときでないと言い出しにくいことを、もう一つ証言しておこう、類話はいろんな本や雑誌でなさけないほど知ってはいたが、まぢかに肉声で聴いた衝撃は、段ちがいだった。わたしはもう高校生だった、そのころ父は商売上の思惑で化二三人の仲間と「共同組合」ふうの設立を企てていた、らしい。その仲間の大人達が家にくると、果ては賑やかな、賑やかすぎる談笑の場となり、酒など出る家でなかったのに、酔ったように高声で喋りつづける一人二人が決まっていた。秦の父は概して寡黙な聞き役だった。狭い家の中で母もいればわたしもいた。はなしはイヤでも聞こえた。なにがイヤであったか。彼ら大人達の、まだ真珠湾よりよほど以前、朝鮮やシナでの兵隊生活、ことに現地女性らへの陵辱行為が、さながら勲章か手柄か、とほうもない楽しみかのように回顧されてやまぬ凄まじさ、それはもう耳を覆いたかった。「出征」とはこういうことか。わたしは、すでに愛読していた白楽天の厭戦長詩「新豊折臂翁」を思い、小説を書きたい書きたいと願っていた。処女作「或る折臂翁」に結実したときは、もう東京で安保闘争を闘っていた。

2013 5・27 140

 

 

* 建日子から、姉朝日子(改名して現在押村宙枝)が「facebook」で日記など書いていると知らせてきた。

https://www.facebook.com/hiroe.oshimura

 

謙虚で真摯・誠実な自己表現であるならば、せいぜい書けばよい。厳しい批評も冷静に受けるがいい。

わたしは「facebook」にも登録できているらしいが、仕組みも中身もわからず、まったくログイン出来ない、有効な画面が開けないままでいるし、「mixi」も、もう何年も開いてない。つまりはあまりに時間つぶしであり、最近関わって「Twitter」も、やはりわたしには時間のムダづかいになり、すぐ抛った。

わたしには、つねに「創作」という「仕事」がある。やがては創刊三十年・百二、三十巻にもなる「秦恒平・湖(うみ)の本」のとぎれない「刊行」という「仕事」もある。

さらには、浩瀚なホームページ(作家・秦恒平の文学と生活 http: //hanaha-hannari.jp )がある。「創作の書斎」であると同時に、そのHPには、前世紀このかた十数年、すでに数万枚・140ファイルもの日録「生活と意見 闇に言い置く私語の刻」があり、むろん「湖の本など全執筆集」も含まれ、加えて、責任編輯している幕末から平成まで六百作もの文学図書室「e-文藝館・湖(umi) 」もある。

これらをより一層充実させるに過ぎた「創意の仕事」はなく、しかもわが残年は、もう短い。とてもとても「ソーシァル・ネットワーク」と戯れてなどいられないのであり、幸か不幸か、娘押村宙枝の書き物を読む気も、機会も、無い。それでよい。

 

何よりこのところ気に掛けていた、「e-文藝館・湖(umi) 」の更なる充実に、心新たにまた取り組んで行く良いキッカケを建日子の知らせから得た、有難かった。

2013 5・29 140

 

 

* 夜前も、このところ組み合っている『ある寓話 ないし猥褻という無意味』を気を入れて推敲していた。

床に就いたあとも、夜更かし覚悟で、サドの『ジュスチーヌ または美徳の不幸』を耽読。

まさにリベルタン(放蕩者)小説。いわば、「哲学が思想の領域で試みたことを、リベルタン小説は人間の性生活を含む日常と習俗の次元で行っ」ていた。その意味で「リベルタン小説は、哲学小説」になる。なっている。

だが、わたしは、リベルタンの「快楽主義哲学」と謂うべき「性」のとらえ方に、全幅の肯定を与えはしない。リベルタンの、ないしサドの快楽主義はことさらに陵辱の悪徳にまみれており、哲学というならば「男っぽい哲学」に極度に偏している。文字通り放蕩者の性と快楽であって、神を嘲笑い自然の自然をもちあげても、それを言いきるたしかな足場をもっていない。悪徳の賛美にすすんで陥りながらじつは美徳の捨て場にただ窮している。

ま、これは、いまや、作家・秦恒平の課題としておく。

2013 5・30 140

 

 

* 小説に、打ち込む。興に入って書き進むほどに、この作は、無条件で希望される読者とかぎって「限定本」にするしかない気がしてくる。どうしようか。分かっている、何より仕上げねば。

2013 5・31 140

 

 

* 濯鱗清流。新しい「仕事」に、今夜、躊躇なくまた取りかかった。仕上がるのは初秋か。猛暑に相違ない異様なこの日本の朱夏を、気に入った「仕事」「仕事」「仕事」で凌ごうと決めた。鱗を清流にたえず濯いながら。

2013 6・4 141

 

 

☆ 前略(返不要です)

(反原発の市民集会に多くの人々が参加したとのニュースを聞き乍ら…) 本日毎日新聞で目に致しましたコラムの切り抜きを同封申し上げました。全国紙なので既にご存知、と思いましたが 何だかお伝え致し度くて…

私が手許に置かせて頂いているのはS四十七年筑摩版ですが、なつかしくて…

早い梅雨入りです どうかお体にお障りの無いことをお祈り致し居ります。  京下鴨  文

 

* 京たよりらしく封書に匂い袋がしのばせてあり。

毎日の記事は、同時に徳島さんから送って頂いたのと、同文。水島秀己さんに深く感謝し、ここに紹介させて戴く。

 

☆ 昨日読んだ文庫 『慈子』  水島英己 (詩人)

ずっと昔に読んで忘れていたのに、ふと思い出し、気になる本がある。本棚を探すけど見つからない。本屋さんに行く。ない。ネットで探して古本を買う。呆れるほど安い値段だった。この本の価値がわからないのかと少し憤慨する。

奥付に「昭和五十三年・第一刷」とある。どこか遠くを見るような少女の視線が印象的な日本画風の表紙。

秦恒平の『慈子(あつこ)』 (集英社文庫)を久し振りに思い出したのは、『徒然草』の中のアクロスティック(文字遊び)に関連する段を読んだときだった。

さる高貴な生まれの少女が、お父さんへ次のような歌を贈った。「ふたつもじ 牛の角もじ すぐなもじ ゆがみもじとぞ 君はおぼゆる」と。お父さんのこと「こひしく」患っていますよ、というのが少女の伝えたかったことだったのだ。

このかわいい少女は成人して延政門院と呼ばれる。彼女の周辺の女性たちと兼好の関係を、語り手の「私」は追跡していく。

『徒然草』の兼好さんには秘められた切ない恋の思い出があったのだ。その話題を支流に、「私」と「慈子」の引き寄せられていく経過と理由が小説の本筋として展開していく。

中世と現代という時空を越え、人が人を想う心がつながり、そして受けつがれていく。悲しみや憧れも含めて。その心の不思議さが、世間の価値観では許されない、「私」と「慈子」の愛のいきさつとして鮮やかに具体化される。

どうして人は、ある人に引かれるのだろうか? 「慈子」の父親は次のように語る。「神仏が為すはからいでなく、人間の存在そのものに含まれている未生以前のはからい」によるのだと。

二人の男女の稀有な愛の物語であることには変わりはない。しかし、古典文学や茶道などへの奥深い案内書として読むことも可能だ。『慈子』の魅力は多様だから。

もう一つ、言いたいこと。登場人物たちを、背景として優しく包みこむ京都の描写のすばらしさ。来迎院、野宮、大原、紙屋川の流れなど。また訪ねたくなる。  (毎日新聞 2013年・平成25年6月2日・日曜日)

 

* 「美しいかぎりの小説を書く」と、この言葉通りを明瞭に意識してこの原題「齋王譜」である『慈子』を書いた。男性にも女性にも愛された。わたしの耳に最初にとびこんできた男性読者の名は桂三枝師匠、女性読者の名は吉永小百合さんであった、ふたりとも、それぞれのラジオ番組で語っていたと人づてに聞いたのを懐かしく思い出す。時代をこえて織りなされる絵空事の真実である人と人の身内の愛。わたしの著しい作風は、この長編小説で初めて成った。初稿が成り三冊目の私家版と成ったとき、わたしはまだ遠く作家以前であったが、文壇のことなどなにも知らず、ひたすら初心に知名の作者や批評家に送りとどけていたのが、いつしれ雑誌「新潮」からの、また太宰治文学賞からの「招待」に結ばれていった。

水島さんの手にされたのは、紅梅少女と題された森田曠平画伯の繪を表紙に頂戴した文庫本で、そのころ最も美しい文庫本とよろこばれた。今は絶えて無い。集英社での復刊は難しかろう。この文庫本より以前に筑摩書房が書き下ろし初版として『慈子』さらに箱入り美装本を出してくれており、関西の某社から、橋田二朗画伯のたくさんな挿画入り豪華限定本も出ていた。「慈子」はわが最愛のヒロインであり、その前の処女作『畜生塚』の「町子」ともども、その後のわたしの作品世界に、繰り返し繰り返し、甦ってくれている。

2013 6・6 141

 

 

* 千載集を遡って、後撰か拾遺かと思ったが、後拾遺和歌集におちついて撰歌している。案の定というか、千載集には現代を生きる心身にこたえて響く諧調と思想があったが、詞藻の天才を多く擁していた後拾遺時代にして、身に迫り心を襲う切実の和歌表現は乏しい。ゆるい。

2013 6・10 141

 

 

* 今朝 ドナシアン・アルフォンス・フランソワ、即ちサド侯爵の作になる『ジュスチーヌ または美徳の不幸』(植田祐次訳・岩波文庫)およそ600頁を読了。この読書は、七十年のわが読書史にあって未曾有の衝撃例となった。数限りない読書体験の中で決定的に印象深くその後の人生に指針となった例は、決して少なくない。だが、この『ジュスチーヌ』のように「刺激的な背徳思想」を全面にうちだした寓話的な小説は、きわだって異色。他の600頁本なら少なくも半年余時間を掛けて読むものを、他本を暫く措いてまで、一月かけずに読み上げたのは、よほど此の本に引っ張られたのだと分かる。まったく渋滞なかった。むしろ踏み込み踏み込み読み進んだのである。

ただ面白いというなら、ほかにも数々楽しんだ本がほかにある。そういう面白さとは質が違った。嗜虐の極を全面にわたり繰り返し繰り返し描写していながら、(岩波文庫というのも手伝っているが)陰惨陰鬱な印象でなく、いっそあっけらかんと驚嘆し驚嘆して読んできた。すさまじい凌辱や不自然きわまる性行為が微細に書かれていながら、その被害に呻き続けるヒロインで語り手であるジュスチーヌの美徳と美しさ、清潔さ、物語りの一途さが、悲惨は悲惨なりにその閃光のような最期まで、一貫してすがやかに書かれてあり、この印象に確かに救われていた。けがらわしく不快きわまる場面の連続なのに、みだらな好奇心などと異なる「思想と文藝の効果」が一貫して生き、読み手をむしろ知的に思索的に惹きつけ続けるのである。

よくぞ、まあこんな作が出版できたと、チャタレイ裁判などを知ってきた老人は一驚もするが、こんな本は要らないかといえば、歴史的な文献というだけでない純粋に文藝創作の一冊として貴重なものという判断は捨てがたい。われわれはこのサドの時代とほぼ異ならない時代のヨーロッパ文学や藝術を輸入し続け愛読し愛好しながら日本の近代現代を組み立ててきた。それを思えばそういう欧米文化のものかげに強烈な主張と批評をひめたサドらの文藝思想もまた無視はならないと気づく。

熱心に読んだので大作ながら一読でおおよその構図や主張を読み取った気はしているが、間をあまりおかず再読して良い一冊だと今は思いかつ評価している。

2013 6・13 141

 

 

* 新聞もテレビニュースも、もう観るにも読むにも堪えない。視力も問題だが報道されてくるなかみが胸を腐らせる。

米中のいわば鞘当てのしらしららしさ。中国の人権抑圧のあまりのひどさ。日本の復興関係役人のツイートの下劣さ。安倍「違憲」内閣の違憲に居座る壊憲への悪意。少しも変わりない一部特権層を保護するだけの不出来な経済政策、その早くも現れている停頓。うんざりだ。

 

* いいもの、すばらしいもの、うつくしいものを見つけて静かに向き合いたい。

* ここしばらく、私語でバグワンに触れてこなかった。またバグワンにひたと向き合いたい。

2013 6・14 141

 

 

* パソコンという機械でのメール利用が「激減」しているのは、一般にそうのように思われる。機械を開かない人が増えていて、ナシのつぶてで終わったり、わたしのように返事を割愛し、たとえばこの「私語」に任せたりする人が多いのだろう。他方では、ケイタイ・メールやツイートは病的に増えているようだ。はっきりいって「ツイート」の意味など、つかめない。貴重な時間をあんなばかげた、軽薄で無意味なつぶやきで費消するなど、堪らない。なにより時間の無意味な空費がおそろしい。創作、思索、湖の本、読書、観劇、そして日々の私語と、お酒。わが残年、それで十分はちきれそうに豊かである。交友もこれらを通して可能である。それに、人は、残念至極、亡くなったり病んだりされるのが、つらい。

2013 6・16 141

 

 

* 村上開新堂の山本さんからクッキー詰めのまた一函を、朝いちばんに頂戴した。退院以来、三度目。

この老舗中の老舗の菓子は、信じられぬほど美味い。「上等」という言葉が京育ちの子供の頃、とびきり掛け値無しの「褒め言葉」であったが、その「上等」が思わず口をついて出る。高価とか高級という語感と異なり、あの、人やモノなかなかを褒めない京都人が、「上等やな」と口にするときの言葉は、いかにも賛同・賞賛の思いで胸に温かい。山本さんもまた、そういう上等な人である。四半世紀を超えて、しかもたった一度か、せいぜい二度半蔵門のお店「dokan=道灌」で会ったかどうか。遠いお人と思ったことがない。そういう人をわたしは何人も持っているのが誇りだ。

茶の湯を習い始めたのは小学校五年生ころのこと。ほぼ同時に師匠の叔母が属していた裏千家の「淡交会」という名も聞き、機関誌「淡交」にもいつも幼いなりに手を触れていた。大きな意味でわたしが茶の湯から学んだのは、難しい「わび・さび」の、「和敬清寂」のよりも、「淡き交わり」という人間関係のよろしさであった。淡交でいい、淡交こそいいのだという確信が少年のころから有った。むろんそこをはみでた、はみ出たがったべつの交わりも、だからこそ当然に幾度も起きたろうけれど、それはそれでやはり永い眼で観て「淡交」へと落ち着くのであった、と、そう思っている。

2013 6・18 141

 

* 小説を書き進むのだけが楽しみ。

 

☆ サドの本を読んだことがあるか

という質問でしたね。読みました、河出文庫の『恋の罪』『悪徳の栄え』です。が、途中で「放棄」しました。

鴉が、サドの『ジュスチーヌ または美徳の不幸』(植田祐次訳・岩波文庫)600頁を読了し感想を述べられていたのは一週間ほど前のことでした。その述懐を読み、サドの本から受け取るものの何という相違か、ということでした。まず男性女性、少なくとも鴉と

わたしという個に限定しても、性に対する姿勢がかなり異なること。

次に著述を読み込んでいく能力の決定的な差異・・わたしの理解力のなさを痛感せざるを得ませんでした。途中で放棄したのは、やはり「未曾有の衝撃」であり、わたしがその陰惨陰鬱に耐えられなかったからでしょう。その先にヒロインの美しさや光明に至る道筋を見届けることなく、「知的に思索的に惹きつけ」られることなく、途中で放棄したのはわたしの脆弱さと指摘されても仕方がない。

「サドの時代とほぼ異ならない時代のヨーロッパ文学や藝術を輸入し続け愛読し愛好しながら日本の近代現代を組み立ててきた。それを思えばそういう欧米文化のものかげに強烈な主張と批評をひめたサドらの文藝思想もまた無視はならないと気づく。」

この指摘は謙虚に受け止めます。

チャタレーも四畳半も、裁判もすべては時代の反映、と言い切ってしまいそうになります。猥褻も淫乱も倫理道徳も善悪もすべては決定的な尺度などあり得ないのだからと言ってしまいそうになります。

最近読んだ村山由佳の『ダブル・ファンタジー』も思い起こされます。脚本家の三十五歳のヒロインの性を約五百ページにわたって書いたもの。

読書会の課題の本で、自分では恐らく手にしないだろう一冊でした。柴田錬三郎賞、中央公論文芸賞、島清恋愛文学賞三冠、2009年、恋愛小説を読むならこれしかないと帯に書かれています。

恋愛とは何だろうと、性とは何を人に齎すのだろうと今さらに愚問を発します。恋愛イコール性と直接的に図式化できないわたし自身は古い人間になりつつあると感じています。

取りとめないメールになりそうです。

どうぞお体大切に、視力の安定を、少しでも快方に向かえたらと強く願います。  尾張の鳶

 

* サドの問題の岩波文庫は、訳者の筆も手伝っているか知れないが、「未曾有の衝撃」でこそあれさほどは「陰惨陰鬱」な表現でなく、印象は奇妙に澄んでいたり明るくすらある。ジュスチーヌの手に負えないほどの「美徳」の主張とそれに徹した最期とがかなりモノを言うている。悪徳に生きたジュスチーヌの姉ジュリエットの最期での修道院入りといったおまけが無くても、ジュスチーヌは独りで奮戦奮闘し、しすぎている位だが、サドのモチーフが美徳にせよ悪徳にせよ、やはり一貫して思想小説としての意図に芝居気たっぷり殉じているのを見逃さない。四畳半などと同日に語れるものでなく、サドの本と印象がちかいと謂う意味でならわたしは臆せずマルクス・エンゲルスの「共産党宣言」を持ち出す。男の読み方、女の読み方の問題など、矮小。 またこの本の本丸は性行為の如何や是非でもない。はっきりいえば、神か自然か、なのである。この小説の核心にとぐろを巻いている「自然」にこそわたしは強い興味と関心とを持った。

 

* いよいよ、わたしの「ある寓話 ないし猥褻という無意味」を、公表するせぬはべつにしても、しっかり書かねばと思う。

2013 6・19 141

 

 

☆ サドについて

男性女性云々は小さなこと、問題は自然だと書かれていました。まさに指摘された重要な点は人間はヒトという生命体、動物であり、自然としての性情をもっている、それが出発点。

またサドの文学の提起するものは、ある意味で近代のヒューマニズムへのいささかのアンチ・テーゼでしょうか。性善説、人には道徳的本性がそなわっているという前提のもとにヒューマニズムや自由・平等・博愛が叫ばれる。その潮流への一つの問いかけでしょうか。

サドの著作に『共産党宣言』が印象として近いと書かれているのは、わたしには分かりません。半世紀近く前に読んで記憶の彼方にあるため。唐突で面白く感じられました。

わたしの理解が間違い多く浅いものと思われても仕方がないのですが、反射的に感じたことを書きました。寛恕あれ。

抗がん剤投与によるさまざまな影響、投与終了後も、最近の状況も、HPから詳しく知り、日常をどのように過ごされているか察しています。どうぞ無理だけはなさらないでください。

詩も絵も、そして読書も< 究極は全くの孤独な作業です。耐えられないなと思うことも・・。

絵はこの春以来、70号と50号の二枚を描きました。絹に描いた山越え阿弥陀図の部分画やモンサンミシェルの干潟の絵は小さなものです。    尾張の鳶

 

* 『ジュスチーヌ または美徳の不幸』(三部有るとされる「ジュスチーヌ」ものの基幹の第二部)に限っていうのだが、著者サドは、美徳を奉じていかに凌辱され尽くしてもガンとして「神」にすがるのに対し、彼女や彼女の同類の女達を言語に絶して凌辱し尽くす大勢のリベルタン(放蕩者たち)が終始一貫誰も彼もみな造物主の「神」など絶対にいない、すべては「自然」から生成したのだと繰り返している。全編が神と自然との抗争譚に創られている。その意味で、近代を特色づけたマルクス、ニーチエ、フロイト、ダーウインなどが「神」と意図的にも対立していた構図と似ている。「共産」という思想は、明瞭に、「神」ならぬ、人間と基盤になる「自然」の洞察とともに世界の再構築を考えていたと思う。ヒューマニズムも広義に謂えば「神」よりは「自然」に根ざした人間主義であり、サドにしてもヒューマニズムの対立者どころかサドなりの人間肯定者だと謂える。サドが強調している「自然」とは、山河や海洋という以上の、深い強い「生成の原理」の意味で、神の存在を虚妄と退けている。いわゆる近代の自然主義は、さどの言説や思想と背馳していなかった。悪徳や不自然や異様の側から自然と人間を肯定し、居もしない神様にただすがりついての美徳人たちを徹底して悪徳の肯定側から嗤ったものと読み取れる。マルクスもニーチェもフロイトもダーウィンも大筋ではそうでなかったか。

* ああ、この霞める視野よ。八つあるいろんな度の新旧の眼鏡をみな踏み砕いてやりたくなる。

2013 6・20 141

 

 

* 仕事を楽しんでいる。

 

* わたし自身の文筆関連資料をときどき整理してくれる妻が、ある人の文中に「仕事の質は高いのに秦恒平研究をする者がすくない、それにも理由がある。秦自身で書いてしまうからだろう」と。同じような事を何度か言われてしまったことがある。

2013 6・22 141

 

 

* 仕事を着々。仕事しているわたしが、わたし。

2013 6・23 141

 

 

* もう一つ、舵をきって入り込んだ、入り込もうとした初の世界。七十七にして「小林秀雄」だ、嗤う人はおお笑いするだろう。

まくらもとの書棚にちょうど十二年前、「生誕百年記念」の「新潮」臨時増刊『小林秀雄「百年のヒント」』が立っていた、貰った時からずうっとただ立っていて、わたしは手にも取らなかった。それを、初めて手に取った。手に取ってしまえばもう小林秀雄は放せなくなるだろうと思ってきた。

「読んでみよう」「読んでみたい」と思う。講談社版の全集に一巻ある。それを読もう。

なんども話してきた。

高校時代、我がまぢかの秀才クンたちは口をひらくと小林秀雄で、わたし独りは谷崎潤一郎だった。後年私家版を作り始め、そして文壇へも送りたいと願ったとき、小説家では谷崎潤一郎・志賀直哉が断然あたまにあり、評論家ならば小林秀雄が神様だろうと思った。

その小林秀雄からの筋で「清経入水」は太宰治賞選者の中村光夫先生のほうへと、わたしの全く知らぬうちに動いていった、らしい。そして受賞した。一九六九年の桜桃忌だった。

それでもわたしには、小林秀雄という人の思考回路も文章も難しかった。入りにくかった。その率直な気持ちを隠さず、いちどだけ小林秀雄について或る特集中の一本として書いたことがある。「湖の本105」に今は入れてある。

その後、ある時、突然、新潮社の担当編集者を介して「秦恒平様」と書き添えた「小林秀雄」の名刺を添え、晩年の大著『本居宣長』が贈られてきた。びっくりした、息が詰まりそうだった。

小林先生の亡くなられたとき、わたしは、小石川の大教会での告別式に、ひっそりと参列した。

来るべき日が来たのだと思う。

2013 6・25 141

 

 

* 剣呑で物騒で無思慮な犯罪、少年が加害者であったり被害者であったりのイヤなニュースばかり。なぜこういう日々がうち続くのか。それは、あまりに多くの人が、自身と向き合わず、他へ他へ、他所へ他所へ向いているからだ。FACEBOOK   TWITTER   MIXI そしてケイタイだのスマホだのブログだのと、バーチャルにとりとめなく、他者へばかり、しがみつくように向いてしまっているからだ。いじめもそうだ、復讐もそうだ、反撃もそうだ。自己喪失。

自分自身ともっと誠実に向き合い、真にせよ善にせよ美にせよ、せいいっぱい自分自身の内から、深みから、底から、日ごと掴み取ろうとしていれば、無用な軋轢も殺意も敵意も沸き起つまいに。悲しいことだ。人間が人間味を見失っている。自分をほうりなげておいて実体の希薄な他者へ他方へ機械を頼んでただただすり寄っている。なんとバカげたことだろう。「闇に言い置く私語」により自身と向き合いつづけている、わたしは。だから或る程度までいつも満たされている。

2013 6・28 141

 

 

* わたしの至上の命題は、仕掛かりの創作(フィクション)少なくも二つの、進捗。一つは「性」を語った『ある寓話 ないし猥褻という無意味( 仮題) 』。も一つは、題は明かせない、ま、「清経入水」のような「能の平家物語」のような「初恋」のような。書き上げたいが慌ててはいない。「湖の本」の掉尾を飾ってくれればいいが。

 

* 昭和十七年は大戦の真っ最中だった、小林秀雄はそんなさなかの「新指導」七月号に『歴史の魂』と題して講演録を載せていた。ヒンデンブルクのあとでドイツの参謀総長に任じたゼークトの「思想」に触れながら、「歴史」というものの堅固かつ不動に「解釈」ごときを受け付けない本質を、即ち「美しい」と小林は見極めていた。

わたしはこの全集にも載らなかった講演録を、生誕百年の記念特集で、初めて読んだ。そして、すぐ座右の棚から湖の本「秦恒平が『文学』を読む」下巻を抜き取り、わたしとしてはたった一度だけ小林秀雄を語った「『歴史』は『美しい』」という一文を読み直してみた。あざやかな高揚感を覚えた。的の芯を射ていたんだという実感を得た。掲載紙「ユリイカ」が出るとほぼ即座に「秦さんのがいちばん良かったよ」とわざわざ批評家が電話してきてくれた気持ちもつかめた気がした。小林先生から名刺に「秦恒平様」と自書され『本居宣長』を頂戴したワケも初めてシカと分かる気がした。よほど嬉しかったことで何度もこれには触れて書いてきたが、講演録「歴史の魂」に推参できたことも大きい、重い。十数年も本棚に棚上げのママにした「小林秀雄 百年のヒント」にやっと手を伸ばして、今、しみじみしている。この気持ちを分かってもらうには、やはり小林秀雄の「無常といふこと」を指さしながら書いたあの「『歴史』は『美しい』」を読んで貰うのが早い。

 

* 小説を書いていると、と云うよりしがみついていると、たいがいイヤなことは忘れていられる。わたしのやはり「抱き柱」なのか。

ときどきでなく、しばしば、こんな「私語」を弄しているとき自分がティーンの少年のように生臭い幼稚な生き物にもどっている気がしてしまう。ウーンと呻いているときもある。

2013 6・29 141

 

 

* 小林秀雄と三木清との、昭和十六年「文藝」八月号(この年の十二月に日本は真珠湾を攻撃した。)対談「実験的精神」を、半ば読んだ。「モンテーニュは段々つまらなくなる。パスカルは段々面白くなる」という小林発言から対談が始まっている。「パスカルはものを考える原始人みたい」で、「何かに率直に驚いて、すぐそこから真っすぐに考えはじめる」と小林は肯定し、一方モンテーニュは「教養」の上で書いていると問題視している。三木も「あれは西洋のああいう教養の系統の中で読めば面白いので、われわれがじかに読むとそれほどでない」と言い、ここから「教養」「知識」「本」が鋭く批評されながら日本の「文学」「書き手」の問題へ突っ込んで行く。

本を知識蒐集のためにそれを工作して物を書く。一般にそれが文学っぽい道とされているが、それではパスカルふうの、「何かに率直に驚いて、すぐそこから真っすぐに考えはじめる」「実験的(吶喊的)精神」が放り出されている。逆なのである。「本」から「知識」から「教養」からたとえば日本の歴史をすぐさま記述してしまう、それが平凡で手順をまちがえた書き手の自ら掘る、落とし穴。「何かに率直に驚いて、すぐそこから真っすぐに考えはじめる」のでなければ生き生きした「歴史」も「文学」も生まれやしない。

繰り返すが、「何かに率直に驚いて、すぐそこから真っすぐに考えはじめる」姿勢こそ、創作・創造の真の元気というもの。驚きも疑いも感激も落胆もしないまま出来合いの他人の「本」に頼り、借りてきた「知識」に頼り、それを「教養」などと看板にかかげて「書いて」いては、その書き手の根から生えて出た花も枝も葉も表現できるわけがない。

わたしが「作・作品・文学」と思い考え言いかつ書いてきたのは、何と言おうとも「何かに率直に驚いて、すぐそこから真っすぐに考えはじめる」のでなくちゃ面白くないからだ。

2013 7・1 142

 

 

* 堂本印象の「あやめ」を巻き、さて、岸連山「祇園社御手洗い場」の瀟洒に心涼しい軸をわきに添え、玄関の正面へなにを持ってこようと思案してる。季節か、胸懐か。茶の間には淡々齋筆「語是心苗」四字の懐紙を掛けている。叔母の稽古場でこの軸は一度掛かると永いあいだ掛かっていた。いつもわたしはそれに問うていた。

妻の整理していてくれる初出稿の中に、こんなのが在った。上の四字軸にも触れているので、個々へ再掲してみる。「日本語を学び直す」と題した雑誌「myb  no.26 」特集(2009.03.15)に頼まれた文章です。

 

* 日本語を創って行く    秦 恒平

 

ある茶の湯の家元が書かれて「語是心苗」とある軸を、生前の叔母は稽古場によく掛けていた。もらい受けて、いま、私もときどき掛ける。理屈らしく読んだ記憶はなく、その通りと黙々納得していた。どう納得していたかを、まず書きます。

この際の「語」とは「話しことば」というにちかいが、「文」の場合もおなじで、やはり「心の苗」のように表れてくる。しかもこのI心」、不動心とも無心とも静かな心とも限らない。刻々千々に乱れ砕けて動揺ただならぬ凡心でも小心でもあり、ことばも、文も、そんなアテにならぬ頼りない心と同心し、静かにも、荒けなくも、深くも、傲慢にも外へ洩れて出る。人の「ことば」や「文」は、あまりに当然に心ざまに相応する。どう繕っても、繕いきれない。人がらは物の言いように表れる、文は人なりと昔の人の言い置いた事情は、今日とて少しも変わらない。ものの分かった人ほど、だから我々を強く戒める、真相の理解に「ことば」を信じ過ぎてはいけない、頼い過ぎてはいけない、と。まともな文士なら例外なく「文」や「ことば」への不信を身に痛く抱いていて、それが普通と思う。

「美しい日本語をとりもどすために」と編輯氏は問うてこられたが、もともと日本語「が」美しくも醜くもあるのではない。「心美しい日本人」かどうかの問題である。そしてこの問題は、私の手に余る。

私は「書き手」で、文章語を「書い」て売って、暮らしてきた。話し上手や話藝にふれて此処でもの云うのは、烏滸(おこ)がましい。自然、文学・文藝を念頭に、「書い」てあらわす「文章」について話すしかないが、これとて、立った足もとを掘り崩すような、やはり烏滸の沙汰になると、じつは甚だ気がすすまない。卑近な「感想」から書きます。

明治に、一時期「美文」が流行った。妙なモノであった。昨今は「名文」ということもあまり言わない。名文の議論はよほど多岐にわたる。安易な口出しは避けたい。

当今は「悪文」の時代であろうか。悪文にもしかし、稀々、あるいは時折り、とても個性的な「佳い悪文」があり、見捨てるばかりが読み手の能ではない。一昔まえの瀧井孝作先生や吉田健一先生の一見悪文は、また名文の一種とも謳われた。

すぐれた文学か、そうでないか。それは題材では決まらない。文体と文章。その上に造型され表現された作者の「思い」の深さ高さや、オリジナリティーないし作の品、と、ひとまず謂っておく。だらけた陳腐な物言いや決まり文句を多用し、筋書きを説明に説明して、文章を「読むうれしさ」を全然与えてくれない、それはもう「読み捨ての読みもの」に過ぎない。ほんものの「作品」備わった「作」は二度三度四度の再読を促してくる。名勝が、再訪につぐ再訪を促す魅力に富んでいるように。

この節、書きたい人がむちゃに増えている。ケイタイでも書ける。他人のものは読まないのに、自分の書いたものは読んで欲しいからか、私のところへも、見知らぬ書き手が「書いたもの」を送ってくる。

ものを書くのに、才能は、どう現れるか。少なくも一つ謂える。「推敲する」力と根気、それが創作文章での確かな「才能」です。推敲の力は、数行の書き出しだけでも分かる。一つ、(これで十分なのではない、誤解ないように。)申し上げる。「のようというのだ」と覚

えてくださると好い。

「(の)ような(ように)」「という(といった)」そして語尾の「のだ」の、この三つは、書きながらも我から首を傾げて思案した方がいい。

大概、この三つは必然の必要から書かれず、ただの口調子で書かれている。省いてしまうとピンと文章の立ってくる例が多い。この三つの頻出する文章は、たいてい、救いがたい「駄文」である。

序でながら、例の一つであるけれど、「私がすること」「あなたのなさること」の、「が」と「の」を、確かに書き分けられる人も、少ない。丈章の品位、作の「品」を左右する例が多い。

 

 

さて、では「文学」の徒は、何を大切にしてきただろう。

古めかしいかも知れないが、やはり「人間」。人を励ますという最終効果は願わしいが、過剰にそれを目的にするのは賛成でない。文学は祝言藝ではない。文学は追究・探求の「表現」藝術であり、その表現や達成が結果人を励ますモノであれば最良だろうと思う。文学が妥協の所産であるとき、必ず通俗な読みものに終わる。ひまつぶしは出来ても、人間の闇に光をさしこむことは出来ない。

では「文学表現」の本質とは何なの。その話題になると、私はいつもこう口にしてきた。

文学は(絵画である以上に)音楽です。文学の根は詩歌ですもの。優れた文体は、音楽です。「音楽」と書いて「音学」と書かなかった幸せを感じるとき、「文楽」と書かずに「文学」と書いてしまった不幸を思います、と。

しかし「音楽」もいろいろで、クラシックもジャズもシャンソンも日本の民謡もある。同様に文学・文藝の「ことば」で奏でる音楽もいろいろで、ラコニック(スパルタふう)といわれ、厳格にムダを削ぎ落とした志賀直哉ふう文体の美しさだけが達成でなく、流暢な谷崎潤一郎ふうも、絢爛たる泉鏡花ふうも、さくさくと砂を晒したような徳田秋声ふうも、じっくりと挨拶のきいた島崎藤村ふうも、それぞれに甲乙ない「文体の音楽」を奏でていて、むろん芥川龍之介も川端康成も忘れがたい。漱石や 外、なおさらである。例は幾昔かまえのに、あえて限っておく。

だいじなことは、こういった文豪たちの気息にいくら追随しても、あなたの、私の「日本語」は美しくはならない。確かなものにもならない。学べても、それだけでは、物まね。

「ことば」は、時代と手を繋いで生きる。「時代」という土壌に自覚の根をおろした自分自身の「心の苗」を育てるしか手がない。そういう「日本人」で在れるかどうかに、あなたの、私の「日本語の問題」は戻って行く。

ある漠然を蔵したふうな「美しい日本語」がだいじなのか。自己批評のするどい「いま・ここ」に芽生えた、「生き生きした現代語」がだいじなのか。そもそも「とりもどす」ようなものか。

物思い多き「書き手」たちの、その辺が日々の思案になる。態度になる。   (はた こうへい・作家、日本ペンクラブ理事)

 

2013 7・2 142

 

 

* 上野千鶴子さんの『女ぎらい ニッポンのミソジニー』は真っ向読ませる力作、とてつもない力作で、わたしは世辞は使わない、篇々首肯、興味津々納得させてくれる。教えられる。これが上野社会学なんだ、フーンと読み進み読み進み感嘆する。上野さんの著は、頂戴してきた十册にあまるほぼ全部を通読してきたが、新著へ新著へ積み上がって行くほどに、剴切、犀利、包丁さばきに魅力も見映えも加わっている。

と、最大の賛辞を呈したうえで、それでも今回の『女ぎらい ニッポンのミソジニー』に、わたしなりの不審も違和感も不賛成もある。無かったらおかしいと思う。

譬えばなしにする、と、上野さんの、骨と皮と筋を切り出して見せる包丁さばき(つまり上野社会学)は、論旨も、結論または決め付けようも冗舌ひとつ無く、申し分ない。一言半句の異論も挟みにくい。わたしは論攷・論旨の殆ど全部をむろん好意ももって受容し肯定している。説得され賛同している。そしてその限りにおいて上野社会学とは、まさに痛いぐらい「骨・皮・筋右衛門氏の社会学」と読める。即ち、「肉」っ気は「血の気」は、「これでもか」「これでもか」と声も洩れんまで、骨からも皮からも筋からも「扱( しご) いて扱いて殺ぎ棄てて」ある。

譬えばなしを加上してみよう、家庭ではなく「家・家屋」に見立てて上の感想を謂い替えると、「骨とは家の基盤」、「皮とは屋根や壁」、「筋とは柱・建具」に当たっている。これらはみな材料、構造、力学等の範囲で十分理解できるし、それなら「家屋」の理解には足りているじゃないかと言われてしまうだろう。家や家屋の「血肉」って、そりゃ何のことと反問さえされるだろう。

 

* 家庭ではない「家・家屋」とは、謂わば「器」という構造体・構造物である。その意味では、茶碗や鉢も同じ。

わたしは少年時代から茶の湯を習ってきた。関係の著作も茶道具も持っていて、いろんな「器」を見てきたし用いてきた。

いったいて器・容れ物の「用の魅力」は何処にあるか。構造物・構造体としての「形」以上に、その形が内に包んでいる「空のかたち」いわば「器量」にある。わたしはそう感じもし観もしつづけて来た。光悦だろうと楽・永楽だろうと近代陶藝作家だろうと「器の用と魅力」は、外の形が内へ包んだ空の空である「器量の個性味」にあり、それを生かさねば、道具は廃れると。

家・家屋でも同じこと、基盤も屋根・壁も柱・建具も、それらで包み込んでいる「家内(やぬち)」といういわば「時空=人の暮らし=家庭生活」にこそ大事の目的があり、それこそが血となり肉となり「人の生きる場所」となる。「人や生き物」という複雑にして内容豊かなものがその場所で生活するから「家・家屋」には存在理由がある。

遠回しに回しに言うてきたが、「骨皮筋の社会学」が、故意かのように扱き棄てた「血・肉」にこそ人間把握や理解の内容が有る。わたしは人の世をそこから見はじめる。上野さんのあまりにテキパキと堅固な論攷・論説からは、この「血・肉」への、「人の生きよう・暮らしよう」への目配りが故意に為されていないか、為されようがあまりに足りないのではないか。

 

* 上野ジェンダー社会学は、失礼ながら、書かれてもあるようにおそらく生みの母上への、複雑な愛憎に根ざしていたようだ。

その根源的な体験に根を生い、およそ人間を、要するに、いや専ら、男と女、親と子、母と息子、母と娘、父と息子、父と娘、夫と妻等々対称的に把握し、ほぼ一本槍にその把握から観察も調査も検討も認識も結論もが導かれている。エディプス・コンプレックス、ピグマリオン・コンブレックスなど、またフロイト的な性心裡の解析などの今や殆ど決まり文句じみてさえいる「観念や論説」を援用しつつ専ら「性」別、つまりジェンダー観点からものの骨皮筋の道が推し測られ、決め付けられて行く。

 

* しかし、人が人として生きる「血・肉」的な全像は複雑で、豊富で、容易に割り切った見方で「分別」しにくい。出来ない。しかも「分別」という理に勝ちすぎた手法には、自然、限界がはなから出来ている。

性的な関係性や対称性を大きく超えたもっともっと感動に結びついた人と人との愛憎や理解や共感や行動が在る。男だ女だ、親だ子だ、夫だ妻だ、彼だ彼女だというペルソナ(配役)だけでない、純然「人間同士・生き物同士」としての感動や愛憎を人は共有し分有しつつみごと「交ぜッ混ぜ」に家の内でも外でも生きている。

上野さんの論攷から性・ジェンダーに視点を据えた対称の愛憎や相剋は、いろんな関係性においてよほどキッパリ識別できるけれど、その一方での、たとえば性別・年齢差・立場の差などを超えた、深い恩愛、慈愛、慈悲や、物事を介して分かち合う純然とした喜怒哀楽の感動、高度の共感・同感・賛同・協働などの「生活行為」には、上野さんの此の『女ぎらい ニッポンのミソジニー』は、ほぼ全面、触れられていない。「ミソジニー」を主題としてその視点で言うならこう言えると、かなり狭い限界のなかで、ひたすらジェンダー視点から人間関係が分析されている。当然にそれはそれで、よい。学の方法としてそれでよい。ただ、それだけの「骨皮筋」考察で「人間」全面の「関係」や「真情」が簡明に手広く見通せるとは、真実だとは、むしろ、言ってはならない、決して言えないのではなかろうか。読者は其処を心得ていなければ何かを大きく間違う。見間違える。

 

* わたしは異様なのか幸福なのか、「ミソジニー(女ぎらい)」ではない。だが「男は嫌い、女ばか」と思ってきた。この場合の「嫌い」も「ばか」も明らかに敬意に近い尊重の意味とわきまえている。個々のケースは別にして、この「嫌い・ばか」には侮蔑は決して含まれていない。その上で、わたしは人間の久しく久しい歴史に鑑みて、上野さんの上記の著書『女ぎらい ニッポンのミソジニー』(紀伊国屋書店)その他が展開している論攷に対し心より親和的で、豊かに思いを代弁して貰っていると自覚している。「学恩」という言葉を用いても差し支えない。それを、最後に付け加えておく。

2013 7・3 142

 

 

* ながいあいだわたしは猛烈なガンバリストだった。だんだんにタノシミストに移行し、同時に知識欲などみな投げ捨てた。何をするにも楽しんでするようになった。創作も読書も観劇もパソコンも。楽しんでするとどうなるか。これを楽しんだら死んでもいい、裏返せば死ぬ前にこれはとことん楽しみたいということ。

 

* 問題で難題は、眼のこと。よくなる兆しが現れない。網膜の新術式実用普及まで持ちこたえたい。

今日も小説を進めた。もっともっと進めねば。「これ一つしか書けないと命懸けで」書く、それを究極の楽しみとする。三木清は言っていた、「十あるもののうち今日は一つ書いておいて、明日また一つ書けばいいというような考え方が」文学を「毒している」と。「これでてあ畢りということになれば、十もっておれば十出さなくちゃならぬ。生活態度においてもそうだ」とも。彼の目前には、彼自身の非業死にいたる大戦の惨劇が予想されていた。今はそれが、無い? とんでもない。「迫る、日本の最大不幸」にわたしも包み込まれているのを忘れまい。だからこそ楽しんで命懸けに生きねば。わたしは癌さえも現に抱いている、忘れてはいない。

 

 

 

死にかけた昨年三月再度の緊急入院から

明日は退院という日の聖路加病院病室で。

2013 7・3 142

 

 

* 題材にもよるが、ある種の小説を書くのは、承知のうえ熱々で受け容れる「ピグマリオン・コンプレックス」なのかもしれないなあと想っている、所作歌舞伎「京人形」のような。

2013 7・5 142

 

 

* 小学校を出て敗戦後の新制中学に入学したのは昭和二十三年四月だった。新しいどの教科書にもわくわくした。初めて英語の教科書を手にした。「Jack  and  Betty」との初対面だった。いま語るのは、だが、それではない「音楽」の教科書だった。他の一曲も記憶にない、のに、「オールド・ブラック・ジョー」が英語の歌詞もともに載っていたのは覚えている。よく唱ったからではない、まるで唱わなかったし音楽の小堀八重子先生はこのフォスターの名曲といわれる教材をトバサレた。あの当時、それを何とも意識しなかった。年をとるにつれて、何故にあの歌を中学一年生に唱わせようとしたのか文部省の気が知れなくなっていった。

去年、いまもしばしば多くの歌を聴いている大きな「歌詞集」のなかで、ほんとうに久しぶりに、というより、事実上初めてこの曲を、山上路夫訳詞、宮本昭太の歌で聴いた。聴きながらわたしは泣いた。そして、怒った。

 

「オールド・ブラック・ジョー」

一、

若い日も夢と過ぎ

この身は悲しく老いた

友らが神のみもとで

やさしく呼んでいる

オールド・ブラック・ジョー

すぐに行くよ みんなのところ

もうじき会いにゆく

オールド・ブラック・ジョー

 

すぐに行くよ みんなのところ

もうじき会いにゆく

オールド・ブラック・ジョー

 

二、

悲しいことはない国

苦しいことがない国

静かに眠れる国で

やさしく呼んでいる

オールド・ブラック・ジョー

すぐに行くよ みんなのところ

もうじき会いにゆく

オールド・ブラック・ジョー

 

すぐに行くよ みんなのところ

もうじき会いにゆく

オールド・ブラック・ジョー

 

* 泣かされたのは当然すぎる、この三十年に、父たちも母たちも 叔母や伯父も 姉も兄たちも 彼も彼女も あの人もこの人も懐かしい人達が次々に亡くなっていった。

断っておくが、この歌の「老いた黒人ジョー」の歴史的背後には、アメリカでの、世界での、悲しい苦しい久しい黒人差別があった。今も有るであろう。

だが、この訳詞から、直ちにあの敗戦直後の日本の少年少女が、説明無しにそれが汲み取れたとは思わない。少年だったわたしは、何となく辛い気がして、この唱歌を歌おう覚えようとはしなかった。敬遠でなく、忌避した。同時にまた「わがこと」として受けとって泣きもしなかった。ほとんど誰にもまだ「死なれて」いなかった。「死なせて」もいなかった。

 

* そして、今、七十七の老人のわたくしが、上のような訳詞を通し、何としても聴かずに済まぬのは、何か。恰も(=決して事実ではないのだが、)懐かしい故人である血縁や知友が、みな声をそろえ、「静かに眠れる国・神の国」から、此のわたくしに向かい、早くおいで早くおいでと「やさしく呼んでいる」声、声なのだ。

そればかりではない、我とわが内心のさも願望かのように、「すぐに行くよ みんなのところ」へ、「もうじき会いにゆく」よと、繰り返し繰り返し呼びかけ答えているではないか。

わたしは、わたくしは、そんな「呼び声」を決して聴いていない。見守られているとは感じても、「はやくこっちへおいで」などと呼ぶような人達でないと、それを信じている。感じている。

おまえは黒人ではないのだからという理由付けは利くのだろう、が、また、この歌と歌詞とを、死者たちから生者たちへの「死への誘い」と聴く人、聴き取れる人は、日本人と限らず世界中にいるに違いない。

ああ何たること、こんな妙な歌を、感傷的な歌を、まだ「人生のとばぐち」にも立っていないローティーン中学生に唱わせようとした、あの当時日本の教科書編纂者たちに、わたしは、今さらに、怒りと疑問とを突きつけずにおれない。教科書のこの歌を一言もなく「パス」された音楽の先生に懐かしい親愛と敬意とを捧げたい。

 

* 「オールド・ブラック・ジョー」を聴いて泣かされたことは、否定できない。しかし「故人たち」「死んだ人たち」に呼ばれてはいない。そうは感じていない。

だがしかし「死」はいつも念頭にある。今に始まらない、幼稚園に上がるかどうかの年頃から念頭に在った。わたくし独りのことではないだろう。そして今、わたしは身に、胃全摘後の癌細胞をまだ抱いているかも知れない。それが無くてももとより「死」は身近な最大の主題である。

「死」「死者」「死骸」はまったく別の概念であり、さらに加えればわれわれの最大の主題は「死ぬ」ことにある。「死別」と言い替えることも出来る。更に更には、人にもよろう、「死後」を大きく問題視する向きもあるであろう。

いま、わたしが「死ぬ・死別」を意識するとき、あたかも私のための主題歌のように耳に聞こえ来るのは、次の歌、次の歌詞である。この歌、この歌詞をしみじみ聴くとき、わたしは愛する人達との「永訣のとき」をさながら予感し体験し実感する。むろん若かりしかつては、そんな思い、全く無かったのに、である。

わたしの人生は「読む」ことに始まり「書く」ことが加わった。一番の歌詞は、まことに私の生涯を言い表すであろう。

 

* 「蛍の光」

一、

ほたるの光 窓の雪

書(ふみ)よむ月日 重ねつつ

いつしか年も すぎ(=過ぎ・杉)の戸を

明けてぞ けさ(=いま)は 別れゆく(=逝く)

 

二、

とまる(=死なれる者)も行く(=死ぬ者)も (=今世の)限りとて

かたみ(=互い・形見)に思う ちよろず(=千・萬)の

心のはし(=一端・全部)を 一言に

さきく(=幸く・先久)と ばかり (互いに=)歌うなり

 

* 死ぬる日、愛する人達のこの歌声をまぼろしのように耳に聴きながら、逝きたい。

 

* まだまだ、しかし、生きのいのちを大切に、仕事したい。楽しみたい。

2013 7・10 142

 

 

☆ 夏のご挨拶申し上げます。

こちらは梅雨明けもせず猛暑がつづいております。先生、奥様お元気のことと存じますが、東京の暑さは格別と思われますのでくれぐれも、ご自愛下さいませ。

いつも強い叱声に励まされ私も頑張っています。この選挙が気にかかりますが、絶望のあとでも希望を繋ぎもち活動していきます。

些少ですがお品別送しましたのでご賞味いただければ幸いです。

小説楽しみにしております。  金沢市 小夜

 

* その小説だが二つ手がけていてやや先行の「ある寓話 ないし猥褻という無意味」は、あまりに愛読者たちの心を騒がせそうであるが、なんとか健康で作品の備わった作にしたいもの。とにかく、落ち着いて落ち着いて、烈しくと。

2013 7・17 142

 

 

* 午前、BSアーカイヴで「残照 藝術家たちの館」を観て感動もし泪にもぬれた。画家、ピアニスト、彫刻家等々、七十から九十すぎた藝術家たちがさまざまに暮らしている。ほんとうに、さまざまに。共通しているのは老いと病の不安とせまる死への思い。いや、それだけでない晩照としてであろうとも已みがたい美への姿勢と喜び。

置いてなお「美しい」空気を生み創り楽しめる幸せをわたしたちも日々に享受し、力を得ている。大きい豊かな力である。

2013 7・17 142

 

 

* 小林秀雄の「名言集」を島弘之という人が編んでいた。最初に、

「例へば、『悪の華』を不朽にするものは、それが包含する近代人の理智、情熱の多様性ではない。其処に聞えるボオドレエルの純粋単一な宿命の主調低温だ。」と。

こんな舌を噛むような感想は、「名言」でも何でもなく、特定の文脈中に置いてのみ生きる論旨ないし主張にすぎない。真の「名言」とは、時代を超え、言語酒は飲むとも飲まるるな超え、特定の文脈をも超えて、老若男女のある程度水準をそろえた百人が聴いて、少なくもそのうち五十人がつよく共感して忘れがたい、簡潔な言表である。「名言」として挙げてある例文よりも、解説のほうが長々しいそんな「名言」などあるものか。もう一つ挙げる。

「あるが儘に見るとは藝術家は最後には対象を望ましい忘我の謙譲をもつて見るといふ事に他ならない。作品の有する現実性とはかゝる瞬間に於ける情熱の移調されたものである。」

言われてあることは聴くに足りても、これを「名言」として編み出すような理解のほどは嗤える。

 

* ゲーテならこう言う、「一切は練習次第」と。すこし長くても、こうだ。「美術は観賞すべきものであって、論述さるべきものではない。少なくともその作品を前にしてでなくては論じてはならないものだ。」まさに名言。ゲーテ自身が「さかしらに、美術の論判に口出しをしたということを、私はどれほど恥じているであろう」と告白している。謙虚に共感する、わたしも。

マルクスならこう言う、「あらゆる階級闘争は政治闘争である。」と。練りに練った思索や検討の結果が思想として簡明に言表されている。「名言」とはそういうものだ。

臨済ならこう言う、「随処作主、立処皆真  随処に主となれば 立処みな真なり」と。また「無事是貴人」と。

ロマン・ロランならこう言う。

「人が要求してもかまわないのは幸福の最小限度である。それより多くのことを求める権利は誰にもない。溢れるほどの幸福--それはただ人が自分で自分にあたえるべきものである。これを自分に与えてくれるべき義務は他人にはない。」と。また、

「自分が善いことだと思うことをしてきた。そして世間の人々のおもわくには構わなかった。だが<世間の人々にいわせると>それが最も良からぬ挑戦なのだった。」と。

「名言」だのと持ち上げて安直に抜き書きを読んでことが済むなら気楽きわまる。「名言」は、自身の肺腑を突き破って自身で吐くべき言葉なのだ。

2013 7・18 142

 

 

☆ 「お前さんには才能がないね」 「お前のやってることは、お魚を釣ることじゃねえ。釣る手附を見せてるだけだ。そおら釣るぞ。どうだ、この手を見てろ。ほおら、だんだん魚が上って来るぞ。どうじゃ、頭が見えたろう。途端、ぷつっ、糸が切れるんだよ」 「遺憾ながら才能がない。だから意図が切れるんだよ」 「いいかあ、こら、みんな、見てろ。魚が上るぞ。象かも知れないぞ。大きな象か、小さな象か。水中に生息すべきではない象、象が飢えって来るかも知れんぞ。ほら、鼻が見えたろ。途端、ぷつっ、糸が切れるんだよ」 「へっ。糸が切れちゃ元も子もねえさ。ぷつっ」

 

* 上は大岡昇平が書き残した、青山二郎が小林秀雄を酒の上でやっつけた直接話法である。批評の神様であった小林秀雄の批評を諷して痛烈。もっともこの二人は肝胆相照らす極めての仲良しであった。それだけに「名言」たるの慨を失しない。小林秀雄に悩まされかつ敬遠していた文学の徒の思いを青山は代弁していたとも、謂わば言えよう。わたしの唯一の小林秀雄論には、昨日一昨日に初めて知った青山の諷刺は影響していないが、おなじようなことは感じていて、しかもそこから半歩一歩を踏み込んだつもりであった。

 

* ちよろづの葉のいろいろに象(かたち)成し幸はひ祝ふ大和島根を

ちよろづの木の葉くさ葉の愛くしくしづまり揺るる真夏の原に    遠

2013 7・19 142

 

 

* 何にもしない、何にも仕事しない…と決めた気分に身を沈めると、らくになる。遊びたくなってくる。昨日も今日も遊んでいる、機械のなかで。十余年、蓄え続けた写真、音楽、日記、そして書きために溜めた厖大な原稿や草稿。それに…。朝から夜までの時間ではとてもとても短すぎる。へえ、こんなことを書いていたか、書きかけていたか。すっかり忘れられて前後の見境も整理もなくホコリの積むように雑然と千も二千もの長い短い「ことば」が投げ込んである。

 

* 「善を知りて薦めず 悪を聞きて言うこと無く 情を隠して己れを惜しみ 自ら寒蝉と同じくす。此れ罪人なり」と後漢書にある。寒さに鳴かなくなる蝉、それと同じに縮こまって「沈黙」してしまう人間。それがいいと間違えている人たち。

「沈黙の金」である場合も、ある。だが「沈黙の罪人に同じい」場合もあり、「自らを寒蝉と同じく」して臆病に口を噤むのは日本人の最も陥りやすい悪徳なのだが、往々日本人はこれを「美徳」かのように言いニゲてしまう。

2013 7・28 142

 

 

* 夜おそく、とうとう上野千鶴子著『女ぎらい ニッポンのミソジニー』を読み終えた。いい読書になった。上野理論に敬服しながら、だがすべてに推服したのではない、そして数年来手がけてきて中途にある作のモティーフが、「べつの男」とでも謂うものになるのを、ほぼ確認した気がする。ここで喋っても意味がない。歩んで行くだけ。その足取りが、すこし確かにされるとしたら、便宜上のアンチテーゼと目しておく上野さんの本と言葉に励まされてのことと、ひとまず、言っておく。

2013 7・29 142

 

 

* 亡き実兄・北沢恒彦が、或る陶藝家をインタビューして成った「五条坂陶工物語」という晶文社の一冊を、京都の廣瀬さんから送って戴いた。感謝します。そんなことがあったらしいとは兄のメールで聞いていた気もする。いまぶんは、五条坂の陶工物語よりも、北沢が、どう清水焼の世界へ切り込んでいたかを、幸い直接話法の肉声で聴き取りたい。彼の生涯にあって、わたしたちバラバラに他家で育てられた兄弟は、記憶の限りわずか数度ないし十度足らずしか顔を合わせていないのだ、腰掛けて話し合えたのは、さ、二度有ったろうか。そして兄は育ててくれた老父も妻子もおいて自ら先立って逝った。

 

永きにわたり手紙はたくさん貰っていたし、最晩年はようやくメールでの交信が、ま、頻繁に可能だった。だが、兄の市民活動家としてのユニークな仕事や交際や死にいたる孤独な思索など、ほとんど全部をわたしは知らぬまま死別したのだった。兄に愛されていたという思いだけが遺された。

わたしは不思議な離ればなれの生涯をかすかに交錯させただけの兄への思いを、純に抱いていたいと、葬儀にも、大勢での偲ぶ会にもあえて加わらなかった。悼みかつ送るのは独りで足りる。それが、わたしの思想なのだ。「(江藤淳の)死から(兄・北澤恒彦の)死へ」と題した「湖の本エッセイ20」は心して建てた我が「紙の墓碑」であった。

それでも、せめて兄の著作には今少し触れてみたかった。兄の著書を、わたしは書庫に三册と持たないのである。廣瀬さんはそうと知ってこの本を送ってきて下さった。ありがとう存じます。

甥や姪たちが父・恒彦をどう書いたり語ったりしてきたか、まったくそれは伝わっても来ず、わたしは何も知らない。いずれわたしはわたしの「兄のこと」を書き置くであろう、いや、もうそのヒマは無いかもしれぬ。

2013 7・31 142

 

 

* ツルゲーネフといえば二葉亭の訳で「あひびき」を読んだ昔から日本人にことに愛し親しまれた文豪だが、その最高作はとなるといろんな長編の名が上がるだろう、だが、わたしは躊躇なく短編集の大作『猟人日記』にとどめをさす。上下二巻の岩波文庫版のいま下巻を読み切ろうとしているが、二十数編のどの一つも「完璧」な表現と感動と読む嬉しさに満たされている。こんなに優れた短編集をわたしは世界文学なかでも他に知らないほど。短篇の文豪チエーホフをもはるかに凌いでいる。全巻のもう果てようとする頃の「チェルトプハーノフとネドビュースキン」「チェルトプハーノフの最後」は独りの地主の暴風雨のように神話的な生涯を書き尽くして胸を打つし、つづく「生きているミイラ」の不思議に美しく、死んだようにみごとに生きている一女性を書き表して思わず衿を正させる。

日本へ来て初めて東大で講義したラフカディオ・ハーンは文学の真価を語って、かつては全ヨーロッパから途方もない野蛮国としか見られていなかったロシアに、一朝、プーシキン、トルストイ、ドストエフスキー、ツルゲーネフらが現れてその作品がヨーロッパまた世界に紹介されるや、一気に最も優れた精神世界・文化国家という名声に包まれたことを以て、日本文学と日本人を励ました。『猟人日記』はそのような小泉八雲の示唆と激励との大きな芯を成していた。

わたしは、「戦争と平和」や「罪と罰」にならんでツルゲーネフの「猟人日記」を文学愛の大勢にお奨めする。家事に忙しくてなかなか一冊の本の読み通せないような妻が、この地味な題の二冊の文庫本を、讃嘆の声をもらしながら一気に読み上げたのが、魅力の程を指し示している。

2013 8・1 143

 

 

* 兄・北沢恒彦が掴みだそうと聞き役、また炙り出し役をしている『京都五条坂陶工物語』をどんどん読み進んでいて、一つ大きな問題点が抜け落ちているのに気づく。この表題からすれば一応問題外とみて差しつかえないのだが、わたし一人のかねて多大の関心からいえば、「五条坂」という看板でぜんぶ蔽ってある対談には、見逃せない大脱落がある。たしかに陶工世界に限定すれば「五条坂」かも知れないが、それでは「清水焼」という大看板との整合性はとれるのかということ。歴史的にながめれば、「五条坂」という地域名にくらべて「清水坂」の名と地域の問題性は百倍も大きくて深くて難しい物を抱えている。清水焼の伝統はせいぜい近世の半ば以降、それも粟田焼より遅れて地歩をひろげ固めた地場産業。それがに「五条坂」という云い方に集約して陶工達には把握されているというのが兄たちの本の足場・立場であろう。

その一方、「清水坂」という名と史実と問題とは優に平安時代の奥深くにまで遡れる。奈良時代へも手がかかっているかも知れぬ。清水寺の存在は象徴的だが、創立は坂上田村麿に遡る。そしてこの境内下の坂、清水坂に巣くった者ら、「坂の者」らの「人世」は、想像を絶した複雑さと広さとをもって日本史において意味と意義を主張してきた。文字どおりに「清水坂」という命題が大きく存在した。兄たちの本では、その歴史への省察がばさりと棄てられて意識もされていない。陶工達には無関係だからか。そうも謂えるが「清水坂」の歴史には触れたくない気味が差し挟まれていたかも知れぬ。

わたしが永くかけて書き継いでいる小説のひとつは、もし強いて題するなら「清水坂物語」でもあるのである。言うまでもない、わたしが清水坂に根ざした東山鳥部野などの世界に取材した小説は、長編『みごもりの湖』や『風の奏で』や『冬祭り』や『初恋 雲居寺跡』や『底冷え』等々に歴然としているが、それをもっと深刻に広大に世界をひろげ時空間をひろげて「表現」可能にならないかというのが、ま、苦心でもあり楽しみでもある「一仕事」なのだ。

そういう眼でながめると、ことさらに「五条坂」に極言した視野の裁ち落としは惜しくもあり不備にも感じてしまう。ま、兄は「清水坂」の歴史には眼が届いていなかったのだろう、それがあれば、彼のことだ、清水焼陶工等の歴史をもっと深く追おうとしたにちがいない。無いものねだりは今さら無意味であり、バトンはわたしに手渡されているのだと思っている。

2013 8・2 143

 

 

* 「殺す」ことは今日の日本で、なお希有に異様なことなのか、それとも、新聞記事によってもテレビニュースによってもドラマによっても、ま、当たり前に普通の事になっているのか、判断に戸惑う。なにかというと、人が、いかにも簡単そうに隠し持った物騒なナイフを握って他人を刺している。やはり異様なことだ。

人が人を「殺す」歴史は久しい。それも政治の場で、権力の場で、目立つ。シーザーを「殺し」て以来、ケネディその他大統領たちを「殺し」てきた。

最近の列車大脱線など、責任者の不用意な油断から無残に乗客や歩行者を「殺し」、また強慾と虚偽の結果として原発企業も無辜の住民を結果「殺し」続けている。

地球上のさまざまな地域や時点での「虐殺」も否定のしようがなく史実と化している。

「殺す」ことにも何か必然の理由があり得たのだろうか、多くは単に暴発なのか。

戦争犯罪人を「殺す」のは当然のことと、誰もが確信しているか。当然の死刑は必要と人は誰もが受け入れているか。

ああ、こんなややこしいことを言う気ではなかった。

いま読んでいるアポロドーロスの「ギリシア神話」では、「殺す」という言葉と実例とが、土石流のように頁から頁を埋めている。これは何じゃと、ものをよく知らないわたしは唖然として読んでいる。

ゼウスも、特にその子ヘーラクレースは、ま、殺す殺す殺す、殺し続ける神である。最強の殺傷英雄神である。どういうところからこんな神話を人間は必要としてきたのか解説して欲しいものだ。

「神」は、まさしく「人」の生んだ威力のシンボルまたは幻想である。「神話」も、人の創作したファンタジイに類している。「魔」も、同じである。もうすこし拡大していえば、神も魔も、人と自然とで「合作した必要」であった。

その「必要」が働き始めるときに、人と自然は、神や魔に向かい先ず「殺す」「殺し合う」「戦争する」ことを、あたかも指令したかのようである。すくなくも「ギリシア神話」はそういう神話かのように語り始められている。ミルトンの「失楽園」もそれを示している。

日本の神話にもヘラクレスに相当の、須佐之男神が創られてある。

2013 8・3 143

 

 

* 天神さん、菅原道真というと「梅」がつきもの、どんな像にも繪にも「梅」一枝を添えるのがいわば礼とすらされてきた。「こちふかばにほひおこせよ梅の花」の歌が大きな一役を買って広く信仰されたのだ。

だが菅公、じつは梅に何倍して「菊」を「酷愛」していた事実を幸田露伴はこくめいに考証していて露伴朗々の筆致とともに大いに楽しめる一文が『露伴随筆集』上巻考証編の冒頭に出ている。露伴の文を愛すべく書き出しを少し掲げておく。

 

☆ 梅と菊と菅公と(冒頭を抄)  露伴 (明治四十四年四月)

世の菅公を画くもの、多くは添ふるに梅花をもつてす。おもへらく、菅公梅花を酷愛す、菅公を画く、すなはち梅花を画く無き能はずと。菅公祠また多くは梅をその境内に植う。素影寒香、遺徳とその芳を儔(たぐ)ふ。けだし士民の公を仰慕するもの、公が梅花を愛するの故をもつてこれを献じてもつて崇敬の意を致さんとするに出づ。公の実(まこと)に梅花を愛する、東風(こち)の歌これを証す。画裏に一枝を添へ、祠畔に数株を植うる、また皆拠るところ無しとすべからず、可なりといふべし。而して公の菊を愛する甚だ深きことに至つては、世の人これを談る稀に、画像祠廟、依籬倣霜の花を見る有るなし。公実(まこと)に梅を愛す、また実(まこと)に菊を愛す。世ただ公の梅を愛するをいつて、公の菊を愛するをいはず。ここにおいて公と梅花と相得る千余年にして、公と菊花と相得ざるもまた千余年ならむとす。公の情の菊におけるも酬はれず、菊の神の公におけるも恨有りといふべし。

 

* 漢詩人菅公の詩作の割合はるかに梅より多く菊を詠嘆し愛好している実例を露伴は着実に拾い採って自説を美しくかためているのが微笑ましい。

わたしは梅も菊も、もとより桜も愛している、いやいや花というをそれらの葉の美しさと倶に「酷愛」している。いまわが家の手洗いには唐銅の瓶に「蔦の葉」がそれは凛々しく映えている。

 

* わらってしまった。

 

☆ 十訓抄 上三の六に

ある人の家に入りて、物乞ひける法師に、女の琴ひきてゐたるが、「これを今日の布施にて、かへりね」といひければ、

ことといはばあるじながらも得てしがな

ねはしらねどもひきこころみむ

この乞者は「三形沙弥なり」と、人いひけり。

 

* 絶妙の即答、述懐ではありませんか。かかる和歌、和する歌、の至妙の醍醐味を、まちがっても猥褻などと言うなかれよ。「三形沙弥」は万葉歌人で女好きの三方沙弥のことかと推量されている。

もう一つ。

 

☆ 十訓抄 上三の二

匡房卿、若かりける時、蔵人にて、内裏によろばひありきけるを、さる博士なれば、女房たち侮りて、御簾のきはに呼び寄せて、「これ、ひき給へ」とて、和琴を押し出したりければ、匡房とりもあへず、

逢坂の関のあなたもまだ見ねば

あづまのことも知られざりけり

女房たち、返しえせで、やみにけり。

和琴をば、あづまのことといふなり。

 

* これは先のほど笑わせてはくれない、なまいきな女相手に男の色気がない。第一博士匡房ならこれくらいへっちゃらの即妙。

けど、「即妙」 縦横に読みとれますか。

こんな二つの若の読みなど、大学の入試に出してみたいなあ。

わたし、しかかりの小説に花をそえたいと、セクシイなないしは助平な和歌・短歌をあっというまに百五十以上も詠みました。身は病にやせ細ったけれど、七十七翁の色気溢れています。一つ二つでも此処にと思うたが、沙弥や匡房卿の絶妙に比べられてはあんまり露骨なので、やめておく。

2013 8・6 143

 

 

* また一つの仕切りを跳び超えて、晩年の「仕事」へ踏み込むことを決意した。老妻とも話し合って決めた。こんどの「湖の本117」の「あとがき」最後に、以下の四行を書き添えた。

 

「秦恒平・湖( うみ) の本」も、いま仕掛かり幾つかの「小説」脱稿を念頭に、いつか収束を考えねばなりません。その前に、過去に分冊で刊行してきた代表的な長編小説の「一冊特装保存本」や、作柄を同じくする小説の「合冊特装保存本」を、各「少部数」造っておこうと用意しています。もし購入をご希望の方は、計画の進行につれご報告しますので、あらかじめ、どうぞご一報下さい。 秦恒平

 

幸いにわたしたちは遺産をむりに遺す必要がない。われらなりに有意義に費い果たせればよい。しかし老残のわたしたちに楽しんで費消できる範囲はたかが知れている。自動車も要らない、海外旅行もしない、国内ですら自在な旅はできない、しかも埴生の宿で足りている。便利・好都合という欲も度外れては持たない。寄付・寄進というほどのタカは持たない。なら、夫婦して半世紀の余もこつこつ成してきた文学生活の記念碑をほんのいささかでも、相応のすがた・かたちで遺しておこう、さしあたって健康の許す内にと思い立ったのである。それにも親しい人たちのお知恵を借りねばならないだろう、どうぞお知恵を貸して下さい。

2013 8・10 143

 

 

* 「ギリシア神話」にも「失楽園」にも、わたしはいずれはね返されるだろうよと、言い替えれば退屈して投げ出すだろうよと感じていたが、さにあらず、これらは「旧約聖書」「フアウスト」らとならんで、まだ出逢わぬダンテ「神曲」とならんで、途方もない真理への書であったと、いましも気づきかけている。

かかる「気づき」より大事な「気づき」はなかなか在るものでない。

2013 8・13 143

 

 

* 東工大に在職していたあいだに、私・秦教授は下記のような質問を毎時間学生諸君に挨(お)し拶(つ)け、その時間時間に必ず回答を提出させ、それを出席票とも成績資料とも強要しつづけた。学生諸君はよく音をあげず、むしろ回を重ねるつど熱心に書いて提出してくれ、その総量は四百字原稿用紙300枚で単行本一冊とすれば、百冊分に相当するほど自分自身の言葉で「書きに書いて」くれた。じつに興味津々の「青春の告白」であった。

当時六十歳定年で退官以降もう十七年になり、その間に、わたしはずうっと学生諸君に対し重い「借り」の感覚を育んできた。全く同じ「問い=挨拶」に、私・秦教授自身も答えるべきだと。そして、今年の三月十六日から私自身をはだかに問いかつ答えることを始めた。まだ三分の一程度しか書けない、それほど一つ一つの問いかけは答えにくい。だが、続けている。かつての学生諸君もいまでは社会の中軸にありまた親でもあり先生もしている。彼や彼女たちはまた往時とちがったことを答えるであろうか。

質問は、厖大。以下にあらためて「資料」の意味でもそのまま、全くそのまま列挙しておく。

ちなみにわたしの教室は、一年生(特講)、二年生以上(文学概論)、三年生以上(特講)で、主力は大教室での文学概論だった。多いときは千人に四人足りないだけの聴講希望があり、どんな大教室にも入り切れなかった。わたしの話している教卓・教壇の上にまで学生諸君は犇めき、しかも以下のような質問に、講義を聴き聴き、書いて答えて提出していった。

 

資料・かつて東工大学生が秦教授に書いて答えた「挨拶」一覧  ( 順不同)

 

*故郷の「山」「川」の名前をあげ、今「故郷」とは何かを語れ。 *自身の「名前」について語れ。 *身にこたえて友人から受けた批評の一言を語れ。 *身にしみて学校( 大学は除く) の先生に言われた言葉を思い出せ。 *「別れ」体験を語れ。 *「父」へ。 *何なんだ、親子って。 *今、真実、何を愛しているか。 *何を以て、真実、今、自己表現しているか。 *寂しいか。 *今、心の支えは在るか。 *真実、畏れるものは。 *不思議を受け容れるか。 *秘密をもつか。 *なぜ嘘をつくか。 *信仰とは *もう一人の自分へ。 *「位」の熟語一語を挙げて所感を。 *「式」の熟語一語を挙げて所感を。 *仮面を外すとき。 *親に頼るか、子を頼るか。 *結婚と同棲 *死刑・脳死・自殺を重く思う順にし所感を述べよ。 *誇れる国とは。 *今、思うことを述べよ。 *自由とは。 *( 漱石作『こゝろ』の先生に倣って) 「恋は( )( )である。」 *漠然とした不安について述べよ。 *人間のタイプを強いて一対( 例・ハムレットとドンキホーテ) の語で示し、所感を述べよ。 *何が恥かしいか。 *「日本」を示すと思う鍵漢字を三字挙げよ。 *なぜ嫉妬するか。なにに嫉妬するか。 *セックスについて述べよ。 *絶対なものごとを挙げよ。 *家の墓および墓参りについて述べよ。 *わけて逢いたい「  」先生。 *科学分野に「国宝」が在るか。 *清貧への所感を。 *「性」の重み。 *いわゆる「不倫」愛に所感を。*「参ったなあ」と思ったこと。 *自身を批評し、試みに、強いて百点法で自己採点せよ。 *「挨拶」について。 *今、政治に対し発言せよ。 *東工大の「一般教育」を語れ。 *心に残っている「損と得」を語れ。 *他を責める我を語れ。 *報復したことがあるか。  *仮面をかぶる時は。 *結婚とは学問分野に譬えれば「 」学か。 *一生を一学年度と譬えた場合、あなたは現に何学期の何月何日頃を今生きているか。 *「脳死」「死刑」「自殺」の重みに順位をつけ、所感を述べよ。 *国を誇りに思う時は。 *嬉し涙・悔し涙を流した記憶を語れ。*「心臓」と「頭脳」のどちらI「こころ」とふりがなせよ。何故か。また東工大の他の学生がどう選ぶか、比率で推測せよ。 *「心」とは何か。 *何から自由になりたいか。何から自由になれずにいるか。 *生かされた後悔、生かせていない後悔。 *ちょっと「面白い話」を聴かせよ。 *話せるヤツ、または、因縁のライバル。 *今「思う」ことを書け。 *いま「気になる」ことを書け。 *疑心暗鬼との闘い方。 *あなたは信頼されているか。 *あなた自身の「原点」に自覚が有るか。 *自分の「顔」が見えているか。  *兵役の義務化と私。 *何が楽しみか。 *心残りでいる、もの・こと・人。 *Reality の訳語を一つだけ挙げよ。何によって・何を以て、感受しているか。 *「童貞」「処女」なる観念の重みを評価せよ。 *自分に誠実とはどういうことか。あなたは誠実か。 *何があなたには「美しい」か。 *何でもいい、上手に「嘘」を書いてみよ。 *あなたの「去年今年貫く棒の如きもの」を書け。 *「生まれる=was born」根源の受け身の意義を問う。*井上靖の詩『別離』によって、「間に合ってよかった」という、出会いと別れの運命を問う。*漠然とした不安、あるか。 *「魔」とは何か。 *「チエ」に漢字を宛てよ、何故か。 *「風」の熟語を五つ選び、風を考えよ。 *「死後」を問う。 *「絶対」を問う。 *「祈り」を問う。 *生きているだから逃げては卑怯とぞ( )( )を追わぬも卑怯のひとつ この短歌の虫食いに漢字の熟語を補い、所感を述べよ。 *上の短歌に補われた多くの熟語回答例から、もう一度選び直し、所感を述べよ。 *「劫初より作りいとなむ( ) 堂にわれも黄金の釘一つ打つ」という短歌に一字を補い、その「( ) 堂」とは何か。「黄金の釘」とは何かを語れ。 *落語「粗忽長屋」を聴かせて、即、「自分」とは何か。 *「春」「秋」の風情を優劣せよ。 *今、何が、楽しいか。 *「血」について語れ。 *集中力・想像力・包容力・魅力。自身に自信ある順にならべ所感を記せ。 *「事実」とは何か。信じるか。 *「絵空事」は否認するか、容認するか。 *「幸福」は人生の目的になるか。 *「惜身命」と「不惜身命」のどちらに共感するか。何故か。 *毎時間読んでいる井上靖散文詩の特色を三か条で記せ。 *五年後、新世紀の己れを語れ。 *今期言い残したことを書け。 *公園で撃たれし蛇の無( )味さよ この俳句の虫食いを補い、その解釈を示せ。 *命は地球より重いか。 *命にかえて守るもの、有るか。 *喪った自信、獲た自信。 *仮面と素顔の関連を語れ。 *漱石作『こゝろ』で「先生」自殺のとき、先生、奥さん、私の年齢を挙げよ。 *漱石作『こゝろ』で「先生」自殺後の、未亡人と私との人間関係を推定せよ。 *目から鱗の落ちたこと。 *「私」とは何か。 *あなたは卑怯か。  *自分が自分であることを、どう確認しているか。 *「情け」とはどういうものか。風情・同情・情熱のどれを、より大事な情けだと思うか。何故か。 *「死ぬ」「死なれる」重みを不等記号で結べ。何故か。 *「本」を読む、とはどういうことか。 *「恋は罪悪、だが神聖」になぞらえて「金は(  ) 、だが(  ) 」である。何故か。 *あなたにとって「大人の判断」とは。 *踏絵を、踏むか。何故か。 *人の「品」とは、どんな価値か。あなたに備わっているか。 *「自立」を語れ。  *むしって捨てたいほどの「逆鱗」があるか。 *性生活の、生活上健康な程度を、人生(10)に対し、どの水準に設定( 予定・願望) したいか。何故か。  *「未清算の過去」があるか、どうするのか。 *「神」は、(人間に)必要か。 *罰は、当たるか。 *あなたの価値観とは、つまり、どういうものか。信頼しているか。 *いい意味の、男の色気・女の色気を、どうとらえているか。 *二十一世紀は「 」の世紀か。何故か。 *みじかびのきゃぶりきとればすぎちょびれすぎかきすらのはっぱふみふみ このコマーシャル短歌の宣伝している商品を推定せよ。 *秦さんに今期言い残したことを書け。 *「死後」は必要か。 *命とは。命は地球より重いか。 *運命天命未知不可知を「数」と呼び、その「数」を見出す・拓く方法や意思を「算」ないし「易」と呼んだ東洋的真意を推測せよ。 *迷信の意義、迷信とのあなたの付き合い方は。 *「情け」とは。「情けが仇」「情けは人の為ならず」「情け無用」のどの情けを重く見ているか。 *「縁」とは。 *「不自然」は活かせるか。無価値か。 *「工」一字を考えよ。 *「花」の熟語を五つと、好ましき「花」を語れ。 *「(  )品あり岩波文庫『阿部一族』」の上句の虫食いに一字を補い、かつ所見を述べよ。 *仮想敵を語れ。 *「父」とは。 *虚勢・嫉妬・高慢・猜疑・卑屈 自身の蝕まれていると思う順番に並べ替え、思いを述べよ。 *「常」一字を英語一語に翻訳し、日本語「常」の熟語を幾つか添えて、自己観照せよ。 *人生は「旅」であろうか。 *第一原因として「神」を信ずるか。 *証拠・証明が無ければ信じないか。無くても信じられるとすれば何故か。 *直観は頼むに足るか。勘・直感と直観とは同じか。例を添えて述べよ。 *日本のいわゆる「道」を考えよ。 *親は子を育ててきたと言うけれど(  )手に赤い畑のトマト一首の虫食いに一字を補い、作者(俵万智)の親子観を批評せよ。  *二十一世紀を語れ。 *最期に、秦さんに言い残したことを。

 

* いましも私が自分で若い人たちに突きつけた質問に、自分で回答を書き続けているのは「何故」だろう。ものを書いて現に生きている秦建日子への「遺書」なのかも知れぬ。もうそんなに余裕はないと自覚している。

2013 8・13 143

 

 

☆ 「人はただ己れの道を静かに歩むべきで、最善のことにしろ最悪のことにしろ時が運んできてくれるのである。」 ゲーテ

 

* はやりの言葉で言うなら、「元気をもらう」のはゲーテのこういう覚悟。

2013 8・15 143

 

 

* バルザックの「ツールの司祭」を読み終えた。怖くも凄い小説とは、これ。お化けの怪談などモノの数ではない、登場する「人間」どもの敵味方もなく混雑した陰険な我意・我欲にひとかたまりに陥りながら、ひとりのただただ哀れな善良無能敗者の助祭ビロトーと、冷酷無比の鉄面皮勝者トルーベール強権司教との彼我天と地の大落差が、おのずからな「人間の喜劇」を辛辣に歌いあげる。バルザックならではのもの凄さで、200枚ほどの中編ながら肌に粟が立った。もし不快をあえて怺えてもまさにもの凄く面白い残酷小説を読んでみたい人には一読を奨めたい。この作の一等強い深い動機は、バルザック当時のカソリックや修道会への厭悪に満ちた批判がある。それを読み取ることは、この近代文学へむかう最低限の義務である。

 

* 『臨済録』は大半にあたる「上堂」「示衆」を気を入れてつくづく読んだ。あとへ続く「勘弁」「行録」等のまさしく禅問答へは近寄れない、近寄る必要を目下感じない。

「臨済」は黄檗の嗣である大禅師。『臨済録』は後年「臨済宗」という宗派の教本では、ない。あくまで傑出した禅僧臨済の肺腑を衝いて出た大喝であり、「上堂」「示衆」の仔細を尽くした岩波本の本文も入谷義高氏の訳註もまことに有難い恩恵である。同じ『臨済録』をはるか昔に同じ岩波文庫の旧版で読んでいるが、その頃と今回との間にわたしには謂わば「バグワン体験」の生彩を得ていて、おかげで、しみじみ臨済の「ベランメエ」に打たれ続け、かつ自由に接することが出来た。至言・罵言にかかわらず言句になんら拘泥せずに、わが「ありのまま」を真っ白にやすやすと生きたい。

『荘子』の追い打ちも容易でない。

「ひとたび持ちまえの肉体を授かったからには、損なわぬよう大切にして生の尽きるのを待とう。事物に逆らったり流されたりしながら、奔馬のように走りまわってとどまるところを知らないなんて、何とも情けないじゃないか。 一たび其の成形を受くれば、亡わずして以て尽くるを待たん。物と相い刃(さから)い靡き、其の行くこと尽(ことごと)く馳するが如くにして、而も之を能く止むるもの莫し、亦た悲しからずや」と。

「最後まであくせくとしながらそのかいもなく、ぐったりとしてこの先どうすればよいかも分からないなんて、何とも哀れじゃないか。 終身役役として其の成功を見ず。 然(でつぜん)として疲役して其の帰する所を知らず、哀しまざる可けんや」と。

「あるがままの心を師としさえすれば、師のない人なんてあるもんか。変化の筋をわきまえて自分で悟る者だけに師があるんじゃなくて、愚か者にだって師はあるもんだ。あるがままの心によらずに是非をあげつらうのは、遙かな越(の国)に今日旅立って、昨日着いたというようなものだ」と。

今一度臨済と、そして入谷氏とに聴く、「修行者たる者は大丈夫児(男一匹)としての気概を持て」と臨済は叱咤するが、それはなにも「昂然と頭をもたげ両手を振って闊歩せよなどと教えているのではない。ただ『平常無事な人』であれというのである。そういう生き方こそが、まさに偉丈夫の在りようなのだと繰り返して説く。『ただただ君たちが今はたらかせているもの、それが何の仔細もない(平常無事なものであること)を信ぜよ』と。臨済が強調する「真正の見解 (: けんげ) とは、端的にはこのことに尽きるのであり、『自らを信ぜよ』という教えも、このことに集約される」と。

臨済はしばしば、「仏」とは「おまえ」だと言いきっている。バグワンもそう言う。哲学などなまじ嘗めてきたものは、この「仏」とは「おまえに内在した神格・別格の存在」かのように理解してしまいがちだが、臨済もバグワンもそんなファンタジイを言うてはいない。まさしく言葉通りの「おまえ」が「仏」だ、「仏」は「おまえ」だと言うているのであり、その「ありのまま」を信ぜよと言うている。この機微の差をまぜこぜにしてはならない。

2013 8・16 143

 

 

* なにか息苦しい。何かが胸に閊えている。何だろうと想っていた。仕事か。仕事はいつもいつも順調というワケには行かない。発送作業か。これまたトントン拍子に進む用でないのは四半世紀以上も体験してきた。

どうやら、かつて東工大の学生諸君に突きつけ続け回答を強い続けた夥しい数の「問い」に、まるで罪滅ぼしのようにいま自ら答え続けているのが苦痛なのだ。よくもまあこんなことを若い若い諸君に強い続けたものだ、それをまあ仕方なくでもあるが彼や彼女らはよく答え続けた。

「問い」の、途中ほんの一つかみの例を挙げても、 * 何から自由になりたいか。何から自由になれずにいるか。 * 生かされた後悔、生かせていない後悔。 * ちょっと「面白い話」を聴かせよ。 * 話せるヤツ、または、因縁のライバル。 * 今「思う」ことを書け。 * いま「気になる」ことを書け。 * 疑心暗鬼との闘い方。 * あなたは信頼されているか。 * あなた自身の「原点」に自覚が有るか。 * 自分の「顔」が見えているか。  * 兵役の義務化と私。 * 何が楽しみか。 * 心残りでいる、もの・こと・人。 * Reality の訳語を一つだけ挙げよ。何によって・何を以て、感受しているか。 * 「童貞」「処女」なる観念の重みを評価せよ。 * 自分に誠実とはどういうことか。あなたは誠実か。 * 何があなたには「美しい」か。 * 何でもいい、上手に「嘘」を書いてみよ。 * あなたの「去年今年貫く棒の如きもの」を書け。 * 「生まれる=was born」根源の受け身の意義を問う。

こんなのに、いま、毎日仕事の合間にわたしはわたし自身の問題であるとして、「答え」続けている、根かぎりに。生皮を剥ぐほどの苦痛がつづく。しかしやめるわけに行かない。

 

* たった只今の問いは、こうだ。

* 井上靖の詩『別離』によって、「間に合ってよかった」という、出会いと別れの運命を問う。(先ず、詩を読む。)

 

別離  井上靖

 

中学時代からヨット・ハーバーという言葉を耳にすると、すぐ眼に浮か

んで来る風景があった。ひっそりした小さい入江、真夏の陽が落ちてい

る静かな海面、マッチの軸で作ったような桟橋、その向うのヨット溜り、

入江の口の向うは荒い外海で、鏃形の岩礁に波が白く砕けているのが見

える。

 

三、四年前、ギリシャの地中海に沿った漁村で、私ははからずも私のヨ

ット・ハーバーを見付けた。ホテルの庭の裏口から磯へ降りて行くと、

崖っぷちを埋めている雑木の間からその入江の碧りの潮が見えた。桟橋、

ヨット溜り、外海の鏃形の巌、--ああ、こんなところに匿されていた

のかと、私は思った。

 

そのヨット・ハーバーの磯に降り立った時、丁度一艘のヨットが帆を張

って、外海へ出て行くところだった。ヨットには黒人の娘がひとり乗っ

ていて、私のほうにやたらに手を振っていた。私も夢中になって彼女に

応えて手を振った。私は( )に( )ってよかったと思った。ヨット

がすっかり視野から消えてしまっても、私はそこから立ち去りかねてい

た。相手の顔かたちすらはっきりしていなかったが、紛ろうべくもない

別離の悲しみだけが私の心にはあった。

 

* 詩にわたしが設けた「二つの虫くい」を漢字で埋め、それだけでなく、その埋めた文字による詩の「読み」を書いて示すよう学生諸君に求めたのだった。何故その文字を入れたか、その結果として「別離」という詩の題意を明らかにせよと。

試験ではない。当日の私の講義を聴き聴き、書いてもらうのであるから書くほうはたいへんである。ちょっと混乱する。それさえもわたしの教室では意図のうちにあった。頭も目も耳も言葉も思いも同時に使えというわけである。やれないわけでなく、けっこう、やってくれる。

四一六人の教室で、一四六人。圧倒的に「間に合ってよかった」と正解した者が多かった。「港に寄って」「磯に立って」「浜に残って」よかった、式のいろんなのが、合計して一〇九人。「娘に会って」「君に会って」「人に会って」式のいろんなのが、合計して二四人、いずれも詩をごく平凡にしてしまう。

ちょっと気をひくものもあった。「昔に帰って」「昔に戻って」「夢に巡って」「幻に会って」、また反則の二字になるが「少年に帰って」「童心に返って」と。

その他にも何十と変わった解答が出てきて、整理するのに汗だくになった。

 

* 虫食いには原作は、「間」に「合」ってよかったと思った と表現してある。「間に合ってよかった」とはどういうことか。それを自分自身の上に置き換え、自分の言葉で「出会いと別れの運命」を書き示せという出題だった、途方もないことだ。「学生」達に問うた以上は「教授」も答えねば成らん。いつの頃からか頻りにそう自身に強いはじめた。なかなか手が出なかった。思い立てなかった。はっきりとは言えないが死線を践む病気をしたのが関係しているのかも知れない。これに答えられなくて「ペンと政治」も「作・作品・批評」も無意味ではないか。そう追いつめたらしい。今年の三月十六日に全部の質問を書き揃えて、たぶんその日から、すべてその順に一つ一つ書き始めたようだ。まだ、半分にもよほど足りない。ボディブローのようにジワジワとこれが神経に堪えかけているらしいと、やっと気が付いた。だが、已める気は無い。

2013 8・17 143

 

 

* 転落自殺した藤圭子の生涯があらまし報じられていて、その美貌と個性的な歌唱を塗り込めていた何かしらが、暗澹とさせる。その切なさはひとごとではない。

かつて新宿の高層マンションに住んで小説を書いていた女性の未然作家と話す機会があった。わたしと同年輩に思われた。その人は、会話の合間合間に何度もくりかえして、「ちゃんとした育ち」「ちゃんとした生まれ」の自身を指さすように話し、わたしはウンザリした。「あなたの場合とはちがって」と念を押し続けられている気がした。ウンザリした。藤圭子はわたしなどの何十層倍ものウンザリ感をじっと抱いていたのではないか。

2013 8・23 143

 

 

* 身辺の「生前処理」の必要が縷々説かれていた。わが家の「私のもの」、及ぶ限りのことはしておいてやりたい。

① 「文学活動」に関わって、適切に手渡せるようにしておきたいもの。著書、原稿、初出紙誌、日曜美術館等々テレビ出演記録、講演録、座談会・対談記録等々、また収拾した執筆用参考資料類、さらに多年に亘る私日記、伝記資料、要保存郵便物等々。

② 「湖の本」活動に関わる、運営の記録類、在庫分、通信・反響等々。

③ 「ホームページ・秦恒平の文学と生活」活動の全容と運営方法、そのバックアップ資料等々。

④ 各種の浩瀚な大事典・大辞典・大全集・個人全集・貴重書籍、受贈貴重書籍等々。また秦恒平の全著書・全限定本等々。

⑤ 軸物、額物の美術品、墨跡・書跡・揮毫・色紙等、加えて釜、茶碗、茶器、茶杓、水指、鉢、香合、花生け等の各種の茶道具・骨董等々。

⑥ 大量のアルバム、写真類、記念品等々。

⑦ 裁判に関わる一切記録・原資料・電子化資料等々。

⑧ 半世紀に亘る全郵便物受信分、また厖大なメール総受信分。

⑨ 数百に及ぶ和洋映画・ドラマ等々の映像記録。愛した音楽等のCD類。

⑩ 愛用した多数の印鑑・印刻類。

 

* おおよそ以上のうち、

①②と⑦とは、 願わくは心親しい研究施設ないし研究者に委ねたい。

③は、建日子に委ねたい。

④は、建日子の希望分のほかは、研究施設または図書館に寄贈し、余分は処分に任せたい。

⑤は、寄贈・贈与ないし売却を急いで一物も遺さぬように努める。

⑥は、建日子の希望を聴き、またよく選んで電子化し、原則として廃棄する。

⑧は、努めてわたし自身が選別して資料価値・保存価値のある書簡類以外は廃棄する。メールは、原則、処分するが、希望が有って可能ならば、ファイルのかたちで返還または進呈してもよい。

⑨は、希望者が有れば差し上げ、余分は廃棄するか施設に寄贈する。

⑩は、印材もともに、すべて建日子に委ねるが希望があれば差し上げる。

以上のためにも、「リストアップ可能」な物は、努めてリストにしておき、随時の希望に応じたい。

 

* まだまだ洩れた物があるにしても、大方は処分のほか無いと思っている。生前処理の無かったために遺族がそれにほとほと追われているという話も聞いている。長生きした者のこれは責任範囲であろう。

2013 8・23 143

 

 

* 現代演劇協会からも「本当のことを言ってください」という演劇のお誘いが来ている。「本当のことを」言い過ぎてはいけないと叱ってくれた人が中学時代にいたのを思い出す。「ほんまのことなんぼ言うても、わからへん人はわからへんの。わかる人は、なんにも言わんかてわかるのえ」と。この人の教えに、わたしは、生涯背きづけてきた気がする。言うても詮ない本当のことを言い続けて世間を狭く狭くしてきた気がする。

2013 8・24 143

 

 

* ドラマ「半沢直樹」に見入っていた。企業人の、大会社員のしんどさは、私などはなから見捨てていた世界であり、つくづくこんなドラマの世界に、間違っても飛び込めなかったであろう「幸運」に感謝した。医学書院という、ま、規模として岩波書店とほぼ同じと観られていた時期の会社に入社したその日に、自分は、いつの日にか会社を已められるだろうと思ったのを忘れていない。

仕事には励んだ。猛烈社員という云い方の流行ったころ、そう呼ばれた。いつのまにそんなに仕事をするのかと同僚に不思議がられたこともあった。管理職になってからも、人より多い仕事を九時五時でかたづけ、業務と責任上避けられない以外には残業しなかった。定日発行厳守の担当雑誌発行を一度も遅らせたことがなかった。雑誌担当でありながら、責任外の書籍出版企画を毎週の企画会議に出し続けた。仕事の多いことをいやがったことはない、が、入社三年目には小説を書き始めて、十年目には受賞していた。十五年目には退社して作家生活に入った。課長以上の昇進人事は受けなかった。

作家というのも、何度も云ってきた、出版社の「非常勤社員」なみであった。必然、私の道を独自に求めて行った。太宰賞も、ペンの理事も、東工大教授も、京都美術文化賞四半世紀の選者も、みな、わたしから求めたものでなく、向こうから招いてくれた。それらも時が来れば惜しげなく辞した。わたしは一介の物書きとして、作者・筆者として、出版人として、思うままに今日まで来た。休みたくなれば休んでいい、誰に迷惑も掛けないが、幸い健康がゆるせばわたしは死ぬまでの「書き手」自由な「書き手」で終えるだろう。半沢直樹には逆立ちしても成れない。成れなくて幸せであった。

 

* 二三日まえのたわい無げな「DOCTORS」で、やはり医療ものなりにほろっと来る場面があった。いつもある。やはり手術場面を通して、ある。二三日前のでは、患者の家族の問題でよりも、若い半チクで生意気な医者が、凄いほど腕の利いた手術の助手をつとめることを通して感動し開眼してゆくのに、ほろっとした。濯鱗清流とは、そういうことである。

2013 8・25 143

 

 

* いまどき、通俗読み物の時代物ならしらず、こういう会話を文学の作で読むことは、まず無い。

とはいえ、この物語の世界は日本で謂えば源平が相闘って平家が壊滅した時期に当たっている。そんな時代の文学を現代人にも分かりよく翻訳するには、いつも大変厄介な問題をかかえる。会話である。直接話法のリアリティである。わたしはこの「アイヴァンホー」と同じ時代の十二世紀小説を幾つか、もっと古い大和時代、奈良時代、平安時代の小説も書いているが、会話は端的に今日の語法で通した。枕草子を現代語に訳したときもそうした。それが最善なのかどうか正直の所分からない。「アイヴァンホー」翻訳に生涯をかけられた菊池氏のご苦心を想えば、思わず唸ってしまうのである。

それにしてもこのロビンフッドも活躍するこの『アイヴァンホー』はたわい無げな物語と見えて、じつはしたたかに計算の良くできた、構築術のたしかな堅固城のような力量に支えられていて、けっして軽く見ていいものでない。

同じスコットの『湖の麗人』も楽しみにしているし、思い切って『三銃士』なども読んでみようか知らんと思っている。

2013 8・27 143

 

 

* わたしはというと、目下のところ、よほど違う角度から「生きる」難しさに呻吟している。

さきに紹介した『荘子』の内篇は、この日録を読んだ妻がおもわず嘆息を漏らしたように、文に即して意義を解いたりするのは確かに「難しい」限りであるが、根本に触れてしまっていれば、例えば思議せず分別せず自然ありのままに生きるのがいいのだとでも一筋の藁を掴んでみると、心をむなしくしてただ掴んだ力に引き摺られて行くといった見込みも無くはない。しかし知識として受け容れては何にもならない。

 

* 『ブッダの言葉 スッタニパータ』は、釈尊の教え・言葉としては学問研究の至り着いた最奥の理解として、シャカのほぼ直接話法に最至近と信じられる「言葉」だという。仏教といえばまた仏経と応じてしまうほど無数の経典が伝存しているけれど、その九割九分九厘はシャカその人の死後何百年を経つつ創作されていったまさに「仏教経典」であり、すなわち釈尊の「言葉」とは謂えない、わたくしの理解と断定によって謂えばみごとな「ファンタジイ」に他ならない。それら経典の多くを擁したいわゆる大乗仏教がブッダであるシャカの教えとはよほどもよほどもかけ離れていて、まして日本でこそ成熟し大成した日本型の仏教は、極端なとことわる必要もないほどお釈迦様のもともとの教えからみれば変貌し、変容し、修飾され、荘厳されている。だからつまらないなどとは、わたしは決して云わない。禅も浄土教も密教もみなみごとな達成であり表現なのだ。

しかし、あくまでいえば、それらは「ブッダ釈尊のことば」からはかけ離れ、極端に断言すれば語句の上でもまったくまるまる似も似つかないのである。

中村元先生の訳になる『ブッダのことば スッタニパータ』を開けば、「第一 蛇の章」であり、その冒頭は端的に「一、蛇」である。般若心経も阿弥陀経も臨済録も往生要集も教行信証も卒倒ものである。

その「蛇」の「一」は、こうである。「二」も挙げてみる。

「 一  蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。--蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。」と。

「 二  池に生える蓮華を、水にもぐって折り取るように、すっかり愛欲を断ってしまった修行者は、この世とかの世とをともに捨て去る。--蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである。」と。

このようにして「第一 蛇の章」の「一、蛇」は一から十七の「ことば」を語り継いでいる。そして「二、ダニア」「三、犀の角」以下「一二、聖者」にまで至って、次の「第二 小なる章」に繋がる。さらに「第三 大いなる章」「第四 八つの詩句の章」とつづき、最後の「第五 彼岸に至る道の章」では学生達の「質問」が並んでいる。みごとに散文化された翻訳で、その現代日本語そのものには何の難解もない。有難い。

これはこれは、この先々まで、バグワンのもともども文字どおり「座右の書」になる。有難い。

2013 8・28 143

 

 

* 今、これは出来るのにあれが出来ない。この前はあれが出来てこれは出来なかった。焦れなくてもいい、出来ることを今・此処ですればいい。「人はあらゆる時期を利用するように注意をし、努めなければならない」というのがゲーテをゲーテにしていた「自律」であった。本質に触れて「根本的なことは、すべて困難至極のものであり、実行には多大の勤勉を必要とする」のをゲーテは当然にも深く心得ていた。「結局のところ、藝術の困難に対する十分な理解は、藝術家自身を除いては誰ももたない」ともゲーテは知っていた。

「藝術のなかには、通常人が信じている以上にはるかに事実的なもの、すなわち教え得べきもの、伝え得べきものが存在する。そして人がそれによって最も精神的な効果をーーもちろん常に精神をもってーーひき起す技術上の利益は、非常にたくさんある。こういう一寸した秘術を心得れば、驚異的に思われるさまざまのことも児戯に類して出来るようになり、かくて私は高貴なものから卑俗なものにいたるまで、ローマほどに学び得るところはないと信じている」とゲーテは言っている。

2013 8・30 143

 

 

* 本の形で市販された自著が、百册余在る。そのほかに「初出」のまま本にまだなっていない原稿が、また講演録、対談・座談会原稿が、プリントやゲラや電子化のかたちで驚くほど沢山残っている。湖の本でも、「京都もの」のほかには、『私 随筆で書いた私小説』以外にはこれまで所謂「随筆集」を編んでこなかった。随筆だからと手軽に書いてきたのではない、それどころか、念頭には文学の奔流は随筆にあるとしてきた中国での思想、それに賛同していた谷崎潤一郎の随筆の魅力をわたしはしみじみ知っている。今朝も谷崎先生の『旅のいろいろ』を読んでいて、えもいわれぬ作品の妙に惚れ惚れしていた。

おいおいによく選んで佳い随筆集もこの先に編み進めてみたい。 2013 8・31 143

 

 

* 暫くぶりの聖路加通院で、さすがに疲れてきた。昨日、一昨日よりは気温は凌ぎやすかったけれど、けっこう気疲れはあったようだ。上野の院展へできれば廻ってみたかったが、今日は諦めた。明後日なら大丈夫という自信もない。ぼちぼちでよろしい。

聖路加の外来で、『後拾遺和歌集』の第二撰を終え、三撰に入った。一首一首読み込んで、われなりの可不可を決して行く、そういう読み方が和歌では、ことに王朝和歌では美味になる。後拾遺ではことに前詞がおもしろい。よくもよくもぬけぬけとと苦笑も強いられ毒気も抜かれる。

万葉集とはちがい地域的にも階層的にも極めて局限された公家社会の遊藝であり文藝であるが、また「平安女文化」の最たる時期でもあって、晴れがましい勅撰和歌集でありながら人気の藝達者はというと、大御所的な大納言公任をさえ抑え気味に、断然はなやいで、女たちなのである。採られた歌数でも飛び抜けている和泉式部を先頭に、道綱母、赤染衛門、伊勢大輔、相模らが綺羅星めいて、尊貴をさしおき、選者達をさえひきはなし、さんざめくほど花の賑わい。そして能因法師ら坊主達が、この和歌の世間でなんだか幇間めいてちょこまか回遊している。天皇も上皇も後宮も、摂政も太政大臣も、歌詠みに、贈答に精を出して大いに楽しんでいる。おもしろいことに絶頂の文名をほこった源氏物語の紫式部も枕草子の清少納言も、この和歌集では、ひかえめに脇役をつとめている。

栄花物語、大鏡などに親しんできたから、男女の歌人達のなまえが知友親戚のように心親しいのも、私、大いに楽しめる理由になる。

もう当分、繰り返し繰り返し読み込んで行く。その上で一つ前の『拾遺和歌集』へも手をのばしてみたい。

2013 9・2 144

 

 

* 興膳宏さんに、せっかく『荘子』の内篇と外篇とをほぼ同時に戴いたのだから、両方を併読している。内と外とは、ずいぶん違う。出来た時代が大きくちがう。その語気と論法とが大いにちがう。内篇は深奥を示唆し、外篇は論究する。もとより双方倶に、儒の仁義を痛罵にちかく批判している。

内篇を読んでみる。

「衆人は役役(えきえき)たるも、聖人は愚 (ぐとん)、万歳(ばんさい)に参じて一に純を成す。万物尽く然りとし、而して是を以て相い蘊(つつ)む。  世人はあくせくと動きまわるが、聖人は真けてポカンとしながら、永劫の時間に参入してひたすら純粋さを全うする。万物をあるがままに受け入れ、一切をそのふところに包みこむ。」

外篇を読んでみる。

「天下を在宥することを聞くも、天下を治むろことを聞かざるなり。之を在するは、天下の其の性を淫らにせんことを恐るればなり。之を宥するは、天下の其の徳を遷さんことを恐るればなり。天下、其の性を淫らにせず、其の徳を遷さざれば、天下を治むる者(こと)有らんや。  天下を在るがままにさせるとは聞くが、天下を統治するとは聞いたことがない。在るがままにさせるのは、天下の万物がその自然の本性を乱されるのを恐れるためだ。自然のままに在らせるのは天下の万物がその持ち前を変えるのを恐れるためだ。もし天下の万物がその本性を乱されず、その持ち前を変えなければ、天下を統治する必要などどこにあろう。」

 

* こんな説示や議論がこの科学万能の現代未来になにを益しうるだろうと疑う人が多かろう。「役役」は生き生きしているようで今日ではむしろカッコよく肯定されているかに思われる。「愚 (ぐとん)」はバカ扱いされかねない。はたして、そうか。わたしはかつて、身に立てた「黒いピン」の夢を語ったことがある。ピンを刺しているときは「役役」として活溌、ピンを抜くと「ゆったり」すると。

機械が人間を便利に使役し、嬉々として人間が機械に奉仕しているいまどき、天下本然の「在りのまま」など夢も夢、論外の「愚 (ぐとん)」視されてしまう。しかも人間はさように「役役」とうごめく世界を「統治」している気でいるが、日本の政治を、世界の政治をみわたして実績安定したどんな統治がどこに実在しているか。

まったく、わらってしまう。そのわらいは忽ち恐怖に凍り付く。『荘子』は今日と無縁の寝言を吐いている古典ではない。猛烈な警告でもあるのだ。

2013 9・5 144

 

 

* なんだかわたしは(時々思ってきたことだが、)自分が中学・高校生のむかしのまま暮らしているような思いにとらわれる。少年なのだ、なんとなくいまだにへんに幼い。若いのでなく幼稚をのこしてそれに乗って日々をやっている気がする。恥ずかしいとまで思わないが苦笑する。ま、しょがないかと頬を抓ってみる。

2013 9・9 144

 

 

* 『ブッダのことば(スッタニパータ)』は、嫌も応もない具体的な教えでせまり、逃げ隠れも誤魔化しもできない。後世仏教の経典の文句とは全然異なり、素朴なまで率直で言を左右する隙が無い。全然無い。言い訳が利かない、イエスかノーかで自答するしかないが、これって容易ならぬこと。いま、「第一 蛇の章」の一、蛇から十二、聖者まで、「第二 小なる章」の、一、寶、 二、なまぐさ、 三、恥までを読んできて詳細に註も斟酌しているが、「蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るように」いつも「怒りが起ったのを制」しているかとなれば、頭を垂れて「いいえ」と答えねばならない。秦の叔母の稽古場には華道家元の漢字で書かれた「あすおこれ」の額が鴨居にかかっていた。けっして「怒るな」の意義は少年なりに汲み取れた。「あす」なんてものは絶対に無い。その「あす」に怒れという。だが現実には喜寿を通り過ぎて行く老人が、怒りをなかなか堪え切れない。いきなり落第である。ブッダは、この調子で突きつけるように端的にまっすぐ言う。身を避け適当に答えることを許さない。ちっとも無理なことを問われていない。だが、ちっとも守れていない。なんというヤツであるのかと、我が身の持ちこたえようが無い。痛み入って恥ずかしい。

ま、この本が、手放せない。恥ずかしくて手放せないのである。仏弟子たるの資格はまったく無いと分かってしまう。

 

☆ パーピマンがいった、「子のある者は子についてよろこび、また牛(=私有)のある者は牛について喜ぶ。人間の執着するもとのものは喜びである。執着するもとのもののない人は、まこと、喜ぶことがない」と。

師(ブッダ)は答えた、「子のある者は子について憂い、また牛のある者は牛について憂う。まこと人間の憂いは執着するもとのものである。執着するもとのもののない人は、憂うることがない。」

 

* この「パーピマン」とは「悪魔」で。悪魔のことばには払いがたい誘惑がある。喜びが欲しいか、憂い無きをねがうか。わたしは今でも迷い惑う。

ブッダは「犀の角」のように歩めと教える。犀の角は一本。その一本の角のように「ただ独り歩め」と教える。比較的、この教えなどに背を押される思いがある。わたしの欠陥と表裏しているのだろう。

 

☆ 「仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。」「仲間の中におれば、遊戯と歓楽とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。」「四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め」などと教えられると、ひそかに頷いている自身を体感する。

以下の、こんなふうに教えられても強く頷く自身を自覚している。

「もしも汝が、(賢明で協同し行儀正しい明敏な同行者)を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。」「しかしもしも汝が、(賢明で協同し行儀正しい明敏な同行者)を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。」「われらは実に朋友を得る幸せを讃め称える。自分よりも勝れあるいは等しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。」

わたしの願い続けてきた「真の身内」への思いとこれらは深く連絡している。

 

* 夜は創作中の小説世界へ戻って、たくさんな夢をみた。新刊の発送を終えたら、まっしぐらに此処へ戻れる。

2013 9・12 144

 

 

* 書きかけの小説を推敲したり書き進んだりしていると、ワクワクしてくる。はやく人に読んで欲しいとも思い、それが惜しい気もしてくる。いまもとっ掛かっていた作は二○○七年二月十二日に起稿と記録してある。するともう六年半も書き継いでいたことになる。ちっとも長い長い作ではない、今未だ百枚をやっと越した程度かもしれない。そんなことはちっとも気に掛けていない。誰の為でもない、誰よりも自分が読みたくて堪らないような小説にしたい。ウズウズと渦巻きながら頭の中はもう数倍ものひろびろとした展開が予感できている。それを文章にしてゆくのは楽しくもキツクも嬉しくもある。

じつは、少なくも同じように書いてきた小説がもう一作はある。二○○八年二月二日に発想し、本格には十二年十一月十七日からすっかり書き直しの原稿として再開し、この方はもう枚数だけで言えば長編めくところへ一応到達しているが、まだ、わたしは手放す気になれない。

2013 9・17 144

 

 

* 昨日、「私」ごとで、或る一歩を踏み出した。希望のもてる「曙光」の目に見えたのを感謝している。詳細をいうのはまだ憚られるが、しかと「闇」に言い置く。

2013 9・18 144

 

 

* なににもまして手のまず延びるのは『ブッダのことば』で。いま第二「小なる章」の一三「正しい遍歴」を読み終えたところ。幾つもの仏教経典を読んできた、華厳も浄土も般若も。祖師たちの法話も。それらは、わたしに「抱けよ」と「深信」を迫ったけれど、その殆どがわたしには「ファンタジイ」と想われた。「ファンタジイ」として信じて敬愛し抱き柱として抱いてもいいけれど、有り難い美しい徹底したみごとな「創作」に思われた。釈迦はこんな幻想を説いていたのだろうかと、いつも思った。

『ブッダのことば スッタニパータ』は信じうる限り最初期の釈迦その人の存在と言葉を表している。「釈迦その人の教え」と「仏教」との間には、ある意味で尊くある意味で儚い連絡と断絶とが在る。後世仏教が、ないし日本仏教わたしに迫る「信」「行」と、釈迦の「教え・言葉」とは、忌憚なく言えばとほうもなく隔たりをもち、その実は、「ぶっだのことば」の方が遙かに遙かに厳しく強くわたしに迫って容赦なく懶惰で悪性なわたしの性根をのがれようなく鞭打つ。いわゆる仏典をありがたく讀誦し敬愛しているときも、それと、これつきり私本人とのあわいには緩衝の隙間があり安心も忘却も可能な判断がまじりこんだ。そういうものだと思っている気持ちがあった。

ところが『ブッダのことば』はそんなわたしの首根っこをつかまえて、ウムをいわせず迫ってくる。恥ずかしいことにわたしは殆ど全面的に落第している。言い逃れがまるで利かない。

だからこそ、わたしは釈尊その人の「ことば」に思い屈して跪き、恥ずかしいのである。

2013 9ー19 144

 

 

* 今回117巻「あとがき」の最後を、こんな一文で締めくくっておいた。

 

「秦恒平・湖( うみ) の本」も、いま仕掛かり幾つかの「小説」脱稿を念頭に、いつか収束を考えねばなりません。その前に、分冊で刊行してきた代表的な長編小説の「一冊特装保存本」や、作柄を同じくする小説の「合冊特装保存本」を、各「少部数」造っておこうと用意しています。『秦恒平文学選集』とご記憶ください。もしご希望の方は、計画の進行につれご報告しますので、あらかじめ、どうぞご一報下さい。  秦恒平

 

希望者が有ろうと無かろうと、体力と気力のあるかぎり、私家版としてごく少数ずつ創って置きたいとは、妻の願いでもあって、無計画的計画で成るところから楽しみ楽しみ手をかけ費用もかけて行こうと、思うだけは思っている。

今日の払い込み用紙をみていると、「希望する」と書き添えてきて下さった方が何人もあって、嬉しくもあり、ビックリもしました。一冊規模がどれほどかも朧ろに想っている現状だが、例えば「秘色・三輪山・みごもりの湖」で一巻にすれば、けっこうどっしりした一巻になるかも。「蝶の皿・閨秀・墨牡丹・糸瓜と木魚」「清経入水・絵巻・風の奏で」に今仕掛かり新作をというのも思案できる。なんにも決めていないが、乱作は厳しく避けながらけっこう沢山書いてきたといっそ戸惑うばかり。

2013 9・19 144

 

 

* 松野陽一さんの『千載集前後』をすこぶる興深く読み始めた。完璧に国文学者の方法に拠った精緻な研究論考書であり、ま、一般の読者には歯の立つ余地がない。ありがたいことに、わたしは書誌学的なまた準拠学的なそういう論考・論究の文章を、なまじい新書版のような解説文を読むより好きなのである。知識を得るだけなら解説本のほうがかみ砕いてあり便利だろうが、わたしは学者・研究者の方法論と精微な追究そのものに魅惑される。そういうことを自分もしたかったか。それは全然無い。しかし仕上げられた研究成果の美味はすすれる唇をもっている。「ようやらはるなあ」と舌を巻き感嘆しながら、自身で行文や推論や博捜の中へ潜り込んで行く。そういう徹底した仕事が学問の成果として積まれているのだから、わたしには同程度の苦労は免除されている。行儀わるくいえば「ひとの褌で相撲」を味わうのである。

ではわたしは自分では何をするか。小説に書くという本分がある。平家物語の『風の奏で』や紫式部集の『加賀少納言』や蕪村にせまった『あやつり春風馬堤曲』や閨秀大輔を追い求めた『秋萩帖』など、わたしの小説にはそれなりの下地や背後がある。とはいえ、、なにもかも小説にする・成るというわけでない。気が向けば小説家のままエッセイを書いてきた。学問から蓄えたうまみを好き勝手に反芻するわけで。

また『千載和歌集』への愛情深いとしても、松野陽一さんのような学問的追究はわたしの仕事ではない。あくまでも和歌が、和歌を読むのが好きで好きだから、佳いと思う和歌を選んで選んで楽しむのである。研究者にもそういう心の動きはある、が、それを表立ててそれに立ち止まっていては研究にならない。つまりわたしは、学問にもたっぷり助けられ教えられながら、作品としての和歌の喜びを満喫するだけである。それしか出来ないしすべきでないのではないか。

で、わたしの書庫には錚々たる研究者から頂戴した高度な研鑽の成果本がたくさん並んでいる。戴く小説本よりもより多くより執拗にわたしはその方の研究成果を楽しむ。そういう人である。よく見えない目で手近な書架をふりあおげば、『共同研究・秋成とその時代』『浦島伝説の研究』 萩谷朴『本文解釈学』『森銑三著作集・全』そして角田文衛さんの研究書がずらり、山下宏明さんの『琵琶法師の「平家物語」と能』高田衛さんの『定本・上田秋成年譜考説』等々が見えている。本棚の飾りではない、愛読の書であり、書庫へ入り込むとそれらにとっ掴まれ、なかなか出てこれない。

で、いま、「千載和歌集」についで最も縁の深い『後拾遺和歌集』秀歌を、いましも四度目を読み読み撰歌を楽しんでいる。わたしには古典を学究する熱烈がうすく、学究の学恩を満喫しつつ好き放題に「楽しむ」だけである。小説家や評論家になりたかったそれが本当の理由だろうなと思う。

 

* これは即、研究論考の書ではないが笠間書院の橋本編集長に頂戴した田能村竹田画論『山中人饒舌』の訳解の大冊も、文字どおり舌なめずりしたいほど嬉しい。美学藝術学の徒として論文を書こうなどとは全然考えない。竹田という傑出した文人画・南画の大家の蘊蓄がここに結集されてあることだけは久しい見聞で識っていたが、良い本の手引きでとびこんで行けるのが有り難いのである。竹田の繪や書は「お宝鑑定団」にもときおり顔を出す。そういうお宝感覚にはあまり親しまないが、繪も書も好き。しかも作品のゆたかに備わった作に出会いたい。竹田の本は、その作品の秘跡を語ってくれているに相違ないのである。

2013 9・21 144

 

 

* 小説らしきものを書いてみた初めは中学の二年生頃であった。題も覚えている。「襲撃」。

何事が有ってとは一生徒のわたしには知れなかったが、職員室と、学区域内の青壮とのあいだに悶着が起き、運動場への塀を乗り越え乗り越えて職員室へ襲いかかるのをわたしは二階教室の窓から見た。その様子を見たままに書いた。あとで国語の先生にみせたら、目の前で破られてしまった。

そのころのわたしの表現欲は、短歌・俳句と詩と散文に分かれていて、それぞれの帳面をいつも鞄に入れていた。俳句は国民学校の二年生ほどのころに拙い作が記録されてあり、短歌は小学校四年生から六年生まだに二、三首が記録されてある。小説よりはやく短歌・俳句への興味の動いていたきっかけは、一には叔母が、添い寝の語りぐさに和歌は五七五七七、俳句は五七五とそれだけを教えてくれたこと、また家の蔵書に『百人一首一夕話』が、また百人一首のかるたも手近に在ったことが決定的だった。

もう七十年ちかくがあれから経っていて、わたしは今も和歌、短歌、俳句に心を惹かれ、ときどきは汗をかくのと同じように成るがままに拙い作をものに書き付けている。自身で書いた小説や評論を読み返すことは少ないが、大学の頃に編んだ処女歌集『少年』や近年、胃全摘以前の短歌や俳句らしき口遊みを編んでみた『光塵』は、なにかというと沈静剤かのように手にとっている。いつか棺の中へも持って行きたいと願うのは、『少年』であり『光塵』である。

生みの母は短歌をつくる人だった。亡くなる前に遺書かのように歌集を編んで行った。実の兄の北沢恒彦は、弟のわたしが歌などつくる者であったことを「よかった」と思うと早くに言い寄越していた。母と兄と弟とは、ほとんど一緒に暮らしたことが無かったのである。母の歌は、わるくない。

源氏物語がもし和歌の一首も入らない純然の散文小説であったらわたしはかくも愛読し続けなかったろう。

いい歌や句や詩を選んで味わうということを、わたしは何度も繰り返してきた。『愛、はるかに照せ』や『青春短歌大学』や『好き嫌い百人一首』や『千載秀歌』などの本になっている。今もわたしは勅撰和歌集の一冊を三度も四度も読み返しながら好きな和歌を選抜しようとしている。好きなのである、詩歌が。

2013 9・24 144

 

 

☆ 秦先生

先日は湖の本をありがとうございました。

「椿説弓張月」に「ちんぜい」とルビが振ってありましたが、あれは「ちんせつ」です。 小谷野敦

 

* 小谷野さんに質問

椿説弓張月の椿説が「ちんせつ」と読まれてきたことはよくよく承知していますが、馬琴自身が「ちんせつ」と「読まねばいけない」とした「本説」があるかどうかをわたしは知らないので、教えてください。

あの話の主人公は、「強弓」の、通称「鎮西= ちんぜい」八郎為朝です。馬琴がそれを無視してあえて「椿説ちんせつ」としたかどうか、馬琴自身のたしかな言及があれば、ぜひ教えてください。

「椿説 ちんせつ」の読みも語義も十分承知の上、でわたしはあえて鎮西八郎為朝に即して「ちんぜい」の読みを推測しています。椿説を「ちんぜい」と読めることは、遊説を「ゆうぜい」と今日でも普通に読んでいることで明らかです。

だれもが「ちんせつ」と読んできたらしいのを否認する気はありませんが、「馬琴本人の思い・意図」が知りたいとわたしは思う。馬琴に何の明言もない以上は、わたしはわたしの持説として「鎮西ちんぜい」なみに「椿説ちんぜい」の読みを唱えるだけのはなしなんです。

重ねて願います、馬琴自身が「ちんせつ」と読まねばいけないとした本説があるかどうか、明確に教えて頂ければ潔く承伏します。教えてください。  秦恒平

 

 

* 杉原康雄氏から買い取った黄色い野薔薇の繪が、他のいろいろの繪と遜色なく堂々と玄関を飾ってくれているのに日々満足している。わきにちいさく添えて、簡墨の舞子の繪を掛けているのが対照の妙を得てお互いを引き立てている。わきの壁にはやはり友人が描いてブレゼントしてくれた「蔵王」スケッチの風景小品が簡素ながらに美しく引き立っている。

狭苦しい家の中で、まあまあ心静かになれる場所はというと、この玄関と手洗いとだけ。手洗いには妻のいけた美しい蔓蔦がはんなりとおもしろく光っている。ほかはもう、階下も二階も隣家も、足の踏み場もない。わたし、どうやら生涯を昔から大好きな唄の「埴生の宿」に住んで終えるようだ。

いま書いている小説の一つが、幸いに読者の前に披露できるときがくれば、作者がなにやらこつこつと作中人物の「住まい」のさまを書き込んでいるのに、同情の涙または失笑を浮かべられるかも知れない。ほんとは秦さん、こんな家に暮らしたかったんやなあと。ハハハ。

2013 9・24 144

 

 

☆ ゲーテ『イタリア紀行』一七八八年一月五日、ローマ。 より

受動的な態度を持した数週間の休止の後に、私はふたたび最も美しい、言い得べくんば、啓示をうけている。事物の本質や事実の関係の中を瞥見することが私に許され、その瞥見は私に豊けさの深淵を開示してくれる。このような効果が私の心情のうちに生じるのは、私がたえず学ぶから、しかも他人から学ぶからである。

 

* 「たえず学ぶから、しかも他人から学ぶから」というゲーテの言葉は尊い。わたしの謂う「濯鱗清流」とはこれなのだ。ゲーテはこう付け加えている、「自学自修となると、はたらきかける力と消化する力とが一つになり、これでは進歩はより少なく、より緩慢にならざるを得ない」と。

なまじいに自信満々、しかもたかの知れた持ち前の能だけでやってゆける、やっていると小さく自負している者には「豊けさの深淵」などついに覗き得ないままになる。薄汚れ頽れやすい才能(鱗)をつねに清流で濯おうという謙遜がなくて、作に作品の備わることは望み薄い。稼ぐ金の問題でも吹けば飛ぶような評判の問題でもない。

 

☆ ジンメルの『カントとゲーテ』で彼はゲーテの活動の「驚嘆すべき均和」に触れて、こう書いている。(谷川徹三訳)

ケーテの精神的活動は、現実とそれの提供する総てのものをできるだけ受容れようと心がけることによつて、絶えず養分を得ていた。彼の内面活動は決して磨滅し合ふやうなことなく、外物に従つて行動しまた語りながら自己を表現する驚くべき能力は、各の内部活動に放出(=表象・表現)を与へ、それによつて各の内部活動は完全に自己を生かしきることができた。この意味に於いて、彼は、苦しみも畢竟神が与へたものだといふ言葉を感謝の念をもつて特にあげている。

 

* こういう「驚嘆」を豊かに恵んでくれる「清流」にこそ出会い続けたいではないか。日本ではこれに相当する豊かな清流は源氏物語の紫式部をあげて謂ういがいになく、露伴、鴎外、漱石を各個に敬愛した末流は多いけれど、谷崎が時に当然のようにゲーテの名をあげて尊敬をしめしていたのがわたしには尊く思われる。露伴、漱石、鴎外、さらに藤村をわたしは深く敬愛するが、ゲーテ、シェイクスピア、トルストイには遠く及ばない。さらに西欧の彼らには古典の古典である「ギリシア・ローマの神話」等が在る。古事記も日本書紀も風土記も及ばない。源氏物語は生まれたが、ダンテ『神曲』 ミルトン『失楽園』 ゲーテ『ファウスト』のごときを日本は産みだし得ていない。

アポロドーロスの『ギリシア神話』を読み終えた。三十年まえに今度のような讃嘆の思いでこれを読み得ていたら、どんなにわたし自身の世界も色をかえていたろうと、今さら歎きこそしないけれど、そうありたかったと惜しむ。これより以前にホメロスの『オデュッセイア』は耽読していたし『イリアス』にも半ば目を通してきた。アポロドーロスによる原古の色をかがやかせた神話を、「おはなし」にしてしまった他の色々の類書の前に読めたのは幸運だった。これはエキス・原酒に近かった。

これと似た原酒・エキスを口に含む思いでわたしは、今、『ブッダのことば』に聴いている。

2013 9・25 144

 

 

☆ 秦先生

(=馬琴の) 版本にそのようにルビが振ってあるのです。説をぜいと読むのは、遊説、勧説、説苑など、人に説いて従わせる時に使う読みで、椿説は「奇妙な話」という意味で、「小説」「巷説」などと同じなので「ちんぜい」とは読めないのです。むろん馬琴が鎮西をかけたのは否定できませんが、正式な題名自体がご覧のとおり「鎮西八郎為朝外伝椿説弓張月」です。  小谷野敦

 

* 小谷野さんにもう一度だけ

>  版本にそのようにルビが振ってあるのです。

それは承知の上です。稗史に類する流行本のことで、ルビ自体馬琴その人の内意・真意に即応したはからいであるかどうか、不明です。註釈大好きな馬琴その人が、きちんとした言葉で「椿説はちんせつと読んでくれないと困る」と明言していますか、それを御存じなら教えてとお願いしたのです。なぜなら「椿説」はあきらかに「鎮西」と倶に「ちんぜい」と読み得るからです。馬琴の真意まで酌んで、

> むろん馬琴が鎮西をかけたのは否定できませんが、

とあなたも強い物言いで承認されているとおりなのです。

それに、「椿説」の語義もよくわたしは承知しています。その上で謂うのですが、「椿説」もまた

> 遊説、勧説、説苑など、人に説いて従わせる意向を明らかに持っています。小説」「巷説」「本説」などもみな同じ

なことは、「演説」しかり。椿であれ、珍であれ、奇妙であれ、おおかた「説」示行為は、当然 「人に伝え同意や共感を求める」のが普通です。小説家でもあるあなたが知らぬわけがない。

「椿説」が「ちんぜい」とは「読めない」などと聞いたら、馬琴はさぞ驚くでしょう。かれの稗史小説中での、無数の「ふりがな自在」を容認しているわれわれ読者は、「人に説いて従わせる」目的が、演説、勧説には在り、椿説・珍説・小説には無いなどという決めつけは馬琴に向かっては通じない。漢字熟語を自由自在なまで「宛て読み」させることの達人馬琴が、「椿説」に「鎮西」を重ねていたのは、あなたも認めざるを得ないように、「むろん」「否定できない」姿勢なのです。

> 椿説は「奇妙な話」という意味で、「ちんぜい」とは読めないのです。

というあなたの断定は、寸の短い早合点ではないですか。読めると実は思ってられればこそ、「むろん馬琴が鎮西をかけたのは否定できません」のでしょう。

『八犬伝』をいま仔細に再読していますが、馬琴の漢字や熟語へのあまりに縦横自在な使用・利用・活用は、いまさらわたしの言うことでない。

だからこそ、あなたが最後に決然と掲げている

> 正式な題名自体がご覧のとおり「鎮西八郎為朝外伝椿説弓張月」です。

と言われる「それその事」自体が、馬琴の真意を明かしている。即ち、強弓を謳われた「鎮西八郎」の「椿説弓張月」であるぞよと、あなたも「否定できない」ように、作者馬琴は強烈に示唆しているのではありませんか。

「読み取れる者だけでいい読み取って興がってくれよ」の謂いを体した「題名」であると、わたしは、平凡な「ちんせつ」より、何倍も興ふかくこの題名を読んで楽しむのです。そういうことを許す、いや求めているかも知れないのが、「馬琴の文藝」であり「稗史小説の面白さ、味わい方」でしょう。

わたしはそう思い、これ以上あなたのお手数を取らぬ為にも、これでこのメール往来は打ち切ります。

応えていただき感謝しています。 お元気で。  秦恒平

 

* わたしの「読み」に触れて触れておける好機会を小谷野さんがメールで提供してくれた。有り難かった。二往復で十分であり、鉋屑を削り続けても仕方がない。この件ではわたしは「私語の刻」のなかで以前にも一度ならず思いを漏らしている。「ふりがな」がふってある程度のことでは、少なくも、いや誰でもない「馬琴」の話題は放っておけないのだった。「むろん馬琴が鎮西をかけたのは否定できません」ことを問題にしているのである、わたしは。

2013 9・25 144

 

 

* 「秦恒平文学選集」(限定特装本)刊行の粗案を書いてみた。建日子ともよく相談したい。凸版印刷とは十月に入って、具体的な進行を相談することにしている。「晩年」の大きな仕事になる。気力と体力さえあれば、可能。気力は有る。立ち向かうまでである。 2013 9・25 144

 

 

「暫」 清長画

 

* 今晩、妻と建日子とわたしとは、思いを話し合って、われらにとり記念すべき一つの取り決めをした。わたしの熱い希望を建日子が聴き入れ受け容れてくれたのである。ありがとう。

 

☆ 「秦恒平文学選集」の「構成案」

 

第一巻  みごもりの湖 秘色 三輪山 蘇我殿幻想 消えたかタケル

 

第二巻  清経入水 風の奏で 雲居寺跡= 初恋

 

第三巻  慈子 畜生塚 或る雲隠れ考 月皓く 隠水の 誘惑

 

第四巻  廬山 華厳 マウドガリヤーヤナの旅  あやつり春風馬堤曲

 

第五巻  閨秀 墨牡丹 糸瓜と木魚 蝶の皿 青井戸 隠沼 鷺

 

第六巻  鯛 修羅 七曜 無明 孫次郎 於菊 露の世 少女 祇園の子 喪心

或る折臂翁

 

第七巻  秋萩帖 加賀少納言 夕顔 絵巻 月の定家 四度の瀧

 

第八巻  冬祭り

 

第九巻  最上徳内= 北の時代

 

第十巻  親指のマリア

 

第十一巻 ディアコノス=寒いテラス 亀裂 凍結 迷走

 

第十二巻 罪はわが前に 私-随筆で書いた私小説 けい子 ひばり

 

第十三巻 丹波 もらひ子 早春 余霞楼 底冷え 此の世

 

第十四巻 心 なよたけのかぐやひめ 懸想猿・続懸想猿

 

第十五巻 お父さん、繪を描いてください

 

第十六巻 逆らひてこそ、父 華燭 かくのごとき、死 凶器

 

第十七巻  少年 光塵 亂聲 愛、はるかに照せ

 

☆ 製作素案

 

構成  未定 上の案は凡その見当を示したもの。他の再構成をはかることも有る。

 

製本  未定 上製(布装) 函

 

建頁    未定 各巻 およそ既刊「湖の本」の四册または三册量か。

 

部数  未定 極少部数  番号付き美麗限定本

 

非売  国会図書館その他施設等への寄贈・献納を主とする。全巻をご希望の読者にも「いわゆる定価販売」はしない。

 

版型・装丁・印刷・製本  未定  刊本への工夫もともども印刷所等と入念に打ち合わせる。已に会合を予定している。

 

版元  湖の本版元  著者 秦恒平  刊行者 秦建日子

 

刊行  出来次第随時 秦恒平が存命の間及ぶ限り継続刊行し、没後の継続は発行者秦建日子の取捨に委ねる。

 

刊行順序  上の構成順に拘泥せず出来るものから、停滞無く仕上げて行く。新作の小説等も加わる予定。

 

望蜀  著作者が幸いに長命すれば、さらに「谷崎論攷」「文学論攷」「文化論攷」「古典鑑賞」「日本語・京ことば論攷」「美術論攷」「日本史論攷」「対談集」「講演集」「随筆集」等々を編成することも、十分可能。

 

(「湖の本」は、従来と変わりなく刊行して行く。)

2013 9・26 144

 

 

☆ ジンメル『断想 日記抄』より  清水幾太郎訳に拠って

「神の正義は人間の概念に照して見ると不正なものを生み出すことが往々ある」とダンテは考へてゐた。

「生活を藝術品にせねばならぬといふのは無意味である。 藝術には別に藝術の要求がある。」

① 「実践の世界に於いて最も悪質の誤謬といふものは屡々極く真理に接近した誤謬である。吾々の観念が殆んど正しいとき、吾々の認識がただ最後の一簣を缺いてゐるとき--さういふときこそその上に築かれた行為は吾々をこの上なく恐ろしい過失へ連れ込むのである。極端な誤謬の方が容易に訂正される。」

「仕事に精を出す人間は多いが、その中で仕事の方が精を出してゐるといふ人間は少い。」

「吾々を進歩させるものを感謝の心を以つて書物の中から摂取すべきなのであつて、その他はただ素通りすればよい。」

「教育は不完全なのが普通である。 二つの対立する傾向即ち解放と束縛とに仕へねばならないから。」

「一般に青年の主張するところは正しくない、併し彼等がそれを主張するといふことは正しい。」

「青年に於いては凡ゆるものが未来へ向つて進んでゐて、過ぎ去つたものは一としてその場所にとどまり得るだけの重みを持つてゐない。 青年は丁度一つの点のやうにそこに何時も生命の全体が集つてゐる。」

② 「齢をとるに連れて生が益々疑はしいものとなり、縺れたものとなり、掴みどころのないものとなる。 或る年齢を越えるとこれがひどくなつて、つひには生に堪へることが出来なくなり、人間の適応の力が尽きてしまふやうになる。吾々はそこに解体し、そこに没落する--さうでない場合は独断論といふ人為的な固定性に逃れるのである。」

 

* ①②ともに、わたし自身にも実感がある厳しい恐ろしい指摘である。

2013 9・27 144

 

 

* 電話での一度の打ち合わせを経て「選集」のこと、少し具体像も見えてきた。

 

① 「湖の本」全巻は私のパソコンに保管されている。HP上で校正を完了した巻も未了の巻もあるが、「定本」出版を考えている上は、全編の綿密な再校正が当然の手続きと考えている。かりに校了した電子化データで印刷所等に渡せれば、一頁行数、ノンブル問題その他もクリア出来るのではないか。取り急ぎ第一回刊行期待分の「校正」を完了しておくのが先決かと思っている。

② 昭和六十年一月一日刊、五十歳の賀を祝い、和歌山の三宅貞雄さんが、『四度の瀧』と、年譜・初出一切とを記念出版して下さった。題字は谷崎潤一郎夫人、口絵は森田曠平画伯 装丁・装画は出岡実画伯、印刷は精工舎、箱は堀製函だった。端正に美しい本としてとても読者に喜ばれた。ああいう贅沢はできないにしても、手抜きのない清潔に美しい本をと願っている。単に在庫本なら「湖の本」は揃っており、また各出版社で気を遣って出してくれた当時の単行本も、とりどりに備えて在るのだから。

③  とりあえず第一回に予定の作の入念な校正を急いでおきたい。造本も大切、しかし誤植のない定本を造りあげるのでなければ形だけの自己満足になる。ゲラ段階でも丁寧に校正したい。編輯や校正に経験を積まれた読者もおいでである。手を貸して頂ければ嬉しくも頼もしいが。

2013 9・30 144

 

 

* 長編小説『みごもりの湖』の手元稿を「湖の本」版により校正し始めた。久しくわたしの胸の内で読み返したい読み返したいという願いが凝っていた。なんといっても、太宰賞の受賞作以降、新潮社の新鋭書き下ろし小説として依頼され、この作の成るか成らぬかは作家としての先途を得るか喪うかの関所だった。しかも、わたしの作風は、古典と歴史とに親和していながらも現代の怪奇小説だとすら受賞作で評されていたほど、当時文壇を席捲していた私小説や身辺小説のそれとはまるで異なっていた。折り合いがつくのかしらんとわたしの懸念は懸念として、だからといってこの関所は踏み越えて行くしかなかった。その思いの火が書き出しの「此の世 一」からめらめらと燃えていたのが、校正し始めてすぐわたしをぞくぞくさせた。おそらく担当編輯者にも新潮社の出版部にも、「こんな小説アリか」と惘れられていたと思う。容易には容認してもらえなかった。だが、わたしは自分の世界を愛して信じるしかなかった。わたしはかなり当時から頑固でもあった。そして思うままに書き継いでいった。

それを読み直してみたいみたいと思いながら、怖くもあった。幸い、わたしの作の中で代表作と認め、時には名作といってくれる批評家も読者にも恵まれた。それでも、なお、当時の現代小説としては、「こんなのアリか」というほど稀な作風には違いなかった、怪奇小説とは自身すこしも思ってなかったけれど。書けるなら、こんなふうに書いてみろとも思っていた。

校正が、楽しみだ。

2013 10・1 145

 

 

* これからの日々はますます眼に過酷になる。思い切って「交響する読書」は、当分、小説を主に「五重奏」程度に縮小する。

① 小説を書く。

② ホームページに「私語」する。

③ 湖の本新刊を続ける。

④ 「選集」構成のための校正作業。

⑤ 少なくも五冊読書を楽しむ。

この最低五つの「仕事」でわたしの日々はハチ切れる。(九月三十日の私語)

2013 10・2 145

 

 

* これをと「仕事」の的を絞ったので、四つ五つを順繰りに着々と前進させて行ける。

 

* とりわけて『みごもりの湖』を一字も漏らさず校正して行くのが嬉しくも楽しい。じつは新潮社で本になってからわたしはこの作をほとんど読み返さなかった。妙にこわい気がした。書評は各紙でいいものが出、やがて文藝春秋その他から文庫本に欲しいとオファがあったが、版元の新潮社はにべなく拒絶。それは当然でもあったろう、が、それなら適当なときに自社で文庫化してくれてよかったはず、だが、その後全くそういう気配もなかった。泉鏡花文学賞の有力視された候補になったが、惜しまれながら逸れた。そのおかげで賞の地元の金沢市等に親しい人たちを識ることになった、それは幸いであった。そんなこんなで、自作のそれを読み返すのが鬱陶しくなった。窮屈な組み体裁も好きでなかった。だが、歳月つともにこの『みごもりの湖』はわたしの代表作、名作とすら言う人たちが増えていった。この作をこのままにしてはいけない。その思いが、既製の出版世間から脱却しようという「秦恒平・湖( うみ) の本」の企画と実践に向かわせたのは、当然といえば当然。

校正していて、わたしは、自分がほんとうに読みたい、読んでみたいという小説をワクワクしながら一字一句大切に書き継いでいたのだなと、しみじみ分かる。納得する。わたしはこういう文学に触れたかったのだ、希望を人が満たしてくれないなら自分で書こうと思っていたのだ。『みごもりの湖』だけではない。他の小説の「皆」がそうだった。どうわらわれようと、そうだった。

2013 10・3 145

 

 

* 『みごもりの湖』の校正を進めていた。読み進むのが嬉しいのである。三十五六の頃に書いていた。校正していて、ほぼ全く文章を直したいと思わない。今夜、一箇所、矢が「砕けた」とあるのを、「折れた」と直しただけ。句読点の一箇所を定めるのにも時間をかけてよく考えた。考えに考えた。苦しくも難航した創作であったけれど、作者のわたしにはひどい迷いも惑いもなかった。難航したぶん徹底して文章を考えられてよかったと、今にしてもはっきりそう思う。物語にも場面場面の表現や描写にもわたしは殆ど行き詰まりなど感じていなかった。

 

* では今はどうだろう。『みごもりの湖』のように書けるか。書けない。あれから四十年の余も年を取ってきた。青壮の息づかいとは違っている。上田秋成の芳醇の『雨月物語』と壮絶の『春雨物語』とが歴然とことなる文体で異なる物語世界を描いている、あれと同じだ。

わたしは、いやほど沢山の声に『清経入水』や『みごもりの湖』や『慈子』や『秘色』や『蝶の皿』のように書いてと頼まれた。そういうことは、しかし、不自然なのである。歳相応の完成度で創作は為されて自然なのであり、前作模倣を型にはまって繰り返していたは売り物は出来るかも知れないが人生に向かって誠実を欠いてしまう。

谷崎と芥川と佐藤春夫とで、あきなりとの雨月と春雨とどつちが好きかと盛んな議論があったいう。好きずきの話はそれで済む、が、秋成にして若い日の売り出しに春雨物語は書けず、老境の諦念の中で雨月物語は書けなかった。

その歳、歳に応じて精一杯を書き表すのが作家魂というもの。売り物だから何でもいいというのでは敬愛に値する創作者とはとても言えない。

2013 10・4 145

 

 

* 湖の本118を入稿の用意ができた。

仕掛かりの小説をここでは(A)(B)と読んでおくが、(A)が進捗している。(B)は量的にはもっと前へ出ているが、(A)(B)とももっともっと手を掛けたい。

『選集』①の原稿づくりのためのための校正、ずんずん進めている。

2013 10・6 145

 

 

* 粘り抜いて、わたしの「言葉は心の苗である」という文学エッセイを、「e-文藝館・湖(umi )」に送り込めた。少し続けて試みて、正確に自在に運用できるようにしたい。いつかは、1000作ものコンテンツを選び挙げたい。その目標点はもう眼に見えている。

2013 10・8 145

 

 

* 一心に校正している『みごもりの湖』は、刊行時の書評や評判のおおかたが「死者の書」となぞらえ呼んでいた。まっこうから人が人に死なれ・死なせての哀情と思索の作であった。この作だけがそうではなかった、『慈子』も『清経入水』も『初恋=雲居寺跡』も『冬祭り』も、およそ秦恒平の創作のほとんどがそうであった。肉親では親たちの全部を死なせ、いとおしい孫娘も死なせ、兄や姉たちの全部に死なれている。愛したネコ、ノコにも。そして心親しかったどれだけ大勢の知己や友に死なれてきたことか。

いわばそういう陰気な話題に取り組みつつもそこに花やいで静かな深い世界をどうか書き置きたいとわたしは願ってきたようだ。

校正、校正、校正。一字一句を読みながら、何よりも何よりも楽しんでいる自分に気が付く。むかしむかし谷崎潤一郎が、年を取ったらもう人の物など読まない、むかしに書いた自分の作をしみじみ読み返したいと書いていて、「そうやろなあ」と芯から思った。あのとき、大谷崎は、ほんとうのところ自分がいちばん読みたくて読みたくて堪らないような創作をしてきたことに思い当たっていたろう。どんな他人の書いた名作よりも、自分が読みたくて自分で書いた作をじっと読み返して老境を過ごしたい。かかるナルシシズムこそが藝術家として生きる者の実は覚悟なのだ。覚悟なしには言えないのだ。

2013 10・11 145

 

 

* 四十数年使ってきた「新潮国語辞典」を、『みごもりの湖』を書き始めたころ担当の池田雅延さんが呉れた。辞書をよくよく読むようにとの助言であったろう。「いい作者」も「いい読者」も辞書を疎ましがってはならない。

で、いま。この愛用の辞典で「付き合い」「付き合う」を引いてみると、動詞であり名詞であり意義は当然に共通している。「突き合い・突き合う」とは、むろん、く異なる。それは「角突き合い」などの意味で見た目も穏やかでない。

「付き合う・付き合い」には、「互いに付く・双方から接し合う・交わる・交際する・義理のために他人と行動を共にする」意味があると辞書は説いている、異を挟む隙もない。

ところで、昨今かなりの年齢幅のある若い人たち、いやいやかなりいい年の大人ですら、男女して「付き合う・付き合っている・付き合ってほしい」と口にもし態度でも示すときのその「日本語としての意味」は、上の辞書定義を大きく逸脱していること、もはや日本中で知らぬ人も地域も無いように想われる。即ち、それは「男女が相互に同意して性的関係を受け容れ合う」意味に通用し、むしろ上の辞書定義ふうには用いにくい空気ができてしまっている。東工大に赴任したのは十数年より以前だが、その当時に学生達に確かめてみても「それは秦先生の思い過ごしです」と応えた者はなく、首を縦に、また言少なに、ほぼ例外なく肯定していた。いまいまの風ではない、一昔も二昔もむかしからそうであったのだ。なるほど先の辞書には「双方から接し合う・交わる」と一般に世間の風を謂うととるだけでなく、性的接触や性交合の意義も挙げていたのだと強弁できなくない。しかし辞書は男女のとも性的なとも謂うてはいない。強弁は強弁であろう。それにもかかわらず今日の日本社会では、最早穏和な辞書定義の「付き合う・付き合い・交際」という言葉が使いにくく、いや殆ど全然に使えなくなってしまっている。「ああ、あの人とはながい付き合いです」「お付き合いしていますよ、もう前からね」などとさらりと謂いにくいほど、若い男女らの「新定義」の方が大手をふって通行している。

想えば思うほど安直に性関係になってしまう男と女との「つきあい」感覚、これが、幾多のストーカー殺人の基底で蠢いていた。簡単に付き合ってしまい、つまり性交関係に入ってしまい、いざ抜けだそうとなると殺人に到るほどの未練や執着や害意が暴走する。

一方で手軽に過ぎた性関係が浮き草のようにはびこり、他方で不出来な殺人ドラマが横行する、このでたらめ社会に何の歯止めもない。政治も思想も文化も、何の抑止力にもならない。バカげている。

人と人とがまともに「付き合う」とはきみたちが認め合っているようなそんなアホらしいことではないと、たったそれだけでもはっきり言ってやれる政治はないのか。教育はないのか。思想はないのか。

2013 10・12 145

 

 

* 第四章の「14」まで『みごもりの湖』を読み進み校正した。

卒然と神隠(みごも)った愛する姉の「死」の不思議と哀しみとを、姉とおなじ大学にすすんだ妹槇子はかき分けて行く。手がかりは、姉のもっていた一冊の小説本に挟まれていた何でもない栞の、裏にペンて手書きされていた「品部」という二字しかなかった。

奈良朝の末期を血にそめた宰相藤原仲麻呂=恵美押勝と孝謙(称徳)女帝との国崩しの烈しい愛憎、そして琵琶湖の西、勝野の濱での凄惨をきわめた押勝らの最期。だが、辛うじてその惨劇から父に離れ母を死なせて湖上を東へ小舟で遁れ去った、史実不思議の美少女東子。

世界も時代もまるで異る二筋が、分かちがたい必然をかたち成して太い一筋に綯い上げられてゆく。

まだ、半ばである。

2013 10・12 145

 

 

*  ひたすら、『みごもりの湖』を読む。あのときだから書けた。いまはこうは書けないし書かない。書けるときに書くべき作を渾身書いて置いた、それでいいと思う。今は今の作を書かねばならぬ。

2013 10・15 145

 

 

* 『みごもりの湖』を校了した。つまり、久々に読み終えた。

書いて置いて、よかった。書くべき時機に書くべき年齢でほんとうに書きたかったことをほぼ徹底的に書ききっている。小説書きになって善かった。生まれて生きて、仕事をしていた。その時機ならではのその証だ。これが最高とかこれがどうとかの問題ではない。すべきことを、したいように十分にし遂げていた、それがよかった、有り難い。誰の真似でもない、深く根をはって動機はあの世に下りていた。その根から生え出た幹や枝葉を書いて書けている。それがよかった。有り難い。

次いで、これよりは以前の作になる『秘色(ひそく)』を校正する。読み返すのは、久しぶりだ。

2013 10・18 145

 

 

* こんどは『秘色( ひそく) 』を読み始めた。

第五回太宰治賞の最終候補作として、あなたの私家版『清経入水』の表題作を選考に急遽差しこみたいのだが承知してくれるかと筑摩書房から家に電話が来た。さ、それからが何とも大変で。わたしはすぐさま源氏物語を読み始め、読み終わるまでにはカタがついているだろう、それまでは太宰賞も雑誌展望も忘れていようと。

そして、会社での仕事をつくって関西へ出張し、現地休暇をとって近江大津京の探索にでかけた。目当ては湖西滋賀里の山の中にある「崇福寺址」で、次にはこの材料で一作をと考えていた。この旅はまこと収穫豊かで、わたしは想像の羽根を十分にのばせそうに胸をふくらませて東京に帰ったのだった。

一九六九年の桜桃忌にわたしの『清経入水』は幸せにも太宰賞に満票当選した。しかし慣れない文壇だか出版だかの慣例をやぶってしまい、受賞第一作の『蝶の皿』を「新潮」の新人賞特集に渡してさんざ筑摩書房には叱られた。やっさもっさのあげく『秘色』が筑摩書房「展望」での受賞第一作になった。言って置くが、あの当時に、わたしの『清経入水』も『秘色』も極端に孤独な作がらで、ほとんど類例作は文壇に実在していなかった。歴史時代と現代との同水平での出入り、それのみか実在と非在との交錯、選者の一人は「今日の怪奇小説」とも受賞作を評されていた。幸いに馬場あき子さんが「秦さん、『秘色』は名作よ」と声をかけてくれた。新潮社でのちに『みごもりの湖』を担当してくれた池田雅延さんも、井上靖の額田姫王より、秦さんの十市皇女の方が魅力的といい、「ブリリアント」と読んでくれるプロの読み巧者たちがいて励ましてくれたけれど、やっぱり、おっそろしく孤独な作風やなあとは内心思っていた。

「作家さよなら」という手記を書いて手箱にひそめ、ま、やって行こうよ「おれ流」でと、船出したのだった。済んだことだ。

2013 10・19 145

 

 

* 今朝、アマチュア将棋の名人位決勝戦を観ていた。はなから優位と見えていた人の七八割がた押しまくった一方的な試合でありながら、たった一つの緩手・緩着から大逆転の負けとなった。仰天もし、深く首肯もした。いましも幸田露伴の考証「象戯余談」を読んでいて、ちょうど「奕戯の道、弱者も勝つ有り、強者も敗るるあり、而して後奕戯の道の玄機不測、幻境万変の妙存するなり。もしそれ強者必ず勝ち、弱者必ず敗れなば、奕戯の亡ぶることもまたすでに久しからん」とし、明の楊升庵の諺語「敗棋に勝著有り」を引いて、「甚だ佳、道破す人生一半の理」と。「敗棋の勝著」の裏には必して「勝棋の緩著・敗著」のあることをも示唆している。めざましい実例をわたしは今朝目の当たりにした。

2013 10・20 145

 

 

* 『みごもりの湖』は、妹が姉の謎の失踪と死とを、愛と惑いとに衝き動かされながら追って行き、即ちそれが葬送を成して行くような物語になっていて、組み立ては謎を解いて行く推理や不思議を抱き込んでいる。人が人に死なれ、また死なせているのは世の常であるが、それが文学の主題になろうとするとき、ただに愛と死とよく普通に言われる見地が平凡に定まってしまい、一段も二段も奥の不思議、人が人を分かりうるのかという主題が取り残されてきた気がする。愛さえあれば、人が人を分かりうるのか。それともそんなことは徒労に同じいのか。

少なくもわたしは、人として人が分かりきれないという哀しみをいまでも口惜しいほどの思いで身内深くに幾つも持っている。

 

* 姉菊子はほんとに死んでしまっているのか、じつはそうはでないのか。『みごもりの湖』の妹槇子は、その頼りなさを哀しみながらあとを追って行く。槇子と同じ地平をいまもなお作者のわたしは踏んでいる、踏みかたは、異なるにしても。

 

* 昨日今日、わたしの眼は機能不全。それでも、自作の校正もし、湖の本の校正もし、闇に言い置く私語もし、読書もし、そして創作もじりじりと前へ進めている。わたしの「いま・ここ」はそれなのだ、なら、それは為し成すしかない。

2013 10・20 145

 

 

* 「彼岸」が、もし単に経過的な「死の後」とでも謂うならそれでいいが、さもなくて、「彼岸」という特別の「他界」が実在するという思いは持っていない。極楽も地獄も天国も、ファンタジイに過ぎず、極楽・天国へ逝きたく、地獄には逝きたくなく、といった懸念はほぼ払拭している。ただ、いかにも軽々と平静に残年・残生を過ごしたいとは願っていて、それにはあまりに自身の内にも外にも邪悪や害念が多すぎて弱虫の心がともすると縮んでしまう。

どうしても、わたしにはヒルテイのような、キェルケゴールのような、ミルトンのようなキリスト教への膚接感がもてない。尊いと思いつつ、実感としては肌身を隔てた少し遠くにそれが有る。ブッダや荘子の「ことば」、中国の詩や日本の和歌らの催しのほうに心惹かれやすい。それでいいと思っている。

『ブッダのことば』は、「蛇の章」十二節、「小なる章」十四節、「大いなる章」十二節を、読みかつ聴いてきた。中村元先生の懇切な註にも教えて頂いた。そして残る「八つの詩句の章」十六節、「彼岸に至るる道の章」十八節に入って行く。何かに願うのでも縋るのでも抱きつきたいのでもない、高慢で言うのでなく、所詮身の程の至らなさを覚えたままただ読みかつ聴く。それがいいちもいけないとも、わたしには分からない。「第四 八つの詩句の章」はひとしお重いのであろうが、心してまた怯えずに、聴く。

 

☆ 中村元訳『ブッダのことば』第四 八つの詩句の章より

一、欲 望

七六六 欲望をかなえたいと望んでいる人が、もしもうまくゆくならば、かれは実に人間の欲するものを得て、心に喜ぶ。

七六七 欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、もしも欲望をはたすことができなくなるならば、かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。

七六八 足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を回避する人は、この世でこの執著をのり超える。

七六九 ひとが、田畑・宅地・黄金・牛馬・奴脾・傭人・婦女・親族、その他いろいろの欲望を貪り求めると、

七七○ 無力のように見えるもの(諸々の煩悩)がかれにうち勝ち、危い災難がかれをふみにじる。それ故に苦しみがかれにつき従う。あたかも壊れた舟に水が侵入するように。

七七一 それ故に、人は常によく気をつけていて、諸々の欲望を回避せよ。船のたまり水を汲み出すように、それらの欲望を捨て去って、激しい流れを渡り、彼岸に到達せよ。

二、洞窟についての八つの詩句

七七二 窟(身体)のうちにとどまり、執著し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄のうちに沈没している人、--このような人は、実に(遠ざかり離れること)(厭離)から遠く隔っている。実に世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではないからである。

七七三 欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい。他人が解脱させてくれるのではないからである。かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る。

七七四 かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する、--「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と。

七七五 だから人はここ(今・此処)において学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどんなことであろうとも、それのために不正を行なってはならない。「ひとの命は短いものだ」と賢者たちは説いているのだ。

七七六 この世の人々が、諸々の生存に対する妄執にとらわれ、ふるえているのを、わたくし(=ブッダ)は見る。下劣な人々は、種々の生存に対する妄執を離れないで、死に直面して泣く。

七七七 (何ものかを)わがものであると執著して動揺している人々を見よ。(かれらのありさまは)ひからびた流れの水の少いところにいる魚のようなものである。これを見て、「わがもの」という思いを離れて行うべきである。--諸々の生存に対して執著することなしに。

七七八 賢者は、両極端に対する欲望を制し、(感官と対象との)接触を知りつくして、貪ることなく、自責の念にかられるような悪い行いをしないで、見聞することがらに汚されない。

七七九 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世をもかの世をも望まない。

 

* 偏見を差し挟むようだが、胸に衝きたって来る箇所を顧み歎き心がけながら、太字にしてみた。至らなさを露呈している。繰り返し聴くうちに太字の箇所が動くことだろう。

ヒルテイは「眠られぬ夜」にヨハネの福音書を念頭に独語している、「実際この世には、どんな恵まれた運命にあっても、不安と心労しか存しないのだ。 人生はたえざる克服か、もしくは屈服である。地上においては、いかなる人間にもそれ以外の道はありえない」と。

 

☆ 物いふ女の侍るところにまかれりけるに、よべなくなりにきといひければよめる  源兼長

ありしこそ限なりけれあふ事をなどのちのよと契らざりけん

 

男に忘られて侍りける頃、貴布禰にまゐりてみたらし河に蛍のとび侍りけるをみてよめる  和泉式部

物思へば澤の蛍もわが身よりあくがれ出づる玉かとぞみる

神の御返し

奥山にたぎりて落つる瀧つ瀬の玉ちるばかりものな思ひそ

 

* ともすればこういう情けの歌が身内によみがえるのだ、愚かなのか哀れなのか。

2013 10・25 145

 

 

☆ 中村元訳『ブッダのことば』第四 八つの詩句の章より

三、悪意についての八つの詩句

七八〇 実に悪意をもって(他人を)誹る人々もいる。また他人から聞いたことを真実だと思って(他人を)誹る人々もいる。誹ることばが起っても、聖者はそれに近づかない。だから聖者は何ごとについても心の荒むことがない。

七八一 欲にひかれ、好みにとらわれている人は、どうして自分の偏見を超えることができるだろうか。かれは、みずから完全であると思いなしている。かれは知るにまかせて語るであろう。

七八二 ひとから尋ねられたのではないのに、他人に向って、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である、と真理に達した人々は語る。

七八三 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」 といって誇ることがないならば、世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは(高貴な人)である、と真理に達した人々は語る。

七八四 汚れた見解をあらかじめ設け、つくりなし、偏重して、自分のうちにのみ勝れた実りがあると見る人は、ゆらぐものにたよる平安に執著しているのである。

七八五 諸々の事物に関する固執(はこれこれのものであると)確かに知って、自己の見解に対する執著を超越することは、容易でほない。故に人はそれらの(偏執の)住居のうちにあって、ものごとを斥け、またこれを執る。

七八六 邪悪を掃い除いた人は、世の中のどこにいっても、さまざまな生存に対してあらかじめいだいた偏見が存在しない。邪悪を掃い除いた人は、いつわりと驕慢とを捨て去っているが、どうして(輪廻に)赴くであろうか? かれはもはやたより近づくものがないのである。

七八七 諸々の事物に関してたより近づく人は、あれこれの論議(誹り・噂さ)を受ける。(偏見や執著に)たより近づくことのない人を、どの言いがかりによって、どのように呼び得るであろうか? かれは執することもなく、捨てることもない。かれはこの世にありながら一切の偏見を掃い去っているのである。

 

四、清浄についての八つの詩句

七八八 「最上で無病の、清らかな人をわたくしは見る。人が全く清らかになるのは見解による」と、このように考えることを最上であると知って、清らかなことを観ずる人は、(見解を、最上の境地に達し得る)智慧であると理解する。

七八九 もしも人が見解によって清らかになり得るのであるならば、あるいはまた人が智識によって苦しみを捨て得るのであるならば、それでは煩悩にとらわれている人が(正しい道以外の)他の方法によっても清められることになるであろう。このように語る人を「偏見ある人」と呼ぶ。

七九〇 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の困を)つくることがない。

七九一 前の(師など)を捨てて後の(師など)にたより、 煩悩の動揺に従っている人々は、執著をのり超えることがない。かれらは、とらえては、また捨てる。猿が枝をとらえて、また放つようなものである。

七九二 みずから誓戒をたもつ人は、想いに耽って、種々雑多なことをしようとする。しかし智慧ゆたかな人は、ヴェーダによって知り、真理を理解して、種々雑多なことをしようとしない。

七九三 かれは一切の事物について、見たり学んだり思索したことを制し、支配している。このように観じ、覆われることなしにふるまう人を、この世でどうして妄想分別させることができようか。

七九四 かれらははからいをなすことなく、(何物かを)特に重んずることもなく、「これこそ究極の清らかなことだ」と語ることもない。結ばれた執著のきずなをすて去って、世間の何ものについても願望を起すことがない。

七九五 (真の)バラモンは、(煩悩の)範囲をのり超えている。かれが何ものかを知りあるいは見ても、執著することがない。かれは欲を貪ることなく、また離欲を貪ることもない。かれは(この世ではこれが最上のものである)と固執することもない。

 

* 「神」をねがう宗教では救われ慰められようとする。ブッダは本然の「人」であり、人に向かい人として迷いなく覚めた人であれと説いている。信じよと言わず、覚めよと言う。ヒルテイが、「罪とは、神を思う心と両立しないすべての心の傾向のことである」と言い、「それがあなたとあなたの幸福とをへだてている」と言うのにもわたしはたしかに深く頷く。

ある人たちは「神」よりも「自然」ということばを用いた。ゲーテはそれに近く、サドはもっとも「自然」の名を高声に語っていた。ダーウィンの思想がここへ絡む。ヒルテイはダーウィニズムを容認していない。わたしはダーウィンの解明を拒めない。

 

* ゲーテの『イタリア紀行』下巻をすこしずつ読み進めている。ローマの「謝肉祭」をそれは詳細にことを分けて語ってくれている。おそらくこれ以上の解説はあるまいかと思うほど面白く、『モンテクリスト伯』でアルベールらが熱狂ししかも山賊サンチョ・パンザに囚われた件りなどを懐かしいほどに想いだしていた。もっともゲーテは謝肉祭にウツツを抜かしてなどいなかった。むしろ腹いせかのようにすら延々と記述し紹介していたのだろう、その月の明けた一七八八年二月一日の通信冒頭に、「自分自身がそれに感染しないでいて、他人の馬鹿さわぎを見ているのは、おそろしく退屈なものである」と書いている。名言であり、万般に及んで同じ辟易の思いを毎日のように持つ。たぶん、持たせてもいるのだろうが。

 

* それよりも。同じ日付でゲーテは自身「選集」の編成に関してこうも述懐している。「自分の生涯のこうした総勘定をするということは、一種奇妙なものである。これまで生きてきたことの跡形はいかにわずかばかりしか残っていないことであろう!」と。なんの、ゲーテはまだ壮年であった。わたしは、七十八歳にもなろうとして、彼の言葉にかりて嘆かねばならぬ。

2013 10・26 145

 

 

☆ 中村元訳『ブッダのことば』第四 八つの詩句の章より

五、最上についての八つの詩句

七九六 世間では、人は諸々の見解(=分別)のうちで勝れているとみなす見解を「最上のもの」であると考えて、それよりも他の見解はすべて「つまらないものである」と説く。それ故にかれは諸々の論争を超えることがない。

七九七 かれ(=世間の思想家)は、見たこと・学んだこと・戒律や道徳・思索したことについて、自分の奉じていることのうちにのみすぐれた実りを見、そこで、それだけに執著して、それ以外の他のものをすべてつまらぬものであると見なす。

七九八 ひとが何か或るものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである、と(真理に達した人々〉は語る。それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。

七九九 智慧に関しても、戒律や道徳に関しても、世間において偏見をかまえてはならない。自分を他人と「等しい」と示すことなく、他人よりも「劣っている」とか、或いは「勝れている」 とか考えてはならない。

八〇〇 かれは、すでに得た(見解)〔=先入見〕を捨て去って執著することなく、学識に関しても特に依拠することをしない。人々は(種々異った見解に)分れているが、(よく分かっている=)かれは実に党派に盲従せず、いかなる見解をもそのまま信ずることがない。

八〇一 かれはここで、両極端に対し、種々の生存に対し、この世についても、来世についても、願うことがない。諸々の事物に関して断定を下して得た固執の住居は、かれには何も存在しない。

八〇二 かれはこの世において、見たこと、学んだこと、あるいは思索したことに関して、微塵ほどの妄想をも構えていない。いかなる偏見をも執することのない(よく分かった=)そのバラモン(を、この世においてどうして妄想分別させることができるであろうか?

八〇三 かれらは、妄想分別をなすことなく、(いずれか一つの偏見を)特に重んずるということもない。かれらは、諸々の教義のいずれかをも受け入れることもない。バラモンは戒律や道徳によって導かれることもない。このような人は、彼岸に達して、もはや還ってこない。

 

六、老 い

八〇四 ああ短いかな、人の生命よ。長く生きたとしても、また老衰のために死ぬ。

八〇五 人々は「わがものである」と執著した物のために悲しむ。(自己の)所有しているものは常住ではないからである。この世のものはただ変滅するものである(と見て、在家にとどまっていてはならない)。

八〇六 人が「これはわがものである」と考える物、ー-それは(その人の)死によって失われる。われ(=ブッダ)に従う人は、賢明にこの理を知って、わがものという観念に屈してはならない。

八〇七 夢の中で会った人でも、目がさめたならば、もはやかれを見ることができない。それと同じく、愛した人でも死んでこの世を去ったならば、もはや再び見ることができない。

八〇八 「何の誰それ」という名で呼ばれ、かつては見られ、また聞かれた人でも、死んでしまえば、ただ名が残って伝えられるだけである。

八〇九 わがものとして執著したものを貪り求める人々は、憂いと悲しみと慳(ものおし)みとを捨てることがない。それ故に諸々の聖者は、所有を捨てて行なって安穏を見たのである。

八一〇 遠ざかり退いて行ずる修行者は、独り離れた座所に親しみ近づく。迷いの生存の領域のうちに自己を現わさないのが、かれにふさわしいことであるといわれる。

八一一 聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳(ものおし)みもかれを汚すことがない。譬えば(蓮の)葉の上の水が汚されないようなものである。

八一二 たとえば蓮の葉の上の水滴、あるいは蓮華の上の水が汚されないように、それと同じく聖者は、見たり学んだり思索したどんなことについても、汚されることがない。

八一三 邪悪を掃い除いた人は、見たり学んだり思索したどんなことでも特に執著して考えることがない。かれは他のものによって清らかになろうとは望まない。かれは貪らず、また嫌うこともない。

* 清水房雄さんの歌に「あるままに只生かされて居るのみに神も仏も関はりの無く」とあった。

『眠られぬ夜のために』のヒルテイなら、この「生かされて」の一句にふれて、彼の「神を」静かにこまやかに語り続けるだろう。

すなわち、

「ピテカントロプスおその他の類人猿の発見も、聖書の真理をゆるがすものではない。 プトレマイオスの宇宙大系がコベルニクスの宇宙大系に移ったことや、新大陸や新星の発見が、それをゆるがさなかったのと同じである。」

「近代の自然科学と宗教とを和解させようとしたり、すべての自然現象をいきなり宗教的に説明しようとするすべての企ては、あまり効果がなく、また現代人の精神にとってはかなり無益でもある。」「自然科学はそのような活動範囲で満足すべきであって、学問的に究明しえないものは、科学にとってばかりでなく、一般的にも存在しないなどと主張すべきではない。」「われわれも自然法則を信じる。しかしこれは『法則』であるからこそ、決して偶然に、あるいはひとりでに出来あがったものではなく、自然を造りこれを支配する霊的存在を前提とする。」

「神が何であるかは、人間のどんな学問も、たとえばそれが神学、哲学、その他なんと呼ばれようとも、それを学問的に究明し、定義することはできないであろう。」「キリスト自身も、これについてはヨハネ福音書四の二四にある以上に詳しくは述べなかった。」「旧約聖書全体を見ても、出エジプト記三四の六・七の美しい箇所以上に立ち入った説明は含まれていない。」

「神が実在すること、そして完全と慈愛とが神の本質であるという事実で、われわれの地上生活には十分でなければならない。」「われわれは神を把握することも、定義したり公式的に表現することもできない。」

「このような神についての経験が、(ゲーテの=)『ファウスト』の、それ自体美しく、しばしば引用される詩句には欠けている。なるほど『名前はひびきであり、煙である』『だれがそれを神と呼んで、私はそれを信じます、などと告白できようか』(『ファウスト』第一部三四三二行以下)というのは、もっともである。しかしわれわれの生活に影響すべきものは、名前の背後にある実在である。それを経験したならば、主人公ファウストの生涯は--そして作者ゲーテの生涯も--ちがったもの、よりよいものになりえたであろう。」

 

* あのゲーテに、ここまで真摯に迫った人も言葉もじつに珍しい。

『イタリア紀行』で今日も聴いたゲーテのことばを、ただ、書き留めておきたい。

「私は孜々として努め、心は満ち足り、こうして未来を待っている。」「私は元来文学上の天分を有しているということや、今後制作しうるのはせいぜい十年ぐらいであろうが、その間にこの才能を完成し、なにか立派なものを書きあげなければならないということが、日一日と私には明らかになってくる。」「それにしても、青春の情熱は多くのものを、大した研究もしないのに成し遂げさせたことであった。」

「私は、いかなる点と物とを自分がまだわからずにいるかを十分に知っているし、また、自分が次第に成長しつつあることや、もっと深く理解するためには何がなされねばならないかをも十分に感じている。」

 

* 濯鱗清流の日々をじっと受け容れている。

2013 10・27 145

 

 

* 選集第一巻に予定の『みごもりの湖、 秘色、 三輪山』三作の本文校閲を終えた。湖の本は現在、9ポ20行で組んでいるが、小説はポイントを上げ行数もへらしてゆったり組みたい、となると、第一巻は五百頁前後の大冊になるだろう。

これからが、本番になり、しかしせわしく進めて憾みを遺してはつまらない。装幀・造本・製作。四半世紀の余を付き合ってきた印刷所の有能で親切な担当者と膝つき合わせ慎重に相談を重ねたい。

第二巻には、『清経入水、 風の奏で、 初恋=雲居寺跡』そして今書きかけの新作小説が加わればいいのだが、新作の脱稿、第二稿には今しばし贅沢に時間を掛けてみたい。「能の平家物語」を加えてはどうかとも思っている。校閲をすすめて入稿原稿を用意しておく手は抜けない。自作の小説をゆっくり時間をかけて読み直し瑕瑾を繕う仕事、いつかしたい、しなくてはと思ってきた。そのいつかが来ているのだなと思う。

想いや願いの先走るのは、だが賢く抑えたい。「一期一巻」ということ。そういうこと。

建日子ががんばって仕事をしていることに、どれだけ元気づけられ助けられているか知れない。

2013 10・29 145

 

 

* やはり久しいお付き合いの歌人恩田英明さんから文庫本歌集『白銀乞食』を戴いた。第1歌集文庫とある。歌人の第1歌集を寄せ集める企画本なのだろう。恩田さん三三歳の初版だという。宮柊二さん、玉城徹さんに師事されてきた。宮さんも玉城さんも亡くなった。わたしにもお付き合い懐かしい名前である。

思えば、わたしは文壇をさらっと我から降りて「騒壇余人」を名乗って三十年近くを好き勝手に「文学」してきた、これた幸い人であるが、それの曲がりなりにも出来た大きな支えの一つは、数えきれぬほど各界広範囲な達人・大人方との「お付き合い」が有ればこそで。しかもその殆どの方と一度もお目に掛かっていない。つまり、お互いの「仕事」が繋いでくれている久しいご縁ばかりであった。わたしから差し出せるものは、ただもう刊行本の作や文章、発表紙誌の仕事、湖の本、講演・対談等々を介し通してだけの交流・交歓・昵懇であった。徹底して「淡交」であり、淡交ゆえに敬愛の実味が持続していると思っている。

2013 10・30 145

 

 

* 老境を感じながら家に病む人がいて手が掛かればどんなにシンドイか、わたしが入退院を繰り返し通院を余儀なくされていたときの妻の苦痛を察しれば、よくよくよく分かる。どうかその上に怪我をしないで、事故に遭わないで、健康をわるく損ねないでと祈るばかり。叱咤激励も鼓舞もむしろ負担になる。そう、休暇でいい。とはいえ、やむにやまれず、したいことが衝き上げてくるそれを少し少し楽しむようにすること。

わたしは、今、 ①創作 ②私語の刻 ③自作の校閲・選集への用意 ④湖の本刊行の全方位作業 ⑤最低五冊の交響する読書  の五項目を立て、日々励行している。それが出来るほど回復しているのが有り難く、それが出来るほど妻に幸い助けられている。わたしの方から何を助けているかと思うと申し訳ないが。本は、たいがい十册以上楽しんでいる。眼のためにこれを抑えるべしとは思いつつ、ついいろんな本の世界他界に遊びたくなる。

鳶は、いま、そんな風に頑張らないことがむしろ薬であり必要であるのだろう。ただ「立ち向かう」気概だけは大切に。泣き言もよくベソをかくのも少しも構うことはない。

2013 10・30 145

 

 

* なんのかんのといううちに湖の本118は快調に責了へ近づいて行く。発送用意をうまく連動させないと。

「選集」第一巻の原稿入稿はもういつでも出来る、が、事の肇めの第一巻だけは簡単じゃない。あとあとまでもよく考慮して、造本・装幀の真剣で慎重な打ち合わせ無しには進めようがない。

2013 11・3 145

 

 

* すばらしい教えやことばで我が身は充満し知解は及んでいると思うのに、何一つとして体得できていない。いつの日か発狂するのではないかと心より懼れる。

2013 11・4 145

 

 

 

 

* なにやかややっているうちに時間がたつ。こんなとき、纏まりを急くとかえって混乱する。「仕事」はするものでもあり、「成る」ように成らせるものでもある。

2013 11・4 145

 

 

* いまもわたしは『拾遺和歌集』からの撰歌を楽しんでおり、『後拾遺和歌集』からの撰歌はすでに数次繰り返して済ませてある。

「拾遺・後拾遺」と並べるといかにも「一連」と見え、そう観たとて差し支えはないけれど、切り離して見立てる足場もある。『後拾遺和歌集』をつづく『金葉・詞花和歌集』とも一連に観れば、更に続いた『千載和歌集』との親縁がひときわ濃いという経緯がわかる。千載集は、じつに後拾遺和歌集以降金葉・詞花集などから洩れた同時代秀歌をとりあげつつ、千載自体の「現代」に及んで編まれた勅撰和歌集であった。

わたしは千載和歌集が好きで、さきにその秀歌集を湖の本110 111『千載和歌集と平安女文化』上下巻に纏めている。

それはそれとして、改めて明かして置くのだが、このわたしが、千載集や後拾遺集ないし拾遺和歌集から「秀歌」をわたしなりに自選の際に、何らか基準があるのかということ、むろん、在る。それを今一度ハッキリさせておく。

わたしは、当時盛況を極めた歌合の場などでの、当代きっての批評家・判者・また歌合方人たちによる優劣の判詞や評判や批評にまったく拘泥していない、それが「私撰の不動の基準」である。

わたしは文学史的に当時当時の歌風や世評や毀誉褒貶になど拘泥する義理がない。まったく無い。あくまで昭和平成の一歌人として、一藝術家として、その足場と鑑賞・批評、ないしは単純に好悪に即して、徹して「好きな」「佳いと思う」和歌を撰していて、それ以外の意図も目当ても無い。その当時当時にに、公任が、経信が、俊頼が、基俊が、ないしは俊恵が、俊成が、定家らが秀歌を選んでいた批評には一切拘泥していない。歌風変遷の研究などしているのではない、わたしは。それは学者・研究者の仕事であり本来であろうが、わたしはそんな本文に拘束されていない、一人の創作者・文藝批評家でありこよない愛読者である。昔昔の勅撰和歌集から、現代を生きる詩人・作家の一人として、「これらがわたしの好きな佳い歌だ」と思う作を存分に自在に遠慮無く抜き出している。文学史家の領分を素人のわたしが踏み荒らしに出ているのでは、決して、ない。百人一首のどの歌が好きで「おはこ」にするかは愛読者の全くの自由である、そういう自由を謳歌しながら、わたしなりの「読み」と「美感」と「感銘」とを「自己表現」として「創りだして」いるのだ、古典を愛する現代藝術家として当然至極のそれもまた時代に応える「創作行為」なのである。

2013 11・5 145

 

 

* 創作のためにも、今まさに探索の必要な調べ仕事が何箇条もあり、関連の参考書がみな分厚く大きく重くて、二階の機械部屋が沈みそう。わたしは今この部屋の真ん中で、四方を、機械や本棚やソフアの上の本の山に取り囲まれ、廻転する倚子一つ分の広さだけに身を置いている。こういう生活を、あるいは昔から望んできたような気がするが、部屋を出ると窓そいの廊下も書類で塞がれ、蟹歩きして階段へ行く。階段のどの段も半分は本が積んである。どこに何と、比較的よく記憶しているが、探さねばならなくなると往生する。

2013 11・5 145

 

 

* 「選集」の刊行は、「湖(うみ)の本版元」の仕事に徹したく、発行者・秦建日子 装幀等・秦迪子 作者・秦恒平の家族が一致協力の仕事としたい。不幸な行きがかりはあったが、この際何かしらの事務と「秦朝日子」の旧名とで町田市に住む娘も参加してくれるなら嬉しいが。

さらにもし「読者・友人」として協賛がえられれば、「スペシャル・サンクス」でお名前を本に遺すことも、一案として考慮している。すべては考慮中であるが。

2013 11・7 145

 

 

* 選集第二巻の巻頭と予定している太宰治賞受賞作『清経入水』は断乎とした添削のおかげで冗長を脱し簡潔な短篇ないし中編小説に成っており、校閲はあっというまに済むだろうと思っていた。ただ読んでいるだけなのに、それが、そう早く早くは読めない。文章表現のせいでも物語のせいでもない、ただもう、書いた昔の記憶とも情調ともつかぬものが押し寄せ押し寄せ胸がつまって前へ進まない。ほんとに自分がこれをこんなふうに書いたのかと思うのだ。『みごもりの湖』でも『秘色』でも『三輪山』でもそうだったが、書きたくて堪らず読みたくて堪らぬ作を自分はもう何十年も昔に書いてしまってたんだ、というような、いいような拍子抜けのようなヘンな気持ち。

2013 11・8 145

 

 

* あいかわらず軽々に「こころの時代」という看板がハバを利かせているが、今ほど謂わば「心ない時代」はないという見極めからモノを言うてほしいと願う。

 

* 機械を介して「つながる心」などと浮かれているが、そこには体温もなく言葉や触れあうものの温みも欠け落ちており、ただもう「つながる幻想」をむなしく頼んでいるだけに終わることの多いのを知っていたい。心知った同士が余儀なく遠方に隔てられてあるときの音声や言葉で伝え合う携帯電話や、文字と記号とで想いを伝え合える恩恵は大きい、しかし、顔を見たければ見られ、肉声で語り合いたければ語り合える同士の、むしろそれらを避けて交わし合う電子文字や記号での関わりを、ほんとうに「つながる心」と呼べるのだろうか、呼べなければこそ、繋がっていなければこそ、それに端を発した無残な殺人や傷害も起きている。

「見えない世界を信じて繋がりあえる」のは、神と人との関わりだけで、人と人とは息づかいや互いの温みを介して触れあわねば、繋がりきれない。ないしは、すぐれた知性と直観とによる「世界」理解が大切ということ。

機械を介してわたしの説く「真の身内」などほ得られるものでない。せいぜい「世間」「他人」の存在を仮象として知るにとどまり、その先は「ふれあう」ことでのみ「つながれ」る。

2013 11・9 145

 

 

* こういう若い友に恵まれ、思わず「嬉しく息伸びる」心地がする。

「百五十年の隔たりなど、さほど長くはないのかも知れません。」という感想にも我が意を得た心地がする。わたしはもともと時と空とが大きな風船のなかで溶け合っているという時空観の持ち主で、であればこそどんな昔びととでも「同時代」感覚のお付き合いが出来ると思ってきた。時空を大きく一と呼吸したような小説をだから書いてきたし書けたのだと思っている。

札幌はもう初雪ですか。日一日と、冷え冷えしてきましたね。

2013 11・9 145

 

 

* 府中の杉本利男さんから『畳屋 多々見一路--越前日野川残照』と題した新刊を戴いた。「ご笑覧」あれと。本の帯に、「日本の文化が大きく転換していく時代を背景に、畳刺しに命を懸けた三代にわたる畳職人の変遷を描く」作と紹介されている。今夜から「交響する読書」20册に加えます。一作だけを一気に読むという読書をもう久しい昔から捨てて、毎日毎晩多くを少しずつ読み進む。けっして混乱もせず作の感銘があやまって伝わることはありません。いろんな作や作品に交響的に揉まれることでひたすら読み進むだけで批評も生きてくる。はげしく比較されるから。

 

* 昨夜、とうどうゲーテの『イタリア紀行』全三巻を読み終えた。昨年二月十五日、癌に冒された胃全摘手術を受けた病室へ持ち込み、読みたかった他の何作もと併行して読み始めたのだから、一年九ヶ月も掛けたことになるが、読書の間延びをなんら意味しない、このゲーテの精神の偉大な活力や天才を汲み取るのに、必然必要とした歳月であり、泡を食ってただもう字面を追うだけならもっともっと早く最後の頁に駆け込んだろうが、そんな読み方ではまったく意味をなさない。優れた作品に立ち向かうにはどうしても欠かせない行儀というものが有る。二年近くも驚いたり感嘆したり唖然としたり唸ったり手を拍ったりしつづけた『イタリア紀行』を、いま初めて感謝とともに曲がりなりに読み得たのだとわたしは喜んでいる。私のいわゆる「交響する読書」とはそういう読書である。

ギリシアの神話、ブッダのことば、荘子の内外雑三篇、ミルトン、スコット、ヒルテイ、ツルゲーネフ、ドブロリューホフ、ジムメル、レマルク、拾遺和歌集、後拾遺和歌集、無名抄、古今著聞集、十訓抄、平家物語、馬琴、田能村竹田、幸田露伴、高田衛、上野千鶴子、小谷野敦、そして何人もの知友の歌集。

「読む」という営為はただ受容的な慰楽でなく、自身の「創る」嬉しさに繋がる。そうでなければわたしは「読まない」だろう。

2013 11・11 145

 

 

* 十八世紀ドイツの神学者エッティンゲルが、「体ということが、すべてのものの終りである」と言っていて、心より体をいずれかといえばより慥かとみるようなわたしには立ち止まらずにおれないのだが、エッティンゲルの謂うままではわかりよい理念ではない。

ヒルテイはこの「理念」という働きについてよほど分かりよく大事な点を語っている。

「精神的なものも、個性的に具体化されなければならない。この意味の具体性は理念の一つの形成であり、進歩であって、このように形成されて初めて理念は十分な力と成熟に達する。」「現存するどんな理念もそれぞれ、その理念を表わすにふさわしい人間を見出し、それを生み出すまでは、休(や)むことがない。」「彼らに具現しているその理念が、まず大勢の人びとの頭や心におぼろげな姿で宿る時代がやってくるとき、そのような理念の具現者がその時代に対して強大な支配力をもつことにもなる」と。

近代にかぎっても、ダーウィン、マルクス、ニーチエらの理念は時代を根底から動かしたが、もっと小さな個々人にもこうした理念形成と動力化の可能性がある。わたしの「身内観」による「島」の思想なども、「抱き柱は要らない」という理念なども、すこしずつ浸透しいつかより人間的な共感のちからをもつのではとわたしは観じている。

2013 11・12 145

 

 

* 十数年前にわたしは此の日録に、、神様か誰かがわたしの服に「黒いピン」を刺したという夢の話を書いていた。ピンが立っていると旺盛にはたらけて、しかし必ずしも愉快でない。ピンを抜くとなにもかもゆったり落ち着いている、と。

昨日『ブッダのことば』第四「八つの詩句の章」の一五「武器を執ること」へ読み進んでいきなりこういうブッダの言葉に出逢った。

 

☆ 『ブッダのことば』第四「八つの詩句の章」の一五「武器を執ること」

九三五  殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。わたくしがぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を述べよう。

九三六  水の少いところにいる魚のように、人々が慄えているのを見て、また人々が相互に抗争しているのを見て、わたくしに恐怖が走った。

九三七  世界はどこも堅実ではない。どの方角でも動揺している。わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。

九三八  (生きとし生けるものは)終極においては違逆に会うのを見て、わたくしは不快になった。またわたくしはその(生けるものどもの)心の中に見がたき煩悩の矢が潜んでいるのを見た。

九三九  この(煩悩の)矢に貫かれた者は、あらゆる方角をかけめぐる。この矢をぬいたならば、(あちこち)を駈けめぐることもなく、沈むこともない。

 

* わたしが夢に見、以来意識し続けている「黒いピン」とは、ここに謂われてある「煩悩の矢」に他なるまい。

この節で謂われている「武器」とは、この時代「杖=暴力」を意味した。そして暴力からの「厭離」が語られている。「堅実でない」とは恒久的な本質がどこにも無いのである。そしてブッダは言う、「世間における諸々の束縛の絆にほだされてはならない。 自己の安らぎを学べ」と以下に具体的な教えが語りつがれる。

2013 11・13 145

 

 

* 小松から有り難いお手紙と「書」を頂戴した。一目見て、すぐさま、嘆賞し頂戴した。心より御礼申しあげます。

 

* 少しも焦らず、着々と用意をすすめ、まさしく「一期一巻」の覚悟で心ゆく出版を期したい。

2013 11・13 145

 

 

* 西欧の近代開幕を告げたのは「自我の確立」を明確にしたデカルトの、「吾惟う 故に吾在り cogito ergo sum 」という高らかな声明であったが、『ブッタのことば』は、古代インドにおいては、「<われは考えて、有る>という、<迷わせる不当な思惟>の根本をすべて制止せよ」と教えている。自分は「考えるものとして在る」「考えるから在る」というのは、「内に存する妄執」「分裂し対立した自我」の業であって、制し滅されねばならぬとしていた。

二千何百年の落差に於ける、一方は太古インドの、一方は西欧近代の声明であって、一概な比較はしにくい、とはいえ、必ずしもまったく触れあわないかどうか。わたしは、今日の西欧化された現代精神の混迷に、東洋から突きつけて精神の安定を願おうとする思想的対決があるとみて、はたしてデカルトの決到か、古代仏教の深い危惧と洞察か、大いに現代は誠実に迷い抜いて抜け出さねばならないのでは。苦痛をともなうそんな気がしているのです。ブッダは見抜いている、「世界はどこも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している」と。

日本人の平安をねがう精神は、原発の無防備な無謀に揺さぶられ、悪夢の治安維持法に何層倍も輪を掛けた復活、特定秘密保護法の強引無比な成立の前に萎縮しているではないか。万民の奴隷化時代に、何を思惟するゆえに「吾在り」と胸を張れるどんな万民の自我が自由の歌を立派に歌えているというのか。目に見えて万民を括って管理し飼育するための「鎖と毒」とが、日本列島に瀰漫している。

もはや個人独り独りの単位で哲学などしていても力にならない。たしかにヒルテイの言うように、「人間のあらゆる性質のなかで、<最良のものは、誠実>である」だろう。「この性質は、ほかのどんな性質の不足をも補うことができるが、この性質が欠けているとき、それをほかのもので補うわけにはいかない」のも全くその通りだ。「ところが残念ながら、この誠実という性質は人間にはむしろまれで、かえって動物の方にしばしば見られる。」口惜しくも恥ずかしながら、これまたまことに耳の痛い正当な指摘では無かろうか。自分自身をまっさきに槍玉に挙げておいて、さて十人の人が輪になったときそこに「最良の誠実」が認められるたった一人でも居るだろうか、久しい見聞と体験に徴して残念ながら極めて極めてこの世間に「誠実な人」は希有と感じられる。

しかも、そんな中でも万民への奉仕を職務とするはずの宰相や知事や代議士や官僚たちの人間たる誠実こそ、最もこの世のために必要なのに、権力を握った、それも強い高い権力を私して握ってしまった連中ほど、「誠実」になど鼻もひっかけず紙屑籠に蹴込んでしまっている。動物以下である。おそらくは彼らこそ、「われ思う(欲する)、ゆえにわれ(権力)在り」と胸を張り、ただもう彼らの「我私=われわたくし」のために万民を抑えて支配監理し、それが即ち「政治」だと考えているのだ。

こんな世界では、個々人の誠実でいったい何が仕返せるだろうか。「万民」の「万」の字義にめざめて、つとめて誠実に誠実に万民は結束しないと、いつか殲滅されてしまう。

 

* わたしは「湖の本」118『歴史・人・日常』の本文巻末に、こういう一頁を付け加えている。

 

* 米沢藩主上杉鷹山 嗣子へ三箇条の教訓

 

一 国家( 日本) は先祖より子孫へ伝へ候国家( 日本) にして、( 時の為政者が) 我私(われわたくし)すべき物にはこれ無く候

 

一 人民( 日本人) は国家( 日本国) に属したる人民( 日本人) にして、( 時の為政者が) 我私すべき物にはこれ無く候

 

一 国家人民( 日本国・日本人) の為に( 良かれと) 立てたる君( 為政者・一総理) にて、君( 為政者・一総理) の為に( 利便好かれと) 立てたる国家人民( 日本国・日本人) には、これ無く候

 

(括弧内は、昨今安倍「違憲」内閣の我私政治を嘆いて、秦が補足。)

 

* 迫る、国民の最大不幸

2013 11・15 145

 

 

* 誠実な人などめったにいない、誠実な動物よりも少ないとヒルテイに言われて、気が重い。動物のほうがなまじな人間より誠実で感謝の気持ちも人間より表現できるという、後段はともかく、前段は、謂われている動物がつまりは家畜のことであるなら、またすこし話の方向がずれてくる。

日増しにわれわれ権力と無縁の人間が、権力の前に家畜のように飼い慣らされつつ、権力前での誠実・忠実度がはかられるかと思うと堪らない侮辱を覚える。

毎日の夫婦の対話の中で、時の政治家や企業家らの不誠実を嘆く割合が増しに増して行く。それとともに、自身の誠実の下落もまた言い逃れできずに、苦々しい思いに襲われる。そしてそんなとき、もうすぐ死んで行けることを幸いかのように実感しかねないのも、悲しい情けない、しかし偽り無いそれが安堵感のように思われる。ときに幸せとさえ思われて先の永い若い人たちの明日、明後日を傷ましいとさえ感じてしまう。

 

* わたしの小説は、ことに時空を翔び越えながらの歴史x現代小説では、フリガナを省くことが出来ない。ことに文学を音楽として創作している身には、同じ一字の漢字でも「どう読んで欲しいか」が懸命の要所となる。今回ていねいに読み返しながら痛感した。原稿をファイルで入稿するとき、ルビを振っていては手間が堪らず、( )内に後付していては原稿の分量が読めなくなる。で、思い切って縦組み原稿をプリントし、それにルビを振っておいて、製版のさいゲラにルビ付きで初校を出してもらうことにした。要再校ゲラに真っ赤にルビが入るより、初校で入れておいてもらう方が再校、三校の精度があがるから。

で、いま『みごもりの湖』『秘色』『三輪山』三作を、縦組みの原稿プリントに作ってみた。もう一度全編を読みながら詳細にルビを振るのはたいへんな労作ではあるが、原稿としての万全を大事にしたい。

少しずつ少しずつ、手をあけずに、『選集』作業を前進させたい。手を休めるのはいいが無意味に休めたら、往々成ることも成らず事は流れてしまい易い。

 

* で、気重に感じていた三作の縦組みプリントをあっさり終えた。プリントで、文字10.5級 40字 40行 で。220 頁有る。組み版はこれを按配して、行数や一行字数を変更し、まえづけ、写真など、目次、本扉や中扉やあとづけを添えて、ほぼ目論見のまま多くてもA5 判で500頁内に納まる。大判の函装、どっしりした第一巻になる。ごく少数の限定本で行く。

 

* また「かぐやひめ」のマンガか劇画か映画が話題らしい、それも「かぐやひめ」が何故この世界へ放逐れてきたのか月世界で犯していた罪をかたるのだとか。彼女が「罪」をえて竹取の翁・媼のもとへきたことは竹取物語にも書かれてあるが、どんな罪とは分からない。

1995年というと、18年もむかしになる、わたしは次のような短い短い小説を書いて置いた。面白半分に、ちょっと此処へ書き写しておく。湖の本47『なよたけのかぐやひめ』にも収録してある。このラジオドラマに類する上の作は、今福将雄が「翁」 大塚道子が「媼」 地の文のナレーターは鈴木瑞穂という配役で、朗唱・朗読用の台本としてラボ教育センターのために書き下ろした。今でも売れているらしい。だが、下記は、いわば私の謂う「掌説」です。

 

☆ 遠い遠いあなた  秦恒平・作

 

逢ったことのないあなたが、どこにいたのか気がついたとき、わたしは、飛ぶ車をもたない自分にも気がつきました。なんと遠い…。あんまりにも、遠い遠い、あなた。逢いたくて、逢いたくて。銀河鉄道の切符を買おうとしたのですが、あなたの所へは停車しないそうで、がっかりしました。

あれから、もう千年経っているんですね。

昼過ぎての雨が夕暮れてやみ、宵の独り酒に、心はしおれていました。下駄をつっかけ、わびしい散歩に、近くの大竹藪をくぐるようにして表通りへ、いま抜けようという時でした。東の空たかくに、白濁して歪んだ月がふかい霞の奥に、とろりと沈んで見えたのです。月が泣いている…。そう思いました。そして、はっとした。泣いていたのは、かぐやひめ、あなたでした。天の使いの飛ぶ車で、月の世界へ羽衣を着て去ったあなた、あなただ…と分かった。

わたしは、あなたを、血の涙で泣いて見送った竹取の翁と姥との血縁を、地上に千年伝えて、いましも絶え行く、ただ一人の子孫です。もうもう、だれも、いない。妻も、また、子も、ない。

いま虚空に光るのは、三日の月。あぁ…待っていて、かぐやひめ。今宵わたしは高い塔の上に立っています、手に縄をもって。この縄を飛ばし、遥かあなたの月に絡めてみせましょう。力いっぱい塔を蹴り、広い広い中空に私は浮かんで、縄を伝ってあなたに、今こそあなたに、逢いに行きます。縄を伝い、あなたもわたしを迎えに来る。ふたりで抱き合って、一筋の縄に結ばれ、あぁ堅く結ばれて、天と地の間を、大きく大きく揺れましょう、かぐやひめ.:。

 

また男がひとり死んだ。千年のあいだに、数え切れない男がわたくしの名を呼んで虚空に身を投げ、大地の餌食となって落ちた。やめて…。わたくしは地球の男に来てもらいたくない。だれも知らないのだ、わたくしが月の世界に帰ると、もうその瞬間から風車のまわるより早く老いて、見るかげなく罪され、牢に繋がれてあることを。「かぐやひめ」という名が、どんなに無残な嘲笑の的となって牢の外に掲げられてあるかを。

牢には窓がひとつ、はるかな青い地球だけが見える。わたくしが月を放逐(おわ)れたのは、月の男を数かぎりなく誘惑して飽きなかったからだ。地球におろされても、わたくしの病気はなおらなかった。何人もが命をおとし、何人もが恥じしめられ、わたくしは傲慢にかがやいて生きた。人の愛を貪り、しかも酬いなかった。天子をさえ翻弄した。竹取りの夫婦の得た富も、地位も、むなしく壊( く)えて残らぬと、わたくしは、みな知っていたのだ。あまり気の毒さに、夫婦のためにもう一人の子の生まれ来るだけを、わたくしは、わたくしを迎えにきた月の典獄に懇願して地球をあとにした。

だがその子孫のだれもかも、男と生まれた男のだれもかもが、なぜか、わたくしへの恋慕を天上へ愬えつづけて、そして命を落としつづけた。一人死ぬるごとにわたくしの罪は加わり、老いのおいめは重くのしかかって死ぬることは許されない。あぁ、ばかな、あなた…およしなさい、この月へ、縄を飛ばして上って来るなんて。迎えになど行けないのだから。あぁ…、でも、ほんとうに来てくれれば、かぐやひめは救われる。来て。来て…。                 (RIHGA ROYAL NEWS)1995 年6 月号

 

* こういう短い(原稿用紙4 枚前後)掌説をわたしは、数十年のうちに六、七十作も書きおいてきた。作家としての私の「索引」ほどの役をしてくれているかも知れない。今度の選集で、そういう「短篇小説選集」を出せるまでわたしの命がもつかどうか、分からない。

2013 11・16 145

 

 

* 松原陽一さんの『千載集前後』は、「伝義家作『勿来関路落花詠」がかくべつ興深く、引き続いて今は「福原遷都述懐歌考」を、さらに一段と身近に感じながら熟読している。福原遷都はさきの大河ドラマ「平清盛」でもハイライトの一つだったし、書きかかりの私の小説にも縁が深くなる。研究者の追跡には、わたしたちのそれと異なり、同時代、異次元でのたくさんな文献が絡んでいる。わたしたちの所懐にはそういう高次・多彩な原資料からの探索は入れようにも手も届かないのが常であり、想像力を用いることになる。研究者はこの想像力にあからさま頼むことを原則禁じられている。「学恩」ということをわたしは心よりいつも感謝している文士の一人、だから学恩にあずかれそうな研究書の面白さには、にじり寄らずにおれない。そして、研究者とは異なる道筋から詮議し創作して行く。わたしの作家生涯の中で、幾つか忘れがたい喜びがあるなかで、たとえば後撰和歌集の閨秀「大輔」の身元を小説家として追いに追いつめて書いたとき、京都から角田文衛先生がわざわざ電話を下さって、よく追いかけましたねと褒めてきてくださったこと。小説家の想像に必ずしも甘い方でなかっただけに、嬉しかったのを昨日のように覚えている。

そういえば、いまふっと別ごとを思いだした。さきにお名前を出した中野三敏さん。古典鼎談のあとで、「とっておきの」と持参の品を披露されたのが、それは精微な春画巻だったこと。そんなこともあったなあ。

2013 11・19 145

 

 

* 有るだろう、いずれ出るだろうと心待ちに待っていたのが、『眠られぬ夜のために』を書いた敬虔な基督者ヒルテイによる、他宗教、ことに仏教への感想ないし批判の言葉。

 

☆ ヒルテイによる 『眠られぬ夜のために』 第二部 一月二十八日

あまり活動的でなく、思弁に溺れがちの、学識ある、ごく少数の人たちだけが、仏教の方がキリスト教よりもまさっていると考えている。それというのも、彼らがキリスト教を誤解しているからだ。

ところで、この仏教は、キリスト教よりもなお一層不運な道を辿ってきた。すなわち、キリスト教の福音が理屈っぽいギリシァの神学者によってゆがめられた以上に、仏教はラマ教によって、つまり僧侶の修法によってゆがめられてきた。

しかも仏教は、その最盛の復興期においてさえ、キリスト教の偉大さ、宏量さ、その実際的適用性には、いずれにしても遠く及ばなかった。仏教に帰依した諸民族の中から、最も条件にめぐまれた場合でさえ、ブルン・バガドのような遁世的隠者をわずかに育てあげたにすぎない。

仏教は、最高の発達をとげた時にも、単に一つの思弁であり、たいていは半ば夢みるような瞑想にすぎず、しかもそういう形式では、つねにごくわずかな人たちしか親しみえない宗教であった。

このような宗教へ、われわれはさらにすぐれた、さらに真実な宗教を持ちながら、あえて改宗すべき理由を全く見出しえない。ところが、現代の「教養ある」階級の大多数の者は、あまりに怠惰なために、このよりすぐれた宗教を自分で綿密に究めようとしないか、あるいはただ新奇なもの、異常なものを追うせっかちな衝動に捕えられているのである。しかもこの衝動は、結局のところ、虚栄心という根本悪から由来しているのである。

つまり、安価に手っ取りばやいやり方で他人にぬきんでること、なにか「自分だけに特別なもの」を身につけること、これこそが現代の教養が目新しい宗教などをもてあそぶ主要なげんいんなのである。

いまにこのような教養をもつ広い範囲の人たちは、破産した自然科学的な唯物論のあとを追う破目になるであろう。

(そしてヒルテイは仏教等への迷いからの覚醒のためという積もりらしく、マタイによる福音書二四の一一・一二・一四を熟読せよと示唆している。該当するその箇所を挙げておく。即ち、)

また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。(しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。)そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後がくるのである。

 

* 繰り返し丁寧にこのヒルテイの言説を読み返してみて、失礼ながら、頬笑んでしまう。ヒルテイにして、かかるわが田に水を引く弁を臆面無く披露する。たぶんこれが、かなり得意なキリスト教贔屓または荷担が有るだろうから、彼のこの書物での十二分敬意に値する言説のなかで、キリスト教に字義どおり拘泥して「吾が仏尊し」をやってある箇所は、そのような偏頗のおそれ濃い口吻から身を避け避け、ただもう一般に言いうること、さすがに深い人間的洞察と読めるところをだけ、敬意をこめて読んできた。

ヒルテイの明白な誤謬は、「宗教」というもののもつ高次の自然性、独自性を、ひとからげに無視して「基督教だけ」を独善視してやまない、(事、宗教なるものに関するかぎりでの)言説の幼稚さにある。仏教に対しても、よく探索し認識した上で批判し非難しているとはとても想えず、偏狭で幼稚な弁舌に酩酊のていに読み取れる。

人の、底知れぬ生や死への不安、その救済といった視点からすれば、多くの民族がその地方分布に応じ、独自の宗教的恩恵ないし指導がありうるし、事実いろいろに行われてきた。仏教もまた然り、深淵の別派とも関連しつつ、顕著に歴史的に独自性を構築し洗練してきた。そしてまた拡散した。ことにインド仏教に関しては、はやくに衰微と辺地化を余儀なくされて小乗仏教として固まり、しかしながらチベットや中国やことに日本で独自に変貌し変容し洗練された大乗仏教の本質や差異には極めて独自な宗教力があり、ヒルテイにはそれらが殆ど見えていないようである。

たとえば、禅。たとえば、念仏。

ヒルテイは小乗・大乗の認識すら曖昧なままに異端視に励み、只もう吾が神とキリスト尊しと差別に励んでくる、だか゜じつは、そこにこそキリスト教の冒してきた歴史的な傲慢と過誤と破綻とがあったのではないか。

わたしは、自分を仏教徒とも反基督者とも思っていない。そういうところに身を固定し、あたかも抱き柱に抱きつくような宗教を望んでいないのである。だから自由に高邁に自律したバグワン・シュリ・ラジニーシに「聴く」のである。彼は偏頗な主張を柱にして抱きつかせたがるような迷妄を全く持っていない。

またブッダは、あくまでも人間であり人間としての安心立命を教えて、「神」をとほうもない上位概念にはしていない。

 

* ゆっくり読み返せば返すほど、上の一文に関してのみ謂うなら、物足りないだけでなく、ヒルテイは間違っていると言いきりたい。

2013 11・22 145

 

 

☆ ヒルテイ『眠られぬ夜のために』第一部 三月四日

完全に健康でなければ、立派な仕事はできない、だからなによりもまず、健康でなければならぬ、という見解を信じ込んではいけない。これは今日、多くの良い人びとの迷信となっている。 現代、肉体のことをあまりにも気にしすぎる。

病弱はすこしも善い事を行う妨げとはならない。これまで偉大な仕事をなしとげた多くが、むしろ病弱者であった。

それに、完全な健康をもっていると、必ずとはいわないが、精神的感受性の繊細を欠くようになることが実際少なくない。

あなたが健康に恵まれているなら、神に感謝しなさい。

しかし健康でなくても、そのことにできるだけ心を労せず、また妨げられないようにしなさい。

たんに「健康を守るためにのみ生きる」という考え方は、知性ある人にふさわしくないものだと思うがよい。

 

* 心底から賛同する。たしかに健康でいられることは「感謝」に値する。しかしたまたま健康でない者の、始終それを念頭に置きすぎること、それにより生きて在る大事な「時」を虚しくしてしまうことは、なるべくは避けたい。

 

* わたしは自分が癌に冒されないかと永くながく懼れていた。思い切って我から人間ドックにとびこんで、一発で胃癌と診断されたとき、ああ、とうとう…と思った、だが、ふしぎなほどわたしは深刻には動じなかった。身は、医学に無心にゆだねてしまおう、そのかわり可能な限り「仕事」をつづけ「楽しみ」もつづけようと、すぐさまその姿勢を自身に律した。いろんな泣き言は言うだろうが、言うてよい、だが病気とは「立ち向かう」まで。立ち向かうとは、気力で生き続けること。そう思い、そう二年近くをわたしは生きた。まだこの先、海とも山とも分からぬ道を辿っているが、その間に、湖の本は『千載和歌集と平安女文化』上下二巻、山折哲雄さんとの対談『元気に老い、自然に死ぬ』、『センスdeポエム』、『ペンと政治』上中下三巻、『作・作品・批評 濯鱗清流』の八巻を出版し、この師走上旬のうちに118『歴史・人・日常 流雲吐月』 も送り出す。A5判各册200頁の九巻。それとて湖の本はわたしの「仕事」の一部であり、ホームページの運営も欠かさず、文藝連鎖としての「闇に言い置く 私語の刻」も厖大量を欠かさず書き継いできた。むろん、創作も。そして体力を賭して歌舞伎を、余の演劇も楽しみつづけた。読書量は生涯での盛時に匹敵していた。

病気はつらかった。手術後に更に二度入院した。抗癌剤の副作用は想像を絶してきつかった。眼も歯も、むちゃくちゃになった。だが、だからこそ「立ち向かえた」と今も思っている。これからも、と、思っている。

 

* 朝から晩までサプリメントや女性の化粧品の広告がテレビ画面を席捲している。「健康病」「美肌病」という病気が21世紀を蔽っている。「金銭病」も「貪食病」もある。「これは今日、多くの良い人びとの迷信となっている。 現代、肉体(=善く生きるという実を伴わない欲望)のことをあまりにも気にしすぎる」と、ヒルテイは百年以上も昔に警告していた。どう生きるか、生きたいかの問題・仕事は抛たれているのだ。

 

* 二言目にはキリスト教の「神」の話になるのはヒルテイにとってはじつに当然必然なので、わたしはとやかくは言わず、その辺は適宜に按配して読んでいる。わたしは「神」のごときモノを無視も否認もしてはいない、それへの「信」を以て自身の生を預けてしまわないだけである。だからギシア神話も古事記の神話も中国やインドの神話もそれなりに興味や関心をもって読んできたしもっと読みたい。ミルトンの『失楽園』を予期した以上に面白く耽読していささかも閉口しないでいるのも、この偉大な詩人なりの「神と人間」とが感銘や納得を与えてくれるからである。

 

* まことわたしの命名した「健康病」の蔓延は苦々しい。サプリメントの氾濫だけではない、病気・病状・服薬情報のほしいままな氾濫に人は溺死しかけながら、日を追って正反対の示唆や情報を追いまくって狂犬のように輪をかいている。

そんな情報宣伝の担い手達に、芸能タレントが夥しく動員されている。

にわかに判定は下さないが、かつて芸能人の曰くにかくも軽薄に一般私民は踊らなかったものだ。いまや先生・指導者かのように芸能タレントが、クスリとつかず化粧品とつかず説法を垂れ流している。

芸能人には本職の藝を望んでいる。なるほど副業に励んでいる彼らはそれも藝の修業と心得ているか知れない、たしかに昔の大道芸や売り立て口上にはその気味があった。

しかし、今日、見ていると彼ら大多数のテレビに駆り出されてやっていることは、ただ大声で馬鹿笑いし、互いに馬鹿拍手して、七転八倒喚いているばかりに見える。五月蠅いだけである。

2013 11・23 145

 

 

* 『ブッダのことば』 読み終えかけている。

釈迦仏教が成立して行く時期の教え・ことばであり、少なくも二千五百年昔のことばである。

没後に、小乗と大乗の分派が生じ、大乗の最も遠くまで波及し変成され洗練されてきたのが、ほかでもない日本の仏教、それも古代末から中世へ時世が遷って行く時期の、禅や法華や念仏等の教えということになる。

その中では、禅の教えや実践が、もっとも「ブッダのことば」に親近していて、天台真言の密教も、放念親鸞等の浄土教も、あきらかにブッダ涅槃後の宏遠な展開の結果と観るよりない。ただし、だから後発の大乗信仰が何かから劣るとか無意味とか歪曲とか観るのは偏狭に過ぎよう、そこには「宗教」そのものの根から抱えた目的意識が関与し機能して、多くの人々の願望や希望と真向かってきた。

それはそれ、として、しかも「ブッダのことば=スッタニパータ」のわたしの胸に響かせるものは、人間どう生きるか、に極まっている。信仰を進め求め功徳を与え救済を与える体の宗教とは表情がちがう。「いかなる所有もなく、執着して取ることのないこと。極めて怖ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのなかにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々の拠るに足る<州=避難所・よりどころ>は、それだ」とブッダは学生の問に答えている。地獄とも極楽とも、言わない。柱に抱きついて難を去れというに等しい信仰をも語らない。南無阿弥陀仏とも南無妙法蓮華経ともいわない。「求著すれば即ち転た遠く、求めざれば還つて目前に在つて、霊音耳に属す」と臨済は言う。「幻化空花、把捉を労せず、得失是非、一時に放却」とも言うている。

2013 11・25 145

 

 

* なんとなく体調がよくない。疲労が重い。国会の無法な立法や、福島・東北での小児癌の表面化や、尖閣諸島辺での日中米の混雑や、猪瀬都知事の不明朗金づく事件など気を憂(ふさ)がせるタネばかり、しかも遁れようがない。人間どう生きるか、といった古くして新しい難題は無くなりはしないし、「いかなる所有もなく、執着して取ることのないこと。極めて怖ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのなかにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々の拠るに足る<州=避難所・よりどころ>は、それだ」とブッダに聴くとき、深く頷いている自分と、上の、「国会の無法な立法や、福島・東北での小児癌の表面化や、尖閣諸島辺での日中米の混雑や、猪瀬都知事の不明朗金づく事件など」も忘れてしまえ、放棄せよ、「求著(ぐちゃく)」するなで済ませられることなのか、わたしは、それに苦しむ。そんな問題に心を労し胸を痛め怒りに眉を焼かれるのは愚劣な執着、無意味な求著なのか。

そうは行くまい、そうではあるまい、それではまともな生きようにはなるまい。そうわたしは思っている、そしてそれが重い重い重い。執着しないことと逃げてしまうこととが等価でなどあるわけがない。

レマルクの『汝の隣人を愛せ』を読んでいて、マリルという避難民のひとりが不幸な同様な仲間達に述懐する、こんな言葉を聴いた、「古代ギリシァ人の間では思想はその人間の名誉であった。後では、(思想は=)幸福となった。さらに後になると、病患となった。それが(ナチスに追いまくられてヨーロッパ中で立つ瀬もないような=)今日では、罪悪となっている。文明の歴史は、文明を創造した人間の苦悩の物語だ」と。なんという悲惨。その悲惨の度は、吾が日本国に於いて、今まさに地獄へまでも深まっている。悪法の権化としかいいようのない「特別秘密保護法」は違憲でかつ狂犬にも似た強権により強引に国会での成立が強行されようとしている。

悪と闘うのは、「迫る、人間の最大不幸」を避けようと闘うのは、人間として棄ててしまわねばならない「執着」「求著」であるのか。

平和憲法という柱に抱きついていればこの最大不幸は避けられるのか、民主主義という柱にただ抱きついていれば人は奴隷にならずに済むのか、南無阿弥陀仏に抱きついて死後の安寧をもとめ、天にましますわれらの神よと抱きついておれば神は人間を救われるのか。神と神とがすでにして争い戦い人間の思想をただの苦難に貶めてしまっている。どうすればいいのか。

早く死に迎えられたいなどと毛筋ほども願いたくはないのに、それしか、もう望みがないかのように人間の堕落と最大不幸とは身に迫っている。

 

* あの優れたバグワンの基本の生き方は、ブッダを慕いイエスを愛し、老子に自身は最も親しいと告白し続けた彼の生き方の基本は、「叛逆」精神を堅持することであった。これは決して決してテロリズムなどを謂う表明ではなく、人間のともすれば陥って免れ得ないで射る「長いモノに巻かれろ」「言うな、聴くな、見るな」の逃げ腰の生きように対する「叛逆」精神であった。その徹底の中で、「いかなる所有もなく、執着して取ることのないこと。極めて怖ろしい激流が到来したときに一面の水浸しのなかにある人々、老衰と死とに圧倒されている人々の拠るに足る<州=避難所・よりどころ>は、それだ」とブッダとおなじ事をバグワンも言うのである。悪の権勢からの退散でも敗北でもない。あらゆる知恵を尽くして悪への「叛逆」精神を盛り立てるのである。

2013 11・26 145

 

 

* オコナーの短篇「国賓」には愕然とした。イギリス軍が捕らえたアイルランド兵を四人処刑した。アイルランド側では報復のため捕らえていた二人の英兵を処刑した。処刑命令の来る寸前まで双方の兵士等は年来の友のように談笑し遊び夢中で対等に平穏に付き合っていた。だが報復は命じられ、命じられたからは実行しなければならない。そして二人の英兵は重殺される。日常のご挨拶でもかわすかのように。

かつて知らぬ小説だった。かつて知らぬ小説の書き方だった。淡々と。ちがうのである。息苦しく。それもちがうのである。朝日はのぼり夕陽はしずむ。そんな感じに書かれてあり、読み苦しくはすこしもない。それでいて実に重い。

 

* 映画好きのわたしが好きな映画として挙げるのは、昨日もふれたバグワンふうに謂えば「叛逆」する作が多い。利害感による反抗とはちがう、容認しがたい悪や悪習への謂わば当然の「叛逆」をわたしは支持してきた。「マトリックス」がそうだ、人間が完全に機械に支配され、奴隷ないし飼料と化している虚偽世界からの脱出と闘争、人間の回復世界へ。その手の映画はSFでもファンタジイでも、でもリアリズム映画でも幾らもある。

テレビ映画「阿部一族」など、強烈に記憶にある。息子秦建日子の芝居では「らん」「タクラマカン」が印象深く、映画「ブレーブハート」の刺戟もつよかった。

こういう精神がおしなべて昨今の日本人に衰弱仕切っている。教師達がダメな以上に学生達が颯爽の叛逆精神を投げ出している。

 

* 『スッタニパータ ブッダのことば』に触れて、もう少し書いておこう。

仏教は言うまでもなく幾変遷して今日に至っている。ブッダが実在していたのは西暦前五から四世紀前葉の頃であり、北方の伝説によって伝わるゴータマ・ブッダ(釈尊)の逝去・涅槃は、西暦前三八三年。ブッダは明らかに明晰な悟りに入っていたが、信頼できるかぎりの彼の言葉からは、仏教という教義・教団を意図した跡が無い。ただ彼を尊敬し思慕した弟子達がいて、彼らは、釈迦の生存中から、釈迦自身も加わっていたろう、たぶんに暗誦の便宜を目的としていただろう、短い詩句・韻文でゴータマ・ブッダの言葉を記録していた。それらの詩句は、詩句なるが故におよそ変改を蒙ること無く、或いは極めて少なく、永く久しく伝えられたのである。散文化されたモノには修訂の手が出やすく、そこから西暦後の「経蔵」化、「律蔵」化、「論蔵」化、即ち「三蔵」行為が結実していった。

わたしが今読んでいる『スッタニパータ』は、そうした仏教幾変遷のなかで、ゴータマ・ブッダ釈尊が生存し教説していた最古・最初期の「ことば」で編まれており、ことに第四「八つの詩句の章」第五「彼岸に至る道の章」は信じうるかぎりで仏の説いていた究極の始原を示していると「学問」の成果により確認されている。

わたしは今、その『第五』を詳細な中村元先生の註ももろとも、読み進んでいる。同時に、現存インドや東南アジアの小乗仏教については思い及ばないのだが、チベットや中国、朝鮮をへて日本にまでたどり着いた大乗仏教や禅のことを、ぼうやりとした知識を介してではあるが想いつづけている。

仏教に帰依したいとか、キリスト教よりいいとかどうとかいう気持ちは全然もっていない。どんな宗教であれわたしは少なくも教団に属した僕として生きたいと想ったことがない。ただただ聴くに足る深い言葉に聴いて、こころよく生きたい、それに尽きている。

 

* 原発爆発以来わたしの生活はいわば関連の情報・報道とともに在った。

いま、新聞が疎ましくニュース番組もうとましい。わたしは、確言したのだ、「迫る、国民の最大不幸!」と。それが日に日に日増しにヨ り疎ましく確実に迫っていて、どう心楽しみ喜べるか。情けない。しかもわたしのからだはまだ殆ど活性を回復していない。

仕方がない。それでも、じっと向き合って行く。壁をにらんで九年待つたくましさが分からぬではないが、凡夫の私には出来ない。

 

* 中村元訳註『ブッダのことば スッタニパータ』を、本文、詳細な註、解説、悉く通読し終えた。このような本に出逢いたかった、久しい渇きのような願いがひとまず満たされた。今後も座右を離れまい。ここへ執するのではない、ここへ戻り戻り、自身に向き合い自身を離れたい。

2013 11・27 145

 

 

* いわゆる「仏教学」なるものを捨ててかからねば、最古・最初の釈迦ゴータマ・ブッダのことば「スッタニパータ」を理解することはできないと中村元先生は言われる。ブッダは、教条・ドグマに対する信仰は捨てよと明言している。最初期の仏教はいわゆる信仰なるものを説いていないのである。信ずべき教義を持たなかった、信ずべき相手の人格ももたなかった。心が静かに澄むという意味の「信」を勧めていた。「奪い去られることなく、動揺することのない境地をこそ了解するように。最初期の仏教のめざすことは、かかる確信をえよと勧めることだった、後世の仏教でいうならやはり禅の境地・境涯へ人間の生きを導いていた。地獄をたとえ執拗に描写してもそれは方便以上ではなかった。

 

* 「悪の力のもとは私たちの恐怖心である」とヒルテイは言っている。「恐れなくなれば、悪はたちまち力が弱くなってしまう」と。「神がしっかり支えてやろうとする人間を、悪は決して征服しえない」とも。(第二部二月一日)

こういう「擁護」の「神」という観念がもちにくいのだ。

 

☆ ヒルテイ『眠られぬ夜のために』より

人に対してもはや愛が持てなくなったり、あるいはペシミストや人間軽蔑者になったことを弁解しようとする人たちは、いつもきまって、彼らが愛したためになめたにがい経験について語る。

かりに、彼らの言う通りであり、実際ほんとうにまじめに人を愛しようと試みたのだと、一応認めよう。でも、それ以来、彼らは人を憎むことによって、以前にましてよい経験をしたであろうか。

しかし彼らはたいてい、本当に愛しようと試みたわけではなかったか、それとも、彼らのいわゆる愛はやはりエゴイズムにすぎなかったかである。(第二部二月二日)

 

愛のとりわけありがたい点は、ただ愛し返されることだけでなく(これは、その愛がいくらか永続きし、また強いものなら、ほとんどつねに起こることだが)、それよりもむしろ、愛することで自分自身が即座に強められ、活気づけられることである。愛は、それがなければあまりにも冷やかなこの世にあたたか味を添えるもので、それだけでもすでに一つの幸福である。さらに愛から生じる一切のよきものを度外視しても。愛はまさに魂のいのちであって、愛をすっかり捨てさる者は、その魂をも失うことになる。これは永遠につぐないがたい損失である。

魂を失った人は生きつづけることができない、現世の生命ばかりか、未来の生命をも失ってしまう。(第二部二月三日)

 

善き思想は決して人間が自分ひとりで作ったものではない。ただ、その思想が人間を通して流れて行くにすぎない。こうして善き思想が形を得て行為や言説や文章となったなら、その際われわれの手柄といえば、その思想に対して心を開き、それに仕える用意を怠らなかったという点にあるだけである。

悪い思想についても、おそらくそうであろうか。

そうだとすれば、それに仕えようとする心構えにこそ、人間の罪があるのだ。(第二部二月四日)

 

* 愛について語る基督者の場合、精神的な愛、友愛的な愛に当然のように傾くか固定化されてくる。性愛は埒外に置かれてあるが、そんなことで今日二十一世紀の愛に生きている人たちは説得されるのだろうか。

善い思想、悪い思想という物言いに含まれる傾きや偏りが気にならないか。

いまレマルクの『汝の隣人を愛せ』に日夜感動の眼をそそいで愛読しているが、「愛」とはここに描かれてある種々相にこそ在る。むしろしいて「神」を介在させるとややこしくぎごちなくなるのではないか、愛そのものが。むずかしい。レマルクを敬愛する。フランク・オコナーの短篇をもわたしは敬愛する。

2013 11・28 145

 

 

* 水道のトッパン印刷へ出向き、「選集」の為の初の打ち合わせをしてきた。デジタル パブリッシング サービスの安達昭俊氏も同席。「みごもりの湖」のルビ打ち原稿を預け、家に帰ってから、電子化原稿を仮入稿した。ひとまずのスタートともいえるが先途はまだ長い。しかし、本の中身の構想は成っているに近く、姿・形ではつまり函のデザイン等の問題が残っているだけとも言える。要するにイージィにはしたくないというに尽きる。小松から、「秦恒平選集」の題字が届くのを楽しみにしています。

美装本ということでは和歌山の三宅さんが「朱心書肆」の名で創って下さった『四度の瀧』が、ベテランのトッパン担当者の曰く、「完璧」の出来だった。そこまでは手が届くまいが、美装よりも「作品」として遺せる本にしておくのである。はかない「人の業」「紙碑」ではあるが、出だしも収めも私家版の作家としてきちんと全うできれば善い。何巻創れるのか、それはわたしの(妻もふくめての)寿命次第であり、有り難いことに建日子がよく頑張ってたすけても呉れるので、秦恒平の贅沢を、最期に味わわせてもらう。

 

* 昨日、散髪しておいた。ぼうぼうの蓬髪が白さを増して凄んでいたのを、なんとか静めてきた。新刊の発送前に散髪したりトッパンまで「仕事」用で出かけたり出来たのは、発送用意の作業を早めに早めに進めてたからで、それに「選集」のための仕事も重なっていた。仕事を集中して早くというのはムリになって行く、それよりも仕事の予定を長めに早めに立ててムダに休まないのがいい。

問題もある。

病気以前には、隅田川の橋を歩いて渡るなどと目論んだりし、一人でよく出かけては何かと食味を楽しんでいた、自然脚を運んで歩きもしていたが、去年から今年へ、杖にすがってのヨロヨロで、外出を楽しむ外出が全然失せた。ペンクラブの懇親会などまったく気が無く、ただもう聖路加病院やかかりつけ医院の受診と、歌舞伎座などの観劇・観能。ほかは、ゼロ。今日「仕事」の打ち合わせにトッパンまで出かけたのが、まったくの久しぶり。

これでは体を脚腰から鍛え直せない。

ひとつには、食欲は戻りつつあるのに、美味い感覚がしっかり戻っていない。辛い甘いの「度の過ぎた」のばかりを美味いと感じているようではいけない。ウイスキーやマオタイやウオツカがしみじみ美味いというのも、アルコールの高い強い度数に刺戟されているだけ。

2013 11・29 145

 

 

* 秋のアだけで冬になったかと、惘れ心地。

季節としての京の「冬」が好きであった。底冷えの盆地であったが、冴え返る寒気の魅力があった。小説のヒロインに名を与える仕事は創作者の喜びでも権利でもまた義務でもあるが、『冬祭り』の「冬子」は、ひとしお忘れがたい。たんに季節のご挨拶であれ、「冬です、お元気ですか」とメールで呼びかけられると、ふと、ときめく。町子、慈子、紀子、直子、菊子、槇子、雪子、彬子、冬子、京子、頼子、敦子等々、みな典型的なむかしののままの「子」らばかり。簡明で気品に富んで想えるのは、やはり「…子」だ。

それにしてもいくらかは羨ましいが、ヨーロッパに「ひとつき」とは。疲れるだろうなあ、大仕事だなと想うばかりで、機動性が五体から抜け落ちている。ほんとうにもう、どなたとも「お目にかかれる機会」など恵まれまいと思ってしまう。気が弱っているのか。逢いたい人は、いつでも、何人でもあるのだけれど。

2013 11・29 145

 

 

* 昨日の「選集」打ち合わせについて、わたし自信の理解の緩さから、或る思い違い・誤解がなければいいがと、夜中、確認のための質問メールを担当氏に宛て出しておいた。

 

* 建日子も当然含めてわたしたちの意図は、この「選集」の、「著者 秦恒平」「発行者 秦建日子」「出版 湖の本版元」であることは動かず、或る他社から出版してもらう気はまったく無い。その点の確認をしっかりしておきたい。極少部数の限定本であるがゆえに何等かの協力をトッパンが他へ委嘱されるのはむろん問題ないことだが、出版権を、また著作権をオンデマンドの会社に委ねる気は全く無い。

それを問い合わせておいた。念のために、ということ。

わたし自身は、この「選集」実現にも、何が何でもといった執着・固執をもっていない。成れば嬉しく、成らないならそれも構わない、また他のことを計画すればよく、それさえも無理は決してしない。

2013 11・30 145

 

 

* 朝刊に、「仏教と悲」と題した定方晟氏(東海大名誉教授)の文章が出ていた。惜しいことに「下」で、「上」ないし有れば「中」の稿を読む手だてを失っているが、一読、簡明も得胸に落ちるものであったので、ここに記録させて戴く。

 

☆ 仏教と悲(下)  定方晟  2 013年( 平成25年) 11月30日( 土曜日) 東京新聞朝刊

不変の法の下での救済  苦への共感で生まれる悲 (紙面大見出し)

先週に続いて、悲が仏教の核心的思想であるゆえんを説明しよう。

慈悲はしばしば愛という言葉に置き換えられて語られるが、仏教では「愛」(タンハー)は「渇愛」とも訳される否定的な概念であり、慈悲はこれとは全く異なる。キリスト教も世俗の愛とキリスト教の愛を区別し、前者をギリシャ語にいう「エロース」(利己的な愛)に当て、後者を「アガペー」(利他的な愛)とした。したがって、仏教の慈悲に相当する言葉はキリスト教にないわけではない。しかし、「悲」という単独の概念となると、はなしは別である。これはキリスト教にはない。

*  *  *

キリスト教と仏教を分かつ最大のポイントは、その中心的存在が、前者の場合、宇宙を創った万能者であるのに対し、後者の場合、宇宙の理法に従う存在にすぎないことである。仏教徒に限らず、インド人は、宇宙を支配する最高原理を非人格的なダルマ(法と訳す)とし、神々もその支配下にあるとする。

したがって、仏は宇宙の理法にしたがう存在であり、宇宙のあり方を変えることはできない。かれにできることは、苦しむひとを見て悲しみ、同情し(compassionate )、いかにしてその苦を除くか、その道をみつけてやることでしかない。

いつの時代でもそうであるが、世界には悲惨な出来事が多い。新聞に1ヵ月も目を通せば、災害、テロ、誘拐などで、いかに多くの無辜の民が涙しているかが分かる。もし仏が万能者であったら、どうしてこのような悲惨な状況を放っておくだろう。もし等しくかれを主と仰ぐ宗教同士が争い合い、あるいはそれぞれの中に分派が生じて血を流しあっていたら、どうして手をこまねいて見ているだろう。

しかし仏は万能者ではない。何でも思うようにできるわけではない。そこに悲が生まれ、同情が生まれる。万能者に悲はない。なぜなら、かれがなすことは「すべてよし」だからである。かれに同情はない。なぜなら、かれは人間とは隔絶した存在だからである。

仏は万能者でないがゆえに、ひとを救おうとするその努力が人々の心を打つ。限られた能力の中で(あるいは、限られた能力にもかかわらず)おこなう精いっぱいの努力の尊さは、仏教の「貧女の一灯」(キリスト教の「やもめの献金」)のエピソードが示すところである。

そのような有限の存在は信仰の対象にならないという考えがあるかもしれないが、信仰によってしか捉えられない万能者より、確信できる有限者のほうがどれくらい頼もしいか分からないという考えもある(信仰とは必然的に疑念を含む行為である)。

仏教は知恵と慈悲の宗教であると先に述べた。大乗仏教でいうと、知恵とは般若の知恵、すなわち空の思想である。そこでこんな疑問が出される。すべてが空であるなら、慈悲の対象になるべき衆生も空であり、慈悲は成り立たないのではないか。これに対する『大智度論』の答えを私か要約すれば、つぎのようである。

*   *   *

そのように危惧するのは、有にあらざれば無、無にあらざれば有という思考法(西洋論理学のいう排中律)に呑みこまれているからである。空は有でも無でもない。このことを知らぬひとが「すべては空」といわれると、「すべては無」といわれたと思い込み、慈悲も無であると考えてしまうのである。

仏や菩薩は、自然のままに生きながら、慈悲にかなった生き方をする。(孔子の「心の欲するところに従ってのりを踰えず」に通じる)。そもそも仏や菩薩は人々を苦悩から救うために思索をはじめ、その結果、その目的を実現しうる真理(空)を見出したのである。かれらが人々に空を説き、同時に慈悲を説くことに何の矛盾もない。

慈悲に三種ある。凡夫や初歩の修行者が通常の人間的感情にもとづいて抱く慈悲(衆生縁の慈悲)、進歩した修行者が仏教の教義や空の思想にもとづいて抱く慈悲(法縁の慈悲)、仏がそうした一切の想念を超えて抱く慈悲(無縁の慈悲)である(大正大蔵経二五-二五七)。

先に「仏教は厭世的である」といったが、「無縁の慈悲」を正しく理解すれば、仏教は最終的にはそうでないことが分かるであろう。

 

* 分かりよい良い文章である。同時に、仏教である論旨の遠洋が、理解が、およそは西暦以降の経・律・論の三蔵の立場から為されているのは、仏教を語る際の通有・通例で、最初期のゴータマ仏教からは距離を置いていわゆる仏教教義・教説に依拠している。「仏教と悲」と題されているのだから、それが自然なのである。キリスト教に「悲」の思想が無いかどうかわたしには即断できない。キリスト教もまたイエスの原始キリスト教徒、はるか広大の教会キリスト教では介在する教義・教説はあまりに多様化されている。

いまのわたしは、聴いたばかりの『スッタニパータ ブッダ(ゴータマ・釈尊)のことば』に大きく立ち止まっていて、関心から謂えば定方さんの謂われる「悲」の思想をどこまで親密・緊密に「スッタニパータ」に膚接して謂いうるのかどうかなのである。

 

* 中村元先生の人と学問にふれたテレビ番組を聴きながらも、それを思い続けていた。

2013 11・30 145

 

 

* レマルクの『汝の隣人を愛せ』を読み終えた。近年の読書史にあって傑出した作の一つ、深い愛と感銘を受けた。ツルゲーネフの『猟人日記』と列べて推讃する。このレマルク作のシュタイナーといいケルンとルートといい、その他の避難民群像といい、文学が産むべき優れた人間典型として極まり得ている。すばらしい人たちに出逢えたと感謝に堪えぬ。

 

* 「内的進歩をしめす最もよい徴候は、きわめて善良な、心の気高い人びとのなかに(=又は、名作・秀作のそなえた作品に触れて)いると心地よく感じ、凡俗な人たち(=ないし低俗な作物)のなかではつねに不快を覚えることである。(ヒルテイ・第一部三月二十七日)」というのは、体験的に、間違いない真実である。

わたしが、しばしば「濯鱗清流  (よごれがちな)鱗を清流(すぐれた人やすぐれた作品)に濯う」と思いかつ書き記すのは、まさしくこれのことである。

ただし、こういう良き喜ばしき体験が、「人」を通して得られることのあまりに少ないのは、嘆かわしい。その歎きを、大きく大きく補えるものとして、久しく久しい「人間の歴史」だけが、われらに「まことに優れた藝術作品」を惜しみなく与えてくれている。

文学・美術・音楽・演劇・映画。

凡庸で俗悪な作でははなしにならない。みごとな「作品」を湛えた藝術作だけが手をのべ、わたしたちを力づけ導いてくれる。ああたちどころに、自分の生涯をみごと支え励まし導いてくれたそれら数々の「作品」を、美しい香気・生気を、一つ一つ指さすように思い起こすことが出来る。「幸せに生きる」ことをゆるされて来たのだと、こころより感謝する。そういう作品のせめてもう一つなり二つなりを遺せるように生きたい。

だが顧みて、たとえかすかな作品であろうとやや心満たす作の成ったには、「きわめて善良な、心の気高い人びと」の在ったことをわたしは思い出す。作のモデルを謂うのではない、作を支えた思想や気概をわたしに与えてくれた人たち、真実の身内である。「凡俗な人たち」では絶対に不可能だった。

2013 12・1 146

 

 

* 橋田先生は橋田先生、西池先生は西池先生、中学時代の先生であり、お人柄も尊敬してきた文字通りの先生である。ひろく世上の習慣にしたがいかかっているお医者さんは「先生」と呼んでいる。それ以外は、面と向き合っているときは除き、お人もお仕事でも尊敬できる方にかぎり「先生」と呼んだり書いたりしてきた。信愛ないし親愛できる方は「さん」と胸の内で敬っている。

わたし自身に対してはどうか。何かに書いているが、わたしは人様がわたしをどう呼ばれようと一切構わずにきた。「秦先生」「秦さん」「秦君」「秦」その他名前でのいろいろ。わたしには恒平以前に宏一と仮称されていた時期があり、秦の家でさえ祖父と叔母とは「ひろコ」「ヒロさん」とわたしを呼んでいた。父と母とは「コーヘイ」と呼んでいた。馬琴とちがい名詮自性の信仰は持たないし、敬称を求める気もないから何でもいいのだ。むしろ呼ばれ方しだいに呼ぶその人のことが分かりよかったりする。

習慣上編集者や読者の皆さんが「先生」と呼んで下さることはむしろ普通の慣習だった。それが「秦さん」でも何でもよろしく、東工大では学生諸君に「秦さん」でいいよと最初に告げ、今でも「秦さん」と呼んでくれるもとの学生君が何人もいる。

 

* ついでだから、書いておく。

わたしに向かって「弟子」にしてほしい、「弟子」になります、「師」と慕いますなどと、あからさまに言いもし書いても来た人が、過去に何人かいた、それには、今も苦笑してしまう。学校での学生をすら若い友人だと思ってきた。門弟何千人などと謂われる文壇人を内心軽蔑してきたわたしは、深く深く尊敬する谷崎潤一郎先生に、真実「弟子など」一人もなかったと確信しているように、文学上の弟子持ちになど、成るわけも、成りたいわけも、成れるわけもないと思っている。

弟子にして下さい、師弟の礼を取らせて下さいなどと言われては、むしろ、気味わるかった。そういう人が、永い過去に、思い出せば男性三人、女性が二人いた。むろん書いた作も送られてきて感想などは遠慮無く告げていた。

男性の二人は、あっさりしていて、いまでも少しずつ書き継いでられる。

「押しかけ弟子」と自称されていた女性の一人は、わたしよりはるかに高齢の実に個性的な歌人で婦人で、もうとうに亡くなっている。忘れがたい人で、「押しかけ弟子」の名乗りも、むしろ破顔一笑の心もちで面白く聴いていた。

もう一人は、ペンの会員に推薦し、同じ委員会にも属し、数百千ものメールを長期に亘り貰ってきた。わたしのこの日録のことを、いつも「湖のご本」と謂うふうに言い、感想などもしきりに寄越された。そんな例はこんどの新刊「湖の本」にも顔を出している。

しかし、はっきり言うが、この人を「弟子」にした気など全くない。わたしに弟子など、当たり前の話、一人もいない。そんな尊称を投げかけられるよりも、その人、人なりに誠実に文学への素志とお人柄とを愛しみ磨いて貰いたいと願うだけだ。無意味なお追従など願い下げにしたい。

2013 12・2 146

 

 

* 幸いに、ずうっと自作の小説に向き合っている。かなりどきどきしたまま書いている。

 

* 松野陽一さんの『千載集前後』にもしきりに教えられている。あ、これだ、などと気づくことが多いと、創作の仕事へいちだんと身が添うて行く。それが嬉しい。

それにしてもこの眼の霞みようはどうだ。どうするのだ。

 

* 今度の「選集」のこと。わたしには、「選集」の出版権、編集権、オンデマンド等の複製権を、「湖の本版元」以外の特定他社に、預けたり与えたりする気は全く無いということ。

私の希望は、「湖の本」シリーズと全く同じ、久しいお馴染みの、気心もよくよく知れた凸版印刷さんの配慮下で、印刷し、製本し、納品して欲しいのである。

それが「可能」と思われたので、話を進めてきたつもりである。

 

* ヒルテイは言う、

「ひとはただ誠実であるだけでなく、また愛すべきところがなければならないが、こういう性質はごく実直な人にあっては、往々おそくなってようやく現れるか、あるいは全く現れずにすむこともある。

だから、世間では、すこしも誠実ではなくとも愛すべき人の方が、偉大な徳のお手本のような人物よりも、かえってひとに好かれることが多いものだ」と。

テレビの画面をはしゃいで泳ぎ回っている人気者に、概してそういう無意味な愛され人の例が多い。

ヒルテイは、さらに言う。

「優れた思想は、ただ大きな苦しみによって深く耕された心の土壌のなかからのみ成長する。そのような苦痛を知らない心には、ある浅薄さと凡庸さが残る。いくら竹馬に乗って背のびをしたとて無駄である」と。同じ思いで自身を見返していることがある。少なからず、あるのだ。

* ミルトンの『失楽園』に強く惹かれつづけてきたのは、やはりアダムとイーヴのこと、男と女のこと、どう彼らが創られ、互いに思い合い、どう楽園を逐われねばならなかったかが、優れた愛と認識とでどう表現されているのかを知りたいからだ。いままさに、アダムは神にむかい同じ人類として「一つ」に成合い生きてゆく連れ合いを願望し、神はアダムの肋骨からイーヴなる女の性を創って与えた。

なんというアダムの歓喜、なんというアダムの恍惚、なんという彼の眼にも心にもイーヴは完璧に映じていることか、アダムは女の美しさあでやかさに人間としての完璧、男に優る完璧を、有頂天になって見ている。しかし、アダムのそんな述懐を聴いてやりながら天使ラファエルは、今しも眉をひそめてまた語り始めるのだ。

男と女と。

わたしは今も書き継ごうとしている「ある寓話」でも、男と女との性の根底を書いている。

2013 12・2 146

 

 

* 日本の政治環境は、予期したとおり今や最悪の地獄道へわれわれを引き連れ行こうとしている。国民の最大不幸は、三年前に確言し憂慮ししていたが、こんなにもハッキリさし迫ってくるとは。

しかも、おかしな事に、真実心配もし懼れもしているのは、戦前を知り戦中を知り戦後の五十年体制のさんざんを知ってきた老人達で、たとえば、学生達の中にほとんど自覚が見えないのは、なんという無残な不幸のさまか。歴史を動かすのは、西でも東でもいつでも本当は学生という名の若い知性・理性であったのに。

わたしたちの残年はもはや知れている。しかし日本の若者の未来は永い。まだ産まれてこない未来の日本の若者達の将来はもっと先にあり、しかもいまやそんな未来を想うもおぞましい悪政が、ヒットラー・ナチスにひとしげな政治が憲法違反、傲慢な強権のもとに強行されつづけている。安倍・石破政権与党のナチスドイツを想わせ兼ねぬ手口の悪質は、福島原発の猛烈な放射能危害をも先兵にして我々国民の心身を冒し尽くそうとしているのに、なぜ、若者は立たないか。立ってくれないか。

 

* 濯鱗清流でしか心も身も癒せない。なんとわれら日本の蓄えてきた文化力はすばらしいか。そのすばらしい文化が、悪政の毒で生気を、活気を奪われて行く。なんとおぞましい時代か。

2013 12・4 146

 

 

* 「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる」と聖書の箴言にある。秦の叔母の稽古場に架かって漢字で書かれていた「あすおこれ」の五字を思い出す。怒りと不快とはかならずしもぴたり一つではない。不快なことが多すぎると怒る前に気が萎え気が鬱ぐ。

ヒルテイは言う、「今日の人間社会の状態において、おそらく最も必要と思われるものは、真実なものを見わけるある種の本能である」と。むかし東工大生たちに「いま、真実、何を愛しているか」と問うたとき、ほぼ全員が、この、「真実」二字のまえで佇立した。「真実」など分からない、思ったことが無いと。同じヒルテイのそれよりも次の示唆の方がより一般に謂えよう。即ち、

「われわれの内部の悪や凡俗は、われわれがつよく善を欲するやいなや、一時あとに退くものである。だが、それは攻撃の手を後日のために控えただけで、われわれが疲れ始めたり、内的成功を確信して最初の喜びに気をゆるめたりすると、またすぐ攻撃してくる。そんなとき、いつも悪は失地を挽回しようとやっきになり、しかもそれが実にしばしば成功するのである」と。

怖ろしいほどの真実の洞察である。こういうことを自ら体験また実見せずに生きて来れた人は稀だろう。

 

* 『失楽園』はいましも微妙な対話、アダムと天使ラファエルの対話を聴かせている、話題の焦点はイーヴ。アダムは舞い上がって妻との出逢いに感激している。天使は、妻を愛せよ。だが…と言葉をさらに添える、そこが眼目であり、考えようの分かれるところとなろう。『ジュスチエーヌ または美徳の不幸』のサドならば別の助言や見解をあらわにするだろう。ここのところは、今のわたし自身の「仕事」にも響いてくる。

 

* 昨日も、病院の外来で「小倉ざれ歌百首」を想うまま書き留めていた。もう四十首ほどになっている。本気でがりがりやる仕事でなく、「待つ」ののにがてなわたしの気晴らしにすぎない。ほんのすこし戯れにまた書き出しておく。

春すぎてなにはの夢も色さめし

夏の日ながに酒くむわれは

あしびきの山つ瀬わたすかけ橋の

こころ細くもひと恋ふるかな

田子の浦にうちもさわがぬ白浪や

たがひそめにし恋のふかみぞ

かささぎの渡る夜空のかけ橋に

われ待つ人の亡きがまぼろし

これやこの往きて帰らぬ人のよの

つきぬ怨みの夢見なるらむ

2013 12・5 146

 

 

* 夕過ぎまで作業、懸命に。疲労あるが、食後もう少し続けてみよう。国会や周辺のニュースなどただもう苦々しい極み。目を背けるとはこれ。た゜が背けたままでいいとも思われず。

ふんばって九時まで作業。その間に、オーストラリアとのサッカー戦を聴いていた。劇的な追いつきで日本はワールドカップ出場を決めた。熱狂また熱狂。あの若いエネルギーが「私の私」を死守する政治的なエネルギーに転換できないのがもどかしい。次に、強権が秘密裏に用意するのは、徴兵制と、内務省復活と、たぶん新華族制度であろうよ。

 

* 南アフリカ連邦のマンデラもと大統領の死が伝えられ、安倍晋三「違憲」総理も弔意を表していたが、彼が今しも躍起になってしていることは、マンデラ氏を何十年も牢にとじこめ、国民を奴隷並みに酷使していたあの国の元の白人政府とおなじ事なのだと、顔を見ているのも恥ずかしかった。

 

* さ、もう休んで、また明日。

2013 12・6 146

 

 

 

* わたしには「弟子入り」を願った「先生」もいない。深く尊敬し推服した方ならそれは大勢さんが記憶にある。それがわたしの幸福であり力となった。「濯鱗清流」をただ願うのみであった、むろん今も。わたしは行儀も悪いし世間的な礼儀にもおうおう随わないが、敬愛したお一人お一人への思いはいつも深い。いまも目の真ん前に谷崎潤一郎先生の一等善いお顔写真がある。鏡花全集があり森銑三著作集があり、会津八一先生の「学規」も井泉水先生の「風・花」二字額もある。階下の居間には志賀直哉全集があり、書庫の正面には島崎藤村全集や谷崎全集や柳田国男全集、折口信夫全集が在る。ただ飾りのように在るのではない。いつでも読むためにある。 2013 12・13 146

 

 

☆ 荘子 大宗師篇第六

顔回がいった。 「私は進歩しました」。

仲尼(孔子)がたずねた。 「どういう意味だね」。

顔回 「私は仁義を忘れました」。

仲尼 「よろしい。でも、まだまだだな」。

しばらくして、顔回はまた仲尼を訪れて、いった。 「私は進歩しました」。

仲尼 「どういう意味だね」。

顔回 「私は礼楽を忘れました」。

仲尼 「よろしい。でも、まだまだだな」。

しばらくして、顔回はまた仲尼を訪れて、いった。 「私は進歩しました」。

仲尼 「どういう意味だね」。

顔回 「私は坐ながらにしてすべてを忘れました」。

仲尼は居ずまいを正してたずねた。 「坐ながらにしてすべてを忘れるとはどういう意味だね」。

顔回 「肉体を脱却し、感覚を放棄し、形骸を離れ、知恵を捨てて、大いなる道と一体になった状態、それを坐ながらにしてすべ

でを忘れるというのです」。

仲尼 「道と一体になれば好悪の情はなくなり、変化に身を委ねれば執着がなくなる。お前はやはり偉いやつだ。私はどうかお前の後についてゆきたいものだ」。

 

顔回曰。「回益矣」。

仲尼曰。「何謂也」。

曰。「回忘仁義矣」。

曰。「可矣。猶未也」。

它日復見曰。「回益矣」。

曰。「何謂也」。

曰。「回忘禮樂矣」。

曰。「可臭。猶未也」。

它日復見曰。「回益矣」。

曰。「何謂也」。

曰。「回坐忘矣」。

仲尼 然曰。「何謂坐忘」。

顔回曰。「堕枝體。黜聡明。離形去知。同於大道。此謂坐忘」。

仲尼曰く。「回則無好也。化則無常也。而果其賢乎。丘也請従而後也」。

 

* わたしを最もゆるがす対話であり、「坐忘」二字常に念頭にある。それその念頭ということが「坐忘」に甚だ迂遠。

2013 12・13 146

 

 

* ペンクラブで同僚理事であった俳人倉橋羊村さんの、本阿弥書店刊『選集』三巻が贈られてきた。第一巻が「俳句」次いで第二・第三巻が「評伝」。立派な仕上がりだ。心よりお慶びお祝い申します。

わたしの手がけようとしている『選集』は、もし望むまま成るなら、小説だけでも500頁平均で現在17巻を必要としている。、論攷や随筆を含めれば500頁平均しても50巻で足りない。たとえ売れっ子の秦建日子が支援して呉れたにしても、私ひとりの残年ではまるで完結は覚束ない。一巻のままでも、五巻も出せただけでも、わたしはちっとも構わない。一つには既成の出版社の担当編集者をもともと頼んでなどいないから。営利事業では全く無い、あくまで「湖の本版元」の刊行と決めているのだから。つまり、わたくしの資金と健康と気力とが及ぶかぎり刊行し続けるという、真っ向「私家版作家」の姿勢を生涯貫きたいのである。したがって原則、「非売品」をわたしは造ろうとしている。欲しい、買いたいと言ってくださる方は既に想像したより多くいて下さるが、ごく少部数を製本するにとどまるので、原価を部数で単純割りするだけでも、つまり利潤など到底加算出来なくても、高価格が予想される。ま、そんなことにわたしは頭を悩ましたくない。

幸い「湖の本」版の在庫分で全てとすらいえる「作家・秦恒平の仕事」は網羅・入手できる。一冊一冊は、さほど高価ではない。先行していた小説・創作など、ウソのように廉い。

今回の『選集』は、研究施設として保存の期待できる先、そして秦恒平のため文学上の御恩を下さった方たちへの感謝の寄贈を考えている。施設はともあれ、そういう恩人知己がすでに多く他界されているので、心寂しい極みではあるが。願うのは、健康の維持、気力の維持。生きて仕事が出来さえすれば、わたしは死ぬ前日までもそれを遣るだろう。妄執と嗤われるかも知れない、そうかなと自身想わぬではないけれど、いや、これがわたし秦恒平の「坐忘」であるやも知れないと気楽にも考えている。

2013 12・15 146

 

 

* 読書の楽しみは少年の昔から、ほぼ生来のもの。もう一つの楽しみ、能・歌舞伎・演劇などり舞台好きは、いわば人生の所産。ことに、いつ頃からであるか、妻が、ほとんど見向きもしなかった歌舞伎にぐんぐんと身を乗り出してきてからで、観劇は一人でよりも隣席に連れのある方がなにかと喜ばしいのである。海外へも出ず国内の旅さえ控えがちにしてきた我々が連れ立って楽しめる歌舞伎や新劇は格好のばになった。

太宰治賞を受賞し作家生活に入ると程もなく、わたしは、本間久雄さんという読者とのご縁から、俳優座劇団の公演を観に行くようになり、いつしか劇団から毎回の公演に招待されるという嬉しい慣いが今日にまで続いている。それどころか加藤剛主演での漱石原作「心 わが愛」の脚本まで書かせてもらった。たいそう興味深い体験だった。後には、つかこうへいの弟子としてデビューした息子秦建日子が自作・演出する小劇場超満員の芝居も応援と批評かたがた楽しんで観に行くようにもなった。

俳優座との縁よりなお少し早く、歌人で喜多流の馬場あき子さんの手厚い手引きで、まず喜多流から、東京での能・狂言を楽しむ生活も始まった。喜多(実・得三、節世、昭世ら)、観世(榮夫)、梅若(万三郎)らの能をそれは沢山楽しませてもらってきた。

歌舞伎は作家生活に入ってからときおりには観ていたが、妻が一緒に歌舞伎座や国立劇場に着いてくるようになって、一気に爆発的に歌舞伎づけになった。歌舞伎を観ないつきなど無いほどよく歌舞伎座へ、国立劇場へ、演舞場や明治座まで、さらには大阪・京都・名古屋へまで脚をのばすこともあった。

わたしは、いわゆる通ではまったくない。能でも歌舞伎でも新劇でも、何の蓄えもなくただ好きで観るだけのど素人の分際で、好き勝手に褒めたりくさしたりの好き勝手をさせて貰っている。最低限、妻と二人で面白かったりつまらなかったりするそれだけで楽しんでいる。多年、がんばってきた自分たちへのボーナスだと思っている。幸い高麗屋さんとも松嶋屋さんとも親しみのご縁が出来て、なにかと有り難いお世話になっている。お世話になるのをさえ喜んでいるような次第。

大病の前は、もう一つ、飲んで食うというたのしみを大事にしていたが、これが、まだまだ情けないほど回復していない。案外にそれが善いことかも知れないし、よくないのかも知れない。

ともあれ、十九日には松本紀保らの「治天の君」という芝居を楽しみ、誕生日には歌舞伎座へ。

もう一月歌舞伎座の通しの座席券も届いている。二月には染五郎らの昼夜二つの通し狂言が待っている。中村福助の七代目歌右衛門襲名は実現するのだろうか、からだをしっかり直して溌剌とした出世襲名を期待する。三津五郎にも仁左衛門にも早くよくなって復帰して欲しい。

2013 12・15 146

 

 

* 函装の本は昨今でもむしろ作者側が好みがちな形ものである。しかし、函と身とが、微塵不自然な摩擦もなく、音もなく柔らかに出し入れできる真美の函装にお目に、いやお手にかかることは希有である。たちどころに無数の函装本を思い出せるが、神業のように出し入れの優れた美しい実例は、わたしの見聞では私自身の著作で、和歌山の三宅貞雄さんが精魂込め造本出版された朱心書肆版『四度の瀧』が只一冊あるのみ。製版印刷所は精興社、製本所は牧製本株式会社、製函所は有限会社高根製函所。「完璧ですね、函も印刷も製本も。日本一の組み合わせですこれは」と、つい先日も凸版印刷のわたしの担当者は絶賛のため息を漏らした。題字は谷崎潤一郎夫人、挿画は森田曠平画伯、装画装幀は出岡実画伯。私の五十賀の記念出版であり、つづく「湖の本」創刊の基点になった。福田恆存先生に次へと励まされ、大江健三郎さんも嘆賞の手紙を呉れた。

私自身のために創られた豪華本、限定本は、別に、『慈子』『墨牡丹』『三輪山』『罪はわが前に』『繪巻』『蘇我殿幻想』『喪心』『少年』等々があり、どれも美しく丁寧によく造られていた。そんな中でも『四度の瀧』の製作はみごとであった。いまさらに三宅貞雄さんのご尽力には感謝しきれない。三宅さんは必要な打ち合わせに何度も和歌山から上京されていた。

数えるまでもない二十七、八年も昔の造本だが、書物自体に微塵の老化も表れていない。あわや先日の打ち合わせに同席した某社の人に持って行かれそうになったのを、凸版さんが懸命に阻んでくれた。

今度の選集は、とてもここまで完璧には出来ないけれど、本造りにはあたう限り心を籠めたい。

2013 12・16 146

 

 

* いま「学生時代」という歌が新しく唱われるとしたら、どんな歌詞や曲になり誰が歌うのだろう。ペギー葉山の「学生時代」はいまもときおりわたしは聴いているが、ちょっと若いなあと思う。わたしは、自分で思っていた以上に『みごもりの湖』という小説に自分の大学時代を反映させていたと気が付いている。わたしがもう肩に重みを感じていたのは、生まれ、死なれ、死なせ、死んで行くことであった。わたしの大学には神学部も神学館もありチャペルもあった。しかしその方角へ歩み寄ったことはなかった。わたしは「京都」に生まれて京都を通して日本の歴史や文化や民俗に心身を預けていた。あの小説のヒロインたち近江の五箇庄に育った菊子・槇子姉妹、また菊子の友の品部迪子や槇子の友の西池静子を通して、その体験を具象化しようとしていた。わたし自身の分身かのような作家幸田靖之はむしろものの蔭に引き沈むように身を置かせていた。ペギー葉山の歌声にもいくらか共感の懐かしさはもっているが、同志社大学に身を置いていたわたしの本当の教室は「京都という日本」であり過ぎること多く、そのためにつとめて柳田国男や折口信夫らの世界を意識しつつ覗き込もうとしていた。

文学的にいえば、大学に入った頃のわたしは、源氏物語、百人一首、平家物語、徒然草でがっちり下地を造られていて、その上へ谷崎潤一郎、夏目漱石、島崎藤村がドーンと乗っかった。小林秀雄らのいわゆる評論の方へは敢えて近づかず、それよりは西欧近代の大作名作を手の届くかぎり貪るように愛読した。歌集『少年』に結晶した短歌への愛すら大学時代には見捨てようとしていた。小説でなければ、満足しなかった。小説が書きたかった。

2013 12・20 146

 

* もうよほど以前のことだが、読者から、こんなメールが届いていた。

「もしどなたかが将来秦恒平論を書くとしたら、秦恒平文学における母なるものの不在、欠落、忌避は、興味深いテーマになるだろうと思います。私の浅い読みと憤慨なさるかもしれませんが、秦さんの多くの作品の中で真実「母」とよべるヒロインを見つけられません。これは秦恒平文学の大きな特徴です。あるいは作家その人の性(さが)なのでもありましょうか。描かれる女性は究極の選択において「母」より「女」であることを選びます。それがたぶん作家の根深い願望なのです。しかし、ヒロインに「母」であることを許さず、自分を「身内」として選んでほしいと無意識にも渇望する主人公こそ、「母」を求める「子」そのものと言えなくもありません」と。

とくべつ特異なしてきではなく、似たことは研究者の論攷中でも読み取れていた。わたしは事実上、生みの母を知らないまま死なれ死なせてしまっていた。だからいろんなヒロインと出逢い、(括弧つきの)「母」である「女」を描いてきたかも知れない。作としていちばん「母」に接近していたのは、「三輪山」であったと思っている。今少し現実的には「罪はわが前に」で、明らかにわたしは「女」を超えた「母」を願っていた。そこが原点になっている。上のような指摘をわたしは、だから、そのまま聞き流してきた。

 

 

* 「特定秘密保護法の成立というおぞましい世の動き」と滋賀県の知事も云われている。これは「日本の終わりの始まり」に成りかねず、しかしそうは成らせては成らない。です。ほかにも恐るべきスピードで次々に危険な法案が通っているし新たに通されて行くだろう。誰かが言っていた、「人間には、あまりに怪物的な陰謀(たとえばユダヤ人殲滅作戦)はかえって信じにくい」性癖がたしかに有る。今の日本人にそれが如実にある。

猪瀬知事の問題など、悪法制定への政府批判から目をそらすためのガス抜き、トカゲの尻尾きりのように思われる。「国家権力には情報操作のプロ中のプロがいて、一つの深刻な政治問題を隠蔽するため、民衆の関心を別の地点に釘付けにする。猪瀬はスケープゴートにされた。秘密保護法の極悪を隠蔽する目的の情報操作であり、これは権力の常套手段」だと書いている人もいたように思う。直ぐ追いかけてさらに恐ろしい共謀罪が来るだろう、解釈改憲が横行しのさばるだろう。そのうえに日本列島にはまず間違いなく二度と放射能汚染がから免れることはなく、濃厚汚染が進んで行く。

杞憂と笑い話になればよいが、このままいくと三年後に今までのような民主的な選挙が行われると信じていて良いのかと、おもわずギョッとする。

歴史年表は偽らない。1923年に関東大震災、二年後1925年に治安維持法、1940年予定のオリンピックは幻と消え、1941年に太平洋戦争突入。1945年敗戦。

過去の出来事とはいえ、2011年の東日本大震災、2013年秘密保護法、2020年のオリンピック予定、と状況は酷似していて、つぎは「戦争か」と、暗澹とする。安倍「違憲・強行」政権は、まちがいなく民主主義を徹底的に破壊し、軍需産業ばかりが潤う戦争へ雪崩れ込みかねない。まらない、そうとしか思えません。

戦争や恐怖独裁政治を食い止めるのは、「今でしょ!!」今すぐ、来年でなく「今すぐ」立ちあがるしかない。しかし誰が起ち上がる? ん? わかもの?

秦さんも、今や、ついに、あの平家の知盛のように、錨(怒り)を背負って、しかし「明きらめ(諦め)」て入水しかけてはいませんかと、今日明日にも問われかねない。

2013 12・20 146

 

 

* 「選集」第一巻の初校として「みごもりの湖」のゲラが届いた。いよいよ緒についた。大いに気を入れて校正にかかる。第一巻の、「秘色」「三輪山」の三作、自信作というのが憚り有るなら、心底好きな自作である。おそらく五百頁前後の堂々とした第一巻に成るだろう、装幀も造本もこれからであるが。腰をしっかり据えて、一期一巻の気で、粗忽無くしっかり仕立てたい。もういつ死んでもいいという気でことを運びたい。

2013 12・25 146

 

 

* 「みごもりの湖」校正に細心の集中力を。読むのが嬉しい。この世界で生きていたいと思ってしまう。安倍「違憲・暴走」総理の無意味で有害な靖国参拝などに憤慨しているよりは。この作にはわたしの「学生時代」の実感に満ちた一面が精確に描かれている。いま、機械の煮えを待機しながら久保田淳さんに頂戴した『西行全歌集』の第一頁に、

 

春立つと思ひもあへぬ朝出(あさいで)にいつしか霞む音羽山哉

 

を見つけて最初の爪印を付けた。なつかしいわたしの実感を呼び起こしてくれる。音羽山は清水寺の背後の山。山影はいつも眼にある。いま、あるいはわたしの最期の小説になるかも知れぬ歴史・現代小説が、こんな背後の景色をすくなくもその一枚として所有している。その景色ははるかに瀬戸内海の遠くへもひろがっている。

断っておく、少なくもその今いう小説よりさきに、「ものすごい」作が先行しそうで、期待している。「ものすごい」のでむしろ後ろへ置くかもしれないが、このところ、じっくり関わっている。

話が飛んだが、要するところ、わたしは終生終わりのない「たづねびと」をして、あえていえば楽しんで、命終えるのだろう。藝術のほうが悪政より、云うまでもなく大きい。

2013 12・27 146

 

 

* じつを云うと、「湖の本119」にして良い原稿づくりが、今し方、たっぷりの量と質とで出来上がった。いつでも入稿していいほど内容も吟味してある。なにも急ぐことはなく、また別のプランも創ってゆこうと思う。昔は、誕生日以降は仕事はおやすみにしようと。昔は「仕事」といえば原稿料や印税の「稼ぎ仕事」だった。今は一切原稿料も印税も「一切稼がない」のを「自分の仕事」にしている。そういうナミの作家・文筆家たちにすれば魔法のようなことが、今のわたしには出来る。大いに楽しんで出来ている。若い日々の懸命の稼ぎ仕事がそれを今わたしに許可してくれている。奇跡のようだが奇跡でも何でもない。ただわたしは勤勉だったに過ぎない。むろん蔵など建ちはしなかった。蔵などかかえて死ぬわけに行かない。蓄えはきれいに使い果たして逝く気だ。                      傘の壽へとぼとぼと歩みよるわれら 日一日の景色ながめて  遠

2013 12・28 146

 

 

* 年の瀬という感懐を書き記そうとも思わない、それでも敢えて何か挙げるとなれば、下記一文を以て代えよう。わたしが歳末にあたり年初に臨んで何を怒り憂えているかは分かって貰えよう。これはもう七年以前の文章であるが、われらの日本が、この七年に更にさらに輪を掛けた恐怖の時代、国民の最大不幸を迎えつつある現状を実感せざるを得ないだろう。

 

☆ 横浜事件に思う    (東京新聞 平成十七年(2005)四月十二日(火)夕刊)

 

反・主権在民国家  終わりなき「権力のテロリズム」

 

「国(公)の犯罪」は、まちがいなく有り得る。「私」の犯す罪より罪深く、歴史的に、事実、幾度も有ったのである。開戦や敗戦をいうのではない。例えば国権を笠にきた弾圧やフレームアップ(でっちあげ)のテロリズムがあり、最たる一つに明治の「大逆事件」が思い出され、また昭和敗戦前の「横浜事件」が思い出される。横浜事件のほうは、粘りづよい運動と法の手続きにより、戦後六十年、最近、やっと再審査の細い明かりが見えた。だが、往時の被告たちは、もう、一人もこの世にいない。

大逆事件も横浜事件も、官憲の事件捏造と不当裁判の経緯はあまりに錯雑、詳細はしかるべき歴史事典などをお調べ願いたいが、ともに大規模な弾圧事件であり、国権による犯罪という暗部を多分に持っていた。ことに横浜事件では、神奈川県特高により、「中央公論」その他の筆者・編集者たちが、何の根拠も証拠もなく約五十名も検挙され、凄い拷問と白白の強要で、力ずく「事件」に作り上げられていった。表向きは共産主義思想の猛烈な禁圧とみせて、実は、「戦争政権」背後の勢力争いに陰険に利された、著作と編集への「テロ」の疑いも持たれてきたのである。

この数年関わってきた日本ペンクラブ『電子文藝館』に、故池島信平の「狩りたてられた編集者」という一文が掲載してある。大意、こんなふうに書き出されている。

<昭和二十年三月十日の空襲は壊滅的で、私は雑司ガ谷の菊池寛氏の家に転げ込み、居候した。或る日、本郷の焼跡を通りかかると、当時、『日本評論』編集部員の渡辺潔君と出遇った。「いま『文藝春秋』をやっているんだ。君等に会ったら、聞こうと思っていたんだが、やたらにこの頃、編集者が横浜の警察へ引っぱられているが、いったい、なにがあったんだい」と聞くと、渡辺君は、「実はぼくにもよくわからないんだが、うちでも美作太郎、松本正雄、彦坂武男の三人が引っぱられた。こんどは僕のような気がするんだが、なにが当局の忌諱に触れたのか、わからないんだよ」と、深刻な顔をしている。これが世にいう「横浜事件」で、前年あたりから、『中央公論』『改造』『日本評論』の記者諸君が続々検束されていた。身に覚えのないことで引っぱられるという恐怖は相当なものであった。>

私は、これが「過去完了の事件」とは言いきれないのを、今、懼れている。昨今の政権与党の政治手法や法の制定は、個人の「保護」とか人権の「擁護」とか美しい文字をことさら用いながら、その実は、言論表現や報道取材の自由を、また私民の基本的人権を、またもや専制と監視下に抑圧する意図を、ポケットに隠した銃口のように、国民の方へ突きつけている。権勢保持の「公の犯罪」をそのようにして法の名の下に「國」として犯しかねないのを、私は強く懼れる。「反・主権在民」政治の、津波にも似た不意の来襲を、心から懼れるのである。いましも用意されている国民投票法案のごとき、明治八年の讒謗律や新聞紙条令などジャーナリズムの徹底監禁政策をホーフツさせる、信じられない条文に溢れている。

だが、それ以上に私の気にかけ懼れているのは、物書きはもとより、新聞・雑誌の記者・編集者、出版人に、あのような「横浜事件」の悪夢再来を阻もうとする、自覚や意思や方策が、声を揃え手を携えて立ち向かう気概が、有るのだろうか、という一点。

罪無き言論人や編集者を無惨に巻き込んだ「横浜事件」は、決して過ぎ去った過去完了の弾圧事件ではない。うかと油断すれば、即座に、また新たな基本的人権の苦難時代、主権在民のなし崩しに圧殺されて行く時代の、一序曲として位置づけられかねない、コワイ事件なのであった。

忘れてはなるまい。横浜事件は、私民の平和を侵す「公の犯罪」、主権在民を阻む「國のテロリズム」なのであった。「國」という権力機構は、国民に禍する「罪」を、じつに容易に犯し得るのである。公と称して国を「私する」からだ。

監視さるべきは、国民が公僕として傭っている、「政権」「政治」の方なのである。

 

横浜事件 1942年、雑誌「改造」に掲載された論文「世界史の動向と日本」をもとに、「共産主義を宣伝した」とする治安維持法違反容疑で、同雑誌などの編集者や新聞記者多数が神奈川県特高課(当時)に逮捕、投獄された、戦時下最大の言論弾圧事件。

 

* ではでは。

2013 12・31 146

 

 

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