* 謹賀新年 二○○五年 (平成十七年) 土 元旦
百禄是荷 手にうくるなになけれども日の光 六九郎
雪といふ不思議なもののふる我ぞ 恒平
あけぼのは春と定めてためらはず 湖
ご平安・ご多祥を祈ります。
歳末、六十九歳になりました。今年は、六十の坂を登りつめます。
年頭の感慨とて、ありません。昨日が今日に。慶びはそれで十分。
何病息災か知れませんが、われわれ夫婦も、相変り無い翁嫗です。
今年も、どうかよろしくお付き合い下さい。
West-Tokyo Hoya e-OLD 湖(うみ)の本 秦 恒平
* もののみごとに、土曜日の洒落ではないが早々に「土」がついた。年賀メールの発送手違いで、二組に分けての多数同送に失敗した、わたしひとりのミスならいいが、受信される皆さんにご迷惑をかけてしまった。申し訳なく、はなから、お詫び申し上げます。
昔に一度やったことがあり、その時よりも人数が多い。言忌みもしていられない、詫びるしかない。ごめんなさい。
* 五個荘の川島民親さん心入れの「はなびら餅」と「ゑくぼ」が贈られてきた。「はなびら餅」はいわば御所方の雑煮菓子で、優美に美味なことで名を知られている。妻と、はやばや、一つをわけて戴いた。懐かしい味、叔母の初釜の日には「道喜」から取り寄せた「はなびら餅」で「続き薄」の濃茶を廻しのむのが、目出度い決まりであった。
2005 1・1 40
* 十時半には息子達が到着。「読み初め」には、わたしの『からだことば・こころことば』から、「手がたい」と題した一文を読む。「手がたい」だけで、とてつもなく大きくなる人も組織も、案外歴史上にない、その辺が、難しい。面白い。
はなびら餅を一人一人に。そしてお雑煮を祝い、甕の酒をあけて丈の柄杓で、屠蘇がわりに。
* 賀状たくさん。 息子、高いびきで仮睡、疲れがたまっているのだろう、大晦日もない舞台稽古の未だ其のエンディングが纏まらないという。明日はもう稽古初めとか。
天神社へ初詣。予報をくつがえす雪後の好天、ちいさな村社で何の美々しげもない社殿が、青空と白雲の下でこざっぱりと。地元の人が普段着に近い気楽さで行列して入れての鈴を鳴らす。焚き火のにおい。足下は残雪。例年よりも心地よい初詣でが出来た。
2005 1・1 40
* 息子達は、寛いでいった。よく食べよく飲んでいった。甕の酒を半分ほど甕ごと持って帰った。彼女の方がことにいける口だ。四人で映画「オペラ座の怪人」をみて、また泣いた。おおまかな娯楽映画だが、音楽が利いていて、物語にハートがある。もう何度見てきたか知れないが必ず感動する。感動して泣きたければ、間違いなしこの「オペラ座の怪人」と、我が家では決まっている。若い二人が珍しく二人とも此の映画を知らなかったので、楽しめた。
舞台の仕事が気になるのだろう、少し早いけれど八時前には帰した。
2005 1・1 40
* 誡められていたのに、よく飲んでよく食べた。そうそう、朝に舞い込んだ宅急便の「おせち」は、或る映画女優の事務所から建日子へのものと判明した。帰りに、三浦景生作、巧緻に創られた陶器に染色した春めく香合やなにか、いろいろ持たせてやったのと一緒に、持って帰った。今は二人とも舞台の稽古に全身を縛られている。調理されたいい「おせち」は役に立つ。
彼らが帰ったあと、忘れていたたらば蟹の豪快な脚を五本も平らげて、ワインを。絶好味。いやもう戦中の欠食児は、いつまでたっても口いやしい。勘弁なと云っておく。
さて年賀状の返事も書かなかった。機械をしめてやすもう、とても眠い。もう十五分で元日も通りすぎて行く。それでいいのだ。
2005 1・1 40
* 眼が覚めて二日の雑煮を祝いに床を出たのは、午後三時半。朝の七時半頃一度起きたがすぐまた寝床に戻って、そのまま熟睡、文字通りの「寝正月」をした。かつてないこと。黙って寝かせておいてもらって、よかった。
夢は沢山見ていたが、イヤな夢はなかった。それはもう澄み切ってきれいな湖か川か海かを、亡くなった新門前の父と釣りバカのハマちゃんと三人で泳いでいた。きらきらと一点のしみもなく照った真清水の「みづうみ」であった。もっとも、一個所で、うみへびの巣に出逢った。かなりのへびが固まっていた。幸い恐怖感もなしに泳ぎ離れていった。
そのほかにもいろいろ夢を見ていた。大きなバーでうまい洋酒を贅沢に飲んでいたりした。おおかたもう忘れた。
テレビの前に行くと、「北の国から」の最終幕のところだった、ほたるが子供といつしょに、離れ暮らしていた夫の所へ旅立ちたいと、父と兄とに告げる。中島朋子のきわだって見事な演技をみせる終幕だ、わずか十五分ほどだが、十二分満たされる場面で、その他全部を見逃したにしても満足した。泣いた。そして幸せな役者達だと祝福した。あれだけのドラマ、あれだけの役。人の胸に長く生きて行ける。
すぐ続いて、伝統芸能の番組で、望月太左衛がタテの鼓をうって出演している女組、京の四季の壽を聴いた。新門前の父が機嫌がいいとよく口ずさんだ、めでたいめでたい祝言唄である。笛も鼓もあれもこれも、太左衛さんの会ではすっかり顔なじみの組で、すこぶるめでたい佳い気持ち。よかつた。
司会の一人をタレント京野ことみが勤めていた。秦建日子の書いていたドラマ「編集王」の芯になっていた女優だ、感じが佳い。
それから遥か南の南の海の生物たちの生活を描いて、NHKの好きなアナウンサーの独り武内陶子がナレートする美しい番組を見ていた。たちまちに五時を過ぎた。
2005 1・2 40
* 三が日で年賀状は、やはりかなり戴いた。大方は返礼も出来ずに、春の湖の本刊行にあずける。電子メールは、大きく二つに分けて、これまた相当電送できている。もはやこれが簡略ともいえない時代になってきた。ただ同報同文というのは難しい。書きすぎても簡単すぎてもいけないし。この春は、あえて建日子の後押しをさせてもらった。彼の世間とわたしのとは違いがあり、それだけに、まッ、いいかと親バカのついでに間違えた。送り手順をまちがえた。
2005 1・3 40
* 入浴後、たっぷりと蟹を食べてビールを楽しんだ。前夜寝ていない。脳天から鼻柱の右筋へ縦にながい針を立てたような感触有り、寝るが勝ち。 日付は変わっている。
* 新年来、というと大げさになるが、いいことも、気の重いことも、半々にある。なにしろ新年へカウントダウンを終えていきなり、賀詞「同報同送」の手続きをまんまと間違えたぐらいだから、お話しにならない出だしであった。が、べつに昨夜から今日へ、気分を沈ませる、わたしとしては酷いほど辛いことが起きている。ま、「闇に言い置く」ことだから、この辺は闇の向こうでは、どうか耳を塞いでいてほしい。腹膨れての吐瀉のようなもの。
* 昨日、嫁がせた娘朝日子の「メール仲間」であると名乗る未知の人から、「朝日子さんは元気にしていて、いまは自分たちの仲間の掲示板に小説を毎日少しずつ書いています」と、わたしにメールが届いた。
えッ、小説…。
朝日子が「ものを書く」のは、弟の建日子が書くのよりも「よく分かる」と云いたいほど、もし姉弟でものを「書き出す」なら、100対0で姉の方がと、我々も思い、そう観てくれている編集者も何人もいた。姉娘の作の一端は、「e-文庫・湖(umi)」に示されてある。必ずしも身贔屓で載せたのではない。
* 現実は、まざまざと「逆」になった。弟の方は、すでに舞台の作・演出から、テレビの連続ドラマの脚本から、今度は真ッ当にカッコよく処女小説まで出して、好調に版も重ねている。
親しい人たちの誰の思いにも、もし姉の朝日子が書いていたら、また異なる方面で落ち着いた作品へ向かっていただろうにと、想いも、言いも、し続けてきたのである。父親のわたしが、そうしたかったのでは、ない。本人がそうありたいのなら、「本気で書きたい」のなら、心行くまで書かせてやりたいなあと想っていた。むろんそんなもの「書かなくても」よろしい、構わない、イイ、のである、「人生いろいろ」なのだから。ちなみに娘達は東京都の神奈川寄りに暮らしている。
* ところが「小説を書いて」いると、わざわざ、知らせてもらった。
気になるのは、「某掲示板」に、「毎日少しずつ」書いて公開していて、「仲間たち」はけっこう読んで楽しんでいる、というのだ。仲間とは、文学・文藝の仲間ではない。全く別の、或る趣味仲間なのであるらしい。メールは、こう書かれていた。
* 私、現在でも彼女とはメール交換しております。彼女のお家にも平和な正月がやってきております。
お二人のお子様もお元気なご様子です。
今、朝日子さんは小説を書いております。「書いている」といっても、某電子掲示板に毎日少しずつです。その電子掲示板に集う皆さんと楽しく拝見しております。***好きの仲間が集う掲示板です。
やはり血は争えないものだと感心しております。
以上、簡単ではありますが、彼女の近況報告まで。 メール友達 関西
* 「掲示板」に書かれる「小説」なるもののおよそ実状が如何なものか、関心のあるわたしは、少なからず知っている。「編集者」の濾紙を経てこない創作まがいの無惨さを本気で嘆息するところから、わたしは、自分の「e-文庫・湖(umi)」という文学雑誌を始めていた・いるのだから、朝日子の「某掲示板」を心配したのは、あたりまえである。せめて何かの同人雑誌にに加わったとかいうならまだしもと、真実ヒヤリとした。
娘の、多少なりとまともな文才を知っている父親、(実は安んじて二度ほどわたしの名前で代筆すらさせてみた経験のある父親)としては、雑文は知らず、「小説」ばかりは、まともな姿勢で書いて欲しい、誰よりも「本人の為に」と愕いたのはムリではないだろう。その気持ちが、こういう返信になる。
* 朝日子が何をどう書いているか、書けているか、読みたいと思います。作品をダウンロードして、そのまま「転送」して下さいませんか。題材によって気になさるかも知れませんが、「読み手」としてもプロです、私情で動揺することはありません、安心して下さい。
此の「小説を書いている」一件に関しては、作を「読まないうち」にともあれ率直にいうなら、朝日子のためには、そういう場所に、毎日「小出しに書く」という「方法」は、極めて危険だというの、わたしの実感です。そんな技量は簡単には持てないものです。
よく「書く」ためには、孤独と挫折感に耐えて堪えて書き抜かねば、初心者ほど所詮は浮ついた作文で終わりかねない。立派に小説を「書く」気なら、風船の空気を針の先で少しずつ空気抜きするよなな方法ほど、危険なことはない。場合によると、自己満足だけを増長させ、無意味に傲慢に陥らせ、その域から抜け出せなくなってしまうのです。心配です。
孤独に耐えて書く、一つの作をしっかりと先ずは密やかに孤室で書き抜く、べきで、半端な段階から人目にさらす不用意は、かえって焦りにも繋がり、うぬぼれだけにもなり、作品を推敲し推敲し推敲して仕上げて行く課程がすっ飛んでしまう。
「書こう」と、本当にもし思い立ったのなら、その時こそ軽率に慌てないで、むしろ手で、原稿用紙に彫り込むように孤独に書いて欲しいものです。文学には、文学の踏まねばならぬ「足場」も「順」もあるのを、朝日子にもう一度も二度も思い出して欲しい。
よろしければ、このメールを「転送」してやって下さい。健康で、何より柔軟に素直に、優しく生きていて欲しいと想います。
お心遣いに感謝します。 秦恒平 2005.1.2
* 今朝その未知の人の返事が来た。
わたしは一読、暗澹とした。おそらくこの「仲介者」を以て任じているメールの人には、わたしの「暗澹」は分かるまいと想う。わたしは、娘と、日常的・生活的に交通を回復することなど、とくに望んでは居ない。そんな為にわたしが動いたことは、娘の結婚後、長い間に一度も無い。そもそも、われわれと嫁いでいった娘とは、彼女の結婚後一度も「争った」りしたことがない。「事情」やむを得ず、双方で「離れ」ざるを得なくなっただけ。そのことは、別に詳しく書いたモノがある。
* しかしながら、今や、その朝日子が、弟に刺戟されてか無関係にか、それはどっちでもいいが、こと小説を「書く」気になって現に「書いている」というのでは、無関心でいられない。少なくも、読みたい。
わたしは朝日子の文才を、或る程度公平に肯定している。小説はともあれ、優れたエッセイや、かなりの批評・評論は「書ける」と感じていた。敢えて、代筆までさせてそれを心見たこともある。
わたしだけではない、何人もの人が、今でも暗に彼女が「書く」ことを期待してくれているのを、私も妻も知っている。
そして誰より朝日子自身、彼女がいちばん望んでいたのは、はっきり言って、「世に認められる」ことだった。そのための才能は、「書く」より以外に、たぶん無いとすら知っていただろう。
* だが、いざ「書く」となれば、文学・文藝は安直には行かない。幾百回の挫折と失望に堪えねばならない。安きに逃げだしたら、元へ戻れず、戻れないことに「言い訳」をし続けねばならないのである。「言い訳」は大概他者へのなにかしら転嫁に流れ流れて行く。弟の建日子は、そういう「言い訳」から、ほぼ脱却した。
* 下記のメールの文章が、あたかも朝日子の「理解者」のつもりで、親切に書かれてあることを、わたしは疑わない。
しかし、わたしは、父として、作家として、批評家とし、て編集者として、、これでは朝日子を、より痛ましいところへ追い落とすようなもの、スポイルするものと感じ、「暗澹」とするのである。
朝日子の気持ちを、この人はやすやすと「代弁」しているつもりらしいが、メールだけの付き合いにはヴァーチャルな限界がある。それもわたしはよく知っている。
* 朝日子さんが書かれる文章についてなのですが、お父様の言われておりますような『立派に小説を「書く」気』というものとは全く違った性質のものだと思います。これを本にして出版するだとか、本気で小説を書く(プロのように)というものではなく、気楽に日記を書くように書いていらっしゃいます。ご自身、楽しみながら書いていらっしゃいます。登場人物を私たちの仲間にして楽しんでいらっしゃいます。おそらく、お父様のお考えになっている「小説」とは全く違ったものです。
以前、朝日子さんは文章を書くのを極端に嫌がっておりました。「文章を書く」ということを恐れていらっしゃいました。その朝日子さんが電子掲示板に文章を書き始めたのです。以前の朝日子さんなら、文章を書く前にお父様の仰るような難しいことを考えてしまい、旨く書けなかったのだと思います。
今、朝日子さんは、そういった、小説を書く上での難しい、いろいろなことから解放されて、自由気ままに書いていらっしゃいます。誤字脱字も一向に気にしないで、推敲もほとんどせずに、自分の気のおもむくまま書いていらっしゃいます。私はお父様とは違い、それでいいと考えております。彼女は小説家でも脚本家でもありません。
普通の我々が作文するように文章を書けるようになったのです。それはむしろ喜ばしいことだと思います。
とんでもなく失礼な物言いになってしまいますが、朝日子さんが普通に文章を書けなくなってしまったのはお父様の影響が大きいのだと考えます。彼女は、ようやく、そこから解放されたのです。彼女は小説家になる気はさらさらありません。断言していらっしゃいます。
* 「お父さんや弟さんにならんで、あなたも小説家にならないのですか」と、仮にこの人がもし尋ねたとして、「なる気はさらさらない」と答える以外にない谷間へ、上のメールを読むと、まさしくこの人達が「親切」に引きこんでいるに過ぎない。
「普通の我々が作文するように文章を書けるようになったのです。それはむしろ喜ばしいことだと思います。」
ところが、朝日子の自負と喜びとは、まちがいなく、例えばわたしが「e-文庫・湖(umi)」に載せておいたエッセイや詩(「ジャン・ムーラン公園に革命二百年の風が吹く」 「詩集小さい子よ」 「ねこ」)にある。それらは、「文章を書く上での心構えとかテクニックとかにとらわれずに」はとても書けない「才能」の片鱗を見せていた。
「朝日子さんが普通に文章を書けなくなってしまったのはお父様の影響が大きいのだと考えます。彼女は、ようやく、そこから解放されたのです。」
朝日子にわたしは、このメールの人と同じ程度の、「普通に文章を書け」などと、一度として勧めたことがない。それでは、「いい書き手」になり「いい文章」を「書きたい」であろうと察していたから。
もし朝日子が、そういう暗黙の教えから今は「逃げだそう」としているなら、(それは前も前からかも知れない。)それが彼女の「幸福」に結びつくのなら、むろん自分で決めたり選んだりすればいい、それもまた、逃げだす「言い訳」のひとつでないといいがと願うばかりだ、他者の強いていいことではない。
「解放されて、自由気ままに書いていらっしゃいます。誤字脱字も一向に気にしないで、推敲もほとんどせずに、自分の気のおもむくまま書いていらっしゃいます。私はお父様とは違い、それでいいと考えております。」
朝日子の、まだ、何をするにも「間に合う」人生を、上のような「それでいい」と断言できる、どんな足場をこのメールの人は、もっているのだろうか。明らかな、安易なスポイルではないのか。かけっこをするとか、将棋をうつとか、カラオケで歌うのならそれでもいい。だが朝日子には、ほぼ唯一自負の拠り所かも知れぬ「書く」ことで、此処に言われてある「ありさま」は、やはり、わたしには、(親バカであるが、)ただもう痛ましいのである。
* 「本になる」「プロになる」などということは、本質的にメではない。それは努力と幸運との一つの結果に過ぎない。素人が書こうが玄人が書こうが、「いい作品」はいいのであるから。そんなこと朝日子はイヤほど知っている。そしてその上で朝日子は、成れるものなら「小説家」や「脚本家」や「エッセイスト」などに、誰よりも誰よりも、成ってみたい人であった。
だが、ただ「成りたい」「成りたい」だけでは作品も生まれず、幸運も未だ来ていないのは、当たり前。
もしいよいよ「書く」気がホンモノなら、朝日子は、ひとり、ひそかに、ワードでも一太郎でもいい、今から十年、努めて向き合った方がいい、と、わたしも、母親は、思っている。応援は惜しまない。
* この、顔も知らない、住所も何も知らないメールの人は、明らかに「親切な人」であろう、こういうことを言ってきている。
* 解っていただきたいことは、私が中途半端な物言いになってしまうのは、朝日子さんが、私がお父様とコンタクトをとるということに強い拒絶反応をしめされているのです。
それでもなお、私がお父様に朝日子さんの近況をお知らせするのは、「これは正常な親子関係ではない。朝日子さんにとってもご両親さまにとっても不幸な事だ」と考えるからです。お父様が朝日子さんのことを案じていらっしゃるのなら、今は、朝日子さんをはじめご家族が健康で幸せに暮らしていらっしゃるということをお知らせしたかっただけのことです。
だから、彼女のプライバシーに配慮しながらぎりぎりの選択をおこなっているということです。私自身、つらい思いをしながらメールしております。
よけいなお世話だったのかもしれません。差し出口、申し訳ありませんでした。
ただ、朝日子さんは、お母様とは連絡をとってもいいような口ぶりでした。そっとしてあげれば、時期が来れば、お母様にはメールをされるのではないでしょうか? 私からも、お母様と連絡を取るように、折を見ては言うように心がけます。
* ああ、これに似たことを、この何年、何人も何人もがわたしたちに言い掛け、しかし、わたしたちは、わたしは、全く取り合わなかった。
なるほど、上のわたしの「物の言いよう」からも知れるように、はっきり言って、「書き手」志望の朝日子に、はわたしが大きなプレッシャーだったのは分かるだろう。てんで「書き手」になるなど思いもよらなかった弟建日子ですら、「おやじにポロカスに言われる」のを「いつもいつも一番気にされてました」と彼の担当編集者は笑っていたし、わたしも笑った。
しかし、わたしは終始コウヘイだったと思う。ダメなものはダメといい、いいときは快く褒めている。褒められることが現実にふえて安定してきたから、弟の方は今ではとても和やかに、自信すら持ってオヤジの批評をむしろ「アテ」にしてくれている。ひょっとすると、誰の批評よりも、かも知れない。父親はそうありたいと考えてきた。そう言う意味でわたしは甘い父親なのである。
わたしが安直に甘いことを平気で言うか、それともてんで無関心だったら、彼秦建日子は、否応なしに業界のいいかげんさにわるく安易に泥(なず)んで行ってたかも知れない、それがアタリマエなんだ、と。
せめて、「自分に恥ずかしくない、本気の<仕事>をしてくれよ」とだけ、わたしは、いつもいつも「お願い」してきたのである、基本的には。「普通」の「尋常」な創り手にはならないで、と。
* 「正常な親子関係ではない」?
それは、私には、たぶん朝日子にも建日子にとっても、「大きなお世話」なのである。「不幸なこと」とは、人に言われて知るのでなく、また人目には「不幸そうなまま」、が微妙にとても大切なことも、場合も、有る。そんな人間の機微を無視した、ムリに割り切ったこの人達のこんな割り込みを、わたしは、逆に「どうしてそうなるの」と、腹の中で反問してきた。愛憎は、表裏でトータルなのである。幸不幸も同じである。
そもそも「私がお父様とコンタクトをとるということに強い拒絶反応をしめされている」など、当然のハナシで不思議でも何でもない。そうすることで朝日子なりにバランスをとり、わたしたちにバランスをとってきた。その必要があったし、それはこの人には分からない。「ご親切」は感謝するが、なんで又…と、これにも怪訝な思いが、ある。
少なくも「書く」ということについて、上の程度「の考」えでただ仄めかすようだけに、わたしの耳に入れ目に入れては欲しくなかった、それは、酷い、ただ暗澹とさせることだった。それは朝日子自身がするかしないかの問題だ。
* むしろ、それぐらいなら、朝日子のメールアドレスを教えてもらえれば、先ずは母親が、喜んで娘と毎日語り合いはじめるだろう。その辺が普通にいちばん具体的な親切というものではないか。
かなり世間とは度はずれている「もの書き親子」の「仲介」など、お気の毒であった。無理なことで、ほとほと申し訳なかった。
2005 1・3 40
* 年賀に訪れた若い友人と七草粥を祝い、京の白味噌、型どおり、のお雑煮も賞味して貰った。味噌雑煮が気に入ったようでよかった。歓談。駅へ見送って、「ぺると」で珈琲を飲み、また買っても帰る。
2005 1・7 40
* 建日子が三十七か八か、になる日。あの子の生まれる前後のハラハラはたいへんだった。母さんも苦労し父さんも心労限りなかった。親はそういうものだろう、わたしの生まれるときの、夫婦ではなかった実父母たちの日々が、どんなであったのか想像も付かない。近江の彦根を離れ京都の太秦辺に隠れて、一つ半ばかりの兄恒彦をかかえ、わたしは西院辺のたぶん助産所で生まれて、たぶん其処を戸籍上の本籍にし、わたし一人の戸籍を立てられたのではないか。昔の戸籍謄本には、「父母の籍に入るを得ず」自籍を別に立てると記載してあった。つまりわたしはその瞬間に「ご先祖」になったのである。
悲しいかな、この「ご先祖」はあまり生産的でなかった。外孫に女の子が二人、それで、オシマイになりそうだ。
顧みていまなおわたしに生産力はあるのだろうか。ウーン…
* 明け方に手洗いに立ち、少し早すぎるかと床に戻り、腹をきめてぐっすり熟睡して三時半。ぱちっと目覚めた。
2005 1・8 40
* 建日子の『推理小説』 いい書評が「週刊文春」その他で出始めている。手法と表現の目新しさ、わたしの所謂「ト書き小説」体が評者を捉えているらしい。ただこの手は何度も使えないから、二作目がややしんどいだろう。
* あまり眠く、夕食までに二、三時間仮眠。飛行機なのか風なのか、高いところを波騒のように音がかける。
2005 1・9 40
* 一度目ざめたけれど幸い七時まで眠れた。六時間ほど寝ている、上等だ。さっぱりしている。
今日は秦建日子作・演出の芝居が、下北沢の「劇」小劇場で初日開幕する。明日には讀賣系テレビでの新連続ドラマ「87%」がスタートする。
2005 1・11 40
* めったなことでテレビドラマの脚本家の名前は新聞予告にも番組表にも出ないが、今夜十時からの新番組の紹介に、「秦建日子脚本」と明記されていた。落ち着いて書いているようすで、よかった。無意味なドタバタにだけはしないで欲しい。
2005 1・12 40
* 秦建日子のドラマ第一回を観た。とびきりいいとは言わないが落ち着いていて、静かながら緊張感のあるいい出だしになった。主演女優(竹内結衣)をわたしは初めて意識してみはじめたが、とても佳い。普通なままに、位と品があり、清潔感が佳い。安心して観ていられる。それに元木雅弘モックンが、またもサマ変わりに誠実な外科医師を演じてくれて見応えがある。
彼(黒木医師)の愛妻が早々に乳ガンで死んでいる。その執刀を夫であるモックンがしているのは、大学または大病院らしいのに、異例であろうと思う。隠れた事情があるのかも知れないが。またその両親が、愛娘の死後にも聟のモックンと暮らしているのはともかくとして、両親とも芝居が陰気に重すぎるのは、演出と演技とで今少し工夫が可能であろう。舅は製薬の方のエライサンのようであるが、奥さんもろとも、あれでは病的印象に過ぎる。変なところに音楽をはさむのも、効果を慎重に考えて欲しい。保険勧誘仲間、看護婦仲間など女が多くなる。そこで軽いドタバタに流れないよう演出的には引き締めた方がイイ、今日は、ま、その辺もきわどくすり抜けていたが。
医学的な扱いは、さきの夫が妻を執刀していた異例以外は、落ち着いた展開や解説ぶりで、あの辺は、見ている人にはサービスになっている。しかし保険の男主任が顧客の手紙を読む場面などは、さっさと巧みに切り上げて欲しかった、ああいう場面を一時間ドラマで二つ作ると、ぜんぶダレてしまう。
* とても好感が持てた。あれでいいと思う。あの感じのママで盛り上げて行ければ、前作に負けないだろう。
* 『87%―私の5年生存率』拝見しました。
大阪はとても寒い毎日ですが、東京はいかがですか? お変わりなくお過ごしの事と思います。
東京の劇場で終演まで仕事をしていると、テレビドラマをやっている時間に帰宅する事は不可能なのですが、今月は劇場から5,6分で帰れるホテル生活なので、息子さんの脚本のドラマ拝見する事が出来ました。
女性にとっては少し切実になりそうなドラマですが、テンポよくこれから色々な人間模様が展開されそうな感じがして面白かったです。夏川結衣さん、本木雅弘さん、古田新太さん、橋爪功さん、私の好きな役者さんたちも出ているし時間が上手く合えば又拝見したいと思います。
2月の歌舞伎座のチケットは、20日過ぎに東京へ日帰りしますので、その時に確認して又ご連絡いたします。
風邪等引きませんよう、ご自愛くださいませ。 成駒屋
* 今、建日子さんのドラマを拝見しました。医者を身内に持つものとして、考えさせられることがたくさんありました。 次回も楽しみです。 樟
* さ、安心したところでもう寝たい。夜前もせいぜい五時間睡眠だった。
2005 1・12 40
* 一日一日なにかに引きヅラれるようにして、結局俳優座のパーティも国立工藝館のパーティも棒に振った。ま、からだは休めたが。いっそ建日子の芝居を見てやればよかった。
2005 1・14 40
* 明日、やっと『月の子供』を観に行く。帰る頃には雪が降るかとも。さ、もう寝よう、十数分で日付も変わる。
2005 1・14 40
* 小豆粥の雑煮を無事に祝う。正月の三が日(白味噌仕立て)、四日(澄まし焼き餅)、七日(七草粥)、十五日(小豆粥)、新年のそれぞれの美味風味であった。鏡割りの善哉は、糖尿病検査の後日へまわしてもらった。むずかしくいえば女の骨正月とかいろいろあり、二十日頃までお正月であったろうが、我が家ではもうずうっと、十五日でお正月を通りすぎることにしている。
今朝は冷え込み厳しく、小雨がやがて雪になりそうな気配だが、昼過ぎには妻と出掛ける。秦建日子作・演出の『月の子供』とやら、もう十一日から始まっていて、今回は長丁場、二十三日まで続く。好調のようである。もう一度は観にゆく気でいる。
来週は藝術座の澤口靖子の芝居もある。病院の診察もある。こう遊び忙しい一月ははじめてだが、多年「労働」のボーナスだと思っている。
2005 1・15 40
* 冷たい雨、いまにも雪に変わりそうに。
吉祥寺までバス。井の頭線で下北沢へ。もう馴染みの「劇」小劇場へ入ると、同窓の親友で女優の原知佐子と、ぱたり。妻を中に、三人並んで席が用意されていた。通路を隔てて、妻の親友の持田夫人もお友達と。また高校後輩で書き手でもある高橋由美子さんに声を掛けられた。満席で、一度腰掛けるともう身動きならない。
* さて舞台は、申し分なかった。こうるさく苦情をのべたい何も無かった。うまくなったものだ。
けっして広くない舞台に、相当な大勢の役者達を載せて、ガンガンとダンスが繰り返されると、演劇の原点・原拠である「肉体の動き」が、いきなり昂奮を誘いかつ盛り上げる。随処に用いられる音楽が例によってよく選ばれていて、面白く、効果的だった。
そして主演小野真弓が、初舞台の前回から格別場慣れして、不思議に人懐かしい少年の舞台を軽快に創ってくれた。温和で快活、品のいい素直さが舞台進行に適切な旋律感を巻き起こし、問題がらみの少年役がはまっていた。
総じて人間の出し入れと廻し方動かし方の間がよく、その効果で、しゃべくりの演出にも快調な間が生き、所作と科白との「兼ね合い」そのものが「演劇性」を活溌に実現した。どんな舞台も「それ」こそが課題なので、「それ」が断然出来ていれば、筋書きとしての整合性をかりにアイマイに欠いても、舞台は劇的に自律回転して行って、「それ」以外の面白さなどはどうでもよくなってくる。
演劇では、肉体の舞踏的要素と言葉の音楽的要素とが仲良く親和し活躍さえすれば、面白さは半ば以上達成されていて、筋書きだの思想だのはそのあとへ付随的についてくる。およそ芝居の筋書きなどは、観ている人それぞれがそれぞれに読み取った範囲内で楽しめば済む。舞台演劇が、いわゆる「読む戯曲」を断然魅力的に引き離してしまう理由がそれだ。演劇では、肉体の運動と言葉の音楽が魅力的に先行しないと、どんなに優れた思想でも物語でも、引き立つものではない。
今日の芝居は、しかも、建日子演劇の過去から一線を画するほどの「批評性」「思想性」を感じさせた。かなりシュールですらあったから、筋書きとして舞台の進行を「読もう」としていた客は、舞台に置いて行かれたかも知れない。また俳優達がそれをどこまで「読み得て」演じていたのかもわからない。
たとえば、舞台はプラツトフォームに創られて(何の装置もないのだが)、入ってくる電車を待ってどの乗車口にも我慢づよくぎっしり人が行列しているけれど、彼等の誰一人も自分がどの電車にもけっして「乗れない」と知っている。なぜか。前の駅、前の前の駅からもう超満員で乗り込める寸隙もないのを知っている。それがラッシュアワーだけでなく、明け切らぬ始発から真夜中の終電に至るまで、そうなのである。しかも彼等は行列して電車をただもう「待っている」、たまたま事情を知らない新参の客が割り込んでそれに文句をつければ、他の全員の待ち客はそういう新参の「愚」を嗤い詰り諭すのである。
この「乗れない」「何時までもけっして乗れない」プラットフォームや、それでも待って行列している客達が、痛切な或る「寓意」を担わせられていることはすぐ察しが付く。誰も彼もが「乗りたくても乗れない」存在であり、そういう存在で溢れながらただ時間だけを経過させて行く、むなしい場所=現世なのである。飼い慣らされてしまった者達の現世である。
当然なのかどうか、そんなプラットフォームから、線路へ身を投じる存在も現れよう道理なら、プラットフォームの下の世界に降り立ち、そこで哀れな投身者を救済しようと云うアングラな役回りに身を捨てて暮らす者も出来てくる、と、作者はそんな物語も書いているのである。
作者はさらに、人や物の「名」の、空しい記号性を批評しつつ、もっと実存の本質にふれた、複雑で実質ある「名」の問題も持ち出している。『ゲド戦記』などからも学んだか。
仮にこの「名」の問題と、さきの「乗れない」者達の現世とで、相乗的に作者は何らかの課題を観客に対し提出しているのだとすると、これはもう二時間半程度の演劇時間内で「整合性」をもって解きほぐし解説するのは、ムリに近い。むずかしい。難儀である。ややこしい。
そういう、ややこしさや難儀さや難解さをいわば隠し味ふうに置いたまま、舞台で人間たちの肉体が躍り動き、人間の言葉がリズミカルに音響化し音楽化して行く。何が何であるか、意義など二の次かのように、ただもうあれやこれやどんどんと押し流され走り去って行く。そういう舞台である。そういう舞台なんだと納得すれば、リクツ抜きにすこぶる昂奮させられ面白くなる。軽薄なものではなさそうだと思いつつ、その吟味は棚に上げて面白がってられる。つまり作者の掌のうえへ安心して乗り込んでいられるのである。
* 出演者達は、小野真弓をとり囲むように引き立てながら、横山一敏が大変な活躍と好演。松下修も初めて観た昔からすれば<人が変わったかと思うほどムリな臭みが脱臭脱色されて、個性の方が風味を成してきた。からだが、よく動く。他の女優達もそれぞれに存在をアピール出来ていた。「踊れる役者」ほどつよいことが、よく分かる。
建日子が経営する塾の塾生ーたちが、思い思いのスタイルで、みな気を入れて精一杯舞台を揺るがすようにダンスして見せてくれた。広義のダンスと広義の音楽。つまりは、それだ。
* 原知佐子は、劇が終わると直ぐ、わたしの顔をのぞきこんで、「お父さんには書けないでしょう」と云った。とても書けない、こういう台本は。しかしそこに盛られたらしい思想性や批評性の方は、わたしが別の物語で散文にすれば、かなりクリアに書けるだろう。ジャンルが違うだけのことである。子と父は、にているようである、いろいろに。
それにしても「舞台」の躍動効果を、あのように把握しあのように表現することは、真似が出来ないし、息子の才能に素直に拍手を送る。
文字通り、今、彼は倍倍ゲームに臨んで、手を出すつど倍に倍にうまくなり、力強くなり、特異な世界を手に収めて行く。次を次を次をと期待したい。だがその為には、健康でなくてはと、それが心配。見るからに過労のようである。大事に大事にして欲しい。
* 眠い。
2005 1・15 40
* 十時には建日子のドラマが二回目。妻は録画の手配をして出掛けた。建日子から電話があり、芝居は超満員つづきで、わたしたちがもう一度行く土曜の席は、離れ席で辛抱してくれと。けっこうです。
ドラマの方もまだ一回しか放映していないが、東京新聞の朝刊では記者たちの座談会で、倉本聰のドラマについで第二位にラクンされ、「ラストプレゼント」よりもまだ佳いと褒められていた。金八せんせいなどを書いてきた小山内美江子さんも、コラムで、建日子の脚本を特にとりあげ褒めてくれていた。本も増し刷りしているし、いい書評も出て来ている。ここは、彼第一度めの「噴出期」だ、この期を逸せず真剣に努めてくれるといい。
井上靖は、私に、人にはだれも生涯に二度の「噴出期」があるものです、その時機にタイムリーに噴出するかしないか、が分かれ目です、と。建日子は噴出しかけている。こういうときにこそ健康の維持がなにより大切。病気や怪我や事故に万全気を配りながら力限り気持ちよく精魂を注いで仕事することだ。
2005 1・19 40
* かろうじて結衣とモックンの演技で支えられているものの、周囲の芝居で比較的安心していられるのは、杉田かほるぐらい。橋爪健などでもいつものへらへら調子に近く、ともすれば軽燥演技に流れかねない。さもなければ逆に大谷直子のようなうまい役者も、その夫役の細川俊之も、ドラマの味を殺しかねないへんに陰気なな目立ちかただ。
今一つ、今回、フラッシュバックというのか、繰り返しによる説明が目立った。そこまで必要だろうかと思う場面もあり、こういうドラマでは生命線である、テンポをゆるめてしまう。こういう陰気な主題を毅い感じでテキパキ勧めるためにも、演出にテンポが生きて欲しい。あのフラッシュバックが脚本のママなら、これは要注意であろう。
それにしても竹内結衣には気迫が漲り、元木雅弘は静かに自身のペースを崩していないのが佳い。
2005 1・19 40
* 秦さん、こんにちは。 東工大卒業生
新年明けてから朝夕と冷え込む日々ですね。寒い寒いといいながらも、やはり冬はこれ位の方が気が締まったりもします。
先日夫婦で連れ立って「月の子供」(秦建日子作・演出)を観に行ってきました。
もう一度観たいと、出演者達がエンディングの挨拶をしている時、すでに思われてなりませんでした。
純粋に楽しかったからという事ももちろんあります。思わずこちらの体も動きそうなダンスも、テンポ良い音楽も、小野真弓さん達の好演も、もっともっとこの世界に浸っていたいと感じさせるほど魅力的でした。
しかしそれ以上に、その活気あふれる舞台の背景・背後に感じられる、重層的で入り組んだ「世界」を、まだまだちゃんと観られていないと、もう一度じっくりと味わいたいと、真っ先に頭に浮かんできました。
「プラットフォーム」の上と下と、現在と過去と未来と、それらをつないでいる、列車。
その世界に、一見明るく、しかしどことなく頼りなげに「少年」は生きています。
「苦しいときには下を見ろ、月の子供を想像しろ」と学校で言われるたび、恐らくは人知れず、もしかすると自分でも意識しないうちに傷ついてきたのでしょうか。彼は地球で生まれながらも、もしかすると自分は「月の子供」にほかならないのではと、心のどこかで思い続けながら成長してきたのかもしれません。
自分は自分の本当の「名前」を知らないという、思い。形式だけの「サクラサトル」という名に感じる違和感。名無しの男に近づいてゆくのは、その名無しにこそ、外から与えられる形式とは違った本当の「名前」、もっと色濃い存在の実質のようなものを感じ取ったからなのでしょう。そして彼らプラットフォームの「下」の人々との交わりの中で、自分自身の本当の名前へ、両親の注いでくれた想いへとつながってゆく何かを、段々と掴んでゆきます。
しかしプラットフォームの上の世界は、愛情の薄い夫婦の子供になるという新たな形式を、彼にまた被せようとします。それは彼の掴みかけた色濃い実質、本当の名前といったものからは、あまりにかけ離れたものです。
プラットフォームの「上」の人達、それは実はどこにも行きたくないのに、自分でもそれに気付かず、いつも何かを待つためだけに「並んで・行列して」いる人々。並んでいるくせに本当はどこかに行く準備が出来ていない人々。彼らにとっては、少年に「形式」を被せることも、何の疑いもなく「良い事」なのでしょう。それがどんなにか少年の本当から離れたものであっても。
そして名無しの男達は、そんな少年をプラットフォームの下の世界に、救い出そうとします。そこには、たとえ決まった名前が無いとしても、もっと意味ある実質があり、恐らくは少年の両親も、その世界で生きて、彼をもうけたのでしょう。残念ながら置き去りにしてしまいましたが、それでも人に告げる事で「死なせ」はしませんでした。
・・もう一度観る機会があると良いのですが。また再公演されるかもしれないですね。
「お父さん、絵を描いてください」何度か読み返しました。
「月の子供」のプラットフォームの上と下の世界をみて、山名の藝術と世俗との間の葛藤をふと思い出しました。
取りとめなく済みません。では、くれぐれもお体大切に過ごされてください。
* 佳い「読み」である。あの舞台をただ一度観て、ここまで読みきったのは、作者はどう思うのか分からないが、作者の父親である秦モト教授は、この若い友人の久々の「あいさつ」に満点を呈したい。
この「月の子供」を書くに当たって建日子が、親を知らない「もらはれ子」であった父親の生い立ち、幼年少年の昔の心の惑いや悲しみや生きる工夫について思い致していたかどうかは知らないけれど、この卒業生の解読から察せられるように、わたし自身は「さくらさとる」少年と「はたひろかず」時代のわたしとを膚接して読み取ることは出来る。つまり身につまされるものがあったし、その後の人生に或る「索引」の附された感じすらわたしは今度の芝居にもったのである。
* 公演は明日で終わる。わたしたちは、今日の昼にもう一度観る。このドラマは、たしかに再演して練り上げてゆくことの可能な、秦建日子「初期」の代表作の一つになるだろう。
2005 1・22 40
* 下北沢の「劇」小劇場で、『月の子供』を観てきた。座席は満員で、予約してあったわれわれの席も客へまわし、妻も私も照明・音響室から、覗き込むようにして観た。若い友人をつれていった、その分は、いい席を用意してくれていた。
一週間前に観たより、舞台はさらに丁寧に手が入り、より気持ちよく分かりよくなっていた。卒業生の今朝の感想メールがよくうなづけた。ぐっといい舞台に成長していて、昨日の藝術座の芝居などとても太刀打ちならない。活気そしてフィロソフィー。作者の観念的に意図したものが、面白く形に表れた。
あとで建日子と顔があったとき、フイロソフィーの部分はしかし、十人に二人といったか、いや百人に二人と言ったのか、とにかくそうは大勢には分かってもらえていないと、むしろ反省点かのように言っていた。さもあろう。彼はそういう客達を迎え入れ、いわば「商い」をしなくてはならないのだから、さもあろう。わたしのような者ばかりが面白がるだけでは、はっきり言って稼ぎにならないわけだ。さもあろう。
それでも、この芝居には、息長く作者が胸に抱き続けてきた、ハートのぬくみがあり、それがフィロソフィカルに働いている。彼建日子のデビュー「作・演出」の「プラットホーム・ストーリイ」が、の全面に止揚されている。人間理解も、死生観も、あえていえば時代や社会への深い断念と表裏して、フィロソフィカルな少なくも或る足場が出来てきた。きのうきょうの思いつきでやっつけられることではない。わたしを肯かせたのはその辺の粘り腰とも二枚腰ともいえる、遠く長く歩き続けてきた「作劇」態度である。質実な脚を、今後にも是非活かし続けて欲しい。
* 舞台に満足して、新宿経由、ここで若い友人のために我々も加わってちょっと面白い買い物をした。そして別れ、われわれは大江戸線で練馬へ戻り、帰宅。戴いていた美味い肉をしゃぶしゃぶに、川崎の妹が暮れに呉れた佳い白ワインで、おそめの夕飯にした。
2005 1・22 40
* 晩の九時半。もう下北沢では『月の子供』千秋楽の最後の舞台も終え、みな、観劇して打ち上げを今から楽しもうとしていることだろう。
ゆっくり寝たのに、疲れがどっと来ていて。眠い。日付の変わる前に機械を仕舞う。
2005 1・23 40
* 柳田国男の『日本の祭』を読んでいて、かすかにかすかに記憶を呼び覚まされるときがある。夜に夜をついで日々の数えられていたことは、知識としても納得していた。王朝の物語を読んでいて、一日が朝から始まるなどとはとても思われない。そういう、実感とまではいかないが予感ないし推知は、たとえば祇園祭の「宵山・宵宮」でもう体感していたのだ、あの祭りのもっとも華やいだ時間は、祭礼当日の鉾巡幸以上に、前夜の宵山・宵宮にあることを、子供心にありあり感じていた。(遠い異国の例をあげて正しいかどうかいささか危ぶむけれど、クリスマスは暮れの二十五日と承知しながら、イヴの二十四日を盛大に祝いあうのも、それに等しくはないのか。)
正月用に蛤を買いに行くのが、わたしの恒例のお役であることは何度も書いているが。新門前の秦でも保谷の秦でも、その蛤汁を大根人参紅白の酢なますなどとともに「お祝いやす」と家族一礼して祝うのは、きまって大晦日の宵の食事からであった。お正月サンは大晦日の夕暮れにはもう訪れているのである。
柳田は言う、前夜の夕暮れから翌朝までが一続きの正月の年霊迎えの祭りであったと。だが、なんとなく、前夜と早朝とにいつしかに二分されてきた。それでも気持ちはどこか、もとのまま「一続き」に、この除夜から元朝へは床に入って寝ることもごく短くか、またはなにとなく通夜のうえで、極く早朝から「祭」の気持ちで雑煮を祝う風が、いまも多い、広い、と。
たしかに我が家でも、今でこそ平気で元朝を日が高くなるまででいぎたなく長寝しているけれど、新門前の秦では、「なんでやの」と子供心に堪らないほど元旦だけは、とびきり早く起こされ、ガチガチ身震いしながら顔を洗い、かなり厳粛に雑煮を祝ったのを憶えている。あれは、前夜の宵から元旦早朝まで「一連の正月祭」をしていたのだった。そういうふうには、なかなか思い至らなかっただけで、おそらく秦の父も母もそんな意識はなかったろうと思う。意識が有れば、あの父なら一席弁じて、説明してくれるぐらいはあったろう。
一つの証拠とも謂えるだろうか、昔から「初夢」とは元日の晩から二日の朝へかけて見る夢だと教わっていた。なんで元朝に見る夢ではないのだろうとまでは、子供なりに不審に感じた。そうなんだ、大晦日から元旦へは、寝ないで大歳神を祭る、それが古来本然の「祭」であったのなら、夢など、見ようがなかったのだ。
* 柳田は、「まつり」とは、「まつらふ」だと謂っている。その日ばかりは神霊の「お側にいて、なにかと奉仕する」のが「まつらふ」「まつる」意味だと。「まつはる」「まつはりつく」とも繋がっていようか。よく分かる。そして「祭」と「祭礼」とは、歴史も形もちがう。祭はいわば近親者が「お側にいて何かと奉仕する」が、祭礼には無関係な見物が参加する。
* いろんなことを思い出すものだ。が、ふしぎと、心身が澄んでゆく気がする。
2005 1・24 40
* 建日子脚本「87%」の第三回を観た。おもしろく緊張もして観た。この調子で、佳い。二人の主人公に、ますます好感をもつ。医院院長の娘にも、ヒロインの息子ソウタ君にも、気が乗ってきた。このドラマ、乳癌も問題だが癌保険も大きな問題だ。よく抑えながらリアルに扱うと、思いがけない啓蒙ドラマにもなってゆく。目も気もはなせない視聴者が居るだろう、だから慎重に丁寧に書いていってほしい。
2005 1・26 40
* 国会予算委員会での菅直人と小泉純一郎との、噛み合わない愚かしい応酬に呆れてきた眼や耳には、こういう心優しいメールや美しい音楽がささくれだちそうな心臓を宥めてくれる。建日子のドラマのいましも乳ガンに立ち向かうヒロインも、いま、わたしにはとても美しい人として、繰り返し目によみがえってくる。あの、つよく光る眼が佳い。
2005 1・27 40
* 夢の中にまで強い風が夜どおし吹いていた。八時に起きたが、腹を決めてもうすこ朝寝した。黒いマゴの声で目覚めた。なんだか百人一首の楽しみ方をいろいろ工夫している夢が、ほぼ結論を出したあたりで、起きた。夢は憶えているが、数人でする徹底的な歌合ふうであった。いっしょに遊んでくれそうな人はたぶんいないだろう。
2005 1・30 40
* 秦建日子脚本の「87%」四回目、保険外交の厳しい側面を直に打ち出し、息づまる。順調。黒木医師の入れ込みが、閾値を安易に超えないところで、しっかり緊張して欲しい。麻酔医のキャラクターに、少し先を期待する。
2005 2・2 41
* 建日子の「87%」は勢いが付いて、安心してみていられる。ヒロインがもういちど別れた亭主の妻に金を受け取りに行くだろうとは察していたが、その金の半分を保険の勧誘でミスッた相手の癌患者の枕元へ持ち込むまでは、考え及ばなくて、脱帽。
麻酔医というのは或る意味で医者の花形であった、わたしの医学書院に勤務していた頃は。女性の麻酔医でじつに優秀なお医者さんとも知り合いであった。ドラマの主治医に信頼されている若い麻酔医が、現場を離れてラーメン屋で働いていたりするのは、わたしにはあまりリアルに思えないけれど、いいかたちで登場してきて、よく働いて欲しいなと見ている。
癌の話は好きになれないけれど、グイと引っ張って毎週少し待ち遠しいのは、けっこうなこと。ドラマのはしはしに「今・此処」に立ち向かおうという考え方など、離れて暮らしていても、父と息子とに知らず知らず共鳴があるのかなあなどと、親は平気でバカになれる。
2005 2・9 41
* 息子が小学生低学年の頃の担任の先生から、みごとな「蘭の鉢」が贈られてきた。秦建日子へのお気持ちであるのは言うまでもない、瞬時に往年を想い、親の方の胸があつくなった。ちょっと言いようのない生徒であった、現在の彼の活躍をまのあたりにしているご近所やかつてのクラスメートからして、「あのタケちゃんがねえ…」と一度は絶句しただろうと想うしかないほど、家を一歩出れば外の世間では常識的には「フデキ」君であったらしい。藤井敏子先生はそんな建日子の「手」を、いつも握っていて下さった。手を離すとどこをウロツクやら知れない。彼が家の近くで自動車にはねられ入院したときも、終始気を遣って見舞って下さった。そして転校していかれたようにわたしは記憶している。
秦建日子のながい学校時代で、学校の先生と唯一人コミュニケーションのあった藤井先生。そのほかには彼は先生の名前を口にしたことが無く、一人も記憶していないらしい。
わたしは藤井先生と以来お目に掛かったことがないし、建日子も同じだろう。だが、一度二度は母親から、彼の芝居にお招きしたことはあったかも知れず、ドラマを書き始めてからも女同士にはいくらか交渉があった。忘れがたい有り難い先生なのであった。新刊の『推理小説』も母親からお贈りした。先生は建日子の仕事場をご存じない。
丈高く、しかも鉢の八方へも豪華に花房を垂れた蘭花の鉢を、日当たりのいい場所へ場所へ動かしながら、親が眺めている。いやいや、黒い青年のマゴがすぐ寄っていって、花の日盛りに心地よげに場を占める。漆黒の猫が、白にほのかに紅を点じた蘭の鉢のわきで、すばらしく似合う。
2005 2・12 41
* 黒いマゴには美意識でもありそうに、きっと蘭の鉢植えのそばへ行き、まるくなって寝ている。日盛りの縁側をこころよく感じているのだろうが。真っ黒という色のあでやかに美しいことを、マゴが、身を働かせて教えてくれる。何の色にも、赤でも青でも白でも斑色でも、ゆるぎなく似合う。夫婦でキッチンの円卓に向き合ってめいめいの仕事をしていると、その真ん中に格好良く寝そべって、安心しきって寝たり人の顔を見ていたりする。呼ぶとかすかに返辞をする。
2005 2・14 41
* 秦建日子脚本の「87%」はごく尋常なドラマとして展開している。夏川結衣と元木雅弘ががっちり取り組んでいるので、安定感、確か。まだこの先に話の展開しそうなタネ撒きもされていて、週のこの時間は楽しみにしている。
2005 2・16 41
* ありがとう。やたらめったらと忙しいですが、幸い、風邪は引いていません。
写真、ファイル名無効となってしまいます。アルファベットのタイトルに変更して再送してもらえると嬉しいのです
が。 建
* 小学校時代の先生から『推理小説』などを祝って戴いた美しい蘭の鉢植えを、写真で送ってやった。その返辞。
* もうずいぶん前になるので、知らないか、憶えていないと思うが、一夜、わたしは夢を見た。自分がからだ中に真っ黒いピンを無数に刺して、痛さに堪えかねて奔命し奔走している夢だった。それ以来、わたしはピンを抜いて行ったよ、少しずつ。真っ黒いピンにはいろんな性質の違うものがあった。痛いことは同じだった。
人は、真っ黒いピンを余儀なく全身に突き立てたまま、走りまくっている。仕方がないんだね。痛さに堪えられるうちはハリネズミのように生きるしかない、それが努力だかガンバリだか生き甲斐だか、呼び方はどうとも勝手だが、免れえない年格好はあるもので、十二分に痛みを知ったものだけが、いつか、ピンの一本ずつを自分の手で抜き去ることが、たぶん許されるものらしい。半端には、抜けないし堪えなくてはならんらしい。
かりにも黒いハリネズミのように狂いそうに駆け回っている図は、ほんとうは見よい図ではないが、当人には見えもせず、解りもしない。ただ、ボンヤリとでも少しだけ離れた場から、そういう黒いハリネズミの自身を眺められる視座は、持てれば持っていた方が、怪我が無くて済むと思うよ。いま頑張らなくて、いつ頑張れるだろう、それも本当のことだよ。病気と怪我を一におそれ、無用の人的事故に遭わないように。
藤井先生の祝い花。嬉しいこと。写真は小さくしたつもりだけど、少し重いかな。父
* その話は、たしか、父上のHPで読んだことがあります。
自分に黒いピンが刺さっているかどうかは今はよくわからないですね。
まだ、たくさん仕事がある! という嬉しさで走っているような気がするので。風邪もインフルエンザも、とりあえず跳ね除けてます。
また近いうちに保谷に行きます。 タケル
* そういう機(とき)です。機を、逞しく活かしなさい。黒いピンはだんだん深く痛く刺さってくる。逞しくからだをよく鍛え、痛みを感じ出す時期の一年でもおそくくるように、文字通りの「養生」を。いつか、与えられる仕事から、どうしてもしたい仕事へスタンスが動いてくる。それにも、気で、備えて。
藤井先生の花、綺麗でしょう。忘れないように。
わたしは通算八十三巻の「谷崎潤一郎の文学」を送り出す用意をしています。三月初めに発送。この巻頭の書き下ろし論文は、これが書きたくて必死で先ず「作家」になろうと頑張った。わたしの運命をおおきく尻押ししてくれた記念碑です。作家でなかったら、この論文はとうてい陽の目を見なかったか、うーんと時間が掛かったでしょう。太宰賞作とこの論文とで文壇に両脚で立てた。いまのきみの年ごろでした。
なんとか、残る歳月をわたしも創作につかいたい。東工大とペンクラブと、貴重な道草をたくさん食べました。もう世俗の地位なんかいらないよ。 父
2005 2・22 41
* 矢はもう弦を遠く放れているので、秦建日子脚本のドラマ「87%」は、ただもう、きゅっと体をかたくして観ていた。夏川結衣、元木雅弘ふたりの演技に未熟という疑問符をつけるムキもあるらしいが、わたしは、そんな風には毛頭観ていない。むしろ此の二人の演技で全体が緊迫度を得ていると観ている。わたしがこの二人に惚れているということであるかも知れないが、そんな身贔屓ではなく思われる。
2005 2・23 41
* 秦建日子脚本の「87%」第十回を観た。あれこれバラバラしていたものの、もう此処まで引っ張ってきた力があるので、多少のことは気にならずに、ヒロインの精一杯の生きに惹きつけられて観ている。妙なトップ屋の登場、ふつうには考えにくい、実力のありそうな麻酔女医の異様な(不自然なともいえる)漂泊が、輻輳して説得力ある感動へドラマを引きずってゆくか、その辺で統一感が歪み崩れてジタジタと終えてしまうか、もう残り少ない回数が気になる展開である。夏川結衣は、確かに演じている。
2005 3・2 42
* わたしの為の五月人形は、手入れを間違えて大方を痛めてしまったが、幸い、大将人形と馬とが疵にならずのこっている。三月の雛人形は妻の佳い一揃えが飾り棚ももろともに一具揃っていて、ときおり飾ってきたのだけれど、今は家中がせまくなり仕舞われたままのことが多いが、久々にお顔がみたい気がしているうち、もう三月三日が来てしまった。庭の桃はまだ咲かない。旧暦の頃にはどうだろうか。
2005 3・3 42
* ご近所で新たな造作の物音が。屋上庭園というのは大層すぎるけれど、書庫の上が細長い土庭にしてあり、この春は、盆栽から根うつしした梅が大きくなり、早々に枝も隠れるほど満開の花を咲かせた。これからは次々に少しずついろんな花が咲く。物干しにも、下のテラスにも、妻が丹精の(というのは褒めすぎ) 花や草の鉢がほつほつと芽吹いて春に逢おうと用意している。花どきが、まぢかい。
2005 3・7 42
* 機械の前にいて今いちばん、心にかなって嬉しい憩いは、気に入った写真を呼び出し、見入ること。黒いマゴのも家族のもある。古いのも新しいのもある。秘蔵、優婉清麗赤裸々の絶景もある。
2005 3・7 42
* 秦建日子の「87%」は、案じたように、女麻酔医のあたりから型が崩れて不自然な結末へ行きそうな按排なのは、心配。黒木医師の奥さんの手術死を、ドラマ全体が引きずりすぎて、お荷物にしてしまう気がする。トップ屋があらわれたり暴露記事に記者会見したり、なんだか普通のドラマになってきた。
黒木医師とヒロインとの医療をめぐるかちっとした信頼関係が、比較的ボロの出ない医療場面を背景に進行してきたのだが、来週はもう最終回とか。すっきりと、感動を盛り上げてくれるのだろうか。終盤へかけて、収斂するよりも話題が散開してきた。そんなハラハラを感じながら観ていた。
ヒロインはよく役柄を彫り込みながら、患者として母として生活者としての存在感を健康に見せていて、好もしい。それが美しさにも見えるところが、演技か。気持ちのいい女優である。
2005 3・9 42
* 雪暮れて掻き暗れて
雪糅ての風に震え上がる日の暮れ、伊賀からひとしきり白い風が吹きました。山はふたたび雪化粧。
夜七時、大阪の友人が、桂文枝師匠の訃を報らせてきました。
大阪市平野区のお寺で続けられてきた「桂文枝一門落語研究会“季寄せ”」が、明日、19回目を迎えます。地元のお年寄りがほとんどの小さな小さな会ですが、文枝師匠はとても大事にされ、気を張って務めてらっしゃいました。そのあたりがどこからか落語好きに知られて、前回など、そういう人達も連れ立って来ていました。
落語マニアで埋まる大きなホールの会より、師匠はこういった会を続けていく方をよほど大事に、また、気に入ってらしたようにお見受けします。毎回違うネタで、噺に対する思うところを存分に披瀝なさり、お客さんの耳を肥やし、お弟子さんも育ててらっしゃいました。
会主のご住職が、「この会は、来年、20回を迎えます。皆勤の方は文枝師匠の噺を20種聴いたことになります」とおっしゃって、会場に感の声が上がった昨年師走、討ち入りの前日に行なわれた会で、高座を務められたあと、気軽な洋装にお召し替えになり、お客さんとご一緒におそばを召し上がって、お帰りになるひとりひとりにお礼を述べられていたお姿を、いま一番思います。
本日昼過ぎ、伊賀市に買い物の用があり、入院なさってらっしゃる病院のすぐ近くを通りましたの。呂大夫さんの時と同じ感じがここ数日きていたものですから、覚悟しておりましたけれど‥可惜(あたら)。 雀
* わたしも、もう一度も二度も文枝は聴きたかった。残念だ。有楽町のヨミウリホールであったろうか、いや、マリオンだったと思う、満場に水を打ったほど人情噺をしみじみ聴かせた晩のことを忘れがたい。
それだけでなく、この噺家の風貌が、亡くなった秦の父の若い頃にまるで生き写しのようで、この人の高座は、テレビで出逢っていてもまたひと味もふた味も懐かしくて見惚れ聴き惚れたのであった。ご冥福を心より祈る。
記憶違いでなければ、そういう文枝師匠のことを、雀さんには、わたしが手紙かメールかで教えた気がする。それから雀さんのオッカケが始まったのではなかったか。めあてが抜群だっただけに、気落ちさこそとお察しする。
雀さんは文楽の人形方の文雀師匠、落語の文枝師匠をもっぱらおっかけていたように思う。文楽も落語も公演や高座などの催しがありおっかけやすくはある。その点、小説家は気の毒であり、またいたって愛想がない。愛想をつかされるオソレの方が多いから難儀である。
2005 3・12 42
* 土曜日曜はメールが少ない。小旅行などに出掛ける。中にはインドへ行きます、シチリアまで行きますと、おおがかりな旅支度をしていた人もいる。わたしたちは、気恥ずかしいほど何処へも出掛けないで、黒いマゴと暮らしている。黒いマゴの「マーゴ」が留守番を強いられても、まずその日のうちに吾々は帰ってくる。よほど気まぐれを起こしても夫婦して二泊とは家を空けない。
黒猫「マーゴ」はいまや私たちよりも有名かも知れない、息子のドラマで黒木医師の家で舅姑のそばで暮らしているからだ。
2005 3・12 42
* 結婚して四十六年。快晴、爽冷。早く起きて、明治のこと、少し校正。
今日は、勘九郎改め中村勘三郎襲名興行に、木挽町へ。昼夜、楽しんでくる。よく切符が取れたなあ、松嶋屋に感謝。
2005 3・14 42
* 秦建日子作「87% 私の五年生存率」第十回で無事に完了した。心配していたが杞憂であった、気持ちよく、さほどの無理不自然にも陥ることなく、ま、テレビドラマとして下品にもアホクサクもならず終えてよかった。衝撃の盛り上がりなど無かったけれど、このドラマはこれでよかったと思う。拍手を送った。楽しんだ。夏川結衣がショートヘアで若々しく美しく似合い、元木雅弘はさいごまでモックン流を貫いて右顧左眄の揺れなく、ともに清々しいペアであった。この二人がじつにしっかりしていて、ワキ役が逆に二人に引き立てて貰っていたと言っておく。ごくろうさま。
2005 3・16 42
* おはようございます。花粉症お辛そうですね、お大事に。
京都にも相当量飛んでいるようですが、私は大丈夫です。
今日から、櫻だよりが新聞に載りはじめました。まだ、みんなつぼみ。
ご一緒に花を見られたら嬉しいのですが。楽しみにしています。 のばら
* ふと、いま、自分にはこういう「いとこ」が何人いるのだろうと想像した。
生みの母は三人姉妹の中娘だったと聞いていて、明らかに伯母と叔母すじに何人もいとこがいるらしい。
実の父には姉が三人、異腹の弟妹が五人いたのだから、わたしの知っているかぎりでも何人もいとこがあるはず。
秦の父には妹が一人居たが、終生独身であった。
また母は長兄をはじめ姉を何人も持っていたから、わたしの知らないいとこがいっぱいいるはずだ。上のメールの従妹は、母長兄の娘で、わたしとほぼ年の違わないこの従妹だけは、小さい頃に家同士のかすかな往来があった。他に妹も一人二人いた気がする。その伯父夫妻もなくなっている。
ついでながら、きょうだいとなると、生みの母には寡婦となるまでに一女三男があった。わたしには父を異にした姉や兄たちであり、もう一人としてこの世にいない。母はその後に父と出逢い兄北沢恒彦とわたしとを生んだ。その兄は死んだ。実の父は、その母と裂かれてから、他の人と結婚して二人の娘をもうけた。わたしには母のちがう妹たちで、川崎市に元気に暮らしている。もう四半世紀も会ったことがない。
父も母ももういない。秦の父も母も叔母ももういない。
妻の方にも妻のいとこたちは両手の指でもまるで足らないいとこたちがいる。わたしも要約大方は覚えている。
こんなふうに血縁親戚は相当な広範囲に及んでいるけれど、ほとんどわたしは無縁に育ち暮らしてきた。実の兄とですら四十代の半ば過ぎてやっと顔を見合った。兄が死ぬまでに、ま、少しゆっくり話したのは一度だけである。
2005 3・19 42
* 春雨に目にしみるお墓の、紅い花二輪であった。いつも青い葉ものしかあげないわたしは、花立ての花の色に、一瞬墓前で目が眩む心地がした。墓の中で母は自分の血をわけた姪が、大好きで頼り切っていた長兄の娘が、墓参りに来てくれるのをどんなに喜んでいただろう、と、想う。
2005 3・24 42
* 紅椿 紅やゝぬけてかはゆしと便座に居りて穏(おだ)しき朝よ 遠
* 妻も、六十九歳。花をみにゆく。
* 花は西の丸公園でも千鳥ヶ淵を遠望しても、まだ二分咲きともいえなかった。近代美術館で丹念に「ゴッホ展」を観て、「横山操」展、「中村正義」展、「常設」展も観てきた。工藝館では「人間国宝の花」展、「近代工藝の百年」展も観てきた。
さすがに期待に違わぬゴッホ展で、多くの作品に釘付けになった。「古靴」「星空のカフェテラス」「糸杉」「悲しむ老人」など。またセザンヌ、ゴーギャンの数少ないが参考作品に深く頷いてきた。
* 西の丸公園をぬけ、タクシーで宮城をぐるりとまわって、国際フォーラムの、日比谷から移転した「東天紅」で、遅い昼食とも早い夕食とも言える食事を楽しんだ。フランス料理風とも日本懐石風情ともいえる中華料理で、うまかった。マオタイと紹興酒とを堪能し、ぶらりと歩いて、クラブで休息。いい具合に酒気が身内に発酵し、機嫌良く帰路に就いた。
* 帰ったら、建日子から電話で、ママの誕生日、おめでとう、と。
* 九時半だが、機嫌よく今夜はもう、気楽に過ごそう。映画でもあれば観てもいいし、すこしばかり校正してもいい。一日出ていると、やはり、眼へ花粉の負担は相当きつい。腫れぼったく、つらい。あすは休息できる。
2005 4・5 43
* 敗戦、すぐ宮様内閣として東久邇宮が組閣、わたしは丹波の山の中で国民学校三年生の夏休み中だった。
二学期の十月には幣原(しではら)喜重郎内閣が出来た。この人は戦時中にかなり骨のある外交の筋を通そうとした。
二十一年五月には公職追放された鳩山一郎に頼まれて吉田茂が第一次内閣を組織した。わたしはあいかわらず戦時疎開先の丹波で母と二人暮らしていた。この年の秋にわたしは腎臓病をえて、母が咄嗟の判断で緊急京都の樋口医院にかけこみ、危ない命を助かった。
翌二十二年五月三日新憲法が施行され、三週間後には社会党の片山哲連立内閣が出来ていたとき、わたしは母校の小学六年生で、初代生徒会長に選挙されていた。
小学校をいままさに卒業し、六三制の新制中学進学を目前に控えていた三月十日、京都府出身の芦田均が片山内閣をついで、連立内閣を組織した。中学一年の秋、ようやくわたしは与謝野源氏を耽読し、茶の湯の稽古に興趣を覚えていた十月には、第二次吉田茂内閣が出来た。
* この頃までに印象に残るのは、官公労、三公社五現業でのスト権がGHQ指令により剥奪されていたこと。労働者であることに違いはないのにと感じていた。
いま、われわれの平和憲法が、占領政策の一貫として押し付けられたのだから自発的に改めようと声高に息巻く人たちは、それなら、こういう別方面で押し付けられた占領政策についても、白紙から考え直そうと言うだろうか。誰も言わない。言うてしかるべき政党が疲弊しきっている。おそまつ。
働いている人達、使用されている人達に、スト権を乱発せよなどとわたしは絶対に思わないが、誰にでも自分たちの基本的人権を守ろうと闘うに足る足場は、平等にあたえられていなければならない。そう思う。
2005 4・8 43
* 思いがけぬ来客(二人)で、とても楽しんだ。近くのフランス料理の店でわたしはワインを人の何倍も飲んだ。料理もうまかったが、気の置けない会話のはずむ時間は最高に楽しい。家に帰って一緒に映画をみているうちわたしはいい機嫌にうとうとしてしまい、若い二人は帰っていった。嬉しい時間であった。こういうことが、不意にいつでも何度もあると嬉しい。
2005 4・13 43
* 築山から元旦に近所のお宮で撮った写真をもらった。妻と息子とならんだこの写真のわたしが、めったになく、ほんとにめったになくスマートに撮れていて。ヘヘヘ。
2005 4・14 43
* 気がかりで、少し気の急いていた仕事を済ませた。難儀な仕事を先に片づけてしまうと、視野が広く明るくなる、肩の荷をおろすとはうまい言い方だ。四月は、歯医者通い以外にいまぶん煩わしい予定がない。バンザイだ。
明日の午後はピアノの調律に人が見える。二時間はかかるだろう、美術館も開いていない日だし。
2005 4・17 43
* 黒いマゴに三時と七時半に起こされ、もうちょっとと、寝てしまったのが失敗。泥のように寝ていた。失敗というにもあたらないか、誰にメイワクをかけるのでもなく、少しぐらい熟睡する方がわたしには好い。それとも七時半に起きてしまい、すぐ出かけてせめて群馬とか水戸とか名古屋とか銚子あたりまで電車の旅をしてきてもよかったが、からだは睡眠を求めていた。
2005 4・19 43
* 今日、最愛の猫であったネコとノコの母子の写真をスキャンし、拡大写真で見ているうちにおいおい泣いていた。ネコはそこそこ長生きしてくれたし、ノコはもっと長生きしてわたしたちを愛してくれた。黒い可愛いマゴには、ノコよりなお長生きして欲しい。
わたしの今使っているデジカメの性能は上々で、もともとが大きく撮れ、さらに拡大が利く。ふつうのカメラとちがい拡大してもすばらしく綺麗。もっぱら花やマゴや空模様を、そして一緒に出ると妻をとっている。真っ黒で目だけのマゴは難しいがたくさん撮ってある。花の写真が最高に佳く、もともと写真は少し自慢な方だが、機械がいいのでどの花、花も、艶めいて美しく照っている。
妻は、ひとが六十九とは信じないほど、健康なときなら、気も、顔の肌も実年齢よりうんと若い。四十、五十でも衰えてみえる人はいくらでもいる。
* 叔母の稽古場は京の祇園町ちかくにあったし、数十年も若やいだ社中の出入りが絶えなかったから、わたしは、女の和服姿には、晴のも常のも、存分に見知ってきた。指先をそれとなく生地にふれて佳さを確かめるぐらい、男のわたしでも出来た。和服の女を意図して書いたことは多くない、そんなのは自然に出来ることで、とくべつな気持ちではなかった。
着倒れの京の女達は、口に出して着物を自慢することはめったになかった、一瞥してすぐ分かるのだから。
東京で、頭抜けて和服姿のいい人には、まだ残念だが数えるほども出会っていない。歌舞伎座でみかける幸四郎夫人や、舞踊の藤間由子の娘で新橋に出ていた (今は知らない)*子ちゃんの普段の着物、叔母のピカ一の弟子で京の中京の呉服屋から東京へ嫁いでいた、そして若くて亡くなった人の、友人の宴会で再会した日の、和服姿。但しこれは京ものではあり、また当然の優美な身ごなしであった。
女の和服は着飾っては仕方がない。見るからにまずは懐かしいと見せてくれなくては。そして、とびきり磨かれた「女体の艶」を感じさせなくては。
2005 4・21 43
* わたしが自分で撮ったなかで心から懐かしいスナップの一枚は、あれで娘・朝日子がせいぜい三つかそんな頃の、京の祇園祭り。
今にも家の前を神輿が通るだろうという縄手通りで撮っている。家の前に床几が出してあるが、女達は、みんな立っている。朝日子も母親も、われわれがそれは大好きだったその家の娘の*ちゃんも、二人の若いお手伝いさんも、みんな、いかにも涼しそうな普段着で、浴衣すら着ていない。
道の向かい側から撮ったのが、思い思いの恰好でとても自然に写っていて、和やかに心すゞやか。まんなかの*ちゃんは、愛らしい半袖の白いブラウスに淡泊なスカート、庭履きのサンダルですらりと立って。あれでもう大学生だったか。品よく、静かに愛くるしく、いささかの気取りもない。若かりし妻もおさない朝日子を見まもって、なんとも楽しそうに。もうやがて神輿がくる直前の祭り景気が写真にただよっている。
あれで、「慈子」の原作をもう頭に置いていたろうか、まだその前か。あの頃になら、よろこんで戻りたい。親ばかながら、朝日子がほんとに可愛かった。
2005 4・24 43
* 関西のある本屋の新刊に、「伏見の歴史と文化」「伏見の自然と環境」などが、叢書で出揃っていた。刊行の趣旨には、「伏見市の復活をもとめて」とある。「伏見学」という提唱の、大学研究会も出来ている。ホウと声をあげた。
夢のようにときどき思い出していた。ひょっとしてわたしは間違えていなかったろうかと。
ちょうど五十年昔のことだ、大学での或るレポートに、わたしは全く同趣旨の私見を盛った一文を提出し、わるくない評価で単位を獲得していた、「伏見市と伏見区との問題」を考えていたのである。
わたしは当時の「伏見区」にも、それより以前に短く実在した「伏見市」にも、現実には何の縁故もなかった。幼少の頃、父に連れられ、父と仲の良かった同業のラジオ屋さんに二度ほど行ったことがある、それぐらいなものだった、が、伏見桃山が秀吉栄華の夢の跡であることは知っていた。明治天皇の御陵も桃山にあった。
いま、伏見区が、それ以前に一時伏見市であったのを記憶している人は、地元でも少ないだろう。わたしは、その事実、それが京都市伏見区に編成替えになった事実、その推移の意味と評価に、かすかだが興味を持っていた。それでそんなレポートの題を選んだのだった。
同じ意向に出た研究書が、五十年後の今刊行されているのにビックリした。私のなかででも、「伏見市」なんて、ほんまにあったんかいなと夢の感覚にボヤケかけていたぐらい。
* 死んだ兄北沢恒彦の住所が、ながく伏見区にあり、家族と別居して移り住んでいた住所も伏見区内にあった。小説を書いている甥の恒(黒川創)たち三きょうだいもむろん伏見で大きくなった。まだ小説どころでなかった恒が、大学を出て上京し、よく保谷のわたしたちの家に遊びに来て、盛んにわたしから「小説が本命だよ」とけしかけられたり、出世作のもとになった伊藤若冲の話をして聞かせたり、大きな画集を貸してやったりしていたときにも、「伏見」はお前の一対象世界に十分成るのだから、頭に置いていい財産にするといいよと、二度三度話したものだ。若冲のことに話題が行ったのも、伏見区のあるお寺の奥山に、彼の構想し配置した石仏群が隠れていること、一度ぜひ観ておくと佳いよと教えたのが始まりだった。彼は何も知らなかった。わたしはその寺や石仏の山庭のことを新聞小説の『冬祭り』にすでに書いていた。
兄がいる。いた。それも「伏見」をなにとなく身近に感じさせていた。
思いがけない本の広告が来ていたので、ぜひというほどの気はなかったけれど、注文することにした。
2005 4・27 43
* ピアノの調律が、三回、都合八、九時間かけて、きれいに出来た。ながく放っておいた内におそろしくホコリを喰っていたし、音調が狂っていた。ひさしぶりに妻がたどたどしく楽しんでいる。ピアノ自慢の卒業生クンを家に呼んで久しぶりにシューマンやシューベルトを弾いてもらおうか。
2005 4・27 43
* そういえば、昨日深夜に古いフォルダの整理をしていて、あれで平成十一年師走に、甥の北沢猛がウイーンから送ってきていた、長いメールを、たぶん「初めて」読んだ。何故かなら、そのメールは長そうなのに総化けで届いていて、どうしようもなく、だが保存してあったらしい。で、開いてみると、やはり総化け。削除しようと思い、カーソルを下げてゆくと、なんと、うしろに「日本文に化けて」メール本文が現れるではないか、愕いた。機械のマカふしぎというものか、いささか気味悪いが、機械環境がこの六七年の内には激変していて、何かが働いて総化け文面を翻訳してくれたのだろう。兄の自死後のメールで、猛は、父の思い出などを書いていた。
兄は、死の直前まで京都精華大学で教壇に立っていて、大学の機械で、よくメールをくれた。猛の置き忘れのような昔メールを読みながら、しっとり小雨の精華大学へ妻と二人で(ここであの世界的な版画家の名前が出てこない。昨日テレビ番組の特集を観て、あんなに感動していたのに。ウーンと、ウーンと、ウーンと、出てこない。アッ…)棟方志功展を、わざわざ観にいった日のことが懐かしく思い出された。兄の死のあとであった。
2005 4・29 43
* 夫婦で歯医者通いも三週目、そのあいだに、すっかり新緑一色に。点綴して、つつじやさつきやすみれ系の花花が新鮮無垢な花色を誇るように、咲き燃えている。閑静な住宅街に歯科医院はあり、家々は思い思いに好みの花を咲かせている。静かで、日光は透くようにあかるく、うっとりする。春爛漫、こういう日はそう再々はないものだ。
* 帰り道、バスを途中で降り、フランス料理の「リヨン」で、今日は昼のフルコースを奢る。ワインがよく、満足の食事だった。保谷駅ではスーパーで買い物、「ぺると」で若いマスターと雑談して、ゆったり歩いて帰宅。
2005 4・30 43
* 人によると十日間も連休だそうだ。勤め人はどんなにラクだろう。わたしたちもお相伴して、なにもかもほっぽり出してノンビリさせてもらいたい。ただしノンビリすると、つい酒を飲み、ものを食べるからいけない。辛抱のない爺ぃになったものだ。
2005 4・30 43
* 黒いマゴに、朝ばや、足の爪先を咬んで起こされ、そのまま起きた。校正刷りをもってどこか喫茶店に入ってこよう。歯医者どまり、しばらく街へ出ていない。
2005 5・2 44
* ウイーンの甥北澤猛の久しぶりメールが届いた。研究生らしい大学生活が続いているらしい。姉街子とは親しい連絡があるらしいが、兄黒川創(北澤恒)とはもう二年も疎遠なまま、と。運命の致すところ余儀なく兄北澤恒彦とわたしとは、一緒に暮らした半片の記憶もなく、別れ別れに育った秦家の「ひとり子」体験者なので、いわゆる兄弟間の軋轢や葛藤も知らないし、言うに言われぬ親愛の情も知らない。親という扇の要がはずれてしまうと、いずれ、いろいろ起きるのが世の常なのかも知れないが。
先日古いメールの整理をしていて、そしてウイーンの猛に、こんなメールを送った。
* 猛 このメールが届くのかどうか、分からない。
ここ七八年のメールを整理していて、99年12月に、きみが、たぶん海外から呉れていた長いメールを、初めて読んだ。初めてというのは、そのメールは完全に化け文字でしか届いていなかった。だからそのままにしてあった。
それが正しい日本字で読めたのは、パソコンという機械の奇妙な奇蹟なのだろうと愉快に思います。
そのメールは、わたしが、兄(恒彦)の葬式に出なかったことから始まっていて、父上(恒彦)の思い出などが書かれていた。父上が「変わっている」のだから、弟の私(恒平)も「変わっていて不思議はないか、」という口調になっている。もう昔のことで、褪色した写真を見るようだが。
兄の葬式に(京都まで)出かけなかったのは、少しも特別なことではなかった。葬式というのは好きでなく、育ててくれた父のも母のも叔母のも、(知人のただ一人もいない東京では)葬式らしいことをしていない。大切な先輩作家達の葬式にも、ほとんど行かない。行くときもあるが、それは、行っても苦痛なほど気持ちに差し込んでこない程度のお付き合いだった人で、「とくに親しかったり、あまりに大事だったり」した人の葬式ほど、(あえて)出て行かないことにしている。
兄とは、葬式に行けばどうで、行かなければどうというような、そんな世の常の二人ではなかったし、葬式に行かないからと、わたしを薄情扱いするような兄では全く無かった。葬式になど、行かない方がいいに決まっていた。わたしは、ひとりで、死んだ兄と何時も話していたからね。向き合っていたからね。今もそうだ。
兄の知人達に、わたしは殆ど関心がなかった。私には兄が大事で、生きていて欲しかったが、死んで仕舞われれば、それも、兄だった。葬式や偲ぶ会に、その「わたしのもの」である兄は、たぶん存在していなかったろう。そんなことが失礼とか薄情とかいう感覚は、わたしは全然、いつでも、持っていないんです。むろん今も。
恒や街子たちが、ぷつりとものを言ってこないのは、そのためかね。
恒は「湖の本」は全部毎回受け取っているはずだが、兄に関する本も全く送ってこない。見たこともないよ。先に「カネを払って買え」という意味かな。本の題も金額も分からない。えらいもんだ。
わたしは元気です。おばさんも、ま、むりさえしなければ、元気です。
建日子は、劇作と脚本と小説と作詞と演劇塾の経営とで、いまや活躍しています。
家は、本とモノとで狭い上に狭くなり、老夫婦は、黒ネコをマゴにして可愛がりながら、小さくなって寝ています。きみを泊めてあげられないのは、もうライチが無く、おばさんも疲れてしまうから。
しかし日々は楽しく、おっとりと過ごしています。歌舞伎をいちばんよろこんで毎月のように見ています。そして糖尿病もものかわ、よく喰いよく飲んでいますから、長生きは出来ません。
では、元気で。 恒平
* 結婚は大勢で祝ってあげたいが、死者とは、親しければ親しいほど、大事な人であればあるほど、一人で向き合いたい。それがわたしの考えだ。
わたしが死んでも葬式など無用と言ってあるが、それでも葬式らしいことをされたにせよ、情愛を分かち合えたと思える人ほど、棺桶の見送りになど絶対に来て貰いたくない。銘々がひとりで、静かに語りかけて欲しい。桜桃忌にわたしは太宰賞作家として何度も会席していたが(今はもう失礼しているが、)こういうのって「いいなあ」という気分ではなかった。人を偲ぶ会にも何度か出ているが、自分のためには、こういう会は願い下げたいという気が、いつもした。
死んだ兄の言葉でいちばん印象深かったのは、付き合いは「個対個でいいよ」という一事。恒や街子や猛とも「個対個」で好きにしてくれ、と。人間関係とは、究極はこうなのだ。恒彦も恒平も「変わっている」だろうか、これが「自然」だとわたしは思っている。それが分かった上で、葬式にも偲ぶ会にも出てよければ出ればよいだけの話だ、わたしの考えはそうだ。
妻はいつも言う、「あなた、藝能人にはなれないわねえ」と。
* 妻と、四週目の歯医者。行きは曇っていて、医院へは小雨を逃げるように十一時前に入ったが、帰路はうっとりする晩春の晴れた空に、たなびく雲の白さ。
2005 5・7 44
* 佐佐木茂索の「おぢいさんとおばあさんの話」は、身につまされる挿話的な一篇だった。事情は少し違うにしても、わたしもまたこの様にして老い行く父母を京都に捨てて東京へ出て、よく手紙を書いた。それは沢山書いた。
父は、母は、どう読んだのであろう、手紙はみな母が取り置いていた。それも今はどこに蔵われているか。
次いで十一谷義三郎の「仕立屋マリ子の半生」を起稿しかけている。
さしも大型の連休も明日で終わる。妻の話では、去年の母の日に「碧い耳飾りの少女」という映画を池袋で観たそうだ。今年の母の日は明日だそうだ。いっしょに街へ出ようかな。
2005 5・7 44
* うらうらと晴れて明るく、気持ちがいい。仕事、追いついてきた。今日はこれから来客。明日は眼科診察を受けに行く。
2005 5・17 44
* 昨日は若い来客と近所で賑やかに食事、いいことが有ったので、祝う。
対談のお相手がきまって、一つ閊えが失せ、先の日程が読みやすくなった。六日、「ラ・マンチヤの男」を観て、七日午後、授賞式と晩に理事会。翌朝、対談して、たぶんその足で帰ってくる。次々の用事に障らぬように。
2005 5・18 44
* 好天。夜前、おそくおそくに車で、息子が西の棟へ来て泊まっている。まだ起きてこない。隣に建日子が帰っていると思うだけで、ほうと胸が温かい。
2005 5・21 44
* 高麗屋から、六月木挽町の昼夜座席券が届いた。昼に、若い染五郎が片岡仁左衛門に八兵衛を付き合ってもらい「封印切」の忠兵衛を「新口村」までやるというのが、一つの期待。夜には通し狂言「盟(かみかけて)三五大切」を吉右衛門、仁左衛門ら大勢でみせる他に、富十郎が初お目見え愛嬢愛子ちゃん、また大クンと、逍遙作「良寛と子守」一幕を、他に子役何人も引きつれて演じる。おめでたい、微笑ましい一幕、これが楽しみ。天王寺屋せっかくの自愛を祈る。
梅玉、魁春、時蔵、それに秀太郎、東蔵、、秀調、歌六、歌昇らも出演、梅雨どきの一休みには嬉しい顔ぶれ。
六月は忙しいも大忙しい一月だが、楽しみもたくさん。福助、橋之助に扇雀丈のコクーン歌舞伎を観た脚で、中野へ秦建日子のすっかりリメークしたという「タクラマカン」もある。幸四郎・松たか子の「ラ・マンチャの男」も。体力も気力も新鮮に、いい六月になりますように。花粉のない京都では、叔母ツルの、命日ちかい墓参も。
2005 5・21 44
* 建日子と昼飯。おやじはヒマでいいなあと。半分は本音かも知れない。六時、朝青龍の優勝相撲をみて、次なる打ち合わせに帰って行った。
*「中野ザ・ポケット」で、六月七日(火)から十二日(日)まで、秦建日子の舞台では一の代表作・演出作品といえる『タクラマカン』が、「大幅改稿を経て、更なる高みへ」とうたい、公演する。「月あかりすらない嵐の夜、ぼくらは「あの国」目指して船を出す。」これは批評のある、イデアールに激しい芝居である。七日から十一日まで晩の七時開演、十一日土曜には二時開演もあり、十二日ラク日は、正午開演と、四時開演とがある。
* 七月八日スタートのTBS系連続テレビドラマは、毎週金曜十時、劇画原作のある『ドラゴン桜』とか。安部寛、長谷川京子、山下智久、長澤まさみ等の出演と聞いている。秦建日子作の連続テレビドラマも、『ラストプレゼント(天海祐希)』『87% 五年生存率(夏川結衣・元木雅弘)』『共犯者(浅野温子・三上博史)』『最後の弁護人(安部寛・須藤理彩)』『天体観測(小雪・長谷川京子・田畑智子ら)』をこの二年ほどのうちに経てきた。出来の浮き沈みは幾らか有るにせよ、ややこしい業界でよく頑張ってきた。次はどんなものか、予測も付かない。
* ちと一服しよう。眠気に襲われている夕飯どきのワインのせいか。
2005 5・21 44
* 歌舞伎座で「髪結新三」を観てから、三遊亭圓生の独演をいろいろ聴いた。芝居咄、人情噺、それに「三十石船」のような、圓生がみごとに唄う音曲ものもほんとうに感嘆しつつ聴いた。
いまでは妻も大の歌舞伎好きで、そこそこ「通」にもなってきているから、その縁で、昔ならとくに聞きとめてもいなかった「中村仲蔵」や「猫忠」さらには「三十石船」でもとても喜ぶ。たっぷり時間を掛けた圓生一大の名演には、思いがけない多くの知識も授かってしまうのである。
* なんでもかでも、からだをハスにしてやり過ごす姿勢で観たり聴いたりしていても、なにも深くは得られない。真っ向顔をむけて、わたしは心から楽しむ、映画でも読書でも音楽でも藝能でも。人にもそうありたい、誰にも彼にもとはムリだけれど。
2005 5・21 44
妻と歯医者にゆき、かえりに沼袋の寺筋、日蓮宗の久成寺や真言宗の密蔵寺などの木深い杜を見上げ、明治寺百観音をみてから西武新宿線の沼袋駅まで歩いた。新宿線の各駅停車で所沢まで乗り、駅ビル四階の「ななかまど」という土佐料理の店で、簡単な会席弁当を肴に、「鬼辛」など三種類の超辛口の酒を、朱塗りの枡でけっこうに楽しんだ。酒を注ぐのに溢れるほどサービスしてくれたが、三合とは無い。妻は、赤芋からつくった焼酎をロックで。のんびりした広い店で、家へ遠くもなし、気楽に二人で喋ってから池袋線で帰った。
『墨牡丹』上下の注文が来ていた。うまいものを食おうという「会」の案内も来ていた。
2005 5・28 44
* 六月になった。こんなに多忙の予想される六月は珍しい、カレンダーの第二、三、四週は、「朱い日」がびっしり居並んでいる。楽しみの舞台が六つ(帝劇ラ・マンチャ、コクーン歌舞伎、秦建日子の公演、歌舞伎座昼夜、俳優座稽古場、三百人劇場)入っている。京都もある。余儀なく午後(授賞式)、晩(理事会・宴会)、午前(対談)の三連戦を仕遂げて、とんぼ返しに新幹線で帰ってこなければならない。学会も、理事会も、授賞式も、パーティもある。桜桃忌もある。新委員会の予定が更にこれに加わってくる。それどころか、はや下巻発送(上下巻同時発送を含めて)の用意が津波のように迫っており、上巻だけの今回の、倍の労力を要する。六月を、しっかり無事に越えなくては。
2005 6・1 45
* 一度身辺をきれいに片づけないと、有ると思っているものも見つからず、困惑する。二階も階下も書庫も、むっちゃくちゃ。
* 歌舞伎座の売店でいろんな小鈴を売っていて、我が家の黒いマゴは頚につけている。もっとリンリンと華やかに鳴るのがいいと思っていたが、地味にむしろ、くろくろくろと聞こえるまろい穏やかな音色が、家の中や外回りで聞こえているのは邪魔でなくてなかなか癒される。甘え上手なマゴで、祖父母の愛を一身にうけて、かなりの会話も可能。挨拶もできる。老夫婦二人の暮らしにかけがえのない身内である。
2005 6・4 45
* 午後、上野へ繪を観にでかけ、帰りに蕎麦でもたぐって、すぐ帰ってくる。明日は「ラ・マンチャの男」を観に帝劇へ。だいぶ以前に日生劇場で観ているが、松たか子ではなかった、松たか子の姉が同じ役で出演していた。
帝劇はやたら広いから、自然、舞台装置も変わるだろう。高麗屋手配の席、わるくない筈。楽しみに。そしてすぐ京都へ行く。文字通りトンボ返しに帰ってくる。「コクーン歌舞伎」と秦建日子作・演出の新バージョン「タクラマカン」が待っている。
2005 6・5 45
* 七時に起き、水分だけを口に入れ、朝飯は割愛して着替えると直ぐ、車で加茂大橋の菩提寺に。この十一日は叔母の命日でもあり、気ぜわしいままに花を上げ、墓石に水をかけ、しばらくの念仏申し、また両親と叔母とにこもごも「話しかけ」てきた。住職夫妻にも顔は合わせたが、すぐ青葉青草の常林寺を辞して、あまりの暑さにせいぜい加茂大橋から比叡や鞍馬を遠望しただけで、タクシーをつかい四条烏丸へ戻った。
2005 6・8 45
* さて、今日はコクーン歌舞伎。勘九郎の抜けた舞台を、福助・橋之助兄弟と中村扇雀丈が、どれほどに面白く楽しく奮闘して盛り上げてくれるか。そしてそのあとは、八日が初日の秦建日子作・演出、またまた更に手と工夫を加えたという話題作「タクラマカン」を中野まで見に行く。
2005 6・10 45
* 中野駅から五分ほど、初めての劇場は、舞台間口に即して奧へ高まり、細長い客席で、建日子がいい席を用意して置いてくれ、ぎっしり満員の劇場で「タクラマカン」を観た。「桜姫」は涙のこみ上げる場面など絶無の芝居であったが、「タクラマカン」は厳しい内容のシュールな感動編。もう数度は再演しており、そのつど着々と綿密な手が入り、今晩の舞台は筋の通りも組み立て展開も申し分なく、綺麗に纏まっていた。これぐらい差別被差別の問題を通して新世界への切ない脱出の憧れと決意とを悲劇的に組み立てた芝居は、数少ないのではないか。「浜育ち」「街育ち」という強烈な対立・対比に、公権力と制外の細民の無惨な軋轢・弾圧が苦しく覆い被さる。リアリズムでなく、演劇的な象徴の手法で、激しい躍動舞台を大勢の肉体・肉体・肉体の熱気で創り出す。そういう劇性へ作・演出の秦建日子は、少しずつ強く磨き上げてきた。クライマックスの大爆発へいたる筋書きも説得力を持っている。
寿司の満腹もこなれてしまい、もう「タクラマカン」の間、ちらとも「桜姫」の舞台を覚えていなかったのだから、小劇場芝居は溌剌として面白い。舞台には何一つ置いていない、からっぽ。そのからっぽの利点を生かして展開する作劇は、つまりは能にいちばん近い。小劇場には、日本演劇の原点をなしていた能の必然が、自然に影を落としているのである。
なぜ題が「タクラマカン」か。これは、また別の機会に考えよう。作者は最初「沙漠」と題していた。それがいちばん事実として即しているかもしれないが、「つまらないね」とわたしは云い、で、「サハラ」になり、さらに「タクラマカン」になった。舞台を見続けてきたわたしは、だんだん良くなったと思っている。
* なんだか安心し、東中野で大江戸線に乗り換え、練馬経由で小雨の保谷に着いた。タクシーで家に着いたのは十一時か。満たされた愉快な一日だった。 迪子も幸い元気であった。
* すこし気を落ち着けようと、機械の中の「花、花」の写真をスライドショウして、しばらく眺めていた。
2005 6・10 45
* 大筋は間違っていないと思う、或る高校の先生が、「自分で書いた英文」を「試験問題」として受験生達に訳させた内容が、沖縄の「ひめゆりの塔」へ行った感想で。
感想にいわく、案内人ももう同じことばかりを話し慣れていてか、なかみにも調子にも聴いていて何の感動も覚えず、退屈でつまらなかった、と。
正直というか鈍感というかアホというか、日記にでもひとり書込んでいる分には勝手だが、若い解答者生徒に訳させて役立つ批評でも感想でもなく、この教師の内面のまずしさだけを暴露している。
このまえ、テレビで図書館活動が話題になったついでに、司会者から「図書館」への感想を問われた「女」「作家」と称するコメンテーターが、なんと、図書館は「敵です」とひと言だけ、これにもイヤーな気がした。
先の英文和訳問題を書いた先生の性別は新聞記事に出ていなかったが、こういう「批評」の仕方が得意な「女」も「男」も多いのだろうか、わたしにいわせれば、ただの賢しらな生意気に過ぎない。こういうのとは「おともだち」どころか傍へも来て欲しくない。わたしを含めて「男」のバカも相当なものだが、「女」のかしこブッたのも鼻持ちならない。
* 昨日の建日子の芝居は、感動作であるけれども、励まされるより、つくづく現世がイヤになる舞台ではあるのだった。
この芝居では象徴的に三つの悲話を重ねている。
「浜育ち」ではない「街」の女が街の暴力に追われ、「浜そだち」のボクサーを夢見ている青年の家に逃げこみ、二人には愛が芽生える、が、「街」の手で青年は物陰から脚を銃で撃ち抜かれる。
また「浜育ち」の少年が、「絶無」の将来性をどうかしてと「求め」て、やっとこさ「街」に職を得て働き、初の月給で、好きな女の子へのプレゼントを買いに羽振りの良い「街」の商店に入るやいなや、「浜」の乱暴者の「強盗」とみなされ容赦なく射殺される。
また「浜」の力ない気のいい「じじい」は、少年や青年の「あっちの世界」への憧れを満たしてやるために、多年払い込んでいた生命保険を遣ろうと思い、がんぜない「浜育ち」の少女に、強いるようにしてその包丁の先へ身を挺し死ぬが、「浜」の住所も定かでない「じじい」の「死に保険金」は支払わないと真っ向拒絶される。「浜そだち」の少年少女たちは「街」の権力にたいし、「どつちがドロボーですか」と抗議の声をあげるのが、成り行きの必然で、強い訴求力をもつ。客席のすすり泣きがぐっと増えて高くなる。
あげく、「浜そだち」の子供達は独りをのこして官憲や軍の力の前に命絶えて行く。
舞台は、それだけではない。官憲や公権力のなかにも、平等に扱いたい、就職もさせたいと働く者達がごく少数いるのである。しかも彼等は最期に「浜そだち」の者達へむけて圧倒的な銃火を浴びせかけてしまう。
こういう舞台が、ぬきさしならないリアリティーを帯び、ひしひしと進むから、感動はつよい、けれど、それは励まされて勇気が湧くていの感動ではない。弱者敗者の運命に涙し、なにか出来ることはないのか、「無いんだなあ」という歎息から、こんな世の中がつくづくイヤになる。「それではいけないんだよ」と、作者は今回の舞台で、かすかに一歩を前へ運んでいたとは思うが、絶望の嫌悪感はあまりに強い。
父と子との遠慮ない実感で云うと、「おやじ、もうこんな世間はダメだよ、離れ切ってしまえよ、別次元へ姿を消してしまい、そこで自由自在に好きに楽しみなよ、おやじなら出来るじゃないか」と云われている気がしてしまうのである。
しかも「世間と他人」からの徹した訣別。それは、絶えざる内深くからの誘惑である。
* 最初に書いたようなイヤらしい「情報」が耳を汚せば汚すほど、わたし自身もまたその様に他者の耳を汚しかねないのがイヤになる。埒もない肩書きも、一つ一つ一つと捨て去り、ちいさな「湖」のただ青空をうつして深まるようにだけ、五感を用いたくなる。この「私語の刻」を突如閉ざしてしまう日が「来る」だろう。
2005 6・11 45
* 土曜日曜はメールも少ないが、夜分になり眼が覚めたかのように、次々に。従妹から。先日の墓参で、墓前に従妹が花を立てていてくれたのを見た。水塔婆もあげてくれていた。感謝。それにしても常林寺さん、少しお習字してもらいたいなと思う戒名の字で。ま、贅沢は言えない、ろくに掃除もしに行けないでいるのだから。
2005 6・12 45
* 華岳を書いた小説『墨牡丹』は「すばる」への初出時では著者としてもう一章欲しかった。湖の本に上下巻で出すときに書き下ろしで百枚書き加えて、気持ちの上でも完結させた。
建日子の芝居は、本人のホームページでは、連日超満員の大好評だったとか、とにかく彼の公演は客が来なくて困るということがない。なにか訴える力をもっているのだが、恐らく、良くも、悪しくも、秦建日子の「優しさ」から出ているのだと思う。
2005 6・13 45
* 「恒平」と名付けてくれた親(たちであろう?)は、わたしより一年半ほど早くに、兄に当たる「恒彦」を産んでいた。彦根で生まれた「(父)恒」の子の意味で、わたしの場合は「平安京」で産まれた恒の子の意味であろうと、そう聞いた気がする。事実でもある。
ゆうべ「日本書紀」で、素戔嗚尊が姉天照大神の高天原でいろんな悪行・乱暴をするくだりの「一書(あるふみ)」第三を読んでいて、もし「恒平」が元号ででもあるならさしづめこういう典拠を指摘するのも可能か、という記事に遭遇した。少年以来のかすかな記憶に生きていたように、弟素戔嗚尊の狼藉に対し初めのうち姉日の神はいとも寛大で、多くは咎めなかったのである。その所をその「一書」にはこう記述してある。
「然(しか)りと雖(いへど)も、日神慍(いか)りたまはず、恒に平恕(たひらかなるめぐみ)を以ちて相容(あひゆる)したまふ。云々(しかしかいふ)。」「雖然日神不慍、恒以平恕相容焉。云云。」
およそこういう意義を体しているかと、命名の根拠は知らなかったものの、「恒に平らか」とは自分でも観じ、そんな名を、よく体していそうにない自分自身に忸怩したり羞じたりしてきた。だが、此処の記事には一度も気付かずにきた。
鎌倉時代の藤原氏に摂政か関白かというほどの男が「恒平(つねひら)」という名で一人居る、それ承知していた。この男などは命名にいずれこういう所を探っていたのだろうなと、今、思い当たる。中国の文献にも在るかもしれない。
元号というのは、日本製の文献で定められることはなかった。みな中国の古典に拠っている。数ある日本の元号に「恒平」もありそうでいて、気付かない。中国になら、さも在りそうな気がしている。一度見つけたような記憶がある。
いずれにせよ我が実父・生母が、日本書紀に当たって「恒平」と命名したと云うことはないだろう。やはり「平安京で産まれた父恒の子」だったろう。
2005 6・27 45
* 昨日作業しながら、小津安二郎監督の昭和三十四年作品「おはよう」を観た。柳智衆、佐田啓二、久我美子、三宅邦子、杉村春子、東野英次郎、田中春男、澤村貞子、長岡輝子、三好栄子等々、挙げていくだけで懐かしい俳優達のなかに、初めて映画館で観たとき印象強烈だった大泉滉もまちがいなく存在。
この映画をみた映画館は、新宿区河田町の比較的近くにあった。わたしたちは河田町の女子医大裏に上京結婚後の新居(六畳一間のアパート)をもった。都電の最寄りの停留所「若松町」から、ゆるやかな坂を「北町」方面へおりてゆくと、映画館は電車道の左にあった。小さかった。あのアパートに昭和三十四、五の両年暮らしていたから、「おはよう」もその間のいつかに観たわけだが、朝日子が生まれるまぎわやアトでは妻と歩いてそこまで映画を観に行くまいから、封切りの時であったろう。
正直のところ、あの若さでみる小津映画は、よほどの秀作でなければかったるかった。この「おはよう」もへんに物足りなかった、どきどきしなかった、という印象のまま忘れかけていたが、忘れなかったのは大泉とあれは折原啓子だったかの、カップルだけは鮮烈で、なんて不思議に頓狂な二人なんだろうとビックリしていた。
ところが、昨日観たとき、この二人はなんらスットンキョウでない普通の若者達で、佐田啓二や久我美子のすばらしくお行儀のいい方がビックリするほど「昔」めいてみえた。そして誰にもみな好感を覚えた。みなうまいのである、芝居が。
ただ小津演出にはとくべつの感嘆符はつかない。「秋日和」「東京物語」「麦秋」などのすばらしかったのに比較すると、やや各所で間延びがしていたのである。
なんであの大泉・折原の風俗にああも異様に愕き印象づけられたのか、時代は川の流れのように過ぎて、あの二人をとうに追い越しているのだ。
映画では、テレビを買う、洗濯機が家に有る無いなど、三種の神器と言われた電化製品が大きな役割を帯びていた。わたしは小なりともハタラヂオ店の息子であったから、東京へ出る前からテレビも洗濯機も炊飯器も見知っていたし、家で使っていた。
テレビはいらない主義だったから、新婚のアパートにもながく無かったけれど、炊飯器も洗濯機も、京都の父は、新居のために店頭の品を分けてくれていた。やがて半世紀になる。
2005 6・30 45
* 昨日の言論表現委員会には、担当役員として井上ひさし会長が参加、隣り合わせて席に着いていたが、顔を寄せられ、北澤恒彦とわたしとが「兄弟」なのかと確かめられた。鶴見俊輔さんと話しているうちに、それとなく察するところあり、知らなくて失礼しました、ごめんなさいと二度繰り返され、ビックリした。
「えらい人でした、尊敬していました」と。
同じ言葉をそのまま以前に真継伸彦さんや小田実さんからも聴いた。あまりにはやく死んでしまった。よく知らないが、回復不能なほど病魔におかされていたのだろう、なぜ自死であったのか、すべては分かるわけなく、死の重い事実の前で穿鑿に意味はない。わたしの思いは、三人の遺児のそれぞれに心行く人生。それだけ。
わたしは基督者でもないし、自死について特別の思いもない。人と生まれ人として死ぬる。自死はあるいは許された最後の決断でありうるか、と、感じている。学友にも恩師にも親族にも知人にも自死した人達がこの七十年のうちに、指折り数えられるほどいた。わたし自身、一度もそういう人数から自分自身を除外したわけではない。どうなるか、そんなことは分からない。恒彦が、いま、どんな顔をしてどこにいるんだろうと、ときどき妙に可笑しくなり「部屋」に呼び出したいと思うが、ま、いつでも逢えると思うので、あの、私の前ではいつも少しシャイであった兄をムリに呼び出そうとはしていない。
* 自死ではないが、妻の兄保富康午も今の私よりずっと若くして、あっというまに一夜に卒去した。江湖にながれ愛された「おじいさんの古時計」のメロディーに日本語の詞を訳してつけた、わかりよくいえば「放送人」だった。今も存命なら、わたしの行き方とは異なる人であったけれど酒など飲めたろうし、ことに秦建日子の活躍をよろこんでくれたろう。建日子が最初に一人で書いた連続ドラマ「天体観測」が、いま、昼間に再放送されている最中で、七月早々にはまた新しい連続ドラマが、劇画原作からのものらしいが、始まると聞いている。劇作・テレビドラマ・推理小説、それに建日子は作詞ディスクもいくつか創っているようだ。義兄にも長生きして欲しかったと思う。
* この昭和四、五年頃にうまれた義兄保富庚(康)午が母親の胎内にやどされ、誕生まで一年間の母親の日記がみつかり、妻はそれを克明に器械に書き起こしている。そういうものの見つかったことは妻のために喜ばしいかけがえのないもので、もしわたしにそういう親の書き物があればどんなに懐かしく嬉しいことか。
幸い生母阿部鏡(深田ふく)には一冊の、刊行された詩文集が遺されている。母は重症の死を覚悟して友の一人に懇望してその一冊を本に仕上げ、送りたい先にも送り終え、返辞返礼ももらってから、病室で人に知られず死んだ。自死かも知れないと関係者に示唆された覚えがある。この母とは生前、母と子として出逢ったことはいちどもなかった。
その短歌と文章とを主とした一冊から、いま、せめて一冊の選歌集をわたしのサイトに創っておこうとしている。波瀾そのものの生涯を、瀬戸内寂聴さんと兄とで「思想の科学」だったかで、「対談」していたこともある。
* さしあたっては秦建日子が新作連ドラの無事の船出を待っている。わたし? わたしはこうして「今・此処」に生きている。わが脳裡の闇に満ちた世界は、ナマナカの現世の活動よりうんと生き生きしている。
2005 7・1 46
* さっき暫くぶりに「ER=救急治療室」の凄いのを観てきた。その前のヒッチコック映画は録画しておいたから、このあと、元気があったら観てみようと想う。
いま、秦建日子作の一人で書いた最初の連ドラ「天体観測」十何回かを昼間にたてつづけ放映しているが、もう一週間ほどして、人気の劇画「ドラゴン桜」をベースにした、同じ題の連続テレビドラマが金曜夜十時に始まるという。小説の第二作初稿も順調に進んでいるらしい。どう今後に曲折があろうと、しっかり粘り、決して安直にしないこと。前作よりも一段踏み上っていること。それが、「第二作」の秘鑰だ。
2005 7・4 46
* 結局深夜まで起きていた。さ、もう限界。あすは、朝から建日子の顔が見られるとか。 2005 7・5 46
* 朝九時、建日子が隣棟へ来て昼まで睡眠、と。昼飯を一緒に。夕方の都内での打ち合わせまで、いると。
2005 7・6 46
* 建日子は、七時までいて、昼食と夕食を一緒にしていった。すこぶる忙しそうで、また新たにしたい希望や夢があり、ただの期待でなく実現の足がかりも得つつあるようなのは、けっこうだ、だが、あれもこれものナンデモ屋になろうというのなら、余程の内なる蓄えももつように。気が付いたら金箱(力量や意想) が軽いのでは困る。
2005 7・6 46
* 野球中継の延長のため、秦建日子脚本の「ドラゴン桜」初日、三十分遅れ、いま、十時半から。また阿部寛が吠えているらしい。長谷川京子や野際陽子が出るらしい。
2005 7・8 46
* 「ドラゴン桜」の第一回を観た。あれこれ批評するようなドラマではないが、これは、この線で図太く進むのがいいだろう。同じ題の人気の劇画原作があるというから、建日子は、どれだけ下敷きにしながら、はみ出て纏めて行くかだろう、第一回めは、見終えて、来週も見ようと思った。それで十分だろう。
学園ものは昔から、大昔から、有る。明治時代にもとくに女学校ものがあった。藤村の「春」など、どこか「天体観測」の先駆めいてもいるのを、建日子は夢にも知るまい。石坂洋次郎の「若い人」「山のあなた」もそうだった。映画や連続ドラマにもたくさん学園ものは有った。
この「ドラゴン桜」の趣向と主張には、しかしうまく乗ってくれば、一種の「個性」も「抵抗」も「批評」も出せるうまみがある。そこまで行くなら、画面がかなりハチャメチャでも構わない。雄志をもって、バカにすべきは大いにバカにし、衝くベキは大いに衝き抜いて、それでも結局は学歴社会を鼓吹して終わるなら、所詮その程度のものに過ぎない。阿部寛は、「最後の弁護人」より可能性が見えている。腰砕けないでやってもらいたい。建日子の作でなかったら、だが、観るかな。観ないかな。なかなか面白い。
珍しく、終えて直ぐもう一度録画を見直そうとした、ら、「予約」の手違いか、半分近くで他の番組と混線していた。こういうドジがこっちへも感染するドラマなのか、呵々。
2005 7・8 46
* 秦さん、お体いかがですか。
義弟(といってもひとつ兄さんですが)が、都下武蔵五日市でヨガ・瞑想道場を開いています。彼は、長くヨガ(いわゆるハタヨガ)を実践ししていますが、数年前まで、落ちこぼれ教育の現場教師を飽くなく続け、退職してなお多くの教え子が集まる、実にやわらかく深い人です。
書物はあまり頼りません。いまはインドの「ヴェーダ」と「ラージャヨガ」を仲間内で読み進めています、決して頭でっかちではなく、ヨーガを実践しながら。
今月21日(木)、満月の夜、夜8時過ぎに、五日市の同道場(アシュラム)で「世界平和のための同時メッセージ」の瞑想会があります。インドの聖者が発するメッセージを、世界各地の窓口で受け、拡げる瞑想です。たいそうなことは好みませんが、カミさんとカミさんの友達が行きたいというので参加します。でも、この夜は泊まらず帰ります。
8月の土曜日に、ヨガ、ヨガ・セラピー、ヴェーダ購読研究会があります。(それも飛び飛びの参加では、あまりいただけませんが、初めての参加でもそれなりのことがあります。)8月には一度、泊まりで参加するつもりです。
ご希望があれば会の予定は追ってお知らせしますが、老若男女いろいろな人が自由に出入りします(会費はドネーション(@2千円前後)。義弟の手作りのログハウス(といっても十分なスペース、環境・設備の備わった住まい)で自由に語らい、ある人はセラピーを受け、ある人は思う存分語らいます。
秦さん、一度、いかがですか、泊りがけで、奥様ご同伴で。よく奥多摩の創作家たちも集います。参加するならご案内します。
前回は、バグワンの直弟子(日本人)とも語り合いました、落ちこぼれの有為の若者も多く集います。ま、折にふれ、明日は明日ですが。 愚弟。
* ヨガのことは、よく知らない。他のどんなこと(実践・メソッド)とても、みな、よく知らないが。禅には、漸悟と頓悟とがあると聞いたろうか。漸は、順序をふんで至るのではなかったか、頓は、瞬時に悟るのではなかったか。わたしは漸であれ頓であれ悟れる素質のないアホウの一人であり、ただもう、来るとも来ぬとも知れない何かを「待つ」しかない、方策もない、さりとて修行もできない怠惰人に過ぎない。だらあッと怠けて、なーんにもしないで「待って」いよう、バカまるだしの「待ちぼうけ、待ちぼうけ」の男のように。それより、また「愚弟」氏と一献やってムダバナシをかわしたいものである。
2005 7・13 46
* 妻の聖路加検診で、わたしは留守晩。ときどき機械の前で居眠りなどして、のんびり。花籠さん、四国から牛の精肉を元気づけに送って下さる。昨日、出来たら浅草の「米久」まですき焼きを食べに行きたかったぐらい、ところがパソコンで検索すると定休日だった。行かなかった。花籠さんに、分かったんだろうか、呵々。感謝。
群馬の或る図書館長さんからも御馳走を頂戴した。もう二十年できかないかも知れない、久しいお付き合い。
* 携帯電話を持ってない知人が少なくなってきた。わたしは、病院では携帯は使えないよと息子に言われ、また興味をうしなった。
2005 7・14 46
* 秦建日子脚本の「ドラゴン桜」二回目を楽しんだ。ま、こういう調子でやるならば、せめてこれぐらい、せめてこの程度の所までで、大いに大いにハジケタ方がいい。半端にやるとダメなのだ、こういう手筋は。
面白かった。「編集王」の頃はまだヘタでハラハラしたが、かなり安心していられる、今は。一日中、へんに腐っていたが、少しスッキリした。
2005 7・15 46
* 七月には娘朝日子が、指折り数えて四十五歳の誕生月。晴れやかに心行く日々を健康に過ごしていて欲しい。ものを見ていても、街にいても、朝日子ににた人影をみるとつい目で見送っている。孫達も元気かな。
やがて歌舞伎座の「十二夜」が来る。蜷川演出・尾上菊之助。かれがはやく菊五郎になり、いまの菊五郎には父親の梅幸を襲がせたいものだ。
2005 7・16 46
* 歌集「少年」に再会
95年晩夏、御歌集『少年』を、しっかり拝読していたはずでした。
再び開いて見ますと、特に好きな歌にしるしがしてありました。
歩みあゆみ惟(おも)ひしことも忘れゐて菊ある道にひとを送りぬ
はりひくき通天橋(つうてんけう)の歩一歩(あゆみあゆみ)こころはややも人恋ひにけり
汚れたる何ものもなき山はらの切株を前に渇きてゐたり
別れこし人を愛(は)しきと遠山の夕やけ雲の目にしみにけり
舗装路はとほくひかりて夕やみになべて生命(いのち)のかげうつくしき
遁れきて哀しみはわれにきはまると埴丘(はにをか)に陽(ひ)はしみとほりけり
うつつなきはなにの夢ぞも床のうへに日に透きて我の手は汚れをり
朱(あか)らひく日のくれがたは柿の葉のそよともいはで人恋ひにけり
君の目はなにを寂ぶしゑ面(おも)なみに笑みてもあれば髪のみだるる
まだまだありますが・・・。
古典的響きを整えた美しいしらべを、十六、七歳で手中におさめられていて本当に驚かされます。
写実を踏まえた想像喚起力は、若葉のように新鮮な生臭さをもって読者を包み込みます。
ひらがなと漢字の配置における美的趣味性は、若くして培われた美学からくるものでしょうか。
上田三四二は、「恋の思いが歌の初めであることほど、短歌にとって自然なことはない」と評しておりますが、先生の「母と『少年』と」を拝読し、恋の思いとは、母恋に発するのではないかと考えました。
母である阿部鏡様の歌と、空の高みで響きあっていたのだと思うと、こころの痛みの深さがひしひしと伝わってきます。
玩具店のかど足ばやに行きすぎぬ慈(いつく)しむもの我になければ 阿部鏡
ありがとうございました。 葛飾
* 知己の言、有難い。こと短歌に関しては、歌集『少年』に関しては、仰有って下さるすべてを心より嬉しく受け入れたいのである。
* わが生母のことは、いずれ血縁の孫達の誰かが書くだろう。わたしはすでに千枚近くをあらまし書いて持っている。だれかがそれを利用してくれればいい。
2005 7・16 46
* 能村登四郎さんを追憶の一文を「沖」編集部へ送った。「同志社時報」のインタビュー記事も読んで返送した。「美術京都」の対談速記録はまだ届かない。次の仕事は国文学の学会宛てに少し枚数の多い論説を書かねばならない。かろうじてあと一ヶ月の余裕。
妻のコンピューターが、近所の電器屋のちからで徒に書くも機能を回復した。よそながら、やれやれ。
2005 7・19 46
* 秦建日子脚本の「ドラゴン桜」が、「好評につき」急遽あすの午後(TBS)に、すでに放映した第一、二回目を再放映すると決まったそうだ。わたしが息子のドラマで、二度ずつ見ようとしてきたのは、この「ドラゴン桜」だけだ。
劇画原作が下敷きと聞いていたが、実は、第一回分だけが、厳密に忠実に劇画を再現し、第二回目からは大胆に離れているのだと。原作者からも自由自在に好きにやってくれるように言われているらしく、楽しみがさらに増してきた。
2005 7・21 46
*「ペン電子文藝館」「詩」の室に展示された最近五人の詩作品を、かなり丁寧に率直に批評したアクセス読者の長文が届いていて、それを読んで、委員のメーリングリストにまわしたりしているうちに、十時の「ドラゴン桜」三回目が始まった。なんだかむやみと面白く、一人の女生徒が勉強の結果が上がらない「くやしい」と泣くあたり、わたしまでほろっとした。もう脚本はほぼ全面秦建日子のツクリと聞いているので、それだけわたしは楽しんでしまう。
*「十二夜」について書いたのは、そのあと。もう日付は変わっている。
2005 7・22 46
*『ドラゴン桜』第3回を観たという好評のメールが飛び込んでくる。わるくない、おもしろい、すかっとする。異論はないが、あまり大層に持ち上げないで落ち着いて観て行きたい。これが閾値を超えた作品になるか、要するに毒にならないが薬にもならないアハハもののエンターテーメントで終わるか、何か或る動かし難い記憶と推力を掘り当てて残してくれるか、平静に観ていたい。
* 昨日妻が、外で、めったに手に取ったこともない「週刊現代」などというのを買うのでビックリした。秦建日子が連載でエッセイを書いているというので、ビックリ。運転中なので感想はここに書かない、しかし本人には云いたいことがある。同じく連載の大橋巨泉のエッセイはさすがに、読んで真面目に感じ取れるものがある。建日子のは…、文章をマスコミに公にする筆者として、あまりに「世間」がせまい。ごく内輪の甘えた「私語」なみだ。
この雑誌、後ろの方に扇情的なだけのへたなヌード写真を、ご丁寧に頁を綴じたままのも含めて何枚も載せている。載せるならもうちっとマシなものを願いたい、インタネットにはばかげたこういう写真が溢れかえっていて、時には遥かに光った美しいハダカが観られる。
2005 7・23 46
* 黒いマゴの体調が少しよくないようで、イヤに沈んでいる、おとなしい。外でケンカ疵をもらってきたのではないかと案じている。子供もおなじこと、気がもめる。様子を見て、明日の午前中にでも獣医に連れて行こうかと。
2005 7・24 46
* 四十五歳になったはずの娘朝日子を祝って、朝一番に、妻と赤飯を祝った。心すこやかにいて欲しい。
* 古稀などという二字がわがことに迫り来るとは、かつて一度も思いもせず実感もしなかったのに、ゆうべ、妻と朝日子の年齢を数えていて突如自分が古稀にと仰天した。暢気な話ではないか。
* 京都から西村肇氏の電話で、もうみな同級生は七十になるわけですから、もうさきざき同期同窓会もできるかどうか分かりませんのでと聴いた。そうなんだと「七十歳」には思い至り、しかし「古稀」の二字は意識になかった。なんと暢気な話ではあるまいか。実感としてはからだの故障はともかく、気分的には五十台半ばという思いで今日まで来ている。それこそ暢気な話ではあるまいか、過信というものか。
2005 7・27 46
* 昨日の台風は、ついに一度もなにも感じないまま、読んだり書いたりして夜更けになり、それから八種類の大作を順々に読み進み、少し恢復してきたのかも知れない黒いマゴの相手をしてやり、あけの四時にはおきまりの外出に玄関のドアを明けてやって。文藝館のことでも委員長と必要なメールを交換したり。校正したり。あまり眠らなかった。いま、少しあくびが出た。
2005 7・27 46
* 黒いマゴの右眉上の腫れあがりが、たぶん自壊し撥膿したのではないかとみられ、峠はマゴの自力で越えたとみられるので、爾後の二次感染などを抑えるために、日照りの中を妻と、マゴをつれて獣医に処置してもらいに行ってきた。
帰ってまた「評林」起稿にかかる。
2005 7・28 46
* そして、今夜は秦建日子脚本の「ドラゴン桜」第四回であった。終わるとすぐ、東大卒の年輩の女性から感想が届いた。今夜しか観ていないとあり、残念。
* ドラゴン桜 今夜やっと見ることができました。「最後の弁護人」役だった弁護士が、落ちこぼれ高校の生徒五人を東大合格に向けて特訓するというコミカルなドラマですね。五人はそれぞれ なかなか個性的で魅力的。
原作の劇画も読んだことがないし、今夜一回しか見ていないので分かりませんが、「東大受験」を徹底的に戯画化してこのまま数学の特訓だけ続けて行くのでしょうか? 見れば見るほど「東大合格があほらしくなる」とういうことで、それが視聴者の共感を得て人気があるのでしょう。反権力 反体制的な思想を表現しようとしているのかとも取れますが、どうでしょうか?
プラスのものに向っていくのではなく、マイナスのものを追い求めているような気がして、それが面白いのでしょうけれども、個人的には、夢を追い求める若者を描いた「天体観測」のほうが感動的で好きでした。 波
* ちょっと、今夜の一回だけでは読み取れないだろうと思います。ほんとは、最初回からみて批評して欲しいなあと思っていました。たんなるキワものにはしていないためか、歯切れも思想も受け入れられているのか、批評は、このシーズンのトップにランクされています。今回は、ちいさい曲がり角を通ったようです。
「天体観測」はさいきん再放映され、見直しまして、あれなりに清潔に書けていたと思いました。「ドラゴン桜」は行き方は変わっていますが、思い切り弾けていて、妥協の少ない興味ある展開をみせているように感じています。
また機会が有ればつづけて観てください。 湖
2005 7・29 46
* 家に帰ると、秦建日子脚本の浅野ゆう子主演二時間ドラマの途中であったが、妻に聞くと案の定、お定まりの「つまらなさ」と聞いてみもしないで、シャワーをつかつたあと、機械の前へ来たのである。
さ、これで九月第一週はカレンダーも白いまま休息できる。秋にさきがけ気を惹く美術展など、楽しめたら楽しみたい。メガネを新調したい、もう一年も一年半もサボっている。
2005 7・30 46
* エピクロスやインドのチャルワカと、ブッだとの違いを、昨夜のバグワンに明確に示されて、わたしはヘキエキし降参した。このところわたしの述懐のしめすところは、エピクロスでたちどまり、できればその場所であぐらをかき、安居したいというところか…とキツイ指摘を受けた気がしたのである。バグワンが、第五層を説いているあたりでガンと頭を敲かれた。むろんすばやく断っておくが、わたしが第五層に身を置いているなどというハナシではない。そういう一連の説教から分離した一つの「話題」としてのみわたしは受け取るしかなかったけれども。今一度、バグワンから直に聴いておく。
* 第四段階にもまた、二つの可能性がある。どのレベルにも二つの可能性があるのだ。ひとつ、もし(深い)覚醒なしに(第四層で)本当に死んでしまったら、あなたは幽霊のような存在になる。(たんにあなたは)あらゆる生命、あらゆる生気を失ってしまう。眠りこけているかのようにして世間に存在する、人間と謂うよりは植物のように。あたかも深い催眠状態にあるかのように、酔っ払って、空っぽだ。
(そんなあなた、いや)彼の中には十字架がある。が、復活が起こっていない。しかし、もし目を見張りつづけていられたら…。が、死が起こっているというときに、目を見張っているのはとても難しい。
だが、マスターがゆっくりと働きかけていれば、それも可能だ。もしあなたが眠り込んだら、マスターは目覚ましとして機能する。彼はあなたをしゃきっと覚まさせる。彼はあなたにショックを与え、気を配らせる。そして、もしあたり一面に死が起こっているときに、気を配り、覚醒することができたなら、あなたは不死ヒなる。そうして、第五層が登場するのだ。
第五層は生命の層だ。エネルギーは完全に自由になる。とどこおりなどひとつもない。あなたは、そうなりたいと望めば何にでもなれる。動くのも、動かないのも、行動するのも、しないのも、思いのまま、あなたはまったく自由だ。エネルギーは自在なものとなる。
しかし、そこにもやはり二つの可能性がある。これが最後だ。
人は生命エネルギーと同化するあまり、快楽主義に走ることもできる。そこがエピクロスと仏陀の別れ道だ。エピクロス派、インドのチャルワカたち、そして、世界中の享楽主義者たち、生の第五層まで本当に達した人々は、生の何たるかを知るに至った。そして、彼らは生と同化してしまったのだ。食べて、飲んで、陽気にやる…。それが彼らの信条になった。彼らは「生以上」の何ものも知らないからだ。
生は死を超えている。しかし、(第五層で仏陀ふうに自在な)あなたは、生すらも超えている。あなたは究極の超越そのものなのだ。
というわけで、第五層にも(エピクロス的な)危険はある。もし第五層でもうひと踏んばり目を見張りつづけなけれ
ば、あなたは享楽主義の餌食になってしまう。
(だが)よろしい! あなたはわが家のすぐ近くまでたどり着いている。もう一歩だ。
ところが、そこであなたは、もう「目的地」に達していると思い込む。
エピクロスはビューティフルだ。もう一歩で、彼はひとりのブッダになっていただろう。チャルワカたちはビューティフルだ。もう一歩で、彼らはキリストになっていただろう。あとほんの一歩だ。
最後の瞬間に、彼らは「生」と同化してしまった。そして、覚えておきなさい、「死」と同化するのは難しい。というのも、誰が死と同化などしたがる? が、生と同化するのはごくたやすい。誰もが「永遠の生」を求めているからだ。生につぐ生につぐ生……。
この時点で転じてエピクロスになる人々、生と同化する人々は、とてもオーガズミックな生を送りつづける。彼の全身が、途方もなくビューティフルに、優雅に機能する。彼は「小さなものごと」を楽しむ。食べること、踊ること、そよ風の中の散歩、日なたぽっこ……人生の小さなものごとが、彼に途方もない「楽しみ」を与えてくれる。こういう人間には、〝喜び″(楽しみ)という言葉がふさわしい。あるいは〝歓喜″と呼んでもいい。
が、〝至福″ではない。彼には至福は得られない。彼は楽しむ。だが、至福に満ちてはいないのだ。
* ……………。
* 引き続いてすぐこんなことを謂うのは少し問題かも知れないが。建日子脚本の「ドラゴン桜」は、視聴率はともあれ、批評的には今季いまのところ独り勝ちにちかい好評のようで、妻がよく覗いているらしい、業界筋のサイトへの視聴者の書き込みは、凄いような熱気だそうだ。で、そんな中の一人に「東大卒」の人がいて、あれこれむしろ共感や批評を書き込んでから、「そういう僕もじつは東大生で、なーんて云うところがイヤミなんだけれど」と言い添えている、と、妻は教えてくれた。
ああ、こういう引っ込んだ自意識は持たないで欲しいなと、わたしは思う。「東大生」は東大生になっちゃった定めをすらりと受け入れた方がよく、世間へ向いて無用の「イヤミ」自意識など持たない方がイイ、むろん無用の「誇り」意識も鼻高に持たない方がむろんイイと思う。不正な手段で合格したというならハナシはべつだが、それなりにまともに合格したのは一結果であり、それ自体に「イヤミ」は無い。「イヤミ」がるからイヤミになる。それだけのことだ、東大生は東大生なのである。
わたしは、そういうことで仮に他人が「いやみ」に感じようが感じまいが、自分のことで、例えば作家、太宰賞、東工大教授、ペンクラブの理事、電子文藝館館長などであったり今もあることを、普通に平気で示しもするし隠したりしない。わたしはそのどれにも不当な画策をして成ったわけではない。わたしは成るように成ったし、成れと云われて成ったまでで、それが「いやみ」のタネになど、少なくもわたしの内では成っていない。そんなことは、どうだっていいと思うぐらい、そういう経歴も余儀なく「わたし」なのであり、気を付けるのはバグワンの言葉で謂えば「同化」しないことだ。そんなことに「同化」してしまって、本質の自分を他に預けてしまう、侵蝕されてしまう、ほど馬鹿げたことはない。軽い譬えになるが、つまりわたしが「わたし」であるよりも「教授や理事や館長」のほうがあたかも「わたし」自身かのように転化してしまえば、それほど滑稽な笑劇はない。その「東大生」君にも「東大生」であることへの「同化」が起きているから、その「いやみ」ぶりを自己意識してしまうのだろう。
そして究極、わたしは「わたし」にすら同化してはならないのだ、が。
*「第五層は生命の層だ。エネルギーは完全に自由になる。とどこおりなどひとつもない。あなたは、そうなりたいと望めば何にでもなれる。動くのも、動かないのも、行動するのも、しないのも、思いのまま、あなたはまったく自由だ。エネルギーは自在なものとなる。
しかし、人は生命エネルギーと同化するあまり、快楽主義に走ることもできる。そこがエピクロスと仏陀の別れ道だ。」
「世界中の享楽主義者たち、生の第五層まで本当に達した人々は、生の何たるかを知るに至った。そして、彼らは生と同化してしまったのだ。食べて、飲んで、陽気にやる…。それが彼らの信条になった。彼らは『生以上』の何ものも知らないからだ。」
「もうひと踏んばり目を見張りつづけなければ、あなたは享楽主義の餌食になってしまう。」
「エピクロスはビューティフルだ。もう一歩で、彼はひとりのブッダになっていただろう。」だが、「最後の瞬間に、彼らは『生』と同化してしまった。そして、覚えておきなさい、『死』と同化するのは難しい。というのも、誰が死と同化などしたがる? が、生と同化するのはごくたやすい。誰もが『永遠の生』を求めているからだ。生につぐ生につぐ生……。
この時点で転じてエピクロスになる人々、生と同化する人々は、とてもオーガズミックな生を送りつづける。彼の全身が、途方もなくビューティフルに、優雅に機能する。彼は『小さなものごと』を(心から)楽しむ。食べること、踊ること、そよ風の中の散歩、日なたぼっこ……人生の小さなものごとが、彼に途方もない『楽しみ』を与えてくれる。こういう人間には、〝喜び″(楽しみ)という言葉がふさわしい。あるいは〝歓喜″と呼んでもいい。
が、〝至福″ではない。彼には至福は得られない。彼は楽しむ。だが、至福に満ちてはいないのだ。」
* 四層にも五層にもたっしてもいなくて、こういう叱正にわたしは曝されてしまう。どうしよう。悪魔は来て囁くだろう、いいんだよ、それでいいんだよ、上等さ。ちっともそれが上等でないことを、だが、わたしはもうとうにバグワンを通じて察している……。
2005 8・1 47
* エジプト展で、美しいすばらしい猫を観たのは、エジプトであるから珍しい発見ではないけれど、二十センチあまりのチンと正坐した猫の像に、思わずそばにいた学藝員にむかい「これが欲しいなあ」と云ってしまい笑われた。
人面で脚が牛とみられる女神の小像が一見正坐像とも見えたのに愕いた。夥しい展示の中で只一点。他は殆どが椅子座像まれに片立膝像。貰ってきた詳細な解説の図録を読む。値打ちもので、これがないと陳列の大方全部が正しく観てとれない。暑くても日照りでも満員でも出向いたのは、特別内覧の機会には図録引き替え券が有効だから。絵や彫刻ならそのものをまっすぐ観ればいい。しかし考古学的な太古の遺品は、やはり解説が欲しい。昨日は「二人」で観て良い機会だったのに連れは無かった。美術展は、展覧会は、一人が気儘なのである。芝居は、ときどきの感想を耳元で囁きあえる連れがあると二倍楽しめるが。
来週の月曜は、渋谷で、好きな画家「ギュスターヴ・モロー」展のオープニング・セレモニーがある。気が利いていて夕方から。でもやはり出かける頃は暑い暑いことだろう。
九日も。十一日も。十五日も。ことに納涼歌舞伎三部の「法界坊」を、勘九郎から飛躍した勘三郎と、演出串田和美とが、平成中村座でもコクーンでもない本拠の歌舞伎座でどうわたしたちを魅了するか。楽しみ。串田、蜷川、野田秀樹、渡辺えり子と他ジャンルの演出家達がこのところ歌舞伎の世界を味わっているのが新傾向。当分、この方角で成果が続いて欲しい。
秦建日子も、やがてまた舞台公演らしく、稽古が始まったと聞いている。微笑ましくもさぞ急流を抜き手で溯る気概であろう、今の若さだ、そういう時機はそういものとして大胆にゆけばいい。結局どんな梯子にも竿にもてっぺんが、突端があらわれる。問題はその機なのだ、そこでどう一歩を空へ踏み出すか。そこまでは、大なり小なり若さゆえに、もともと恵まれてある。恵みは大胆に受ければいいのである。恵みの尽きたとき、何をするか、しないか、だ。
2005 8・2 47
* 同窓会のお知らせ、確かに夫に伝えました。
未だ仕事をしているので、平日の出席が叶うかどうかはわかりませんが。詳細のご案内をお待ちしています。
盛夏、お暑いですね。
私たち家族、7月末蓼科に行って居りました。
今年はニッコウキスゲの当たり年、と数日前の新聞に写真が出ていたのでまだ間に合うかしら—-と大急ぎで霧ヶ峰方面へと登って行きました。
久しぶりで稜線を黄色く染める車山に出会えので、その写真を一葉。 2005/8/3 藤
* 小学校以来の旧友松下圭介君が蓼科にプチホテルを経営していて、あれは秦の母の亡くなる直前に一泊したことがある。その時彼の車で広範囲に案内して貰い、「車山」へも登った。妻も登った。いまも眼にある。
添えられた写真はすばらしい。これを貰って「e-文庫・湖(umi)」の表紙にしようかと思うほどだ、白雲のかかった青空が天上の湖に見え、手前にニッコウキスゲが群生して盛んに咲いている。
あの旅では、諏訪神社まで松下君に送ってもらい、そこで別れて、妻と、拝殿の大縄のとぐろも御柱も、展示館なども見てから、たしか名古屋経由で神戸まで行き、妻は同窓会があった。あの間、わたしはどうしていたのか記憶がない。
東京へ帰ると、母がどうやら嚥下の故障でか亡くなったと市内の施設から通知があった。総選挙もあった。往時は渺茫として速やかに去って行く。
2005 8・3 47
* 秦建日子脚本の「ドラゴン桜」を楽しんで観た。ぱっちりハジケているので、これでいいと思う。面白く観られる。生徒達も桜木弁護士もよくやっているが、始まる前は案じた長谷川京子が、終始楽しんだ演技でワキに徹している余裕が、好感が持てて観ていて惚れ惚れする。「天体観測」のときはみすキャストだと思ったが、今回は、ドラマの佳い一面の芯になって長谷川京子が働いている。すっかり好きになった。終わりの方で、少年の一人が一人に、「なら、ヒデキにあやまれよ」というさりげない小声のセリフ、うまかった。バチッと、ボタンがボタン穴にはまるように利いたセリフで、わたしの思っていたまさにそのタイミンクで必然のセリフを、息子が書いていたのに満足した。
2005 8・5 47
* トイレの機能がより便利に快適に一新され、キッチンのクーラーもともあれ修理が利いた。あれもこれも、前へ前へ仕事を進めてラクになりたい。今週は多く家にいた。来週はあれこれと、外へ外へからだを働かせる週になる。
2005 8・5 47
* ゆっくり朝寝した。寝ている間に妻は市内の眼科に出かけ、もう帰ってきた。朝寝の夢に、小説の書き出しにもなりそうなヘンな夢を見ていた。珍しく臨場的にはっきり覚えている。
この同じ西東京市内に、昔は保谷町でのち保谷市になり今は田無と合併して西東京市なのだが、勤め先の社宅があり、七、八年わたしたちは暮らした。六世帯三階建ての三階に入っていたが、受賞の翌年に今の家に移転した。三十数年以前のことだ。
社宅は今はなくなり、同じ場所の同じ建物が会社と無縁な住人たちの住まいに変わっている。たまに自転車で前を通ってみると、昔とおなじにベランダの手すりに寝布団が日に当たっていたりする。
夢で、わたしは、まだそこに、われわれの部屋がそのまま残してある気だった。何かの用で妻と、いや単に妻に連れだって、誰かしらよその部屋を訪れ、中に入った。招じ入れた若い奥さんは、水仕事をしていたらしく白い前掛けをして髪は黒く、終始顔は見えずじまいであった。女二人流し場に立ったまま絶え間なく話していた。二人ともわたしに背中をむけていた。
わたしは…。ま、その辺まで書き留めておけばいい、奇妙に展開する夢の続きはたぶん忘れまいと思う。(後日談、夢の先はやっぱりきれいに忘却、思い出せない。つづきを書いておくのだった。)
2005 8・8 47
* メールで建日子と話す。
2005 8・9 47
* 納涼歌舞伎の、今日は第一部だけ、観に行く。扇雀丈出勤の第二部、第三部は日を改めて観る。
黒いマゴがきまってあけがた四時半に、外へ出たいと動き出す。ほとんど寝入りばなに近いので、困る。けさも眼が覚めてしまい、早く起きて「丹波」の校正を終え、「ペン電子文藝館」の校正も業者に連絡し、あれこれしてまたも寝は足りないが、ま、いいか。
2005 8・11 47
* たった今、電話が飛び込んできた。朗報、妻にもわたしにも。ワインでよろこんだ。
2005 8・12 47
* 敗戦の日であり、京都では盂蘭盆会。秦の母は、むかしは嫁の仕事として丁寧に仏壇への奉仕を欠かさなかった。一種の異界が家のうちに出現し、少し人間がうやうやしい顔つきになる日々だった、二、三日前から。
坊さんも見えた。
美しいモノの最初の体験のようにわたしは仏壇の火を畏怖して見入った。蓮の葉に散ってたまる水玉の白さに惹かれた。
いま外で鳩が啼く。あの声もわたしは佛界の声のように聴いてきた。
* 四時間半も寝たか、そとから帰った黒いマゴの「ただいま」の柔和な一声に眼が覚めて起きた。六時半。
そのまま機械の前へ来て、ようやく「美術京都」の対談「京薩摩はどうなる」のゲラに手を入れ終えて、京都へ電送した。問題点の検討と展望とは付け得たか。一つ済んだ。
次は、初稿の書けている特集の総論「流通する文学」の仕上げをする。仕事が溜まり気味だが、夏休みという気分を自身に許している。成り行きに流れ流れて、ま、帳尻は合うだろうと。
湖の本、次にという二、三案に決着を。そしてスキャンして起稿。
2005 8・15 47
* さてさて、少し寝ておかないと体が潰れる。
* 四時間ほど寝て、午後の来客を迎える。底抜けの晴天、日盛り満艦飾。歓談。碁。夕食は「ケ・ケ・デプレ」へ行く。談笑のまま妻も一緒に保谷駅へ見送る。「ぺると」で一服、此処でも談笑。佳い半日であった。
2005 8・19 47
* 秦建日子脚本の「ドラゴン櫻」が好調。きらいだった「試験」「模試」なんて場面の続出にへこみながら、オモシロク見た。楽しんでいる。
2005 8・19 47
* 黒いマゴとすこし遊んで、手や指など好きに噛ませてやってから起きたら、六時だった。四時間ほどは寝ている。若い人達と手を繋いで夜の保谷野を歌をうたって歩いたりした。「ケ・ケ・デプレ」の輸入シャンパンがなかなか美味かった。久しぶりに夢も見ないで短時間だが熟睡した。
* 妻が駅の売店で「週刊現代」を買う。いささかギョッとするが、息子が「ハタんだらけの日々」と題したおソマツの一席を毎週書いて演じているのを「母の愛」で買ってやるわけだ、ウーム…ゆるす…。藝のうちと、わたしも読んでやる。余禄というほど美しいものでないが、わたしは、むろん本誌の名を上げ(下げ?)ているハダカ写真もしばし「批評」するのだ、呵々。
2005 8・20 47
* 三島の「女方」を仕上げた。必ずしも傑作ではない、三島由紀夫らしい優れた読み物であるが、さすがにと感じ入るものを魅力的にもった小説。息子に送ってやった。
2005 8・20 47
* 黒いマゴにしっかり起こされてしまう。四、五時間眠ったろうか。こういう早朝に外へ出て歩いてくるといいのだろうが。午後から、慌ただしくなる。
2005 8・22 47
* 颱風が来ている。黒いマゴに起こされ、また数時間に足りぬ睡眠で早起きし、機械で原稿を作っていたが、十時頃に潰れるように床へ戻り三時間ほど寝ていた。なんだか、へんな、逃走劇めく冴えない冒険の夢をみていたり。雨が、遠くから急に迫って来たり、またふっと遠のいたりしている。
2005 8・25 47
* 秦建日子脚本「ドラゴン櫻」大好調。すこし涙が出た。
ただ、いわゆる教員室にたむろしている学校教師への軽蔑・侮蔑が助長されて行くことに、危惧も深い。ドラマの主題が其処にあるわけでないのでこれ以上は言わないが、あの紙屑のようにひらひらと右往左往している教師達を、ドラマの上のバランスというだけで観ているのは、あまりに情けない。このドラマの主題には感動を誘う本質があり、それは東大でも偏差値でもない。それはそれ。
しかしまた学校教師とは何であろうか、わたしは、過去に垣間見た幾つかの学園ドラマでも満足したり感動できたことは無かったことを告白しておく。「学校の先生」と謂ってしまっては大雑把になる。小学校の一年生から高校三年生まで、一年刻みに実は「先生」のありようは微妙にちがうだろう、それを一括りに一様の「聖職」とくくっても「紙屑」とくくってもならないだろう、まして「ドラゴン櫻」の受験の魔術師のような教師だけを仰ぎ見ていて良いワケがない。
「先生」とは何かをいちばん知らないのが職業「教師」かも知れないと、わたしのドラマで流した涙の一粒二粒はそちらへの情けない涙であったことを告白する。そして、櫻木健二とかいう弁護士「先生」をより良くもより悪くも誤解してはならないだろう、「東大」や「受験」や「野心」を下支えている人間の命=人生をしっかり観ていると想われる彼に、わたしは心惹かれている。
2005 8・26 47
* 四時半ごろに黒いマゴがそっと足指を叩いてくる。外へ出してという温和しい頼みだ。時には障子破るよと爪の音を聞かせる。三十分か小一時間で帰ってくる。書庫上の庭からテラスへ身軽にとびおりる。頚の鈴も鳴らさない。
六時過ぎには眼が覚めて起きてしまった。朝食して、一仕事して、いま九時過ぎ。
2005 8・29 47
* 和泉式部の歌をメールで読み、わたしもすこし思うところを書き写してから、階下で、寝床で、八種類の本をつぎつぎ読んで、灯を消したのは一時半ごろか。
三時半頃一度起き、五時半には黒いマゴに、あちこち噛んで起こされた。起きなさいというのだ、踵や二の腕や頬をかるく噛みに来る。ま、いいかと起きた。妻も起こされた。このマゴめ、人を起こして少し食べて、自分だけもののかげへ引っ込んでまた眠る。
* 夜昼顛倒の暮らし、よくないよと黒いマゴは教えてくれているのだろう。
2005 9・3 48
* 黒いマゴかいつか来ていて、背後のソファでのびのびと熟睡している。猫といえども身の傍で幸せそうに安心していてくれると嬉しい。振り向いて、しばらく眺めていた。
2005 9・6 48
* 秦建日子のブログをときどき覗いてみる。腹の底から出て来る言葉を、探り読めればいいがと。
2005 9・6 48
* 風が強まっているが晴天、朝八時にして暑い。颱風は日本海山陰沖を北へ向いている。
* 九時過ぎには家を出て築地聖路加病院へ。午後の雨降りも予測は半々、晩へかけ治まってゆくとか。
* 傘をつかう必要もなかった。診察は可も不可もなく、問題なく。
昼過ぎに解放され、銀座一丁目の駅を上へあがり、目の前の「シェ・モア」でフランス料理の昼食。フォアグラを主の、濃厚なオードブル。あっさりと松茸のコンソメスープ。鯛を中心のうまい魚料理、馬肉をソースでしっかり味付けた珍しい肉料理。デキャンタで少し軽めの赤ワイン。パンにバター。多彩なデザートとダブルのエスプレッソ。こってりと楽しんだ。
持参のプリントの書類を読みながら、ゆっくり二時間。そして足元の有楽町線ですうっと一本で保谷まで帰る。
往きの有楽町線では、目を閉じて海外の有力な女優たちの名前を百十数人まで数え、百人一首の作者を九十人あまりまで数えているうち、新富町まで着いた。帰りは「世界の歴史」中世のヨーロッパに読みふけって。
妻に、駅売店で「週刊現代」を買ってきてと頼まれ、勘弁してくれと言ったが、ま、息子の「連載エッセイ」を読みたいのだろうしと、売店へ立ち寄ると「完売です」と在庫なし。フーン。なんでや。
2005 9・7 48
* 夕飯前にがまんならず二時間寝た。夕飯を終えて七時過ぎ。あれをやりこれをやり、少しずつ少しずつ平均して仕事を前へ送って行く。いま、そういうことの必要な時。
作家がひとり自殺した由、何かの委員会で名前を聞いたか一緒に会議したか、おぼろに覚えている。自殺の理由は知らない。
顧みてわたしが何かに追いつめられているか、思い当たることは特に無い。創作者として、わたしはわたしの勝手で好きにしている、だから、特別な思いはない。突如としてまた噴火する可能性はあるし、無くても構わない。「今・此処」に生きていれば、おそらくそれが創作的な第一なのだと思う。
わたしは、今度ある種の本をつくる時、題を「非常識な存在」としようかと期待している。物書きやもの創りが「常識的な存在」になったら、お嗤いモノである。ただ非常識を「死」で表現してしまうのは、或る意味で常識的な選択であり表現であると、わたしは肯定していない。
* 妻には妻の心配がある。二人の親から兄とわたしが生まれ、兄に三人、わたしに二人の子があり、兄もわたしも、兄の子の二人もわたしの子の建日子も、物書き、もの創りであるし、妻の兄も妹もそうである。物書き、もの創りには「非常識な暗闇の世界」が確かにあるから、妻には彼等に関して常識的なおびえがあるのはムリがない。
何ということは無い、一つ「売れねばならないなどと考えない」こと、二つ「名誉の表彰を追い求めない」こと、三つ、緩やかに大きな抛物線を描き、「年齢を同伴者の人生」なのであるから、「若い人たちとの交代現象は必然の必要」と、つねに心得ていること。 そのように心得て「今・此処」に正対していれば、人生には、ふっくらと佳い余禄が無いわけでないのである。
この年で、わたしは、甚だ非常識に不徳のジンであるけれど、御覧のごとく、孤ではない。健康で厚かましく「不当にイバッテ」暮らしている。三田誠広クンがいつか話していた。「文学の世間はヘンな世間でしてね、ちいっとも売れない人が胸をはってエバッテますからね」と。あれは言えているのである。リッチになったらむしろ負けで、いずれ芯からうしろめたく衰える。フェイマスに生きるには「今・此処」を見失わないで、非常識な存在を貫いていれば宜しい。恒も街子も建日子も、常識人に落ちこむなよ。
2005 9・8 48
*「ドラゴン櫻」が早くももう来週で終わるという。少し淋しくなる。みんな合格すればいいなあなどと、人のいいことを思ったり。
林芙美子の「放浪記」を高峰秀子が演じていた。あのようにして地を這う暮らしと熱烈な文学への愛と執心とで、しかもごく数少ない才能だけが、幸運に導かれて文壇に、創作者の世界に、踏み出して行けたのである。
わたしですら、小説を書きたいと思っていた時期のアトヘ、書き始めて七年の私家版時代を積み重ね、全くの幸運一つで、いきなり太宰治賞が先方から舞い込んできた。林芙美子と同じように苦労したとは言えない、またそれゆえの別の歩み方を選んできた。
秦建日子の場合は、ある人の「おまえ(代わりに)書くか」「はい書きます」の唐突なやりとりの時点で、作品(三十分のテレビドラマ)はもう売れ口が決まっていたという。以来ほとんど休みなく彼は戯曲を書いて演出しつづけ、テレビドラマの脚本を書き続け、演劇塾を経営して卒業公演の面倒も見、いきなり小説『推理小説』を河出書房という一流の版元から出し、週刊誌にエッセイを連載している。まだ名前はとても売れているなどと言えないが、「放浪記」時代の林芙美子らが聞いたら、ぶったまげるほどウンに恵まれている。
また、それだから、それ自体がコワイのである。少々の挫折に少しも動じないど根性をも人一倍養っておかないと、青い顔をするハメに成りかねない。驕ってはいけない。
2005 9・9 48
* 朝飯前のすこしでも涼しいうちにと、二人で投票をすませてきた。人の出足がいいように感じた。建日子も投票のために今日は帰ってくる。
2005 9・11 48
* 総選挙 惨敗。 嵐になる。
* 建日子も呆れかえって、仕事場へ帰って行った。
2005 9・11 48
* 録画しておいた秦建日子脚本「ドラゴン櫻」最終回を見終えた。
建日子はいい仕事をした。そして終点ではない、まだまだいろんな「正解」の道を逞しく踏破していってもらいたい。
2005 9・16 48
* 秦の父や叔母のむかしの写真が、やや纏まって見つかった。知らない人のもまじっている。
写真の保存はそれがどんな関係の誰を、いつどこで誰が撮ったものかのデータが無いと、本人やごく近親以外には、時代風俗の資料的興味を惹くしか意味をなさなくなる。わかっていても実行できない。
2005 9・17 48
* 昨夜ポーランドの「柳」君の便りを読んでいて、「意見」はもっていたけれど「生活」していなかったという述懐に、わたしは胸を打たれた。明らかにこれは一つの見解であり、批評である。「意見」をちからに成しつづけた表現だけれど、その表現に「生活」の下支えが無かったかも知れないという反省は、この三十なかばへ乗りかかって行こうという年齢には、重大な意義がある。
譬えて言えば、これは息子の秦建日子にも言えること、手厳しい批評であろう。彼は持ち前の才気で表現しているが、書かれている例えば科白の端々には彼の思想とはとても思われない、むしろ日頃とは逆さまな表現すら混じっているとみられる。が、それは「生活」に根ざしたものというより、読書や風説や思いつきや常識による「意見」から出た産物でありかねない。よく謂う「セリフだけは知っている」けれど、本心の思想になっているかどうかは分からないのである。カッコいいことは、実感が無くても知識や見聞からでもけっこうひねり出せる。それが「柳」クンの謂うところの「言葉」でおおかた作り上げられたもの、の意味になる。人間の深奥内奥に根生え根ざしていなくても「セリフ」は出て来ること、政治家達の口から出任せを聞いていても分かる。
「生活」が欠けていたという発見と反省は厳しい。厳しいところへ気が付いてきた、それが奥さんと一体の生活がしたいという気持ちになっているのを、甘い感傷といっしょくたにして冷笑するなどは間違いである。もし「柳」クンたち建築家の創造が、「生活」の蓄積の反映しない「意見」に載っただけの産物では、やはり足元が脆弱だろう。
ヨーロッパまで駈け巡って、さすがに一つ大きい巌をよじ登ったなと謂う気がして、嬉しかった。
2005 9・21 48
* 夜前、おそくに建日子がバイクに乗って走ってきた。バイクとはおどろいた。二時間ほども楽しく話して、小雨の中を仕事場へもどっていった。「ドラゴン櫻」を終えて、息をととのえながら、小説第二作に取り組んでいるようす。
2005 9・22 48
* わたしは一日がかりで、写真と組み討ちして、何をどうやって組み伏せたかまったく自覚なく、とうどう一枚の写真を、「e-文庫・湖(umi)」創作欄の、朝日子作の詩「回転体の詩 小さい子よ」のなかへ装填した。わたしの撮った夥しい数の写真の中で、ことに懐かしい我が子らの写真である。
さあまたやれと言われても同じように悪戦苦闘するだろう。なにが決め手で出来たのか、分からないがいい気分である。「森」のように暖かい親切を呉れた「神さま」に感謝する。 2005 9・23 48
* 「e-文庫・湖(umi)」の冒頭に、わが近親中の死者たちのためにと「創作」をとりまとめている章がある。中に、娘秦朝日子の三つの作品が入れてあるが、それへ写真を入れてみた。朝日子のごく幼い日の写真、成人しての写真と、プロフィールとを、それぞれに入れてみた。建日子の生まれるまでを書いた妻の「姑」という作品には、その秦建日子の一歳前後の写真をいれてみた。
卒業生「森林」君の熱心な後押しをえて、ようやく念願の操作に成功したという次第。
2005 9・24 48
* 卒業生男子が、ピアノの調律もすみ涼しくもなってきたので、十月半ば、我が家までピアノを弾いて聴かせに来てくれるという。妻は毎晩七時から一時間、きまってポロンポロンと「音」をさせている。卒業生クンはあれよりだいぶ達者なのは知っている。夫婦とマゴとで借り切り占有の音楽会になりそう。
2005 9・30 48
* 清容不落邯鄲枕 残夢疎声半夜鐘
* 六時前に起き、新刊分のあとがきを半分、その他いろいろ書いた。二時間近く経過。昨日は、きちがいじみて暑い一日だったが、早朝の二階機械部屋は、しんめりと秋気配で。
植木屋が入り、庭木はかなり坊主にされた。細長い鉄筋書庫の屋上庭園(!)は、もう草葉が枯れそめて。物干しに出ると、すうっと黒いマゴが寄ってきて、そんな草葉に気分よげに放尿。そういう図をめったに見せる猫クンでなく、親愛と安心のデモであるのかも。
2005 10・3 49
* 集英社版『人物中国の歴史』の第七巻に「徽宗」を書いているが、実は二十歳になったばかりの娘朝日子に代筆させた。もう一つもう少し前の巻に「李陵」一編も、朝日子が代筆している。昨日今日、その「「徽宗」を電子化し校正しているが、二十歳の筆としてはじつに丁寧に調べ適切に表現している。たんなる解説でも紹介でもなく、読み物としても読者の気を惹くにたる親切な、しかも行儀の良い文章で書き通しており、親ばかが、今にして喜んでいる。代筆させてわたしは少しも恥を書いていない。たいした原稿料も遣らなかったけれど、今にしては、書かせてやれて良かったと、あの時と同じように感じているし、この子にはずうっと書き続けさせたかった。ほんとうに惜しいことをしてしまった。「e-文庫・湖(umi)」に残しておいて遣りたい。
2005 10・5 49
* 朝日子著作の「徽宗」をスキャンして読んでいるが、よくこれだけを二十歳前に書いたと、正直の所おどろいている。独創性をいうのではない、課題が「人物中国の歴史」の一人なのであるから、根底は「調べ仕事」になるが、調べたことをどう表現するかは才能である。朝日子には、穏和な文章のこだわりなさと、調べ仕事をナマのままに書き並べて済ませない、強いていえば藝術的なセンスが育とうとしていた。
小さいときからいろいろ書かせて、どのように推敲するかを教えていた。この一文は、二十歳になったときの、父親へ提出した卒業論文なのであった。平明に書けたいい文章を読むのは楽しい。いま楽しんでいる。
お茶の水女子大の卒業論文は「ムンク」であった。これも読み直してみようと思う。やす香を抱いてパリで暮らし始めた記念は、いま「e-文庫・湖 (umi)」に載せてあるが、「パリ通信」という私信めく文集も朝日子は保谷の家に置いている。これも読み返して復刻しておいてやりたい。
朝日子はいま碁打ち仲間との交信を楽しんでいるらしい。碁にふれた川柳だか俳句だかのコンクールで、末席の方に駄句を入選させている。そういう境涯もまた心身健康ならいいであろうが。
2005 10・7 49
* 朝日子の書いた「徽宗」をスキャン校正し終えた。ほう、といろいろ教わった。よく調べ、よく参考文献をかみ砕いて、二十歳の筆とは思えない、気負わずゆったりと書かれた、しかも悲惨な一皇帝の人生であった。この皇帝の悲惨は自ら招いたと言えなくない。君臨する人としても政治家としても、最低に無責任な皇帝だった。そんな人物がなぜ「中国のルネサンス」と題した一巻に数人の一人として採り上げられるか。彼の稀有の藝術家たる才能のゆえである。彼の宸筆と確認される「桃鳩図」は我が国愛好の国宝に指定されている。朝日子は、その辺をよく調べよく考えて評価し、興味深いエピソードなども採り入れて、ほう、ほうとわたしを喜ばせた。
同じ『人物中国の歴史』で、もう一人、「李陵」に就いてもわたしは朝日子に代筆させている。それも読み直してみたい。せいぜい大学一二年の時にこれらを書いた。原稿料名義のお小遣いも欲しかったのだろうが、今となればそんな金銭づくは意味薄れて、これを、これらを朝日子は間違いなく「書いた」ことが大きい。青春の意気が生彩を放って此処にのこっている、それが大きい。父親の身贔屓でなく、そう思う。
2005 10・7 49
* 秦朝日子が二十歳で父のために下書きした「ある皇帝徽宗」を「e-文庫・湖(umi)」の創作その他の欄に掲載した。ほどなく二十歳になろうとする孫娘、押村やす香に母親の文章を贈りたい。
* 若い人達が遊びに来てくれ、実に久しぶりに碁をうち、負かされたが、楽しかった。池袋に出て「天麩羅」を食べた。
2005 10・8 49
* 機械ソフトでなく、生身の、わかい人と何年何十年ぶりかに一番の碁を二時間ほどもかけて打って、負かされた。残念と爽快と、船橋屋「笹一」の酔いとで、心地よくいつもの倍ほどの時間を熟睡した。
* 昨日は、もう一つ二つ三つほども、ま、いいことが重なった。
2005 10・9 49
* 黒いマゴがしっかり寝てくれると、起こされずわたしも熟睡できる。六時間も続けて眠れるなら今では足りている。夢は見るけれど、このごろ夢を見たとも思い出せない睡眠があり、いいことか良くないか知らないが、安眠というものか。
2005 10・12 49
* 午前中機械の前にいた。午後、思い切って美術館へ出ようと思う。明日の午前に納本があれば、即、家中がいくさ場に成る。
* 妻が、付いていって上げるというので、かしこみかしこみ二人で上野へ行き、創画展を観た。
案の定、観るに堪える展覧会ではなかった。橋田二朗先生の草野の繪など美しいと謂える少数に属していて、石本正氏の半裸婦も見苦しく、上村淳之氏の鶴も、亡き松篁さんの鶴の半分も描けていない。大森運夫ほか指を折って片手に満たない程度にちょいと立ち止まっただけで出て来た。
妻が久しぶりに寄席で笑いたいというので、鈴本の昼席、中入りの少し前に入って四時半の打出しまで腰掛けていた。大笑いはなかったけれど、川柳の唱歌漫談など、満員の寄席で楽しんできた。トリは菊千代。これは話藝としては大いに物足りなかったが、話題が西行の出て来る「和歌もの」なので、おやおやと思い聴いていた。
伝へ聞く鼓ヶ瀧に来てみれば岸辺に咲けるたんぽぽの花
と歌を詠んで木蔭に臥しまどろんだ歌詠みが、夢に、山中のあばら屋に一夜の宿を求め、請われて、瀧のもとで詠んだ上の歌を披露すると、爺が一個所の手直しを勧める。伝へ聞くよりは鼓の縁で「音に聞く」がいいだろうと。歌人は閉口する。
すると婆がまた一個所の手直しを勧め、来てみればより「うち見れば」の方が鼓ヶ瀧にふさわしかろうと。歌人はぐの音も出ない。
すると少女まで現れ出て、岸辺ではあるまい、鼓に縁をもとめれば「かは辺」と直した方がいいと。
音に聞く鼓が瀧をうち見ればかは辺に咲けるたんぽぽの花
と直ったわけで、たんぽぽは、別名が「鼓草」である。なにしろ最初の歌を聴いたとき、落語じゃもの仕方ないが、まずい歌やナアと惘れていたら、そこそこに直されたのが面白かった。この歌人、じつは西行法師で、夢の三人は、住吉の神様や人丸たちであったという。笑って「鈴本」を出て来た。
横丁に入り、天麩羅の「天壽々」の店明けにとびこみ、菊正純生の冷酒で、小味な、からっと揚げた天麩羅を堪能してきた。魚づくしに扮装した初代吉右衛門をはじめ、時蔵(先々代)、染五郎(先代幸四郎)、もしほ(先代勘三郎)、梅枝(先代時蔵)らの居並んだ「戯画」の額を珍しく観てきた。良い店をみつけた。
その脚で地下鉄大江戸線に入り、妻は、遠回りして帰りたいというので、両国、大門、新宿都庁前などを大きく経由して練馬へ。保谷からは例のタクシーで帰ってきた。タクシーの運転手が「ハタさんですね」と覚えてしまっているのに驚いた。ほんとは歩いた方がいいのだが。
芝居以外に妻と出たのは久しぶりで、上野の山は好天。
* 家では黒いマゴが待っていた。
2005 10・30 49
* うまい夕飯をたのしみ、十時頃の入浴も挟みながら、結局十一時半頃まで、発送の作業。予定したとおりにことは運んで、これで一息つける。明日は散髪できるかな。
二階の機械の前へきたら、京都の「ほんやら洞」主人の甲斐扶佐義さんから、死んだ兄に触れて心嬉しいメールが届いていた。他にも。
2005 11・1 50
* 甥の黒川創にふれてメールを呉れた人もあるが、いま、とくに関心はない。「がんばりや」と離れたところから声をかけるだけ。いまさら何を受賞するにもいいオッサンになってしまっているが、風の便りに何か朗報が届くなら、それも楽しい。わたしの教室で小説家として立つ気概をもったと聴いているまだ若い角田光代の作風とは、対照的な何かをもった黒川創であるが、何にしても若い人達の創作生活に首をつっこもうという気など、わたしにはとうから無い。愛して眺めているだけ。それは息子の秦建日子にも今ではおなじことである。みな、がんばりや。
* それよりもわたしは、死んだ兄、北沢恒彦のことを考えている。いつも想っている。
2005 11・4 50
* 西武新宿線落合駅ちかくの小劇場へ、秦建日子作、築山万有美演出「リバース」を見にいった。建日子が経営している演劇塾の何期目かの卒業公演で、シュールな作であるが、客からはかなり話の通りがよくなっていたものの、演技的にあまりに下手ッピーで、乗って行きにくかった。総じて科白が下手。そのために聴こえの間がわるく、ぎくしゃくして演劇時間が流れていかない。それでは舞台空間も雑駁になり、つまり役者の肉体が真実感を持って生動し躍動しない。ドタドタやっている。
始まる前にすぐ近くにあった「桃山」という割烹の店に入って、軽い遅い昼食をとったが、この食事が「安直」を料理に売っていて、いただけない。熱心にはやっているのだが芝居の方もかなり安直。やるかぎりはいいものを見せて欲しい。建日子の脚本がワルイのではない。出演者が未熟すぎる。建日子の塾経営と指導力に問題があるのなら、彼の責任である。
2005 11・5 50
* 朝食は抜き、出町へ、墓参。従妹が挿してくれたのだろうか、菊一輪。樒を左右へ、そして墓のなかへ秋草の侵入してきているのを払いもせず、少し手折って樒に挿し添えた、心地よく。(お寺さんは、そういう草は刈り取れ刈り取れと言われるが、わたしは、余程でない限り青草の寄りそった墓の風情を是としている。)称名百編余。それからいつものように父や母や叔母に話しかけ、今日は新刊の「百人一首」から、秋の歌を主に、たくさん読んで聴かせた。みな父や母や叔母に教わったのだ。そしてそんな本をわたしはいつのまにか書いて出版していた。
2005 11・8 50
* 妻は、一九二九年の母芳枝の日記を、元日から大晦日に至るまですべて克明に電子化し、いまわたしのプリンターでプリントアウトした。兄保富庚午を妊娠した「出産前年の日記」で、出産後は日記どころではなかったかも知れない。妹の黒澤琉美子の手元で発見できたこの手の親の資料をつまはこつこつと電子化している。
2005 11・15 50
* バルセロナから、また建日子から、メールが来ていた。
* 築山万有美が渋谷辺で「朗読劇」に出るのを聴いたあと、仕事場へ来てみないか、そのあと、食事を振舞ってくれるというのだ。
それから正月の松の内に沖縄へいっしょに行かないかと。沖縄には何の惹かれるものもない。むしろより「日本」の風景や空気に、手近に往来できるあたりで触れていたい。それとも特段に面白い芝居を一緒に観たあと芝居の話をいっぱいしながら少量のうまいものを喰い佳い酒をのんで過ごす方が、実になって、躰も気持ちも楽しい。一つには古稀を迎えてこれからという時、家族一同で飛行機のリスクをわざわざ負う気もしない。マゴのためにも。
息子からこんな誘いを受ける、それだけで十分嬉しい。
2005 11・16 50
* 先頃、若いひとに新聞を話題にしたとき、「とっていません」という返辞。いま、こういう潔い返辞は、なかなか聴けないが。
わたしたちも新婚当時からかなり後々まで、新聞を拒絶していた。テレビも持たなかった。必要なニュースは朝の目覚ましがわりのラジオで足りた。わたしたちは、ラジオ派であった。だが。
すぐ近くに当時のフジテレビ本社があり、そこへ休日や夜分など夫婦して探検気分で構内を歩きに行った。そこにはテレビがあった。気楽なもので誰も咎めなかったから、出演者の控え室などならんだ廊下や食堂へも自由に入っていた。京都の家で観ていた「バス通り裏」のきれいな岩下志摩が、フジの地下廊下を行ったり来たりしながらセリフを覚えているのと、普通にすれ違ったりした。
ある晩デイレクターの下っ端さんに見込まれ、「スター千一夜」という番組の、結婚したての菅原謙二夫妻の番組に、枯木も山の役で出てくれと頼まれたりした。なんでも喫茶店で菅原夫妻がインタビューされている、同じ店内の相客の体でその辺の席に座って普通にしていてくれと言うのだ、面白がって承知した。ポケットから掴みだした三百円か五百円ほどを、あとで「出演料」に貰った。超ビンボーしていたから不時の実入りであったが、それよりも、そういうノンキでもある日々であった、それが楽しかった。貧乏なんてあたりまえと思っていたし、世間のニュースにも無関心に近かった。伊勢丹のある新宿へ歩いて出て行けば、世間の容子はそれとなく知れて、それで足りていた。
それが、だんだんそうも行かなくなった。小さい会社の、出来て五年目の労働組合が活溌に動き出していて、おいおいに政府国会も破壊活動防止法だの安保条約だのということになってくると、自然、放ってはおけないのだった。
一年後、妻が朝日子をもう産もうという頃、わたしは労組の仲間たちと、連夜国会前へかけつけ、歴史的なデモの渦巻きのなかでは東大生の樺美智子さんが警官達と揉み合って死んだりした。わたしは、怒号渦巻くそんな中で、処女作となった「或る折臂翁」のことをしきりにしきりに想いつづけた。新豊の折臂翁。白楽天のその長詩は、少年の昔から気になって気になっていた、佳い詩、反戦の思想詩であった。具体的な表現でわたしを捉えて放さない。
国民学校の頃から、わたしは、将来兵隊さんにならなければいけない国民としての運命を、嫌っていた。厭がっていた。それが「反戦の覚悟」なのか、たんに「臆病」からか。小さい胸にそれは一の公案の重みで自問自答の課題となっていた。背景にいつも白居易のその厭戦詩・兵役拒否の長詩があり、わたしは公案に「答」をぜひ書かねばならなかったのである。
同じその問は、シナリオの形をとった「懸想猿」の武士にも、また名作と褒める人も多かった『廬山』の老父に対しても、明瞭に「答」を要求し続けたのである。
* いま、わたしは、新聞にもテレビの報道にも、汚物を浴びるような厭悪感をおさえられない。拒めばいいとも思わないからその感触は棘さえ持って、不快をいや増してくる。わたしのこの「私語」の闇は、また文学や演劇や美術や歴史や、そしてバグワンは、わたしの必死で挑んで倒れまいとするバランス。そういうと言い訳じみるので言わぬことにするが、生きがたい日々であると感じている。わたしが心という分別のマインドを嫌い、もう少し正直な「からだ」に即応していたいと願うのはそれである。
眼耳鼻舌身=色声香味触の感覚のピュアを望んで、「意・法」という、分別・知識・判断・語と理とを「無」に返したい、それが今のわたしのまだしもの期待なのである。期待してもダメなのは分かっているのだが、そういう分別も棄てようと。
2005 11・19 50
* 建日子は、小説の第二作に全力を傾注し、今は「意識」を分散しないで済めば、その方がイイ。あまり間をあけてしまうと、「小説」への道を見失いかねない。
忙しい勤めのなかで『みごもりの湖』の完成に喘いでいたとき、新潮社の編集担当者は、「秦さん、いろいろ忙しくもあるのでしょうが、この一作に賭けて下さい、集注してください。これが出来れば、他のあらゆる全てを補って何倍もの『先』が、一気に拓けます、ゼッタイです」と言ってくれた。その通りであった。
* 渋谷のなにとかいう背の高いホテルで建日子と会い、彼の車で中目黒の家などへ立ち寄ってから、麻布十番の宮崎料理の店「ひむか」で親子三人歓談、たっぷり御馳走になった。嬉しく楽しい、想えばあまりこれまでになかった時間であった。わたしは、なにも遠方まで旅行などしなくてもいい、こうしてこころおきなく飲み食いして話せれば、都内で十分に嬉しいのである。
建日子の目には、ずいぶんわたしの体力など落ちて見え、心配させているのかも知れない。ま、スローダウンは余儀ないこと、大きな怪我だけはしないように心掛けている。
建日子には心行くまでの仕事をしてもらいたい。結局は良い仕事こそ良い力になり、次へ繋がる。いいかげんなことをしてはならず、自分自身に羞じなくて済むように心も手も尽くしてほしい。
〆張り鶴の佳い酒を好きなだけ御馳走になり、好きなだけ食べ物も御馳走になり、母親も嬉しそうで、よかった。西武線では保谷止まりに乗った安心で、わたしはよく眠っていたらしい。
2005 11・24 50
* 建日子です。昨日はありがとうございました。
正月の松の内に二泊、長野美ケ原にホテルを予約しました。新幹線で松本に行き、そこに送迎バスが迎えに来ます。新幹線も、こちらで予約しておきます。
ホームページがありますので見てみてください。ここはいいですよ。
では。
* 勤めていた頃も、作家になってからも 昔は歳末年始を京都の言えで過ごすのが、わたしには楽しみであった。京都の根がすっかり失せてからは、家に居座りの暮れ正月ときまっていた。三が日過ぎてとはいえ、こういう小旅行は初体験。
2005 11・25 50
* 息子は車の旅に誘ってくれる。妻は、車の旅って楽しそうと憧れる。わたしは、疲れても腰をのばして立てない狭い車の旅のつらさ、退屈さを、焼き物の窯場探訪で全九州を車でかけずり回った体験から、身に沁みている。あの旅は車でなければとうてい叶わない縦横に山奥へも尋ねて行く探索行であったから仕方がない、確かに車の探訪は機動的ですぐれている。が、躰には決してラクでない。心臓の弱い妻にはとても勧められない。走っているより停まっている方がながい渋滞は、日本列島のいたるところに生じる。
それでも雀さん達のマイカーの旅は風情に溢れて奥ゆかしい。
2005 11・26 50
* 建日子の家に行ったら、河出書房からもらったという新刊のル・グゥインがあって、「お父さん、読むだろ」と貸してくれた。よろこんで持って帰り読み始めている。ワクワクする。
鏡花の『高野聖』を読み終えた。やはり、心うばう魅惑。そして新しい「発見」ももてた。それは、書いてみようか、誰かに書いてもらおうかと思う。妙味のしたたり落ちるいい切り口である。
2005 11・28 50
* 建日子が、愛猫「グー」を預かってくれと預けに来た。数時間、夕飯を食って、わたしの音楽の愛盤数枚を持って帰って行った。バイオリン、グールドのベートーベン二枚、そしてマドレデウスも。音楽の趣味が動いてきたらしい。
2005 12・4 51
* 叔母の社中も含めて、何人も何人も、わたしが熱心に茶の湯の作法を教えた人たちがいた。中学時代の茶道部にも高校時代の茶道部にもいたし、叔母の稽古場にもいた。とくに私にと望んで習いに来るグループもあった。
ほんの短期間だが東京にも我が家まで習いに来る人たちもいた。
親切に手引きしたので、手前作法の美しく出来る人が何人も出来ていた。このメールの人は、なかでも優れていた。いまでも茶の湯の「先生」をしているのではなかろうか、もう何十年も逢わないが。珍しくメールが来て、驚いた。
* こんばんは。雨の冷たい日曜日、同志社栄光館でのチャリティコンサートへ行ってきました。
栄光館もアスベストが使われていたとかで、五ヶ月間ほど閉鎖されていたそうです。
遠い昔、同志社のキャンパスに憧れたものです。
娘達がお正月に帰って来ることになり、東京行きも、こんなややこしい時に行かんでもと言う、周りの意見に押されて断念、年が改まってから、ゆっくり行くことにしました。
寒さが厳しくなってきました。お大切にお過ごしください。 のばら
* 栄光館といえば、同志社のシンボルの一つ。いちどだけクリスマスのキャンドルサービスのような催しに入ったことがある。
従妹は風邪をひいていないだろうか、わたしは今、少し頭痛がしている。かすかに熱っぽい。まだ九時前だけれど、やすもう。『八犬伝』も『英国史』も『インド史』も『千夜一夜物語』も面白い。鏡花は初見の短編類を読みあさっている。
七日には国立劇場、十日にはコクーン。よく寝ておくにしくはない。明日、もう一押しもすると一仕事が上がるところへ来ている。今夜ムリすることはない。
今夜から息子の猫クンが同居。黒いマゴとはもう馴染みの従兄弟のようなもの。
冷蔵庫に隠れていた缶ビールを見つけてチーズで飲み、少し気を持ち直したが、もうやすむ。
2005 12・4 51
* 二人、じゃないマゴくんとグーくんの平穏な仲のとりもちに、いささか気をつかう。グーは、わたしに馴染んで、極めて友好的。
2005 12・5 51
* フアウスト劇の始まる前に、内々「詩人」「道化」に顔を合わせ、「座長」はこう期待している(『劇場での前戯』)、「すべて(舞台=舞台が)清新溌剌として、含蓄があり、しかもおもしろいというのには、どうしたらよいでしょう?」と。あげく「そうした奇蹟を十人十色の見物に起こさせるのは、詩人だけです」と作者に水を向けている。
この前に商売人の彼はいわゆる見物=受容者たちが、「ゆったりと腰を据えて、眉をつりあげ、ひとつびっくりさせてもらおうと思って」劇場=作品の前へ来ていると言い、「連中はべつに最上のものを見慣れているわけではない、だがおそろしくたくさん読んでいる(=情報だけは持っている)のですな」と、「客」を見抜いている。「詩人=作者」へプレッシャーをかけている。
「詩人」は、それがイヤだ。
「おお、あの雑多な群集のことは言わんでください、あんなものを見ると、詩人の霊は逃げてしまいます」と半ば悲鳴をあげる。観客を喜ばせるだけにピカピカした安手なことは出来ない、「上光りするものはただ瞬間のために生まれ、真正のものだけが後の世までも残るのです」と。
「道化役=俳優」は実際家であり、しかし演技表現による藝術面も担っている。彼は即座に言う、「後の世がどうのということは願い下げにしたいですな。たとえば、わたしなんぞが後の世に構っていた日には、いったいだれが当世の人を慰めてやります? みんなは慰みが欲しいし、また慰めてやらなくてはならんのです」と。
そしてこうだ、「空想という歌い手に、あらゆるコーラスをくっつけるんです、理性よし、悟性よし、感情よし、情熱よしです、しかし、いいですかい、おどけを忘れちゃいけませんぜ!」
笑いを取れという指令は十八・九世紀にすでにかくも至上性をもっていた。そしてその上へ「座長」は追い打ちをかける。
「ところで何よりも、盛り沢山ということに願いたいね!」
* ウーン、「詩人」センセイの分は、まことに悪い。ゲーテ大先生は、芝居の始まる前に作者たる自身の立場を我から追い込み、追い込み方も、苛酷なまでに厳しい。
「座長」はほとんど居丈高だ。
「いろんな事件が眼の前に繰りひろげられ、見物は口あんぐりと見惚(みと)れるという風にできさえすれば、それであなた(=詩人・作者)は広く大衆を掴んだことになる、人気の立つことはまちがいなしです。大勢をこなすには、嵩でゆくほかはない、そうすれば銘々がけっきょく何かしらを捜し出します。数を多く出してやれば、選り取り見取りというわけです。 一つの作を持ち出すには、さっそく幾つにも刻んでください! 手軽に工夫をして、手軽にお膳立てするのですね。纏まったものを出したとて、何になります、どうせ見物がむしり取ってしまうのだから。」
たまりかねた「詩人」は叫ぶ、「そんな細工がどんなに下劣なものであるか、真の藝術家にどれほど不似合いなものであるかを、あなたは感じておられん! いかがわしい先生がたのやっつけ仕事がどうやらあなたの金科玉条になっているようだ。」
だが「座長」は、軽くはねのける、「そんな悪口を言われたって、わたしは平気だ。だれを相手に書くのかを、目をあけてみてごらんなさい!」
* まだまだ続く、三者の論争は。まあ、なんというゲーテのきつい「批評」だろう。この三人の間では「詩人=作者」は孤軍孤立して半分泣き言に聞こえてしまうほど。
『フアウスト』は幕の開く前から、なんもかとも面白い。建日子などは「座長」でもあり「作者」であり役者をつかって「演出」している、ゲーテに少し賽銭をあげてみてよかろうに。
2005 12・5 51
* 煖房していても脚が冷える。そういう季節だ、あたりまえのこと。電気や瓦斯で煖房できなかった昔、わたしの場合昔とは即ち戦時中の京都新門前時代であるが、家中で、中三畳の部屋に二つの大きい火鉢を囲んでいた。京間の三畳は江戸間の四畳半に近いとはいえ、狭いモノだ。火鉢でも十分温まったけれど、隔ての硝子障子を少しでも開けると、寒気が容赦なく突っ込んできた。きちんと閉めないで部屋を出て行くと、当然、叱られた。すきま風は光る刃物のように斬りつけてきた。
2005 12・7 51
* 四十八年。生半可な時間ではなかった。夢でなく、現実だった。
2005 12・10 51
* こんばんは。
今日、「北の時代-最上徳内」中下巻(各一部)の本代+将来買うであろう分の本代(一万円)を振り込みました。外出する時、また、足の痛みがない時に「北の時代」の送本、お願いします。
「北の時代」を読んで、学生時代に船を使いながら高野山から北海道まで帰って来た時のことを思い出しました。青函トンネルも飛行機もあるのに、ふと、片道は船を使ってみたいなぁと思って使いました。
高野山奥の院や山間の家々、当麻の町の小さな神社を見て、「自分日本人じゃないなぁ」と思った、一人旅でした。しばらく、忘れていました。
東京も寒いと思います。体を冷やさないようお気を付け下さい。 昴
* あのオホーツクの見える世界から光って富んできたメールだと思うと、とても嬉しい。そして有難い。
当麻の神社には土俵があった。わたしは小さかった建日子と二人で旅しながら、あの土俵で相撲をとった。当麻蹴速の故地である。あそこから歩いて竹内峠を越えた。
高野山から船で北海道へ、と。
わたしは釧路から東京まで船に乗った。懐かしい。
2005 12・10 51
* 夜前、二人で、中国映画「この子を探して」を観た。寒村の老朽学校に、口約束五十元の給与にひかれて代用教員に引っ張ってこられた、たった十三歳の、なーんにも出来なかった少女「先生」が、一人のいたずらっ子の、貧ゆえに「街」へ出稼ぎに出されたのをガンとして取り戻そうと悪戦孤闘するうちに、先生も生徒達も豊かに成長して行く経緯を、リアルに、あまりにも感動的にリアルに描き切って、稀有な映画作品に結晶していた。
もう映画も後半という深夜に、預かっていた猫のグーを引き取りかたがた、小旅行から帰ったばかりの息子が、お土産持参でわれわれ婚約記念の「お祝い」にかけつけてくれた。土産は「幻の名酒」とふれこみの、沖縄の泡盛。ケーキとお茶とで談笑、猫をつれてまた仕事場へ帰っていった。
そのあと、映画の続きをまた楽しんで、気持ちよく感銘をうけた。すっかり機嫌がよくなった。
わたしは、それからも沢山本を読んで、おそくに寝た。そういう十二月十日であった。
2005 12・11 51
*「三人で帰れよ」と夫人の渡航を祝ったのが、正夢に。よしよし。どうぞ慎重に、しかし萎縮しないで普通に生活し、元気な「ヨーロッパ赤ちゃん」と、親子して抱き合ってもらいたい。
朝日子の、また建日子の生まれた昔を思い出す。
親になる。それが本当の意味の「第一歩」になった、わたしの場合は。子供達の「存在」がわたしを限りなく誇らかに励ましてくれた。
2005 12・14 51
* 熟睡。
*「いしばじ」を知っている人は少ない。「石馬寺」の写真を「藝術新潮」でみたとき、『みごもりの湖』発想に基盤の一つが出来た。会社から関西出張のついでに尋ねても行った。滋賀県五個荘にある古刹。隣町の能登川に、見も知らずに死なせた生母の実家があった。それだけを知っていた。
石馬寺へ、また尋ねていった日は、そばに、飛鳥・当麻・竹内越え・太子町・京都を経て一緒に旅していた、小さい頃の建日子がいた。石馬寺で、建日子と、二つぐらい年下の石馬住職のお嬢さんと一緒に写真を撮ったのがのこっている。このお寺にはものすごい大威徳天像があった。『みごもりの湖』の大事な本舞台の一つ。懐かしい。
2005 12・18 51
* 古紙の山も回収用にみな外へ出して。好天。寒いのはあたりまえのこと。ひさしぶり、夫婦して京都へ。明日中には帰ってくる。
* 名古屋辺、雪は残っていたが快晴。しかし関ヶ原から米原を経て近江路までは吹雪くほどの雪で、少し新幹線は徐行したが、十分程度の遅れで難なく京都着、晴天。
* 車で、今出川の「ほんやら洞」に途中下車し、甲斐扶佐義氏に歌集「少年」を手渡し、そのまま出町の菩提寺に。夫婦して墓参、掃苔。念仏数十編、古稀を迎えることを両親と叔母とに報告し感謝し話しかけながら、香華を。
歌集「少年」からは、上田三四二さんの文の、91頁末の歌二首から93頁最初行の歌まで墓前で音読。わたしに三十一文字と謂うことを、添い寝のものがたりにして聞かせたのは、叔母ツルであった。国民学校の二年生になっていなかったろう。
* アキレス腱の痛みは脹ら脛にのびあがり、腰にも来て、歩行かなり苦痛。それでも地下鉄で出町から三条に、そして古門前の思文閣にたちより、此処の会長とのいずれの「対談」にわたりをつけておいて、切り通し「菱岩」に立ち寄り、明日の仕出し弁当を頼んで、二人分一万二千円余を支払っておいた。
新門前を狸橋までそぞろ歩き、やきものや道具類の店に替わっている、元の我が家跡もちょっと覗いてから、新橋へ。「菱岩」で聞いておいた、フランス料理「萬養軒」に寄り、五時過ぎの食事を予約。縄手から四條をまた東行して「鍵善」に入り、黒蜜の「葛きり」を、しばらくぶりに楽しんだ。
昔懐かしい老舗であるが、奥をおしひろげ、気持ちよい店にしてある。祇園では観光客にも人気の店だが、売り物は昔のまま吟味よろしく、葛きりは美味い。店内の古美術、絵、版画、また「顔見世の楽屋入まで清水に」とある先代吉右衛門の句色紙など、さすが京の老舗の懐のたしかな深さを思わせた。
そこから五時過ぎに、「権兵衛」「いずう」の前をぬけて映画でしばしば馴染みの辰巳橋から西へ、「萬養軒」へ入った。佳い席を作ってくれていた。
* 「萬養軒」はもとは四條通りの目抜き一等地にあり、京都では随一といっていい老舗のフランス料理店だった。美術賞の財団の理事会などもしたこがあり、われわれ夫婦も随分昔に一度食事していたが、この一二年、その店を見失い、ひどく気にしていた。今日タクシーの運転手に、祇園新橋に移ってますと聞かされ、「菱岩」の女将さんにも聞くと、確かに新橋にと。古稀の南座では「菱岩」の仕出しを楽しみ、出来れば前夜は「萬養軒」がいいんだがと妻と言い合っていたので、これ幸いと予約を入れた。
四條のハイカラな店とは様変わり、祇園甲部の町並み保存地区、しっとりとした和風の構えの奧に、落ち着いた店をつくっていた。ま、事情あって四條の店から移ってきたのだろうが、フルコースの料理は、じつにメニュもめずらしく、また美味しく、満足した。ワインもピタリと料理にかない、心地よい酔いを得た。坪庭の奧は高い塀、その東手二階には灯のいろ美しい瀟洒な障子窓がみあげられて、お芝居の書き割りのようで書き割りならぬ風情のよさ。店内にかけた絵もわるくなく、神下雄吉(?)の洋桃の絵は、とくに妻が気に入った。
* もうこの上飲みたい食べたいはなく、明日には来る南座のまねきを見上げて写真に納めたりしながら、師走四條通りの夜をゆるゆる、ゆるゆる西へ歩み歩み、念のために風邪薬を買っておく程度にして、烏丸のホテルに戻った。
妻は疲れもしたであろう、ワインにも酔ったようで、シャワー程度ですぐ寝入り、わたしは校正したり八犬伝を読んだりしてから入浴し、それでも十二時までには灯を消して朝まで寝入った。
2005 12・20 51
* 息子の秦建日子がブログに書いていた。彼が、外向きに父親に触れてものを書いたのは「初」めてだろう。
笑ってはいけない、彼が、つかこうへいさんに運命のように師事し、はじめて劇作と演出にデビューしかけていた当時、そんな噂を聞き知って確かめに来た東工大の純真な学生に、わたしは澄まして、ああ、ぼくはね、演劇をやるときはつかこうへい、小説のときは秦恒平でね、ハハハと小声で笑ったら、眼をまるくして信じてくれたのは、可哀想でもあり、申し訳なかった。つかさんには失礼なことであった。しかしそういう冗談にダマサレてくれる学生の数人いたのも、東工大の好きで勤めよかった理由である。
余談であるが、その頃、澤口靖子の「写真」が好きで、某社のつくった可愛らしいカードを定期入れに入れていたのを、学生に見せ、「娘なんだ」と小声で言うと、三十人に一人ぐらいはやはり眼をまるくして信じてくれた。笑ってはいけない。七十になってもわたしはちっとも善人なんぞではないから、ダマサレないように願います。
* 2005.12.22 Thursday 祝・古希。
私の父親が、古希=70歳の誕生日を迎えました。
親のことを書くというのは、なんだかいくつになっても気恥ずかしいですね。
私の場合、父親が自分と似た職業(純文学作家)なので、なんとなく、「親については触れずに生きていこう」みたいなところが、人より強めにあった気がします。
「親も作家」とバレると、「なるほど。そういう『血』なんですね」と簡単にのたまう方も多くて、「『血』ってだけで飯が食えれば苦労はしねーんだよ!」
などと、いつも内心、毒づいたりしておったわけです。
でもまあ、「血」かどうかはともかく「環境」というのはあったかもしれないですね。何せ私の父親は、小学生の私が書いた作文を、「文章が下手だ」と言って、深夜に勝手に、びっしり赤字を入れてしまうような父親でしたからね。そんな赤字だらけの作文を学校に提出するわけにもいかないし、朝起きて、父親を呪いながら改めて書き直す、なんてことを何度もした記憶があります。
今、父親と同じフィールドでも仕事をするようになり、(何ておれは文章が下手なんだ)と自己嫌悪に陥るたびに、もう少し素直にあの時、オヤジの文章指導を受けておけばよかったかなと思ったりします。
だいたい、私は、親不孝にも、父親の書いた小説をほとんど読んでいないんですよね。難しくてよくわからんというのがその理由なのですが、私ももうすぐ三十八だし、そろそろ親孝行も兼ねて、全作読破の計画を立てようかと思っています。
とはいえ、オヤジさまの著作数は膨大なのですよね。
下手すると、全作読むのに30年近くかかりそうです(笑)
なので、とりあえず、百歳まで生きていただきたい。
父さん、古希の誕生日、おめでとう。 建日子
* メールも呉れていた。
* お誕生日おめでとう。
仕事に追いまくられていて、パソコンの前に座ったときは、12時を回っていました。
ちょっと遅くなりましたが、おめでとうございます。
古希ですか。そうですか。
最近、自分の人生の時間について、(根拠は無いけれど)、「まあ、オヤジと同じくらいは生きられると思おう」と思っています。
なので、なるべく健康に、長生きしてください。
長野(美しヶ原)は、寒いけれど美しいそうですよ。
では、正月に。 建日子
* うまいこと、書くなあ。どうか、きみも、心行く佳い仕事を、苦しみつつも楽しんでください、いついつまでも。ありがとう。
「8」という字の一つの丸を昨日で締めくくりました。小さくてももう一つの丸を結べるよう、わたしも生き生き楽しみます、きみの活躍をいつも心励みに、誇りに感じながら。 母さんの健康と幸福も祈ってやって下さい。きみの姉のことも。 父
2005 12・22 51
* 明後日二十五日から連続して、建日子脚本の「ドラゴン櫻」全編が歳末再放映になると聞いているし、新年の早いうちから建日子原作『推理小説』が、女性脚本家の脚色で連続ドラマとして放映されるとも。主演は市村正親との結婚で話題になった篠原涼子。この女優、ガッツがある。
建日子たちとわたしたちは、正月の松の内に、厳冬をおかして二泊の旅を予定している。あるがままに、なるがままに、その時その時を楽しんで過ごしながら、仕事も前へ前へ進めて行く。なるべくは自分の仕事を楽しみたい。
2005 12・23 51
* 秦の母の写真でいちばん好きな一枚は、階下の仕事場、よく見える場所に無造作に置いてきたが、此処へ入れてみたくなった。飯能にまだ東雲亭という料理旅館があったとき、孫娘の小学校入学式を楽しみに上京した母を連れて出かけた。辺幅を飾らない人であった。従妹「のばら」の血縁の叔母にあたる。明治三十四年生まれであったから、この時はハテ幾つであったか。
飯能東雲亭での母タカ
昭和四十二年四月九日 朝日子の小学校入学式に上京 (割愛)
2005 12・25 51
* 粗忽なことで、同様のご無礼がかなり有るやも知れない。お詫びしておく。
秦建日子の文庫本『推理小説』が出ると聞いていたが、まだ見ていない。
昨日から連続で再放映している毎日系列の「ドラゴン櫻」は、見直しても、骨格たしかで、モノの感じ方・考え方に頼もしく同感のところも多く、阿部寛・長谷川京子のコンビが気持ちいい。「特進」教室へ入ってくる生徒諸君にも親しみを覚えている。凡百の学園モノのなかで、一等地を抜いた一つであろうと、贔屓目なく思う。今日二回目を見てもそう感じた。あと十時間分ほど、明日からは、何回も取りまとめて再放映するのだろうか。
2005 12・26 51
* 秦建日子作『推理小説』の文庫本が河出書房から出ていた。今朝版元から一冊急送されてきた、鄭重な編輯室の手紙も添って。忝ない。幸い、刊行たちまちに版を重ねているとか。父親の分もどうかバランスするほど景気よく売れてくれると、わたしは安心して売れないものを書き続けられる。呵々一笑。深く感謝。
新年に、この小説がいま話題の女優篠原涼子主演でドラマになる。版元の刊行勘とこの話題とがうまく出会い、波頭を双方から盛リ上げたのも、著者に幸運な、配剤であった。おりしも連続ドラマ「ドラゴン櫻」歳末の一気放映も佳境に入っている。
建日子は佳境に浮かれず、おごらず、おちついて心行く仕事を、自身に恥じない仕事をして、大勢の人の心琴をすこやかに弾じて欲しい。
なによりも、次なる第二作を、心新たに、集注し、他に優先して、(放恣にでなく)奔放に、(小心にでなく)細心に、折角勉強願う。
2005 12・28 51
* 歌を挙げてくださるのが、お一人お一人、みな異なっているのが面白い。歌の好き好きとは、そういうものであって、百人一首のおはこがいろいろなのも当然という話。
いま、機械のディスプレイの両脇に、同じ文庫本でわたしの文字通り処女作品集であった『少年』と、秦建日子の処女小説『推理小説』とが、立てて置いてある。わたしの表紙は簡素に清寂そのもの。息子の本の帯には篠原涼子扮する敏腕美貌の刑事姿が大きく、TVドラマ「アンフェア」原作 2006年1月10日スタート! フジテレビ系毎週火曜よる10時 と案内してある。
2005 12・29 51
* 美ヶ原へは、新宿から中央線のスーパーあづさで往来するらしい。松本駅まで「王ヶ頭ホテル」のバスが迎えに来るらしい。
2005 12・30 51
* 五右衛門風呂を、丹波に疎開してはじめて体験した。最初の山の上の方のあばらやに入ったときは、いちばん近い山裾の農家へ、貰い湯に行き、中板をぶかぶか浮かせてしまい、辟易した。辟易どころの騒ぎではなかった。電灯もないまっくらけの浴槽であった。まるきり釜であった。
街道ちかい裕福な農家の離家(はなれ)に移ってからも、いつも母屋へ貰い湯に行ったが、此処では母家の中に湯殿がきちんと拵えられていて、風呂釜もしっかり、慣れればめったに踏み外しはしなかった。
京都の市内であの戦時中、内湯を使える家など、町内でもせいぜい二、三であったろう、みな湯屋へ行った。
我が家の近くには、古門前に「新シ湯」、祇園甲部清本町に「松湯」「鷺湯」そして縄手に「亀湯」があり、四條の電車道をわたった一力前の辻を西入ったところに「祇園湯」があった。もう一軒、祇園新地に「清水湯」があった。
祇園湯まではめったに行かなかったが、子供同士の「探検」気分がはたらくといつもは行かない湯屋へ、連れて通った。新京極にある銭湯にまで、遊び半分四五人で出向いたことも一度有った。
小さいときは父か母かに銭湯へ連れて行かれた。その日の気分次第で、上の湯屋のどれかへ行った。考えてみると、ほぼ平均してあれへ行きこれへ行っていた。湯屋にはそれぞれの何とも言えぬ固有の湯気がこもっていて、普通の町屋の湯(新シ湯、亀湯)、祇園甲部の湯(松湯、鷺湯、祇園湯)、新地の湯(清水湯)、みな様子がちがった。脱衣場の広いのは乙部の清水湯で、松湯も鷺湯もことに男湯は狭かった。母と行くと、時間によっては出勤前だろうか舞子や芸妓が大きい髪のまま、湯ぶねに浮かんでいたりした。男湯の脱衣場にも壁一面に芸妓や舞子の名を大きく朱や墨で書いた白地の団扇がかけてあった。早くから文字をおぼえる佳い教材であった。あんな団扇の二枚三枚と我が家のようなヤボくさい家にも有ったのは、なんでやろ。
夏は、家で盥に湯をはり井戸のわきで行水した。離れの叔母の稽古日だと、稽古に何人も通ってきて、そのうち手洗いに行く若い娘達がそばを通って、「いやぁ、コヘちゃん、行水かぁ」などと覗かれた。
ある日など、「お湯が入ったえ」と親に言われ、はだかで盥まで行くと、盥のヘリをぞろりと家の主の青大将が渡って行くのを見、卒倒しかけた。それでも暑い夏の行水あと、畳の部屋ではだかで涼を入れるのは心地よかった。そのころ壺庭に小さな泉水があり、金魚やちいさな鯉が多いときは六七尾も泳いでいた。
2005 12・30 51
* 今日、「女王の教室」最終回を録画しておいて貰い、帰って「ドラゴン櫻」の最終回とあわせて手仕事しながら観た。ふたつとも、なかなか。好感を持った。「女王の教室」の最後がやや「金八先生」の「大乗仏教」めく熱さに接近しすぎ、また蛇足気味かなと思ったが、職員室の描き方は、「ドラゴン櫻」より働かせていた。「ドラゴン櫻」は「小乗」ではないが、問題点を絞り抜いていて、あれでいい終わり方であった。
* 建日子が一人、猫のグーを連れて帰ってきている。年越し蕎麦を三人で祝い、建日子の土産のチョコレートで、戴いていたシャンパンを抜いて、乾杯した。
建日子が善戦奮闘の一年であった。来年にさらに伸び上がってほしい。
わたしは、気力も落ちていない、余裕で「二学期」を終了した気分。湖の本は八十六巻を進行中だし、水面下の計画もある。「8」の字の一つ○を結び籠めて、新しい○を書き起こして行けると思っている。幸い、健康はスローダウンやむなしといえども、生活には窮していないし、建日子を安心してみていられる安堵感は、はかり知れず、大きい。これからが自分の人生だと若々しく奮発してくる地力も感じている。
* 無事に迎春、無事に歩み出したい。
落ち着いて「今・此処」を大切にしたい。平成十七年、大歳大尾。
2005 12・31 51