* 新年早々から妻にはややこしいスキャン作業をたくさんして貰っている。新聞紙からの復元はたいへんなのだ。しかし電子化しておくとそうでないとでは、いろんな意味から天地の差がある。スキャンの利かない手書きの資料が、日記や創作ノートなど、また貴重な通信物など、思わず天を仰ぐほど在る。棄てようかと思うが、少しでも健康が保てている間は思い切れない。悪しきサガである。
ITは、或る意味で猛毒害だと信じて疑わないが、感謝に堪えないほどの利器にも相違なく、わたしの場合は作家活動にフルに役立ってもらった。東工大教授として就任していなかったら、作家・秦恒平はとうの昔に息絶えていたかも知れぬ。機械のおかげで、何より嬉しく有難いのは、騒壇余人として、あのドクターX大門未知子なみに、「いたしません」を、かなり貫いて来れたこと。
先輩作家の加賀乙彦さんの年賀状に、「作品を御自分で出版するやり方に すっかり感心しています さすがに工学部の先生だと思います お元気で 御自愛下さい」とあったのには、わたしがいち早く、ワープロ、パソコン、ホームページといった展開につとめたのを観てられたのだろう、が、但し「工学部」とは関係なく、関係が在るとしては、親切な東工大の学生諸君とのお付き合いに恵まれたことを忘れてはならぬ。あの頃の学生君が、此の新年にも心親しい年賀状を、少なくも十数枚、二十枚近くも呉れている。
加賀さんの謂われる、「本にする」という点では、編集出版の仕事のうち「編集」は、あの医学書院から学び得た賜物であり、「出版」となっては、 ① 誰よりも何よりも妻の全面協力無くては到底出来なかったし、② わたしに真摯な創作や執筆意欲と実践・収穫がなかったら、どんなにしたくても全くあり得なかったし、 ③ 「いい読者」からの久しいご支援とご愛読無しには到底ありえなかったし、④ ことに非売限定の美しい「選集」刊行ともなれば、数十年を一心不乱に書いて書いて、それで地道にもそこそこ稼がせてくれた「時代」にも感謝しなければならない。とてもとても、チャチな自己満足では、三十年に手の届いている「湖の本」や、また「選集」出版などは出来る仕事ではない。出来た人を一人もわたしは知らない。
2015 1/3 159
* 建日子四十七歳 もう「若い」という言い訳はできない。
わたしは、昭和三十四年二十四歳の新婚以来、貧しい限りの中で百十余巻の講談社版「日本文学全集」を一巻一巻買い溜めてひたすら読み、ことに作家批評家詩歌人達の「年譜」を欠かさず熟読して自身を激励した。謙虚に学ぶことを勉強と思い思い、しかも自分に出来る、自分にしか出来ない仕事をと願った。
いま、建日子が達した年齢までに初の新聞小説『冬祭り』も書き終え、いま出し、出そうとしている「選集」第六巻までの代表作をすべて出版し終えていた。四十代はまこと働き盛り、第二の噴出期だ。井上靖さんは若かったわたしにしみじみ話して下さった、創作者の人生には、必ず、二度の噴出期があります、二度目の噴出を最も大切にすべきですねと。
井上さんのその教訓にどう応え得たかは、過酷で非情な紆余曲折に悩まされて、まだ結論は出せないけれど、そんな評価は人に任せておけばよい。まだ噴出するマグマが残っているとだけ自分にむかい、信じたい。
2015 1・8 159
*「選集」第六巻を入稿した。小説であたかも隠れていた別世界を掘り出し彫り起こすというわたしの作風を示して、現代、近代、江戸時代、平安時代に挑んだ、興味ある一巻になっていると思う。巻中「糸瓜と木魚」には、瀧井孝作先生が原稿用紙へのご自筆で、
「糸瓜と木魚」
瀧井孝作
秦恒平君は、美しい小説をつくり、また美術品をみる目も確かにて、中篇「糸瓜と木魚」は、この両方合致の表現也。
と書いて下さっている。
2015 1・11 159
*「選集」第五巻長編『冬祭り』を夜前一時に再校読了した。わが「身内」の物語。
もう責了可能だけれど、この十六日には出来てくる第四巻との間隔をあまり詰めて窮屈になるのを防ぎたく、今月中をかけて再校ゲラを、もう一度丁寧に読み直してみたい。本当は、小説の方へ時間が掛けたく、誰かに頼めないものかなあと思案している。
2015 1・11 159
* やっぱり浴槽で読んだ、まずは「吉備」の歴史、これには昔から濃い興味を持ち続けていて、遑無く手が出せなかった。「吉備」は備前、備中、備後、美作の旧四カ国の広域であり、瀬戸内海の島々へも広がっていた。わたしの感心の契機は、神武東征神話の途中で吉備に数年もの足止めないしは停頓を余儀なくされていたことと、日本海側出雲文化圏との連携ないし葛藤に在る。べつだん今更になにを目論むのでもない興の趣くままにである。一つには今書き継いでいる新しいいわば「清水坂」小説を「瀬戸内」にまで想を拡げうるならばと願っているので。
ヒルデイ『眠られぬ夜のために』の第二巻、『南総里見八犬伝』第九巻、ともに残り少なく、しっかり読み上げたいと思っている。
そして「後撰和歌集」「拾遺和歌集」の撰歌と称しつつ一首一首をもう幾たびも繰り返し繰り返し読んで楽しんでいる。
2015 1・12 159
* 学生時代に妻がお世話になっていた真如堂前牧野さんの町子小母さんが九十八で歳の暮れに亡くなったと、孫の美香さんから通知があった。「みごもりの湖」でヒロイン姉妹が時を隔てて近江五箇荘から此処へ移り住み、大学に通っていた。
想い出の多い家、また町子おばさんだった。「畜生塚」の町子の名もこの小母さんから勝手に借用したのだった。
こころより、ご冥福を祈る。
2015 1・13 159
* 25年ぶりに処女作①の「少女」を読み返した。書いたのは1962年十一月だった。これより早く書き始めて歳末に仕上げたのが処女作②の「或る折臂翁」だった。半世紀の余も大昔だ。いま白楽天の長志井和夫読み返すとき、まざまざと安倍政権の好戦姿勢への疑念と厭悪の思いをもつ。
多くの読者は知らない、わたしの処女作ははげしい反戦反征の小説であったことを。
2015 1・13 159
* 眼がつらくて、目をつむって音楽を聴いていた。機械にたくさん好ましいのを取り込んである。
のびのびと歌う小鳩くるみの「埴生の宿」が大好き。
「蛍の光」を聴いていると、末期の死別、斯くありたいと真実願わしい。
ふみよむ月日かさねつつ いつつしか歳もすぎの戸を あけてぞ今は別れ行く
とまるも生くもかぎりとて かたみにおもうちよろづの 情のはしをひとことに 幸くとばかりねがうなり
まったく、このようにこそ死んで行きたい。
2015 1・14 159
* とはいえ処女作②の「或る折臂翁」の中頃も読んでみた。短篇の「少女」とともに処女作としてこうい中篇をもっていたのを嬉しく思う。字句をすこし新ためながら、選集⑦の巻頭に置きたい。
2015 1・17 159
* 夜十時過ぎ。看取って見送った黒いハムの墓に添えた花のかたちの匂い袋を、夜の間は桐筺に入れてやる。
終日、二人で荷造りにかかり、メドが立ってきた。明後日中には九割九分手が離れるだろう。心おきなく水曜にはCT検査を受けてきたい。木曜の「櫻の園」 舞台が見えてくれるといいが。
今日など機械には殆ど向き合ってなかったが、送り先の宛名書き、湖の本版元と謹呈と書籍小包のハンコ捺し、そして気遣いの多い荷造りをして、その上で送り先をきちんと記録するとなると、限定本といえどもビックリするほどの作業量になる。間違いないようにと視力を使うので、ヒリヒリするほど目が痛みさえする。
四巻十九作の小説が函の背に並んで見える。いよいよ第五巻に『冬祭り』が来る。健康で怪我さえなければ少なくも小説集だけで十五巻では足りないだろう。
凸版印刷以外によその誰の手も借りていない。これはわたしと妻と二人の人生、協働で成し遂げる「卒論」のようなモノ。そして、この卒論には、新作の小説をも、ぜひに加えたい。その為にはまだまだ勉強も必要なら、ぜひにも長生きもしなくてはならぬ。無用の疲労は絶対に禁物。
2015 1・18 159
* 活字にした処女作は短篇「少女」と中編「或る折臂翁」とが最初で、後者を昭和三十七年(一九六二)七月二十九か三十日に書き始め、まだ脱稿しない途中で前者を書いた。その一月ほど後に「折臂翁」を脱稿した。
ながいあいだ「折臂翁」の出来をはにかみ羞じる思いがあり、それらは「畜生塚以前」という気持ちで括弧に入れて後方にしまっておく気分だった。自分の小説は「畜生塚」から始まったというふうに思い慣れていった。
じつは、「或る折臂翁」のあとで、わたしは築地の松竹シナリオセンターへ殆ど発作的に六ヶ月退社後の毎晩受講に行き、課題の二作提出を全うした。七十人ほどのなかで二作書いたのはわたしを含めて二人だけと聞いた。シナリオ「懸想猿」「続・懸想猿」である。読んでくださったのは前編を当時松竹の副社長だった城戸さん、後編をある著名な映画評論家だった。二作とも、予想も出来なかった八十点で、お二人ともが「小説をお書きなさい」という「評」だった。そのあとへ「畜生塚」を書いた。
* あれから数十年が経ち、いま虚心に「畜生塚」の初校を読み、「説臂翁」の初稿を読み比べると、あきらかに前者の方にムダな贅肉がある。雑誌「新潮」の小島喜久江さんの励ましがあり「畜生塚」は大幅に推敲し添削して同誌に発表し、幸いに桶谷秀昭さんや立原さんの称讃を得、愛読者もえられた。そしてそのまま「或る説臂翁」の方は「処女作②」という記号付きで後方に置いておかれた。
いま、その処女作②を読み返してみると、おもいのほか初稿「畜生塚」のような贅肉をつけていない。主題や動機にも、あきらかに「畜生塚」とはまったく別の方角を、意図していたのが明らかに分かる。そんなにも気後れしたり恥ずかしがることはないと、その後の数十年の「眼」が平静に見直させてくれる。生まれて初めて活字にもした処女作として、ま、通用させてもらえると感じ得たのは望外の喜び。「選集⑦」では部分の推敲も或る程度加え、すこしでもすっきりした形でアトへ繋げたい。直後に書いたシナリオへもこの「或る説臂翁」は濃厚に尾をひいている。会社の頃、同僚の女性が読んで、この一連は「怖い」と感想を告げてくれたのを思い出す。
2015 1・22 159
* 「罪はわが前に」を読み始めている。この長編、確かめてはいないが、選者でもあられた瀧井孝作先生が谷崎賞に推されていると小耳にはさんだおり、おもわず身をすくめた。とても谷崎賞には似合うまいと感じたから。しかし作柄からすれば、この作の方が「廬山」を芥川賞に推してくださったより瀧井先生のお眼鏡に適うかなとは思えた。
いま読み直しながら、わたしの他のいろんな作を批評してくれた評者のたいていが「罪はわが前に」の持っている原板のような意味に気付いてくれていないと何度も感じた。わけても「風の奏で」や「冬祭り」のようなロマンの下絵は、この私小説にこそくっきり描かれていたと思える。絵画で謂う本畫に対する原画的な原板構造がここには出来ている。読み直していて、くっきりそれを感じる。瀧井先生はその原板ふうのリアリズムないしは私小説構造を「美しくロマンに仕上げた作品」よりも好んで戴いたのかも知れぬと有り難く今頃思い当たっている。
読み返すのに幾らかの躊躇があった。その一つに、ありのままの顔形で登場してくる中学時代の娘「朝日子」のことが響いていた。この朝日子が、あのような… と。
しかし、それも避けて通れないわが文学の大きな一面を占めた要対決の論点になる。先に挙げたようなロマンの原板でもあり得たと同時に、この「朝日子」登場作はあの忌まわしい「裁判劇」を真っ向書いて乗り切ってきた「私小説」の道へも繋がる、とても無視しがたい原点ではないか。
秦恒平を論じようとしてくださる論者は過去にけっして少なくはなかったけれど、その全容を構造的に論じきるのは、ひょっとして私本人しか居ないのかもしれない。小説だけではない、論攷や随筆や日記(私語)が絡み合って、質は言うまいが、量と広がりとを想うだけでもなみなみでない。文学の未来を語らないわたしだが、わたしを唸らせるほどの未来、かすかに夢に見るとしよう。良い「選集」をと努めている理由である。全集構成でなく、系列選集を願ってきた理由もそれである。
2015 1・25 159
* 家中、蟹歩きでなく歩ける場所がいま、一箇所も無い。廊下も階段も、玄関ですら、置いた物、もの、モノで、まともに前向きに歩かれない。
わたしにもその気ならいますこし手広い家が持てたかも知れないが、それをしていれば今、「選集」や「湖の本」の仕事は出来ッこなかったし、歌舞伎や相撲もこれほどは楽しめなかった。どっちがよかったか、問うのもバカらしく、今の方が幸せであるに決まっている。だからボヤクことはしても悄げたりは決してしない。「家」をかついで死んで行くことは出来ない。佳い作、佳い文章を愛読者の胸に届けておければ願ってもない。
* 記憶の薄れるのを案じて下さる人もあるが、老齢の功徳は、もの忘れの可能なことと、いささか能かのように自覚していて、毎日毎日の中で、あまり気にしていない。認識や好奇心や判断や意見の出はすこぶる普通に順調で、この私語にうちちがいの誤記などあらわれても、あまり拘泥していない。寒ければも寒いと言って立ち向かう生気こそ、大切と感じている。胸の火を消さずに。
2015 1・27 159
* 日曜日だった。出掛けなくて済む日は寛ぎながら仕事のハカがいく。
明日は歯科へ。行き帰りにも「冬祭り」読み終えるだろう。入稿の前から五度も読み返してきたか。いとも「愛(かな)しい日々」を覚えた作。生まれながら身の程のしれなかったわたし自身のために、生まれおちての詳細な身の程をわたしはこの作の中で創り堅めた。此の身の程の系図をわたしは抱きかかえ、「このよよりあのよへ帰るひとやすみ」を今しも生きている。そう思っている。
2015 2・1 160
* 中華家族でマオタイ、ダブルで二杯、酢豚。「冬祭り」ラストを読んでいて泣けてきた。帰りの西武線の中で読み終えた。涙があふれた。この作ばかりは、どうにも堪え性がない。自作というより、特製の聖書でも読むように魂を突き刺してくる。久しく願ってきた此処に「身内」がいるのだ。もうわたしには小説でも物語でも絵空事でも、無い。
2015 2・2 160
* 次の、「選集⑥」の巻頭に「祇園の子=菊子」を入れた。「廬山」を「美しい作品、美しさに殉じた作品」と芥川賞の選評を下さった永井龍男先生は、また人づてにだったが、「『祇園の子』のような作が十も書けたら、たいしたもの」と伝えて下さった。まえにも書いたが、その当座わたしは、このような随筆のような作でいいのかなあと、かえって申し訳ないほどの気がした。だが、少し後に「ちくま」書かれていた笠原伸夫さんの『秦恒平の美の原質』という評論でも、この『祇園の子=菊子』をもったいないほど重く大切にとりあげておられた。いまそれをつぶさに読み返ししみじみとした。笠原さんといい桶谷秀昭さんといい、ありがたい知己は早くからあったのだ。それでもわたしは文壇の身辺小説ばやりにただ小さくなっていた。「騒壇餘人」という自覚はぬけず、すこしずつわたしを「湖の本」へ押し流していった。いま、わたしは、けっしてそれを悔いてはいない。しかし今度第六巻巻頭に「祇園の子」を置き、第七巻では二つの処女作についで「みごもりの湖」につぐ書き下ろし長編『罪はわが前に』を置こうと決断以来、選集の作法に拘泥せず、「祇園の子」のうしろへ笠原さんの一文をぜひ戴こう、また「罪はわか前に」に添えて、林富士馬さんとの対談『事実と小説』また笠原伸夫さんとの対談『罪はわが前に、をめぐって』を置こうと思い立った。「祇園の子」がわたしの文学の原点なら、「罪はわが前に」はわたしの数々の文学を写し成しえた「原板」に相違ないからだ。いわゆる出版社版の「全集」では多分許されまい方法だが、わたし自身で編輯して出す私家版・非売本なればこそ自在な手もうてる。はっきり云って、笠原さんや今は亡い富士馬さんにもういちど応援して戴きたいのである。それほど笠原さんの一文はみごとであり、また発言も打たれるほど適確なのである。
* 加門さんから「お祝い」の純米大吟醸「古都千年」が贈られてきた。ありがとう。二月六日、京都での受賞式には失礼するが、家で、美味しいお酒で妻と静かにその日を迎えたい。おりしも西の方から広範囲に雪が迫ってくると。
つい歳は忘れるが、七十九。妻も四月には七十九。二人でなら大丈夫、と油断はならない。ほんとうに大事なのは、日々の仕事。
2015 2・3 160
* 選集⑥「糸瓜と木魚」とを思い安らかに楽しんで校正している。「湖の本123」の初校も、ツキモノも好調に進行している。
選集⑤大長編『冬祭り』はこれまでの巻より70頁ほど分厚くなり、製本も製函も、わたしたちにすると発送がよほど手間も費用も大変になる。限定部数プラスの著者造本も少し減らすしかない、が、それでも、この新聞連載小説は、ひとしお愛着深い大きな中仕切りの一冊であり、これこそがわたしの「日本」深層・真相理解を「小説」という方法で決し一作と考えている。出来る限り、こころよりお望みの方にお求めねがいたいしお読み返し願いたい。
2015 2・4 160
* 美空ひばりのステージ歌唱の特集が二時間、まえの一時間を聴いて、泣いて、あとの半分は録画しておいて二階の機械の前へ来た。
ひばりは心をそこから揺さぶって懐かしい。そのわたしの思いには、永井龍男先生や笠原伸夫さんが熱く言及された「祇園の子=菊子」への思いや感覚とかっちり組み合っている。ひばりという人の魅力はわたしには祇園乙部の子への恋に似ている、という以上に同じいのである。わたしはかろうじて一編の短い「ひばり」を書いているが、それ以上に「雲居寺跡=初恋」の雪子に美空ひばりと通い分かち合っているものを自覚している。若い文学研究者がわたしを論じてくれても、とてもこういう視野がうまれてこない。研究者というより笠原さんのような文藝批評家の方が、掘り起こしも彫りお越しもずっと深く確かなのであって、それが、わたしには寂しい。いま『罪はわが前に』を読んでいても、そこにはかすかにだが「哀しき口笛」「わたしは街の子」「東京キッド」などひばりの歌声が風のように川のように流れている。まさにまさに同時代を呼吸していたのである、ヒロインたちは。
* 死なれてしまった親友たちや親族はべつとして、同時代を生きた思いのままその死を涙でしか思い浮かべられないのは、わたしには、美空ひばりとあの中村勘三郎の二人しかない。ひばりは「身内」のように、中村屋は大の大の贔屓として。
2015 2・4 160
* 仕掛かっている小説の一つ、「猥褻という無意味」と副題しながら主題の見つからずに来た長い小説、題を「返景」とも考えた。夕焼けとでも謂える意味になる。晩年の「性」風景を示唆したいと思ったが、すこし軽いかなあ。「返照」の方が。それなら「黄昏」の方が。では、当たり前すぎるか。迷っている。生母の生涯を追尋した長編は母自身の歎きの儘『生きたかりしに』で良い。もう一作のロマンは、題は決めているが、まだ明かしたくない。
2015 2・5 160
* 中央公論社からの「谷崎潤一郎の恋文」は中央公論社から贈られてきた。その表紙カバーの松子夫人の美しいこと、心底感嘆する。ろうたけたとは、まさしく、この写真。懐かしくて泣けてくる。水上勉さんが秦さんは松子さんの隠し子かと一時本気で疑わせていたのが、最高の勲章のように懐かしく嬉しく想われる。谷崎先生の恋に心底同意する。
2015 2・6 160
* こころよく「糸瓜と木魚」校正を進めている。
わたしの育った京都市東山区新門前通りの家は仲之町の東の南端にあり、家の西脇に新橋通へ抜けられる細い抜け路地があった。眞東から梅本町になるその眞隣り屋敷が、「奥さん」という市会か府会議員の持ち家であったらしく、住人はときどき替わっていた。その奥さんの眞東に京都の植物園長かと洩れ聞いていた「淺井(あざい)さん」の大きな表土蔵と路地の奥に邸宅とがあった。淺井さんの真東にも、豪儀な門構えの家屋敷があり、後年、清水焼の清水六兵衛家のもちものになっていた。我が家は梅本町のそういう西並びにくっついて、「ハタラジオ店」の看板を上げていた。全体に、梅本町にも仲之町にも、西の西之町にも大小美術骨董を商う店が数有って新門前通りを特色在らしめていた。梅本町の東寄りもう東山線の大通り間近くには「京都美術倶楽部」が在ったし、西之町には仕出し料理で名高い「菱岩」があり京観世と京舞井上流本拠の井上さんも稽古場と家屋敷とを構えていた。仲之町の土手ッ腹はいまでは花見小路南北にぶち抜いている。仲と西との町境には白川が南北に横切っている。
わたしの子供の頃はちょうど戦時中で、火の消えたように静かな通りだった。下駄で歩けばかんころりと、東へも西へも筒抜けに鳴り響いた。
「糸瓜と木魚」はそんな新門前の我が家から二軒ひがしの「浅井(あざい)さん」を懐かしい舞台にしている。語り手の私はこの家で初めて明治の洋画家淺井忠が描いたという「鶏頭」の色紙繪に愕き、次第に正岡子規一代の秀句「鶏頭の十四五本もありぬべし」に近づいて行き、だんだんに学者の道を行かずに小説家に成ろうとして行く。「糸瓜と木魚」の糸瓜とは子規辞世の句にあり、木魚は淺井忠の俳句名である。
瀧井孝作先生は、「秦恒平君は美しい小説を創りまた美術をみる眼も確かにて、『糸瓜と木魚』は両方合致の作品也」と推奨して下さった。身に沁みた。調子に乗るまいと思った。はっきりと創作であるが、わたし自身の思い願いが作には充満している。校正が、楽しい。
2015 2・8 160
* 「罪はわが前に」を半ばまで読んだ。京都の秦の家がさながらの地獄だったとき、高校二年生のわたしは、もう久しく逢えずに、姉と慕いつづけていた一つ年上の人に、人づてに呼ばれ、祇園八坂神社西楼門の内で、激励された。「さ、あなたの道を行きなさい」と優しく背を押された。
わたしの「以降の人生」を、まぎれもなく「決めた」のは、あの芳江姉の、「さ、行きなさい」の一言だった。いま七十九になるわたしが、其処まで読み、感謝新たに声をもらして哭いた。あれから六十年の余、お元気であろうか、どうかお元気であって欲しい。秦恒平の「身内の思想」「島の思想」と呼ばれているその原点をこの人がわたしに植え付けていった、記念の漱石「こころ」一冊とともに。
* 新しいシリーズになった「NCIS」を相変わらずおもしろく観た。この捜査官たち一組の噴き上げる感動、あれは無垢の「身内」感だ。わたしのいう「身内もの」の優れた映像を見せてくれて、これからも楽しめる。
2015 2・9 160
* 「罪はわが前に」起承転に次ぐ「転」まで読み込んだ。心和らぐ嬉しい続篇は書けなくて、暗く不幸な流れで、「ディアコノス=寒いテラス」「逆らひてこそ、父」そして「凶器=陳述書」が忌まわしく尾をひきずる。それも、目を背けられない「この世」の業なのだ。
2015 2・11 160
* 「罪はわが前に」起承転転の最後十章の「転」の凄まじさ……、往時を想い出し、頬に毛がそそけだつほど、参った。あのころ、わたしはまだ会社をやめてなかった、若かった。「選集第四巻」のいくつもの作をあの頃に書いていた。会社を辞めて、独り立ちして、いろんなことが有った。だが、迷い惑うということはなかった。九十すぎた秦の父も母も叔母も我が家に引き取り、最期を見送った。それだけでも、済まなかった。凶事はさらにさらに襲ってきた。
2015 2・12 160
* 「罪はわが前に」起承転転の十章はさながら地獄であった。「書く」者の酷薄なエゴイズムかと心底畏れながら読み切った。 この作ないしそれ以前にわたって、林富士馬さん、笠原伸夫さんとの「対談」二つが記録されてある。或る意味では読み取りのきわめて難しくなりかねないひの書き下ろし小説に関連して、希有の意義づけをお二人の批評家は期せずして双方から成し遂げて下さっているのも、読み終えた。出版社刊行の選集でなら無いことだが、そこは文字どおり私撰の「選集」、作のため、わたくしのためにも、お二方先達のご厚意を心より感謝して第七巻に取り入れたい。読者のためにもお役に立てるであろうと願って疑わない。
* 二つの対談を、とても有り難く丁寧に読み返した。それにしても何と「「みごもりの湖」ですでに秦の集大成と謂われていて、「罪はわが前に」はさらなる転進への新たな集大成とも謂われている。昭和五十年(一九七五)の作であり、「清経入水」で受賞してから足かけ六年しか経っていない。選集四巻までのほぼ全作を書いてしまっていた。五巻に来る「冬祭り」がまた「畜生塚」以降物語系の集大成といわれ、懐かしい野呂芳男さんは新聞の書評であえて「名作」と書いておられた。いつかこのヒロインたちがまた蘇ってくるのを待望するとも。わたし自身の気持ちでは、「日本」の人と自然と歴史とを懸命に追っていたのだと思い出す。
さて、相次いで「丹波」を読み始めた。自分自身の「身の程」を問うことからまた歩み始めようとしていた。
* ああ、しかし、目がよく見えない。いそぐな、むりをするなと大勢にいつも本気で諫められている。しかし急がねば、間に合わないという歎きにもいろいろに追われている。間に合う限りは間に合おうと願っている。逢いたい人たちにも間に合う内に逢っておきたいと切に願っている。
2015 2・13 160
* 「丹波」を、グイグイ読んでいる。もうホームページを活用して盛んに書いていた時期の、趣旨は「こんな私でした」という、小児期へ克明な記憶の記録だった。「もらひ子」そして「丹波」への戦時疎開、さらに敗戦後の小学校から中学入学までを三部に書き置いたが、他の何よりも「丹波」はわたしの作家生涯に芽をふく重要な土壌を成していた。処女作の「或る折臂翁」も、私家版の第一册になったシナリオ「懸想猿」二篇も、さらには顕著に太宰賞「清経入水」も、この「丹波」体験なくては全く成しがたかったこと、余りに明瞭すぎる。三部のうち「丹波」を真っ先に書いた。此の作は、ど忘れしているが或る社の文学選集に気前よく全編採られている。監修・編集者にとにかくも評価されていたのだろう、読み返していて明瞭に適切にエッセイの味わいのままムダのない私小説一作になっている。人や土地の固有名詞だけは替えたが、叙事は実感に溢れて記憶の限り正確であり、なによりも後々の作家生活、社会生活の機軸をなすほどの思想的な芽生えが出ている。
そして、この「丹波」体験に大きく命を継ぐように、筑摩で書下ろし、戦後新制中学の日々から「真の身内」を問いつめて行く長編「罪はわが前に」が必然、出来たのだった。 2015 2・14 160
* 「選集第七巻」本文を入稿した。敢えて処女作短篇「少女」と中編「或る折臂翁」を巻頭に置き、ついで長編「罪はわが前に」を置いた。秦文学ともし言うにたる一連の創作があるならば、此の作は、問題をはらんだいわば創作全容の「原板」に位置づけられるだろう。作者の思いをより有り難く支えて下さった、もうはるか往年の二つの「対談」稿を、敢えて添えさせていただいた。対談しテク多去ったお二方に、記して、深く深く御礼申し上げる。
さらにそのあとへ「丹波」一編を置き添えた。それがどんな意味を持ったかは、読者はたちどころに深く察して下さるだろう。「丹波」はホームページに書き下ろし「湖の本」に入れた。ずっと後に長野の郷土出版社から「京都府文学全集」というのが出来たとき、第六巻に全編掲載された。
* 「あやつり春風馬堤曲」ぐんぐん校正している。
それでも疲れて、正体なく機械を前に寝入っていたりする。
明日は二週間ぶりに歯医者に通う。週半ばから、また飛び石を踏むように病院通いがある。「選集⑤」の送り出しの用意にも手を掛けておいた方がいいし、「湖の本123」の再校ゲラも出来てくる頃だ。
今日は、今夜は、長い小説へのこまかな手入れも進めている。
2015 2・15 160
* 昨日用事あって西の棟で本を探したついでに、薄い、昔風にいえばみな☆一つの岩波文庫を三册こっちへ持って戻った。寝床に入ってから、それぞれ数頁ずつ読んだ。ま、なんという嬉しい再会であったろう。一冊は、生まれて初めて自分のお金で買った岩波文庫、シュトルムの「みずうみ」。☆一つの値段にひかれたとはいえ、それは最良の出逢いであった。しみじみと心を洗われる一冊。つぎの一冊はゲーテの「美しき魂の告白」です、有名な長編のなかで自立してある名品であり、懐かしい極みの奥から魂というものの真の意義が匂うように立ち上ってくる。そしてもう一冊は、ホフマン最良の名作「黄金宝壺」。「冬祭り」での再会場面に一部を演じ用いてて、ふるえるほど懐かしくて読み返してみたかった。いうまでもない殉情の青年アンゼルムスと美しいセルペンチナ(蛇)との恋物語。
なんとよく似たなつかしい作ばかり選んできたことか。ま、ナニとしてもこの辺に私の「根」がおりているということか。
2015 2・16 160
* 宅急便で、「選集⑥」前半要再校、一部入替え稿と前付け後付け入稿。「選集⑦」は、本文入稿済み。「選集⑧」を用意する。
ひどい無理をしているとは思っていないが、そのように危ぶんで下さる人も多い。はっきり云って「間に合う」限り間に合いたい。何に。むろん一つは、私の健康、妻の健康。もう一つは、印刷所に事情に変更の生じないうちに。そして、私家版資金のなんとか間に合う内に。この製本製版の立派な選集の一巻一巻の製作費は半端でなく、非売本のこと、回収も考慮していない。正価を設定すれば読者は仰天されるだろう。そして送料。460頁を越すと、ポンと100円以上も送料総量が増す。心用意は一応してあるが、やはり出したい巻数との斡旋で「間に合って」ほしい。余生残年にもし幸い先があれば有るで、老境の生活費は加わってくる。
可能な限り、正確な仕事をして、ピッチは下げたくない、むしろ上げられるなら上げたい。欲も得も無縁の甲斐性であり、おそろしく贅沢な健康法かも知れないので、お叱り下さるな。
むろん、新作も、湖の本も、ホー゜ページ運営や私語の刻も、趣味生活もけっして抛たない。
* わたしの創作の先導原則は、なんども書いている、だれよりもわたし自身が読みたいと願っているような小説を創りたいのである。読みたいような作が人さまの手でどしどし書かれていればわたしはその本を買って読めば済む。ところがその望みはほぼ叶わなくなっている。鴎外、藤村、漱石、鏡花、秋声、荷風、直哉、潤一郎、ま、その辺で、停まったのである。仕方がない、それなら自分で書いて自分で読んで楽しもう。
そんなこと、しかし、出来るかなあ。
出来ていたという確信を、いま「秦恒平選集」でだれよりもわたしが楽しんでいる。だから150册余も造れば足りるのだ。喜んで貰って下さる人はある。是非にと云われば、一巻あたり控えめに製作実費だけ戴いている。わたしは生まれつき創作者だが、本屋さんではない。
2015 2・18 160
* 『最上徳内』一章の一と二とを快調に読んだ。いま大きな盆栽「蝦夷土産 モガミ」の逸聞を早稲田大学図書館に勤めていた「E」さんから聴き終えた。ずいぶん本の探索では援けてもらった。藤平教授に紹介されたのだった、が、話している内に「E」さんの奥さんは、中学高校でわたしの一年下の後輩だと知れて仰天した。なつかしい。気の毒に、「E」さん、一昨年ごろに亡くなったと聞いた。初めて図書館であったころ既に意の手術などしていたと聞いていた。忘れていたが小説に書かれている。
岩波の「世界」にいきなり「最上徳内」を連載することになった機縁は、今思えば不思議すぎた。まあ、よく書かせてくれるもんだと愕いたほど、知った編集者にちらと徳内を書いてみたいと漏らしただけで、即座に「連載」が決まった。あんまり即座に決まってわたしの方がノケぞった。長い連載になった。その頃の編集者と、いまもお付き合いがある。
この連載の最中にわたしは「東芝トスワード」という東芝初のワープロをたしか70万円も支払って買い、即日機会で原稿を創りだした。妻の清書のたいへんな労苦はその日から無くなったのだ。
ワープロで文学の文章が書けるものかと云った迷論珍説が一時流行ったが、「徳内」連載中のどこから機会打ちになったか言い当てられる読者や論者はただ一人もいなかった文体をもった作家なら、筆だろうがペンだろうが鉛筆だろうが、機械だろうが、さんなことに文章や表現が揺れるわけが無い。文体に筋金が入ってなければ、何で書こうが、ばらばらの迷文が出来てしまうだけの話。
2015 2・20 160
* 『最上徳内』は快調に読み進んでいる。わたしが四十六歳、その頃頻りに、「部屋」で膝つき合わせて逢っていた「徳内先生」が四十六歳、そして思い合わせれば息子の秦建日子もちょうどそんな年頃の筈だ、彼は、なんだか初めての「ミュージカル」とかの製作に熱中しているらしい、心ゆく仕事になるといい。
* 「世界」連載の『徳内』さんの滑り出しでは、早稲田大学図書館の遠藤さんに、ずいぶん決定的なお世話になっている。徳内さんの直接の上司でありともに生死のきわにも陥ったことのある幕府普請役青島俊蔵の著「紫奥畧談」を見つけて貰ったり、何より、徳内資料を莫大に所蔵していた山形大学を紹介してもらい、山形まで数日も泊まり込みで資料のコピーや読みに専念できたことなど。あらためて感謝限りない。遠藤さんのご冥福を祈る。
この連載では、連載途中、わたしとしては異例中の異例、見も知らない北海道へ長い旅をし、すくなくも岩手県から津軽海峡越えに函館へ、その先は襟裳岬きはもとより北海道の南岸を正確に縫い取るように根室・ノサップ岬まで、北岸は根室から野付のさきまで進んで、中標津経由釧路港へ戻って、さらに船で、東京まで戻ってきた。独り旅ではなかった、終始一貫して「徳内さん」と二人での道中だった。楽しかった。楽しいことはいろいろ有った。
『冬祭り』では、同時代の日本の作家二人と訪ソ、ソ連では懐かしい通訳エレーナさんの案内で終始楽しい旅が出来た。残念ながら、今日に生きて在るのは、私ただ独りなのである。今度の「選集⑤」は、お三人への追悼本でもある。
『北の時代』では、天明の徳内さんと昭和のわたしとの「ふしぎな連れ旅」だった。得も謂われぬ嬉しさがあった。
* 新作小説の「清水坂」もの(と謂うておくが)の話柄を、どうかして、はるばる瀬戸内海と繋ぎたいと、試行錯誤を重ねている。苦しんでいるより楽しんではいるのだが、……難しい。
もう一つの長編は、構成・構想・叙事ともにほぼ仕上がっていて、推敲、そして小やかだが補充の仕事をのこしている。まだ「総題」へしっかと踏み込めてないのが課題である。いずれにしてもこの「ヰタ・セクスアリス」は簡単には公表できないが。
八百枚の『生きたかりしに』は、いつ本にしてもいいと腹は決まっている。「湖の本」だと、少なくも上中下巻は避けられない。選集の一冊で出してしまうのは、久しく「新作を」と励まして貰ってきた「湖の本」読者に申し訳ない。やはり新作は「湖の本」が先と思いかけている。
「湖の本123」は、全紙、昨日に再校ゲラが届いていて、三月中旬ないし「選集⑤」をほぼ送り出し終えたあとを追いかけ、責了に出来るだろう。「湖の本」の年度第一册が早くて三月中、四月初めの刊行というのは異例の遅れになっている。それだけ「選集」が奔っていたと謂うこと。
2015 2・22 160
* 『秋萩帖』読み終えて深い息を吐いた。よくもあしくも、これがわたしの追究であり表現であり、ついて嬉しいウソそのもの。ゾッコンと云うてくれる読者が10人あれば、大満足。この世の今しか生きてない人には、ムリやなあ。
2015 2・23 160
* 映画「グランブルー」完全版を見終える、何度見ても震えを覚える。エンゾ(ジャン・ルネ)にしても、ジャック・マイヨールをモデルにしたジャッキにしても、「海」の底へ帰って行くことをこそ人生と思い決めている。ふたりとも潜水病に冒され、自ら海底へ帰って行く。陸に愛する女がいて子までなしていても、なお最期と覚悟すれば海底へ帰らせてくれと頼んでいる。
なぜそんなに海の底が佳いのか、なぜいつもいつも海に身を任せるのか。陸へ、この世へ「帰る理由がないから」とジャックは恋人に云ってしまう。凄い言葉だ、が、わたしが此の映画に心底惹かれてやまないのは、この現世へ「帰る理由がない」という言葉に全身全霊で反応してしまうからだ。
2015 2・28 160
* 午後、裁判員制度を考えるドラマ「家族」が、認知症患者と家族とのかかわりをめぐって、認知症問題でも家族という観点からも裁判および裁判員制度のありようを衝いても、力作だった。家族に迷惑を懸けたくなくて死にたいと願う患者(認知症患者)を他者が死なせ得るか。
その当時、事情あって全く没交渉であった多年闘病生活のわたしの生母にも、おそらくはこの問題が関わっていたことだろうと察している。もっとも母は「生きたかりしに」と辞世歌を遺して死んでいった。どのような死であったにせよ、なすべきをみな成し済し終えて母はおそらく自死を受け容れたに相違ない。認知症ではなかった。意志の感じられる死であったろう。
実父はどうであったろう。
実兄の自死もまた母に似ていたか、強い意志の感じられる最期であったか。わたしは、意志的に兄の最期を見送らなかった。わたしを置いて自ら死んで行くのを肯定したくなかった、わたしの中で、元気なときの表情と声音のまま生かしておきたかった。わたしはいまでも兄恒彦は死んでいないと思っている。そう思っている。
2015 2・28 160
* 目覚めて、床に半身を起こし、腰したには布団をかけたまま、小説のゲラを読む。一日でいちばん目のいい時である。「糸瓜と木魚」の再校。しみじみとする。この「選集」第六巻は、これぞわたしが専攻の「美学藝術学」に対する「卒業小説」といえる。
ちなみにわたしの卒業論文の題は「美的事態の認識機制」で副題が「美しく視えるということ」。淺井忠や正岡子規を書いたのではない。「糸瓜と木魚」は、大学院にいすわっていつか美学藝術学の教授になるという歩みをいちはやく捨て、おれの美学藝術学を「小説」で書きたい・書こうという、決意の小説だった。「あやつり春風馬堤曲」も「秋萩帖」も、その実践であった…ナ、と、今にして手に取るように分かる。「秦さんは小説家になるしかなかった人だよ」と何人もの此の道の先達から云われてきた。そうだったんだと、しんみり今にして身に沁みる。
* 京都文化賞のお祝いに、京都の画家池田良則さんより、文化勲章佩帯の祖父池田遙邨画伯の作になる、懐かしい風景版画を頂戴した。
* 心静かに、やすみやすみ明日からの労作業に備えながら、仕事を続けている。
* 「生きたかりしに」に、必要な記事を小さく追加した。今少しだけ言を添えて、ほぼ仕上がりと目したい。原稿用紙では862枚だが、十分手を掛けていて、ほぼ800枚ほどか。ほおっと息を吐いている。書き始めたのは、最初の中国旅行から帰ったあとからである。妻の清書原稿に手を入れ手を入れ手を入れた挙げ句、深く書斎に埋蔵して何十年も置いた。去年一年掛けて妻がまた機械に入れてくれ、それを更に検討し推敲した。
2015 3・1 160
* 『秦恒平選集 第五巻 冬祭り』 どっしりと出来てきた。既刊の「全二十作」を函の背に眺めている。ただ一作として気を抜いた作はない。「おもひ」という「火」を燃し尽くして言葉にした。文章にした。「作品」と、呼んでやりたい。
* 『秦恒平選集 第五巻 冬祭り』 どっしりと出来てきた。既刊の「全二十作」を函の背に眺めている。ただ一作として気を抜いた作はない。「おもひ」という「火」を燃し尽くして言葉にした。文章にした。「作品」と、呼んでやりたい。
2015 3・2 160
* 「作」として公開されたものは、小説であれ何であれ、読者・享受者に気儘に受読まれ取られるのが、まずは、当然のことである。だから、小説本の場合、ふつう著者の解説的な「あとがき」が入らない。
ただし、それと同時に、作者には、作者の意図とも祈願とも執着ともいえるものが、真摯であればなおさらとも必然にともいえるほど創作の基底に籠もっていて、自愛も自負もまた反省も自己批評も出来ている。成ろうなら、よく汲んで貰いたいと願っている。たたし、ふつうは、それを外へ出さない。まして強いはしない。本音は、ご勝手に、お好きなようになどとは願っていない。
例えば芝翫のような役者が、たとえば道成寺を「一世一代相勤め申候」といえば、もうその後は演じないという覚悟の表明である。
今度の「秦恒平選集」はその意味で一世一代の、作家としてのこれが「遺書」に同じいものと意識し踏み切った。
で、成ろうなら、微妙な作にほど、作意をも明かせれば明かしておきたかった。出版社を版元に求めれば、そのような気儘はユルされないが、あえて非売限定の「自撰集」であるのを利して、最低限の「自作自解」も「あとがき」で敢えてしておこうと態度を決めた。多くの紙幅はとても求められない、だからこそ心して書き遺して行きたいと思ったし、今も思っている。
* もう、アトがないと覚悟している。わたしに本当の自負と確信をもって言えることといえば、自作の状況をすこしでも豊かにメモっておくことと思う。まさしくこの「闇に言い置く私語」に私語して事情や思いを書き置いておくことも今や必要と思っている。取捨は、それこそ、みなさんにお任せしていいことと思っている。
2015 3・7 160
* 「秋萩帖」に没頭。わたしにすれば、こんなに面白くこんなに読んでみたかった小説はない。しかし知友の中でこれを面白かった、よく書いたと言って下さるのは、亡き「T博士」こと角田文衛先生や亡き「K博士」の他にはその道の専門家は別にしても、思い付く州かぎり一人か二人しか思い浮かばない。わたしはそういう人のために小説を書いていたとすら謂える。
それにしても登場する女性達の懐かしいことは。
2015 3・8 160
* 八十年におよぶ永い人生で、ひとから、「自分はあなたにとって「特別な存在でしょう、か?」と確かめられている思いのしたことが、無いではない。そんな問いにわたしは「ことば」で答えたりしない。わたしから同じ問いをかけたことも、ない。ただし、べつの言葉でもし胸の内で答えるなら、わたしにとって今生、「特別な存在」とは、現実には妻ひとりであり、と同時に、わが人生の共演者でも同伴者でもまったくありえなかったまま、わたしに、「真の身内」とは何かを骨身に徹し教訓していった遠い昔むかし中学時代の或る三姉妹が、そうだった。「シェーネ ゼーレ(美しき魂)」だった。哀しいことに、三姉妹の一人に、なにも知らないうちに死なれていた。そのことを、いま、わたしはどんなに恐れているだろう。
わたしには、親ですら特別な存在ではなかった。子の一人からは無道な裁判沙汰をしかけられた。そうそう「特別な存在」などたやすくあるわけがない。
そう確信しながら、わたしは、一人でしか立てない一つの「島」に、気が付くと何人とでも立てていると、繰り返し、云いもし書きもしてきた。、老若男女、丁寧に丁寧に大切な「身内」の思いは保ってきたという実感をわたしはもっている。
* いま、日々にこの書斎で機械に向かい合うとき、わたしを嬉しい心地にさせるのは、書棚に、谷崎潤一郎の(六代目に肖ている写真と、大のお気に入りだったという)堂々の風貌とならんで、昭和初年の美しい松子夫人のお顔がならんだこと。こんなに優美な人をわたしは他に知らない、谷崎先生と、それはそれはお似合いである。久しく、いつもぐいと睨まれていた先生の表情が、そばに夫人のならばれたことで、とても和らいで見えるのも嬉しい。いまは亡き水上勉さんが、なかば本気で編集者にささやいて「秦恒平はあの二人の隠し子かい」と尋ねられたという、えも云われないエピソードも写真に寄り添っている。
こういう感想をもらしているとき、わたしは谷崎愛に燃えていった中学・高校生当時の気分のママなのである。八十になろうというわたしが、たやすく少年に帰れる。
2015 3・9 160
* かなり早い川瀬に胸までつかってあれこれ仕事している心地、流れに脚をとられたら流されそう。「生き急いでいませんか」と久しい友だちから注意もされた。生き急いでいる、という自覚とはいうまい、意識は、ある。このまま進む気でいる。十分注意する。しっかり生きたい、辛ければ辛いとなきごとも並べるが、立ち向かいたいことが有るのだから、立ち向かう。
いまのところこんなわたしを、おおよそ分かっていて黙認してくれるのは妻であり、声援してくれるのは、あの『眠られぬ夜のために』のヒルテイだけである。彼は最後の最期まで、これぞとうちこめる仕事をしつづけよと云う。付け加えてわたしは自分に言い聞かせている、静かな心持ちで、と。わたしは、変わりなくバグワンに聴いている。いま、ひとつ、決断しようとしているが、急がず、明日を待とうと思う。
* 谷崎先生夫妻にまぢかにいつもいられるのが、この齢にして嬉しくて安心である。
2015 3・10 160
* 「人生の幸福な時期というのは、要するに、仕事に没頭しているときである」とヒルテイが言うのは、彼のやや偏狭な思いこみで賛同を控えるが、「最後の息をひきとるまで活動的であることが、現世の生活の意義であり、モットーである」とも彼は言う。「精神的・意志的に活動的」とでも言い替えるなら、あの正岡子規への共感と敬愛を念頭に、わたしもまたモットーにしてもいい。ヒルテイは概して彼なりのキリスト教を尊崇のあまり過剰に言いきろうとするが、それでも「ひとはだれでも、いろいろためしてみて、自分の一番良い仕事のやり方を見つけるといい」と和らげて言われるとわたしもそう思う。「なくてはならない」とヒルテイはやや言い過ぎる。自分も装でないかをときどき気に掛けているが。
ヒルテイは、彼なりの真正なキリスト教を尊重の余り他を認めずに断言する。とはいえ、「どんな哲学的人生観も、また、(真正なキリ
スト教以外の)どんな宗教も、すべての人のために真の幸福をもたらすだけの力を実際に示したものは一つもない」と言いきるとき、わたしもまた(どんなキリスト教も例外ではなく、)その通りと思わずにおれない。宗教、宗教者の方はまだしも優れた例外をわたしは受け容れているが、ヒルテイが過剰なまで否認する「哲学」「哲学者」については、わたしもほぼ同感である。
それよりも注目しているのはヒルテイがしばしば言表している、例えば「予想されるものごとはとかく困難に見えるが、現実の事柄はそれ自体のうちに困難を克服する力をふくんでいて、かえって容易なものだという、しばしばなされる経験の力もかりて、そのような悲観・不安・絶望を乗り切らねばならない」という健康な楽観。たしかにそのような経験・体験をわたしも持って実感してきたけれど、それでもなお、ヒルテイははるかに安定した世界観をもちえたのだと思わずにおれない。今日只今の日本国のていたらく、世界中の不幸で殺伐として利己益にのみ執着して衆庶を無慈悲に顧みない政治経済の傾向に日々触れていると、とてもヒルテイのあまりに健康すぎる楽観が、ふと疎ましくなる。
同時にいまここで触れておきたいが、ゲーテが『美しき魂の告白』のなかで(実在した=)ヒロインに言い切らせているこんな言葉にも立ち止まっておきたい、即ち、 「わたしは、自由というものの測るべからざる幸福は、われわれがしたいと思うことを事情がゆるすなら何でもやるということにあるのではなくて、自分が正しいと思い、適当であると考えることを、なんの妨げも顧慮もなく、まっすぐに為し得るということにあるのだということがわかりました」と。むろん前半の自由と後半に言われている自由の較差は理解できる。
しかもなお、例えば安倍晋三は前半の自由を暴虐なまで駆使しようと実行しながら、くるりと後ろ向きになり、自分が行使している価値ある自由は、まさにこの後半のそれなので「ごじぇえます」と平然とウソの皮に用いていると思われて、わたしは憮然とするのだ。
2015 3・11 160
* 選集第七巻のなかの「丹波」初校ゲラを読み終えた。国民学校の三年生を終えて二月末にいきなり丹波の山奥の山の上のあばらやに疎開した。八月には敗戦したのに、もう一年余もたんばに居坐っていて、重い腎臓炎で京都へ帰った。二十ヶ月山村生活の体験は少年の五体に耳目に克明に刻印された。この体験なくてわたしは処女作「或る折臂翁」もシナリオ「懸想猿」二篇も太宰賞の「清経入水」も書けなかった。狂い疎開生活ではあったが、償って余りに余りある体験を得た。「丹波」は、我ながら驚くほど克明な記憶の際限になっていて、文学としても自愛の一編になっている。京都文学全集全六巻のなかにわたしのこの長編「丹波」がとられていたのをわたしは誇らしく喜んでいる。
* 選集第六巻は全部の再校が、「秋萩帖」は三校ゲラも手元に揃っている。「あやつり春風馬堤曲」の再校を終えたら、もういつでも責了できる態勢に入っている。倦まず弛まずこの道を歩む。そのうちに今度は「湖の本124 125 126」新作の一括初校も出そろってくるだろう。活況と謂える。どうか、妻もともども今のまま、今の程度の健康をじいっと保ち続けたい。
2015 3・17 160
* 浴室で、ゲラを水没させぬよう用心しながら、「あやつり春風馬堤曲」をわれながら面白く再校読み通し終えた。「海からきた与謝蕪村」という大きな題の第一部と結末に付記されている。第二部は由良の山椒大夫から、第三部は竜宮の浦島太郎から蕪村を考察し創作する腹案であった。余生と残年とに不安はあるが、簡潔にでも書いてみたくなってきた。それほど、この第一部「浦島朋子」嬢の健闘はおもしろく書き切れている。蕪村の秘められた境涯も十分に追究されている。
この「朋子」という女子学生は、わたしのヒロイン系列にあっても出色の個性を発揮している。出逢えてよかったなあと作者としても喜べる。それでも、これを読みこなせる蕪村好きは、やはり数にしては少ないだろう。小説にしたから面白いのだが、人によれば論文・論攷にしたらいいのにと歎かれるだろう。そんなことをするぐらいなら母校で美学藝術学の教授に成っていた。だが、わたしは小説家だ。
* もう一度「秋萩帖」三校通読し終えれば「選集第六巻」が責了できる。「祇園の子」「糸瓜と木魚」「あやつり春風馬堤曲」「秋萩帖」の第六巻は、おきまりの「むずかしい」を聴くことにはなるのだろうが、文学の質としては、最も充実して面白い組み立てを作者自身が堪能した一巻になっている、はず。仕上がりをわたしは楽しみに待っている。つづく第七巻初校も、ずんずん読み進んでいる。ここで、作の基調が、一ふし、動いてくる。
2015 3・20 160
* 書きかけの長編小説を書き進めていた。書いたこともない、妙なモノが出来上がるだろう、じつは、もうあらまし書けているのへ、手を掛けているのだ、一つには題がうまく付かない。この小説、2○○8年の二月二日に起稿している。そのとき仮に付けていた題は「方神 猥褻という無意味」であったようだが、これではうまく通じない。ま、手間の掛けついでにしんみり仕上げようとしている。
妻が手を貸してくれ始めた百数十枚の未完成「原稿・雲居寺跡」も、それなりの相貌を見せるかも知れない。自信なくて棚に上げたのでなく、あんまりハナシが長くなるのが怖くなったのだった。
2015 3・22 160
* こんなふうにわたしは此の「私語」に私語していた、比較的最近のことである。
* 八十年におよぶ永い人生で、ひとから、「自分はあなたにとって「特別な存在でしょう、か?」と確かめられている思いのしたことが、無いではない。そんな問いにわたしは「ことば」で答えたりしない。わたしから同じ問いをかけたことも、ない。ただし、べつの言葉でもし胸の内で答えるなら、わたしにとって今生、「特別な存在」とは、現実には妻ひとりであり、と同時に、わが人生の共演者でも同伴者でもまったくありえなかったまま、わたしに、「真の身内」とは何かを骨身に徹し教訓していった遠い昔むかし中学時代の或る三姉妹が、そうだった。「シェーネ ゼーレ(美しき魂)」だった。哀しいことに、三姉妹の一人に、なにも知らないうちに死なれていた。そのことを、いま、わたしはどんなに恐れているだろう。
わたしには、親ですら特別な存在ではなかった。子の一人からは無道な裁判沙汰をしかけられた。そうそう「特別な存在」などたやすくあるわけがない。
そう確信しながら、わたしは、一人でしか立てない一つの「島」に、気が付くと何人とでも立てていると、繰り返し、云いもし書きもしてきた。、老若男女、丁寧に丁寧に大切な「身内」の思いは保ってきたという実感をわたしはもっている。
* 上に謂う「特別な存在」と此処に謂う小さな一つの島を共有して立っている「身内」とは、前者から見て格の違う別の人達を謂うのかと詰問してくる人もあった。
別ではない。第一、そういう「身内」は、自分はあなたにとって「特別の存在」でしょうなどととんちんかんを云うわけがない。妙な譬えだが里見の八犬士はまぎれない身内であり、「特別」犬士は実在していない。しかもなお、仁は仁、義は義、信は信等の個性を喪わない。真の身内はまことに重い、しかも身内という錯覚を超えた愛の関わりにしてなお「身内崩れ」の錯覚が生じることも、じつは無くない。それが微妙に難しい。
2015 3・23 160
* 「冬祭り」は遠藤周作さんのあとを次いで連載が始まった。連載を終えたとき東京新聞の林慎太郎さんに終えての感想を聞かれたとき、間髪を入れず、「この作を掲載したことが、さきざきも新聞社(=新聞三社連合の各社)の誇りになるでしょう」と答えたりを覚えている。林さんは言下に「それでいいんです、有難うごさ゜いました」と生真面目に頭をさげられた。途方もない豪語に類してはいるが、いまでもそう思っている。よくわたしのところへ、詰まらない作ですが、恥じ入るばかりの仕事ですがと原稿や本や雑誌を送って見える人がいる。豪語しなくていいが卑下も過ぎるとそかな読みにじかんをとられ時間を取られるのはイヤだと思ってしまう。根限り、精一杯の仕事をこそ人の前へ出すべきだと思っている。
2015 3・23 160
* 『女文化の終焉』『趣向と自然』『顔と首』『美の回廊』『猿の遠景』等々その他にも美術にふれた著作や論考・エッセイは、量も多く内容にも力を入れてきた。ま、いわばそういう勉強を大学でしていたわけで、文学や古典や藝能や歴史も、それに加わっている。しかし「論考」風の学問勉強は大学院の退学というかたちで棚上げにし、むしろそれらを「小説」で書きたい、教授よりも「小説家」になろうと思った。そういう小説がハッキリ多かったことは、選集をわずかに五巻作った現在てすでに明瞭、まして次巻の「糸瓜と木魚」「あやつり春風馬堤曲」「秋萩帖」はそういう行き方の鮮明な作になっている。成りきっていると思っている。しぜん、読み煩う人が少なくなかった、難しすぎると本を壁に投げつけたと告白した読者もいたが、ありがたいことにその読者もいつしかに熱狂的な愛読者に変貌して行かれた。むろんそういう人数は破天荒に増えない。で、「売れない」作家の第一人者のようになっているワケだが、いささかも苦にしていない。文学・文藝としての質的な清明と優美と堅固なことをだけわたしは願い続けてきた。そういう意味でもわたしは「騒壇餘人」として「湖の本」という世界を深めようとしてきた。
2015 3・24 160
* 淺井忠に注目したのは、上村松園を書きだしたころ、村上華岳に没頭したよりよほど早かった。何十年もむかしだ、黒田清輝を知った人はいても淺井忠の名も覚えていない人が多かった。大判の格調を備えていたころの「すばる」誌に先ず藝術家小説「墨牡丹」を一気に発表し、やがて「展望」に松園の「閨秀」も、「すばる」に子規と忠との「糸瓜と木魚」も発表した。その一方では新潮社新鋭書き下ろしシリーズで『みごもりの湖』が出ており、わたしは勤務生活から離れ作家として自立の日々に入っていた。
長編小説『糸瓜と木魚』はわたしが小説家に成って行く一種の精神史的断章でもあり、次の回の選集第六巻ではたぶん愛読して頂けるだろう。
2015 3・26 160
* 書き下ろし長編の「あやつり春風馬堤曲」は、筑摩書房破産の騒ぎに巻き込まれ、宙に浮いたまま、嫌気がさし原稿を取り戻して棚上げだか何だかしまい込んで置いた。「湖の本」創刊十年の記念に初めて活字にしたので、単行本がなかった。
これは、めったにない「興味ある」蕪村追究であり、同時に卓抜なヒロインをひとりまた生んでいる。食いついて読んで下さる方には印象にのこる読書になろうとわたしは自負し期待している。
2015 3・26 160
* 処女作と思ってきた二作がある。一つは先ず書き始めて永く書き終えた「或る折臂翁」で、もう一つはその途中で短く書き終えた「少女」。じつは、それよりももっと早いむかしに書いたり書きさしたりした小説ようのモノが無いわけではないが。
ともあれ「少女」と「或る説臂翁」とを初稿し終えた。選集⑦でこれがどう新たな視線で読まれるか楽しみしている。
2015 3・26 160
* 選集⑥の全再校を終えた。装幀は責了にしたし、本紙は、もう一度丁寧に点検し終えれば「責了紙」として、早ければ明日にも送れる。四月中に刊行の可能性、小さくない。
第⑥巻は、巻頭の「祇園の子=菊子」がいわば歴史的な所産として評価されている。笠原伸夫さんのすばらしく有り難い論文も相並べて送り出せる。そして「糸瓜(=正岡子規)と木魚(=淺井忠)」は、今し「湖の本123 繪とせとら日本」でも最も注目されている。わたしはふたりを論考の大正でなく小説必至の人間として描いた、藝術家小説として。自信作である。ついで与謝蕪村を追究した「あやつり春風馬堤曲」は、これほど面白い蕪村探索の旅小説はあるまいと思う。癡情可憐のヒロインのかしこさ、やさしさに驚嘆して貰えるだろう。そしてまた平安十、十一世紀の草仮名の国宝「秋萩帖」をめぐる夢幻能さながら、現代と古代とを精微に優美にもののあはれも色濃く描ききっていて、これを読み切れる人は残念ながら少ないでは有ろうが、こんなに美しい小説には、そうそう出逢えないでしょう、たとえ鏡花世界でも谷崎世界でもとわたしは云いきっておく。
2015 3・29 160
* いま、わたしの心底の切望は、……。とにもかくにも、このまま死にたくもなく死なれたくも絶対に無いということ。渾身の願いで、日一日、仕事を形にして行きたい。それがわたしの栄養なのだから。選集第七巻は、いよいよ処女作二編と、「罪はわが前に」「丹波」になる。わたしの小説世界は選集①から⑥に到るいわばロマンの世界と、次の⑦のしめる切にリアルな私小説系とに大きく分かれる。「罪はわが前に」は、その双方の大きな流れの源流である。他が焼かれた写真だとすれば、これは真に「原板」と謂うべきに当たる。祈る思いで、健やかであってと願っている。
2015 3・29 160
* 選集第六巻はたぶん四月のうちに出来るだろう、つまり第一巻から満一年で六巻、頑張ればその辺まで創れるとして、何を収録するか。『最上徳内』まで入稿出来ている。『親指のマリア』など長編が何編もあり、掌説・短篇集や歌集も創っておきたい。小説だけで十七、八巻ないし二十巻必要と想ってきた。欲をいえばわたしの場合、論考・エッセイにも選集のかたちで残したい作はたくさんある。ま、わたしの寿命がもつまいし、この編集と刊行との仕事はよほど技術とセンスのある者でないと出来る仕事ではない、建日子にはそんな技術も時間もなく、本人の世界を探求してもらいたい。
どこかで、サッパリと諦めることだ、それに尽きると思って、可能な限りやってみよう。
* 櫻をたずねて歩くという希望が、ほとんど湧かない、ふしぎなほど。花見の人出のすんだころ、五月へかけ、どうかして一度京都へ帰りたい。どうかして帰りたい。故山のしきりに夢に入るのを、如何ともしがたい。帰る家もないのに。
* 映画「抱擁」を見終えた。何度目か、で、今回はひとしお心に沁みた。原作を読み直したくなった。わたしの読みたい本、読みたい作品である。こういうふうに書いてみたく、こういうふうにわたしも書いてきた。「秋萩帖」を読み終えて、ひとしお胸に沁みた。
すぐれた創作世界に触れると、うそくさい安倍晋三時代など臭い煙になって失せる。
2015 3・30 160
* 朝一番に、湖の本へ長編『生きたかりしに』全編の初校が出た。上中下巻になるだろう。初校に時間をかけ心も用いねばならぬ。ついにこの日が来たかと思う。
わたしの創作は、いわばロマンのかたちで出発した。選集第六感までに収録の全二十四作は悉くそうである、どう私小説風を利していても、すべて仮構的に利したまでで、物語は創られている。第七巻のメインになる『罪はわが前に』で、それら写真的な物語の「原板」が持ち出され、私小説が初登場した。そのエネルギーを承けて、以降は物語と私小説との綯い合わさって行く創作軌道が出来た。「罪はわが前に」で「真の身内」「魂の血族」を打ち出した以上は、必然、わたしを「秦恒平」としてこの世に送り出した、育てた、実の両親や育ての親たちとの心の葛藤や彼らの生き方(使いたくはないが「生きざま」とも。)をも冷静にあとづけるいわば「役目」があると思うようになった。『生きたかりしに』は、他の誰よりも壮絶な個性であった「生母」を全力で追尋し再現した長編私小説ということになる。自分自身のためにも書かずには済ませない難しい主題であり対象であった。この際、「実父」のことは概ね埒の外に置いたが、父にも父のすさまじい生涯のあったことを今のわたしは識っていて、書きたい、いやこの場合は「書いて置いて上げたい」という気がある。相応に用意も出来ている、だが、わたしに時間の余裕があるかどうか。実兄北澤恒彦の存在もあるが、じつはも持っても心親しい兄について、わたしはあまりに少し、ホンの少ししか何も知らないのである。湖の本エッセイ20『死から死へ』に書き留めた程度しか解らない。息子の恒=黒川創からも何も聴かされたことがない。兄とは、自然甥姪ともこのまま行き分かれて終えることだろう。
私小説ということでは、もう一人、娘の朝日子ら夫婦との不幸で不快な醜い傷跡がのこっているが、十分精確に、きっちりした既に私小説が出来ており、改めて書き加える必要はない。
2015 3・31 160
* 印刷所からの責了紙確認問い合わせの電話で朝になる。無事諒解がついて、第六巻は順調に、ほぼ間違いなく四月中に出来てくるだろう。出版社頼みや任せの出版ではない。世常の慣行や通例にしたがう必要のないまったくの私撰集であり、それだけに各巻にわたしの思い入れが詰まっている。今回の四作も、ただ並べたのではなく、それぞれの意義を担わせてある。特色ある一巻に仕立て得た自覚も自信もある。作はそれぞれに独自のおもしろみをもっていて、さりながら簡単には読者を近づかせない鞏固な味を示している。喜んで愛読される方と、音をあげる方との差が歴然とあらわれるだろう。差し上げる先をかなり慎重にえらばないと、本一冊が差し上げた先で死蔵されたり厄介にされかねない。
* つづく第七巻は、まったく先行六巻と行き方のちがう純然かつ凄然たる私小説を主軸に、加えて記念に値するかどうか、二つの短篇と中編の「処女作」を収録した。泣いても笑ってもわたしの文学はこの二作を手がかりに足がかりに歩き出した。二作の性質はよほど異なっている。明かして置いていい時期だろうか、中編「或る折臂翁」は、時期はしかかと記憶しないが「清経入水」が突如太宰賞の最終選考の場へ「招待」されて受賞したより、少し先だって、共産党系の雑誌であったか「新日本文学」とかいった場で文学賞の候補として審議された「らしい」と当時仄聞した。ということは、わたしから「応募」したのであろうか、それも全く記憶にない、ともあれそんなことがあったとしても受賞はしていないし、そんな雑誌に目を触れたことは只の一度も無いのである。いまわたしはペンクラブで知り合った「アカハタ」編集部にいた会員を識っている。いちどその人に往時の「新日本文学」を調べて貰おうかなあと思いもしている。「或る折臂翁の死」と題していたかもしれない。
もう一つの短篇「少女」は、勤務していた会社の労組の刊行物に請われて書いたか、出してもいいかと思いつつ書いたか覚えないが、結局は「惜しんで」渡さないままにした記憶はある。或る程度の自負はもっていたのだろう、か。
* 処女作がどの程度書けていたか、いまあらためて批判を受ける機会を持つことにしたのは、ま、一つの趣向かも知れない。と同時に第七巻の眼目である書き下ろし「長編『罪はわが前に』がまた、或る意味、ふつうに謂う処女作ではないが、濃厚な「処女性」をはらんだわたしの「文学」というより「生涯・人生」の根底を突き出して見せた、きわめて懐かしい、極めて凄まじい、ただならぬ地獄篇でもあり、これ以前六巻の諸作がいわば「ロマンス」であるとすれば、「罪はわが前に」は、わたしが書き下ろした最初の「小説(私小説)」なのである。
いま謂う「ロマンス」と「小説」とのちがいを、わたしは今のところ便宜に、ナタニエル・ホーソーンの提義にしたがって謂うている。その提義は、このところ映画として繰り返し見直していたバネットの大作ロマンス「抱擁」の文庫版原作巻頭に「序」のていで掲げてあるのを謹んで参照している。
☆ 言うまでもないことながら、作家が己れの作品を(ロマンス)と呼ぶのは、(小説)と称した場合には許されぬ自由を、方法と素材の両面にわたって、認めてもらいたいがためである。元来、小説という形式は、人間のたどる日常的な経験を、可能性と蓋然性を含め、極く細部に到るまで忠実に描くことを目的としている。それに対し(ロマンス)は(もちろん藝術作品である以上、諸々の法則には厳密に従わねばならぬし、人間の心の真実から逸脱するのは、まさに許されざる大罪であるが)、大方は作者自身が選び、創造する様々な状況のもとで心の真実を提示することが、正当な権利として認められている……この物語を(ロマンス)の名のもとに出版するのは、遥かなる過去と、刻一刻過ぎ去り行く現在とを、一つに結びつけようとの意図にほかならない。
ナサニエル・ホーソーン 『七破風の屋敷』序文より
* ホーソーンのこの作をわたしは読んでいないが、上に簡約された一文の意義は明瞭。ふつう小説、小説と言い慣れた創作に少なくもここに謂う「ロマンス(物語)」と「ノベル(小説)」の二種類があることを、告白するとわたしは自分が小説を書き始めた頃、全然認識していなかった。「清経入水」で自作が発表できはじめた頃に、当時「婦人公論」の記者でのちに作家になった阿部さんの口から、秦さんの作は「物語」ですね、「小説」ではないですねと云われ、恥ずかしながら何を言われて居るとも明瞭に聞きわけ得なかった。おいおいに解るようになり、そんなことは昔から知る人はみな知っていたのに、わたしは「小説」といえば小説で、小説にもいろいろ有るのだとしか識別のていどでしか意識してなかったのを分かり始めた。なんとも迂闊な恥じ入るハナシであった。
結果的に、わたしの作は、おおかたがホーソーンの謂うに相違ない「ロマンス(物語)だった。「ノベル(小説)」はめったになく、処女作①の短篇「少女」や永井龍男先生、笠原伸夫さんらの褒めて下さった「祇園の子」などが少数の例外だった。そういう小説の大家として志賀直哉や瀧井孝作や永井龍男等が、また島崎藤村、徳田秋声らがあり、一方「物語(ロマンス)」の大家として谷崎潤一郎や泉鏡花らがあったのだと、ま、識別が利いてきたのだった。
処女作②「或る折臂翁」以降「清経入水」を経て「冬祭り」まで
、わたしが書く文学作の大方はまさしくホーソーンなりの「ロマンス=物語」に相違ない。今度の第六巻の長編三作まさに然様であり、「秋萩帖」にしても「冬祭り」にしても、夢幻能というにも近い。
それに対し第七巻「罪はわが前に」は紛れもなくホーソーンが規定して居るままの「小説・ノベル」であり、徹底した「私小説」なのである。そこが、重い。感慨も深い。嬉しくも哀しくも辛くも、ある。
2015 4・2 161
☆ 秦恒平様
昨日、自分の工房で資料の整理をしていた所、先生の99 6 22 付のお手紙を発見し懐かしくお手紙させて頂きます。
実は東武美術館で当時 親指のマリアの繪の前でご夫妻と会った様な気がしています。
自分でご案内しておきながらなぜ声を掛けなかったのか反省しております。
そのご夫妻は「上野の繪よりもこちらの繪の方が良い」とお話しされていました。シドッチ神父の思召しと思いました。
さて、”14 はシドッチ神父没後三百年でしたが、小日向には大きなマンション二棟建設され (切支丹)屋敷跡がも一応発掘調査されましたが、キリシタンらしい骨も三体出土しましたが、関係なく小路が続いています。 駒沢 菊池秀夫 ステンド工房
* 三体の遺骨とは気になる。地下深くの土牢に終生押し込められたシドッチと二人の日本人の最期は、わたしの新聞連載小説『親指のマリア』にも書き、新井白石がはっきりと言及記録している史実。シドッチの烈聖が望まれる。『親指のマリア』も当然選集の近い段階で収録したいもの。
菊池さんのお便り、有り難い。
2015 4・2 161
* 午前中かけて、選集第七巻の初校を「要再校」で戻す用意をした。あとがきと口絵用意が残った。建頁の関係で、あとがきを二頁書くか六頁書くか。とにかく本紙「要再校」分だけ、先に送った、身の回りに「時」と「場所」とを少し明けるためにも。
今度の一等長い小説は、「起・承」から「転・転」への移行に、「ロマンス」でなら遁れられる、「ノベル」ならではの、凄い、苦しい息づかいがある。いま読み返していて肌に粟立つかなしみや悔いがある。
それにしても一中学生の頃の、そして大人になり妻子を得てからの、愛する妻子にならぶ「魂の血族」を掌中にたもち持つ気持ちは、いま、七十九歳になって、そのまま。これは、当人としても深い驚嘆に堪えない。よっぽどわたしは妙な人なのか。
いま願っているのは、だれもだれもみな、わたしより早くに「死なれたくない」のである。望みは、それしかない。逢えない人に逢おうとしても意味がない、「芳江姉」は、中学高校のむかしから、「強いて逢いたがる必要はないのえ」と、口癖だった。わたしを絶望にちかく悲しませたのは、下の妹が、もう十年も以前にまったく知らぬまに死んでいた、死なれていたことだ、つらかった。いま、「罪はわが前に」の「転・転」の終末部にかぎりなく優しい愛らしいそま「妹」の登場するのを読んで、わたしは呻いた。姉も、上の妹も喜寿どころか八十を過ぎているのだ、逢うのは互いに苦しいだろう。ただただ、「死なれたくない」と願うばかり。
2015 4・3 161
☆ 今日の朝刊に
谷崎(潤一郎)の創作ノートの複写発見とありました。
「春琴抄」の構想メモもあるそうで、どのように書かれているのか興味深いです。
昨夜、(春休みの帰省先から)無事帰宅。今は通勤の電車です。
、ご体調が整いますように。 渋谷 晴
* いまは谷崎文学を「穿鑿」する気は失せている。好きな作を選んで ゆっくり読みたいだけ。何をどう穿鑿し論じてみても谷崎先生は亡くなっていて、作の上に指一本動かせない。生きてて下さればこそ、誤記・誤植の一つも直してもらえる。新刊の「谷崎潤一郎の恋文」も、目の前に美しい懐かしい松子夫人の写真こそ、「六代目」と持参されていた先生の写真とならべて一日中接しているけれど、ただもう「読む、読んで愉しむ」谷崎愛を、と願うのみ。
2015 4・3 161
* ウソでないホントのオモ火に身を燃して
オロカなままに歩き果てばや 宏
* 「生きたかりしに」は、甘美な懐かしみなど一抹も加わってこない、苛烈な「ただ肉親」の親を探索した、どこへどう遁れようもない私小説である。とはいえ、書き上げて、しみじみ思うのは、生涯かけて「生まれ変わり生き変わった」生母の魂のつよさ・生きの気合いの激しさであり、なかなか愛情とは謂いにくいが、やや見上げる心地には自然となっている。書いてくれべき兄の恒彦はほとんど此の母を書きもせず識りもしないまま自ら死んでいった。兄を、事実上、母よりも遙かに少なくしかわたしは識らないが、母のことは弟の恒平が、到らぬ筆のママにも精一杯書いておいて上げたかった。
* 生まれ落ちて、少なくもわたしには実の両親と育て親であった秦の両親や叔母という少なくも五人もの「親」たちがあった。わたしの幼かった昔から今日に至る人生は、そんな五人の「親」たちを血族とは認められずに、中学生の全心全霊をつくし、もともと縁もゆかりもなかった、偶然に会いはかなく別れていった或る「三姉妹」に真実の「身内」を得た、そんな妙なモノであった。しかしその「妙」をわたしは大切に守りきった。そして、そんな三姉妹三人に、此の世いう「現実」として真実相当した「妻」をそれより後に「見つけた」のだ。わたしの人生で「特別な存在」といえば現実の妻と理念としての「姉と二人の妹」だけがある。それを分かってもらうのは、じつに、難しい。
2015 4・3 161
* 思ったより順調に『生きたかりしに』上巻、進んでいる。校正しやすい。巧緻に組み立てて創られるロマンスではない、直截で誠実な私小説であり、不可思議のロマンスを期待される読者の願いからは逸れるけれど、波に乗るようには読んでいただけよう。ある女の一生とも、ある母の生涯とも読まれるだろうが、基本の意嚮は、「生きたかりしに」の思いである。「死にたかりしに」ではないのだ。
2015 4・4 161
* 外出のせいか、目を使う校正過剰のせいか、がったり疲れている。機械から離れて、上のフーちゃんの論文を読んだり、送られてきたどれもおもしろそうな海外作の本を読むなどし、疲れ寝にでも寝たいと思う。この疲れ、所詮は眼から来ているのか、からだの奥深くで異常があるのか、ごく当たり前な老境なのか、判らない。なんとなく実感として、という物言いは齟齬しているけれど、ようやくに、死にながら生きている、生きながら死んでいるという併行併存状態に入ってきたのかも。『冬祭り』のはじめの方で「冬子」や「順」や「吉男」らと心幼いままに生きる死塗るについて話し合っていたのを、妙にしんみりと思い出す。
2015 4・4 161
* 今日、妻と同歳に。七十九。健康であれと心より願う。わたくしも。
「元稿・雲居寺跡」の読みにくい手書き原稿を、もうあらかた機械へ書き写してくれた。所詮は中断し、他の「清経入水」や「風の奏で」や「初恋=雲居寺跡」などへ展開していった、ロケットでいえば燃え尽きて切り離れたような原稿だが、いったい何をどこまで書こうとしていたのか、自身、思い出せない。読み返してみるのが楽しみになっている。
そしてーー、ちょうど今も書き続けている、ま、面白くもややこしい現代・平家時代のロマンスと、ならべて湖の本一巻に仕上がると佳いがと、淡く期待している。この作、題は決まっているが、明かしたくない、ま、ヤバイ企業秘密。小説ではあるが、やはりわたし好みの話の運びで、露伴の史伝ものともに似てくれていいが、などとまだまだ夢見ている。
題は決まらないが、初稿は概ね仕上がっている新作長編は。湖の本にするか、非売の選集本に限定しておくか、迷っている。
* 少なくももう一作、実父のことも、書き置いてやりたい気が、在る。資料は十分、在る。わたしが書くのでなく、誰かに書いて貰えると気が楽かなあとも。ま、これも書き進んでいる。
* 久しぶりに、わたしらしい掌説の連作を試みたいと願ってもいる。特異で、独自の世界をもてていると感覚している。
* 書いてみたい、書きたいことが、こう滲み出るように脳みそを騒がすのに、すこし惘れている。生き急いでいるのか。死に急いでいるのか。
なにをぢう書こうが、日本と日本人もろとも、いいえ人類ともろとも確実に煙か黴かのように失せ果てるだけと判っている。それがどうしたと思っている。
* 書いたものを読み返していて、建日子と何度か二人で旅していたことが思い出される。建日子のまだ幼稚園ほど頑是無く小さかった頃と、成人してからと、二人で京都の親の、建日子には祖父母の家へ、二度は帰っている。ゝ小学校のある時期にも、一度は奈良、飛鳥、竹内越えに大阪へ、京都へ、そらに近江能登川から五箇荘の石馬寺まで、わたしの取材を兼ねたかなり永い旅を一緒にしたし、なにかしら建日子のへこんでいたのを見かね、学校を休ませて二人で、日光から華厳の滝、中禅寺湖や裏見の滝などを観にでかけ、自転車を借りて湖畔を駆けたりボートを借りて湖上へ出たりしている。日光への旅ではやや建日子は沈滞ぎみだったが、大和路。近江路の旅でも、京都ででも、建日子の優しくて元気な性格が嬉しくなるほど小説のなかに書き込まれていて、嬉しくなる。懐かしくなる。 2015 4・5 161
* 「生きたかりしに」中巻部へも快調に初校すすんでいる。深夜、寝床の上で読み進んでいて、生母が兄恒彦に宛てた長い手紙をよむうち、感極まり独り哭いた。母の発見ーーその探索体験記とも謂える。それが上田秋成探索の希望と表裏している。講談社の大村彦次郎さん、松本道子さんが我が家までみえて書き下ろし「上田秋成」の小説をと依頼があったのは、昭和五十一年(一九七六)五月十七日で、同年十月一日に突然井上靖さんの電話で中国訪問の旅に誘われた。即座に受け、しかも二日後の三日に「秋成」起稿、奈良県御所への取材旅行にも出かけた。日中文化交流協会からの訪中作家代表団の旅立ちは十一月二十九日、井上夫妻を団長に巌谷大四、伊藤桂一、清岡卓行、辻邦生、大岡信に私の一行だった。四人組追放直後の印象深い中国だった。帰国して直ぐ訪問した大同上華厳寺大壁画に取材の小説「華厳」を書き下ろした。だが中絶していた「秋成」の稿をどうしても継ぐことができず、急角度に路線をまげて、母の発見行へ向きを変えた。一年半近く同居した叔母が元気になって京都へ帰った直後三月十六日から改めて書き始め、十月三十日、初稿九百十六枚が成った。それから先が、長く長くかかった。講談社には諦めてもらった。大きな負荷負担にもなった。作家生活の色合いが、ゆうらりと移っていった。
2015 4・6 161
* 黒いマゴが、寝床に半身を起こして校正を始めているわたしに甘えて、手と尾でわたしの腕を抱きかかえ顔をわたしの腕に預けて、グルルグルルと声をもらす。早暁から二時間もそとで遊んできたらしい。元気でおれよ、父さんも母さんもいるからなと云ってやる。
「生きたかりしに」上巻の跋文も書いた。すこし気張って、すこし寛いで、書いた。「私語の刻」をとりあえず読むという読者が多い。ただの「あとがき」に終わらせないように、と。「湖の本124」 ぜんぶ、揃えて初校を「要再校」で戻した。
やがて「選集」七巻の再校も、八巻の初校も出てくるだろう。九巻には何をと思案している。
* 若い頃、多い年には六册も単行本を出版していた。自分では寡作のつもりでいて、ふとそう口にし、同業の人に怒られたこともあるほど、毎年毎年書いた原稿の殆どが本に成っていった。
ところが去年、目の前に八十の来ているわたしが、八、九册も「湖の本」と「選集」とを仕上げている。今年もおよそそんなペースになるだろう。
昔の出版は、出版社に編集担当も製作や製本の担当者もいてくれた。原稿を渡したアトは念のため校正をするだけで足りた。
いま現在わたしの出版は、印刷製本のほかは全部、発送までも、わたしと妻とでやっている。生涯でいちばんとは云わぬまでも、日々多忙を極めている。どうなってんだ、これはと惘れもし、しかし有り難いことである。
はっきり書いて置くが、今その仕事からわたしは「お金」を稼いでいない。」お金はほとんど全面、遣う一方である。幸いそれの出来るのは、若い頃、売れない作家なりに原稿を想った以上にたくさん書いて原稿量を稼いでいた、ということ。みんな遣い果たして行こうよなと、夫婦して笑っている。
* つぎの「選集第七巻」を敢えて出すのには、まこと苦しいモノがある。巻中の長編『生きたかりしに』の初版では、愛してやまない主人公「久慈」三姉妹に、またご家族にまで、言い尽くせないご迷惑をかけた。そのためか長姉は離婚されたかとまで、もう昔に仄聞していた。その後の住まいも神戸のほうとしか識らず、分からず、詫びる機会も今にいたるまで全然なく、まして末の妹には、いつしかに死なれてしまってさえいた。それも風の便りに聞いた。
そんな作を、敢えてまた本にする作者自分自身の気持ち、苦渋に溢れてしかと掴みにくい。それでも、「此の作こそは」と思うまで「選集」には是非入れたいと願ってきた。妻にも、入れていいかと頼んだ。
迷惑をかけた「久慈」三姉妹、またその周囲のだれ一人からも、作者のわたしは、当時もその後も、一言の叱責も恨み言も受けず、今日まで来た。来れた。三姉妹の弟夫妻からは、出し続けている「選集」など、姉にも是非読んでほしいと思っていますと、手紙までもらっている。住所の知れている上の妹には、湖の本もみな送りとどけている。ありがたく、なにか「包まれている」といった感謝にわたしは堪えない。
じつのところ戦後まもない新制中学時代を「久慈」三姉妹と倶にできた期間は、姉とはたった十ヶ月足らず。次の妹とは二年足らず、死なれてしまった愛しい末の妹とは一年。そしてそれぞれその後は、「無いも同然」の僅かな期間に、たまさかの出逢いを分かちあうだけだった。
だが、わたしは、いまも中学時代の思いのままでいる。いられる。それを幸せに思うのは、まさしく血縁や義縁などをすべて超えた「真実の身内」「魂の血族」を信頼しうるからだ。かならずしもわたし独りの独り合点と思ってはこなかったのである。
ふつうなら、わたしはあの出版により「被告席」に立たされても仕方なかったろう。だが、そんな波風は、そよとも伝わらなかった。ただただ堪えてもらえた。
「真の身内」「魂の血族」を、生まれ落ちて以来、求め、捜し、つづけてきたわたしである。いったい、何人出逢えたろうか。
親子だから、夫婦だから、きょうだいだから、親類だから、好きあっているから、だから「身内」だなどという確証の決して安易にはあり得ないこと。
その「真の身内」を見出し見つけることの難しさ、嬉しさ。
わたしは、作家として、ひたむきにそれを書いてきた。「罪はわが前に」は、その証言の一作だった。いましも本に成りつつある新作「生きたかりしに」とともに、真実これを書くことなく、わたしは作家とは名乗れなかったろう。
最近に見直した映画「禁じられた遊び」の少女は、身のそばで容赦なく撃ち殺された両親の死骸から、頑是無く起ちはなれて彷徨い、たまたま触れ合うた「兄」かのような幼少年「ミシェル」を、慕いに慕う。しかもそのミシェルからも、施設へともぎ離され、名を呼び求め求めてやまない、「ミシェル」「ミシェル」「ミシェル」「ミシェル」……。わたしもまた、わたしを生んだ親たちを知らず、育てた親たちとも親しまず、ずうっと「ミシェル」との出逢いを待った。わたしは、そういう「こども」だった。八十になる今なお、そういう「こども」のままでいる。成長しなかった…のか。
* 「選集⑥」は、印刷所内の調整で、五月七日に本になって届くと通知があった。四月、すこし寛げる。しかし五月は病院通いも多く、よほどからだを追い使わねばならなくなる。
2015 4・7 161
* 今日は寒かった。部厚なカーディガンを着重ねて暮らした。下半身が冷えた。体調が安定せず、一度、猛烈な苦渋を烈しく吐いたりした。困ったことだ。
そんな中でも『生きたかりしに』を読み始めるととまらず、中巻分の初校ももう半ば過ぎた。探索の旅路がいましも佳境には入ってきた。もう右顧も左眄もしていられない、吶喊して読み続いで行く。さて「湖の本」の読者がどう読んで下さるか。出来得れば、たてつづけに新作の小説を「湖の本」で出し続けて大団円に持ち込みたいが。ほぼ書き上げてある新長編の方は、いっそ最初の仮題のまま、『或る寓話 猥褻という無意味』で行くか。それでも、これを「湖の本」にするにはちと勇気以上のものが要る。
とにもかくにも、書き続けねば、いろいろと。ただただ時間が惜しい。時間が欲しい。 2015 4・8 161
* わたしの「物語 ロマンス」の一起点ないし一基点となった、まだまだ作家以前、青年期の試作、いや中断作である「原稿・雲居寺跡」を、とうどう妻が電子化してくれた。これは湖の本の上中下巻を成す「生きたかりしに」にはほど遠いまさしく試作の中絶作にすぎないが、支離滅裂で投げ出したのではない。このまま長く長く書いて行くのがコワくなってしまったのだ、先へ先へ進むにはよほど勉強を積み重ねねばならず、さりとて、ひそやかに小説なるものに手を染めはじめて、むろん先途はなにもまだ見えていなかった。結局コワくなってビビったのだが、妻が機械の中へ書き入れてくれたものを読み返してみると、たしかに或る可能性ははらんでいた。「清経入水」や「風の奏で」や「雲居寺跡=初恋」などの芽を含んでいた。
学会長の馬渡憲三郎さんは、半端の儘でもいい湖の本へ入れて欲しいと云われている。丁寧に読み返し字句も点検し推敲して、それが可能で有効かを、よく考えたい。
妻の大変な御苦労さんであった長編「生きたかりしに」は、もし電子化して貰えていなかったら紙屑で終わっていたかも知れない。「湖の本」三巻と大化けしたのを克明に慎重に読み直し校正して、わたしの作家生涯にこの作を欠いていたら、いわば半身をもがれたようなものだったと、ゾッとする。あらためて、機械へ電子化のながながご苦労さんに、心から感謝する。有難う。わたしは小説や評論やエッセイを「創作」してきた。妻は作家秦恒平を創作してきた。いま、しみじみそれを思っている。
2015 4・13 161
* ここまで人生はるばる歩んできて、しみじみとむしろ「残り惜しい」と妻は云う。「残り惜しい」命を大切に生きて行かねばならぬ。この生を二度と繰り返すことはできないのだ。大切に味わい尽くして生きたい。早くに逝ったやす香、早くに逝った親しい身内や友人達。彼らのぶんも生きてあげたい。
2015 4・14 161
* 電子化原稿にしてもらった「初稿・雲居寺跡」を読み返しながら文章にこまかに鉋がけしていると、懐かしくもあり風情も感じる。やはり「清経入水」を選者のお一人が「現代の怪奇小説」と評されていたのと同じ怪奇美ということがアタマにあったようだ。まだ先が長いので早まったことはいえないし物語に実は記憶も定かでないので、ハテ、どうなるのやら。
2015 4・14 161
* 湖の本124『生きたかりしに』上巻の再校、あとがき「私語の刻」の初校が出そろった。中巻、下巻の進行も好調で、揃って日の目を見るのも遠くはない。出不精なわたしには信じがたいまで未知で初対面の大勢に進んで出会ってきたが、歳月は速やか、もうおおかたといえるほど人が亡くなった。
京都の秦の親たちが叔母も倶に三人とも亡くなり、主人公である生みの母にはとうのとうの昔に死なれていたし、実の父の葬儀では弔辞を読まされた。母が嫁ぎ先の長女も、長男も三男も亡くなり、次男は戦時中に亡くなっていた。実兄北澤恒彦にまで死なれてしまった。母方の伯母たちもみな亡くなり、本家を嗣いだ従兄も夫人も亡くなった。父方の叔父にも叔母にも、また伯母たちにも死なれている。母方祖父の生家である、東海道水口宿本陣の跡取りも亡くなった。ま、それが歳月だといえば仕方ないが、個性強烈で壮絶な闘いの内に果てていった我が生みの母のためには、心拙いこの末っ子がなんとかして書き継いだ長編小説を、或いは魔物のように母を嫌い、或いは仏のように母を慕った、そういう大勢にぜひ読んでもらいたかった。
* ちなみに父母を倶にした亡き兄北澤恒彦は、生前に瀬戸内寂聴さんとこの母を主題に対談していた。母が臨終の直前までかけて仕上げた詩歌文集『わが旅 大和路のうた』へは、信じがたいほど著名作家等の心のこもった激励や感動の便りが届いていた。富裕な名家にお姫様のように生まれ育ち、兄のことばを借りるならさながら「階級を生き直して」人のため子等のため敢闘苦闘の後半生を生き切った母であった。もっと生きて闘いたい母であった、「生きたかりしに」と辞世歌をのこして病躯を投げ出すようにして逝った。「変わった母」であったと今こそわたしは驚嘆する。
2015 4・15 161
* 気疲れはする、仕事もしている。
あす、聖路加の循環器外科でり妻の検査と診察に同行する。手術の日程なども決まるだろう。外来で、かなりの待機時間があるだろう、校正ゲラを三種類鞄、に入れて行く。
今夜ははやくやすむ、と云いながら寝床に躰起こして、昨日も二時頃まで校正していた。気分転換にはいま「後撰和歌集」の撰歌の四回目。五回選んでみる気。この勅撰集には贈答歌が多くも自然詞書の量も多くて、短篇小説の場面に触れている心地もする。しかし撰歌は結局は歌だけで自立し自律しているものを好んで選び残すつもり。べつにそれで何をする気もないが。「後撰・拾遺・後拾遺」三和歌集の秀歌を自分なりに選んでおいて楽しもうと、それだけ。撰歌は、どんな短時間にも、どんな場所・場合にでも、好きに楽しめて退屈しのぎには最適。
2015 4・19 161
* 病院の行き帰り、また外来でも、ずうっと「選集⑧」の長編『最上徳内=北の時代』に読み耽っていた。楽しんで、はずむように書いているのがよく分かり快い。『親指のマリア』で新井白石とシドッチ神父、『北の時代』で最上徳内、『あやつり春風馬堤曲』で与謝蕪村、『生きたかりしに』では上田秋成を書いてきた。わたしの「近代」への足どりである。他の人には書けない書き方でそれぞれに肉薄した、読み物時代小説ではない。ある意味では、やはり「こんな私でした」と書いている。そこに愛着も自負もある。願うは只の「作」ではない。「作品」に富んだ小説である。作品が生み出せないならどんな文学も批評も屑にすぎない、売れようとも。
2015 4・20 161
* 無事、退院。暫くは造影剤を脚から入れた後遺症があるだろうが。深切な配慮と連携とで、恵まれ診療であった。感謝。
疲れはした。きのう十時間寝たが、まだ睡い。明後日には印刷所との打ち合わせ。五月七日に「選集⑥」が出来てくる。五月八日には、妻の術後の診察。五月もまた、忙しく仕事を追い仕事に追われるだろう。『罪はわが前に』などの「選集⑦」も桜桃忌ごろには出来るのではないか。しかもうち重なって「湖の本」では、新作の長編『生きたかりしに』が上中下巻で間隔を詰めて出来て行く。「選集⑦」と「湖の本」三巻の新作とは、文字どおり表裏して、一風あるわが自伝にも成るだろう。なぜ書くのかを値から答えることになるだろう。
* さ、今夜もすこし早めに床に就き、そこで校正を進めてベット有効な時間を生みだし新しい別の仕事に取り組みたい。
今日病院へ来てくれた建日子と三人で築地の「宮川本廛」で鰻を食ってきた。そのときに建日子に示唆した恰好の小説、彼は全然気乗りをみせなかったが、なんだかわたしが書きたくなってきたから不思議だ。時間も体力も無いので手が出せないけれど、いい着眼だと思うがなあ。働き盛りなら、わたしならむしろかるがるしく手を広げないで大作に取り組むのだが。
むかし、桜桃忌の日だった、吉村昭さんといっしょに、あれで桜桃忌会合からの帰途に一休みした店で、しみじみ云われたことがある。その際のわたしは太宰賞を受賞したばかりの新米作家だった。
吉村さんのいわく、新人の時は、手持ちぶさたにウロウロしていると、見透かしたようになんでこんなのが俺にと思うような、埃かゴミのような見当違いの仕事の依頼もくるものだけど、ぐっと堪え、んな時こそハラを括って纏まった大きな作を考えた方がいい、軽い、柄にもない仕事でクセになった人は、そこから抜け出て質的に伸び上がるのは難しく、そのまま埃まみれに頽れて行きがちだと。
わたしは、大事にそれを聞いた。
わたしも安易に作品作品と自称していた時期があったが、作と作品とはちがうことに思い至って心したのも大きな気づきだった、もつともその気づきは「売れる」ことには直結しなかった。我ながら恥ずかしい仕事、金になろうともそれこそしたくない仕事の最たるモノだった。
建日子に書いて見ろよとすすめた創作、これはその気にさえなればしっかりした追究が利く題材。ただし私小説にしては詰まらない。生み創り出すこと、一人の若いヒロインを。
2015 4・22 161
* 半世紀むかしに書いていた「原稿・雲居寺跡」は作の重みに作者が負けて中絶していた。電子化した原稿を読み直していて、方法にも意欲にも不足はない。行文は歴然、もうわたしの文体に成っている。湖の本組みでみて80頁ほどあり、「中絶作」として保存しておき、湖の本で息を吹き返させてもみたい。
からだだいじに、眼だいじに。生き急ぐでも死に急ぐでもなく、「いま・ここ」に徹し、「為し成したい」ことをただ「為し成し」たい。I am NOT ABE!」は、確信。その上で、わたしはわたしの「いま・ここ」を作家として為し、成し、つづけたい。 2015 4・25 161
* 殺伐とした殺傷、欺瞞的な政治、大噴火・大地震・虐殺つづきの世界。顔を背け耳も目も背けていたいが。自作の世界にいろいろに浸っていられるのを身の幸と想っている。
「罪はわが前に」「生きたかりしに」そして「最上徳内=北の時代」
新作の「或る寓話」「原稿・雲居寺跡」「清水坂綺譚」
没頭していたい。
2015 4・26 161
* 『生きたかりしに』上巻を責了した。感慨深い。生みの母への思いが蘇ったなどという実感ではない。苦しい闘いの生涯を闘い抜いた母への鎮魂歌。同時に、不明なことのみ多かった自身の背景をおもに母方を通して見渡せたということ。
実の父へは、まだそこまでの思ひ(火)が燃えていない。だが、子としてでなく作家として関心はもっている。資料も材料もある。母と違つて父は闘うことのできない、インテリジェントな負け犬の生涯だった。気の毒な気持ちはもっているが、身内へ食い入ってくるちからは欠いている。
2015 4・27 161
* 他方で今日もたくさん校正ゲラを読んだほかに、例の「原稿・雲居寺跡」も読んだ。物語は鎌倉が京を制圧したあの承久の乱のころへ動いていて、二代つづいた藤原公家将軍が唐突に都へ還され、皇子将軍が新たに樹ったりした頃へ大きく動いている。書いたわたしがビックリするような語りと想像をこえた聴き手が出来ている。語り物の平家、琵琶平家の担い手がどうやら高貴な、うら若いほどの公卿に夜をこめて長物語を請われて話している、らしい。まだ、作者のわたしにもこの先の展開が思い出せないが、原稿はまだまだ書き継がれてある、ようだ。むかしふうに謂うならなかなか「きょうとい」つまりおもしろいわたしの日々ではある。なにが夢でなにがうつつなのやら。
2015 5・2 162
* ロシュフコー(今後は、ロ公爵と謂う)は云う、
「47他人に対して抱く信頼の大部分は、己れの内に抱く自信から生まれる」と。また、
「392 運も健康と同じように管理する必要がある。好調なときは充分に楽しみ、不調な時は気長にかまえ、そしてよくよくの場合でない限り決して荒療治はしないことである」と。
前者は謂い得ている。後者には他の判断もあり得ようか。
わたしの過去にあって、それは好調の不調のという判断でなく、生涯の行く手を決する意欲と覚悟の問題だったが、
① 大学院を見捨て、そこでしか生きられないと人にも謂われていた「京都」という基盤を一気に抛擲して妻と「東京」へ出、就職し結婚したこと。
② 貧の底の暮らしの中で、敢えて高価な支出に絶えて私家版で小説や歌集などを四册もだし、ワケも意味も分からぬママ、志賀直哉や谷崎潤一郎や小林秀雄らに送るという行為に出たこと。
③ 六十余の著書をすでにもちながら、騒壇に背を向け読者と相向かうような「湖の本」創刊に踏み出したこと。
少なくもこの三条は「ロ公」の誡めている「荒療治」に類していたのだとは考えていない。しかも明瞭に成功した。①で良い家庭を得、②で念願の作家の道へ太宰賞という大きなおまけつきでさながらに「招待」された。そして③は独特の文学活動としてもう三十年、百三十巻に及ぶ実績を維持継続し、「騒壇余人」として生き長らえ、「選集」刊行にまで到っている。
自慢でも自賛でもない、決然と行わねばならぬことが「ある」という、それに尽きている。
2015 5・3 162
* 「原稿・雲居寺跡」を読み続ける。おもむろに物語は近江の佐々木を芯にしながら鎌倉と京との葛藤が目立ってきている。フーン、そう云えばわたしは高校の頃から承久の乱に関心つよく、慈円の「愚管抄」をその方面の問題意識から読んでいた。思い出してきた。なぜか近江源氏の「佐々木」一党に身も心も寄せ始めていたのも、能登川という母の生国に膚接した佐々木の本貫であったからか、あきらかに後年の『みごもりの湖』胚胎の偽らぬ徴証であった。
2015 5・3 162
* もう久しくメールを用いているが、送るのも受けるのも難しいことは昔のママ。十数年前、わたしがメールを使い始めたときは、まだまだ極くの少数派であり、雑誌から違憲や感想やエッセイを求められた。
久しく体験してきて、もらうメールに、少なくも対蹠的な二種類があるのに気付く。「語りかけてくる」メールと、「自分のことを語る」メールである。前者が多いけれど、後者もん数少ないながら、有る。自分が昨日は、今日はどうした、今日は、明日はどうする、とそれだけを書いてくる。
「メールは恋文」と、十何年も昔にわたしは雑誌に書いた。そういう気味に書いたほうが、和やかになる。ひたすら自分のああしたこうしただけしか書けずに、それが行儀も趣味も良くて当然というメールからは、嬉しい懐かしい楽しい気分や親愛感は伝わってこないと。なにも、 I love youなどとべたついて書くべしなど云わない、相手への。向こうへの、優しい親しい思いやりの気持ちの伝わるように書いた方が、無難に和やかだという、それだけのこと。気が利くとか、気働きとか、要するにそういう情味が大事なのではないか、我の強い人ほど、風情の「恋文」は書けないようだ。
いいメールを呉れる人は、なつかしい。わがことに尽きる報告型のメールは、どんなに細かく弾んで書けていても、とかく、ああそうですか、で済んでしまう。相手の身や気持ちになれていないからである。
☆ 秦 恒平 様
大変遅くなりましたが、過日は「秦恒平選集」第四巻および第五巻を頂戴いたし、まことにありがとうございました。
身辺の雑用にまみれ、頂いたご本の中の小説を読み返してから御礼を、と思っておりますうちに、いたづらに時間が打ち過ぎました。
御礼がはなはだ遅くなりましたこと、ご容赦ください。
秋成の『背振翁伝』(茶神の物語)を読み返しているところに、「蝶の皿」や「青井戸」が収録されているご本が到来し、しばし茶の世界に遊んだことでした。
茶は事を酔わせます。
どうぞ、変わらずお元気でご活躍ください。 長島弘明 東大名誉教授
* 長島さんのメールをもらい感慨に耽っている。初対面の日、彼は東大のまだ学生ないしは院生だった、わたしを五月祭に呼び出しにきてくれた。五月祭の会場で東大生たちに何を話したかは全く覚えないが、そのあと長島さんと喫茶店「ルオー」で歓談、その際にわたしからも秋成を書きたい、彼からもぜひ秋成を書いてくださいという話題になった。わたしは彼に宿題を負うたのである。
その後、長島さんは上田秋成研究を大きく成熟させ、その業績は広く深く知られて、なんと、もう東大名誉教授に。ところがわたしは秋成という宿題を果たせなかった。講談社から書き下ろしで秋成をと依頼されたのも、果たせなかった。
とはいえ、わたしは、じつに、わたしの「秋成」を書きはしたのである。書き始め一応書き終えて三十年、ようやく日の目を見るのが、この十八日の上巻出来にはじまる「生きたかりしに」なのである。どうその長編がどうわたしの秋成探索に成っているのか、それは読まれれば分かる。
上田秋成研究に目をみはる一生面を開かれたのは高田衛さんだった。その研究をさらに深めたのが、高田さんには後輩に当たる長島さんであり、秋成を語るとなれば、いまや長島さんの研究に頼らねばならないが、「生きたかりしに」に組み討った頃は、高田さんに学ぶしかない時期だった、そしてわたしは、それを敢えて改めないままに、「生きたかりしに」を仕上げた。長島研究はまだ知らなかった事実をあえて改めなかった。その必要がなかったのである。
誰に読んで欲しいか、誰よりも生みの母の霊を慰めたい名草、が、ついでは高田衛さん長島弘明さんへ宿題として提出したい。そう思っている。願っている。
2015 5・8 162
* 後撰和歌集、六撰も繰り返したろうか。この和歌集はひときわ贈答、相聞歌や詞書の多い集で、たんに短歌を読むと云うより、まさに「和する歌」である和歌を読み楽しむ集になっている。わたしのように、自立し得た短歌としての秀歌を選びたい者にはいささか難儀であり、しかし「読む」面白さには多く恵まれた和歌集だと謂える。贈答や相聞は、当然に男女間に多く、詞書の伝える事情も男女間の消息をより色濃く伝えている。そこに物語めく状況が浮かんでいて、短歌一首の妙を鑑賞するという気味にはむしろ総じてやや離れている。その点を心得て読めば、時代史の感情的基盤すら観て取れる。
一人の男が、また一人の女が、幾重にも女たちと、また男たちと関わり合っていて、関わり方は淡泊というより多彩に恋愛や性交渉を露わにしている。寝たり、寝取ったり寝取られたり、飽きたり飽かれたり、またくっついたりしている。そんなのにまともに付き合っていると歌よたんに状況に奉仕してしまう。詞書の示す状況をかき消しても良しと読み取れる和歌の一首一首をわたしは選びたい。状況はすこぶる興味深くても歌は不充分なのは最終的には見捨てるのである。数は、少なくなるが。
☆ 後撰和歌集 春上中下より (秦恒平撰)
春霞たなびきにけりひさかた月の桂も花や咲くらむ 紀貫之
かきくらし雪は降りつつしかすがにわが家の園に鴬ぞ鳴く よみ人しらず
春くれば木がくれおほきゆふづく夜おぼつかなしも花かげにして よみ人しらず
大空におほふばかりの袖もがな春さく花を風にまかせじ よみ人しらず
ねられぬをしひてわがぬる春の夜の夢をうつゝになすよしもがな よみ人しらず
うちはへて春はさばかりのどけきを花の心やなにいそぐらん 清原深養父
あたら夜の月と花とをおなじくはあはれしれらん人にみせばや 源信明
しのびかねなきて蛙の惜むをもしらずうつろふ山吹の花 よみ人しらず
折りつればたぶさにけがるたてながら三世の佛に花たてまつる 僧正遍昭
みなぞこの色さへ深き松が枝に千年をかねて咲ける藤波 よみ人しらず
散ることのうさも忘れてあはれてふことを櫻にやどしつるかな みなもとの中朝臣
暮れて又あすとだになき春の日を花のかげにて今日はくらさん みつね(凡河内躬恒)
三月つくる日、久しうまうでこぬ由いひて侍る文の奥にかきつけ侍りける
またもこん時ぞと思へどたのまれぬわが身にしあれば惜しき春哉 つらゆき(紀貫之)
かくてその年の秋、つらゆき身まかりにけり
* 次の拾遺和歌集へくると、和歌がずんと和らいで美しく一人立ってくる。拾遺和歌集の撰もほぼ終えている。後拾遺和歌集の撰も終えている。とても愉しいこころみで、寸暇を繋いでは活かしながら和歌世界に遊べる。ありがたいことだ。
2015 5・10 162
* 『秦恒平選集』第六巻を拝受
『祇園の子』が冒頭にあるのに魅かれてすぐに拝読、「中村菊子」の姿を深く胸に刻みました。あの印象深さは、秦さんの筆でしか現出できないものです。笠原さんの文章も続けて読み、秦文学の深いところを見定めておられることに感嘆し多くを教えられました。
秦文学の陶酔感はあとをひきます。が
いま『糸瓜と木魚』を読んでいるところです。
いつもご厚意をいただき深く感謝しています。
「第六巻刊行に添えて」は秦さんの面目躍如。読みたい本を書いていただいて、当方 幸せです。
どうぞお身体お大切に。 敬 元講談社出版部長
* 優れた編集者に読んでもらえて感想も戴くのは、書き手の幸せである。
* 面目躍如と笑って頂いた「あとがき」を披露しておきたくなった。
* 秦恒平選集第六巻に添えて
まったく私撰の本であり、世常の例を逸れてもいいかと考えている。一例が、作の成った時期に順じて列べることもしていない、むしろ一巻一巻に作柄を考え選んでいる。この第六巻では最初期の一短篇に次いで、三つの中篇・長編を収録した。
短篇「祇園の子=菊子」は、最初期の私家版『斎王譜=慈子(あつこ)』の巻末から後に単行本『廬山』(芸術生活社)に収めたとき、帯の文を頂戴した永井龍男先生の、「祇園の子」ほどの短篇が十も出来れば「たいしたもの」というご感想が、編集者を通じ届けられた。ただただ「過褒」と頭を下げて恐縮するばかりだったが、文藝批評家笠原伸夫さんもまた「秦恒平における美の原質」という、生涯私感謝にたえない一文のなかで、祇園の子の「菊子」に熱い共感を語られていて、この批評は、その後私の創作を鼓舞も刺激もし、ある意味指標とさえなった。新ためて心より感謝申し上げ、巻末の解説などというのでなく、敢えて、小説「祇園の子」と本文中に相列べて笠原さんの文章を此処に頂戴した。どうぞ、お聴しください。
次いでの三作は、大学で学んだ美学藝術学に生涯「学者」として従事するに慊りず、「小説」を書いて思うさま探索や讃嘆を完うしたいと願った、その最も顕著な作ばかり、と謂える。
いったい、私の小説・文学への愛はよほど我が儘な「病気」じみて繁殖したのである。中学か高校一年のころ谷崎潤一郎の岩波文庫『吉野葛・産刈』に出逢って、ああこれこそ私の読みたかった小説だと胸が膨らんだ。『細雪』や『少将滋幹の母』や『夢の浮橋』に出逢えて私は文字どおり「谷崎愛」に燃え、幸せだった。心底「読みたかった」作がそこにあった。
だが、そういう幸せは、昭和も半ば過ぎて滅多に恵まれなくなった。
やれやれ、と、思った。
そして私は書き始めた、読みたくて堪らないのに誰も書いてくれないからは、「自分で自分の読みたくて堪らなかった小説を書く」しかない、と。此の選集の第五巻『冬祭り』を含め、それまでにちょうど二十作を選んだが、どの一作も、自分で書いて自分で読むしかない小説であり、今回第六巻の中長編三作は、ことに学究風の探索をわたし自身が楽しんだのである。
幸い、正岡子規と浅井忠を書いた『糸瓜と木魚』は瀧井孝作先生にお褒め戴いた。『あやつり春風馬場曲』は、かつて『風の奏で』が多くの平家物語研究家や愛読者を動かし得たと同様、蕪村研究の専門家からも「興味津々」の注目を浴びた。さらに国寶『秋萩帖』をめぐる知られざりし人渦を、千年をまたいで不可思議に表現した長編は、あの、小説家のフィクションに厳しかった京の碩学角田文衛博士から東京の私宅まで、「よくやりましたねえ」とわぎわざお電話をもらう作となった。
どれも、だれも、書いて読ませては呉れなかった、だから自分の読みたい世界を書いたのである。小説家が「小説」を創作し表現するとは、本質的にそういうものと私は心得ている。る
2015 5・12 162
* 「最上徳内」のような変わったツクリの小説にも、めったにお目にかからない。田沼意次から松平定信へ時代の動いて行くころ、幕府の蝦夷地探索一件が「北の時代」の幕を激しく明ける。その立役者で先駆者の最上徳内さんと此の私とか連れだって不思議に旅しながら、アイヌのこと、松前藩のこと、蝦夷地のこと、奥蝦夷千島樺太のこと、ロシア人のこと、探索一行の御普請役らのことを、克明に、歴史的にも今日的にも再現し検討して行く、愛らしく美しいヒロインも加わってくる。小説の中に、私独特の発明になる不可思議にリアルな「部屋」が用意してある。
もう終盤の暗転へまで小説は、物語は近づいている。読める人には、関心のある読者には滅法興味津々であるだろうが、とことん読み物に骨までくたくた煮付けられている人の多い昨今では、わたしの物語・小説は天然記念物なみだろう。
2015 5・13 162
* よけいなことだが、昨日、国家的栄誉も肩書も得ているある先輩作家の長編小説第一頁の冒頭一行半を読んで、音をあげた。慨嘆した。
私の父は山東半島の貧しい家に生まれたが、清朝末期に師範学校の入試に合格して、二年間の勉強をしたのち、優等で卆業したのだそうだ。 原作
短いような長いような文中に、「して」「した」した」が三箇所、まこと無雑作に不用意に重ね使われている。文体の節度からは、「師範学校の入試に合格(し)、」と引き締め、次の「二年間の勉強をしたのち、」も、「二年の勉強ののち優等で卒業した(そうだ)。」とすっきりしたいところ。
何よりも<「したのだそうだ」などという結びようのウソクサク、陳腐なこと、「した」「のだ」「そうだ」の鈍重・凡庸なこと、読むに堪えない。
さらに云えば、小説冒頭第一行の書き出しであるからは、「父は」と書けば「私の父」に決まっている。「妻の父」でも「だれそれの父手」でもないのに、ただもう、慣い性のごとく無意味に「私の」と添えている。この作家、この程度の推敲が出来ないのだろうか。これでは、作は書けても作品は添わない。長編小説書き起こしの第一文ではないか。そもそも出版社の担当編集者は何をしている、平伏して見遁していたのか。
わたしなら、こう推敲する。
父は山東半島の貧しい家に生まれたが、清朝末期に師範学校の入試に合格、二年の勉強ののち優等で卒業した(そうだ)。 秦の推敲
わたしが編集者なら、この原作一文を読んだ瞬間に推敲をと原稿をお引き取り願っている。
* 小説という創作には、文章と主題思想との両面がある。読み物はべつの慰みもの、ここでは何も云わないが、最近の文学、あまりにも文章を涜し切っていないか。すぐれた主題や思想を優れた文章で書けてこその藝術であり文化なのではないか。駆け出しの素人よりも程度のワルイ上のような小説の書き出しが、大出版社から堂々本になって出てくる。こわいことだ、おそろしいと思う。
名編集長でもあった久英さんが、ある女性の書き手から「助言」を熱心に求めている場に居合わせ、何と云われるかと聞いていた。「文体を」 それだけだった。それで充分分かった。作家にとって文体は指紋以上の源泉である。
上の著名な大作家は、どんな優れた文体の持ち主であるのか。上の漢字ではあまりに文品、お粗末ではないか。
* このような場所で「私語」を走り書きしているのと、作家が小説を世に出すのとは、やはり問題がちがう。すくなくもわたしは作家として創作を本にして出すときは、推敲に推敲を重ね自分の文章・文体を磨きにかけている。当然ではないか。
* ちょっと必要あって書き取っておく。「チャタレイ裁判以来、刑法一七五条にふれる「わいせつ」とは、① 徒に性欲を興奮または刺激せしめ、 ② 普通人の正常な性的羞恥心を害し、 ③ 善良な性的道義観念に反するもの を謂うのであり、藝術作品だからといって、基本的にこの規定を免れはしない」とか。(今夕、東京新聞夕刊「大波小波」)
わたしが今にも書き上げそうな長編『ある寓話 ないしワイセツという無意味』が、どうなるか。①の「徒に」の意図はない。②の「普通人」「正常な」はあまりに曖昧、年齢・性別・環境・体験により到底一律に規定できない。 ③の、「善良な」とは何を指さして謂えるのか、「不良な性的道義観念」も在るというのか。「道義」とは何か。だれが道義と認めるのか。
ま、そんな疑念をもっていて、たから「ワイセツという無意味」とわたしは認めている。地位の高下とも教育の高下とも収入の高下とも趣味や美観の質とも、ワイセツは無関係で、ワイセツそのことは誰しもにひとしなみ等質に働いている。
2015 5・13 162
* 昨日も今日も「選集⑥」への佳いお手紙をたくさん戴いているが、今夜は、まだ作業を続けたいので、メールだけを。
☆ みづうみ、お元気ですか。
選集第六巻頂戴しました。こんな光栄なこと、人生でめったに経験できるものではありません。ありがとうございました。今回のご本について、自分の感想をまとめるのに時間がかかってしまいました。
今回の配本の中で、今までその存在すら知らず未読であった笠原伸夫氏の、「秦恒平における美の原質」に感動、興奮してしまいました。わたくしの読みたかったのはこのような「秦恒平論」なのです。優れた文藝評論だけがなし得ることですが、秦恒平について、「祇園の子」についてだけでなく、わたくし、自分自身についても目を開かれた思いです。
「京都的なもの」「血の昏さ」というキーワードを見つけて、ずっと探していた言葉を見つけたと思いました。
みづうみの作品における「魂の血族」とは、「魂のエロス」を「滴らせる」「京都的なもの」の結実する「女人像」という笠原氏の指摘部分(わたくしの解釈ですが)は、わたくしにみづうみの謎をとく鍵の一つを教えてくれたようです。
祇園甲部と乙部の違いは「祇園の子」を読まなければ、わたくしのような江戸っ子は生涯知らずにすませていたことで、最初に読んだときにはなんともむごい実態に衝撃を受けました。悪意がなくても、無知というのは罪深いものです。たとえばハンブルグのレーパーバーンなどと違って、表面の舞妓さんの華やぎに隠されているだけに、祇園の陰湿な商売はやりきれないと思いました。世界中、どこでもどの時代にも存在する性の搾取と差別の構図で、いつ「祇園の子」を読んでもわたくしは涙を禁じ得ません。自分が菊子の立場にいなかったことは偶然の幸運にすぎないのですから。
菊子を書かずにはいられなかったところに、秦恒平の「原点の京都」があると思います。『初恋』のヒロインに対するものと同様に、被差別の側への深い共感、差別する側にいることへの呵責が、秦恒平文学の血の色です。
みづうみが美空ひばりを大好きな理由も「祇園の子」菊子に対するものと根が同じではと感じました。
正直に申し上げると、私は美空ひばりを好みません。天才だと思いますし、テレビやラジオから流れてくるその歌に、うまいなあと思わず聴き惚れるのですが、自分から触れようと思わないのです。どこがどう好きになれないのか説明が難しいのですが、それは「演歌」に対するある種の嫌悪感です。彼女の演歌は、日本のどうしようもない暗部なのです。日本の「血の昏さ」を感じるのです。山口百恵がどうにも苦手だったのも同じ理由によるものでしょう。美空ひばりも山口百恵も、「菊子の系譜にいる女」です。きれいごとの裏側で、被差別の側に生き、泥水を飲んできた女です。
ある高名な仏文学者が、留学から帰国して下船した瞬間、美空ひばりの歌が聴こえてきて、「ああ日本に戻りたくない」と痛切に思ったと述懐していましたが、自分のことのようにわたくしには理解できます。日本人の血にしみこんだ昏さが陰々滅々と美空ひばりの「演歌」に流れているような気がしてなりません。たとえ明るい歌を歌っていてもジャズを歌っていてもそれを感じてしまうのです。美空ひばりが悪いのではなく、美空ひばりにあのように歌わせてしまう「日本的な何か」に、耐えられないものを感じるのです。それは後ろめたさのようなものともいえます。
みづうみの「魂の血族」になる資格のようなものが、もしあるとしたら、菊子や美空ひばりと同類でなければならないと思います。彼女たちの性根のすわった、命がけのさまは、到底ひ弱なインテリ女もどきのわたくしの力の及ぶところではありません。フラメンコやタンゴのほんものの名手を観て、その全身から発せられる強烈な性と生に圧倒される感じと似ています。
みづうみのヒロインの中で、わたくしに一番近しいヒロインは、おこがましくも厚かましくも申し上げれば、『あやつり春風馬堤曲』の「浦島朋子」でしょう。
『秋萩帖』は、秦恒平作品の中で、一番読みこなすのが難しい作品です。わたくしは未だ充分読みこなせていないのです。再挑戦の良い機会で、今度こそ「読める」ようにと願っています。
『生きたかりしに』については是非一度に三冊いただきたいのですが、それはご無理でしょうね。読者のわがままにつきあっていたらみづうみの身がもちません。
昨夜の私語のご様子で、心配しています。どうぞどうぞお大事に。今日も明日も明後日も、毎日をお身体をお楽に、お心を少しでも楽しくお過ごしくださいますように。 漆 花漆こまごまと咲き日にけぶる 上村占魚
* ありがたい、メール。こういうメールは、研究者からもめったには貰えない。いい読者はありがたいし嬉しい。書き手冥利に尽きて、頬を熱くする。
ことに「漆」さんの美空ひばりへの言及は、しっかり胸に届いておのづと「私」をも論じてくれている。こういうひばり観を私はなんら拒絶しないし、先行理解の範囲内であり、「それでも」と踏み込んできた私自身の弱者を思い強者を悪んできた歴史がある。上田秋成の境涯に自身を想い寄せながら、ついについに『生きたかりしに』を書き上げたのもその底意からだ。出来のよろしさも願うは当然ながら、その前か先かに人生苦汁の自問自答があったし、生みの母にも、兄恒彦にもあったに違いない。
今日も妻と往来の車中で話していたのだが、「母」のことは書いてやりたかったし、身近に読んで欲しい人達も、母方、父方に数多い。が、「父」のことは、どうも書きにくい、書きたくもなく書いては父に気の毒という気がある、と。
それにしても、『生きたかりしに』では、私の「秋成葛藤」がどう「小説」として現れているかに自身興味を持って読者の批判を願っている。そもそもは講談社から「秋成」を書き下ろしでという依頼があった。依頼の意図にはおもしろい時代小説をという希望があった、が、私には、それが苦手、というより時代読み物は書きたくなかった。さあ、どう書こうとたゆたっているうち、井上靖さんに誘って戴いた中国旅行がとびこみ、「華厳」のような自負と自愛の作は成ったけれど、「秋成」主役の長編は飛沫をあげて消散した。『生きたかりしに』へ化けていったのである。
2015 5・20 162
* 朝一番に、銀行から、選集⑥と湖の本124との支払い送金を終えてきた。二つが一気に来て金額が張ったが、張ろうが張るまいが、見返りの収入はゼロなので、出来るだけを出来る間は続けるというだけのハナシ。自然とお金が無くなるか命が無くなるか、うまくバランスしてくれるだけを希望している。
日盛りながら暑くもなく、行きは駅まで市の花バスで。帰りは妻と歩いて帰った。銀行での支払い事務は、用紙への書き込みなどが煩雑で、こっちは数字も見にくい視力なので、妻に付き合ってもらわねば出来ない、情けないが。
2015 5・22 162
* 「選集 第九巻」を編成して原稿を読んでいるが、掌篇小説集や短篇小説小説集とは別に前半と後半に自愛の独立した短編小説を各三作用意している。
とりわけて、「加賀少納言」。
日本の作家のだれ一人、源氏物語を数次現代語訳した谷崎潤一郎でもこんな紫式部を書いてはくれなかった。どう見わたしてもこう書ける作家は、過去にも今日にも一人もいない、過去でいえばもしかしたら上田秋成が書いた書けたかもしれない。「太陽」に発表し、この「加賀少納言」をはっきり評価してくれたのは誰あろうロシアの文学者たちであった。わたしの小説で唯一外国語、ロシア語に飜訳されているのが「加賀少納言」なのである。この小説は、あれほど汗牛充棟ただならぬ源氏物語研究で、この小説以前に「加賀少納言」という未知の名前に解答を与えた学者も一人もいなかったし、今も、学者からの解答は出ていないのではないかと思う。
この「加賀少納言」は、紫式部集 つまり彼女が自選した家集の掉尾を飾る歌の読み手なのである、が、本来、家集の最後の歌は、歌人本人の述懐歌か、よほど世に知られた大家または名家の作で結ぶのが「習い」だった。紫式部ほどの人の家集なら当然そうあるべきに、そうではなかった。「加賀少納言」 これは今もなお研究者世界で実在が確認されていない人物なのである。男とも女とも、明瞭でないが、女であろう。
わたしの小説「加賀少納言」は、わたしの最も自愛、最も自信の短篇作品として選集⑨を飾りたいと自負している。はっきり、それを書きのこしておく。古典や文学をこころから愛し愛読している「いい読者」に心から捧げたい。
* 同じ、「選集⑨」では、後半の「於菊」、前半の「月の定家」も、「加賀少納言」なみに愛読されたいと願っている。
2015 5・22 162
* 「月の定家」(しゆんぜい さいぎやう さだいへ)を読み終えた。わたしの和歌観である。わたし自身に気概の在った頃の作だと思われた。
ついで短編集の「修羅」を読み直す、初めて読むほどの感慨がある。
2015 5・23 162
* ぐるうーっと遠回りして、漱石や芥川のことから、「これは平の宗盛なり」なんぞと名乗って出る能の「熊谷」の道行きについてまわりながら清水坂の物語へ誘い込む算段、わたし自身がおもしろがってどんどん運ぶにもなかなかシンドイ成り行きの不思議さ怪しさで。読み返しながら、この新作のロマン、どこへ漂流して帰港できるのだろうかと、不思議がっている。
また「八重垣つくる」「衛士の焚く火の」「おののしのはら」「わが身よにふる」などと続いて行く苛烈な「ワイセツ」の物語も、どう鉾をおさめるのか、そもそ発表できるのか、死ぬる日までわれ一人で読み書きを愉しんで、あとは野となれと放り投げてオサラバするか。今日は、そんなことを考えていた。明日も明後日も考えます。
2015 5・23 162
* 趣向の短編集『修羅』の十二篇を読み始めた。何が出るやらホイと美術品を見せられた印象と刺激を能楽の題にからめて現代ものの短篇小説をという依頼だった、身を乗り出して、楽しんで書いた。書きながら泥も吐いていた。いま、読み直していて、ほかの人は知らない、わたしはホクホクと面白く懐かしく、はやく選集⑨のゲラで校正したいなとそぞろ気が急いてすらいる。
妻はいつも言う、あなたって幸せな人ねと。わたしは一つの覚悟としても、まだまだ、まだまだ足りない、努力も勉強も技も足りないなんて気張ったことは言わない。思わない。ウソクサイ。出来たモノは出来たモノなりに精一杯に身贔屓もし喜んでもやり愉しませてもらう。そもそも書き殴ってやっ付けた仕事など一つとしてしていないと思っている、それこそがわたしの義務・責任・働きだと思っているからだ。
2015 5・24 162
* 奥田杏牛さんから、「素(そ)の俳句 瀧井孝作先生名句鑑賞」「生(き)の俳句 句集釈迦東漸自注」という小冊子二冊を一つ函にいれたのを送ってこられた。瀧井先生の随筆「素のまま生のまま」から分けて題されたもの、瀧井先生の「名句」はさすが際だって「素のまま」胸に届く。「俳句ハ物体ヲ示ス」と。懐かしさに胸が熱くなる。巻頭巻末から引いてみる。
やはらかい春の夕日の伊目の山
夏姿真向(まむき)に甍急なりけり
短夜の鐘のねいろに目覚めけり
浮寝鳥別別になるうねりかな
春淋し居るべき人がもう居ない
硝子戸の中の句会や漱石忌
もう一冊奥田さんの集も、同様に。
霧の 橋車のわれは渡りゆく
李白哭詩晁衡碑惨菊花かな
雙塔や華厳寺草の枯るる丘
少陵原苅田の道を興教寺
鵲の遊ぶ華厳の寺の庭
がまずみの実や純白の佛坐す
相変わらず漢字過多で句境まっつ黒く重たい。俳諧の軽みおかしみの妙味にあまりに乏しい。文字を弄くり用いて胸を張っているとみえる。すくなくもわたしの愛する俳句の妙は、こうではない。残念。とても「生(き)」のままとは見えない、漢字に靠れて造り立ててある。
もう一度瀧井先生の方を観て行くと、
鮎の川西日になり手賑へる
白牡丹花びらのかげほの紅み
しぐれ行く山が墓石のすぐうしろ
かなかなや川原にひとり釣りのこる
落葉焚く煙の中のきのふけふ
これが俳句だ。
漢字一字の字義に頼んで、五七五になんでもかでもやたら押し籠もうというのは無粋な邪道であり、当節の俳人たちのやたら落ち込んでいる見当違い、「俳」知らずの堕落である。
「鷹」巻頭、小川軽舟の「利休忌や刃短き花鋏」も、短剣に自ら伏した利休ではあれ、「刃短き」が俳句の妙にとどかず武骨に寸足らずで、「花鋏」への詩的な繋ぎに欠ける。
俳句は難しい。さればこそ佳句名句に出逢う嬉しさ、曰く言いがたい。上の瀧井先生の句、みごとではないか。
2015 5・24 162
* 『修羅』一日かけて半分六篇を読んだ。「神歌」「三輪」「八島」「小督」「海人」そしていま読み終えた「山姥」が凄かった。いやいや、みな、わたしの滅多に使わない批評語の「凄い」「怕い」淵の深みを美しく書いている。「選集」第九巻 楽しみになってきた。
2015 5・24 162
☆ 前略 ご免下さい。
ご恵投に与りました「生きたかりしに( 上) 」 本日拝読し終えました。
秦様のアイデンティティを探す旅、興味深く存じましたが、まだ様々な伏線をはりめぐらせているという段階で、重要な事実は中、下によって明らかにされるのだろうと憶測しております。
私の父も 大倉喜七郎と芳町の芸者との間に生まれた子で 生後まもなく喜八郎夫人*子の実家**に養子に出されているだけに、今回の御作、まことに身近に感じております。 草々 恋ヶ窪 歌人
* 中巻へ、下巻へ転じていってたしかに驚かれるだろうと想いはする、が、言われている「伏線」とか手持ちのタネを「明かす」というようなことは、この私小説に関しては百パーセント無い。著者である私自身が何の推測も見当も持ち得ずに、ただもう一歩一歩脱線も覚悟で前へ歩いて歩いて見つけたり知ったり聞いたりしたことが、その時々に書き込まれている。時系列を正すことも、仕掛けをすることも、したくても殆ど不可能だった、何一つ出来なかった、であればこそ、私自身の「実感」として「事実は小説より奇」という気配のこの世にあり得ることにただ圧倒されたのだった。ただ、圧倒されっぱなしでなく、かなり冷静に普通の叙述を守った守ろうとしたのである。
2015 5・26 162
* 祇園の「辻」さんから、素晴らしい和菓子、京に咲く梅「おうすの里」を送って戴いた。「恋しくば尋ね来てみよかつらきや名柄の里のうらみ葛の葉」というたぶん即興の歌でわたしを名柄の里へ導いて下さった京大N名誉教授とはこの「辻」の止まり木にならんで盃を含んでいた。わたしの純然京ことばで書いた「余霞楼」という小説の題も、N先生の連載されていたエッセイの題からもじって頂戴したのだ。なつかしい、とても。
* 祇園北側の路地なかあちこちの店では、京都へ帰るつど、何人もの、当時既に高名を遂げられていた「先生」がたと止まり木に並んで酒を飲んだ、うまいものを食った。わたしは、これで生来人なつっこいタチで、特別ものおじもしないから、どんなえらい先生とでもすぐ話し合うようになった。わたしのしてきた、している仕事も多少は役に立ってくれた、こと歴史や文学や藝能や古美術に関してならわたしは聞きたい教わりたい質問がいっぱいいつも有ったし、おかしな文士だと笑っても貰えた。いまでも妻が言う、わたしも身に沁みておもうけれども、「いつでも、お年寄りに好かれる」のである。「売れないワケよ」とまでは言われないが、ま、そんなところだ。作家生活の大半をわたしは、太宰賞への招待を筆頭に、大先輩、先輩の作家や批評家や先生方に手をひいて表へ表へ引っ張り出してもらえた。わたしも、恥ずかしからぬ答案を提出する姿勢と気持ちとで手を抜いた仕事はしないで来れた。先生方に恥ずかしい仕事は見せられなかった。
2015 5・26 162
* 昨日『修羅』の十二篇を読みおえて、「鷺」へ。これがもうわたし以外の誰が書こうか、愉しむだろうかという濃艶な幻想境で、鏡花にもこの小説が抱き込んだ背景はとても手に入っていない。ぞおっとする凄みに美しいフラグメントがきらきらしていて、堪能した。まこと自分で書いて自分で愉しんだ物書きではあったと思わざるを得ない。誰にでも書けるようなものを書いていて何が楽しかろう。
今朝は「孫次郎」を読み始め、次いでは「於菊」へ。身辺雑記風の私小説が純文学めいて流行っていた頃、わたしはそんなサラリーマン小説など書きたくなかった。「蝶の皿」であり「清経入水」であり「秘色」だった。
2015 5・27 162
* 正午予約で、診察室から声のかかったのが午后二時。めずらしく校正ゲラが無く、「生きたかりしに」上巻を読み返してきた。生母の短歌を多く点綴して、わたしの歌もところどころに置いたのが、唱和ではないけれど呼び合っていて、ときどき胸を熱くした。また後半の七十頁に及ぶ大和路、近江路の旅を建日子と倶にしていたのも、子と父とのかけがえない懐かしい記録になっていて、この小説がただもう一途の探索で終わっていない余裕も見せていると、喜ばしい気がした。
幸い、検査データ、肝臓ほか全てに問題なく。次の診察は九月。
何一つ道草食わず、帰宅。暑さに草臥れるが、少し元気にもなっているか、と。
とはいえ、頸のまうしろから肩が重く痛む。やはり疲労と思う。すこし休む。
2015 5・27 162
* 短編小説こそ、おもしろくなくてはお話しにならない。と、思います。
2015 5・27 162
* キムタクと大の贔屓の上戸彩とが演じている「アイムホーム」を時折見ている。血縁家族のあいだの微妙な断絶を問題提起の断続の中にあらわしていて、わたしのように複雑に過ぎた幼少期をへて大人になってきたモノには、ややゆるくは有るけれど大方の人には見過ごされている微妙な危機的罅割れを上手くドラマへ持ち出している。
生みの母のことをひとまずは形にした。実の父のことには、手は掛けかけてはいるが、どうなるとも分からない。母の場合は大げさには名誉回復してあげたい気持ちが働いた。それだけ、わたしの内側に愛情ではない敬意が生まれていた。少なくもわたしが懸命に整理し得た母の短歌には、真摯なつよいリズムが息づいていて、強く肯くことにためらいがない。生きる短歌、うったえる「うた」としての短歌を母は死ぬる日まで胸の奥から噴き上げていた。けっして泣き言の歌なんかではなかった。
父の遺している文章や記録は大量にのぼるけれど、終始謂えることは、歎きと逃避と敗北のグチに近い。だれもが穏和で頭のいい坊っちゃんだったと教えてくれるが、敬意はくみ取れなくて、触れて行くのはかえって気の毒という気がしてしまう。
* 今度の上巻では、兄恒彦と息子の建日子を、それぞれに等身大に紹介できていたのではないか。母と兄とは「同志」的に近づいて行けた。わたしは、母を嫌い抜いた、たぶん血の疼きから。わたしは共産党じみはしなかったし火炎瓶とも無縁の少年。青年時代を過ごした。短歌と読書と茶の湯と少年らしい恋と。だから、その後の人生でわたしは闘えた。今でも秦さんは烈しく闘っていると見ている人が少なくない。ナニ、したいことをしたいようにしていて、それが出来るように努めているだけの話。この後のわたしに立ちふさがって来かねない問題は、一つだと思っている、即ち、死、自死。生母はおそらく自死したろう、それは兄恒彦の確信に近い推測でもあった。実の父も、と想われる。そして兄恒彦も自死した。あとを追わねばならぬ理由は何一つ無い。しかし先のことは分からない。
* ま、仕残しているしたい仕事の山登りをせっせと楽しもうと思う。みなさん、くれぐれも自愛せよと誡めて下さる。有り難い、が、したいことが有る、有るという生きる幸せを、大事にし満喫して生涯を終えたい。仕事に終わりはない。
2015 5・28 162
* ふと手を掛けた資料棚で手に触れたペーパーが、川端康成の掌小説の一編「心中」だった。妻も居たので、声に出して読んでみた。
川端といえば掌の小説は有名な一つの畑で、「心中」は、なかでも「絶頂の秀作」だという評判もあるらしいが、正直、全然感心できなかった。なにより文章がいけない、「だ」「のだ」と聞き苦しい押しつけが雑音のように繰り返されて効果なく、話そのものも、私の思いからはナニの発明も感興も刺激も呼び起こさない、頭でっかちに下手な計算づくでムリにつくったモノだった。ウソならウソにもっと見事に感動的に徹すればいい。あまりに、半端で、結果、ウソクサイだけ。こんなのが「絶頂」では他はどうなのと寒々しい。
2015 5・29 162
☆ まいにち暑いです
「生きたかりしに」、はじめから惹きこまれて、ほぼ一息に(上)を読みました。
あとは、とりとめのない感想です。
まわりの方々が、亡くなるまえに本にしておけば、ということを気にされていますが、今でよっかたと思います。
なにかのためのものでなくて、完全に一つの「作品」ですから。
テーマがはっきりしていて 読みやすかった。
53ページに、誤植。
36と71ページの、「がったり」という言葉がめづらしかった。
いつかもっと丁寧に、書こうと思いますが。
自死のことも。
とりとめのないことを、それでも、捕まえておきたい、と、たいへん。
おゆるしを。 柚
* 亡くなった兄は知り合った当初むしろ賛成でなかったが、わたし自身は、作家生活のハナから、よく読んで下さり、感想を持って育てて下さり、なんらか生涯に響き合うモノを感じて下さる読者を、血縁や俗縁を超えて心の「身内」と想い、親しく迎えてきた。血縁や俗縁には偶然がある。読者との縁には「作品」というよかれあしかれ命が在る。
* 「がったり」という物言いはわたしの辞書にもなかった、母の家集のアタマの、早い内に、「がったりしてはいけないよ」と言われ、しかし真実「がったりしている」という述懐があった。感じが伝わるので、わたしもつい一度どこかで用いたはず。
誤植の指摘はありがたい、が、著者自身でもなかなかそれが見つけられない。校正は怖いしごとである。
* 『親指のマリア』が、まろやかにスムーズに読みすすめられることにホッとしている。この京都新聞朝刊小説は、わたしの作の中ではむしろマットウな書き方に属しており、いわゆる著者・作者ないし準じた語り手が作中へ割り込んでいるいる形跡を持たない、つまり客観叙述に終始している。「小説」とはふつうこうであって、「或る折臂翁」「蝶の皿」「廬山」「閨秀」「墨牡丹」「マウドガリヤーヤナの旅」「華厳」なども私小説ふうの語り口からはっきり離れている。紫式部集に取材した『加賀少納言』、俊成・西行・定家を通して勅撰和歌・晴れの和歌を説いた『月の定家』また上田秋成の晩年を怪談にした『於菊』などもそうで、ま、手堅い書き方に属している。
語り口に「趣向」をもちこんでいっそ方法的な実験をわたしはもともと好んでおり、「清経入水」「秘色」「みごもりの湖」「風の奏で」「雲居寺跡」「冬祭り」その他多くは、たとえ人物や歴史や伝奇にふれても、手が込んでいる。「最上徳内」のような歴史の日本人を検証し顕彰て行く創作でも、わたし自身類を見ない実験を叙述にも表現にも展開にも推し進めている。
白石と徳内とはわたくしの近世理解・近代観測の太い軸芯を成しているつもりだが、その書き方は、はっきり意図して、客観叙述と主観趣向とを際だたせてみたのだった。しかもともに主題の核心部には人間性への合理的な愛と人間・弱者差別への憎しみとが置いてある。書いた順序は先後したが、白石のシドッチ審問こそは日本の近代への幕開きを告げており、徳内の蝦夷地での活躍や成果は近代へ向かう歴史のつよい推進力であった、二人とも、海の道を認識し世界の広さへ揺るがぬ視線を向けていたのである。
2015 5・30 162
* 『最上徳内』『親指のマリア』という、わたしにとって方法を全く異にした二大長編を思いこめて読み返している。まさしく私自身が心より読みたかった作を、自分自身で書き上げていたの。そういう機会を与えられた岩波書店「世界」と京都新聞社に感謝する。
そして、昭和四一年(一九六六)十一月十一日、それは「清経入水」で太宰賞受賞よりも、作家として文壇に迎え入れられたよりも二年半も以前に起稿し、原稿用紙百五十四枚で断念中絶の『< 原稿> 雲居寺跡』も読み返しているが、かえすがえすも惜しい中絶だった、希望をもち根気よく想像力とともに書き継いでいたなら、少なくも「何か」に、後の『風の奏で』とは異なる長編小説に成っていた。成らずじまいにしておいて良かったのだという納得も実は深いが、この苦悶と残念とがあってこそ、『清経入水』もその後も在りえたには万々相違ない。
この未発表中断作、ぜひ公表して欲しいと馬渡憲三郎さん(藝術至上主義文藝学会会長)に奨めて戴いている。すでに『清経入水』や『風の奏で』を懇切に論じてくれている原善君にもこの原資料である<原稿>を呈上してもいいと思っている。もとより「作家以前」の懸命の、しかも思い入れも過ぎたる試作ではあるけれど、出る「芽」は出始めていたのではないか。
* と胸をつかれるほど『原稿・雲居寺跡』は奇っ怪にものがたりを奥の暗闇へまで進めていた、わたしは皆目記憶していなかった。しかし、いかにもわたしの書き起こしそうな場所へ場所へとはなしは運ばれていた。
心底、いま、驚いている。まだもう少しくは費やした用紙原稿の残りが在る。久しいわたしの読者は、喜んでくださるかも知れない。
* 予期していたよりも踏み込んだところまで「原稿・雲居寺跡」は書けていた。湖の本にいれて中編、優に七十頁ほどはある。あまりにもしどけない中断ではなく、その先が朧にも読み取れなくはない、が、だから書き継ぐということも、作の「気合い」からして自然ではないだろう。あえて謂うなら、總緒の纏まりすらかんじとれるところまで書けていた。なぜアトが継げなかったか、当時の私には荷が重くなったのであろう。
妻が読みにくい原稿から、昔むかしのようにとにかくも電子化してくれて、まことに有り難かった。それなりにこれは大事な一記念作に相違なく、「生きたかりしに」に次いで、大きな儲けものになった。
* こういう仕事が、実を言うと、まだ幾つも、それも作として嵩のある書き置きものがまだ幾つも見つかっている。しかし、原稿用紙へ手書きの儘では、またノートブックへ書き置いた儘ではニッチもサッチも行かない。
* さて。これからは、徳内サンと白石先生・シドッチ神父とのお付き合いが当分続く。ありがたい、間違いのない「身内」である。
2015 5・31 162
* 「原稿・雲居寺跡」は、勤務先医学書院の400 字原稿用紙を借用している。
表紙は二枚。二枚ともに「雲居寺跡」「菅原万佐」「66.11.24~」とある。この高校の頃から用いていた筆名は、「新潮」編集長酒井健次郎氏に「本名で書きなさい」と否定されて以後まったく使っていない。この「原稿」が「新潮」と縁が出来るより以前の作だと分かる。 一枚目の表紙の裏には、題が、「雲居寺物語--平曲秘聞--」としてある。わたしの関心がすでに「平家物語」ないし「平曲」の成立に向いていたことが確認できる。この意図は明白に後の長編「風の奏で」とも「雲居寺跡」とも対応している。中学二年、初めて自前のお金をつかい岩波文庫の「徒然草」また「平家物語」を買い求めたことのこれは顕著な刺激また示唆の享受だったと分かる。この「原稿」段階でさらには、やはり岩波文庫の旧版古書「梁塵秘抄」を読んだこと、「愚管抄」にも接していたことが大きな意欲になっていたとも分かる。
2015 6・1 163
* わたしの文学的な産物は、短歌にはじまり小説へ転じ、双翼のていに比較的広範囲な論考・エッセイも書いてきた。同じ小説でも、物語もあり、そうでないのもあり、私小説もある。それらの全部を包括して秦恒平の文学世界を纏めてくれるのは、率直に言って簡単ではないと思う。わたしを、比較的よく分かっていて下さる人ほど、『秦恒平論』は秦恒平自身が書けと言われる。どうも、もうそんなヒマもチカラも失せようとしている。出逢いたいのは、わが身内の闇に叡智の光をさしこんでくれる真の批評家、わたしよりもずっとずっと大きい深い論者なのだが。
ま、夢のような望みは棚に上げて、一作、一編、一巻でも心ゆく仕事をし続けたい。
2015 6・1 163
* 「最上徳内」への選集あとがきを書いた。「祇園の子」とも「みごもりの湖」とも「雲居寺跡=初恋」とも「冬祭り」ともまるで異なる長編小説である、が、しかもなおあの笠原伸夫さんの論説をわたしはきっちり身に帯びていた。そう思う。おなじことは、これに続く長編新聞小説「親指のマリア」にも謂える。
2015 6・2 163
☆ 選集五巻、六巻
ありがとうございました。
お身体の調子は如何でございましょうか。
京都の六月にきれいな風が吹いています。
四月には、南禅寺で デジタルで復元された等伯の障壁画を観、美術館で並べられているガラスごしの繪ではつまらない、新緑のお庭と共に見るのが一番と思いながら 土居(次義)先生について、お薄までいただいて鑑賞した大学院時代の贅沢を想い出しました。
『糸瓜と木魚』 グレーの水彩画が持つ いつ見ても新鮮な空気感、その秘密が解けてくるような気がいたしました。そこには 対象と それを描く淺井忠の間にたちこめる大気の表現があり それが水彩画と観る私の間に振動しはじめる……それを絵筆でつかまえるか、言葉でつかまえるか、子規や漱石が繪を試みられずにおれなかった気持も伝わってくるように思われました。
描いた人と観る者の間に流れる気のようなもの、それは現代最新技術でコピイされた繪からは感じられないものと言い切れるのか……
土居先生は「繪の真贋判断は直観が大事」と言っておられましたが…
御本から 繰り返し勉強させていただいております。
かねてより目に残っていた『春風馬堤曲』の「裂裙且傷股」。 人形振りのお芝居を楽しみながら これまた考えさせられました。
俳諧と漢詩で ひとつしかない世界を創りだす蕪村の遊び心と重なる工夫で生まれた作品のなかで、 奥様が人形としてだけでなく黒衣として大活躍されているような面白さがありました。
先生、奥様 どうぞ くれぐれも お身体大切におすごし下さいますように 羽生清 美大教授
* 土居先生の 障壁画を目の前にしての講義 なんと 懐かしいことか。松園と祇園井特を書いた「閨秀」にも、子規と淺井忠とを書いた「糸瓜と木魚」にも、土居先生に戴いた浩瀚な論著の学恩が生きている。先日、生まれてはじめて東郷克美さんから「学匠文人」というあだ名を頂戴したが、さもあるやらん…か、と納得するムキをわたしはたしかに早くから持っていた。論文で論じない小説で論じたいといつも暗に、陽に、願い続けてきたのだろう。「最上徳内」も「新井白石とシドッチ」も「加賀少納言」も「月の定家」も「風の奏で」も、みな、そうだった。
2015 6・3 163
* 紙袋に押し込んであるのを取り出してみたら、表題に「資時出家」とある19枚の原稿がある。十三世紀へかかてゆく時代のことこまかな年表や着想メモや原稿の試みなどが種々束につかねてある。明らかに俊成・定家に視線をあつめた年表や原稿の試みも、同じ束になって括られてある。
すでに電子化した「原稿・雲居寺跡」への併走原稿も状況把握の年表や系図や人間関係もたくさんメモされている、そのいわば「資時出家」「平曲秘聞」の一方で、あきらかに別途に「藤原定家」を意図した小説も懸命に思案していたらしいと窺える。そういう「書き物」「書き留め」が溜まっている。
* さらに別に、脱稿にもっとも苦心惨憺し、しかも満足せずに、後日に「誘惑」と改題して仕上げた原稿、即ち「鱗の眼」144枚が妻の清書原稿のまま残っていた。表紙表題の欄外に、(保谷市泉町二の23)とあり、原稿も浄書も医学書院の社宅で成っていたこと、「清経入水」の太宰賞受賞より以前の仕事と分かる。「作家以前」の詳細「年譜」を繰れば、苦闘の経緯は見えるはず、わたしが推敲に一等苦心惨憺したのは「或る雲隠れ考」とこの「鱗の眼」だった。前者はのちに「新潮」に出せて、時評でもまたその後若い研究者の論考も得ていたが、後者はいったん断念し、日数を経てのちに新たな「誘惑」へ変貌した。此の作はたしかお茶の水の谷口准教授の手でていねいに解剖・論考されたりした。読み返してみないとはっきり言えないが此の妻が清書の読みやすい原稿「鱗の眼」 この題意がいくらかおそろしげに酌めるようなら、「湖の本」に出しておくべきかと思っている。手書き自筆原稿のままもう「誘惑」へ転じているらしいp.266からp.318 「完」までの原稿も残っていた。その巻末頁には、
一稿脱稿 76.6.27 2:30am
二稿脱稿 76.6.29 5:45pm とある。
「原稿・鱗の眼」からのちの「誘惑」までに、すくなくも受賞・作家をはさんで少なくも八、九年が経っている。妻の負担になって了うが電子化しておくべきか。
* じつは、もう一作、わたしにも何をどう書いたのか皆目記憶に蘇ってこないけっこうな量の小説らしきが見つかっていて、妻はもう機械に入れかけている。
そのほかになお「創作物 重要」と表に書いた大きな紙袋に. 「書きかけ」小説が十数種も突っ込まれてある。書き継げばいいのにと惜しい物も入っているが、要するに、そういう一見屑のようなたくさんな書き物を肥やしにしつつ作家生活してきたのだと思うまでのこと。その昔、自分は「寡作」と口にしたとたん人に怒られたことがあった。いま、半世紀を顧みて小説とエッセイと、寡作ではなかったと納得する。
2015 6・4 163
* 建日子との旅、いきいきと思い優しく書けている。もし一人旅であのように母の過去を聴きもし尋ねもしていたのなら、叙述は重苦しく成りかねなかった。雑誌取材の旅と父子での旅とを兼ねたのは、謀ったわけでなく天与のはからいだった。いまもその辺を読み返しながら、なんとなし涙ぐみもした。
祇園・四条の夜色にもじっと目をあてていると、まばゆいほど町の灯が明るく、目にしみ胸にしみてむかしむかしの「京都」が想われる。
* さ、やろう。いろんなことを、もっともっと、やろう。歳末には八十なんて信じられない。わたしの心は恥ずかしいほど少年のようにまだまだ未熟に幼い。長い夏休みには、宿題ではない、べつの何か「自由研究」にとりくみたくてウズウズした小学校から中学への昔を
身のうちに思い起こす。
2015 6・5 163
☆ 生きたかりしに(上)を
送っていただき、ずいぶんの日が経ってしまいました。
お礼が遅くなりました。ありがとうございました。
ご本が届きました頃には、5月の連休中にと図書館より借り込んだたくさんの本を読了していなくて、そちらを先にと、湖の本を横目で見ていました。
口実にして、実は怖かったのです。
いよいよお母様の事を書かれたと、読むのが辛く胸がつぶれる思いになって、静かに読み通せないのではないかと。
ここ数日読み始めました。やはり胸が騒ぎます。痛いのです。
秋成の方へ気持ちを持って。と息を継いでいます。
二章 大和路 へと読みすすめました。
葛城山の岩橋伝説。
謡や仕舞いの「葛城」を稽古した折 その地を訪ね 役の行者のたどった道を歩きながら頂上に登り 彼方の山を眺めました。
一言主神社にもお詣りをしました。
みにくいお顔を恥じ、夜しか橋を架けることができなかったとまでしか、思いは至りませんでした。
神様の恋
相模や和泉式部などのたくさんの歌人たちに詠まれていた、架けられなかった橋。
恋だったのですね。
秋成も詠んだ、その地で詠まれた歌を味わう。気持ちに入り込んで。
と今は違った気持ちで読み進んでいます。
2巻3巻と刊行していただき、静かな気持ちで読んでいきたいと楽しみに待っています。
未発表のいろいろの原稿などを刊行されるのに、ご夫妻で文字通り必死のお仕事をされておられるご様子。
ぜひ読ませていただきたい気持ちと、お身体を労わってほしい気持ち両方相まっています。
何のお手伝いもできないこと心苦しく思いながら、たくさんの作品が日の目を見ますようにと祈っています。
妻の親友 持田 晴美 練馬区
* よく勉強されていて、感心する。秋成がはるばる尋ねていった名柄の里の「いとこ」を、女性であり得るとわたしは読み、彼の「岩橋の記」に意味を持たせたのは、秋成学の学者からは認められないかも知れないが、秋成には、養家上田家にもともと年上の姉と呼んだ女性が居た。恐らくは秋成と娶せる気持ちが親にはあったろうに、この姉は家をはなれて他の男性へはしり、いわば勘当にあっていたのを、懸命に秋成が仲に立って親の怒りを静めたのだった。その姉が、或いはあるいは名柄のほうで家庭を持っていなかったでもあるまいと想ったりした。秋成その人を主人公に小説にしていたら、この養家に家付き姉なる人は大きな役を帯びたであろうが、主人公はわたしの「母」に成った。
2015 6・5 163
☆ お母様もまた、
書かずにおれない火の魂を抱いていた方だったのだと、胸に迫る歌を読みながら思いました。 黍
* 母の歌には敵わない。本からわたしが好き勝手に抄録し「裸形の旅」と題していたのを機械の中で見つけたが、途中で跡絶えている。もういちど、丁寧に全編を読み直しておきたい。なにしろ死にまぢかい身動き成らないまま編まれた本であり、短歌にも、表現や文法や用字に不充分もまま見られて、おなじ歌人であるわたしにはそれが辛くも有るのだが。拙いは拙いなりの「裸形の旅」を苦闘した母であった事実を尊重したい。その裂帛の語気語勢は、とうてい少年私の及びがたい境涯であった。
* 「うた」って、何? 「うったえ」であろう。母の歌は「うったえ」であり「さけび」であった。母の歌には、敵わない。
2015 6・6 163
☆ 前略 ごめん下さいませ。
湖の本124を拝受、「生きたかりしに」(上)を一気に読了いたしました。全編を通じて知的な母上様のお姿が立ち上り、秦先生の母上様との向き合いかたには、詩的な感動をおぼえました。三十余年を要しての御発表、まさに、女の子が生れた時に仕込んで、嫁入りの時に人にふるまう紹興酒のまろやかさを味う心持ちで拝読いたしました。ありがとうございました。
井上靖団長室での酒宴、何といっても圧巻は「紹興の一夜」ですね。あの、骨をさす寒さと、汾酒の力で夜を明かした秦先生のお姿をなつかしく思い出します。
それにしても、皆さん(=井上夫妻、巌谷大四、清岡卓行、辻邦生 白戸吾夫さんら)、居なくなりましたね。私も(日中文化交流)協会を退いて五年、編物、繕いもの、布ぞうり編みなどの手仕事に励んでおります。
暑さに向かいます。奥様ともどもお健やかに。 お祝のみにて。 純 元訪中作家代表団 協会専務理事
* 突然として井上靖先生の電話がきた。「いっしょに中国へ行きませんか」「行きます」と、あまり返事の早さに笑い出されたのを忘れない。作家代表団のうちわたしが佐藤純子さんと同じ当時最年少。いまでは伊藤桂一さん、大岡信さんしかおられない。
四人組逮捕直後、周恩來総理逝去直後の北京に入り、周総理夫人(副総理)との会見をの席では「秦先生、お里帰りですね」と笑いの一場面も経て、大同へ。大同から北京へ戻り、やがて杭州へ飛び、紹興、蘇州、上海を経て帰国した。帰国後、大同での見聞をもとに、すぐ、小説「華厳」(選集四巻所収)を書き下ろし発表したが、長旅の感興に揺り動かされて、手をかけ始めていた上田秋成の書き下ろしが難航、「生きたかりしに」へ大きく行く手を替えた。
挫折といえばそうでもある、が、生涯の必然を迎え取ったのでもある。悔いはない。
2015 6・7 163
* 凶悪な犯罪報道があまりに多い。情けなくなる。
* 幸い、わたしには上のような不愉快からたちまちに離れてしまえる他界がある。自作の掌篇でも短篇でも長篇でも。あるいは古代の和歌の世界へでも。後撰和歌集、拾遺和歌集、後拾遺和歌集、各五撰より以上を楽しんで終えた。平安王朝が円熟の時期の三集であり、特徴的に前詞書が多く、和歌が短篇小説化している。詞書きもろともの面白さを汲むか、あくまで和歌一首一首自立し得たよろしさをとるか。わたしは後者に重きを置いたうえで詞書きも、あるいは唱和・相聞も大事に読んだ。楽しんだ。今日、現代日本のまともな作家で日頃こんな世離れた楽しみと共に創作し執筆している人は、探すのに鉦と太鼓とが要るだろう。現代作家の胸の内の寸法や深みがあまり足りなくなって居はしないか、お節介の気はないが、かさかさと味気ない気はしている。小説や文章の世界が騒がしすぎる。
* とはいえ、あまりにヒドイ事件が多い。無軌道で無道なカーレースで一家族の全員を死なせ、一人を八百メートルも引き摺って走ったとか。パワハラで一施設の全看護師が辞表をだし、施設が立ちゆかないとか、集団で友人の一人に暴行し河に追い込んで死なせたとか。
安倍政権の好戦姿勢と憲法蹂躙にたいし 国民の大半が反対の意思表明をしている、それでもなお自民党は反省のフリもみせない、札付きの右より議員達が街へ出て安倍支持演説会をしても、市民から徹底して「戦争反対」の声で演説会自体が潰されている。反省のない、数を頼んだゴリ押しの政権。しかも愚昧と定評の防衛大臣は、自分らの勝手な政策に同化して憲法をやりくりして近づけたいなどとバカの限りを国会で答弁している。
安倍を倒せの声で日本列島を覆うべきときが来ている。
2015 6・8 163
* 私のホームページが、記録容量上、厖大な所蔵可能に創られていることは、前世紀末いらい、かなり広くに知られている。おそらく、これほど大量の記事を擁している私的な一個人のホームページはめったには実在していない。日記ひとつにしても、書き始めて間もなく中断し抛たれている例は数限りなく、それが一般である。私のように日記・日録・日乗として、ホームページ開創の1998年いらい、ほとんど一日も欠かさず記事を満載してきた他例は、聞いたこともない。しかも私のホームページは日記だけでなく、湖の本の全部(現在126巻)の悉くを収録しているし、多彩な電子文藝館も内蔵している。凄い量の「フォルダ・欄」が多くの「頁・ファイル」を擁していろいろに利用できる。そのために明けてある欄は数十できかない。
公開のためにでなく、思い切った私用のために、例えば無数の書留めや書置きを字にしておいたり、和歌集の撰なども、一々公開しないで書き置いて吟味し感想を書き添えたりできる場として活用しようと、いま、ポツポツといろいろに為し始めている。「私用」の「私語」を自在の物にしておきたくなった。「遺言」ものこしておく。愛しみも憎しみも尊敬も軽蔑も遠なしに書いておく。
2015 6・8 163
* ぬるめの湯に二時間近くつかったまま、眼を洗い洗い「徳内」と「掌篇」とをたっぷり校正した。前のは再校、後のは初校。初校の方をたくさん読んだ。選集をと思い立ったとき、長編はもとよりとして、掌篇や「修羅」のような短篇集や短篇作をぜひ一巻にまとめてみたい切望があった。とくに掌篇。何人かの類するものを読んできたけれど、わたしを突き動かすほど面白くて根の深いと敬服できる作家には出逢えなかった。わたしは短篇で私小説を書こうと願ったことがない。掌篇や短篇こそヴィヴィッドに想像力の働いた面白くて問題を孕んだ異界・他界がはんなり書ける、リアルに書ける、と思ってきた。思ったように書けたかどうかは別問題としても、かいておいて良かったと思っている。
2015 6・9 163
* 根気がどんなに大事な気力かを永年かけて覚えてきた。退屈しないことの底を支えるのが根気だ。この年齢で、余儀ない間違いや仕違いをする。大事な要を忘れる。半ばは仕方ないとして、いらだってくる気持ちを静めるのが根気だ。立ち直るのだ。グチや泣き言すらときには必要だが、要するに根気で立ち直りまた立ち向かうのだ。
2015 6・11 163
* また、百枚足らずの原稿束を見つけた。原稿とともに、いろんな覚え書きが挟まっていて、冒頭には「俊成と建礼門院右京大夫」との関わりを意図するらしい六箇条のメモが先立ち、しかし二枚目からの断続した原稿五枚は、あきらかに、後年「月の定家」の「さだいへ」の章を導いたらしい内容である。
次いで、レポート用紙五枚の裏に、 「嘉応元年(一一六九)十一月。 大嘗会屏風筆者に 伊経(と朝方)」に始まり、「天福元年(一i に三三)七月十三日 尊円阿闍梨 老躯をおして来訪 新勅撰集への撰入を頼む。 亡父俊成の追憶から 千載集 撰の頃の思い出など話す。この時、右京大夫のことも話題となる。」の記事以下 明らかに藤原定家の日記への心覚え箇条抄録らしきが「十一月二十五日」付けまで、続いている。
藤原定家を「小説」にまたは「評論」にと心がけていたと察しられる。講談社にいた鷲尾君から新書への書き下ろしを頼まれていた記憶があるが。相性悪くて放置し、書くなら小説でと思っていただろう。
さらに八枚に渡って、鎌倉初期の大勢の系譜や関連をふまえて実に大勢の人名や感地位官職等がさまざまに列挙ないし図譜化されていて、それを見ていくと、私の関心が、俄然として「雲居寺跡」または「資時出家」の方へ傾いていたらしいことが推察できる。かなり詳細に及んだ時制の流れへの作者なりの認識をも書き留めている。そのあとへ、小説原稿として書き進めつつも、関連の人名を系図・系譜化したものが多々交じり、渡しが何を思い何を書いて行こうとしていたかが、詳細に見えてくる。すでに書き写した中断原稿「原稿・雲居寺跡」に先行してであろうか、相当量の草稿が残されてある。とうぜんに、まだ書き写していない「資時出家」や、後年に書き上げ選集にも入れたあの「風の奏で」へ到る私の探索や構想やまた挫折のあとなども読み取れるだろう。
とても今の視力で、この全部を電子化しておくことは出来ないが、あたう限りやっておこう。
2015 6・12 163
*次は、選集第七巻が、二十二日に出来てくる。この送り出しを済ませれば、七月になると湖の本版「生きたかりしに」下巻で完了する。幸い、遅ればせであったが、目下は温かく迎えられていて、誰よりも「生みの母」のために喜んでいる。なによりも懸命に生きて生きぬいた母であった、わたしの他にそれを証言してあげられる一人もいなかった。「間に合って」よかった。
だからといって、いま、この生母への愛や感謝に溢れているか、それは、無い。感謝ならば、秦の両親や叔母にこそ感じている。三人の位牌を家の身近に置き、「ありがとうございました」「ありがとうございます」そして心から「ごめんなさい」と欠かさず頭を下げるのはこの三人に向かってである。
2015 6・13 163
* 機械HPの中へ、「後撰和歌集」の自選秀歌を書き写している。ついで「拾遺」「後拾遺」も予定している。選んでおくと、いい楽しみに何度でも読み返せるし、改撰も利く。
2015 6・13 163
* 昨日見た映画「コンタクト」で地球人を代表して異星世界を訪れる科学者たちの資格に、「神を信じているか」が問われていた。主役の女性科学者は明言しなかったため選から洩れた。
わたしは、神について言葉では触れたくない。佛についてはやや異なる方角からの視線も信仰ももっているが、声高に語る気はない。
いま、人類の不幸が「神ないし信仰」を棘にして烈しくあらびつつき合うことにあるは周知である。わたしは、そのような神や信仰に決定的な距離を置いている。信じないし、信じたくもない。そういう人は、現代人は数にすれば圧倒的多数をしめているだろう、神は死んだか、争いの種になるだけの神にはいて欲しくない人が、断然多かろう。しかし究極、人間の不幸はそのような神の名のもとに徹底的に自滅へ向かうだろう。
* いま、もし「信仰」について謂うなら、人々はあの神様や仏様ではない、即ち「お薬・お薬めく化粧品」の類をもっとも信仰しているように思われる。
現代信仰の本尊は、宣伝に宣伝されている数え切れない「やおよろづ」の「おくすり」に他ならない。ご利益として健康と美容を恵まれるのかも知れない、が、その軽信、妄信、狂信のもたらす行方はとうから見えている。すなわち、智慧の鈍磨と喪失である。
2015 6・16 163
☆ お元気ですか、みづうみ。
本日『生きたかりしに』の続き頂戴いたしました。
お母さまのお歌には胸を鷲掴みされます。みづうみの生みのお母さまは堂々たる歌人であられました。そして、みづうみが『生きたかりしに』を書いたことこそ、歌人としてのお母さまへの、最高のかたちの親孝行でご供養であることを確信しています。お母さまは、ご自身を「書かせる」ために、みづうみをお生みになったとすら思います。
恒彦ちゃん(=お兄さん)、母さんは何か書きたいの。いつも何か言ひたいの。でも何もかけない。何も言ひきれない。
みづうみはお母さまのこの悲願を達成すべき息子でした。
今、あちらで、どんなに喜んでいらっしゃることでしょう。 清水 絶壁の巌をしぼる清水かな 子規
追伸 私語に掲載の「あけぼの」と名づけられた朝日の写真、佳いお写真ですね。
* 三十年前に、ほぼ、「生きたかりしに」は書けていた。だが、酒をうまくするために三十年を蔵で寝かせた。それが必要だった。あの頃、講談社がムリムリにも書き下ろし作として出版してくれていても、わたしの中でまだあの母な味わいうすかっただろう。母もわたしの中で熟さねば成らず、わたしも三十年の生を一歩一歩経ていなければならなかった。「清水」さんの指摘に、感謝する。
2015 6・16 163
* 母の生涯も活動も、わたしの本によって、一躍褒め称えられる、といった何モノでもない。ありえない。ただ、悪名の方へ方へ過剰に傾いていたのを、いくらかまともに持ち直してあげたいと、ひたすら歩き回って、多くの人の声やことばを聴いたのだ。それだけの甲斐はあったし、肩の荷をおろした気がする。
2015 6・16 163
* 名張の囀り雀さんから、長大な三本のメールが届いた。本居宣長は上田秋成をダシにして言いたいことを言い、小林秀雄は本居宣長をダシにして言いたいことを書いた、という、新潮社の池田雅延氏の講演などに触れてある。ま、メールがあまりにも長く、けっこう多岐に亘っている。
池田さんは、わたしの『みごもりの湖』の編集担当者だった。のちに小林秀雄を担当されていたとき、この池田さんを介して、小林さんから「謹呈 秦恒平様」と自署された名刺附きの大著『本居宣長』を頂戴している。めったになく私の書庫へなかば力づく割り込んだ読者がその大きな本を見つけ、殆どちからづく持って帰ってしまった。惜しいと思うが、あの大部の「本居宣長」は、大半宣長と論敵上田秋成との「対抗」に費やされてあった。だが、わたしがあの大冊をこつこつと全部読み得たかどうかは、曖昧なままである。小林先生も池田氏も、わたしが上田秋成に関心深かったのはご存知であった。小林秀雄をかなり捻って論じていたこともご存じだったろう。
そもそも、私と新潮社ないし「新潮」とにご縁が出来たのは、私家版をおめずおくせず小林秀雄という批評の神様に送り、それを新潮社の或る有名な役員の手へ小林先生が手渡して下さっていたからだった、そして「新潮」当時の酒井編集長から一度来社されたいと呼び出しの手紙が来たのだった。勤め先があった本郷の道が歩一歩ごとに浮き沈みするような高揚感があったのを覚えている。
2015 6・17 163
* 二時半、雨もさほどでないのに、出て行く気は逸れた。機械の中の「親指のマリア」二つの章を読み終えた。この新聞小説は、時代読み物ではない、時代小説といわれる物をわたしはまったく書きたくなかった。講談社依頼で「秋成」を書き下ろしでと謂われたときも、結局はいま湖の本で発表している「生きたかりしに」が出来、熟成を待って三十年、じっと寝かしておいた甲斐があった。大方の読み手から「文学作品」としての感想が寄せられている。文藝春秋から「蕪村」の書き下ろしをと頼まれたときも、わたしは敢えてあの「あやつり春風馬堤曲」をしか書かなかった。読み物なら他に書く人はいる。他の人に書ける作を自分も書きたいか。そんな気は無かったのだ。
「親指のマリア」のように新井白石やシドッチを書くといえば、どの社も編集者も受け容れなかったに違いない。吉川英治の「宮本武蔵」のようにはわたしは書けないし書きたくなかった。よい文章でよい文学を創りたかった。幸い京都新聞が朝刊連載を依頼してくれた。任せますと。それでも連載が始まってからはびっくりしていたのではないか。挿絵の池田良則さんはえんえんと牢屋の中のシドッチを描いてくれた。新井白石も、とても宮本武蔵ではない。
しかし、いままた読み返していて、これでこそとわたしは「作品」を喜んでいる。敬愛してきた白石の人間を、シドッチ神父と向き合わせて「一生の奇会」との喜びや弾みと倶に精一杯描いた、書いた。ヨワン(シドッチ)と勘解由(白石)とを交替に一章ずつ各三章書いた。相当な長編であり、新聞社はよく許してくれた。それよりも読者がよく辛抱ないし見遁して下さった。新聞小説の通行とはまるでちがう遠慮のない文章表現を貫いた。また、それしかわたしは出来ない、する気がなかった。
「選集第八巻」 文学を愛し求めておいでの読者は、ご期待下さい。
22015 6・21 163
☆ いつも
ご本を お送り下さいまして ありがとうございます。
秦さんの選集(第四巻)は とても興味深く 又 美しく 簡潔な文章を味わい乍ら かたつむりのような速度ですが じっくり読ませていただいています。 が、さすがに もうすぐ読破(!)します。 繪を描く者の端くれながら、希代の画家達の 繪を描く心 苦悩に触れて とても勉強させていただいています。 それにしても 秦さんて ほんとうにすごい方だと 今更のように思っています。 闘病中のお身体とは とうてい信じられないエネルギーにも驚きます。 でもどうかお身体 ますますご自愛下さいますように。
今日は 主人の新作 玉葱 を少しばかりお送りさせていただきます。ご笑味いただければ嬉しいです。
又 ゆっくり お便りさせていただきます。 草々 明 妻の従妹
* こういう来信を披露しているのを嗤っている人、多いと思う。それは構わない。なぜ、これを忙しい中でもつとめて励行しているか。
わたしは趣味で文学をしていない。一生の本業として文学を仕事にしており、その文学生涯半ばから始めた「湖の本」は今では一巻2500円も頂いて、百三十巻・創刊三十年ももう目前。しかも「騒壇餘人」をはっきり公称し、文学の世界にいながら、あえて文壇や出版とはほぼ全面離れ遠のいたままで、創作や著述は当然、本の製作も出版も配本も、みな一人で、妻と二人で、続けてきた。親しい知己、有り難い知己、いい読者だけが、わたしの誇らしい財産なのである。
この、近代文学史に類のない、純文学作家の文学活動・出版活の実績がいかなるものであるか、ありうるかは、これまたわたし自身が記録し証言しておかねばならない「文学史上の義務」がある。そして、わたしの「文学」が何であり得て何であり得ないかを、わたし以外の人の言葉で(たとえどう偏っていようとも)知れる限り相応に証ししておきたい。もののかげで、ひそひそと自己満足だけで趣味か道楽のようなことはしていられないのである。批判は幾らでも受けるが、浮かれてしていることでは、毛頭無い。
* 問題は、目が見えなくなってきていること。
* この機械もかなり怪しくなってきた。物騒な何か、寿命・時勢・頭の弱りなどとあだかも競走しているような按配。どこまで行けるか全く分からないが、走るよりは歩いて歩いて、元気に老いたい、生きたい。静かに自然に死にたい。
2015 6・21 163
☆ 「生きたかりしに」
どこへ辿りつくのかとーー緊張して拝読しています。
「母」としては「かなわん」かもしれませんが、一人の女性としては、不器用な、一途な、精一杯な生き方に 痛ましさだけではない、「思い」をよせています。
国会包囲の一人として参加してきました。 横浜市 孝 読者・編集者
* 作家、当時は「婦人公論」編集者だった梅原稜子さんと二人して、「新潮」に出したわたしの「蝶の皿」愛読いらい、46年もの久しいお付き合い。こう言ってもらえて、わが亡き母は嬉しいだろう。わたしからもお礼を申したい。
* わたしは谷崎愛の作家、母と「母」とを混同しない。物語にどんなに「母」を慕わしく美しく書いても、現実の母とは切れている。わたしには親は(秦の叔母もふくめて)五人いたが、「身内」とは思えなかった。深い感謝や謝罪の思いこそ切に持っていても、である。「そういう、わたし」であったと今も思っている。思いながら日々頭をさげている。
2015 6・23 163
☆ 『生きたかりしに』は、
確実に秦文学の核にになる作品と思います。
御作・御活動の資料保存・研究にたずさわりうる人として 小生のもっとも信頼している同志社大学の田中励儀教授(ないし氏の門下生)にぜひ委嘱なさればと考えます。
「食いしんぼうの記」 田舎者の小生も大いに刺激を受けました(糖の気 私もあるのですが)。 不乙 御礼まで 東郷克美 早大名誉教授
* ありがたいご示唆を頂いた。田中さんとは鏡花や母校や京都を中に、久しいご縁がある。日記や創作ノートや原稿、未発表原稿、初出誌などの資料をお預けできると本当にありがたいのだが。
2015 6・23 163
☆ 紫陽花の季節
雨上がりの街は涼やかでした。
コンサートでは、「ShallWe Dance? 」等馴染みの曲もありましたが、織姫と彦星を思いつつ聴いた酒井格さんの「たなばた」がいっとう心に残りました。
映画「グラン・ブルー」、イルカの写真を見せて「こんな家族がいるのは僕だけさ」と泣く場面の辺りまで、漸く観たところです。
今日も暑くなりそうです。
熱中症など、くれぐれもお気をつけて。 黍
* くっついてきた紫陽花の写真、ボテボテと花沢山で美しくない。沢山咲いているのを沢山撮っていい花と、よくない花とがある。わたしの感覚では、紫陽花はもう過ぎて行こうとしている。咲き残りは愛おしむように近寄って花かずは少なくくっきりと撮るようにしている。花の写真は、花の声の聞こえるほどに撮ってやらないと「美しく」見えません。、
* 機械の中に、いろんな時・時の述懐が日付もなく残っている。ふと想い出して探したら有った。おそらく2004-5年では無かろうか読者からのメールに驚かされたことがあった。述懐をそのまま再掲してみよう。
* 例えば――泉鏡花「伝記上の事実」として、彼が幼少来、思慕の的であった「姉さん」の実在したことは、鏡花文学の一大原点として、よく知られている。このところ読んできた、極く初期の「義血侠血」も「琵琶伝」も、特に「化銀杏」などは、それへ根ざした構想が歴然としているし、やがて「龍潭譚」等にも、匂い立つように見えている。
実は、鏡花とわたしの出逢いは、もうわたしが会社勤めをしていて、ある時ひどい風邪で三日も寝込んださなか、たまたま講談社版文学全集の鏡花の巻配本があり、これ幸いとむさぼり読んだのに始まっている。随分後れていたのだ。鏡花の年譜も、だからアタマにまだ何も入ってなかった。だが――鏡花の「姉さん」思慕に似た「擬似母」体験が、わたしの新制中学時代にも、ほぼ半年間白熱したことは、小説『罪はわが前に』や評論『漱石「心」の問題』などで、こだわりなく書いている。文学だけでなく、人生上も今も感謝している優れて有難い年上の人であった。
ところで、鏡花小説に関わって、一昨夜の「私語」だったか、彼泉鏡花の「姉さん」のことに、すこしだけ触れたとたん、或る人= いい読者である一人から、「姉さん」という人のことは、たとえ「私語」にももう書かないで欲しいと云ってきた、メールで。その「姉さん」なる人とは実の縁の全然無い人である。
びっくりした。
いろんな事もあるものだなあ…と。しかし、一瞬、創作者であった数十年を、大きく否定されたような痛い思いがした。
わたしは、いま、その「姉さん」に、道であってもほぼ見過ごすであろう程、現に無縁で、何処にどう暮らしているかも知らない。ことさらに「私語」ですすんで話題にする話題すらもっていない。だが鏡花へも、漱石へも、「その人ゆえ」に心親しくてものを言ってきたということはあり、自然それは文章に匂い立つでもあろう。
妻も黙っていてくれることである、「姉さん」とは現実に何の関わりもない、しかし、メールの主が有難いいい読者なればこそ、云われたくないことだった。自己責任を自覚して書いている人間に、「書くな」はないでしょう。
*とは言えーー上の読者とは無関係にーー 「書く」という行為は険しく、時に甚だしく親しい人、慕わしい人をも傷つけてしまう。だから「書かない」か、それでも「書く」のか…。わたしは書いてきたのである。『罪はわが前に』の三姉妹はただ一言もわたしを咎めてはこなかったけれど……わたしの実の娘とルソー学者の婿とは父であり作家であるわたしを、口汚く裁判所の被告席に置いてケチくさい賠償金を取った。なにをわたしが書いたというのか。
わたしは今もじっと目を閉じ「姉さん」たちにこそ心底詫びてもいる。悲しくも末の妹には早くに死なれてしまった。死なれたくない。
2015 6・24 163
☆ 文藝資料や
未発表原稿等、次世代への伝承・保存をお考えなのですか。
同志社大学が小回りが利けば良いのですが……。 田中励儀 同志社大教授
* 早稲田の東郷名誉教授から一足早くお声が届いていたのか。容易ならぬことと思うが、誰にもせよ単独の研究者に任せるより、大学等の施設に預けたほうが安定感はあろう、が、活きるかどうかは運のようなもの。
* 山形大学の図書館が山のように大量の「最上徳内資料」を保管されていて、読ませて貰えたことは限りない幸運だった。あんなに北の時代そのものを証言して価値ある寄託内容をわたしが揃えうるわけではないが、もう一度も二度も三度も精選してみたい。
* 単行著書、共著本、初出紙誌、連載紙誌 初出新聞、全湖の本、全秦恒平選集、電子化データ、自筆原稿、清書原稿、校正原稿、刷りだしなどは、当たり前の資料。講演録、対談録、テレビ出演の記録等もある。
「湖の本」三十年また「選集」刊行に伴う詳細な記録やデータ、また収支にかかわる記録等もほぼ散逸していない。
大小の帳面に自筆の、高校以降コンピュータ使用に到る間の全日記、コンピュータ使用以降今日に到る「私語の刻」その他多彩な全電子化データ。また全交信メールのデータ。大学ノート等に書いた創作ノート等書き置きの全部。
また年譜資料となった大量のこまかな記載をもった手帳も数十册あり、自写他写を問わず多年大量の写真がアルバムとしても機械内データとしても保存されている、
生涯に亘る厖大量の来信書簡から、せめても文学・文藝・創作にかかわる各界文化人・知名人や編集者・読者や知己親友読者らの内容あるものを精選するなり全部なりも、ほぼ散逸せず保管されている。
* やはり最上徳内を調べていたとき、有力な研究者所持の研究資料が遺族宅に残っていなくて多くはまさに「散逸」して行方知れない例に出遭っていた。残念なことだった。
私の場合、創作と同時にその全部をも凌ぐほど大量のエッセイ(論考や随筆、講演録その他)があり、もし「秦恒平世界」と仮にも謂うならそれはとても一通りのものではないとしか謂えない。また一人の作家としての登場から生き方の全容を謂うなら、それなりに稀有の相貌を持っているはずと、言挙げでなく思っている。奇しくも東郷さんがお手紙の中で「学匠文人」という言葉を用いて下さっていたが、明治の文豪はしらず、昭和戦後の小説家で、編集者的な一面も加えて、そういう足跡をのこした人の例をわたしは識らないのである、しかも「騒壇餘人」と自ら自覚し活動してのことである。
* ここへ心覚えとしてもぜひ付け加えておく。わたしの八十年人生で、唯一、極不快であった事件、実の婿・娘夫妻からの名誉毀損裁判に関わる、殆ど遺漏のない一切の「記録・法廷文書資料・書簡・言及・証拠等」も保存してあるということ。
世にまたと無い大学教授の婿夫妻から仕掛けられた訴訟に、わたしが父として作家としていかに応じいかに闘い抜いたかは、わたしの文学姿勢とも緊密に繋がると信じる故に、あえてこれを此処へ付け加える。わたしは彼らに何をしたか。わたしは彼らに数々の虚偽と捏造とで何をされたか。作家として、これほど不快に面白い対応材料は無かったのである。
* それが何だ、それがどうしたという思いも、明らかにわたしの内に同居している。当然のこと。残年の寡いだけが確かなこと。こんな一思案がそのままお笑い草に終わる、それも面白いわたしの人生である。
2015 6・24 163
* 脈絡を欠いたただの空想と、探索力に導かれた想像とは、明らかに、ちがう。想像力の欠けた優れた創作は無い。あり得ない。
小説を読んでいて、豊かな想像力に翅をえたリアルな筆致と、想像力の導きを知らないまま放恣に書き散らしたものの、隔差は、こわいほどである。神話といわれて久しくも久しい時空を超え渡ってきた物語には想像力の放つ生彩に満ちている。
「最上徳内」には使い切れないほどの記録や論策や研究が在った。「白石とシドッチ」には、ことにシドッチには拠るに足る証言量はあまりにかすかだった。それでいて新聞小説「親指のマリア」九百枚では、白石を超える五百枚以上もわたしはシドッチ神父にかかわる真相をかたり続けていた、想像力の生んでくれる秘蹟を疑わなかった。
2015 6・26 163
* 戦後保守の革新に対する長期戦略は、 ① まず国会に三分の一を死守する「社会党」を殲滅すること、その成就を見て(現に実現している。)次で、② 「朝日新聞」を初めとする民主意識を先登姿勢にした「新聞・マスコミ」を殲滅すること、にあるとは、私の久しい観測であり、危惧であったが、その微塵外れない露骨な状況が、昨日の自民党、安倍追従の露骨な青年部会が、「作家」と自称する百田某を呼び寄せての集会であった。殆どの新聞・マスコミがこの暴挙を報じたが、読売新聞は見過ごし聞き流す姿勢に出ていた。
* なんと! 自分で驚いてみせる強調。ほとんど、うそくさい。
まさに! 安倍を筆頭に政治家どもの、無意味にひとしい強調。まったく、うそくさい。
スゴイ! 日本中に蔓延した白痴的賛美・称讃の強調。「すごい」の原意が、凄惨、凄絶、目をそむけるほどの腐敗や恐怖にあるのを忘れ果ててのバンザイ三唱。うそくさい極み。
いま日本人がつかう日本語の、ウソクササの臭う三珍。
2015 6・27 163
* 『親指のマリア』は時代読み物ではない。あえていえば私の思想小説でありその「審問の章」で向き合い語り合い挑み合うシドッチ神父と新井白石の対話・対決は、事実を越えて出た真実の創作であり、その意味でし文責は私自身にある。わたしは、かの白石自身の感銘深い実感「一生の奇会」とそこで語られる東西叡智の言葉を、なにかに依拠して書くことは出来なかったも拠るべき文献や記録などは何も無いのだから。だが、わたしは自分の「部屋」(「最上徳内=北の時代」に出ている)で、自在に、往時実在のまた架空の人達と話し合えるのである。
いまも三度目の「審問」を克明に読み返していた。小説に登場した人達の、そして創作者わたし自身の思案の底までが書かれてあると想えた。
そういう性質の自作の創作・小説としては、これまで唯一のものと思う。もとより「みごもりの湖」も「風の奏で」も「冬祭り」も「最上徳内」も同じそういう思想性を望んだ創作であったけれど、同時に「物語」の語り手に「私」がしっかり介在していた。『親指のマリア』ではその「私」を出さなかった。「閨秀」「墨牡丹」あるいは「加賀少納言」「月の定家」「於菊」などの短篇にはその手の書き方もあるが、長編であり新聞小説でもあった『親指のマリア』は徹して語り手を出していない。出さずに私は私の思想を籠めた。
2015 6・28 163
☆ 降りみ降らずみの
梅雨空がもどってまいりました。
昨日は ご高著第七巻を御恵贈たまわりましてまことにありがとうございました。
「或る説臂翁」は胸を抉られるような鮮烈な御作でございますね。処女作から既に確立した世界を持っていらっしゃると あらためて感じ入ったことでございます。 私ごときが感想などとおこがましいことではございますが、鎌の穂の血のりが未だに口中に残っております。 お心遣い暑くお礼申し上げます。
どうぞお身体をお大切に ご自愛下さいませ かしこ 京・鳴滝 川浪春香 作家
おって
何か美味しいものをと思いますが お身体に障りがあってはいけませんので 心ばかりを同封いたします 失礼の段 お許し下さいませ かしこ
お返事はご芳念のほどを
* おそれいります。「或る折臂翁」に触れていただき、嬉しい。「小説」という文字があたまに舞い込んだときから、この白楽天の詩をいつか書こうと狙い定めていた。詩集は秦の祖父の蔵書だった。怒られた覚えなど一度もないのにこわいお祖父ちゃんであったが、長持ちや箪笥に埋蔵されていた大量の古典籍にどんなに少年のむかしから思い養われたことか。感謝しきれない。
此の作、書きたい書きたいと震え始めていたのは、安保闘争で連夜国会を取り巻いていたあのころで。仕上がりの作とはずいぶん違った結末を想っていた。兵役忌避の作とも、たんに臆病の作ともとれる微妙な割れ目を意識していた。
文章にもっと風通しを、会話に妙味をと願って、このあと、築地の松竹にあったシナリオセンターに、かいしゃが退けると毎晩、半年通って、課題の二作を書き上げた。七十人ほどいた生徒の殆どが続かず、二作提出したのはわたしを復命二人だけと聞いた。当時松竹の専務だったか副社長だったかの城戸さんが提出のシナリオを読んで八十点くださり、「あなたは小説家になるよう奨めます」と評がついてきた。奮い立った。そして「畜生塚」を書いたのだ。
2015 6・29 163
* 亡き恒彦兄がお子さんをうしなわれた高・岡ご夫妻に宛てた手紙を、読んだ。兄の声が聞こえた、兄が生きて想われた。
わたしは、五十にして初めて兄と会い、以後せいぜい数回しか会ってなかった。手紙やメールはたくさん貰っていた。兄生涯の行実をわたしはほとんど知らない、「朝日人物事典」の記載程度にしか。兄の知友は、わたしなどと比べようなく広かったろうが、高史明さん夫妻や鶴見俊輔さんや、ほんやら洞の甲斐君ぐらいで、ほとんど誰も知らない。眞継伸彦さんや小田実さんから、「えらい男やったよ」と聞いたことがある。その眞継さんは湖の本をずっと買ってくださり、小田さんはいつも「敬意をこめて」と自署して本をくださった。彼らと兄とに接点のあったのを最初に教えてくれたのは、筑摩書房で「文藝展望」編集長などされていた原田奈翁雄さんだった。それでもなおわたしは長い間、兄と会わなかった。
逢い始めての何年かは、いまとなれば「寶」である。それでもわたしは自死と聞いたこの兄恒彦の葬儀にも偲ぶ会にも敢えて行かなかった。兄とは、兄自身のことばであった「個対個」に徹したかった。
2015 6・30 163
* 徳内を読み白石とシドッチを読み、わたしの時間は十分豊かである。「部屋」へ入れば好きな誰とでもいくらでも話せる。描き出したヒロインたちですら、みな、惜しみなく「部屋」へ来て話し込んでくれる。ごく初期の頃、わたしのことを、からだ半分を「あっちの世界」に置いた作家と批評していたが、よく見抜かれていた。「死ぬ」とは、自分が部屋へ入った襖のそとへはもどらず、部屋を訪れてくれた人達、彼や彼女らの来てくれた襖を向こうへ一緒に出る、それだけのこと。
2015 7・1 164
* サッカーなでしこジャパンがイングランドに勝ち、決勝戦でアメリカと戦うことに。前回ワールドカツプ決勝戦の再現。健闘を!
ゲームを見ながら、入金事情を点検しながら宛名の貼り込みを終えた。妻にさらに再点検してもらっている。このごろ、わたしが、ちょくちょくイージィミスをしでかす。上中下巻、間隔をつめて送り出してきただけに「未入金者」は現状かなりの数になる。
非売の選集はもとより経費は総額支出が当然で、ごく少数の熱心な希望讀者には一冊経費相当をご支援願っているのだが、「湖の本」は買って頂いている、しかし、現状は大幅赤字になっていて、三十年近く、百三十巻に近いのだもの、収益のことは半ば最早度外視している。何冊も未入金の人には、もう送本しなければよいと割り切り、ただただ久しいお付き合いの今後も続く方々に、深甚感謝している。「文学活動」としては、各界の知己、大学、短大、高校、研究施設、図書館等への寄贈を大事に考えているが、幸い、九割九部がた喜んで受け容れられていて嬉しい。眼が届かずに洩れている学校があれば、お声を掛けて頂きたい。とにかくも無用の出血負担を減らすためには、製本部数をむりなく漸減することも当然考えている。幸い、掲載原稿はまだまだ有り余っている。書き下ろし小説の新作も何作か用意しているし、未刊行エッセイはわたしも驚くほど大量待機していて、百五十巻はらくに越えて行く。
とはいえ、わたしたちの健康からも、賢い潮時は考えつつ「選集」の良い形での増刊を平静に心がけ続けねばならない。
2015 7・2 164
☆ 秦 恒平様
謹 啓
「秦恒平選集」第七巻、いただきました。私のような者が、御恵贈いただいて本当に良いのだろうかと、頬を抓る思いで受け取りました。有難く幾重にも御礼申し上げます。
可笑しな話しですが、丁度コルタサルの短編「続いている公園」を数日前に読み返したばかりで、先生が24日(水)のHPで「朝、照りつける坂道を重い腕車のバランスに難儀しながら郵便局へ。」と記されており、「ああ、さぞ、大変な思いをされておられることだろうな」と思っておりました、そのやさき(私は、あいにく田舎に行っており、不在通知が入っており、29日(月)に再配達いただきました)「秦恒平選集」が届いていたのですから、まるで先生が腕車に積み上げ、難儀されて運ばれた「選集」がタイムトンネルを通って、そのまま我が家のポストに真っ直ぐ届いたような、不思議な錯覚にとらわれました。正直、夢を見ているような気持でした。
「秦恒平選集」は、本当に持つべきに相応しい人が持ち、日本文学の成果(金字塔)として、確実に後世に伝え、研究資料となすべき、貴重なご出版なのだと思い、陰ながらご進捗を見守らせていただいておりました。高夫人(=岡百合子さん)の礼状にもありましたが、私も今の齢ですと、大切なご著書を保存的に遺していくことが出来ないだろうな、という思いが迫り残念でなりません。
御出版がもう10年前だったら、ご無理を申し上げても、全巻前払いしてでも、予約させていただいたろうと思います。苦心して集めた「鏡花小説・戯曲選」や「谷崎潤一郎全集」とともに、ガラスケースの書棚に「秦恒平選集」がずらっと背表紙を揃えて並んだら、どんなにか壮観で、嬉しい(気持ち良い)ことだろうとも思ったこともありました。
しかし、「湖の本があるじゃないか」 私は、自分にそう言い聞かせました。「選集」に、編まれた先生の意向を汲み上げるように、「湖の本」で読めば良い。私は、自分に、そう納得させました。
HPで紹介される、礼状の数々を読みながら、r 選集」がそれぞれに相応しい方々の手に納まっていくのを、「選集」のために祝すべきことと感じております。
私は、お贈りいただいたことを重く受け止めます。それは、しっかり読み込むことだと肝に銘じました。重ねて御礼申し上げます。
「罪はわが前に」は、1976~7 年頃、北区の王子図書館で読みました。
いろいろ思い出します。当時は半ば失業状態でしたので、新刊本は購入できず、バスで5 分ほどのところにあった王子図書館に毎日曜日、家内と通いました。
岡本かの子全集やドストエフスキー全集本は、そこで全部読みました。正直言って現役の作家で読んだのは先生の本だけでした。「みごもりの湖」「迷走」三部作、「誘惑」「慈子J 「罪はわが前に」等々、を借りて読みました。小説で初めて買った単行本は「冬祭り」ですから、以後の本はたいがい買っていますので、間違いないと思います。生意気なようですが、硬質な文章と、歴史とひと続きに現代を捉え、時空を超えて人間(日本人)を造形していく描き方が好きでした。これが日本文学のあるべき姿とも思いました。
髷と一緒に歴史を捨てきって、フランス人やアメリカ人のふりをして、どこに日本人がいるというのでしょう。トーマス・マンはこれぞドイツ人というドイツ人を、ゴンチャロフはこれぞロシア人というロシア人を意織的・意図的に書きます。そしてドイツ人とはなにか、ロシア人とはなにかを哲学します。日本文学というとき、そこに明明として平安、安土桃山、鎌倉、江戸を生きてきた日本人が描かれていなければならない、と思います。私は秦文学に、真の日本人を描く日本文学のあるべき姿を見てきたように思います。
「選集J 第七巻をいただいて、「少女」と「或る折臂翁」はすぐ読みました。
「少女」は「湖の本」で、「或る折臂翁」は「廬山」で既読でしたが、こうして「選集」で再読した印象は、まったく違って浸みこんできました。いったいお前は、いままで、なにを読んできたのだ、と忸怩たる思いで、惹きこまれるように、たちまち読み終えました。
「少女」は志賀文学の原点「母の死と新しい母」ともいうべき、秦文学の原点と感じました。ここにいたり「生きたかりしに」を読み進めていなければ、理解の及ばないものでした。秦さんは「生きたかりしに」を書いて漸くに生母と本当に和解された、と私は感じています。HPに載せられた歌
「生母(はは)といふ他人(ひと)を厭ひて遁げてきし
六十余年 すべもすべなき 恒平」
と他二首に、それを私は感じました。
しかし無意識の和解は作品「少女」にすでにあったと読みました。どこか養女らしい、あるいは再婚の連れ子らしいところの少女に抱く「私」の感想 「孤独な突き放された魂」、この言葉に私は、ハッとしました。秦文学のキーワードをみた思いがしました。
「私」は「少女」であり、「少女」は「私」であり、「少女」の意を図り、半ば強いるように食事を饗したのち、
「わあっと大声が出かけて、それこそ一目散に私は駆け出した。たちまち眼鏡が曇り、街の灯ばかりが冷たくきらめいた。」
と作者が描かれた、その「私」こそ、秘かに我が子に会いに来た生母(はは)であり、プレゼントを養家に届ける生母、「私」が逃げ回り、会うことを拒み続けた生母だったのですから。
「私」はr 少女」を生母(はは)が幼い頃の「私」を見るように見ていた。
そして生母が幼い頃の「私」にしてあげたいと切望して成し得なかった、共にする食事、慈愛の抱擁が、「私」の「少女」に対する行為に重なって見えた。
この時「私」は生母の心を理解し、生母の体温と一体になっていた。それで「私」は泣いた。と、私は読みました。
「少女」から「生きたかりしに」にいたる闇夜行路、ここに秦文学を読み解く重要なキーがあると改めて思わせていただきました。
また「或る折骨翁」は、なんと現在的な小説でしょう。50年の歳月を超えて、現在こそ、多くの人に読まれなければなりません。
「新憲法には初樹も関心をもっていた。日本人の生まれかわろうとする理想を赤ん坊ほどにも無邪気にむきだしに提唱していた。どことなく時代錯誤じみてもいた。意法が悲願や理想をかかげるものなら新憲法はこの上なく立派だが、その新憲法を空文化していく世界情勢が遠からずくる、国内でもわき起こることは想像しなければならないことだった。」
現安倍政権の出現の必然性がすでに予見されている、と読みました。新憲法発布の経緯や当時の社会情勢を知らない私には、このような洞見があったのかと、改めて襟を正す思いで読みました。
反戦の同志? として結ばれた、初樹と弥絵の身を潜めるようなつつましやかで平和な山暮らしに、イヤゴーのような狷介な康岡が介入してくる。
康岡は「非国民」という差別音を使って正義を威圧し、歪め、押し潰す無知蒙昧な「世間・民衆」であり、安倍政権のような朝三暮四に等しい言葉の詐術をつかって国民を言いくるめ、隠然と、まるでヒトラーのように強権を振い、国民の自由を簒奪し、武力による強盗集団を作って、他国を侵略することも辞さない戦前の軍部体制への移行がもたらす状況、それを体現している人物で、弥絵(良織・国民)に誅殺されて当然です。
命を賭けなければ一度出来上がってしまった社会を変えることは出来ない。
弥絵は、康岡に草刈鎌を振り下ろし、自らも命を絶つ。革命です。しかし革命で理想の社会が出来ないことは歴史が証明しています。支配者が替わるだけで、状況は何一つ変わらない。初樹の置かれた状況は何も変わらず、康岡は死んだが、愛する弥絵にも死なれてしまった。むしろ弥絵の死と、どす黒く成長した猜疑心がいよいよ重く、酷く初樹を責め苛むでしょう。初樹に救いは決して来ない。なんと酷い結末でしょう。
この後、それでも初樹が生き延び得たとしたら、初樹はオイディプス王のように自らの眼を抉り取るのではないでしょうか。もうこれから先は、読者には哲学があるのみです。
弥絵の最後の言葉 「おとうさま御免なさい」、の「おとうさま」は平蔵か、あるいは自分の父かと思うところですが、ここは私には父なる神、永遠の父性に詫びたように思われました。
重い重い小説です。不条理の小説です。漱石の「心」のように読者に哲学を強いる思想小説です。
「或る折臂翁」は秦文学を読み解く重要な作品として、必ずや研究される運命にある作品であると思いました。
それから「罪はわが前に」が、「未完」と、あるのに衝撃を受けました。「未完」だったんですね。この「未完」を「完」にするのは「生きたかりしに」なのでしょうか。
よくよく読み込まなければ、秦文学は理解できない、せいぜい理解したつもりで終わってしまうだろう。と、いよいよ我が身の非才を
身に滲みて思い到るばかりです。
「選集」第七巻はとてもとても重要な巻と感じました。
勉強させていただきます。ありがとうございました。 八潮市 小滝英史 作家
* 著者冥利とは、これぞと。わたしの文字どおり「処女作」二作をこうもしみじみと読み切ってもらえた身の幸は、ことばに替えるスベがない。「いい読者」に自分は恵まれていると思い続け言い続けてきた喜びを、新ためてしみじみ味わっている。
「清経入水」いらいたくさんな評論や書評をもらってきた。小滝さんのこの一文をわたしは忘れまい。「いい読者」とは自分に単に好意的な読者を謂うのではない。あつい「おもひ」で作品を燃え上がらせて下さる人を「いい読者」と読んでわたしは頭を垂れる。
* 都立中央図書館からも天理大学図書館からも選集受領の挨拶があった。
2015 7・2 164
* 今日は、おおかたの時間を新作の小説、気に入っていて、ぜひとも仕上げたい小説の進捗に取り組んで過ごした。これはもう「生きたかりしに」とも違う。「罪はわが前に」ともちがう。老いの想像がどこまで翅をひろげて翔べるか、だ。若い日に「雨月物語」上田秋成も、おいて「春雨物語」を書いた。二作は、いろんな面で相貌も方法も筆致も異にしている。それを意識せず追いも真似もしないけれど、出来る限り気持ちよく書き上げたい。じつは、中編でまとまるかやはり長編になるかも、決めていない、成るように成らせたい。
* 書く。書き続ける。その間は、生きている。国会を囲みにも行きたい、デモにも参加したい、けれど、やはり小説を書きたいし、本を創りたい。そのために生まれてきたと思う。母の分も兄の分も、私らしく書き置きたい、許される限りは。鬱いでいるヒマは無い。
2015 7・4 164
* 季節外れを犯してまで、湖の本発送の途中でもあるのにこな和歌軸をひもといたり、昨日、一昨日と「私語」を通さなかったのも、言うに堪えないある私ごとの「にくしみ」を心に抑えがたく、縷々激越で不快な私語を書いて了っていたのを洩らすまいと耐え忍んでいたからである。
この歳になっても、なお、さような煩悩にわたしは襲われ、怒りのママにものを書いてしまう。ウソ偽りを書くのでは全く無い、事実をあったまま踏まえて書くのではうるが、その不快、身を焦がすほど炎を上げる。静かな心になりきれないどころか、遙かに遠い。その恥ずかしさ故に「私語」を送り出すことを懸命に抑えていた。
いまその箇所を他所へ移した。これまでも、何度もそんな愚かしいことを重ねてきた。 2015 7・7 164
* 八巻「最上徳内」再校は終章を迎えた。九巻短編集では「加賀少納言」を読み終えようとしている。この作はロシアで「日本文学選」に入ってロシア語に飜訳されている。日本の読者で此の作を味読できたひとは少なかったと思う、が、自分では中編の「華厳」とともに大事に思ってきた。むかし、作家でも批評家でもない新聞記者で読み手であったあるひとが、「華厳」をあげて、「秦さん、コレの読める人はすくないと思うよ、ぼくは秦さんのもののなかで一等好きだけどね。大勢には読めなくても、いい読み手は、でも、きっといるからね」と、励ましてくれた。自分でもそう信じているから、書いてきた、ムズカシイとかヨミニクイとか言われようとも。その点ではわたしの文学への期待は、芹沢光治良さんのとは異なっていた、芹沢さんをわたしは敬愛しているのだが。東郷克美さんに戴いた「学匠文人」の小説わたしは自身の短所とも長所とも覚悟して、出来ることを、書けることを、きちっと書いて置きたい、まだまだ。
2015 7・7 164
☆ 選集第7 巻を
早々と先月24日にお届けいただきながら雑事に取り紛れてお礼を申し上げるのが遅れてしまいなんとも申し訳ございません。
日記に載っていた八潮市の小滝英史様の文章が、大変勉強になりました。
それにしても貴重な選集を身近に置いて、目にしまた自由に手に取って心ゆくばかり楽しむことができる幸せを、しみじみと感じています。
水蜜桃とニューピオーネをすこしばかり「志ほや」を通じてお届けします。20日頃には到着すると思います。
お二人のご無事をお祈りしています。 吉備の人
* 小瀧さんのようなブチ抜いたような感想は、研究者からは容易に出てこないもので、「いい読者」のいわば特権行使でもある。わたしの作家論や作品論にも、しぜんそういう気味があるはず、それが作家や作品のおもしろみ発見になるということ、あり得るのだ。研究者や学者になるのを避けて、あくまでも作家、欲をいえば学匠文人でありつづけたかったのも、ま、気儘でもあるからだ。
2015 7・8 164
☆ 慈子です。
梅雨らしく しとしとと雨が降り続く毎日ですね。
永い間、お返事もしないままでご心配をおかけしました。
生きております。たくさんの問題を抱えたままで。
ついにお書きになったのですね。
本当にお書きになりたかったこと。
いつまでもお元気でご活躍くださいますように
湖の向こう岸から応援させていただきます。
* 明け方の夢の中で、しきりに思っていた、「一切空」と。この三字に至るまでに、要するに論の証の理の説のという「賢しら」な「なにもかも」みんな「空」に帰するけむりのような夢に過ぎないのだという自問自答に議論熱くなっていた。そして「一切空」まで煮詰めて覚めた。覚めてから、だから論や証や理や説に「あそぶ」のも好き勝手だ、好き勝手だと承知している限りはと納得していた。
2015 7・9 164
* 「最上徳内」も「親指のマリア」も相当な長編であるが、この程度の長さの娯楽読み物は珍しくあるまい。しかしわたしの此の二作は娯楽読み物ではない。 方法はそれぞれ大きく異にしているが、歴史小説であり、また作者渾身の渉猟と論考を込めたもの、生なかの姿勢では精神・肉身に接することはできにくいだろ う。秦 恒平選集の太い芯として、大事に仕上げておきたい。
* わたしは愛することは知っているが、抱き柱は抱かない。神仏への崇敬は持っているけれど、信仰はしていない。信じる相手とも思っていない。しかし敬虔 な信仰者の精神にも生活に対しても愛は感じる、敬意すらも持つ。そういうわたしが、心籠めて切支丹牢のシドッチや長助・はるを書き、白石や通詞たちを書い た。心底の誠意を以て書き上げた。私小説は措くとしても、小説として誰を書くときも、同じ姿勢である。
2015 7/14 164
* 感動に声を呑み泪をこぼしたまま『親指のマリア 五 洗礼の章』を読み終えた。書いていた当時よりもさらに深く切支丹牢の明け暮れに感動した。シドッチと、長助・はるの兄妹、魂を触れあい重ねた三者「真の身内」の愛と信仰。嬉しかった。
さ、もう一章を読みすすめる。 新井白石と近代日本への歩み。
2015 7/17 164
* 選集第九巻は、百篇ちかい掌篇小説をいろんなバラエテイのまま「無明」と総題して収束し、さらに、よく選んだ短篇小説も二十篇ほども選集した。
短い小説は、面白くなくてはならず、且つ、ちいさな疵も作の命取りになる。そればかりか、作者として、ある意味おそろしいのは、自然と泥を吐いているの が掌篇・短篇だという実であり、「おいおい、こうまで書くのか」と作者自身が顔をしかめたくもなり、文字どおり性根がで現れ表れるので、かなり、ヤバイ。 だから面白いともいえる。
明日にも前半を要再校で印刷所へ戻す。
選集第八巻を、いつごろ仕上げて貰うか折衝しているが、八月の盆の前後になるだろう。いまだに現代日本人の殆どの人が、片端も知らずにいて、その実は、 日本の近代へ現代へ向けてまことに重要であった歴史上の大事を、私独自の方法・手法で書き表してみた。歴史小説であり現代小説である「最上徳内=北の時 代」に、注目して欲しい。
2015 7/17 164
* やはり「親指のマリア」や趣向の短篇世界「修羅」を読んで行って心満ち足りた。「生きたかりしに」下巻も校正しながら、ほどなく読み終える。
* 安倍悪政と自民・公明のなさけなさに、気が腐るばかり。そんなとき、「自分の世界が、ある」のが、そこへ没入できるのが、譬えようなく嬉しい。自分で 読みたくて堪らない自分の作をはなから書いてきた、書き続けてきた。この昂然とした自己満足をわたしは胸を張って恥じない。この気概が新たな今日を創り明 日を創る。所詮は一切みな消え失せて行く世界と心底疑わず、しかも満たされている。それが、いい。こういう「幸福」を追わぬことが「卑怯」の一つなのだ。
2015 7・18 164
* 「選集⑪」の巻頭に、何十年もむかし「新潮」に載った第二作の、「或る雲隠れ考」を選んだ。年譜でも振り返れるが、此の作には飽かず屈せず、じつに手 を掛けた。処女作を通り過ぎて、最初に「畜生塚」を、ついで「斎王譜=慈子」を書いて、「或る雲隠れ考」へ行った。この三作を書いてわたしの作家人生にあ る大きな「事」が産まれた。「畜生塚」の町子は「私」と結婚できなかった。慈子は「私」との子を流産した。「或る雲隠れ考」の阿以子は「私」との子を死産 した。そして「清経入水」にはじまるその後の小説世界で「私」は、死なせた女と娘との繰り返し返しの来訪に遇い続けてきた。おかげで、「ほんとうなんです か」と聞かれ続けてもきた。わたしは自分の人生にも作家人生にもそういう「仕掛け」を意図して創ってきた。だれも言わないので、「私」から明かしておこ う。
2015 7・21 164
* 仰向けにねたまま短編集「修羅」十二篇の初校を終えた。
ま、これこそは自分で読みたくて堪らないように自分のために自分で書いて書いて積み重ねた「趣向」の短篇集。わくわく、うきうき、乗って乗って「おはな し」を書いている。しかも書いている私自身と根の切れた糸の切れた凧をあげているのではない。どの一編の物語でも、、あ、この語り手は秦 恒平だと思われるだろう、だが、読めばみな秦 恒平ではなく、さまざまな境涯に人となっている男なのである。それでも、やはり作者としっかり臍の緒をつないだ語り手たちばかりだ。とほうもない創りばな しでも作者は自身を軽率には手放していない。どんなにリアルな筆致であろうと作者の命綱が作中へのびていなければ、リアルどころかウソクサクなる。途方も ないお話しであっても作者が命の緒をしかと掴んでいれば、ウソはウソのまま本当に面白くなる。淡弁償説は然様に書かれねば存在価値も理由も喪ってしまう。
* おそい晩飯のアトは機械に向かい、「或る雲隠れ考」の原稿読みに励んだ。それはもうわたしには懐かしい作であり、苦心と玄人に明け暮れながら書いては 直し書いては直した小説である。それでも、今と隔たる五十年の重みは険しく、読み読み読みながら、微細なところで気配りの手を入れていた。「文学の文章」 とは「音のない音楽」だとつくづく思う。音の濁りやはずれを丁寧に直して行く。作家として表へ立って以降の作では、いま読んでもほとんど直しを要していな いのに。だが、その推敲作業じたいがとても嬉しく楽しいのである。そうか、こうか、やっぱり…などと呟かんばかりに、キイを使ってはことばの流れや走りを 正して行く。
* 十時半。さ、もう、今夜は、少し音楽を聴いて、そうだ松たか子の「みんなひとりぼっち」でも聴いてから、からだをゆっくりやすめよう。猛烈な暑さだった、戸外は。バス停から西日へ向いて家まで歩いた五分ほど。よろよろしていた。
明後日は、またそんな夕方に歯医者へ通わねばならない。次の水曜には聖路加の眼科へ通う。ほどよく雨が降って欲しい、嵐はイヤですけど。
2015 7/22 164
* 今日は「鷺」を読み、「孫次郎」を読む。
室町末期、名高い松屋三種というと、徐熈の描いた「鷺」、大名物茶入の「松屋肩衝」、そして「存星寶尽四方盆」と極まっている。とほうもない、名品中の名品であった。
「孫次郎」とは、金剛流に伝わる能面のすこぶる著名な名昨である。
こういう美術工藝の名品名作を在に得てわたしが小説を創り出すのは、簡明に謂って、それらにまつわる美しさや由緒来歴や伝説を私が好むから、古典や能や歌舞伎や古美術や民俗に、趣味ないしそれ以上の愛好を自覚しているから、である。
自分が読みたくて堪らない小説を、人は容易には書いてくれないので自分で書いてきた、という意味の大半は、いまいうような世界への趣味・愛好が、いつも 私自身を刺激し誘惑していたからだと謂える。いまどきの小説家で、そういう古典的趣味を生活の下地からしっかり身に帯びている人は、めったにいない。ほと んどが知らない、ないし趣味を持ち合わせていない。当然にも、だから私が読みたい世界を小説に書いて読ませて貰えるわけがなく、そんなに読みたいなら、自 分で書く、創る、しかない。
「選集第九巻」の私の短編小説の世界は、文字どおりに、そういう「日本の古典的文化世界」なのである。「竹取翁なごりの茶会記」「加賀少納言」「夕顔」 「月の定家」さらに「鷺」「孫次郎」「於菊」など、その通りであり、更に加えて、「修羅」十二篇の短編小説は、みな、古美術と能と現代とのコラボレーショ ン小説になっている。私にすれば、書いても読んでも、面白く楽しく嬉しくて堪らない。
だが、当然ながら、こんな半面も露骨にあらわれる。即ち、そんな美しい趣味世界とは無縁無知識の人には、小説自体が「むずかしい」「分からない」「読み取れない」ということになる。蔵が建つほどの多数読者には、はなから、恵まれるわけがない。
いまごろそれに気づいたのではない、初めからそれと承知で、しかしわたしは、あくまで自分が読んで楽しくて嬉しくて面白い、しんみりと没頭できる界をこ そ「小説」としてに書き続けたかった。「騒壇余人」と名乗り、「湖の本」を創刊して三十年も本を出し続け、しまいには非売品の「秦 恒平選集」まで創っているのは、私家版の昔から今日に到るまで、迷いがないからである。
文学の創作には、こういう依怙地に頑固なところが在って当たり前なのだと思ってきた。
2015 7/23 164
☆ とうとう
「生きたかりしに」全三巻、読み終わりました。
「初原」の地が見えてくる辺りからは、もう、胸の高鳴りがそのまま伝わってくるようで、どんどん加速度もついてきて。
こまぎれの時間を利用しての初読。落ち着いたら再読したいと思います。
今はただ、「恋しくば」の遠い呼びかけに促されての永い遥かな旅をした「私」が、「ただ情欲を満たしただけの結果」なんかではなくて「此の世へ歩み出」 し、慈しまれていたと確かめた後に、<母>でもあり<姉>でもありうるような「愛(い)と子」との再会を当尾で果たし得たこと、 母の歌声を耳に作が完結しましたことを、心からお喜びいたします。
吹きやまぬ風は、今どこに向かっているのでしょうか。
どうぞお元気で。 黍
* 「目次」構成に、わたしは或る意味の「策」を構えて、「秋成」と「私」とのつかずはなれずの重ね繪が読者にもなんとなく予想できるよう に創っておいた。「母」かたにはあまく、「父」かたにはからいと見えてくるもののバランスをはかってみる創作意識・作意をはたらかせていた。予想したより も多く重く、読者はこの母方へと父方へとのバランスめく作意を実意として「よかった」とうけとって下さった。
もし事実然様であるなら、私小説に底敷きしたバランスの作意が、ま、いい方へ受け取られたことになる。
もしも、作者であり子である私自身の実感から「母 三浦くに」への気持ちをいうなら、異父長兄「聡一」の母親観に、書いても読んでも終始一貫してほとん ど「同じ」であったと紛れなく気付いている。およそ聞き書きの他に方法を得られなかったなかで、わたしは「母」のあまりに偏りすぎて捩れた像を、ままその ままに近いまで修正してやりたかった。冷静に言えば「それだけ」のモチーフだった。まして「真の身内」が確認できたなどというハナシではなく、その限りに おいて「三浦くに」は小説の主人公たり得る多彩な光源を内蔵していたと信じていい喜びは、しかと掴んだ。
父方方面へは、どう作が作として収束されて行こうと、いようと、作者としても父の子としても、ごく冷静いや冷淡であった。心情的にみて良く言って「不分 明で未解決で」あり、聊かの感傷も感じていない。「父」「父方」も、じつは既に書きかけてもいて、これまた難儀にも複雑な、あまりに嬉しくない実情が展開 して行くだろう。
よく母を書いた谷崎は、しかし、リアルの母とイメージの「母」との別をきっちり私に教えてくれた。鏡花もそうだ。そて谷崎や鏡花の愛はどっちへ向かって深かったのか。
わたしはたくさんな小説で「母」に熱く恋・愛してきたが、今回、リアルな母は「母」ではないことを「生きたかりしに」で実は冷静に冷徹に再確認したので ある。ましてやリアルの父は。いやいやリアルな父は、或る意味で母よりももっと痛切な苦汁をなめつづけた気の毒な敗者であったのを、今の私は識っている。 母の「生きたかりしに」はじつに分かる、よく分かる。父は、それに比して、何と我とわが心に問い続けながら死んでいったか。書き遂げられるかどうか、この 小説は、母の小説よりももっと険しい道を辿ると想われる。
* 母と父とから、わたしは何を承けたか。享けたか。身体髪膚、それは動きない事実。深い思いとしては、何を。言うまでもない、血縁や親縁はなんら「真実の身内」を保証しない、「身内」は人が人として生きながら見つけ出し創り上げてゆくしかない、と。この私根底の思想からすれば、実の父も、生みの母もあまりに正確な「反面教師」であった。わたしはわたしの「身内」を探し求めずいられなかった。
父母に感謝はしないのかと問われるだろう。「しない」とも「している」とも言うまい。それならば遙かに多く豊かに「秦」の親たちにわたしは感謝してい る。いまでもわたしは朝起きて真っ先に、「秦」の「おじいちゃん おばあちゃん」「あば」に呼びかけてありがとうございました、ありがとうございます、そ して、こころから「ごめんなさい」と不孝のかぎりを詫びている。
2015 7・24 164
* 「或る雲隠れ考」を読み終えた。わたしはかねて、「凄い」という語の誤用に五月蠅いのは知られているが、しかもこの自作の小説
は秦 恒平創作の中で最も「もの凄い」小説だと新ためて自覚した。「清経入水」で太宰賞スタートをするよりずっと以前に、半世紀も以前にわたしはこんな「凄い」 小説を書いていた。自賛しているのでも自慢しているのでもない、わたしは、処女作の「或る折臂翁」「少女」の頃から、いわばハッピーな極楽や天国ではな く、もの凄い地獄絵図を美しく書こうとしていたのだと、ありあり思い出せる。その極めを打っているのがこの源氏物語に取材した「或る雲隠れ考」であった。 読み返しながらわたしは何度も身震いした。もとよりフィクションではあるが、リアルに動かしようのない「家」を書いていたのである。
おそるべきは、この物語を語っている「私」であり、ひいてはその「私」を書いている作者の私自身である。なんという凄い男が書けてしまっていることか。
「蝶の皿」や「畜生塚」で秦 恒平は女性読者に見込まれ、次の「慈子」で男性読者に支持されたとは多くの編集者に私自身いわれたことだが、「或る雲隠れ考」は男女とも読者をたじろがせ た。しかもベテランの編集者はこの作の「どろどろ」が秦 恒平の世界だと指さし、むしろ認めてくれた。
もしこの作が優秀な映画作品になれば、(十分成り得るが)川端康成:原作の映画「千羽鶴」などはお遊戯並みに見えてしまうだろう。この小説、選集第十一巻巻頭に用意している。
* つづいて短篇「底冷え」を読む。「選集第九巻」は、もう「於菊」「露の世」を初校し終えれば、全編再校待ちの段階になる。
2015 7・25 164
* 夜通し、「セコハン娘」と「星の流れに(こんな女にだれがした)」の言葉とメロデイとが眠りを波立てた。寝ている間もわたしの脳か心かは激し い喜怒哀楽に揺れる。或る意味では健康な反応なのでもあろうと堪えている。静謐な眠りをわたしはほとんど知らない、昔から知らない。想像が眠りを揺りたて る。思案にも耽る。あきらかに眠っていながら、わたしはわたしを試み続けている。「木ヘン」の漢字を三十字、「サンズイへんの漢字を」「クサかんむりの漢 字を」二十字などと。人は思うだろう、カンタンだと。やってごらんなさい「木ヘン」の漢字を三十、たちどころに言うてごらん。出来ない。「サンズイへんの漢字を」「クサかんむりの漢字を」たちどころに二十も出せる人は、まずいない。やってごらん。
わたしの掌小説に「数をかぞえる」はなしが有る。わたしは、昔からその「ヘキ」があり、いまでも、歯医者がわたしの歯をがりがりやりつづけて いると、指を折っている。歴代天皇の名を順に呼び出しているのだ。かと思うと百人一首の歌を、作者の名を五十あげよと自分に命じたり。外国映画の男優女優 の覚えている名を数えたり。少年時代は源平藤原北条足利徳川歴代の名をみな覚えていた。そのなごりの波が今も夢を揺らすのだ。あまりつらいとリーゼ(安定 剤)を一粒服する、三日に一夜ほど。
わたしのこの頃に、喜怒哀楽の喜は残念だがすくない。怒は突出する。哀も噴出する。楽は、努めて創りだしている。まだ日々に衰えていると思っていない が、年々にとまで老衰の感覚が引き延ばせているか、そうは問屋がおろさないと観念している。そして、何にとも言い得ぬまま、「間に合いたい」とささやかに 願っている。
2015 7・28 164
* 「選集⑪」に用意している創作は、かなり明瞭に私の「戦中・戦後」に焦点を結んできた。ことに、まだ前半で、思い切った物語の「或る雲隠れ考」「義子(原題・喪心)」そして「余霞楼」三編に凄みがあり、まさしく「京」の女文化の肉身を「戦後」のどす黒い深い傷が抉る。読んでいって怖くさえあった。
2015 7・28 164
* 仕事に追われるときは目の前にそれと決定的な急ぎ仕事が山になっている。息をついているときは、つい、あちこちへ手を出してしまい、散漫が混乱になっ てきて、何をしていのやらとかえって疲れて呆としているが、ドッカーンと「選集⑨」の再校ゲラがつまれ、掌篇が、さ、七、八十作あろうか、そして短篇が二 十作入る。分量が少ないからカンタンとか、手がかからないとか、けっしてそんなことはない、掌篇だから短篇だから、長編よりも瑕疵が致命的なキズになる。 古典世界と触れ合った短篇も多くて、勢い、ルビをふって意図に添ってよんでもらいたい。自の小さいルビは視力のないわたしには危険極まりなく、パとバなど 気にしてる。ま、大方は文学に慣れた読者であり、どうか幾らかは察してご覧願いたい。
2015 8・5 165
* 阿川弘之さんが亡くなったと。哀悼。これでもう、志賀直哉、瀧井孝作先生につながるご縁の糸も途切れてしまった。
わたしは阿川さんの「年々歳々」という作品に「文学」への導きをもらえたと思ってきた。ああそうか、こういう書き方があるのだと。
お手紙も添って何冊か晩年のご著書も頂戴し、むろん私は丁寧な思いで自著をお届けしてきた。
大事な先達が、一人また一人去って行かれる。寂しいことだが、なにとはなく「向こうの世界」は賑わっているなどと想いもする。
順不同だが、谷崎潤一郎ご夫妻、志賀直哉、瀧井孝作、永井龍男、井伏鱒二、唐木順三、臼井吉見、河上徹太郎、中村光夫、福田恆存、下村寅太郎、森銑三、 藤平春男、園頼三、立原正秋、井上靖、宮川寅雄、辻邦生、巌谷大四、上田三四二、河北倫明、清水九兵衛、橋田二朗、鶴見俊輔、北澤恒彦、まだまだ、まだま だ沢山な懐かしい、慕わしい諸先達、諸先生に死なれてきた。
生きてきて、恥ずかしいことはたくさんしてきた。だが、諸先生の前へ恥ずかしい作は差し上げまいと願ってきた。
2015 8・6 165
* 昼前に放送大学で、日本新劇の歴史的な回顧と解説を聴いた。坪内逍遙、小山内薫以降の歴史的な積み上げの中で鍛錬されたさまざまな表現革新、思想形 成、方法探求のいろいろが示唆に溢れ実例もともなってまことに興味津々、感銘を受けた。戦後演劇での三島由紀夫の革命的な演劇言語の錬成を経て何人ものみ ごとな演劇創造の先頭を邁進している実例もみせてもらい、戦後文学の歩みなどこれら演劇的前衛の逞しい創意工夫の前にはなさけないほど平板ではなかったか と、ガックリした。
秦建日子の「秦組」の旗の下、どんな斬新で深刻な演劇創造が展開されてきたのかと、身贔屓のママまま顧みて、やはり、やるなら歴史も共々もっともっと濃 密に尖鋭に人と世界とを批評し彫琢し、前進してほしいと感じた。小山の大将に甘んじてては、所詮追いつけもしない先人先輩らの足どりがあったのを、時分の 足でも一歩一歩確かめて乗り越えてほしい。まだまだ才気にまかせての趣味の域を超えていない、真の独創をめざせていないのではないか。もつと勉強しもっと もっと苦悩しつつ思索し冒険して欲しい。優れた師をもち肝胆照らしあう友とライバルとを。もう五十近く遅きに失しかねないが。
* わたしが、稀有な「部屋」をもっていることは、やがてまた『最上徳内』で実例があらわれる。わたしは、とに書くも実在であれ仮構であれ、先人古人に謙 遜に学ぶことを生涯の心がけにしてきた。尊敬と批評とで、いろいろに接してきた。だいたい、どのようなエライ人であっても尊敬しかできないのではなく、批 評の余地も必ずある。衷心尊敬し、または敬愛しつつ、批評もするのでなければ学べない。それは面従腹背とはまるで異なるよく生きるため当然の「立ち」方な のだ。わたしのことを「こわい」と及び腰になった何人かの先輩・年長者を覚えている。なるべく抱き柱を抱かずに孤独をいとわず歩んできたものの支払わねば ならぬ損金のようなものか。
2015 8/11 165
* 小説は、心迷えば迷うほど難渋し難航する。あせると文章が雑音のように乱れ出す。参る。いくら参っても、放り出せない。わたしは昔から、書き損じた原 稿用紙をくしゃくしゃに丸めて坐辺を騒がせることはしなかった。原稿用紙二十行の十七、八行を書き潰しても一行二行を書きのこした。文章には、言葉から言 葉へ微妙な「橋」を架け続けねばならない。踏もうが跳ぼうが「橋」は橋なのであり、渡らねば進めない。難儀なことに「橋」は在るはずだが見えないのだ。苦 心して見つけ出すのである、書いてみて、書いてみて、書いてみて。ウソのようにすらすらと渡れるときも、半日かけても橋が現れてくれないことも、ある。黙 然と、唸る。しかし諦めない。しかし、むずかしい。
2015 8/11 165
* 朝一番にこんなメールが来ていた。
☆ 8月15日
当時六歳だった母は、通学に防災頭巾をかぶった朧な記憶がある程度で、怖い思いも、ひもじい思いもしなかったと言います。
空襲といった直接的な脅威には晒されなかったためか、父や祖父母からも戦時体験を聞いたことはなく、戦争は、本やドラマなどを通して知る歴史的事実、自分には、この先の日本には、無縁なものといった根拠のない安心を抱いていました。
長々とメールしていると、今日が終わってしまいそうですね。
もう、お休みになっているでしょうか。よい眠りが得られますように。 桃
* こういう日本人もいるんだと、ビックリした。京都は激しい爆撃こそうけなかったが、一、 二発は爆弾も落ちたし、空襲警報のソイレンにも怯えてほとんど無意味な浅い縁の下の防空壕にも身を隠した。学校の廊下に貼られた大きな世界地図をみなが ら、日本とアメリカを大小見比べながら日本に勝ち味のすくないことを呟いたトタンに通りがかった教師に壁へ張り飛ばされたこともあった。毎月の大詔奉戴日 には奉安殿から恭しく行動での式典へ運ばれる天皇御真影にうんざりし、整列し街なかを歩調をとって護国神社に参拝した。町々はがっさがっさと家ごと潰され 疎開されたし、学童は丹後まで集団疎開、わたしの家は丹波へ縁故疎開して終戦を迎えた。考えられないような食べ物で飢えを凌いでいた。
負ければ負けたで街にはジープがかけめぐり、占領軍(進駐軍)と街娼がいたるところにうようよした。食い物の配給も滞りがちでヤミという商法が時代を席 捲した。学校へ通う履き物も払底し、戦後三年、なおハダシで通学したことも再々あった。中学一年生で撮った学級記念写真、前列中央の女先生は袴すがたの和 服だが、その左右に腰掛けた男女生徒の何人もがハダシである。体操の時間、底冷えの京の真冬でも先生は容赦なく男子には上半身ハダカを命じられた。先生の 後年の述懐に、当時生徒の下着たるやヒドかった、だからいっそ上半身はハダカでの体操にしたんだよと。
大人には出征・徴用という役務があって家庭生活は不安定を突如として強いられた。「勝ってくるぞと勇ましく 誓って家をでたからは 手柄立てずに死なれ うか」とか、「タマもタンクも銃剣もすべて野営の草枕 夢に出て来た父上に死んで帰れと励まされ 明日の命を誰が知る」などという歌を、少年のわたしは憎 んでいた。秦の祖父の蔵書から袖珍の白楽天詩集を手にし、反戦詩「新豊拙臂翁」とわたしはもう出会っていた。それがわたしに小説というものを「処女作」と して書かせたのだった。
* 空襲されなかった京都や山の疎開地にいても、「戦争」はあまりに重かった、まして爆撃におおくの無辜を喪い家族に死なれていた遺族たちの戦争苦は筆舌の及ばぬところ。メールの読者は幸運だったのだ。
2015 8/16 165
* 百人一首、曽禰好忠の名歌に由良のとをわたる舟人かぢを絶え行方も知らぬ恋の道かな」というのがあり、少年の昔から百首のなかで五指のうちに 数えたい好きな歌だが、ふと、というより、今つくづくと顧みて、わたしは「恋」という一字、一儀を、じつは少年の昔から、あまり重きをおかなかったと気が つく。京で育って「おんな」文化と世間のなかで、ちいさいときから女をかなり赤裸々に観察し、また異色独特の観察眼ももっていたと自分で思うけれど、その あげく、子供からみて、年長の大人たちはしらず、心惹くほどの年格好の女の子に対しては、「この人はいつか自分のお嫁さんに<なれる>人か、どうか」とl 眺めていた。むろん擦れ違って行くだれもかれもが「問題外」だった。およそ、わたしのこのような偏った志向は、しょせん「恋」ではなく、より広くはむしろ 「愛」を求めていたにちかく、より極端にわたしの物言いに煮詰め且つ置き換えると、この人は、「自分の真に身内」と思えるほどの人か、存在であるか、というに極まるのだった。つまり「恋」なんて気持ちは、ある意味わ たしには、生活感覚として範疇外のこと、ことば、であった、他人事としてなら、百人一首にあれほど没頭できたように、深く深く懐かしく理解し知識はしたけ れども、自分自身に向けては、「恋びと」であるよりも「身内」であり得るほどに愛し愛し合えるかが絶対的に大事だった。「妻」は、一人で足りている。妻と は恋をして結婚した。恋は、もう不要だった、妻を「身内」と信愛したのだから。
だれでもが思い当たれる筈だ、わたしが常々謂うような「真実の身内」など、めったにいやしない、出逢えやしない。たいがいが簡単明瞭に「身内崩れ」を起 こすのだ。だからこそわたしは、まるで「尋ね人」を探すように、愛するに足る「身内」のヒロインを創作世界で造形するのだ、わたしは、さような創作行為 を、自身に是認している。「恋」の次元は低く狭く、魅されはしない。「行方も知らぬ恋の道」などといものにわたしは惑わない、そんな道は他者には在るのか 知れないが、わたしには「身内」の思いしか実在しない、少なくも結婚して以来は。
人が人にとって真実「特別な存在」でありうるのは、恋や欲や、いまふうに謂う「つきあい」ゆえではない。「真に身内であるか」だけできまる。ところが「真の身内」はまこと稀有なる真実で、少なくもさまざまな<欲望>に誘い出されつつ成る人間関係ではまったく無い。
2015 8/23 165
* 「旧満州で軍国主義の教育をシャワーのように浴びながら育った。中国の兵隊が殺されるのは当たり前だし朝鮮の娘さんが慰安婦になっていること は小学生の僕まで知っていて当たり前のように考えていた。あの恥ずべき差別意識を根底におぞましい国民感情をあおりたて戦争は始まる」(山田洋次・映画監 督)
前段で「当たり前」のように証言されている事実は、体験者も同様証言者も夥しい人数が実在するのを、いまや、多くが知っている。それだけに山田洋次氏ほ どの人には、その「先へ」の考えが聴きたい。少なくも中国、朝鮮(北、韓)との「日本の未来」どうありたいか、あるべきか。そういう大きな視点・視野で輿 論を喚起してほしいと願う。かつて日本人が「当たり前」としたことを、逆に「当たり前」と仕返されずに済む道・智慧・姿勢を持たねば、意味が薄いのだ。中 国は歴史的に観ても支配・覇権意志の強烈な国であり、朝鮮は「怨=ハン」を歴史的な国民性にしてきた。そういうことを棚に上げたまま過去を証言しているだ けでは、輿論をリードする知識人の場合は話にならない。 2015 8/24 165
☆ 残暑見舞い 申しあげます。
此度は『秦 恒平選集』第八巻をお送りいただき誠に有難うございました。心より感謝致しております。この本の連載の編集を担当させていただきましたことを改めて幸せに感じております。
今から考えまして、単行本(筑摩書房刊)にするにあたり、タイトルは『北の時代』ではなく『最上徳内』とした方がよかったのではないかと存じます。
今後ともご指導ご鞭撻賜わりますよう何卒よろしくお願い申しあげます。敬具
御健勝のほど心よりお祈り致します。 清水克郎 岩波書店元「世界」編集者
* 清水さんの表題に関するご意見に120パーセント賛成である。もしわたしが刊行編集者であれば、著者が何と言おうと『最上徳内』を主張してゆずらな かった。それにもかかわらず、作者の私が『北の時代』にと提案し、筑摩書房はそのまま受け容れた。わたしは、その当時の読者世間にあまりにも「最上徳内」 は識られていないのを(今日でも実はそうなのだが、)過剰に慮ったのだった。加えて大韓航空機がソ連により撃墜された事件が「いまなお、いまこそ北の時 代」と思わせた。
この単行本表題をぜひ連載当時の『最上徳内』に戻したいという願いも「選集」新刊という発想のつよい一因であったと記録しておく。重い姉妹篇になる「親 指のマリア」にもおなじ事は謂えたかしれないが、小説の手法が「徳内」とはまったく違っていたし、「親指のマリア」図そのものへの作者わたしの親愛も濃 かったので、単行本に「シドッチと新井白石」が良いとは思わなかった。書いた事柄に即してなら、新井白石その人のことば「一生の奇会」もありえたが、『親 指のマリア』への思慕をぜひ生かしたかった。 2015 8/25 165
* また妻に電子化して貰っている比較的長い未完・中断原稿の「一」だけを読み返した。興を惹いて、なかなか書けていた。書き出しの字句をとってかりに題 すれば、「チャイムが鳴って…更科日記」となるか。書きだした年代は、朝日子が地元の青嵐中に在学していた一九七五年ごろか。とすると、わたしは当時より 更級日記にも著者の菅原孝標女についても多く識っている。それゆえにさきざき物足りなくなるか、思い切りよく書き継いでみたくなるか、じつは、中断原稿は まだだいぶ先がある。気になってきた。更級日記を読み返しておこうかな。するともっともっと他の物語も読みたくなってしまう。そんな時間、ありそうにない が。
* 十時半。今日は、完全に出そびれて、家にいた。家の中までむちゃに暑いので出たくなるのかなと想ってしまうほど、涼しい一日に妙にボーゼンとして暮ら した。「生きたかりしに」にエピローグの必然を請求されてもいる。どうなるかなあ。父が書けるだろうか、実は書き続けているのだけれど。
それよりも、例の「ある寓話 ないし猥褻という無意味」というのへ、大纏めへむかう筆を日々に使っているのを仕上げへ磨きたいし、順調に来ていた或る物語がいまぶん停頓しているのが気になっている。書けば書くほど自身がボロボロに崩れて行きそうな懼れもじつは抱いている。
ま、よく眠ろう。明日には、「三千盛」が届くと。ありがたい、暫くぶり日本酒が飲めるのだ。食欲へ美味く繋がってほしい。
2015 8/25 165
* 外出したかったが、気が乗らず、結局、午后もまた寝入っていた。
これは自分一人の決心しだいなので、どう転んでも怪我はないが、そうはならぬ場合もあるだろう。たとえば相撲の面白さは、いまのわたしなら、実際に国技 館へ見に行けばなおなお、掛け値なく「相撲は立ち合い」だと言いきるが、初心の頃は「仕切り・立ち合い」が退屈で堪らなかった。
しかし「立ち合いの気合い」ほど、なにかにつけ大事なものはない、相撲でだけではない。「気合い」が逸れていては、少なくも仲間仕事はうまく行かない。ましてやセームタイム・セームプレースと謂われるデートなどそうであろうなと、遠目に想像する。
あの人とは「よく気が合う、合わない」などと謂うようだが、これって、根深い性格の差異なんかではあるまい、ちょっとした互いに「合わせる気遣い」がよくもあしくも響くのだろう。
「うてば響く」か「うてど響かない」かは、やはり「気合い・気遣い」の問題だろうと思うし、案外に容易で無いとも思う。ひとにしてもらおう、ひとに決め てもらおうでは、兵隊は知らず、お互い同士では成る話も成らなくなる。「成ると成らぬは目もとで知れる けさの目もとはは成るめもと」と都々逸はうたう。 目もとなど見たくても見えないまま「気が合う」とは、簡単なことではない。友情や愛情という妙薬がきっとものを言うのだろう。一目惚れという不思議もあれ ば、百年の恋も一瞬に褪めるとも謂う。恋も愛も容易でない。その難しさゆえに昨今では恋も愛もとびこえていきなり「付き合う」習い慣いが人の世をおおって いるらしい。「人柄」「人品」「人格」なんて言葉は有名無実の死語と化しかけている。「気合い」なんてもはや神秘に属し、若きも老いもスマホのラインで踊 り狂っているらしい。
2015 8/31 165
* 「チャイムが鳴って 更級日記」中断原稿の最終部を電子化し、その余よおおかた新作『ある寓話』にかかりきって、今夕五時半、とにかくもエンドマークが打てた。相当な長編。これからは推敲に推敲を重ねる。シビアな結末。湖の本へ持ち出す勇気、とてもまだ持てない。
此の作は、およそ2005頃にすこし別角度で書き始められ、いったん中断というでもないが、意嚮を逸れた感じでまとまり「方神」というむずかしい題を添 えられていた。六年以降もいつも念頭にあって動こうとし続けながら、今日のを初稿というならその起稿は08年であったようだ。てさぐりで動いていった、途 中でいろんな新しい構想上の刺戟も受けた。かけてきた年数からすればたいした長さではない。ま、たちどまって深呼吸して、調えておこうとは思う。
* 舵を切って、もう一つの新作{物語}のXDTTZQ難所を蛮勇で越えて行きたい。 さしかかつた?
2015 9/6 166
* 古稀には文庫本歌集『少年』ん゛、喜寿には平凡社ライブラリーで『京のわる口』が再刊できたが、傘壽には、この夏の長編『生きたかりしに』が恰好の自 祝になったし、誕生日の前後で『秦 恒平選集』が長編『親指のマリア』で第十巻に達する。おそらく三月の結婚五十七年か四月の妻の「傘壽 八十歳」を祝ってさきの『生きたかりしに』が選集第 十二巻として記念に値する出版に成る。
健康に、怪我にも事故にも遭わずに、無事に妻の傘壽も迎えたい。わたしは、小説やエッセイを創作してきた。妻はこのわたしを創作してきた。
傘壽 建日子と黒いマゴが朝日子の分も、元気に祝ってくれれば、嬉しい。
2015 9/9 166
* 豪雨の被害の異様な凄まじさに身も冷え戦く。被害地。被害者、お気の毒でならない。
経済優先の政治経済が見当ちがいに氾濫し、ぜひ必要なところで渇水の度を益々増して行く。
いまに囚人番号のような国民ナンバーで家畜のように露骨な政治経済に飼育され大多数の人々が使役されるだろう。
オールドブラックジョーの、天の彼方からの「すぐにおいで」の呼びかけが聞こえてくる。老人はそんな逃げ道を求め得やすいが、若い人達の未来がおそろしい。
* わたしは、創作に没頭したい。幸いそう出来る仕事を今も幾つも抱えていて、手を掛けている。
2015 9/10 166
☆ 秦 恒平 先生
立派な御本をお贈りいただきまして、ありがとうございました。
その前にも、湖の本をお送り頂いており、恐縮です。
お身体、その後いかがでしょう?
御本が届くとき「ご活躍中なのだなぁ~」と感銘しております。
どうぞ益々のご活躍を期待しております。 北海道 中山 あや 漆藝作家
* お元気でお過ごしあれ。
わたしはまだ ゆらゆらしていますが、八十傘壽を目前に仕事をつづけています。あまり食が進まず、それでも胃全摘の後もなお<20キロやせてなお、68キロあります。脚と目とが弱りました。
あなたはどんな日々のお仕事ですか、美しい作が続いていますように。
わたしの今度の「最上徳内」は、シーボルト曰く「最良の日本人」として、北海道でいっとう早くごくマトモに立派に活躍した人です、有名な間宮林蔵らよりうんと早く、より大きな心よい仕事をし、日本に「北の時代」のドアを明けたひとです。
機会とご縁とがもしあれば、さきざきにでも、然るべき人なり施設なりに献本して下さいましてけっこうです。
湖の本の「生きたかりしに」は幸い晩年の一記念作となり好評でした。生みの母と、ようやく出逢いました。
お幸せにと願っています。
2015 9/11 166
* 「チャイムが鳴って 更級日記」を、ほぼ「草稿または原稿」のまま久しく放置してあった小説(二百字用紙229枚)を電子化し終えた。これはこれなり に、このままでも、書き足しても、成り立ってくる内容を持っていると観た。明らかに『秘色』を書いたあとで、ふとした幾つかのキッカケを手繰り手繰り書き 拡げていって、他の仕事にも追いまくられてのあげく棚上げしたが、雑誌「ミセス」の依頼で連載「史跡幻想」(改題して「蘇我殿幻想」)を書く際の良い下拵 えにはなってくれた。わたし自身の本音で言えば、だか「蘇我殿幻想」で満足したのではなかった、わたしの「本能寺」はじつは更級日記著者である「菅原孝標 女」といわれる王朝の有能な物語作家その人にあったのだ。話題がその佳境へ辿り着くまで、ちょうどそこまでを、わたしは「チャイムが鳴って」で書いていた んだと、新ためて合点した。
ま、それがどうなるかは今後の私事情に左右されるが、咄家の志ん生と息子の志ん朝とが咄の「大工しらべ」を前後競演していたように、だれかに「アト」を書いてみてよと頼みたくもある。残念ながら息子の秦建日子はとてもこの方面は得手でない。
ともあれ、手書きの長い原稿を機械に写しておけたのを悦んでホットしている。
* 数ある中断法治原稿の中に、「青い雛」と題の付いた怕い小説が遺っている。大将人形なので「雛」呼ばわりは優しみに流れるが、「青い大将」では怖さが 過ぎてくる。もう数十年も昔に、飾ろうかと五月五日の前に大きな函から出しかけて仰天した。旗持ち人形の白い顔が真っ青に黴生えていたのだ、ぞっとした。
そのあと、ある着想から「青い雛」の題のまま或る家のぶきみな日常をまさしく「ながめている」小説を書き始めた、ながくなりそうなのと気味が悪くなった のとで放置した。そういえばこの小説に手書き原稿はなく、初めて買った東芝第一号機ワープロで書いていた。プリント原稿をスキャンし今の機械へ移転できた ので、これもこの際、読み返してみたい。、
* 休息代わりによこになって「更級日記」をざっと読み通した。高校三年のころからかぞえて何度目だろう。高校の新聞に「更級日記の夢」という一文を載せ たのがわたしの。ま、評論のハシリだった。そういえば、高校の他教室で遣りはじめた謄写版雑誌に割り込んで「竹芝寺縁起」を書いたのが、ま、わが小説のハ シリだった。そう思うとわたしの創作生涯に「更級日記」はなかなかの存在であったといえる。この日記が、ことに竹芝寺への不審や関心がわたしをはるかな飛 鳥の昔へ、そして近江朝へ、さらに奈良時代へ翔び立たせたのだった。
おおよそ「更級日記」また「菅原孝標女」へのわたしの「読み」見当はもうついていて、揺れていない。書きかけてやめていた作「チャイムが鳴って更級日記」に「始末」をつけたい、と、気が動き出している。
2015 9/12 166
* もう何年も、気がつくと聴き入っている歌がある。松たか子の呉れた彼女自身が唱っている曲で、聴き入りながら詞を書き取ろうとするのだが、難しい。まちがっているだろうが、あらましは酌み取れる。
☆ みんなひとり 松たか子が唱う
ふたりだけでいい あなたのような人が いることに感謝
夢がとおく見えて 肩落とす夜は 電話をかけてよ
恋びとともちがう たいせつな友達 代りが利かないわたしの相棒
みんなひとりぼっち さがし続けるのは たしかな絆とその明かし
だれかのひとことで あしたも頑張ると 思えるなんて すてきサ
わけもなくふさぎ プチ鬱な自分が 嫌いになる日も
あなたの笑顔の 大きなちからに 励まされるんだ
どんな強いひとも 弱さを隠してる
外には出せない 傷かかえながら
みんなひとりぼっち
それを知るからなお あなたの大事さが分かるよ
心の片隅で 気に掛けてくれてる 恋よりもつよい味方
あ、たまにはわたしを あ、たよってもいいよ
生まれるときはひとり 最期のときもまた独り
だから生きてる間だけは
ちいさなぬくもりや ふとしたやさしさを もとめずにはいられない
(英語での唄が すこし 続く)
* なにげない歌の詞であるが、よく聴き入れば酌むに足るものがある。恋人を求めているのでなく「身内」を信じて頼り合おうとしているのが、この手の歌のたわいなさを超えている。そう聴きながら、ときおり、この頃はしばしば松たか子の声に耳を澄ましている。
2015 9/12 166
* 安保悪法強行 国会・司法の無力 自然大災害 原発の野放し 労使環境の最悪化 藝術・人文の沈滞
* 歴然としたかかる現状をにらみながらわたしは、いま、どう在るべきか。よろめき群衆のなか路上に斃れてもデモに加わるべきか。政情無惨を攻める訴訟に馳せ加わるべきか。国と社会への批評活動をもっと逞しく続けるべきか。
いまわたしは、自身や家族・知友の心身の平安を願いながら、わたしにしか出来ない仕事、文学・文筆の仕事にすべてを傾けたい。なにほどの新たに生まれう るとも自身に溢れているわけではないが、久しく生きえてきた道をまだまだ一歩一歩歩んで未知を確かめ続けたい。わたしのなかに或る根深い諦めの忍び育って いるのに、むろん、気付いている。わたしにだけ出来る余命の生かしようを把持し、とぼとぼとでもこの道を前へ歩き続けたい。寂しいことはない。「部屋」へ 入ればわたしには大勢の身内がいつでも向こうから姿をみせてくれる。そうだ、「身内」は創るのだ、創り出すのだ。この混濁の現世で、いたずらに孤独孤立を など歎いてはならない。
2015 9/13 166
* いま心惹かれて書き写し電子化している一つは、医学書院時代の400字原稿用紙に書かれた、一枚目表紙に「資時出家」とある作物。あき らかに「清経入水」「雲居寺跡=初恋」「風の奏で」などに先んじてそれらの基盤ないし出発点を用意していた原稿だと想われる、まだ全部を写せてはいない が、さきにかなり大量に書き写し電子化し終えた中断小説「原稿・雲居寺跡」と時期を同じくしながらの覚え書きになっている。たんなる覚え書きでなく、語り 手である「綾小路資時・正佛入道」が、平家物語を清廉院の慈円=慈鎮の庇護と教導のもとで実現していった際の肝胆を照らし在った相手「行長殿」の人と才と を断章を繋ぐふうに語り続ける形をとっている。いわば平家物語が文藝の表現として成るにいたる姿勢と思想とを証言しているのである。その点、後年に小説と して発表された「雲居寺跡=初恋」や「風の奏で=寂光平家」を予告するとともに、時期的に同時に書きたかったあの「原稿・雲居寺跡」と表裏をなしている。 一つは長編小説をめざしつつ一つは平家物語の方法を語ろうとしている。わたしの大きな意図と願いとが証しされている。これらはいわゆる創作ノートではな い。創作そのものと心がけて書き始められ、力尽き力及ばそのまま仕舞い込まれて、しかしあくまでも後年の作を呼び出しつづける力になっていた。
* いま、平家物語にかかわるそれら、と同様に、「秘色」「みごもりの湖」「蘇我殿幻想」へ繋がってそれらの基盤と追求を用意していた未発表小説「チャイ ムが鳴って更級日記(仮題)」が、惘れるほど久しぶりに姿を現している。大層な言い様をあえてすれば、作家としてのわたしの世界が構造的基盤を露出してい ると謂えるようだ。いましばらく、これらが示しているところでいろいろ考え直してみたい。
* 更級日記をいくつもの古典全集版で一気に読み返している。日記に止まらず、幾つかの平安物語も読んで行く。勉強という以上の楽しみに。頭の中で廻転しながら整頓されて行く把握がある。
* 「親指のマリア」も全体のちょうど半ばまで、今夜か明日のうちに初校を終える。シドッチと生きるのも白石と生きるのも無性に心清しくて嬉しくてならない。惚れきっている。
* いまは一つに偏して打ちこむわけに行かない。
① 選集の校正、入稿・発送用意・作の編輯。 ② 「湖の本」の再校待ち 続く新刊のための編輯 ③ 複数の新作の進行と完成 ④ 幾つもの発掘旧稿の電子化作業 そして可能な限りの追跡
幸せな状況である。
2015 9/13 166
* 落ち着け落ち着けと自身への手綱を絞っている。目の前にすでに手の着いてある、解決や前進や考慮を要する創作上の「仕事」が泡立つ潮のように揉み合っている。選り分けかき分けながら大きな混乱なくそれら「仕事」を選んで前へ送り出してやらねばいけない。同時にその一つ一つの「仕事」に意義のような役のようなものを添えてやらねばならない。
そんなことをしている時かと、叱っている声を身内深くから聴いていないのではない。車いすに乗ってでも反政府デモに駆けつけている人もいる。知っている。
わたしは、それでも、これら自分の「仕事」にこそ余力の全てを打ちこみたい。生きている、その意味を自分自身に問えば、落ち着いて静かな心で自身の深い 闇へ行き向かえとわたしがわたしを教える。わたし自身の存在をわたしに教え励ましているのは、わたしの文学という「仕事」なのだ。耳をふさぐことはしな い。
* 今日はもっぱら草稿「資時出家」を検討して過ごした。読む方では「更級日記」と著者関連の文献を何種類も読み直した。すこしでもわたしの物語を効果的に推し進めてみたい。
あいかわらず「韓国上代史」も上下巻交々に読み進んでいる。
校正は「親指のマリア」前巻の半ばを過ぎて、いま新井白石の二章を楽しんでいる。わたしの長編小説のなかで、一番の大作、渾身の作になっている。つまり はシドッチにも白石にもわたしは惚れきっているのだと思う。もっともそれはどの作の主人公達も同じで、いやいや書いた相手はいない。
2015 9/15 166
* 今日は、「原稿・雲居寺跡」にさらに目を通しはじめた。
これを書き始めたとき、まだ作家の「さ」の字とも縁のない、仲間も先生もない一人の文学青年だった、もう妻も幼い子もあったけれど。それでも即への意図 は大きくて、一方に平家物語誕生の気運をさぐり他方に鎌倉武士達のしのぎを削る暗闘をうかがい、さらには目前の承久の乱や建礼門院薨去も窺い見ていた。枚 数は増え、前途は遠く、そんなものを誰が読んでくれるだろう、わたしには文学の仲間も先生も出版のつても、全く無かった。それを思うと自分のしているこ と、書いているなかみ、みな余りに現実離れしているようで、しかもまだ自費の私家版という思いつきも持たなかった、とことん貧乏暮らしをしていた。
で、「資時出家」も「雲居寺跡」も、ま、希望が持てずに投げ出してしまった。そして歩みを「畜生塚」などの方へ振り替えた。「蝶の皿」のような方へ近 寄っていった。失敗ではなかったし、投げ出して棚上げした作も、わたしを内から突つき続けていたから「清経入水」や「絵巻」や「風の奏で」や「雲居寺跡= 初恋」を呼び出してくれた。
いま読み直していて、「原稿・雲居寺跡」には大作に育ちうる意欲の芽生えが見えるし、叙事叙述もも新米なりに停頓や渋滞なしに相当器用に書き進めてい る。読み通してみて、わたしにこの大作をさらに追いかける余力があるか見極めねばならないが、「資時出家」と組み合わせてすでにある種の意図は行き届いて いる。そのさきは、ともあれ今は「楽しみ」として意識しておく。落ち着いて、落ちついて。
2015 9/18 166
* 大相撲は、白鵬初の休場で混戦模様だが、新大関照の富士が圧倒して行く気配。どっちみち、今場所へのわたしの熱は引いている。それよりは「仕事」。
十月上旬には選集第九巻が出来てくる。師走には第十巻までと気張っている。しょせん文学しかないわたしであり、奮励、余命を退屈して終わらせまいと思 う。そんなものの一切が、いずれ人類社会が灰燼に帰するとともに無になることを重々分かっていて、それ自体は今を生きるわたしには関わり無しと見捨ててい る。わたしの「今・此処」は、心ゆく仕事でありたい。
2015 9/18 166
* 「原稿・雲居寺跡」を読み進んでいる。ほとんど手を加える必要がない、が、場面が進むにつれ、いつしかに、今の昔と 未来の今と 昔の昔と 今の今 とが 縒れたように 幻に似て舞い重なり色づいてくる。作家のサでもない半世紀前からわたしは時制(テンス)への、時空の変への関心と興味をガンとして もっていたようだ。
* 師走中旬のうちに第十巻「親指のマリア」を刊行して、久しい結婚記念日と吾が八十との壽にしたいと気をいれてもいる。家にいるとつい機械仕事へ手を 引っ張られる。校正は床に横になるか、外出してどこかの店か電車でかになる。近所にいい喫茶店がまったく見当たらなくて情けない。
2015 9/19 166
* 今日は朝から眼がよく見えず、なんとなく呆然と睡魔のおとずれに身をまかせがちで。ついつい純米「澤の鶴」の一升瓶を傾けながら、選集⑨の送り出し用 意になどに、ゆっくり、かかっている。湯に漬かって目を温めながら、選集⑩の校正をするか。今は、なによりこの初校を終え、印刷所に戻すこと。選集⑪も⑫ も初校が出来ているのだ。
湖の本127の再校も出そろっている。願わくは湖の本128は新しい小説集で出したいと願っていて、そのためには緊張し集中して原稿を創り上げねばならない。
* 入浴しながら、もう十頁を残すだけ、「親指のマリア」第五章を今夜のうちに校正し終える。のこすは第六終章五節分。あとがきを書かねばならない。
「彩指のマリア」では、登場するほとんど全員を、シドッチも白石も、長崎の通詞たちも、なかんづく切支丹牢の長助、はるも、わたしは深く清く「愛」して 書いている。わたしはクリスチャンではないが、心して心こめてキリストの愛という御大切を書いたつもり。全編を通して、この長編小説は優美なほど清らかに 敬愛をこめて書いた、書けたと思っている。此の作を書けてよかったと思っている。
2015 9/20 166
☆ こんばんは!
秋の気配が濃くなってきました。ご体調はいかがですか。
今日もよく晴れてまだ日傘がいるような一日でした。
お寺(=秦の菩提寺)の萩も満開で、すすきや彼岸花も目を楽しませてくれました。
シルバーウィークとやらで、我が家の近辺は人と車で大混雑です。
主人の撮ってくれました写真送ります。明日が誕生日で76才になります。
主人は11月に傘寿を迎えます。恒平さんと同い年ですね。
東京にいる娘も、孫娘の通勤の便宜のためとかで、大泉学園から高円寺の方へ引っ越しました。
東京も何年か行っていませんが、機会がありましたら、ちょっとだけでもお目にかかれたらと願っています。
それでは、どうぞお大切にお過ごしください。 みち 秦方の従妹
* お寺へ、もう何年もご無沙汰のままになっている。わたしの知るかぎり、住職は代わり代わり、五人目で、四人目と五人目とには会えてもいない。四人目に 代わったと聞いてまもなく、すぐ五人目が嗣いだと報せてきた。そんな気がしている。わたしたちもボンヤリしている。そしてお寺という存在が生活に関わって くる意味をいまさらに考えこみ、ひいては墓という意味も考えこむ。妻も、今はわたしも、一人で京都へ行けない。五十ちかい息子がまったく寺の墓のというこ とに無関心で無知識で、秦家の墓を護るなどということは多忙に流されて想ってもみない。
墓というのは息子が新しく造るものだとわたしは五十くらいの頃に秦の父にいわれ、そうなのかと思って京都へ何度か通って墓を新しくした。お寺とのかかわ りは妻が気遣いして曲がりなりにも跡絶えてはいなかった。わたしは、息子にまた新しい墓をなどと望みもしないが、この家にせめて寺とのかかわりを行儀良く 取り仕切ってくれる嫁か孫かが欲しかったなと痛切に思う。この分だと、わたしを育ててくれた菩提寺との縁が不行儀に切れてしまう。
いま、わたしが死んだら、どうなるのだろう。
埋葬や納骨でなく、縁故の地への散骨散灰を願う人の多くなっているのを、当然だと思う。若い世代に「家」まして遠地にある「家の寺」「親の墓」「自分の 墓」という認識も責任感も行儀も失せている。そんな時代なのだ。「家」はもう、かなりに実質崩壊し、親子孫といった血縁も実態をほぼ喪っている。仕方ない ことだ。わたしにしても、「秦の親たち」に不孝を重ね続けたのだ。毎朝、父と母と叔母との位牌に、妻子にしらせず、「ありがとうございました。」「ごめん なさい。ごめんなさい。ごめんなさい」と、ただ語りかけ頭を下げつづけているだけだ。
* わたしが、骨と灰と化したなら、どこよりも、だれよりも、こころから愛した「ネコ」と「ノコ」との墓へ一部をともに葬り、他は、指定しておく幾つかの 場所へ、それとなく散じてほしい。それだけは、せめて、息子秦建日子に頼んでおく。葬儀など、要らない。したくもない墓参など、無用にしておいてやりた い。
わたしの墓は、墓碑は、それ自体はいずれ灰と化そうとも、言うまでもない「紙碑」であり「紙の墓」である『秦 恒平選集』と「秦 恒平・湖の本」と、それだけで十分、他に必要ない。
妻が近未来の死後をどう具体的に希望しているかは、せめて息子建日子が、母からじかに聞いて置いて欲しい。わたし自身は、しみじみとそれを妻の口から何も聴いていない。
とにもかくにも、妻の傘寿(明年四月)までは夫婦二人とも慎重に堅実に生き延びたい。その後は、ほんとうの「余生」をなるべく自然に楽しみたい。ま、わたしは文学の仕事一途にがんばってしまうのだろうが。
2015 9/21 166
* 小説「チャイムが鳴って更級日記」を仕上げて行くのが、すこぶる楽しい。これは、おそらくは、わりとしっかりとエンドマークが打てるかも知れない。
小説「原稿・雲居寺跡」の方は先へ予想できる展開が大きくて、いまから追いかけるのは容易でないが、何を作者が追いかけていたかはよく分かるし、幸いに この未完の作は他の色んな小説としてそれぞれの成立をすでに見ている。この習作はそれらの全部を合わせたよりも大きな変動や歴史を意図していたらしく、前 後を重ね合わせて十分読んで戴けるだろうと、この推敲添削成稿にも期待を掛けている。なによりも読み返して行く作業が面白いし楽しい。
2015 9/22 166
* 昨日から選集⑪の初校に入っている。巻頭の「或る雲隠れ考」の校正がすこぶる昔懐かしい。此の作の完成には、じつに粘り強く頑張り続けた若い日々が あった、もとより「作家以前」の日々であったが、手に入った状況を利して、感覚。感情的にはほとんど私小説ふうの事実を活用しながら思うさまな物語を創出 している。 登場するどの人物も現存していてわたしは少年時代から熟知していた。しかも物語を仮構してゆくおもしろさ楽しさを堪能しながら書き上げた、永い永い推敲の 期間を厭わずに。だから読んでいて懐かしい。新門前の秦の家に帰っている気がする。交錯する人物の一人一人の声が(言葉ではない)ありのままに蘇ってく る。嬉しくなってくる。
2015 9/24 166
* 「或る雲隠れ考」の校正、快調に進む。すこぶる懐かしい。書いていた頃も懐かしく、書かれてある世界がもっと懐かしい。もらひ子として秦の家で育っていたなかでの或る時期が、匂いも音も色も
かげも光も、そして人も、懐かしげによく描いている。
2015 9/25 166
* 選集第九巻の出来が、一週間延び、十月十六日に届くことになった。少しく、気忙しさが緩められ、その間に山積みのあれこれを推し進められそう、助かる。
* 「初稿・雲居寺跡」に脱落原稿をみつけ、所定の箇所へ補完している。原稿用紙欄外の書留や備忘も原稿に挿入して、創作当時の気分を遺しておきたい。
一応仕上がっている新作の長編「或る寓話」にも、さらに佳い「化粧」を楽しんでしてやりたく、そのための時間も欲しい。
2015 9/25 166
* 夜前、「或る雲隠れ考」初校終え、「湖の本127」再校をし始め、「韓国古代史」の隋による、また唐による執拗な高句麗攻撃、また新羅の唐へ救援を求めての接近等々を読み進んで、消灯二時半に及んだ。
すこし瞼が重い。
* 「チャイムが鳴って更級日記」は、纏まり始めてきた。「初稿・雲居寺跡」は承久の変前夜の闇を歩み続けている。
「選集⑩」のあとがきを書きかけている。「湖の本127」の再校ゲラを読んでいる。
「選集⑪」の初稿が順調に進んでいる。この巻は、いわば私の「戦後」篇とでも謂えようか。収録のいずれにも気が入っていて懐かしい。
2015 9/26 166
* ずんずん今日も校正していた中で、わたし自身の杜撰から、一本の原稿の中で20頁余の重複を造ってしまっていた。頭が混乱して参ったが、妻に手伝って 貰って重複箇所を正確に確認できたのはせめてもであった。やれやれ、こういうことは仕出かさない人であったのになあ。ま、気付いて何よりだった。とくに慌 てふためかなくて済むタイミングで、よかった。
* 「初稿・雲居寺跡」は、まずまず、自立しうる程度の中断作として、それなりの意味を持って立ってくれそう。
次々に、この手の発掘と復活とをすすめつつ、新作の小説を大切にきりっと仕立ててやりたい。
* 「チャイムが鳴って更級日記」は、新作として成し終えたと思う。
* さ、元へ戻って、新作「或る寓話」の本当の完成へ、愛おしみ手をかけ、かけたい。
2015 9/29 166
* 「初稿・雲居寺跡」は、まずまず、自立しうる程度の中断作として、それなりの意味を持って立ってくれそう。
次々に、この手の発掘と復活とをすすめつつ、新作の小説を大切にきりっと仕立ててやりたい。
* 「チャイムが鳴って更級日記」は、新作として成し終えたと思う。
* さ、元へ戻って、新作「或る寓話」の本当の完成へ、愛おしみ手をかけ、かけたい。
2015 9/29 166
* 小説「チャイムが鳴って更級日記」一編を、成し遂げた。小説「資時出家」および「初稿・雲居寺跡」も締まりがついた。コレまで未発表の小説が三編、手 許に出来た。近いうちに「湖の本」新刊として公表する。純然の新作で長編「或る寓話」も一応初稿が成っている。実父を書いている小説と、平家物語の現代物 語とは、まだ道半ば。この後者に拍車を打ちたい。
なお未発表の草稿や中断作が、家のあちこちから零れ落ちるように姿をみせている。みな、それらなりにどうにかしてやりたい。さ、どうなることか。
* 「選集第九巻」の本文が刷り上がってきた。どう眺めても秦 恒平作というに徹した掌篇小説、短篇小説を満載というにちかく選録してある。
2015 9/30 166
* ソシアルネットを何もかも全廃している。やたらと「通知」はあるが、何一つ読めなくなっているし読む気もない。目下の校正は「選集」第十一巻に集中し ている。この巻には「もらひ子」と「早春」とが入れてある。よく覚えているうちに書いて置いたなと思う。記憶ちがいの事実ちがいがたとえいくつか有ったと しても、実感としてウソを一つも書いていない、まさしく「こんな私でした」と隅から隅まで断言できる。事実と違うのは、大方の氏名が替えてあることだけ。 徹して実感的正確たを期した私小説であり、読んでいてフーンフーンと面白がれるのは私ただ独りであるだろう、それで良い。昨日も今日も明日もこうして「私 語」している内容や志向と、上の二編とのあいだに、直線曲線の不同はあれ切れ目無く繋がった正確や気質や好悪の感覚が脈打っている。これらを基らにどんな 悪口を言われても否定も弁解もしないだろう。まさしく「こんな私でした。」 2015 9/30 166
* 「早春」を読み返している。「丹波」「もらひ子」「早春」の三部作で、これに「罪はわが前に」を続け加えて、わたしは自身の幼少・青年期をほぼ遺漏無 く、ウソ偽り無く、書ききっている。自伝と言うほどのこわばりもなく、記憶の蘇りに自然に身も心も筆もよせて書き継いでいた。「こんな私でした」という告 白の姿勢に無理がない。なによりもこれらを通してわたしは育て貰った「秦」という家の親たちを表裏無く記念し得たと思える。ここまで書かれては堪らないと も思って怨んでいるでもあろうしわたしも毎日「ごめんなさい」と謝り続けているが、父も母も叔母も祖父ですらも、いかなわたしの成長に良い感化も与えてく れていたかを誇張など少しもなく書き表している。秦の家で受けた人生上の、また作家としての生涯への恩恵の豊かさをわたしは毫も割り引いたりしていない。 ありがたい刺戟を、感化を、教養をわたしは十分に秦の親たちに受けていた。その点でいえば、わが生みの母や実の父からは残念ながら直にはほとんど何も得ら れなかったと謂うしかない。
「生きたかりしに」でわたしは生母の系譜への心からの接近を試みたが、「客愁」三部作と自任している「丹波」「もらひ子」「早春」そして「罪はわが前 に」という一連の私小説によって、心からの秦の親たちや秦家への感謝を表現ししかもその「実在」を思慕すらこめて記念し表現したのである。わたしの他の全 ての物語、フィクションは、これらの私小説を不可避の分母として創作されたのである。
* 十時半を過ぎた。また、からだを横にして、強い明かりで校正を続け、はやめに「選集第十一巻」の初校を印刷所へ返したい。「湖の本127」の責了も、 「選集第十巻」の再校と責了も続いてくる。なにより十六日からの「選集第九巻」の送り出しを無事に遂げねばならない。この巻は読みやすくて面白い「短篇選 集」です。製作実費負担での頒布希望者も増えてきている。有り難く、ご希望に添っている。
2015 10/1 167
* 俳優座劇団の早野ゆかりさんから、例によって「外」の仲間達と芝居するので、招待しますと。
近松原作「心中天網島」の、主役「小春」を演りますのでと。観に行こうと決めた。
* ほんとうは、建日子に、もっとこういうベテランの域に達している俳優達とも接してほしいのだが、どうも彼はそういう意欲や意気をみせない。俳優座で謂 えば、早野ゆかりはもう主役級のキャリアをもっているし、美苗などは演技者としても爆発的意気と技能をもちつつ、しかも優秀な戯曲を自ら書いて俳優座の舞 台に何度か載せている。幸に、個人的にも知り合っている。わたし自身はその世界に気も意欲もなくて観るだけが楽しみの外野席にいるが、秦建日子は現役の劇 作・演出家であり「秦組」とやらを率いている。しかしそんな「組」から外へ、それも上向きの外へ踏み出して行こうとしていない。いそうには、ない。芝居は 俳優との競作である限り、新鮮で、オーとおどろく配役にも大きな妙味がかかる。作者・演出家が大胆にひろい世界からの共演俳優と出会う勇気が要るのでは。
騒壇余人で「孤り仕事」に打ちこんでいるような父のわたしが言うのはヘンなようだが、ひたすら「書き手」のわたしには「いい読者」「いい批評家」がいわ ば命。その点では、おそらく地味な現代作家のわたしほど、あの受賞前後から今日まで、「えらい先達・先生」「文壇・編集人」「広範囲な各界人や学者・藝術 家たち」「広範囲な大学・高校・図書館・研究施設」と何十年も「作品」のみを介して交際のある作家は少ない、いや、いないとすえ言い切れよう。そして、そ れが、わたしを常に励ましてくれたし、おろそかな仕事などをついぞさせなかった。売り買いの「数」ではおはなしにもならないとして、作の「質・実」に冷評 や悪評は受けてこなかった。わたしはえらい人達、敬愛できる人達、意欲や趣味高い人達との出会いや交際を嫌うよりも実は求め続けて得られ続けてきた作家な のである。
そういう謙遜・謙虚と意欲とをつよく意志し志向して、新鮮な人との出会いを自身の創作に生かしてくれるといいなと、いつも願っている。
おそらく今日只今、小説家になりたい人より、劇作家・脚本家になりたい若い人達の方が数多いのではないか、現に、若い若いと思っていた秦建日子のあとか ら次々次と新しい「書き手」が現れて活躍している。わたしの仕事では他者との「競合」といった実感は事実ほとんど持たずに半世紀を働いてきたが、舞台やド ラマの仕事ではいやおうなく競合を強いられていそうに見受けている。俳優世界では半年一年の先輩後輩のケジメも厳しいと聞いているが、「作者」にはそんな ウワベは屁のツッパリにもならない。自然の趨としてどんどんと追い越され、追い越させないで質も名も保てる人は片手の指の数ものこらない。質実に、しかも 意欲的大胆に。それでしか真の意味で生き残れないだろう。 2015 10/4 167
* 「湖の本」127巻本文を責了、託送した。十一月までに出来るだろう。
そして「選集」第十巻を師走中旬に送り出せれば今年の目標は遂げたことになる。仕事は、もう来年へと進んでいる。鬼が嗤うが、来年の今頃は、「選集小 説」編をしめくくって終局とするか、「論考・エッセイ」編へも歩を運ぶかを考えているだろう、が、今は、そんな先でなく「今・此処」に打ち込んで新しい仕 事をし続けたい。さとあたり「親指のマリア」全六章の長編を丁寧に再校し遂げたく、その一方で、次の「湖の本128」を小説集として創れるかをよくよく思 案したい。
2015 10/5 167
* もっぱら、新作、京の清水坂と瀬戸内海を繋げるような物語に、熱をこめて向かいたい。百枚は書けているが、さ、もう倍にもなるか。
2015 10/6 167
* 夕食後、短時間ながらぐっすり、校正要の電灯も消さずに寝ていた、晩がたから、書き進んでいる新しい小説に、かかっていた。十時半。もう眼は乾ききっている。
いま新しい作として仕掛かっている小説は、いずれも長編必至の、三作。
そのほかに、手をかけてやらねば可哀想なような旧作の中断ものがざっと見でも七、八作もナントカしてよと呼んでいる。命がもつかなあと少なからず案じながら、どうにかなるものはどうにかしてやらねば。ま、そわそわすまい。
明日からちょうど一週間、気をらくに努めてでもマンゼンと過ごしたい。
2015 10/7 167
* 妻が、今日は地元病院へかぜ気味ででかけ、留守中、わたしはどんよりと腹具合がわるく疲れ臥して二時間も黒いマゴと寝ていた。
* その後は、新作の物語を書き進めようと没頭していた。これから、なおなお物語は展開するはずで、どこまで辛抱よく追いかけられるか、気ぜわしく慌てな いで、わたし自身い゛で楽しんで書いて行きたい。白状すると、二○○七年二月に書き始めている。八年半もかけながら半途を歩んでいる。気の長いことよ。
* 十一時半。ずうっと、自分の新しい小説を読みつ書きつしていた。もう目が乾ききっている。
2015 10/8 167
* 「青い雛」という小説を書いている、読み返している、が、怖い夢である。未発表の作。近いうちに「湖の本」に出せるかも知れない。
2015 10/12 167
* 「親指のマリア」を気を入れて読んで下さる方には、わたしがよほど基督教・カトリックに思い籠めていると見られるかも知れない、それは少しも構わな い。夕食時に妻に「信仰心」はあるのかと聴かれたので「あるよ。小さい頃からね」と即座に返事した。しかし「宗派心」は微塵もない。ただこの世はまだまだ 「不思議」に満ちていて、それへの畏敬や愛のようなものをわたしは抛ったことがないのである。カトリックがどうこうとは思わないが、「御大切・愛」といわ れれば尊いことだと思うのである。「慈悲」といわれても同じ、「静かな心」また「無心」といわれても深く求めて肯く。わたしの「信仰心」とはそんなところ であり。したがって「親指のマリア」でシドッチ神父の言葉を借りて場面の熱くすすむとき、わたしはともあれ真摯にものを思い言葉を用いている。うそいつわ りの構えた言辞は弄していないつもり。
* 映画「奇跡」を静かに深い共感とともに見終えた。十数年前に感銘をうけて日記に書いていたのを今度の「有楽帖」で読み返していた。信仰の真摯を描いてピュアに胸へ来る映画は、有りそうで少ない。
* 「親指のマリア」も信仰と愛との最高潮を迎えるところまで再校を進めてきた。
2015 10/12 167
* まえから記憶に残っていながら、行方も知れぬまま放っておいた原稿があった。「昭和三十六年(一九六一)七月二十七日午前二時」に書き、「昭和三十九 年八月十四日」の日付で、「読みかえして、不十分な表現をさらに改めた。朝日子の健康を祈る心はまことに切なるものだ。ただただ健かに怪我もなく、美しい 子として育ってほしい。」と付記してある。
処女作①の「或る折臂翁」を書き始めたのが昭和三十七年(一九六二)七月二十九日で書き終えたのは歳末だった。その間に処女作②の短篇「少女」を十一月 に書いている。今回見つけ出した作は、これこそ即ち処女作以前の処女作、事実上の処女作①に相当しているが、ま、紛失していたこともあり、前記二作とち がって一度も活字にはしないで来た。あまりに初々しくためらいもあったと思う。
ハパのおはなし 生まれる日 または
朝日子 ―娘に― 秦 恒平作
山のいただきは深い森にかこまれた、しずかな湖なのでした。たたえられた翠は、茂った老樹のみずみずしい葉むらをうつしているのでしょうか。ながれる波 紋は、湖の真ん中でぶつかりあって、白い波の花をきれいに咲かせます。夜になればはなやかに青み――を帯び、森の色も湖の色も空の深みへ溶けいってゆきま す。ものの音といえばただ、耐えきれず洩らされたため息のように、水底からふくれあがるふしぎなうねりに波の花がやさしくくずれるばかりでした。
この山を、人はどこにいても見ることができます。なにかしら気になることや淋しいひとりぼっちの心地がするたびについ想い出さずにいない遠い遠い空のか げの山のすがたなのです。誰もが一度も足をむけたことのない、そんな山の遠さですが、気もちのはれた日には、山はらを幾重にもとりまく白い雲の上に、ただ ようまばゆさをみるでしょう。お日さまの光(かげ)をうつしたかがやきがかげろうににて見えるのでしょうか。星の色をうつしてあのさざ波の咲かせた花の匂 いが、夜空へながれでるのでしょうか。それとても人のこころに、しばらくはいいようのないなつかしい気もちをよびさますのでした。
さて、その夜はほんとうにすばらしい夜でした。お月さまはまんまるく、星たちは思い思いにあかるくまたたいていました。星たちはさっきからこんなはなしをしていました。
「今夜生まれるのは男の子、それとも女の子かな」
「満月の夜に、世界中のどの星ひとつ欠けることもなく見送られて生まれる子は、可愛い女の子ときまっていますわ」
「そうよ。姉が朝日子、妹は夕日子とお月さまはお呼びになるのですって」
「朝日子はいつも素朴に新しくうまれる朝日の光、夕日子はいつもやさしく物かげをひきたててやる夕日の光という意味なんですってね」
そのとき、お月さまは星たちのおしゃべりをそっとさえぎられました。夜空はあおあおと冴えて、お月さまはそのいちばん真ん中に座をうつされていました。 星たちは、どんなに遠いところからも、いっせいにその方をみつめていました。お月さまの真下にはあの湖がちいさな鏡のように大空をうつしていました。お月 さまがそっとうなづかれますと、双の目から一しずくずつの泪が地上へと落ちてゆきました(人は、たまたまそんなことをしらずに流れ星を見たなどというので す)。
お月さまからこぼれた泪が山のいただきにとどいたその時。湖のほとりの、それは大きな松の樹に二股枝に囲われてできた苔の寝床から、かわいい二人の女の子がひょっくらと起きあがりました。
二人は手をとりあって、しばらくははるかな大空のかがやくお月さまや星たちを見上げていましたが、やがて急いで樹の股から大きな根っこの方へ下りてゆきました。そこには、年のいった女の人のようでもあり疲れきったおじいさんのようにも見える人がうずくまっておりました。
「あなたはだあれ」と、姉はたずねました。
「わたしはもうすぐ<昨日>とよばれるものです」と、その人はこたえました。
「ああお姉さま、この人は今にもお空へかえってゆくのだわ」
妹は近よって、やさしく肩にさわりました。その人は夕日子の掌の下で、あかるいかげとなって、見えなくなりました。
「新しい日が来たのね」
朝日子は、見えなくなった<昨日>のかげのあたりにかがんでいる妹へ呼びかけました。夕日子は湖のうえをながめ、しずまりかえった森をながめながら、さびしい微笑をうかべてつぶやきました、
「お姉さま、わたしも帰りたい」
二人は湖のほとりを、だまって歩いて行きました。手をつないで、森のなかのほそい道をたどって行きました。すこしばかり小高い丘まで来ると、背中合わせ に腰かけるに程よい二つの岩がありました。一方にすわると、いま通って来た森から湖から例の大きな松の樹まで、山のなかのすべてがしずかに手にとるように 見えました。その岩には夕日子が腰をおろしました。朝日子のえらんだ岩からは人間の世界が見え、赤や青の灯の色と、言いようのないどよめきとが伝わってく るのでした。
魅せられたように二人は身をかたくしていました。
やがて、二人はその席をとりかえっこしたのですが、こんどは二人ともふしぎと心たのしまないのです。姉には、蒼い淡い光につつまれた山の世界がなにかう すぐらく感じられました。妹には、まばゆくうごく灯の色が、しきりとうるさく感じられたのです。そこで、また元どおりに席をかえ、姉と妹は背中でたがいに もたれあったまま、話しはじめました。
「あそこには、生きるということがあるわ」と、朝日子。
「過ぎてゆく時間のなかで、いつかは終るわ」と、夕日子。
「繰りかえしの中の一度、その一度一度を真新しいものにして行けば、永遠に生きることができると思うの」と、姉。
「それこそが、私の観ている自然のすがたなのよ。この静かな幸せは、あなたの世界ではあまりにもふさわしくないわ」と、妹。
「自分ひとり幸せでいいのなら、人の世に生まれる必要はないと思うの。また、人は幸せのためにだけ生きるのかしら」
夕日子は、姉の考えが十分判らないようでした。そこで妹はたちあがって朝日子の前に歩みより、なつかしげに、こう言いました。
「お姉さま。あたしたちも、たいていの人がそうだったように。双子として生まれかわることはないようね。あたしは、こうしているうちにも、この澄んだ空気 の中へ、溶けていってしまいたいの。この広々とした世界、それがあたしのためには永遠のゆりかごであるのなら、たとえ雷のとどろきも嵐のさけびもなつかし い子守唄と聞こえるでしょう。いいえ、それすら聞こえない静かさの中にあたしはじっと息づくことになるでしょう。あの星たちをごらんなさいな。お姉様もい つかはあの仲間。その時にこそ、あたしたち姉妹でひとつの星と生まれましょう。朝夕に自然の愛らしさを感じた時は、あたしの声を聴いたと思ってください ね」
朝日子は、涙をうかべていとしい妹を抱きました。かわいい、ちいさな夕日子のからだは、しずかに光る月夜のかげとなって矢のように大空へ吸いよせられて行ってしまいました。
「夕日子ちゃあん」と呼んだ声、「お姉さあん」とこたえた声は、しみじみと朝日子の胸の底までとどきました。お月さまはもちろん星たちも、朝日子夕日子のこの別れをじっと見ていました。
朝日子は、もう一度、下界の見える岩の上に立ちました。そろそろ今日の暮しがはじまりかけたような、人間世界の活気が感じられました。気がつくと傍にた くましい<今日>という青年がしっかりと立っています。青年の肩ごしにお日さまの光がいきおいよく朝日子の行くべき道を照らし出しました。朝日子は<今 日>の手を引っぱるようにしながら光を背にスタスタと山を下りて行きました。
その日の夕方、すずしい風とおだやかな夕日かげとが覗き込んでいる産室で、りっぱな女の赤ちゃんが、元気いい産声をあげていました。若いパパやママは大喜びで、この赤ん坊に、もうずっとずっと以前からきめてあった「美しい名前」をつけてやりましたよ。
<当時の附記>
このはなしは、昭和三十六年(一九六一)七月二十七日午前二時に脱稿の即興のものだ。その日が、朝日子(娘)満一歳の初誕生日ではあったし、かといっ て、どんなお祝いの品でも喜ぶに早い歳なので、むしろいつか判ってくれればいいのだからと、この比較的理屈っぽい話を、思いつくや否やに書きあげたのであ る。
「朝日子」という名は、たしかに以前から決めてあったし、私たち両親が躊躇なく生まれくる者のためにえらんで迷わなかった愛情こめてつけた名前。その 「名」に寄せた理想を書きたいとつねづね考えてはいたから、即興的といっても、根はただの思いつきでない。殊に夕日子を朝日子の姿なき一体として書いたの には、朝日子に寄せる親としての祈りに、むしろ私自身の意識的にさぐりとらねばならぬ或る方向が秘められているからだ。一体としたことと、夕日子をひとり 天界へ戻して朝日子を力強くこの世界へ歩ませたのもそれだ。
いつか朝日子がこれを読む。なにを感じ、父親の心をどう受けとるかは判らない。健康と幸福と、何よりもいつも新鮮でたくましい心と姿勢とを朝日子のために祈っている。朝日子は満二歳を過ぎた。可愛い元気な子に成長して来た。
この原稿が久しく見つからなかった。今朝、探し当てたので改めて清書しておく。
昭和三十七年(一九六二)八月九日
<追記> 読みかえして、不十分な表現をさらに改めた。朝日子の健康を祈る心はまことに切なるものだ。ただただ健やかに怪我もなく、心美しい子として育ってほしい。
昭和三十九年(一九七四)八月十四日
原題は「パパのおはなし」「うまれる日」であったのを、「朝日子―娘に―」と改めている。われわれの娘・朝日子は昭和三十五年七月二十七日」に生まれ た。朝日子のために年ごとに「パパのおはなし」を書き置いてやりたかったのだろう、だが、作家生活への予行に年々熱中し、私家版「懸想猿・続懸想猿」や 「畜生塚・此の世」などを相次いで自費出版していった。
はからずも今、「パパのおはなし <うまれる日> 朝日子―娘に―」と心籠めたごく初期作が久々に見つかって、あまりにあまりに「複雑」なおもいがする。わたしたちの「朝日子」は此の世から消え失せた。
朝日子 一歳半
* 面影だけが、この「闇に言い置く私語」のなかで懐かしい写真のまま生き延びている。
* 「青い雛」は、このさき、よほどの転変や波瀾が読み込まれていて、いまのまま投げ出すのは惜しいと、続行を原稿自体が要求している。しかも幸いというか 偶然の成り行きか、先行世界への展望がかなりこまごまメモされたのも残っていた。楽しみに、これまたよく読み込んで老いの想像力をかきたたせ、先を追って みたい。かかる晩年に、かくも小説の仕事に取り巻かれるとは想いもしなかった。それにしても眼は、ひどい。
ホームページは翠っぽい画面にしてあり字も大きくして比較的読み書きしやすいが、一太郎画面を色にする仕方が判らなくて、画面の白さがとても文字の読み書きを辛くしている。眼が灼けてくる感じ。
* 十一時、機械を閉める。
2015 10/13 167
* 「青い雛」 かなり面白く読んでは来たが、別にみつかった創作メモをとくと頭に入れてみると、小説として書けているのは十の一ていどと判って、ギャフ ンとなっている。書けている部分を差し上げるから、だれかに「続き」はみんな任せたいほど。わたしの余命で「完」までに間に合いそうにない。参ったよ。け れど、ゾッとするホラーでもあり、ややこしい限りのホームドラマでもある。語り手は「僕」だけれど、その「僕」はこのよの人ではない。
ま、また棚上げにしておくしか、ない。
* 「秋成八景 序の景」と題した短篇が仕上がった形で見つかった。講談社から書き下ろしで「秋成」を買い手と頼まれ、こういう構想で最初の「序の景」 だけを書いて、亡き井上靖さんに誘われ、日本作家代表団の一人として四人組追放直後の中国政府に招かれて行った。その昂奮と収穫とは必至に尽くせず、わた しは帰国早々に「選集第四巻」に載せた小説「華厳」を書き下ろし、「文芸展望」に発表した。煽りで、「秋成」への踏み込みは崩れてしまい、講談社にはつい に違約した。違約というのも当たらないか、書くは書いたのである、が、「秋成」を終始念頭にしつつわが生母の生涯を追いに追いかけた長編「生きたかりし に」800枚を書いた。やはり違約であり、わたしは書いた「生きたかりしに」を生きたまま棚に上げて三十余年も埃をかぶらせ、はからずも、此の春から夏へ 三巻の「湖の本」として公刊した。幸いに好評で、人によっては秦文学老境の「代表作」が生まれたと褒めて下さった。来春には、「秦 恒平選集第十二巻」と成って、わたしと妻との「傘寿」を、結婚五十七年を記念してくれるだろうと心待ちにしている。
で、くだんの「秋成八景」の序の景であるが、それなりの一篇・一景には成っている。あと七景が「書ける」か「書けない」か、それは不明で不定である。
* 岩波の「世界」に「最上徳内」を長く連載していた途中から、東芝のワープロ第一号機トスワード①を買って、その日からもう原稿の手書きは一切しなく なった。数十年の昔である。このトスワードでは「京都新聞」朝刊小説「親指のマリア」全編も書き下ろした。その他、もろもろ書きこんだ。そんな中に先の 「青い雛」も「秋成八景 序の景」も入っていて、他にも断片のていに、可能なら小説になるべきふうの書き出しがたくさん混在していたのを、不自由なトス ワードを遣い已めるさいに、みな、プリントアウトしておいたもその一束が見つかった。読み返し返し、フーン、フーンと呆れたり、笑ったりしている。 ] 2015 10/14 167
* なんとなく油の切れたような疲れがある。ひとつには視野と視力が定まらない落ち着きの無さに参っている。
このところ血圧がすこし高めに推移している。
人と会って話す、対話し歓談するということが、ペンの委員会や理事会や文壇の集会・宴会に出かけていたときは盛んにあった。有りすぎたほど有った。今は、なにしろ家の外へ出ない。電話がきらいで仕事の必要もみなメールで済ませている。
そういえば元保谷市長が顔を出して欲しいと先日頼んで見えた。とても歓談といった機械とは想われない。いきおいもちまえの「部屋」へ創作の中の人達をつい呼び出しては話し込む。
* 見えない目で、「秋成八景」の序の景を、光る白紙にプリントの原稿と照合しながら、苦闘した。仕方なく、転じて、ひさしぶりに、編集管理職の昔の春闘 を顧みに想い出していた。凄みの体験だった。あんな修羅場も潜ってきたんだなあと。その気になれば医学書院体験からはいろんな小説世界が覗けるのに、「清 経入水」や「風の奏で」にすこし利用した程度だったが、烈しい春闘だった代謝直前の体験は、退社してすぐ「亀裂」「凍結」「迷走」の三部作にした。しばら く、これを読み直してみよう。
2015 10/17 167
* 「選集第九巻」の郵送を本局に集荷してもらって無事終えた。革命的にラクに終えた。これで、今週一週間、ことに前半、うまくすると週末まで気が楽になる。創作へ、集中できそう。
* 打ち上げに出かける気もなく、ゆっくり湯に漬かって、目を洗い洗い、第十一巻巻頭の「或る雲隠れ考」を読む。
そんなうちにも、今回の「第九巻」が届き始めるだろう。第九巻では最も自愛の短篇「加賀少納言」の扉題を「加賀小納言」に間違えているのに気付かなかっ た。幸い本文中も目次や函表紙でも正確になっている。わたし一人の目しか通らないので、こういう凡ミスも生じる、恥ずかしいが今ぶん訂正のしようがない。
少納言は「すないものもうし」の意味で、「すない」は「すなき」の音便、「すなき」は形容詞少ない、若いを意味する「すなし」の連体形。「少」は、同じ官職で低い方にあてる。中納言、大納言とエラクなる。
前巻は函が本体に対してややキツい感じだった。今巻は、ユルい感じだった。なかなか函装は難しい。編集も製本も刊行後も、難しい。
2015 10/18 167
聖母子 アネス・ドルチか
* 最期の潜入神父シドッチは、ドルチ描く「悲しみのマリア(親指のマリア)」を日本にもたらし、新井白石の審問に対峙して、多く多くを此の國に遺して殉教した。
* 「或る雲隠れ考」の余韻がズシッと身内をしめている。作家になる以前にわたしはけっこうその後の芯になる小説をもう書き上げていた。「或る折臂翁」「祇園の子=菊子」「畜生塚」「斎王譜=慈子」「或る雲隠れ考」「蝶の皿」「清経入水」「秘色」そして掌篇群など、みな太宰賞以前の勉強時代の作であり、擱筆には至らず、のちの「風の奏で」や「雲居寺跡」の先行作となって終えた試作も今にして幾つも見出されている。わたしには、「作家以前」という時期がとても大事だったのだと思い当たる。
世間的な成功をあせっては、世界が薄く痩せてしまう。
授賞式後の宴会で選者のお一人河上徹太先生に、「で、この先はどうするんだね」と聞かれ、「自分の道を自分なりに」と答えるや、いなや「そんなのもの在るのか」と喝破された。そんな道が在るのなら賞なんかやらないよと云われたのだ、大喝だった。はっと目覚めた。
あれから半世紀近く。わたしは、まだとぼとぼと歩み続けている。安住などしていない。
2015 10/19 167
* 管理編集職の小説 おもしろく昔を思い出している。ぐんぐん読める。「選集第十三巻」は、ロマンスからはなれ、ノベリストとしての仕事を選びたい。
2015 10/19 167
* 「秋成八景 序の景」を半ば読んで、しんみりと雰囲気よろしく書けているのに安心している。「二の景」「三の景」と、しみじみ書き継いでみたくなるほどだと佳いが。
じつのところ、今や「湖の本」は出せば出すほど出血が増す。しかし、創作もエッセイもこの形でこそ、読者の手にも、各界の知己や支援者の手へも送り出せ る。こういう形で文学活動を絶え間なくつづけられる純文学の作家は、書き手は、世間にたったの一人もいないのである。その上に、そもそも私の「選集」な ど、アタマから非売本で、流れ出るように惜しまず費用をかけている。収入の必要はなく、「文学」活動が続けられたらよいと思っている。余命はもう限られて いて、生きのびて生活できている限りは、無収入のママでと覚悟している。とはいえ、「湖の本」は可能な限り一巻でも多く永く送り出しつづけたい。せめて湖 の本での「未発表」「新作」小説に限っては、少し赤字を助けて戴こうかなとも思案しかけているのだが。ま、それよりも、「書く」「創る」ことだ、あたりまえだ。
2015 10/20 167
* 午前中、ずうっとピアノ曲を聴きながら、秋成をなつかしむ人達の円居を書いた自作の小説を読んでいた。
この一年半二年というもの「選集」のために自作の小説を読み返しては入稿しまた初校し再校とときに三校もしてきたから、いつもいつも京都にいま自分がいるような気分に馴染みきってきた。京都恋しさをそのように慰めてきたんだなと思う。
* 新聞、テレビが伝える国会や官邸周辺のニュースの不快さに吐き気すら催すとき、情けないがさながらに逃げこむように自作世界へ心身を没している現実。
2015 10/21 167
* 三部作の一部「亀裂」を読み終え二部「凍結」へ入って、なんだか、往年の医学書院へ舞い戻ったような気分で、バカに懐かしい。こういう世界で十五年半 ほどモーレツ編集者として働いていたのだ、それはわたしの書いてきた多くの小説、物語とは、全く全く大違いのリアルな労使社会であった。今の事情を知らな いけれど、あの頃の世間の、とりわけて我が社の労使闘争は本郷台に知らぬもの無しの長期激戦が毎年何度ものことだった。わたしはそんな会社で編集職に重ね て中間管理職だった。その上にやがては太宰賞作家にも成って社外での創作、執筆、講演やテレビ・ラジオでの出演や放送まですることになった。それをそのま ま書いては小説が分散してしまうので、この三部作ではどうアレンジしたか忘れているが、読み進んで行くのが楽しみだ。
2015 10/21 167
☆ 拝復
先日も 又 遠鄭重にも『秦 恒平選集』第九巻を遠恵送下さいまして、誠に有難うございました。
巻末の御文を拝読致しまして、「『掌説』は音楽でなければならない」、「短編小説とは、文章で創った(歌わない)音楽藝術に他ならない」と「音楽」を強 調されているところは非常に独創的であり、「文学とは本質『慰み』であり、深く優れた慰みとただの出任せがあるのみ」と喝破されているのにも深く感銘を覚 えました。
どうぞ「うす暗い前途」での御健筆を期待致して止みません。
私は四月ですでに八十歳になりましたが、お互いに呉々も健康には留意致しましょう。
右、取急ぎの御礼まで一筆啓上致しましたが、
拝読を楽しみに致しております。 元「新潮」編集長
* 「新潮」「群像」の元編集長、また読者にも、今回第九巻の跋文に触れて下さっており、いつもより異例に長めの文章になっているが、作者なりの思いも濃 く含んでいるので、あえて、此処に「再録」しておきたい。異論の方も少なくはあるまいと思うが、率直にいわば「告白」しておく。
☆ 秦 恒平選集 第九巻の刊行に添えて
掌篇であれ短篇であれ、短く書かれる小説は、それが長調であれ短調であれ破調であれ「優れて面白い<言葉・文章>の音楽」でなければならない。音楽で あり音学ではない。読んで聴いて「楽」しくなければならず、半音、一音の瑕疵も停頓も小説や創作として命取りになってしまう。わたしは昔からそう自身をい つも誡めて、掌篇小説の世界、短篇小説の世界を創ってきた。うまく創るのはとても難しい、だが、本巻には、そういう思いのまま書き表した「短い小説」世界 を、やや心ゆくまで取り纏めた。
昭和四十(一九六五)年九月、電器商の父が、当時売出しのリール式録音機を京都から送ってきて呉れた。びっくりし、嬉しくて、さ、なにを吹き込もうかと わくわくしながらその日は床に就いたが、眠れず、寝静まった妻や娘を起こさぬよう、そうっと寝床に腹這い、枕元へ置いていた録音機のマイクを口元へ寄せ た……、そして極く小声で、何のアテもなく突然呟いた、「蛇を飼う夫婦がいた…」と。わたしは仰天した。蛇は大のにがて…。なのに、意を決してわたしは言 葉を継いだ。一編の「蛇」という掌説、掌の小説ができた。
明くる朝、機械で聴いて、なんとなく、このままで良いと思えた。
その日から、欠かさず毎日一編ずつ今度は原稿用紙に書き、書き終えねば「ならぬ」とわたし自身を堅く縛った。そして十四日、必然十四篇の掌篇が成った。 それ以前に他作家の掌小説については、「噂」ていど聴いていても、川端康成のも稲垣足穂のも全く未読、ずっと遅れてちらほら読み得た限りでは、とくべつ興 趣を覚えなかった。わたしには「わたしの掌説」世界があると、逆に、確信を得た。
「掌説」と命名した限りは「短く」なくては意味がない。原稿用紙で三枚半から四枚程度を基準と感じたが、一、二、やや長めのもまじっている。
その後年数を隔てては、時折り「掌説の毎日書き」を試みた。編集者勤務のあいまに喫茶店に隠れ、一編仕上げるまでは出ないと決め、小一時間でたいてい事 足りた。スポーティなほど「泥を吐く」に似た此の試みはいつも面白かった。とはいえ老境へ近寄るごとに、思いも寄らぬ凄いハナシがわが身内からジワジワと 湧いて出るのに吃驚し、時に、怕かった。何かが自分の中で「変わってゆく」「崩れてゆく」「潰れてゆく」とも見えた。書くものも、書くことも、気味悪くさ え感じたりした。だからこそ「自分の地下世界」が、蠢くように「まだ在る」と信じられた。
実は…もう久しく「掌説」書きから遠のいている。後期高齢の「掌説」も在るにちがいなかろうと、静かに悟り澄ますどころか、益々「底昏く」疼く老いの闇 をまるで怪談を読むようにときどき覗き込んでいる。この巻の後方に、明を喪ってなお老いの身内を疼かせる上田秋成が自作の怪談を無惨に反芻するのを書いて いるのが、ひとごとでなく想われて、おそろしい。
さて「短篇小説」であるが。
短篇小説は、ごまかしがきかない。
半歩一歩さきの足もとに濃い闇が幕を垂れていて、その闇へ足を踏み込まねば何ひとつ進まない。奈落を踏む覚悟でしか前へ出られない。見えているようで前 途のまるで見えないことでは、短篇小説は長篇小説より智慧も勇気も覚悟も要る。長篇以上に、短篇こそは優秀な想像力と文章力に導かれるしか道がない。踏み 外せば、おさらばである。
世間には、短いから書けると錯覚したらしい気楽な作文が、いろんな同人誌などに満載されてたくさん送られてくるが、間延びがしてお話しにならないお話が 安々と投げ出されている。おおっと手を拍つ嬉しさには千に一つも出逢えない。漱石先生が芥川の短篇をよろこばれた趣味の深さ、批評の確かさを本気で考えね ば、短い佳い小説はとうてい書けるわけがない。趣向と創意を真実感と美しさへ磨き抜く。逆でも良い。真実感と美しさを趣向と創意で磨き抜く。どの一つを欠 いても短篇小説は面白くは輝かない。言うまでもない、決め手は言葉、文章。短篇小説とは、文章で創った音のない「音楽」藝術に他ならない。
こんな大口を敲いておいて、秦恒平の「掌篇」世界、「短篇」世界と居直るなど、失笑どころか罵倒ものの最たる高慢で、鼻持ちならない。だが、そこをまた 吶喊しないかぎり面白い短篇作品はとうてい書けないとわたしは信じてきた。文壇に立つ以前から決めていた。この一巻は、かかるあからさまな言挙げの、しか り、秦恒平短篇の証拠提示と覚悟している。
趣向と創意、真実感と美しさ。それを、ブレない言葉と文章で。そう、私はあえて言挙げし自分を誡めた、短篇小説はかく在りたいと。
短篇集『修羅』は全十二篇、一年間の連載依頼に応えたもので、編集部当初の依頼にはこんな条件がついてきた。
先ず、いろんな分野の「美術品」を、毎月、カラー写真で作者にお見せします。その美術品(小説を読んで察して下さい。)からの刺激や印象を、作者は、何でもけっこう好みの「能の題」を選んで「小説の題」にし、しかも「現代の物語」を創ってみせて下さい、と。
ま、咄家が寄席の舞台で聴かせる三題噺のようなことを、注文の枚数で短篇小説に書けと謂うのであり、バカにするななどと言わず、編集部希望をそのまま受けいれた。「能」の曲名まで指定されては縛りが厳しいが、それは自分で選べと。それなら、趣向や創意は十分働く。
問題は、だが、趣向や創意を働かせるただ想像力では済まされぬということ。掌説でもそうだが、まして短篇小説で根も葉もないおはなしを面白づく想いつく まま書くのでは、それこそ通俗読み物の手口。文学の創作にとってほんとうに大事なのは、書かれた物語と書く作者・私との「臍の緒の繋がり」だ、それを欠い て深い真実感は期待できない。
十二篇、どの一作も、作の語り手は、作者の私・秦恒平自身と読者は想い思いきっと読み出されるだろう、いかにもそのように書いてある。だが、事実はどの 一編の語り手も「秦恒平」とは違っていて、そこをごく自然に推せば、あたかも能役者が能面を着けて「神・男・女・狂・鬼」の役を舞うように、小説の作者も また自身実存の根から汲んだ趣向と創意に導かれて、小説の中で「ペルソナ(仮面・配役)」を演じているのである。「神歌」でも「十六」でも「柏崎」でも 「昭君」でも「鳥追」でも、一つ残らず、みな、そうだった。だから「秦恒平の短篇世界」とあえて看板を掛けてみた。
短篇編小説ではありのままの「私」小説しか書けないと誤解している作者もいれば、作者とはまったく無縁な別人物を書くのが小説だと誤解している人もある。
だが、「選集」前巻の跋文でも触れて書いたように、まともな作家のまともな作品なら、私小説であれフィクションであれ、きっちりと臍の緒を繋いで「こん な私でした」と吐露しているものだ。紫式部も、西鶴・近松も上田秋成も、また藤村・一葉・鏡花・荷風・直哉・潤一郎も、太宰でも三島でも、そうだった。 シェイクスピア、ゲーテ、トルストイ、ドスエフスキー、フローベールや、ヘッセ、ジイドや、ヴァレリー、ジョイス、カフカにしても、そうだった。それの出 来てない作者は、つまりは「根も葉もない」「つくりばなし」をただ読み物として書いて稼いでいるに過ぎず、「文学」の美しさ深さとは無縁としか謂えない。 言い訳はしない、わたしはそのような気持ちでしか小説は書いていない、短篇でも、長篇小説でも。
短篇集『修羅』の他に、この巻には都合八篇の短篇小説を、およそ前後して四篇ずつ選んでみた。前半四篇はみな古典文学とかかわり、後半四篇はやや趣を変えてわたしの趣味・好みを生かしてみたが、短篇の作法としては、上に謂ったままを大事に思いながら書いた。
「竹取翁なごりの茶会記」は気儘な戯文のようであるが、掌篇集の最後に置いたかぐやひめ一編の余波(なごり)のまま、一度試みたかった古体の文章で思うさま時・処を超え翔んでみた。少年の昔からかぐやひめが気になった。
「加賀少納言」は、ロシアでの日本文学選集に飜訳されている。とりわけてこの作を選ばれた露国(当時ソ連)の日本文学研究者に敬意と感謝を惜しまない。この「加賀少納言」一作は、小説で書いた「わが源氏物語考」の極と読まれてよいと思っている。
同じく「月の定家」も私の俊成・西行・定家三人に軒をかりた「わが和歌の説」と読まれて構わない。いま一篇の「夕顔」はいろんな私の小説中に「T博士」と親しんでいる故角田文衛先生、同じく「清経入水」いらいの亡き「女先生」御霊前に謹んで献じたい。
後半の「鷺」では、茶道具の世間で、安土桃山の昔からとびきり喧伝され信仰すらされながら、今も根津美術館に伝わった茶入「松屋肩衝」のほか行方知れな い「松屋三種」といわれた名品を語ってみたかった。喪われたそんな三種のうち一と品を、此のわたし自身が手に入れているのかも、などと今もじつはとびきり の夢を見ているのである。
能面「孫次郎」もまた、国宝。秦さんなりの雨月物語をと依頼され、依頼には囚われず、以下、「於菊」「露の世」の三編を書いた。半世紀ちかくも前、三十台半ばの短篇小説である。
小説は、「書く」のか、「成る」のか、「創る」のか。少なくも戯作は、しない。「跖婦人伝」や「春色梅児譽美」ほどの傑作もあるが、或る学者は「戯作」 とは所詮「文学を慰みの具」にした称と解説している。とはいえ文学は本質「慰み」であり、深く優れた慰みとただの出任せとがあるのみ。両者を分かつのは、 まこと、作と作者とのやみがたい臍の緒の繋がり、つよく謂うなら、吐かれている「泥」の質ではないのか。わたしの前途は、まだ、うす暗い。
2015 10/22 167
* 第九巻の請求書もはやばや届いた。
* 「迷走 課長らの春闘」を三部の「迷走」まで興に乗って読んできながら、ズッシーンとしんどくなり、あの往年の大春闘の重みにいまもって潰されそうに 息苦しく、たいねつさえ帯びて、いま、ヘタバッテいる。ああいやいや、いやだぁ…というような濃厚な疲れに参っている。トイレットペーパーが払底して騒が れた年だった。春闘は猛烈だった。その八月末で、わたしは十五年半勤めた医学書院を退社し作家として自立した。満を持し用意していた。長編書き下ろし「み ごもりの湖」と長編「墨牡丹」とが自立の挨拶代わりになった。
あの年以来、あんな激越な春闘は聞こえなくなり、ずんずんと下火になっていき、労働組合は、徐々に骨抜きの完敗へ沈降していった。何故か。それを誰もま ともに論考していない。昨日の話し合いで、わたしはそれを元社会党でいま共産党の元保谷市長にも問いつめながらわたしの思いを口にしてきた、十の一にも足 りはしなかったけれど。
2015 10/24 167
* 「湖の本127」発送の用意に、何としても西棟から東へ、東棟から西へと、重い本包みや郵袋包みを運び替えないと作業が進まない。二棟あって 広いようで、実は西棟は本の山で歩くのも不自由なほど、それをやりくりやりくりしている。東棟は住まいだが、階下も二階も、まともに歩けないし座れない。 昔は毎日のように編集者や記者や読者や東工大の学生を迎えて飲み食いしながら歓談にあけくれたが、今は、わたしと妻とで座れる場所がやっと。たまに息子が 帰ってきても座らせる場所を明けるのが、難儀。
そんなわけで本の発送時は、家は修羅場となり、そのなかで八十の夫婦が奮戦する。
奮戦のための用意がすでに重労働で、それを、今朝は二人して、なんとか実行した。して置かないと、万事停頓してしまうのだから、仕方がない。どう疲れて いても、約束の日には本が出来てくる。狭い玄関に山積みの本を抱いて寝るわけに行かず、可及的速やかに送り出したいが、そのためには家中を使っての「用 意」が、種々ある。
宛名印刷して封筒に貼る、その封筒に住所印や謹呈印を捺す。
送り状を少なくも三、四種類も書き分けて、印刷しカットして用意して置かねばならない。
払い込み用紙も郵便局から手に入れて、ハンコを捺しておかねばならない。
ガムテープやビニール袋も買っておかなくてはならない。
今朝の東西交互の運搬には、まえもって痛み止めのロキソニンを服しておかないと、腰の激痛で潰れてしまう。潰れて転んだりすれば、命に関わる。
観ようによれば秦の「妄執」に見えるだろう。どう見られようと、涼しいものである。わたしは敢えて踏み出した「騒壇余人」でありかつ小説家でありエッセ イストであり、歌集「少年」の昔から文学を生き続けてきた。歩み已める気はさらさら無い。近代文学史に稀有どころか絶無の「秦 恒平・湖の本」現在127巻、継続三十年で、なおなお続くなど、そんな「作家の出版」は世界中に例がない。趣味や道楽で出来ることでなく、なによりも読者 に受け容れられる「作」が「質的に創造」されねば成り立つわけがない。妄執で出来るような簡単なことでない。妻を巻き添えにはしたくないが、わたしはこの 「戦場」で戦死できればその上の望みは無い。
2015 10/25 167
* 「お父さん、繪を描いてください」を快調に読んでいる。なつかしい。
これを書いていた頃は、書き手として苦しかったときだ。いつも「小説を書いてください」という呼び声や叱咤を奥底に聞いていた。じいっと堪えていた。堪 えたままこれを書いていった。「湖の本」に入れたとき作家でもあり、ペンクラブでもお付き合いのあった東大教授の西垣通さんが、こんな小説を書かれていた んですね、敬服しますとお便りを戴き、大きな息をしたのを昨日のことのように覚えている。「小説を書く」ことの重さにわたしは堪え堪えたままいろんな「仕 事」を続けていた。ポキッと折れていたらお終いであったろう。
2015 10/27 167
* 上の能面「十六」を少年の面(おもて) と見える人はめったにあるまい。十六才で戦死した平家の公達敦盛や知章の能にシテのつける面であるが、これの撮影の時、依頼したカメラマンに密着し、ファ インダーを覗き覗き、最終的に、艶冶に優美な女とみまがうこの角度をわたしが決めたのである。こんなに美しい「十六」の写真は例がない。佳い感じに、ぞ おっとする魅力に釘付けにされる。「面」写真の常識の、真正面から撮った「十六」は、ポチャンとした少年顔をしている。上の「十六」面は、わたしの「発 見」「創作」なのである。
2015 10/29 167
* 「お父さん、繪を描いてください」が、バカにおもしろい、わたし自身には。これも典型的に、わたしが読みたくてたまらない小説をわたしのために書いたよう な長編だ。スピーディな筆致でためらいなく押して行っている。「迷走 課長たちの大春闘」といいこの作といい、秦 恒平にはこんな小説もあるのだと宣言したようなアンバイで、わたしにすれば当たり前だと言いたい。しかし初期作に慣れていた読者は目を白黒もされたであろ う。
2015 10/29 167
* 「利があれば理はなくていい。理があっても利がないなら、影法師。人は理でなく利で動くもの。」
明け方の夢の中でこう決め付けてくる声に、苦しいほど懸命に抗っていた。こういう夢は疲れる。
むりに起きてしまい、「早春」という旧作を読み直していた。はずかしいことを素直に書いて誤魔化していなかった。「もらひ子」(「丹波」)「早春」(「罪はわが前に」)は、総じて『客愁』とでも題していい自伝になっている。ウソ(仮構)を書いていない。 2015 10/30 167
* 文学研究、ことに近代現代の文学「研究」という立場で生きるのは容易でなかろうと想う。たいがいは片々とした作品論をしかもしばしば「試論」という躊躇 つきで書き重ねて、いくら積んでもそこに自立する「世界」が成り立たない。純然とした確乎たる新しい「文学論」も生まれず、鳴り響くような鮮度と共に興味 津々の発見発明に富んだ「作家論」も生まれない。九割りがたの研究者が後塵を嘗め嘗め知名度の作家や作品にばかりしがみついて、重箱の隅を爪楊枝でつつい ている。
大発明も大発見もない研究というのは窮屈な袋をかぶって安心しているようなものでしかない。
大学にはいるとき、歴史ならとは思ったが、国文学とは志向しなかった。美学藝術学へとびこんだのを後悔していない。調べたり論じたりよりもわたしは「創り」たかったから。
2015 10/31 167
* 終日 「お父さん、繪を描いてください」を読んでいた。藝術の創作とは、を問い、ある天才を秘めていた画家とその一家の運命を徹底的に書いて いて、わたしの数ある創作(フィクション)中もっとも凄みで光っている。行文は少しも難しくなく、「創作」を真剣に考え志している人には、冷え冷えと熱く つよく迫るだろう。目が霞むので再々読み已めているが、どんどん読める。読み続けたくなる。昔、友人に、この画家に逢わせてと頼まれて往生した。
2015 11/3 168
* 「お父さん、繪を描いてください」をもう十二時まで、夢中で読み進んだ。根は京都、だがはじめて東京の女として阿波野千繪というヒロインをわたしは生んでいた。好きだなと思った。
2015 11/4 168
* 湖の本創刊を推し出していただいた恩人、元朝日新聞社の伊藤壮さんから、お電話いただいた。よもやま、お話しできた。伊藤さんはわたしより五つ年上だが、お声は若く、出歩いても居られて羨ましい。
あれはたしか有楽町の広い朝日ホールで、「色」をめぐる講演会がありわたしも一役振られていた。まずまず話せた。丁度その時に、「湖の本」創刊の「清経 入水」がいま出来るというので、ちょっと伊藤さんに洩らしたら、即座に満員の会衆へむけて紹介して下さり、翌日には朝日の記者がインタビューしてくれた。 ついで大きな新聞がぞくぞく紹介してくれたので読者は予想を超えてふえ、急いで二度も増刷した。あれから、はや三十年。わたしの愛読者は年輩の方が多く、 大勢の愛読者が亡くなって行かれた。
いつしかに読者に買っても戴きながら、それ以上に全国の大学、高校、図書館や研究施設へ、また各界知名の方々へ、文学活動として「寄贈」を大事に考え、 出費を厭わず実行し続けてきた。いまや、本づくり自体はまったくの赤字発行であるが、「湖の本」の知名度は、私の願ってきた以上にひろがってくれている。 わたしたちは、まるまる贅沢には暮らしてこなかった。自動車ももたない、広い家ももてない海外旅行はもとより国内の旅行もほとんどしないし飛行機にも乗ら ない。コツコツ稼いだ全部を本気で「文学」のために使い果たし、死ぬ気でいる。他に、なにを遺す必要もない。
それにしても、三十年、ご支援し続けて下さっている身内も同然の読者が、いまも(人数は愕然とするほど減っているけれど)いて下さるのは、何よりも心嬉しい。
2015 11/12 168
* 勉強ノートとも読書ノートとも創作ノートともいえる大学ノート一冊が目の前にある。表紙には、大きく「愚管抄 注」 そして小さく「雲居寺跡 初稿の為に」とあって、「1967」という年紀がある。昭和四十二年、わたしは三十一歳余であった。
細字でびっしり二十数頁 慈円の「愚管抄」への見解や抄記を書き込んでいて、この史書の性格につよい関心を寄せていたと分かる。もうすでに「初稿 雲居 寺跡」を書き起こしていたかは措いても、慈円や愚管抄へのわたしなりの批評がそれを書き起こさせたのは間違いない。ノートの電子化が出来れば事情はハッキ リ読み取れるだろう。
頁を改めて、「雲居寺跡 初稿の為に」と表題した頁が 二十頁、文字びっしりに書き込まれて、三分の二は、事細かな小説「雲居寺跡」への創作ノートに なっていて、それが、いつしかに「藤原定家」への検討へ溶け合うように移行している。たしかに、定家を書こうという意図も、後年には新書としての執筆依頼 すら受けていたが、気も機も逸れてゆき、もっとのちに小説「月の定家」に一応結実したが、定家はさて措いても「雲居寺跡」への創作ノートはさまざまに、い ろいろに、詳細なもので、いろんな人間関係の渦をいくつも展開しながら、まあ、あつかましいほど壮大に鎌倉時代の前半を抱き込もうとしていたのが分かる。 もうわたし自身の記憶を洩れた構図や構想もあって、他人の胸中を除いているような興味も湧く。
さ、こんなものからも、中断している「初稿 雲居寺跡」を大きく書きつげるものか、そんなことはヤメたほうがいいのか。
* これに類する創作ノートがほかに数册はあり、さらには、それ自体が創作ノートでも経緯の記録でもある日記が、パソコン使用直前までの分、大学ノート数 十册をびっしり埋めている。日々の記録に手放せなかった「手帳」も、就職以来、ずうっと書きのこされていて、わたしの詳細な自筆年譜は、すべてそれらに よって、あらまし、可能であった。
せめて日記を電子化しておければ、と思うが、もうそんな余年は無い。幸いに時間があれば、創作にこそ用いたい。
一昨日より昨日、昨日より今日のほうが疲れを溜めていると感じると、横になったり居眠ったりしながら、はて何へ迄は「間に合う」のだろうと思う。むだなことへは手を出していられない気になる。
2015 11/19 168
* 映画「山猫は眠らない」の途中から妻にBSプレミアム、市川崑監督の「細雪」に切り替えられてそのまま観ていた。この映画の製作時に新潮社で篠山カメ ラマンの撮影の写真集で四人の絢爛たる女優たち、岸恵子、吉永小百合らの撮影に立ち合い、文章も書いた。以来、何度も観てきた。
昨日の「鍵」といい今日の「細雪」といい、谷崎潤一郎にだけはかなわないとしみじみ思う。そういう作家に出会えたのをこころから嬉しいと思う。漱石でも 鴎外でも藤村でも鏡花でも秋声でも荷風でも直哉でも川端でも三島でも太宰でも、並ぶことは出来る、不可能ではない。ただ一人、昭和の谷崎潤一郎には参る。 参る、と思えることの嬉しさを、真率、感じる。
2015 11/20 168
* 二種類の初校と再校と、そして新しい小説の進行と。しかし視力の混雑と低下のたびに休息せねばならない。
テレビは二メートル半ほどのせきから見てきたが、一メートル以内へ席をすすめねば成らなくなっている。
目疲れが原因か、全身の体調違和があってか、活気がない。宅急便へゲラなど送り出しに二分とかからないところへ自転車で走るか、黒いマゴの輸液を獣医院へ買いに行くか、郵便局へ、以外にまったく歩いて外出していないし、その気にもならない。
目さえ利いていれば仕事はいくらでもしたい。いま書いている小説は、二つとも、いや三つとも、それぞれにわたしには面白く運んでいるのだが、メいっぱいうちこんでられなくて、とかく時間がコマギレになってしまうのがつらい。
すこしやすめ、ピッチを落とせと天命なのかもしれず、ま、やすみやすみ、むしろアタマの方を使っていたい。家で妻と以外に、人と顔を見合って話とあうということが、ゼロに近い。酒もつい一人酒になっている。
* 仮題だが、かりに「清水坂」といっておく、と、「或る寓話」と、を今日も読み返しつつ少し書いた。前者もすすんでいるが、もう一山は少なくも越えねば ならない、後者はほぼ仕上がっていて長く、どう公表するかに迷っている。新しい小説を書き継ぎつつ、資料も整理しながら、湖の本も選集も出し続けねば。な んだか時間と競走しているようで。
十時半。もう機械の前は限界。
2015 11/21 168
* 「ある寓話」の寓話とは、含蓄に富んだ、富みすぎたとすら謂える「日本語」で、漢語には「寓言」はあっても寓話というもの言いも熟語も無かった。しぜん、そこには豊富でもあり錯雑ともした解釈や理解が付きまとってくる。「巵言=器に随って摹写すること水の巵(さかづき)にあるごとし」「空満 物に任じ、傾仰 人に従う」といった古注の内意に応じている。寓け言で以て道理を謂いひろめる「巵言」の一面に属している。
おそらく「ある寓話」の題をえらぶであろう、一応「完」とはしてあるが、繰り返し読み返して、今は未だ作者としての得心を期している。なんどか「ヰタ・セクスアリス」と謂うてきたが、意図するところは異なっている。
2015 11/22 168
* 母を尋ね歩いた「生きたかりしに」を選集で再校していて、母が末期に努力を傾けて出 版した「歌集」に、びっくりするほど当時著名な作家が何人も何人も病床を見舞い激励するお手紙を下さっていたのに、心底驚き有り難かった。いま一つ感じ 入ったのはそれらの著名作家らの母に宛てている文面のこまやかな親切と情味にみちて鄭重なこと。佐多稲子さんも、丹羽文雄さんも、平林たい子さんも、いさ さかも上から目線の言葉遣いでなく、お人柄の静かさや高さがよく窺われた。母は幸せな人でもあった。
いまどきは、ものの言いよう、口の利きようも時と場合まともに出来ない大人が多くなっていて、情けなく感じることがある。
2015 11/22 168
* 押し入れの隅から、そんな場所に在るべきでない二册を見つけた。国漢文叢書第四、五編、あの北村季吟による『和漢朗詠集 註』上下巻で、自分で買って手にした本でなく、明らかに秦の祖父鶴吉の旧蔵書。明治四十三年六月七日の初版本であり、表紙の傷みをともあれ手当てしたのは わたし、記憶がある。袖珍本で手にし易く、平安時代原著の和漢の詩歌の版組が大きく、(註は細字だが、ま、読めねば読めなくても差し支えなく、)ありがた い。楽しみたいのは採られた詩歌であり、原著者藤原公任の秀才を堪能するには、重くて大きい古典文学全集を手にするよりはるかに有り難い、ま、文庫本をや や幅広にした、しかも上下二册本であって、ポケットにも入れて歩ける。
季吟の本では帙二つに十巻余の源氏物語註釈、名高い『湖月抄』もあって少年のころから名前一つでいたく尊崇していたが、木活字変体仮名で源氏の原文は及 びもつかぬ私蔵というより死蔵していたのを、近年、国文学研究資料館へ寄付した。幸い今度の本は読むに苦労のない本で、また拾いモノをした気持ちで朝か ら、頁をしきりに繰っている。
季吟の漢文自著の冒頭に「朗詠」の語義というより意義に端的に触れてある。
朗詠者厥風起於催馬楽風俗之後、而我邦中世以降。上自朝廷。下達於郷党。歌謡之者也。
「朗詠」とは、詩歌を読んで鑑賞するのてなく、催馬楽や風俗など歌謡・郢曲の史的流れを承けて、しかも貴賎都鄙のべつなく謳歌したものだと。この意味を汲 めば、あやまりなく「朗詠」のアトへ来るのは「今様」であり、今様謡いの大衆味をくみながら平家語りの「平曲」も生まれてきたに違いない、其処の処へわた しは足場をおいて梁塵秘抄や平家物型を、後白河院や、正佛資時や、慈円や行長らを想像し創作してきたのだった。
今日われわれに朗詠集和漢の詩歌を謳歌歌謡するすべなく、ついつい「読む」本にしてしまっていて余儀なくはあるが、詩歌という文学の畑の花である前に、歌謡という藝の花であったことは忘れない方がよい。
春 立春
遂吹潜開不待芳菲之候。
迎春乍変将希雨露之恩。 紀淑望
年のうちに春は來にけり一年を
こぞとや云はん今年とやいはん 在原元方
漢詩も和歌も、まさしく声を発してこれを謡った。読んだのではない。むろん漢詩の方は先ず日本語に読みほどいておいてそれを謡ったので、読替えの、つま り飜訳の、その機微に面白みがあって、物語りの多くもそれを引いて興趣を盛り上げていた。公任の飜訳はそれとして、自分ならどう読み替えてせめて朗唱する かと思案するのも楽しいのである。
* 今日の眼の酷使はまたは不調は限度へ来ていて、今も、キイの字はほぼ見えないままで書いている。
「清水坂」の先へ展望がひらけ、そして、晩には、必要も感じて急に思い立ち、わが三十二歳時の「創作ノート」を手書きの大学ノートから写し始めた、が、 大変も大変、たった数行を読み且つ書き写すのに、一つには視力無くて手書きの字が読めない上に、機械上の画面もほぼ見えなくて、宛て推量で見えないキーを 叩くのだから、ま、時間がかかって絶望的になった。たまたま用があって部屋へきた妻が、見かねて横でノートを読み上げてくれ、辛うじてわたしはキイを打っ ていった。正しい字が出ているかどうかも妻が背後から確かめ確かめしてくれて、やっと一頁半ほどを機械に書き写した。優に小一時間はかかっていたが、独り で読んで書き読んで書きしていたら、小一時間では頁の三分の一も進まなかったろう。心がけているのは、割愛しても、大学ノートのビッシリ書きで二十数頁あ る。しかし、是が非でもその作業を活かしたいのである。「湖の本129」は一月半ばにもと予定していたが、かなり遅れるかもしれない。作者でもあり、しか し編集者でもあるわたしは、遅れても、その方が良いと判断している。機械用に距離を測ってつくった眼鏡がまるで役立たないとは、どういうことなのか。怪談 である。青山までも、ツクリ慣れた「保谷眼鏡」まで出かけなければ仕方ないのか、遠いのでなあ。
* 九時だが、もうとても何も出来ない。少なくも機械からは立ち去らねば。
2015 11/24 168
* 午前、眼の比較的働く間にと、妻にノートを読んでもらって、昨日の分より多くノートの電子化をはかった。数十年前の認識であるが、変更を必要とせず書けていて、愚管抄に没頭した昔が今のように甦る。
こういう熱のある仕事が、当然のように作家生活にはいって直ぐはじまる、「秦 恒平の中世論」と呼ばれたような中世観、「花と風」「女文化の終焉」「趣向と自然」「中世と中世人」などの著書へ繋がっていった。わたしの作家生活は、 「慈子」の徒然草をも経過しつつ、なにより平家物語、平曲、梁塵秘抄、そして愚管抄等に最初の太い根を得ていたのだった。 2015 11/25 168
* 日比谷へまわって、クラブで飲みかつ食事しながら、舞台を反芻していた。「生きたかりしに」を湖の本にしたばかり、その主題とも状況ともグイッと重な り合う主題があり、驚いたことに若い主役の名は「コーヘイ」君であり、彼は生母を知らずに生母を捜し求め、母なる人は母と名乗らずに「コーヘイ」君に手を 取られ抱かれて尊厳死していた。わたしが退屈などして、舌打ちなどして、平気に見ておれるような舞台の推移では無かったのだ、わたしも、横の席の妻も、泣 いていた。
* ま、「演劇」ということの意義や意味は、これからも考え続け楽しみ続けたい。
* じつは劇場へ出かける前に、生母の遺した歌文集からわたし自身が心して編んだ「短歌抄」の校正刷りが届いていて、行きも帰りもずっと電車の中で読みかつ校正して、幸いに全部を一読できた。
母の短歌は小説「生きたかりしに」でも大勢の方の有り難い評価と称讃を得ていたが、あらためてしみじみ通読してみて、短歌の質じたいわたしは母に「敵わ ない」という実感さえ得て、正直、ふくざつな気分であった。表現の藝としては知らず、短歌へ籠めた生活的実感のきびしさ、それに堪えて歌おうとした母の気 概は烈しくて熱い。
ああ、よかった…と、真実思っている。「少年」の昔はともあれ、年たけてのわたしの短歌など、谷崎がいわく「汗のような」排泄で終わっている、
それでも、わたしはたったの一度も一首も母とは交叉し合えなかったけれど、短歌、和歌が好きである。
2015 11/26 168
* 久しぶりに「マウドガリヤーヤナの旅」を読み返した。自愛の一作であり、「廬山」「華厳」とならぶ仏教の信仰に取材した作だが、或いは「親指のマリ ア」の基督教とも底知れぬまま連携している。わたしの願いや祈りのようなものの自然と溢れた作で、「露の世」や未発表のごく早期、処女作以前の「朝日子と 夕日子」などとも通い合うものをもっている。「あるとき」という雑誌が創刊された創刊号の巻頭に載ったのではなかったか。
2015 11/27 168
* TBS岸井成格氏の降板を惜しみ怒る声を聴いておく。
☆ 『NEWS23』でキャスター岸井成格の降板が決定の情報!
「安保法制批判は放送法違反」の意見広告に、TBSが屈服? http://lite-ra.com/2015/11/post-1718.html …
意見広告の件は、ちょうど本日の東京新聞特報面で取り上げたところです。岸井氏降板の噂は私も耳にしました。
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『NEWS23』でキャスター岸井成格の降板が決定の情報!「安保法制批判は放送法違反」の意見広告にTBSが屈服?
愕然とするようなニュースが飛び込んできた。TBSの看板ニュース番組『NEWS23』で、アンカーの岸井成格氏(毎日新聞特別編集委員)を降板させることが決まったというのだ。
「TBS はすでに後任の人選に入っていて、内々に打診もしているようです。後任として名前が上がっているのは、朝日新聞特 別編集委員の星浩氏。星氏は朝日では保守派寄りの政治部記者ですが、今年、朝日を定年になるので、退職後の就任をオファーしているようです。岸井さんが契 約切れになる3月をめどに、交代させる方向で進めていると聞いていましたが、場合によってはもっと早まるかもしれません」(TBS関係者)
この突然の人事の背景には、もちろん例の右派勢力による『NEWS23』と岸井攻撃がある。
〈私達は、違法な報道を見逃しません〉──。今月14日の産経新聞、翌15日の読売新聞に、こんな異様なタイトルの全面の意見広告が掲載されたことをご存知の読者も多いだろう。
この広告の出稿主は「放送法遵守を求める視聴者の会」なる聞いたこともない団体だが、呼びかけ人には、作曲家のすぎやまこういち氏や評論家の渡部昇一氏、 SEALDsメンバーへの個人攻撃を行っていた経済評論家の上念司氏、ケント・ギルバート氏、事務局長には、安倍首相の復活のきっかけをつくった安倍ヨイ ショ本『約束の日 安倍晋三試論』(幻冬舎) の著者・小川榮太郎氏など、安倍政権応援団の極右人脈が名前を連ねている。 そして、この広告が〈違法な報道〉と名指ししたのが、岸井氏と 『NEWS23』だった。9月16日の同番組で岸井氏が「メディアとしても(安保法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」という発言を取り上 げ、「放送法」第4条をもち出して〈岸井氏の発言は、この放送法第四条の規定に対する重大な違法行為〉としたのである。
しかも、『放送法遵守を求める視聴者の会』は意見広告だけでなく、TBSと岸井氏、さらには総務省にまで公開質問状を送りつけたという。
「これに、TBS幹部が真っ青になったようなんです。もともと、局内に岸井氏を交代させるという計画はあったようなんですが、この抗議を受けて、計画が一気に早まったようなんです」(前出・TBS関係者)
しかし、この意見広告はそんな過剰に反応しなければならないものなのか。たしかに放送法第4条では放送事業者に対して《政治的に公平であること》を求めてはいるが、それは政権批判や特定の法律批判を禁ずるものではまったくない。
また、岸井氏の「メディアとしても廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」という発言にしても、安保法制に単純に反対ということではなく、国民に対し て説明不足のまま強行採決したことへの批判の延長線上に出てきたものだ。もしこれが政治的に不公平な発言というなら、たとえば、安倍政権の外交成果を評価 するようなNHKやフジテレビ、日本テレビの報道もすべて放送法違反になってしまうだろう。
しかも、これは別稿で検証するつもりだが、この意見広告を出した「放送法遵守を求める視聴者の会」自体が実体のよくわからない、きわめて政治的な意図をもった集団なのだ。
どうしてこの程度のものに、TBSは神経質になっているのか。その背景には、官邸と自民党が『NEWS23』を標的にしているという問題がある。
昨年末、安倍首相が『NEWS23』に生出演した際、街頭インタビューのVTRに「厳しい意見を意図的に選んでいる」と難癖をつけ、その後、自民党が在京テレビキー局に「報道圧力」文書を送りつけるという問題が起きたが、その後も自民党や官邸はさまざまな形で、同番組に圧力をかけ続けていた。
安保法制審議中は例の文化芸術懇話会の弾圧発言が問題になったこともあって、一時、おさまっていたが、同法が成立した直後から、自民党「放送法の改正に 関する小委員会」の佐藤勉委員長が、テレビの安保法制報道は問題だとして、「公平・公正・中立は壊れた。放送法も改正したほうがいい」と露骨な恫喝発言を するなど、再びTBS やテレビ朝日への圧力を強め始めた。
実際、こうした動きに、TBSの武田信二社長が9月の定例会見で、安全保障関連法案をめぐる同局の一連の報道について、「弊社の報道が『一方に偏っていた』というご指摘があることも存じ上げているが、われわれは公平・公正に報道していると思っている」と弁明する事態になっている。
「とくに、官邸と自民党が 問題にしていたのが、岸井さんの発言だった。岸井さんはもともと政治部記者で、小泉政権時代は小泉改革を支持するなど、いわゆる毎日新聞でも保守色の強い 記者だった。それが安保法制に厳しい姿勢を貫いたことで官邸や自民党は『裏切りだ』と怒り倍増だったようです。政治部を通じて『岸井をなんとかしろ』とい う声がTBS幹部に再三届けられたと聞いています。そんなところに、今回の岸井さんをバッシングする意見広告が出たことにより、TBSも動かざるを得なく なった。総務省にまで抗議、質問状を送りつけられたことで、TBS は非常にナーバスになっている。総務大臣はあの高市早苗さんですからね。これを口実にどんな圧力をかけられるかわからない。大事になる前に岸井さんを切ろ うということでしょう」(全国紙政治部記者)
いや、岸井氏だけでなく、これを機にメインキャスターの膳場貴子氏も降板させ、『NEWS23』を解体させる計画もあるといわれている。
「膳場さんは今週から産休に入りましたが、そのまま復帰させずフェードアウトさせるという計画もあるようです。しかも、岸井さんの降板、星さんの起用とあ わせて、放送時間を現在の1時間から短縮させ、番組自体もストレートニュースに変更するプランももち上がっています」(前出・TBS関係者)
放送法を歪曲した今回の“報道圧力”である意見広告に、本来、TBSは強く抗議すべきである。それが何をか言わんや、相手の攻撃に屈し、ジャーナリズムとして当然の発言をしただけの岸井氏を降板させるとは──。
以前、オウム真理教に絡んだビデオ事件の際に、筑紫哲也氏は『NEWS23』の番組内で「TBSはきょう、死んだに等しいと思います」と発言した。
しかし、今度こそほんとうにTBSは「死のう」としているのではないか。圧力に萎縮し、服従すること。それは報道の自殺行為にほかならない。 (田部祥太)
* この東京新聞記事に全面的に共鳴する。この趣旨が心ある人達の協力で燎原の火と燃えて欲しい。
わたしは、ここ半年ほどの岸井氏や膳場さんの報道姿勢と発言につよく共感しつつ、上のような妨害のあるだろうことを懼れていた。この二人にわたしは在来何の縁もないが、あえて著書も送り続け、「どうか、本道の報道姿勢と言葉とを貫いてください」と書き添え続けてきた。
愚なものの愚なまつりごと押しつけて、国と民との息の根寒し
わたしは少なくも四册を書き続けてきた、思いをこめ誠をふり絞って。
『ペンと政治』 一「新世紀へ 崩壊の跫音」 二上「福島原発爆発 健闘菅総理 変節野田内閣」 二下「野田総理の惨敗 安倍<違憲>」内閣 迫る国民の最大不幸」 三「九年前の安倍政権と私」
若い人達も大人も老人も、 いま本道を堂々と行く気概をもたねば、そして踏み出して歩かねば、闘わねば、あの昭和の虐政牢獄とひとしく平成日本の平静と平和と発展は、根底から喪われる。 2015 11/28 168
* 執筆中新作「ある寓話(仮題)」 「清水坂(仮題)」 仕上げないし修整中の未発表旧作「資時出家」「初稿・雲居寺跡(中断 付・創作ノート)」「チャイムが鳴って更級日記」「秋成八景 (序の景)」「青い雛人形(中断 付・創作ノート)」その他十指余 選集校正中、十二巻「生きたかりしに 付・生母短歌抄」 十三巻「迷走 課長たちの大 春闘」「お父さん、繪を描いてください」 選集原稿編輯中第十四巻。
このホームペイジ「闇に言い置く 私語の刻」のほかに、いま、猶予無く進行を迫られている仕事が最低で上に挙げただけは、在る。投げ出すことは出来な い。少なくもわたし自身には無意味ではない、仕上げて即座に人類や地球と最期をともにしようとも、である。目が潰れるが先か、日本の政治に潰されるが先 か、命果てるのが先か、分からないが。願わくは明後日の胸部・循環CTの結果診察が無事であって欲しい。かすかに気にはなっているので。
十二月九日、翌日には婚約して五十八年めが来る日に、「選集」切り目の第十巻『親指のマリア シドッチ神父と新井白石』が出来てくる。二十一日には満八十歳になる。それまでには自愛の長編作を、僅かな数ではあるが、各界に向け「記念」に送り出せるだろう。
ことしは、おかげで『生きたかりしに』を送り出せ、不幸の末子もようやく亡き生みの母に出会えた。大勢の方々によろこんでも戴けた。久しぶりに「マウド ガリヤーヤナの旅」を読み返していたときも、その他の色んな作ででも、何度も何度もあの「母」と対話してきたことを否む気はない。母からにげつづけたわた しだが、母を告発したりは、しなかった。
へたばらずに、いい師走、いい新年をともども迎えたいと、行く霜月のうちにも祈願している。
2015 11/28 168
* 「初稿・雲居寺跡 創作ノート」を点検していて、昔々の意欲の甦ってくるのに驚いた。かなり舅に「時代・時勢」を読み込みながらいろいろと進行を計画 していた「感じ」が具体的にわかり、問題点の把握にも慎重で、要するに「作家以前」の構想にしては大がかり過ぎていたのだろう。「清経入水」も後年の「雲 居寺跡=初恋」も、まるで構想を分割したか、こぼれものを拾って仕上げたような按配で、「風の奏で」ほどの長編が、いわば原構想の姉妹編かのように見えて くる。
時間と体力が許すなら、再起動してもよさそうに思われるが、いまは、とてもとてもその余力はない。だれか、バトンタッチして走って貰いたいぐらい。承久 の乱へ燃えさかった鎌倉初期の京と鎌倉の権衡や、平家・平曲誕生への強い関心 、主人公達への深い思い入れがないととてもムリだろうが。
創作ノートの点検は、しかし、まだやっと半ば。なにが飛び出してくるのかわたしも分かっていない。
2015 11/29 168
* 例の「創作ノート」を読み返し電子化している。いわば建物の設計図のように思案を重ね重ね本文を前へ押し出していたのだと分かる。
すでに書き進んでかつ中断しているのだが、中断後に関しても具体的にしかも錯綜した人間関係についても書いていて、わたし自身が面白がっている。そして 先々では、関心や意図が藤原定家へ移動していたり、さらには当時別に書いていた作、「或る雲隠れ考」などへもノートが推移している。「初稿・雲居寺跡」に 関するかぎり、いわば壮大すぎたり錯綜していたりのために、未熟の作者がだんだんに手放してしまったのであるらしい。
とにかく、ノートの整理を続けて、作のアトへ付け加えたい。ちょっとサマ変わりのした面白い「湖の本128」になりそうだ。
2015 11/30 168
* わたしにと、生母の写真を送ってきてくれた(異父)長姉の優しい心遣いは、「生きたかりしに」でもしみじみと存在感を示し、ある意味では一等感銘を与えた人であった。筆の走りのかのように一瞬わたしは「この人が母であっていい」とまで書いていた。
上に出してみたわが生みの母は、そのまだ一つか二つかという稚い姉を抱いて写っているが、それは此処では出し控えた。母の方は、二十一、二歳とされてい る。何とも…感想も述べがたい。自分が生まれてより、母の死後もながく、わたしはこの「母」なる人を拒み続けて大の大人になっていた。そのあげく、とうと うこのほとんど何も知らずにきた母の生涯と出逢うべく、母の遺した歌集などを頼みに探索しはじめ書き上げたのが、長編小説『生きたかりしに』だった。じつ はそれすらも三十年、原稿用紙のまま埃をかぶらせていたが、七十九の今年ようやく「湖の本」三巻に収めて公表した。幸いに、広範囲に好評を頂戴し、秦の後 半生を代表するであろう作とまで謂ってもらえた。感慨ふかい。
姉は、母の生まれたときは「姫」誕生ほどに華やかで「乳母日傘」で育ったと手紙に書いていた、それが、亡きわたしの実兄の表現では、後半生、つまり兄や わたしを生んだあと、母は、さながら「階級を生き直した」ように弱い弱い立場の人たちの保健活動に邁進し艇身しつくし、あげく奇禍に遭って苦痛の病床に釘 付けのまま「十字架に流したまいし血しぶきの一滴を浴びて生きたかりしに」と歌い、亡くなっていた。それでも遺歌集「わが旅 大和路のうた」を出版にこぎ つけ、遺書を用意し、わたしへの挨拶すらも代筆を頼んで送り寄越していた。
兄恒彦はさながらにこの母の「同志」として「ベ平連」等の市民活動の生涯に果て、わたしは母が歌詠み、ペンの人だったとも全く知らぬまま歌人とも小説家ともペンに生きる道を歩いてきた。
姉は母の故郷に母のためにりっぱな歌碑を建てて呉れている。
上の、うら若い母のその頃は、まだわたしたち兄弟の誕生とは全く無縁の時代だった。
2015 12/1 169
* さて「創作ノート」を夜前、機械をしめてから読み進んで行くと、作者のわたしもすっかり忘れているような物語の展開が企図されていて、わくわくした。 まだ先があるようだが、なんとか、うまい纏め方が出来ないか、それが気になってくる。いわば 導入のAからふしぎのBに物語は入り込んでいる
が、もう一度Aに戻しながらBを活かすスベはないのだろうか。
時計をみても長い針と短い針とがどこを指しているのかも見えない。八時十分まえなのか十時四十分なのか。
* とにかくも無心に創作や本作りに溶け込みにくい事情に縛られかけていて、鬱陶しい。いったい何の何処までわたしは「間に合う」のだろう。「間に合い」 たいことがあまりに多くて、ほんま、ショウのない落ち着かない爺になってしまったものだ。だが、このまま歩けるだけ歩いて歩いて行きたい。
2015 12/1 169
* さて「創作ノート」を夜前、機械をしめてから読み進んで行くと、作者のわたしもすっかり忘れているような物語の展開が企図されていて、わくわくした。 まだ先があるようだが、なんとか、うまい纏め方が出来ないか、それが気になってくる。いわば 導入のAからふしぎのBに物語は入り込んでいる
が、もう一度Aに戻しながらBを活かすスベはないのだろうか。
時計をみても長い針と短い針とがどこを指しているのかも見えない。八時十分まえなのか十時四十分なのか。
* とにかくも無心に創作や本作りに溶け込みにくい事情に縛られかけていて、鬱陶しい。いったい何の何処までわたしは「間に合う」のだろう。「間に合い」 たいことがあまりに多くて、ほんま、ショウのない落ち着かない爺になってしまったものだ。だが、このまま歩けるだけ歩いて歩いて行きたい。
2015 12/1 169
* 「初稿・雲居寺跡」に限って「創作ノート」を書き写し終えた。書き納めの時期は、妻が建日子を妊娠して悪阻に悩み、わたしは会社で課長職にあり、同時 に小説「或る雲隠れ考」を仕上げようとしていた、昭和四十二年(一九六七)七月上旬であった。ほぼ二年後に「清経入水」で第五回太宰治賞を受けた。
この創作ノートは詳細で、「承久の変」勃発と平家物語の産声とに関心を絞りつつ、複雑な人間関係を幾重にも想定している。次回の「湖の本」128「初 稿・雲居寺跡=中断」のうしろへ付録として編成しようと思っている、そのために、よほど目も酷使して半世紀ちかく昔の大学ノートをことこまかに書き写し た。さまざまな面で、この創作の仕事はわたしの後々の諸作への前衛的意味をもってくれたと思う。
ノート自体には、さらに引き続いて、定家卿や建礼門院右京大夫などへの勉強が綿々と続いている。中間管理職として激化の一途を辿っていた労組の闘争にいやおうもなく対峙を強いられながら、懸命にわたしの文学とも組み合う日々であった。それで良かったのだ。
* ちょうどその頃に、わたしは秦の親たちにもたすけられ、現在も暮らしている現住所の土地を買い登記を終えていた。社宅住まいを続けていては、退社したくても出来ない、社宅が足枷にならないようにと明らかに願っていた。
建日子が翌年正月に無事に生まれ、翌々年桜桃忌の受賞で、会社勤務と作家生活との二足草鞋が以降五年続いた。大きな転機へわたしたちの家族は歩んでいた。
2015 12 2 169
* 第十巻出来待ち、発送用意進んでいる。郵便本局が集荷してくれることになり、近くの局へ重労働で運ばなくて済むのはとても有り難い。
今回は「シドッチ神父と新井白石」を書いているが、読者には、切支丹牢にくらす「長助」「はる」の二人に注目して頂きたい。また長崎からの三人の通詞たちに、ご注目願いたい。
2015 12/3 169
* ズシーンと胸に堪える長編を読みおえた。あんな時だから書けたんだ、書くべきは書くにふさわしい時機をもっていると今にして教わる。
* 短篇ながら「マウドガリヤーヤナの旅」気を入れて書いている。芥川の「杜子春」とどうかと言われれば、完爾としてわらうだろう。
小品ながら「なよたけのかぐやひめ」も、歌わない音楽、表現の音楽として気に入っている。翁と媼とを声で演じてくれた文学座、俳優座の老名優、亡くなって了われた。かぐやひめを語った若かった人はどうしているだろう。
2015 12/3 169
* 黒いマゴが外へ出たがったので出してやり、そのまま起きて。親鸞仏教センターがいつも送ってきてくれる刊行物三種のうち分厚い「現代の親鸞研究」を拾い読 みしていた、というより目次で目をとめた一つの講演録に気を牽かれ読みはじめていた。「交衆と遁世」や「官度、私度、自度」などの対概念の史的な検討から 中世の遁世の意義や展開が語られていて、この際アタマの整理がつきそうな気がした。長い講演で、まだ入り口にいるが、こういう論考が向こうから舞い込んで きてくれるのは有り難い。何のキッカケからだったかこの親鸞センターとのご縁ももう久しい。
* 昨夜から、しばらくぶりにバグワン語る「一休道歌」上巻をまた読み返し始めた。たまたま五島美術館が堂々として内容豊富な「一休展」の図録を送ってき て呉れていた。なら、たくさんな一休の書や書物や関連の詳細な解説なり伝記なりを参照しながら、バグワンの言葉に耳をすまそうと思い立った。事多い昨今自 身の気持ちをおだやかに静かにしたいとも願ってである。
* わたしは、かねて、「しない、禅」であるよりも、「する、禅」「しながらの、禅」を願ってきた。その思いを理由づけて謂うような分別心はさらに持たな いが、わたしの心は「しない」静まりより「する」「しながら」の静かに添いやすい自覚が、思い込みにちかいモノをもっている気がしている。ま、そんなこと はどうでもいい、いまのままの毎日からどこかへ遁れ出るのでなく、いま・ここのありのままに「して」居ながら在りたいというのだ、それならそうすればいい だろう。いずれ「あのよ(生前)よりあのよ(死後)へかえるひとやすみ」の「いま・ここ(今生)」あるのみ。
2015 12/4 169
* 残存手書き諸原稿の中に、「誘惑」の収束部自筆推敲原稿(200字用紙 P.266-318)が、妻が清書の「罪はわが前に」原稿の用紙裏(200字用紙 P.495-565)を利して書き残っていた。わたしは妻の清書原稿が版元から戻ってくると、その白い裏を用いて新しい作のために使い慣れていた。上のこの一束が、版元へ渡した妻の清書原稿、しかし表題と署名は自筆の「誘惑」第一頁400字原稿用紙に畳み込まれていた。
これにより「誘惑」という小説が、「一稿 脱稿 1976 06 27 2:30AM 二稿 脱稿 1976 06 29 5:45PM」と確認できた。
それだけでなく、医学書院原稿用紙を借用し、妻に清書を頼んだ「鱗の眼」と題した400字用紙で144枚の小説一編が一つに綴じられそっくり残ってい た。この原稿には起筆や脱稿の記録は添えてなく、(保谷市泉町五丁目二の23)と当時の現住所が書き入れてある。医学書院の社宅があった所で、われわれが 社宅に暮らしていたのは1961半ば以降1971頃まで。この「鱗の眼」にはよっぽど苦労したことは自筆年譜にも露わにされていたと思う。結局は、未発表 原稿として抱え込んでいたのであり、実を言うと、先の「誘惑」は、少なくも五年以上の間隔をおいて成った「鱗の眼」の改稿新作なのであった。「鱗の眼」か らは、べつに「底冷え」という短篇も派生した。ついでに書いておくと、中学高校での一先輩が、後年、わたしの作で豪華限定本をぜひ作りたいと言い、何をと いう段取りになり、結局は「三輪山」という実に美しい贅沢な本が出来たが、その際、もう一つ執心された作がこの「底冷え」だった。この先輩はなかなかの人 で眼も利いた。「底冷え」にも執着さたのは内心嬉しかった。
「底冷え」も「誘惑」も相重なる気味を共有しながら、とうに「湖の本」に入っているし「誘惑」は「選集③」に入っており「底冷え」はやがて「選集⑪」に 入る。いわば「(初稿)誘惑・底冷え」に相当している「鱗の眼」がどんな按配に書かれていたか、どう発表作へと変わっていったか、今すぐは思い出せないで いる。
2015 12/5 169
* 九時前、「秦 恒平選集 第十巻 親指のマリア シドッチ神父と新井白石」が出来てきた。明日の、われわれ自祝の日と、二十一日の傘寿とを、自愛の長編(京都新聞朝刊連載)で記念することが出来た。シドッチと白石と並んで、いやそれ以上にもわたしは「長助とはる」という兄妹に大事に心こめて書いた。描いた。
* もう、送り出しの用意をすすめている。荷造りしておけば郵便本局から集荷に来てくれる。それが譬えよう無く有り難い。たとえ十分足らずで行けるにせよ、急な坂を重い重い本を何度も近くの局へ運んだのだ八巻までは。あれは辛かった。心臓にもこたえたと思う。
急ぐという用ではない、明日の自祝も、明後日の歯医者通いもはさんではさんで、週明け十四、五日に完了していれば、八十歳の誕生日が来る。ただ無事を願うのみ。
* 妻の協力で、余裕をもって思いの外に荷造りが出来た。発送を急がねばならないわけでもなく、やすみやすみ荷造りして、とりまとめて送り出す。キリスト教に信仰ないし関心の有りそうな人を意識して送り先を選んでいる。
* そんな中で、何種類もの校正も進めている。「湖の本128」は、未発表小説を軸に、追加原稿も入れて、予定していたより内容は豊富になってきた。やっ と、まとめて初稿を戻せる。一月末には送り出せるだろう。選集⑪はすでに責了にしてあり、湖の本とひどく輻輳しないように気をつけなくては。
2015 12/9 169
* 思い立ってというのではないが、かねて尤も読みたい本の一つと目して、しかもたじろいで来た「ヨブ記」を慎重に読みはじめている。
この、すさまじい物語は、なによりも神への「幸福主義」を痛烈に窘める。神頼みという言葉があるように、神を思う人間のほぼ一人残らずが、神からの御利 益や保護や愛をもとめて「神様」を愛している信じていると言っている。つまりは神様を自己の幸福や満足の保証人にしてしまっている。「ヨブ記」は、そんな 幸福主義の神観に対する徹底的な否定、拒絶の物語と思われる。吾が為の神など絶対に存在しない。だから神なのである。神はただ絶対に存在するのであり、人 の幸福のためになど存在しない。それでもよい、それでも神を信じ愛するというのでなければ。「ヨブ」は想像を絶する苦難・受難のなかで幸福主義を完璧に脱 ぎ捨てることて、神の愛を自覚する。
* テレビに、観光寺社の神官や坊さんがしきりに出て来て、うそくさい話をとくとくとしている。おおっと心線を鳴り響かせてくれる言葉をかれらから聴けた ことがない。お経はわざわざ長ーく長ーく言葉を延ばして読むことで仏様に近づけるのだなどと、実演してみせる坊主がまことに滑稽だった。幸福主義を脱した 信仰を説く、説ける宗教人に会えない。ま、会う必要などないのだ。
2015 12/9 169
* 師走 ふたつの祝いにこと寄せた第十巻「親指のマリア」だったが、折良くクリスマスとも重なった。口絵の「悲しみのマリア」図も、ひときわ美しく印刷され た。陰惨であった小日向の切支丹牢をいわば愛の証し場のように審問がなされ、対話がなされ、愛も信実もなされてゆく場所として書けたのは幸せであった。
2015 12/15 169
* 遠藤周作さんの「沈黙」をわたしは読んでいない、遠藤さんが信仰のある人と知っていたので、自然信者としての立場と思惟とで書かれるのだろうと思い、遠慮した。
映画は、観せてもらった。転んだだけでなく幕府の切支丹政策に協力していたフェレイラの時期と、シドッチ・白石の時期とでは、背景が大きく異なっている。それだけの違いが、遠藤さんとわたしとにも有るだろう、今夜はもう疲れているので、感想などは後日にしたい。
2015 12/17 169
* 選集第十一巻はすでに責了、一月末ないし二月初に出版予定。第十二巻が口絵等もすべて出そろい、すぐにも、おそくもこの年内にも責了に出来る。第十三 巻本文の再校が今朝出そろい、これから読んで行く。一番の大冊になる。第十四巻の編輯もでき、いま入稿前原稿として読んでいる。総じておよそ二千頁分の仕 事がすすんでいる。
湖の本128巻も、再校を読み終えれば責了出来る。選集第十一巻との刊行日の調整が必要。湖の本129巻の「未発表小説」二作という編輯見通しが立ってきた。桜桃忌を目した創刊三十年、第百三十巻がどうなるか、我ながら少し痺れている。
* 美術は一点厳存だが、文藝はたしかにコピーが利く、が、だから永保ちなどと思うのはお笑いぐさで、わたしの老後のかかる奮励も、およそ遊戯同然で、厳 かな意味など何もない。そう信じているから、だれもが驚いて褒めて下さる贅沢な本をあえて疑念無く躊躇無く創っている。ま、笑ってしまうがそんなことをす るために生まれてきたのであり、こんな事の出来ているのは幸せ者と感謝だけは深い。バグワンは隠棲せよなどとバカなことは言わない、「世間」のなかに「生 きて」無心なれと。わたしはかねて自身の文学文藝の「仕事」を「作業禅」と納得して楽しみを尽くしている。「有楽無心」をこそ願わしい我が儘な境涯と思っ ている。
2015 12/18 169
* 選集第十二巻「生きたかりしに」は全部揃えて責了用意が出来た。わたしの余命ははかりしれない。出来るだけを、着々と進めて行くだけ。
2015 12/18 169
* 幸いにわたしは秦 恒平としても老の坂を歩んでいるが、その余には「部屋」で出逢っている数多い人たちと一つに化(な)っていろんな人生を生きている。白石もシドッチも、徳 内も、資時も、定家も、子規も忠も、華岳もみな然り。そんな男性ばかりではない、赤猪子も東子も紫式部も讃岐典侍も立て建礼門院も、切支丹牢のはるも、や はり、わたしだ。菊子、町子、慈子、阿以子、龍子、雪子、冬子、徳子、彬子、槇子、京子等々も、みな、わたしだ。彼や彼女らのことばは、所詮はわたしのこ とばであり、それでよい。「こころ慈(あつ)い人たち」とわたしは「部屋」でいつでも話し込める。寂しくはならぬ。
2015 12/19 169
* 湖の本128のあとがきを今、電送した。いま、それを此処にひらくのは先走っているけれど、日付の意味も私なりに重いので述懐・私語の意味で転写しておく。
☆ 私語の刻 湖の本128
今巻の主な編輯意図や経緯については、巻頭に十分述べておいた。後段には気儘に或る一年の「京都散策」を添えた。四方八方から大もての「京都」のこと、なにを加え得てもいまいが、秦にこんな「京都」がと思って下されば有り難い。
このあとがきを、実を言うと平成二十七年(去年)の師走に書いている。明日二十一日には、傘壽、満八十歳の誕生日を迎える。
明けての春四月には、妻も傘壽を迎える。つつがなく互いに達者に暮らしたい。
傘かりて老いの余りを相合ひにゆきゆく年の瀬は冴えわたる
しんしんとさびしきときはなにをおもふおもひもえざるいのちなりけり
幸い「秦 恒平選集」も、この師走半ばに、第十巻、長編『親指のマリア=シドッチ神父と新井白石』を無事出版できたし、「秦 恒平・湖の本」も、此の今回本が第一二八巻、年明けて六月桜桃忌までには、第百三十巻まで用意の編輯も出来ていて、じつに「創刊・満三十年」を迎える。
同じ一人の著者の創作とエッセイとを、騒壇余人、著者自身の手一つで、順調に「三十年、百三十巻」もを、趣味や道楽でなく国内外の読者の方々、各界、各 大学高校研究施設等へ送り続けられた、かような「文学・出版活動」が近代以降の日本国内で達成された前例をわたしは知らない。体力と気力との続く限りは 「書き」つづけ、「出版」しつづける気でいる。
胃癌と診断されて胃の全部と胆嚢を手術で喪って、満四年がちかい。手術後にも、癌の転移がなお認められ、一年の抗癌剤服用に堪えた。その後さいわい癌の 再発は認められていないが、眼も歯もひどくなり、食はすすまず、聖路加病院だけで腫瘍内科、感染症内科、内分泌内科、眼科、泌尿器科、そして今度は循環器 科での検査のために新年早々に四度目の入院が待ち受けている。この四年、一度も京都へ帰れず、今年(昨年)二月の京都府文化功労賞の受賞式にも欠席した。 ほんの小旅行すら一度も出来なかった。いつも全身疲れていてしんどいのである。
しかし、文学・文藝の、がオーバーなら「書いて」「本にする」仕事は、むしろ壮年期にもまして渋滞も停頓もなく、信じられないほど多彩に多忙に元気いっ ぱいに次から次へ積み重ねて、送り出している。それで、わたしはいいのである、どんなに疲れてしんどかろうとも元気に満ちている。
次の「湖の本」も、また一癖有る珍しい小説の出版になるはずだし、創刊三十年を記念の作には、ごく恣まな長編の「珍」新作を提出できようかと頑張っています。ムチャクチャ叱られそうだけれど、ガマンして下さい。 秦 恒平
2015 12/20 169
* ことばで説明するように筋を追って行く小説と 文章で人や事情を表現しつつ筋を運んで行く小説と。この歴然とした差異に少しも気付か ず、前者をおもしろいと、後者をむずかしい、おもしろくないと、仕分けてしまって一歩も前へ出られない読者が圧倒的に多い。そういう読者には、鴎外漱石 も、露伴も、藤村も、鏡花秋声も、直哉潤一郎も、康成由紀夫も、生涯無縁の作家である。
前者と後者の差異は、文章ひとつの精度に歴然と表れている。
そんな中でも漱石、龍之介、太宰はいくらかひろく今でも読まれていると思う。太宰治の小説をわたしは特には好まないが、一つはっきり感心しているのは、生涯に程度の悪い通俗読み物は書かなかったしむしろ書けなかったと思われる点である。
漱石も龍之介も太宰も、終生その文学的所業をとおして「こんな私でした」と懸命に真摯に言い続けていた作家に思われる。藤村も鏡花も直哉も潤一郎もそうだった。瀧井孝作先生もそうだった。
* わたしも永い読書人生で、通俗読み物にあえて手を出していたことがある。あえてとは特別の場合にという意味で、例えば汽車に乗るときはきまって源氏鶏 太のものを手に入れては退屈をしのいでいた。吉川英治のものも、そうだった。人気もあり著名でもあるが吉川英治の「宮本武蔵」でも「新平家物語」でも「親 鸞」でも、丁寧は丁寧なりにやはり「ことばで説明的に筋が追われ」ていた。文学の文藝を嬉しく楽しめたことはなかった。むしろわたしの「電子文藝館」や 「ペン電子文藝館」に選んで多く載せた今では忘れられている作家たちの埋もれた秀作や名作が懐かしい。江戸川乱歩のような読み物の代表作家にも初期には目 をみはる文学作品がいくつか遺っていた。
「文章」で文学は表現されている。「ことば」で読み物は説明されている。見分けるのは、簡単だ。終生の糧となる読書体験は後者からは得られない、それを 得たいならむしろいい飜訳者に恵まれた海外の読み物に向かえば良い。「モンテクリスト伯」「椿姫」「風とともに去りぬ」また「女王陛下のユリシーズ号」 「北壁の死闘」などなど。なまじ雑な日本語で説明されていないだけ、物語に豊かに、鋭くとけ込める。
日本語の表現ではつまらなく物足りなくても、外国語に飜訳されるとくさみや不十分が溶解されてかえって海外の人に筋だけで歓迎されるような日本文学も現に有るのではないか。
2015 12/20 169
* 「清経入水」の受賞原作を読んでいた。ほとんど誰もがこの作を知らない。受賞が決定した原作に、一夜かけて徹底的に推敲した作が「展望」八月号に「受 賞作」として出たのである。推敲は、編集部が、「しますか」「するなら、明日までに」と言われた。「します」と言った。「した」のである。
一世一代の「推敲」だった、それは改作というに等しい徹底した推敲だったのである。作は、断然良くなったとわたしも思い、選者の先生方も肯定してくだ さった。選考会議で選者満票で受賞した作は、私家版に入っていた原作だった。推敲前の原作だった。くらべて読まれれば、その歴然とした推敲前後作の違い に、読者は驚かれるだろう。「推敲」こそが「ちから」とわたしが言う根拠をわたしはあの「一夜」で得た。
2015 12/21 169
☆ とうとう
今年も最後の週になってしまいました。
みづうみが 篠田正浩監督の映画「沈黙」について書いていらしたので、『親指のマリア』と少し関係することを書かせてください。
ご存知かもしれませんが、この映画については遠藤周作さんが棄教した神父が女を犯すというラストシーンをやめてくれと頼んで断られた経緯があったと聞いています。遠藤周作さんはこの映画は篠田監督の「沈黙」であり、自分の小説『沈黙』とは別のものだと書いてもいます。
(映 画化で似たようなことは同じカトリック文学であるグレアム・グリーンの「情事の終わり」についても言えます。サラがベンドリックスへの深い愛のために、信 じてもいなかった神への誓いを守り抜いて死ぬはずの原作が、映画ではサラとベンドリックスが再会するんですから、真逆の結末なんです。なんじゃこりゃ、と 映画館でため息でした。もし原作通りに制作していたら名画となったでしょうに。)
私は友人からラストシーンを聞いたので、映画の「沈黙」を観ませんでした。原作の真意を甚だ損ねていると感じたのです。『沈黙』は、棄教した神父が敗残者 となる物語ではなく、弱い人間がどん底で神と出逢う物語だと私は読んでいます。踏み絵を踏んだことは神に絶望した結果であっても、それは神父の中で神が死 んだことにはならないでしょう。『沈黙』の最も重要な場面は、踏み絵を踏んだ後にあるのですから、最後に女との絡みを作ってしまうのでは、原作の許し難い 改竄に思えました。
還俗したシスターを何人か見てきた私は、教会を棄てることは神を棄てることと全然違うと思っています。信仰の在り方が、よりその人らしくなるに過ぎないの です。棄教した神父が妻帯したのが史実としても、それは映画「沈黙」のラストシーンのようなかたちではないだろうと思います。まあ、映画を観ていないので これ以上の感想は言えませんが、世界的にも高い評価を受けた原作を、この映画で判断されたら、遠藤周作さんが気の毒です。
基本的に、神父が女と関係を持つことに対してカトリック信者は猛烈な拒否感、嫌悪感があります。それはセックスを悪と考えているということではなく、聖職 者が神との誓いを破る背信行為と感じるためでしょう。このあたりの聖職者への畏敬の感覚はカトリックの風土の中で育ってこなかった篠田監督には理解しがた いものであったのではないかと想像します。
『親指のマリア』では、シドッチ神父がはると夫婦関係になります。わたくしはこれをシドッチ、長助、はる三人へのみづうみのやさしさからであろうなと思って読みました。基督教大学の並木先生のご指摘もなるほどと納得しつつ拝読いたしました。
> 性は、男女の間(あるいはパートナー間)においては、人間を人間らしくする交わりを深めます。心身の相互贈与を通しての人間性と人格の享受だと言ってよ いでしょう。『親指のマリア』では、ヨアンがはるを妻としたことに、わずかな救いを感じます。そのことで作者はヨアンを責めてはいません。また、ヨアンが そのことでの自己処罰として長助とはるに受洗したことを申告したとも記しません。はるの人間としての充足は、長助とはるの信仰の確認と、はるとヨアンとの 夫婦愛の実現によって貫徹しました。それを三者の苦難の意味の完成と見ておられるようです。絶対非拘束的な状況の中で起こった信仰と人間愛の勝利が記され ています。私はそのように受け止めました。
しかし、神への服従と性的人間としての充足を含む人間愛の二つを両立させるはプロテスタント的で、カトリック的ではないという批評もあるでしょう。神父さんの意見を聞きたいものです。
たしかに『親指のマリア』に描かれたような三人の関係は「カトリック的」な愛のかたちではないだろうと感じます。
シドッチ神父がはると関係をもつことは、カトリックに関わってきた人間にはやはり抵抗があるでしょう。聖職者を選んだのだから、はるとはプラトニックなままでいたら、シドッチ神父の生涯はより素晴らしかったのにと感じることは間違いないと思います。
また、これはわたくしの偏った意見と笑っていただければよいのですが、はるがヨワンとあえて性的にも夫婦になる必要があったかというと、性がなくても充分 幸せだったろうと思っています。女は性ではなく愛を求めていて、その愛に性は不可欠なものではないでしょう。女は性的関係がなければなくて幸せでいられま す。(と私は想うので)男の生理には理解できないことかもしれませんが。
シドッチ神父ととはるの夫婦関係は、カトリックの理想からみればなくてよかったのかもしれませんが、勿論、『親指のマリア』の文藝作品としての価値にはい ささかも影響するものではありません。『親指のマリア』は気高い魂の物語、「身内」の物語、みづうみの代表作の一つ、わたくしの何より愛する思想小説で す。
元々カトリックは男女間の陶酔的な性を尊重しない傾向のある宗教と私は感じてきました。浅い理解ですが、神の望む愛に生きるためには俗世的な人間の幸福な どあり得ない、必要もないという宗教ではないかと。「ヨブ記」のハッピーエンドは後世に書き換えられているものだそうで、原典ではヨブが神に見棄てられた まま野たれ死ぬことになっているそうです。この原典は現在の「ヨブ記」よりさらに素晴らしいカトリック的信仰の告白に思えます。
人間、とくに男性にとって成し難い禁欲を受け入れるほど、神の道具となって人生を捧げるのがカトリック教会の聖職者です。神父やシスターが純潔であること はカトリック教会の根幹の一つで、マザーテレサに恋人がいたなんて話があったら受け入れられないでしょう。これはカトリック教会の長い歴史の成し遂げた一 種の洗脳なのかもしれません。
人間のしぜんに反していることかもしれませんが(実際聖職者の性的スキャンダルは絶えることがない)、 視点を変えれば、カトリックがこれほど長い間世界に絶大な力を持ち続けているのは、神父が妻帯しないことで権力の世襲を免れたからではないでしょうか。世 襲がないことで、自浄作用が働き続けたともいえます。日本の仏教界をみても、政治家をみても、世襲は劣化と腐敗の温床ですから。
それにしても名作ほど映画にするのは困難ですね。たとえばみづうみの『慈子』を映画化したらと想像すると、わたくしには惨状しか思い浮かびません。『親指 のマリア』もうまくはいかないでしょう。名作の映画化で成功していたのはジェラール・ド・パルデューの『シラノ・ド・ベルジュラック』とケネス・ブラナー の『ハムレット』だと思いますが、これはもともとが完璧な戯曲を忠実に再現し、それを稀代の名優が主人公が憑依したように演じたことに尽きるからなので す。主人公が映画に登場する最初の瞬間から悲劇を身にまとっていることがわかるのですから、空恐ろしい名画でした。
たぶんこれが今年の仕納めのメールですが、相変わらずくだくだと書きまして失礼いたしました。来る新年に願うのはこれ以上悪くならないでほしいということだけですが……。
ほっこりと暖かく楽しくお過ごしくださいますように。
炭 学問のさびしさに堪へ炭をつぐ 山口誓子
* 今年を仕上げのすばらしいメールをもらった。ありがとう。
* カトリックとの縁は、わたしには全くない。反感も特別の親愛もなく、敬愛と批評とはすこし持ち合わせている。その中には、サディズムがつきつけた険しい 批判も、それらに併行して夥しく成されてきた性的悪徳の例も知らされてきた。そのうえで、わたしは「シドッチ神父」を敬愛した。
2015 12/28 169
* グノーの歌劇「フアウスト」三幕を聴きながら、村上華岳を語った講演録を読み返していた。歌劇の言葉は分からないが繰り返し原作は読んできたので察し は十分利いて聴いていて受け容れに困難はない。その一方で、華岳の画境がなぜ私を魅惑し牽引し続けたのか、その答えは今にして比較的簡明に現れて出るのに 頷いている。かれもた「母」を探ねていた。
2015 12/28 169
* このわたしのホームページ「私語の刻」をどれだけの人が見ていて下さるか、知らない。ひとつだけ、その訪問者のみなさんをガッカリさせない点がある。 1998年3月このかた、この日録を訪れて記事がないという拍子抜けをさせたこと、ほとんど全然無いということ。やがて十九年になるが、こんなに書き続け ているのは、忙しい人からいえば秦はヒマだからと言うだろうが、わたしは「騒壇余人」でこそあれ、全然ヒマ人ではない。無数のホームページやブログが開店 してすぐ休業になっているのは、要するに書く言葉が、書く事が、見つからない失語失業状態になるからに過ぎない。泓泓としてわき出す水源が無いからであ る。
2015 12/29 169
* ちょっと機械の中を散策するくらいな気軽さで、大分けして「過去完了」「現在進行中」とある後者をあけてみると、数十に細分されたフォルダがあり、そ れぞれにぎっしり書いた原稿や下書きやメモのファイルが入ってて、「備忘」とあるフォルダのなかだけでも二、三百ものファイルが詰め込んであるのに仰天 し、目まいがした。そればかりでない、それら数十のフォルダにまだ収納されないでいる雑多なままのファイルが延々と並んでいるのには、もはや惘れるしかな い。こころみに二、三開いてみると、ムダ書きはしていないのだから、よけい目まいがする。「すべて選択」「削除」とポンと一つ叩けばぜんぶ消え失せる。あ やうくそうしたい衝動にかられるが、それらはそれぞれに機を得れば「創作」へ幹や枝葉を延ばしうると分かっている。煩悩などと自閉的に尻込みしようとは思 わないのだから、どうもわたしは、大病で弱って以降、そっち向きにはむやみと若返っているのかも。
2015 12/30 169
* も一つ、選集第十三巻に予定して既に再校ゲラを読んでいるもアタマの作『迷走 課長たちの第春闘・三部作』をきっちり、今日大晦日に読み上げた。往年 の体験をつぶさにありのままに思い起こして、まことに複雑な感慨に心身が揺れた。いまでも企業には労使があり向き合って交渉を持っているだろうが、この作 が三部に繰り広げた激越な闘争は、もはや跡を絶っているのかも知れない、が、いつかまた繰り返すのか、もう根絶されてしまうか、今日と未来とへ呈するのと てつもない記録がここに成り立っている。おもしろいといえば、「現代」を証言してこんなおもしろい記録はそうそう無いだろうと思っている。まぎれもなく私 自身の身を置いて心身をすりへらした世界が、生々しいまで露わに冷酷に書きとめられている。作家・秦 恒平は『みごもりの湖』や『慈子』の世界にだけ住んではいられなかったのである。 2015 12/31 169
* それにしても、すこしく落ち着けた大歳であった。あれやこれや感慨をかきたてずに、静かに新年へ歩みを進めたい。怪我だけは、われわれ、こころして避けたいと願っている。
* 親愛なるみなさま、よいお年を。
来る春をすこし信じてあきらめて
ことなく「おめでたう」と我は言ふべし 湖
* ところが、この程度の気持ちにもなりにくい大晦日だといわねばすまない不愉快に溢れた今年であった。口惜しい。どんなに黙々と頑張ってみても、生ける 甲斐ありとどうしても思いにくい。自分自身の内なる暗闇に沈んで、まるくなってたて籠もるしかないほどの絶望感と不快感が、実は有る。絶望と深いのアタマ を撫で撫で生き延びる気になれない。
2015 12/31 169