ぜんぶ秦恒平文学の話

文学作法 2021年

 

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 血縁の愛

★ 売れ残りしそこばくの菜を包みをり
遣る吾も貰ふ妹もかなし     本林 茂子

☆ 昭和二四年という戦後の窮乏を読み込むべきか、いつの時代にもおし広げて読んでいいか。読者しだいでいいだろう。「遣る姉」と「貰ふ妹」との状況が前の「煙草ひと箱」の歌より、ずっと厳しい。
姉は稼ぎ、妹はまだ家にいる娘かも知れず、だが妹ももう人妻の身上なのかも知れぬ。どっちにしても暮しの負担が時代の重さ苦しさとなって二人の肩にかかっている。
「かなし」の結びが低声に小さいのがいたましく、姉妹の気持ちの裏には、おそらくは親や子への貧ゆえの傷心もひそんでいよう。 「国民文学」昭利二四年十二月号から採った。 大きな雑誌の巻頭歌群に、これほどの真率な歌がもっと出て欲しいもの。

★ 朝はやく
婚期を過ぎし妹の
恋文めける文を読めりけり    石川 啄木

☆ 聡い兄には、妹の状況も心理も「うったえ」もみな見えて いる。しかも突き放してしまわず、そうと知りそうと見えつつ手紙を「読」んでいる。「朝はやく」から読んでいる。なにも特別の物言いはなくて、けれども妹 を抱擁する大きさはちゃんと備えた歌。私はこういう歌を、啄木の実の妹や当時の伝記的実況とからませて是非読まねばならぬとは思わない。兄妹の普遍的な係 わりをより大事に捉えたい。 明治四三年『一握の砂』所収。

★ クリストを人なりといへば、
妹の眼がかなしくも
われをあはれむ。    石川 啄木

☆ 明治四五年没後の『悲しき玩具』に所収の、作者最晩年の歌。晩年といっても二十代で死んで行った樋口一葉と同じ、まだまだ若い惜しい天才詩人だったが。
この歌を読むと反射的に思いだすのが、第一歌集『一握の砂』の昔に、なお若き日々の友を思い出して作っていた、この歌。

神有りと言い張る友を
説きふせし
かの路ばたの栗の樹の下

☆ 「神など無い」と「説きふせ」たのだろう。その作者はやがての死を身に潜ませながら、「クリストは(神でない)人」だとなお言い放つ。だが黙ってそ んな兄を見守るだけの妹の視線に、作者はいくらか動揺もしている。「かなしくも」「あはれむ」という直接の感情語がむしろ自分自身を批評している。そこに この歌の重い意義もある。「手」を人の身に置いて悩みや痛いを癒しえたのはキリストだった。そういう「手」の力が信じたくて、「ぢつと手を見」て、かつそ の手にもどの手にも救われる事のなかった作者啄木。
『一握の砂』の頃なら兄が妹を「かなしく」「あはれ」んだろう。『悲しき玩具』の頃には、妹の愛憐にこの兄は無意識に心濡らしている。そんな気がする。
2021 1/1 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 血縁の愛

★ 兄の持つ手帳の中に
嫁がざるわれの写真のはさみてありぬ   入江 真知子 *

☆ 「兄の持ちし」と過去形ではなく、健在なままにある日思いがけず思いがけぬ写真を見つけてしまったものと思われる。「お前の好きにしていいよ」と慰めつつも日ごろ心にかけ、人にも嫁ぎさきを頼んでいてくれたか。そう、さらりと読みたい。
歌としては工夫も巧みもない尋常過ぎるほどの一首だが、愛は深い。 「アララギ」昭和四三年四月号から採った。
2021 1/2 230

* 俳句なら。短歌はつくるに難しいと云う人が多いが、逆だろう。
俳句の俳味というのは、容易に会得できない難所と、私はむかしから畏怖し辟易してきた。
短歌、和歌は息を吐くように出来る。
古池や蛙とびこむ水の音  という芭蕉句の俳味をほんとうに味わい聞かせてくれる人は少ない。
久方の光のどけき春の日にしづこころなく花のちるらむ  という紀友則の和歌は、とやかく詮議までもなくことばの流れの美しさ優しさを汲めばほぼ済む。
寝ながらの夢心地でも短歌はその気になれば寝言なみに向こうから寄ってくる。縁語や掛詞もいつしれず遣っている。俳句はじつにむづかしい。

末廣となづけし茶器に袱紗敷く

かたづけぬままが気楽な大晦日

お静かに二日の朝を迎へける

流されつ游ぎつきし(來し・岸)の往きかひやコロナを詛(とご)ふ聲ばかりして

あんたと呼ばれカーサンと呼んで老の坂まだ先がある山みづの音
2021 1/2 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 血縁の愛

★ 叔父の遺児引取りて店に働かす
吾もこの年齢(とし)に父を憎みき    針ケ谷 重義

☆ この愛は苦しい。事情を察するのはたやすいが、わが「店」で働かせている甥は容易に叔父の思いに気がつけないだろう、この叔父にして「今」それに気がついたばかりなのだから。「父を憎」んだというのは、おそらく「父」の死とそれに由る孤独とを憎んだのだ。
かつての自分と同じ苦痛を押し殺して働いている甥に、今よりラクをさせてやる余裕もすべもない叔父のつらさが、よく出た。 「短歌研究」昭和三〇年八月号から採った。

★ 心許す人無きままに守銭奴と
言はれつつ叔母は長く生きたり    東村 鈴子

☆ 小説にしてもいい。しかしまた、小説に長く書く必要なしに、これで言い尽くせていてよく首肯けもする。「長く生き」の文字に私は、ため息のような濃い愛を感じた。伯父ではない「叔母」であることにも首肯けた。
「女」が一人ながく生き抜く厳しさを、私も、同じようにわが「叔母」の上に見てきた。見ているしかないのも、つらいものとも知っている。 「アララギ」昭和五〇年七月号から採った。
2021 1/3 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 血縁の愛

★ 安煙草のたびたび消ゆるに火をつけて
血縁を思ふはまことかなしも    上島 史朗

☆ 「火をつけて」で、理の当然として「読み」も「一服」しなければいけないだろう。さてこそ一息おいて「血縁を思ふは」という再度の字余りがつくづく効果を挙げてくる。ほーうッという息の濃さ深さになる。「たびたび消ゆるに」の字余りも面白い。
「血縁」の絆は太いようで、たしかに「たびたび消ゆる」「安煙草」の火にも似て、心細くもある。「火をつけ」「火をつけ」しないでは、つい湿って消えたままになりかねぬ。痛く思い当たる。
事実は、一服の間の「またしても」の感概なのではあろうが、実情を内へ超えた確かな「表現」になっている。 昭和三九年『鈍雲』所収。 上島先生は、高 校時代に愛して下さった恩師、国語と短歌を導いて戴き、休日に、奈良県の「クニ」の都へふらーっと連れて行って下さった。あの小旅行がなくて、『みごもり の湖』や『秘色』が書けたろうか。

★ モザイクのやうにアパートの灯はともり
ふとなまなまし家庭といふもの    和泉 鮎子

☆ 社宅ずまいの頃に、似た感じをもった。が、社宅である事 がかえって感じかたを狭くしていたとも思う。もっと直接にかつ詩的にも「ふとなまなまし」と思ったのは、ソ連へ旅してモスクワのホテルの窓から、大通り越 しに見た高層アパート群の「家庭」の「灯」だった。カーテンのかかった窓がびっくりするほど数すくなかったので、どこかしことなくマル見えだった。
この歌、そう深刻に取らなくていいと思う。「ふとなまなまし」で押さえて受け取った方が、淡い詩情に添えてかえって読後に衝撃がある。「家庭といふもの」への認識など、常は忘れて生きていたのが、「ふと」蘇る。 昭和五九年『花を掬ふ』所収。
2021 1/4 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 血縁の愛

★ つゆしぐれ信濃は秋の姥捨の
われを置きさり過ぎしものたち    斉藤 史

夜となりて山なみくろく聳ゆなり
家族の睡りやままゆの睡り    前 登志夫

☆ 昭和五一年の『ひたくれなゐ』と昭和五二年の『縄文紀』から採って、この項を結ぼう。
斎藤史(ふみ)は「死なれた」ものとして死に行くおのれの運命をあわてず騒がず、「過ぎしものたち」をなお労り愛しつつ見据えている。その比類ない「存在」のたしかさで、この詩人は近代詩歌の歴史に冠たるものがある。
前登志夫の世界は、生者と死者と、生まれ出づるものとのあたたかく育みあう世界。前が命をかけて愛し領じている「山」とは、そういう世界。この作者の「詩」には信仰が生き、信仰の芯に光るものとは、「間」を刻まぬ無垢の「時」であろうか。

* コロナ医療は逼迫し感染者数も重傷者数も画然として数を増している。油断大敵という耳慣れた四字熟語が重く鈍く光る。
小池都知事の経済再生愚相を動かした気働き、この人の聡い行儀と言語力とを推したい、「ガースー」と即刻交替させたいとさえ思う。

* 瘋調・二階節
金庫番だけが自慢の「二階」の旦那
愚の字愚の字の閑事(カンジ)の鼾
うすらバカづら吠えづら晒し
鼻息あらくもアダ夢の間も
かかえた梯子が二階の命
だれか外せとヘボ番頭ら
くやしまぎれで自棄にも酒が
只で呑みたい二階の旦那
仰せは何でもハイ御もっとも
自由も民主も気ままのお肴
世間のヤツらはただ出汁昆布
二階座敷で梯子の只酒
それや旦那のお振舞ひ
寝ちゃ食ひ食ちゃ寝て会食つづき
これこそ政治よ心得おれと
二階の旦那はテンから金持ち
ハハァ ヘヘェ と 梯子の神へ
柏わ手うつうつ 打たぬは居らぬ
大番頭もガー・スーと 鼾真似てのお諂ひ

令和は三年 誰もが惨念 成らぬ忘年 怖(お)ぞや今年             2021 1/5 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 否(いな)と言へど強ふる志斐(しひ)のが強ひ語り
このころ聞かずて朕(われ)恋ひにけり    天 皇
否と言へど語れ語れと宣(の)らせこそ
志斐いは奏(まを)せ強ひ語りと言ふ    志斐媼(しいのおうな)

☆ 『萬葉集』の巻三によく知られた応酬歌である。
志斐の「しひ」を「強ひる」にかけた言いがかりと言いかさねの諧謔がよく利いて、不思議におおらかなものを醸し出す。天皇と、おそらくは宮中に席を与え られていた語部(かたりべ)の老女との、遠慮のないやりとりと聞こえて、しかも物言いに「位取り」の差はきちんと出、親しき仲にも禮は守られている。だか らこそ逆にほのかに、上古の風(ふう)に生きていた「友情」といったものが、快く感じ取れる。
「志斐の」「志斐い」と言い余した所も対照の妙になり、「うた」がこの社会に占めていた人間関係における機能美のようなものをも、まこと姿よく伝えている。言葉の音楽が楽しめる。かくてはこの「天皇」が何天皇であったかの詮議など、由ない話に終わる。 2021 1/6 230

* この私の機械部屋つまり仕事部屋ないし私室は、東京間の六畳。「方丈」と行かない。機械をあけて、それでも「方丈」と美しい二字があらわれると全身に 筋金がとおる。この「方丈」を心底愛している。此処でこそ死にたいと願っている。すばらしく賑わい陽気にあふれている。何十年かけて温かに賑やかに居心地 よく創ってきた私の部屋だ。

* 体調は容易に調わない。師走の十日頃、二十一日の誕生日まで生きてられまいかと謂うほどヘタッていた。
いまは、すぐ斜め目の前で、すっかり気に入りのジャズが歌い続けている。
2021 1/6 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 思ふどちまどゐせる夜は唐錦(からにしき)
たたまく惜しきものにぞありける   読人しらず

☆ 「思ふどち」を「思いあう同士」つまり友達と取ってい い。「まどゐ」は「まどか」に「居る」つまり夜を籠めて車座の団らんを楽しむのである。そんな時は美しい「唐錦を裁つ」のが惜しまれるのと同じこと、「席 を立っ」て帰って行くのが残り惜しくて堪らない…と歌っている。『古今集』巻十七の歌でも、古朴な味のあるオリジナルな作。作者の名も知れぬことで、いっ そう歌にひろがりが出る。
2021 1/7 230

 

☆ 友の愛

★ めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に
雲隠れにし夜半の月影       紫式部

☆ 『紫式部集』に見え『新古今集』巻十六に採られている。 「月影」を「月かな」と変えた形で『百人一首』に入っていることは、ひろく知られている。恋の歌に読めるほどだが、まだ作者が少女の頃、ちょっとした出先 で心親しい女友達の姿をちらと見かけ、あとでと心を残して行き別れたまま逢えずじまいに済んだおりの歌らしい。
友達の姿をちらと見て雲に隠れた月影にたとえている。さすがに屈指の秀歌で、恋の歌にも挽歌にも深読みが利くし、歌柄も大きい。
友情を歌った「歌」もなにも、日本の国には、雪月花を三つの風雅の友に見立てたりする美意識が有りながら、人間同士の「友」としての信頼や愛情を主題に した「表現」が実に少ない。その手の作品を捜すのにいつも苦労する。「親の闇ただ友達が友達が」と、「友達」が悪者あつかいされてしまうお国柄だ。
よくも悪しくも「血縁」に重く、「他人」のなかから真実の「身内」つまりは真実の「友」を見出すのがへたな民族であるらしい。いわゆるフレンドシップは、日本では今も育ち切っていない。
2021 1/8 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 寂しさに堪へたる人のまたもあれな
庵ならべむ冬の山里      西 行

☆ 「またも」は、自分以外にもの意味と取りたい。友情の歌というより、真実の「友」を求めている歌である。「寂しさに堪へた」人とは、譬えていえば「血縁」の重さに引きずられず個我の孤独自立に堪えうる人の意味か。
あかの「他人」と「他人」とが出逢って、しかも真実の「身内」感を頒ちもてるような、乾いた、確立された人間関係をと私は願う。西行の思いがそこまでの ものかどうかは問うまいが、「友」を求める気持ち、フレンドシップの基盤が世の中に無ければ無いほど、渇望に近いものだったろうと推量できる。寄合の藝能 が、茶の湯や連歌など、大歓迎されたのもそういう中世的現象ではなかったか。
この歌は『新古今集』の冬の部に採られている。
2021 1/9 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 一家(ひとつや)に遊女もねたり萩と月    松尾 芭蕉

☆ 『奥の細道』に見えている。これも「友」にまがう淡い感情、風流心が見出した「友情」の句というべきだろう。「遊女と我」「萩と月」が対になっていよう。
「萩」には『風土記』このかた一夜豊産の伝説や女の白い「はぎ」など、不思議になまめかしい印象がまつわる。「袖萩祭文」といった「遊び女」の境涯にからんだ藝能も多い。
「月」にはまた、「花龍に月をいれて 漏らさじこれを 曇らさじと もつが大事な」といった『閑吟集』の小歌に見られるような「男」そのものの印象がある。
辺陬(へんすう)の茅屋(ぼうおく)に旅と漂泊の男女が一夜を明かした。実事があったというのではない。いやこの句じたいが実の句かどうかも問わない。
まさに風雅の心が誘い合った「友」として彼らは在る。美しい佳い句で、忘れがたい。

* 毎朝のために此の稿をここへ、こう置く。云い知れぬこころよさ、自分の書いた文章という安堵感もてつだい、一服の薬湯を口にする心地。いい仕事をしておいたと、昔がなつかしくなる。
2021 1/10 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ おもしろき秌(あき)の朝寝や亭主ぶり    松尾 芭蕉

☆ 旅の芭蕉が、俳諧好きな男の家をかりの宿にしていた時の、俳諧の道にはつねの、宿主へ「挨拶の句」でもある。
亭主の早起きは、遠慮のある客には気がしんどい、という事もある。秋の夜長の「朝寝」ぐせには、それなりに粋に、夜前からの風流の筋も寮しられる。
「おもしろき」には、そんな「亭主ぶり」をほめてからかう気の軽さがあり、それが俳味になっている。友情にもなっている。
2021 1/11 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 白菊の目に立(たて)て見る塵もなし    松尾 芭蕉

☆ 女の家を訪れた日の、やはり挨拶の句であるが、褒美と賛嘆の情合いは前句よりも深く濃く、どこか恋慕の思いすら漂う。友人の妻の死に遭い、ひそかに吟じたという、

★ あるほどの菊抛げ入れよ棺の中    夏目 漱石

☆ と、どこか通い合う。
芭蕉、漱石 ともに屈指の佳句。
2021 1/12 230

* 維摩詰の「方丈」は無一物と聴いている。私の「方丈」 この六畳間書斎 は、壁へ作りつけの書架や小机だけでなく、呆れるほど雑多な小も ので賑やかに暖かにあふれかえっている。気持ちの静かさや安心をそれらに取り包まれることで得ている按配。どれへ目をむけても、望みさえすればそれらから 「言葉の世界」が近寄ってくる。寂しくないのだ。

* 「私語の刻」が永すぎたなあと思う、私語と謂うより「樂書き」なんです。政権を譏っているより衛生的。やがて正午。朝、口にしたのは、和菓子一切れと熱い煎茶。腹は、空かない。
2021 1/12 230

* 高校校舎の長い廊下の一等西の端へ出ると、京の街が一望できた。きっちりわたしの目の高さで、ま西に、東寺五重塔の高くトンがった尖がくっきり見え た。西山までまおもにくっきり見えた。小雪のとびそうな真冬の寒気に痛いほど顔を晒したまま、よく独りで、じーっと遙かな塔の尖を眺めていたのが、昨日今 日のように思い出せる。市立日吉ヶ丘高校が好きだった。「ああひんがしの丘たかく、松の翠りのわが姿」と歌う校歌も好きだった。学校からすぐ東の山辺に、 泉涌寺があり、「慈子(あつこ)」の「来迎院(らいごういん)」があった。日吉ヶ丘から下みちをやや南へ寄ると、通天橋(つうてんけう)や普門院のある東 福寺だった。岡井隆さんが『昭和百人一首』に採ってくれた短歌はそんな或る真冬日にそこで詠んだ。授業中に教室を独り抜け出しては、来迎院へ、通天橋へと よく通った。

* 旧臘冬至に満85歳になったが、昔の「数え歳」でいうと、さきの元日にはもう86歳であった。昔から、おまえは「十日一年」、誕生の師走二十一日から十日間して元旦にはもう二歳(ふたつ)になってたんやと、年寄りは、よく云うた。
数え年なら五歳になっていたか四歳か、秦の家へ連れられ、貰われたのか預けられたのか、初めての「お正月」の箸紙にわたしの名は恒平でなく、「宏一」 (ひろかづ)と書かれていた。お茶お花の先生をしていた叔母が、「こういちとも読めるえなあ。隣りの孝一ちゃんと、おんなしやなあ」と笑ってくれたのを声 音までよく覚えている。三畳の中の間に、黙ッと怖そうな祖父と、まだ馴染まない中年の父と母と、そして未婚の叔母とちっちゃなわたし、五人で、まるい黒い 塗りのお膳を囲んだ。食べ物の何も記憶にない、祖父と父とのあいだに、大きな瀬戸物の火鉢で炭が赤く燃えていた。温かだった、が、わたしはどんな顔つきを していたのだろう。

* ああ。もう、八時になって。なんと…。八五老の目が濡れている。
2021 1/12 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 水桶にうなづきあふや瓜茄子(うりなすび)   与謝 蕪村

☆ 無心のものに心ばえを見立てた句と読んでも十分面白い、が、「青飯法師にはじめて逢けるに。旧識のごとくにかたり合て」という説明もあり、友情の喜びを表現したものと読んで差支えないようだ。
「うなづきあふや」が暖かい観察で、よく胸に落ちる。ともに水に沈まず「うなづき」浮かんでいるさまも、正確に併せ捉えられている。俳諧は「眼」だなと思わせられる。 2021 1/13 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 猿どのヽ夜寒訪(とひ)ゆく兎かな    与謝 蕪村

☆ このままでも佳い「友」の句である。むろん「猿どの」と1兎」を粋な仲の男女に見立てて微笑する自由も我々は手にしている。
鳥獣戯画の世界が目に見えて重なるのが、おそらくは蕪村の意図に有っただろう。しかも「夜寒訪ゆく」のが心暖かでひときわ佳い。

★ 鮎くれてよらで過行(すぎゆく)夜半(よは)の門    与謝 蕪村

☆ 香ばしい季節の鮎の、今とれとれを惜しげなく門の外で頻けてくれたまま、ちょっと寄って温まっておいでよと勧めるのもきかず、さらりと帰って行った知友。その後姿にお人柄と淡交のよろしさとが「しやっとした」感じに出ている。
まこと 「しやつとしたこそ 人は好けれ」(閑吟集)である。余韻深く、「聴こえ」も佳い。

* ノーベル生理学賞をうけた四人が、コロナにかんして大きな提言をしていたのを聴き、どうか政府・厚労省も謙遜に聴く耳を持って欲しいと願った。途方も なく、政府は間違えてきた。その源流は厚労省の無能と総理大臣の傲慢な不見識にあった。それを優れた世界的にも指導者的な科学者たちが口を揃えていた。

* こういう思いの朝に私は、こういう、まさしき上古奈良時代にさかのぼる「神楽歌」の歌声、囃声に耳をかたむけ、森厳とした眺望を想いうかべる。なんという静かさ 美しさ かそけさ。

☆  庭燎(にはび)

深山(みやま)には霰降るらし
外山(とやま)なる正木の葛(かづら)
色著(づ)きにけり

あちめ
おおおお

おけ
あちめ
おおおお

* 秋石の「蓬莱山」長軸 そして土牛の、薫の、牛たち。 叡智と沈着の「丑」歳が、より穏やかな日々を重ねますよう願わずにおれない。私の思いでは明日 十五日に小豆粥の雑煮を祝って今年のお正月は終える。少なくももう数ヶ月はコロナに備え堪えてすごさねばならないだろう。
2021 1/14 230

* いま、私に読書と睡眠と「マ・ア」のほかに娯楽は、何。テレビは今や不快を強いるし、機械でゲームなど一切しない。人と電話で話して楽しむのも、ケイタイまで買って貰ったのに、しない、出来ない。いまだに機械の使い方がのみこめない。メールも昔と違い、めったに貰わない、また書いてもいない。
と、なると、際限のない此の場での此の「私語の刻」を楽しんでいるらしい。殊に、往時渺茫の「あれこれ」を懐かしみ、おかしがり、くやしがり、ふしぎがり、そして、小説に「書きたい」契機(ヒント)をひょいひょいと掴み取ること。
「秦さんは、小説を書くしかない生まれなんだなあ」と、林富士馬さんや笠原伸夫さんに云われたことがある、「でも、幸せなことですよ」とも。
「私語の刻」での「私語」は、即、文章を創るたのしみでもあるから、これで、句読点や助詞のおきかた使い方まで「文体」を推敲する気も持っている。
とはいえ、物忘れも頻繁になってきた。いまも「文体」という言葉がなかなか出てこなかった。「お待ちします」という気分で待つうちに、ふっと「文体」と現れ出てくれる。出て呉れないことも増えてきた。天皇さん126代が、いつまで停頓なく口にのぼせられるかしら。
ひどいのは、和洋の映画俳優の名前、じつによく覚えてたのに、昨日テレビで観た映画でも、イングリット・バーグマンはさすがに忘れてなかったが、顎のと んかったグレゴリー・ペックは容易に思い出せず、「子鹿物語」のとか「ローマの休日」のあれだあれだと、やっとこさ思い出した。
日本の現代男女俳優など、薙ぎ倒されたように大勢の名前を忘れて、原節子と三船敏郎と柳智衆、そして沢口靖子とは別格。それでも好きな女優は、まだ何人 も忘れていない、順不同に、田中絹代、久我美子、杉村春子、三宅邦子、岩下志麻、高峰秀子、美空ひばり、京マチ子、若尾文子、山本富士子、淡島千景、岡田 麻里子、十朱幸代、八千草薫、淡島千景、まだ若いが演技のいい松たか子、田中裕子等々。忘れてはいけない大物女優二人の、顔は目に見えるのに、代表作も覚 えているのに、名前だけが出ない。
こういうアソビも物忘れを励ますクスリかと、眠れない夜中などについつい暗闇で服用している。

* 夕食後も、痛みのある下痢で意気あがらない、要はしつこい眠けに類して、ヘンに胸焼けもしている。愉快ではない、が、こうした「私語」のただ羅列を見 直していると、「贅沢」というではないが、「悠長」に「趣味という味」を棄てずに暮らせているなと思う。えやないか、それで。
2021 1/14 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 友達ハ将棋のことで二日来ず    『誹風柳多留』

☆ まずは日本の「友達」である。
「二日」が面白い。そのバカバカしいくらいな日数も、将棋「友達」には腹立たしいまで間遠なのだ。しかも来ないのは、「将棋」の上で喧嘩したのだ。
「狸とは知りつつもまた碁を囲み」という、高井几董の川柳よりは 品が佳い。

★ 月読(つくよみ)の光りを待ちて帰りませ
山路は栗のいがの多きに     良 寛

☆ 萬葉調というより『萬葉集』の歌そのものに思われるほどだが、それは作者の精神の位相と素朴な歌の状況がそう思わせるので、一首は、五七ならぬ七五調、萬葉調とは言いにくい。
月の出を待って明るいなかをお帰りという心づかいには、ただに「栗のいが」を踏む危険だけでない、やはり伝統的な風流心、つまり心の余裕を貴しとする気持ちが生きていよう。友情の質をも、そういう大きな余裕のなかで磨き合う気があったのだ。
2021 1/15 230

* 昨日手にした『四書講義』巻頭は、孔子の遺書の一、「大學」。今日も若者の求めて進学する「大学」根底の原義は、第一行、明瞭端的に、斯く、完璧に尽くされてある。

大學之道ハ、 明徳ヲ 明ラカニスルニ在り。民ヲ 親シムニ在リ。至善ニ 止ルニ在リ。

* まず自身に問い、確かむべし。次いで 内閣総理大臣以下の政治家に確かめたい。「親民」とは何か、寝た目も忘れて考えてみよと云いたい。
「明徳 親民 至善」 感嘆とは謂わない、が、心得て、なんと明確か。まさに、これぞ「大學」。ことに政治家には「親民」の意義を胸に涵養願いたい。

大事なことは、かくも簡潔に言い切って漏らさない。まさしく「大學」を象徴している。古典の中の古典、最たるその真価の端的に過たないこと、嘆賞。
「四書五経」とどれほど聞きも読みもしてきたか、しかし本文に触れていなかった。『大學』本文等接した初めが八五老とは、ただ賢しらにのみ生きてきたのだと恥じ入る。 2021 1/15 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 鶯や朝寐を起す人もなし    正岡 子規

☆ 明治二六年、「妻におくれたる秋虎がもとへ」遣った句。説明の必要など何もないようだが、さて…巷間の陰語にしたがい、「鶯」に、遺された「男性自身」の意味を取るかどうか。
なににせよ、いささか男ッぽい友情の表現ではある。尾崎紅葉作『多情多恨』の、妻を喪って泣きの涙の鷲見柳之助だったら、こんな挨拶をされたら、悲しみのあまり卒倒しかねまい。

★ 君が庭に植ゑば何花合歓(ねむ)の花
夕になれば寐る合歓(ねむ)の花    正岡 子規

☆ 「把栗(はりつ)」という若い友人の「新婚」に寄せた三首の、中の一つ。この前後に、

★ 米なくば共にかつゑん魚あらば
片身分けんと此妹(このいも)此背(このせ)
をりふしのいさかひ事はありもせめ
犬がくはずば猫にやれこそ

という子規の佳い歌が並んだ。
子規のえらさは「歌」にせよ「句」にせよ、生かして使いこなす、文字どおりの生活感にある。ものともせず意を尽くしてしまう。「写生」意識のなかに、紛れない「写意」感覚もある。「趣向」や「趣味」もある。
面白くする工夫をいやしいなどとは夢にも考えていない。この大らかさが今日もっと回復されていい。
2021 1/16 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ たとふれば独楽のはじける如くなり    高浜 虚子

☆ 「(河東)碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」と。
子規子の高足「虚・碧」二門のたがいに譲らぬ琢磨に就いてはよく知られて来た。師と同じ二人とも同年輩の四国伊予の産であった。
もっともこの句、そういう文学史的な経緯抜き詞書抜きで読んでも、まちがいなく独特でしかも優れた「友」の句だとわかる。それのみか、キリッと毅い調子が即ち「詩」になっている。
虚子名句の一たるを失わない。
2021 1/17 230

* 「戦争してはいけない。」当たり前である。
が、ここで「もう言い終えた」と立ち止まってしまう危なさにも気づきたい。戦争を「しない」だけでない、「仕掛けられても」絶対にいけない。それを忘れて「昼寝」していて良い訳がない。
戦争は、「負けて」「蹂躙されて」はなにもかも「お仕舞い」なこと、「負けて勝った例」の世界史に稀なこと。立ち直るのに想像を絶した悲劇を体感しなくてはならない。
ドイツはメルケルに至るまでに母国をながく分断支配されていた。日本は占領軍の3S(スポーツ・ショウ・セックス)政策に浮かれながら、アメリカの傀儡 政治に近来ますます幼弱化し、借り物の民主主義をほぼボロボロの襤褸着に着込んで、気づいてもいない。若い十・二十歳世代の頽廃にちかい「その日暮らし」 に、それは露骨ではないか。
日本は、日本の国土と国民とは、いつも、少なくも千年來、近隣国の「食欲」をそそってきたのを、日本人と日本の政治外交は「鎖国ボケ」で忘れている。明 治以降、いわば先手に日本から「仕掛けた戦争」が手に入れてきた「不埒な所得」はとうに底をついていて、その「奪回」むをこそ近隣に迫られているのをまる で見ぬフリに、敗戦後の国内「統治」に偏った日本の保守政治は、まるで阿呆のように「保守すべき真義」を忘れている。あの北朝鮮の「日本人攫い」も、中国 の日本「領海」へ強引な接触も、韓国の強引な国際法違反の諸「要求」も、ロシアの「北方占拠や侵入」も、それに他ならない、分かり切ったこと、しっかり備 えて至当な日本の政治と国民との課題ではないか。
2021 1/17 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 古手紙よ!
あの男とも、五年前は、
かほど親しく交はりしかな。

名は何と言ひけむ。
姓は鈴木なりき。
今はどうして何処にゐるらむ。    石川 啄木

☆ 没後の第二歌集、明治四五年の『悲しき玩具』から採った。この二首はこう続いている。一首ずつでも読めるが、こう続けて読むと哀調に惹き込まれる。独特の啄木調で、余人のとうてい追従できない韻律美がある。しかもこの人生のなつかしさ、寂しさ。
「友」を思いつつ作者はこの歌でも、自身の「今」を嘆き、なぐさめている。

★ 友として遊ぶものなき
性悪(しやうわる)の巡査の子等も
あはれなりけり     石川 啄木

☆ 「性悪(しやうわる)の」を「巡査」にも「巡査の子等」 にもかぶせる事で、「あはれ」を分厚いものにしている。権力の手先に対する、幼な心なりの、また現在の作者なりの嫌悪感を隠すことなく、しかも「手先」で ある「あはれ」もしかと見ている。彼らをも愛をもつて「友」と迎え入れねば、所詮権力の足もとは崩せまい、とも。 明治四三年『一握の砂』所収。
2021 1/18 230

☆ お元気ですか、みづうみ。
ご体調不良のご様子、あまり我慢なさらず適切な治療を受けていただきたいと願っています。

『オイノ・セクスアリス』読解の一つの大きなヒントを与えていただきました。「暗闇の下鳥羽の森や湿地や、大河」の象徴する別世界への憧れと は、この作品の中で一番手に負えないと感じた部分でした。選集の巻頭のカラー写真でみたその場所はおそろしい「魔」を感じるには健康的に見えましたし。京 都の土地も歴史も知らなさすぎるので、この作品の「聖地」という根幹に届かないと思っていました。
もし可能なら、東作西成 春作秋成 含めてこの作品にこめた作者の意図についてどんどん書いていただきたいなあと願っています。『オイノ・セクスアリス』は本当に理解の難しい作品の一つです。

暖かくなったり冷えたり、気の晴れるニュースは何もない日々ですが、もう少し辛抱すると花の季節です。
お花見、できますように。  鞠   手鞠唄かなしきことをうつくしく   虚子

* 京都には、魔処 というに当たる場所や地域が、街の真ん中にも、いろいろとある。
ことに桂川・鴨川の合流点へ、うねうねと長々延びた森や畠はもう郊外というべきだが、京都という魔ものの南の尻尾をなし、上古は、ひたひたにむきだしの 葬地だった、都とはいえそういう場所は、大小の川縁りはむろん、街なかにもそのような一画があちこちにあった。山紫水明を誇る東山・北山・西山のほとんど が帝都の奥津城であった。だからこそ大文字の山焼きで鎮魂する。京都とは生者と死者との木暗い同居世界、いまでは死者のほうがはるかに大勢「生きて」在る 都市なのです。そういう「京都」、まだまだあまり的確には書かれ得ていない気がする。川端康成の「古都」はそこへ達していない、谷崎先生の『少将滋幹の 母』や『鍵』や『夢の浮橋』の凄みが美しい。
『祇園の子』『冬祭り』『風の奏で』『初恋 雲居寺跡』『花方』などあるけれど、私は、まだまだ。これから。
2021 1/18 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 我ゆきて手をとれば
泣きてしづまりき
酔ひて荒(あば)れしそのかみの友    石川 啄木

☆ 「その昔」の「友」を通し、作者は、若く力在りし日の若さと力とを、「我ゆきて手をとれば」の句にすべて託している。この歌を歌いながら作者が、かの「クリスト」の力=奇跡を想わなかったとは考えられぬ。
啄木の「手」は、彼の人類愛を説くに際し、不滅の鍵言葉かと信じたい。 『一握の砂』所収。

★ いささかの銭借りてゆきし
わが友の
後姿の肩の雪かな    石川 啄木

☆ あの貧しくして窮死した啄木から「いささかの」小銭を借りなくては生きえない暮しの「友」がいた! 折しも、雪。
「雪」を風流の視線でしか歌わない時代が長かった。この第三句は、なまなかでは出てこない「あはれ」な表現になっている。夕闇が重くのしかかっている…と、読みたい。 『一握の砂』所収。
こういう啄木短歌の魅力が、ただ鑑賞ではなく、彼の生涯の意義とともに、もっと広く広く愛され追体験されたい。
2021 1/19 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 外套の肩あげてゆけり寂しきか    加藤 楸邨

☆ 借金をして行ったというのではなかろうが、この句にも、「友達」の微妙な関わりを超えて発露された「愛」が思われ、印象深い。思い入れが深い。 昭和十五年『颱風眼』所収。

★ 深雪(みゆき)の夜 友をゆさぶりたくて訪(と)ふ    中村 草田男

☆ 「ゆさぶりたくて」が「友情」の若々しい美質を、いくら か神経質にもまた豪放にも想像させて、ウン とうなづかせる。友と友との心持ちがこの一句にピタリと重なり、酒でよし議論沸騰でよし、また女の肌に憧れ 寄って行くもよし、何でもよし互いに「ゆさぶり」合って、「深雪の夜」の抒情に耐えた男の毅い孤独を頒とうというのである。草田男俳句の心情美が溢れる。  これは私の記憶から採った。
2021 1/20 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 遠く来し友にもてなすすべをなみ
残りの燠(おき)に香(かう)をくゆらす    吉野 秀雄

☆ 昭和二二年『早梅集』に収めた歌だ。はげしかった大戦争の余塵こそあれ、物の不足していた時代。それでも「香」のように腹の足しにならないものは残っていたのだろう、それも一首をほろ苦くしているのであり、風流一幕には読んではならぬ。
だがこの歌人ならではの、凛と丈高い、「鉢木」の前段めく佳い歌になった。あの謡曲後段の、あの「俗」がこの歌にはないのが、佳い。
2021 1/21 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 熟燗の一本でよき間柄    篠塚 しげる

☆ ちと川柳じみて調子は説明的に低いが、こういうのも確かに、ある。
もっともこれも取りよう、『閑吟集』に見える「世のなかは ちろりに過ぐる ちろりちろり」の伝で、「熟燗」が「一本」つく間にも果ててしまうあっさり タイプの男女の仲を戯れた句かも知れぬ。 ま、そうではあるまい。ここは仲いい男同士と取っておく。昭和三三年『曼陀羅』所収。

★ 友の乗りし電車は見えずなりにけり
冬の夜寒を走りて帰る    若林 泰雄

☆ これだけの歌ではあるが、情景はよく伝わる。寒いけれど見送らずにおれなかった。楽しかったか辛かったか、何にせよそれほどの時をそれほどの「友」と過ごしていたのだ。
下句が率直で、情に溢れる。 『昭和萬葉集』巻九の月報から採った。
2021 1/22 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ いたはりの言葉かけむと近寄りて
何ゆゑ口を噤みたりしか    来嶋 靖生

☆ 「昼休み」の寸時の心象。この「何ゆゑ」を腑分けするの は微妙に難しい。だから「うた」になった。「うったえ」る以外に「何ゆゑ」の厳しさも悲しみも思いの底から解き放ってやれないのだ。「うた」とは、ぎりぎ りにこういう所からうめき出る心の声なのだろう。現代の、けわしい勤務と人との葛藤のなかで、具体的な状況を超えて、思わず「ロを噤む」しかなかったよう な根源の裂けめが、おのが胸底に見据えられていて、厳しい。
島田修二とまた一味異なる、この作者のすぐれた本領であろう。 昭和五九年『笛』所収。

★ 田井よりも我妻(わがつま)とこそ呼びなれて
不知火(しらぬひ)筑紫の夜半(よは)を連れしか    河野 愛子

☆ これが、私のようにいくらか「事情」の知れた者以外にど れほど伝わるのか、おぼつかないが、妙に調子よくて面白いと思う人は多かろう。現代歌人の有力な一人「田井安曇」の本姓がたしか「我妻」で、名は「泰」の はず、私の娘が中学で習っていた社会科の先生だった。私の文庫本家集『少年』を解説もしてくれた歌人。
久しい歌友の「田井」を、女の河野愛子が「我妻」「我妻」と戯れ呼んでともに九州路の旅情を深めている。「連れ」は他に多かろうと、はたまた二人だけの旅であろうと佳い、この歌は佳い。 昭和五八年『黒羅』所収。
2021 1/23 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

☆ ここで、尾崎喜八の『田舎のモーツァルト』から、(串田孫一君に)と添えられた「車窓のフーガ」を挙げてみる。

★ 疾走する列車の振動とリズムにつれて、
波のように旋回しながら
近づいてはまた遠く行き去る
玉虫いろの夏の自然と
真昼の山々の壮大なフーガよ!

たえず風景の変遷する車の窓に片肱ついて、
やがて三時間、君は私と対座している。
それは安んじて見ることのできる三十何年の顔、
しかも今にしてなお新らしく
思わぬ発見に驚かされる人間の顔だ。

いかに愛すればとて、人はついに
他のたましいの暗い天には徹し得ない。
しかし互いに似かよい、転回し、逆行し、
或いはひろがり、或いはリズムを変えながら、
友情の長い一曲を織り上げてきた。

それは調和の技法に過ぎなかったろうか。
否、その対位法には異った個性の錬金があり、
誠実の造形と創造とがあった。
そしてその君と私とのたまたまの旅の車窓を、
今、人生と夏の眺めの壮大なフーガが飛ぶ。     尾崎 喜八

☆ バッハ作曲の「フーガ」などと謂う。「遁走曲」と訳され ていることもある。音楽の楽想をあらわす形式のひとつと考えてよく、むろんここは「旅の車窓」に聴く、その応用である。「対位法」もそうした音楽表現上の 技法の一つ位に取っておいてよい。「友情」の詩として、いかなる固有名詞の制限をも超え立派に成立った、稀にみるみごとな交歓の表現ではないか。
2021 1/24 230

* 物に本末有り 事に終始有り 先後する所を知れば則ち 道に近し。  「大學」

* 人の迷惑 混乱 驚慌 ここを謬って露表する。イヤほど体験し実感してきたのに。
2021 1/24 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 門柱に小杉と二字の夏山家    高野 素十

☆ 友である画人1小杉放庵」を越後妙高赤倉の安明山荘に訪れた際の句、 「芹」昭和三九年八月号から採った。
もっとも「小杉」の「二字」は友の苗字でなくとも、「夏山家」にしっくり似合って涼しい。いかにも俳句の妙を生かしたさわやかさで、「夏山家」の心地よさが目にしみ入る。
2021 1/25 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 二十万人の一人といへど忘れめや
被爆者わが友新延誉一    友広 保一

☆ 原子爆弾に遭ってはかなく逝った友を痛恨の思いで悼みつ つ、戦争への憤りを「うた」っている。友の生命の重さは、「二十万人の」なかの「一人」に過ぎぬものとなどは、絶対に言えない。この「うったえ」を、「新 延誉一」(「にひのべよいち」か)という具体的な実名で定着させた迫力を、私は高く認める。 「アララギ」昭和四五年二月号から採った。

★ ギリシャ哲学まなびゐし友が
天皇の為に死なむと真面目に言ひぬ    畔上 知時

☆ 『われ山にむかひて』(昭和五八年刊)所収の一首。 巧 くはないが、これまた痛恨の哀悼歌であろう。「ギリシャ哲学(を)」にこの作者は、人として享けうる最良の知性とヒューマニズムの恵みを託していよう。し かもなお「天皇の為に…」と君は言うのか……戦争遂行を誓って。とうに散ったのであろう優秀だった亡い友の霊に、現世の「友」はあきらめ切れない。

* 泪、はらはらと落ちる。「うた」とは、「うたへ」て「うったへる」文藝なのだ。俳句とは、性格が、ちがう。
2021 1/26 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 竹馬やいろはにはへとちりぢりに     久保田 万太郎

☆ 昭和二年の『道芝』から採った。 東京は下町の夕餉ど き、夕茜に路上に影ひく竹馬遊びの子どもたち、それを呼ぶ声、答える声、そして「さよなら」を言いかわして、長く濃い影は算を乱すように「ちりぢりに」。 灯ともし頃のあたたかな食膳のにぎわいもやがて髣髴として来る──。
が、さて 「いろはにほへと」だ。これは竹馬で遊んでいたのが二人や三人ではなく、まして一人ぼっちでなく、何人もいたことを先ず想わせる。それからそ の子らの一人一人が正雄、清志などと名前でいちいち呼ぶまでもない、ただ「いろはにほへと」と勘定して、それで用の足りるごく普通の子たちであることを も、みごとに表現している。そう表現することで、句の深さ広さがしっかり出来てくる。
「いろはにほへとちりぢりに」と申し分のない面白さ。
さらにもう一投踏みこむなら、やはり「竹馬の友」にかけての「ちりぢりに」に、子どもの頃の「昔」をひとり追憶する老いごころとでもいう所を汲みたくな る。すると「色は匂へど」という中の句が、そこはかとない「人生の哀感や無常の思い」へひしと繋がれてくる。竹馬遊びに、おきゃんな少女もまじっていたか と想像するのもよい。
往時ははるかに夢のごとく、老境の夕茜ははや心のすみずみから蒼く色さめはじめている。かつての友は故郷にはとんど跡を絶えて訪う由もない。
想像は想像を呼んで、この一句、さながらの人生かのようにずっしり胸の奥に立つ。 2021 1/27 230

* 最近、機械のわきに愛好してた だ目にし、また清水で顔を洗うほどに読んでいる『神楽歌・催馬樂』は、奥付をみると実に「昭和十年七月十五日發行 定価四十銭」とある。「一九三五年」の 本であり、戸籍謄本で私は同じ年の「十二月二十一日」に生まれていて、旧臘満八十五歳になった。むろん、この大昔の岩波文庫は私が東京へ出て来てのちに古 本屋で買ったのだ、その値段は分からないが、勤め始めた新婚の極貧時にも、古本屋でやすい岩波文庫の古典がみつかれば逃さず買っていた。いまも文庫本書架 の多くがあの当時の廉価な掘り出し本で、この一冊などいつ読む気だろうと自分にも分からなかった。が、梁塵秘抄、謡曲、閑吟集等々に触れ、源氏物語など平 安古典や万葉集などに親しめば親しむほど、神楽歌・催馬樂などがはるかな心の故郷のように懐かしく慕わしくなってきた。そこには、日本の神々と日本人との 「魂の接点」が想われるのだ。
で、胸に落ちる妙薬かのようにわたしは、このところ、好んで拾い読みして嬉しいのである。

篠の葉に雪降り積る冬の夜に
豊明(とよ)の遊(あそび)をするが樂しさ

瑞籬(みづがき)の神の御代より
篠の葉を手(た)ぶさと取りて
遊びけらしも

大原や清和井(せがゐ)の清水
杓(ひさご)もて
鶏(とり)は鳴くとも
遊ぶ瀬を汲め
遊ぶ瀬を汲め

深山(みやま)には霰(あられ)降るらし
外山(とやま)なる正木の葛(かづら)
色著きにけり
色著きにけり

千年、千五百年むかしの、神・人のふれあいや、里や山の澄んで遙かな景色が窺え、目に見えてくる。こだわりも歪みもない。
2021 1/27 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ かくも早く死する命と思はねば
あそびに来よと言ひて別れつ    八上 彦一

☆ 何一言をも付け加ええない。年齢を重ねるにつれてこういう歌には泣かされてしまう。「あそびに来よ」と言い言われ…、「友」は減ってゆく。まことにまことに減ってゆくよ。 「アララギ」昭和九年五月号から採った。

★ 月下飛髪立ちつくすともうつそみの
通夜に走らぬわれは人かは     山中 智恵子

★ 風疾(はや)み萱野笹原さわ立てり
無名の鬼の過ぎゆきにけり     斎藤 史

☆ ともに、昭和五〇年三月二九日に、割腹して果てた心友の村上一郎を悼み嘆く、歌。
村上は「無名鬼」という雑誌を作ってもいた。その三月二日には私の家をひょっこり徒歩で訪れ、娘のために雛祭りしてあった壇の前で、私の点てた茶を「旨い」と喜んで喫んで帰られた。
「かくも早く死する命と思はねば…」泣きに泣いた。山中は遠く鈴鹿の人。斎藤もまた信濃の人。通夜に間に合わぬ悲しみはいかばかりであったかと、今さらにまた泣かれる。
そうはいえこの二首の歌は、「村上一郎」という稀有の日本人の上をひとたび離れて、それこそ「無名の鬼」を悼む象徴そのものの痛切の叫びと読むことも、 十分可能。真実優れた歌には、それが有る。多く「師友」を歌った作には、とかく、実のその「人」を超えて人間の魂に深く広く届くような、「詩歌」としての 本質の力を欠きがちなのは、口惜しい。
山中の歌は昭和五三年『青草』に、 斎藤史の歌は昭和五一年『ひたくれなゐ』に収められている。

* 昭和七年(一九三二)八月末に發行、そして十三年十二月に出た第五版本468頁の『古事記』(送料拾銭、定価八拾銭)を手にしている。
文部省蔵版(日本思想叢書第五編)文学博士次田潤校訂解説と表紙にある、が、奥付では、著作者「文部省社会教育局」 發行者「財団法人 社会教育會」 そして發行頒布は「大日本教化図書株式会社」ともある。
まちがいなく、これは私が国民学校一年生を終える前後の昭和十八年春先に、何用があったのか秦の父に連れられ訪れた山城山田川にお住まいの「担任』吉村 女先生のお宅から、帰り際の玄関で手渡しに頂戴した一冊である。そして永い生涯でこんなに耽読し、ほぼ暗誦もしてしまった本は、他に無い。古事記「解題」  古事記「序解釈」、そして「口語訳」の 古事記上巻 中巻 下巻 が続き さらに「直訳」全部が収録されている。口語訳で内容をすべて覚え、さらに直訳 で「神話」古文を音楽のように音読して楽しんだ。少なくも「神武東遷」までの神話をこよなく愛読し記憶した。その照り返しであったろう、私は子供向けの絵 本(講談社絵本)や漫画本を好まなかった。絵本の繪を怖がったし、漫画は面白くなかった。「のらくろ」を断片的に、そして「長靴三銃士」という物語漫画を 記憶しているだけ。『古事記神話』の洗礼をまっさきに受けた感化は大きかった。今でも、少なくも「神武東遷」までの「神話」を日本人として信愛し親愛している。
天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天原(たかまのはら)に成りませる神の御名(みな)    は、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、次に
いまも子、供達には読んだり聴いたりしてほしいと思っている。
ともあれ、そんな生涯を決めるほどの「出会い本」がいまも手にできる有り難さ、遙かに、吉村女先生に心より御礼申し、大切にしたい。まさしく「日本古典のナンバー・ワン」を手渡されたのだった。
2021 1/28 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ 大石誠之助は死にました、
いい気味な、
機械に挟まれて死にました。
人の名前に誠之助は沢山ある、
然し、然し、
わたしの友達の誠之助は唯一人。
わたしはもうその誠之助に逢はれない、
なんの、構ふもんか、
機械に挟まれて死ぬやうな、
馬鹿な、大馬鹿な、わたしの一人の友達の誠之助。

それでも誠之助は死にました、
おお、死にました。

日本人で無かつた誠之助、
立派な気ちがひの誠之助、
有ることか、無いことか、
神様を最初に無視した誠之助、
大逆無道の誠之助。

ほんにまあ、皆さん、いい気味な、
その誠之助は死にました。

誠之助と誠之助の一味が死んだので、
忠良な日本人は之(これ)から気楽に寝られます。
おめでたう。                  与謝野 鉄幹*

☆ 大正四年刊行の詩歌集『鴉と雨』に所収の詩。
明治四四年(1911)一月に十二人が死刑執行された幸徳秋水らの「大逆事件」を下敷きにしている。ふるさとの「友」であり死刑を執行された大石「誠之 助の死」を「誠」一字を美しく利かしながらこう愛執深く熱く歌いあげる事で、わずかに当時詩人の、私人の、「気概」を天下に示したじつに数少ない貴重な証 言たりえている。年若き石川啄木も「時代閉塞の現状」を手厳しく論じかつ嘆いて「大逆」という囚われの時代へ疑問符をつきつけた。
私は東京工業大学で教授職に在った毎年の各教室で、かならず一時間、「神様を最初に無視した誠之助、大逆無道の誠之助たち」の「大逆事件」の経緯を大切に「語り伝える」のを務めとも考えていた。
鉄幹は与謝野晶子の夫、その妻ほどもいまや読まれる事の稀になった歌人だが、短歌以上に数すくない その「詩」のなかで「人物」の大きく見えていること、書きとどめて置きたい。
2021 1/29 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

★ やるまいぞやるまいぞとて泣くばかり   山路 閑古

☆ 「路郎冠者を哭す」という。狂言の道にたずさわった親し い友でもあったろうか、そう思って「やるまいぞ」と読むと、無限の哀情と追悼の秀句がここには在る。不思議に深い知性をさえこの句は感じさせてくれる。し かも 「泣くばかり」の直接表現が、爆裂する効果を挙げている。 昭和五八年刊の 林富士薯『川柳のたのしみ』から採った。が、ちょっと川柳という気はし ない。
2021 1/30 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 友の愛

☆ ここに採った「友の愛」の歌は、数こそ多くはないが、「親への愛」の歌にならんで佳い作がたくさんあったと思う。「友」もまた、人生葛藤の有難い所産であることを思わせる。感傷もただに感傷にとどまらぬ、入り組んで微妙な「愛」の相を示している。
真に人間的な「愛」とは、親子も夫婦も含めて本当は「友」としての愛であるのが正しいのでは、なかろうか。私は、かねがね、そう思って来たのだが…。
この項の終わりに、老友早見晋我こと「北寿老仙をいたむ」与謝蕪村の、若き日の俳詩をただ挙げておこうと思う。
蕪村は若い日に江戸にあり、さらに久しい東国放浪の時期を経て関西に戻るのだが、その放浪の間に下総国の結城郡本郷の素封家晋我と識った。彼はもう七十の坂にある蕪村よりかなりの大先輩だった。
この詩は通説延享二年に彼が死んだおりの追悼の作とされ、しかも公表されたのはその五十回忌の追善集でで、蕪村もすでに没していた。
傑作であり、語釈は適当な辞典によられたい。一つだけ、途中「へけのけぶりの、はと打ちれば」とある「へけ」だけは、たいていの辞典でも解説でも正解を えられまいと思う。「へけ」は、「水辺に接した傾斜面を持つ台地状の地形の先端部をいう」方言であり、つまり「へけのけぶり」は「仲春の季題である、水辺 丘陵の夕霞」にほかならぬ事、「霞」と「老仙」とは古来の縁語であるという事を、高田衛氏が証明されているのに従うべきだろう。
その余は銘々に、舌頭に千転愛誦願いたい。

★ 君あしたに去(さん)ぬゆふべのこヽろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる

君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき

蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲たる
見る人ぞなき

雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
友ありき河をへだてヽ住(すみ)にき

へけのけぶりのはと打ちれば西吹風の
はげしくて小竹原真(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき

友ありき河をへだてヽ住(すみ)にきけふは
ほろヽともなかぬ

君あしたに去(さん)ぬゆふべのこヽろ千々に
何ぞはるかなる

我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまゐらせずすごすごと彳(たたず)める今宵は
ことにたふとき                  与謝 蕪村

* 「友の愛」を結び終えた。明二月から、「師弟の愛」を読む。
読む人、聴く人の胸をうち、その人生へしかと呼びかけ関わってゆくほど確かな美しい日本語の「詩」を、自分は「歌人」と自足している「歌人以前」の人たちに心より望む。定型でさえあれば「歌」なのでも「詩」なのでも、ありません。

☆ 神楽歌
我が生(あれ)は宮びも知らず
父が方(かた)母が方(かた)とも
神は知るらむ

* 「神は知るらむ」と、五つ六つで思いながら、「身内」という思想を育みつづけた、永い永いあいだ。千年千五百年前にもこう想いこう願って人の世へ歩んでいた人たちがいたと想う、懐かしい。
2021 1/31 230

* 米内光政を記念の番組をみた。こみあげるものがあった。戦中少年だった私は、陸軍東条が退き小磯国昭も早々に潰れ、海軍の米内光政が組閣したとき、な にと明瞭に謂えぬまま親愛と期待をもっていた米内という海軍さんの内閣が、陸軍の横紙破り(陸軍大臣辞任)で立ちゆかず総辞職した無残な思いを永く忘れて こなかった。
わたしは軍国主義者ではない「戦争も兵隊も嫌い」な臆病少年だった、それは処女作「或る折臂翁」で表現した。白楽天の厭戦兵役拒否の長詩「新豊折臂翁」を祖父の遺産で読んでひときわ感銘を受けたのは、国民学校三年生以前であった。
勝てない、負けると知れた戦へ国土と国民を引きずった帝国陸軍にわたしは子供心に「あかんわ」と思っていた。海軍のあの山本五十六連合艦隊司令長官がは やく戦死し、米内光政海軍大臣のでる幕出る幕をふさいだ「陸軍」の、昭和十九、二十年にしてなお「本土決戦で勝つ」などと無責任を言い放ち続けていたの が、心より疎ましかった。「負ける戦争」へ国土と国民、昔で謂うと「国体」までも強引に引きずって行く軍人。昭和の日本陸軍とはそういう、無策の組織で あった、らしい。あの山縣有朋は生涯の軍歴を、総理として以上に明快な参謀総長として際だっていて、ゆえにムダな戦争は避けて為さず、國危うくして闘った 大戦争のすべてに完勝した。「負ける戦争はしない、してはならない」姿勢は、幕末、列強の軍艦に痛い目に遭った体験、無謀な征韓論のあげく勝てるわけのな い西南戦争へ落ち込んだ西郷隆盛を、「悼む」思いを抱きつつ国軍参謀長として完全勝ち抜いた体験このかた、山縣有朋の少なくも軍政には、いつも一貫して眼 と智との参謀力が働いていた。昭和天皇が、しみじみと「山縣がいなかった」のも敗戦の因と呻かれたのが、痛いように思い出される。
2021 1/31 230

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 師弟の愛

★ 夢の世になれこし契り朽ちずして
さめむあしたに逢ふこともがな    崇徳院

☆ 配所讃岐国で崩御のおり、都なる皇太后宮大夫(藤原)俊成に「見せよ」と書き遺された歌である。『玉葉集』に採られている。
この二人、厳密な意味はさておき和歌の道の師弟とも歌友とも言っておこう。俊成はやがて『千載集』を後白河院の命により勅撰する。この院は崇徳院の実弟 であり、しかも保元の乱で兄院を打ち負かして讃岐国へ放逐した勝利者だった。だが和歌にかけては弟院は兄の敵でなかった。
「夢の世になれこし」とは微妙な覚悟である。所詮この世は「夢」と承知で生きてきたのだから、という「仮りの世の思い」が一つある。「さめ」てからが「真実の世」という覚悟だ。その「次の世」で再会し結び直す契りこそ、愛こそ、真実の名に値するという覚悟だ。
今一つ、讃岐国へ流されてのちは「夢」でしか柑逢うことの叶わなかった口惜しさも言い龍められていよう。だがその「夢の」間にも二人の契りは、朽ちてはいなかったという信頼と愛の確認。
あの世で、今生の契りそのままにまた幸せに逢いたいという願望。讃岐国に所領も持ったらしい俊成は、悲運の院に密かに同情と便宜とを寄せ続けていたかと 想像される。古代の歌い口で、この程度の技巧はとくに言うほどもないのだが、人と時との契合が、一首に、いたましい「うた=うったえ」の力を与えている。

* 和歌といえども「読める」 だが 「味わう」には 古語への親炙がやはりものを云う。今日のいわゆる歌人の若い大勢が「和歌」を敬遠し時に軽視・軽侮す るのは、「日本語 古語」を勉強しなかったから、と、ほぼ断言もできる。古典が読めない、味わえない、それでも文藝愛の日本人とは、やはり物足りなさが過ぎ る。和歌を読めと強いたいのではない。しかし文学に親しみ創作に生きるなら日本語は古語も学んでは、と云いたい。日本語の歌、短歌が、瓦礫の道を踏むようなア ンバイなのを自賛し弁護している図は見苦しい。
2021 2/1 231

* 二月はことに底冷えて寒い京都だった、だが、わたしは、京の二月が恋しいほど懐かしい。大雪の降り積もることのやや少ない古都だった、降れば山なみが和やかに愛づらしい。古代の人と同じ都を感じている気がした。
新門前の、北向き秦の二階家は、一階が、表から奥へ三間、その奥に泉水と笹と山茶花の小庭、その奥に叔母が茶の湯、生け花の先生をしながら暮らした隠居がたあった。奥に蔵があった、が、他所のモチモノだった。
小庭へは、奥の間四畳半の、硝子窓を仕組んだ南がわ障子一枚が距てていた。その窓側へアタマを向け床を敷いた。硝子越しにちらちら天から降ってきた雪を 臥たまま仰向きにながめ、泉水に薄氷の張るらしいのを感じている寒さは、寝床にちいさな電気こたつが入っていても身にしみた。妙なものだ、子供ごころにも ああやって風情ということを覚えたのか。
思い出は、大きな蔵につめこんだほどもまだ私に生きている。八五老の執着か。これが財産か。
2021 2/1 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 師弟の愛

★ 白粥のあまりすゝるや冬ごもり   向井 去来

☆ 師の松尾芭蕉が病気の折に、かたわらに侍しながらの吟である。
季節は冬。「粥」は、師のための病人食でもあろうし、寒気をしのぐ温かな食事でもある。「あまり」とはむろん師の食べ残しの意味にせよ、ここは「一つ鍋」 という師弟親和の喜びも含む。この両方が相乗効果を示して、まさに一味同心、「身内の愛」を心暖かに感じとらせる。
「白粥」の「白」一字にも、寒さと清さ と、ほかに何も無いといった「簡素な美」とを、あやまたず言い龍めている。 『去来発句集』から採った。
2021 2/2 231

* テレビで、懐かしいグルジアやアルメニアの豪快にも瀟洒にも変化に富んだ景色を眺めた。グルジアの詩人゛いぎしノネシビリ三のお宅へ招待された楽しかったこと、忘れない。いろんなお土産を頂戴したあれもこれも今も身辺に在る。旅は、当時ソ連の作家同盟の招待だった。
日本へも来られたが、その後に複雑な政変もあって、ノネシビリさんは亡くなった。
各地を深雪きわまりなく案内してもらったエレーナさんも、やはり政変がらみとかで、日本へ来て亡くなったと聞いた。佳い人だった。一緒に招待され同行した団長宮内寒弥さんも同じ京都出の高橋たか子さんもとうに亡くなった。あーあ。
この「ソ連の旅」は新聞三社の連載小説『冬祭り』にはなやかに取り入れた。読み返したくなった。ヒロイン「冬子」は、評家から、「また必ず姿をかえて帰って来る」と予言かつ期待してもらった。果たして、最近作の『花方 異本平家』の「颫由子」となり帰ってきた。

* 今朝は、八時前に、妻や「マ・ア」が起きて行ったナと承知してゆっくり寝入った。寝起きのすこし前の夢の一画へ、突如 愛くるしく穏和な沢口靖子の笑 顔と、ガラス窓を距ててふと直面した。靖子は戸外にいてわたしは何かしらビル住宅の内にいた。「ここにお住まいでしたの」と靖子ははんなりと且つまじめな 笑顔だった、この機械に蓄えられた数十枚の顔写真のどれよりも佳い笑顔だった、帝劇の楽屋で、妻も一緒に、「細雪の雪子」衣裳で写真に撮られたときより若 い青春顔をしていた。夢は、三十秒ほどで霞み、やがてわたしも床を離れた。

* こんなふうに、私は、いつも「夢・現」の前後左右に「ただよひ」生きている。「ゆめ」世界はますます賑わい「現つ」の日常はいまや繪に描いた籠居であ るよ。仕事していると「マ・ア」が椅子のきわへ訪れてくる。「削り鰹」をホンの一とつまみを楽しみに階下からとことこ訪れるのだ。「方丈」という居室はな にも閑散と孤独にいる場所ではない。いろんな懐かしいモノや写真たちで、騒がしくはなく静かに賑わっていて心温まる「方丈」なのです。「綽綽有悠」と此処 に暮らしつづける。
2021 2/2 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 師弟の愛

★ この頃は逢ひたい友の多けれど
わけて逢ひたい新島先生    徳冨 蘇峰

☆ 同志社創立の新島襄先生をしのび、尽きぬ愛と思慕を高弟 蘇峰は晩年の『残夢百首』(昭和二五年)の中にこう詠んだ。「わけて逢ひたい」の一句に一切がある。述懐歌として技巧的に見るものはないが、真率なかつ枯 れた物言いに忘れがたい感銘がある。「新島先生」と、呼びかけた結句が光る。
京都若王子山中の明浄処に、師の墓を守るように蘇峰はじめ薫陶を享けた弟子たちの墓が美しく並んでいる。結婚式というものを挙げなかった私たち夫婦は、 二人でこの奥津城をおとずれて、結婚と上京とを報告した。梅が満開の二月末だった。二○二一年(令和三年)現在、六十二年)が過ぎた。

★ よく叱る師ありき
髯の似たるより山羊と名づけて
口真似もしき       石川 啄木
☆ この歌には「わけて逢ひたい」といった直接な物言いはどこにも無い。事柄の一つ一つが具体的に想起されているだけ、たかぶった感情は表出されていない。むしろ噛み締めるようなふしぎな哀感が韻律たしかににじみ出ている。
おそらくは生活と時代との悪戦苦闘に疲れた作者の、根深い喪失感にその調べは共鳴していよう。 明治四三年『一握の砂』所収。
2021 2/3 231

☆ 大前張(おほさいばり)

宮人(みやびと)の大装衣(おほよそごろも)
膝通し

膝通し
著(き)の宜(よろ)しもよ大装衣(おほよそごろも)

* 光源氏のおほ昔に、こんな囃し歌でファッションをほめ合ったりしてたか。「歌」こそは神代の昔からの文藝のめざめであったと。山本健吉先生のすばらしい論攷に出会った時の嬉しさを思い出す。
ごいっしょに横浜駅前で講演して、あと銀座の「きよ田」で寿司を食べたり。はるばる講演の旅をご一緒したり。ブルースの淡谷のり子さんを囲んで賑やかに鼎談したり。山本先生とははなしもよく合い、いつも温かに声をかけてくださった。
2021 2/3 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 師弟の愛

★ 真夏日の左千夫の忌日(きにち)朝はやく
室かたづけてひとり坐れり    古泉 千樫

☆ 大正二年「七月三十日」が、作者の師伊藤左千夫の忌日。この日をせめて心清く静かに過ごしたい。そういう気持ちで尊敬と愛情とを身いっぱいに表現したい。すがすがしい。 昭利八年『青牛抄』所収。

★ 動悸して壁の落書(らくがき)にわれ対ふ
をさな字に北原隆吉とあり    宮 柊二

☆ 先師北原白秋の「名」に、師の故郷で、師の「をさな字」の「壁の落書」として対面した。
師とは全人格、全生涯をかけての師であり、弟子もそうなのである。そして何度も何度も出会い直し出会い重ねて行く。「動悸して」の一句に、喜びと敬愛とが躍動して貴い。
もっとも、ここで注意しておきたい。この種の歌は、先の「新島先生」にせよ「左千夫」にせよこの「北原隆吉」にもせよ、その「人」を知ることなしには十分受け取りにくい。
師弟の愛の歌はけっして数少なくないのだが、感動をひろく深く共有できる佳い歌が、実は稀であるのも、これによる。
短歌にも俳句にも師弟愛のあまりにか、ごく一部の仲間内にしか通用しない作が、それで良い、当然だという顔で溢れる。当然でもなく、良くもない。独善のそしりを免れぬばかりか、短歌や俳句の「表現を矮小化」するだけだ。 昭和二八年『日本挽歌』所収。 2021 2/4 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 師弟の愛

★ 青葉風すがすがと入(い)るわが部屋に
先生はいます羽織脱がして    谷 鼎

☆ 昭和十七年五月末に師の窪田空穂を自宅に迎え、歌会か何かを催した日の詠。同じ作者の同じ日に、こういうのも有る。
先生の軸掲げたる床を背に先生います家はわが家
大き人に間近く見えしよろこびを子らもつつしみて言ふよこまかく
全人的な傾倒であり感激である。短歌表現を超えたものがある。だからこそ短歌表現としても力を保っている。 昭和五三年に弟子たちによって没後に編まれた『水天』所収。

★ 先生と二人歩みし野の道に
咲きゐしもこの犬ふぐりの花
先生は含み笑ひをふとされて
犬のふぐりと教へたまひき    畔上 知時

☆ 師の谷鼎の没後歌集『水天』を編んだ弟子たちの一人。昭和五八年『われ山にむかひて』所収の微笑ましい、かつ巧みな歌。どこといって無理なく自然に今は亡い師をしのんで、心優しい。大声にものを言っていないのも佳い。
「犬ふぐり」の「名」だけを師は弟子に教えたのではあるまい。歩一歩の野の歩みのなかにも、目配りがあり、心入れがあり、感動も発見もあることを弟子は師のなにげない言葉づかいや、笑顔や、身振りからも習ったのだ。だから懐かしく慕われる。
2021 2/5 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 師弟の愛

★ こりこりと乾きし音や
味もなき師のおん骨を食べたてまつる    穂積 生萩

☆ 釈迢空の弟子。永別の悲しみに堪えかねて、とっさに出た行為か。
一読、あ、と声が出たが胸をつきあげてくる同情の念は熱かった。事の次第の異様さを超えて、歌一首の表現は微塵の揺れもなく、美しいまで整っている。 昭和三年『貧しい町』所収。

★ 夏場所の新番づけも棺にをさむ   上村 占魚

☆ 「先師松本たかしを悼む」昭和三一年五月二一日の句、『一火』所収。
そんなことかと簡単に読み過ごせない含蓄がある。「夏」という旺盛な現世感に溢れた季節が、「棺」という寂しい文字に対応している。まして「夏場所」は 力士と観客との汗と熱気が舞う大相撲の本場所。生きてこの世を楽しむ人間が群集して活気渦巻くところだ。弟子はそんな相撲好きな師のために「新番づけ」も 「棺」におさめた。きっと幽明 処は隔てても師弟一緒に変わりなく相撲を楽しみたい、楽しめるはず…と想いたいし、あの世の師もそうしてにぎやかに慰めた い。
ふしぎに「夏」「新」の字が爽やかな縁語を成して、「棺」の、くらいイメージを清らかにしている。
2021 2/6 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 師弟の愛

★ 墓標より戒名手帖にうつしつつ
荒木先生はやはり荒木先生がよき     脇 須美

☆ たいへんよく分かる。「墓ヒョウ」「戒ミョウ」「手チョウ」と韻を踏んでいる。それはともかくとして「戒名」のあとへ、字余りでも、「を」を一字送ってはどうだったか。 昭和五四年『散りてまた咲く』所収。
こう読んできて気がつくのは、弟子から師へ、それも今は亡き師への歌が多く、師から弟子たちへの歌は、釈迢空らに無くはないものの、ここに紹介したいと 思うほどの作に、出会えなかった。概して情が先走り表現に周到さの不足しがちな所が、「師弟」の歌の残念な特徴だったか、という気がしている。

* 脇須美さんはお母さん。娘さんの脇明子さんは泉鏡花研究の本など出してきた方で、私は一度座談会でご一緒している。翻訳もされる方で、大好きな三巻本マキリップの『イルスの竪琴』を戴いていてル・グゥインの『ゲド戦記』とともにもう十度も読み返して飽きないでいる。
そんなことも告げてお礼も言いたいが、現在どこで教鞭をとられているか知れない。お差し支え無くかつ連絡先ご存じの方があらば、お教え下さいませんか。
2021 2/7 231

* 両手の指先が鳴りそうに痺れている。「マ*ア」はもうこの部屋で「削り鰹」を嬉しそうに食べて、階下へ。家族の揃っている宜しさを喜んでいる。
今回の「アコ」喪失一件でしみじみ思うのは私は何ら意志的理性的人間でなく、過剰なまで情、感情、感傷の人間だということ、そんなことはとうの昔から自 覚も承知もしてきたし、それを羞じたり嘆いたりすることは無かった。そう生まれついているなら、それで生き通すと思ってきた。
同時に、だから意志的に生きたい、いきると自身に励ましつづけてきたと思う。
一切の大學受験など放擲して、好成績を利してあっさりと無試験推薦で同志社へ入ったのも、学問的学問をして「教授へ」の道など棄て、家を棄てて、恋人と 東京へ出て極貧の新婚に甘んじ勤めながら一人学びに勉強を積み増しながら念願の「小説家」へ全身で逼りつづけ、私家版本を四冊も作っている内に、突然とし て、四冊目の巻頭作『清経入水』に太宰治文学賞をという有り難い申し出に会った、まさしく文学の世界へ招待してもらった。これら経緯一切は、すんりに意志 的なガンバリであったが、それも内実は情緒的に自身を濡らし濡らしの「夢見がちな時代」だったのだと思われる。
同じ事は、以降、猛烈なほどの原稿を書き、本を出しつづけたあげく、こんどは「秦 恒平・湖(うみ)の本」など思いつくと「騒壇余人」と自称し、突如として國から「東工大教授に」と招聘されて六十定年までつとめ、その後もほぼ文学世間か とは付かず離れず今日にも至っている。自身をある種の「感傷」「情緒」「夢想」に委ねられない人には真似はできないと思う。わたしは、それをやり遂げてき た、作家・文筆家として。百冊の単行本をもち、三十三巻大冊の「特装選集」をもち、とめどもなく「自作自編のシリーズ本」を150巻も世に送り出し続け、 今もとめどない。こういう隙勝手な人は、日本中に一人もいないし、世界のことは知れないが稀有と思う。理性と知性の人たちには不可能な「夢と感傷と情緒」 の所行・所産だったとつくづく自覚する。
だからこそ、猫の「アコ」が二三日失踪失跡しただけで、身も心も折れそうに泣いて嘆けるのである。京都での少年のむかしから、きまって、「変わっとる」「変わってはる」と言われつけてきた。そうかも知れないが、自分では、ただ「情のまま」に歩いてたんやと思う。

* こんな見極めが出来てきたのは、もう残り少ないなという予感であるのかも。
ま、やれるだけは狂気じみた情趣を身に抱き、恰好にも行儀にもなんら構わず、どう笑われながらでも今暫くとぼとぼ歩きつづけたい。
2021 2/7 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ 師弟の愛

★ しぐれ行く山が墓石のすぐうしろ    瀧井 孝作

☆ 「法然院谷崎家墓域」をうたってまことに的確、しかも谷崎潤一郎没直後の昭和四〇年十一月に訪れている。「しぐれ行く」の句にしんみりと哀悼の意がにじみ、「山」を負うたお墓に、いかにも文豪の風格を伝えて美しい。「はかいし」か「ぼせき」か、前者が宜しいかと。
この作者は1私小説を宗」とした大家であり、谷崎潤一郎とは対極にあったが、よく認めていた。私のような者でも谷崎論を成すつど、よく激励や賞賛の電話を戴いた。懐かしい思い出になった。
昭和五〇年、鉛筆で自筆丹精の句集『山桜』に収められている。
2021 2/8 231

* 所詮は この高老齢ともなれば、アタマに、久しい生涯の思い出が、いい思い出が沸騰してくるのはとめどもない。しぜん「自慢ばなし」に類してくるのも 防ぎよう無く、それで良しとしている。いい先生、いい人、いい事と、それはたくさん出会ってきたのだ。それはごく自然な人生の勲章と思っている。懐かしい のである。精神の生き生きしてくる妙薬にもなってくれる。ありがたい。
2021 2/8 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 愛の最もむごき部分はたれもたれも
このうつし世に言ひ遺さざり    東 淳子

☆ 死が愛をこぼち、しかし愛が死をしのいで生きつづけるさまも多く見てきた。それはそれとしてたしかに見てきた。が、この歌人がこの歌で呻いている意味、分からなくはない。
いかに愛の種々相をと拾い集めてみても、なお歌うに歌い切れない「愛の最もむごき部分」がこの世に充満しているであろう事は、「たれもたれも」本能的に、また理性的に承知している。
厳しい現実の重みに耐えて、この一首はさながら私のこの一冊の『愛の詞華集』を総括してしまう批評性を持っている。いかなる愛のかたちも、絶対とは言えないぞと、力弱い人間の胸へ鋭く指をさして来る。
私は、作者の意図に頓着なくこの歌を受け入れ、この歌に恐れをなす。幻影にもひとしい愛の可能よりも、愛の本来不可能を信じた上で、だから愛を求めずにはおれぬ人間のつらい運命を思う。 昭和五九年『雪闇』に収められた一首である。
2021 2/9 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ しづかなる悲哀のごときものあれど
われをかかるものの餌食となさず    石川 不二子

☆ これも私なりに読みたい、「しづかなる悲哀のごときも の」であると「愛」の本質を受け止めて、あやまりであるだろうか。この歌はけっしてそのような「悲哀」を否定や否認はしてはいないと読める。避けがたい運 命のように受け止めたまま、なお堪え耐えてそれと戦い抜いてみたい意志が読める。
我々は「愛」をあまりにやすやすと受け入れることで、その隠された「むごき部分」の「餌食」たるに甘んじては来過ぎなかったか。「われをかかるものの餌食となさ」ざる所から、「愛」への主体性を確保したい…と、私も思う。 昭和五五年刊の『短歌年鑑』から採った。

* みごとなお天気  天岩戸神楽ノ條(古語拾遺)
あはれ
あな面白
あな楽し
あな清明(さやけ)
をけ
2021 2/10 231

* 朝から三時半まで、つづけて機械作業していた。
新しい仕事も、新しくはないが放っておけない大事な仕事もある。思案に暮れているより、手の着いた仕事は、そのまま進めないと、身が持たない。
算盤玉をはじくなど、子供の昔から出来ない、が、仕事の段取りをつけて仕遂げて行くのは、大小といわず、医学書院の編集者時代に徹底してスポーツのように身につけた。科せられた目標に届かない年など、15年半勤めて、一度も無かった。その間に、小説も書き始めた。
一つには、医学書院編集長が、鴎外研究等々国文学の泰斗長谷川泉さんだった。おっそろしい程な医学看護学全般の専門書や雑誌刊行を統括しながら、その間 にも、狭苦しい一画につっ込んだ小机で学問されていたのを、少なくも私は賛嘆して背後から見ていた。あの人がアア出来るなら、わたしもコウ出来なくては 思っていた。「或る折臂翁」も「畜生塚」も「蝶の皿」も「清経入水」も「慈子」も「秘色」も「みごもりの湖」も、勤務での外出中に、立ったままでも書き継 いでいた小説だった。
幾らかは 今にも同じ血が身内を流れている。器用には立ち回れないが、算盤抜きに飽きない「読み・書き・想像」が、根っから好き、文学は、それが「基本」でなくて、何が。「人間」でしょうね。
2021 2/10 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ ただ人は情あれ 槿(あさがほ)の花の上なる露の世に   『閑吟集』

☆ 中世十五、六世紀の人が愛読した小歌、『閑吟集』所収。
思えば時代の表情は、言い換えるなら真実の「情」を求めて求めえない渇いた人の世のありさまは、五百年を経てすこしも変わっていない。室町時代より現代 の方が、「花の上の露」よりもろく地獄へころげ落ちかねない不安の時代だと、それこそ「たれもたれも」が恐れている。「ただ人は情あれ」の「うったえ」 が、つまり「愛」の不可能を可能と変えよう信仰が、今ほど切実でかつ今ほど稀薄な時代は、なかったろう。

★ 世の中は常にもがもな
渚こぐ蜑(あま)の小船(をぶね)の綱手かなしも    源 実朝

☆ 「世の中は」の取りようで、奇妙にオーバーな観念的な歌になる。
作者が、渚に綱手引いてゆるゆる小舟をやる「蜑」夫婦を、おそらく遠望しながらの感慨であろうからは、この「世の中」は、社会とか世間一般とかへいきな り押し広げて読むより先に、具体的には、あれあのように慾も得もなくひしと心を一つに力を合わせて世渡りに励んでいる「蜑」夫婦のように…と、世の男女が みな心平らに波乱もなく幸せであれと祈願する意味でありたい。「世」はもともと男女の仲らいを意味した言葉、しかも渚へ渡して「綱手」引くのに一人では足 らず、舟の「こぎ手」もいる。まして「蜑(あま)」といえば零細な語感があり、人手を頼むどころか夫婦で助け合うしかないほどの世渡りだ。「常にもがも な」は強い願望を示す物言いで、「綱手愛しも」に響き合う。 『金槐集』所収。作者は鎌倉の三代将軍。

* この「私語の刻」のはじめに掲げた、菱田春草の名畫「帰樵」と通いあう境涯よと、私は実朝の思いを懐かしく汲む。
2021 2/11 231

 

* 神があるとか無いとか信じるとか信じないとか、私は思って来なかった。ただなにかしら想っていたし今も想っている。古事記を読んで事実のように読んで きたのではない、こういうことが大切に伝わっていたのを良かったと喜び、日本人としての「神話」の歴史的に与えられてある事実を、優れて有り難い「文化」 と思う。神話を持たない民は根底の寂しさ物足りなさを無意識にも感じていると思う。日本の神話はどの国民のそれと比べても優れて美しいのである。

* 中国の元の曽先之が編次の『十八史略』は当然に中国「太古」の史実と観ての「神話」から語られている。
「太古」  (天皇氏) 木徳を以て王たり、歳を摂提より起こし、無為にして化す。兄弟十二人、各々一萬八千歳。地皇氏、火徳を以て王たり。兄弟十二 人、各々一萬八千歳。人皇氏、兄弟九人にして、分かって九州に長たり、凡そ一百五十世、合はせて四萬五千六百年。人皇の以後に有巣氏と曰ふ有り、木を構へ て巣を為し、木実を食らふ。燧人氏に至り、始めて燧を鑽り、人に火食事と歓談教ゆ。みな書契以前に在り、年代国都攷ふ可らず。
「三皇」 (太昊伏羲氏) 風姓。燧人氏に代つて、而して王たり。蛇身人首。始めて八卦を畫し、書契を造り、以て結縄之政に代ふ。嫁娶を制し、儷皮を以て禮と為す。網罟を結び、佃漁を教ゆ。犠牲を養ひ、庖厨を以てす、故に庖犠と曰ふ。龍瑞有り、龍を以て官に紀す。龍師と號す。木徳王、陳に都す。庖犠崩ず。女媧氏立つ、亦た風姓、木徳王たり。始めて笙簧を作る。

* 以下なかなか面白く 膨大な時世を経つつ「炎帝神農氏」「黄帝軒轅氏」と続いて次いでまた大きく『五帝』時代が来る。
これは根底から「歴史」であり「蛇身人首」などと奇怪であろうとも、どこかに人類史の生活的な展開も読み込まれている。
日本の古事記神話は、こんなではない、もっと「国土の自然」に接して神が語られている。まさしく「物語られ」ていて、八岐大蛇など現れるけれども、耳を傾けてお話の先が聴きたく、聴いて懐かしいのである。

* 紀元節という名の祝日は、天長節や地久節や明治節などより、「おはなし」の世界として親しむ気持ちがあった。「今日のよき日は大君の生まれたまひし良 き日なり」と歌うより、「雲に聳ゆる高千穂の」という古色の自然を目に浮かべるのが、身に沁みる二月の寒さや町内で炊き出される大好きな「粕汁」の香とと もに、とても印象的な一日だった。

* 「十八史」がドレドレかアタマにないが、手にしている「片仮名付き」原文のままの『十八史略』は漢文が読み良いし、興味津々、面白い。編者の曹先之は「元」の人、あの「太古」から「唐・宋・元」までの歴史が大略語られていそう。
いま、秦の祖父から頂戴の明治の漢籍本にはきまって「目次」が無い。これは、なんでやろ。
2021 2/11 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 月天心貧しき町を通りけり     与謝 蕪村

☆ アンデルセンの『絵のない絵本』の一節を読む気がする。青く澄んで皓い月光に満たされ、「貧しき町」への自然の愛と作者の愛とが清らかに共鳴りする。通るのは、「月」と作者と両方、と読み込んでひとしお美しいし、気も晴れる。
そうは謂いつつ私の胸には怖い怖い映像もじつは秘められていて、しばしば魘される。

★ 終るべき生命をもちてあかつきの
漁夫も獲られし魚もかがやく     安永 蕗子

☆ 「終るべき生命」だから作者はなにかを断念している、のでは、ない。「終るべき生命」だからいよいよ「かがやく」ものとして、愛している。目の底に「かがやき」が、確かにのこる。さすがに現代を代表する女流の、佳い歌である。昭和三七年『魚愁』所収。
2021 2/12 231

* わたしは数十年来の日本は゜女文化」論者である。男を尊重するとか女を蔑視するとかことさらな言辞も弄さない、軽口をたたくなら「男は嫌い 女バカ」 と半世紀も昔から公言している、ともに蔑視などはない、「女バカ」は尊重の言辞と確信している。森、昔の総理の最近の言辞が盛んに話題になっている。あん なことは、千数百年も昔から日本の男女は互いに嗤いあっていたこと、井戸端の長話は女の専売で、男は表向きは女を下目に物言いながら、私的には「かかあ天 下」を然るべしとしてきた。森某氏の物言いは、根からのあの仁の生来の「バカ」が言わせた「場違いの物言い」に過ぎない。
男女同権を國にする西洋人たちの母国を訪れたかつての日本の指導的な政客や知識人は、口を揃えて「なにが男女同権か」と公然嗤っていた。やってることは、「むちゃくちゃ」な女蔑視と見抜いて帰国していた。
そもそもキリスト教の世界は、その根底の「神話」以降、言語に絶する「女性蔑視」は高徳の司教や法王らの専売特許であった、オリンピック発祥のギリシャ が「女性」をどうみていたか、すこしはホメロスでもソクラテスでも読むがいい。
森某氏はもともと「日本は神の國」の信者だった。この「神」の國は、そもそ もの國産みの儀式に女神が先に口を利いたからと蛭子を生んで流させ、男神からの求愛にやり直させた國であり、それでいて「女ならでは夜の明けぬ國」と、「天 照大女神」を國祖と仰いできた。
頭の悪いマスコミが、安直な話題作りにたんに「バカ」なだけの元総理をくしゃくしゃの紙屑なみにイジメてみただけの話、まともな女性ほど腹で嗤って相手 にもしてなかったと思う。「バカか、おまえら」と言いたいだけの、これも手に負えないコロナ禍のうちの病的な騒ぎと観ていた。森某氏は、要は引き際と謂う にすぎまい。いま、本気で案じかつ対処を考えて手を打たねばならないのはあの「トランプ」の「凶狂」後遺症である。へたすると、これこそ人類を地獄へ追い 込みかねない。
2021 2/12 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 胎児つつむ嚢となりきり眠るとき
雨夜のめぐり海のごとしも    河野 裕子

☆ 「雨夜のめぐり」はやや際どい表現だが、必然の感をも持 つ。水に抱かれ「嚢(ふくろ)=作者である母胎」に包まれた「胎児」の世界と、その「嚢」をさらに容れた「母」の世界との、まさに大きな入子(いれこ)構 造を視野に入れながら、この作者の根底に「海」としての世界観が働いている。「嚢」の海と、始源としての広大な海との等質が信じられている。人間への愛 と、始源への愛との等質も信じられている。その愛を、「眠り」を触媒にイメージとしての「雨」が強く喚起している。
大きい歌である。 昭和五一年『ひるがほ』所収。

★ 子の友が三人並びてをばさんと
呼ぶからをばさんであるらし可笑し    河野 裕子

☆ 「呼ぶから」が、おもしろく、これ一つで「歌」になっている。
「をばさん」は予想外だったが、なるほど「をばさん」なのだろう、「をばさん」でいいわよ…。精神の容量、器量、の大きいこの人の作風がこころよくうかがえる。昭和五九年『はやりを』所収。
2021 2/13 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ ロオランサン、シャガールなどの画譜を閑ぢ
貧しき国の秋に瞑(めつむ)る
さめぎはのゆめの混沌(かおす)のたのしければ
枯山(かれやま)に片目をあきしふくろふ
口中に一粒の葡萄を潰したり
すなはちわが目ふと暗きかも     葛原 妙子

☆ さきの二首は昭和二五年『燈黄』から、三首めは同じ作者の昭和三八年『葡萄木立』から採った。が、さてこれらがどう「愛の歌」か。愛どころか、一般に短歌ときくとおうむ返しに「分からない」と嘆く人らには、この三首など 先へ行くほど頭がイタくなりそうだ。
だが正直に言う、これら三首はおそらく今日の短歌の最高水準を達成している、私はそう思う、と。しかも翻訳も解説もほとんど意味のない、これは数学でい うこれ以上に割切ることの不可能な素数のような詩なのである。それでもいくらか手がかりは、ある。ロオランサンやシャガールの絵に負けない日本の「秋」 へ、しかと「瞑(めつむ)る」のは、見まいためでなく真に見るためだろうし、それはいくら目をあいていても、絵も自然の美も西も東も見わけのつかない、そ もそも夢を拒絶されている者らへの、ものうげな訣別の態度でもあるのだろう。「枯山に片目をあきしふくろふ」とは、おそらくは作者その人の自愛のポーズで もあろう。
だが、その辺りまでが精一杯。三首めになれば、これはそのまま「生きのたまゆら」のようなもので、この歌そのものを口中に含んで、そのうちに舌で押し潰 してみるしかない。存外にむずかしくも何ともなく、その、くらい甘美な味に納得するだろう。「ふと暗きかも」とは、詩と真実へ出逢いのふと濃やかな味わい に、思わず「瞑る」嬉しさを謂うのかも知れない。ここに秘められた愛の次元は高い。
2021 2/14 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 春がすみいよよ濃くなる真昼問の
なにも見えねば大和と思へ     前川 佐美雄

☆ むずかしく思わなくていい。「春がすみ」の籠めたひろいひろい「真昼間」だ。「なにも見え」ない。見えねばこそこの世界を「太古」の名のままに「大和」と想おう。感動と想像と両の翼をそうして限りない「時」の彼方へ解き放とう…と。
「見えねば」といいつつ、より豊かにものが見えている。国が、自然が、歴史が、そしてそれらに育まれた自分自身が確かに見えている。名歌である。 昭和十五年『大和』所収。

★ 猪鍋(ししなべ)や吉野の鬼のひとり殖(ふ)ゆ     角川 春樹

☆ 「言霊の鬼、前登志夫氏」と添えてある。私には分かる気 がするが、前氏を知らぬ人には無理だろう。それならば採るまでもないようなものだが、この句、そんな限定を超えた魅力がある。たんに一人の現代歌人をほめ るだけでない、もっと初原へ帰って「鬼」そのものへの強い愛を感じさせる。
鬼が「ひとり殖」えた…、それがなぜ作者の喜びになりまた私の喜びになるのか、理づめに説く気も起きないが、いわば「鬼の世界」を信じているのだ。むご いばかりな「人の世界」に無い、貴い秘密を抱き込んだ真実を信じ愛しているのだ。「吉野」はそういう世界だったと、古いものの本には証してある。
だが「吉野」ばかりか「日本」中がひろくそういう世界だった。昭和五九年『補陀落の径』所収。
2021 2/15 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ この祭はかなしみ多し雪が疾(はし)り
鬼が裸体であることなども
見捨てられ追はれし村も遠ざかり
鬼のしづかにねる雪の洞     春日井 建

今は昔朝けの堂に栗鼠(りす)は来て
籠(こもり)の鬼と遊びけらしな   木山 蕃

☆ 春日井の昭和四五年『行け帰ることなく』から二首、木山の昭和五四年『鬼会の旅』から一首を採った。
日本中に、「鬼祭」「鬼会」といえる催しは数多い。が、何故かという事までは人はあまり考えない。自分とは関係がない…という気もするのだろう。そうだ ろうか。ここに挙げた歌で「鬼」は雪のなかを「裸体」で「見捨てられ追はれ」て、わずかに村はずれの「雪の洞」や「堂」に籠もりながら、人外(にんがい) に栗鼠などと遊んで心をやっている。
まぎれもないそれは敗者の境涯のように想われ、人はさも「鬼」だもの当然かのように思い切って、顧みない。
そこを敢えて顧みて本当に自分は、自分たちの歴史は、敗者でなく勝者のそれであると断言できるのかどうか、よく思い直してみたがいいだろう。日本の歴史 で、もっとも「かなしみ多」く、「愛」に欠けていた部分として「鬼」の世界への偏見と差別が、ある。自分だけは「鬼」ではないなどという思い上がった誤解 から自由にならない限り、日本人の暮しに、真に高貴な「自由」は確立できないだろう。

☆ 十六日の節(せち)の酒坐歌(さかほがひのうた)

此の御酒(みき)は我が御酒(みき)ならず
酒(くし)の神常世(とこよ)に坐(いま)す
石(いは)立たす少御神(すくなみかみ)の
豊壽(とよほ)ぎ壽(ほ)ぎもとほし
神壽(かむほ)ぎ壽(ほ)ぎ狂(くるほ)し
祭り來(こ)し御酒(みき)ぞ
乾(ゐ)さず食(を)せ さゝ

此の御酒(みき)を醸(か)みけむ人は
其の鼓(つづみ)臼(うす)に立てゝ
歌ひつゝ醸(か)みけれかもし
舞ひつゝ醸(か)みけれかもし
此の御酒(みき)の
あやにうた樂し さゝ

* 神とも同座の 悠久をしのばせる酒坐(さかほがひ)の歌声が、なつかしく聞こえる。信不信ではない、日本人の、いいや押し広げて謂うまい、私の心根には、もっとも懐かしい自然な日々と受け容れられて、在る。この酒が楽しくて嬉しい。
オリンピックも、そういう楽しくて嬉しい神と同座であったろう、今日只今のオリンピックは、ひとり人間のエゴを、表でも裏でも競うかの臭い営為へ堕して、堕しかけて、いないか。

* 自身にこう問うたことがある、「神は、(人間に)必要か」と。東工大で若い人たちにも問うた。
私自身はこう書き置いている。  「抱き柱」「アジール(逃げ場)」「利益(幸福)願望」の為には、全く無用。底知れずこの地球・世界に隠れてある「不思議」を不思議として受け容れる際の「根拠」「支え」かのように承認しておく意味では、有用で有益」と。

* 孔子は、一切 神世ないし怪力乱神を語らず認めなかった、歴史的に認めうる史実からものを言い始めた、それが孔子の儒教の姿勢だった、が、孟子にいたると神世の不思議をも史実に取り入れ始めていて、むしろ荘子などはそれを嗤っている。
キリスト教の歴史観では、神も神の子も史実世界へ必然呼び込まれていると見える。創世記を読んでも失楽園の主神や御子神を読んでも、真実基督教者ならただ「神話」とは謂うまい、まして歴史の外の怪力乱神とは謂うまい。
2021 2/16 231

 

* テルさんが「代表作はこれだ」としかと指さしてくれた『オイノ・セクスアリス』を、懐かしく読み返し終えた。『罪はわが前に』へ帰るか、『花方 平家 異本』の「颫由子」へつながった「冬子」の『冬祭り』やその以前の『風の奏で』などが、読み返してみたくなった。となると、原点は、やはり『清経入水』の 「紀子」になる。『四度の瀧』へも。読み返してるヒマがあるだろうか。次へ次へ、書くが先か。
2021 2/16 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ ほそぼそと心恃(こころだの)みに願ふもの
地位などありて時にあはれに     畔上 知時

☆ よくぞ…と思う。これは、なみなみでは歌い出す勇気すら出ない歌である。四十代、五十代の、世に中間管理職といわれるような人たちの日常心理は、概してこういう所へ余儀なくせつなく繋がれている。
「地位」の二字、この一首にあっては莫大な容量を孕んで揺るぎない。人間が「繋がれ」る虚栄と執着といささかの「心恃み」として、「地位」の二字は実に多くの人を支えかつ蝕んできた。
そういう全てを見通しながらの、「時にあはれに」という述懐自愛の純真が、この歌を詩にしている。 昭和五八年『われ山にむかひて』所収。
2021 2/17 231

* 稚心可咲 *
特別席                      安まる角度
機械と私

* 谷崎先生には年がら年中此の角度で睨まれている。松子奥様になだめて戴い ている。若い若い日の{娘}靖子に笑われている。妻の描きおいてくれた亡き愛猫ノコがいつも見守ってくれる。囲まれた黒い角い機械は建日子が「トーサン」 に呉れて、日々音楽を愉しんでいる。今は、カラヤン指揮で、ディヌ・リバッティがグリーグのイ短調ピアノコンチェルトを弾いていて、ついでシューマンのそ れに代わる。書き仕事にはなんら邪魔にならず、そして「マ・ア」が、ふっと思い出したように足もとへ顔をそろえる。二枚の革ペン皿にわけてやる「かつお細 削り」をきれいに食してカーサンの階下へ帰って行く。
稚心可咲、わらふべし、八五老。

* 遊び疲れている。なんとなく機械の底を嘗めていた。階下へ行って妻の機械 までいじってみたが、想うようには何も出来ずに草臥れた。これはもう、籠居疲れというものだろう。鳥取県のだったか、聖火リレーのオリンピックのと云うて られるか、やめるとブチまくった気持ちも分かる。鉦や太鼓で何とやらの長に誰を据えるか、大臣の橋本聖子にしよかとか。彼女は往年、しんじつ競技で感動さ せてくれた。も一度、何にかは分からんまま、ガンバリやと云いますかね。心神にビビッと電氣のように感銘を呉れるのは、文学の名作。繪など美術は、観たく ても出かけられんし。食う欲もないし。もうもう、「読む」と「寝入る」に惹かれるばかり、しっかり「書く」も加わりたい。
2021 2/17 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 通用門いでて岡井隆氏が
おもむろにわれにもどる身ぶるい     岡井 隆

☆ 誰しもが「変身」の劇を秘め持っている。ひとつの世界か ら機あってべつの世界へ入って行く。その境の「門」をこの歌では「通用門」と呼んでいる。事実どおりの次元を超えて読めば、いつも通る門、繰返し往来する 門、表向きでない我一人の門とも読める。これまた誰しもが秘め持つ門ででもあろうか。「われ」が「われでない」世界と「われ」が「われにもどる」世界と、 ある。この歌では、「通用門」の内の世界で「われ」でなく、外へ出て「われにもどる」のだと「岡井隆氏」は言う。だが、価値判断は示していない。「身ぶる い」が面白い。魔法つかいのようだ。大喜びで「身ぶるい」したとも、やれやれというおぞましき「身ぶるい」だとも、「氏」は断わっていない。
敢えて察しなどつけない方がこの歌は面白い。 昭和三六年『土地よ、痛みを負え』所収。

★ わが合図待ちて従ひ来し魔女と
落ちあふくらき遮断機の前    大西 民子

☆ 前の岡井の歌でいう「通用門」が、この歌では「遮断機」という一層毅然たる表現に転じている。「われ」と「魔女」とは異なる世界を踏み越えて変身の間際の、同じ二つの顔に相違ない。
この歌でも「われ」と「魔女」との価値判断はしていない。出来もしない。「われ」のなかにいつも「魔女」は潜み、「魔女」として生きる暮しが「われ」の 暮しでもある。お互いにしめし合わせて不都合なく生きて行くよりないと、世界を分かつ「遮断機の前」は、両者が慎重に瞬時に打合せを遂げる秘処なのであ る。
むろん作者が勤めの退けどきや、通勤途中の踏切などにうち重ねて想像してみるのは、「岡井隆氏」の場合と同様、いっこうに差支えない。ただ、そこで読み止まっては面白くない。
これらは私のみる所、自身および「生きる」ことへの、まぎれない、「愛」の歌である。 昭和三五年『不文の掟』所収。
2021 2/18 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 「昼食」と机上にメモを置きて来し
身は早春の街に遊べり    島田 修二

☆ なんでもない歌のようでいて、一語一語がよくモノを言っ ている。一首の短歌として、用語の一つ一つが「詩化」を遂げている。短歌作品としては当然の前提であるとはいえ、これがなかなか遂げえられないのが「現代 短歌の重い病気」なのである。言うまでもない作者は勤めの人であり、それも忙しい連絡に追われている。その昼休みに「メモ」一枚を机に置いて街へ身を解き 放った、そのあふれる喜び、そして下にただよう悲しみ、が…下句にみごとに満たされている。
こういう自愛を余儀なくされている社会、都会、生活。作者は、やがてここから敢然と脱出する。 昭和五八年『渚の日々』所収。
2021 2/19 231

* コロナ禍は終息に向いているとはまだ言えないようだ。さらに長期の辛抱、文字通りの辛抱が要るよう だ。それならそれで向き合うしかなく、私の場合は、諸事要慎しながら「長期の春休み」と受け容れ、好きなことを好きに、したり、しなかったり、八五老の日 々をむしろ飽きるほど堪能すればよい。この此処の「私語の刻」など、おそらく他の人には無い私に独特の読み書きの遊びでも創作でも日乗文事でもあり、いわ ば存在証明でもある。なにより、飽きることが無い。

* いまも手をすこし伸ばして国史大系「公家補任」の一をあけ、いま何より欲しい孝謙天皇の頃から光仁、桓武をへて嵯峨、淳和天皇ごろまでの宮廷人事に目 を向けている。えも謂われぬ津々興味の史料で、はまりこむと時間を忘れる。上司も同僚も部下も友人もいない気楽さ。感染のおそれの外出も必要なくて歴史と 読書に親しむ「籠居老人」には、疲労はあっても、退屈が無い。次から次へ、太古から近代へ、日本にも世界にも、心惹かれる人や話題や事件は限りない。そし て雑多な知聞や知見の前後左右修正や整理や積み増しもできる。

* いま、元代の曽先之が編んだ『十八史略』にも心惹かれている。十八もの史書の略編であるか。「太古」に始まり、次いで「三皇  太昊伏羲氏 炎帝神農氏 黄帝軒轅氏」へ、そして「五帝  少昊金天氏 顓頊高陽氏 帝嚳高辛氏 帝堯陶唐氏 帝舜有虞氏」へ 次いで「夏后氏」となり、以後、初めて「歴史時代」へ、書契をもった「殷」時代となり、「周」時代へ続く。
よく、耳にも目もしてきた「堯・舜」の時代は、いわばまだ神話伝説の雲のなかにあると分かる。伏羲氏は「蛇身人首」であり、神農氏は「人身牛首」とある。
しかし、読んでいると、この神話的伝承にも「火」「木」「土」「水」「金」また「天象」への「順」を踏んだ生活上の知見や認識の展開がみられる。日本神 話とは趣を全く異にした人間社会への歩み歩みであり、叙述の順は、よほど知的・生活的に感じられる。そして、はるか後々の歴史時代『史記列伝』のような諸 国入り乱れた戦国時代では、次から次へ交錯して、強かな「策士」らが、各国の王や帝に善悪こもごもの智恵をつけて勝敗・優劣を競いあって飛び回る。
かすめたほどの上皮だけは教科書で読んでいても、ま、なにも識らないで来た。だが、漢文を難儀して読み読みでもたいそう心惹かれ、知識的になんとも面白 い。しかしこんな読書、漢字の一字をこうして書き出すだけにも延々とATOKの世話にならねばならず、今だから出来る。依頼原稿の山なみを懸命に登り下り して駆け次いでいた若い頃には、手も出せなかった。コロナ籠居の老蚕なればこそ好きに繭も吐ける。退屈の「タ」も無く楽しめる。
2021 2/19 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ きらきらと輝くような目で見てよ
われはそれほど不幸にあらず
空わたるかりがねよいま人として
地上に生きるわが身も見てよ     冬道 麻子

☆ 重篤の病に文字どおり身動きもならない若い人の、これは また、なんと美しい「うったえ」だろう。「見てよ」といった、何でもなく、むしろ投げやったような物言いがこんなに胸を打つ明るい響き、誇らしいまでの輝 き、をもった例を知らない。ことに第二首めの間然するところなき表現の確かな訴及力に、その新鮮さに、心からおどろく。
命への噴き上げる「愛」あって初めて歌い切れた歌声が、聞こえる。 昭和五九年『遠きはばたき』所収。この歌集出版には、亡き高安国世をはじめ多くの歌友の応援があったときいている。心すこやかなこの作者の前途を祈りたい。
2021 2/20 231

* 機械のなかを散策中に、「ひばり」という短編のあるのにぶつかった。アレレと思ったが、『選集 11』に収めていた。口絵をみると、懐かしい、京・新 門前の父がくつろいだかっこうでちっちゃな建日子を膝に抱き、母もそばへしゃがんでいる写真が上段に載っていた、下には幼稚園頃か建日子と私で我が家の門 のまえで撮った写真と、そのわきに、一年生の建日子が「父の日」に教室で書いてきたという、
お父さんへ、

いつでも日の出づる人に
なていて下さい。
建日子
とあるのも 同じ選集11の口絵に遣っていた。嬉しくて、しばし見入っていた。
「ひばり」か。懐かしいなあ。こんな短編をひばりの「唄」と合わせ合わせ十も書いて置きたかったが。美空ひばりもまた わが青春の花であったのだ。
2021 2/20 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 聖書が欲しとふと思ひたるはずみより
とめどなく泪出でて来にけり     近藤 芳美

☆ いまさらに「聖書が欲し」と思うくらいだから、この人は これ以前にクリスチャンであったわけではないのだろう。ただ「聖書」の意味や価値については承知していた。ふとおとずれる信仰の誘いのごときもの…の、魅 力や価値についても、またそのような誘いに心惹かれる人間の思いの深みや寂しみを、まるで覗いたこともない人ではなかった。ただ、どちらかといえば積極的 に「聖書」に真理を求めるというより、ふと心なえたり傷ついたりした時にそういう誘いに身をまかせたくなるいわば自身の性向に気づいていて、だから、い ま、「とめどなく泪」の出るのをおさえようもないのだ。
「泪」を否定しているのではない。作者が信じているものとあるいは対極に在るかも知れない「聖書」を、否定しているのでもない。どの道を通って目的へ到達するにせよ、人間の運命がいとおしまれている。 昭和二三年刊の歌集『早春歌』の冒頭を飾った歌。 2021 2/21 231

* 2000年5月分(21年余以前)と思しき「私語」日記が、それだけ単立で、機械の中で見つかった。
読んでみると、当時、あの「女の話は長くて会議には迷惑」とぼやいた森総理大臣が、「日本國は神の國」と軽やかに宣うていた。なんの、かんたんに逆が云える。
双方ともに男とも女とも限らず、「その通り」と思うている日本人、けっこういるであろうことも慥か。一律にモノは云いにくいということこそが慥かなので。
「分かる人には分かるのえ。分からへん人にはなんぼ云うても分からへんの」と、むかし、教わったが、森総理もそう云う、女の人たちもそう云う。わたし も、そう云う。言の葉は、様々に色づき、様々に散りかう。それと「承知」していれば、さきの「教え」が微妙に「正確な意味」を持つ。
2021 2/21 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

☆ ユニークな作風で注目された丸山薫の『帆・ランプ・鶴』(昭和七年刊)から、ちょっと面白い散文詩 「山」 を挙げてみる。

★ ケンキチは、肥ってゐる僕を山に肖てゐると言ひ、
いつかの夜、夢の中で登つたのがそんな形の丸い山だ
ったといふところから、僕の顔さへ見ると、かならず
「やあ、山が歩いて来た、山が寝てゐるぞ、煙草を吸
つてゐらあ」などと、人をそつくり山にして喜んでゐ
る。うるさいな。僕は苦笑するが、かうして考へるこ
ともなく動かない自分はわれながら巨きな山であるや
うな気がしてきて、をりをりは涼しい雲に巻かれさう
になるから可笑しい。                 丸山 薫

☆ 為す無き安逸を自戒している風でいて、もっと余裕があ る。「ケンキチ」のいわく「山」にも、友の美質に触発されて清風が流れている。独座大雄峯。そうまでも居直らない涼しい境涯に、またこの詩風に、心境的私 小説全盛の時代と相亙る「詩人」の好みや態度もほの見えて面白い。そして可笑しい。この面白さも可笑しさも、すぐれて上質である。
2021 2/22 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 僕は衰へてゐる
僕は争へない
僕は僕を主張するため他人を陥れることができない

僕は衰へてゐるが
他人を切つて自分が生きようとする衰へを
僕は恥ぢよう

僕は衰へてゐるが
他人の言葉を自分の唇にのぼす衰へを
僕は恥ぢよう

僕は衰へてゐる
僕は僕の衰へを大切にしよう     高見 順

☆ 昭和二五年刊の『樹木派』に収めた「僕は衰へてゐる」を 引いてみた。自分の「衰へ」を自覚できるという事は、思いようでは、人間にも「動物」なみに許された高貴で自然な自覚である。その自覚のいわば底辺にあっ て、なお…というか、それだからこそ…というか、譲ることの出来ない「人間」的な一線をこの詩はきっばり歌いあげている。
もう一つ、同じ高見順の詩集から、挙げずにいられない、「天」という作品がある。

★ どの辺からが天であるか
鳶の飛んでゐるところは天であるか

人の眼から隠れて
こゝに
静かに熟れてゆく果実がある
おゝその果実の周囲は既に天に属してゐる     高見 順

☆ これまた「愛」の詩とどう読めるのか、人はいぶかしむだろう。
何でもない。
「天」を「愛」と思って読めばいい。
2021 2/23 231

* 若い天皇さんの誕生日というので、妻と、わらって赤飯を祝った。
天皇などという名前にひれ伏す気はないが、日本史に天皇の途絶えなく存在したことは、独特の「文化」として私は受け容れている。敗戦後に、無くても佳い のではと思った時期もある、が、日本人は、戦後がつづくうち、その中でも政治家という不逞かつ無学な悪徳権力者達が、天皇無ければさらにさらに横暴と我 欲・権力欲を極めるであろうコトが確実になるにつれ、せめても「文化」としての、かろうじて「安全弁」としての天皇制は保持したいと思うようになった、 が、それも一つには平成天皇ご夫妻、また令和のご子息天皇に誠実と聡明とを信頼した、するからである。政治悪にわるく利用されてはならぬ。その意味でも、 天皇が「象徴」に止まられるのが無事かとは思う。
しかし、年に、数回は、思い切った「お言葉」を国民のために、平和な安穏のために、「希望」また「苦言」として積極的に吐かれるのを、私一人はむしろ強く期待している。

☆ 神楽歌  閑野小菅(しづやのこすげ)

閑野(しづや)の小菅(こすげ)鎌もて苅らば
生(お)ひむや小菅
生ひむや生ひむや小菅

天(あめ)なる雲雀
寄り來(こ)や雲雀
富草(とみくさ)
富草持ちて

富草噉(く)ひて

あいし あいし

あいし

* こういう環境や感興を、神と親しむ思いで人は「文化」として抱いていた。そういう日本の末世にいま私たちは生きている、あまりに雑然と。
2021 2/23 231

* <大學>
大學の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しむに在り、至善に止まるに在り。
止まるを知りてのちに定まる在り、定まってのちに能く静なり。静にしてのちに能く安し、安くしてのちに能く慮る。慮ってのちに能く得(う)。
物、本末あり。事、終始あり。先後する所を知れば、則ち道に近し。
古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は先づ其の國を治む。其の國を治めんと欲する者は、先づその家を斎(ととの)ふ。其の家を斎へんと欲する者は先づ其の身を脩(おさ)む。其の身を脩(おさ)めんと欲する者は、先づ其の心を正しくす。其の心を正しくせんと欲する者は、先づ其の意を誠にす。其の意を誠にせんと欲する者は、先づ其の知を致す。知を致すは物を格(きた)すに在り。
物を格してのちに、知至る。知至つてのちに、意誠なり。意誠にしてのち、心正し。心正しくして、りち、身脩まる。身脩まつてのちに、家斎ふ。家斎つてのちに、國治まる。國治まつて、而して天下太平。

* 息子に放題に悪をさせておき、親とは別人格と。この親総理、どんな「大學」に學んできたのか。修身斎家まさに落第、治国平天下など、とてもとても不適。落第。

* 近い時代に大きな存在であった 道教の老子 荘子   儒教の孔子 孟子  前二者と後二者とは 明らかに異なって、それぞれに近くて親しく見えている、が、前二者のあいだにも 後二者のあいだにも またよ ほど異なる風情があり実感がある。いずれにしても、仏教の祖師はふれど、こういう思想的な覚者は日本には現れなかった。輸入されたのであり、今日にも日本 にはすぐれて生き生きと日本人を育てた哲学は今なお実在しないと思われる。戦前の哲学も美学も、舌を噛みそうなひどい日本語をまきちらしたのが関の山で あった。戦後世代を構造と方法とを持って率いてくれた哲学も思想も、無いと謂うしかない。

* 中国の人民はじつに割りよい「福・禄・壽」信者とみえながら、権力ある指導者は、えてして摩訶不思議な自前の「思想」を鞭のようにふりまわす。日本の政治家たちは欲だけは深いが、不勉強の極みを競い合う不可思議人たちである。

* 殷に次ぐ、「周」という中国古代を今夜は床で読む。「フアウスト」「失楽園」のような巨大な創作を、「源氏物語」の美しさのほかにもてなかった不甲斐なさを覚えながら。ま、西鶴かなあ、かろうじて。明治以降では、漱石と藤村とを、やはり挙げたいが。 2021 2/23 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 新しきとしのひかりの檻(おり)に射し
象や駱駝はなにおもふらむ   宮 柊二

☆ 暦の上での清々しい「新年の日の光」はいついかなる時にも変りないが、人間や時代の運命は容易には定まり難いものである。その閉塞状況への憤りをこのさりげない独詠歌からは読みとらねばならぬ。
「檻」の中の「象や駱駝」の思いを問うのは、そのままに自身と母国とが置かれている一切の状況へむけて問うのである。すべての自由ならざるものの運命に 問うのである。骨柄の大きい、多くの近藤の歌とはまた味わいを異にした思想歌とでも言おうか。 昭和二八年『日本挽歌』所収。
2021 2/24 231

 

* 聖路加から処方箋の送られた薬局へ、お薬をうけとりに自転車に乗った。かなり疲れると分かった。帰路に白梅の梅林のそばを通って薫りに惹かれた。
匂ひは、光を受けずには起きない。薫りは光なしに闇にも人に届く。それが「源氏物語」宇治十帖二人の貴公子の光源氏との関わりを証言している。
薫は表向き光君の次男とされているが、光の血筋は受けない、光の妻三の宮と柏木藤原氏との道ならぬ道を通って生まれた子。匂宮は歴とした光源氏の娘明石中宮の子息、光君の血を受けた孫である。
薫君と匂宮との通り名の意味をこう読み取った前例は、私の提言まで無かったらしく、当時、慶応の人気教授であった池田弥三郎さんはいちはやく目をとめて下さった。遠い昔のハナシになったが。
2021 2/24 231

* 晩、小津安二郎映画の『早春』 池部良 淡島千景 岸恵子 浦部粂子、杉村春子、中北千枝子、加東大介、柳智衆、山村聡等々で観た。どうあっても最後まで、「池部良」の名前だけが何としても思い出せなかった。しかし、かなり大勢がなんとか思い出せ、ホッともした。
私たちより一世代半ほど年配の、戦地体験がある今は会社人間たちの世間だったが、昭和十、十一年生まれの私たち夫婦にも、微妙な差異と共有ないし知見で見えも分かりもする戦後東京が懐かしく、まことにしんみりと面白く通して観られた。
小津映画は、えもいわれず快適に懐かしく創られて、グの音も出ない。撮って置き、やはり棄てがたく、またいつかきっと観る、観たい映画と思った。

* それにしても「会社員」人生の背中の寒々とした心細さ。顧みて、ああいう世間を幸運によく抜けて出られた、自力で自分の世界を創り切れた闘い切ってこれた、よく頑張ったナと自身の歩みに頷けた。懸命に、自身励まし励ましよく生きてきたな、二人して、と思う。
ここ数日はじつは怠けて半分遊んでいるが、怠けるということのほぼ全然無い人生であったなと、感謝あるのみ。
2021 2/24 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 仔の猫の吾を見守りしばしあり
人語解らぬもののすがしさ    大塚 布見子

☆ 仔猫の可愛いようすもさりながら、それから下句へふくら んだ認識が、ただに認識にとどまることなく作者の「境涯」として深められているのが、なつかしい。言葉を駆使して生きる歌人ゆえに、また「人語」のわずら いをよく心得ている。まこと「言わざ繁」き世のなかになっている。
私も仔猫のノコと「ふたり」在る時が、一等清々しい。 昭和六〇年『霜月祭』所収。

★ 己が名を聞き分けて応ふるわれの犬
名のあることの寂しくはなきか    青井 史

☆ この歌を読んだとき、作者はどんな考えでこの下句を作ったのか、そこが聞きたい、つまり、そこの所を歌って貰ってこそ歌なのにと思った。その思いは、今も変わらない。が、心惹く歌であるにも相違はない。むろん下句のゆえにである。
名づけて名を呼ぶ、のは、古来「加護」ないし「支配」の一つの形だった。すぐれて人間に固有の営為でもあった。「われの犬」もそうした人間の行為に巻き込まれて暮らしている、「名」あるがゆえの服従を強いられている。そういった事を作者は言いたかったか…。
そういう風情では、なさそうにも思われる。むしろ「われの犬」に問うかたちで、実は「われの心」にこそ作者は問うているような気もする。何を…。あらゆ る人間の関係が、何らか「名」と「名」とのうわべの関わりと化し、真に人間的な共感や共生の実質を欠いている事に愕然とすることは多い。「名」にはばまれ て真実の愛がむしろ完うされないという悲しみや寂しみを胸に抱いた人は、多いはずだ。少なくも私はそう思ってきた。そこを乗り越えなければ人と人とは、い つまでも他人ないし世間の域を出ない間柄でしか生き交わせず、真実の「身内」にはなれないと考えた。
青井の意図は汲み切れない。が、この歌はそういう私の思想をまた思い起こさせた。 「かりん」昭和五五年六月号から採った。
2021 2/25 231

* 中国は、この世界的なコロナ蔓延・猖獗は、いわば第三次世界大戦であり、中国は「勝つ」ないし「勝った」と明言しはじめた。
私は驚かない、去年の早い段階で、私は強感染のウイルス・細菌やワクチン対応は、まさしく戦略戦争の武器であり、中国にその糸が有ったとしてナニ不思議 もない、むしろ明らかにその威とを隠然かつ陰然として抱いている懼れあろうと指摘しておいた。なにも中国に限らない、そのようなことを考えるのが世界支配 に気のある強国の歴史的な姿勢であったし、「勝つ」ためにそんな手を隠し持つのは世界史的な事実だと観てきた。殺人に「毒殺」を考えるのは、政治権力者だ けでない、貴婦人にしてそんな犯罪を試みてきた例は、『モンテクリスト伯』を読んでもすぐ分かる。ウイルスや細菌はまさしくその「毒」なる精というに同じ く、権勢がそれを武器同様に駆使して世界戦争に勝ちたいと狙うのはあまりに当たり前なのである。日本軍にも当然そういう姿勢と研究への体制対策の存在した ことは、識るものは識っていた。医学書院の編集者として私も、それらをちらちら耳にする機会は、無かったでなく、在ったと知覚し淡く記憶している。
中国の姿勢が公にたしかになりつつあるのは、用意周到の戦闘的悪意と理解するのが、防衛に廻る他国の理の当然であろう。日本の代議士と称する無知な政治家たちの何人ほどが、この、中国の所謂「第三次世界大戦」に気づいているか、寒気がするほど頼りない。

* 中国には儒教も道教も、仏教や禅も、びっくりするほど盛んに根付いたけれど、それは、事実に於いて「中国」なる「国」の、とほうもない策謀・暗躍・支 配欲のただに「影絵」に過ぎないのを、まして日本國と日本人はよく心得ていないと危ない。孔子でも孟子でも、都合次第に裏向けたり表向けたりして勝ちに利 するためのカードに過ぎない、過ぎなかった。
2021 2/25 231

* いま、目の前の機械は、ヘンデル作曲のオラトリオ「メサイア」を聴かせてくれている。これは縁の遠いものではない、いま耽読している「失楽園」も 「ファウスト」も、繰り返し手にふれる「創世記」以降の『旧約』世界と想い豊かに触れ合うている。ロシアを旅してトビリシのホテルに宿泊の時、どういう キッカケであったか、ホテルの従業員のような人が、いきなりに『スターバトマーテル』のレコード板一枚を手渡しに呉れた。大事に日本へ持ち帰り、よく聴い た。こういう世界へ触れ合ってゆきたい気持ちが、私にはもともと在る。神仏であれ神であれ、ことに聖母マリアであれ。
この二階廊下の書架には「マリア」に関わる本が数冊の余も積まれてある。そういえば、昔、世界の名作に「マリア」の名で登場する大勢の女性たちをとりあ げ一冊の思索本にと或る出版社と申し合わせたことがあった。私の事情で成らなかったが、おもしろい企劃ではあるまいかと今も思う。世界の名作に、マリアの 名のさまざまな女性が登場して意味を帯びている。トルストイ『戦争と平和』にも佳い「マリア」がいる。小説ではないが映画「ウエストサイド・ストーリー」 の心優しいヒロインも「マリア」と高らかに歌われていた。いい本が書けるはずである、だれか書きませんか。
2021 2/25 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 国原はふもとにかすみ冬の蝉
さくらの幹にひそと放つも   前 登志夫

☆ 「ひそと」という清寂の気に、この歌は心あたたかに包まれている。言葉の正しい意味で「なつかしい」佳い歌になっている。吉野でよし、吉野と強いて読まなくともよい、とにかくもこの「かすみ」籠めた「国原」はわれらの国原だ。
下句をことさらになにか寓意ありげに読む必要もなく、ただ言葉のままに作者の優なる振舞いをありがたしと享け、美しと感じれば佳い。 昭和四七年『霊異記』から採った。
2021 2/26 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 白きうさぎ雪の山より出でて来て
殺されたれば眼を開き居り    斎藤 史

☆ 当代屈指の難解歌かも知れぬ。しかも魅力に富み、看過できない。
この歌について、私はこの詩人自身が語るのをテレビで聞いたことがある。感動して聞いた。が、それをここへ正しく私は伝えられない。人により、実にいろいろに読まれて来ましたと作者は微笑していた。だからといって作者自身の読みを強いているようでも毛頭なかった。
どう思ってもこの歌は、例えば「美」を意図したものではない。そういう言いかたをするなら「真」を、真の「自由」を不当に覆い隠すものに対する、激しい憤りを「うったえ」た歌だろう。
「雪の山」にすむ「白きうさぎ」は、自然に外の侵しからは守られている。が、豊かな暮しではないだろう。「山」を出たい気持ちにもなるだろう。出ればそ こは人間の世界。見つかれば簡単に「うさぎ」ごときは殺される。そして案の定「殺されたれば」こそ初めて、命の一切をかけてむごい人の世のありのままを、 「眼」をみひらいて見ている。そのむなしさの一切をかけて抗議している。死んで、殺されて、…そして初めて眼を開いてものを見るのでは遅い…と、意識にお いて「山のうさぎ」でしかないいつも甘えてめくらな誰かに、あるいは自分自身に、この歌は「うったえ」ているのだろうか。
今の私にはこの程度の読みが精一杯だが、年を経てまた別の読みが可能かも知れぬ。 昭和二八年『うたのゆくへ』所収。
2021 2/27 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ この桜しろがねの壷に挿さうかな
夜寒なにかは月も入れんよ    高橋 幸子

☆ こういう豊かに美しい、しかもなごやかなエロスを秘めもった情感を、壺も、月も、私は詩歌の表現としてことに好む。

★ 花籠に 月を入れて
漏らさじこれを 曇らさじと もつが大事な     『閑吟集』

☆ この室町小歌を東に置いた高橋の表現に相違なく、「しろ がねの壷」には女体である自像も彫り込まれていよう。「なにかは」構うものか、それへ「桜」「月」もろともに挿し入れて佳しと夢見る、春おぼろ「夜寒」む の孤心。風流の極みと愛でたい。  昭和五八年『花月』所収。
2021 2/28 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 案内(あない)して花がよろこびますといふ    永井 龍男

☆ 「いちどきに帰り給ふな花の客」という句もこの作者に、ある。懐かしい。花と客への、愛。 「俳句とエッセイ」昭和五七年五月号から採った。
瀧井孝作先生とお二人で私の『廬山』を美しい作と、美しさに殉じた作と芥川賞に推して下った。出先でたまたま、私とみつけられるとご自分から寄ってらしてよく励まして戴いた。懐かしい。

★ 春の曇り引窓の玻璃に動くなく
過去世のさくら遠山に咲く    前 登志夫

☆ おそらく「美しい」という言いかたがしたければ、今、前 登志夫のこういう歌の右に出る作はそう無いだろう。だが、ただに「美しい」だけの歌とは思われぬ。初・二句の字余りの重ねが利いて、「動くなく」といった 寸を詰めた表現がきっかり急ブレーキのように静止感を強め、「玻璃=ガラス」ごしに音を遮断して眺めた「春の曇り」の、なんどりと静かな風情をみごとに描 写する。しかも処理のむずかしい「カ」行の音の、ことに「ク」音をこの歌は旋律として生かして、おおむね成功している。私はそう評価している。
それにしても下句「過去世(「かこせい」と読みたい)のさくら遠山に咲く」の気の遠くなるような美しさはどうだろう。「過去世」は、たんに昔の意味とは 思われぬ。仏の世界にいう過去仏と同じに、無量無際涯に「過去」という単位を積み重ねたその遥かな「過去世」というほどの思い入れがあろう。しかもそれほ どの過去から変りなく、今も目に映じているのと同じ「さくら」は咲いていた…と言いたい、事実の感覚では受取れない心の真実として咲く花を、作者は眺めて いる。そこに「遠山」の「遠」いという字づかいが生かされている。
この「吉野の鬼」といわれる歌人は、まさしく永遠の「時」を駆って美の真実を収穫している。 昭和四七年『霊異記』所収。

* 弥生三月 よき花月(はなづき)であれよかし。
2021 3/1 232

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 花にそむ心のいかでのこりけむ
捨てはててきと思ふわが身に     西行法師

☆ 「染む」は花の色香に愛着する意味。世を捨てて僧になった身に心に、花への愛着だけはなぜ捨て切れないのか…と。
「空」と「色」との尽きぬ葛藤を抱いていた心優なる花月西行。美しくも常なきものへの愛の思い入れの深さ。たんに風流、風雅というて尽くせぬ自然の真や 美との共生には、とほうもない豊かな覚悟がうかがわれて、この歌なども、現代の貧しい心根には、まるで夢でも見ていると映る。
夢の夢である儚い価値に気づかなくて、どうして現実の価値が見えようか。 『山家集』所収。
2021 3/2 232

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 春昼(しゅんちう)の校庭に立つ足裏に
さくらさくらと散るものの声    東 淳子

☆ 桜の花びらが一面に散り敷いた校庭に立っている、と想っ ていいだろう。「足裏に」は一つにはそういう状況を説明する役目がある。が、同時に地の底を経て他界に至る道、いわば境としての「足裏」でもあるのを見落 としてはならぬ。「さくらさくらと」にも、或る重ねられた「うた」の効果がある。「弥生の空は見渡すかぎり」と今しも生徒たちは歌っているのかも知れぬ。
姿なく声もない声が作者の耳には今しも聞こえているのかも知れぬ。例えばあの戦争の日々、「さくらさくら」を相言葉のようにいくさの庭に散って行ったも ののことも、作者は忘れてなどいないはず。「散るもの」とは花なる「さくらさくら」だけでなかった。生きとし生けるものが散って行く。散って「もの」とな る。「ものものしい」「ものがなしい」「ものがたり」「もののけ」の「もの」になる。
作者の思いには今しも春、入学を果たして来たばかりの無邪気な生徒たちでさえも、「散るもの」に数えられていよう。その運命がいとおしまれ、また何ものかへのそれは憤りとも見合っていよう。
ざっと読んではみたが、尽くせたとは思わない。洞察の力を美しく詩化しえた秀れた現代短歌。 昭和五三年『生への挽歌』所収。
2021 3/3 232

* 「マ・ア」が鰹を頂戴と。いま足元で食べている。わたしも、なんとなし機嫌がいい。
わたしは、人中へまじって付き合って、人にも良く思われて…という意図的な暮らしをしてこなかった。「作家」としても、ある時期、「湖(うみ)の本」創 刊の35年ほど以前から「騒壇餘人」と看板をあげ、独りで親しい読者達とだけ向き合い、老境へ向かい向かいながら膨大といえる執筆や創作を重ねてきた。妻 がそばにいてくれる。 そういう一生で終える気だ、それが良い。
2021 3/3 232

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 花が水がいつせいにふるへる時間なり
眼に見えぬものも歌ひたまへな     斎藤 史

☆ 「歌ひたまへな」は、素直にとって、他人にあつらえ望ん だもの言いだろうと思う。歌の道をともに行く年少の友らへの言葉と聞いても差支えはない。むろん「眼に見えぬもの」とは何か、なぜそれ「も」歌わねばなら ないのか…が問題であり、斎藤史の短歌観がこの歌で歌われているとも言える。
たとえば単純な写実本位を主張する立場から言えば、「眼に見えぬもの」などを追う表現は二義的というしかないだろう。
だが、本当にそうなのか。そう問い直す考えがなければ斎藤史のようには歌えまい。花も水も「眼にみえる」ものだ、が、花といい水といいその「ふるへる」 不思議の命は、「眼」でのみは捉え切れない。しかしその不思議に感動しその不思議に参加して行くのでなければ、花や水の、美も真もおよそ よそのもの で 終わるしかなく、その限りではどんなに精巧に外形は写しえたにしても、それは死んだ花や水の外面でしかありえない。
眼に見えるから自然なのではない。むしろ眼に見えぬものと表裏合わせて自然に成る。どの片方で終わっても、それこそ不自然。眼に見えぬもの「も」、とい う含みを正しく聞かねば間違ってくる。「花や水がいつせいにふるへる」或る特定の「時間」をこの歌は指さして言っているのだろうか。むしろ目の前に人を置 いての「いま」を指して、ほら…あんなに、と示しているのだと思う。
もののうわべしか見ようとしない人が多い。不思議の命にこそ感動して欲しい、そういう真実を、美しいとも、すばらしいとも、愛して欲しい。そう、この歌は歌っているのではないか。私はそう思っている。 昭和二八年『うたのゆくへ』から採った。
2021 3/4 231

* いま、「柳橋」の船宿で、「米櫃」の異名のまま贅をいとわず妓女を侍らせ酒食と好色の極みに遊んでいる。
「剣客商売」のような比較的まっとうな時代劇でも「不二楼」のような船宿が劇の場を貸しており、梶芽以子演じる女将が秋山小兵衛や息子大次郎を取り持っ ているが、彼らがそこで妓女と酒色に耽っている図は無い。しかし、少なくも江戸時代、ほんものの「柳橋」の船宿が「米櫃」さまと歓迎歓待した客は、女連れ ないし藝妓娼妓を席に迎えて贅をつくしかつ連泊(いつづけ)してゆく客であった。
いま、私は、そうした船宿に嵌りきり、遊んでいる。
2021 3/4 231

* この年齢になり、東京へ出てきて六十二年にもなりながら、今なお、生まれ(は分からない、識らない)でなく、養父母らに育てられた京都市東山区知恩院下新門前通り での二十年近い日々の、近隣地域へのまお不審ないし識りたい心地が、少しも失せていない。いま「西東京市」の一画にいたままでは、なかなか不審も晴らせないが、昔の友 達に問いただすことも、もう殆ど不可能になった。
東京に、昭和三十四年の二月二十八日に出てきて、六十二年が過ぎた。京都には物心ついて二十年ほど暮らした。それなのに、東京をいまだによく識らない。 おのぼりさん風にあちこちへ出向いた記憶の程度で、地元の保谷も、都心の繁華も、ほとんど心身に刻まれていない。所有されていない。
京都となると、いまも記憶に頼るまでなく、わが街として、地元として、したしく歩いて山ほど思い出せる。至る所に歴史と結ばれた問題点に気づいて、さら に探索したくなる。そういうことには、人間味との関わりがぜひ必要で、東京ではそれが無いに等しく、京都ではありあまるほど有る。今はそれを、思い出に耽 るようにただ費消していて、「もったいないなあ」と思う。
仕方なく身の回りのものを処分に掛かっているが、兄恒彦の遺書や便りなど、どうすればいいか、胸にせまるばかりで、途方に暮れる。美術骨董のたぐいはあ との人で何とでもなるが、どうにもならないただ私にだけ莫大に意味のあるものや記憶は、私の手で始末をつけておきたい、だが、途方に暮れる。なんとかも少 し長生きし、納得にちかい手当ないし処置をして逝くしかないが。むりだなあ。
2021 3/4 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 百粒の庭の桜桃(おうとう)食べ頃に
赤らむ頃をわれも椋鳥(むくどり)も待つ
桜桃の赤らみそむる可愛くて
醜(しこ)のむくどり食はずに居れぬ
数粒は鳥に残さむと我は思(も)へど
鳥はひとつぶもわれに残さぬ     斎藤 史

☆ 昭和五一年『ひたくれなゐ』から連作を抜いてみた。
第二首の「醜のむくどり」は、実の椋鳥以上に作者自身の自称であるらしく感じられる。すくなくも両方を兼ねた「むくどり」と読みたい。その余は解説を要しない。鳥・人共生の、ふしぎにユーモラスな情緒と季節への愛とを、くすんと笑いながら楽しみたい。 2021 3/5 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 我よりも長く生きなむこの樹よと
幹に触れつつたのしみて居り     斎藤 史

☆ 残り少ない自分の命を感傷的に哀惜するのでなく、むしろ自分の死後にもなお成長して行くのであろうはつらつと美しい樹木(ないしは、後生・男)の命を、たのもしくも楽しく眺め、かすかな性愛とともに手に触れている。自然への大きな愛と平静な安身立命の落着き。
これほどの歌をさらりと歌えた詩人は、めったにいない。 昭和三四年『密閉部落』から採った。

★ 夕ぐれの秋の光に馬は佇(た)ち
ながるる風に浄まりゆけり     斎藤 史

☆ こういう歌を挙げて名歌だといえば、昨今の技巧本位の自称プロ歌人らはあざ笑うかも知れぬ。
しかし私は言う、この一首などは、ひとりの歌人のかりに「最期の歌」となっても、これ在るだけで生涯の一切が記憶されるに値するほど、優れた歌なのだと。
どこに奇もない。むずかしい字も表現もない。だが一幅のこれは名画のように、三十一の音がいささかの無理も不自然もなく、むしろ積極的に働き合いなが ら、線になり色になりして清い風景を成している。「馬」としかいえないただの「馬」が、「夕ぐれの秋の光」をそよがせて「ながるる風」のなかで、或る、 「馬」以上の不思議の「命」そのものに透きとおって行く。言うまでもない、その光景を「馬」とともに「佇」み眺めている作者の老いの命も、透きとおって行 く。
うらやましい。 「短歌」昭和五九年七月号から採った。
2021 3/6 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 豆煎れば豆ひそやかにつぶやけり
未来の世も同じこほろぎの声     斎藤 史

☆ ここへ来て、なぜこう私が 斎藤史の歌ばかり並べるのか と思われもしよう。「愛」の詩歌を選ぶ作業のなかで、どうしても漏れてしまいそうな秀歌群のあることは、予想がついていた。それを少しでも掬い上げるに は、「さまざまな愛」といった章を一つ立てるしかない、という考えも 最初から私にはあった。
それにしてもこの一首など、「愛」の歌と、どう読めばいいのか、読者が迷われるであろうように、私も惑う。しかも、どうしても省く気になれない。
生きて幸せであることへの弱い断念や嘆きの歌だとは、思わない。生きることの相も変わらぬ辛さなりに、それなりに生きの限りは生きたいし生きて行けると いう、「意志」の歌に私には読めるのだ。「こほろぎの声」というのも、寂しいほろびの象徴として歌われてはいず、むしろ過去現在未来を通じて変りないいわ ば「所与としての自然と生命」を象徴しているように読める。
豆と豆殻とが火熱を浴びながら互いに身の不運をかこちあう寓話を我々は知っている。斎藤史のこの歌はそれも承知のうえ、しかも平静に来る運命は運命とし ておそれなく迎えて、なお生きよう「意思」へと逆転し得てはいないだろうか。「未来」を「つぎ」と読まず「さき」と訓ませたレトリックにも、三世の区別を 超えて「生きる」ことへの変りない「愛」が暗示されているように思えて仕方がない。
「豆」は、泣いても嘆いてもいない。見苦しく騒ぐでないと、むしろ、我々につよく訓えている気がする。 昭和二八年『うたのゆくへ』から採った。

* 斎藤史には、別に、語られていい、語らずにすまない「歴史」がある。父は、あの「二・二六事件」に深く関わって蹶起将校たちに感化し得た一将官であり、罰された。将校達の中には斎藤史さんの少女期いらいの友もいて、銃殺された。
この事件にはムリもあったが意思の深みには日本と日本人とのなおざりにしてはならない問題も沈んでいた。ただ「叛乱」の一語で葬り去っていい叫びだけではなかったと私は観て聴いている。斎藤史は、生涯それを抱いていた。

* 上の斎藤史の件とは離れて云うので、誤解しないで欲しいが。
「平和」は、いかにもまことに大切の大事である。このホームページの巻首にも私はピカソが描く「平和の願い」を私自身の思いとして掲げている。
その上で云うが、「平和」は語っていて済むことでない、「平和」は護らねば成らない。「語る平和」は、場合により吹けば飛ぶ標識に過ぎない、「平和」は 国民感情を挙げて「護る平和」でなくて何になろう。「語る平和」「云う平和」を大きく超えた「護る平和」に、いま日本国民はしかと気づいて覚悟を定めてい るだろうか、いやいや、政治家にして其れがまこと「心もとない」のを私は懼れ危ぶんでいる。
「攻める平和」を私は認めない。「護る平和」は、至上の国家国民の課題である、相応の覚悟を抱え負荷に応えねば済まない。断言せざるを得ないなによりも政策の聡明と堅実とが求められる。
2021 3/7 231

* 上にあげた『京に田舎在り』の名士たちの随想をみていると、「俳句」を手すさびのようにする人が多い。短歌和歌の人はいないに同じい。
俳句は短くて取り付きやすく易しいと思う人が多い、が、私は、逆に思っている。俳人として通った人の俳句でも、いいなと手を打っておもしろおかしい作はめったにない、タダの五七五音句に過ぎなくて、それで笑える。
いま、二階の窓によって、グレコの繪の次に、芭蕉の全句集を岩波文庫でみているが、よしと○のつくのは、すくなくも芭蕉初期句には殆ど見あたらない、ナンジャこれは、というのが多い。
一般に俳句へ身を寄せた人の、「俳」一字へ理解の及んだ人はめったにない。「五七五」の意味だと勘違いしたまま俳句でございと出ている。
「俳諧」とは、根に、おかしい、わらへる、諧謔の感覚が忍んでいる。「ふるいけや 蛙とびこむ みづのおと」と聴いて「わらへる」素質のない人は「俳 句」の域には遠い、などと、もはやだれも思っていない。かんかちこの、きまじめな境涯を五七五に云うたとだけで俳句と思っている。笑止である。深い感銘は 「そのあと」へしみじみと湧き来る。
2021 3/7 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ おいとまをいただきますと戸をしめて
出てゆくやうにゆかぬなり生は
死の側より照明(てら)せばことにかがやきて
ひたくれなゐの生ならずやも      斎藤 史

☆ 簡単にこの「生」から「出てゆ」けぬことをグチっている 歌ではない。「ゆかぬなり」という強い確認には、だから最後の最期まで「ひたくれなゐ」と燃えて「生」きる覚悟が突出している。老境すでに日常的にも思索 的にも「死」にまぢかに生きて、しかもなお、この「ひたくれなゐ」に毅然と美しい詩人の生きかたに感動する。 昭和五一年『ひたくれなゐ』所収の、屈指の 名歌。
2021 3/8 231

* 午後の一時か、いま、一通りの「湖(うみ)の本 151」再校を終えた。あとがき と あと付け 表紙を添えて、やはりもう一校を願うとしよう。
私の処女作は、白楽天の長詩「新豊折臂翁」に拠って兵役拒否を主題にした創作だった。
いま、私の新作書き下ろしは、或る意味でこの処女作と真っ向衝突の気味を抱えている。処女作小説に先立つ歌集「少年」を除けば、まる六十余年の創作生活 を経て私は いままた新しい題材と思考とを用いて、是までにない一と仕事を遂げたと思う。一人間の生涯は、それなりに曲直を経てくる。是とも否ともあわて て批判する気もなく、一つには久しい読者の皆さんから受くべきを大事に受け取ろうと思う。「畜生塚」や「慈子」の秦 恒平が 「ここ」へ来たのかと、いくらかは驚かれ るだろう、それはそれ、もう何としても短い残年だけが目前にある。それしか無い。
2021 3/8 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ M博士の「地球の生成」という書物の頁を開きながら、
私は子供に分りよく説明してやる。
──物理学者は地熱から算定して地球の歴史は二千万年
から四千万年の間だと断定した。しかるに後年、地質学
者は海水の塩分から計算して八千七百万年、水成岩の生
成の原理よりして三億三千万年の数字を出した。ところ
が更に輓近の科学は放射能の学説から、地球上の最古の
岩石の年齢を十四億年乃至十六億年であると発表してい
る。原子力時代の今日、地球の年齢の秘密はさらに驚異
的数字をもって暴露されるかもしれない。しかるに人間
生活の歴史は僅か五千年、日本民族の歴史は三千年に足
らず、人生は五十年という。父は生れて四十年、そして
おまえは十三年にみたぬと。
──私は突如語るべき言葉を喪失して口を噤んだ。人生
への愛情がかつてない純粋無比の清冽さで襲ってきたか
らだ。                   井上  靖

☆ 『井上靖全詩集』(昭和五四年刊)の巻頭に置かれた「人 生」である。この詩人の詩は、一貫して散文詩であり、結晶度の高い成果を挙げている。もっともこの作品では、最後の二行がほんとうに必要だろうかと初見の 時からの不審を今も抱いている。それにしてもこの「愛情」は、ひろく人間の共有している、根の深い、寂しい負荷である。貴重な負荷である。
地球の寿命は、さらなる研究によりもっと永くなっているのではなかったか。そうであってもこの父から子への愛の詩は意義を喪うわけでない。
2021 3/9 231

* 五輪アウトに近い情勢で、ホテルがあたふたして智恵を絞っているのが可笑しい。東京五輪と決まるとすぐバタバタと新しいホテルが建った。五輪後の荷物にな るのではと眺めていた。五輪の前にはやお荷物になっているようで、それが自然なのか不自然なのか知れないが、ホテル利用の生活者が増えていると。それは双 方で相応の智恵に相違ない、が、ごく一部の必然必要者をのぞけば長続きはなるまいよと思う。我が家の狭さ貧しさに飽いた人たちのあたかもアジールのように 役立たずのホテルの空き部屋が遣われているのは理解できるが、いずれはホテル経営の方で別方向ヘリターンして行くだろう。
人にとって、「生活」とは、「我が家」とは、「家族」とは、何なのかという惑いの揺れがいまこの五輪アウト気味に乗じて試験ないし実験されているのだろ う。「狭いながらも楽しい我が家」とかつては歌われた。その実質への懐疑や不満や敬遠気味が若い人にほど沈殿していた、いる、のだろう。
東京宝塚のスターが劇場の目の前の帝国ホテルに宿泊と生活の部屋を借り切るのは、必要と便利から、さこそと想う。
むかしは文士の宿屋住まいが有った。文学的創作の場合に「生活」「我が家」とは、また「旅館」や「旅」とは何であり、またあり得たのか、あり得なかったのか、そんな方面からの検討や研究もあれば面白かろう。
漱石は持病と相談で、外泊して書くのを好んだ気配はない。藤村は子供達との日々を大事にしていた。潤一郎は書く場所に贅沢で、晩年は豪奢な家に暮らした。本屋のあてがい扶持でカンヅメをくい漁ったのは殴り書きの敗戦後作家だったよう。
わたしの、乏しいながらの体験では、ホテルや宿屋でのカンヅメでは、空気感に満ちた創作はムリ、論攷や論述なら、ま、書けた。流行作家達が カンヅメを 誇らしげに喰って濫作したりしていたことが、大正末から昭和へ、敗戦後の文学へ、質的に裨益したとは想いにくい。日本の現代文学に豊かな肉分が落ちて落ち 続けてきたことの、その辺に岐路があったろう。
文藝批評家らの視野も狭まり 浅く かい撫でて済ましていないか、も、いつも心配。
2021 3/9 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 仏より仏の母をおもふ夜の
かなたはろばろと逝く水の音   東 淳子

三輪山の背後より不可思議の月立てり
はじめに月と呼びし人はや     山中 智恵子

☆ 仏といい神といえる二つの対照的な世界と見えて、その実は「水」といい「月」といい重なる「一つ」の世界を流れ照らすもののように、想像される。世代はやや前後するものの、現代女流の作を代表しうるともに「不可思議」な佳い歌である。
私はことに山中の歌には、付け加える言葉を持たない。その「うた」自体が響かせる稀有の音楽にただ胸打たれていたい。
一方の東は、「水」への感性のすぐれて遥かにかつこまやかな人であり、そこに生みまた生まれたものの原郷をつねに幻視している歌人である。同時に「仏よ り仏の母をおもふ」という述懐には、世界の根に海を抱けるもの、女、をつよく自覚しながら生き死にの遥かな交錯に耳を傾ける姿勢が見えて、私には面白い。 うまく説明できないし強いて説明したくないが、山中の歌(昭和四三年『みずかありなむ』所収)も、東の歌(昭和五八年『化野行』所収)も、私には不思議へ の「愛」の歌としか読めずにつよく惹かれる。
2021 3/10 231

* 嘉永三年(一八五○)三月に、十三歳の秀才が書き残した『海警録』なる著述とその「自序」を今も読むことが出来る。日本列島は、曾ては「海」を警戒し 守備すれば列島が守れた。飛行機も潜水艦も長距離弾道弾も無かったから。だから明治日本の國軍は、軍艦の建設と保有と教練に特に力を入れた。結果として  紅海でも旅順でも日本海でも「海戦」して負けなかった。
それより遙か以前には日本は海戦で二度の手痛い敗北を経験していた、一つ天智天皇の日本水軍は朝鮮白村江の海戦で惨敗していた。一つは元寇、蒙古の来襲 だった。前の時は這々の体で逃げ帰った。後の時は颱風・暴風雨で向こうが退散してくれた、さもなければ西国、九州は惨害に遭ったろう。
三度目は西欧列強の、海からのまさしく戦艦の威嚇に遭った。攘夷どころか、かずかず不平等条約を強いられながら「開国」しつつ「尊皇倒幕」の成功裏にか ろうじて「維新政府」が起って、対外に堪えた。「富国」と「強兵」とは、文字通り余儀ない「国是」となり、それに日本はともあれ成功していった。それなけ れば、どうなっていたろう、昭和の敗戦よりも惨憺の隷従を欧米の、一国ないし数国に強いられなかったではないだろう、実例は洋の東西、世界中に多々みられ たではないか。
十三歳の『海警録』は、あるいは現在日本政府の優柔と躊躇を嗤うほど、的確に「時代」へむけ警告し激励している。こと、現在日本の問題は尖閣諸島問題に 限定されているのでなく、果てて対中国との「武力」衝突に及びかねないことにある。中国の主張と対策は、いわば明瞭率直で日本人にも分かり安い。ところ が、日本政府と国民との、少なくも対中国の意思や用意や決意は、まるで分からない。
「平和」はただ座談の種ではない、「護る決意」で現に起って確保すべき寶である。昭和の「戦時」そして「敗戦」の惨苦を思い出せる人が少なくなった。マスコミは、もっともっと映像や記録を掘り起こして提供して欲しい。
秦の父は口癖に云った、「戦争は 負けたら仕舞い」と。その通りだった。

* 足踏みに似ながらじりじりと仕事は進んでいる。 コロナ禍は変異株を呼び出し呼び起こしてモーレツにしつこい、油断はならない。ああもしてみようか、こうもと思いつきはしてもどれも遠慮して、ただ精神衛生と体力維持をだけ考えたい。
幸いに私には退屈ということが無い。ものが書けて、本が読めて、音楽が聴けて、酒が飲めて、よく眠れて、「マ・ア」とも至極の仲良しである。テレビはめったに観ないが京はチャプリンの名作『独裁者』に胸打たれた。
いま一つ、退屈しのぎでなく、ぜひにも処分や処置の肝要な、片づけるという用件がある、が、これは捗らない。
今日もあらためて仰天したが、背中の側のものかげに、堅く縛って嵩高い風呂敷包みが、二つ。あああと唸りながら渋々開いてみた。案の定、とうに亡い実父 の「書き物」が、途方にくれるほどぎっしり詰まっていた。父の恒は、この私がのけぞるほど能く「書く」人だったようで、ノートブックも帳面も原稿用紙も、 押さわって密着するほど膨大に遺していた。亡くなった直後、私と母のちがう二人の妹は、ほぼ即座にこれらの「書き荷物」の山を私に送ってきた。
私の夢にも知らなかったことが、無数に書かれてある。しかも感じからして父が得意の書き物でなく、生涯不如意であったろう失意や不満や怒りの記事にも満 ちていて私はそれらを『父の敗戦』と頭に表題してきた。父のためにも少しでもかたちにして上げたく、少しは書き始めたことも有ったけれど、まさしく手に余 る文物なのである。
これは、兄恒彦が存命なら渡したいが、息子の、私には甥の北沢恒(作家・黒川創)に委ねるしかなかろうかと思いあぐねている。
川崎で暮らしている妹二人は、ことに下のひろ子は熱心なクリスチャンで、この子の熱烈な勧めでか父の書き物にも基督者めく字句や言葉がおおく用いられている。父方吉岡家はそういう空気を私たちの祖父のころから持っていたように推し量れる。
何にしても、抱えるに力に余る書き物の大荷物にバンザイの気味で。棄ててしまうこともとても私には出来ない。
2021 3/10 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 暗きより暗き道にぞ入りぬべき
はるかに照せ山の端の月     和泉式部

☆ 未生の「暗き」から死後の「暗き」へ、人は生きる。そして死ぬ。後じさりのならない一筋の道である。その道を、成ろうならば来世までも「はるかに照せ」と祈る。「山の端の月」を、この作者の時代でいえば、摂取不捨の来迎仏そのものと眺めていただろうか。
だがそうした思い入れを超えて、この歌のなんとまあ美しいことか。「和歌」時代から一つと限り女の歌を選べと言われれば、私はこの作者の名とともにこの歌を挙げたい。 2021 3/11 231

* 歴史調査研究所が、早くに、『「秦王国」と末裔たち』という「日本列島秦氏族史」という大著を出していて、浩瀚な目次内容の中に、「古代近江國愛知郡は、小さな『秦王国』」として、そこに「作家秦 恒平家の家系」なる項目が挙げてあり、今更にビックリした。
「秦氏」が古代以来巨大な名字であること、源平藤橘をも凌いで歴史的に古くまた分派の全国にひろいこと「秦王国」とまで謂われるほどなのは、ま、私も識っていた。
聖徳太子に信頼された「秦河勝」なる朝廷内実力者の余翳は、国内広範囲に散点し、彼を祀ったという京都でも名高い「広隆寺」 あの美しい弥勒菩薩像と倶 に記憶している人は多い。彼の墓礦、大和で著名な亀塚をさらに凌ぐ、全長八十メートル、石室十七メートルという巨大な京太秦の古墳「蛇塚」辺に河勝邸も 在ったという。私ごとを離れても、「秦氏」は中國の秦始皇帝をも抱き込んで、壮大に面白い内実を抱えている。私が、井上靖さんに連れられ中国に招かれた時 に、人民大会堂での会合の際に、出迎え側の主人役トウ・エイチョウ(国会議長格)女史から、「秦先生はお里帰りですね」と笑顔の諧謔があったのも、必ずしも故 なしとしないのである。

* そういう「秦氏」ものも書いてみたいと、上記のような本も手に入れていたのだったが、放ってもあった。なかなか面白く記録的に取材された大冊で、久し ぶりに手にしたわけ。建日子にこういう方面への開拓意欲もあるととわたしは楽しみにしたいが、もう諦めている。「秦」を棄ててしまった朝日子に期待しても 仕方なく。命あらば、短いものでも書いて置きたい。
たしか、もう一冊、書庫に「秦王国」の三字を表題に含んだ小冊の研究書もあったと覚えている。持ち出してみよう。

* 初めて読む気で読み始めた『「秦王国」と末裔たち 「日本列島秦氏族史」』 という大冊に向かい合って、その、読みやすさ・分かり良さ・調査の詳細・しかも整理整頓された具体的記述にいきなり惹きこまれている。なにも鵜呑みにはし ないが、「秦氏」を勘考する視野は十分に具体的に与えて貰えそうで、実は、オドロキながら共感し依頼する気になっている。
2021 3/11 231

☆ 「さまざまな 愛の詩歌」 を 楽しまれませんか。
『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊    秦 恒平著

☆ さまざまな愛

★ 淡海(あふみ)の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば
心もしぬにいにしへ思ほゆ     柿本 人麻呂

☆ もし「和歌」で男の歌を一つ選べとあれば、好きなのはこの歌と答えよう。
「心もしぬに」以下の下句は、心も萎えしぼんで衰えてしまうぐらい…昔がなつかしまれる、の意味。
日本語の「死ぬ」の意味は、命が萎えしぼむ、しなびる、から出たという。もっともこの歌でのこの句は、そう深刻に重く取り過ぎることはない。「いにしへ」への愛の思いが、誰にもある。この作者の場合には具体的に古き志賀の都への哀惜があったろう。
が、我々は、もっと自在に大きくこの歌の表現や音調に助けられ、わが心の内なる「愛」の旋律を引き出して貰っていいだろう。私は、子供の頃から私専用の「和歌」のためのメロディーを持っていて、ことにこの歌など繰返し機(おり)ごとに口遊(くちずさ)みつづけてきた。
「淡海=近江」はわが、生みの「母」の国。いわば、私の詩歌への愛の原点といえるこの美しく懐かしい一首を大尾に挙げて、久しい撰歌と鑑賞の作業を、今、終えたい。

『愛、はるかに照せ  愛の歌 日本の抒情』
一九八五年九月 講談社刊
あとがき

『日本の抒情』(講談社・刊)の一冊を分担するよう指名を受 けたのは、昭和五七年(一九八二)六月十七日のことであった。まる三年がこの刊行までに経過している。顧みてよく三年でこれだけ読みこれだけ撰べたなと、 思わぬでない。近代現代に的は絞って行ったが、近代以前の莫大な作品にも、ともかく納得が行くまで目を通しつづけて来た。今にしてこの三年間が幸せなもの であったと、感謝は厚い。
思うままに撰んだ。冠絶した作品を厳撰したのでは、けっして、ない。表現や技巧に不満はあっても、テーマの「愛」に即し、心に触れて「うったえ」て来る ものが有れば、つとめて拾った。それが「詩歌=うた」というものだ。むろん出会いに恵まれずじまいの作品が、数限りなく有る。その余儀ない事実に私は終始 謙虚でありたかった。今もそう思っている。
また、私の解説や鑑賞が、作品を新鮮に読む喜びを読者から奪うほど過度にわたるまいとも、心がけた。簡単で済むものは済ませて、その分、一つでも作品を 多く紹介した。最初に指定された作品数より、だいぶ多くなっている。「愛」にもいろいろ有り、さまざま有るということだ。
作品の読みは「私」のそれに徹した。挨拶だくさんに、なまぬるい話に流れるのを嫌った。私はこう読んだが、あなたはそう読まれて、それもまた佳しとうな づけるものが「詩や歌や句」には、しばしば、ある。「読み」を一つに限ってしまう「翻訳」も、私は、当然避けた。サボったのでは、ない。
それにしても、いま初校を遂げながらしみじみ思う、愛ならぬ詩は、ない…と。
「愛」の、あまねく恵みよ! しかし「愛」の、難(かた)さよ! 努めるしか、ない。
昭和六〇年六月八日  娘・秦朝日子が「華燭」の日に     著 者
2021 3/12 231

* 機械に、膨大に書きためたさまざまな原稿を調べていると、オッと声の出る「書き物」がぞろぞろと見つかる。そのまま、添削すら必要のないフィクションになった「書きっ放し」もあり、可哀想にと、小声で謝ったりしている。
日々の「私語」も、二十年余も昔の、それも何故か或る一と月分が引き抜いてあったりするのを読み返すと、時勢の変容が今にして明瞭かつ相変わらずの困った世の中の顔立ちや表情をみせ、面白くもあり情けなくもある。
ホームページに書き込んできた「闇に言い置く 私語の刻」だけでも、24年X12ヶ月分=288ヶ月分。事件や世上はもとより、登場の人、人らの顔ぶれも、現代人、現在人さまざま、おやおや、おやおやと、私なりに勝手な感想も批評も、また感想も読書録も、読み飽かない。
とは云え 大事なのは今、そして明日、明後日。残り少なくなってきているのだ、では、どうする。
ていねいに楽しみたい。創り出すのも、楽しむのも。
2021 3/12 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集 小序

『閑吟集 孤心と恋愛の歌謡』は、中世の歌謡を集めて十六世 紀はじめ(一五一八)に成った、全編が赤裸々な愛欲の情を清冽に奏でた、それはそれは面白い本です。大半が、いわゆる室町小歌で、含蓄に富み、しみじみと 親しみぶかい恋と夢うつつの歌詞の数々は、五百年の歳月をこえて今も我々を切なく優しく感動させます。
十二世紀半ばに成った、前巻、古代の『梁塵秘抄 信仰と愛欲の歌謡』(NHKブックス)とあわせて、たぐい稀な「孤心」と「恋愛」のこの歌謡集の魅力を、思わず手を拍って満喫してくだされば幸いです。
日ごろ古典になじみのうすい、高校大学生、主婦、お年寄りがたを念頭に、数多い日本古典文学の「大系」(岩波書店)「全集」(小学館)「全書」(朝日新 聞社)その他(新潮社の「集成」は脱稿後に出版された)の本文や研究も有難く参照しながら、なお読み易く正しい歌詞の表記を著者なりに心がけ、昭和五十七 年(一九八二)年七月、NHKブックスのために新たに書下ろした本であることを申し添えます。           騒壇余人  秦 恒平

私の「著述」部分は割愛し 極力 『閑吟集』の「歌謡=主として室町小唄」そのものを 味わい楽しみましょう。

★ 花の錦の下紐は 解けてなかなかよしなや 柳の絲の乱れ心 いつ忘れうぞ 寝乱れ髪の面影

☆ 自編他撰の別なく、詩歌集でも小説集でも、巻首にどうい う作を置くかは一等心はずみ一等心重い決断になります。全篇の効果を決定づける場合がある。読者の印象を、そこで或る程度固めてしまうこともある。予断、 先入主、見通しが出来て、それが実は当人の思いと懸け隔たってしまう時など、なかなか作者は身を揉む心地がします。「なかなか、よしなや」とある、ちょう どそんな遣瀬のなさです。
閑吟集一冊は「巧緻に編まれた本」です。その巻頭の歌謡がこの「面影」の「小歌」だとは、どういう編者の真意なのか。本をまずは「繙く(紐解く)」という式の洒落でしょうか。その辺から、あれこれと思いめぐらしたいものです。
歌謡は藝術というよりも、藝能として広く親しまれました。歴史的にはお角力やお能とどこかで共通します。たとえば「千秋楽」という謂いかたがある。お角 力の「千秋楽」は説明するまでもないでしょう。お能の会は、昔ですと神、男、女、狂、鬼の五番立てを一日の芯に、狂言や仕舞や舞囃子や素謡などを何日かか けて観せたり聴かせたりしたもののようです。今日でも、番数はおおかた減りましたけれど、番組の原則はほぼ同じです。そして最後に「千秋楽」の小謡を謡っ て、散会。
面白いことにチャキチャキの現代歌謡曲歌手の録音盤を聴いていましても、時として、何日かつづいた公演の「ラク」(最終日)かと思しく、「今日で千秋楽です」と丁寧に、はっきり挨拶して拍手を浴びている。そんなレコードを聴いたことがあります。
「千秋楽」とは、むろん文字どおりの言祝ぎです。衆人愛楽、寿福増長は日本の藝能の、ひとしく旨とする精神でした。その精神をめでたい言葉にして表わ す、それが祝言、寿ぎ、であるわけで、事のとじめ、けじめに限らず、事のはじめにも念入りに言祝ぎをします。文字どおりの「祝言」です。お能の「翁」など、壮大な「祝言能」として能楽三百番中の揺がぬ第一番の地位を占めつづけているわけですね。
閑吟集一番の「面影」に、気を集めましょう。
「面影」という謂いかたは、現在眼前にある人の顔を指してはいない。半日前か三日前か十年前か、いずれ記憶され回想されている、過ぎし或る日或る時のこれは「面影」なんですね。
では、男が女の「面影」を、それとも女が男の「面影」を、「いつ忘れうぞ」と想い出しているのか。どっちでしょうか。歌詞をただ読むかぎり、両説とも可能で、事実両説とも行われています。
「下紐は、解けて」のところが、一つの注意点でしょう。
もう一つは「寝乱れ髪」です。が、男女とも髪は寝乱れないではない。でも、私自身が男のせいか、この歌のこれは女の人の「寝乱れ髪」であって、自然女の人の「面影」でもあると読みたいのですね。
あんなに慎ましやかな女だったが、いちど肌身をゆるすと、短か寝の仮寝おろかな無明長夜の夢うつつを、墨に黄金の粉をまき散らしたほど煌らかな惑溺に、耽溺に、啜り泣き、怨み囁き、歎きつ悶えつ男の総身に五体をなげかけて、愛欲無残、倦むことがない──。
男の方は、女と容子がすこし違いましょう。こと果てて、幾分索漠とした浅い酔い醒めの底に沈んだまま、男というのは、うすく眼さえあいて、夢のうつつを 見るともなくそんな女の豊かな寝乱れ髪をわざと邪慳に手いっぱいに梳いて乱してやりながら、女の、面変りしたような顔、疲れやつれて青白う透いた頬からう なじ、そしてあらわな乳房のなまめく色香にまだ心を惹かれています。気だるいまみを、閉じつ開きつ、女は声にならぬ声で物を言いかけたり背いたり。うとう と寝入ったり。その表情や姿態から男はなかなか眼が離せないでいるのですね。可愛い。愛しい。このまま露の玉ほど掌の深くににぎりしめてしまいたい。あ あ、それほどのあれは女だった。真実そういういい女だった。いつ忘らりょうものか。なのに、それなのに久しく逢わない……。逢えない……。
まァこういった男ごころの物狂おしさでつくづく謡っている歌だと、かりにこれを読んでみますと、どうでしょうか。
「下紐」とは女の肌に添うた着物の、つまり一番忍びやかなかげ緒のことです。それに手をかけて男が解く、ほどく。どうかこの手で解きたいと願いつづけて きた好きでならない女の「下紐」を、とうとう我が手で解いてやれた。とは、言うまでもないことです、女は、男にはじめて花の蕾の身をまかした、開いた、咲 いたという意味ですね。
「花の錦の」とは、女が身に着けたものの美しさだけでなく、女体そのものの、男にすれば身震いの出そうな美しさを、肉感の部厚さを、譬えている。
どのような女でしょう。少女か、処女か、または人妻か、遊女か、たわれ上手の浮気女か。どれと釈ってもいい、とにかく男の眼に、思いに、とびきり〝いい 女〟であるのでしょう。恋に憧れていてもまだ男は知らなかつた、年若い熱い肌と心を蕾のままに抱いてきたような娘と想うのもよい。人の占めた高嶺の花だっ たのかも知れず、苦界に汚れぬ泥中の蓮だったのかもしれません。いずれにせよ「花の錦の下紐」は固く結ばれ「解けて」はいなかった相手なのですから、どん な身分や年齢の女であろうと男の思いには、初咲きの清い花、花の蕾と同然です。
それがこうひとたび「解けて」みると、どうでしょう。「柳の絲」より華奢に揺れて撓んで、しだいに奔放に大胆に女体は、女心は、虚空を乱れ漂うのでし た。この時の「乱れ心」は、はや女だけのそれでなく、女の魅惑にのめりこんでいった男自身の奔逸と苦闘のさまをも、いみじく言い表わしていたのにちがいあ りません。
「解けてなかなかよしなや」とあるのを、男の側から言い直せば、もはや一度は抱いて寝た女なら、獲た獲物のようにいくらか軽くなげやりに忘れられもしよ う。と、そうも思い上がっていたのに、なかなかどうして忘れられるものでない。いや参った……ぞ。逢いたくても逢えない、恋しい、困ったぞ……。そう読ん でも、いい。
一度の逢瀬では、満たされない男の生理。それに対し一夜の夢に燃え尽きることの可能な、女の体熱。その微妙な勝敗が、優劣が、「なかなか、よしなや」という男の坤きになる。
ところが女の方には、「いつ忘れうぞ」とアトをひくような、ふんぎりの悪さはないのではないか。もうよその男へ……と、男というのは、ついそんな気弱いことを想ってしまいますね。
逆に女から、もし、男の「面影」を想っているのなら、自身を「花の錦」「柳の絲」と譬えるのがちょっと背負ってる感じがして自然じゃないなと、私は見ています。
それでもなお、女が男を想っていると考えたいなら、この場合の歌謡一番は、いつか男の遠のいたのを恨んで悩んで肌身をゆるした己が浅墓さを、「よしな や」と悔いている、諦められずにいる、愛着している歌になるンでしょうね。それも一つの境涯ではありますし、そう取るときは、「解けて」の一語に、「解か れて」という受身の語感をぜひ添えて読んだ方がいい。その場合、「面影」の二字に浮かぶ相手の男の容子は、なかなか端正な貴公子然としたものに、私には想 像されます。そして女は遊女のような気がします。なるほど、この想像もまた、面白い。言葉のあやに絡んでどっちともいろいろに取れる、これは日本語の表現 の、良くも悪しくも特色ですね。それだけ私たちは読みの自由を、想像力十分に満喫すればよい。
2021 3/13 231

* こういうイヤな時節になると 云うこと思うこと願うことがみな消極的に貧相に萎びがちに陥る。人間の弱みか、侘びし。
そんなとき ミルトン『失楽園』がうたひあげる壮大無比、神と 人(アダムとイヴ)と サタンとがみせる宇宙戦争劇の美しさ烈しさに、眼をみはり耳を打たれる。
ジェンダー論者らは、このミルトン歌う 男女根源の劇詩世界をどう論評して来たろうか。
2021 3/13 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集 春

★ いくたびも摘め 生田の若菜 君も千代を積むべし

★ 菜を摘まば 沢に根芹や 峰に虎杖(いたどり) 鹿の立ち隠れ

☆ 春の若菜を献じて「君」の長寿を祈り祝う久しい風儀が、 「いくたびも」の下敷になっています。祝言そのものです。「いくたびも」が「千代」に響きあい、また「生田(=幾多)」に懸かる。生田は神戸三の宮辺の地 名ですし、古来若菜の名所です。歌枕の地です。となると、これッきりの歌なンでしょうか。どこが三番「なれば摘まば」と唱和なのでしょうか。
三番も、表面はごく単純です。菜を摘もうなら、沢で根芹を「摘みましょう」という感じを「や」の一字に籠めて、言葉が略してある。以下同じことです。 「シカ」または「シカ隠れ」は、動物でなく、春に根から芽吹いて出るあのウド(独活)の若茎を指す西国方言です。すると、これも何の変哲もなげですね。
ところが「生田」は名高い生田社のある場所ですし、そこの「若菜」を、参道にたむろするあでやかな女たち、春の遊女の若やかな姿と眺めますと、「幾度も 摘め」という一句が花やぎなまめいた呼びかけ、誘い、に聞こえます。事実、昔の社参はこのような気もそぞろの「誘惑」へとみずから身を寄せてゆく「君」達 の、男どもの、たいした楽しみであったのでした。
「千代を積む」は祝(ほ)ぎ言ですが、同時に「千代」の永さに匹敵する享楽の深さ、分厚さを約束しているとも取れる。これなら昨日読んだ一番の情調を、また別途に、しかも濃厚に受けていますね。当然にも、この二番は「女」からの誘いです。
これに応じて「男」から、三番の歌声が湧く。「沢」も「峰」も深く読めば女体の景色でしょう。それに対し「根芹」「虎杖」「うど立ち」はどこか「男」を感じさせる様態です。男心に、はや交歓の絵模様が浮かんでいる。それを嬉しい春の景物に、こと寄せて謡いあげている。
べつに三の宮、生田の社頭の実風景である必要はないのです。やはり宴遊の席を彩る、女と男とのさんざめく歌の掛合いと読むのが、存外に正確であるかもしれません。
2021 3/14 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集 春

☆ 四番は、大和節。現行の謡曲『二人静』から採っています。四つの勅撰和歌を〝綴れ”に織りなして、「春」を謡います。
★  木の芽春雨ふるとても 木の芽春雨ふるとても なほ消えがたきこの野辺の 雪の下なる若菜をば いま幾日(いくか)ありて摘ままし 春立つと いふばかりにやみ吉野の 山も霞みて白雪の 消えし跡こそ路となれ 消えし跡こそ路となれ

☆ 参考書を頼って、どんな四つの和歌から成っているか、挙げておきましょう。

霞立ち木の芽春雨ふるさとの吉野の花も今や咲くらん
(後鳥羽院 続後撰集)
春日野の飛火の野守出でて見よ今幾日ありて若菜摘みてん
(読人しらず 古今集)
春立つといふばかりにやみ吉野の山も霞みて今朝は見ゆら
(壬生忠岑 拾遺集)
み吉野は山も霞みて白雪のふりにし里に春は来にけり
(藤原良経 新古今集)

☆ 謡曲や宴曲(早歌)の詞章は こうした作法から成っている部分が、たいへん多いのですね。綴れ織りのように、と評されています。そして謡曲やお能をご 存じの方なら、この手の詞章にはきっと馴染みがある。ゆったりとした気分で、理屈に走らずに、詞句のつなぎの音声なり意味なりの曰ク言いがたい詩趣と妙味 とを口遊み翫賞するのが第一です。と、それだけのことを申して、この本では、よくよく他と関連の面白い場合はべつとして、この手の大和節や近江節は紙数を 惜しみ、割愛することにします。「小歌」を大事に読んでゆきます。『閑吟集』の大体を、それでも、見喪うことはないと私は思い切っています。
2021 3/15 231

☆ 范睢(はんすい)は魏の人也。字(あざな)は叔。諸侯に遊説して。魏の王に事(つか)へんと欲(ほっ)すも。家貧しく。以て自ら資する無く。乃ち先づ魏の中大夫の須買(しゅばい)に事(つか)ふ。須買、魏の昭王の為に齊に使ひす。范睢従ふ。數月留まって。未だ報(使としての効果)を得ず。
ときに齊の襄王、睢(すい)の辯口を聞いて。乃ち人をして睢に金十斤、及び牛酒を賜ふも。睢は辭謝して。敢て受けず。
須買之を知りて。大いに怒り。睢が持てる魏國の陰事を齊の為に告ぐるを以て。此の饋(賜金・賜酒食)を得しと。令睢をして受けし其の牛酒、其の金を還さしむ。
既に歸國の後も。(上使須買は)睢に怒る心あり。以て魏の相に告ぐ。魏相は。魏之諸公子(王族)にして名を魏齊と曰へり。魏齊大いに怒り。使舎人(家来)をして睢を笞撃たしめ。脅(肋骨)を折り摺齒を摺(けず)らしむ。睢、佯(いつは)り死せり。即、(死体を)簀を以て巻き。厠(かわや・便所)の中に置く。(公子魏齊の)賓客飲者ら酔ふて。更に睢に溺(でき=吐き且つ排尿便)せしむ。故(ことさら)に蓚辱(しうぢょく=汚し辱め)して以て懲しめ。此の後に匽言者(=隠し事為す者)無からしめんと。
睢(すい)は簀中より。守者に謂ひてう曰く。公(きみ)能く我を出せ。我必ず厚く公に謝礼せむと。守者乃ち請ふて簀中の「死人」を出して弃(棄て)たいと。(公子)魏齊は酔ひて曰へり。可焉(よし)と。范睢得出るを得たり。後に魏齊悔ひ。復た守者に之(范睢)を求(=探)させた。魏の人鄭安平が之を聞き。乃ち范睢は遂に見失ったとし。伏し匿し。姓名も更えて張祿と曰わせた。

* 二千数百年も昔、春秋戦国の世の中国には、かかる辯口を以て諸侯諸国に遊説して、あわよくは迎えられて「相」や「公」に成り上がっていった大 勢が働き歩いていた。それにしても、命がけであったし、身分高い「公子」と雖も云うこと為すことの激越も何ら稀有のことでは無かった。互いに騙し騙されて いた。
私が、いわゆる外交(交渉・折衝・協定)を指して「悪意の算術」と名付けてきたのは、良しも悪しもなくまことにその通りとしか云えぬ事、二千数百年後の 今日世界の「外交」も、斯く為し行われている。現に現代中国習近平外交は、それに極まっている。はて。今日の日本政府「外交」や如何と危ぶみ問わずにおれ ない。

* 上の「汚穢」漬けから辛うじてのがれた范睢(はんすい)は、以後も、延々とその辯口を以て奔命し続ける。
いや中国は、何もかも「凄い」のだ。

* 私の多年謂うてきた、國の「外交」とは 「悪意の算術」との認識を、前回の「湖(うみ)の本151」でとりあげた山縣有朋は風雅な家集『椿山集』の和歌のなかで、いしくも斯く強かに、冷静に歌っていた。

戦(たたかひ)のことな忘れそ我國は朝日のとけく年のたてとも
天地(あめつち)をくつかへしける戦のとよみはいつの世にか絶ゆべき
ひらけたる國と國とのましはりは空こと多きものとしらずや
友人の欧米に赴きけるに
かはりゆく世のありさまをつはらかに裏おもてより見てかへらなむ   元帥 山縣有朋

* 「喋り語り云う」だけの「平和」はたやすい、が、「護り備える平和」は、叡智の限りを尽くさねば、ただの空語となる。
2021 3/15 231

* それにしても、ま、かねて思っていたけれど、いかに芭蕉とはいえ、寛文二年(一六六に)十九歳から天和三年(一六八三)四十歳までの二百足らずの作句には、ほとんど私の眼で採るべく見るべき俳句の無い現実・事実に一驚する。
それが、天和四年=貞享元年(一六八四)から、一変して、共感、賞嘆の爪印を付け続けられる。
いくらか当然とも思う。それほど俳句は、和歌・短歌より容易ならぬ境涯と表現なのだ。
今も俳人も俳句の結社も数多いが、俳句の「神妙」に出会えることはむしろ希としか云えない。それに比して短歌だと、私のようなモノでも子供の昔の歌集 『少年』(十五~二十七歳)を数回も版をかえて世に問い、昭和百人一首にも繰り返し撰され、また先輩や読者に幸い好評されてきた。和歌に学んだお蔭とも云 えようか、同じく和歌に根をおいているが俳句は、しかし俳諧といわれてきたように、どこかに諧謔の俳味(可笑し味)が成立を歴史的に条件付けられていた。 この「俳」味を無視ないし蹴飛ばし、はみ出たような作句の時期が、かの芭蕉にすら若い時期にはあって、まるで句がクタクタとノタを打っている。今日でも、 まるで羽織袴で高い座布団に正座して敬礼するか、裸形ではねまわるような作句集が、むしろ当たり前に流行っている。
2021 3/15 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集 春

☆ 四番は、大和節。現行の謡曲『二人静』から採っています。四つの勅撰和歌を〝綴れ”に織りなして、「春」を謡います。
★ 誰(た)が袖ふれし梅が香ぞ 春に問はばや 物いふ月に逢ひたやなふ

☆ 俄然、閑吟集らしく、「小歌」らしくなってきます。「逢 いたやのう」と現在の仮名づかいで書いては出ない感じが、ものやわらかな「逢ひたやなふ」ににじみます。「や」の柔らかな響きに「なふ(「なう」が正しい のですが)」がたまらない余韻を引きます。何度も口遊(くちずさ)むと、この身揺ぎに似た情動が憑り移ってきます。すると言葉の意味より先に、「タガソ デ」「ウメガカ」「ハル」「ツキ」「アイタヤノウ」などという音そのものの魅惑が、澄んで明るく、温かに懐かしく納得できる。
詩歌や詞句は、眼に頼る以上にそういう「音感」を澄まして、わが耳の奥で聞くべきです。
「梅」と「月」とは古典的な取合せです。梅は闇にも薫じ、月光をえて匂い出ずる花です。薫ると匂ふとの意味の差を「月」が演出します。
ただしこの小歌では、「梅」「春」「月」いずれも艶(えん)に擬人化されているように感じますね。「誰」かがこの懐かしやかな梅花月の世界に紛れ入っ て、忍ぶ思いを呟いている。妙に難解そうな歌になっていますのは、もともと二重三重に「本歌(ほんか)」というものを利用し、当時の読者(唱歌者)の深読 みをアテにしているからです。 2021 3/16 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集 春

☆ 次に九番。浅野建二氏の訓みに、とりあえず従います。

★ 吟  只吟可臥梅花月 成仏生天惣是虚
(ただ吟じて臥すべし梅花の月、仏に成り天に生まるるも惣て是れ虚)

☆ 「吟詩句」の初登場ですね。とッつきにくい感じでいて、閑 吟集の中でも洒落な興味に富んでいるのが、「吟詩句」です。さてこの上七字を、浅野氏の訓みにしたがえば、梅が香に匂う「月」を、愛でつ褒めつ気ままによ こに成るが最上という、それまでの風流ないし閑雅であって、それでは、「惣是虚」の問題句を含む下七字が、ちと大袈裟には思われませんか。この上句は、 「自然の風物の典型」をただ叙景した句でおわっているのでしょうか。
私は、「梅花」と「月」とを、やはり女と男と見立てて、「只吟可臥」と嗾かす面白さ、「囃す」ほどの景気をはらんだ歌謡仕立てであらねば、うそだと思い ます。梅花と月との色佳さ優しさ清らかさを、男女の仲に望ましく看てとりながら、現世の愛欲を厭離するどころか、享受しようとする姿勢・態度がこの一句に 籠められていると。
「ただ吟じて臥すべし」とは、無垢の愛情を赤裸々に交しなされという勧めでしょう。それでこそ、下句七字の諦念に熱い意欲を潜流させている同時代人の 「現世観」にも、それなりに理が見え、気が通ります。愛念楽欲(あいねん・げうよく)の極みに成仏できるか生天(昇天)できるか、「そんなことは知ったこ とか」と、「惣是虚」の一句を読んでいい。
こじつけでなく、私は、先の八番またつづく一○番との付合からも、ここは「梅花の月」でなく、「梅花と月と」であって、「吟」「臥」「成仏生天」すべてこれ「情念の様態を表現」するものと読んでこそ、胸に届いてくる佳句と思えるのです。
2021 3/18 231

* maokatonのお子さんは「尚平」クン。訓みは定まっているが、文字だけをみると私の「恒平」と再接近のお仲間。
このごろひとしお気づいているのだが、昔は「*平」と書かれる男子名はじつに実に寡かった。大人になるまでに知名の人で「*平」さんは、順不同というほ どもなく先輩ないし同輩級では「森田草平」「草野心平」「大岡昇平」「火野葦平」ぐらいしか覚えがなく、国民学校に入学以来、友達から、「へい・へい」 「新兵」「工兵、橋つくれ」などと囃され笑われ、「へい口」してきた。
ところが、である。この近年、テレビ画面や新聞雑記等に出会わない日はないほど「*平クン」の多いこと目立つこと、まこと、ご同慶。意気盛んに「平の會」でも組織されるのではないかと思うほど。

* とはいえ「*平」の名乗り、何と謂おうと「平安」の京都で、摂政・関白・太政大臣・左右の大臣、内大臣、納言級の公卿に限っても、時平、仲平、忠平、兼平、恒平、行平、等々数え切れず、源氏の「義」や平家の「盛」や北条の「時」や徳川の「家」に匹敵する藤原氏大切の嘉字、祝字であったと謂える。藤原氏以外にも美男子在原業平も目立つ。
以前に漢学者である京大名誉教授で京博館長さんだった興膳宏さんに、秦さんの「恒平」はむろん「恒久平和」ですと教わった、平は平安・平和の「平」で、戦する「兵」とはちがう。殖え行く「*平」クンらが盛んに活躍するのを慶びとしたい。

* 今日は とうに亡い実父に掴まっていた。ひょっとして私は、いくらか、或いはよほどこの「ややじ殿」に似ているのかなと感じながら。
2021 3/17 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集 春

★ 梅花は雨に 柳絮(りうじょ)は風に 世はただ嘘に揉まるる

☆ 「雨に」「風に」「ただ嘘に」すべて「揉まるる」のです ね。「もむ」も、その受身形も、日本語の語感として、或るなまめかしさ色っぽさを伴います。肌に肌を重ねて、この世のこととも思われず、ただ「吟」じつ 「臥」しつ男と女がまろび合う。「梅花」に情愛のたけを浴びせる「雨」──は、古来男の迸しる意気を表現する暗喩の一つで、あとの「風」は、その勢いを示 します。むろん「柳」の「絮(いと、わた)」とは、虚空をさまよう女体の、あえかな優しさいとおしさを謂っている。
それなら「世」とは。これは源氏物語以前の昔から紛れない、〝男女の仲らい〟を指してきた言葉です。「世の中」といえば、男女の関わりあう場の意味です。
そこで九番の「虚」を受けた一○番の「嘘」が、みごとに批評の針を光らせる。
世の中は、「嘘」で互いに揉みあっているとは──一瞬呆れ、しかし一瞬ののちには真率かつ的確なことに、思わず苦笑されます。
「世はただ嘘」「惣て是れ虚」と謡いつつ、九・一○番の両篇ともに、いっこうそれを否認し、見放し、厭い嫌っているというふうでもない。むしろ「そんな ところサ」という、肯定とも覚悟ともまた諦念ともつかぬ、妙にからんと澄んだ明るい寂しい気分が、賑かそうでいてひとりぽっちの気分が、感じとれます。そ の辺が閑吟集歌謡の真髄かもしれません。「虚」も「嘘」も承知で、ひとりの「我」がふたりの「世」の仲として揉み合うてでも産み出さねばすまない人間的な 陽気、中世の陽気、がそこに在る。現実の陰気を、辛酸を、知りつくしながら、ずっぷりと「性」の虚構に浸って、その底から掴み出してくる「生」の実感。 「生」の気力。ただ耽溺ただ風流ではない必死の意向で孤りの「我」を、力ある「我々」へと押しあげて行く、陽気。これを、この価値を、私たちは永らく「中 世」という時代に見落としていたのでした。
「虚」とは、まさに乱世の謂いです。権威と価値を一刻のあだ花に吹き散らす「風」の世界が、「虚」です。虚は虚と、虚に背かず陽気にうそぶいて生きる、 それを「嘘」と彼らは承知している。嘘が即ち偽りとはかぎらない。嘘の真を信じて、「世」の仲を手さぐりに歩いてきた農民の中世。遊女の中世。職人や商人 の中世──。閑吟集の編者「桑門」の「狂客」は、そんな愛すべき中世の行方を、不安に見守っていたのかもしれません。
2021 3/18 231

* 朝の初めにテレビのニュース解説番組は、便宜もあるが不快感も濃く、成ろ うなら見たくない。ただ、新聞の読めない視力なので、談話とか会食という対面対話の人づきあいも(妻のほかは)ゼロなので、テレビは、「外」との触れ合い にまるまるは棄てられない。テレビという機械には、いい映画もいい音楽も、楽しめるドラマもある、沢山はないけれど。
幸か不幸か、私は、性質からも、読書で得た誘惑からも、想像ないし妄想という「生き場」の設定や展開を苦にしない。逃げ込むとも思っていない、そっちが自身のを本来世界と思っているほどかも。
2021 3/18 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

★ 誰(た)が袖ふれし梅が香ぞ 春に問はばや 物いふ月に逢ひたやなう

☆ ある方の現代語訳によりますと、この小歌は、「どなたが袖を触れた移り香なのだろう、この梅の香りは。匂いの高いいわれを、春に尋ねたいものだ、もの言う月に会って問いたいものだなあ」としてあります。
私は、とくに、「詩歌の現代語訳」というのを認めたくありません。幾重にもとれる日本語のふくらみを、原文でなら幾重にも翫賞できるのに、訳してしまう と、或る一つの訳者による解釈のみに原歌が固定されてしまうのが、反対する一の理由です。日本語の詩歌を他の日本語に置きかえるなど、ノンセンスなので す。ことに今あげたような解釈では、「春」と「月」の重出はもとより、「問はばや」「逢ひたや」の意図するところのちがいも、「物いふ」の擬人化が暗示す る含みについても解決が十分ついていない。そもそも「逢ひたやなう」とあるもとの歌詞は、「会って問いたい」のではなくて、文字どおり「逢ひたや(逢いた い)」なのです。この現代語訳では、「物いふ月」の微妙な意味が、ただ「春に問はばや」の言い替えにしかなっていない。
しかもよく落着いて考えるなら、この訳の程度でこの小歌の解釈をおさめては、なんともはや他愛がない。詞句の後半分が、意味も意図も不明におわってしまいます。
で、もう一度 昨日の小歌を、ごらん願います。

★ 梅花は雨に 柳絮(りうじょ)は風に 世はただ嘘に揉まるる

☆ これを現代語訳として、「梅の花は雨に、柳の綿は風に揉まれる。そしてこの世間はただもう嘘に揉まれることだ」とあるのは、うわべの文字どおりには確かにその通りでしょう。
けれど、それでは「世」の含み、「揉まれる」という語の含蓄はほとんど語感の上で活かされていない。ピンと利いていない。ただ鹿爪らしく世間虚仮(せけ んこけ)とやらの仏法の認識を「知解」しただけで、それなら何故ことさらに「梅」なのか「雨」なのか、また「柳」か「風」かという面白さにしっとり触れて 行ってない。「しょせん世間は、嘘」というだけでは話はただ大まか、そしてただ淡泊ただ稀薄になるばかりです。ちょうど大きなざるで水を掬うように、詩句 のうまみがすっかり漏れてしまう。
ところが「世」を、「男女の仲」と慣用にしたがい踏みこんで受取ると、世間は自然と背景、遠景となってかえって浮き立ってきます。いわゆる世間(世の中)とは、「男女の仲」の無際限の変様変態なのであるという穿った理解へ情意調うて繋がるからです。
2021 3/19 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

☆ 次の一三番は明らかな謡曲の一場面です。謡曲の鑑賞にはおのずとべつの便宜もあることとて割愛しますが、謡いおさめの一聯として出てきます、

★  ……よしそれとても春の夜の 夢の中なる夢なれや 夢の中なる夢なれや

☆ という述懐は、きっと今後に大きく響いてくる基調音とも言えそうで、これだけは、何度も口遊んでみて欲しい。
およそ何事も「春の夜の」「夢」の「中なる夢」に同じよと謡っている。「世はただ嘘」(一○番)「惣て是れ虚」(九番)を受けての「夢の中なる夢」とい う認識がここへ突出して出ている。はたして否定的にか。肯定的に出ているのか。編者の、謡いての、聞きての、そして私たちの それぞれの判断の重みをしっ かりこの句の上へなげかけておいて、先を読んで行くことにしましょう。 一四番。一五番。一六番。

★ 吉野川の花筏 浮かれてこがれ候(そろ)よの 浮かれてこがれ候よの

★ 葛城山(かつらぎやま)に咲く花候(そろ)よ あれをよと よそに想うた念ばかり

★ 人の姿は花靫(はなうつぼ)やさし 差して負うたりや うその皮靫

☆ この三つを事実一連の、同時の作詞であると考えるわけには、ちょっと行きかねます。編纂配列の技巧で、意図して微妙に面白う連絡し合っているには相 違ないでしょう。歌詞のかげに隠れた歌謡の主体、つまり謡いてが男か女かのいずれとも解釈できそうですが、「花」の縁語からは、やはり女を想う男の心情と して一連の情趣を読みとってみたい。
すると先ず一四番では、心浮かされ想い焦がれるものを、吉野川に浮かび漕がれ行く「花筏」に繰返し呼びかけ、かつ託している。「漕がれ・焦がれ」の懸詞 を効果的に生かすためにも、ここの「花筏」は、ともあれ花枝に飾られて現に人の乗っている筏のことと想うのが、真実感も臨場感もあっていいでしょう。
一五番へ行くと、「女」は「葛城山に咲く花」に見立てられている。俗にいう「高根(嶺)の花」で、よそにのみ見てやむしかない。手が届かない。「あれを よと(あの花が欲しい欲しいと)」「念ばかり」の響きあう詞句が、可憐にかなしいではありませんか。葛城は名だたる高嶺。美しい桜の名所。「浮かれてこが れ」それでも「念ばかり」で「よそに想うた」と、したたる涙のしずく。めめしいようで、しかしこういう純な男心は、かえって武勇の男子にもよく似合い、わ るくないものです。
これは女が男を思っているのだと、一四、一五番とも十分に読めるのですが、その場合は、口つきからして遊女または村娘などが、身分ありげな手の届かない 男性を遠目に慕っている風情になりましょうか。女が、男を「花」と見立てていけない道理はないが、逆が普通と謂えますかどうか。
一六番へ眼をうつしますと、男は「花」の女を、結局もう手に入れてしまっているのですね。しかもその経過と結果から或る「うそ」を感じてさえいる。「靫 (うつぼ)」とはいわば「矢差し」に造られた空のツボ。皮で造ったツボ。これを背に負うのですね。女の姿、女の体を「優し」い「羞(やさ)し」いツボ、 「矢」の容れ物と見立ててもいるのですね。
「矢」が男を示すことは、鴨社の神話伝承にも見えている、太古来日本人の実感です。美女が川溝にまたがっていると川上から矢が流れて来ます。そして美女 は神の子を妊む。そのような矢を「差して」とはっきり謂う表現は、縁語を懸詞で強調したなまめかしいエロスの効果をもちながら、一転して、靫をただ背に負 うてみるというふだんの動作にもどされ和らげられる。女という名の花靫(はなうつぼ)を背に負う、つまり我が物として背負いこむ、と──、優しく羞しいと 見たその花靫の出来が、じつは皮は皮でも「うその皮」で張ったからっぽの靫だった──と、そう言うのです。
ずいぶん手厳しく女を攻撃しているようですが、この小歌を反復口遊(くちずさ)んでいても不快なえげつなさはなく、かえって優しげな女のその外見の美し さは、すこしも害われず眼に見え見えてきます。「差して負うたりや」といった口調子には、快い、男の意気のようなものさえ想われます。
となると、ここで「うその皮」は、女という相手をわるく決めつけているというより、もともと男と女との「世」の仲なんて「うそ」と「うそ」の掛け引きな ンだものと、ちょうど鐘と撞木の間が鳴るぐあいに、以前の「世は嘘に揉まるる」ふうの感懐が、さらりとやさしく残響していることが読めてくる。分かってく る。
手に入れた女を、一方的に「うその皮」と貶(おとし)めるほど男心はいやしくない。男は、己が男心にさえも苦笑いのうちに「うそ」を感じている。それど ころか男と女との「うそ」を悪いとも言ってはいない。「うそ」は、時に、すぐれて美しいしやさしい。そういうことをよく知りぬいた同士の、知りぬいた時代 の、これは可憐なほど「面白い歌声」なのだと私は味わっています。
すると、次の一七番が引き立って見えます。

* わたしの僻見かも知れぬが、人間の生んだ「文化」の象徴的なのは何かと問われれば、一つは「棒」で、いま一つは「容れ物」と想う。「棒」の方は武器になって行き、必然分かりいい、が。
「容れ物」とは。一つは「住」へつながる「穴、横穴、窟坑、家」に違いないが、私はもう一つの系列に「碗 皿 匙 鉢 壺 また 袋 箱 包みモノ」を想わずにおれない。
私は 家人のあきれ果てるほど 箱・袋の棄てられない人で、大小となく、いつか役立つもの、棄てがたいものと、狭い家の至る所に空らのママ積み重ねてあ る。今や「用・要」も思うが、「美」も思う。人間に美意識を授けたのは暮らしの中に創りだし生かした「容れ物」「袋・嚢」の多様さだろうと思うが、どんな ものでしょう。
2021 3/20 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

★ 人は嘘にて暮らす世に 何ぞよ燕子(えんし)が実相を談じ顔なる

☆ 孔子、孟子などと聖人を呼ぶ。その手で、渡り鳥の燕を、 ご大層に「燕子」と呼んでいる。燕尾服が式服礼服でありますように、燕という小鳥、どこかおつに澄ました気味がある。電線に並んでとまっている時など、と くに賢(さか)しげに見えますね。人生の、此の世の、説くに妙にして聴くに趣ありげな真実真相を、したり顔に何とはなく論じあい談じあっているかに見えま す。そんな燕たちの真摯げなお談義を高くもちあげながら、この小歌、人の世の軽薄な嘘をいたく窘めているのでしょうか。どうやら、それが逆さまのようなン ですね。むしろ、したり顔した「燕子」の、まじめくさった顔の方がかるく嗤われている。おいおい、よせやいといった余韻がわざと「燕子」といった調子にの こっている。それが、この小歌の姿勢です。「人は嘘にて暮らす世に」という物言いの方に、存外につよい肯定が籠もっているのです。
真実真相といい、道理法則といい、それがとかくくるくる移り変わって、アテにならない。その変わりようの早く烈しく果敢(はか)なかった時代に閑吟集の 小歌は生れ、謡われ、受容れられていた。「何ぞよ」 つまり何じゃい阿呆らしいという気持で、「実相」とやらの「嘘」にいやほど人は付合っていた。
大事なことは、それはそれで必ずしも悪い一方とは限らなくて、世の中が本当にくるくる移り動いて行く時代には、そのアテどない流れ自体を図太く肯定する ことで、かえって前途に希望を託するという態度も必要だし、また可能でしたろう。その態度がとれない、頭のかたい、嘴の青い(赤い)若い燕のような澄まし かえった手合いに、「嘘」の妙趣をさらりと笑って訓えている、そういう、これは小歌なンだと取っていいと思う。
2021 3/21 231

* 目の前の書架で視線の特等席に谷崎先生ご夫妻の、視線豪快な、そして臈 たけてそれは美しい顔写真がならび、脇には、先生自筆題字の大判和紙和活字の珍本で、随想『初昔 きのふけふ』が起ててある。なにとなく懐かしく心惹かれ 今朝その「初昔」冒頭数頁を読み返して、久々に谷崎文体のおおらかに自在な美と妙とを満喫した。
谷崎全集そして自身の選集を心ゆくまで読み返してから行きたいなと、しんみりと思った。

* あああ、目下の仕事は、「湖(うみ)の本」最新巻の三校でした。

* 再校から三校ゲラへの赤字点検は、もう25頁ほど。そのあと、三校ゲラ を166頁まで、あらためて三校しなければならない、そのあとへ、今回はあとがきに代わるやや長い「私語の刻」の初校決定する。どう遅くなっても今月中に は「責了」できるだろう。並行してて「発送」用意、かなり前と間が空いていて、「手落ち」ないよう気をつけねばならない。次々巻になる「湖(うみ)の本  152」はもう入稿してあり「153」原稿も用意できていて、からださえもてば、順調に進むはず。その間に、新たな創作書下ろしを進めたい。

* ひょこッとノートブックが三冊現れ、昭和二十年、敗戦直後の秋第一首に 始まり、昭和二十八年(高校三年生)七月四日作の第718首に至る、いわば私の第一歌集『少年』に先立つ処女歌集を成していた。『少年』は高校一年生から 以後の作で編んで、版をかえること三、四度に及んだが、高校三年間の作は、この総題のないノートブック三冊目から取捨していた。第一、二冊は、もとより版 にして人に問えるものとは思わなかった、が、拙は拙、未熟は未熟、恥ずかしながら我が「文藝」への初歩一歩を刻した『少年以前』なのは確かで、謂わば、こ こにも「少年前自筆年譜」ないしすでに「選集」に収めた「作家以前自筆年譜」の青春編を成している。
しばらくの間、読み返て、多感に青くさい少年時代をひとり味わい返したい。
ここまで書いて、そらに思い出す、このノート三冊のほかに、たくさんな歌稿を書き留めたものがあったはず。それは、「ハタラヂオ店」のためにナショナル や東芝やシャープ、三菱などメーカーが持ち込んでくる裏白でA5大宣伝リーフ。私は、裏白紙にはいつも多大の欲望で欲しがる子だった、どっちみち余るモノ だった。わたしはこのA5裏白紙を裏表に几帳面に折りたたみ、それに自作短歌を几帳面に書き入れ、沢山溜め込んでいた。それが、今も家の何処かに必ず遺っ ていると思う。ノートブック作と裏白作とに当然重複があると思う、ないしこの裏白集からノートブックへ取捨して編成したのかも知れない、分からないが。
中一 三学期 21番目の一首は

紫の雲ながれたる朝の空に
ひかりほのぼのとみちわたりゆく

とある。私が好みの、「字あまり」を、「同音のハーモニイ」を、意識したか、せずにか、もう用いている。弥栄中学の屋上へ出ると、祇園八坂神社の奥へ東山のふとん着た影が映え、左右へ連峰をなしている。清水の山へ空へも、まっすぐ視野はひろがる。
2021 3/21 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

★ くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して

★ 何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ ただ狂へ

☆ この「くすむ人」の「うつつ顔」が、ちょうど「実相を談 じ顔」の「燕子」と相応しているのですね。「くすむ」はまじめくさるというほどの、ここではかなり強い否定語になっています。その読みは後刻のこととし て、ここら並んだ小歌は、閑吟集傑作の一つと言っておきましょう。

★ 人は嘘にて暮らす世に 何ぞよ燕子が実相を談じ顔なる

☆ 「嘘」を肯定し推奨するというのでは、むろん、ありませ ん。が、じつは「嘘」という「真相」もある世の中に、ただ浅く眼をそむけて、口先の「実相」ばかりをだらだら「談じ」ていて済むことかという意気は、少く も中世の荒いあの時代を生きぬく「力」でも「思想」でも、十分ありえた。それは、より高次元の真実や誠実を求めての、かなり切ない手さぐりでした。逆もま た、真。そこで…、
2021 3/22 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

★ 散らであれかし櫻花 散れかし口と花心

☆ 金無垢の価値としての真実を「桜花」に想い籠める。これ は、遠く上古来のすぐれて日本的な風尚というものでしょう。「散らであれ」という願いには、ただ桜の花を愛で想う真情にくわえて、男の、女の、まごころの 佳さ優しさ確かさを祈願する「真」の熱望が表わされています。
それに対し「散れかし」とは、ほとんど吐き捨てる口吻です。まやかしの実相を談じ顔の「口」や、そんな口が吐きだす浮気ごころは、のろわれよ。
この小歌、閑吟集に珍しい、直截の表現が見えます。ほとんどこれは例外に属しています。
2021 3/23 231

* 大學で英文学教授を務めていた大叔父の吉岡義睦と学生の頃ただ一度偶々出会い、三条河原町辺の店でごちそうになったとき、「音楽も聴くように」と云われたのだけを長く記憶していて、今では私の日々にクラシックの器楽曲、ことにピアノは欠かせなくなっている。
美術品と出会には身をはたらかせて出歩かねば済まないが、音楽のための機械はまことに重宝、ありがたい。なによりも、仕事に障らないのが有り難い。音楽 ゆえに書きちがえることはない。ときに眼をとじていても音楽は聞こえている。良い音と ことばを紡ぐのとは、邪魔をし合わない。
いやいや、騒音のなかでさえ、言葉へはいい感じに集注がきいて、たとえ喫茶店での他のおしゃべりがどうあろうと気にならなかった。わたしの初期作品は、ほとんど全部、勤務時間中の喫茶店で書かれていた。
勤めた医学書院で、わたしらの編集長、社の外では国文学研究の碩学であった長谷川泉教授は常々曰く、「編集者は24時間勤務」、どこでどう時間を使って も生かしても「仕事」が成るなら良い、構わないと。わたしは、有り難く拳々服膺して、いたるところの街なかで小説も書いていた。騒音が邪魔などと感じたこ ともない、ときには喫茶店でや昼食の店で人と話しながらでも書いていた。文章が「雑」になるなど、全然なかった。昭和三十七年七月末に「或る折臂翁」を書 き始め、昭和四十九年八月末に退社したが、それまでに脱稿し、九月早々には新潮社から「みごもりの湖」、集英社「すばる」で長編「墨牡丹」が一挙掲載されたまで、みな「原稿用紙に手書き」の全作、家でよりほとんど街なかで書いた全作が、それを証している。
むろん、さらさら書き放しでなく、用紙がまっくろになり、自分でも読みづらいほど徹底推敲していた。街なかでしていた。そして、妻が、全作、新しい原稿用紙に清書してくれた。出版社は、私の書き文字でなく、たいてい妻の文字原稿を読んでいたのだった。
私は思っている。作家の才能とは 「推敲の根気と力」にあると。書き損じ用紙をまるめて捨てたりせず、即、そのまま推敲した。必要なら同じ原稿で何度も重ねてした。
コンピュータは、文学の味(こく)を機械的な走り書きで薄めてきたのではないかと感じている。
2021 3/23 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

★ 花ゆゑゆゑに あらはれたよなう あらうの花や うの花や

☆ 「うの花」は「憂の花」であってまた「卯の花」でもある。「あら、うの花の」と歌った本歌が古今和歌集にあります。が、この小歌の生命は、むしろ 「露はれたよなう」という嘆きの声そ籠もっています。あまり「花」が美しいので、忍ぶ想いの花恋いの真情がつい「色に出にけり」で人に知られるまでに なった、それをあら「憂の花や」と謡う。
けれど「憂」という感情を、消極的に否定的にばかり受取っていると、この小歌の微妙な歓喜や満足を読み落とすことになる。美しい花に出逢うて、心中の愛 が思わず外へ露われる。純な人間のそれはむしろ当然で誇らかな心の動きなのですから、この「あら憂」という物言いには、初々しいはじらいや当惑を乗りこえ て 溢れ溢れる恋の喜びもふくまれているのです。
古今集の本歌は「世の中をいとふ山べの草木とやあらうの花の色に出にけむ」とあって、妙に厭世的なンですが、閑吟集の小歌では、「うの花」を恋愛に身を 濡らす美しい四月の花として、むしろ明るく輝かせています。「花ゆゑゆゑに」の一句を、わたしのこの花ごころに裏切られて……露われた、という趣で読みま すと、恋知りそめた女の愛らしい嬌態が眼に映じてきますし、「花」を女と、「あら憂」と嘆くのを男と取りますと、どこか年かさな男の、余裕のようなものが 巧くよく出た、そう騒々しくない酒席での世なれた反語か喃語のように耳に聞こえてきます。
ところで、この三○番までの歌謡は、いずれも目前の場面描写ないし体験者の即座の実情というより、より民謡に近いほどの普遍性を私たちに想像させて来な かったでしょうか。それだけに、一種の諺だの箴だのに近い趣致が伴っていて、いささか歌詞によせて「実相」を「談じ顔」でもなくはなかった。おそらく編者であ る「桑門」の「狂客」の知識人ふうな心境や態度が、余儀なく反映し反響していたのだろうと思います。
が、そういう小歌ばかりでない証拠が、次(明日)にあらわれます。
2021 3/24 231

* 朝の一番に 「閑吟集」と組み合ってはシンドイので、前夜に、翌朝分を書き出している。「閑吟集」は、じつに雅゙に軽妙に肉親に触れて、面白い。
2021 3/24 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

★ お茶の水が遅くなり候(そろ) まづ放さいなう また来(こ)うかと問はれたよなう  なんぼこじれたい 新発意心(しんぼちごころ)ぢや

☆ 「お茶の水を持ってくる(持って行く)のが遅くなります わ。さアさ。放して下さいな」というのですから、ここに女が一人いる。女をつかまえて「また来(こ)うか」と問うている男も一人います。そして男の振舞い が、「新発意心」と女にからかわれています。「新発意(しんぼち)」とは頭をまるめて間のない若僧のことですが、若僧、小僧というここは一般に通用の意味 を生かして、事実どおりの丸坊主、僧侶と限定してしまう必要はすこしも無い気がします。
この小歌、梁塵秘抄の「雑」の今様に似ていて、情況がたいそう面白い。面白いのに、そのくせ、ちょっと分かりにくい。能狂言「御茶の水」での表現どおり に納得すれば、まさに若い僧侶の新発意が、女を引き留めようとしている。それを迷惑がる女の言葉として、ほぼ同じ物言いになっています。団扇(うちわ)踊 りの歌詞を見ましても同様で、なるほど水汲み女と若い坊主となら、情景はそのままの「歌舞伎踊り」といった趣向ですから、まるで眼に見えるようですね。 「お多福」と「ひょっとこ」位の対照の妙はあるわけです。
但し団扇踊りですと 「お新発意やの」と言うています。これを「新発意心」とひき直されてみると、もうものの譬えに転じて、必ずしも姿どおりの色坊主と はかぎらず、ちょっと逸れた意味合いを生じています。ごく功者(こうしゃ)な女が、世なれぬ若僧、小僧をうまく「あしらい気味」の表現になり変わっていま す。
ここは、「また来(こ)うか」の読みが大切なンです。男が女に、「また来るか」と訊いていると解釈した本がある。放したらもう二度と戻って来ないだろ う、だからまた来るか、と「問う」意味に取っているのですね。これはとりあえず、「まづ放さいなう」という女の声に対し、道理の通った反問のようです。 が、じつはつづく「なんぼこじれたい新発意心ぢや」の取りようで、およそその重みが変わってしまいます。
女にすれば「なんぼこじれたい」「問はれ」ようであるかが小歌の眼目なのですから、ここでこそ「また来うか」の意味が、効果をもって生きて欲しい。
第一、「また来うか」は「また来るか」と他人の行為を問い訊す物言いでしょうか。かりにこれを京言葉として読みますと、私も京生れ京育ちなンですが、 「また来うか」「また来うなァ」と言う時は、他者にむかって自分自身で来る、来たいという意志を告げる物言いなンですね。たとえば清水寺の花を見に行って 大いに満足した。思わず身近な他人にむかって「また来うか」と提案するとか、内心誰かを連れてもう一度、来ようかなと思ったり、門前の気に入った茶屋女に でも、また来るよと満足を世辞がわりの約束にかえて、機嫌よく言い表わす。
「来(こ)う」は、自分が「来よう」と思う意向でして、他人が来る来ないを問うなら、「来うか」ではなく「来るか」「来てくれますか」であるはずです。但し京言葉の場合です。
次に、場所が問題です。文字どおりに坊さんなら、ここは寺内といったふうな場所なンですが、遊所、茶屋ふうの場所とも十分考えられる。すると場数を踏ま ない青道心めく若者と、苦界(公界)無縁の達者な女との出会いに場面が変わります。どちらかと言うと私のはそういう説です。「また来うか」は耽溺の味を覚 えた若い男の、それでもおずおずと「またお前のところへ来てよいか」という甘えなのでしょう。
「まあ。あまりといえば小焦れッたい坊やちやんねェ」と女は苦笑い。そういう応酬です。来て良く、来て欲しく、来て貰っての身すぎなのは女には知れたこ と。それをおずおず「問はれたよなう、なんぼ……」と呆れながら、その男がもうすでにちょっと可愛らしくなっている。その女にしても、心根に可愛げの生き た、気のいい遊女(あそびめ)なんですね。
こうなると、「まづ放さいなう」は、けっして行きずりに袖をそう引くなと窘める程度の軽々しい場面ではない。今しがた巫山雲雨(ふざん・うんう)の夢を見たその合歓の床なかでの、いっそ睦言なのではないか。
「お茶の水」は、のどの渇いたお二人さんの口直しです。ここまで読んでいっそう面白い小歌のように思えます。いかが。
2021 3/25 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

☆  ここで、ぜひ心づいて欲しいことが、一つ。「お茶」が もう十六世紀のこの時点で、かなり日常ふだんの飲料として出て来ている。むろん茶室の茶ではない。淹し茶の類、焙じ茶の類でしょう。   が、紛れない庶 民の飲みものに「お茶」がある。茶は、栄西禅師が宋から種子三粒をたずさえ帰って以来の普及と、よく言われます。一つの画期が禅院茶礼のその時分からとは 確実ですが、日本人がそれ以前から「茶」に類する何らか植物性の味を、淹(だ)したり焙じたり溶いたり煮たりしないで来たとは、とても思えませんね。水 か、湯か、ないし酒だけという飲みもので鎌倉時代までの三千年、五千年を植生豊かな日本列島の住人がすごしてきたなどとは、かえって想像もできない不自然 な話です。
「茶」の歌がつづきます。三二番。

★ 新茶の若立ち 摘みつ摘まれつ 引いつ振られつ それこそ若い時の花かよなう

☆ 「娘十八番茶も出花」と今でも謂うじゃありませんか。と かく学問の本ではズバリと敢えてくれないことですが、若駒が笹を喰む、という類の表現は、まず男(性)と若い女(体)との合歓を寓意している例が多いンで す。それと同じで、ここの「新茶の若立ち」の場合は、男女ともお互いの、気恥ずかしやかな青春の二次性徴をピンと感じとった方が、かえって気分もさっぱり します。「摘む」「引く」「振る」みな男女の出逢いで自然とはずむ肉体の上にあらわれ出る媚態なのですから、すこしも猥褻に想う必要はない。そしてこの歌 謡からは、そんな若さを喪ったか、はや喪いかけているらしい年増の嗟嘆の声になっている趣を受取ってみることです。「それこそ若い時の花かよなう」とは、 なんとまァ真率な嘘のない息づかいでしょうか。
2021 3/26 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

★ 新茶の茶壷よなう 入れての後は こちや知らぬ.こちや知らぬ

☆ 「此方(こちゃ)知らぬ」が「新茶」に対する「古茶知ら ぬ」でもあることは、すぐ、分かりますね。となれば、この小歌は濃艶至極の性の歌謡です。「新茶」は昨日読んだ三二番の、「若立ち」に通じます。若い女の 性の、みずみずしい外見と味わいとを謂うています。その新茶の「茶壷」とは──。
「壷」は言うまでもない容れものです。即ち女体本来の機能です。「新茶の茶壷よなう」とは、まさしく若い美しい女の幽所秘処をずばりと眼下に直視して形容しているのです。嘆賞しているのです。「入れての後は」を、だから今さら説明の余地などないわけですね。
ああ、ああ「古茶」のことなんか、知ったことか。知ったことか。
わるい男──。
可哀相な「古茶」よ。
傑作!
2021 3/27 231

☆ 「今すぐにも人生を去って行くことのできる者のごとくあらゆることをおこない、話し、考えること」と、二千年前の皇帝マルクス・アウレリウスは云うていた。

* とにかくも「湖(うみ)の本 151」 三校し、かなり紙面に朱は残っているが、印刷所に後事を預け託そうと思う。明日が日曜なので、「責了紙」を宅急便に託せるのは月曜になるか。
記録によると本文を入稿したのは、旧臘十二月九日だったとある。漢文の訓みと、難漢字の難訓とに苦心惨憺したが、苦労のし甲斐の私には興趣の仕事であった。
本の出来るのは 四月中旬かと思われる。ついに「湖(うみ)の本」で秦も音を上げているかとご心配も掛けている、が、印刷所でもかなりの数の「作字」を 要して校閲に苦労されたらしく、本の図体こそいつもと変わりないが、制作費はかなり上増しになるだろう、それは気にしていない。怪我無く、無事送りだせる といいが。発送の用意は、思いの外に多岐にわたるのへ、すぐ取り組みたい。封筒へのハンコ捺しは私がすませ、封筒へ、読者のみなさん、図書館・研究施設・ 大学院・大學・高校への宛名貼りは妻が終えてくれている。残るのは、各界への謹呈先を今回はよく私が選んで、宛名は手書きするしかない。「難しい」「読め ない」という声は 或る程度必然と覚悟して製作した一冊であり、「湖(うみ)の本 150」と緊密に連携独立の一巻になっている。
2021 3/27 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

☆ 『梁塵秘抄』を楽しんですでにお読みなら、この辺で、はっきり気づいておいでのことが、一つ、あるはずです。かの法文歌はべつとして、四句や二句の神 歌、ことに雑の歌には「巫女」「武者」「殿」「関守」「咒師」「鵜飼」「遊女」「海人」「博党」「近江女」「土器造り」「受領」「尼」「法師」「樵夫」 「兵士」「舎人」「禰宜」「祝」「聖」「山伏」「山長」などと、指さすように歌詞の中でそれと判る人物、その様態、が眼に見えていました。
ところが、少くもこれまでのところ『閑吟集』にそういう様態を背負うた人影が見られない。まるで個別から一般へ、とでも言えそうに、人がただ「男」と 「女」の「世」の中に、さながら抽象化されています。理念化されています。現実の「巫女」も「遊女」も、また「兵士」も「樵夫」も、歌の背後にそれぞれ固 有の身なりを隠し埋めてしまっている。そして男に、女に、ある意味で本然の姿にかえって、さまざまな小歌のなかで生きています。
今一つ、『梁塵秘抄』では、かなりの頻度ではっきりした「我」が歌詞に顔を出します。例えば「我等が修行に出でし時」「我が身は罪業重くして」「妾らが柴の庵へ」「我を頼めて来ぬ男」「我が子は十余になりぬらん」「我が恋は」などと。
むろんこの「我」も、個別の我と、一般化された我とに丁寧に弁別すべきではありますが、それにしても『閑吟集』にこの手の「我」表現が、これまで、全く目立たない。したがって二人称を指す「君」の表現もまた、ごく数寡いのです。
右の事実を、どう理解しておくか──。
二つ、見当がつきます。梁塵秘抄の時代そして今様の雑の歌を見ていますと、ある日ある処で生れてはじめて出会ったような同士が・円座になって膝をつきま ぜて互いの体験や心境を歌語りに語り合うてでもいるような歌謡が多い。巫女同士・修験者同士、遊女同士のこともあれば、それらの人がたぶん混在もしている のでしょう。互いの体験や心境が珍らかであり、また身に泌みて共感もされ、そしてそれが明日から先のまた漂泊の日々を支える知識や情報や判断の素地とも材 料ともなって行く。そういう人たちのそういう時代にふさわしい、具体的に生々しい歌謡群として、あれら今様は、紛れない時代の表情をむき出しにしていまし た。「我」を表に出して謡い語ることは、さまざまな人が階層を越えて意志疏通するための、前提であり、仁義でさえあったことでしょう。
閑吟集の時代では、小欲は、もはや必ずしもそのような漂泊者たちばかりの所産ではなかったようです。むしろ俺とお前との仲に、名乗りや「我」の強調をさ ほど必要としない、お互いお馴染みの場所で謡われていたのでしょう。あまり具体的に表現しすぎては、それが限定、制約となって歌謡のスムースな疏通をそこ なうという配慮さえあったでしょう。
逆説でも何でもない、つまり「我々」と「彼等」との区別が世の中でいろいろに明確になってきて、他のグループや人の体験から身を退きがちに、疎遠になりがちになっていたのです。
「古代」にも人は寄合って日用を弁じました、が、「中世」の寄合の場は、古代のそれよりももっと強く「我我」の連帯を欲し、「彼等」との対決を鋭く意識し勘定する場になっていた。ならざるをえなかった。
そうですから、顔なじみとまでは言わずもがな、しいて己が職分や身分を告げあう必要のないような場所へ、たとえば遊び女のいるような中立の場所へは、個 別、特殊としての「我」を持ち出さないのが、むしろ作法でした。そして日常の場所では、むしろ個よりも衆としての「我々」が、よその「彼等」との間で利害 をたしかめたしかめ相い集わないでは心細い時代、頼りない時代、身を守れない時代だったのです。
「中世」とは、一つにはそんな時代でした。だからこそ、と言いましょう、そうして寄合う場所からは、陽気に面白い藝能が生れもしたし、じつはこっそりと 時代変革のための謀議も重ねねばならなかった。陰気な逸機は「中世」では命とりであったのです。隠遁とは、そんな「中世」の特異な陽気活気になじみ切れな かった者の、あるダンディズムだったのかもしれない。私はそう考えています。
小歌でも謡おうかという場所で、人は、男であるか女であるか以外に、個別の特別の役割分担はもう必要としないどころか、危険でさえあったのですね。「我 々」同士の仲ででも、その紐帯から「我」ひとりはみ出ようとする個性は、大成功して支配者に変身するか、退いて隠遁するか、村八分にされて屈するといった 存在でしたろう。まして「彼等」の間へ紛れこんだ時に「我」はと主張してみても、窮屈になるか、無視されるか、排除されるのが落ちでしょう。
閑吟集歌謡は、どこかで一味同心の場を囃すうわべは浮かれた宴遊歌のようでありながら、時代の激流に呑まれまいと、危い孤心を隠しておく、陽気な隠れ蓑でもあったはずです。
そこで、それならば「閑吟」とは何かという問題に、ようやく遭遇します。
「閑」とは閑居の閑、「しづか」でも「ひま」でもある。「吟」はまさに「口遊む」こと、謡うこと、それも高声にでなくて、浅酌低唱する心地ですね。梁塵 秘抄は「梁塵」の文字から合点のいきますように朗唱です。そして哄笑でもあり驚嘆でもあり喝采でもある。閑吟集は、それに対してよくよく熟れた共感です。 笑うも泣くも、古代漂泊者の野性が放った逞しい情感とは自ずと別趣の、同じく漂泊に等しい乱世流離の境涯は生きていながら、さすがに定住への希望と手段と をようやく抱きかかえた生活者たちの、少くも「我々」同士の間でならもう眼と眼で頷いて分かりあえる泣き笑いです。
けれど、小歌の一つ一つを現に謡い楽しんだ男女の心境が、即ち、「閑吟」なのかといえば、それは違う。違うはずです。「閑吟」とは、序にいう「桑門」 「狂客」の孤心が望んだダンディズムなのであって、現に小歌を謡い楽しんだ人の気分はもっと流動しています。揺れています。時には面白ずくです。

★  我らも持ちたる尺八を 袖の下より取り出だし しばしは吹いて松の風  花をや夢とさそふらん いつまでか此の尺八 吹いて心を慰めむ

☆ 「我らも」という梁塵秘抄ばりの物言いが見える、ほとん ど唯一の “述懐〟です。これは「我々」でない、孤り在る「我」の意味なンですね。この辺にも編者がもう時代の波間から願わくば彼岸に身を預けたいと夢みている「狂 客」の、いっそ懐古的なと呼びたい態度が表われています。「いつまでか此の尺八」というのは、前途に不安をもった者(男)のもう抗うことは諦めて、ただ 「閑吟」に生きる表明なのですね。集の全部を読んでまたこの二一番を読み返してみますと、編者の孤独な息づかいと、「しばしは吹いて松(待つ)の風」とい うしみじみ胸にひびく「閑吟」「往生素懐」の趣致とが、こんなによく示された〝述懐歌〟は他に無いと言い切れそうです。
さて、この二一番の述懐に、次に三四番の大和節をひっそり寄り添わせてみますと、編者のひめやかな或る動機が忍び忍び輪郭をあらわして、あの得異な巻頭歌一番と呼応するようであるのも、一つの読みどころと思います。

★ 離れ離れの 契りの末は徒夢(あだゆめ)の 契りの末は徒夢の 面影ばかり添ひ寝して あたりさびしき床の上 涙の波は音もせず 袖に流るる川水の 逢瀬 はいづくなるらん 逢瀬はいづくなるらん

☆ しみじみ低唱してみて下さい。さながらに『閑吟集』編者へ現代日本の私たちからの、手向け歌かのように、ふと錯覚されてしまいそうです。
2021 3/28 231

☆ 死からその空想的要素を取り去るならば、それは自然のわざ以外の何物でもない。自然のわざを懼れる者があるならば、子供じみている。  マルクス・アウレリウス『自省録』

☆ 仕事に精を出す人間は多いが、その中で仕事の方が精を出しているという人間は少ない。   ジンメル『断想』
鋭い。
2021 3/28 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

★ さて何とせうぞ 一目見し面影が 身を離れぬ

★ いたづらものや 面影は 身に添ひながら 独り寝

☆ 「面影」は、閑吟集の動機に深く沈んだ一つの「鍵」語です。巻頭一番の歌謡から、面影は見えていました。今あげた三六番の小歌は、一言もつけ加える必要のない、まさしく真率の情というものでしょう。
次の三七番は、「いたづらものや」という謡いだしの感慨をどうか正しく読みたい。今日の語感で「おいたをしてはいけません」と、母親が愛し子を窘めるような意味では、ない。
近世このかた大正、昭和の初年までも、「いたづら者」と批評したりされたりする背景には、必ず男女の公に認められない「世」の仲が隠れひそんでいたと言えます。時に不当に、この言葉には度はずれた好色者というくらいのつよい非難も籠もっていました。
けれど十五、十六世紀の「いたづらものや」を、そうまで非難がましく決めつけては、気の毒というものです。
ここで「いたづらものや 面影は」とあるのを、主語と補語の倒置と早合点するのは禁物です。「いたづらものや」で、一度区切って読むべきです。人の面影 を身に添わせつつ独り寝の己れ自身が、そんな己が状況、そんな己が心根、そんな己が愚痴こそを 「いたづらものや」 と嘆息しているので、決して「面影」 が「いたづら」をする、わるさをするとばかり言うているのではない。ああ「いたづらものや」と我と我が身を先に詠嘆している。天を仰いで自分の顔をトンと 打っている。そう想像したいものです。
いたずらに急ぐな、身をいたずらにするな、などと言います。むろん「いたずら」もこの場合の「いたづらもの」も、否定に傾き易い語と結びついて意味をもつ批評語です。
でもこの小歌の場合、独り寝していとしい「面影」を身に抱いている男が、当のいとしい女を(女が男をでも妥当しますが)否定でき否認できましょうか。そ れどころか「色」好む者なら、かかる「いたづらものや」の境涯さえ本懐とすべき風情でもあり、情趣であり、粋の粋とは、この嘆息この愚痴の中ではじめて結 晶するのかも知れはしない。「思ひみだれ、さるは独寝がちに、まどろむ夜なきこそをかしけれ」と兼好法師も 徒然草の第三段 で言っています。
源氏物語や枕草子いらいの好色を「あはれ」とも「をかし」とも「ながめる」伝統は、このように生きている。とても、ただ否認してすむ美意識ではなかった のです。「いたづらもの」こそ実存者であったような時世を、日本の時間はたっぶり抱きこんでいます。まこと、「萬にいみじくとも、色このまざらん男(女) は、いと寂々(さうざう)しく、玉の巵(さかづき)の當(そこ)なきここちぞすべき」と言い切った兼好法師の美意識は、この小歌をふしぎに倫理的な魅惑で 飾ってさえいます。
必ずしも私は今、それを讃美ばかりはしませんけれど、そうした特色ある歴史的感情に眼を背けて、「いたづらものや」を説明して「無用な物よ」と教え、独 り寝のことを「いたづら寝」とも謂うとただ言い替えて読みおさめてしまうのでは、この小歌の嘆きを無価値にしてしまいます。
いい本歌や類歌のある小歌ですが、これはこれ、心優しく身にしむ実情歌ではありませんか。
2021 3/29 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

☆ 44・45・46番を、次に一連で読みましょう。

★ 見ずはただ宜からう 見たりやこそ物を思へただ

★ な見さいそ な見さいそ 人の推(すい)する な見さいそ

★ 思ふ方へこそ 目も行き 顔も振らるれ

☆ 「見ずはただ宜からう」は、含んだ物言いです。見なければ差支えなかろうといった浅い解釈では、かりにこの一句の解決はついたようでも、つづく一句とのかね合いに緊張が乏しくなります。
ここは、二つある「ただ」をどう読むかも大事なところ。見ないうちは、評判どおりの「ただ宜からう」で、よそごとに想うて平気でおれたのです。それなのに「見たりやこそ」 現に見ちゃったもンだから、おかげでこの物思いさ、惚れこんで──。
前のは、気軽な「ただ」です。後のは、ひたぶるな「ただ」です。
四四番、これは男の口吻ですね。女でもありえます。
つづく四五番の「な見さいそ」の「な」「そ」は、禁止を示しています。「見ちゃァだめ!」「人が怪しむわ(けどられてしまうわ)」と、当時の女人の直接 話法そのままを想わせます。「推(すい)する」は、推量し推察するのでしょう。〝ことば〟が自然な “うた〟と化している好例ですね。
四六番は、「振らるれ」という、受身とも自然とも両様にとれる「らるれ」のラ行音が、いとまろやかに耳に響きます。「だってェ。好きな人の方へ目も顔も 行っちやうんですも-ん」といった嬌声が聞こえてきます。酒席宴席や祭礼などでの、臨場感旺盛な咄嗟のギャグが、「あはれ」に「をかし」い人の思いを把握 しえた小歌ですね。男が、女の口説き文句に謡ってもなかなか有効だったでしょうし、さぞ愛誦されたことでしょう。
そうは言いながら、さて、どうも閑吟集の歌詞は淡泊で、コクというものが乏しいと物足らずお思いかもしれません。

仏は常に在せども 現ならぬぞあはれなる
人の音せぬ暁に ほのかに夢に見えたまふ

☆ 染塵秘抄の二六番、随一の秀作として広く知られた今様で す。七五音を四句つらねた、少くもこういう型の整いは室町小歌には、ない。ない、のが特色とすら言えます。型の整いならば、謡曲つまり大和節や近江節など の方があるでしょう、が、それでも七五、七五と四句をつらねるといった定型というのではありません。謡曲のそれは、むしろ梁塵秘抄の今様より時期的にやや おくれて流行した、宴曲(早歌)の詞句のつらねかたに近い。

恋しとよ君恋しとよゆかしとよ 逢はばや見ばや見ばや見えばや

☆ 梁塵秘抄の四八五番、二句神歌のうちから、一等閑吟集の 率直な謡いぶりに近そうなのを一つ、抜いてみました。が、これにも或る整いがあり、閑吟集四五番の、あの「人の推する、な見さいそ」などというあたかも日 常の物言いそのままとは、よほど違っています。これを譬えて、まだ和歌的な梁塵秘抄と、もう俳諧的な閑吟集と謂ってみてよいかどうか。これは、あなたに、 質問として呈するに止めておきましょう。
2021 3/30 231

☆ 秦恒平様
音信ありがとうございます
私、姉家族ともに元気で過ごしております
ただ昨夏は 吉岡嘉代子伯母(吉岡守夫人)が亡くなり コロナ禍の続く中で 寂しい見送りとなりました
それでも春は暖かくなってくれています
この日曜日に久しぶりに星野画廊(京都・粟田口)に行ってまいりました
河合新蔵の東海道五十三次 大正10年頃の東海道が広重の五十三次とどちらも複製ではあるものの、並べての展示で「日本の昔」をみせてくれていました
星野桂三さんもお元気でした
河合新蔵の竹林の一つが原画で展示されてありました
今 山城南部は孟宗竹の筍のシーズンで もうすぐの新茶に向かっての慌ただしも始まっています

恒平様 皆様  お元気で    孝一   実父(恒)方従兄弟

* 懐かしく。当尾の吉岡本家を単身訪れた時、守叔父に 浄瑠璃寺へ連れて行って貰った、忘れない。孝一君のお母さん(吉岡家でのいっとう若いけい子叔母)は、たしか孝一君も一緒に、この保谷の家まで訊ねて見え たこともあった。幼來ひさびさにこの叔母を訪ねた日の嬉しい再会を「けい子」と題して書き置いてある。南山城の筍と新茶か。当尾の本宅には大きな柿の樹が 聳えていた。

* こうして、まだ、私は実父方とも実母方とも曲がりなりに「縁」を繋いでいる、が、建日子も朝日子にもそんなことに何の思いも動きもない、あり得そうに ない。私の世代ではまだしも「家」のつながりは念頭にあった、とは謂え、私の場合は、根から父方とも母方とも「縁の絶たれた」生まれたての私ひとりの本籍 が造作されていた。実兄の北沢恒彦にも同じだったようだ。かろうじて実父「恒」の名一字をわれわれ兄弟は伝え持ち、恒彦長男は吉岡の祖父そのままの名を (父恒彦の思いが籠めてあるのだろう)与えられている。
私の場合、娘朝日子とは、不幸にも、おそらく死に目にも互いに会うことはないだろう。両親が大病時の見舞いも朝日子は電話口で即拒絶したと聞いている。
このようにして、人は世代をへつつ昔とも血縁とでも自ら縁を絶ち打ち棄てててゆく。今に始まったことか、人や、家に、よるか、もうそんな穿鑿も無意味になってきている。
それよりも、私も心親しい京・粟田口の星野画廊主と南山城の従兄弟孝一君とは親しいらしく、こういうのも「心ぬくもる縁なのだな」と思う。こういう縁の方が心に親しく伝わり合うのかな。

* 幼少を秦家に養われてガンとして生母と実父を忌むほどに遠のけて成人した。兄とすら、四十五十近くまで受け容れなかったが、自ら最期をはやめた兄の晩年とは、沢山な文通ちちもに懐かしく結ばれたのは嬉しいことだった。
私の境涯を一語にこめれば、「もらひ子」だった。それを真に救い上げた鍵は、「身内・真の身内」一語に尽きた。私の生涯最高の不動の創作は、「真の身内」だった。
母にははやく死なれていたが、母のあしあとを追って、その「生きたかりしに」と呻いて歌った辞世歌を慕うように長編『生きたかりしに』を書きあげた。そ していま実父の苦渋と失意に充ち満ちたような「遺筆また遺筆」のうず高い山に「子の思い」で私も登りかけている。そのためにももう少しく命を賜れよと天を 仰いでいるが。
2021 3/30 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

☆ ところで、俳諧ないし川柳のことを念頭におきますと、わざと後廻しに残しておいた、四二番のこんな小歌を、ここでご一緒に読まずにおれません。

★ 柳の蔭にお待ちあれ 人問はばなう 楊子木(ようじぎ)伐(き)るとおしあれ

☆ この恍けた物言いのおかしさ。
楊子は、書いて字の如くやなぎ(楊)の木で作るのが良いと言いますね。セームタイムのセームプレース、つまりデートの約束を、とある柳の木蔭でと決めて おいて、もし誰かが通りがかりに何とか言うたなら、いえ楊子木を伐っているのですと「おしぁれ」仰言いナ あるいは 言っておやンなさいナ……と。
女から男へ知恵をつける「おしぁれ」でしょう。軽みのきいた、私の好きな小歌の一つです。
話題をもどして、閑吟集の小歌に歌詞としてのコクが有るか無いかと、一つ一つについて論えば、これは少くも梁塵秘抄とくらべて分がわるかろうというのも、私の見かたです。けれど、それを補うものも、たしかに、有る。
2021 3/31 231

* 朝から 世事、政事に話題うんざりは、もう、つくづくイヤです。

☆ 「今すぐにも人生を去って行くことのできる者のごとくあらゆることをおこない、話し、考えること」とマルクス・アウレリウスは云う。十年、三十年、五十年前に聴いていたら厳しいことで、あったろう。
今は、あたりまえに思える。
2021 3/31 231

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  小歌の魅惑 そして春は逝き

☆ 閑吟集の小歌に歌詞としてのコクが有るか無いかと、一つ 一つについて論(あげつらえ)ば、これは少くも梁塵秘抄とくらべて、分がわるかろう、というのも、私の見かたです。けれど、それを補うものも、たしかに、 有る。閑吟集のいわゆる連歌的編纂です。配列です。思い切って四九番から五五番まで七つを一度にならべて見てみましょう。すると、連歌めく情緒の展開のな かで、たとえば梁塵秘抄の編集でならばそうは打ち出されてなかった、閑吟集ならではの或る宣言、主張、態度として、読者の胸へひとかたまりに感銘が迫って きます。

★ 世間(よのなか)はちろりに過ぐる ちろりちろり (49)

★ 何ともなやなう 何ともなやなう 浮世は風波(ふうは)の一葉(いちよう)よ (50)

★ 何ともなやなう 何ともなやなう 人生七十古来稀なり (51)

★ ただ何事もかごとも 夢幻や水の泡 笹の葉に置く露の間に あぢきなの 世や (52)

★ 夢幻(ゆめまぼろし)や 南無三宝 (53)

★ くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して (54)

★ 何せうぞ くすんで 一期(いちご)は夢よ ただ狂へ (55)

☆ 四九は、閑吟集を代表する小歌の一つです。しかも問題含 みの一つです。「世間」を「よのなか」とどの本どの学者も訓んでいますのは後生の解釈で、一応私も従ってはいますけれど、そういうアテ訓みを強いる用字 が、存外閑吟集に数寡いのを思えば、文字どおりの「せけん」と訓んで正しいのかも知れません。もっとも文字どおり歌謡は、黙読に先立って口誦第一に唱歌さ れるもの。おそらく編者も、これが「よのなか」と訓まれることに疑念はもたなかったでしょう。しかも「せけん」の意味も、この二字が体していたこと言うま でもない。そしてここからこの一篇の二重構造、趣向の面白さが真実湧き出すのですが、ところが私の見たかぎり、「よのなか」と訓んだ研究者たちが、口をそ ろえて「せけん」の意味でしか、この「世間」の面白さを汲んでいないのにはおどろきました。
そもそもこの四九番で謂う「ちろり」が、はたして、ちらり、ちらッ、ということか。光陰の過ぎ易く、少しずつ移動する状態を「ちろり」と浅野建二氏らの ごく通常の解で本当に十分かどうかです。当然のように古語辞典でも、①一瞬目にふれるさま、ちらっと、②またたくま、さっとの二種の解を示しています。ど うも、どれも閑吟集のこの四九番を原拠としていて、それ以前に溯る用例は示していないンですね。
近世、近代の語感で溯って行って、閑吟集の小歌に分かりよく安直に解釈をつけたと、皮肉に言えなくもない。なるほどムリのない理解で、けっして私も反対ではなかったのです。
とはいえ私自身「ちらッと」「じろッと」「じろり」という瞬時の瞥見を意味する副詞なら、たまには使ってきたでしょうけれど、「ちろり」という、音便で も何でもないむしろ澄んだ発音の名辞か、あるいは擬音のような物言いでは、もっとべつのことを考えます。例えば真先に、酒好きの私なら酒器の「ちろり」を 思い出します。それと秋野にすだく「ちんちろり」のような虫の音を思い出します。
しかもこの二つは、燗のついてくる時のさやかな〝音〟にかぶって、親密に、印象として重なり合っています。「ちろり」と「ちんちろり」──どちらかが、 他方の語源であるかとさえ想像したいほどです。事実、長崎ちろりといって、色硝子のそれは美しい酒器が遺っていますが、そんな南蛮・舶来めくものと限ら ず、やはり古語辞典が教えています「酒の燗をするに用いる容器。銅または真鍮製の、下すぼまりの筒形で、注口や把手がある」と説明しています、錫の品も多 いこのような酒器の名前は、後撰夷曲集の八より引いたという、「淋しきに友まつ虫の寝酒こそちんちろりにて燗をするなれ」とある、燗のつくさわやかな鳴り からも、またその注ぎ勝手のやさしさからも、来ているわけです。
この手の酒器を、では、いつの時代から「ちろり」と仇名ふうに呼んだか。にわかに確認できませんけれど、この閑吟集四九番の用例などは、松村英一氏や藤 田徳太郎氏の示唆もあったとおり、早くにあらわれていた証拠の一つと、十分考えられます。いかにも閑吟集ふうの名辞、語彙として、しっくりこの場に嵌まっ ています。
もっと溯って平安王朝の女房がたで日常に使われだした愛称、仇名だったかもしれない。閑吟集時代にはもう市民権を十分もって広まっていたのではないか。
こう察しをつけておいて、その上ではじめて、この名辞の語感の根に、先にあげたような「ちろり」の通解を、さらに語意を拡張されたものとして思ってみたいのです。
私の理解を率直に言いましょう。
この小歌で眼に見えている近景は、まず酒器としての「ちろり」です。そしてその蔭に遠景となり背景となってひそみ、懸詞ふうの隠し味にもなってふくらん でいる意味が、いわば通解どおりの無常迅速の「ちろり」なのです。こう意味を取ってはじめて、「よのなか」の訓みがはっきり生きてくる。つまり「せけん」 のことはと話が漠然と拡がってしまう以前に、この小歌では、男女の「世」の仲こそが、艶に直接にまず謡われているのです。
愛し合いなじみ合うた二人が、濃厚な「世」の仲をいましも枕を倶に満喫し充足している〝最中〟であると想像しましょう。
一つ床のまぢかに、〝あと〟のお楽しみの旨い酒が「ちろり」で煖められているのです。ちんちろりと燗はついてくる、その「ちろりちろり」の間にはや二人 の愛の高潮も過ぎて行く。ひしと寄合う二人の思いが、あるいは男の、あるいは女の孤心が、夢うつつにその「ちろり」の迅さをしみじみ認識しているのです ね。相愛の営みが、わずか「ちろり」の鳴りはじめるまでの、酒に燗がつくまでの寸時に過ぎてしまう、果ててしまう、そのはかなさを惜しみ、呆れ、なげき、 そして男女ともどもに酒の方へ這い寄って行く。そんな、やや醒めてうつろな睦まじさとして読むのが面白い。
松村、藤田民らはここまでは読まれていなかった。
「ちろりに過ぐる」の「ちろりに」という形容動詞ふう語法は、酒器「ちろり」で燗がついてくるほどの時の間に、束の間に、という意味でなければたしかに 不自然です。そしてあとの「ちろりちろり」はその時の間を擬音ふうに表現し描写している。リアリティはすべて眼前の酒器「ちろり」が面白う確かに支持して います。
そのものズバリ、有力な応援を、太田南畝先生、即ち天明狂歌壇の大将格だった四方赤良のこんな面白い狂歌に願いましょう。

世のなかはさてもせはしき酒の燗 ちろりのはかま着たり脱いだり
四方赤良

☆ 酒器を容れて置く「はかま」と着物の袴とを懸けている。袴を着たり脱いだりとは、すでにエロスの情景を直写しています。四方赤良は閑吟集のこの小歌をどうやら本歌にしていたかとも言えそうですね。
まずは、この小歌は、こう読まねばならぬはずの秀句です。そしてこれほどの具体具象を経て、さらに広く遠くに、「世間」は、時世は、人生はとおし拡げて行けばよい。「世の中はさてもせはしき酒の燗」です。「ちろり」の妙に、かくてこそ意味深長に手を拍つことができます。
四九番は、いわば二重底、三重底の面白さなのです。それをは なから無常迅速調で単調に片づけてはへんに説法くさいものに終ってしまう。はじめに愛欲耽溺のはかなさがしたたかに感じられて、ついで男女「世」の仲の行 く果てが想われ、それでこそ世間虚仮、無常迅速というほろ苦い諦念も遠景に生きてくる。身につまされるのです。ともあれ目前の景としては、男は男の、女は 女の〝事後″のしらじらをこの小歌で思いつ見つしているンで、真の意味の、これが「きぬぎぬ(後朝)」の情緒というものでしょう。
さあ、先に挙げた一連の七篇は、最初の四九番一つをこう読まないと、すべて浮足立って生悟りのお説法くささに鼻をつままねばならなくなる。五○番は「浮 世は風波の一葉よ」といい、五一番は「人生七十古来稀なり」といい、五二番では「あぢきなの世や」とふッと口をついている。それをさえエイと振り切るほど いっそ勢いよろしく五三番は、「夢幻や 南無三宝」──。一炊の夢に夢さめた謡曲『邯鄲』に出てくる一句です。
一度はおちこみかけた「あぢきな」という否定や消極を、今一度「何ともなやなう」「何ともなやなう」と否定の肯定に反響させ逆転させての、すべては、 「夢・幻」という真実の現実。これをすべてそのまま、「だからどうだと言うの」「何じゃいナ」とまたバサリ夢幻(無間)の底へ切って落とすわけです。その 原点に四九番の男と女との愛恋夢幻、無限抱擁の束の間が過ぎ行きつつある。「ちろり」と酒が煮え立つほどの儚い時の間にも、しかし、よくよく想えば、よそ の現実社会では決してえられなかった甘美と充実とがあった。あったはず……だ。
「浮世は風波の一葉」それで、けっこう。「人生七十古来稀」で、けっこう。「水の泡」「露の間」で、とことん味わいつくすいとまもなげな「世」は世ながら、それとて南無三宝、「夢幻や」であるわけです。
観念だけの諦悟は机上の空論です。最初に人間らしい愛欲の真相が寂然かつ「ちろりちろり」と据えられているから、四九番から五三番までが、みごとに緊密 な、少くも一つの〝態度〟を毅然と表わしえている。この態度の毅さは、この時代の人々にすれば、世間万事心細く心もとなければこそ、こう生きぬくしかない 強さであったのでしょうね。またこの一連をこう編集しえたことで、閑吟集の編者は、「狂客」たるの真骨頂を表わしえていると言えましょう。
こうまで断乎読み切ってみると、もう、五四番の、また五五番の、「うつつ顔」を嗤って「ただ狂へ」と噴きあげる歌声に、余分の註釈は不要というもので しょう。男女の仲を、そして現世を、徹底して「夢の夢の夢の」と幾重もの合せ鏡の奥をのぞくような覚悟があれば、「一期(生涯)は夢よ」と見切って、だか ら肯定して、「ただ狂へ」と両手両脚を奔放に虚空になげ出すのは、語の真実として極めて “自然〟です。この〝自然〟を〝リアリティ〟と訓みたくなるのは、根本に男女の愛を据えて動かない『閑吟集』の人間肯定があるからです。
ここで「くすむ人」というのは、一般に「まじめくさった人」ととるだけでは、じつは味わいがまだ稀薄です。明らかに「夢の夢の夢の世」つまり性愛の秘境を、はるばる訪れていながら、なお「くすむ人」は、尻ごみする人などは、とても「見られぬ」と嗤っているのです。
「ただ狂へ」も、どれほど深遠に釈義してもいいのですが、根本には、男女愛欲の海のなかで狂い游ごうよと、徹した思念が第一義に謡われている真相を見忘れては、聴き遁しては、いかな説法も屁ひとつ、何の足しにもならないのです。
『閑吟集』が説く「春」とは、まさにこういう小歌に寄せて認識される「春」なのでした。そしていつしか「夏」が、そこへ来ています。
2021 4/1 232

* 愉快に嬉しい夢には容易に出会わないもの。しようがない。夢覚めて、そのまま、よかったこと、うれしかったことを暗闇のままあれこれ思い出し気分を直す。それは存外に出来ることで、よかった、うれしかったことは想像以上に蓄えられているということ。

* 『オイノ・セクスアリス』三部を終える前に、妻と、西院の寺、わたくし吉野東作孤りの本籍が創られたという松院で、実父と生母が「倶會一處」の墓に手 を合わせたあと、南へ一路の川沿いを車で走り、桂川近くでたまゆら独り車から出たところで妻も、車にも消え失せて仕舞われる。
しかたなく暮れて行く上鳥羽から下鳥羽、おおむかしの佐比の暗闇へ疲れた足をはこびつづけ、あげく桂川と鴨川の合流する浪間へ沈んで行きそうになる。
大昔からの、うち捨ての死者の墓場、賽(佐比)の河原だったが、そのあとの夢うつつとなく夢ならではの「世自在王佛」にみまもられてつづく場面が、私に は身に沁み、繰り返し思い出し思い出し、不思議の世へ心身をあずける。広らかな久我の水閣にしつらえた釣殿で 姉と妻と妹と四人でそれぞれの思いあまった 歌を詠みかわす。
2021 4/1 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

☆ 季は「夏」に転じています。弥生は三月で春、卯の花咲く卯月は四月で、もう夏、と、そのような暦の上での中世と現代とのちがいもちゃんと頭に入れていませんと、古典を読むさいに往々季節感をあやまりますので、ご注意ください。
五九番。

★ わが恋は 水に燃えたつほたるほたる もの言はで笑止のほたる

☆ 「笑止」は、今日では失笑、冷笑、喋ってやるといった意味に使われ易いのですが、もとは、この小歌の時代では、気の毒な、可哀想なという意味で使われています。間違いやすい言葉ですから、注意が要ります。
その上で「こひ」「燃え」「ほたる(火垂とも書く虫です)」と言った「火」の縁語を読みとりながら、反対語の「水に」に「見ずに」の意味を懸け重ねて読んでください。
蛍は、物を言わずに恋い焦がれる「忍ぶ恋」のシンボルにされてきた夏の虫です。「見ずに」「もの言はで」忍んで燃えているわが恋ごころの切なさへ、「蛍」よ「蛍」よといとおしむように呼びかけています。
2021 4/2 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★  思ひ回せば小車(をぐるま)の 思ひ回せば小車の 僅かなりける浮世哉

☆ 近江節です。「恩ひ回せば」「回せば小車」と言葉を懸けて回旋の速度感がよく出ている上に、同句を繰返すのも「小車」らしい佳い効果になっています。
「浮世」とは、後代に浮世草子などが盛んに書かれ読まれます、『浮世床』などという読物も人気をえますし浮世絵もあって、言葉としてはなじみ切っていますが、意味はとなると簡単にいかぬ言葉です。
あさはかに、ふわふわと頼りない世の中というふうに「浮」くという文字からつい取りたくなるし、まァそれで大異はないようなものですが、根本に「憂き 世」という感受があり、それを批評的にかるく「浮世」と思い直した経過に、意味深長な時代感情のあやは汲まねばなりません。やはり 閑吟集を特色づける語 彙の一つと言うべきでしょう。
しかしそんな印象ばかりを言うのでなく、たとえば、よく「浮身をやつす」と言います、あんな謂いまわしとの関連からも「浮世」のことは考えてみたいものです。
番茶も出花の年ごろになると、どう大人が制しても、とかく漂いがちに世間へふらりと出歩いて行く若い男や女の、やるせもなく春情ゆたかな、けれど心もと ないそぶりを指して、「浮身をやつす」と昔の人は謂ったンですね。「浮世」とは、そういう男女の「世」の仲でこそあるのです。するとこれも、前章で読みま した、四九番の、

★ 世間(よのなか)はちろりに過ぐる ちろりちろり

☆ の 「ちろり」と同じ効果で、「小車」が使われている。「世間」と同じように「浮世」が使われている。ともに「僅 かなりける」時間、まさに逢う瀬の束の間が嘆かれているわけです。さらに徹して読むと、遠景に 邯鄲一炊の夢、夢幻や南無三宝といった感慨が浮かび上がる のですね。
2021 4/3 232

* いま、それを思うのは不適切かもしれないが、1984年8月末までのか なり詳細な、だが自筆「略」年譜が出来ている。朝日子が結婚の一年前まで、その後に私の作家・創作生活は前世紀末に16年 今世紀に20年強続いている。 「年譜」を確認しておくなら、もう最期の機会かと思われる。それだけに没頭は出来ない、日々新たな歩みがある、が、放っておけばもう私の足取りを辿ってお くことは曖昧模糊かつ不可能に近くなる。ばらばらではあるが個々の「記録」は、手帳もカレンダーも残してある、とはいえ、個々のそれぞれに付着した私の 「記憶」「感慨」は日々に喪われて行く。老人性の耄碌は確実に始まっていると見て覚悟している。関連の資料は可能な限り「積み上げた」が、それらから記事 をつくって行く作業には、没頭しても少なくも一年かかるだろう。
えらいことを思い附いてしまったと、かなり慌てている。
区切って、前世紀2000年(平成12年・65歳)までを念頭に、二度懸け で造るか。
なんで、こう、次々に仕事を造ってしまうのだろう、とてもとても体調堅固など謂えず、ヘバリながら。ヘバッテいればこそなのか。
2021 4/3 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★  やれ 面白や えん 京には車 やれ 淀に舟 えん 桂の里の鵜飼舟よ

☆ 六五番。 珍しいのではない。風情があり目に立ちやすいその物を「車」「(渡し)舟」「鵜飼舟」と挙げているのですね。「やれ」「えん」という囃しを交互に出してくる。アイヌのユーカラでもこういう囃しかたが目立つそうです。
六六番と六七番は、連れて読みましょう。

★ 忍び車のやすらひに それかと夕顔の花をしるべに

★ ならぬ徒花(あだばな) 眞白(まっしろ)に見えて 憂き中垣の 夕顔や

☆ 六六番の小歌は、明らかに源氏物語「夕顔」の巻に取材しています。が、それに捉われてしまわぬようにと言いたい。
歌謡への身の寄せかた、ことに閑吟集のようにわざとと言えるほど主語を欠いた語法のものでは、敢えて、その表に出ない主語の箇処へ自分か、自分でなくて も自分同等に大切なもう一人を据えて読んでみるのが、ごく自然な感情移入の本道です。徒らに周辺の知識に足をとられ、いきなり光源氏や薄幸の美女夕顔を外 側から傍観者の視線で眺めるといった読みでは、歌謡にふさわしい対い方と言えなくなる。
「やすらひ」は誤解しやすい古語で、つい「安」や「休」の漢字をあててしまいがちですが、これは「躊躇する」「ためらう」意味です。百人一首に赤染衛門の名歌があります。

やすらはで寝なましものを小夜(さよ)ふけてかたぶくまでの月を見しかな

☆ まこと凄いほど身にしむ、待ちて逢はざる恋の秀歌なンで すが、ためらってないで寝てしまえばよかったわと愚痴っています。「来る、来る」という言葉を心待ちに月を見ながらつい宵も過ぎ、夜も更けて、傾きはてた お月様を山の端へ見送ることになってしまったわという歌でしょうか。
この赤染衛門の「やすらはで」は、たしかにそういう意味なのですけれど、閑吟集六六番の「やすらひ」は、たいてい、小休止の意味と取られています。ある 人の現代語訳ですと、「女のもとへこっそり通ってゆく車、その車が休息のおりに、あれは自分が思っている女かと、そこに咲いている夕顔の花を道案内として 訪ねた」と、あります。
残念なことにこの訳は、まともな日本語になっていない。十分に意味をなさない。
なぜ「忍び車」が「休息」するのでしょう。女のもとへ車で忍んで行く者の気持にすれば、「ためらひ」こそあれ、人目立つ途中の休息などとのんびりしてい られるわけがない。が、男の逢いたい思いと、それをためらう思いとが、忍び車のえも言われぬ足のおそさにはなっている。それがここでの「やすらひ」の本意 でしょう。
なぜ「やすら」ふか。なぜ「忍」ぶか。
日かげに咲く夕顔の女だからです。辻君や遊君のような女だからです。それでも愛しいからです。
ここの「夕顔」は、源氏物語も踏まえながら、夕暮れ時からほのかに町かげに咲いて出るような女の身上なり素性なりをうち重ねています。「それかと」「し るべに」は、源氏物語の中の「心あてにそれかとぞ見る白露の光添へたる夕顔の花」や「寄りてこそそれかとも見めたそがれにほのぼの見つる花の夕顔」という 男女の応酬に示唆をうけています。
六七番の「夕顔」は、ものの言いまわしからは一応源氏物語を離れています。が、恋の対象としての「夕顔」であって、しかも「憂き中垣」のむこうに裏白に 咲いたのが、見えてはいて、手は届かない、そういう「憂き仲」の花の夕顔でもある。この恋、どうも実を結びそうにない、だから「ならぬ徒花(あだばな)」 でもあるわけです。
六七番の「夕顔」の女を、遊君と見るか。垣がへだてた人妻と見るか。「人妻」説によれば、これは源氏物語を遠くに感じとって読むのがいい。はじめて光君が夕顔と出逢って、先の歌のやりとりをした時は、女はまだ頭中将の思い妻の一人であったのですから。
けれど、「ならぬ徒花 裏白に見えて」は、必ずしもあの「夕顔」にふさわしい物言いでない。どこか町の小路の遊君めく女と取れます。どう取ってもいい、十分に物語めいて面白い小歌です。
2021 4/4 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★  恋風が 来ては袂(たもと)にかい縺(もつ)れてなう 袖の重さよ 恋風はおもひ物かな

☆ 『魔風恋風』という流行った小説が、明治の頃に小杉天外 作で書かれています。「恋風」は、銘々の語感で好きに読んでいいはずです。恋慕の衝動に性愛が混じるくらいに想っていい気がします。「掻い縺れて」は、払 いのけても絡みつくようなまことに余儀ない情動を言い表わしている。「おもひ物」は「重い物」と、ものを思わせるものとの両方に懸けていますね。ちょっと 歌が重い感じです。
で、いっそ私はこう読みたい。
これは独詠の述懐でなく、今しも座敷で、(戸外でもいい)袂にからんでくる女にむかって、男が機転のご愛嬌でからかっているのだと。
すると、歌が軽くなる。ぐっと面白くなります。そして、男と女との表情や身ごなしまで眼に見えてきます。
2021 4/5 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★  仰(おしゃ)る闇の夜 仰る仰る闇の夜 つきもないことを

☆ 「つき」は「月」でもあり、ふさわしい「拠りどころ」の意味でもあります。「つきもない」という物言いには「月もない」闇夜の意味と、「いいかげんなことを」という非難が懸け合わしてある。
「まァ仰ること。闇の夜だからいいだろですッてェ」 「まァ仰るわ仰るわ、聞の夜だからいいだろですッてェ」 「つきもないことを」と。
たいそう面白い。
こう読むと昨日の七二番

★  恋風が 来ては袂(たもと)にかい縺(もつ)れてなう 袖の重さよ 恋風はおもひ物かな

が、男から女へ、今日のこの七三番が女から男への、剽軽なしっペ返しとして 一対のものに想われる面白さも加わりますね。つまりこの一対、恋仲のお二人さんが 逢引の散策を楽しみながら、軽口でやり合っていると読めるのです。
配列の妙がここに生きています。
2021 4/6 232

* 深夜二時、二階。どうしてもと思い立ち、掌に重いほど私の「選集16巻」本で、長編 『父の陳述 かくの如き、死』 を読んでいる。どうあっても読み返したくなり、まだ、五分の一。自作を語るのはじつは容易でないのだが、「法廷」へ提出という此の「陳述書」形式 まこと内容は多年・多岐にわたりながら、ま、「簡かつ要」の構成と文体で相応に「表現」できていた、か、と、ほぼ納得できそう。

* 誰方であったか、過ぎし「平成」文学の一画に、私近年の長編『オイノ・セクスアリス』を挙げてくれた人がいたようで、ま、有り難い、が、だが、的を絞って 散漫を避け、主意を執拗に追いかつ煮つめる「かたり」としては、この『父の陳述 かくの如き、死』の方が、という欲目も、笑止にも、なんだか持てそう な。

* 但し、この作、避けえない手痛い弱身を持っている。表題にも露わな、「陳述者」つまりは「法廷の被告」その人が、数ある著作で賞も受け国立大の教授も務めた「父」親 で。そんな初老の父を、愛されて育った実の「娘」と陰湿に嫌みなその「婿」先生とが、「夫婦連名」で、実父・岳父を「名誉毀損」「賠償金1500萬を支払え」と訴 訟していて、何とも不快、不可解なのである、が。そんな、法廷へ提出の「陳述書」なる「語り口」を、私は、「文藝」としてぜひ「編み上げ」てみたかったのだ。驚くべ し、しかも当訴訟の「正体」がじつは「実話」、取材するのもおどろおどろしい実話であったが、ま、何とか研覈も推敲も遂げて「書き下ろした」のが「此の作」であった。

* で、歳月を経て、読み返しまして、サマになっていたか、それはまだ確言できませんが、なにしろ人も話も不快も不愉快、その苦々しさを「生(き)」のまま嘗 めてみようと、私は書き下ろしを「思い立っ」た、私の別著『死なれて 死なせて』の話体に並走の「小説篇」に成るかなあ、とも。それで副題めかして 「かくの如き、 死」と主題に添みた。え、誰か、死んだのか。
ハイ、それこそが主題。老父被告には愛おしい「孫娘」が、原告夫婦には二人娘の「長女」が、成人の誕生日 を目前に、しかも母親の誕生日と同日に、難も難の医学もお手上げな「劇症」に、みるみる奪われたのであった。

* 暁けの、五時になった。

* 小一時間もソファで眠ったか、また、読み継いだ。が、この作を他の短編、中編とで編んだ『秦 恒平選集 第十六巻』の「あとがき」も読んで、私の「文学」への思いの割合はっきり書けているのに気づいた。かなりの量になるが、目下の思いと齟齬なしと 見て、重ねて今此処に心して添えたい。。 (もう八時になる。)

☆ 秦 恒平選集 第十六巻刊行に添えて
(『父の陳述 かくの如き、死』に添えた部分。)

創作とは「実験」なのである。
ことに小説の場合一作一作が「方法の実験」でありたいとわたしは願ってきた。同じ方法でどれも似た作品を積むマナリズムをわたしは恥ずかしいと思い、一 冊の創作集を編むとき、題材が変わるという意味ではない、一つ一つの作がべつの作者の手で書かれたかと見えそうに異色の「方法」を試み、試みた。昭和五十 二年『誘惑』の場合の「誘惑」「華厳」「絵巻」「猿」がそうだった。そう批評されたし、しかも間違いなく秦恒平の文体、秦恒平の創作だと言われた。嬉しい 批評だった。
わたしの作品史で、太宰賞の「清経入水」以来、「蝶の皿」「秘色」「慈子」「廬山」「閨秀」「墨牡丹」「みごもりの湖」「迷走」「罪はわが前に」「初 恋」「風の奏で」「余霞楼」「北の時代」「冬祭り」「親指のマリア」「四度の瀧」「秋萩帖」「加賀少納言」「月の定家」「あやつり春風馬堤曲」「鷺」 「ディアコノス=寒いテラス」「修羅」「掌説集」「お父さん、繪を描いてください」「逆らひてこそ、父」等々、試みた「方法」は一つとして同じでない。一 つ一つが思い切り意図的に「異なる方法」の実験になっている。今回『父の供述 かくの如き、死」の場合も、(「湖(うみ)の本101版 『凶器』でも同 じ」)出来不出来は作者の口にするところでないが、方法の実験という点では期した以上に容易でなかった。

(湖の本では「凶器」ともした表題の意味は作品に語らせて此処で言わないが、)この小説、普通にいわゆる「小説の文章」で書くに書けない、自然描写・心 理描写やリアルな会話などを受け付けない、即ち裁判所に提出の「被告陳述書」そのものであり、陳述という目的と効果のためには、よく煮つめた、しかも攻撃 と主張を孕んだ「批評」であらねばならないそういう「小説」なのである。攻撃や主張のためには場面場面で重複も反復もあえて冒しながら、議論上も法廷を説 得し相手方を批判していなければ役に立たない。喧嘩腰が喧嘩と見えぬように、判事の心証を冒さぬようしかも際どく窺狙いながら、弱腰のゆるされない闘い、 いやな闘い、不愉快極まる闘いをとにかく一本槍に「表現」しなければ済まない「小説」なのである。
一本槍は、曲がない、まして読む小説としては。作者は、更に一思案を迫られる。
で、此の、「陳述」という曲のない「小説」を、そっくり別の「額縁」に嵌め込んで、「もう一つ」の「べつの小説」にしみようと「実験」した。
説明までもないが、つまり、この長い小説を、一人の、露骨でがんこな、しかし真剣で率直な「父親・清家次郎」のただ陳述書でなく、優にあり得ること、今 や「亡き父」の「長き苦しみ」を表す「遺稿」に変身させた。ガチガチに戦闘的な文書を、当の「父」からでなく「息子」の手で、「法廷」にでなく「世の中」 へ「提出」させてみた。法廷にでも弁護士にでもなく、実の父を訴え出た実の娘夫婦にでもなくて、「世の中」という名の「裁判員」に「父・清家次郎」は訴え たかったはずと、父と同じ創作者である「息子・清家松夫」はこれを、「遺書」でもある提案・主張と読み取り、そういう「小説」に、全然「仕立て直した」の である、儚い、憐れな、しかし父への供養として。

もとよりこの小説、「名誉毀損」とは、或いは憲法が重く認めた「言論表現・思想信条の自由」とは、「親子・家族・親族」とは、「人間の愛憎」とは、或い は「インターネット」とは、「裁判」とはとも烈しく問うており、それらの表題でべつの方法を実験されてもいい「提議」ではあった。
父と母との二つの陳述書の「前・後」に置かれたいわば額縁には、そういう小説家・秦恒平の苦くて深い惑いと思いとが提議として摺り込まれている、と、そ う読まれれば有り難いが、だが、それも作者が読者に強いることであってはならぬ。ただ、わたしは此の長編を、(わたしは此の『凶器』を)、まこと「私小 説」かのように書いた。正直書きにくい「実験」になった、(気持ちの奥に、「平成二十一年八月三十日」の革命的な衆議院選挙とも繋がる命脈を、希望を、感 じながら書いた)とだけを書き置く。(半世紀も待った勝利の選挙だった。「怨みを晴らすように」待ち得たのだ、そういう気持ちとかっちり「生きの緒」を繋いだ「私小説」を、わたしは、可能という以上に欲しい、必要だ、試みたい書きたい)と思ってきた。)

以下、述懐としても方法論としても、この巻のためにも「私小説」という「実験」に触れて、ぜひ此処に書いておきたい。

「蜻蛉日記」「とはずがたり」以来、花袋、泡鳴らを経て、秋聲も秋江も、直哉も善蔵も、高見順も太宰治も、安岡章太郎も吉行淳之介も、無数の私小説をわ たしは読んできた。私小説論もたくさん読んできた。「谷崎愛」で谷崎文学ばかりを読んできたのではない。その谷崎にも私小説ふうの作は数多い。
かねて、貰っていながら、手に触れる余裕のなかなか無かった小谷野敦氏の『私小説のすすめ』(平凡社新書)も読み始め、読み終えた。感想は、肯定的か、否定的か。肯定的…。
小谷野氏の論調はことさら破壊的な乱暴を含んで厳しいのだが、状況や背景は博捜し、あざといアテズッポウは言っていない。言わずもがなの言い過ぎはこの 人の得意技で持ち味であるから、不愉快には目をつむってとばし読みをしても義理を欠くことはないが、著者の包丁はかなり肯綮に当たっていて、面白い論策と いうより、裏の取れてある興味ある放言なみの新説である。奇説とも読める。
しかしながら小谷野氏「定義」の、およそ「女にフラレ男達」の情けない自虐的な告白「私小説」だけでは、「二十一世紀の私小説」は言い尽くせまいと思 う。わたし自身は、今も、これからも、私小説も非・私小説も書く気でいるが、「私小説」の場合小谷野敦氏定義ふうには、決して書かないだろう。
手もとへ、「私小説の問題、きっと、以前から秦さんは『ネットの介在』をおっしゃってきたと思います。やっと、それが自分にも考えられるようになってき ました。ひとりひとりの権利意識とも絡んで、難しい問題だと思います」と、読者・批評家の反応メールが届いている。いまの批評家達も作者達も、たしかにま だ其処へまで、視点も視野も届いていない。方法としての足場もできていない。そして難儀なネット上の「問題」だけが起き、行儀わるく独り歩きして行く。
現代文学が「ネットの問題」とますます不可分に成ってゆくこと、それが「法」ともからんで、ややこしく悩ましい事件を引きずり起こしてゆくこと。今、ま さに、それを「わたし」自身体験している。文学も批評も、いずれ、「ネット以前」「ネット以後」と、または「旧文学時代」「新文学時代」と「分類」されて ゆくだろう。多くの近代文学が、文豪たちも手だれたちもその他大勢も、「ネット以前」の「旧文学」という「箱」のなかに蔵われるだろう。
このわたしの予言、賢明にだれかが「記録」し「記憶」していてくれますように。

事実インターネットの時代である。優れた新才能が現れてくるとき、「私小説」の相貌は小谷野氏ふうのそんな情けない脆弱な厚かましい動機を越えて、自爆 的なほど良質にも悪質にも強い問題を社会に投げかける「私小説」が現れうる。サイバーテロや情報操作の私小説も、多彩なオーガニゼーションの私小説も、新 手(あらて)の恋愛・性愛・人間関係の小説も、グローバルに展開する私小説もきっと現れる。それらは当分は、概して「社会への批評・不満・不平」を孕んで 戦闘的に働くであろう。
ともあれ、徐々に「私小説」も書こう、書きたいとわたしは意識してきた。意識の外側から事情に強いられる気味もあったとはいえ、老境に入れば私小説が好 かろうと若い時から覚悟していたし、人生未熟な若いうちに「発見のある私小説」はムリと思っていたのだから、七十四老、いわゆる後期高齢、時機はとうに来 ている。

このところ、実は、亡き川嶋至の遺著『文学の虚実』(論創社)も読んでいた。
巻頭の、安岡章太郎作『月は東に』を論じた「歪曲された事実の傷痕」からして、衝撃に満ちた弾劾の批評であり、この一編に限って云えば、かつて東工大での同僚川嶋教授の筆鋒は、問題の核心を刺し貫き、それなりに批評本来の役を完璧と見えるまで果たしている。
『月は東に』作者のモデルに対する悪意と自己弁護は、かなり醜い。侮辱されたモデルの苦痛は計り知れない。その一方、この小説は文壇では高く顕彰され、 また、ここが微妙であるが九割九分九厘の一般読者にはそのようなモデル問題など見えようがなかった、見えてなかった、だろう。
こういう傾向と手法の私小説しか書けない「書き手」で安岡氏があることは、多く氏自身の述懐やエッセイを通して推量できたし、書かずにおれなかったから 書かれたとしてそれは作家の負う宿業といえる。言えるけれど、だからといってモデルがこの表現を憎悪し赦せないことも火より明らか。そういうことに関連し ては、もう十余年前、柳美里の小説に触れて「作者は、覚悟を決めよ」とわたしはわたしの考えをサンケイ新聞に書いている。(「湖の本エッセイ47 濯鱗清 流・秦恒平の文学作法上巻」76頁)
川嶋さんはこの評論集ゆえに文壇で多大の顰蹙・排撃を買い、逼塞をさえ強いられたと仄聞してきたが、そういう文壇であるのをわたしは嫌った。その辺のこ とは、更にオイオイにべつの場で別に書く人も出るだろう、ひとまずこの話題を離れて「私小説」への関心に戻りたいが、それでも、実もって、川嶋さんが面貌 の皮をひんめくった、上の安岡作のような私小説なら、わたしは書かない。現に書いていない。

むかしから、男女間の、家庭内の、交際上の、生い立ちの、暮らし向きの、貧しさ等々の「情け無い恥」「うしろめたさ」を、敢えて忍んで「そのまま書く(掻 く)」のが「私小説」であるという「説」がもっぱら通用してきた。その代償として、作品は「純文学」「藝術」といわれ、作者は「藝術家」という名誉を手に 入れてきたと。書き手たちは、けっこうその積もりでいた。
わたしの考えている「私小説」は、ちがう。どうちがうかを、わたしは書いて実現して行かねばならないが、一言でいえば、「いま・ここ」に在る人間の 「私」自身を書き、「私」自身の思想を社会的にも文学的にも定置し表現して行く「手法」「方法」として「私小説」を書く。「日記」を書く。「年譜」を編 む。そういう気である。
わたしは「男女間の、家庭内の、交際上の、生い立ちの、暮らし向きの、貧しさ等々」ゆえの「情け無い恥」という観念や概念にほとんど毒されていない。ほ とんど実感が無い。鉄面皮なエゴイズムと叩かれかねないが、わたしにはそれらが何故に「恥」なのか、ピンとこない。生きていてその日その日に遭遇する体験 の集積は、ただに自己責任ないし自己実現と謂うに過ぎないし、まして「生い立ち」など、どうあろうと、わたしの「知ったことではない」。
高見順は「私生児」に恥じて拘泥しつつ私小説を書いたが、自身が私生児として恥じてきたはずの「私生児」を、生涯に二人も(一人らしいが、作家自身はある期間二人と自覚していた。)妻でないべつの女たちに産ませていた。それを「私小説」に書いていた。
芥川龍之介は生い立ちへのこだわりを事実の説明としては書かなかった、書けなかったのである、どうしても。しかも深く深く拘泥して恥じていた。太宰治はどうであったか。
わたし自身は、自身私生児であった生い立ちを、それと知った子供の頃から恥じたりしなかった。「私の知ったことではございません」からである。終始一貫、ほとんどあっけらかんと「自由」だった。
むろん「恥じ入り、恥ずべく、恥ずかしい」ことは他に山のように有る。みな、生きものとしての人間なら、どうしようもないこと、ま、少しでもそんなもの 少なくありたいと願うし、わたしの場合、むしろその恥ずかしさを、儒教その他の道徳律でなんとか正そうとか制しようなどというコトのほうを、「あえて避 け」てきた。
不自由は、イヤだ。自分の問題だ、ただ目を逸らすまいと見つめてきた。わたしの生きてきたエネルギーは、「自由」でいたい欲求と、ほんのちょっぴりであ るが、漱石のように「私怨は忘れない」という熱だろう。その足場に立ってわたしは「わたしの私小説」を書きたい。自然それは書き手の「いま・ここ」に在る 思想や感想を背負って、自身を確かめ確かめ、世の中へ厚かましく主張し提言し表現する「私小説」になる。「花に逢へば花に打(た)し、月に逢へば月に打 す」。告白ではない。ただ心境の表現でもない。まして高みの見物のモデル小説でもない。優越でも、愚痴や泣き言でもない。『蒲団』でも『新生』でも『和 解』でも『生命の樹』でも『月は東に』でも『宴のあと』でも、ない。
わたしの場所は、過去にも未来にもない、「いま・ここ」にある。「いま・ここ」でどう生きているか、そこに自分の花であり月である思想や感想が産まれて いるなら、それをしっかり書きたい。そういう「私小説」が書きたい。わざわざ自分の筆でわざわざ「恥」が書き(掻き)たいのではない。
恥は掻こうが掻くまいが、たんに恥の「ようなモノ」に過ぎない。それを書(掻)けば、なんで「藝術家」や「藝術」が自動的に保証されるものか、問題が違う。
もう一度、言う。
わたしはこの長編を、「私小説」かのように(5字傍点)書いた。正直書きにくい「実験」であった。(気持ちの奥に、「平成二十一年八月三十日」の革命的な 衆議院選挙とも繋がる命脈と希望を感じながら書いた。半世紀も待った勝利の選挙だった。「怨みを晴らすように」待ち得たのだ。
そういう気持ちとかっちり「生きの緒」を繋いだ「私小説」こそ、可能という以上に、欲しい、必要だ、書きたい試みたいと思ってきた。その気持ちをかきた てるほど、わたしを励ました近刊に、かつてペン言論表現の同僚委員であった清水英夫氏の『表現の自由と第三者機関』(小学館新書)があった。)

顧みて気が付く、溢れる喜びで妻とともに「娘」を此の世に得て以来、沢山な小説の中に「娘」を登場させてきた。『慈子(あつこ)』『罪はわが前に』をは じめ『ディアコノス=寒いテラス』『逆らひてこそ、父』『華燭』そして日録『かくのごとき、死』に、小説『父の陳述』に、と。運命であったし、運命ならば 運命として見遁すのでなく、「書き表す」のがわたしの「仕事」と思う。従来の情けない告白型の「私小説」としてでなく、時代へ社会へ繋がって、批評のあ る、主張のある、凹まない「私小説」かのように実現したかった。一つの文字通り本作原題であった「凶器=言葉」ともなるだろうが、怖れまい。新世紀「純文 学」の道はそこへ、その先へ続くだろう。
奇妙なことだが、こう書いていてわたしのアタマに今ある一つ「印象的な私小説」は、あの沼正三作『家畜人ヤプー』を此の世に導いた人、天野哲夫氏の大作 『禁じられた青春』(葦書房)なのである。ごった煮の雑炊のようで見た目も上出来でない、が、濃厚に旨い味はあり、けっして「味気無い」「情け無い」告白 本ではない、生涯「いま・ここ」を凄みの表情で生きた人の、警醒・震撼、おそろしく凸出した主張作だった。強い人だった。但しインターネットの世界からい えば、「旧人」の一世界だった。

そのネット社会に接しながら仕事をする、ものを書く者として、「陳述」中にも特記し強調してあるが、今一度念を入れておく。すなわち「文責者」の姓名や 立場の明示されていないネット上の発言・言及は、原則、取り合うに及ばないということ。まっとうな主張や批評や批判であればあるほど「文責」を明らかにす るという社会慣習が築かれねば、公衆便所の落書きなみに、言論の自由と責任とが汚穢にまみれて了うのを私は懼れる、と。必要ならネット上で討論・論争すれ ばいいと。

さて、おまえの本来は、しみ一つ無い青空のような一枚の鏡なんだよと、バグワンに言われ言われてきた。無影で無垢の鏡、それがおまえの本来「静かな心、 無心」なんだが、真澄の空を雲や雨や雪が去来すると同じく、おまえの鏡はおまえのマインド=心=思考=分別という無数のもの影で曇っている。マインドと は、おまえが眠りこけて見ている「夢」なんだよ。夢から覚めて気づきなさい。バグワンはそう言う。
幸いにわたしの鏡は、あれを映そうこれを消そうと動き回らない。青空をくもらせる雲や雨が来れば映し、去れば去らせ、求めて呼びも、追い縋りもしない。 年々歳々花は相似て見え、歳々年々人は同じでない。無数に影は去来するが、在ると思えばいつしか在り、無いと思えばいつしか無い。ただうっすらと、俺は 「夢」を見ているんだと分かってきている。それでいて、せっせせっせといろんな影を鏡に映している、まるで生き甲斐かのように。
わらってしまう。わらいながら、年を取る。     秦 恒平 平成二十八(二○一六)年十月

* 心肉を抉る苦しみや憎しみが毒箭のようにさし迫って、耐え難い日々に襲われることがある。だれかに分かち持ってと理不尽に心に願ってしまう事があり、そんな時、こんなふうに、つい遁れたがるのです。

たのしみは誰にともなく呼びかけて元気でいるよと黙語するとき

たのしみは誰とは知らず耳もとへ「げんき げんき」と声とどくとき
2021 4/6 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★  我御寮(わごりょ)思へば あのの津より来たものを 俺振り事(ごと)は こりや何事

★ なにを仰(おしゃ)るぞせはせはと 上(うは)の空とよなう 此方(こなた)も覚悟申した

☆ 「我御寮」はこの時代の二人称です。あなた。お前。相当の親愛を籠めています。それだけに目上の人への物言いではありません。男女の限定はないが、先の七七番では、男が女へ。
「あのの津」は伊勢の安濃津、現在の三重県津市にあてて構わないのですが、むしろ「あの」という遠い指示詞の効用へ一般化してみた方が、いい拡がりを産むようです。
この小歌の妙味は、むろん「振り事」「何事」という脚韻にありましょう。実際に「振られた」というより、あだけた睦言(むつごと)の感じが面白いのですね。
あとの七八番は、女からの応酬ですね。深刻に読めば、はや帰宅の時間でもしきりに気にかけている男の、上の空の物言いをプンと怒って、女からも、「いっそ別れましょうよ」と投げつけたふうに想えます。
「せはせは」は、受け答えも頼りなげに妙に気にさわる早口で、つまり「上の空」で、と取りたい。
けれど、この際の女の、「此方(こなた)も覚悟申した」という科白を、そう深刻に取ってはかえってつまりません。むしろ「男の扱いに慣れた女の口吻(くちぶり)」という臼田甚五郎氏の理解に賛成です。
「俺振り事は こりや何事」
「此方も覚悟申した」
こうやり合って、瞬時に微笑か微苦笑か、あるいは咲笑をさえ交しあっている仲よさがここに見えて、そういう見えかたを誘っているのが、閑吟集のなかなか 手だれに「自然な趣向の冴え」と言えましょぅ。この編者と思しい「桑門(坊さん)」がたいした「狂客」でも「粋人」でもあって、広い意味でも狭い意味でも 社交場裡の甘い酸いを噛み分けていた人、妙な比較ですがプーシキンの「イフゲーニェ・オネーギン」みたいな人物、そういう体験の蓄積を過去にいやほどもっ た人と想像するのは、きっと正しかろうと思っています。
2021 4/7 232

* ネット世界での犯罪または犯罪にひとしく、思慮不足に蒙昧の人たちを騙り、法外の金を貪り盗む例が報じられる。こうした「ネット悪」はまだパソコンが 使われ始めた頃から、ペンクラブの電子メディア委員長として私は警告していた。なにより青少年の精神環境への害毒禍は免れまいと、いまや自然環境も大事だ が はるかに精神環境への毒害にこそ深甚の用意が必要と繰り返し発言していたが、当時のペンの理事会では、私の発言を注意理解できる人が二、三人ともいな かった。そして、おそらく今でも、文科省にも厚労省にも、ここへ深い配慮が看て取れないのは、ただもう「危うし」と謂うしかない。
インターネットの計り知れぬ効用の広大はむろん私は信頼している。しかし、いかに宜しきものにも害悪の副う事実にもいまや政治的配慮があって当然と思 う。機械の機械的回答にのみ人間の思考力を明け渡して、機械とただ浅はかに戯れ生きているのでは、世界をより堅固に維新してゆくことは難しい。明治の若者  大正の若者 昭和敗戦前の若者 昭和敗戦後の若者、平成の若者、令和の若者に それぞれ適切で共通の質問をして、その回答が解析検討されたなら、大事な 何かが浮かび出るのではないか。私が、東工大の大教室で学生たちと「挨拶」していたようなこと、を、各時代の青少年らに問うてみたいものだ。
2021 4/7 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★  思へかし いかに思はれむ 思はぬをだにも 思ふ世に

☆ こんなのを、畳語といいます。同じような物言いを微妙にずらして畳みこんでいます。舌も噛みそうですが、頭も痛くなります。すこし時代がおくれて、『宗安小歌集』にこんな類歌があります。

思ふたを思ふたが思ふたかの 思はぬを思ふたが思ふたよの

☆ 恋いこがれた相手を恋いこがれてみて、向うも同じに恋いこがれてくれたか。いやいや。恋いこがれもせぬ相手を恋いこがれた顔をしたら、向うは夢中で恋いこがれてきたことさ。
いやはや、ままならぬ──。
独白でよし、唱和と読んでもよい。ちょっと切ないような、宗安小歌の言葉遊びの面白さです。が、閑吟集の八○番は、趣味的に言葉遊びで終らせない、さし 迫った覚悟、が言いすぎならば、意気ごみを帯びています。これは自分で自分に、または親しい相手に、噛んでふくめて訓えているとみたい内容です。
「思ふ」は愛する、恋する、惚れこむ意味に違いない。「思へかし」は命じるくらい強い勧めです。そうすれば自分も強く深く人に「思はれ」ないではあるまい。愛されるためには先ず愛せよと、この小歌、謡いかけ勧めています。そしてそのあとが、独特なンですね。
愛してないはずだった相手でさえ、愛してしまうことになるのが、男と女との「世」の仲だもの。愛の不思議なンだもの。そう言っている。つまり人を愛さずには生きてられない存在として「人間」を見ている。
これを諦悟ととるか耽溺ないし頽廃ととるかは、読者の自由でしょう。
「思はぬをだにも 思ふ世に──」ふしぎに涙ぐましくもなる、真率の凝視が詞句の内に生きています。
少くも、すこしもふざけていない。
2021 4/8 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★ 浮からかいたよ よしなの人の心や

☆ こ の小歌が、自分を有頂天の夢中へと漂わせてしまった恋人の、愛と、性との〝力″を、喜びつつかつ長嘆息しているのが、いかにも「夏」の終りにふさわしく、 下句の嘆きは、男女のそれぞれに懸かっています。「浮からかす」という表現が、面白いですね。そして次にくる「人の心」の「秋」は、はや「飽き(秋)」の 季節のようです。

★ 人の心の秋の初風 告げ顔の 軒端の荻も怨めし

☆ 「秋(飽き)の初風」を告げ顔の軒端の荻のそよぎに、「人の心」の頼りなさをふと思い初(そ)めています。「男(女)心と秋の風」を嘆じているの が、まさにこの小歌です。「軒端の荻」は実景であってよく、しかも源氏物語に、人ちがいされたたまたまの成り行きから、一度は光源氏に抱かれながら忘れら れ捨てられた「軒端の荻」という、うら若い女人の切なさが遠景に見えていても、よろしいでしょう。見えていなくても、よろしいでしょう。
2021 4/9 232

* 小田野敦さんからも「秦先生」と書き出しのメールをもらった。耳よりの私事も書かれていた、が私が「選集 16」後記で「私小説」にふれて文学感想を書いたとは、先夜の、この「私語の刻」で転載してたのを、読んでもらったらしい。
むかしに『慈子』を読んだ、『閑吟集も」も読んだ 「あれはいい本です」とも書き添えてある。感謝。「昨年十月の『文學界』に私小説を載せているのでお送りします。」と、電送されてきている、らしい。私の腕前で、無事一太郎へ転写できるかしらん。このごろ、私、頓に機械操作の手順や記憶が怪しくなっているので。
小谷野さんがこの「私語の刻」に目を触れてくれていることにも、感謝。このごろ どうしてるのかなと思っていた。

* たのしみはあれやこれやをかき混ぜて仕事らしきへ気の弾むとき

* そうは言いながら、もういいではないか、という内心の声にしたがいたい気が兆している。
なんという騒がしいばかりの時代になっているのか。テレビの映像に観る世相は、もう私の同居できる、同居したいものでない。あまりに しだらなく 喧しい。昭 和に生まれ昭和に育ち、平成を懸命に生きてきたが、令和は、もう、生きて行くに懐かしい魅惑を、少なくも静かさという美しさを持っていない。機をえて早く立ち 去りたい。

* 小谷野さんの私小説というのを辛うじてメールから移したが、今の私の視力では、この線の細い小さな文字でかなりの長いものを読み通すことは不可能。わたしのこの「私語の刻」は緑の背景に「最大の太字」で書いている。それが視力に可能な限界。

「私小説」の書き手は、昔は文士の殆どがそうであり、そんな中でラコニックな文体の志賀直哉はやはり文章が傑出していた。瀧井孝作の悪文かと読みまがう独 特の習字にも文藝が光っていた。そして概して私は私小説よりも創作された世界の妙味を好んでいた。事実レベルを饒舌に書き垂れただけのものは読まなかっ た。「現代の怪奇小説(河上徹太郎評)」と受け容れられた『清経入水』の道を歩き続けてきた。一つには私 は「物語」の「語り口」という創造に関心があった。どう「語るか」それも出たとこ勝負のだらだらな語りは「イヤ」だった。主人公ないし語り手にどんな語り 方を生み出して貰うか、それが書き出すまでの思案だった。比較的近来の創作では「黒谷」「オイノ・セクスアリス」「花方」など、語り口の私なりの新しい出 かたを(成功・失敗に関わりなく)苦心した。いつも避けたかったのは、「垂れ流しのような饒舌」で 「事」 を吐きつづけること、それは、あえて遣るなら  それなりに「藝」のあるやり方でないとつまらぬと思っていた。咄家にも名人といわれた園生、志ん生、馬琴、小さん、ないし三平等々、みな独特の話藝だっ た。甲乙を付けても無意味だった。ただ彼らはどの話もヽ語り口だったが、小説家は、たとえ話に過ぎないが、時に園生風 時に志ん生風など、自身の藝として の語り口の変妙を作に応じて「発明」できないなら作家としては無価値な存在と謂えるのではないか。

* 倍賞千恵子の歌を「遠くへ行きたい」など二曲、岸洋子の「希望」 誰で あったかの「学生時代」をしみじみ聴いた。わたしは、ちっとも老人らしからぬのか、いや老耄してこそ、そういう前時代、前前時代の歌声がせつなく恋しいの であろうよ。美意識として がさつ さわがしい というのを最もよからぬこと。ものとして確信しつつ時代に育てられた来た。静かに、美しいもの・こと・ひ とを貴び尚とんで世の中を歩いてきた。今の日本は、もう堪らない、イヤだ。
2021 4/9 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★ 夢の戯れいたづらに 松風に知らせじ 槿(あさがほ)は日に萎れ 野艸(ののくさ)の露は風に消 え かかるはかなき夢の世を 現(うつつ)と住むぞ迷ひなる

☆ 田楽節です。 「夢の戯れ」の「夢の世」を「いたづら」「はかなき」と認めていますから、末の一句の取りようで、趣が右へも左へも動きます。
「夢」を否定して、「夢」は夢、所詮「現」ではない間違うなよ。そう誡めていると取るのが普通の解釈でしょう。
けれど、「いたづら」に「はかな」いのは「夢」の本来、また愛と人生の真相なのだから、「現」の思いで「夢」をひとかど批評しえたなどと思う方が「迷 ひ」である。「夢」はやはり夢、「現」など実は実在しないのが現実の姿と見究め、「夢」に徹して生きればいい、と、そういう主張も十分ありえたのが、閑吟 集の「ただ狂へ」なのでした。
私も「夢」派です。
九六番。

★ ただ人は情あれ 槿(あさがほ)の花の上なる露の世に

☆ 「槿花(きんか)一朝(いってう)の夢」と定まり文句があるのを、思い起こすにも及ばないでしょう。あくまで「情(なさけ)」とは自身に、他者に、何ごとであるか、ありうるかを問いたい気がします。

* なにもかも、と謂うてもいいほど私は生来の「閑吟集」派に自身を育ててきた気がする。「NHKブックス」の此の私の一冊は「私」を解説の一冊にさえ成っている。
2021 4/10 232

 

☆ たのしみは「したい」仕事の「すべき」よりもほどよく我を誘(いざな)ひ呉れる

* 「湖(うみ)の本」35年 150巻 いつも本が出来てくる間際の息苦しさを堪え続けてきた。届いてしまうと、ほっと開放された。決して泰然剛毅な人では私は無い。
今日、夕方近く、歌集「少年前」の編まれていたノート三冊の最初の方を機械に入れ始めていて、敗戦後の新制中学三年での「修学旅行」をうたって四十首近く。そのうち、明晩には京都駅から東向きにみなで汽車に乗る、そして駅に集合し、いよいよ汽車が出る、そこまでに十首のみんなが、何とも「旅行」に感傷的に気弱でうじうじ気が進んでいない。呆れて、つくづく書き写し「読み返し」ながら、少年前の私の、或る意味呆れるほど本性脆弱な「あかんたれ」が露呈いや暴露されているのだと、その歴然に八五老ガクッと来た。

* 幼稚園でも、国民学校でも、丹波の戦時疎開さきの山暮らしでも、戦後も一年余に病気で京都へ帰ってからも、わたしは、目立ったあだ名で友達に呼ばれて なかった。近所では幼児のママ「ヒロカズさん」と呼ばれ、学校では「コウヘイ」「はたクン」「はたサン」だった。それでいて戦後京都の小学校では率先生徒 会を率いて生徒会長をしていた。中学へ入ってからも生徒会でガンバリ、三年生で生徒会長に選挙で当選し、当時の吉田茂総理のあだ名だった「ワンマン」と同 じく秦の「ワンマン」と呼ばれていた。運動場でも講堂でも、いつも演壇に立って号令していたし、教室では、先生に代わって教壇で国語や社会の授業を進めた り、ま、活躍目覚ましい校内でのまさに主将だった。
それなのに 今日久々に、つまり七十年ぶりに読み返した修学旅行前夜の短歌の「めそめそ」したひ弱さは、自身で否認がしにくい自己露呈に相違なかったのだ、どっちが本当なのか。
ひ弱いのが「ホンマ」で、目覚ましい活躍は「ガンバリ」であったと謂わざるを得ない。
そんなことを七十年後の老耄に自認させてしまう幼く拙い「短歌ひと」として歩み出していたのだった。マイッタ。が、性根から出るモノが滲み出ていたの だ、そんな歌集『少年前』が、三冊のノートを719首と拙い詞書とで満たしていた。「文藝」としての価値はないからその多くを、ほとんどを、うち捨てて、 そしてあの処女歌集『少年』を世に送り出したのだった、幸いかなりに好評を得て、「昭和百人一首」にも選ばれ、「国語」教科書にも紹介された。今にして余 分なそれ以前の習作を持ち出すことは無いのだが、私独りには、やはり無視しきれない「根」がそこに在った、暴露していた、と謂うしかない。短編「祇園の子」などの紙背にまさしくこれら幼稚の短歌たちは貼り付いていたのだと思う。思わざるを得ない。
「あんたが そのまま小説なんですな、小説を書くか、小説になるか、それしか生きようのない人ですな」と、詩人の林富士馬さんら何人かに謂われ、笑われてきた。このあまりに幼稚な三冊は、その意味では、資料いや肥料にはなっていたのだろう。
2021 4/10 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★ 秋の夕の蟲の声々 風うちふいたやらで さびしやなう

☆ 蟲の声々を、風が吹きおこした天然の笛の音と聞き惚れな がら、音色の奥から人の世のたそがれ行く寂しみを引き出しています。人間万事「春」あれば「秋」もあり。数ある秋の歌から、「桑門」の選択が、この辺でつ よく物を言っています。和歌ならぬ漢詩に取材した小歌がつづきます中から、唐の元槙の詩に取材した一○一番へトビましょう。

★ 二人寝るとも憂かるべし 月斜窓に入る暁寺(げうぢ)の鐘

☆ この上句は、さしもの春情もかかる秋思とは沈静するものかと、ひとしお寂しい。これを梁塵秘抄四八一番のこんな濃厚な歌とくらべてみて下さい。

★ いざ寝なむ 夜も明け方になりにけり 鐘も打つ
宵より寝たるだにも飽 かぬ心を や いかにせむ

☆ はっきり「飽き(秋)」ならぬ「飽かぬ」愛欲の昂揚が、梁塵秘抄の歌謡には、ある。時代の若さ、ということを考えさせられます。謡っている当人の、いわば天真の青春と、閑吟諦悟の老境との、さも落差かとさえふと想われて、しみじみと目が冴えます。
2021 4/11 232

 

* 仕事の向きや量が多岐にわたってくると、混乱して、手の舞い足の踏むところを見失い、停頓する。「当面要処理作業」を、順位をつけデスクトップに「常 置」してしかも「書きあらため」続けていないと 手ひどい「ど壺」に嵌ってしまう。「仕事」の「できる・できない」の岐れに成る。
物置から、医学書院時代の諸記録の大きな包みを持ち出して置いた。
その中には、毎週一度の、社長または専務が司会し許可決済する「書籍企画会議」へ「提出」しつづけた私の「企画書」が、少なくも「おそらく」百数十点の余も、重いほど分厚く束ねて、残っていた。
一年に50週ほど。そして或る年は、ハッキリ意識し目標にして、毎週欠かさず少なくも一点ないし以上の「企画書」をわたしはその会議に提出し続けていた。「やってみよう」とまるで競技のように決めてかかったのである。

* 書籍出版企画は容易でない。「主題と書籍名 的確な趣旨説明と、期待ないし予定している監修ないし編者と筆者を、その人達の専攻・業績・地位・現活動 を含めて紹介せねばならない。医学・看護学専門書では、専門学外の例えば編集者の私などが執筆できるワケがない。医学研究は三年経てばもう「古く」なって いる。湯気の立ったような期待の領域へ目を付けねば企画にならない。
私の新人ほやほや「初」の提出企画だった『新生児研究』は、東大の小児科・産婦人科の両主任教授を監修者に両科の助教授、講師、医局員そして麻酔学等の 協力参加筆者ら総勢50人ほどの「先生」を専門項目に応じ「論題」も定めての文旦執筆目次を、企画提出時にすでに用意していた。専門医書では、単独筆者で 書き下される本の方が、共同執筆本より多いとは云えないのである。そして最新専門研究図書、教科書のほか、いわゆる家庭医学書・健康相談書などは一切扱わ ない会社であった。

* 提出企画のねらいは、企画編集者として「可能な限り頭に入れ」ていないと、会議で「趣旨説明」も「討議」も出来ない。会議主宰の社長は自身で「まむし」 と称するおッそろしい人だった。先輩編集者らは怒鳴られ続けていた、こりゃ叶わんと思った。
そんな次第で、社員編集者から企画会議へ持ち出される「企画」 はそうも誰からも毎週出るものでない、まるで企画しない編集者も居て歯痒い思いもした。私の編集部勤務になった年に、おずおずと先輩達の「企画」ぶりを傍 聴するうち、では、と動き出したのが、『新生児研究』企画だった。我が家では妻に無事に赤ちゃんを産んで貰わねばならない、それが推力になり、私は活動し初め た。医学書院初めてと、「編集長」も手助けしてくれたほど大勢の筆者一同の編集会議も実行した。あげく、日本医学會に「新生児学会」が加わることにもなった。
私 のこの企画本が成るまでは、生まれたあかちゃんは産科では「新産児」小児科では「新生児」と呼び、まるで奪い合いだった、それは「困るよ」と若い父親になりか けていた私は、東大両科協力の『新生児研究』を刊行して日本中多くの病院に「新生児科」が建つ契機にしたいと「企画」した。この趣旨が、医師たちにも、社内の「まむ し」以下上司にも受け容れられた。

* それから何年目か。わたしは、毎週の企画会議に、必ず一点以上の「企画書」を提出し続けてやろうとひそかに決心し、事実ま、るまる一年間励行 した。まるで私 のための「企画会議」であった、一点一点に私なりの事前の勉強が必要だったし、医学・看護学の諸「先生」方とのお付き合いは多彩にひろがった。スポーティ に仕事を攻めた。かなりの医学の知識ももった。裁可企画の、その後の取材も大方自身担当し、次々に本にしていった。医学書は、教科書以外はだいたいが「三 年で千部」見当、そして三年もすると 質的・内容的にもう「古い」とされて行く。研究も診療も手技も機械も新しくなってゆく、そう在らねばならないのが医学・看護学というものだ。
そんな、退職まで十余年間の提出企画書が、でっかい山になって束ねられ、うちの物置で埃をかぶっていた。私の歴史には意味をもっても、学問的にはも うほぼ無価値。
表向きそんな社の仕事を熱心に積み重ね続けながら、わたしは、小説も書き続けていて、私家版本も創りつづけ、四冊目の『清経入水』で太宰治文学 賞が舞い込んできた。作家生活へ道がついて、受賞後五年で、退社した。その同じ日に、あの「まむし」社長が相談役へ退かれたのだ、たったの一度も私は怒鳴られな かった。授賞式には、にこにこの笑でで顔で参会して下さった。

* 医学書院時代の仕事に取材した小説を一作も書いてこなかったのは、何故だろうと自身不思議に思う。

* 歌集「少年前」の、高校期以前を再確認し電子化した。昭和二十八年七月四日に跋を書いている。日吉ヶ丘高校三年生夏休み前か。既刊の歌集『少年』とか ぶっている。「少年前」と思しきを容赦なく落としておいて、大學・院、東上・就職・新婚、そして親になったまでで歌集『少年』を編んだのだった。すでに「老蚕」と自認し つつも、第三歌集『光塵』第四歌集『乱声』も本にしているが、八五老の今も、私は、根は未熟な「少年」のままに過ぎない。諦めている。
2021 4/11 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★ 身は浮草の 根も定まらぬ人を待つ 正体なやなう 寝うやれ 月の傾く

☆ これぞ前に触れました、「やすらはで寝なましものを小夜 ふけてかたぶくまでの月を見しかな」の「小歌」版ですね。「根も定まらぬ人」とは、「寝(処)も定まらぬ浮気な男」よということで、「正体なやなう」はそ んな男へのいまいましさと、そんな男を待ち暮らす自身へのいまいましさとを、「狂ってるわよ」と憤怒かつ自嘲しているのです。
「寝うやれ」が面白い。寝ちまへとくらいの口吻です。ここで「身は浮草」は、浮わついた男の描写であるとともに、また女のかかる身上(しんしょう)のこともちゃんと指さしています。その場合は「根」はやはり暮しの根っこの意味ですね。懸詞の妙味です。
一○六番。

★ 雨にさへ訪(と)はれし仲の 月にさへなう 月によなう

☆ うがったものですね。いやな雨の日にも訪ねてくれたあの人が、さわやかな月夜にも来てくれないなんて。こんないいお月さまなのにねえ──。
しかし一方にまた「月の障り」もいとわないで抱いてくれるの、ほんとよ…とも、ちゃんと読めるのですね。
2021 4/12 232

* 街へ溢れ出ている若い人たちのマイク向きの表白は、「タカをくくる」という風情。世をあげてあの調子 が瀰漫化してくれば、コロナ禍は、このまま半年一年してもとても治まらないのではないか。治まりうる要因が見あたらない、入手停滞の「ワクチン事情」のほ かには。しかし海外での断然の沈静化か進行しない限り、西欧は日本へのワクチン提供を、いろいろな含みから意図的にも抑制するだろう、何故かならここにも 「悪意の算術」と謂う「外交戦争」が歴然と在るのだから。分かっていて政府はそのことに触れないのか、いや、菅総理以下の政府の人材に、そんな自覚は生じ ていないのだろう、か。
中国は、すでに明瞭に、「コロナ」は「第三次世界戦争」だと表明して憚らないではないか。政治も経済も「日本の劣勢・劣化」は、それとはなしに今や世界 的観測と化しているかと案じられる。口にするのは怖いのだろう、もうやがて、タブーとなっている「オリンピック」「パラリンピック」の開催問題が世界的な 「悪意の算術」の対象になって来かねない。北朝鮮はボイコットの旗をまっさきに振った。背景にどんな国々の「悪意の算術」がはや働いているやも知れまい。

☆ 当節二階節 遅ればせ初春漫才

金庫番だけが自慢の「二階」の旦那
コロナ転んだそれがどうした
愚の字痴の字の閑事の鼾
うすらバカづら吠えづら晒し
鼻息あらくもアダ夢の間も
かかえた梯子が「二階」の命

だれか外せとヘボ番頭ら
くやしまぎれで自棄にも酒が
只で呑みたや「二階」の旦那よ
仰せは何でもハイ御もっとも
自由も民主も気ままのお肴
世間のヤツらはただ出汁昆布

「二階」座敷で梯子の只酒
それやい旦那のお振舞ひ
寝ちゃ食ひ食ちゃ寝て会食つづき
これこそ世渡り心得おれと
「二階」の旦那はテンから金持ち
ハハァ ヘヘェ と 梯子の神へ
柏わ手うつうつ 打たぬは居らぬ
大番頭もガースーと 鼾真似てのお諂ひ

令和は三年 誰もが惨念 成らぬ忘年 怖(お)ぞや今年(こんねん)

* 気色わるくて。 で、写真の模様替えをした。

* 夕方から 食事を 中に宵へ、トールキン『指輪物語』の、最後の八巻にまで読み進んだ。この長大かつ精緻な物語は仮構の粋を究めた作で、われわれの現 世現実とは一抹の関わりも持たない、のに、リアルな感銘と賛嘆の思いで些かの停頓も疑念もなしに共感に溢れつつ愛読、また愛読できて、読中読後に透き通っ て充実の喜びがある。
『フアウスト』にはギリシァ神話が大切に喚起融合されて実感に触れてくる。
『失楽園』はまぎれもない広遠な宇宙に浮かび上がる長大の基督教神話詩篇である。
『指輪物語』は背後に背負った現世のモノを持たない、しかもじつにリアルでクリアな「命」の物語に成りきっている。
この系列に、ル・グゥインの『ゲド戦記』あり、マキリップの『風の竪琴使』があることは、繰り返し確認し続けてきた。
私はこれらの作をあと追って為しうると思えないママに、しかし、「現実の直話」から柔々とはなれた仮構世界の想像と建設とに心惹かれつづけてきた。藤 村、漱石、潤一郎に惹かれあこがれて来ながら、鏡花がアタマに在った。その以前に秋成の雨月・春雨が在った。遙かにもっと重くに平安物語への拭えない親愛 があったと自覚している。
2021 4/12 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★ 薫(た)き物の木枯(こがらし)の 洩り出づる小簾(こす)の扉(とぼそ)は 月さへ匂ふ夕暮

☆ すこぶる優艶な、閑吟集の編者には似合っても、「職人尽絵」世界とはちょっと縁の遠げな、王朝物語めく小唄です。
「木枯」は、名香の名で知られています。「木枯のもり」となると、その森の名が、静岡県下のふるい歌枕になっている。むろん薫き物をほめるだけでなく、 名香を薫きしめている当の貴人の、けはいのみして婆の見えぬ御簾(みす)の向うが奥ゆかしく、木枯の森に浮かぶ月さえも匂うて眺められる夕暮の風情よと、 幾重にも情緒をてんめんさせているのです。
九一番の「誰そよお軽忽(きょうこつ)」といった調子と、ずいぶんな違いに微笑まれます。
2021 4/13 232

☆ カアカア鴉に
先週の桜の写真、下手やなあと率直な感想。堪忍。狭い庭の樹木がひしめいている中で、構図も何もない撮り方で、ごめんなさい。
まだ満開を過ぎたあたり、咲き誇っています。
今日『ホビットの冒険』注文しました。数日中に届くと思います。娘の名前ですが、この頃買い物する時には娘のカード払いにし、ポイントをあげることにし ているからです。ネットで手軽に本を入手できるので、最近はあまり本屋にも出かけず、古本屋歩きの楽しみも忘れてしまいそうです。
夜遅くになって、やっと一人の時間。
鴉は既にお休みでしょうか? 取り急ぎまして。お休みなさい。
くれぐれもお身体ご自愛くだされ。そちらのワクチン接種はいつ頃でしょうか?   尾張の鳶

* 何度も 大作の文庫複数冊を送ってもらってきた。おかげで、本屋というところへ出向かず入らない私が、この、四半世紀のうちに、指折り数えて世界的な私未読の大作を、何度も、都合すれば数十冊それ以上も送って来てもらったのではないか。
本屋へも行かず、ネットとかでモノを買う手段も全然心得ていない、利用したことのない私は、尾張の鳶の好意に甘えてきた。ありがとうございます。おかげ で私の最愛読の三巻マキリップの『風の竪琴弾き』は、なんと英語版まで読み通した。日本語版は、訳者の脇明子さんから戴いていた。
さてさて『指輪物語』八巻、やがて何度目かを読了する。その「前編」に当たるらしき『ホビットの冒険』は何巻あるかしらん、映像ではもう観ているけれど、これはトールキンの世界的な名作小説、やはり「言葉の表現」を読みたい。

* 思えば、私の書庫に満ち溢れた本、単行または選集の小説本や詩歌本は、尽くというるほど、著者からの戴き本。手に重たい各方面の研究書も、すべて著者からじかに戴いている。
おう、こんなのがと思う、明治この方の大事典、辞典、和漢稀覯の珍冊はみな秦の祖父鶴吉の遺産。
わたしが自身の必要で買ってきたのは、大冊の歴史年表、『名月記』や「玉葉」のような公家日記、そして新編の大辞典・大事典・大地誌・地図のたぐい。そ れと、いつしかに溜まってきた美術の本とたくさんの大きな重い画集。文藝誌は残さない、雑誌は歴史もの、茶の湯もの、美学会誌だけ。
いま、それらを残すのか処分(廃棄)するのか、考えている。
秦建日子の現在の仕事柄からして、彼が欲しがりそうな本はほとんど無い、が、藤村、漱石、潤一郎、鏡花、柳田国男、折口信夫、辻邦生、加賀乙彦等々の全 集・選集その他、著名作家や批評家の業績本もたくさん戴いて在る。幾らかは建日子も欲しいと思うだろうか。朝日子のことは判断がつかず、考慮しない。
むしろ、両親からの血を事実わけもった、甥で、力有る文学作家の北沢恒が、もし必要で、大いに利用できる、手元に欲しい、という各種広範囲の辞典・事典・年表・地誌・古典・史書・漢籍などあれば、車を傭ってなり受け取りに来てくれるなら、現状、私の仕事に差し支えない限り、譲る。
私自身の著書や初出誌は 全書誌に挙げたように単行本だけで百冊を超えている。大冊の「秦 恒平選集」33巻完結、「湖(うみ)の本」はすでに150巻を超えている。初出誌となれば全部保管はしてあるが、呆れるほど膨大量。
私の本を蓄えて下さっている読者の方で、欠本分などご希望が有れば、どの本もいくらかずつ余裕があり(無いのも少しあるが)可能な限り差し上げたい。
これまでもときどき実行してきたが、東工大卒業生らのお子さんが読書年齢へ来ている。読書好きときけば、和洋の文庫本などを選んで上げてきた。ただし少 年少女の場合は、読書の「向き」をまちがうと無意味に近くなる。どんな向きのを読んでいるか親御さんから耳打ちして下されば、選べる。
私が愛読してきた日本の古典全集は大きな二種あがるが、他に、手も触れていない大きな全集に、「二十世紀世界文学全集」何十巻かがある。誰の何作が入っ ているのかも、覚えぬママ書架を埋めている。カフカが第一巻だったような。せめてリストにしておけば、欲しい方に差し上げられるのだが。これも古典全集 も、みな版元からの寄贈だった。自身の費用で買った書物は、書庫の中の5パーセントもあるかどうか。作家生活半世紀のこれもみなありがたい対価・報酬・親 交の賜なのであった。
いまは図書館も、書架に余裕がなくて「寄贈」を必ずしも歓迎ばかりはしない。ま、同じ事は個々の人によっても云える。私としては、現在から此の先々へ役立ててくれる若い世代や、とにもかくにも「読書人」「愛書家」といった友人読者らに委ね手渡せればと願っている。

* 送り出し前の、肩の凝る用意や心がけに疲れている。いっそ早く本が出来てくれれば、などと。堪え性もなくなっているのだろう。
歌集『少年前』を、高校の頃の歌帖を顧みに、機械に書写している。手入れはせず。それでも、ところどころに、現在での覚え書きを添えている。
今日は、いましがた、触れていた、昭和二十六年(一九五一)七月二十五日だと、日づけ鮮明、忽として家の表に立たれ、夏休み中の私を、大和薬師寺、唐招提寺へ連れて行って下さった中学時代の給田緑先生との、嬉しくもビックリもした遠足の短歌を読み返した。
歌は拙い、が、忘れがたい、なにもかも初の美の体験を想い出しほろほろと泣いた。その後の私の行く道が、あの夏の日、「母」とも慕った女先生との、言葉すくなな静かな遠足で、もう見えていたのだろう。
給田先生は、それは静かな、ことば美しい立派な歌人であられた。けれど、歌を、詠めよ創れよなどと決して強いられなかった。あれを読めこれを読めとも言いつけられなかった。いつも優しく観ていて下さった。
* 夕寝していた間に 早や 尾張の鳶さんとお嬢さんのはからいで、トールキンの『ホビットの冒険』が届いていた。早い! びっくり。大感謝。即 お礼のメール 飛んで行ってくれるといいが。
2021 4/13 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★ ただ人には 馴れまじものぢや 馴れての後に 離るるるるるるるるが大 事ぢやるもの

☆ 馴れてしまうと離れづらくなる。「る」が八つもという例は、他本にもあります、調子づいているというより離れる辛さを強いて我慢しているのだと言っておきます。「大事ぢゃる」は「大事である」おおごとである、のつまった物言いです。

★ 塩屋の煙々よ 立つ姿までしほがまし

★ 潮にまようた 磯の細道

☆ 塩を焼く煙の立ちのぼるさままでが、塩じみひなびて見える。
その実は、女の立ち姿が「しほ」らしく、可憐に見えるのですね。
女の「しほ」とした風情に恋の細道へ迷いこんだよという寓意が、あとの小歌。表面は、潮の満ち干につい通いなれた磯の細道をまちがえたと謡っていますが。
2021 4/14 232

* 大阪市はコロナ潰れに陥った。いまや東京都が大阪へ逼迫している。しかし町歩きの市民都民、若い人達の「平然」と謂うに似た街頭でのコメントにはほとんど危険緊迫への実感がない。
しかし、なによりも医療崩壊は各地に歴然、感染者も他の緊急要治療・介護患者らの「生き地獄」がひろがりかけている、この政治行政の無為無策にちかい現状維持では。
もはや明瞭に「緊急事態」であり、「ロックダウン」も「行政命令」も必要というに同じい「大危機」に陥ろう、いや既に陥っている。
誰よりも菅総理自身が、聡明に事態を認識し、率先「つよい手」を打ち続け、自治体の首長らがそれに対応すべき「日本は危機」にある。このままで、どうしてオリンピックなどあり得るのか。
自民党をはじめ各党政治家の率先した危機認識と政府対策を猛請の空気が何故見えないのか、異様なまで訝しい。緊急事態により経済的な打撃を蒙る人、店、 事業には、今こそ躊躇いのない資金ないし生活費の「供与」という援助を、「無駄なないし不急の予算をとり崩し」てでも実践せよ、その気なら十分に出来る財 政余剰の政府ではないかと、私は言う。
幸い私たち八五老は、なんとか健康な意識を抱いたまま「コロナ籠居」をかたく持しつづけ、好ましい夜明けの到来を、意思づよく、待つ。

* とはいえ、「湖(うみ)の本 151」の発送作業は必然目の前へ近づいている。十分注意しつつ宅急便に託さねば。早くと急がぬこと、体力を喪わないこと。無事に凌ぎたい。
今度の本は 興味を覚えて下さる人と 読みづらいと難渋される方に分かれそう、それもまた成るままに覚悟きめているが。なるべく、読める範囲だけでも読まれて欲しいなと。
2021 4/14 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★ 何となるみの果てやらん しほに寄り候(そろ)片し貝

☆ 粋な小歌ではありませんか。「なるみ」は歌枕の鳴海潟を 踏まえながら、どうなる「身の果て」へ意味を懸けていますね。「しほ」は原文は「塩」なンですが、意味は潮、そして女の「しほ」とした魅惑に懸けていま す。「片し貝」は、二枚貝の片割れ、半端、つまりは片恋のなる果てを身にしむ思いで嘆いた小歌です。身につまされます。
2021 4/15 232

* 歌集『少年前』を機械に清書・整備していて、われから呆れている、七十年昔の「少年前」としても、文字通りに京の「女文化」を呼吸していたこと、現代 ふうの現実や世相には目もくれていない、ひたむきに京の自然、ささやかな花や草木や枝葉や日の光や空ゆく雲や風に親しみの目と思いとを向け、点綴されて、 そこへ、愛した人への思慕や親愛がひかえめに詠われている。「もらひ子」の「ひとり子」という境涯を抱えたまま、「身内に」と願ったのは兄や弟でなく、母 とも頼むほどの(たった一歳ちがいの)姉やその妹たちであった。
「少年」とはそんなものであったか、「野菊のごとき君」などまだ識りもしてなかった、が、堀辰雄の「風たちぬ」には近寄っていたし、芥川龍之介の生い立ちなども識りかけていた。そんな風情は、近年の作「花方」にもにじみ出ていた。
これでは「少年」でなく「少女」やないかと笑われて仕方ないほど、私の「短歌世界」には男めく人くささが無く、感傷に充ち満ちていたと今にして我ながら惘れる。驚く。
叔母の、花や茶の稽古場には男性の弟子など、何十年のうちに一人二人、他は、みな京の女たちだった。わたしは其処で唯一人の男の子、叔母が晩年まで、「コヘちゃん」の呼び名で通っていた。代稽古でその「コヘちゃん」にしぼられるのを、皆、いっそ歓迎してくれた。
国民学校一年生になった昭和十七年、ちいさな町内で、私と同学年は、女の子ばかりが八人だった。「女の中に男が一人」と他町の男の子らに囃された。
新制中学へ進んで三年間、男子の良い友達も何人もでき、田中勉や團彦太郎など競い合って仲良かったし、西村明男や藤江孝彦ら今にも親しい付き合いはつづ いているが、「心情」世界では女ともだちが何人も何人も絶えなかった。それが、拙いながら、「情緒表現」に、或いは障りとも、しかし力ともなった。

(91)何ゆえの舞妓姿と同窓のひとの晴れ着がふと心哀(うらがな)し
昭和二十七年二月十六日

(92)丘に立てば北風いささよはまりぬかなたの岸辺連れて行くあり
二月廿日

(93)水かれて川床むさき高瀬川児らつどひゐて石くれつめる                   二月二十六日

(94)山の道はかよふ風さへなかりけりあふげば蒼き夕やみの空

(95)」むらさきの夕やみせまる清みづの舞台の老婆何の惟ひぞ
二月二十七日

(96)母なくて病む子の泣けば裏町の夜のしづけさに細き雨ふる
二月二十八日

* 一言で言えば 「変わってる」少年で、しょっちゅう「ハタは、変わってる」と謂われていた。「なんも変わってへんよ」と内心反噬していたが、ノートの 歌集『少年前』を機械に逐一書き写していると、我ながら、「こんなであったか」と胸を衝かれる。ハッキリ謂うて、感傷の濃さに呆れる。
2021 4/15 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★ 歌へや歌へや泡沫(うたかた)の あはれ昔の恋しさを 今も遊女の舟遊び 世を渡る ひとふしを 歌ひていざや遊ばん

☆ 往事渺茫の懐舊は、閑吟集編纂者の根深い心境です。底に「いつ忘れうぞ 寝乱れ髪の面影」というあの巻頭歌謡の嘆息が沈澱しています。それが「秋」の歌謡を読み進むにつれて、はっきりしてきたという感じは、なさいませんか。
「世を渡るひとふし」は、一節(ひとよ)ぶし即ち尺八による小歌のふしでもあるわけです。遊女が舟遊びをするのではない。遊女と、男が舟遊びをする。そこに遊女風情の尽きぬ哀しみがあるのを汲まねばなりません。
2021 4/16 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★ 身は近江舟かや 死なでこがるる

★ 身は鳴門船かや 逢はでこがるる

☆ 舟を「漕がるる」と、思いに身が「焦がるる」とが懸けてあります。近江の「志那」(滋賀県草津市志那町)で、阿波の鳴戸海峡で、舟は漕がれ、遊女は身が焦がれる。
「死なで」「逢はで」と苦海(くがい)をわたる女たちのもの哀れな境涯です。「近江」には「逢ふ見」の意味もひそみます。
一つ戻って、一三一番は、たいへん注目すべき歌謡です。

★ 人買ひ舟は沖を漕ぐ とても売らるる身を ただ静かに漕げよ 船頭殿

☆ 閑吟集の時代が、人が人を売買した、半ば公然と売れも買えもしていた、ひどい時代でもあった事実は、決して忘れられません。安寿と厨子王の物哀れな物語は、ちょうどこの時期に流行った説経節の代表的な一つでした。
波の荒い沖を漕ぐのは、それでも官憲の追及を思うからでしょうか。その揺れる舟に苦しみながら「船頭殿」と呼びかけて、この身はどうせ売られて行くのです、可哀想に思ってせめて静かに漕いで下さいと。
悲しみの表現もここに極まります。先の一三○番との関連で、琵琶湖上の人買い舟と読んで自然ですが、必ずしもそう限ることもなくて、それより「とても」「ただ」とある「切ない語感」をたしかに汲むことです。時代をこえて歌謡の生命をこやすのは、そういう「共感の深さ」だと思うのです。
2021 4/17 232

* 機械に入れている歌集『少年前』ノート原稿は、昭和二十七年(一九五二)の五月十九日を歩んでいる。六九年前、高校二年一学期。拙いながら一首一首にかきたてられる記憶はかなりの鮮度をもっている。日記も書いていたろう、しかし日記は「読まねば」ならないが、短歌はほぼ一瞥で甦るモノがある。現在入学以来の173首を機械に書き写した。翌年(三年生)七月四日夏休み前までに719首が記録されてある。小・中学時代の83首と合算、ほぼ九百首を自身で「選び」残し、いわば変わり種の自筆年譜を成している。「数」だけで謂えるなら、既に少年前の秦恒平は「歌人」だった。創作の日々はすでにスタートしていた、すくなくも十分な「量」を遺して。 笑える。
2021 4/17 232

* 機械クンが昼寝して、働いてくれない、ホームページへ書き込めても送り出してくれない。もう、いいやと幾分、なにもかも諦めかけてきた。一太郎が働いてくれれば書くのも創るのもとりあえず可能、ならそれで「えやないか」と、もう欲が失せてきた。「書く」という作業だけは何とでも出来る。外へは送りにくく頓挫している。メールも、めってに書かないし、めったに届いてもこない。それでよい。
2021 4/17 232

* 歌集『少年前』の第一冊は明日に書写し終えるだろう、もう二冊ある。一冊目から後の歌集『少年』へ採った作は、目下 高二までの歌で数首だけだった。二冊目になるともう少し増えるだろうが、思いの外に厳選していたのが分かる。『少年』に寄せていた自負と期待が今にして察しられる。
2021 4/17 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  中世の陽気 そして夏が秋へ

★ 月は傾く泊り舟 鐘は聞こえて里近し 枕を並べて お取梶や面梶(おもかぢ)にさし 交ぜて 袖を夜露に濡れてさす

☆ 舟宿でなどというより、もっと直接に、猪牙舟(ちょきぶね)なみの泊り舟で巫山雲雨(ふざんうんう)の夢を抱き交す男女の風情を謡っているようです。
「里近し」ですから 「里」即ち陸の上にいるのでない、とすると、深更暁闇の泊り舟の中で、というのが舞台装置のようだからです。
「お取梶」の「お」はそう重く見なくてもいい、要は「取梶、面梶」ともに舟の縁語です。つまりは左へきしり右へきしって身をよじり抱き合いながら、満天の夜露にぬれるぐあいに、夜具の袖に腕をさしかわすぐあいに、互(かた)みに愛を、情を確かめ合っているというのですから、濃艶なものです。「さす」の語感は・梁塵秘抄の四六○番に、

恋ひ恋ひて たまさかに逢ひて寝たる夜の夢はいかが見る さしさしきしと 抱くとこそ見れ

とあった「さしさしきし」に近いものです。かなり露骨です。
2021 4/18 232

* 歌集『少年前』三冊の第一冊を機械に洩れなく書写した。 もう二冊も、写し遂げておきたい。
2021 4/18 232

* 機械の最重要機能である homepage を発信の能力が損傷している。直せる手だても器用も無い。発信以外には故障なく、少なくも書き置くことは出来るので、事態を受け容れたまま「書いて」過ごすしかない。「書ける」だけでも有り難いと。

* いま、メール機能も案じている。すくなくも数日、いたずらメールすら一本も入っていない。私からも四月十四五日以降、受信も発信も無い。最期の発信は戻されてはいない。

* 機械は半身不随 書字とその保存以外のインターネット機能は失せているようだ。「書ける」だけでも有り難い。この機械の機能が別に保存できている筈、それを別の使ってない機械へ移動できるか試みたいが、出来るかどうか。人を頼む時節では無いし。
2021 4/18 232

* 昨日仕事最中に 瞬間的にだが機械画面に、「悪質な妨害の危険があります」と出たのを記憶している。無視していた、が。
同様ではないが、送られたメールに返信メールしたのが頑強に届かぬままなのが半月ほど前に一度あった。
今、送信メール欄に二通が頑固に居座っている。そしてメールは今 受発信できていない、らしい。

* これは、何かしら今や 生活の姿勢をあらためよ直せよという示唆やも知れない。印刷所との連携に考慮すれば、余は、通信には郵便も電話もある。「書く」のに、効率的不自由はできても、意欲さえ続けば方法は在る。

* 歌集『少年前』三冊の第一冊を機械に洩れなく書写した。 もう二冊も、写し遂げておきたい。
2021 4/18 232

* 不幸にも 転送発信は出来ない、が、幸いに、こうして独り言として、「書きつづけ」られる。技術者を呼んで頼むということも、今は、決してしない。籠居が、ま、蟄居になったという風情である。
2021 4/18 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ また湊へ舟が入るやらう 空艪(からろ)の音が ころりからりと

☆ 水辺に住む、海女とも遊女ともつかぬ女のはかない独り言のような小歌です。「空艪」とほ、櫓をごく浅間に水に入れて漕ぐのです。よその繁盛にじれながら、お茶をひいているとも読めますが。
一三九番。これは、美しい。

★ 来ぬも可なり 夢のあひだの露の身の 逢ふとも宵の稲妻

☆ むろん「稲妻」からは、瞬時の光芒とともに一夜「妻」どころか、わずかに宵のうちの妻でしかないかなしみを、しかと汲むべきです。その悲しみゆえに、「来ぬも可なり」と硬い表情もして見せる。しかし本当は来て欲しい、そして少しでも長く逢っていたいのです。そこに永遠を夢見たいのです。   「夢」「露」「宵」「稲妻」 すべてぴたりと利いています。屈指の秀作ではないでしょうか。
2021 4/19 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 葛の葉葛の葉 憂き人は葛の葉の 怨みながら恋しや

☆ 佳い歌ですね。葛の葉は、「裏見」の白さの風にひるがえったところが、古来風情として愛され知られています。「秋風の吹き裏がへす葛の葉のうらみてもなほ怨めしきかな」という古今集の歌が原拠でしょう。「怨みながら恋しや」とは、恋ごころの切ない真実なんでしょうね。
一四五番。

小 添うてもこそ迷へ 添うてもこそ迷へ 誰もなう 誰になりとも添うてみよ

☆ 学者は、「意は明らかでない」などと言われていますが、そうではない。
どうせ迷いどうせ悩むが男女の仲。それならば、思う人に添いとげた上で迷いたいという重ね重ねの嘆息は、町娘の実感か遊女の悲しみか。ああ誰でも誰でも、誰になりとも添いとげて迷うがいい、悩むがいい、とは所詮自身の自身に対するじれったい願望のようです。
結婚したい──それが、女の底深い夢であるのは、往古も現今も、まったく同じのようです。ちがうかな。

* 閑吟集の世界に留まっていたくても、もう、朝からコロナの猖獗に自治体は惑乱、政府にものを要請しても政府は先立てるのがメンツとケチと権力志向。機械も故障、いっそテレビもと思うが、映画と録画は観たいからなあ。
2021 4/20 232

* 今朝、少なくもこのHPの「アイサツ」はごく普通に働いてくれる。文字と文章とが「書ける」安堵と嬉しさは底知れない。要するに外の「世間」へ声や言葉や意思・意見は「伝えられなく」なったということ。画面に、気持ちよく自分の書いた言葉が見よく読みよく現れてくれている。感謝感謝。
さ、他の仕事、作業も可能か、臆せず、遣って行く。

* この機械の 可能な限りの他機械へ内容移転を計っている。ほぼどうにかなるだろうが、整理整頓にはものすごいまで手間と時間がかかるだろう。この際、重複分や処分可能なものは捨てる。

* 「湖(うみ)の本 151」は二十六日 月曜に出来てくる。「湖(うみ)の本 152」の再校が出てきた。通読してこれも責了になるだろう。「湖(うみ)の本153」の原稿は用意できていて、読み込んで量的の配慮ができれば入稿できる。時間と体力の余裕を掴んで新創作へ身を傾けたい。

* 「私語の刻」と謂いつつ、やはり「読んで貰える」励みはあり喜びも濃かったのだとしみじみ思い嘆いている。

八時半 もう此処を離れよう。
2021 4/20 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 人げも知らぬ 荒野の牧の 駒だに 捕れば 終(つゐ)に馴るるもの

☆ どんな荒馬であっても、馴れるのに、あの人はわたしに馴染んでくれない──。たは、どんな荒くれ男でもかまわない、夫にもちたい──。
一四八番。

★ 我をなかなか放せ 山雀(やまがら)とても 和御料(わごれう)の胡桃(くるみ)でもなし

☆ これははっきり肘鉄の歌です。ええい放してよと突っぱねています。あたしが山雀のような安っぽい女にしても、あなたなんか山雀が好きな胡桃(あたしの方ヘ寄って来る身)って柄ではないのよ。
「秋(飽き)」は、恋の成らぬ季節のようですね。

* コロナ禍猖獗の 少なくも都市世相を映像で見せられていると、日本人の「人間像」がいかに混濁し衰弱し、自負自信を喪失して自律出来なくなっているのに、愕く、自分をも含めて、敢えて云う。

* とは云え 私の日常はまだまだ今日も明日も変わりなく忙しい。拱手傍観していたら混乱の渦に巻かれる。
現状、インターネット機能を喪い、原稿やメールの電送は不可能。加えて、印刷機能が働いていない。
☆ 『当面 機械状況』 四月二一日現在
① 幸いに此の機械のワープロ機能は活きて呉れている。現在、「書く」ことは出来る。
② まだ自信を持って云えないが、この機会の抱擁内容は大方別の「大容量機械」へ移転出来ているかと思う。
③ この機械で、日々に書かれる一々をどう「大機」へこまめに確かに移転できるかの道を確認する必要がある。
④ 「今機」から「大機」へ移しえたと確認可能な内容は、両機とも、この際、「重複ないし不要化しているものの整理と削除」も、機械の負荷を軽くするためにも必要、徐々にそれは実行する。
⑤ 新しい「大機」の使用法が手に入っていない。マニュごアルが無い。慣れて覚えるしかない。
⑥ 適切な時機に「大機」でのネット使用を実現しなくてはならない。
2021 4/21 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 身は破れ笠よなう 着もせで 掛けて置かるる

☆ うまいものです。謡われていることは悲しい女の嘆息であり愚痴ではあるのですが。「着もせで」は、「来もしないで」でもある。「掛けて置かるる」が、さながら曝しものの感じでし愛を喪っている女の「破れ笠」同然の侘びしさが、しみじみ言い尽されています。傑作の一つでしょう。
一五五番。

★ 身は錆太刀 さりとも一度 とげぞしようずらう

☆ 錆びを「磨」ぐに、「遂ぐ」意味が重なります。一度は思いをきっと遂げてやるぞと。太刀は、むろん「男」自体を表わしている。頑張らねばすまない、成らぬ恋のここぞ瀬戸際です。
一五六番。

★ 奥山の朴の木よなう 一度は鞘に成しまらしよ 一度は鞘に成しまらしよ

☆ 朴は堅くて、鞘の材。鞘は太刀(男)を容れるもの、つまり女体です。男が奥山(手の届かぬ処)の女に対する欲情を、心に決して、謡い、迫っているのです。言い寄るさまはすさまじいけれど、女を “性〟と見定めて迫る男の執心には、ふと行者の清浄な念力のようなものさえ感じます。
2021 4/22 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ ふてて一度言うて見(みょ)う 嫌(いや)ならば 我もただそれを限りに

☆ 「ふてて」が面白い。昨今の若い人たちの日常会話に、この「ふてて」が復活しているではありませんか。ふてくされてでも、すてばちにと取っても、いいでしょう。
何を「一度言うて」みるのか。それは想像にまかせましょう。男ならこれを言い、女ならあれを言う。人さまざま、男女でもさまざまな情況をしかと受けとめて、通りのいい面白い歌謡に仕立てていますね。
それにしても、「ふて」ねばならない程度にはやや嶮しい仲であるらしいのが、別離の覚悟もあるらしいのが、胸を痛めます。原文の「見う」は「みょう」と読んでいいでしょう。
さ、これで『閑吟集』三百十一篇の、半数をいくらか越えるまで読みすすんできました。季節は、「秋」の、まだ半ばのようです。
2021 4/23 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 犬飼星は 何時候(なんどきそろ)ぞ ああ惜しや惜しや 惜しの夜やなう

☆ 「犬飼星」とは、七夕の夜の牽牛星の別名です。七夕は、昔の暦では、秋。その星をふと見上げて、時のたつのを惜しんでいる。静かに静かに深まる閨房のくらやみの、男女の愛。
一六二番。

★ 秋のしぐれのまたは降り降り 干すに干されぬ恋の袂(たもと)

☆ 「飽き(秋)」の催すしぐれの雨が度重なると、干すに干されず、恋の涙に袂は乾くまがない。
女の歌ですね。

* そのまま一編の作になったようなこころよい夢をみて覚めて、もう消え失せ、そのまま起きた。夢の終わりに題を付け、「愛」一字であっただけを覚えている。
2021 4/24 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

☆ 一六四番から一六七番まで、後朝の名残惜しい別れをしみじみ謡います。

★ 名残惜しさに 出でて見れば 山中に 笠の尖りばかりが ほのかに見え候

★  一夜馴れたが 名残惜しさに 出でて見たれば 奥中(おきなか)に 舟の早さよ  霧の深さよ

★ 月は山田の上にあり 船は明石の沖を漕ぐ 冴えよ月 霧には夜舟の迷ふに

★ 後影を見んとすれば 霧がなう 朝霧が

☆ 一六四番は山へ帰って行く男を、一六五番は舟で去って行く男を惜しんでいます。
一六六番の「霧には夜舟の迷ふ」「冴えよ月」という女の情愛の深さに心打たれます。男と女との切ない別れを通して胸の内に培われる「なさけ」や「あはれ」そして「をかし」といった心情を、二十世紀(二十一世紀)の現代はこのまますっかり忘れ果ててほんとうにいいものでしょうか。
一六七番、「霧がなう 朝霧が」と背のびして見送ってくれる女の(男の)愛は、愛の形は、見喪いたくないものです。
2021 4/25 232

* 機械クンの体調はすこぶる混迷。あせらず、辛抱よく付き合い看護しながら目的へちかづく。ヘタをすると忽ちにしていた作業の全部が消えうせる。昨日は歌集『少年前』書写の四十首分ほどがかき消えた。堪えて、繰り返すしかない。
が、明日からは「湖(うみ)の本 151」発送。その間は機械クンに安静養生して貰う。力仕事になる。慌てず急がず、騒ぐまい。

* 「大機」の仕組みに実務的に慣れ馴染み、よく覚えて、そこで「私語の刻」その他の「書き仕事」が流れて行くように心がけたい。
2021 4/25 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★  秋はや末に奈良坂や 児手柏(このてがしわ)の紅葉(もみぢ)して 草末枯(うらが)るる春日野に 妻恋ひか ぬる鹿の音(ね)も 秋の名残とおぼえたり 秋の名残とおぼえたり

☆ 一六八番の田楽節を読んでみましょう。「児手柏」とは、幼な児の手の形をした葉の、柏です。「恋ひかぬる」とは、恋しい思いを忍びかねる意味です。口調のいい謡い物の一篇でもあります、快く繰返し口遊(くちずさ)んでみましょう。

★ 小夜小夜 小夜更けがたの夜 鹿の一声

☆ 忍びかねて妻恋う鹿の、一六九番。伴侶を恋うて、鹿の下枝下草を踏みわける擬声音で「さよ」の音を重ねた趣向。わるくないですね。
2021 4/26 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ めぐる外山(とやま)に鳴く鹿は 逢うた別れか 逢はぬ怨みか

☆ いずれにしても「なさけ」に感じて本当に泣くのは、男であれ女であれ、鹿ならぬ人なのです。
次の、一七一番の狂言小歌がそれを可憐に示します。集中の傑作の一つでしょう。

★ 逢ふ夜は人の手枕 来ぬ夜はおのが袖枕 枕あまりに床広し 寄れ枕 こ ち寄れ枕よ 枕さへに疎むか

☆ 百人一首に、「閨のひまさへつれなかりけり」という取り札がありましょう。その、在るべきが在らずに床広き「ひま」をつれなく占めた「枕」にむかい、「寄れ」「こち寄れ」とは、あまり身にしむ表現ではありませんか。しかも、「枕さへに(自分を)疎むか」と「来ぬ」人のつらい情を怨みます。まさに怨歌です、ね。
2021 4/27 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 一夜窓前芭蕉の枕 涙や雨と降るらん

☆ 両夜の独り寝。寂しさに侘しさが加わっているはずですが、漢音と和語との快い交替は、ちょっと枕草子に名高い清少納言ばりの小気味のいい応酬とも読めます。
一七三番は、「邯鄲一炊の夢」の故事を知っておく必要があります。出世を夢見て旅立った青年が、旅次の茶店で粥を炊いてもらっている間に、枕をかり昼寝をして、夢中に己が生涯のすべてを体験してしまいます。しかも眼が醒めてみると、やっと頼んだ粥が炊けたかどうかという束の間の夢を見ていたのでした。翻然と悟って青年は、出世を願うことなくもとの故郷へ帰って行くのですね。
「灔澦の灘」は楊子江上の大難所だと思ってください。

★ 世事邯鄲枕 人情灔澦灘
(世事邯鄲の枕、人情灔澦の灘)

☆ 「灔」の文字づらが、いかにも「人情」にふさわしいのが、閑吟集の趣致にかなっていると思うなど、私の勝手な感覚でしょうか。
前句には同時代に対する万感の批評が、後句には同世代に対する無限の期待が(また失望も)籠められています。同時に今世紀の現代にあっても、事情はそう変わるわけがない。「世事」と「人情」と、もし二者択一を迫られもすれば、生きの真実を、あなたならどちらに懸けて日々を送り迎えますか。
2021 4/28 232

文字変換はスローだが、出来ている。ホームページとしての体裁ももとのまま美しく保っている。
すべてすべて此の機械クン多年の尽力に感謝して、保存しておきたい。「NEC LaVie」という機械クンです。今までも かくも膨大なコンテンツを抱いたまま日々の私語や創作や資料やメールなどを受け容れてくれたのは、機械通の「眼」にも「奇跡」だそうであった。いま失せた機能は、インターネットでの受発信が出来なくなった、それだけ。それだけで機械にはやはり細部での働きに遅鈍は生じているけれど、モノが消えうせたのでは無い、らしい。幸いに大型の外付け機能に助けられて、この機械クンの全書斎を、少なくも大方、ほぼ残りなく傍に永年待機していた大型の「新機械」クンに受け容れてもらった、ものと思っている。さすればこの機械クンの抱えたものから、適宜に割愛して膂力の消費量をどんどん減らしてあげることで、機械としての残年をさらに永く温存できるかも知れない。もうこの機械クンにネット社会での一線の活躍を望むのは酷というものであった。ありがとう。永く永くご苦労かけました。このホームページの「秦恒平 闇に言い置く 私語の刻」だけは記念して「保存」しておきたい。この色美しい画面に永くまたたくさんたくさん助けられ励まされてきました。感謝。
2021 4/28 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 清容不落邯鄲枕 残夢疎声半夜鐘

(清容落ちず邯鄲の枕、残夢疎声半夜の鐘)

☆ 「烏啼き月は落つる寒山寺、枕を欹(そばだ)てて猶聴く半夜の鐘」といった、名高い唐の張継の詩が下敷になっているにしても、むしろ日本の秋の風情に移しかえて想像力を働かせた方が、面白い気がします。
「清容」が即ち月の美しさでもあり、美女の面輪でもあることを念頭に置いてください。そうすれば「残夢」の余情またひとしお艶に推量が利いて、これが、前歌で私が問いかけましたことへの、閑吟集なりの答でもあるらしいと察しられます。
そして次の一七五番は、今一度「枕」に懸けて先に読んだ一七一番、一七二番の情緒を切なく謡い返します。

★ 人を松蟲 枕にすだけど 淋しさのまさる 秋の夜すがら

☆ 人を「待つ」蟲とも読むべきで、「すだく」とは、蟲の集い鳴くさまを謂う動詞ですね。松蟲はどちらかというと賑やかに鳴くだけに、かえって淋しい。人の心に忍びこんだ「飽き」を怨むからです。
2021 4/29 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 山田作れば庵寝(いほね)する いつかこの田を刈り入れて 思ふ人と寝うずらう  寝にくの枕や 寝にくの庵(いほ)の枕や

☆ 一七六番は、我が家から遠く離れて山田を作っている若者が、仮庵(かりほ)住まいしながら、寝にくい枕をかこっているという、民謡情緒ゆたかな口調のいい小歌です。狂言小歌です。雑の今様ふうです。
「思ふ人」と寝るのは、刈入れもすんでこの仮庵から家へ帰ってのあとの話です。若者が寝にくい「枕」に夢を破られながら、好きな人を想っている悩ましさがよく表現されています。
「思ふ人と寝うずらう」を、まだ果たさぬ願望と取った方が面白いなどと言っては、可哀想でしょうか。
山田を刈入れたら、帰宅して晴れて祝言、という段取りを想像してみるのもわるくない味わいですね。
さらに天智天皇の、「秋の田の仮庵の庵の苫(とま)を荒みわが衣手は露にぬれつつ」という百人一首の御製を思い出してみるのも、わるくない。

* ふと目覚め、思いつきに枕元の、こま裂り紙に「たのしみ」の歌を書き付けていたが、五時四十分、そのまま二階へ。朝明けがはやくなり、五時には明るい。

たのしみは難しい字を宛て訓んでその通りだと字書で識ること

たのしみは難しい字を訓みちがへ字書に教わり頭さげること

☆ 此のごろの最中仕事での楽しみです  恒平

たのしみはふたりのね子に「待て」とおしえ削り鰹をわけてやる時

たのしみは好きな写真のそれぞれに小声でものを云ひかける時

☆ 此のごろの仕事疲れの癒しです  恒平

たのしみは誰(た)が世つねなき山越えてけふぞ迎へし有為(We)の奥山

たのしみは割った蜜柑をひよどりの連れて食ふよと「マ・ア(仔ネコ兄弟)」と見るとき

☆ 結婚して62年 ともに八五歳の境涯です

たのしみは誰にともなく呼びかけて元気でいるよと黙語するとき

たのしみは誰とは知らず耳もとへ「げんき げんき」と声とどくとき

☆ 逝きし人らとの このごろの対話です

たのしみは「したい」仕事の「すべき」よりもほどよく我を誘(いざな)ひ呉れる

たのしみは寝ても覚めても手に入りし「作」のゆくへを想ひやるとき

☆ 「したい」仕事は たのしいです。

たのしみは強き思惟(おもひ)のほぐれつつ佳しとふ言(こと)に成りてゆく時

たのしみはふと手に入りし時の間に遠く走り書きの文送る時

☆ 「ことば」は、つねに鍛え慈しまねば。

たのしみはこもごもに「マ・ア(仔ネコ兄弟)」が顔を寄せつめたい鼻で鼻へ来るとき

* こういう歌づきあいは近世末にしきりに試む人がいたが、わたくしに斯く催したのは、奈良の歌人東淳子さんが病床の日々に「たのしみは」と思い慰められてられると、お弟子の岡田さんから窺い聞いて、それ良し同調すべしと私も時折に書き留めてきた。「ホームページ」私語の刻あたまに今は並べているが、ネットで発信もならぬ今、ここへも書き写しておく。

* 六時半。夕方ではない早朝です。
2021 4/30 232

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ
★ 科(とが)もない尺八を 枕にかたりと投げ当てても 淋しや独り寝

☆ 一七七番、渋い傑作です。「科」は「罪」と思っていいでしょう。尺八が小歌のだいじな伴奏楽器だということも忘れなければ、なんだか閑吟集編者その人の独り寝の述懐かと想われもするのですが、そう限るのはトクではない。
女が、男の忘れて行った尺八を、「男」さながらに握って、なげた、と読んでみたいからです。「かたり」という堅い音は、昨今の枕の感じに逸れますが、昔は木枕が多い。陶枕とまで読むこともないでしょう。
小歌を謡ってどうにか憂さをはらしたいのですね。けれどどうにも、やり切れない。えい、と憎い男を突っころがしてやる気もちで尺八をなげやると、「かたり──」と音がする。音がして、やんで、またひとしおの静かさが、独り寝の淋しさをいやほど思わせる。
世捨てびとの孤絶の狂心と見てもよく、しかし来ぬ男が恋しく怨めしい女のすねた仕草が、「かたり──」と鳴らした木枕の音になったと、読んでみたい。
尺八というと、いかにも男の楽器です。それへ、孤り在る女がいとしく手をふれ、唇(くち)を添えていたというエロチシズムの方が、閑吟集らしくていいのか。
それとも、「桑門」の「狂客」編者を襲った「淋しや」と読む方が、閑吟の風情にふさわしいのか。
読者の選択にゆだねていいことです。
それにしても「枕」の歌のつづきますこと、それほどに「枕」は「世の仲」の良きにつけ悪しきにつけて、物言わぬ証人なンですね。時には恋しい人の代役まで勤めている。「竹(ちく)夫人」などという専用の「抱き枕」もあるくらいです。
つづく一七八番など、まさに代役です。
2021 5/1 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 一夜(ひとよ)来ねばとて 科(とが)もなき枕を 縦な抛げに 横な抛げに なよな枕 なよ枕

☆ 「なよな枕」「なよ枕」とは言葉にならない悶えた呼びかけですね。あっちへ、こっちへ抛げられたり抱きしめられたり、「枕」も懸命に来ぬ男の代役を演じます。が、こういう女の痴態を、嗤おうとは思いません。
一八○番。

★ 来る来る来るとは 枕こそ知れ なう枕 物言はうには 勝事(せうじ)の枕

☆ 「来る」の繰返しは、「来て欲しい」の強めで、けれど男が「来る」かどうかは「枕」の方が知っている。女には、もう男心がはかり知れなくなっている。さらに言えば、女は、男が「来まい」とさえ予感しているのです。だからもし「枕」が物を正直に言ったりしたら、男にも女にも笑止な、つまり気の毒なことになってしまうのですね。
「勝事」は「笑止」のあて字だという通説にしたがって読みました。きっと「来る」と、枕がもし確言してくれるのなら、それは「勝事」つまりとっても良い「枕」なのですが。屈折して読んだ方が、趣は深い。あの人が「来る」のよ、「枕」は知っているのよ、でも、それを枕がもし喋ったりしたら一大事だわという読みもなかなか面白いのですが、この辺の一連の歌が、「来る」よりじつは「来ない」を味わいにしていますので、屈折させて読みました。
2021 5/2 233

* 夢をみたかどうかも覚えず、六時に床を起った。幸い安眠したのだろう。計測値も尋常。
さて問題は、昨夜の仕事分を無事に機械クン見せて呉れますか、ドキドキ。

* やはり歌集『少年前』書写の確かに書いた末尾分の数頁が消えうせていた。保存のなにかしら手違いを犯したか。
くさらずに、七時に起きてすぐの機械仕事三時間で書き直し、先へ進めた。十六歳高校少年歌人の熱心で懸命な詠作が、ポトナム同人であられた国語の先生から「開眼、進歩」と初めて褒めて頂けた。以降、果然 「少年前」少年が歌集『少年』歌人へと作を積み上げて行く。京都市か京都府かの主宰で各校から一人の選抜文藝作をコンクール募集した時、日吉ヶ丘高校からは私が選ばれて小説でも評論でも随筆でもなく よく選んだ短歌集を提出、最優秀賞を貰ったこともあった。あきらかに私は太宰治賞作家より遙か前、おそくも「高二の十七歳」からは、自慢ではない、自覚として『少年』歌人なのであった。

* 『少年前』歌ノートが三冊あって、しかし三冊目は前二冊の改編だった。三冊目は無視して、一、二冊だけを書写する。文庫本『少年』のちょうど33頁まで、90首足らずが『少年前』ノート二冊の700首ほどから選ばれている。「少年前」から「少年」は発射されていた。少年前とはおもしろい時代だったんだと、苦笑もし感動もする。
2021 5/2 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 衣々(きぬぎぬ)の 砧(きぬた)の音が、枕にほろほろほろほろとか それを慕ふは 涙よなう  涙よなう

☆ 「後朝(きぬぎぬ)」という古語があります。これまでも二度三度説明ぬきに私は使っていたはずです。脱いだ衣を重ねて男と女が共寝をした翌朝、めいめいの着物を身につけて別れます。その別れ。また、その朝。また転じて男女の離別のこととも古語辞典は教えています。
この小歌を「離別」とまで取るかどうか。それではあまり身につまされます。
「砧」は絹の色艶としなやかさとをより美しく優しく出すために木槌で打つ、その行為でありその木槌でもあります。謡曲に   「砧」という世阿弥作の能の名曲があり、夫に置き去られた妻の深い哀しみを砧打つ侘しい音によせて切々と謡いあげますが、直接にこの一八二番の小歌とは関わりません。あくまでも「後朝」の心情と読みましょう。
女がみずから砧を打つのではなくて、朝早に、もうよその小家で打つのが聞こえている。男を送ってまた独り寝の女が枕にうち臥しよその砧にじっと耳をすましていると、恋しい涙がとぎれもなく、ほろ、ほろ、ほろ、ほろ。
ああ涙よ、わたしのこの涙よと、女は男恋しさに己が涙までがいとおしいのです。思わず涙ぐまれそうな歌です。
次の一八三番は、謡曲「砧」に取材した大和歌。

★ 君いかなれば旅枕 夜寒むの衣うつつとも 夢ともせめてなど 思ひ知らずや恨めし

☆ 夫は、訴訟のことで都へ上り、それが長びいて故郷なる妻のもとへ約束の期限にも帰ってこないのです。妻は砧を打ちながら、「現(うつつ)」に逢えないのならせめて「夢」にもと夫を恋い慕っている。あなたは今どこの旅枕の夢にもそれを思い知らず、徒(あだ)な仮寝をむさぼっているのですかと怨んでいる。
「砧」の能にしたがえばその通りです。が、歌謡としては原曲に捉われることなく、自身を女にも男にもよそえて、感情移入しながら読みとって欲しい「恨めし」であろうと、思います。

* 灯を消し寝入ろうとし枕につくとき、私に近寄るのは、蹣跚とした思い出の断続などでなく、遠い昔の「歌詞」の断片の同じ繰り返しが多い。童謡になるか戦歌になるか歌謡曲になるか、時には百人一首になるか、まちまちだが、いつもそんな「うた」のようで。そして寝入る。寝る前に読んでいた本の反芻は、まず無い。
人は。人とのあれこれは、ほどよく風化して無数に去来するが、風に舞う枯れ葉のよう、だが時に鮮烈な紅葉の一と葉、二た葉の舞いしきる折もある。「佳い」思い出は宝であり栄養でも。
2021 5/3 233

* 正六時半に起きた。妻は寝入っていた。「マ・ア」に多めに「削り鰹」をわけてやった。この地域のある代議士の「読める」ちらしを、海外での烈しい危険な戦争に戦いた「体験」談を 読んだ。

* 戦争のおそろしさ、非人間的苛酷さは、「直接」の戦闘・戦場「体験者だけ」の共有では、ない。女子供たちの「銃後」の生活にもそれは「深刻」だったのだ、まして「敗戦後」の同朋すべてにその「惨禍はおよぶ」、むろん女子供にまで洩れなく及ぶ。
戦争反対の「直接体験者の談」には、時として「私は、われわれは」「あのとき」「あの場所」でという「特定と限局」とが強まる、が、「戦闘・戦争」だけでなく、「いわゆる戦後」の「敗戦国民」という「戦争体験の深刻さ」を棚上げに、「べつ事のように」「そっちのけ」に「忘れて」はならないのを、「日本と日本人」はよくよく知っている筈だ、忘れられかけ、ているが。
国と国との「戦争」は断乎いけない、「戦争をしては」いけない、さらには「仕掛けた・仕掛けられた」戦争に「負けた」「敗れた」苛酷さを「忘れ果てて」いてはいけない。
個々個別の直接戦争体験だけでなく、「国家・国土・国民」として「敗戦」し「他国の支配に絶対服従」の憂き目を「こそ」見てはならない、「戦争反対」とは「それ」でなければ、「個々人の思い出話」の域にとどまってしまいかねない。

* 私は「九歳半」で敗戦国児童となり、少年・青年・成年しつつ、「戦争に負けた」という「さまざま」を覚えた、ごく狭い範囲の一生活者、一人の男としてだが。
ことに敗戦直後の、占領軍に溢れ、兵士達が日本の女性を抱えて街通りにも、町なかにも、くらい路地うちにもイヤほどいたのを、「少年」の目を蔽うようにし日々「目に」していた。「敗戦の弁償」は女のからだと色香が引き受けるのかと子供心に情けなく思い至り、「こんな女にだれがした」の哀歌絶唱がちいさな肉身にしみついた。
「戦争」は、なにより、「してはならない。」
しかし「仕掛けられて負けては」悲惨なことになるとはよくよく心得ての「戦争反対」でなければ、反対の意味は半減ないし無意味に化してしまう。ただ観念での反対に陥ってゆく。
「戦火を浴びた体験、直接体験」を、忘れてはならない。
それとともに、それ以上に、「戦争に負け」て、国土と国民を他国と他国民に「支配される」という「敗戦体験とその意味」をこそしかと下敷きにした「戦争反対」でなければならぬ。上滑りのした「戦争反対」では観念論に流れて行く。
戦争に「勝てばいい」のでは断じて無い。断じて「負けてはならない」のであり、必要で大切なのは「あらゆる意味で」の「負けない備え」でなければならぬ。
少なくも、私の謂う「悪意の算術」たる「聡明で機敏の外交」に、國も国民も精力と決意と頭脳とを日頃傾けねばならぬ。
ああ、あのアレ・アキレた安倍といい、ズズ黒いガスで目づまりしたような菅政府といい、「金勘定という算術」にばかりバカ騒ぎしてきた。
今日只今からの菅政府ないし国会の「外交」が「悪意の算術」にシカと長けて、世界に通用してくれないと、もうほどなく吾が日本國と国民とは、有史來二度目の、一度目よりはるかに苛酷な敗戦国と陥り他国民の支配に地を這わねば済むまい。

* 最新刊「湖(うみ)の本 151」の 『山縣有朋と成島柳北 この二人の明治維新』には、こういう私の思いも添えて書きおろした作である。
2021 5/3 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ ここは忍ぶの草枕 名残の夢な覚ましそ 都の方を思ふに

☆ 住めば「都」と謂うくらいですから、「都」を京都とむしろ限定せずに、妻が待つ、恋人が待つ故郷の家のこととでも読みましょう。「忍ぶ」にも、実在の地名の「信夫の里」をしいて懸けて読むことはない。旅中の男が、心忍ぶ仮寝の枕で、かりそめに惹かれた女人と「名残多い夢」を見ているのでしょう。
もとより男は「都」にのこした女、妻か恋人かを疎んじてはいない。恋しいと懐かしんではいるのです。が、旅寝の夢にふと抱きしめた行きずりの女の可愛らしさにも、心を奪われているのです。「ここは忍ぶの草枕」という一句に、男の切ない申しわけが聞こえて、それも人の「なさけ」よと思います。「なさけ」無いとは、私は、思いません。
このところ「枕」の歌が、閑吟集の内じつに十四篇もつづいています。今日の恋する男女が、こうも「枕」に感情を籠めているとはとても思えないだけに、面白く感じられます。
2021 5/4 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 千里も遠からず 逢はねば咫尺(しせき)も千里よなう

☆ これは理屈です。類歌もたいへん多い。「咫尺」とは、八寸ないし一尺といった短い距離のこと。説明を要しません。
一八六番。

★ 君を千里に置いて 今日も酒を飲みて ひとり心を慰めん

☆ 一八五番を踏まえて読まねば面白くない小歌です。普通の理解なら、好きな人を千里へだてた旅に出している、その面影を慕いながら酒を飲んで孤りのわが身を慰めよう、と読むのです。
すこしひねって読んでもいい。好きな人の身は咫尺の間にありながら、その人の心はもうこのわたしの上にない。千里も離れているかのようにこの人は遠くにいる。それが辛くて憂くて、今日の逢う瀬にもひとり酒でやるせなさを慰めていますよと、男の方へ怨めしく呟いている女ごころの歌と聞くのです。この方が「オリジナルな深まり」が読みとれます。
2021 5/5 233

* この数日、悪戦苦闘した秦 恒平歌集『少年前』を全部「書写」し終えた、と思う。機械クンが受け容れてくれましたなら。
短歌の凄み、それは一首一首の成った日の時・所・状況・景観、そして心境等の全部がそれは鮮やかに手に取るように「想い起こせる」ということ。散文とちがい、表現のママアタマの芯に記憶されている。であるから、書写という作業そのものは少しも苦になるどころか、場面場面が懐かしくてまるまる七十年昔の少年、いや少年前に帰れていた。それにしても、妙な少年であったよ。
機械の不具合ともも取っ組み合った。他の仕事だったら投げ出してたろう、諦めて棄てたろう、が、わが文藝史の冒頭を証言している「証言」の集であり、喪失させたくなかった。もう絶望かとみうしなった原稿を、タマネギの皮を剥ぐように剥ぐようにして機械クンの深い懐へ必死に手を突っ込んで掴みだした、何度も。坂村教授に教わった、世界へひろがり重ねた蜘蛛の巣ですから、通路は底知れぬ数あります、簡単には無くならない仕掛けなんですと。私は教わったそれを信じたかった。

* 心遣いと謂う。昨今のこの心遣いの難しさ切なさ。辛抱という言葉の重みを千鈞万鈞痛感しながら、それでも機械クンに協力してもらえた。ありがとうよ。きみはまだまだ働ける余力を複雑不可思議なほど蓄えもっていると想う。わたしも見習いたい。ありがとうよ。きみの抱えている沢山を外付けの容器に容れさせてもらった。すこしても身軽にさせてげたい。もの凄いと謂うしかない大量を抱え込ませていたからね。済まなかった

* 連休も終わるが、わたしたちの「世の仲」はこの先にも親しみ続けて行けますように。
2021 5/5 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 上さに人の打ち披(かづ)く 練貫酒(ねりぬきざけ)の仕業かや あちよろり こちよろよろよろ  腰の立たぬは あの人の故よなう

☆ 「上さ」は、どこか方言の感じがします。つまり、いつも頭から被いて着るなよやかな練貫小袖と似て、よくよく練った練り酒をあおったのが祟ったか、「あちよろり こちよろよろよろ」と腰が立たない。練貫の小袖のなよなよとした感じが、立たぬという感じに巧くかぶさっているのです。が、「腰の立たぬ」本当の理由は、あの人と愛し合って愛し抜いた一夜の耽溺の、あまり烈しかったせいですのよ、と、女は燃えつくした五体の余炎にまだ身を焼かれつづけているのが、本当の意味です。酒はだしにされての惚気(のろけ)なンですね。
さて一八九番が、すぐお分かりになりますか。

★ きづかさやよせさにしざひもお

☆ 「思ひざしにさせよやさかづき」と逆さに読みます。遊びですね。「あなたが好き」と、眼にもの言わせてさす酒が「思ひざし」です。但し酒をさすというところを盃にさすとしてある以上、「盃」は、受容れる女の容儀でしょう。それへ「思ひざしにさせよや」とは大胆な女の求愛と「さし」「させ」を直線的に読んでこその、いわば暗号うたの効果ではないでしょうか。さぞ美味い酒を盃はさされるでありましょう。一八八番の濃厚な調子を受けると、どうしてもこの読みが生きてきます。
小歌を逆さに読む。これはなにも閑吟集編者の恣までなく、事実そうすることが意図の露骨を和らげも強調もする趣向が、巷間に喜ばれたものと考えていい。その方が面白いと見込んだ趣向が、喜ばれたとみていい。
「趣向」とは、何より人を面白がらせ、そして自分も面白がる、そのための高度に知的な企画と、その企画が成って実りをおさめて行く経過との、双方、全体、を指している言葉です。高度に計算のきいた構築行為です。
私たちは今、閑吟集を三分の二近く読み進んできまして、このいわば小歌集が、たいそう秀れた趣向で成っていることを、およそ納得できているはずです。第一、歌の選択と配列とにすぐれた工夫があります。春から夏へ、夏から秋へ、その移り行きの中に、何となく人生および愛の在りようを巧みに示唆しまた批評し ています。ただ面白ずくにおわっていない閑吟集の値打ちがそこに見えているわけですが、その値打ちを「趣向」という働きに即して言うならば、他でもなく、閑吟集の趣向がすこしも不自然でないということでしょう。
2021 5/6 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 憂きも一時 嬉しきも 思ひ醒ませば夢候(そろ)よ
☆ 「き」の音の三つの重ねが、前段でよく利いていますね。音楽的に巧くはこんでいる。が、それより面白いのは、「思ひ醒ませば」「憂き」も「嬉しき」もひとときの「夢」ではあったよと謡っているはずなのに、どことなく、夢から「思ひ醒めた」その時空、それもじつは「夢」の中だったと、さも言っているように十分取れるところですね。
世事人情いずれにせよ憂きも嬉しきも、それこそが「現」の生きの姿とそう思っていたけれど、そのあまりな頼りなさに気がついた、つまり眼が醒めた先の世界が、また「夢」だった──。
「夢の夢の夢の世」(五四番)と繰返し、「一期は夢」(五五番)「夢の中なる夢」(一三番)と強調する閑吟集なればこそ、「思ひ醒ませば夢候よ」を、夢から醒めたらそれもまた夢だったと抉(えぐ)って読みたくなるのです。
2021 5/7 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ せめて時雨れよかし ひとり板屋の淋しきに

☆ あの淋しやかな時雨にさえも賑いを求めたい。それほど、音もしないようなただ「孤り」の板屋住みが、地獄なのですね。
一九八番。

★ 独り寝しもの 憂(う)やな二人寝 寝初(そ)めて憂やな 独り寝

☆ これも面白い。独り気らくに寝なれていたので、二人で寝る暮しに変わるというのが、当座、面倒なンですね。ところが、さて初めて二人で寝てみると、つらいのは独り寝なンですね。男からも、女からも、言える小洒落た小歌です。
一九九番。

★ 人の情のありし時 など独り寝を習はざるらん

☆なんでもないタマを投げてもらったようですが、手もとで変化してくる、相当なこれはくせダマです。
「情」とは愛人の愛のひたむきであり、思いやり、つまり情の深さのことでもあって、そういう人と互いに愛し愛されていれば、これは「独り寝」どころかいつも嬉しい二人寝の日々であるのが〝自然〟です。ところが愛が醒めたのか、事情あって遠退いているのか、独り寝を強いられている歌ですね。
こうなっての独り寝、一九八番が謡っていた二人で「寝初めて」しまってからの独り寝は、ああ「憂やな」と嘆くしかない。こう「習ふ」つまり慣れを強いられる独り寝というのは、たまらない。
そこでこの小歌は、あの人の情の深かったあいだに、それが嬉しくって有難くてたまらなかったあのあいだに、いっそ贅沢をむさぼるくらいに「独り寝」ということをこのからだに覚えさせておくべきだった。共寝へののめりこみを慎んでおくべきだった。そうも慎ましやかにしていたなら、ほんとうはあの人に飽きられることもなく、愛情をより深く強く長くひきとめられただろうか。ああ、あ、飽き(秋)の足の早いこと、それは耽溺の咎なのかとしみじみ嘆いている。
一時の深情が飽きを誘うことを、賢く、訓えてでもいるような、ふしぎな味わいの小歌だと思われませんか。
2021 5/8 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 二人寝しもの 独りも独りも寝られけるぞや 身は習はしよなう 身は習はしのもの哉

☆ 負け惜しみの諦めうたでしょう。しかも「習はし」に負けて右に揺れ左に揺れてあてどない浮草の人の世に対する、もうよほど沈静した視線が感じられて、これにも身につまされます。
「寝られけるぞや」と過ぎし日の身に覚えを思い起こし、「二人寝」の味を覚えた者でも、結局はまた独り寝の淋しさにあきらめをつけることは出来るようになるのさ、と。
誰だか今も泣いている、泣かされている可哀相な同性をしんみりいたわり慰めています。一つ前の一九九番との「唱和」と取っていいようです。年かさな女の、けれども、「身は習はし」と二度繰返す物言いには、冷ましきれない身内の情熱を、しいてしいて押し鎮めている切ないため息がまじっています。
二○一番。

★ 独り寝はするとも 嘘な人は嫌よ 心は尽くいて詮なやなう 世の中の嘘が去ねかし 嘘が

☆ 余儀ない、事情のある「独り寝」には淋しさも堪えよう。けれど「嘘」を言いわけに飽きを深めて、あげく強いられる「独り寝」は、いや。そんな「嘘」で言いくるめてくる人も、いや。そんなことじゃ、どう淋しさを堪え、どう人を愛しても、恋しても、心づくしのかいがない……。そう女が嘆いています。不安に戦き疑っています。男の「嘘」を予感しながら、それを否認したい女ごころが叫ばせています、嘘が万事の「世の中」で、せめて男女の恋に、やはり嘘はなくてありたい、と。「嘘」去ってしまえと。
これも「独り寝」が誘う不安と猜疑の身もだえです。好きな男のことを「嘘な人」だとは、本当は「嫌」で認めたくない女の情をも、よく汲んで読まないと、底が浅くなります。
2021 5/9 233

* ものの使用法、ものの名前 ひとの名前 ことの次第・手順など 日々に物忘れが露出している。一喜一憂しないで、自然な老化と受け容れている。そして、フッと想い出す。機械クンも、さぞや然かあらん。
2021 5/9 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ ただ置いて霜に打たせよ 夜更けて来たがにくい程に

☆ 戸の外に立たせておいて冷たい霜に懲らしめてもらいましょう。こんなに夜も更けてやっと顔を出すなんて。どこで何をしていたやら、あまり憎らしい人ですもの。
『梁塵秘抄』の三三九番、三三八番にも、たいそう面白い同巧の歌謡がありましたね。

★ われを頼めて来ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ さて人に疎まれよ 霜雪霰降る水田の鳥となれ さて足冷たかれ 池の浮草となりねかし と揺り  かう揺り 揺られ歩け

★ 厳粧狩場(けしょうかりば)の小屋ならび しばしは立てたれ閨(ねや)の外(と)に 懲らしめよ 宵のほど 昨夜(よべ)も昨夜(ようべ)も夜離(よが)れしき 悔過(けか)はしたりとも したりとも 目な見せそ

☆ 上の二つを要約したような閑吟集二○二番です。いかにも〝小〟歌につくりかえていますね。梁塵秘抄の雄弁な率直、生々しい迫力にくらべますと、閑吟集小歌は表面は小体(こてい)に粋になります。それだけ逆に、言いたいことだけが、ずばりと出ます。諺や箴(しん)に近いかと、まえに私の言いましたのも、こういう巧みな抽象化の効果にふれてみたつもりでした。

* 毎朝こうして閑吟集の小唄などを反芻愛吟しているのが、この節のありがたい安定薬になつている。いいものは、いいのだという安心がおもしろく得られる。

* 気持ちを切り替えるためにも、今日は終日、入れ込むように一つ仕事に熱中していた。無事に遂げて行けますように。すくなくも私ひとりの為には、生涯を飾りうる力作になるだろう、風変わりな。
2021 5/10 233

* 心配で ハラハラ だが 九時過ぎて行く。無事に機械を閉じたい。
2021 5/10 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ とてもおりやらば 宵よりもおりやらで 鳥が鳴く 添はば幾ほど味気なや

☆ 「おりゃる」は、やって来る、訪ねてくるという他者の行為を敬語化した物言いです。古文の表記ですとすべて「おりやる」で、この通りに今日のルールで読みますと、間が抜ける。「おりゃる」とつめて読んで欲しいですね。
どうせ訪ねて下さるなら、宵の内から見えればいいのに。そうはして下さらずに……、もう暁けを告げて鶏が鳴いてるじゃありませんの。こんな時分から一つ床で添い寝したって、気が気じゃなくて味けないわと怨んでいる。二○二番で「にくい」と怒った女の、”あと愚痴”という口吻で、けれど、機嫌もなおり情が添って、色っぽくなっていますね。
二○四番。

★ 霜の白菊 移ろひやすやなう しや 頼むまじのひと花心や

☆ 白菊が霜にいためられると色変りが早い。それが「移ろひやすや」という嘆息になっている。「霜」に男の冷淡を、「白菊」に自身の女盛りをよそえながらの「移ろひやすやなう」には、男心の浮わつきと、女が若さを惜しむ思いとが重ね懸けられているでしょう。ここまでは尋常な物言いです、のに、急にかっと激情がほとばしる。「しやッ」と、嘲りの舌打ちが女の口をついて出ているのですね。「ひと花心」は「あの人の浮気心」でもあり、「一時の浮気心」でもありましょう。
この小歌、「霜の白菊」を冷淡な女に見たてて、男の側からの「しや 頼むまじ」と読んでもいいのです。「しやッ」という吐き出すような舌打ちは、戦記物によく出てくる男っぽいものですから。
2021 5/11 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 霜降る空の あかつき月になう さて 和御料は帰らうかなう さて

☆ 女の反語です。挑発と嘆願。本音は「和御料(男)」に帰られたくないのです。へえ。こんないちめんの霜を踏んで、明けの月に見下ろされて。へえ。あなたはお帰りになりますの。へえ。帰れますの。そうかしらこの寒い寒い朝ばやに、と、とめどなく帰りを促す口ぶりのうらに 引き留めたい気持がありありうかがえます。但し逆効果じゃないでしょうかね。
二一○番。

小 帰るを知らるるは 人迹板橋(じんせきはんけう)の霜のゆへぞ

☆ 一つ前の二○九番が吟詩句で、こうあります。

★ 鶏声茅店(けいせい ぼうてん)の月 人迹板橋(じんせきはんけう)の霜

☆ これは温庭均という人の詩句そのままで、「茅店」は、ひなびた茅ぶきの茶店と想っていい。早暁の鶏鳴ですね、天に残月。見ると霜を置いた小川の板橋に人の足迹があるのは、はや家路について茅店の一夜をあとにした客があるらしい、と取る。と、もう閑吟集の世界です。
これを二一○番は面白く受けています。いとしい殿御にもう帰らねばと里心をつけたのは、あの「人迹板橋の霜」のせいだわ、にくい霜ねとなります。後朝(きぬぎぬ)の余情です。
二一一番は「板橋の霜」を、またひと捻りしています。

* 歌集『少年前』稿は纏まった、ただ、満足して書き置いた「序」文が紛失して、これがまこと悔しいが懸命に機械クンの胸の内、腹の中を捜索すれど出てこない。此の仕事は、幼少を介して文学者としての人生がかなり象徴的に大づかみ出来、少なくも私自身で描くおもしろい肖像畫が浮かび出ると期待している。 序文、自身で消去するワケが無く、現れ出てくれますように。
2021 5/12 233

* 秦河勝の時代を書いて欲しいと、具体的なご希望が届いていて、ウーンと唸っている、気がないのでなく、用意があるので。
書きたい小説の内案は、さっきも電話で元の文春専務さんと電話で話していた。夜中に、暗闇の底でこれ、それ、あれと思案している数は、今日モノ、歴史モノ、女モノ、怪奇なモノ、少なくない。元気と寿命が欲しいが、何よりも家族の健康が必要不可欠。怪我すまいと願う。
2021 5/12 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 橋へまはれば人が知る 湊の川のしほが引けがな

☆ 海へそそぐ川口から潮が引いてくれれば、霜の板橋に足迹をのこさず、人にそれと知られずに川を徒渉(かちわた)りして帰って行けるのに。そう謡っています。
「人が知」って困るのは、男としてもいいが、女の立場である方が、面白いでしょうね。主(ぬし)ある女に男が忍んでいたと読む。後朝(きぬぎぬ)にいちまつのスリルが添います。
二一二番。

★ 橋の下なる目目雑魚(めめじゃこ)だにも 独りは寝じと上り下る

☆ 「目目雑魚」の上下するのを見ているのは、男です。いいえ、これは橋下で女を買おうとうろつく男なんです。そういう男と出会おうと川辺を上下する女でもあるんです。まるで互いに自分で自分に言いわけしているみたいで可笑しいし、自分を「目目雑魚」なみに言ってみる気分もほろ苦いし、それでも橋下のくらやみを「上り下」りのやめられない性の飢え、身売りの歎き。身につまされます。
何でもない小歌ですが、男心、女心に情をうち重ねて読む、と、何でもなさそうなことが、妙にぐっと思い迫ってくる。そこが閑吟集小歌の内懐の深さ、くらさ、というものでしょう。
2021 5/13 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ
★ 鎌倉へ下る道に 竹剥(へ)げの丸橋を渡いた 木が候はぬか板が候はぬか 竹 剥げの丸橋を渡いた 木も候へど板も候へど にくい若衆を落ち入らせうとて 竹剥げの竹剥げの 丸橋を渡いた

☆ この二一五番は、唱和か問答かのように読みましょう。愉快な歌声です。
年かさな女が、「にくい若衆」の「鎌倉へ下る(帰って行く)道」に、木橋でもない板橋でもない、剥げてやわい竹の丸橋を渡したというのです。川へ「落ち入らせうと」いうのです。
成功しましたか、どうか。手拍子の聞こえてきそうな旋律感のある歌詞が面白い。
2021 5/14 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 靨(えくぼ)の中へ身を投げばやと 思へど底のじやがこわひ

☆ 「こわひ」は「怖い」です、が、とぼけた感じをのこそうと「こわひ」のままにしました。「じや」は「邪」でも「蛇」でもある。当然これは男が、愛嬌に富んだ可愛い可愛い美少女に、色気もたっぷりの美少女に、もうからだ半分、心はほとんど惹きよせられながら、残る一分の心配をしている小心な歌です。が、女をからかっている、世馴れた口ぶりとも見えます。落語にいう「饅頭こわい」式の、これはこのまま後世の都々逸になっていますね。
だからと言って、すべて軽口と読みとばしてはしまえない。男には、女は、どんないい女でも、どこかえたい知れない怖い「じゃ」を魅力の底に秘めて想われるのです。
これは、本音の小歌と、やはり読んだ方が身のためでしょう。
さて、かくて、いつしか閑吟集も 「秋」過ぎて心寒い「冬」のおとずれとなります。
2021 5/15 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ けさの嵐は 嵐では無げに候(す)よの 大井川の河の瀬の.音ぢやげに候(す)よなう

☆ 後朝(きぬぎぬ)を愛しむ女の、甘えをふくんだ物言いです。嵐山、大井川(大堰川、京の保津川下流)といった実の地名に惑わされず、大井を「逢ふ日」と読めば、これが、忍び逢うた一夜の明けの、「嵐」にも似た愛欲熾盛(しじょう)に満足している、ため息のような歌と、分かるはずです。
む ろん忍ぶ宿りは山川の瀬のとよむあたりであったでしょうね。
二一九番。

★ 水が凍るやらん 湊河が細り候(す)よなう 我らも独り寝に 身が細り候よなう

☆ これは深く読むことは、よしましょう。川上が凍って、湊の川口では流れが細くなっていると、独り寝の女が、事実心細く眺めているものと読みましょう。寂しい冬の風景が、女の心象風景ともなりえています。
2021 5/16 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 春過ぎ夏闌(た)けてまた 秋暮れ冬の来たるをも 草木のみただ知らするや
あら恋しの昔や 思ひ出はなににつけても

☆ 「草木」だけが時の移ろいを知らせるのではないという長嘆息を支えているのは、「思ひ出」です。「恋しの昔」を甦らせる「思ひ出」です。閑吟集編者の強烈な「動機」はこの「思ひ出」、すぎし恋しき昔を慕い懐かしむ「思ひ出」なのですね。それがあの「いつ忘れうぞ 寝乱れ髪の面影」という巻頭一番の小歌ととても無縁に思えないこと、ここまで「春」すぎ「夏」たけ「秋」くれ「冬」が来た今は、もう疑いありません。「あら恋しの昔や 恩ひ出はなににつけても……」なのです。
人生を四季の移ろいに譬えるような思い慣いは、日本人にはすこしも分かりにくいものでない。一つの画面に四季を描きこんだ「四季山水図」が盛んに描かれ出すのも、同じ十五世紀美術からの一つの目立った趣向ですが、西洋人にはこんな「四季山永図」がどうあっても、不合理に思えるらしいということを、なにかで読みました。さもあらんと思う一方、それを妙に可笑しく頬笑んでしまうのが、日本人です。
源氏物語を読みすすんでいても、明らかに四季の推移に添えて物語の組立てが出来ているなと思う場面は、何度も現われます。
けれど、源氏物語を遠く溯る太古上古から「四季」は日本人の暮しを表現していたか。
これは必ずしも、あまり速断のならぬ話のようです。と言うのも、誰しも万葉集が上古の日本人の生活や感情を反映した、すぐれた大歌集であると認めないでおれないわけですが、しかも万葉集は四季のめぐりを、さほどは大きく表現していない。むしろ表むきの世事を「雑歌」と立てた以外は、「相聞(愛)」と「挽歌(死)」という大きな部立をまず用意して、それで巻第一と巻第二をなしていた。いわば「原万葉集」の姿でした。
「四季」を確認する気持は、ある面で物事の尽きぬ「繰返し」を確認する態度と無縁でありえません。私は、そのように以前から考えています。古今和歌集が、はじめて部立を春夏秋冬そして恋と先ず大きく立て初めた認識は、その意味で、万葉集時代からの新鮮な脱却を示していました。あらゆる判断の、批評の、方法の底に「繰返し」を認めて、その前提の上で陳腐と常凡とを免れる工夫をこらして生きて行く、物を創り出して行く、そういう時代が古今集とともに開幕したと言えましょう。そしてその時代が、二十世紀の今も、終りかけているのかも知れませんが、事実はまだ終っていない気がします。
「四季」という言葉は、相変わらず日本人のお気に入りで、延喜式などの「式」と同様に、多くの場面で、有効な売言葉として利用価値が認められています。
閑吟集をここまで読んできて、気づいた点が「二つ」あります。一つは「相聞」に満ちていて、「挽歌」のないことです。もう一つは、苦しい恋の歌はあっても、醜くもつれた嫉妬の争いをしつこく謡った歌がなかったことです。たいしたことと思われないかも知れないが、これが閑吟集の印象をたいへん清やかにも晴れやかにもしていることは、認めたい。編者の体験なり心性なりが
さすがに気高く反映しているという気が致します。
それにしても閑吟集は、古今集の伝統に意識して追随しています。閑吟集の成ったこの時代は、古今集や源氏物語に関連して奇妙な秘伝口伝の伝授が滑稽なくらい物々しくもてはやされた、へんな形骸化の時代でもあったのですが、古今集や源氏物語を大切に思うことで、武家のあらわな進出に、心理的にも文化的にも必死で「待った」をかけつづけた階層、公家や、公家と結託した教養ある町衆なり藝術家なりの 或る作戦、策略としても考えられることでした。
酒をのみ、男と女とが戯れ合っていても、しょせん閑吟集は乱世の武者ばらの手で編めるものでなかった。もう五十年百年まえなら真似ごとにもできたことが、十六世紀初頭の乱戟をむりむり潜りぬけ生きのびていた武士たちにはむりな相談でした。古今集ばかりか中国の詩経までも視野に入れた閑吟集を、天上天下にただ孤りぽっちの「桑門」「狂客」の仕事と見るだけでは、感傷的に過ぎるのです。編者の動機には、私的に根深い憧憬や悔恨もあり、しかしまた、一つの時代を生きぬいた者のひそかな反武力・背武家という批判も籠められていたでしょう、それを見落としてはならないと思います。
四季の反復するように日々「繰返す」のは世事人情の常と言えましょうか。それとも宿命とでも謂うべきことでしょうか。そう思ってみると、閑吟集の恋人たちは、なにかしら大きな掌の上を這いまわる蟲たちのように想われなくもない。が、一寸の蟲にも五分の魂があって這いまわっているのなら、這うもまた良しと言っておきましょう。
昨今、何のきっかけでか、「一期一会」という言葉が、意外にものの広告にさえ使われています。言うまでもない井伊直弼の『茶湯一会集』に、きわめて大切に使われていた言葉ですし、時代を溯るとと「一期一碗」と書いた例にも出会います。(太平記には「一事一会」の四文字が見えます。)
「一期」とは、一期の浮沈などと謂いますように一生、生涯、命ある限り、の意味にちがいなく、それが即「一会」であれ「一碗」であれ、つまりは「一事」「一度」であってみても、この意味が浅薄に誤解されて使われているのです。
一生に一回きりの茶の湯の会、一生に一回きりの一服の茶、ないし一生に一度きりの一事。だから、だいじ。そんな理解が世間一般に広まり過ぎています。それも分かる。が、それだけでこの言葉の果たして本当の本質が見抜けているのでしょうか。
一生に一度の一事だからだいじであるという価値認識は、そんなにも意義あることと、私は思いません。意義が無いなどとは言いませんが、当たり前の話です。もっともっと意義深い理解は、我々の「一期」の営みが無際限の「繰返し」を余儀なくされているという前提や認識に基づき、根づくべきでしょう。
平凡で尋常で退屈な繰返しの一度一度を、その一度一度をあたかも一生に一度の一事かのようにそこへ真実の真情を籠めて迎える、行う、繰返す、ということができるか。それができれば、この繰返しの人生がどんなにすばらしいか。そう思い、そう努めるのが、真に「一期一会」という覚悟ではないのでしょうか。
字義どおり一生に一度の一事をだいじと思うことは、実はさほど難儀でない。ところが昨日らも今日にも明日にも繰返さねばすまぬあれこれを、その一度一度を、一事一事を、あたかも一生に一度の一事かのように懸命に清新に繰返してみせる覚悟。私はそれを「一期一会」の思想と呼びます。生きの理想であろうと考えます。そしてそれが、たとえば茶の湯においてそう
自覚されてきたのは、村田珠光の後進で、千利休の師だった、堺の武野紹鴎がようやく歴史に登場してくる時分、閑吟集がちょうど世に広く受容れられて行く時分に当たっています。
一会の茶寄合に一期の真実を懸ける覚悟とは、一会に寄合った人と人との信頼と親愛とを一途に確認し合うということです。そういう倫理がひたむきに求めはじめられた時代は、裏返しに言えば、それほど人と人とが容易に信じ合いにくい時代だったと言えましょう。閑吟集が反映している歌謡の真実も、実は、ひたむきに互いの愛を確認し合おうとする男と女との、「世」の仲らいに、ある。さらに大事な一事を言い添えねば成りません。「一会」の会とは会合の会だけでない、むしろ会得する、理会する「会」の真意も含んでいたということです。
言うは易く、現実はあまりに厳しかったのです。そこに「夢」や「嘘」を敢えて現実や実直以上に評価する気分を生じているのが、閑吟集歌謡の思えばつらい本音なのかもしれませんね。しかもその「夢」や「嘘」に、さらに裏切られ傷ついて行くのかもしれない不安もさらに兆します。毅然と、または心よわく隠逸や隠遁を考えるようにもなる。文化人、知識人ほどそうだったことでしょう。閑吟集編者の経てきた心理的、精神的な足迹とは、およそそんなところだったかと思えます。
しかし、あくまで閑吟集編者と閑吟集歌謡とは、どこか別もので別ごとでもあることを再確認しておきましょう。編者は過去の面影を追っていますが、歌謡はまだまだ明日につながる今日を生き生き謡っている。たとえ涙あり怨みあり悩みはあっても、です。
つづく二二三番は、そんな微妙な撞着をよく表わしています。

* はやく寝たら、六時、はやく目が覚めた。せっかくの『閑吟集』が読んで貰えなくて残念。
2021 5/17 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 須磨や明石の小夜千鳥 恨み恨みて鳴くばかり 身がな身がな 一つ浮世に一つ深山(みやま)に

☆ 「身がな身がな」とは、からだが二つ欲しいというのです。「恨み恨みて泣くばかり」だから「深山」に隠遁してしまいたいと思い切るのでなく、そうも思うけれど「浮世」に未練もあるわけです。
深山か浮世か。これが「中世」自体がやがての末期を迎えてのむずかしい模索だったと言えましょう。この辺では閑吟集編者の姿勢や心境は、かなりはっきり「深山」寄りに想われますけれど、けれど、二二七番など、まだまだ「浮世」恋う風情を見せています。

★ 音もせいでお寝(よ)れお寝れ 烏は月に鳴き候(そろ)ぞ

☆ 帰ろうという男を、暁け近う、女が引きとめているのでしょう。烏はさわいでいるけれど、あれは月が照っているからよと。まだ朝じゃないわと。けれども男は席を立ちます。それが次の二二八番。

★ 名残の袖を振り切り さて往(い)なうずよなう 吹上の真砂の数 さらばなう

☆ 「吹上の真砂の数」とは数えきれない多数多量をいう常套句です。名残惜しさと「さらば」と繰返す言葉との両方に懸かりましょう。けれど男も女もとても離れがたくて「惜し」くて、次の二二九番になる。

★ 袖に名残を鴛鴦(をしどり)の 連れて立たばや もろともに

☆ 「連れて」とは、一緒の意味ですね。仲の良い「鴛鴦」となって、思い切って二人で一つの人生を歩もうと、新たな門出を決意する。なかなか心に迫る歌ではありませんか。
2021 5/18 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。

一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

★ 世間(よのなか)は霰よなう 笹の葉の上の さらさらさつと ふるよなう

☆ 「ふる」を「経る」「古る」「降る」に懸けて読みたいのはむろんですが、「霰」「笹の葉の上」を男女の「世」の仲にも懸けて読むと、まことにきわどい性の秘境を、感覚を、女自身の肉感で今まさに感受していると取れます。
これは表面と深層との両方を重ねあって、どちらに偏するともなく双方を味わってみたい、粋な小歌です。そう思いつつ、この章の最後を、「さらさらさっと」結びましょう。
2021 5/19 233

* 稲垣真美さんの編輯主幹で文藝雑誌「新・新思潮」が発足し、巻頭に、稲垣さんのおもいきり自在な長編の「美の教室界隈」が発表されているのを頂戴した。めったにないこと、わたしは昨夜、三時間の余もかけて一気に読み遂せた。作の批評とは大きく逸れるが、二重の関心から引き込まれた、いや私から作世界へもぐりこんだ。
一つは稲垣さんという、たぶんお目に掛かったこともないだろう方への個人的な関心、それとも重なり合うてくるのだが、作に書かれてあるのが美学藝術学の大學風景で、カントだヘーゲルだ、自然だ藝術だ、美だ、それらの演習だ等々とあっては、それもかなりに的に触れた議論や学習や書籍などが何の衒いもなくごく当たり前に語られ書かれている、それではまるで昔の「私」ではないか、私は京都の同志社大学で文学部文化学科の「美学藝術学」専攻学生だった背し、一年で東京へ奔ったものの大学院でも「演習」の原著を読んでいた。結果的には美と藝術の「學」なるものに飽きたらず私は自身創作の世界へ意欲と意志とで脱走したのだった、同学の妻とともに。
稲垣さん作の現に「美の教室」は東京の旧制高等学校であるらしかったが、ご自身はどうも京都大学の美学藝術学専攻生であったかに読める。「木島先生」なる教授らしきは、どうも、私もならったことのある「井島勉」としか思われない、そして京大と同志社の美学藝術學専攻同士の親睦にも御所の運動場で野球かソフトボールの試合をした覚えもある。作者の稲垣さんはしかし敗戦間際の兵役
にもつかれたようで、少なくも十歳ほどはお歳嵩に想われる、それがまた私の気を惹くのだった。
私の育った秦の家は京都の知恩院下に門前通りにあった。中之町の東ぎわにあり、東へすぐお隣からは梅本町だったが、実はその梅本町に、私の家から五十メートルとない東向かいに「稲垣さん」と、おとなのだれもが「さん」づけで呼んでいるシッカリした一軒があり、そこには京大生のお兄さんがいた、らしいと子供こごろにも覚えていた、ただしラジオ・電器屋の我が家とシッカリしたしもた屋の稲垣家とには何の縁もなかった。
それだけなのだが、稲垣真美さんは本を送るといつも受け取ったと挨拶してくださる。今度の、山縣有朋と成島柳北」へも、鳩居堂製の「稲垣眞美用箋」に、ていねいなお手紙を貰っていて、「三つからは加茂川畔に育ち、粂川光樹の京都一中では先輩、大体二十ぐらいまで京都(深草の聯隊にも入りましたので)、あとの七十五年の大部分は東京ですが」と書かれてあり、ま、かりに新門前であっても「加茂川畔」と私でも、云えば云うだろう。すこし年配だった粂川光樹は亡くなったが、なんと「医学書院」に同年に入社し、きれいな奥さんと結婚して彼は早めに退社、フェリス女学院の先生から明治学院大の教授になったいた。わたくしは在社十年で太宰賞作家に身を変えて仕事の山を積んできた。稲垣さんは粂川君から私について何等か聴いておられたのかも知れない、が、私にはどうも「梅本町」の稲垣さんちの「京大生のお兄さん」が気に掛かっていたし親しみを覚えていた。
そして、雑誌「新・新思潮」創刊の巻頭での「美学・藝術学」ときてカントの「判断力批判」の「ヘーゲル美学」のと現れ出ては面食らった。「ヘーゲル美学」の翻訳という仕事が稲垣さん作の終盤でのっぴきならない話題になっているが、わたしと妻とは大學のころ「ヘーゲル美学」の訳本を輪読討論までしていたし、その本はいまも書庫におさまっている。いまでは笑い話に属するが妻の卒論はなんとカントの「判断力批判」に食いつくシロモノでもあったのだ。
稲垣眞美さんにこんど頂戴したお手紙は、大事に記念したい。

☆ 秦 恒平様
「湖(うみ)の本 151 山縣有朋成島柳北」 全頁拝読致しました。
京にては無鄰庵、東京では足を伸ばせば椿山荘、それに必要あって鷗外全集を繰れば山縣有朋表裏の条一杯出て参ります。
それと荷風の好きそうな成島柳北との取合わせ、ともにお祖父様の蔵書にありましたとのご因縁が由来、そして大逆事件、二・二六の怨念忘れまじとのご真意まで、心深く拝承致しました。有り難うございました。
小生も、八幡に生まれ、三つからは加茂川畔に育ち、粂川光樹の京都一中では先輩、大体二十ぐらいまで京都(深草の聯隊にも入りましたので)、あとの七十五年の大部分は東京ですが、親父は尾張ながら、母方は大板の宇佐と、それに何と長州萩の血まで入っています。 戦争と軍人は大嫌いでしたと胸を張って言えるのですが、山縣有朋、森鷗外しなるともはや何とも言えません。そこの処、西郷隆盛、依田學海、上村松園までからめて、まことに細密によくぞ纏められたと敬服致しました。
たまたま私この度『新 新思潮』を発刊。誤植多く恐縮の限りですが、多年の御礼に同封致します。ご笑覧下され度  匆々
二○二一年五月一日    稲垣真美

* 私よりご年配と感じていたが、敗戦の日に私は国民学校四年生の九歳半、熊谷さんは兵役の早々から脱しておられる。一世代はちがい、九十五六歳か。「新 新思潮」創刊と長篇の巻頭作、ますます御健勝でありますように。まこと久々に「美学藝術学専攻」などということを想い出させてもらいました。

* 雨か。小雨を厭わず 嵩のある郵便物を十包みほども郵便局へ運んだ。その前に、「イ・サン」と「ソンヨン」とに胸にこたえて、したたか泣かされた。創作された表現がきちっと的に嵌るとひとを感動させる。いくら気張って大声出しても、書き手・創り手の独り合点では嗤われてしまう。創作者としてもっとも恥ずかしいのは、ものの見える、読める、分かる人に嗤われてしまうこと。
2021 5/19 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  趣向と自然 そして秋が冬へ

☆ 繰り返します、あえて。

★ 世間(よのなか)は霰よなう 笹の葉の上の さらさらさつと ふるよなう

☆ 口遊むにしても、とにかく四節になっているのを、どう息を継ぎ、息を切るのか。
閑吟集歌謡はけっして長編ならぬ小歌が断然数多いにかかわらず、この点が微妙にむずかしい。
一気に一息に読むは読んでも、そこに内容上の切れめ継ぎめがあります。世のなかは笹の葉にふる霰みたいなものだなあ、という述懐はむろんよく聞きとれますから、「笹の葉の上の」のところで句読点でいうと「。」をうちたい気がします。が、事実そうしてしまうと、「笹の葉」を、「世間は」と「霰」との間にあって差支えない位置から、わざわざこの位置へ移し動かしてある、音韻上の工夫、効果、が消え去ってしまいます。「ささのは」というじつにさわやか軽やかな音の佳さを、「さらさらさっと」と、常の語法をのりこえてもなおつづけて発声するから、この小歌は意味内容とはべつに、謡う”うた〟としての気分のよさをもちえている。
ただ平凡に歌の意味に即するなら、「笹の葉の上の」のあとの「の」の字を「へ」の字に替えてしまえば何でもない。それを、そうしていないのは、なぜか。「なう」「の」「の」「の」「なう」という伸びやかに響く音調の快味を一貫して利かせているからでしょう。
語法よりも音感を先立てている、そこに謡う”うた〟である歌謡の表現がある。
二三一番とかぎらず、こういう問題を含んだ作は、これまでにも数え切れないほどあったわけです。むしろ、もっと早くに、この点を私は話すべきだったのです。眼で読むだけでなく、口遊んで口遊んで、そうして感受して欲しいと願うのは、ここなンですね。
2021 5/20 233

* 韓國ドラマ「い・さん」にしたたか泣かされ、日本ドラマ「ドクターX」の来月からの予告と一部再映、そして照之富士の強い相撲を観たほかは、終日歌集『少年前』前半の入念な「読み」にかかっていた。打ち込めて佳い仕事だった。無事に「湖(うみ)の本 154」へ持って行きたい。或る意味で、この『少年前』と「閇門」とで、八十五年はしめくくり、余生のある限り、新しい小説を書き継ぎたい、成ろうなら、長編小説を。
2021 5/20 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ 袖に名残を鴛鴦(おしどり)の 連れて立たばや もろともに

☆ この小歌も、ジーンと胸が熱くなるまで口遊むことが何より大事です。と言うより、口遊むという自分自身の能力で、ジーンとくるものを歌謡から引き出してみせる共感が大事です。
二三一番の、「世間は霰よなう 笹の葉の上の さらさらさつと ふるよなう」を何度も口遊むことから、女人の、女体の、性の絶頂までが我がものに感覚できるなら、それはいやらしくも何ともなく、歌詞の清冽に昇華して行くすぐれて音楽的で文藝的な楽園に、魂をともに遊ばせることができたということです。「ふる」を「古る」とばかり受取り、ただ無常迅速の此の世という型に嵌めて読むのでは、惜しい秀作です。
二三三番を、そのように口遊んでみましょう。

小 申したやなう 申したやなう 身が身であらうには 申したやなう

☆ 「申す」のですから、「申したや」と思っている人は女であれ男であっても、つまり相手を、心もち、見上げています。遠くから見ています。むろん心の内を、思いの程を、恋心を伝えたい、告げたいのです。但し「身が身であらうには」なンですね。身は数ならぬという卑下ゆえに、「申したやなう」と思っても言い出せないでいる。
この場合、社会的な身分と限って「身が身」を読むことはない。自身に対する謙虚が相手に対する深い敬愛と表裏していて、それで言い出せないという気高い心理がありうるからです。八十歳のゲーテが十代の少女の前に跪くということも、ありうるからです。
2021 5/21 233

* 機械クンのご機嫌に関しては何一つ賢しらは言えない、運を天に任すあるのみ。今日も神妙にお付き合いを願うあるのみ。
それにしても この画面の 漆黒の名筆「方丈」が緑彩に映えて浮かび立ち、以下、会心のその美しさに私は没頭心服し感謝し、心より親愛している。この「私語」日録へ到るまでが遠いのではと妻は云う、が、それはいつでもそこそこに改訂の利くところ。なによりも、背後の翠に黒い文字の浮かび立つ親しみを心よりひとり愛している。それは、機械クンを取り囲んだこの書斎への自愛信愛と一対、「私・秦恒平」はまちがいなく此処に、この「方丈」に安座して暮らしてきた、多彩な俗情と真情とのままに。
さて、今日一日の無事、または無事にちかいのを祈願しながら、昨日の仕事を継いで行く。

* 夜、九時前。終日かけて歌集『少年前』を、入念に、原本にしたがひ構成・校訂した。これは、ぜひにもしかと仕上げておかねばならぬ仕事だった。間に合ってよかった。老蠶のすさびに同じい『閇門』の方は ゆっくり取りまとめ、ただ副えれば済む。

* あすからは「湖(うみ)の本 152」の出来本送り出しにそなえて、挨拶のことばを一つ一つにカットしておくこと、謹呈先の追加の封筒に宛先・宛名を書き込んでおく欠かせないない作業をし遂げておく。余は、さほど緊急に追い立てられること、無いはず。急かず慌てず「送り」の用意万端を。

* もうもう大昔になったが、井上靖さらと日本作家代表の一人として中国へ招かれた旅中、北京の名高い榮寶斎で、顧愷之の世界史的な長尺の名畫、真作は大英帝国博物館に珍蔵されてある『女史箴図』 その中の一部を精巧に複製軸装したのにこころ惹かれ、買い求めて帰った、だが、みごとな筆蹟名画に相違ないが、懸けて鑑賞を楽しむ場所からして我が家になく、なんとも、そのまま押し入れにしまわれたまま、妻も、今度初めて目にしましたいう仕儀、あまりに気の毒でどうにかしないとと老耄、繪の嫁入り先を思案してきたが、四世紀の、この名品は、一部の複製といえ何方にも容易に通用しない。が、これぞ幸いと私は京・祇園の『何必館』主に謹而呈上にしくは無いと確信した。梶川芳友君ならば、最前の用意で保存ないし処置して呉れるだろうと。頼みます、どうか宜しく。
そして、今日、荷につくって、ためらわず贈り届けた。真実、安心した。

* 『女史箴図』が大英博物館にと知ると、即座に飛行機でイギリスへ飛んだ人を識っている。もう亡くなったが、親しくしていた京都の画家さんだ、この方からは「鮎」を描いたみごとな繪軸を頂戴している。「ほんもの」が観られるなら、なんでイギリスが遠いかと即座に席を立つ人だった。複製の軸を持っているよとは告げなかった。その必要がなかった。
2021 5/21 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ 身の程の なきも慕ふも よしなやな あはれ ひと村雨の はらはら と降れかし

☆ 「よしなや」と嘆く思いは、きれいになかなか割切れない。「由」というものが無いのですから。「身の程の無き」自身の状態にしても、なにも自身の責任でそうなったわけでない場合が多い。だから、「よしなやな」なのでしょうし、だから、好きな人を「慕ふ」ものの、告げられない、受容れられない状況が、また「よしなやな」なのですね。身をよじりたいような「よしなや」の嘆きが、どうにもならず呻き声になる。それが「あはれ」です。
それでもぐっと直接な表出は抑制します。降るほどの涙をまぎわらすため、「ひと村雨の はらはらと降れかし」と思わず空を仰ぎ、また面を伏せる。「村雨」は、やさしい育みの雨です。このかなしいあたしの胸の底までしみじみと雨にうたせたい。慰められたい。こまやかな感情のひだの奥の方で、男の降りそそがせる、あの愛の雨をも待ち望んでいるのです。
そこまで読まないでは、この小歌の真の主人公に共感したことになりません。
2021 5/22 233

* しばらく シナの古代史、乱戟にあけくれた西晋の五十年を過ぎ、私も一等心寄せてきた 江南東晋の世の、虎渓三笑をはじめ懐かしい人たちの事績を読み返していた。昨日話していた『女史箴図』等で世界畫史に傑出した顧愷之もその一人だが、長大な支那の歴史でオアシスとも喩えたいのが、この時期。
私は、シナに取材の小説を、二作ないし四作持っていて、一つは、この、東晋の頃の恵遠法師を書いて芥川賞候補作となった『廬山』。また、作家代表として招かれ訪れて、明末の北僻大同大華厳寺壁画を物語った『華厳』、これは訪中の旅から帰ると即、書いて発表し、同行した井上靖さん、辻邦生さん、大岡信さんらを驚かせた。
もう二作は、『蝶の皿』と『青井戸』と、ともにシナの美しいやきものを小説にし、「美しい限り」と評された。「青井戸」の方は、私の生涯に出会った編集者のなかで最も厳しく優れていた「新潮」小島喜久江さんに、「も少し長ければ 芥川賞に推したかった」と云われ嬉しかったし、「蝶の皿」も、一字一句直しの注文なくあの手厳しい「新潮」にスイと載った最初作だった。

* 何が云いたいのか。
支那・シナというお国から、私は、日本史に受けてきたに匹敵の、大きな大きな感化や贈与を得てきたということ。決して、この国と、心底争いたくはないのである。
日本の外交は、アメリカにあまりに偏重していて、いつのまにか、アメリカの「対・中国」戦略の、いつしか日本が真っ先切り込み海兵隊なみの位置に据えられ動きのとれないことになるのでは、もうはや、着々そうされているのではないかとあやぶむのであ。アメリカのバイデン大統領は、日本の自称政治家と比較にならない「悪意の算術=外交」に長けている。中国の「外交・折衝」がいかに「悪井の算術」に長けているかは、謂うまでもない、この私の造語『外交は。悪意の算術』というのも、支那の歴史を重ね重ね学んできて「謂い得た」確信なのである。
日本の政治家よ。もっともっともっと、「深く考え、瞬時に徹到」せよ。悠長なヒマは無いのだ。
2021 5/22 233

* 京・古門前の「おッ師匠(しょ)はん」 縄手の「お茶漬鰻」と 甘泉堂の甘味「おちょぼ」とを送ってきて呉れた。
「おおきに ありがとさん」
わたしが 妻と東京へ出てきたのが一九五九年で、そのころまでは彼女は茶や花の稽古場へ通ってきていたかも。そしてその後もう六十余年、顔を合わせたことがない。宝塚へ入ったり出たり、日本舞踊に打ち込んで、いつか「おッ師匠(しょ)はん」になってたり、噂は叔母を介して聞こえていたが、いま以て再会していない。が、小説の主人公には優になりうるいつも「噂の子」で、私は『或る雲隠れ考』を書いた。むろんフィクションであるが、書き込み甲斐のある主人公であった。本人は知るはずもない。
そして 数年まえになろうか、突如として手紙を呉れた。以来、ときどき電話で話す。わたしからは何も遣るモノがないが、「おッ師匠(しょ)はん」は、ときどき上のようなご馳走や京らしい甘味を送ってきてくれる。既婚者であった(お相手は亡くなった)が、いまいまで謂う真っ向本気の同性婚だったとは叔母の方から聞いていた。私に親しみを持ち続けてくれていたのは、たぶんに従兄妹ほどの気楽さなのだろう、私もそう思っている。ひとつには、私が秦の「もらひ子」だったように、彼女も今少しフクザツな立ち位置で古門前の名だたる旧家へ、婿入りした実父と一緒に入籍していて、そんな「ややこしさ」を背負いあっているという親近感がどっちにも有ったのだ、いまでも、有る。たいへんな美女だったが、私の「男」などは遠い関心外にあった。

* 小説の種は、おもいのほか無造作に人の世には転がっている。いつ、どう、掴むか、だ。

* 手がけてきた 歌の仕事は もういつ何時でも「入稿可能」までの原稿作りが出来た。「湖(うみ)の本 154」と予定しており、「153」はもう入稿してある。さきざき、すこしからだがラクになってくれるかも。何とかして インターネット を復活したいが 目下は 打つ手がない。
2021 5/22 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ あまり言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の早さよ

☆ 佳い歌ですね。
軽薄な物言いをお許しいただくなら、これは「泣かせます」ね。
本当ははっきりした求愛の言葉を口にしたいのに、とても口に出せなくて、つい、アレ、ごらんなさいな「空行く雲の早さよ」と口走っている。それだって言葉はかけたのです。かけることのできた満足はあるのです。
恋をした人、恋心をうちあけられないで今かなしんでいる人には、「あれ見さいなう 空行く雲の早さよ」は、さぞ胸にこたえましょう。言葉がかけたい、その思いからもう恋心は深まっている。昨日も今日も明日も、初々しい恋人が同じようなことを胸をどきどきさせて口走っているはず。そういう平和な日々の永かれと祈りたいものです。
但し過ぎ行く「雲の早さ」には、恋しい人への深層の不安も、もう重ねられている気がします。
2021 5/23 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ 芳野川の よしやとは思へど 胸に騒がるる 田子の浦波の 立ち居に思ひ候(そろ)もの

☆ 言葉に出せない不安が、思う人の「立ち居」ひとつにも波騒ぐのでしょう。自身、居ても立ってもおれない或る胸騒ぎに苦しんでいるのでしょう。
「よしやとは思へど」という不安、不信、憶測、嫉妬、は苦しいものの中の苦しい物思いです。
つぎ、二三七番。

★ 田子の浦浪 浦の浪 立たぬ日はあれど 日はあれど
☆ 「浦浪」を「浦の浪」と言い替えたのは単に調子をとったのでしょうか。
「うら」は「占」です。我一人の心の中で恋の「うらない」を立てつづけている気味を汲みたいですね。たとえば、「来る」「来ない」「来る」「来ない」とか、「好き」「好きでない」とか。
要するに、浦浪の立たぬ日はあれど、恋心の浪騒ぐことは思いの浦(裏)では絶えまがない。そう謡っています。
2021 5/24 233

* へとへとよろよろと駅から歩いて帰ったら、弥栄・日吉ヶ丘の友達團彦太郎君の昔懐かしいいい手紙がとどいていて、まことに嬉しかった。
ロサンゼルスの池宮さんからもやっぱり懐かしい心親しい佳い手紙が夫婦宛てに届いていて、「湖(うみ)の本」に送金まであって、恐縮もし嬉しくもあり、疲れが取れた。昔昔の友達の元気そうな頼りを貰うほどいま嬉しいことはほかに無いのでは無かろうか。奮い立つまではゆかなくても、気がシャンとする。それが嬉しい。

* 團君というと、忘れられないのが、私には受賞作「清経入水」と列んで出世作にも数えられた短編「祇園の子」だ、はなはし昨日のように想い出せる、六三新制で新設の市立弥栄中学ホカホカ湯気の立ったような一年生としてわれわれは新入学し、團は一組、私は二組で、演劇大会で激突した。全校全三年での優勝を競う大会であったから、弥栄中学新設ほかほかの一年生、事実上の弥栄一回生として上級生に負けまい気構えが強かった、「三回生」と謂われていたが、二年生三年生は大なり小なり先立つ他所の学校から転じてきた人らで、三年生には兵役復員の人たちも混じっていたような時節だった。
結局、私が演出に奮闘した一年二組の演劇が優勝し、團の一組が二位だった。それはもう気分が盛り上がって、そしてその果ても果て、もうみな家へ帰って行こうというときに、一組の演劇でヒロイン役を健闘してた女生徒と私との、電車道横断歩道上でほんの一瞬の詞のやりとり、それだけでその短編小説は成っていたが、「こんな作が十も書けるならたいしたもんです」と文壇の大家に褒められるようなことになった。わたしは。今でもその「祇園の子」と團君とが舞台でのセリフのやりとりのサマもよく覚えていて、彼をおもいだすつど、そのヒロインを想い出さずにいなかった。よく出来る子と評判の学級副委員長だった。團が委員長だった。
往時は渺茫。團君、かれは、そんな七十四年も前を記憶しているかなあ。
そういえば、團彦太郎、みんなダンピコと愛称していたが、かれもまた一人の「祇園の子」旧弥栄小学校の卒業生だったのだ。窮・京都市立弥栄小学校は、元々へ遡れば祇園甲部のお茶屋立と謂うて佳い成り立ちなのであった。

* しかし、よほど疲労したとみえ、掌も、あしの裏も、棒でも差し込んだように捻れて痛い。目は霞みきっている。それでも「T」博士(角田文衛先生に私の作へご登場願う時には、こうお呼びしていた。目崎徳衛先生は「M」教授と。)の本は面白すぎるほど面白く、しかも碩学、そこに意図したウソにど全くないと信頼できるので安心仕切って乗っていけるのが有り難い。先生の本を持ってなかったら、わたしは途中の何処かでへたばり、失神して居かねなかった。

* しあわせことに、いま、もう一冊 「キリスト教親講」が、またくの再読なのに(よほど年を距ててか)新鮮に面白くアタマに入ってくれる。同じことが角田先生の本にも言える。なにしろ私の読んだ本は朱線や黒線で溢れているので、すでに少なくも一度は読んでいたと確認できる。「いい本」は、新鮮に繰り返し返し読ませてくれる、だからこそ「本」なのだ。
2021 5/24 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ 石の下の蛤 施我(せが)今世(こんせい)楽(らく)せいと鳴く

☆ 漢字のつづく部分は、「我ニ今世ノ楽ヲ施セ」という意味になります。漢文の訓み下しとしては「施せい」という要望になり、しかし「楽せい」つまり楽をせよという勧めとしても、言葉が照応し相応しています。それを、「石の下の蛤」の鳴き(言葉)に作ってある。まだ石の下に隠れて人に会わない「蛤」とも、石のように重い堅いものに組み敷かれている「蛤」とも、とれます。大昔から妙に「蛤」という貝は、擬人(神)化される生きものです、それも女に。「女」の性に。
と、すると、「施せい」は「蛤」の願望、「楽せい」はどうやら「石」の、「男」の、自負かな、と読めるのが面白い狙いの小歌です。
2021 5/25 233

* 福田恆存先生の奥様が101歳でお亡くなりになったとお知らせがあった。実の親を知らず、育ての親におとなにしてもらい、そして心の親のようにお思い申し上げてきた。筆紙に尽くせず、背をいつも優しく支えていて下さった。忘れない。
福田先生からはじめてお手紙を戴いたのは、「すばる」巻頭に、華岳らを書いた長篇『墨牡丹』を一挙掲載した直後だった。間をおい、先生の演劇活動の拠点であった三百人劇場ヘ「ハムレット」だったと思う、シェイクスピア劇を演出されていたのへ出向いた時に ホールでご挨拶した。先生最初の一声は、「ああ。想ってたとおりの方だった」と温和に優しいとりなしだった、ビックリした。「湖(うみ)の本」を始めた時、先生はすぐさま各地の20人ばかりの方を「読者」としてご紹介下さった。(同じご親切は、永井龍男先生にも戴いた。)それはそれは有り難く嬉しいことであった。先生の創作劇も何度か楽しんだ。ご子息逸さん作・演出の歌舞伎なども歌舞伎座へ観にいった。
福田先生は亡くなられた。 その後は 奥様がそれは優しくいつもお付き合い下さり「湖(うみ)の本」の購読もおつづけ下さり恐縮もし嬉しくもあった。
永井先生も亡くなられた。福田先生の奥様も百一歳のご長寿だったとはいえ、亡くなられた。寂しくなった。

* 私は、受賞このかた、信じがたいほど多くの大先達の先生方に優しく良く励まされも支えられもしてきた。 福田恒存先生のほかに、順序無く 文壇に限ってただただ懐かしく有り難く想い出すお名前をあげておけば、
小林秀雄、臼井吉見 唐木順三 河上徹太郎、中村光夫、吉田健一、瀧井孝作、永井龍男、角田文衛、目崎徳衛、木下順二、本多秋五、井上靖、山本健吉、中村真一郎、江藤淳、 阿川弘之、佐伯彰一、篠田一士、巌谷大四、杉森久英、大岡信、小田実、和田芳恵、壇一雄、今東光、立原正秋、水上勉、伊藤桂一、舟橋聖一、上村占魚、馬場一雄、大国友彦、谷崎松子、円地文子、福田敦江、田中澄江、梅原猛、斎藤史、大原富枝、竹西寛子、馬場あき子等々、キリがない。
さらには學界の諸先生がたとも、文学、歴史、美術、批評、論攷、まことに大勢お付き合いが出来ていた。有り難かった。
反面、同世代ないし若い作家・批評家たちとは、めったに接触も親交もなかった。いまでも久間十儀さんら極く数少ない。人付き合いが悪いとは決して思ってないが、もともと外へ出て行かない暮らし方のせいもあろうか。あるいは私の作風とでもいうのが若い人たちへの障りになっていたのかも。

* こういう追憶にこころを惹かれるのも、ようやく最晩年の自覚というものか。
陶淵明集を開いてて、こんな詩句に静かに目を置いていた。友人の劉柴桑に酬いた詩の一部を抜き書きしてみる、

窮居して人用 寡く、
時に四運の周るをだも忘る。
空庭 落葉多く、
慨然として已に秋を知る。

今我れ樂みを為さずんば、
來歳の有りや不(いな)やを知らんや。

此のとおりに日々送迎し、まさに これ 私、只今の感慨である。

* 読者、友人、知人、何人もの方が この「私語」が急に聞けなくなったと、案じていて下さるだろう。それが気がかりで申しわけない。いい手がないものか。
2021 5/25 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ 百年不易満 寸々彎強弓
(百年満チ易カラズ 寸々強弓ヲ彎(ひ)ク)

☆ 蘇軾(そしょく)の詩句によっていますので、なるほど「百年の寿命を保つことは容易ではないのに、人間は絶え間なく、強弓を引くようにあくせくと心身を労することだ」という解(臼田甚五郎氏)が本当でしょう。
が、前の二三八番とのかねあいは、どうでしょうか。またこの吟詩句、そのようなお説法どおりに畏まって聞いて終っていいのでしょうか。「百年」はともかく「満チ易カラ」ざるは女の欲求、女の生理で、「寸々強弓」は男のあの頑張りではないのでしょうか。そういう含みがあってこそ、また、二四○番へつながって行くように思います。

★ 和御寮に心筑紫弓 引くに強(つよ)の心や

☆ 「心尽し」の「弓」を、せい一杯引いて「和御寮(わごりょ 此処では、女)」を愛してきたのに、さりとはつれない心よ、という歌です。「弓」は男のはり切った愛をさながら体現しています。暗喩の歌と読みます。
2021 5/26 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ 取り入れて置かうやれ 白木の弓を 夜露の置かぬ前に 取り入れうぞなう

☆ 「白木の弓」は、まだけがれない童貞を暗に謂っている。年かさな女の、あらわな手の動きが見えるようで、よその「夜露」に濡れてしまわぬうちに「取り入れうぞなう」などは、あまり露わな物言いなンですが、歌謡の歌詞としては、ふしぎに綺麗に澄んだ表現効果をもっている。だから口遊(くちずさ)んでいて、いやな気がしないのですね。
242番。これは興味ある一篇ですが、きわめて難解です。でも、割愛するに忍びない佳い調子をもっている。「──だよ」「──だ」といった今日の物言いの、最初例であるかもしれません。

★ さまれ結へたり 松山の白塩(しらしほ) 言語神変(ごんごじんぺん)だよ 弓張り形に結へたりよ あら神変だ

☆ 「さまれ」は「さもあらばあれ」の略で、とにかくも、どうあろうとも、と、物の言いはじめをトンと調子づよく打ち出す時によくこう言います。
「松山の白塩」が、なかなか把めないのですが、「結へたり」と言ってあるのがヒントにならないか。「結び松」に願いをこめる風習は、万葉集の昔からうたわれているのですから、そんな民俗が背景にあると見るのはいいでしょう。が、さてそれでどう通して読むか、やはり難しい。
「言語神変だよ」「あら神変だ」というのを曰く言いがたい良い思い、良い気分の絶頂と、「さまれ」受取ってみますと、「弓張り形に結へたりよ」が、男女の結ばれ合った互いに緊縛、緊張のこの上ない態様と見えなくない。つまり、「さまれ結へたり」を一応の「結合」と眺め、それが「松山の白塩」という契機で「言語神変」の状況、言い換えれば「弓張り形に結へたりよ」の状態までに昂まった。その昂揚その歓喜が「あら神変だ」と読んで、こじつけが過ぎたでしょうか。どうやら、これぞ正解の感じがしますが、まだ私も、「松山の白塩」にずばりと見当はつけかねています。
それにしても小歌の味が、ひところと様変わって濃厚かつ芳烈、どこへやら「冬」の寒さなど置き忘れて、したたか汗まみれの愛欲を謡いつづけている趣ですね。
2021 5/27 233

* 由木康さんの『キリスト教新講 イエスから現代神学へ』を 興味深く熟読した。新約も旧訳もみな一読はしているが、知的な通過儀礼としてしか読まなかった。新約聖書を、ことにパウロを読み返したい。マリア関連の本はかなりの数読んできた。基督教の女性観・女性論が識りたくて。ミルトンの『失楽園」もその方面の観測を心がけていた。
ビックリしたが、ほんの手近に黒い手製の紙カバーをかけた文庫本大の手帳があって、それは実の父のモチモノだったし、殆ど手に触れたこともないまま遠ざけてもなかったのを、何気なく手にしてみると、日本聖書教会からの新約聖書に、父が手づから黒の紙カバーを付けていたのだった。それのみか、表の表紙裏には、「熱愛を受けし祖母の負托を憶ひて」と父・吉岡恒自筆が読み取れ、左の見開きには、

私の過去は凡て誤りでありました
心から神の前にざんげ致します
今後は
一、常に神に導かれていることを信じます
一、常に正しい道を歩むことを信じます
一、神が道なきところにも常に道を作ることを信じます
神と共にあればすべてのこと可能なり
一九五六、四、二一、       吉岡恒の朱丸印

父の死後に異母妹たちが大きな荷にして送ってきた父遺品の中に入っていたのだ、記憶はあった。初めて手にしたそのときも、今も、こと「信仰」という意味では特段感銘しなかったが、「こういう人」で私の実父があったことは否みようがなかった、それより感心したのは筆蹟の謹厳に美しいことだった。私は悪筆、実父母を共にする亡き兄北澤恒彦の悪筆となるとさらにじつに甚だしかった。

* 要は、あらためて読もうと思った「新約聖書」が片手延ばせば届く棚に立っていたのだ。そうかそうかという気分。
上の一九五六年、四月とは、昭和三十一年に当たって私は大學二年生になったばかり、実父のことは片端もアタマになかった。
しかこの聖書、手触りの柔らかな文庫大で、字はおそらく「7」ポより大きくはない、目には堪えるが綺麗に印刷できている。ゆっくり読んで行きたい、ただし私は基督者にはならないだろう。母の異う二人の妹は、ことに下の妹一家は熱心なクリスチャンで、父にも入信・信仰をつよく勧めていたと聞いている。
2021 5/27 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ 嫌申すやは ただただただ打て 柴垣に押し寄せて その夜は夜もすがら  現(うつつ)なや

☆ えらいことを謡うものです。これは何とも勇ましい夜這いの歌ですね。
「いやと言うものか」と強気で柴垣の内へ打ち入りに押し寄せた。そして「その夜は夜もすがら」つまり暁け方までも「現なや」で、愛欲夢幻の境をさまようたわいと大満足の体でいます。むろん女も受容れているのですから、よろしいとしましょう。
2021 5/28 233

* 想っていたことではあったが、しかと思い立ち、久々に、じつに久々に、かつて歌集『少年』をすてきな新書版で世に送りだしてくれた不識書院主の中静さんに電話した。唐突だが、この春に手がけて編みあげた歌集『少年前』そして八五老蠶の走り書き『閇門』を、『少年』のご縁に「読んでみてくれませんか」但し、決して本にして出版して欲しいのではない、それは『湖(うみ)の本』にすれば想うままに済むこと、ただただ、あのひろく好評を得た『少年』にはうち捨てて採らなかった小・中・高校生の頃の「わが短歌」習作の数々を、歌集というものを無数に出版してきた編集者中静さんの眼で読んでもらいたかったのだ。
中静さん、ご迷惑だったろうが『少年』歌人の「少年前」というご縁ひとつで承諾してもらえた。
週明けの月曜にお店に届くよう送り届けたい。有り難い。嬉しい。

* コンピュータの故障は依然険しいままだが、久しぶりに印刷機は働いてくれた、じつは『少年前』と『閇門』とを、祈る思いで「刷れて呉れよ」と機械に送り込んだ、A4紙で60余頁がきれいに刷れたのだ、吉日とまでは言えないが大きな半吉事に恵まれ、胸を撫でている。撫でているうち、これを不識書院主に久しぶりに読んで貰おうと思い立って、手早くすぐ電話したのだった。そして我勝手な文字遣いの漢字に小さく朱で「よみ」を振っておいた。数百首あるのだ、よく手早くつぎつぎ頑張った。
九時になって行く。もう休んで佳いだろう。
2021 5/28 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ 薄の契りや 縹(はなだ)の帯の ただ片結び

☆ 薄い藍色、縹色には、醒めやすい色変りの意味がこもります。それが「契り」の薄さと重なって、片想いのかなしみを怨(えん)じています。つづく二四六番の大和節の中に、「人やもしも空色の 縹に染めし常陸帯」という文句があります。帯に意中の人の「名」を書いて締める、鹿島の神に本望成就を願う帯占いの常陸帯という風儀を、これは念頭に置いている小歌に相違ありません。
二四六番は割愛しますが、未に、「露の間も 惜しめただ恋の身の 命のありてこそ 同じ世を頼むしるしなれ」と強く居直っての恋の肯定は、閑吟集歌謡を「貫く主張」の一つと言ってよい。
二四八番。

★ 水に降る雪 白うは言はじ 消え消ゆるとも

☆ 恋の思いをあからさまには言うまい。「水に降る雪」ほどに「消え消ゆるとも」と。
二五二番には、つよく頷くのみです。

★ しやつとしたこそ 人は好(よ)けれ

☆ 愛の場面でさわやかに毅い男を、女がほめた、とも想えますね。男も女も 「しゃっとした」人は、すくない。閑吟集に教えられる第一等の一句です、私には。

* 嬉しい、嬉しいことがあった。頑張って、頑張って生きなくては。
2021 5/29 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ 人の心は知られずや 真実 心は知られずや

☆ 「や」を、詠嘆ととるか、疑問ないし反語ととるかで、小歌の味もいろいろです。真実、人の心を知りたいという願望の強さを、読みとりたいと思います。
二五六番。

★ 人の心と堅田の網とは 夜こそ引きよけれ 夜こそよけれ 昼は人目の繁ければ
☆ 堅田は琵琶湖の西岸、名高い歌枕の地です。が、堅い人の心という利かせがありましょう。いくら堅い女も、人目のない「夜」ならば引き寄せられよう。
男とは、こういうことも考えているけものです。とは言え、女は、ちがう のでしょうか。
2021 5/30 233

* はやめの夕食後、映画「フィラデルフィア」を観さして床に就き、最近に何処かの抽斗からみつけた、笠原芳光さんの長い講演録『ブッダとしてのイエス』を一気に読み通した。笠原さんは京都精華大学で教授をされていた。わたくしも二、三度はなにかしらご縁があった記憶がある、が、大正末か昭和極初の生まれで私より一世代先輩だったようだ。
禅宗の宗や関係者に向けての講演で、難儀なところ無くむしろ明快に、読み終えてみると明快に過ぎたほど論点が上手な二色の具の握り飯のように「うまく」語られていた。こういう論法は、対照的な色違いの二つを入り混じりに論じる時に遣いよい一種「便法」のような「としての」論述であった。
イエスにしてもゴータマブッダにしても混ぜて一つになる存在とは思いにくい。イエスには達成の酔うが無く「神」の右に座があり、ブッダは「神」に相当のモノを心身から無にした達成があるのでは。

* 読みすすめている聖書の「使徒行傳」に受ける謂わば「気飛沫」(気しぶき)には分かる分からぬに過ぎて押してくる「ちから」を感じる。文藝としてのそれを超えている。
2021 5/30 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ 陸奥(みちのく)の染色(そめいろ)の宿の 千代鶴子が妹(おとと) 見目もよいが 形(なり)もよいが 人だに振らざ なほよかるらう

☆ 梁塵秘抄の三三五番に 「恩ひは陸奥(みちのく)に 恋は駿河に通ふなり」という詞句がありました。「染色の宿」が実在の地名として確認できない以上、色に染まるという寓意を読みとるべきでしょうから、ここの「陸奥」に「恩ひは陸奥」に通う同じ意味を取るのが、主題をはっきりさせます。
「千代鶴子」には、幾らか拠るべもあるのでしょうが、めでたそうな遊女の名乗りと読んでおきます。主役は彼女の「妹」分に当たる名の知れぬ少女だとはっきりしているからです。
若い男どもがもう盛んに生い先めでたいこの少女を「目がけ」ている。その、「ひそひそ・くすくす」のいわば「評判うた」でしょう。前歌「堅田の網」の「堅」い「人心」を、この「妹」が受けています。

* どういう五ヶ月だったのか、どういう一年だったのかと思う。私には、『山縣有朋の「椿山集」を読む』『山縣有朋と成島柳北』を成し、いまわが作家生涯を「前」でとり結ぶことになる歌集『少年前』の原稿を仕上げ得た。このあとは小説を書きたい、籠居の日々に腐ってしまわないで。

* 「ことば」で「創る」という習いを国民学校の早くに覚えた。同時に百人一首を愛誦し始めていた。前半は叔母の口授だった。後半は祖父の蔵書『百人一首一夕話』の拾い読みに感化された。この二つ、短詩型古典への親炙が早かった。それが小説を書き始めるまで「少年前」「少年」期を幼いながらの創作早期にしてくれた。「読む」だけでない「創る」日々があった。それは一種の「自立」だった。束縛されず群れをもとめず権威に諂わず、自分の世界を培い続けた。多くの「旅」がその世界に内蔵されていた。それをより豊かにすれば有難いのであった。
2021 5/31 233

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ 忍ばば目で締めよ 言葉なかけそ 徒名(あだな)の立つに

☆ 目が、時に口ほど物を言ってくれる。はっきり心を伝えてくれる。「あだ」な浮名が立つよりは、人目忍ぶ場合は目に物を言わせておくれよと好きな相手に頼んでいます。
二六三番はその逆ですね。

★ 忍ばじ今は 名は洩るるとも

☆ 「名」は、先の「あだ」な「浮き名」のことでしょう。恋情が強まり、辺り憚らずという段階に入ってきた。女でしょうか。男でしょうか。つづく二六四番はどうでしょうか。

★ 忍ぶこと もし露(あら)はれて 人知らば 此方(こなた)は数ならぬ躯(み) 其方(そなた)の名こそ惜しけれ
☆ 「名」が名誉の意味で使われています。

☆ 天の助けを受ける者を天の子と呼ぶ。天の子は、学ぶことによって学ぶのではない。行うことによって行うのでもない。論ずもことによって論ずるのでもない。
理解し得なくなったところで理解を停止させるのは、最高の智恵と謂うべきである。それを行い得ない者は、天のろくろの上で破滅の憂き目にあう。 (荘子)

* この、『ゲド戦記』などの作家、アーシュラ・ル・グゥインの理解した「天のろくろ」は荘子の原語では「天鈞」であり、「鈞」は「ひとしい」の意義であるが、「天鈞」とは、絶対に「狂い」のない「依怙」のない「はかり」「天のはかり」と私は釈している。「天鈞」に逸れた学舎行いや論議に囚われていては危ない、勝手な「理解」に自足していては「天鈞」という「はかり」の上で混乱し破滅するぞと荘子は笑って威嚇している。こういう理解を開陳する此の私もまた智恵が無い。「理解し得なくなったところで理解を停止させるのが、最高の智恵」とは、何と、すばらしい。
2021 6/1 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ おりやれおりやれおりやれ おりやり初(そ)めて おりやらねば 俺が名が立つ 只おりやれ

☆ 「俺」は、この時代なら男女に通用の一人称です。ここは、女。男に、幾度でもつづけて「おりゃれ」来て…と望んでいます。一度二度来初めて道が絶えたのでは、いかにも自分に魅力が乏しいからかのように心外な評判が立ってしまう。「ただもう、来て欲しいの」とせがんでいます。ここに居りゃれ、そのまま居て欲しいと取ることも可能です。趣意は同じです。
二六八番は、様子がちょっと変わります。

★ よし名の立たばたて 身は限りあり いつまでぞ

☆ 「よし」は、たとえ。あるいは、いいサ、かまわないサ。悪い評判が立ってもかまわない、恋を貫きたい。どうせ数ならぬ身のあたしのこと。評判など、やがて消えてしまうわ、この命にしても同じだわ、と。
二六九番になると、また評判(讃談)に悩んでいます。

★ お側に寝たとて 皆人の讃談ぢや 名は立つて 詮なやなう

☆ 「お側に寝た」のが事実か当て推量かで、この小歌、うんと重みが変わってきます。もし事実ならば、たとえ名は立っても、まァ仕方がない。実のない邪推で名が立つのでは、迷惑至極。でも、この「詮なやなう」の、困っちやうわァという声音には、かすかに、得た恋の満足感も籠もっていないでしょうか。
2021 6/2 234

* 私家版時代 太宰治賞に行き当たるまで、私にもいろいろな ガンバリ があった。ネットといった仕組みの無い、全くの 「本」と「創作原稿」とだけの時代だった、私は自分で「本」にして、えらい先生方に失礼ながら送りつけた。谷崎潤一郎 志賀直哉 中勘助 そして歌人、詩人に最初のB5版私家版を送ったのを覚えていて、谷崎先生のほか四人の方からはお葉書で受け取りを戴いた。のちのちには小林秀雄先生や円地文子先生に送り、小林先生から中村光夫先生(太宰治賞選者のお一人)へ、円地先生からは雑誌「新潮」へのご縁ができた。絵に描いたような幸運だった。私はあくまで「文学」を願っていた、「読み物」は眼中になかった。いかに著名でも『宮本武蔵』は読み物だった。『こころ』は文学だった。吉川英治は「読み物の作者」であり夏目漱石は「文學の作家」だった。
2021 6/2 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ よそ契らぬ 契らぬさへに名の立つ

☆ 主あるこの身。浮気なんかしない。それなのに、浮名が立つなんて──。
この辺で、「名」という立場や感慨が、十一首ほど続きました。「徒名(あだな)」「浮名」「名」のいずれにせよ個人の名誉や利害がからみます。面白いことに、遊女らしい「千代」「鶴子」という源氏名は出ましたけれど、ほかに名らしい「名」は一度も出てこない。まして日本の歴史で、女人の本名を拾うことは、まさかまるまる名が無かったのではないでしょうに、至難のことです。もし出会うとすれば、高貴高位の女人、例えば皇后定子とか北条政子とか秀吉夫人のねねさんとか、または伝説的な藝能人である小野お通とか出雲お国とかにほぼ限られていました。
諱(忌み名)といって、本名を、あらわにそれと呼んでも呼ばれてもならない風儀は、じつは日本人だけに限らなかった、かなり世界的な古い昔からの禁忌でした。だから通称や字(あざな)や号が必要でした。大家の婦人は昭和のはじめごろまで別に替え名をもっていた例がありますし、奉公人にさえ、親がつけた名は呼びづらいと、雇い主がべつの名をつける風習があった。そういうことを背後に感じとっていませんと、武人に限らず 「名」を惜しむ という昔びとの心根も本当にしみじみとは分かりかねることです。
2021 6/3 234

* 「湖(うみ)の本 151」 の残本を書庫へ入れ、これはぜひ何方か和歌史研究者に差し上げたい何冊かを家の方へ持ち出した。ついでのようだが、ちょうど今、最関心事の一つに触れた信太周先生の論攷一編を発見し ほくほくと持ち出した。
また森田草平訳の大長篇、ドストエフスキー『悪霊』の「一冊本」という珍冊を見つけ、久々に読みたくなった。トルストイの『戦争と平和』と対峙を意識していたと謂われる代表作であり、本の手に重いのが難ではあるがちょっと身震いがする。
森田草平は夏目漱石の門下生であり、しかも、あの平塚雷鳥との「心中未遂行」で浮名を流したそれを新聞小説にして大いに売った有名なご仁である。
2021 6/3 234

* それにしても、記憶のうすれとぎれの日々に数ましているのに驚く。上の、草平有名な新聞小説の題が想い出せず、雷鳥女史のこれもあまりに有名な「大陽」壮語(「元始 女陽は大陽であつた」)も想い出せなかった。ま、この思いは日々に加わって致し方ないでしょう。妻や建日子をみて「どなたでしたかな」とまで云わずに済ませたいが。しかし娘の押村朝日子(今は宙枝とか)夫妻には、夫妻して名誉毀損とやらで地裁の被告席に立たされ、仰天の賠償金を請求されてこのかた、うろ覚えだがほぼ15年になるか、顔も見忘れそうなほど会わない。還暦も過ぎたという娘の顔、もう見ることはないだろう。
生みの親たちと一度としてまともに逢ったことなく、生み慈しみ育てて嫁がせた娘の老いた顔も想像できない、どうもこうも 私の生涯は そのまま「塩ッ辛い物語」のようである。「小説家にななるしかない人だよ、秦さんは」と、詩人で批評家だった林富士馬さんに「保証」された昔昔の対談の席が、笑えて思い出される。
2021 6/3 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ 只将一縷懸肩髪 引起塗帰宜刀盤
(タダ一縷ノ肩ニ懸カレル髪ヲモツテ 引キ起コストキ宜シトハ)

☆ 臼田甚五郎、浅野建二氏らの訓みにしたがっています。賛成です。が、難しい。
一筋のたぶん女の髪の毛が、たぶん男の肩に懸かつている。赤裸々の状態と取るしかない情況です。愛欲の熾りの様態でしょうか。途中で休息といった時でしょうか。それによって「引き起こす」相手が変わりましよう。全身(上体)か、局部か。
「淡粧タダ肩に掛かる髪を以ちて 引き得たり雨中の衰老翁」という「滑稽詩文」があるそうです。これは喝食(かつじき)といわれる有髪の少年僧に寄せたもののようですが、これを参考にしますと、「雨中衰老翁」には、喝食の若さに対比する諧謔の気味があり、或る萎えた物の感じを諷しています。
「雨中」は古来の慣用で、ほぼ愛戯、性戯のさなかを示しているからです。「淡粧」は相手を女に見紛うと取るのが自然です。
巨象も女の黒髪一筋に引かれると謂いますね。そうしたことも考慮して、「引起塗帰宜刀盤」という、ややとぼけた万葉仮名ふうの表記と物言いとを、むしろ快く受容れてみますと、「只将一縷懸肩髪」の一句にひびく「か」の音の清んだ印象に、小歌の「なさけ」が感じられます。
いやらしいと思うより、美しい風情が美しい〝音色〟を喚起しています。
”うた″は、詩は、それで良いのではないでしょうか。
2021 6/4 234

* 今日は雨、いちにち冷えると。梅雨の入りかも。

* メール往来無く、いかにも孤立。それもよし、また、不便。じっとガマンするしかない。浮き世の人づきあいは鎖じられても、文字や映像を介しての「世界」は広い。
いま「宗良親王」といい『宗良親王全集』といっても通じまい、僅かな人が「護良親王」を想起して南朝、後醍醐天皇の…と想いいたるかどうか。
その宗良親王の、まさしく千頁、黒河内谷右衛編著の「全集」が此処にある。数十年昔に出版した甲陽書房主の石井計記さんが「謹呈」してくれた。書庫の奥に鎮座のママほとんど観たこともなかったが、この親王、南朝の天皇、親王方、忠臣らがほぼ尽く死去の跡に遺って北朝との戦闘また折衝にご苦労された。しかもこの大冊のほとんどを占める内容は忘れがたいまで清楚な中世「和歌」なのである。死闘をかさねて吉野ならぬ諸国を転戦、放浪されての和歌集であり、世界はあくまで花鳥風月への哀情。
いまこの本をよろこんで貰ってくれる誰一人も(和歌史家でもなくは)無いだろう。刊行の当時に「二万円」の定価が付けてある。過剰な再三とは思われない。
第一部の作品編は大半が和歌集である、「李花集」「信太杜 宗良親王千首」「新葉和歌集」。次いで「史料編」「伝記編」そして村松剛氏が解説ふうの跋にかえて親王を「論」じている。更に「年譜」文献」「索引」がついている。編著としては完備していて、しかもいかにも孤独にさびしくも「吉野朝・南朝」の運命とともに最期まで孤独に尽くされた。南北朝時代に触れて北畠親房の『神皇正統記』などとは別趣の証言であり、足利・室町時代へ歴史の動く最期の南朝側証言者なのである。古書の山なかで虚しく朽ちていい本でない。ことに「新葉和歌集」は良本のなかったのを苦心して信ずるに足る一書を得て伊勢を歴戦彷徨のさなかに詳細に整えられた良本に成っている。
後醍醐天皇の皇子としては、楠木正成らと気息をあわせ勇戦しつづけついに鎌倉で北条氏に殺された護良親王が名高いが、そのごは、ほとんど余儀ないながれのなかで南朝陣営の芯に立って日本中を転戦・彷徨したのが宗良親王だった。三種の神器を北朝朝廷にゆずって南北統一の衝に当たられた南朝最期の親王さんであった。

* こういう本にも一度目を向けてしまうと、目が放せない、が、私の余命はなかなかそれを赦すまい。不幸にして私の視野の内に、若々しく歴史へ向学・好学の若い人がらくには見あたらない。
2021 6/4 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ むらあやでこもひよこたま

☆ うしろから逆さまに読みましょう。
また今宵も来(こ)でやあらむ──。うーん。ちと、唸りますね。
遊女仲間の半ばあきらめた舌打ちでしょうか。
遊女の仲間同士と言いましたが、遊廓といった場所がこの時代にすでに在ったか、どうか。京の祇園島原や江戸吉原のような大遊廓はのちのちの話ですが、遊女には遊女の居る家戸(やど)のあったことはむろんで、いろんな便宜や好都合ゆえにそれが船着場や宿場の一部にかたまりやすかったのは、室(むろ)の津の遊君や、江口神崎の遊君などで早くから知られています。社寺の門前に参詣客をあてこんだ女たちの宿が、形ばかりの粗末な詫びたものであれ、在ったし在りえたことは、大和物語や、光源氏の住吉詣での昔から疑いない事実です。
「職人尽絵(づくしゑ)」の中に、立ち君、辻君の絵が出ています。「職人尽絵」の決定版のような『七十一番』ものの中で、家の中から女たちが客を招いています。これは『閑吟集』成立のわずか後の制作でしたから、この小歌、遊女が遊客を「また今宵も来でやあらむ」と怨みまじりに待つ風情と読んで、とくべつ時代錯誤ではなかったのです。
但し、遊女と限る必要はない。男をむなしく待つ女は、「世」の中にいろいろに在りえたからです。
2021 6/5 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ 待つと吹けども 怨みつつ吹けども 篇ないものは 尺八ぢや

☆ 「篇ない」とは、甲斐ない、役に立たない、仕様がないの意味です。尺八は小歌の伴奏楽器ですから、これは待つ恋を謡った、分かりいい小歌のようです。しかし、「尺八ぢや」とこう断定的になげてみられて、そこで却って、おやと気がついて欲しい。こう「尺八」が貶められるのは、じつは条理に合わず、妙に八つ当りめく。それなら「尺八」でなくてもいい。何が憎らしくッてもよく、すると、一篇の小歌として急に底が浅くなる。「篇ない」歌になってしまう。
考えましょう、これは女の歌です。尺八は〝笛〟です。女が「笛を吹く」というのは、時に、相当に濃厚な愛戯愛撫の様態を諷しています。そういう用例は隠語、暗喩として寡くはないはずです。「尺八」という、長さに関係した楽器の名、笛の名が物を言わされていて、それを女がどう焦れて吹いても役に立たない。そんなジレンマがおかしく謡われていることを読み落としては、やはり「篇ない」ではありませんか。
2021 6/6 234

* 中国武漢の研究所からの、コロナ禍そもそもの流失を米国らが疑って、その議論の白熱化している実状・現状がテレビで、今しも討議されているのを聴いて観ていた。

* 私が、コロナと関わりながら、中国と限らず、むろん米国も、日本をすら含めて、世界の先進国の軍部が細菌戦争を念頭に置いていないなど夢にもありえないという事実・史実にふれて、危惧と云う以上に現実の問題と指摘しこの「私語の刻」で発言していたのは、此度の「コロナ」感染の世界化にいたるよりなお早くであったのを忘れるワケがない。今回の「コロナ禍」による世界中の死者総数はヒロシマ・ナガサキの原爆死者「よりも多い」事実をみるだけでも、いかに「細菌・ウイルス」の類が猛烈な兵器に成りうるかは明々白々で、実に暗黙のうちに先進諸国の政府も軍も最前提・最必要な「兵力」と承知していることは云うも愚かな当たり前なのである。繰り返して書いて置くが、私は、若き日々の医学書院編集者の頃に、お付き合いしていた医学研究の先生方から、そんなことは公然の秘密、秘密めく公然の事実と、なんども笑い話にも似て聴いてきた。戦時、敵俘虜をつかっての生体実験のことまで、或る大學の教授はご機嫌の笑い話のように聴かけてくれた。
今度のコロナで、中国と米国とがいい「流出」をめぐってやり合い始め、ついには「第三次世界大戦」とまで中国側からいいはじめたときも、私は、驚かなかった、「ヤツパリか」と思った。

* こういう怖い事実ないし憶測に関しては少なくも「可能性」として、人は、心得ていた方がいい、國や政府や軍にかかわる人たちからは、あからさまには決して口に出されないが、上に触れたことは「ある、ありうる、なされているだろう」とは常識としてでも心得ていた方が良い。
2021 6/6 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ 待てども夕(ゆふべ)の重なるは 変はる初めか おぼつかな

☆ 「夕」を、たいていの学者が、男の「来ぬ夕」ととっておられる。私は、これは安直な気がします。「夕」は刻限をあらわしている。しかもこの小歌のどこにも「来ぬ」という否定は表現されていない。むしろ「来なくなりはしないか」という「おぼつかな」さを謡っている。いずれ来そうな「心変り」の時をおそれ案じている。つまりまだ、男は「来て」はいるのです。
待っても待ってもやって来ない宵が「重なる」と取ったのでは、「変はる初め」どころか、もう「変は」っているではありませんか。「おぼつかな」どころか、もうダメなンではないですか。
「待てども夕の重なるは」とは、だんだんと刻限が遅くなって行くのはという意味でしよう。以前はもっと早くから来てくれたのでしよう。男はまだそれでも女の躰の魅力に惹かれて「夕」になると来てはいるのですが、女の愛は「躰」にだけあるのではない。もっと大きな安定を望んでいる。だから男に抱かれながらも、「変はる初めか おぼつかな」と、ひとりものを思ってしまう。男女の仲の微妙な瀬戸際を、これはまこと上手につかまえています。
二七八番。

★ 待てとて来ぬ夜は 再び肝も消し候(そろ) 更け行く鐘の声 添はぬ別れを思ふ 烏の音

☆ 別れの鐘、烏の声は昔から「嫌われ」ものです。「鐘の音」「烏の声」とあって欲しい表現ですね。ここの「鐘」には、おそらく年越えの除夜を撞く鐘の意味もあって、閑吟集もいよいよ「冬」の果てを感じさせています。「待て」と言っておいて「来ぬ」「添はぬ」「別れ」と、春にはじまった年の冬は、寂しい「鐘」に送られて──去ろうとしている。
そして、二八○番では「白雪」「薄氷」「降る雪の花」などの冬の景物を用いながら、最後には、「春もまた来なば都には 野辺の若菜摘むべしや 野辺の若菜摘むべしや」と、また「若菜」へもどって「回春」の願いを謡いおさめているのです。
閑吟集の「四季」は ここに一巡しました。
さて、次に「恋」の小歌の集がつづきます。閑吟集、大好き。
2021 6/7 234

* 伊藤鶴松著『歌舞伎と近代劇概論』という、京都の下長者町にあった文献書院からの本が、昔むかしから、幼かった私のほぼ手の届く範囲にいつも実在した。秦の祖父や父が手にしていたのは一度も見ていない、手にするのは小学校、中学生の私だけだった。難しそうな「序説」や「内外演劇史概観」などは、また「近代劇概論」や世界の「現代自然主義作家と其思想」などはハナから敬遠したが、それでも「近代劇の先駆イブセンと其思想」「『人形の家』と近代婦人問題」とある章へは果敢に踏み込んでいた。が、何というても関心も興味も「歌舞伎」にあった。「近松の劇と人生」「近松以降の浄瑠璃作者と其代表作」「近世期の江戸脚本作者と其代表作」「江戸歌舞伎の集大成者河竹黙阿弥」の各章には、さまざまに代表的な歌舞伎劇のあらすじやなセリフ等々を含めて、私は実の舞台に接するまでにたくさんな歌舞伎知識を手に入れていた。南座の顔見世を初めて観せてもらえたのは高校に入ってからだった。期末試験の予習もしながらの師走顔見世、最初に出逢ったのは初世中村吉右衛門とまだ福助だった後の中村歌右衛門との「籠釣瓶」が印象的だった。のちの中村勘三郎がまた「もしほ」、のちの松本幸四郎(初世白鸚)がまだ市川染五郎の時代だった。だが、高校以前に私はこの『歌舞伎と近代劇概論』と親しみ、有名な芝居のあらすじはかなりの数、覚えていた。

* 本は、大正十三年師走半ばに刊行されていて、祖父は明治二年、父は明治三十一年生まれだからどっちが読んでいても不思議はないが、祖父は莫大に堅い堅い本の蔵書家だったが父が読書の姿は見覚えがない。祖父の家業はいわゆる「お餅屋さん」京風には「かき餅屋さん」だったそうで、南座へ卸していたりしたという。そういえば父は、若い時分に松嶋屋(片岡仁左衛門)の筋から弟子にと、実否はしらない、声がかかったなど耳にしたことがある。若い頃の写真を見ると父は、和服でも洋服でも軍服でも男前だった。

* 昨今の単行本の巻末に、著者と関わりない書籍の広告が入る例は少ないないし稀であるが、明治大正の本はそうでなく、しかも今今の目にはその広告が面白いとは前にも述懐した。この『歌舞伎と近代劇概論』なる堅い本の巻末にも三頁分(少ない方だ)広告があり、本の主題からして関連の濃い、一頁めには近松以降の戯曲、劇、脚本等著作の広告、二頁めにはラム原著全訳の『セキスピヤ劇二十篇が「新刊」として広告されている。歌舞伎や演劇の本として、ごく尋常、何の逸脱もない。そして三頁めには、中等学術協会編なる『明治文學選釈』成る一冊が広告されていて、おうおうと声が出る。「中等学校上級生の自修書、又上級學校入学志望者の準備書」と売り言葉があり、「内容大要」としてあるのへ、末代の一作家として目が向く。
「評論文」として、樗牛、作太郎、天随、子規、粱川、祝、逍遙、露伴、蘇峰、知泉、毅、有朋「等の作」と揚げてある。識らない名が一二まじり、「毅」「有朋」は政治家、軍人ではないのか。「作太郎」は国文学、天随は漢学の学者、今日にも聞こえて「文学」の人としては樗牛、子規、逍遙、露伴か。
では「参考文」としては、逍遙、粱川、作太郎、八束、潮風、鐵腸、樗牛、桂月、麗水、泣菫、二葉亭、露伴「等の作」と揚げてある。詩人もありジャーナリストもある。近代文学史の筆頭と聞こえた二葉亭が顔を出しているが、藤村も漱石もまだ現れない。次いで「参考・趣味」として挙がっているのが、露伴、作太郎、漱石、樗牛、虚子、蘆花、藤村、荷風、独歩、鏡花、武郎、節「等の作」と列んでいる。
いないなあと思う、一葉、鴎外、紅葉、茂吉、晶子など。直哉も潤一郎も、芥川もまだ若いのか。
昔昔の本の巻末広告は、ときに切り口を光らせて意外に批評的な時世の推移を頷かせてくれるのです。

* 八時を廻っている。今日は、これでも、いろいろと、しました、つもり。階下では、レオン・ブルムの『結婚について』もう少しで読めてしまう。『使徒行傳』にも惹き込まれている。
そういえば夜前夜中のことか、二階廊下の「文庫本書架」の一つが廊下へ倒れていた。「マ・ア」らが疾走跳躍して蹴倒したか、それならば怪我が無くてよかった。
2021 6/7 234

* 夜十時、湯上がりで寝入っていて、風邪でも引きかけたか。かすかに頭痛。
明朝、「湖(うみ)の本 152」納品としらせがあり、幸いその前に「「湖(うみ)の本 153」を「要再校」で、「湖(うみ)の本 154」を入稿、済ませておいた。肩の荷を下ろしておいての発送となる。今回より定価販売は一切やめ、すべて「無料 呈上」と切り替えた。「湖(うみ)の本」の歴史を新ためたのである。
もう今夜は、やすむ。
2021 6/8 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ つぼいなう 青裳(せいしょう) つぼいなう つぼや 寝もせいで ねむかるらう

☆ 閑吟集を象徴する「恋の名歌」とされています。何度も口遊(くちずさ)んで、まず感じをよくつかみたい小歌です。ふしぎな旋律をもっています。同音の微妙な反復や重複が意味以前の音楽をなしています。
「青裳」が、ひとつ問題です。このままだと合歓木(ねむのき)の別名で、それでも意味は成している。「青小」の含みをもたせると、これは小童のことですから、男同士の男色歌だとする説も出てくるのですが、そんな限定は、一篇の小歌の魅力を浅いものにしかねません。まして口調は女のものに思えますので、青裳にせよ青小にせよ、相手を年少の男性と私は取りたい。そこに「つぼい」という、「身も世もない可愛らしさの肉感」が迫ってきます。
しかし「つぼ」つまり「壺」は「女の性」の形容ですから、男が、年若いまだ「つぼみ」の少女の「からだ」をしんからいとおしみ耽溺の境に酔っているとも、読める。
この二人、ねむいもあらばこその身悶えの愛を今満喫して、なお余燼のつよさに身をよじっている。その堪らない五体の疼きが「つぼいなう」「つぼや」という呻きを喚び起こしています。しかも相手のさすがに疲労げな眉目(みめ)を見やって労(いたわ)っている。もっと起こしていようか、もう寝かしたがいいかと思い惑い、まだ飽き足りていない。「ねむかるらう」という優しげな母性と、すさまじい肉欲の魔性とがそこに交錯します。
「つぼい」は可愛らしい意味の千葉、茨城また長野地方の方言であるという解説が、よく付いてまわります。現にそうであるのでしょう。が、方言土着の一つの型としても、それがその地方にもともと独特のものというより、事情あって移入されたものの定着、遺存であるのかもしれませんし、「閑吟集の時代」には、もっと広範囲に感受され使用されていた共通語でなかったとは言えない。むしろ地域的に限定された方言だとすると、この小歌の語法などが他のそれと、そう異ってもいない理由が解きにくくなります。方言というより、これも閑吟集にふさわしいむしろ伝統の生きた語彙の一つと受取りたい。
すると、「つぼい」が可愛らしい意味でむろん構わない、けれど「可愛い」と言わず「つぼい」と言い表わす必然をも問うてみたくなります。
「つぼ」は壷、莟、局(つぼね)などを連想させますね。しかも、いずれも「女に縁」がある。桐壷、藤壷といえば後宮の一画をさす呼名であって、しかもその女主人の呼名でした。「花の莟」といえば処女の譬えですし、「お局さま」といい、転じて美人局(つつもたせ)などと書くのも、性の対象としての女人と無縁でないどころか、それそのものを指しています。            「壷」は容れものです。女は銘々に小さな壷を身の秘処に抱いている。平常はつぼんでいるものへ、時に物を受容れて用を足す。そういうことを「つぼい」「つぼや」という可愛さのほとばしった言葉が、含意していない道理がない。その壷が、進んで物を受け容れたまさしく合歓・青裳の喜悦が、思わず「つぼいなう」「つぼや」と叫ばせているのです。思わず知らずに甘えた女の、誇らかに満ち足りた充実感が、性の自覚が、「つぼいなう」「つぼや」なのです。
これを男の歓喜の声と取りうるゆとりもこの小歌、十分持ち合わせています。だから「ねむかるらう」を、男が女を労るのだと諸本が解釈しています、が、性愛の反復で、ねむさと疲労とに参るのは、概して男の方なのでは。こんな場合少女は似合わない。女は年増であれ少女であれ、「寝もせいで ねむかるらう」という顔はしそうにない。似合わない。さっさと寝ているか、ガンと頑張っているか、でしょう。
それより「青小=小童」を恋の相手にした年かさな男を想ってみるのが、逸興です。「待てよ」と耳もとへ囁かれたまま「寝もせいで」待っていてくれた小童の前で、息をはずませて「つぼいなう」「つぼや」とうめく男色の大人。これも捨てがたい耽溺の一境地。そういう「解」が十分に成立つ小歌です。この際の「青裳」はあくまで少年です。いやいや逆に言うと、やはり年かさな女の方から年若い少年のところへ、すでに来てもう床の中にいるか、じつは今しがたかけつけたという読みの方が、なじみます。
「つぼいなう」は、女でないと口に出せない、語感ならぬ体感そのものです。「莟」と書けばむしろ少女の「つぼみ」よりも少年の性器に近いという用例もあります。
つぼいなう 青裳(せいしょう) つぼいなう つぼや 寝もせいで ねむかるらう
2021 6/8 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ あまり見たさに そと隠れて走て来た まづ放さいなう 放してものを言はさいなう そぞろ いとほしうて 何とせうぞなう

☆ 「恋しとよ 君恋しとよ ゆかしとよ 逢はばや 見ばや 見ばや 見えばや」という絶唱が梁塵秘抄の四八五番にありました。閑吟集はおおむねこの続篇で、とくにこの小歌は 「あまり見たさに そと隠れて走て来た」とつづく。二八一番をしばらく念頭に置いていてください。そしてその先が、閑吟集のまったく独擅場なンです。
待っていた方は、いきなり抱きついてくる、のを、まァまずは放して息を入れさせてよ、言いたいことが沢山ある、それからさきに言わして頂戴と。とは言え情はせまってきます。「そぞろ」とは 情の波が高まってくる感じを謂っている。「何とせうぞなう」とは、もう言葉に替えようがない表現です。
この歌のあとへ、前の「つぼいなう」「寝もせいで ねむかるらう」をつづけても面白いわけですね。ところが、編者はそうしなかった。二八一番が、やはり閨房での喃語だからではないでしょうか、顧みてまたそう思われます。この二八二番とのつづきは、順序どおりに、次の二八三番を読むべきです。
2021 6/9 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ いとほしうて見れば なほまたいとほし いそいそと 掛い行く垣の緒

☆ 男が訪ねて来た。女はいそいそと錠のかわりの垣の緒を掛けに行く。人に邪魔をされたくない逢う瀬のよろこびが纏綿しています。

★ 憎げに召さるれども いとほしいよなう

☆ この場合の「召さる」は、ことさらお呼びよせになるとはっきり取るより、広く、「なさる」「振舞われる」の意味でよろしいはずです。わざとあたしの気もちを知らぬふりして憎らしそうになさる(着る、食う、飲むなど)けれど、そんな容子からもまた愛情はかえって伝わってきます。だからあたしも愛しくて。恋しくて……と、女は絶句しています。幸せそうな歌いぶりですね。
2021 6/10 234

* 伊藤鶴松著『歌舞伎と近代劇概論』をみると、随所に、一段と小活字で、名だたる歌舞伎演目の「あらすじ」が語られていて、実際の舞台に観入るよりはるか以前、明らかに幼少の昔に、近松作(だけでも53作の題があげてある。)の「心中天網島」「冥土の飛脚」「夕霧阿波鳴戸」などのほか、時代を追って「寺子屋」を芯に「菅原伝授手習鑑」の大要や、「伊賀越道中双六」の「沼津」や、紀海音の「八百屋お七」、また並木宗輔の「刈萱桑門」 並木五瓶の「五大力恋緘」「鈴ヶ森」、また四世鶴屋南北のおっそろしい「四谷怪談」等々、ことこまかに読ませてくれて、恐がりの私には字で読むだに怖い恐ろしい舞台の筋書きや役者などが、まこと親切に紹介されていた。もう明治へも手の届いてくる黙阿弥劇の「鼠小僧」「十六夜清心」「三人吉三廓初買い」「弁天小僧女男白浪」「切られお富」等々、かぞえきれないほど多くのあらすじが巧みに小活字で語られていて、いわば小説や講談をこのお堅いつくりの一冊で、一杯読めるのと同じだった。
高校生になって初めて南座で顔見世の芝居を観るよりはるかに早く、疎開前の国民学校、疎開先から帰京しての戦後小学校、新制中学の内に、贅沢なほどたくさんな芝居の筋や役者らの名を、たとえ朧ろにも。実に面白くも怖くも、私はもう覚えていた。
これもまた、祖父か父かと限らない「秦家」に「もらひ子」されての天与の耳ならぬ目での学問だった。どう感謝してもあまりある恩恵だった。私自身は祖父にせよ秦の父や叔母や嫁いできていた母にせよしこしこと読書している図は皆目覚えがない、のに、間違いなく「寶」と呼びたい本が、少年の目に無数に近く蓄えられていた。
叔母(宗陽・玉月)は「茶の湯」と「生け花」とを私に教え、「和歌」「俳句」という歌の作り方を寝物語にも教えてくれた。父は観世流「謡曲と能舞台」への道をつけてくれた。
その有り難さを、私は八五年もかけて、今、しみじみと感謝している。
2021 6/10 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ 憎げに召さるれども いとほしいよなう

☆ この場合の「召さる」は、ことさらお呼びよせになるとはっきり取るより、広く、「なさる」「振舞われる」の意味でよろしいはずです。わざと、あたしの気もちを知らぬふりして憎らしそうになさる(着る、食う、飲むなど)けれど、そんな容子からもまた愛情はかえって伝わってきます。だからあたしも愛しくて。恋しくて……と、女は絶句しています。幸せそうな歌いぶりですね。
二八五番は、対話で成っています。

★ 愛(いと)しうもないもの 愛ほしいと言へどなう ああ勝事(しょうじ) 欲しや憂(う)や さらば和御寮 ちと愛ほしいよなう

☆ 「欲しや憂や」が、あまりはっきりしないのが焦れったいのですが。
先ず女から、可愛くもないあたしをいくら可愛いと言うてくれても、「おお笑止」と男を挑発します。歌舞伎の舞台なれした人なら、「おお笑止」という嘲弄の科白はおなじみです。
これに対し男の方は、可愛いが「笑止」なら、お前は「ちと=ちょっとだけ」可愛いよと割引して、やり返しています。
「欲しや憂や」は、たぶん男の側から女の「ああ勝事」に対抗する科白かと思われます。わざといやみをいう女をなお「欲しい」と思いつ 「いやな奴め」と思いつする気持を、ひっくるめているのではないでしょうか。
二八六番。

★ いとほしがられて あとに寝(ね)うより 憎まれ申して 御ことと寝う

☆ 「御こと」は敬語の二人称ですね。男とも女とも、どちらで読んでもよく、「あとに寝うより」は、あとで「独りで」寝るよりは、と意味を補って読めばよろしい。なかなか面白う口説いているわけです。
「いとほし」「憎まれ」の対比は、本当はこの小歌のような対句に結びつかないはずなので、それを敢えて言い出すところに、男女の仲にあまい甘えがすでに可能になっているわけでしょう。「いとほしがられて」や「御ことと(今)寝う」が、言いたい本音なのでしょう。
二八七番。

★ 人のつらくは 我も心の変はれかし 憎むに愛ほしいは あんはちや

☆ 「あんはちや」は「ああ恥や」と取っておきますが、表記にも解釈にも幾説もあります。向うが冷たくなったのだし、此方も心変りがしてやりたいのに……憎まれていながらあの人が愛しいなんて。ええい恥辱……と舌打ちしているのです。
二八九番。

★ いとほしいと言うたら 叶はうずことか 明日はまた讃岐へ下る人を

☆ 或る解に、「いとおしいと言ったら、かけた思いがかなわないことがあろうか。明日は再び讃岐へと下ってしまう方を」とあるのは、前半の取りようが逆でしょう。「いとほしい」とさえ言うたから「叶」う願いならばいいのだが、もう叶う話ではないのです、という意味でないと通らない。これは切ない湊の別れ歌です。
2021 6/11 234

* さ、もう一日ガンバッて、送りだしてしまおう。今回の「湖(うみ)の本152 153」は、話題を選んで揃える従来の「濯鱗清流」や「流雲吐月」らと替えて、令和二年、365日の「私語」を通してみた、見直してみてこれが存外に興趣のいい感じの散展になり、私も、時世も、顧みやすい。抜き刷りを手に気ままに読み返すのが、煙草一服(その宜しさは識らないのだが)ふうの、いい休憩になる。
2021 6/11 234

* 今度出来てきた、「湖(うみ)の本 152 綽綽有裕」 気に入っている。そうか、こんな風に暮らしてきたかと分かりがいい。どのペイジをあけても私の「言葉」が弾んでいる。
2021 6/11 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  愛欲と孤愁 そしてめぐる春

★ われは讃岐の鶴羽の者 阿波の若衆に肌触れて 足好(よ)や腹好や 鶴羽のことも思はぬ

☆ 「われは」と謡い出し、「讃岐(香川県)の鶴羽」「阿波(徳島県)」と地名をよみこんでいます。例はあるが、閑吟集ではむしろ珍しい。船乗り同士の男色と読んでいる人もありますが、微妙なところ。

★ いとほしいと言うたら 叶はうずことか 明日はまた讃岐へ下る人を

☆ の前歌を受けるなら、「阿波の若衆」をいっそ遊女と読むのが分かりいいのですが、「若衆」の用例はやはり男の場合が多い。
それでもなお、「鶴羽のことも思はぬ」は、鶴羽の女が、鶴羽の土地で「若衆」に触れて思う思い方ではない。男が「阿波」へ出むいていてこその 「思はぬ」 思い出さぬ、のではないでしょうか。
私は「阿波の若衆」を阿波の美い女の意味に読んでおきます。
「足好や腹好や」は「肌触れて」の満足感です、何をか言わんやという露わな表現です。
2021 6/12 234

* 今日は創作へ手をかけ、想ひという火矢をやたら八方へ飛ばしていた。体調を崩すわけに行かない、もう階下へ降りた方が無難なようだ。
2021 6/12 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

★ うらやましや我が心 よるひる君に離れぬ

☆ これは面白い。我が身と我が心とをわざと切離して、我が身に身を寄せつつ、我が心を羨んでいる。よるひる君に離れぬ「心」を苦しいと思うのが、万葉集の昔から恋の感情でしたが。性の目覚めが十二分に深まっていることを思わせます。身近にいたい。それがこの時代の「世」の仲でした。そして今も。
二九二番。

★ 文は遣りたし 詮方な 通ふ心の 物を言へかし
☆ 「詮方な」とは、どう仕様にも手だてがないという嘆息です。幸い「心」は通うている。遣れない手紙に代って、わたしの恋心よ、あの人に物を言うておいでと願う。いつの時代の恋人たちにも通じる、やるせない、けれど巧みな歌いぶりですね。
二九三番。

★ 久我(こが)のどことやらで 落といたとなう あら何ともなの 文(ふみ)の使ひや

☆ 「久我」は山城国(京都市)の南によった地名です。文使いがだいじな恋文を落としてきたという。「あら何ともなの」は、まァどう仕様もない人ねえと呆れている。自分の文より恋人の文を落としてきたと読む方が、気がもめて歌が面白くなる気もします。どっちでもいいことですが。
さすがに、えり抜きの「恋」の小歌の数々、なかなかに味わいのある作がつづきましたね。
2021 6/13 234

* と、目に付いた本があった、『死ともののけ』著者は斎藤たま、新宿書房とある、つきあいは何も無い。
明けてみると 見返しに「贈呈 新宿書房」の札があり、「北沢恒さんからの紹介です、ご高評のほど。」と。北沢恒とは、両親を共にしながらいっしょに暮らした記憶のかけらも無い実兄北沢恒彦の長男の名。へえ、こんなこともあっただ、何でや、と全くない記憶をどう探ろうも覚えがない、貰っておいてやくにたつという内容でもない。本は、一九八六年九月の新刊とある。優に三十五年むかし、「湖(うみ)の本」を始めたころ、わたしは五十歳ころ、恒は同志社を出て、東京へもう出てきていたか、まだか、記憶がない。版元の副え状からするとがあるのだから新宿書房と恒とに何かの縁があったのだろう、私は、となると記憶がまるで失せている。すきなくもそこで出版したり執筆したことは無かっただろう、それも覚えない。恒が、いまどうしているかも全然知らない、「選集」や「湖(うみ)の本」は送っていたつもりだが、受け取っているという返事もない。
兄恒彦が、江藤淳さんのその年六月の自死とは無関係だろうが同年の末に自死してから、すでに21年もが過ぎた。私は生母の死を知らない、病院内での自死かも知れなかったとは後に触れ合ってくれていた人から幽かに聴いた。実父は一人暮らしの家で、近くに住む娘二人(恒彦や私からは異母妹)にも知られずある朝亡くなっていた。私は、生涯にそれと、父と認識して只一度寿司をツマミ合っただけだが、親族達からは、そんな父への「悼辞・弔辞」を強いられた。「しのびごと」を唱えるどんな想い出も持たない息子であったのに。兄恒彦のほうがまだしも生前の生母や実父と関わり合っていたようだが、父の葬儀には姿はなかった。兄の死が先とは想いにくいが、記憶は霞んでいる。
甥の恒は 上京後、一時我が家から遠からぬ下保谷に暮らしてよくわが家へ来ていた。あのころはよく話した。頼まれて、最初の結婚に大いに力も貸し、彼女の父親から結婚の許しが出るように大いに言葉を添えた。我が家へまでお父さんは訪ねてみえた。が、結婚したかと想うまに離婚したのか別に暮らしていて、もうその後のことは私たちは何一つ知らない。
死んだ兄がただただ懐かしい。じつはどんな暮らしで何に努めていたかなども、私は殆ど何も知らないのだ、知っているのは兄弟二人きりでの対話や交信の数々だけ、大切に保存している。兄の実生活や交友家系など、まるで無縁で、今も知らない。そういう人たちとの「北沢恒彦を偲んで語りあう会」にむろん誘われたが欠席した。どんなに私には馴染みにくい寄合いであろうよと。偲んで語り合うのは当の「兄恒彦とだけ」でよい、話題は尽きない。「恒、街子、猛(甥・姪)」たちとは、またそれぞれの機会次第でよい。
2021 6/13 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  暗転の不安 そして恋の歌謡

☆ 一つの歌謡に二つ、三つ、ないしはそれ以上もの重層する意味の寓されているのが、日本の詩歌、とりわけ閑吟集小歌の大きな特色です。表面の詞句はすぐれて雅びに、深層の情念はきわめて肉感的なのが特色です。そうあるべく歌詞は、歌の言葉は、ぎりぎりいっぱいに余分の表現、説明、具体化を切捨てています。それは潔いくらいに「しやっとした」ものです。感傷的でなく、いっそ思索的ですし批評的ですが、他者を論う態度でなく、ごく体験的です。
ただ、言葉の斡旋にふしぎに冷静な落着きがあって、ものを言い過ぎないために、個別の体験が広く共感され共有されて行くつよみがあります。独白に似た歌謡とみえて、じつは宴席の遊び歌でもある。寄合う男女が、時と場合に応じて口遊んでいます。しかも時と場合と男女の差、個人差で、歌謡の愬えるところが、色合いも、意味合いも、情合いも自在に変わるという、内懐の広い抱擁力を短い一つ一つの小歌がもっている。それが、閑吟集の面白さ、中世小歌の面白さであり、近世、江戸時代に入りますと、似て非なるもの、つまりあまりにも語り尽して雅致の乏しい、型通りな歌謡に固まってしまいます。

閑吟集が謡っている内容は、謡う者にも聞く者にも、切実なことです。いやおうなく情感が即ち実感です。しかも閑吟集小歌はいかにも言ずくなに控えめな表現をもっている。「我」をあらわにしないことで他者からの共感をたやすいものにしているのです。そうして連帯が生じ、「我々」という感銘の輪が広がります。語法の破格も、特異な省略も、会話のような歌、唱和の歌、演劇的な歌も、すべてこの共感による連帯へ時代と階層の地盤を拡げたいという、隠された動機をはらんでいます。恋する男女の「世間」が出発点で、そういう世間の連帯した「現世」が目標です。この距離は、近いようで遠く嶮しく、無常の相を帯びて夢とも現とも知れぬ「虚」を人々に手さぐりさせます。

人は心細い孤立を感じて生きている。だから社交の場、寄合うための会所をいつも求めている。会所での共通語として小歌が謡われ、一味同心のために茶の湯がたしなまれたと言っても、過言ではなかったでしょう。
何度確かめてもいいことは、閑吟集編者の意図は意図として、これら小歌の類は、なにより実際に謡われていた。ひとりの眼で、読まれていたというのではないのです。だから、どんなにポーノグラフイックな底意の凄い小歌も、言葉は清潔にはずんで、力づよく、手厚く、十分に磨きぬかれています。都会的に洗練されているという以上に、伝統の文化から必要なだけの滋養をとりこみ、しかも華奢に脆弱いというところがない。いっそ図太いくらい、じつは、どの歌謡も物を十分言い切って、すさまじいほどなのですが、しかも、きりっとした抒情味を崩していない。流石に、これは公家(都)の文化性に加えて庶民(鄙)の積極的な時代性が、つよい挺子入れをしているからでしょう。

例えば、こんな視点も大事です。貴種流離といって、都の貴人が僻遠の地に流されて憂き艱難をつぶさに味わうという物語、説話、伝説は必ずしも新しいものでなかったのですが、逆に、田舎から都へ上って貴人となる話は、漸く閑吟集の時代に人々の関心にこたえはじめたのでした。お伽草子といわれる分野に、その種のお噺は、文正草紙など、かなり初手から人気をえています。都鄙と貴賤との交流は、もとより梁塵秘抄の昔にすでに顕著で、背景には武家擡頭そして全国的な戦乱といったことがあったのですが、閑吟集の時代になると、衰弱した都(権勢)の文化を田舎(衆庶)が肩代りしようほどの意欲を、持つ気なら持てるし、現に持ちはじめるところへ到達していました。

多くの小歌に触れていると、そこに嘆きも悩みも淋しみも謡われています。それなのに、総じて歌謡の担い手たちが、さも「自由」に「遊」んでいることに驚嘆を禁じがたい。なるほど人買い船は出て来ましたが、むろん悪しき状況にちがいないが、いわば人を売り買いする自由までが謡われている。この無拘束な自由の中に孤心の自覚が沈んでいて、しかもなお、梁塵秘抄にははっきり見えていた後世・来世への不安のようなものが、かき消えたように見えない。後世安楽や往生極楽を願望している歌謡が、たいへん少い。ほとんど見つかりもしない。
ところがこの時代はあの蓮如の生涯に重なっているのです。一向念仏の教団は多くの一揆のかげで社会革新の強い挺子の役をしていました。念仏の徒が動けば法華の信者も動いて来ます。ある意味で過激な信仰が日本列島の土壌を変質させたくらいに浸透して行った時代でした。しかも念仏や題目を唱える声々が、閑吟集にはない。編者を、かりに禅に近い人と見て、そのためかと考えてみても、その実・閑吟集に顕著な禅趣味もまるまる認めがたいのです。むしろ伝統の日本的な文藝趣味と、例えば詩経に倣うような趣向こそが、編者の教養素養の質を示唆しています。

編者がいかに世捨て人であろうが、閑吟集歌謡がただ遁世者の好みなり考えなりで取捨されているとは言い切れないのが、閑吟集の二重性格です。しかもこの二重を渾然の一層と眺めてなお、そこに念仏も禅も法華も、また広く神や仏も、もっと広く土俗民俗の信仰や伝承さえもさほどは含んでいないのが、また大きな特色です。この時代にそれら信仰がとくべつ稀薄だったととても言えない環境下で、なおかつそうなのです。
『閑吟集』が、この複雑で流動的な時代を全面的に代表していたなどと言ってはならないでしょう。そういう一般論を言わせないのが「古代」ならぬ「中世」本来の姿なのですから。

けれど、そういう多面多様の「中世」とあって、『閑吟集』が、だからこそすぐれて特徴的にその大きな一面を照射し代弁しえているということも、これは断言していいことです。その一面とは、譬えれば「自由」に「遊」べた陽気横溢の中世です。この陽気と、「不自由」の中で「遊」んだ近世の陽気とを対比し、真贋のほどをさまざまに検討し吟味するのもだいじなことで、少くもそのための適切な視座を閑吟集小歌は提供してくれます。
「自由」といい「不自由」というとも、それは、最初の章で触れたようにそれぞれに双刃の刃です。それを心得ながら「中世」を検討し「近世」を吟味するのでなければ、正しい「現代」の立場もえられない。

私が読んでいますと、まるでポーノグラフイックな怪しからん歌謡集のように読者は思われ、いささか好意的な方でも、怪しからんのは『閑吟集』でなく、読み手の秦恒平であると、顔をしかめて爪弾きなさるかもしれない。それも自由ではあるのです。
しかし閑吟集の時代は、まさに私の読みを成立たせるような歌謡の流行を、自由に成立たしめえた時代として評価さるべきなので、私は、評釈者の義務からも、野暮なくらい言葉数多く克明に読み解こうと致しましたものの、さて原詞句を口遊みまた黙読して、そこに健康な陽気こそ溢れていても、陰湿で淫靡な猥褻感の全く感じられないことだけは、認めていただけると思う。これは中世人がここへ来てかちえていた「自由」の質の、まだまだ純真で高貴だったことを証しているのでしょぅ。近世ともなれば、これが形骸化しつつ陰湿化します。淫靡にもなります。しかも型通りに嵌まりこんで行きます。こんな調子です。

★ 其様(そさま)ゆへにぞみだれ髪、 解きし下紐かず重なりて、 無理に実(じつ)からいとしゆてならぬへ、 ややともすれば閨の内より、 手を叩いては水くれよ、 夜は何時(なんどき)ぞ、 帰らにやならぬ、 急かせ言葉の無意気(ぶいき)の時は、 神(し)ンぞつらいは勤めのこの身、 心を配りて気をとりて、 限りもあらぬ玉章(たまづさ)を、 夜明けぬうちに認(したた)めて、 ここや彼処(かしこ)とやり繰る辛さ、 恨みられては恨みもしたり、 あら恐ろしの誓の詞、 この行末を何とせん、 可愛がらんせ流れの身

☆ 『松の葉』という、江戸時代の歌謡の集から「川たけ」を抜いてみました。『閑吟集』小歌の七つも八つもを綴れに織って組唄にした趣があります。伴奏楽器はむろん三味線に変わっています。
むろんこうなるまでに、幾段階かがある。梁塵秘抄より閑吟集に至るまでにも、大きく眺めても平曲や謡曲があり、宴曲(早歌)がありますし、閑吟集の成立に前後して狂言小謡がもてはやされ、追随して『宗安小歌集』や『隆達小歌集』が世に出ます。
また田歌、囃田の系譜を綜合して、古来の農耕神事歌謡を集成する幾つかの試みもあった。中でも『田植草紙』のような優秀な歌謡集があり、『閑吟集』などいわば非農民系歌謡に括抗する、農民歌謡の伝統を保っていました。田植仕事の順に応じて、朝日、朝霧、ひるま(昼食)、酒、酒の肴、日暮れ、日没、月の輪などを唄い囃して、早少女たちの作業を励ましかつは呪祝の祈願をこめています。『田植草紙』の、朝の歌の一つを次に挙げてみましょう。読みやすく、漢字をあてるなどしてみます。

★ 昨日から今日まで吹くは何風
恋風ならばしなやかに
靡けや靡かで風にもまれな
落とさじ桔梗の空の露をば
しなやかに吹く恋風が身にしむ

☆  『隆達唱歌』の小歌は、およそ時代も天正頃(一五七三-一五九一)に、名も高三(タカサブ)隆達の手で主に作詞作曲され、一世を風塵どころでなく、遠く江戸末期の歌沢節や近代詩歌の創作にまで余響を誇るものとなりました。

* 人間「だけが言葉」を持っているとは謂えまい、が、ことを人間社会にのみ限っていえば、人の用いる「言葉」の品位品質は、むろん「用い方」とともに、たいそう大切にその「人」への信頼にかかわる。いま日本の社会で「言葉」の質を最も下品に貧相に拙劣にゆがめるのは、どうも、耳に目に届いてくる限り、総理大臣、大臣以下、代議士達に到るまで「政治にたずさわる」人たちが、それも高位の責任者ほど我勝手に乱脈で拙劣なようで、嘆かずにおれぬ。彼らは権力を笠に相手や市民・国民を見下しざま脅しも懸けてくる、昂然と、平然と。「ガラのわるい」「下品な」「教養に欠けて程度の低すぎる」諸大臣、諸党人をどんなに大勢見続けてきたことか。明治時代の政治家達をいくらか調べていると、彼らの中にはどくとくな「言葉や文字の表現者」「書家」「読書家」が多かった。人の上に立つ誇りを常平生の教養・表現力が支えていた。軍人にしても最低でも将校級からはおそらく「軍人勅諭」や「教育勅語」に敬礼しての節度と表現を日々の「言葉」に持していた。
一つには、彼らは、国民・市民ではなく、「お上」「天皇」の存在を常に念頭にしていた、ナイショにも無礼は赦されぬ時代だった、今の腐った権力者には総理大臣以上に気を遣い媚びへつらう先はなく、部下、下級者や国民はまさしく目下扱いして当然と観ている。言いたい放題の下品さはそこに発している。
「天皇制」には計り知れぬ害もあり、逆に、大きな利、悪しき権能行使への抑止力もある。よくよく考えたい焦点になってきた。
2021 6/14 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  暗転の不安 そして恋の歌謡

☆ 『隆達唱歌』の小歌は、およそ時代も天正頃(一五七三-一五九一)に、名も高三隆達の手で主に作詞作曲され、一世を風塵どころでなく、遠く江戸末期の歌沢節や近代詩歌の創作にまで余響を誇るものとなりました。よく知られた、

★ 君が代は 千代にやちよに さざれ石の 岩ほと成りて 苔のむすまで

☆ は、隆達唱歌の劈頭を飾る小歌で、ここにいう「君が代」は、天皇や主君をさすというより、一般に「あなた」の御寿命は、と祝う意味になる。この歌じたいは隆達の創作でなく、先蹤のあるものです。また、

★  種採りて 植ゑし植ゑなば 武蔵野の せばくやあらん わが思ひぐさ

★  君ゆゑならば雪の野に寝よよ よしや此の身は消ゆるとも

★  叩く妻戸は開けもせで 先づは明けたよ ほのぼのと明けた

☆ などの歌が含まれています。総じて閑吟集のそれより一段と歌詞の整理がすすんで、情緒も淡泊ですが、その分、品よくととのった優しみが人気を呼んだのでした。
狂言小謡は閑吟集にも幾つも採られていましたが、

★ あわわあわわ てうちてうちあわわ かぶりかぶりかぶりや めめこめめこめめこや やんまやんま棹の先に止まり やよ 雁金通れ 棹になつて通れ 往んで乳飲まう 乳飲まう

☆ と、乳呑み児をあやす噺し詞など、今だに京都の町なかで耳にしますし、

★ よその女臈見て我が妻見れば 我が妻見れば 深山の奥の愚痴猿めが 雨にしよぼ濡れて ついつくばうたにさも似た

☆ などと、にくたらしいのもあり、閑吟集は、これらから相当慎重に、編集の意図をよくよく貫いて精選されていたことが、改めて、認識されます。
2021 6/15 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆  閑吟集  暗転の不安 そして恋の歌謡

☆ 私たちは、かりに閑吟集小歌をいかにも面白う読んでいる時も、同じ時代に他方で平曲や謡曲などの異なる藝能も広く愛好されていた事実を、頭のすみに心得ていたいと思うのです。あれもあり、これもある。そういう多彩な多面性こそ「中世」が「古代」と容子を異にする歴史的な特色なのですから。
すでに、人買い船の小歌を読みました。人買いといえば私たちは山椒大夫という物哀しい説話を知っていますが、これを語った簓説経も、やはり閑吟集の時代を受けつぐ勢いで、中世の末期には民衆を感涙にむせばせたものでした。
以下は・わが子安寿と厨子王とを遠退く舟に奪われて、自身は子らの乳母「うわたき」と二人、海上を別の方角へ売られて行く母御台の、悲痛な叫び声です。

★ 「やあやあいかにうわたきよ、さて売られたよ買われたとよ、さて情なの 太夫やな、恨めしの船頭殿や、たとえ売るとも、買うたりとも、一つに売りてはくれずして、親と子のその中を、両方へ売り分けたよ悲しやな」  宮崎(西国船)の方をうち眺め、 「やあやあいかに姉弟よ、さて売られたと よ買われたぞ、命を庇へ姉弟よ、またも御世には出ずまいか、姉が膚に掛けたるは、地蔵菩薩でありけるが、自然姉弟が身の上に、自然大事があるならば、身替りに御立ちある地蔵菩薩でありけるぞ、よきに信じて掛けさいよ、 (以下略)」

☆ やがて絶望した「うわたき」 は、

★  舟梁につつ立ちあがり、しゆへんの数珠を取り出だし、西に向つて手を合 わせ、高声高に念仏を、十遍ばかり御唱へあつて、直井の浦へ身を投げて、底の藻屑と御なりある、御台このよし御覧じてさて親とも子とも姉弟とも、 頼みに頼うだうわたきは、かくなり果てさせ給ふなり、さて身はなにとな るべきと流涕焦がれて御泣きある。

☆ 平曲や謡曲の詞にくらべて、簓といったひなびた竹の楽器を伴奏に、格段に庶民の肉声が同じ庶民の耳に胸に、ひしひしこたえて響くふうに語っていますね。どういう調子で語りかつ謡ったものか私にはしかと判じかねますものの、やはりこの線上に近世の浄瑠璃や近代の浪花節を想っていけなくはないでしょう。
何にせよ閑吟集の小歌とても、前後する同じ時代に孤立した歌謡でも藝能でもなくて、周辺にかくもいろいろの語り物、謡い物の存在を自覚しながら、言わず語らずにそれらとの交流交渉をもっていたわけです。それを承知し、その上で室町小歌なる特色を主張するのでなければ、いけなかろうと思います。
2021 6/16 234

* 老耄を、当たり前のように受けとり受けいれては成らぬ、しかと向き合うべき相手と思う。そう思って努めると訣めた、刀折れ矢尽きてもそれは仕方ない。攻勢も守勢も無い。「方丈」は、生死をはかる場ではない。生きて在りつづける場である。
2021 6/16 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆ 暗転の不安 そして恋の歌謡

☆ 何と言っても閑吟集小歌と括抗するのは、その一部分を採ってあるというものの、宴曲と謡曲でしょう。平曲や太平記のような叙事的な語り物や説経節を、直にとりこむことはなかったのですが、早歌(宴曲)や大和節、近江節また田楽節などの謡曲は、閑吟集編者が吟詩句などとともに、大きな取材源として注目していたことは確かです。
出典未詳の謡曲、大和節ですが、ここで改めて七四番を挙げておきましょうか。

★ 日かずふりゆく長雨の 日かずふりゆく長雨の 葦葺く廊や萱の軒 竹編める垣の内 げに世の中の憂き節を 誰に語りて慰まん 誰に語りて慰まん

☆ また一四○番は、曲名不詳の田楽節謡曲から採っています。

★ 今憂きに 思ひくらべて古への せめては秋の暮れもがな 恋しの昔や  立ちも返らぬ老の波 いただく雪の裏白髪の 長き命ぞ恨みなる 長き命ぞ恨みなる

☆ こう口遊むだけで、謡曲がおよそ小歌と調子のちがう詞章であるとよく分かります。それにもかかわらず、閑吟集の全体に巧くなじむように気を遣って選ばれている。これも、よく分かりますね。
2021 6/17 234

* かねて手掛かりの小説二つをどうどっちを先に押そうかとまさぐっている。道がどっちへどう広がっても、なま易しくはないが、進むしかないない道と分かっている。
何よりも健康な、健康と謂うに近い体調で行かないと力負けしてしまう。
2021 6/17 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆ 暗転の不安 そして恋の歌謡

★ お堰(せ)き候(そろ)とも 堰かれ候まじや 淀川の 浅き瀬にこそ 柵(しがらみ)もあれ

☆  「堰く」は、水の流れをせきとめるのですから、川や瀬に縁の言葉ですが、ここはいくら二人の恋路を堰こうとしてもムダですよと主張している。恋を堰くしがらみ(堰堤=えんてい)は、あの淀川ではないが淀んで勢いのない瀬にこそ可能でしょうけれど、わたし達のように勢いづいた恋の川が、どうして堰きとめられますものか……と。お熱い恋人同士が意気軒昂といった歌声でしょうか。

★ 来し方より 今の世までも 絶えせぬものは 恋といへる曲者 げに恋は曲者 くせものかな 身はさらさらさら さらさらさらさら さらに恋こそ寝られね

☆ 「さらに恋こそ寝られね」が可笑しいですね。説明の要もない内容です。恋をしていると、何かの歌にも謡われていたあの笹の葉に霰ふる、さらさらさらの音にさえ眼が冴えて、とても寝られないと、独り寝を謡うのか。そうではなくて、身は「さらさらさら」とすべて脱ぎすてて、こんな逢う瀬に、寝てられるものですかと 共寝を謳歌しているか。
2021 6/18 234

* 京都の画家池田良則さん、京の四季を絵と文とでスケッチの四冊に添えて宇治の煎茶を贈ってきて下さった。池田遙邨画伯のご子息、私の新聞小説『親指のマリア』に挿絵を゛連載して頂いた。もう久しいことになる、懐かしい知己のお一人である。

* 私は、もともと、小学校の昔から親友といった相手を滅多にもたない、もてないタチだった。友達よりも真の身内に飢えていた。そしてほぼ七十年、わたしは、心許し合えるいい友や知己に豊かに恵まれている。懸命の仕事が近づけ有ってくれた知己である。わたしは、根が非情・薄情には生きて行けないタチであった。挙げろと云われれば四十や五十の大切に思い思い合う人を、すぐさま挙げられる。創作と出版の営みが迎えとってくれた親しい人たちが、いつも身近に感じられる。

* 私には、京都・故山故水という不動の世界があり、それは歴史へ遡り行ける不動の道になっている。豊かな栄養がとめどなくえられる。ただの知識ではない、血の通った人たちとの関わりで真実親しめる世界、それは過去でなく現在なのである、未来ですら有る。この歳である仕方なく身内にも知己にも死なれるが、だから無に帰するなどと云うものでない。生死にも逢う逢わぬにも関係なしに知己は私に生き続けてナニ変わりもない。
2021 6/18 234

* 心用意もないうちに駆け込むように明日、桜桃忌、私には二度目の誕生日。翌日が父の日と。建日子が「レミ・マルタン」で祝ってくれている。さて、明日は、その「桜桃」だが。手に入っているか知らん。
2021 6/18 234

* 今回「湖(うみ)の本」は『綽綽有裕 コロナ禍と悪意の算術(上)』として去年の元日から六月末まで半年間毎日の「私語の刻」記事をとりまとめた。自然次回は『優游卒歳 コロナ禍と悪意の算術(下)』で去年後半の「私語」だけで纏まる。私が、本来別途の「創作や論述等々」の他に、日々の「読み・書き・読書」をこう続けて途絶えない「暮らし」を「形」で証したのである。こんなことを前世紀末からもう四半世紀、日々、欠かしていない。「毎日毎日 文章が書けるとは、驚いた」人もあったが、「創作的な物書き」を職とも人生ともするなら、当たり前のことと私は思っている。そして、存外にそれが「読め」て、我が身にもおもしろくハネ帰ってくるのに今度自分で気付いた。
「私語の刻」とは我ながら名付けたなと笑える。

* 京都から東京へ出てきて、作家以前に私がどう暮らしていたかは、創作やエッセイに直にはあまり書かれていない、その医学書院編集者時代が、この「私語の刻」で時折り私語されているのが、私自身のためにも有り難い。中身のうんと詰まった十五年だった。金原一郎社長 『鴎外學』の権威、碩学の長谷川泉編集長と出会えたことは、じつにじつに有難かった。いま医学書院の編集長は私の課で、新入社員として指導された七尾清君だと。理事の頃、ペンクラブへ誘って推薦した向山肇夫君も、新入社員で私の部下として絞られていた。遠い遠い昔話になった、医学書院の十五年。
2021 6/18 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆ 暗転の不安 そして恋の歌謡

★ 詮ない恋を 志賀の浦浪 よるよる人に寄り候

☆  恋を「し(志)」と懸かり、浪が「よる(寄る、夜)」とも言葉が懸かって繋がります。しょせん成らぬ恋の波を立てては、夜ごと思う人のもとへ寄って行くのですがと、「詮ない」恋を嘆く小歌ですね。男の歌とも、女の歌ともとれ、男女によっては「寄る」の意味が、通って行くとも、閨の内で迫るとも変わります。
女の場合ですと、「恋」とはあるものの、つれない夫へ、妻の「よるよる」「寄り候」と読みとりますと、また感じが一段深まる気もします。
「志賀」は近江の国、「近江」は「逢うて見」る意味に懸けて読む習いがあり、すると、男が女のもとへ(たとえ思う遊女なりとも)通うて、逢うて、けれど「詮ない」恋に受けとれます。
それとても女に逢うて帰る男の、いささかキザな凱歌めく口吻でもあるのが、微妙なところでしょう。

★ あの志賀の山越えを はるばると 妬(ねた)う馴れつらう 返す返す

☆ 京都の白川と、近江国とを結んで志賀峠を越えて行く古代の道があったのです。が、そんな実の山道というよりも、やはり前歌で言いましたとおり、「逢う見 = 近江」に女のもとへ山を越えて男が通う。自分の夫が出かけて行く。それを妻が嫉妬しているのです。狂言や歌舞伎の『身代(みがはり)座禅』を思い出します。
嫉妬の歌が閑吟集では奇妙に寡い。これはいっそ珍聞に属する小歌です。思う男(夫)とよその女の馴れあうさまを想い描いて「返す返す」憎く妬ましいのでしょう、が、読みようでは「寝度う馴れつらう 返す返す」といやが上に濃厚に想像し、激烈に嫉妬している辛さともとれます。「はるばると」「返す返す」の繰返しが対応して、女ごころに、ふっと物憂いあきらめももう混じっていそうな気もします。
二九八番。

★ 味気なと迷ふものかな しどろもどろの細道

☆ もとより迷う恋路の細道です。「しどろもどろ」の自覚がある。「迷」っている自覚もある。しかも引き返せないで迷いつづけている。それは「味気な」い、気はずかしい、辛い、憂いことと承知でいて、いちまつ迷うことにさえつい満たされている物思いもあるのでしょう。
恋から人生へ、趣を移し広げて読むことの可能な、半ばもう醒めている夢ほどの、寂しみももった小歌です。
2021 6/19 234

* 桜桃忌。 太宰治文学賞により「作家」として立つを得て52年になる。縦横に手足を働かせてほぼ悔いなく働いて来れたし、まだまだ先は有る。桜桃は手に入らなかったが、建日子の祝ってくれたレミ・マルタンで乾杯、とにもかくにみコロナ禍の日々とも戦い克って行きたい。宮沢明子の澄んだピアノがガルッピのソナタを綺麗に弾いてくれている。
2021 6/19 234

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☆ 暗転の不安 そして恋の歌謡

★ ここは何処 石原嵩(たうげ)の坂の下 足痛やなう 駄賃馬に乗りたやなう 殿なう

☆ これは珍しく、まことに素直な男女の語らいそのままで、しかも「殿なう」ねえェあなたァと甘えてせがむ若妻か、恋人か、妹かの声音ばかりか道なかばでの姿態までが、生き生き再現されています。
「石原嵩」を岐阜県は関ケ原近在の実の地名と拘泥する必要なく、むしろ、石の多いごろた道の難渋を想ってみる方が大切でしょう。宿駅に備えた駄賃馬は、こういう際にはありがたい旅の乗物でした。「殿」は、えらい殿様のことでなくて、女から男への親しい敬称でした。
ふしぎに心なつかしく、いい感じに迫ってくる、歌らしい歌に思えます。ところが、つづく三○○番を読むと、またべつの感じが加わります。
2021 6/20 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆ 暗転の不安 そして恋の歌謡

★ よしや頼まじ 行く水の 早くも変はる人の心

☆ もしもこれを、プンと怒ってすねている女の歌と読むと、前歌の、駄賃馬をせがんで甘えた女のそぶりに、わざと知らんふりの男の顔が可笑しく見えてきます。新婚旅行などという洒落たことはしない昔でしたろうが、かりにそれに近い道行を想像してみると、この深刻そうな小歌が、他愛ない痴話喧嘩の口説(くぜつ)とも、なり変わって読めますのが、面白い。この辺は、閑吟集の一つの効果でしょう。
但しこの小歌に限って読めば、いっそもう類型的な、定まり文句じみてもいます。
「早くも変はる」という一句に注目しましょう、むしろ遅きに失したかも知れないのですが。
「早く」は、これも閑吟集の鍵言葉の一つと読んでいい。例歌は、幾つでも拾い出せます。何かにつけて、ものごとが迅速に、束の間に、さっと、ちろりと、来ては過ぎて行く。その、「印象」という以上の「実感」を閑吟集歌謡の内に生きた男女は、例外なく抱いていたのにお気づきでしょう。それは王朝人が夏の短夜を惜しんだ程度の「早くも変はる」とは質のちがう迅速への嘆息でした。こと定まらぬ乱世を、いろいろに反映しての「早くも変はる」という厳しい見定めでした。
そう変わってははかないし、頼りない。けれど、必ずしもわるく変わるばかりではないという希望のもてるのも、この状況でした。必ずしも「早くも変はる」世の中に対し、泣いて嘆いて愚痴ってばかりはいなかった男女の生き甲斐のようなものも、それなりに閑吟集から認知していいでしょう。
2021 6/21 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆ 暗転の不安 そして恋の歌謡

★ 人は何とも岩間の水候(そろ)よ 和御寮の心だに濁らずは 澄むまでよ

☆ この三○一番は、二九九番の女の甘いせがみを受け、三○○番の女のすねた甘えをまた受けて、「しやっとした」男の、綺麗な返事と読めますのが、面白い。
「何といわ(言は)ま」と懸けてある。何とお前さんが言おうとも、俺の心は岩清水のように清いものさ。お前がそうドロドロした気分でふくれてない限り、いつも澄んだ思いでお前のことを俺は好いているさ。そんなふうに言い返している感じ。
むろん同じことを、まるで別の状況にあって男が言い、また女が男に言っても十分通じます。好きな小歌です。
2021 6/22 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆ 暗転の不安 そして恋の歌謡

★ 恋の中川 うつかと渡るとて 袖を濡らいた あら何ともなの さても心や

☆ 「中川」という名の川は問題でなく、恋の仲という懸け言葉を利かすのが狙いです。むろん「川」は「渡る」「濡らいた」の縁語です。「袖を濡らいた」を、ただ泣きの涙と取るばかりでなくて、恋のもっといろいろのアクシデントと取っても、よろしいでしょう。が、興趣は 「あら何ともなの さても心や」にある。
「あら何ともなの」に類する表現が、『閑吟集総索引』によると、五○・五一・一二七・二九三番そしてこの三○二番に重複しています。「何ともな」いは、今なら、大丈夫、心配ない、怪我はない、無事である、などの意味になりましょうが、閑吟集では、そういう語感じゃない。どう手の施しようもない、力及ばない、なさけない、まいった。そんな感じに使われています。これもすぐれて閑吟集らしい、ひいては室町時代らしい述懐ではなかろうかと思います。
恋になやむ、恋にはしる、恋に陥る、恋に袖を濡らすだけでなくて、多くの「世事」「人情」において我からのめりこむ我が「心」のあてどなさを、どうあっても制御しきれない、うまく舵がとれない。そういう嘆息が 「あら何ともなの」でしょう。
もっとも、昨日の、「早くも変はる」と同様に、だから失望し落胆し ものごとをなげて見捨てているというわけではない。そうあわてて誤解したくはありません。
2021 6/23 234

*どうかしてコロナに退散してもらいたい。思うまでもなく、一年猶予の完全な逼塞籠居に甘んじてきた。心身の衰えは無残の体に到っている。幸いに、読み・書き・読書そして「秦恒平選集」「湖(うみ)の本」の刊行という仕事もあったし家で酒も飲めた。食欲は激減した。おまけに外世間との窓である機械のネット機能が墜ちた。この情態はもう永くは耐え得まい。
幸いにお便りやお見舞いはつぎつぎに途絶えず頂いている、有り難いことだ。歌や音楽もいろいろに聴ける。だが、心身の活気は日々によわまり、よほど気を励まし続けねば危ない。ほとんどこれは泣き言である。警戒警報や空襲警報に怯えた頃のわたくしは幼い子供だった。有り難いことに生活に不安はない今の私たちはよほどの高齢で、健康の維持は精一杯、気の衰えにはなにとしても克たねば。来月下旬には一度目のワクチンが打てる。それを待ち、しかし同時に五輪不安の東京都に逼塞していなくてはならぬ。
私は、それでも、ものを作り出せる能をまだいくらか持ちこたえている。歌でよし句でよし文章も好きに書ける。いささかなり別世界へいながら飛翔できる。これを力にしたいと願う。幸か不幸か食欲もなく性欲ももとより無い。しかし想像力はまだあましている。こんなときこそ、また春蚓秋蛇の昔にかえり老境の掌説を書いてはどうか。

* 昨日は横浜の、私と年齢まぢかい相原精次さんが、往年の私家版創作集と、近時独自の古代学への意欲と展望の熱い永いお手紙を送ってみえ、今日は、京山科のあきとし・じゅんさんが、ささやかにも傘壽を記念懸命の歌句集を送ってみえた。お二人とも鬱勃とふくらむ創作への意欲をもたれている。心打たれる。私の読者にはこういう意欲を抱いた方たちが少なくない。
今日は、下関の大庭緑さん、「この一年余、秦さんのご意見をずっと参考にして、日々過ごして来たなと、改めて感謝です」と。四国高松の星合美弥子さんは、「ヤマボウシの白い花がさいています。湖(うみ)の本、お心づかいにより頂戴いたします由、ありがたくうれしく拝読させて頂きます」と。慶應義塾高等 学校国語部会の代表野津将史さんから、同じく慶應義塾大学三田メディアセンターからも丁重なご挨拶があった。

* いまは何としても、機械に「ネット機能を復活」し、みなさんの日々の思いと共鳴し合わねばと思う。「ネット機能をすでに内蔵した機械」は売り出されていないのだろうか。遺憾にも、もう私自身が機械に機能を設定するといった技倆はとうてい期待できない。 2021 6/23 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆ 暗転の不安 そして恋の歌謡

★ 花見れば袖濡れぬ 月見れば袖濡れぬ 何の心ぞ

☆ なぞなぞ問答です。問われて、答えますと、「その心は」とまた問われる。答えの寓する意味を重ねて訊ねられているのですが、ここは「何の心ぞ」の問いに「恋ゆえに」と答えても、それだけでは一応の返辞の域を超えていない。
何とまァこのわたしの「心」というやつは。そう呆れた「あら何ともなの」という嘆きをこの小歌は謡っているので、袖の濡れる理由や原因を問うているのではなかろうと思います。
自分の、どうしようもない「心」に、自分で呆れて吐息をついている。そこを読みたい。
次、三○六番。

★ 難波堀江の葦分けは そよやそぞろに袖の濡れ候(そろ)

☆ 難波の海から堀江の葦をそよがせて、舟で溯る。それは、障りの多い難儀なことだったようです。ものの譬えにも「難波堀江の葦分け」は、容易ならぬことを意味したのですが、ここは、その譬えをも恋しい人のもとへ心せく者の心象風景にとり入れています。
「そよやそぞろ」にと葦分けの物音を重ねて、露と涙とを「濡れ候」にふくませています。
むずかしい恋路を謡って、たいした巧さです。
三○七番。

★ 泣くは我 涙の主(ぬし)はそなたぞ

☆ これ以上の簡潔は望めません。「主」とは、涙を流させる原因、加害者、つまり恋しい「そなた」だというのです。
2021 6/24 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆ 暗転の不安 そして恋の歌謡

★ をりをりは思ふ心の見ゆらんに つれなや人の知らず顔なる

☆ 和歌の調子ですが、和歌と眺めてはつまりません。
どんなに冷淡な人であっても、それだっても、たまには此方の気持が察しられそうなもの。なのに薄情もの。いッつも知らんふりしてるよ、と、愚痴っぽい。
それでそこを一つとびこえて、男女の仲のいい、言いがかりとまで読んでみるのは、どんなものでしょうか。
2021 6/25 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆ 暗転の不安 そして恋の歌謡

★ 昨夜(よべ)の夜這ひ男 たそれもよれ 御器籠に蹴躓いて 太黒(ふとごろ)踏み裂く 太黒踏み裂く

☆ 本によって詞句に多少の差がある。二句めが「たそれよもれ」または「たそれたもれ」とあって意味不明なンですが、臼田甚五郎氏の解にしたがって、「だいそれたもの」と、まずは取っておきます。それでも、難解です。
「御器籠」は食器籠なみに読みましても、「太黒」が分かりにくく、全体に「夜這ひ男」のあやしさにうまくつなぎにくい。臼田氏はこう現代語訳されています。
「昨夜の夜這い男は、けしからぬ奴だ。御器籠にけつまずいて、踝を踏みつぶしたよ、踝を踏みつぶしてしまったよ。」
「太黒」を「踝(くるぶし)」とは、苦しい。しっくりしない。これは、やはり「夜這ひ」に相応の「けしからぬ」寓意が「御器籠」や「太黒」に龍めてあるとみた方が、率直です。
いずれにしても 「御器」も、それらを容れる「籠」も、ともに「容れもの」です。妙にご大層な、鈍重な、大きな容れ物めく印象を滑稽に与えながら、「男」が夜這いに近寄った「女」性のシンボルを嗤っているフシがある。「蹴躓く」という、むろん暗闇に関係したらしい表現のかげで、これはどうも「女」のどうしようもない感じ・寝相などを喋(わら)っているのだと私は想像します。こんな女か、しまった、と、鼻のあかい末摘花を抱いてしまった光源氏よりまだ品のない悔いの感じが、「蹴躓いて」に出ています。となれば、「太黒」は、「だいこく」と訓んで僧侶の女房かと持ってまわるより、端的に太くて黒い短い大根脚か、とてもゾッとしないが「夜這ひ」の「男」性自身を見てとった方が面白い。「踏み裂く」は、ありえそうになくてありえた、女の悲鳴か、男の己れ自身に対する粗相と想えば、滑稽感が横溢してきます。笑ってしまいます。
こうなると、「たそれもよれ」を、「だいそれたもの」と強いて分かりよく訓み直さずに、奇妙に可笑しな囃し言葉ふうにそのまま温存する方が、適切。「太黒踏み裂く」を二度繰返すのも、囃し立てて嗤う感じです。
おそらく、そうまで読むのは読みすぎだと、反対を唱えられる方もありましょう。けれど、それは、私が必要上(と言うのも、時代の隔たりもあり語感の跡切れもあって、現代人である私どもに理解がついつい届きかねるのですから)すこし露わな物言いをしている、それへの嫌悪感がつい顔に出るのでしょうが、小歌そのものは それほど露骨でも嫌味でもない。昨今の週刊誌や女性雑誌の見出し文字の、趣味も雅致も差恥心もないあんなえげつない刺激的表現から比較すれば、まことに閑吟集のエロチシズムなど、すぐれてポーノグラフィックな内容ではあれ、小憎らしいくらいに美しく、あるいは穏やかに言い表わされています。三○九番の「太黒踏み裂く」など、例外です。
それに、もう一度、閑吟集の編集方法をよく思い出していただきたい。ここへ来て、三○九番から結びの歌、大尾をなす小歌の三一一番までの三篇は、「御器籠」「花籠」「籠」が共通の「連想語」でして、ことに三○九番は、つづく三一○番へ親密に意をつなぎ、逆に言えば三一○番は三○九香の「籠」の意味を、明らかに受けとろうとしている。それが閑吟集の原則で、前提で、約束なンですから、当時の読者もここまで読み進めばそれを疑う人はいませんでした。現代の私どもも、もう否認はできません。
私の三○九番の読み、少くも「御器籠」の放埒なほどの解釈は、次の三一○番によってつよく支持されている気がしますが、さて、その美しい小歌三一○番を、ともあれ読んでみましょう。

★ 花籠に月を入れて 漏らさじこれを 曇らさじと もつが大事な
2021 6/26 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆ 暗転の不安 そして恋の歌謡

★ 花籠に月を入れて 漏らさじこれを 曇らさじと もつが大事な

☆ これこそは、傑作です。名作です。
表面の意味は字句の通りで、はや五百年近くを隔てても、とくべつ説明は要らない。が、この一篇の小歌に対し、「花籠に月を入れて、これを漏らすまい、曇らすまいと、心にかけて持つのは大切なことです」といった鈍い訳をつけただけで済ませていいとは、到底思えない。
「大事な」という詠嘆ふくみの断定に値するには、これだけの理解では、あまりに軽い。寸が足りない。
学問に身を入れる方が、核に反対する方が、金儲けの方が「大事」だよ、といった「由」ない比較に持ちこまれた際、低次元の知解や義解にもちこまれた際に、右の理解ではとても比較にもならなくなり、せっかく「花寵」の表現の美しさが、泥まみれの踏みつけにされてしまいます。そんな俗な比較を峻拒するほどつよい意味を、この小歌から断乎として読みとるのが「大事な」のです。
むろん一応の現代語訳を右のように付けておいて、訳者の臼田甚五郎氏はさらに注釈を加え、こう付言されています。「性愛を美しい比喩でうたいあげている。『閑吟集』一巻の構成を連歌百韻のそれに学んだものとすると、ここは挙句の直前の句で、『花の定座』に当たる」と。
浅野建二氏も、「女自らを花籠に、愛しい男を月に喩へた」とされています。が、「性愛」の比喩とは言われず、「漏らさじは浮名を漏らすまい、曇らさじは男の心を曇らすまいの意。男女反対の立場からも解さる」としておられます。
志田延義氏もまた、「花籠は女自身、月は愛する男の隠喩。月(男のこと)を漏らさじ、月(男の心)を曇らさじ」と解釈され、「漏らさじ」「曇らさじ」と韻を踏む点を指摘されています。
代表的な研究者三人の理解が、このようにして小歌の表面の表現を超えて、「比喩」「隠喩」に「男女の仲」を捉えている事実は動きませんし、私も、当然のことと思います。「喩」の深みを、どこまで探るかの問題だけが残るわけです。
臼田、志田両氏の物言いは「性愛」「女自身」「男」などと微妙です。私の方で率直な感想を言うと、どうもお二方とも歯切れがわるい。いっそ浅野氏の、浮名を「漏らさじ」心を「曇らさじ」という解釈の方が、「挙句」になる三一一番の歌意を誘って適切かつ明快とさえ言える位です。
が、もはや私にも先入主がありまして、この浅野氏の解では、物足りません。もっと徹して読みたい。
この歌は、けっして男が、または女が、一方的な感じで謡っているのではありません。男と女が「世」のただ仲に在って、むしろ力を協せて謳いあげている歌です。
「もつ」は、保つ、維持する、持続する、持ちこたえるという含蓄です。それを男と女とが双方から協力してする、のが、「大事」なのです。むろん「漏らさじ」「曇らさじ」も、それぞれに、男が願い女が思うことで、「心」が曇るなどと観念的なことではない。まさに目近に眼と眼、唇と唇、眉と眉とを近づけ合うている男と女との顔色を互いに「曇らさじ」と努めるのでなければならない。胸と胸とを重ね合わせた「世」の仲にあって、顔色が曇るとは、或る不如意、不満足、不十分な成行に気が萎え気が滅入るということでしょう。ものごとは、具体的に手強く把握するのが、いい。
「花籠」は、女の性器の譬えです。「月」は男の性器の譬えです。「入れて」は二人が結ばれた状態です。「漏らさじ」とは満たされた状態の持続と高潮とを望む、双方の願望です。
これでこの小歌を介して美しくも美しく合唱し唱和している男女の愛、「世」の平和は、完全無缺の「大事」を保ちえているのです。これこそが、何ものにも替えがたい価値だ「大事」だと言い切れる時、なまなかの他のものを持ち出されても愚劣な比較が峻拒でき、絶対境が主張できるでしょう。そういう思想、そういう主張、そういう自覚によってのみ、辛うじて批評できる外なる世界、よそなる世界、夢とも現とも頼りのない世界がこの二人の眼に見えてくる。
その上での日々の覚悟は、人それぞれに持ち、固むべきことなのです。
つまりこの小歌は、「互いに」「お互いに」という言葉を「漏らさじ」「曇らさじ」「もつ」「大事な」という言葉の前へ繰返し補って読めば読むほど、すばらしさの増す名歌です。
「性愛」にせよ、要は「愛」にせよ、一人では、男一人だけ、女一人だけでは「どうにもならぬ」ということを『閑吟集』は謡いつづけてきたのです。この三一○ 番は、その意味で大尾、結論です。連歌連句でいう真の「挙句」にもふさわしいのです。
つづく三一一番、閑吟集の最後の歌はこうです。

★ 籠がな籠がな 浮名もらさぬ籠がななう
2021 6/27 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆ 暗転の不安 そして恋の歌謡

★ 籠がな籠がな 浮名もらさぬ籠がななう

☆ 「籠がな」とは、籠が欲しい、見つけたいという願望の表現です。「籠がななう」は、その切実な強調です。「浮名」をもらすことのない「籠」、男と女とで双方から持ち合うて世間の思惑に壊れも潰れもしない「籠」、そんな美しい巣籠もりの巣に似た「籠」、母の胎内にも似て柔らかに奥深く優しい「女」そのもの「愛」そのもののような「籠」が、欲しいのです。
三○九番の「御器籠」では、道化て滑稽視されていたものが、一転して三一○番の「花籠」の美しさへやすらかに謳いあげられていました。中国の古典「詩経」にならって三一一番で結ばれる閑吟集三一一番最後の「籠」が、前歌の「花籠」の意をも立派に体していること、そこに祈願の籠もること、むろんです。
水ももらさぬ「仲」と謂いましょう。「籠」は、よほど工夫がないと水を漏らすのが本来です。水も漏らさぬ「籠」とは、語の本来の意味においてもともと不合理な不可能に近いもので、それを敢えて可能にしようとするところに、不可思議の愛が生れます。
三一○番の歌を、私は、ただ恋愛の歌という以上に、結婚生活に入った夫婦の愛の歌とも十分読めると思っています。
「結婚」とは、何でしょう。結婚式に招かれてスピーチを請われたりもしますので、それを考えることが、よくあります。
結婚するという人に、「よかったね」とか「いいわねえ」と言うのは、文字どおりごアイサツなのであって、そう言ってあげられるのはやはり心嬉しいものですが、もうすこし正直に言うならば、「これからが大変だね」とか 「しんどいでしょうが頑張ってね」 と言ってあげるのが率直でしょう。「結婚」とはそういうもので、男と女との取り組みとしては、最も倫理的な重みを内に包んだむずかしい人間関係だと思うのです。社会学、経済学、心理学、生理学、教育学、家政学などもろもろの中身をぎっしり抱きこみながら、夫と妻との根本を形づくる価値は、かなり本質的に「倫理学の領分」に属しているというのが、私の、考え方です。しかもいわゆる夫婦生活、性のある生活そのものが倫理として、つまり人間関係の根底として受取らるべきだと思うのです。性をただ心理や生理の問題で受取ってはおれないと思うのです。
夫婦生活が即ち性生活であるといった早合点は困りものです。性生活ないし性行為は、これを量的に勘定すれば、夫婦生活の全体の適宜な一部分を占めるだけのものです。が、また扇の「要」に似た位置も占めている。そこが夫と妻とを事実結ぶ結び目なのですから。その結び目を「もつが大事な」という認識は、技巧的、遊戯的なものでなくて 真剣であればあるほど、倫理的な判断であり努力でなくては済まぬ要、要点です。
さきの「籠」との聯想を喚び起こすならば、結婚とは、私は、満々と清水を張った大きな重い器のようなものと想っています。一組の男と女とが、力を協せてその器をよいしょと持ち上げるのが、結婚式なのだと思っています。
器に張られた水は、ただの水でない。それ自体が「夫婦である」という事実の、さまざまな意義や価値や責任の象徴です。彼らは 終生水を張ったその器を夫婦の証しとして「もち」支え、運び続けねばならない。よほど二人が「大事」に心を揃え力を協さぬかぎり、長い人生の歩みの中で、水は簡単に減りこぼれて、ついには喪われてしまうでしょう。並大抵の我慢や辛抱や努力では、充実した金婚式など迎えられないのが「結婚」という約束ごとの運命なンでして、世間には、とうの昔に水は涸れ、器さえなげうたれたような脱けがら夫婦が多いのも、けだし当然の厳しさと言えるくらいのものなのです。
だから、幾山河をなみなみと器に水を張ったまま、二人して持ち歩いて行かねばならない新婚の夫婦には、やはり、「これからが大変だね」という励ましとともに、「でも、おめでとう」と祝福してあげるのでないと、均衡のとれていない気が、私にはするのですね。痛烈で頑固で融通のきかない顔をして結婚生活というのはやってくる。それに意地悪くさまざまに試みられて、それでも互いにくじけないのが、佳い夫婦でしょう。器の水は一人の力ではこぼれてしまう。こぼさない為には辛抱がいりますが、また、こぼれて減らない器の水を、二人で日々確かめ合えている夫婦に、大きな不安はないのです。

* 去年の後半はずうっと毎朝、『愛の歌』を読み返していた。「歌」「短歌」「詩や句」を私は「こう読む」という実例を多々挙げて、こんにち、世を覆って蕪雑な、まるで「ごろた道を踏み惑う」ような「うたならぬ歌、短歌への抗議の気持ちを表現していた。最大級のことばでそを私の一代表の名著と謂うて下さった人もあった。何を詠ってもいいが「歌」は「うた」たる「まこと」の言語藝、文藝である。それが私の本意であった。
今年になって、歌謡『閑吟集』を、しみじみ読み返し、「歌」の「うた」たる「まこと」の言語藝、文藝を楽しんできた。それも、今日明日で締め括りとなろう。
2021 6/28 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆ 暗転の不安 そして恋の歌謡

★ 花籠に月を入れて 漏らさじこれを 曇らさじと もつが大事な

☆ 私の謂う意味を、もっと美しく もっと徹した親密さで 言い切り、謡いあげているのが先の「閑吟集三一○番」でしょう。
恋愛と結婚とを論じる場ではない。私の任でもない。要は、一組の男女の「愛」について問い、それも心だけで体はぬきといった愛ではない「心身充実の愛」について問う限り、閑吟集は歌謡三百十一篇のすべてを挙げて、「愛」の問いに答えていたと言っていいでしょう。
三一一番の「籠がななう」という願念は、比喩的に言えば、その同じ一つの籠の内へ、愛する男と女とがすっぽりと入って棲みたいという願望にほかなりません。そこに、二人の家庭、愛の巣、安住世界が広義に仮託されているのでしょう。「籠」の内で寄り添うかぎりにおいて、互いの運命を共有しようという不可思議の一心同体が願われているのです。
さて十六世紀の果て、西暦一六○○年には、天下分けめの関ケ原の合戦がありました。閑吟集は、同じその十六世紀がはじまって十八年めに成っていましたが、私たちが今日普通に読むことのできる『閑吟集』は、その一五一八年からちょうど十年後の大永八年(一五二八)四月に、「本の如く書写し了」えた写本に拠っています。
この十年間に、史実としていったい何事が起こっていたか。
閑吟集が成った翌る年の永正十六年(一五一九)には、北条早雲が八十八歳で死に、それより二年後の永五十八年には、後柏原天皇が、じつに践詐後二十二年にしてやっと即位式を挙げています。この年末から将軍は義稙から義晴に代るのですが、よほど歴史好きの人でも、即座に義晴が足利将軍の何代めに当たるのか言えないほど、将軍職の権威はとうに地に堕ちています。そして相も変わらぬ守護大名のなれの果てどもが、応仁文明の大乱の下痢後遺症のような小競合を、執拗くあちこちで繰返す中から、早雲につぐ戦国大名がぽつりぽつり擡頭してきます。武田・尼子・大内・浦上、朝倉などの名が史上に動きはじめます。その間に土一揆や徳政一揆が各地で頻発し、やがて一向宗徒が八面六臂に荒れはじめる兆候も見えて来ています。あの『七十一番職人尽歌合』が成るのは、さきの『閑吟集』写本が成ったその翌る享禄二年(一五二九)のことでした。
いわばこの十年、歴史的にはごった煮が一段と煮つまっただけの感じで、目立った政治的、文化的事件もなかったのです。が、たとえば千利休が、大永二年(一五二二)には生れています。すこし遅れて、天文三年(一五三四)に織田信長、五年に豊臣秀吉、十一年(一五四二)には徳川家康が生れます。但しこの三武将の時代になると、もう同じ小歌でも『閑吟集』のではなくて、隆達小歌や宗安小歌などが流行します。あの桶狭間出陣に際して織田信長が小気味よう「人生五十年」と舞うて謡ったといわれるのは、幸若舞でした。
それにつけて一言添えておきたいのは、少くも閑吟集の小歌には、舞い踊るという藝は付随していなかったろうということです。伴奏は主に尺八。しかし扇拍子や時に笛や小鼓も用いたでしょうが、起って舞うということがなかった点では、田楽や猿楽などの歌舞の藝とは別の、やはり梁塵秘抄系統の「謡う藝」なのでした。
2021 6/29 234

* 機械故障の負荷もあり 心身日々に消耗しているだけに、ムダなことは避け、酒もすこし減らし(?)、寝たければ寝、読みたければどっさり読書。
私用の400字 200字の原稿用紙を身のそばへ持ち出してあり、悪筆乱筆用捨なく思いついた先へ手紙らしきを走り書きして送ることにする。

* 明日で六月が往く。五輪前・五輪開会への七月は遺憾にも波乱は避け得まい、都議選どころかと想われる。京の祇園会はどうなるのだろう。祇園さん、石段下の夜景がしみじみ懐かしく目にうかぶが。八月の大文字、テレビででも見られるだろうか。なにもなにも無事でありたい。

* 気をいれて読み直してきた『閑吟集  孤心と恋愛の歌謡』も、今日明日でちょうど読み終える。気を入れたこういう「毎朝仕事」が、私の「日々」をそれなりに形作って呉れる。
2021 6/29 234

☆ 『閑吟集 中世庶民の 孤心と恋愛の歌謡』 を 楽しまれませんか。
一九八二年十一月 NHKブックス 日本放送出版協会刊    秦 恒平著

☆ 暗転の不安 そして恋の歌謡

☆ 元へもどつて、三一○番の美しい小歌を もう一度読んでください。そして口遊んでみてください。

★ 花籠に月を入れて 漏らさじこれを 曇らさじと もつが大事な

☆ 「お互いに」という言葉を、要所に補って読もうと、私は先に提案しました。それによって、これは、真に愛し合う二人の、「二人して保ちうる至幸至福の絶境」を謡っていることになると言いました。なにも結婚した二人とは限らない。真に許し合った男と女との「世の仲」を謡っているのです。そこに「最少限の世」を認め、そこに「最大限の世界」をさえ見入れようとする、それが「中世寄合」の、社会の、真の希求であり願念ではなかったでしょうか。その最も倫理化され美化された別乾坤として、茶の湯の「茶室と」いう「会所」が創造されましたが、現実にも、さまざまに 広くも狭くも多くの会所が造られ、各種の「寄合」が実現し、和敬の人間的構築が意図されて行きました。が、根本に、「この閑吟集小歌の三一○番」ふうな ひたむきな男女愛、恋愛、夫婦愛があって、封建的な主従愛にひそかに括抗し反撥するものがあった。その力でこそ 「中世」庶民は、武家封建体制の成立を「延引させえた」のではなかったでしょうか。
が、挙句の果ては、信長の、秀吉の、家康の天才的な武力がそれを抑えこみました、「天下布武」。そのかげで、

★ 籠がな籠がな 浮名もらさぬ籠がななう

☆ この願いも、庶民の政治的社会的自由とともに押さえこまれて、「安土桃山時代」という、一見陽気と見える〝黄金の暗転期〟に捲きこまれ、惨めに去勢されてしまったのでした。利休の死は、その意味で、私には印象的です。切実です。一つの時代が、一つの時代に屈した象徴のように見えるのです。
けれど、本当の闘いはもっと長くつづきます。利休が死に秀吉が生きのびたことが、永久に秀吉の勝利を意味してはいないことを、「私たちの現代」がどうかして証明したいものだと思うのです。
『閑吟集』は、明らかに「秀吉ならぬ利休」を支持しています。利休の茶が、秀吉の政治とはちがって、どこかで「漏らさじこれを 曇らさじと もつが大事な」といった人間的愛を願っていたからです。隠逸の風雅といった「ただ美の観点からのみ茶を」眺めるのは、中世に胚胎した会所の寄合藝能である茶の湯の素質を見錯まることになる。

☆ そうでした。閑吟集編者に連歌師宗長が擬されている、それ自体はたぶん証明の不可能なことではありますけれど、この宗長と利休とは少からぬ縁で結ばれていたのです。「大徳寺三門」は、その初層部分を宗長が秘蔵の源氏物語を売却した金で寄進し、上層の「金毛閣」を利休が自力で寄進してやっと完成したものです。しかも、この三門寄進が一つのわざわいとなって、挙句、利休は秀吉のために切腹死を強いられたのでした。
「挙句」とは、今もよく使う言葉ですが、先に臼田甚五郎氏の三一○番の解説文を引用の際にも触れられていたように、本来、これは「長連歌の最終句」を指しているのでした。百韻連歌の作法、約束として「挙句」の前に「花」を詠うのが定めで、それを「花の定座」と呼んでいた。この種の約束は、もっともっと詳細に定められていて、『閑吟集』でも及ぶ限りはそれを踏まえているはずなのですが、そんな煩雑なことはさて措いても、三一○番の「花籠に月を入れて」というイメージは、連歌的手法の約束にそむかぬ、周到な用意ではあったのです。
そして「挙句」に、「籠がななう」という切なる、願い──。
私は、私自身は、子どもの頃から或る動機もあって、この人の世の人をさして、三種類に分類する思い慣いをもってきました。
一等疎遠なところに「世間」を眺めます。その存在と尊厳とは承知も納得もしているが、今直ちに日々の関わりのない、いわば世界中の人々をさします。
次に、その「世間」から、日々偶然に、余儀なく、また必要あって接して行く、知り合って行く関わり合って行く「他人」という層が必然的に生じます。血族、親族、家族すら、私は、とりあえず「他人」に部類します。師弟、同僚、友人、近隣等々のすべてが、まずは「他人」に属します。「自分」じゃないのですから。
そして、その「他人」の中から 私は 「身内」を探し求めます。
人は、父母来生以前から本来「孤独」な存在です。世間という名の大海原に、我一人が立てるだけの島に佇立している存在として、寄りそうことの不可能な他人の島へ、「愛」を求めて呼びつづけている。それが「人」に定められた真の生きの位相です。ところが、この不可能への渇望が、或る瞬間に可能となり、しよせん不可能なはずの我一人しか立てぬ島に、愛する人(人々)と一緒に立ちえていると信じられる時と場合とが生じます。その人(人々)が「身内」です。それは真に価値ある錯覚、つまり夢なのですが、本来孤独の人間が、どうしてこの夢なくて孤独地獄に堪えられるものですか。
だから人は「愛」の名で真の「身内」を探し求める。偶然の親子より、必然の夫婦や恋人の方を私は大事な人間関係と考える、これが強い理由です。
お互いに、不可能を可能にしあえる仲、運命を共有しあえる仲が 「身内」同士 です。自分一人でしか立てない場所に、いつか一緒に立ってしまっている仲が「身内」です。断絶した親子、協力のない形ばかりの夫婦、偶然の血縁にもたれかかっただけの、きょうだい、親族といったものは、「世間」でこそなけれ、私の定義では「他人」でしかなくなります。血縁や法の保証が即ち「身内」を無条件に約束するなどという安易なことは、まったく私は考えてもこなかった。真に「身内」でありつづけるには、どんな間柄であれ、「身内」の価値を支え合うふだんの努力が厳しく求められるからです。
その意味で、『閑吟集』の挙句が示唆している「籠」とは、また「花籠」とは、私には中世とも現代とも限らない、人間の未来永劫に亘る、「身内」同士の本来の場所、家、世の仲を意味してはいないかと、思われてならないのです。
現存の『閑吟集』には、「挙句」のあと、こんな漢文の奥書が付してあります。訓み下してみますと、

★ 其の斟酌多く候ふと雖も、去り難く仰せられ候ふ間、悪筆を指し置き、本 の如く書写し了んぬ。御一見の已後は、入火有るべく候ふなり。比興云々。
大永八年(一五二八)戊子、卯月仲旬、之を書す。

☆ 「比興」は「非興」の当て字で、興もなくつまらない、という意味になります。が、たとえ私の読みや解説が「非興」であっても、『閑吟集』と、それを産みかつ生かした「中世」とは、尽きぬ興味、尽きぬ意義を、なおはらみつづけていると私は信じます。それがまた新たな価値を新たにどう産みどう生かすか。それはもはや読者や筆者の器量次第なのであろうと、私は、安んじてこの私の本の挙句に、二五五番の小歌を、もう一度挙げて、お別れを告げようと思います。

★ 人の心は知られずや 真実 心は知られずや       ──完──

2021 6/30 234

* 私の仕事に関わってくれる印刷所は、日本で一、二を競う大企業だが、大は大なりに膨大な人数が働き、社外の出版企業や版行製作依頼者との日々の関わりももの凄い。それだけにコロナ観戦の危険度も高いはずと優に予想も想像もされる。私も。それなりに「物」の受け渡しに気を配っている。全体に仕事の進行がやや遅れ目に推移している。私も、敢えて急ぐまいと気をつけている。いつも「当面要処理作業」を箇条で確認し確認して運転制御している。これを遣っていないと、何が何でどうなっているかが混乱して右往左往動顛してしまう。「当面要処理作業」の前後左右を箇条で把握している、それが「仕事」の整頓と進展とを可能にする。会社員時代からこれを励行し、だから仕事の遅滞なく、達成目標のいつも100パーセント以上を仕上げていた。「いつのまにそんなに仕事しているのか」と同僚にあきれられることが何度もあった。「当面要処理作業」の把握と実行、あえていえば、それだけのこと。
2021 6/30 234

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 菊ある道 (昭和廿六・七年 満十五・六歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

窓によりて書(ふみ)読む君がまなざしの
ふとわれに來てうるみがちなる

國ふたつへだててゆきし人をおもひ
西へながるる雲に眼をやる

まんまろき月みるごとに愛(は)しけやし
去年(こぞ)の秋よりきみに逢はなくに

朧夜の月に祈るもきみ病むと
人のつてにてききし窓べに
2021 7/1 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 菊ある道 (昭和廿六・七年 満十五・六歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

山頂は風すずやかに吹きにけり
幼児と町の広きを語る

さみどりはやはらかきもの路深く
垂れし小枝をしばし愛(かな)しむ
2021 7/2 235

* 歴史は、権力が文化を「名産」してきた事実を否応なく教えてくる、が、さて、「日本の近代と現代」とはどうであったか、どうであるか。明治から昭和初年まで、西欧のような記念碑的に豪快な建築所産などは遺さなかったが、藝術的・學術的には新局面を開いた。しかし敗戦後日本は、世界に向けて真に個性的な何を創造・創作し得てきたと謂えるのだろう。幸いに文学は潤一郎、康成、三島らを得たが、其処まで。哲学にも宗教にも、何ぴとも、おおと、思い当たらない。政治家もちいさく縮みきってロクなことはしていない。
天文学的に精緻・精巧の科学成果がある、が、一般に文化は、思想としても所産としても「映画」の外は沈滞ないし軽薄化し、碩学も文豪も名匠も名優も聞こえてこない。私は、恥ずかしい。

* 「湖(うみ)の本 154」の初校が届いた。丁寧な初校に没頭したい。或る意味、私の文藝のほんとうの発端を為しており、それが、わが人生ひとつの懐かしい結び目ともなる。
2021 7/2 235

* 夕食後、歌集『少年前』初校、途中でやすみ、『ホビットの冒険』をもう終える辺まで読みすすんだまま、九時過ぎまで寝入っていた。
終日、雨。機械の不調はそのままどうにもならず、なにもなにもじっとガマンしつつ出来る仕事をしたいだけして過ごす。そういう日々が、すくなくももう半年はかかるだろう。
2021 7/2 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 菊ある道 (昭和廿六・七年 満十五・六歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

うつくしきまみづの池の辺(へ)にたちて
うつろふ雲とひとりむかひぬ

みづの面(も)をかすめてとべる蜻蛉(あきつ)あり*
雲をうかべし山かひの池

☆ 高校日吉ヶ丘運動場の東端、崖の下が、大雨あれば清らに池を成した。
2021 7/3 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 菊ある道 (昭和廿六・七年 満十五・六歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

朝地震(あさなゐ)のかろき怖れに窓に咲く
海棠の紅ほのかにゆらぐ

山なみのちかくみゆると朝寒き
石段をわれは上りつめたり
2021 7/4 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 菊ある道 (昭和廿六・七年 満十五・六歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

刈りすてし浅茅の原に霜冷えて
境内へ道はただひとすぢに

樫の葉のしげみまばらにうすら日は
ひとすぢの道に吾がかげつくる
2021 7/5 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 菊ある道 (昭和廿六・七年 満十五・六歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

歩みこしこの道になにの惟ひあらむ
かりそめに人を恋ひゐたりけり

歩みあゆみ惟ひしことも忘れゐて
菊る道にひとを送りぬ

* 明け方であったろう、夢に、これ以上はない、それは嬉しいうれしくて嬉しい幸福な夢に、五体もはち切れそうに満たされていた。老いて夢にも斯くあるかと、忘れることは無いだろう。夢に感謝。
2021 7/6 235

* せっかくの余裕のとき、いまは強いて手をひろげるより、心身をやすませる。この機械クンのワープロ機能には幸いもっか異常がない。インターネットのことは、今はしいて考えない、世間様との機械を会してのお付き合いは、ま、この際は断念して済まそうと。

* 書いておきたい小説が幾つかあって、むろん、小説はいろいろの方法と展開する世界を異にする、当然にそう在るべき物なので、「どれ」を先に書き継いで仕上げるかの決心が懸命の課題になっている。
2021 7/6 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 山上墳墓 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

遠天(をんてん)のもやひかなしも丘の上は
雪ほろほろとふりつぎにけりに

あかあかと霜枯草の山を揺り
たふれし塚に雪のこりゐぬ

埴土(はにつち)をまろめしままの古塚の
まんぢゆうはあはれ雪消えぬかも

* 高校の在った日吉ヶ丘の東の崖、泉涌寺本山の南寄りに古刹の雲龍院があり その門前を西へ延びた崖上へ、戦士らの墓標のままみえる寂しげな小墓地が延びていた。私は、高校生時代、平気で授業中の教室を脱け出ては、東へ山寄りの泉涌寺や泉山陵、また南へ丘下の東福寺などへ、もっとの時は京都市内の寺社や博物館などへサボっていた。そのおかげで後に小説『慈子』や『畜生塚』などが書けた。大学受験のためのいわゆる受験勉強がイヤで、古典を読み角川からの「昭和文学全集」を買って全巻、各作家の作はむろん「年譜」までも、熱中愛読した。「京都という市街や四辺の郊外」にはどんな受験参考書より豊富に魅力溢れていた。それらから学ばない手はないと確信していた。京大、東大を受けて大學教授を目ざすり、無試験推薦入学で済ませ、「京都の作家」に成りたかった。泉涌寺来迎院や「山上墳墓」や東福寺境内で詠っていた時も、もう、そう思っていた。
「京都」は、どこをどう歩いても、ほんとうに有り難い懐かしい豊富な街だった。
2021 7/7 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 山上墳墓 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

勲功(いさをし)もいまははかなくさびしらに
雪ちりかかるつはものの墓

炎口(えんく)のごと日はかくろひて山そはの
灌木はたと鎮まれるとき

勲功(いさをし)のその墓碑銘のうすれうすれ
遠嶺(とほね)はあかき雲かがよひぬ
2021 7/8 225

* 自転車で、はだかの墓地や寺のひろがる下京寄りの街区を、はてもなく西へ走る、夢。お使いに行くのだ、が。いつか 四辺まるで不案内な「よそ」になって、京とも北多摩とも、もう迷走すら難儀な宛て知れぬ山地へ入っている。
そんな、同じ、または似た夢を、もう何十度見てきたか。凄く怖かったり、懐かしかったり、夢の断片を継ぎ接ぎすればややこしいかぎりの曼荼羅図になり、帰るに帰れず、そして小さな田舎駅からかつがつ電車に駆け込んだり、巨大な汽車駅のなかで時刻の遅れに追われて右往左往したり。突如として修学旅行客をとめるような宿屋の小部屋でとまどったり、貧相な湯に漬かったり、地下のプールとも温泉とも付かぬコンクリートの浴場へダイビングで游いだり、俄かに山中の小道に副うた家並みでどこへ案内を請うても人も声もなく、雨戸脇の細い一枚戸を押し開けると、まっくらな路地が底知れず暗闇へ陥ち込んでいる、振り向いても出入りの戸は失せ、足の爪先からほの明るんでながくながく続く身幅一つの路地、その両側には、路の奥へ奥へどこまでも狭く仕切られた裸の板間。乏しい明かり、じくじくと煮炊きの音、臭い。そんなどの間仕切りにも裸の男や女やこどもが言葉無く睨んでくる、のを逃げるように顔を伏せて先へ先へ進むしかない。

* なぜ、こんな狂おしい夢を、繰り返し私は強いられるのだろう。
六時四十分に、衝き起こされたように目覚め、ひとり二階へ来て、機械クンに朝の見参。
2021 7/8 235

* 八月近くなると、私は義務かのように、撮って置きの映画『沖縄決戦』を、自身に向かい観よと強いる。沖縄の全島、陸に、海に、空に悲惨を極めた惨敗のかげには、大本営の無謀、陸軍と海軍との無残な齟齬があり、まだ十歳余の少年少女らの惨逆な戦死も含め、民間にも軍兵にも凄惨の極と謂うしかない死骸の山が積まれたのである、それが、日本の現代史におけるあまりに苛酷な「オキナワ」なる意味なのであり、日本の現政権は、今にしてなおその「沖縄へ」不当限りない圧力圧政不平等を加えて羞じないでいる。
この映画、小林圭樹、仲代達也、丹波哲郎、加山雄三、大空まゆみほか錚々たる懐かしい俳優達が顔を揃えて、力作に相違ない、しかも、あまりに哀しい。空しい。おそろしい。
それでも私は、あの真珠湾を襲った『トラ・トラ・トラ』を観るよりも、この『沖縄決戦』に胸をかきむしられ、そして八月十五日前には、三船敏郎ほか若い俳優達が印象的に熱演した敗戦・無条件降伏映画『日本のいちばん長い日』を「かならず観よ」と自身に強いている、義務かのように。

* 空しくも空しく、すさまじい映画であった。
2021 7/8 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 山上墳墓 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

日のくれの山ふところの二つ三つ
塚をめぐりてゐし生命はも

しかすがに寂びしきものを夕焼けの
空にむかひて山下りにけり

山かひの路ほそみつつ木の暗(くれ)を
化生(けしやう)はほほと名を呼びかはす
2021 7/9 235

* 共産党の雑誌「前衛」に添えて、党中央委の最高幹部一人の自筆で、私へ感謝状が入っていた。
☆ おかげ様で、都議選は勝利できました。
いよいよ総選挙です。政権交代めざし頑張ります。  署名 拝
前世紀この方、私は「自前の名前だけ」にただ安座した「共産党」など、一部シンパ以外はその存在を支持も認めもしない、「政権」めざさない独り芝居の「共産党」に存在価値も意味もない、すべからく速やかに他の野党とも身を捨てての「選挙協力」を育成し保持し、いつか「政権」へ手の届くよう与党政権の独り相撲を土俵から押し出せと、苦情をつきつけ続けてきた。
私は共産主義にも共産党にもテンから無縁な一国民、一作家に過ぎないが、それだけに、「政権」を目指していないとしか見えぬ「政党」の存在に呆れ、且つ怒っていた。
偶然にも京都は、市も、府も、私少年の昔から「共産党」議員を出し続ける土地柄だった。私はそんな故郷議員の一人を二人を目指して直に苦情を言い、志位委員長へも、「政権へと歩もうとしない政党」の無意味さを書き伝えたことがある。彼は、近年の党指針に明らかに初めて「政権へ」の姿勢を示し明言していた。
近年、日本共産党のその辺が、明瞭に新たまってきたのを、おそらく多くが気付いており、先般の都議選での「立憲民主党」との協力は、ハッキリとした成果に表れた。
「立憲民主党」には福島原発で苦労した、私も励ました菅元総理があり、大學で後輩の賢い党幹部がおり、地元選出議員とも、元気ジルシの勉強家辻元きよみ議員ともそれぞれ私的に連絡が付いている。激励も謂える、苦情も言える。
或る程度の齟齬は「党」が異なるのだ当然あろう、が、自公政権をつよく揺さぶるのに「立憲・共産」の野党協力、合意協調は「理の当然・必至の姿勢」とみざるを得ない。 頑張って と励まさざるを得ない 「ガースー」政権の無能と独善を決然糺して行くには。ひっくり返すには。

* 日本の敗戦後「政党政治史」の最も大きな解明課題の一つは、「社会党(社会民主党)の崩壊」だろう。ある時期までは衆参国会議員の「三分の一」をほぼ常に確保していたのが、いまや福島みづほ議員のほかに誰がいるのというほど、影も消えかけている。
「社会党は何故こうなったか」
は大論文の表題たる恐ろしいほどの政治史的な要検討内容をもっている。だれかが本気で論考したのだろうか。政治学者にも政治論者にも保守の人があまりに多くて、だれも「勝って」しまった成りゆきには興味がないのだろう。しかし、これは単に勝ち負けの問題で無かろう。
金 国民 憲法
こう並べて 「金」が大事と仕向け続けた側が、 二言目どころかはなから「憲法」としか言わない頭デッカチの側から 厚かましく「国民」を吸い寄せたのだ。「土井福島一つ覚え」の「憲法」は、「自民保守」の二言目には「金・経済」の誘いに蹴飛ばされ続けて、「国民」たちもそれを仕方ないと「金」へな「金」へなびき続けた。
所詮は「国民」をアタマ「数」で掴まえねば成り立たないのが民主主義の「ええかげん」な仕組みなのだ。
ソクラテスが、最も理想的なのは、「神ともまがう聖帝」政治、これがやはり「一」だが、これが得てして「悪しき独善独裁」へ流れるので、余儀なく次善に「民主主義」をとらざるを得ぬと語っていたのを想い出す。
要は、「国民・民心・民意」の有効な把握が大事、国民に背かれた政権維持には不安も絡みついて安穏な維持は覚束ない。はては暴力や武力を振りかざす。
無残に壊滅した日本の社民党は、「国民」の中へ懸命に潜り込んで、そこにこそ政体の基盤を持たねばならなかったのだ、なのに口を開けば「憲法」と一つ覚えであった。世界史的に「憲法」盤石で國が続いた例はなく、おおかた政権独裁者に悪用ないしは無視されてきた。
今の日本でも、天皇さんの熱い願いも素知らぬ顔で、政権は、「憲法」など棚の上にただ祀りあげているだけ。国民は「金」に釣られる雑魚扱いされていて、それに怒る気も、希薄。
やれやれ。

* 幸い緊急を要して向き合わねばならない仕事・作業は無く、それでもこの時節の疲れや無力感や、肩凝りまでも避けがたい。逆らわず休息し、本を読み、そのまま昼寝もして心身の余分な強張りは避けようとしている。極度にも用心はしているが、一回目のワクチンまでに「八五老」の私たちは未だ十日の余も待機の日々がある。ちょうどその頃になってしまうが「湖(うみ)の本 153」の納品がある。五輪開始の日など今はアタマに無いが、いよいよ始まって放映があれば、それなりにアスリートの奮闘を応援しつつ楽しもう、本の発送は慌てずに、と思っている。五輪選手団に、また都内等に新感染者がどうか蔓延しないで欲しい、最悪の事態に誰も誰も陥らず、先ずは五輪を安らかにくぐり抜けたい。
2021 7/9 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 山上墳墓 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

うす雪を肩にはらはずくれがたの
師走の街にすてばちに立つ

三門にかたゐの男尺八を
吹きゐたりけり年暮るる頃
2021 7/10 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 東福寺 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

笹原のゆるごふこゑのしづまりて
木もれ日ひくく渓にとどけり

散りかかる雪八角の堂をめぐり
愛染明王わが恋ひてをり

古池もありにけむもの蕉翁の
句碑さむざむとゆき降りかかる

苔の色に雪きえてゆくたまゆらの
いのちさぶしゑ燃えつきむもの
2021 7/11 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 東福寺 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

雪のまじるつむじすべなみ普門院の
庭に一葉が舞ふくるほしさ

日だまりの常樂庵に犬をよべば
ためらひてややに鳴くがうれしも
2021 7/12 235

* 数字の推移を見る目に遊戯味が入ってくると、コロナであれ、何であれ増減に、事には増加に無意識に期待すらもってくる。感染者数が増えると驚きと共にどの辺まで行くかなどと想ってしまう。それが馴れの危なさで、わがことがよそ事に転移し、危険を薄めてしまう。そんなところへことに若い世代が無頓着に当面し、平然と、または得意げに路上飲みなどに自己表現して嬉しがる。
「アブナイ アブナイ」と「三四郎」君の先生=漱石は警告していた。まこと「アブナイ」「アブナイ」毎日ではある。
2021 7/12 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 東福寺 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

はりひくき通天橋の歩一歩(あゆみあゆみ)
こころはややも人恋ひにけり

たづねこしこの静寂にみだらなる
おもひの果てを涙ぐむわれは

日あたりの遠き校舎のかがやきを
泣かまほしかり遁れきつるに

* 混乱の時節 そう謂うしかない令和乱世である。政治は混迷、コロナ禍は増長、人心は文字通りに迷惑。なればこそ、私はどう疲労し困憊しようと狼狽してはならない。
2021 7/13 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 東福寺 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

冷えわたるわが脚もとの道はよごれ
毘廬寶殿(ひるほうでん)のしづまり高し

内陣は日かげあかるしみほとけの
心無罣礙(しんむけいげ)の祈願かなしも

右ひだりに禅座ありけり此の日ごろ
我にも一(いつ)の公案はあり
2021 7/14 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 東福寺 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

青竹のもつるる音の耳をさらぬ
この石みちをひたにあゆめる

瞬間(ときのま)のわがうつし身と覚えたり
青空へちさき虫しみてゆく
2021 7/15 235

* 電話もない、かけもしない。郵便もない、出してもいない。出掛けない、出掛けられない。

雷(いかづち)や世間は遠くなりにける

* こうなれば、とっておきの「過ぎ去りし」世界へ帰って行く道を見つける、か。

* 身の回りをかき回していると、「天から、ふんどし(と、子供の頃、京都で何度も聞いた。京都時代にはそんなビックリ体験は無かった。もっぱら東京へ来てから何度も体験した、太宰治賞も中国旅行も東工大教授就任も四半世紀もの京都美術文化賞選者も、)のような妙な記憶が掘り起こされる。びっくりしながら、大いに退屈が凌げる。ありがたし。仕事へも結ばれるか知れない。
2021 7/15 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 拝跪聖陵=泉涌寺 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

ひむがしに月のこりゐて天霧(あまぎら)し
丘の上にわれは思惟すてかねつ

朝まだき道はぬれつつあしもとの
触感のままに歩むたまゆら

木のうれの日はうすれつつぬれぬれに
楊貴妃観音の寂びしさ憶ふ
2021 7/16 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 拝跪聖陵=泉涌寺 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

道ひくくかたむくときに遠き尾根を
よぎらむとする鳶の群みゆ

ぬればみて砂利道は堂につづきたり
わが前に松のかげのたしかさ

をりをりに木立さわげる泉山に
菊の御紋の圧迫に耐へず
2021 7/17 235

* 昨夜、久しぶりも久しぶりに「NHK藝術劇場」放映の夏目漱石原作「心」を 「秦恒平脚本」「俳優座劇団」「加藤剛・香野百合子主演」で観た。「湖(うみ)の本」第二巻に戯曲『こころ』を入れている。35年ほども昔のことだが、ありありと想い出せる。懸命に脚本にし、また戯曲としても大きく創っておいた。妻も懸命に応援してくれたことが、場面のあちこち、科白のあちこちで懐かしいまで想い出せる。弥栄中学を一年さきに卒業していった上級生、「姉さん」と慕い生涯の「身内」と慕いつづけた今は亡き人が、「記念」にと、自身の卒業式の日に「贈」と署名し私に手渡して呉れたのが、漱石作『心』の春陽文庫本だった。『心』は私の聖書のようであった、どんなにも心を暑くして読み続け読み返したことか。
当時第一等の人気俳優加藤剛が、「心 わが愛」として脚本を書いて欲しいと言ってきたとき、私は胸の内で「姉さん」の名を呼んだ。「やろう、書こう、創ろう」と決心した。

* 先だっては高校国語の先生が玄関までみえて、私の『こころ』の読みに最大級の賛辞を呈して帰られた。コロナ禍をおそれて長く対話もならなかったのは申し訳なかった。

* 久しぶりに舞台から映像として按配した放映の劇に、ただただ見入った。あれはわが作家生涯のあちこちに遺してきたなかでも胸にしみたハイライトの一灯であったなあ。
2021 7/17 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 拝跪聖陵=泉涌寺 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

御手洗(みたらひ)はこほりのままにかたはらの
松葉がややにふるふしづけさ

ひえびえと石みちは弥陀にかよひたり
ここに来て吾は生(しやう)をおもはず
2021 7/18 235

* じりしりと夏灼けのまま、コロナ禍と政治禍との日々が圧を増してくる。
どうするか。

* 幸いに、私はさまざまの別世界を所有できている。すぐ創れる世界もすでに確保した世界も持っていて、こころを養い遊ばせられる。
人の手で創られたもの、書籍や映像でも、いつでもこころを養い労ってやれる。
幸いに八五老の豊富な記憶も幸いに生きている。そこには、モノ・コト・ヒトから受け取った悲喜こもごもの体験がまだ相応の生々しさで生き延びていて、好都合にも、イヤな思い出は好きに抹消でき、嬉しかったり良かったりした体験は相応の光輝を喪わないし、好き勝手に加乗も出来る。なによりもそれらを日々に「ことば」にして分かち持てる妻がいてくれる。

* いちばん願っていた横綱白鵬の、四十五回目、願ってもない「全勝」優勝の大相撲が観られた。もう百年二百年待っても、四十五回も優勝できる横綱はもう絶対に現れないと私は言い切る。勝ち相撲の激昂の表情に最高の美しい「男」を観た。解説のチビ男などが何をケチつけようとも、要は土俵上での「手」を尽くした「勝ち相撲」の15連続だった。偉業と頌え、私は、そんな横綱と時代をともにした嬉しさを満喫する。
負けはしたが大関照乃富士の大健闘にも心からの賞賛を贈る。彼が勝っていても私は賞賛を惜しまなかった。

* 美空ひばり、板東玉三郎、に加えて横綱白鵬、こんな完成された天才と世紀をともに生き得たのを私は喜んでいる。哲学と藝術の畑で、これほどの人らと出会えないままで死ぬるかと、寂しい。

* 腸をかき回すような作業にこのところ時間を掛けている。週明けにはワクチンの一回目の接種、その後へ「湖(うみ)の本 153」発送の力技が来る。それが済めば、しばらく時間を両掌にのせて楽しめるだろうと。力強く乗り切って行かねば。
2021 7/18 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 拝跪聖陵=泉涌寺 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

笹はらに露散りはてず朝日子の
ななめにとどく渓に來にけり

渓ぞひは麦あをみつつ鳥居橋の
日だまりに春のせせらぎを聴く

水ふたつ寄りあふところあかあかと
脳心をよぎる何ものもなし
2021 7/19 235

* 政治にも五輪当局へも愛想が尽きている。一歩も家を出られないのだから、苦情の告げようもない。ネット断絶で、思うことをだれへ披瀝も届けもならない。戴いたいいお酒を飲み、機械仕事で資料づくりし、疲れれば横になって読書し、そのまま寝入っていたり。
住居内熱中症も用心して避けねば。かんかんの旱りにポストへ走るほどの急ぎの用もない。思いようだが、一面、幸せなことに「太平楽」とは是かも。

* 日に日にキイを敲くのに失念や錯誤やとまどいがする。ま、自然の成り行きと思うが、「来たか」とも思う。気に懸けないでそれも織り込んで仕事するまで。
2021 7/19 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 拝跪聖陵=泉涌寺 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

新しき卒塔婆がありて陽のなかに
つひの生命を寂びしみにけり

汚れたる何ものもなき山はらの
切株を前に渇きてゐたり

羊歯しげる観音寺陵にまよひきて
不遜のおもひつひに矯めがたし
2021 7/20 235

* 佳いものは佳い、不快なモノは不快を極める、それだけの事ながら、佳いものは佳い、それが嬉しい。
2021 7/20 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 拝跪聖陵=泉涌寺 (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

岩はだに蔦生ふところ青竹の
葉のちひささを愛(を)しみゐにけり

はるかなる起重機(クレーン)の動きのゆるやかさを
しじまにありておだやかに見つ

目にしみる光うれしも歩みつかれ
「拝跪聖陵」の碑によりにけり
2021 7/21 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 光かげ (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

なにに怯え街灯まれに夜のみちを
走つてゐるぞわれは病めるに

ぬめりある赤土道(はにぢ)を來つつ山つぬに
光(ひ)のまぶしさを恋ひやまずけり

アドバルンあなはるけかり吾がこころ
いつしかに泣かむ泣かむとするも
2021 7/22 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 光かげ (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

黄の色に陽はかたむきて電車道の
果て山なみは瞑れてゆくかも

つねになき懐(おも)ひなどあるにほろほろと
斜陽は街に消えのこりたり

鐵(かね)のいろに街の灯かなし電車道の
静かさを我は耐へてゐにけり
2021 7/23 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 光かげ (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

別れこし人を愛(は)しきと遠山の
夕焼け雲の目にしみにけり

舗装路は遠く光りて夕やみに
なべて生命(いのち)のかげうつくしき

寂滅(ほろ)びゆく日の光かもあかあかと
人の子は街をゆきかひにけり
2021 7/24 235

* 遠く過ぎし昔の自作小説『隠水の』を読み返した。文藝春秋「文学界」の編集者で後に専務取締役を務められた寺田英視さんとの久しい親交はこの作が仲人を務めてくれた。寺田さんがわざわざ本郷の私勤め先まで褒めにきて下さった。懐かしい。
似たことは、平凡社の出田興生さんとも有った、出田さんは上村松園を書いた『閨秀』を読むと、ほぼ即座に、平凡社刊の縮刷『大辞典』上下巻をお土産に背負うようにして本郷へ出向いて見えた。嬉しかった。寺田サントも出田さんとも今もごく親しくお付き合い、というよりいつも応援して頂いている。
2021 7/24 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 光かげ (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

山の際(ま)はひととき朱し人を恋ふる
我のこころをいとをしみけり

そむきゆく背にかげ朱したまゆらの
わが哀歓を追はんともせず

遁れきて哀しみは我に窮まると
埴丘(はにおか)に陽はしみとほりけり
2021 7/25 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 光かげ (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

夢あしき眼ざめのままに臥(こや)りゐて
朝のひかりに身を退(の)きにけり

閉(た)てし部屋に朝寝(あさゐ)してをり針のごと
日はするどくて枕にとどく
2021 7/26 235

* この同じ日付けで、娘朝日子は生まれ、孫のやす香は逝った。

「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)の
よろこびぞこれ風のすずしさ     昭和三十五年 誕生

このいのちやるまいぞもどせもどせとぞ
よべばやす香はゆびをうごかす
つまもわれもおのもおのもに魂の緒の
「やす香」抱きしめ生きねばならぬ  平成十八年   逝去

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 光かげ (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

うつつなきはなにの夢ぞも床のうへに
日に透きて我の手は汚れをり

生々しき悔恨のこころ我にありて
みじろぎもならぬ仰臥の姿勢

散らかれる書物の幻影とくらき部屋の
しひたげごころ我にかなしも
2021 7/27 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 光かげ (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

誰まつと乱れごころに黄の蝶の
陽なかに舞ふをみつめてゐたり

うすれゆくかげろふを目に追うてをれば
うつつなきかも吾が傷心は
2021 7/28 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 光かげ (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

偽りて死にゐる虫の
つきつめた虚偽が蛍光灯にしらじらしい

生きんとてかくて死にゐる虫をみつつ
殺さないから早く動けと念じ

擬死ほども尊きてだて我はもたぬ
昨日今日もそれゆゑの虚飾

灯のしたにいつはり死ねる小虫ほども
生きようとしたか少なくも俺は
2021 7/29 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 光かげり (昭和廿八年 満十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

つもりつもるよからぬ想ひ宵よりの
雨にまぎるることなくて更けぬ

馬鹿ものと言はれたことはないなどと
小やみなき雨の深夜に呆けてゐたり

まじまじとみつめられて気づきたり
今わらひゐしもいつはりの表情
2021 7/30 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 夕雲 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

朱(あか)らひく日のくれがたは柿の葉の
そよともいはで人恋ひにけり

わぎもこが髪に綰(た)くるとうばたまの
黒きリボンを手にまけるかも

なにに舞ふ蝶ともしらず立つ秋を
めぐくや君が袖かへすらむ

ひそり葉の柿の下かげよのつねの
こころもしぬに人恋へるかも
2021 7/31 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 夕雲 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

いしのうへを蟻の群れては吾がごとく
もの思へかも友求(ま)ぎかねて

君の目はなにを寂ぶしゑ面(おも)なみに
笑みてもあれば髪のみだるる

窓によればもの恋ほしきにむらさきの
帛紗のきみが茶を点てにけり

りんだうを愛(は)しきときみが立てにける
花は床のうへに咲きにけらずや

* 八月になった。大文字の晩を待ちながら、敗戦の日を迎える月である。

戦争に負けてよかつたとは思はねど
勝たなくてよかつたとも思ふわびしさ

と、五、六年前の八月に私はうたっている。敗戦。日本のいちばん長かった日を、また映画で反芻しておく季節になった。
2021 8/1 236

* 長篇『イルスの竪琴』の一、二部「星を帯びし者」「海と炎の娘」を読み終えて最後の「風の竪琴弾き」を手にした。こんなにも私はこの一作を愛してるかと我れながら驚く。この作には、いま我らが現世と接触し交錯するものが消し去ったようになにもなく、しかもそれでも世界が危機へ沈んで行こうとする転回には類推のすごみが読みとれないではない、が、何よりも深く切なく大きい力は、必然の魔法である以上に、ヘドのモルゴンとアンのレーデルルとの愛であるのかも。
大長篇で転回は多彩に広範囲に深みを伴っているのだが、わたしは、登場者の名も性格も語る言葉さえももう的確に記憶していて、それを追うかのように読み進められる、しかもみじんも飽きていない。愛読とはこういうもの、源氏物語にも当然のようにそれが謂える。

* そして今、私は八十五老にして、すでに確定したいわゆる「処女作」本になお先立つ「少年前」の一冊に形を与えつつある。それれがただの遊びや自己満足でないことをおおよそ信じつつ、である。
2021 8/1 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 夕雲 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

わくら葉のかげひく路に面(おも)がくり
去(い)ななといふに涙ぐましも

柿の葉の秀(ほ)の上(へ)にあけの夕雲の
愛(うつく)しきかもきみとわかれては

またも逢はなとちぎりしままに一人病みて
むらさきもどき花咲きにけり
2021 8/2 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 夕雲 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

目に触るるなべてはあかしあかあかと
こころのうちに揺れてうごくもの

踏みしむる土のかたさの歩一歩(あゆみあゆみ)
この遙けさが苦しかりけり

うす月の窓にうごかぬ黄の蝶の
幾日(いくひ)か生きむいのちひそめて
2021 8/3 236

* 仙台の遠藤恵子さん、都の中野区宮川木末さん、川越の平山城児さん、都の世田谷の島尾伸三さん、国分寺市の河幹夫さん、早稲田大学図書館、上智大学図書館から「湖(うみ)の本」新刊へお手紙を戴いた。
目黒区佐高信さんの新刊書を受け取った。
高麗屋シアターナインスから、十月、吉田羊、松本紀保ら女性だけで演じる沙翁劇「ジュリアス・シーザー」の案内をもらった。大いに触手うごくが、コロナは収まってはいまい。
懐かしい亡き宮川寅雄先生のお嬢さん木末さんのお手紙が、今巻心して組み入れた多く詩歌の「撰と鑑賞」に触れ、ていねいに共感を寄せて戴いたのを喜んでいる。平山さんからも。
現今多くの作者達はとても大きな手抜きをしながら気が付いていないのだが、詩歌は、自作を創り為すだけが能でない。すぐれた多謝の詩歌作を見いだしてよく味わえるのでなければ、半端なのである。自分は斯くも創っているから当然に歌人だ俳人だ詩人だというのは、片端にすぎない。

* 辞典での仮名遣いの確認などが極く難儀になってきた。それでもわたしは辞典を決して手放さない。いい書き手の、いい読み手のそれは必須のこころがけだから。
2021 8/3 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 夕雲 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

草づたひ吾がゆくみちは真日あかく
蜻蛉(あきつ)のかげの消えてゆくところ

のぼり路は落ち葉にほそり蹴あてたる
小石をふとも愛(を)しみゐにけり

秋の日は丈高うしてコスモスの
咲きゐたるかな丘の上の校庭(には)に
2021 8/4 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 夕雲 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

ひむがしの窓を斜めの日射し朱く
我に恋慕の心つのりく

しのびよる翳ともなしに日のいろや
吾が眼に染みて瞑れむとすらむ

言に出でていはねばけふも柿の木の
下にもとほり恋ひやまぬかも
2021 8/5 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 弥勒 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

ひた道に暗れてゆく夜を死にたまふ
師のおもかげはしづかなりけり
(釜井春夫先生追悼七首 弥栄中学・国語)

訃にあひてほとほといそぐ道ゆゑに
夜の明滅をにくみゐにけり
2021 8/6 236

* 気の急く何が有るでない、こと仕事に関しては、見ようでは理想的に安楽に息の付ける即今と謂える。濃う謂う時は自身に喝を入れる気組みに成った方がいい。老いへ自ら追い込んではならない。休むのも、しないのもはいい。したくない、出来ないの淵に心身を沈めぬコト。
2021 8/6 235

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 弥勒 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)
(釜井春夫先生追悼七首 弥栄中学・国語)

みあかりのほろびの色のとろとろと
死ににき人はものも言はさぬ

衣笠の山まゆくらく雨を吹きて
水たまりに伽の灯がとどくなり

衣笠の山ぎはくらしひえびえと
更けゆく秋に死にたまひしか

* ご葬儀に、中学三年生、生まれて初めて弔辞を読んだ。
その後も教頭の寺元先生、担任の西池季昭先生のご葬儀でも弔辞を献じた。後々には、実父である吉岡恒の葬儀にも、親族から強いるほどに弔辞を望まれ、まことにフクザツの思いをした。
2021 8/7 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 弥勒 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)
(釜井春夫先生追悼七首 弥栄中学・国語)

いますだく虫の音もなしくちなしに
みあかり揺れぬ語らひてよと

ともしくもよき死をきみは死ねりとふ
遠天になにのどよみゐるらむ
2021 8/8 236

* 昨夜深夜までアンドレ・ジイドの「ドストエーフスキイ」に関する『ヴュー・コロンビエ座における講演』六を読み進んだ。期待を遙かに超えたみごとに文豪による文豪の好理解にふるえる程に感動、なおなおの続きを熱い気持ちで期待している。これはもう、ナミの思いつきに近い「論」とは懸絶した、真に優れた文学者ならではの真の文学者理解、まことに優れた人間ならではの優れた人間理解というしかない。

* 同じく人間理解といえば、シュテファン・ツワイクによる『ジョゼフ・フーシエ』理解の周到かつ性格に踏み込んだ理解の深刻かつ鮮明なことにも驚く。
桑原武夫の詳細な「フランス革命」講義ではフーシエの名はたったの二度、それも何の説明もなく(テメリスト)とカッコで括っただけ、その存在への理解はゼロに同じいのを私は確認した。だが、ツワイクに依っては、さらにその彼に深甚の示唆と評価をもってフーシエを書ききっていた偉大な文豪バルザックは、さらに極度にいえば、かのナポレオンをすら暗に閉口させながら「ナポレオンの名大臣」とも、オトラント公爵とまでも成っていた「フーシエ」なる異様異能超絶な「悪意の算術」家としてフランス革命を生き抜いていった男ほど、興味津々の個性は世界史にも珍しいのである。桑原さんは、何を見過ごしていたのだろう、ツワイクの『フーシエ』こんなに面白い評伝はざらには無い。ツワイクは世界に名だたる伝記作者として「モロワ」らと名のならぶ逸材なのであり、その『マリー・アントワネット』は名作の名を文学史に放っている。

* すばらしい書き手、すばらしい本は、間違いなく実在していて、それとの出会いは幸福の名に背かない。五輪でアスリートの活躍が盛んに持てはやされて、異存はない。が、人は、若いは、さらに魅惑に照り輝く「文学」という芸術にもしかと触れて欲しい。私が自負を謂うのではない、ドストエフスキーやジイドやツワイクやバルザックや、またル・グゥインやマキリップやトールキンのことを謂うのである。出逢えてよかったと、心底感謝している。そしてまた私のような平凡な作者は、自作を否認し否認し否認し続けて境地を見いだし創りだすしか、手は無い。
2021 8/8 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 弥勒 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

木もれ日は上葉(うはば)にすきてくれ秋の
もみづる苑(には)に瞑れむとすなり

枯れ色の木の葉にうづみ夕ぐるる
苑にたてれば人の恋ほしき
2021 8/9 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 弥勒 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

かげり陽は軒に消ゆるかほろほろと
樫の梢をとり鳴きたちぬ

死ぬるときを夢と忘れて黄金(きん)色の
蝶舞ひいたり御陵(みはか)めぐりに
2021 8/10 236

* 歴史は面白いし実に大切な教科書。なかでも私は欧米の近代史、ことにフランス革命とアメリカの独立に目を注ぐ。
2021 8/10 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 弥勒 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

落ち葉はく音ききてよりしづかなる
おもひとなりて甃(いし)ふみゆけり

絵筆とる児らにもの問へば甃のうへに
松の葉落つる妙心寺みち

下しめり落葉のみちを仁和寺へ
踏めばほろほろ山どりの鳴く
2021 8/11 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 弥勒 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

あをによきならびが丘に人なくに
木の葉がくれにあけび多(さは)生(な)る

願自在の弥勒のおん瞳(め)のびやかに
吾れにとどけば涙ぐましも
2021 8/12 236

* テレビの宣伝戦は何の躊躇いも無げに旺盛。 聞くがいい。
ホントニ ナント スゴイ 彼らに日本語とはこの三語でたりるらしい。コマーシャルに限らない。有象無象のはしゃぎまわる日本語も、おおかたは ホントニ ナント スゴイ の三語で足りるらしい。
わたしは どんな売れっ子であれ、エラソーなひとであれ、 ホントニ ナント スゴイ を連発する手合いの顔には 即、大きな 疑問符を呈することにしている。
2021 8/12 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 弥勒 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

山茶花に染みし懐紙に椎の実を
ひろへば暮るる東福寺僧堂

かくもはかなく生きてよきことあらじ
友は黙って書(ふみ)よみやめず
2021 8/13 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 弥勒 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

木の間もる冬日のかげにくづれゆく
霜のいのちに耐へてゐにけり

歩みきて耐へられなくに霜の朝の
木がくれの実はぬれてゐにけり
2021 8/14 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 弥勒 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

吹きゆけば霜のこぼるる笹はらの
道ひとすぢに惑ひゐにけり

木もれ日のとどかぬままにものに恋ふる
わが影は道にこほりしならむ

* 朝の一番に、なにを「ことば」にしたいか。悪政への歎きやコロナ禍への憂慮ではない。詩にふれてゆく重いと言葉で朝を迎えたいのに、容易に叶わない。
あきらかに地球が人類に怒り、恨んでいる。人類は一度退散して滅びよと、天変地異人災をとおして地球は歎き怒っている。私はそう感じている。
2021 8/15 236

* 朝の一番に、なにを「ことば」にしたいか。悪政への歎きやコロナ禍への憂慮ではない。詩にふれてゆく重いと言葉で朝を迎えたいのに、容易に叶わない。
あきらかに地球が人類に怒り、恨んでいる。人類は一度退散して滅びよと、天変地異人災をとおして地球は歎き怒っている。私はそう感じている。

* 無条件「降伏・敗戦」の日。私は「終戦」などとウソは謂わぬ。

* 午後を費やして、身を堅うして、あの無残に権力に強いられた庶民兵の神風特攻隊、そしてあの無残な「○レ」特攻船兵らの、経緯を映像で観尽くした。辛くても観て聴いて思うのを私は務めとも感じているのだ。平然と傲岸に「命じる」上官、「強いられる」部下。戦争の悲話の大半にこの厳然として無情を極めた権力構造が働く。

* 負けて良かったとは思わないが、勝てるわけがないとは、昭和十七年四月に国民学校に入学し、二十年三月に深雪丹波の山奥へ疎開し、四月から四年生を山村の国民学校で迎えた私は、その八月夏休み中の敗戦の詔勅を、みずから手を広げた飛行機のように農家の庭を駆け回りながら、持ち出されていたラジオで聴き、いささかの愁嘆も無念もなく、いっそ胸の晴れる嬉しさ、京都へ帰れるぞという嬉しさに満たされていた。
兵隊さんになどゼッタイになりたくないと、幼くから思っていた。私の処女小説『或る折臂翁』は、国民学校ですでに読んでよく識っていた白楽天作の兵役拒否の長詩『新豊折臂翁』に明瞭に学びかつ依拠していた。「神風特別攻撃隊」など、トンデモナイ権力(上長・上官たち)横暴の愚挙としか思ってなかった。
今日、また、生き延びた兵士達の思いを聴きまた聴いて、しみじみと戦争の悲惨を胸の奥の奥にまで新たにした。
2021 8/15 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 弥勒 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

松の葉の鋭きままに日の中に
息衝きて我は佇ちゐたりけり

ポンカンの実の青々と冬空に
とまりてゐたる寂びしさにをり
2021 8/16 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 弥勒 (昭和廿八年 十七歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

日ざかりに赤土道(はにぢ)はあれてただひとり
来(こ)しとおもへば泣かまほしかり

ものいはぬ修道女とあへばえぞしらぬ
苦しさにつと行き過ぎきたり
2021 8/17 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ あらくさ (昭和廿九年 十八歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

水かれし渓ぞひの笹は霜にあれて
通天橋(つうてん)の朝のそこ冷えにをり

水あさき瀬の音ながら通天の
梁をやもりのうごく侘びしさ

この橋のくらきになれて霜の朝を
われは妄(みだ)らにもの恋ひてをり
2021 8/18 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ あらくさ (昭和廿九年 十八歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

手にとどく葉をちぎりては渓ふかく
すててゐる我としればかなしも

たにかぜの吹きぬけてゆくたまゆらの
行きのしづくのしとどに耐えず
2021 8/19 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ あらくさ (昭和廿九年 十八歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

南天をこぼして白き猫のなく
川のほとりに師を訪へばよし

湯の音にもだしてをれば夕かげは
花にまとへり紙屋川ぞ

埋み火のをりをりはぜてたぎつ湯に
師はふと席を立たれたりしか

* 市立弥栄中学時期の国語の給田みどり先生、優しく、すぐれて佳い歌人でもあられた。
ある
夏休みの一日、高校生になっていた私の家の前へふと見えて、そのまま、奈良の、薬師寺、唐招提寺へ連れて行って下さった。お寺や仏像との事実上初の出会いを用意して下さったのだ。
小説にも、二、三度は姿を見せて下さっている。
2021 8/20 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ あらくさ (昭和廿九年 十八歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

木もれ日のうすきに耐へてこの道に
鳩はしづかに羽ばたきにけり

胸まろき鳩の一羽におそれゐて
道ひとすぢに瞑れそめにけり

山鳩のわれをおそれぬなげきにて
小枝ふれあふ音なべてきく
2021 8/21 236

* 「告白」するのだが、私は、徹して トルストイ側を歩いてきた、ドストエフスキーは識らないまま遠慮してきた。いま此の二階の文庫本書架にトルストイの三大名作はむろん揃っているが、ドストエフスキーの『罪と罰』も『白痴』も『カラマゾフの兄弟』も西の棟の二階書架にある。たまたまこっちの書庫に森田草平訳の大冊で『悪霊』があり、ま、気まぐれに持ち出し読み始めたのであり、そして驚ろいた。途方もなくこれは凄いと感じ、加賀乙彦さんの新書版論説を手にしたが、なかなかと食い合わず、これまた偶々、幸いにアンドレ・ジイドの実に実にみごとに有り難い『ドストエフスキー論』一冊にとびついて、アタマから冷や水をかぶったほど異様に目が覚め、教わり、頷き頷き感謝している毎日なのである、それでもまだ『悪霊』のなかばまでしか読めていない。
「トルストイ」的堅固で精微な構造を、この作からはとても得られないが、トルストイとは縁の絶たれた、混沌の凄みの美と人間・人間関係の恐ろしいような二面・多面性が造形されていて、しかも、トルストイのそれとは異なった、悩ましい信仰の深淵が光っているのだ。
遅くも遅くも、しかし出逢えて良かったと感謝の日々を送り迎えている。コロナなど、ものの数でない。
2021 8/21 236

* 夕食が満足にとれなかった、歯に噛む力がが落ち、歯茎に堅く噛むに耐える力が落ちている。入れ歯が、ともあれ口に落ち着いてくれているだけでも、ありがたい。

* そのまま横になって、感嘆と感謝でジイドの『ドストエフスキー論』を大方読み進み、そしてパトリシア・マキリップの『イルスの竪琴』第三部を、もうもう夢中で、一字一語も読み飛ばさずに没頭し堪能しつつ、まことにまことに幸せであった。残る頁数のもう逼迫して終えてしまいそうなのが堪らなく惜しい。
こんなに熱中して本の読めることを幸福と思わずにおれない。これほど熱中して書けて、これほど熱中して読んで貰える作が自分に有るかと、身が縮む。
2021 8/21 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ あらくさ (昭和廿九年 十八歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

桐の芽のいくつか伸びて陽だまりに
このあらくさのいのちは愛(かな)し

ひらきたる掌にまばゆくて春の光(ひ)の
胸にとどくと知れば身を退く

ひそめたるまばゆきものを人は識らず
わが歩みゆく街に灯ともる
2021 8/22 236

重い大きな本は、重いなと思い知った。500頁平均の『秦恒平選集 33巻』重いかなあ。もうすぐにも第154巻めの出来る、装幀の質素に美しい「秦恒平・湖(うみ)の本」版なら一冊一冊が軽くて柔らかくできている。多少に差はあるが「湖(うみ)の本」は全巻在庫あり、ご希望の方には冊数にかかわらず代価無用で差し上げる。

* それにしてもインターネットにどうかして私自力でつなげないかなあ。「私語」が、まったく聴いて呉れ手のない「独語の刻」に終始しているのは心寂しい。
2021 8/22 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ あらくさ (昭和廿九年 十八歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

山ごしに散らふさくらをいしの上に
踏めばさびしき常寂光寺

山吹の一重ひそかに二尊院は
日照雨(そばへ)のままに春たけにけり

道の上の青葉かへるでさみどりに
天(あま)そそぐ光(ひ)を恋ひやまずけり

* 昨今高校生に、たとえ京都市内の山よりに暮らしている生徒であれ、こんな歌を詠ませまた読ませるのは、至難と云うより無理で不自然でさえあるだろう。そういうことに、東工大教授の時期、気が届いていなかった。当時、私に、歌稿・歌作を見せてくれたただ二人の女子学生の短歌が、いまも手許にのこされていて、しかも当時のわたくしは正当な視線を向けて上げられなかったのを、今にして謝りたい気がする。淺野夏子さん 白澤智恵さん、ごめなさい。

今、ここに淺野さんが郵便で家へ送ってきた歌稿百首あまりが手に取れる。別にさらに二十首があり、「病気のことや病院での生活が前面に出すぎていてよくないと思ったものです」とある。
百あまりある最初頁の八首を書き写す。

心苦しむ 時は静かに 佇みて 自己の回復 じっと待つべし

簡単に 家畜にならずと 天性の 野原を駆ける ライオン偉し

膝の上 乗ろうと足を 掛ける猫 そを見て雄と 言うは誰が背

銀杏の葉 降れる道路を 青春の 様にバイクで 駆け抜きけり

宗教の 法話を聞きて 魂の 安心したる 熱きときめき

本当の 事を話しし 後すらも 温かき目の あるは嬉しき

秋山の 少し茶色に なりにしを 光さやけく 風の流れる

月の出る 宵に男は オレンジに 煙草光らせ 佇み居たり

「歌」声が、聴き取れる。
私は 昨今も寄贈されてくる同人歌誌を 幾つも手にも目にもしているが、そこに採られている多く一般の作と、なんら遜色なくそこへ淺野さんの声が混じって不自然でない、むしろ、私の『少年』の作などと似た作を今日の歌誌に探すのは容易でない。淺野夏子さんの送ってくれていた上の百首ほどを私は、今、懐かしくも新鮮に読んだのである。
もう一人、白澤智恵さんの歌は、私のホームページに入っている「文庫」に入っている。教授当時の私には読めなかった異界が生き生きと表現されているのに、作を受け取った当時にあんまり「いいこと」を告げてあげなかったのを申し訳なく今にしてあやまりたい。
上の淺野さん作の八首目など、「少年」だった私の視線や感性にまぢかく想われるし、九首めのような作も『少年』は含んでいたと想うなあ。

三門に かたゐの男 尺八を 吹きゐたりけり 年暮るる頃
2021 8/23 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ あらくさ (昭和廿九年 十八歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

青竹のもつれてふるき石塚の
たまゆらに散る山ざくらかな

みづの音をふと聴きすぎてしまらくの
しづけさのうちに祇王寺をとふ

* 嵯峨嵐山をもう一度散策叶うおりがあるだろうか。常寂光寺、二尊院、祇王寺、等々。まるで夢になった。

* 気の衰えを労ってやらねば。そのためには面白いことを思い、興味有ることへ自分を誘って行かねば。
流されつ游ぎつきしの往きかひやコロナを詛(とご)ふ声ばかりして
と歌って優に一年が過ぎたが、ますますひどい。そんなとき、いい本、いい映画、いい歌声は有り難い。
ソフィア・ローレンが熱演、マルチエロ・マストロヤンニが共演の映画『ひまわり』に涙を堪えきれなかった。戦争のむごさ、愛の深さ・尊さをビットリオ・デ・シーカ監督の美しく厳しく冴えた演出と画面を、身をかたくしながら、感嘆・満喫した。
ドストエフスキーの『虐げられし人々』にも、待ったなしにぐいぐい惹きこまれている。
2021 8/24 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ あらくさ (昭和廿九年 十八歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

わくら葉の朱(あけ)にこぼれて木もれ日に
うつつともなし山の音きく

生き死にのおもひせつなく山かげの
蝶を追ひつつ日なかに出でぬ

* ふと身のそばの岡井隆『現代百人一首』で、私の歌の稿を読み直した。この撰、第一首に釈迢空、第百首に斎藤茂吉が選んであり、岡井さん自身は第九九首目に能舞台の後見役のように置いてある。「意識」的な撰と配列なのは明らかであ面白い。わたくしの一首は第六十首めに置かれてある。各十首で十頁分が目次「見開き」で一覧でき、各十首めには、大西民子、大橋巨泉、平井弘、俵万智、佐々木幸綱、秦恒平、清水房雄、斎藤史、佐伯裕子とつづいて斎藤茂吉で締めくくってある。超級の歌人、堅実な歌人、新人、巨泉や私のようなど素人の変わり種、思わず破顔の利く顔と名前で、こうと決めた岡井さんの鼻息が聞こえそう。秦 恒平を「撰」の一文を感謝して読み返す。

☆ たづねこしこの静寂にみだらなるおもひの果てを涙ぐむわれは
秦 恒平
今歌をつくろうとすると、手っとり早いところでは新聞の歌壇投稿であろう。新聞歌壇だけでひとり歌作を楽しむひともいるし、そこから進んで短歌結社に加わるひともあろう。後に小説を書くようになった秦恒平は、そのどちらでもなく、ひとりで歌を書いていたらしい。ここに挙げた歌が示Lているように、恒平の歌に一番近いのは、大正期の写実系の短歌だろう。たとえば島木赤彦、あるいはその弟子の土田耕平や高田浪吉など。昭和二十八年、十七歳の時の作品だというが、京都の何処かのお寺か社を思わせる、その静かなたたずまいに、若い性欲が突然色彩を変える。そして少年の眼に、うっすらと涙が溜まる。どうしようもない性的な悶え苦Lみ、そして浄化への願い。『カラマーゾフの兄弟』で言えばアリョーシャ的なものへの憧憬。それが実に素直に出ているではないか。「おもひの果てを」の「を」の使い方なども、見事なものである。こういう歌を読むと、歌に新しい古いなどはないのではないか、と思いたくなる。だがやはり歌に新旧はあるのである。ただ作者にとって新旧などどうでもよい場合がある。かずかずの歌を読み慣れた眼にも、こうした歌が慰めとして存在する場合がある。

わぎもこが髪に綰(た)くるとうばたまの黒きリボンを手にまけるかも

という歌を挙げてもよい。十七歳の時の相聞歌である。リボンという外来語を除けば、まるで万葉の歌の模写に近い。それなのにどこか洒落ていて、初々しい。黒いリボンを手に巻いて、これから髪をこのリボンで縛るのよ、という、この仕種は、やはり近代の女のものなのだろう。言葉は古く、風俗は新しい。秦はこのあと十年ほど、寡作ではあるが歌をつくり、のちに歌集『少年』を編んだ。二十六、七歳ごろの作品に、
逢はばなほ逢はねばつらき春の夜の桃のはなちる道きはまれり

がある。女に逢わなければ無論辛いのだが、逢えば逢ったでなおのこと辛いのだという、人間男女の性愛の、千古をつらぬくまことの姿が、民謡調に乗せてうたいあげられている。桃の花の散る道は尽きようとし、それは若いふたりの道の行方でもある。思えば十七歳の時から十年のあいだ、ほとんど歌の調べも歌風も変わっていない。それなのに十七歳の時の幼い性欲の嘆きと、この桃の花の道の愛の心とは、どこか違っている。
(撰と文 岡井隆 歌人  一九九六年一月 朝日新聞社刊)

* 一九六九年、三十余歳に小説『清経入水』で太宰治文学賞をうけ「作家」として歩み出すよりよほど若くに私は少年「歌人」であった。その以前に「少年前」があったことを、近日に予定の次巻「湖(うみ)の本 154」が明かす。もう残るは、老耄懸命の文業のみ。

* 岡井さんの感想に、少年の幼い「性的なもだえ」「性愛」「性欲」といった言葉を用いてある、が、わたしにそんな強い性欲も性愛も無い、ただ問題・課題として「性」にはつよい関心があり、国民学校一年生から熱中愛読した『古事記』このかた、およそ生涯をつうじて考え続けてきた、重んじてきたとは謂えるだろう。
2021 8/25 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ あらくさ   (昭和廿九年 十八歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

経筒に咲ける木槿(むくげ)の露ながら
汲まばや夏の日は茶室(へや)におちて

石づたひぬれしままなる夏くさの
露地にかげくたまゆらに恋ひて
2021 8/26 236

* 此の機械には、じつに想像を絶して大量各種の私語と原稿、書き出しの原稿、創作の試筆稿が埋蔵されている。うかとそれらに目を向けたりすると、あっというまに半日一日、二日でも三日でも時を奪われてしまうが、またさほどまで書いた当人の私も興を惹かれてしまう。触りだしたら飛んで舞うほど時間を費消する。止められなくなる。まちがいなく私は晩年を歩んでいるのだ、そんなことで時日を費やしてはおれないのに、取り憑かれると振り切りにくい。そこから形を成してモノ・コトがめでたく誕生してくれると有り難いが。
2021 8/26 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ あらくさ   (昭和廿九年 十八歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

うすれゆく翳ならなくに夕月の
ほのかに松をはなれけるかな

道の果てはほろびあかるき山なみの
夕べいのちのかげはしづめむ

なべていまはほろびの色に燃えもたてな
夕雲にしも吾はなげかむ
2021 8/27 236

* あれもこれも、せねば、せねばと思いつつたちどまり道草を食っている。集中力という根気が薄まっているのだ。あれをやっておかねば、此れもやっておかねばと、あれもこれも立ち止まって前向きに進まない。まさしくこれはコロナ禍の今日相である。政府も自治体もこんなで在るのだろうナと少しく同情するが、立ち止まっていればますます状況はよくない。
こと、わたくしの場合、いいではないか、怠けて様子をみていることも覚えよと甘やかしたい気になる。怠けるのではない、本を読み、映画を観、音楽を聴いて楽しみなさい。目前の現実だけが世界ではない。いろんな世界が重畳している。重畳したいろんな世界を旅すればいい。そんな小説をアーシュラ・ル・グゥインが書いていたではないか。
リアリズムで生きるだけが命の遣いようではない。こんなときこそシュール・リアルな世界を呼び寄せればいいと自身に言い聞かせてやりたい。ひかれものの小唄よと嗤う声も聞こえないではない、が、いま、あの一代男世の介の身上が懐かしい。光源氏ではご大層。玄関の古典全集から西鶴集を持ち出すか。

* 当面は決するところ『悪霊』に魅入られている。人間関係もつかみにくいし、物語の絵模様にもハキとした説明も理解もしにくい、できない、のに一に手をだしては千頁もの重い古本をかかえこむ。カフカの凄みもたいしたものだが、ドストエフスキーの底知れない黒い沼へ身を投げて読むような、こんな無気味さを他の無数の読書からも承けた覚えがない。

* が、今日ふと手にした芥川編の選集中、豊島与士雄の「霧」という短編は、読むさなかも独語の印象も一種不思議に異様だった。分かったとも分からないとも謂えなくて、忘れがたい。青年なのか大人なのか男友達が霧のなかを親しくしかも神妙にかたり合うて散歩または逍遙ないし神妙に議論していて何の奇もない、のに、ある垣の根かたで愛らしく懐いてくる小犬と出逢ってからが異様になる。どうなるか何故か書き置く気に、なれないのです。分からない…。しかし、気になる。

* 今日は、とうに亡い実父について「書きさし」てあったモノを、読み返してもいた。生みの母についてはともあれ『生きたかりしに』と題して選集の一巻を満たす長篇を書き置いてあるが、実の父親のことは、なんども試みながら手に余る生涯の簡明な異様とフクザツにいつも突き戻されてきた。
やはり書いておかねばならぬと思っている、その思いを今日もつよく刺激されたが、私はこの父の生前に前後三度しか顔を合わせていない。口を利きあったのは一度、三度目は死に顔であった。だが、この人は、異様なまでおおくの生きていた情報を断片でたくさん遺していった。母のちがう妹二人は、父葬儀のあと、それらを大きな風呂敷包みふたつに括って、ポンと私に委ねた。量はあるが理解にはくるしむ断片の集積なのである、が、当惑しているまに私は父の寿命より永く生き残ってもう残りは尽きようとしている。参る。

* 試筆めく書きかけてある小説へのこころみが、大小を問わねば少なくも一ダースほどあるのにも、どうしてくれると躙り寄られている。参る。

* 「物書き・作者」としてケッコウではないかという考え方はある。考えていても書けないよと謂う当惑もあるのですよ。
もう一度、陶淵明に聴いておく。

窮居して人用 寡く、
時に四運の周(めぐ)るをだも忘る。
空庭 落葉多く、
慨然として已(すで)に秋を知る。

今我れ樂みを為さずんば、
來歳の有りや不(いな)やを知らんや。
2021 8/27 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ あらくさ   (昭和廿九年 十八歳 京都市立日吉ヶ丘高校生の頃)

すずかけのもみづるまでに秋くれて
衣笠ちかき金閣寺みち

手にうけしわくら葉ながらお茶の井に
かがまりをれば秋逝かむかな

おほけなき心おごりの秋やいかに
わが追憶(おもひで)の丘は翳ろふ
2021 8/28 236

* 「湖(うみ)の本 154」三校が出てきた。今回は口絵も入稿してあるが、やがて届くだろう。『少年前」の心稚かった日々へ帰る旅を楽しんでおく。

* 思えば私の八十五年に、あのころが「抜け」ていたナという時期は無い。けっして人づきあいが良い広いなど謂えそうにない私だが、じつは八十五年を通じてびっしりと「人」(先輩・先達・知友・男女とりどり)」への思い・親しみ・馴染みが途切れなく連続している。「女文化」の京都、それも祇園のまぢかで育ったおかげで、心親しんだ女性の名も面影も、びっくりするほど数多い。思い出に空白という時期が無い。
2021 8/28 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 歌の中山   (昭和三十・三十一年 十九・二十歳 同志社大学一、二年の頃)

生命ある朱(あけ)の実ひとつゆびさきを
こぼれて尾根の道天に至る

たちざまにけふのさむさと床に咲く
水仙にふと手をのべゐたり
2021 8/29 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 歌の中山   (昭和三十・三十一年 十九・二十歳 同志社大学一、二年の頃)

咲きそろふさくらのころを若き日の
かたみときみは言ひたまひける

さみだるる空におもひののこるぞと
さだめかなしきひとの手をとる

よのつねのならはしごととまぐはひに
きみは嫁(ゆ)くべき身をわらひたり

* 「まぐはひ」は、目を見合わせて愛情をしらせる古語と辞典にある、ときに男女の情交を謂うこともあるが、ここでは目と目とを見交わしている意味。私はこの人を「姉さん」とこそ慕い愛していたが、双方で恋愛や結婚の域には触れ合わないと感じていた。双方の家庭事情からもあり得なかった。妹が二人いて童謡に愛し合っていたが、恋愛とはべつと自覚していた。自覚すべく終始気をつけていた。井らしかった下の妹は早くに亡くなった。「姉さん」と永い生涯にたった一度ただ出逢う機会があったが、どこに暮らしているかも知れないまま近年に亡くなったと「妹」から、それも弟の夫人を介してしらせて呉れた。「姉さん」は自分の死を恒平には報せるなと言い置いたと、私に伝えられたのは二三年も後だった和。ひとり生き残っている「妹」とも中学以来この老境までたまさかに一度二度京都で顔を見たかどうか。だが、確乎として三姉妹はわたくし真実の「身内」であった。出逢えて真実嬉しかった、今も。
2021 8/30 236

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 歌の中山   (昭和三十・三十一年 十九・二十歳 同志社大学一、二年の頃)

日ざかりの石だたみみち春されば
わがかげあかし花ひらく道

手の窪にたまらぬほども木もれ日の
ぬくもりと知ればよろこびに似て
2021 8/31 236

* 朝いちばんには、せめて心地よいことばを口にも筆にもしたいのに、それが昨今は至難。
なにとなくモノに異様に追われている様な不快にせめられる。身を避けたいと本を読むその本が『悪霊』であり『変身』であり『マリ・アントワネット』では、黒い重い砂袋を手術で無くした胃袋のへんにぶらさげたよう。

* もう何年前からか、大同小異くりかえしにた怖い「場所」を夢に見て仰天する。月天心貧しき町を通りけりという蕪村であったかの句がついてまわる。なんでああも似た怖い町、というより細い長いすさまじい通り道を夢見るのだろう。そう思って、そんな、あれらと似た場所というか路というか路地通路をわたしは現実に通ったり見たりしたか、覚えがあるかと顧みて如実の体験は無い。それでいて、かすかに外の明るい場所からのぞき見たことはあるのかと思い当たるとは行かないか察しられる「とき」もある。そんな「時」を薄紙を貼り重ねるようにして少しずつ「感じ」が見えてきたかも、あれがそうなのか、そうではないかと感触くしうるようになってきた、思えばそんな感触に実感を寄せて行くのを遠慮してきたかともだんだん思うようになり、今朝方の目覚めの前頃には感触に景色が乗っかってきたか、そうかあれかというに間近いまで視野が定まってきた気がした。「調べ」て見られるかもともかすかに予測しかけてきた。よく知っている、いやどの辺かと分かっている、けれど実景としては目にしたことがない、そこはピシャと戸で、細い戸で塞がれている。探索までもない、位置は識っていたのだ、実景に目を触れていないのだ、それでいて夢では何度も通ったのだ。謂うまでもない、京都だ。

* 何度と無く体不調を感覚しながら、長い永い千頁もの『悪霊』を一読した。もう一度、遠からず時をおいて読んでやろうと心がけている。おそろしい大作だった。幸いに買って置いたやはり一冊本の『カラマゾフの兄弟』があるのを、やはり持ち重りの堅い一巻だがひきつづき読んでやろうと用意した。ゴーリキーが、ドストエフスキーの天才は別儀なく肯定し称賛しながらも、口を極めて上の二作を否認否定し、害悪とまで批難し酷評している。『悪霊』を文字どおり曲がりなりに一読のみし遂げて、それでもゴーリキーの「全否定」の気持ちは了承する、が、しかもなおもう一度も時には二度三度でも読んでやるぞという気持ちは失せない、そこに「ドストエフスキーの意味」が在るぞと思う。
『悪霊』では霊のロシア式の名乗りの長たらしさ覚えにくさにほとほと困惑した、人間関係が、男か女かは辛うじて分かっても、親子なのか夫婦なのか正称なのか呼称なのかもわかりづらく真実辟易し続けた。幸いに『カラマゾフの兄弟』一巻には登場人物の略紹介が附いていて助かるだろう。
文庫本で十冊近くドストエフスキーを枕元へ運んできて、『虐げられた人々』は読み始めていたが、みな、いったん書庫へ戻しておき、大作のカラマゾフに取り組む。
他の文庫本、『マリー・アントワネット』トルストイ『人生論』、カフカの『変身』『審判』またルソーのエッセイなどは随時に手に取るつもり。
日本の現代・近代作は、いまはアタマにないが、何と無く直哉か実篤が懐かしい。古典は、版元から貰い続けている中世の物語全集へ手を出したい。

* だがだが 視力の急速な薄れが恐ろしくなっている。脚は歩けるし自転車も軽い。腕力も、荷造りした「湖(うみ)の本」をダンポール函に55冊つめて、持ち上げるのも、キチンから玄関へ運ぶこともできる。目 そしてアタマ。気になっています。
2021 8/31 236

述懐  恒平・令和三年(2021)九月

* ここに「恒平」三年ともしてあるのは、
私・秦恒平の死期をかぞえる三年目であるという気持ちを示している。他意はない。

* ようやく最晩年の自覚というものか。陶淵明集を開いて、こんな詩句に目を置いていた。
友人の劉柴桑に酬いた詩の一部を抜き書きしてみる、

窮居して人用 寡く、
時に四運の周(めぐ)るをだも忘る。
空庭 落葉多く、
慨然として已(すで)に秋を知る。

今我れ樂みを為さずんば、
來歳の有りや不(いな)やを知らんや。

* 此のとおりに日々送迎し、まさしく 私、只今の感慨である。

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 歌の中山   (昭和三十・三十一年 十九・二十歳 同志社大学一、二年の頃)

手術後のおぞきひと夜も露ながら
白あざみ咲く病室(へや)と知りをり

創癒ゆとひとり知らるる朝あけの
樋のしづくの光かなしく

ハイネなく百三も読まずなが病みに
こころとらへしサザエさんの漫画
2021 9/1 237

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 歌の中山   (昭和三十・三十一年 十九・二十歳 同志社大学一、二年の頃)

踏みすぎし落葉ばかりをあはれにて
歌の中山夕ぐれにけり

ふみまがふ石原塚にみちはてて
木もれ日に佇つ人もありけり

向(むか)つ峯(を)にからすとぶぞと指すからに
夕まぐれより人に恋ひをり

夕月のかたぶきはててあかあかと
遠やまなみに燃えしむるもの
2021 9/2 237

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 歌の中山   (昭和三十・三十一年 十九・二十歳 同志社大学一、二年の頃)

菊畑に夕かげぬれてしかすがに
清閑寺道をきみとのぼりぬ

山のべは夕ぐれすぎし時雨かと
かへりみがちに人ぞ恋しき

手の窪にたまらぬほども木もれ日の
ぬくもりと知ればよろこびに似て
2021 9/3 237

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 迪子   (昭和三十二・三十三年 二十一・二十二歳 同志社大学三、四年の頃)

ぐわっぐわっと何の鳥啼くわれも哭く
いさり火の果てに海の音する

そのそこに海ねこ群れてわがために
鳴くかと思へば佇ちつくしゐて

磯の香になれて夜寒の出雲路に
岩千鳥しもなきゐたらずや

砂山はそれかあらぬか朝かげに
わがかりそめの足跡(あと)もきえゆく
2021 9/4 237

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 迪子   (昭和三十二・三十三年 二十一・二十二歳 同志社大学三、四年の頃)

ふるさととその名恋ひなば山茶花の
み墓べはれし冬日しぬばな  (新島襄先生墓前にて、婚約した迪子と)

あまぎらふ夕さみどりの木がくれに
恋ふればめぐし迪子わがいのち

* 「少年」の域を脱しようとしていた。

* 目覚めて、起きて、まっさきに太古中国の詩句や詩人の懐かしい名に見入っていた。中国に招かれた時、人民大会堂で初対面の周恩来夫人(当時副首相格)から、「秦先生は、お里帰りですね」と笑顔のアイサツがあった。「秦恒平(チン ハンピン)」は大手を振って通る中国人の氏名そのままなのを謂われたか。たしかに中国という國にも人にも 私、得も謂えない帰去来の共感がある、と倶に、あまりに福禄寿へ執着の処世へも批評・批判が在る。中国は底知れぬ古井戸で。比較に成らず、日本の国土も文化も水は清いが浅い美しい池のようだ。
2021 9/5 237

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 迪子   (昭和三十二・三十三年 二十一・二十二歳 同志社大学三、四年の頃)

瀬の音もさみだれがちとなりぬれば
恋ひつつせまる吾が想ひかも

遠山に日あたりさむき夕しぐれ
かへりみに迪子を抱かむとおもふ

さしかける傘ちひさくて時雨るるや
前かがみなるきみにぞ寄らむ  (迪子詠)

* プロボーズは昭和三十二年(一九五七)十二月だった。以来一年一年を積んできた。
2021 9/6 237

* オリンピックという行事は過ぎ逝き、菅内閣の命運も事実上果てた。新型コロナ・ウイルス感染症の蔓延は、昨年来、まるまる一年半を経過してなお日々の数字に翻弄されるばかり、歩みを弱めている気配が無い。老躰には覿面コタエている、目も脚も背も、アタマも日々に退屈、弱ってきた。逼塞の日々はさりながら、幸いヒマで困ることは無いが、気組みに力の抜けやすく、全身から活力の洩れ零れるのが宜しくない。
次の「湖(うみ)の本」は、締め括りではなく、そのさかさま、文学生涯『少年前』最初の一歩を刻印した。過ぎし昔をもうとかく思う必要はなくなる、これのやがて仕上がるのを心待ちにしている、その先はみな「これから」の、文字どおり「老蚕作繭」の日々になる。

* 幸いに、脈は日々しっかり打ち血圧、血糖値とも安定している。歯は大方落ち、視力は乱れている、が、かろうじて文庫本の字がまだ読めている。さきの保証はできない。衰えを現に危ぶむのは脚・腰。自転車はやめ、歩く方へ力点をと思いかけている。そう思い、ポストへのついでに近隣の散歩をと妻と小一時間ゆるゆる出歩いてきた。
根が機械に弱く、機械クンとの付き合いにますます閉口する日々だが、何とか、少なくも「電送機能」を一日もはやく取り戻したい、が。
2021 9/6 237

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 華燭   (昭和三十四・三十五年 二十三・二十四二歳 医学書院編集部にに就職・結婚)

朝地震(あさなゐ)のしづまりはてて草芳ふ
くつぬぎ石に光とどけり

夕すぎて君を待つまの雨なりき
光りにぢませて都電せまり來(く)  (迪子詠)

* この二首をはがきに、知友に結婚(昭和三十四・一九五九年六三月十四日)を伝えた。東京新宿区河田町のみすず荘六畳一間に暮らした。東京女子医大、また出来たてのフジテレビに間近だった。テレビの現場がほぼ気ままに覗きに行けた。喫茶店セットでインタビューを受けていた番組「スター千一夜」の「無縁の相客」の躰「喫茶店」に座ってくれないかと廊下で頼まれ、夫婦で「出演」した。スターが誰だったかは忘れたが、番組後の廊下で、ズボンのポケットから掴みだした百円玉の四、五枚を呉れた。初任給一万二千円(最初の三ヶ月八割支給)の昔である、けっこうな時間給であった。
その同じ廊下を行き来しながら台本を小声で暗誦して歩いている岩下志麻と、すれ違った。放送局はちがったかも、人気の連続「バス通り裏」の頃であった。大好きだった。岩下志麻とは、ウーンと遅れて、夫君と一緒のどこかのパーティで出会い暫時談笑。建日子作のドラマにも出て貰っていて、その縁で貰ったというおしゃれで軽快なシャツは「父さんに」と、回してくれた。著名な映画監督の夫君とも映画の話題などで文通があったり、本を送ったり、「縁」は、在るモノである。
2021 9/7 237

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 華燭   (昭和三十四・三十五年 二十三・二十四二歳 医学書院編集部にに就職・結婚)

朝つゆにくづれもやらでうす紅の
けしはゆらりと咲きにけらしな

あさつゆにさゆるぎいでしものなれば
あえかに淡しけしのくれなゐ

良き日二人あしき日もふたり朱(あか)にひく
遠朝雲の窓のしづかさ

* 一階、六畳一間ずまいの新婚新居、ガラス窓をあけると、手にふれるまぢかまで花が咲いていた。
2021 9/8 237

* 寝室に数本、計60棚ほどの書類ケースがならび、満杯。ここに限らず、我が家には、選別を経てきて猶、來書翰が何十年分二階にも隣棟にも溢れている。どうしようかと惑いつつ誰からかな、彼か、彼女か、ウンウンと読み直していたりすると捨てがたい。処分の意をかためようと自身に強いてきたが、ふと思いつく、身動きもとれなくなったとき、なまじいの本よりも選別してのこした手紙やハガキは絶好の手に重くない「読み物」になってくれる、それは嬉しいなと思いついた。「えらんでおく」作業がタイヘンだけれど、これほど来し方を振り返って親しめる読み物はないぞと思う。

* 依頼された文章で、単行本から採り残された活字篇もあり、今朝も偶々手に触れた、「学鐙」への「日中文化交流の微妙な憂鬱」を読み返したが、懐かしくも面白くも「再読」に優に耐えていた。
こんなのが紙ででも機械の中にでもゴマンと埋もれている。『勿忘草』とでも題し、「取りまとめ」ておいてやりたいなと思った。
2021 9/8 237

★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 華燭   (昭和三十四・三十五年 二十三・二十四二歳 医学書院編集部にに就職・結婚)

真昼間ははなの匂ひも眼に倦みて
白くちなしは咲きすぎにける

そのそこに花はかげりて夕雲の
うつくしき日はかなしかりけり

にじみあふかげとかげとの路に瞑れて
夕月に咲くあぢさゐの花

* 私の日々は、「少年」のこのかた、永い生涯を通じて、人事や職務をはなれたいわば「花と風」の別次元にいつも励まされ、癒されていた。
2021 9/9 237

* なにげなく、旧刊の「湖(うみ)の本 118 歴史・人・日常」を別の場所に置いて、気ままに読み返して行くと、これが我ながら豊かに面白いのにビックリした。こういう編集本のなかに私の人間的エッセンスが端的に表れていると気付くことができた。なにしろ読みやすい。「湖(うみ)の本」読者の皆さんに、数多い巻・巻のなかのこの手の編纂ものへ時折は立ち帰って頂けると嬉しい。
2021 9/9 237

* 機械の無かった昔にやたら走り書きした小説の眼のような原稿用紙が幾つも幾つも見つかる。それでも書き放しでなく散々に推敲の手がかかり、眼が舞いそうにあっちこちへ線で繋がっていたり。それをいま機械にさらに推敲しつつ書き写すとなると原稿用紙一枚に一時間で足りない。それでも作の寿命を繋いでやる、それはそれで楽しめる仕事になる。三十枚も書けていれば、その書写には日に十時間(とてもそんなに懸かってられない)としても一ヶ月かかる。是非にという仕事なら一と月が二た月でも掛けねばナランのが作家の本職なのだから仕方ない。『資時出家』『初稿・雲居寺跡』『チャイムが鳴って更級日記』『秋成 序の景』『黒谷』など、みな、その手で甦っていった。早くしてくれという書きっ放し古原稿の中途原稿の苦情が、このところ頻りに聞こえてくる。いやはや。二度の訪中国旅行記、旧ソ連・グルジア旅行記も大學ノートのまま。それをいえば高校大学就職勤務の昔の日記はびっしり大學ノートで二十数冊積まれてある。「読み・書き・読書」と自分の生活を要約しているが「書いた」モノの量には我ながら呆れる。
ま、可能な限り、心入れて一つ一つ一つと向き合うしかない、その間にも日々新たな書き物が増えるが、前世紀末このかたの大方は機械で書けている、つまり機械に保存してある。
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★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 華燭   (昭和三十四・三十五年 二十三・二十四二歳 医学書院編集部にに就職・結婚)

日あらたに地にいろづきて落ち柿の
熟れつつにほふ雨のあしたは

ものみなのいのちかなしも夕まけて
家路に匂ふ花に祈れば

黒き蝉のちさきがなきて杉落葉を
しみじみ焚けばかなしからずや

* 歌集『少年前』に 「観照 ー 感傷」 とあえて副題していた。人事や生活を謳おうという気をもともとあまり持たない歌詠みだった。
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★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 華燭   (昭和三十四・三十五年 二十三・二十四二歳 医学書院編集部にに就職・結婚)

父となり母とならむの朝はれて
地(つち)にくまなき黄金(きん)のいちやう葉  (迪子妊娠)

霜の味してそのリンゴ噛む迪子
愛(は)しきかもうづ朝日子笑みもあらたし

ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこに
うづ朝日子の育ちゆく日ぞ
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★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 華燭   (昭和三十四・三十五年 二十三・二十四二歳 医学書院編集部に就職・結婚)

「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)の
よろこびぞこれ風のすずしさ   (七月二十七日 朝日子誕生二首)

迪子迪子ただうれしさに迪子とよびて
水ふふまする吾は夫(せ)なれば

* 出血性素因があって、出産はどうかと医科歯科大で注意され、即刻に当時血液学会会長の東邦大森田久男先生にお願いした。「大丈夫、無事に産ませて上げる」と太鼓判を戴いて、予定日前三週ほども入院、一九六○年、燃えさかる安保闘争の頃、無事長女朝日子が我が家に到来した。編集職は、幸い社外活動が多いのを便宜に、遠い大森の東邦大までよく見舞った。「朝日子」という名は、結婚より以前から私のアタマに宿っていた。
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★ 秦 恒平歌集 『少年』 より
☆ 華燭   (昭和三十四・三十五年 二十三・二十四二歳 医学書院編集部に就職・結婚)

そのそこに光り添ふるや朝日子の
はしくも白き菊咲けるかも

あはとみる雪消(やきげ)の朝のしらぎくの
葉は立ち枯れて咲きしづまれり

* 歌集『少年』はこのさきにもう少し作がつづくが、「少年」としては、こう夫となり父となり親となったところで一仕舞い「了」としておく。日々なつかしく書き出しながら、私の短歌は、畢竟、感傷そして観照ではじまって過ぎてきたのを納得する。当今「現在」短歌の奇智と奇異とをゴロタ石の道を踏むように歩くには、所詮違和と不快を覚える、そこは、みなさん好きずきということで、構う気はない。 (朝に。)
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