ぜんぶ秦恒平文学の話

家族・血縁 2009年

 

* 平成二十一年(2009) 元旦 木

* 賀正 存吾春

あなたのお幸せを祈ります。
牛のように歩んで行きます。     秦 恒平 騒壇余人

ひむがしに月のこりゐて天霧らし丘の上に我は思惟すてかねつ  十七歳 一九五二年

また一つ階段を昇るのか降りるのか知ったことかの吾が吾亦紅
いのちあって吾亦紅けふも千両のあけとはなやぎ二十顆落ちず 七三歳 二◯◯九年

* ちかくの鎮守で太鼓を打ち出した。数百人に賀状を電送した。

* 天光正春 平成二十一年。ようこそ。

* あと五分でお正午よと起こされた。ハハハ。
『ジャン・クリストフ』『背教者ユリアヌス』『ローマの歴史』『エレミヤ記』『ルソーの研究』『今昔物語』『千載和歌集』『バグワンの老子』『蜻蛉日記』『現象学派の美学』そして小沢昭一さんの『昭和の歌』を読み、湖の本の校正もしてから寝た。三時頃か。
夢も見ていたが、さほども悩まず。
下保谷のすまいは静かなのがなによりご馳走で。
妻と二人、雑煮を祝い、「萬歳楽」の酒を酌み交わし、たくさん戴いた年賀状を読んでから、近くの天神社へ初詣。すばらしい晴朗の空、天光正に春。
2009 1・1 88

* 四時頃から、呑んで、食べ始める。六時過ぎ建日子帰ってくる。夕食の頃は、すこし体が重く眠いほど。
メールで妻から年賀状が来た。五十年目の珍事です。

☆ 年賀状  秦迪子
人は耕す
水牛は耕す
稲は音もなく育つ
という年賀状を読みました。 胸に響きましたので。

* なるほど。
2009 1・1 88

* 源氏物語の映画を観、妻が煮たうまい椎茸と高野豆腐と蒟蒻とで、藤田理史くんのはるばる送ってくれた美味しい酒を呑んでいた。そばで京都から帰ってきた建日子がもくもくと機械で仕事をしていた。親子三人と黒いマゴと。静かだが温かい。
メールの賀詞も、数十。賀状も、昔ほどではないが二百近くか。まだかなり世間に繋がれている。
2009 1・1 88

* 朝、親子三人で雑煮を祝う。『マウドガリヤーヤナの旅』の前半を読む。

* 午後建日子は用事で出かけ、留守にひとしきり片づけ仕事して、夕過ぎ、入浴。
建日子が連れをつれて戻り、夕食。
昨日は、注文の洋風料理を食べ、今晩は和食のお節料理。
五十年にして初物づくし。
夫婦二人で元日の祝雑煮というのは、娘が生まれて以来初めてであったし、ずっと自家で妻がしていたお節料理も、ことし初めて和・洋とも予約注文にした。正直の所、妙に心寂しいうえに、ナンと言っても出来合いの冷え冷えした注文料理は、贅沢であって贅沢な割に代用食めいた。
2009 1・2 88

* 夜前、おそくに、建日子と三人で黒澤映画の『まあだだよ』前半を観た。建日子は「ファンタジー」だという。こんな現実はありえないというのだろう、それはどうか。
あるかないかのリアルを問う映画ではない、この映画に向き合って、自身にこれほど上等の人間が生き得ているかを問われている、または自問せよときわめて辛辣な人間批評をまっすぐ衝きだされている作品だ、上等のユーモア映画のようで、人間を問いつめられている厳しい映画、また嬉しい映画。
観ているだけでほくほくと嬉しくなってくる。嬉しくなれる人間か、これをただあざ笑って取り澄ましている人間かと映画自体に尋ねられている。くどく云う。こんなことが「ある、ない」では、ない。この「金無垢」のリアリティーが素直に受け取れ共有できるかおまえはと、問いつめられている。

* こんな「金無垢」からみくらべると、二百何十億円をかけて制作された「乱」のほうは、画面は立派であるが、本質的にはふつうのオハナシ、物語映画に過ぎない。映画の美学や力学の精巧精緻を問うなら立派だが、それ以上でも以下でもない。
2009 1・3 88

* 建日子も「仕事」へ引き上げていった。もう正月は済んだ。
2009 1・3 88

☆ あけまして、おめでとうございます。  菜
いいおてんきにめぐまれて、新年になりました。おめでとうございます。
お天気がよいと、何となく気持も豊かになりますね。
お元気なお年をお迎えのことと思っております。いいお作品ができますように。
お祈りいたしております。
なんだか、昨年は大変お辛そうで、メールもおだしできませんでした。いい加減なこといえないたちですし。
今年はきっとお天気のように、丑年のように穏やかないい年になりますでしょう。

* こういうご心配を、大勢におかけしている。
わたくしも、此処にことさら書くまいとしているので、去年は去年、もう過ぎたことと(ややアヤフヤに)安心してくださっている方が多いが、少しも状況は変わっていない。わたしが娘夫妻の「被告」として裁かれ、莫大な損害賠償を求められ、月々に相当な費用を弁護士事務所から請求されている「現実」は、何一つ変わっていない。
それどころか先方代理人は、やがて私を法廷に呼び出し直接尋問したがっているとやら、漏れ聞く。事態はちっとも和らいでいない、ただ私が此処に「書かなかった」に過ぎない。

私は、現在ご承知のように、息子の所有している大きなウエブ容量の一部を間借りして、自分のホームページ「作家・秦恒平の文学と生活」を運営しているが、昨年、この私のウエブを、またも「全削除せよ」と、娘夫妻は「サーバー」をめがけて大量の文書や電話などを瀧津瀬のように送りつけ続け、あやうく私だけでなく息子のウエブ活動にまで被害が及びそうになった。息子に迷惑は掛けられない。私はサーバーの法務担当と極力誠実に応対し、事情を縷々告げ語って、あの、思い出すもおぞましい「BIGLOBE」にされた無惨な被害、ある日突然ホームページの「全部が削除され消滅している」といった無茶苦茶な事態の「再発」を、やっと無事逃れることが出来た。
しかしながら、サーバーとの話し合いの結果、わたしはこのウエブの中で、われわれの産み育てた「娘の実名」をすら書き示すことまで「自粛」させられた。いま高校二年の孫娘の名前すら、実名で此処に書くことを出来なくされた。
仲に立ったサーバーの法務担当さんも気の毒だが、なにより息子にトバッチリが及んではならない。あの「BIGLOBE」の何一つ断りも確認も無しにした同じことをされては、私の文学活動が全面不可能に陥ってしまうのである。そんな「BIGLOBE」事態は、ぜったい予防しておかなければならない、当然だ。
それで、ホームページ全面の「バックアップ」に、全く同内容のサイトを別に用意している。公開していない。
ところが、これまた察知され、わたしが現行外に「もう一つウエブ」を用い、そこで、原告である娘夫妻に対し中傷を繰り返しているという訴えが裁判所に出されていると、代理人は伝えてきた。
別サイトを用意の目的が、突如またも「ホームページ全削除」の憂き目を見て慌てたくないからであるのは当たり前のこと。現に私の弁護士事務所は、「A」と「B」との二つのホームページが、鏡を合わせたように「同じ」なのを、明らかに視認している。むろん先方の代理人も、娘夫妻もそれ以外の何を見ることも不可能なのである。

* 言いたいことは山ほどあっても、控えている。が、要するに、私は、娘夫妻に対し、賠償金「千数百万円」に値する、いったい何をしたというのだろう。
いまも愛してやまぬ孫・やす香の死を傷んで書いた、『かくのごとき、死』という日記文藝は、日々に書きつづけた日記に加え、病躯に喘いだやす香の生前日記を、適所に適量引用挿入しただけ、「ありのまま、あるがままの吐露と表現」とを出ていない。それは、そのままこのウエブの中の、「電子版・湖の本エッセイ39」『かくのごとき、死』として掲載されていて、誰にでも判断して頂ける。
そもそも娘夫妻を傷つけようと書き出された日記では全くない、「mixi」を通じてやす香の名で「わたしは、白血病」と広く告知されたと知った瞬間からの、祖父母のひたすらな歎きを、励ましを、「やすかれ やす香 生きよ けふも」の祈りを、日常の推移とともに書き綴っていった、それだけの日記ではないか。
母である娘への繰り返し労りの思いや言葉にも満ちた日記ではないか。
どこに実親に対し「不倶戴天」と激昂されねばならぬ記事があるか。

* 私は、このホームページ以外に、会員である「mixi」以外、どんなインターネット上の場所ももっていないし、(さきに云うバックアップ目的の同文サイト以外)全ての人にアクセスを開放している。

* 昨年六月以降、一日もやすまず、此処にも「mixi」にも、「朝の一服」として愛の詩歌を連載してきたが、この原作本の「あとがき」は、ほかならぬ此の娘と、ほかならぬ此の私が引き合わせた夫・★★★との「華燭」の当日に書いている。全編の詩歌を丁寧に撰し、また日々に話題にもしながら、だれよりもこの本が、娘と息子への一生の贈り物となるよう意図していたし、いまなお誰より現在の娘へのメッセージとして、再度連載しているのである。「花びらのように柔らかい」ハートに、どうか目覚めて欲しいと願って。

* 「菜」さんのように、温かい気持ちで、しかも戸惑っておいでの身近な読者たちへ、ご報告をかね、遺憾ながら事態は全く変わりなく、いわば我が死の床までこれはついてまわるであろう現状を、ご報告しておく。
2009 1・3 88

* 枕元の灯を消したのは四時半ころか。五時間寝て、四日の澄まし汁雑煮を祝った。熊本へ行っていた「珠」さんから、お土産の酒と菓子とが贈られてきた。感謝。
2009 1・4 88

* 黒いマゴに一度起こされ、又寝の夢が、昼前まで。
2009 1・5 88

* 今日は七草の粥で祝った。午後は、松たか子、宮澤りえの芝居を楽しむ。野田秀樹がどんな舞台を創ってくれるか。とびきりの女優が二人、それだけで嬉しくなる。
宮澤りえは、初めてコマーシャルにあらわれ、ころがるボールを追って駆けに駆けていた印象が鮮烈、なんてイキのいい子が出てきたものと期待した。期待を裏切らなかった。人気の関取とのすったもんだがありましたが、あれはああいう成りゆきでよかった。さもなければ宮澤りえのその後が観られなかったし、今日もなかった。相撲部屋のおかみさんでおさまる器量ではない。天下の宮澤りえだ。
松たか子は、今日の予習かのように昨日のうちに、映画の「ヒーロー」を観ておいた。最近のコマーシャルでは、ひと味かわって煌めく美しさを感じさせている。
二人とも演技力抜群。舞台にどんな火花が散るか、新春の一の楽しみに待っていた。
2009 1・7 88

* 秦建日子が四十一歳の誕生日。夜前に祝意を告げ、今朝返礼があり、もう一度メールを送って置いた。朝食には、娘や孫娘の時と変わりなく、孫達の時と変わりなく、赤飯で祝った。
2009 1・8 88

* 夜はエディット・ピアフの映画『愛の賛歌』に胸打たれた。何度も何度も胸が迫った。何といっても「歌」そのものが「人」を生かしてモノを言う。

☆ エディット・ピアフ
今夜 秦とゆっくり観ました。
一頃 仕事をしながら ずっとシャンソンのCDをながし続けていたので この映画の中で聞こえる歌のたいていは 耳に馴染んでいました。
勿論彼女の声も 巻き舌も・・・
ピアフが 雀とは知らず 小さいときから唄っていたとも知らず あなたの何が ピアフの何を とらえて放さないのか・・・それもなかなか 解らぬまま 最後は おでこに痛みを覚えるほど 胸が詰まるほど 涙をこぼしました。
深い感想にはいたりませんが フランスの雀 と 日本の雲雀 に通うものを感じました。声量・天性の音楽性・病気・まだ早い死・ でも最後にいかにも うってつけの歌の提供に恵まれたこと。
明日は夫婦して歯医者へまいります。 おせち料理もすっかり食べ尽くして ようやく日常に戻ります。
新しい年を あなた 溌剌と生きて下さい。
久しぶりにシャンソンに酔った 迪子ばば
2009 1・9 88

* よく冷えた。すこしでも肩や手先が夜具から出ていると、痛いほど。それでも黒いマゴは容赦なく夜中に起こしてくれる。

* 新年早々、夫婦して歯医者さん。治療中は痛くなかったのに、夕方から痛みかけています。

* フレンチの「ラ・リヨン」で春一番の昼食。天光正春、けれど風はびゅうびゅう。シェフにおみやげ「オリーブの瓶詰め」もらう。
2009 1・10 88

* 耳のうしろがヒリヒリ痛む。眼鏡の蔓がふれるだけで、マスクの紐がふれるだけで、ときどきウッと呻くほど痛い。
寝床に逃げ込み、眼鏡なしの裸眼で読書し、寝よう。
おそらく、後数日で発送の用意はひとまず終え、本が出来てくるまでに暫時の余裕が生まれよう。じつは、珍しく依頼原稿を引き受けてしまった。したい仕事も気楽にはさせてくれぬ。そして愉快でないべつごとのプレッシャーはいつも有る。「生き苦しい」といえばその通りであるが、ま、「息」はしている。
2009 1・12 88

* 輪を描いて、高い空を翔んで啼く、鳶。枯れ木の寒鴉は動かないと云うより、動けない。京都からちいさな旅の用事もお断りした。じっとしているのが心地よくなっているのは、つまり怠けているのか、不活溌なのか。
妻は鉢植えの大きなベンジャミンをいとおしみ、毎年、寒い冬は屋内に避寒させる。それでも葉は日々に畳に落ちて行く。妻は歎くが、そうして長生きするんだよとわたしは眺めている。落ち葉しつくすことは無い。毎年また温かくなると戸外で新しい葉を茂らせてきたではないか。
寒い真冬、わたしは、まだ幼いジャン・クリストフや幼いユリアヌスと暮らしている。美しく、才能に恵まれた、しかしひたすら通って来ぬ夫兼家を待ち暮らしている中年の女の歎きを聴いている。怒り狂うように教えをまもらないイスラエル・ユダの民を叱り続けるヤハウェの声を聴いている。ひたむきに生涯法華経を誦して誦して奇瑞にまもられ往生して行く行者や持経者や僧たちの声を聴いている。
人は、「自然人」であり続けられるのだろうか。そう思いながらルソーの説く「徳」の意味を想っている。
千載集を選していたあの俊成という定家の父の胸に、十二世紀の自然と人事はどんな声音で日々迫っていたのだろう。
ああこの法華経の一種独特の激越な口調は人間のための何処を衝いているのだろう。
寒いけれど。いいではないか。
2009 1・13 88

* もう日付が変わっている。あすからまた頑張るのです、煩悩やなあ。しかし今日は心の底から楽しめた。
今年は、いやおうなしにイヤなことも続くに違いないが、それはそれ。とにかくも能う限り何度も何度でもいろんなことで繰り返し楽しんで、夫婦だけの五十年を記念しようと決めている。世界旅行をするわけでもなし、日本中を旅するわけでもなく、車を買うわけでも家を買うわけでもない。胃袋は小さく弱くなっているし、体力も自然自然に落ちている。せいぜい好きな芝居を一緒に観るぐらいなもの、そんな機会には好きなだけちっちゃな出来る贅沢をしようよと話している。
怪我無く、事故無く、病気せず。それが何より。
息子にもそれしか云わない。云えるモノなら娘にも孫にもそれだけは云ってやりたい。
2009 1・14 88

☆ こんばんは!   光琳
すっかりご無沙汰いたしました。
毎日本当に寒い日が続きますが、私は元気元気でした。
昨日で、大学での授業が全て終わり、試験も同時に終了いたしました。
今日やっと上野の藤田嗣治展、見に行って参りました。
おばあ様にメールをと、受信欄を見てビックリ…!!! 随分前にメールを頂いていたのに、気付かず申し訳ありません。

おじい様おばあ様、お二人揃ってピアフの映画ご覧になられたのですね。
「エディット・ピアフ 愛の賛歌」、私は映画館で見ました。
彼女の人生も何も知らないまま見に行ったのですが(歌は知っていましたが)、その時の感想は、難しい。。。でした。
映画自体の作りが、彼女の人生はみんなが知っているというのが前提で作られているように思えました。今の若い私達世代はほとんどピアフを知りません。映画では詳しい説明も入っていなく、私には理解出来ないシーンが多々あったのです。
特に恋人マルセルが死んでしまったシーンは、すぐには理解出来ませんでした。
映画自体がとても暗く、同じシーンの繰り返しの様に感じました。
ピアフの力強い人生と、ピアフを演じたコティヤールの努力は素晴らしかったと思いますが。。。映画作品としての完成度では、私の中では深いものではありませんでした。この映画がフランスでは大ヒット! と聞き、ますます複雑な気持になりました。
これが私がこの映画を初めて見た感想です。

丁度この映画を見た頃に、卒論の前に書くミニ卒論のテーマ決めをしなくてはいけませんでした。
この時のテーマは今自分が気になっている事なら何でもいい、との事でしたので、迷わずピアフについてフランス語で調べようと思ったのです。
なぜフランス人はこんなにもピアフに魅かれ、死後40年以上も経っているのに彼女は愛され続けているのか? ただその事を調べようと思っただけでした。そしてピアフの人生を調べて行くうちに、と言っても彼女の幼少期は完全に知る事は出来ないのですが、彼女の生き様に感服してしまったのです。
彼女の力強い歌、愛と完璧さを求める姿勢、止まる事なく幸せを手に入れようと進む姿。。。
こんなにも醜さや美しさなど人間の持てる要素全てを出しながら生きた女性を、私は知りません。
彼女は短い人生だったけれど、凝縮された素晴らしい人生を送りました。
これぞ人生。C’est la vie(セ・ラ・ヴィ)だと感じました。
フランス人は、人生の辛さから素晴らしさを教えてもらうのが好き(だ、と私は勝手に思っているのですが。)なので、それを教えてくれる彼女の人生・歌に魅かれ、こんなにも長い間彼女は愛される事になったのだと思います。
ピアフは大きな舞台の後でも必ず街角に立って歌う時期がありました。
ピアフはパリの街角そのものでした。
彼女と彼女の歌を愛した人々の街角でもありました。
ピアフの葬儀の時はパリの街が見送る人々で溢れ返り、シャルル・アズナブールが第二次世界大戦後初めてパリの交通がストップしたと言っています。
人々はピアフと共に、自分が彼女と共にいた自分自身のあの街角の思い出も見送っていたのだと私は思います。
調べていくうちに、人々がピアフを語る時、ピアフの人生の前に「壮絶」という言葉を必ずと言っていいほど入れる事に気が付きました。
しかし私は、彼女の人生は壮絶だったけれど、幸せに生きたと思うのです。
彼女の一番の幸せと望みは、人に愛され、真実の愛を手にする事でした。
彼女はその為、多くの恋人を作り、自分自身の人生をさらに壮絶にしていったのですが、彼女は最後に19歳年下のテオと言う夫に恵まれ、多くの友人やファンからも愛され、幸せになったと私は思います。
ピアフの人生は生まれながら貧しく、愛を求める人生でしたが、その中でもピアフは懸命に這い上がろうとし、成功と名声を手にしました。
そして愛を求めるが故に、マルセルと出会い、愛するが故の我儘から彼を失い、その悲しみを癒す為に麻薬・アルコールに手を出し、一歩一歩自分で死に近づいて行きました。
けれどもそれだけがピアフの人生ではなく、もちろん苦しい日もありましたが、ピアフの生きた一日一日は幸せで笑いの絶えないものでもありました。
私は、みんなが、スキャンダラスな人生だけに捕らわれず、彼女が本当に幸せになったと言う事にもっと気がついて欲しかったのです。
それに、あまり聞こえが良くない「壮絶」なんて言葉で自分の人生を表わされてるとピアフが知ったら、怒るかなと思って。

付け加えると、テオは本当にピアフの事を愛しており、多額の借金しかないと知りながらもピアフと結婚し、彼女の死後は借金を返済する為がむしゃらに仕事をし、残念ながら借金返済後、ピアフの死後7年経った時に自動車自殺を遂げています。
なぜ自殺したかは分かっていませんが、妻の名誉の為にきちんと借金を返済し、これがテオの愛だったと私は思います。
パリでピアフのお墓を訪ねた時、ピアフの父とテオと娘マルセル(恋人マルセルではなく)の名前が一緒に刻まれていました。
ピアフは、恋人マルセルではなくテオと一緒に眠っています。
今でもテオに守られながら。。。

映画はピアフの伝記だけでしたので、ピアフ自身の内面を読み取る事はあまり出来ませんでしたが、彼女が自分で書いた本や周りの近しい家族・友人が書いた本を読んで、初めてピアフを一人の人間として理解する事が出来ました。
彼女は伝説のピアフの前に、一人の女性ピアフでした。
私にとってこの映画はピアフの事を知ろうと思ったきっかけになってくれました。

おまけですが、生まれて初めて盆石にチャレンジしました!
以前バイオリンの先生のお宅で、初めて盆石に出会いました。もう10年位前の話です。二世帯でお住まいの先生のお母様のお玄関でした。
たまたま市のセンターで一日体験のチラシを見つけました。
体験セミナーに伺ってビックリ!なんと、講師は先生のお母様でした!!
へたですが、生まれて初めて作った盆石、デジカメに収めました。見てやって下さい。 (割愛)
そのうち進化したら、またお送り致します。

ゲド、四巻までいきました。
心で考えながら読み進めています。

「愛、はるかに照せ」、おじい様のやす香への愛、確かに私に届きました。
以前おばあ様がおっしゃっていた言葉、「やす香は私達の愛そのもの」。
やす香はずっと愛されています。
それは、やす香が一番欲しかったもの。
愛、はるかに照せ、やす香のもとへも。。。

* いいメールをありがとう、やす香も喜んでいます。処女作の盆石、見映えしますよ。日々、お大切に。 湖
2009 1・17 88

* 押村襄著の「ルソー研究」を本を真っ赤にするほど赤ペン片手に耽読している。わたしに『エミール』を読めと豪語した人物が、自分はルソーに深く学んでいるという気なら、撞着というか、論語読みの不行儀な論語知らずだということが、いろいろに具体的に見えてきているが、いまはそんなことは措き、成心もたずにルソーその人を勉強している。いずれもう一度も二度も読み返して具体的に書いてみようと思う。
2009 1・19 88

* 可愛がっていた「家族」に死なれると、こたえる。他の生きものとのそういう心弱い一体化を自身に戒める気持ちもあるのだが、人間よりも信じていて気楽だというところがペットにはあり、居なくなられるとしたたか堪える。最愛の猫たちを何度か見送った。死なれたことが二度。身の傍で一緒に暮らしていると、死なれるのも死なせるのもつらい。いつ来るか知れぬと不安も抱えているし。いずれにしても死は背中から近づいてくる。
2009 1・19 88

* 半ば醒め半ば泥のように眠り続けることがある。このところ不快に過ぎた夢を見ずに済み、この明け方は、本郷通りのもとの会社近くにあった当時人気の老舗喫茶店の店主父子と歓談していた。店の名も思い出せず、店主父子など識りもしないのだが。何という店だったろう、西洋の画家の名前、或いは「ルオー」といった店があったろうか。店内に比較的佳い繪があったような、コーヒーだけでなく昼にはカレーライスも食べられたような。
あの近所に「青野」という額縁と画具店があり、そこの主人に、製版の版下カットなどを仕事で発注していた。画家ふうのおじさんが注文を受けに仕事場へ出入りした。
いまの此の家には、太宰賞を受けた翌年早々に新築成って引っ越してきた。二階の、二段ベッドを置いた子供部屋にわたしはその「青野」さんで額縁を買い、印刷ものであるがルノワールの青服豊満な女性半身像を娘・夕日子(仮名)のために壁にかけてやった。今もそのまま同じ位置にかかっている。建日子はまだ二歳になって間がなかったろう。
そんな夢を見たり思い出したりするのは、詳細な自筆年譜のその当時の記事を読み直していたからだろう。

* 二十年近く前になるかも知れない、わたしより年配の女性で新宿辺の高層マンションに暮らし、小説を書いて本の一二冊も出していた読者に、池袋に呼び出され、食事したことがある。
どういうわけかその人が、会話の間に何度も「まともな生まれかた」という物言いで自身や一般の人たちのことを云うのにわたしは気づいた。
思うまでもなくわたし自身は、その、「まとも」の範囲内からこぼれ落ちたように此の世に生まれていた。その事実がわたしの創作の原エネルギーで推進力でもあったといえたのだから、それ自体をわたしはかつて一度も恥じて隠してきたことはない。むしろ言い過ぎるほど自分で云い、書きすぎるほど自分で書いて、「秦さんは生まれながらに小説を書くしかなかった人です」と人にも言われてきた。
それにしてもその女性読者の、意識してか無意識にか繰り返す「まとも」という物言いは、あまり気味のいいものではなかった。
いったい何がそもそも人として「まとも」なのかという問の前で、なるほど自分の胸奥に求めている「まとも」と、こういう世間人の謂う「まとも」とは、よほどちがうと思うしかなかった。その人の気持ちでは「まともでない」とは「非常識な」といういうこととシノニムらしかった。わたしの胸にある「非常識」とは、とてもまともとは言い難い「凡庸な常識」のいつも反対語であった。凡庸な常識人というのは、たいがいどこか臆病で卑怯だという価値観をわたしは育ててきたが、そんなところがとてものこと<おまえは「まとも」でないと指弾されてきたし、今もされているのだろう。

* 「生まれ」て七十三年余。「結婚」して、いよいよ「五十年」に手が届いてきた。
わたしの、人の目にはたぶん非常識でまともでない人生は、その七十余年かけて成されてきたが、とりわけそのほぼ前半分を打ち込んで、強い意志でわたしは作家になり、強い意志と愛情とで夫になり父親になっていた。太宰賞というバッヂ付きで文壇にいわば招待された昭和四十四年六月、わたしは二人の子のもう父親であった。娘は満七歳に間近だった。息子は一歳半だった。上京し結婚して十年余が経っていた。
十二月二十一日生まれのわたしは、生まれて満三十四年の歳末までを、一語で、『作家以前』と覚悟している。わたしはわたしを、その三十四年間で、まさししく「まともでなく」「非常識に」形成し、自覚を持ってきた。言い替えれば私に書ける徹底的な「私小説」とは、すなわちその三十四年『作家以前』の「年譜」そのものなのである。
普通の小説にすればいいでないか、それが「作家・小説家」だろうという批評の声は、自身の耳の底ででも聞こえるけれど、首を横に振る。
わたしは『清経入水』を書いたし『畜生塚』『或る雲隠れ考』『慈子』『廬山』も書き、『みごもりの湖』『罪はわが前に』『風の奏で』『冬祭り』『初恋』も書いた。すべて「作家以前」から汲み上げた小説であり、みな私小説かと読みたい人は読んで下さってかまわない。
要は三十四年のことは『年譜』で足りている。その年譜が、とても「まとも」でない。年譜の通念を「非常識」にうち破っている。それ自体が「私」である。それがわたしたち「夫婦」の「五十年」となり、金婚の五十年はそこに根ざしている。一行として曖昧な記憶で書いたものではない、厖大な日記と日々の記録にきっちり基づいている。

* この年譜を「湖の本」一連の一冊分にするのは構わない、が、問題がある。新作の小説二篇を添え、妻もわたしも金婚記念の引き出物に「非売品」として寄贈しようかとも思案しているが、いま話題の定額給付金ではないが、実は簡単でない。費用がたいへんという意味ではない。それもあるが、それより、誰方に差し上げるのかである。
創刊以来満冊の継続読者に限れば、分かりいい。たくさん製本しなくて済む。だが仮に百巻の半分以上を買って下さった方に進呈となると、途方もなくたいへんな調べ作業が要る。二十余年、「湖の本」を通過していった全読者は、創刊以来延べ合計すればむろん万を優に超すだろうが、ただ一冊無いし数冊だけの読者も、ほぼ満冊ちかく読み続けて、高齢や病気等でつい最近中止になった読者もある。
ハテ…、いい知恵が欲しい。
2009 1・20 88

☆ 「松風」と喜多節世と。 1998 10/3 「能」
喜多節世(きたさだよ)が松風をこの日に舞うと知り、ペンの京都大会を失礼することに決めた。節世の能をもう何度観られるか分からない。今日も、立ち居は観ていてつらいほどだった。後見が出て起たせてくれて、ふつうだと、でしゃばるなと云うところだが、今日は目頭がにじんで「ありがとう」と思えた。
節世とのつきあいは長い。彼が再婚の披露をした日、私は祝辞を述べた。よく覚えている、展望に出した『閨秀』を、亡き吉田健一が朝日新聞の文藝時評全面を用いて絶賛してくれたその日だった。披露宴が果てたあとの帰りに、私は浜松町の駅の売店でその時評の出た夕刊を買った。そういえばあの日祝辞を述べたもう一人が、将棋名人の中原誠だった。
すばらしい奥さんだったが、先年亡くなり、追悼の会で話したとき、私は涙で絶句した。
京都へ帰っていて、大徳寺へ出かけていた日、ご夫婦の幸せそうな旅姿に偶然出逢ったこともあった。節世氏は喜多実の愛子にふさわしくたいした美男子で、奥さんはまことに佳人であった。そして節世のその後をめぐる流儀内の不幸と波乱はやまず、彼は健康を損ねているらしい。節世の能を、出来もさりながら、現に舞台の上で観られることに私は自分の人生のなにかしら大事なものをかけている。反問されても困るが友誼とでも言っておく。松風は老いていた。老松にも風はふくものだ。能はところどころで紛れもなく美しかった。粟谷菊生、友枝昭世の仕舞も端正に美しかった。万作万之介の布施無経も彼らの老境に応じてしんみりしていた。先代家元の喜多実を偲ばせる会の趣旨も利いていた。
来年春には節世は「景清」を舞うという。実現してほしい。 「むかしの私」から。

* こんどある人が、数万枚に及ぶ厖大量の「私語」を、「文学観」「歴史観」「食いしん坊」「女」「時事問題・政治」等々三十項ちかくに分類し始めてくれた。その『私語分類』のうち「能」の項目の冒頭に、この記事が拾われている。
なんという懐かしい。懐かしいだけでなく、わたしが過去に能に触れまた能舞台の印象に触れ人に触れて書き記したおよそ全部が、この「項目」内容を追って行くと、記事日付も正確に拾い上げられる。
ちょっとオモシロイので、もう一つ「身内(親類・縁戚)」の項の頭から二つめを引いてみる。

☆ 父  1999 5・7 「身内(親類・縁戚)」
父はラジオ屋としては草分けの一人だった。JOBKの技術検定試験第一回の免状をひっさげて開業した。それまでは装身具の職人だった。珊瑚や翡翠や金銀を細工していた。いろんな材料がはだかで遺っている。そんな父がラジオの技術で喰って行ける時代だと観たのは、たいしたものであった。少なくもテレビが出てくるまでは成功した。
父は「売る」よりも「直す」のが仕事だと思っていた。ラジオなら唸りながらでも直したが、テレビになるとお手上げになり、さりとて売りまくる商売は断然へたであった。自然衰微した。
父は私にハイテクの技術を覚えて欲しかったに違いない。ところが私は美学藝術学を学び、裏千家茶の湯の教授になり、はては京都を出て東京で作家になった。玉木正之の『祇園遁走曲』の主人公は、家業から住処から地域から、この私に違いないと思ってテレビを観ていた京都の知人が、山ほどいたぐらいで、私はまさに遁走したのだった、京都から。祇園から。
六十余年の生涯で私が一番なさけなく辛くみじめであったのは、大学三年か四年の夏休みに、父の厳命で、大阪門真のナショナル工場にテレビ技術の講習を受けにやられた二月足らずであった。なにひとつ私は覚えられなかった。気もなかった。午弁当の出る午前と午後との七時間が地獄の退屈であった。とうとうサボッて、京橋や大阪市内まで入り込み夕方まで時間を過ごしたりしたが、遊ぶはおろか飲み食いの小遣いもなかった。あれには参った。好きな本を読むか歩きまわるかであるが、真夏の暑さにも辟易した。成績の付けようもなかったのだろう、父は私の跡継ぎをあれで根から断念したのに違いない。
父は考え違いをしていたとも言える。テレビを技術的にいじくるよりも、電化製品をどう多く売るかの講習を受けさせた方が時代に向いていた。近隣で成功した電器屋はみな売りに売りまくって、直しは会社にさせた。賢明な対処であった。器械は自力で直せるのがホンマモノと思っていたのだ、父は最後まで。
それはそれで、えらいものだと思っている。 「むかしの私」から

* この項目も分量多く、いまでも既に本の二冊分ほどになっているが、会うことも全く出来なかった娘や孫への情愛は自然当然として、婿から、裁判所へ被告として引き出されるほどのどんなウソも無茶も書いていないし、言及している量も数万枚のうち大海の一滴ほどしかないことも明瞭に分かる。

* さ、これを、分類されたかたちでこのウエブに再編し掲示するか、湖の本に編んで出版して行くかなど、楽しめる思案であるが、なにしろ整理してもらえた現状で、2002年半ばまで。いまでもなお七年分近くが残るのに、分類された中の或る一項目などはすでに原稿用紙八百枚分に成っていて、六百枚、五百枚など、当節の単行本容量で謂うと一項目だけで四冊、三冊、二冊になるほど。そして記事は概ね上に挙げたように題を付ければ一つ一つが一編のエッセイというに近い。
現行の「湖の本エッセイ」なみにすべて本にして行けば、闇に言い置いた日録『私語分類』分だけで、「全百巻」にも簡単になる分量であり、日に日に増えて行く。
わたしの「私語」とはこういうものなのであり、今にして思えばこれらの全部も含めて一夜にして何の断りも確認も無しに、ウエブ『作家秦恒平の文学と生活』の全滅を企図し共謀実施した、わが娘夫妻と「BIGLOBE」当局との無道は、作家活動する者に対してあまりに言語道断な著作権・人権の蹂躙であった。

* さらに謂えば私のウエブには、かつても今も、『e-文藝館=湖(umi)』を擁している。現在でそこには<幕末から平成の今日に到る著名な小説家・評論家、戯曲家、詩人・歌人・俳人、随筆家等々の数百人・数百作品が掲載展示されている。
以前に娘夫妻と「BIGLOBE」が、これらをも一切合切含めて「全滅」させたとき、インターネットから「全消却」したときにも、少なくも二百に及ぼう人と作品とが掲載され国内外に送信されていた。しかも娘夫妻たちのナニモノともナニゴトともそれは無関係な文化活動であった。
そのことを、わたしは、もう一度はっきりさせ、怒りの抗議を此処に云いおく。
2009 1・20 88

* デスクトップに、「未定・未完原稿」というフォルダがあり、およそ三十の仕事が揉み合うように溜まっている。どれに手を出しても時間を忘れてしまう。
今宵は亡き生母のいわば裸形の旅を遅々たる足取りで追っていた。のこされた短歌などを丁寧に読んで清書してやれるのは、長姉千代の亡い今は、わたししか誰もいない。顔も覚えず一日として共に暮らした実感なしに長く生きた母の足取りを正確に把捉することはじつに難しい。それでも頁から頁へ、行から行へ、身をよじて童女のように歎き泣く母の声がする。
本のあとがきは、「著者のことば」は、「昭和三十四、盛夏」に書かれてある。「此の私が、愛児への哀別と言う最大の死線を彷徨して、飄然、漂泊の旅に出てから、正に二十五年」と母は書く。指折り数えるまでもない昭和九年四月の下旬、われわれの父と母とはわたしの兄恒彦を彦根で生み、母は故国近江を逐われて翌年歳末にわたし恒平を平安京で生んだ。母には、われわれの父と同歳の長女があり、弟も三人いた。
思い余ってであろう、母が絶筆の一書は、短歌も散文も言葉足らず、必ずしも読みやすくない。まして母が思いを遺した遺児のわたしには切ない読書であるが、胸に鞭打つように読み進んではメモを用意している。もう何年も掛けている。

* そうはいえ、自分の苦しみや辛さをこの母に甘えて愬えたりはしたことがない。むしろ秦の母の方へものをお願いしたりする。秦の父は松壽院さん、母は心窓さん、叔母は香月さんと、戒名でわたしは毎日欠かすことなく、ほんの暫時であるが会話する。三人とも今も一つ家の中で身近に暮らしている。まさか三人でもう喧嘩などしていまいと思う。生母や実父はあまりにも遙かに遠い。実兄「恒彦」への今も深まる愛情や敬意ひとつが、わたしに生母と実父とをつなぎ止めてくれている。そんな気持ちである。
2009 1・25 88

* いずれ改め取り纏めのきいた読み直しをして行くが、ルソーの主要著作の思想のみごとさに、ああこういうルソーなのかと理解を新たにし、喜んでいる。思索の独創、思想の本質的なこと、深く頷くことが出来る。それらはすべて彼の優秀な脳のちからに発していて、必ずしも彼の人格や性質や徳操に根ざしているのかどうか、模糊としているが。たいそう魅力的で徹底した優れた「答案」のような思想の達成であることはたぶん間違いない。それはそれで、すばらしい歴史的成果であり、つよく共鳴するものが私の内側に在る。その共鳴が、わたしに「エミール」でも読めと豪語した人物にも在るのかどうかは、逆にずいぶん疑わしいのだが。
2009 1・26 88

* 息子の電話とメールで明瞭になったのは、要するにわたしの此のウエブ「作家・秦恒平の文学と生活」全部を削除せよという要求が★★家より弁護士を通じてサーバーに届いたという事実。承知しなければサーバーを訴えると伝えてきた事実。ウエブ名義人である息子に、サーバーから連絡があったという事実。息子転送のファックスが夜中私に届いて、それは私宛の書類でなく、また大量ですぐ読めない (締め切りの過ぎている急ぎの依頼原稿を、先に仕上げて送りたい。) ので、わたしはいま口を出さない。
2009 2・1 89

* わたしの「生活と意見」ファイルを、最初の1988年からようやく2006年六月即ちやす香の入院月までを、逐一、丁寧に丁寧に点検して、「検索」に触れて物議を醸す実名の上がってくるような日記記事は、全く検索できない。見あたらない。それ以上は書いたわたしでさえ問題のなにものにも、今のところ、検索で触れることは出来ない。世間の誰もが、つまり、出来ない。
現在係争の問題になっている例えば『かくのごとき、死』などは、そもそも法廷の判断を求めている真っ最中であり、それらと同じ問題で「削除しないならサーバーを訴える」と言い出すなど、見解を求めた確かな専門家たちも、「常軌を逸しているだけ」と見ている。さもあろう。
2009 2・3 89

☆  息子の芝居、そして歌舞伎と能と  1998 10・1  「舞台・演劇」
* お世辞にも息子のアングラ芝居を賛美する気はない、が、今度の前後しての新旧二公演は、及第点が出せた。二重人格に苦しむ美貌の女性と、新規採用試用期間中のカウンセラーとの「善意っぽい嘘」をめぐる悲劇的な葛藤と格闘は、双方の役に自己否定のきつい条件がからんでいて、「劇的」になった。ただ主題の重さにくらべ演技のこなれのわるさ、演出の力不足で、後味に、ある晴れたものを残せなかった。
後半の旧作は初演時のまずさをほぼ克服して、集団自殺にちかい大量死を経てなお人を生かそう、一人でも生きて下界に生還しようとする、自殺願望登山遭難者たちの再生劇が成熟した。贔屓目なしによくなった、よかったと思った。
アングラの芝居になじむと、もうとても大劇場の説明的な芝居はかったるくて、菊人形芝居のように感じてしまう。それなら歌舞伎の方がよろしい。歌舞伎には舞踊の楽しみがある。今わたしを誘惑しているのは、来春正月の大阪松竹座。鴈治郎と玉三郎の「吉田屋」それに鴈治郎、秀太郎、翫雀の「三人連獅子」である。台詞が音楽を成し、肉体がおどって音楽を成している演劇でなくては、つまらない。なにも舞踊劇だけを謂うのではない。楽劇を謂うのでもない。

* 会が果てて、息子のアングラ芝居『朝焼けにきみを連れて』をまた見に行った。ひろい能楽堂の閑散とちがい、狭い小屋が超満員の興奮だった。終わって明るくなると、客という客が目を真っ赤に涙をため、しかも「元気」そうだった。「能と、似ているんですね」と能の好きな知人の歯医者さんが云った。その通りだ。
書き割りも何もない。そこでダンスのまじった現代の、そう「能」手法が、元気いっぱいの演技をみせる。作者は、能なんか殆ど一度以上は観たこともなく、何も知らないのに。
そこが、おもしろい。 1998 10・3    「むかしの私」から
2009 2・3 89

* 本をたくさん読み終えて、寝入っている黒いマゴと妻とにおやすみと声かけて灯を消すとき、寝入ってまた明日目を覚まさねばならぬのかとイヤな気分になる。寝入ったまま起きなくて済んだらどんなにいいだろうとこの頃、かなり本気で思っているのが、困りものだ。
2009 2・6 89

☆  姉や兄や妹や甥や姪たち そして、マゴ 1999 9・6  「血縁」
* 妹から、梨が例年のように届いた。母のちがう妹で、川崎市にいる。何度とも会ったことはない、二人いて、姉の方とはいちど銀座の「竹葉」で食事したことがある、実父が亡くなって程無いころだった。小さかった姪が、もう、旅行会社だかに勤めているという。
子どもの頃から実の親を知らず、天涯孤独の気分で、養家に養われていた。兄弟はないものと思っていたら、両親の同じ実兄がよその家に一人いた。
大人になって自分の脚で調べ廻って、父のちがうずっと年かさの姉一人と兄三人のいたことが分かった。また母のちがう妹二人のいたことも分かった。たまげた。
父のちがう姉や兄は、四人とも亡くなってしまった。兄の一人は早く戦時中に亡くなっていた。姉兄三人とはそれぞれの現住地で四十歳すぎてから初対面したが、その後は文通していた。二度は逢わぬうち、みなに死なれた。
父母をともにした実兄北澤恒彦は、ちょうど今ごろ、弟息子の暮らしているオーストリアからアイルランドの方を旅しているのではないか。この兄とも何度と逢ったことはない。兄はいま京都の精華大学に講座をもっていて、大学のパソコンで、ときどきメールをくれる。いいメールをくれる。兄の兄息子はペンネーム黒川創、有望なほやほやの小説家になっているが、少年の頃から「思想の科学」などで評論活動を重ね、岩波や筑摩からも本をもう何冊も出してきた。そのことが、今、彼が「小説」を書くうえで功罪半ばて、「表現」に苦しんでいるかも知れない自分の体験から
そう想うことがある。兄には娘も一人いて、若くしてこれはオーストラリアに渡り学生生活をしてきた。その間に「思想の科学」に連載したエッセイは、兄に負けないいい文章で、いい本になった。いまは東京のどこかで一人で頑張って生活しているらしい。
学生時代に抜群のドイツ語で外務省の試験に受かり、いきなりオーストリア大使館に勤めた兄の弟息子は、中学浪人もしかねなかった暴れ者で、末は大丈夫なのかと心配したほどヒョンな存在だった。高校頃か、ガクラン姿で髪を染めて我が家にあらわれ、とんでもなく凄い麻雀の腕前を披露してくれた。そんな子が、ラグビーの強い大学に入ったのに念願のラグビーもやらずに、ドイツ語の先生と仲良くなって、ドイツ語が読めて喋れてという実力をつけてしまった。そして四年生にも成らず卒業もしないで外務省に雇われていった。おもしろい子だ。たまたま京都に仕事で行っていたときそれを知り、祇園に呼び出してわが女友達のやっているクラブで祝い酒を奢ったら、気持ちよく飲んだ。カラオケを謡わせたら、上手で何曲でも熱唱した。ママが、この、変な場違いな大学生に惚れこみ、自分の箱入り娘の婿にしたいと、のちのちまで半分本気だった。
兄息子の方もおさおさ劣らない。こっちは早くから秀才だったが、はじめて我が家に現れたのはやはり高校生頃で、ずぶぬれだった。成田闘争の支援に行き、したたかに警官隊のホース攻めに遭ってきた。そうかと思うと獄中の金大中支援のためにソウルに飛んでいたりした。ちっと違う方角もおやりと唆したら、すぐ歌舞伎にうちこんだ。わたしの画集を持ち帰ったまま、何年もかけていつのまにか伊藤若冲を調べ、長編小説に書き、「群像」の巻頭に、若冲の長編を二つも書いて単行本にした。やる男だ。
早くに死んでいった私たちの生母が生きていたら、兄息子の子らが、孫たちが、わたしの家に出入りしたり、本を出したり、外国勤務していたりするのを、またわたしの若い息子が戯曲を書いて演出したり、テレビドラマを書いて放映したり(小説も書いたり)しているのを、どんなに喜んだろうと思う。生みの母は短歌を詠み、歌文集を一冊遺して死んだ。子孫の中で短歌を詠んだり書いたりしたのはわたしだけであった。
母がと言ったが、実父も、兄や私の世に出て著述しているのを心から喜んでいたのは知っている。その父にも母にも、わたしは冷たかった。罰はうけねばなるまい。
* 黒猫のマーゴは、一キロを越して、毛艶も黒々と食欲有り、男の子だと分かってきた。家中を駆け回っていて、わたしにも妻にもまつわりついている。すっかり馴れて、母親の代わりであろうしきりに柔らかく噛みつく。心から笑わせてくれる可愛らしい姿態や動作や表情に、大満足している。
だが、猫のことを書こうとは思わない。誰が書いている話でも、同じである。そんなことなら、うちにいた猫とちがわんなあと思ってしまう。親娘で十年、娘猫の方は十九年もいっしょで、たっぷり共生していた。猫の生態はおおよそ同じであり、人間の喜ぶところもおかしがるところも悩まされるところも、そうは違わない。
犬のことは知らない。猫かわいがりものの文章は読んでも同じことばかり、だから書きたいと思わない。谷崎の『猫と庄造と二人のをんな』だけは、むろん漱石の『吾輩は猫である』も傑作だが、必ずしも猫を書いたとは思われない。「人間」たちがきちんと書かれていたと思う。  1999 9・6 「むかしの私」より
2009 2・6 89

* 昨日に掲載しておいた満九年前の「むかしの私=法然・秦氏・梅原猛さん」の記事は、とくに選んだわけでなく、たまたま「分類・歴史」のごく冒頭にあったもの。少しも意見を書き換える必要がないのと、いまもわたしには関心があるし、あまりかけ離れないところで最近も法然さんのことを読んだり書いたりしていた。或る程度の纏まりも量もあり、少し手を掛けたらそのまま依頼原稿のエッセイとして売れる内容になっている。
分かって欲しい。
わたしの「生活と意見 闇に言い置く私語の刻」は、現在88ファイル、数万枚という厖大な量を擁している「日録」であるが、なかみは九割九分以上が、いわば此の「法然・秦氏、梅原さん」と質的にみな同じの、まさしく「秦恒平のエッセイ」原素なのである。そのなかで、いまこの父であり舅であり作家である私を被告席に呼び出して、この「私語の刻」の全部はおろか「e-文藝館 =湖(umi)」も「電子版・湖の本全作品」も、その他の多くも、一切合切「全削除」を、法廷に対し、また法廷の頭越しに今しもサーバーに対して求めている人たちの具体的に文句をつけるような内容は、大海の一滴ほども無いのである。本当に必要なら、大海の一滴をつまみあげて蒸発させればいいのであり、一滴の正確な指摘は彼等のこの際義務なのだが、何が何でも「全削除」とゴリ押ししている。著作者の、著作と思想信条の自由や権利、言論表現の自由の権利に対して、そんな暴虐と無道が許されるものであろうか。ペンの言論表現委員会にわたしは問いたい。文藝家協会の知的著作権委員会にもわたしは問いたい。むろん裁判所にも問いたい。
2009 2・7 89

* じつに不愉快なことも今日、有ったは有ったのであるが、すくなくもそれはわたしまでかかわって情けない思いをするようなことではなかった。なさけない、いやみなヤツがいるなあとよそ事ながら気色が悪かっただけであり、そんなことを云うと、麻生の「わたしは反対だったけれども、内閣にいたから賛成の署名をした」などというばからしさのほうが罪は重い。なんてったって麻生太郎、その反対していた政策の信を問うた選挙で衆議院の絶対多数を得た、その絶対多数に乗っかって総理になり、しかも解散して信を新たに問うのを逃げまくっているのだから、あんたぐらい愚劣な人は、前後三百年ぐらいのうち一人も居ないよと云うてやりたい。
2009 2・8 89

* 「あなたの人生と人間とは、あなたの書いた全部が証明してくれています。分かる人は分かってくださる。分からない人には分かりっこないんですよ。」むかし人に云われたのと同じことを、いま、妻は云ってくれる。いつしかに息子もきっとそう云ってくれるだろう。

* 黒いマゴが、もう十年も傍にいるのだと「むかしの私」で分かり、ビックリ。大きくなったが、たとえようなく、可愛い。

* わたしのことをもう、「ヒロさん」と呼ぶ人もいなくなったが、むかしは「ひろかず」という名で、家でも近所でも呼ばれていた。馬町の京都幼稚園では名札にも持ち物にも「秦宏一(はた・ひろかず)」と書かれていた。近所の同年配も小母さんたちも「ひろかずサン」とわたしを呼んでいた。
ところが国民学校に入学した日、わたしの名前はワケわからず「秦恒平」になっていて、どんなに仰天しただろう、恐怖を覚えた。しかしそれがわたしの戸籍「名」であった。しかしながら戸籍の「姓」とはまだちがっていた。戸籍の上ではわたしが「吉岡」姓だったとは、ずうっとのちのちに知った。のちのちのちに知ったのである。秦の両親が、わたしのために学校にも偉いスジのコネにも、どうか「秦」姓でこの子を扱って欲しいと頼み込んでいたのであった。わたしの人生は、はなから小説ほど「奇」であった。
それからはわたしは、人により相変わらず「ひろ」さん「ひろかず」さんであったり、追い追いに「こうへい」ちゃんになったりした。後者がほぼ前者を圧倒したのはもう中学から高校に入ったころであった。その頃にはわたしの知らぬ世間で大人達は、わたしの姓もまた「秦」と確定してくれていた。つまり新制中学に入るときに、秦家との養子縁組が法的に確定したのだろう。さもなければ、戦後の新制中学でわたしは、「吉岡恒平」と、先生に出席を取られていたはずだ。縁組み確定の日付は「昭和廿参年参月拾九日」で、京都市右京区長中島定男の「認證」に拠っている。小学校を卒業の間際であり、私の知らぬところで親たちが奔走して成った「認證」であった。ご苦労をかけました。

* そんなこんなで、わたしは「名」というものに、小さいときから、疑念というか便宜的な記号のようなものだという軽侮の念をもっていた。同時に逆に、歴史などを学ぶにつれ「名」は神秘的に大事なもののように感じてもきた。それが昂じてか、高校生で既にわたしは、未来の自分の大事な子供には、男でも女でも「朝日子」と名付けたいと決めていた。自然現象としても、著名な斎藤茂吉や三好達治らの表現からも、「朝日子=朝の光」という美しさに心打たれ共感したからである。そしてその気持ちを忘れず第一子の娘に、その三字を以て名付けた。いまでもほんとうに好い名前を授けたと両親はとても喜んでやがて金婚までを生きてきた。
2009 2・9 89

* 寒い。薬局に用事があり、ついでに寒気をついて自転車走をとも思うが、酔狂か。辛抱の要る、しかし済まさねばならぬ用事は目の前で混雑しているのだから。もうはや二月十日かと。愕く。
2009 2・10 89

* きのうおそくに建日子が帰ってきて、夜中の二時近くにまた戻っていった。語勢元気で、建日子は気力に満ちているのだろう。嬉しいことだ。たまたま年譜のゲラがあったので、彼が母の身に宿った頃から誕生の頃までの記事を顧みた。
きのうには、短編の小説二題も校正が出てきていた。校正を済ませた。

* そんなに遅くまで三人で話していても、建日子が仕事場へ戻っていってからもわたしは「明暗」「背教者ユリアヌス」「ローマの歴史」「千載和歌集」「今昔物語」「バグワンの老子」「旧約聖書」「法華経」「蜻蛉日記」などを、ぜんぶ読んでから灯を消した。いやな夢は見なかった。
それら読書は、とかく跼蹐をしいてくるモノを、広大な世界へいろいろな輝きと感銘とで駆逐し、やわらかに胸をふくらませてくれる。やわらかい花びらのように生きよと師の安田靫彦は弟子の森田曠平さんを薫陶・激励されたと森田さんから聴いた。「やわらかい花びらのように」と、わたしは思い屈すると自身に言い聞かせる。

* 建日子は帰ってくるつど、いま今月の写真に掲出の松篁さんの繪に、べったりつば付けて行く。よほど好きらしい。城景都の小品「文鳥」、シャガールとピカソとのリトグラフ、小池邦夫の「魚」が階下にかけてあるが、松篁の「雪」が好きらしい。わたしも気に入っている。美しいモノを身のそばにもてる幸せは大きい。やわらかい花びらが匂って散ってくる。とはいうものの、家の狭いこと。じつは足の踏み場もなくなっている。とてもお客が迎えられない。
2009 2・11 89

* きのう留守のうちに、「今年は、本命中の本命にはピンクピンクピンクだそうよ」と妻が解説の、なにもかもピンクづくめのやら、今年中味のかわらないというチョコレートを戴いていて、恐縮しました。若い若い元気なやす香の親友からやす香の気持ちももろともに、また心優しい茶の湯ひとから、心つたなき七十三翁に特上のバレンタイン・チョコ、恐れ入ります。気は若返りまして相努めます。ありがとう。
前もって妻にメールも届いていた。

☆ こんばんわ 光琳
先ほどおじい様に宅急便をお送りいたしました。
明日の午前中に届きます。
バレンタインのチョコレートです☆ 届くまでまだナイショです!
その中にまーごちゃん用のプレゼントも入っています。まーごちゃんへ、と書くのを忘れました。奇妙な物が入っていると、ビックリなさるといけないので。。。麻紐で作ったので多少臭いがありますが、我慢して下さい。
チョコレートは今年一目ぼれをした一押しです☆
ほんの一口ですが、すごーく綺麗なので一緒に召し上がって下さいませ。
今日はドラッグストアで旅行の必需品を買ってきました。これから荷物詰め始めます。
宿泊予定のホテルは、インターネットの口コミで118あるホテルの内、99位でした☆ お粥を3パック持って行くつもりです。
では、荷造り頑張ります!

* 黒いマゴが、興奮して垂直にハネあがったりしています。
旅の無事を祈ります。水にあたりませんよう。
2009 2・14 89

* バグワンを読んでいて、わたしが一等降参するのは、しかもバグワンの言われることが絶対的に正しいと思っているのは、だから恥じ入ったり困惑したり歎いたりするのは、わたしが概していえば途方もない「doer する人」であること。
とにかくつぎからつぎへつぎへつぎへと、とめどなく何かしている「仕手 遣り手」であること。することがないと、することを編みだし思いつき、曲がりなりにし遂げて行く。放心して手ぶらでぼうっと休んでいない。
バグワンの教えてくれる基本は、「するな」である。ただ「在れ」である。「する」のは貪欲なマインドに無際限に食べ物をくれてやる、餌をくれてやるだけだとバグワンは叱る。実存になれ、分別の回転に巻き込まれるなと。
ウーン。わたしはいつもこれで顔を赧くする。
むかしわたしは体中に黒いピンが無数に刺さっていると自分の毎日を表現したことがある。ちっとも変わっていないじゃないかと自分で自分を嗤わずおれないのが、恥ずかしい限りだ。

* 息をころし根をつめてしてきた仕事をひとまず人手にみな渡したところで、一息ついて、いま、私の気持ちはというと、さぁ次は何だと思っていて、次は何、何と考える必要すらなく用事は待ちかまえている。
あと一ヶ月にひかえた金婚の自祝など、この分だと何一つ出来ずじまいに通りすぎてゆくだろう、いちばんいいことだ、それでこそめでたいという、ウソでない本気でそんな気分にわたしも妻もなろうとしている。
2009 2・14 89

*だれにもいろんな楽しみがある。楽しみとは「文化」だ。たぶん黒いマゴにも彼なりにひそかな楽しみを楽しんでいるだろう、毎日。息子の飼い猫はマンションにと閉じこめられているが、わが家のマゴは、二十四時間出入り自由、各部屋に入り込めるし、庭も屋根の上も好きにしているから、わたしなどの夢にも思い及ばぬ「世間」と「秘所」とを所有しているに違いない。しっかりした楽しみを所有しているだろうと、彼のためにも喜んでいる。願わくはご近所にメイワクかけないで欲しい。
2009 2・14 89

☆ 行ってまいります。  光琳
メールありがとうございます!
チョコレート召し上がっていただいて、嬉しいです。
本命チョコ☆☆☆
もちろんです☆☆☆
でも、どんなに素敵な方でも親友の彼は。。。
おばあ様にご安心なさって下さい、とお伝え下さいませ。
マーゴちゃんのおもちゃは、そろそろズタボロでしょうか?
カジカジしたり、爪とぎ用に作りました。
あれ。。。ネコ形です。。。魚ではありませんでした☆
先日の面白い一日のお話です。
その日は、朝から私宛にめったに来ない速達が重なりました。
その中の一つ、以前お話しした芸大の友達のヴィオラのチケットでした。
その直後、何とウチの子が勝手に電話をかけていました。
幼稚園から一緒のカリタス生、バイオリンのお稽古もずっと一緒の友達の家でした。短縮ボタンを足で押して、電話の上に立っていました。
その後、外出しました。
帰り電車に乗ろうとすると、「りんちゃん?」と声を掛けられました。
なんと、先日おじい様に「知っている?」と聞かれたあの「はく」ちゃんです。
一緒の電車の中で「はく」ちゃんの口から出たのは、先程ウチの子が電話をかけた友達の話題でした。
そしてその時私の手には、おじい様が召し上がって下さった今回のチョコが。。。
???
どこかで何かが繋がっていました。
「はく」ちゃんとはやはり幼稚園から一緒でしたので、懐かしく楽しく話し込んでしまいました。田園都市線で一人暮らしも頑張っている、と言っていました。
ブログのお雛様拝見いたしました。
最近のお雛様の物々しいお顔とは違い、柔らかく温かなお顔です。
髪飾りが繊細でとても綺麗です。
お衣装も素敵です。
やす香たちの楽しい想い出のお雛様。
愛がいっぱい詰まったお雛様。
お雛様、拝見して優しい気持になりました。
きっとやす香も、楽しかった想いをお雛様の上に置いて行ったのでしょう。
3月14日、丁度卒業式です! 卒業式はスーツです。
明日の昼の便で出発いたします。直行便ではなくローマ経由です。ローマの外を覗けないのがちょっと残念ですが。。。
現地時間で18日の朝2時に目的地に着きます。いよいよピラミッドの国に行って参ります!!!
水に気を付けて、怪我・病気のないように致します。
ちょっとならフランス語も通じる様なので、少し安心です。
明日はまた寒さがぶり返すそうです。
ご油断なさらず、お風邪を召しません様に。
行ってまいります!!!   ウキウキのりんりん☆

* 無事で。
2009 2・16 89

* 歯科医へ、二人で。風が冷たい。日ざしは柔らかい。保谷駅から歩いて帰る。その足で郵便局へ。印刷所に支払いがある。
2009 2・17 89

* さてさて、私。この先に、途方もない大仕事が控えている。苦渋をのんでぜひその山は越えて行かねばならぬ。
2009 2・20 89

* 往き悩む仕事を励まして、今日は千住真理子さんが呉れた自愛自信の愛盤パガニーニ、24のカプリースを、繰り返し聴いている。バイオリンがすばらしく鳴る。その魅力。千住さんは愛器から、無尽蔵に、しかも強靱な美しいリズムと旋律を掴みだしてくる。隅々までクリアでいて微塵の騒擾もない。透明に深い音楽が緩急も長短も自在に生きものの活躍するように音が華やぐ。飽きない。嬉しくなる。

* かすかに後頭部に痛みが来ているのは、もう十分だと警告されているのだろう、疲れた。
いま、パガニーニの鳴っているこの部屋をぼんやりと眺め回していた。見上げる天井板は幅広くわるくない。
電気を消すと、その天井にきらきら☆が光り出す。高校生の息子が親の留守にガールフレンドと二人で無数に銀紙の発光☆を貼ってくれたものだ。四半世紀はたつだろうにまだ光ります。いまとなっては懐かしい。
この六畳部屋はわたしの書斎用に出来たが、娘も息子も暮らした時期があり叔母が上京してからは叔母の部屋にした。しかしそれもわたしの荷物と共用だった。
娘が嫁ぎ、建日子も子供用の洋間からいつしかに家の外に暮らすようになって、わたしが久々に舞い戻った。いまは機械部屋と呼んでいるが、和室であり、とぐろを巻いたようにものが置かれて、わたしは狭い中の狭い通路をヘヤピンカーブの奥まで蟹歩きでしか機械前の倚子へたどり着けない。ものの山で出来ている、この部屋は。
モノの上にモノが積まれ積まれて時折崩落する。だけど、心暖かい。イヤなものは置いてない。やす香もいるし谷崎先生もおいでだし、好きな栖鳳の蛙も猫もいる。「お父さん」が描いてくれた愛蔵の吾輩の顔もあるし、沢口靖子が数えると四人もあちこちにいる。会津八一の「学規」も掛かっている、井泉水に戴いた「花 風」の二大字の額もある。
みな所を得て雑然自然におさまっている。
だんだん人はわたしを離れて行くだろう、いや、半ばはわたしの方からが離れて行くのだが、人同じからざる此の世ではそれが常、まして老人が人に囲まれていたいなどとは欲が深すぎる。「死ぬ時節には死ぬがよく候」と良寛が言うたようになれるかどうか。未練はなるまい。

* さ、もう日付の変わるまでに一時間とない。とりまとめなくては。
2009 2・21 89

☆ 昨日、無事に帰ってまいりました。  光琳
3日間という短い時間でしたが、エジプトたっぷり満喫してきました。
文明と文化に良くも悪くもいろんな刺激を受け、少し成長して帰ってまいりました。
お誕生日メールありがとうございます!
日本時間で換算すると、お誕生日を迎えた瞬間はローマにいました。
お誕生日は、クフ王のピラミッドの中に入ったり、ラクダに乗ったりと普段出来ない貴重な体験をする事が出来ました。
現地の人々にケーキやプレゼントをされたりと、一生忘れられない一日になりました。

ピラミッドですが、周りはやはり砂 砂 砂!!!歩きにくかったです。
それよりももっと大変だったのは、ピラミッドの中でした。
ただでさえ空気が薄く息苦しいピラミッドの中なのに、急な階段を身を縮めて登ったり降りたり。。。息切れをしてたどり着いた王室は感動でした。
何もない意外と小さな空間なのですが、あの大きな四角柱の中にこんなに上手く空間を作り上げた人間業には驚きです。
カイロ・ギザ以外にも、頑張ってルクソールまで夜行列車で足を延ばす事が出来ました。
カルナック神殿、すばらしい迫力でした!!!
今でもそこに権力があるかの様な威厳があり、そしてその広大な建物にただただ感服していました。
昔テーベと呼ばれた都ルクソールは、カイロと違い柱がとても印象的でカイロよりも都の原型を留めていました。
数年前にテロの起きたハトシェプストにも行ってきました。
他とは少し違いさっぱりとした印象を受けるこの神殿は、過去にそんなテロがあった事など微塵も感じさせない程神殿は堂々と建っていて、また観光客で賑わっていました。
文明は本当に素晴らしく、人間が作ったとは到底思えないものがほとんどで、感動の連続でした。

しかし、エジプト自体は私には合いませんでした。。。
まず空気が汚いのに驚きました。
砂の国なので少々砂で息苦しいのは我慢出来たのですが、砂ではなくガソリン臭いのです。どこに移動するにも車を使い、交通ルールなどなく、常にカーチェイスの様な運転をしていました。綺麗な車など一つもなく、多くの車が事故でどこかしら壊れているものばかりでした。
また、観光客を見るとお金を沢山取ろうとしかけてくるのです。いわゆるぼったくりです。何度その事でケンカをした事か。。。イスラム教には喜捨の慣習があるのでしかたのない事、と考えてもやはり腹の立つ事です! 平気な顔で嘘をつくのも。
お店に行っても値段の表示がなく、いくらか聞くと普通の値段の3倍は平気で言ってくるのです。
もちろんお国が観光でなりたっているという事は理解しています。日本の様な先進国のせいで苦労している事も理解しています。
でも嘘は、ウソです!!!
今回の旅では意外なエジプトの実態を身をもって体験しました。
大変で、他にも嫌な思いをしましたが、それを乗り越えたからこそ思い出に残る素晴らしい旅になったと思います。
過去の素晴らしい文明と、今の意外なエジプトの文化、今回の旅では多くの事を覗いてきました。
でも一番学んだのはケンカの仕方かもしれません。
いろいろあったけれども、無事帰って来られた今は心からエジプトに行って良かったと思います。

写真は第二ピラミッド(カフラー王) と、カルナック神殿の中を写したものです。

追伸
早朝、ニュースを見て驚き、鳥肌が立ちました。カイロでの爆弾テロ、ショックです。
観光客の良く行く繁華街に私達も19 日に立ち寄り、買い物をしていました。テロの前日21日に無事カイロを出発しました。
お世話になったエジプトの方々が無事かとても心配です。
亡くなった方のご冥福を祈ります。

* 大学を卒業記念の旅。過不足のない、目に見えるような、肌に迫ってくるようないい旅行記。妻と楽しく読んだ。無事でよかったね。

* わたしの娘は、大学の入学祝いに、中国にやった。尾崎秀樹夫妻ら「歴史と文学」の同人達の中へ、尾崎さんの娘さんら同世代が三、四人加わった。わたしは同人ではなかったが、長編の『風の奏で』をこの雑誌に二回分載したことがあり、一緒に行きませんかと誘われていた。代わりに娘をと、お願いした。
そういえば銀座の「きよ田」で、人に、娘なんかには「過剰サービスですよ」と言われたほどの鮨店でも祝ってやった。いまはない「きよ田」は、伝説的なみごとな鮨店であった。わたしが最初の中国訪問から帰国した打ち上げの食事会の後、同行した辻邦生さんが、井上団長をのぞく他の一行を「きよ田」へ連れて行ってくれた。
その以降、怖いモノ知らずのわたしは、よく「きよ田」で食を奢った。妻も連れて行った。店主が病気で店仕舞いになったあと、ながく、寂しかった。
2009 2・23 89

* 三年という歳月が過ぎていった。三年前の今日、もうからだの傷み・痛みをこらえていたに違いないやす香が、(その時は知るすべもなく元気だと思っていたが、のちのち当人の日記や、当日撮った写真の表情を観ると分かる、)誕生日の近い妹と一緒に保谷へ尋ねてきた。嬉しかった。
そうだ、少し早いが妹の誕生日祝いもかねて雛人形を飾ってみたらと奨めた。
初めて、祖母が愛蔵の雛人形を持ち出した。そして賑やかにああだこうだと言い合いながら姉妹して飾っていった一部を、今月日録のアタマに出しておいた。
あの日以来、もう、元気なやす香と会うことは叶わなかった。七月末には肉腫という最悪の癌でむなしく見送らねばならなかった。
なんということだろう、あのやす香逝去の日から、われわれ夫婦の地獄ににた日々が始まり、いまなお続いている。
2009 2・25 89

* さ、二日の内にできる用事はみな済ましておき、三月は「書く」月になる。
2009 2・26 89

* さ、三月。妻と力協せ「五十年」を経てきた記念の月だが、またこの三月は、世にもまれな娘と婿夫妻の「被告」として法廷に「陳述」を命じられている月でもある。私が、世にまれな何を娘と婿とにしたか、それともしなかったか。折から裁判員制が実施になる。この日記、このホームページ、また全ての著作を私は何ひとつ隠さず世に問い公開している。「どうぞご判断下さい」といつでも両手をひろげている。

* 湖の本通算「九十八」巻を責了に。

* 年譜を読み返してみると、娘が誕生からわたしの受賞の年、つまり娘が八歳ころまでに、無数に娘との日々や成長の様子、健康や怪我に触れて書いた記事がある。マークしてみるとその大量に驚くが、可愛くてならなかった両親の一人娘だもの、あたりまえだろう。ちょっと一々書き出してみたいが、今夜はもう疲れた。
2009 3・1 90

☆  誰かに宛てて  1999 6・6 「身内」
* 父の違う兄の一人に、生涯でいちどだけ会いました。優しい紳士でした。その後も文通がありましたし子どもたちにもよくしてくれました。
ガンで亡くなる間際に、逢いたいと家族を通して大阪から伝えてきました。わたしは行きませんでした。わたしのエゴでした。
縁薄く共に暮らさなかった兄の、只一度の温顔を大切にしたかったから、です。兄の希望に反して、自分の宝を捨てなかった。
何度も、そのことを考えてきました。
その時に浮かぶのは兄のいい顔です。それをわたしは喜んでいますが、兄は失望して亡くなったでしょう。兄の遺族とは文通だけが続き、甥や姪とも会ったことはありません。兄の柔和に優しかった表情は、そのまま今も生きていて、いつでも対話できます、わたしの「部屋」で。
仮定として、わたしがいつかの日、深く愛した作中の「慈子」のような人が、同じように言うてきたなら、わたしは死の床に馳せつけるでしょうか。正直のところ、答えは出てきません。来てとは、慈子なら言うまいと思えるぐらいです。
ではもしわたしがそうだとしたら、慈子に来てと言うでしょうか。言いたいかも知れない。言うかも知れない。しかし、それが大きな「喪失」であることは事実です、「死なれた」者にとって。病み衰えて極限にある人との対面は、多くの記憶に匹敵して打ち勝ってしまうかも知れない。
もしあなたのいう自分の「エゴ」が、或るなにらかの「清算」「思い切り」「けじめ」を付けようとする動きを秘めているものなら、凄みがある。
「見る」というのは強烈な行為です。日本語では、見る・見られるは決定的な意味を持っていました。
見て欲しくない、見られたくないと思っている人を一方的に見てきた男たちの世の中がありましたね。侵し=レイプです。
あなたの心根に、侵してでも「きまり」をつけ、「自己満足」したいものがあるとして、そこで得られた満足とは、つまり「きまり」をつけた「清算した」意味でこそあれ、美しく佳き記憶の保存とは無縁でしょう。清算を願ったりしていないのなら、逆に「自己崩壊」を敢えてすることにしっかり繋がりかねないでしょう。
ご本人が呼んでいる求めているのでないならば、よけいに。最も辛いし見苦しいかもしれぬところを目がけて、「侵し」を敢行するのですから。
問題は、満足を求めているあなたの「エゴ」は、愛で動くのか侵しで動くのか、どうなのか。あなたは迷わねばならない、それが地獄というものです。

* わたしの苛立ちが言わせたか、優しさが言わせたか、わからない。
人は、してしまう存在である。喜怒哀楽はそこから生まれるが、救いは遠い。
バグワンを置きみやげに飛び去った娘に感謝している。  1999 6・6  「むかしの私」より
2009 3・2 90

* 「言っても言わなくてもわかる人はわかりますし、言っても言ってもわからない人にはわかってもらえない。裁判を通して、もし『わかる』ということがあり得るのなら、それはお互いに気持ちを理解し合えたということでなく、『お互い違う世界に生きているにすぎない』ことをそれぞれに理解し合うというだけのことのような気が、最近しています。
ただ、先生の場合は、それを、愛情を注いでお育てになられた娘さんとの間で行わなければならないということが、さらにまたお気持ちを重くさせていらっしゃるのだと思いますが・・・。」と。
前も、後ろも、まことにその通りなんです。ありがとう。

☆ その日  光琳
こんばんは!
その日は、もう伺う事に決めていました!
卒業式には母と姉が来てくれます。姉はまたすぐ研究室に帰ります。母も、すぐ帰宅します。喜んで飛んで行くつもりでいました。よろしくお願い致します。
その日、なんと私は0時からフランス映画を観に六本木ヒルズに行きます。翌日の朝7時まで3本立てです!! フル活動日です。

先日、日本酒を頂きました。
一番北の地酒だそうです。北海道の増毛“国稀酒造”のお酒です。増毛町の近く、留萌という所の方に送って頂きました。
2本頂いたのですが、1本はご厚意で姉が研究室で飲みました。
実は、我が家、日本酒が飲めないのです。私と母はワインかビール、父はビール1杯が限度、唯一日本酒が飲める姉も少々。どういう訳か、大酒飲み一家と勘違いされ送られてきました。
どうしましょう??? と。。。
あっ! おじい様がいらっしゃる!!
箱の横に落書きがされていますが、箱から出しておじい様にお見せして下さい。
折角のまごころを頂戴したので、お好みかどうか分かりませんが、召し上がって下さいませ。近々宅急便でお送り致します。
エジプトのテロでご心配を掛けたお詫びではありませんが(笑)
卒業式壇上に上がります。
後姿に気を付けなければ!!!
多分ご存じでしょうが、首席ではありません。ウフッ♪
花粉がきつくなってまいりました。お互い大事にいたしましょう。ティッシュが手放せない  琳

* なんと嬉しいメールだろう。ありがとう。
2009 3・3 90

* 「弦」という、短歌会の文藝誌(らしいもの)が、辺見じゅんさんを発行人に創刊されていて、第六号が贈られてきた。ま、結社誌の普通の一つに見える。短歌以外の散文やおはなしで文藝誌の匂いヅケがしてあるけれど、すぐれた歌に出会いたい。
そんなのがゾロゾロあると思うほど甘い期待は持たないものの、主宰の息がかかっている「弦集」第一席に、畠山拓郎という人の、「遷宮をするがごとくに旅に出て部屋も気持ちも片付けている」など、なにより「するがごとくに」の「が」に、表現上のご都合だけがうかがえる。音数を合わせるだけの「が」であり、しかも音が汚い。いい短歌を読む嬉しさが全然来ない。巻頭第一に招待されている竹山広氏の第一首、「古来稀といひて君らに祝はれし齢に加へたる十八年」というのも、その先へ読み進む気を喪わせる。「一期一首」の気も用意もたくみも無い。
短歌誌をよむ嬉しさがイージイな表現や思いの故に、たちまち萎える。

* 一期一首などかたいことをいわず、わたしも浮かぶとそのまま手元の端紙に書き付け、大抵そのまま忘れてしまうが、そんな紙切れが水の底から泡のように現実に浮かんできたりする。いまも、いつごろのとも知れない紙切れに、

黒きマゴの我の浴槽(ゆぶね)で湯を飲めるたゞそれだけが嬉しくて笑ふ

と書いてある。マゴが可愛い黒猫の名とわからねば半端かしれぬが、「たゞそれだけが」の「が」は、この歌ではこうでなくてならぬ「が」のつもりです。
歌は、歌である、根の素質や要請として。そして「うた」は音楽(リズム)であり、また「うつたへ」でもある。しかも音楽にもいろいろあることを忘れてはならず、自身の「うた」をもたねば表現の藝術にならない。

* さ、今日を始めよう。
2009 3・5 90

* 光琳さんが愛猫の写真を送ってきた。いまわが家には客のグーとうちのマゴとがうまく住み分けている。夜は妻のところへ寝に来る。なんという猫たち。
2009 3・6 90

☆  つかこうへいの小説 1999 2・11 2・14 「読書と人物」
* つかこうへいの『ストリッパー物語』を、息子の書架から借りてきて読み始めたが、面白い。猥雑で被虐味に富んだ語り口ながら、ジメついていないし、こういう材料への偏見どころか、むしろ親しみすらわたしは昔からもっている。祇園の乙部と背中合わせの通りに育ってきたし、甲に対して乙の存在のあることにも少年時代から自覚があった。乙の方へとかく目を向けてゆく自意識もあった。
そんなことがなくても私は、つかの、舞台台本を読み物化したといわれるこの作品内容に、共感できる。女も男も状況の中で粒立って活躍しているからだし、ワケが分かるからだ。
秦建日子がつかこうへいに師事して、会社勤めも辞めて演劇の世界に飛び込んで行ったのは、親の私たちからは真に一大事であったけれど、反対しなかった、支持し支援してきたつもりだ。だが、ことさらつか氏へ、わたしからは触れては行かなかった。会ったことも挨拶を交わしたこともない。そんなことはお互いに同業ではしにくいし、されても気持ちがわるかろう。しかし、感謝している。
一度、書かれたものも読みたいと思っていた。正直の所読んでみて気が乗らなかったら申し訳ないと思いためらってはいた。
芝居は一度だけ観た。忠臣蔵もどきのものだった、扱われた材料への接近の仕方に、自分のものの感じ方見方とひどく近いものを感じ、ああそうかとうなずいたりしたが、本は読まなかった。初めて読んでみて、よかったと思う。何となく、とても気がらくになった。 1999 2・11

* つかこうへいの『ストリッパー物語』を読み終えた。明美さんと重さんの物語にあやうく嗚咽しそうであった。
瑕瑾が無いわけではない、重さんのお嬢さんが留学したり成功したりする話は嬉しいけれど、ちょっと照れくさくもある。
重さんと明美さんのことは忘れられないだろう。こんなオリジナリティの鮮明で強烈な小説、むろん過去に無かったわけではないが、確実にまた感銘作を付け加え得て、嬉しい。
これを読んで、読み終えて、私は初めてつか氏に、息子のために感謝した。ありがとうございました。
かつて野坂昭如の『えろごと師たち』などを読んだときにもやや近い感じはもったが、どこかでいささかのハッタリをかまされているような、少し身を引くものがあった。
むしろ瀧井孝作先生の『無限抱擁』を読んでの澄んだ感動にちかい実質を、つかこうへいは持っていると感じた。瀧井先生とはちがうが、つか氏ははっきりとした「憎しみ」をみごとに抱いている。そのことに私は感動した。
秦建日子に学んで欲しいのは人気ではない、虚名でもない。身内の熱塊だ。燃えるモチーフだ。
1999 2・14 「むかしの私」から
2009 3・7 90

* 夜中にも朝にも二疋の猫クンに起こされた体で、早起きした。それからもう、やすみなくアタマの禿げそうなシンドイ仕事をしていて、印刷中。外へ出るときは持って出て読み返せるように。

* 七時。妻のピアノが始まった。グーもマゴも拝聴。わたしはニヤニヤ。
2009 3・8 90

* 早起きした。このところ、時間も体力もなるべく保ち残すよう気を配っている。私語すらも。「むかしの私」が助けてくれている。
おおかた十年余もむかしの「私語」を、わたし自身も興がって顧みているが、時間差をすこしも感じない。きのうのことのように連続している。意識が働いて「いま・ここ」を連続させていれば、十年前の自分も昨日今日の自分も、ひしと繋がっている。十年一日の「積極的な意味」はこういうことか。
ただ間違いなく十年の間に喪ったもの、たとえば孫・やす香のことなどがある。新たに得たものも、だが有る。
2009 3・9 90

* 池袋西武で春の花をひとやま買って帰る。

* 城景都氏の力作『秦夫妻像』が出来てきた。城景都のまぎれない作風と、線。わたしも妻も豊頬、しっかりと捉えてある。力を入れてくれたようで、照れくさいが、感謝。
わたしは照れくさいからと尻込みした、が、建日子が、ぜひ描いてもらえと薦めた。建日子が薦めるならと妻が乗り気に。そして出来てきた。やっぱり妙な気分。
2009 3・9 90

* 八日間奮励、今日は病院をダシに街にいて安息日に。
2009 3・9 90

* 好天。さ、また取り組む。来週には新刊の発送もあるので、時間の余裕はすこしも無い。前後の見境をつけコトの重さを量れば、ものは見える。
2009 3・10 90

* 夜中に黒いまごと巨大なグーとが、家中を歩き回る。衝突は起きない。床の闇に目をひらいて、マゴたちの気配を追っていたり。うとうとと寝入ったり、目覚めたり。明け方は冷えが濃くなった。

* 結婚して新宿河田町のアパートに入った春には、石段をほんの少し六七段あがってアパートへ通る大家さんの玄関前には、花が咲き溢れたが、ひとしお印象にのこって華やかを忘れないのが、大波打って真っ白な小手毬たちであった。写真機だけはニッカのライカマウントの高級機を京都から持ってきていたので、花のあたりで妻をよく撮った。翌年の小手毬の頃には朝日子がおなかにいた。

☆ 五十年に寄せて   京 バルセロナ
恒平さん
恒平さん迪子さんは、私には殊に、夫婦のありがたさ、夫婦のよさ、を感じさせてくれるご夫婦でありましたから、この五十年目もおふたりで共に迎えられることを、心より嬉しく思います。並々ならぬ日々をお過ごしと案じておりますが、金婚の日をせめて静かにお迎えになれますように。
義父母の金婚式に結婚した私たちは、今年で九年を迎えます。先日「闇」の冒頭に、私の新婚にも触れた昔の「私語」が掲載されてあったりして、ああ、そうだった、と、懐かしく思い返しました。池袋の和食のお店で、益子のぐい呑みをいただきましたよね。秋の夜風にたなびく薄に、ほの朱い月明りが寂しくて、これでお酒を呑むときは、ちょっと感傷的になりそうな心細さを覚えた記憶があります。きものでも器でも屏風でも、いつも私が「薄」紋様に吸い寄せられてきたことを、恒平さんは察していらっしゃったのでしょうか。
毎日が平穏です。少し前、軽い脳梗塞に見舞われ、でも後遺症の残らなかった私の夫の運の良さを、殊更ありがたく感じています。定年後の優雅であろう時間より、「今」が最も幸せなときであることを、頭だけでなくからだ全体で感じ取った瞬間でした。
それ以来、毎日が満ち足りています。華々しさなしでは充足感を覚えにくかった青年期を経て、自分が既に、静けさに幸福を見出す歳になったのは、ちょっぴり不思議な気分です。歳を重ねるのも、悪いことばかりではない、気がします。
桜に映える恒平さんを、毎日眺めています。(東工大の)この桜並木の近くで、私は恒平さんに駆け寄ったんですよね。桜は、本当は木に咲いているのが一番美しいと思うのですけれど、日本を離れた私の憧れも込めて、今日、さくらをお届けします。(何も問題がなければ、十一日の午前中に届くはずです。)
恒平さん、迪子さん、どうぞどうぞ御身お大切にお過ごしくださいますように。  京

* 京。ありがとう。ばら一輪を手渡してくれた、はなむけの会食を忘れていません。まだまだ若いのだから、京らしき元気ハツラツとともに、夫さんを励まし労り、ともども、ますますお幸せに。

* 歳月というのは、タダものではない。一種の文身(いれずみ)である。

* 花壇の連絡があり、午まえ、早咲き・莟たくさんの大きな京櫻がたっぷり・ゆったりと贈られてきた。すばらしい。嬉しい。
櫻より優る花なき春なれば と紀貫之の歌がなつかしい。『優る花なき』は昭和五十一年の初の随筆集であった。

* 五十年を前に  湖
京  すこしも変わらず優しいね、ありがとう、ありがとう。
お昼前に、いいアレンジで、満開の楽しめる枝振りの京櫻がたっぷり・ゆったり届きました。嬉しいです、迪子も目をほそくして大喜びしながら玄関の新しい夫妻像の前に生け込みました。春、匂い立ちます。

夫さん、大事にならなくてよかった、どうか気力壮んにしっかり立ち直られますよう、京の手もしっかり貸してあげて下さい。お二人の平安を心より祈ります。

お互いにまだ先がある。歩一歩、「ほ・いっぽ」とも「あゆみあゆみ」とも読みながら前を向いて。どうぞお幸せに、そしてもう一度も二度も三度も、ありがとう! 京 ありがとう! 恒平

* 明日は散髪。
2009 3・11 90

☆ ただいま  光琳
こんばんは。
メールありがとうございます。
17時の便で北海道から無事帰ってまいりました。
怪我もなく、思いっきり楽しんで来ました。
念願の旭山動物園、とっても楽しかったです!!!
一日一本しか通っていない札幌からの専用列車に乗りました。
車体の外側にたっくさんの動物の絵が描かれていて、各車両には動物の形をしたぬいぐるみの様な座席があります。
白熊・オオカミ・猿・キリン・ライオン・ペンギンなどなど。。。
全部の座席に座って写真を撮るのはとても大変でした。
着いてすぐ、楽しみにしていたペンギンのお散歩が見られました。
本当に近くまでペンギンがテコテコ歩いて来るのです!!!
時にはお腹でスライディングしてきます。
とっても可愛いのです!!!
そしてとっても寒かったです。。。
札幌に着いた一日目は吹雪、それ以降は晴天でした。
最終日は函館から帰路に着きました。
名物料理も沢山食べました。
ジンギスカン・ラーメン(2回)・カレースープ・生キャラメル!!!
食べすぎでしょうか???
全てエジプトの時とは一味違い、楽しい3泊4日でした。
写真添付致します。
一枚は専用列車の中の白熊シート。
もう一枚は動物園で出会った、親より態度の大きい、目つきの悪い子ペンギン。
ワクワクです!
お目にかかれるの嬉しいです。  まだまだ北海道気分の 琳

* このやす香の友達も、大学院にすすむと、ま、私の時と似た人文学研究にとりくむのだろう。この人は基礎にフランス語をしっかり抱いている。そして入学式を来月に控えた、それどころか大学の卒業式を数日後に控えた、今の今こそ我が世の春。とことん楽しめるのも才能。元気にと願う。やす香もそう願っているに違いない。
2009 3・11 90

* 来週には「湖の本」の新刊が出来る。第九十八巻。すぐ発送する。発送に長く手を取られていては、春は名のみの風の寒さ、厄介な仕事がまだあるわけで。「五十年」の自祝は、前後三日間で終える。月末には京都へも行かねばならぬ。
2009 3・12 90

* 述懐   賀知章
主人不相識    ご主人とは知り合いでないが、
偶坐為林泉    ご無礼したはお庭が宜しくて。
莫謾愁沽酒    気遣うて下さるな酒を買うを。
嚢中自有銭    ま、懐ぐあいは間に合います。

* 飛行機が頭上を行く。

* 建日子が、帰国。よかった。

* 外出する。
2009 3・13 90

* 五十年。
2009 3・14 90

* 王維詩に心境を托す
空山不見人    空山人を見ず
但聞人語響    ただ人語響く
返景入深林    夕陽林に入り
復照青苔上    清寂苔を照す

* みなさんにお祝い戴いた。なかでも年久しい和歌山の三宅さんの賀詞に、みなさんのを代表して戴き、ご健勝を祈ります。

☆ 祝 五十年  三宅貞雄
金婚式、おめでとうございます。心よりお慶び申しあげます。
「湖の本」100巻、年内に達成が確実と存じます。この大業もご夫妻ご協力の大きな成果でございましょう。
新刊には、詳細な年譜を付けられるとのこと楽しみにしています。(限定豪華本=)『四度の瀧』収録の年譜は繰り返し拝読しました。
敬愛する先生のお作を出版させていただきました。昭和59年12月19日、先生からの献本を拝受。積年の夢が叶い、胸に溢れるものを感じながら震える手でページを開いたのを覚えています。この出版の喜びが大きな励みとなり、力となって試練を乗り切ることが出来ました。
感謝に堪えません。
どうか、これからも奥様ともどもご健康にとご祈念申し上げます。
お酒を少しお送りさせていただきました。銘柄の名はちょっと、と思いましたが美味しいものですのでご賞味ください。
私も、量は減りましたが楽しんでいます。ご拝眉を得たいと存じます。
2009 3・14 90

* 天気予報が宜しくなく、今朝の風雨にずぶぬれで歌舞伎座へはちと有り難からず。昨日幸いに午後元気に建日子が帰国し猫を引き取りに来たので、五十年「自祝の祝い金」をめでたく渡してやり、保谷駅まで車で送ってもらって、まだ降らぬうちに急遽妻の発案に乗り、日比谷のホテルへ入った。
ここからなら、朝もゆっくり出来てタクシーで木挽町へは間近く、名案であった。
リニューアルしたスイーツは、二十五年前銀婚の時にもつかった見晴らしのいい角部屋で、まだあの時は、朝日子も建日子も一緒に食事が出来たのではなかったか。
昨夜はクラブで、「伊勢長」の弁当をとりゆっくり晩食、コニャックの瓶をあけ、思い出話がはずんだ。アーケードなどひやかして歩き、入浴して、このところ根をつめてきたわたしは、お先にとはやばや熟睡した。
朝八時半、朝食が運び込まれるまで寝ていた。

* 十時半に歌舞伎座へ。座席を頼んだ松嶋屋さんに支払いし、祝って貰う。
弁当の幕間に、茜屋珈琲でマスターの、おもいきり佳いカツプで「祝いましょうよ」と祝詞をもらい、うまい珈琲を楽しむ。
また劇場ロビーで高麗屋の奥さんからもお祝いの品を頂戴し、暫時歓談、有り難い楽しいことであった。
芝居は真山青果の『元禄忠臣蔵』、昼は我當君が田村右京役で場をおさえる『江戸城の刃傷』、梅玉の淺野内匠頭、弥十郎の多門傳八郎、松江の片岡源五右衛門ら、それぞれに真山歌舞伎の要請を気合いよく受け容れて熱演し、舞台が引き締まった。
めずらしく萬次郎の加藤越中守が出色の歌舞伎芝居で見直した。ああいう風に演じればあの口跡が生きる。女形をさせるからいけないのだ。実のある武士や家老職などを美しく演じさせたい。
『最後の大評定』は、幸四郎抜群の大石内蔵助力演で、終始したたかに泣かされた。歌六の井関徳兵衛、種太郎の子息紋左衛門が前後で哀れを誘いながら、國家老大石の藝に、赤穂忠誠の遺臣等が眼差しも燃えさかりながら血判に参じ、死生の道を大石に委ねる緊迫は、真山の劇精神が熾烈に発露して、わたしの殊に好きな幕。
市蔵の堀部安兵衛が印象に濃く、また大石妻の魁春に品位の美しさがにじみ出た。
幸四郎の静と、動、激動の掘りあげと掘り分けとが、音楽的にも彫像としてもよく調和して、肺腑をえぐった。ああいう芝居に触れると沸き立つように観劇の嬉しさが噴き上げる。
そして仁左衛門と染五郎の『御濱御殿綱豊卿』は、人気の、劇的なあまりに劇的な幕。松嶋屋の綱豊卿は仁左衛門襲名でもとくと観ているが、さらに余裕が出て、緩急と心情の打ち出し方に歌い上げるような波のさしひきが美しい。すこし歌いすぎたかも知れぬが上乗の造形で、些かの渋滞もなかった。
助右衛門役は、あれは梅玉の綱豊に立ち向かってか翫雀で観たのが一途で印象的だった。今日の染五郎にもだから一入の期待を掛けて観て、満足した。よほど打ち込んで富森になって健闘し敢闘し、赤穂浪士として懸命なのがよくわかり、逆に彼が綱豊卿の芝居を動かしていたとも見えるほどだったのはすばらしかった。巧い拙いなどの問題を押し越えていった助右衛門の、彼なりの一途と懸命な働きと、阿呆払いされながら大きな土産を浪士仲間に持ち帰り得た喜びが、客席までよく伝わった。
秀太郎の江島、富十郎の勘解由白石、芝雀のお喜世などが支え、宗之助の病気窮状に変わって出たしのぶにも視線を送ってきた。

* 今日三月十四日は、舞台では浅野内匠頭の切腹の日であり、それをよしとしたわけではないが、忠臣蔵には原点の一日ということも意識して、昼の部を最大限に楽しんできた。

* 歌舞伎座からまたホテルに戻り、三階の写真館で予約の写真を撮った。
われわれ夫婦は結婚式を二人だけで京都若王子山の新島襄の墓前でして、結婚写真などというものも撮らなかった。その代わりというほどのたいそうな思いでなく、ごく気軽にまあよかろうと予約してみた。お笑いぐさである。食事前のアキ時間を使ったのである。

* 五時半、大学を卒業し大学院に入学する若い友達を祝う気持ちもこめて、三人で、「レ・セゾン」の楽しい晩餐。シェフたちのサービス満点で、シャンパンにも料理にもワインにも満ち足りた。満腹した。
若い友達からはエジプトのお土産をもらい、わたしたちは、春いろの、羽衣のようにはひらひらしないが、軽やかにふんわり毛で編んだ上着を贈った。やす香もきっとそばにいて歓んでくれたことだろう。

* 友達をホテルから見送って、クラブでほんの十五分ほどを妻はジュース、わたしはブラントン一杯だけを飲んで、ワンボックスの珍しいタクシーで、青梅街道から帰宅した。留守してくれた黒いマゴが大喜びで、家中をかけまわった。
郵便やメールなどを観て、感謝して、そして日付が変わった。

* 今日、この日を迎え、またこう見送って、感想は一つ、心底、ほっとした。なにより妻に、この日を無事に贈りたかった。去年の今日、どうしてでも来年の今日まで二人とも生きていたいと願った。一年中あたまにあったと言うとおおげさだけれど。

* さ、明日から新しい「一年目」に入る。培ってきた五十年に感謝して、静かに「さよなら」を言う。新しい仕事が、また始まる。
2009 3・14 90

* 『背教者ユリアヌス』の兄副帝ガルスの最期は哀れで。コンスタンティウスの皇后エウデピアが登場、いよいよユリアヌスが前面に進み出てくる。深夜まで読んでいた。黒いマゴに二度起こされた。
2009 3・16 90

* 湖の本新刊が届いた。わが家は数日の戦場になる。本はきれいに仕上がっている。

* 朝は十時過ぎから夜十時半まで、やすみなく働いた。なんとかしてまるまる三日間で九分九厘終えたいと、力仕事に打ち込んだ。
妻の手伝いがなければ、どうにもならない。湖の本こそ、夫婦二人で持ち堪えてきた仕事。感謝する
2009 3・16 90

* さて、明日辺りから、今回の型破りで、まず類例の無い新刊が読者や知友のもとへ届き始めるだろう。
大空へとびたつロケットは、つぎつぎ使い果たした燃料タンクを中空に切り離すことで、さらに高く遠く往く約束だ。
今度の本、そういう感触でつくり、空へ手放した。

* もとの仕事へも戻って、一日呻吟。泥まみれの気持ちだ。

* 頭の中へ、新しい空気を吸い込みたい。
2009 3・18 90

* もう三十分もなく、日付が動く。堪えて、堪えて、モノに真向かって。
2009 3・19 90

* ウン。とにもかくにも、行くところまで仕事は行った。左肩は凝って張って痛むが、少し気が軽くなった。
2009 3・21 90

☆ 湖の本とふわふわニット 光琳
こんばんは。
湖の本、頂戴致しました。
おじい様とおばあ様の歩んだ日々、大切に読ませて頂きます。大切な五十周年の日をご一緒させて頂いた事、とても幸せです。
これからも素敵なお二人でいて下さい!
先日のお礼とご本のメールが一緒になってしまいました。
そろそろ桜が咲く時期です。早く春が来て、頂戴した春色のふわふわニットを着てお出掛けしたいです。
ワンピースの上に重ねて着る予定です。なんだか優しい気分のニットです。

湖の本、以前おばあ様が内緒よと教えて下さった“ひばり”がありました。
楽しみです。
おじい様のご本、私には難しいと感じる事が多いです。
多分それをご存じなのに、いつも湖の本を送り続けて下さってありがとうございます。
人生を重ねてまた手にした時、もっと深く読む事が出来る女性になりたいです。
今回の年譜、おばあ様もお力を合わせ、まさに金婚の作品とおうけいたしました。
まだ未熟な私がおじい様の人生を覗き込む様で、少し緊張いたします。
心して読ませて頂きます。
本当にありがとうございました。    ふわふわニットで幸せ気分の
2009 3・21 90

* 目が霞んできた。七時半、妻がとなりでピアノを鳴らしている。今夜はやすんで、撮り溜めてある映画でも観て寛ごうか。
今日は朝八時から、つい今し方まで、よくやった。まだかなり集中力、在るみたい。
2009 3・21 90

* また加茂の従弟からは、わたしの実父吉岡家の記念の大家族写真なども添え、たくさんなコーヒー豆も添えて、嬉しい手紙を受け取った。
父方のことは少しずつ分かってきたが、母方のことはまだあまり分明には見えてこない。

☆ 御本頂戴しました。  巌  従弟
ありがとうございます。
三十数年前のまさに母の声
いきいきと聴きました。
手もとにあったもの(写真) 今さらとも思いましたが コーヒー豆と共に送ります。  お元気で。
誠一郎(=祖父)とりょう(=祖母)とは死別と聞いております。(謄本を参考に送ります。)
写真は昭和二十年代半ばのものの写しで吉岡家の門の下で。
コピーは恒伯父(=恒彦・恒平実父)の納骨の時のものだと思われます。

* 従弟の親切な配慮から、たくさんなことを漏れ聞いてきた。はるかな往時はとりかえしもならず、とりかえしたいとも願わないが、そこに何かが在ったのだという思いは持つ。そこから歩み出していたのである。
2009 3・21 90

* 建日子が小学校に入ったとき担任の藤井敏子先生が、オートバイを駆って、私たちのお祝いにと、抱えても胸に余るほどいろんな花を頂戴した。ありがとう存じます。建日子が『推理小説』を出したときも素晴らしい蘭でお祝い戴いた。
その建日子も四十一歳。
姉の方は五十に手が届いたか。
もう一人の孫娘、やす香が宝物のように慈しんでいたと聞いてる妹のことが、とても気に掛かっている。高校三年生になるはず。大学進学の時は、やす香も相応に迷ったり悩んだりし、決断し自信を持って進学先を選んだ。
入学前に大学へ提出しなければならぬ課題の論考を、真っ先に「おじいやん」に読んで欲しいのと届けてきた。能く書けていて感心した。
妹も、今、いろいろ考えているだろう。無事に平安に自由な決断で志をとげてほしい。
2009 3・22 90

* 好天、冷気きびし。

* 妻は和歌山県から東京青山へ移した両親の新墓に、妹と。留守に「たん熊北店」の特醸「熊彦」二升届く。楽しみ。
いまは、群馬の阿部さんが下さった「赤城山」が旨く、京の名品山椒味の「ちりめんじゃこ」と画家鳥山玲さんが下さった生のまま塩加減の北海道「いくら」とで戴いている。朱の片口、萩焼きの盃。
2009 3・26 90

* 明け方、建日子が隣棟に帰っていて、昼食から一緒に。歓談数刻。六時まで。

* 群馬渋川の森田比路子さん、妻の従弟の敏夫君、名酒・銘菓頂戴。
2009 3・30 90

* 妻も七十三歳になった。赤飯で祝う。
2009 4・5 91

* 和歌山県すさみ市にある妻の両親や兄の墓を、兄の妻が、東京青山に移転した。その墓参りに、今日が誕生日の妻と一緒に出かけた。こざっぱりとした奥城で、櫻が満開。

* 次いで東工大大岡山の大櫻を観に。満杯の満開、折しも日曜で人も賑わい、花はこよなく豪奢に美しかった。

東工大の花道で

* 櫻を撮るなら、人のにも、かつて自分の撮ったのにも負けない美しい写真が欲しかった。ウン、これは、どうじゃ。

* 目黒駅から今度は車で瑞聖寺へ。やす香の墓参。墓域はひっそりと人影もなく、枝垂れ櫻が静かに咲いていた。墓石の背にやす香の名と命日とが刻まれているのをそっと掌にふれてやす香の声と笑顔とを偲んできた。
三田線で有楽町にもどり、何処へも寄らずにそのまま帰ってきた。
2009 4・5 91

* 雷雨と風水がどっと来たような一日だったが、落ち着いて対処。明日、もう一日をとっくり利して働けば、先は拡がるだろう。
疲れたので、あえて今日はもう休む。目がかすんでいる。
2009 4・8 91

* 満十四年の湖の本の頃は、いまにくらべだいぶ維持がラクだった。いまは、おまけに百年に一度の恐慌。愛してくださる人があればこそほそぼそと血のにじむ繃帯を巻きながら堪えているが、此処まで来ると、もう楽しむしかない境地。こんなところで楽しめるなんて、なんて有り難いとやせ我慢もたいていなものだが、事実、楽しくはあるのである。あと二巻で百巻。それも「通過点」ですからね、ますますガンバッテと言って下さる。どうがんばるか、何かの趣向が利くかしらん。名案、募集。
ホントを言うと、下のマゴ娘が中学にでも入る頃からは、娘に発行元を譲ろうとアテにしていたのだが、とんでもないことだった。
2009 4・8 91

* ほとんど人間嫌いに落ち込んだような一日だった。
2009 4・9 91

* 労力を惜しむまい、万全を尽くした。別方角へおおいに展開させてみよう。蒟蒻問答みたいだが。
2009 4・9 91

* アメリカから帰っている池宮千代子さんを、妻と新橋ちかいホテルに訪ねる。お土産に、淡海お庭窯、膳所焼の水指を用意した。裏千家十四代、わたしたちの年齢にはいちばん親身な淡々斎家元の箱書がある。古門前の美術商林から裏千家へ箱書依頼の付記がある。
膳所焼は遠州七窯のうち最高の格を誇った丁寧な仕事のお庭焼で、ハデではないがしっとりしている。持参のこれは、瓢耳の細水指。結び文につくった蓋のつまみは華奢に美しい。胸高に一部、さまよく碧みの華麗な色釉が流れ、美景を成している。陽炎園造。
ロサンゼルスで多年熱心にお茶を続け、地元淡交会でも付き合いの広いらしい池宮さんに使ってもらえば、道具がよろこぶ。なにか 軸も添えてあげたいが、と、手近に巻いてあった荻原井泉水八十八歳の朱印のある『一陽来復』の色紙形軸装を掴んで行った。昭和四十五年十二月二十三日の日付が書き入れてあり、今なら天長節いや天皇誕生日。
「一陽来復」とは目出度くて、使いやすい。色紙形は、井泉水さんからわたしへ「フアンレター」代わりに「花・風」の二大字を揮毫して送ってきて下さったのに添えてあった。これは佳いと家で表具に出し軸装しておいたもの。わたしは気に入り気軽に愛用してきた。

* 結婚しようという頃、この池宮さんと姉の大谷良子さんにずいぶん力づけられた。そんなことも「年譜」を校正していて思い出した。二人ともわたしより四つから六っつほど年上で、良子さんの方が茶の湯、生け花の叔母の弟子だった。わたしと仲良しだった。この人もアメリカに渡って結婚し、惜しくももう亡くなっている。
お互いにもう少し長生きしなくてはならぬ、お大事にお元気でと、祈りながら池宮さんと別れてきた。

* 歌舞伎座前から三井ガーデンホテルまで歩いた。昨日ほどではないが汗ばんだ。三人で一時間半ほど歓談して別れてきた。お土産にブランデー「ヘネシー」や「ゴディバ」のチョコレート、それにティシャツを貰ってきた。
六本木まで車を拾い、どこへも寄らず地下鉄一本で練馬へ。駅構内のなじみの店ですこし早い夕食にし、その足で保谷へ帰宅。

* 茶道具は建日子にのこしても仕方がない。繪は建日子にも好みがあり、もう何点も、望まれては遣ってある。どう飾っているのか仕舞いこんでいるのか知らない。上村松篁の『雪』をいつも欲しがるが、これはまだ当分わたしのそばに掛けておきたい。
本は荷造りすれば送れるが、茶道具や額物はこわくて郵送しづらい。持ち歩くのもしんどい。茶の友は関西には何人かいて、東京ではめったに付き合いがない。売り買いしない。が、さてさし上げるとなると、茶の湯のほんとうに好きで分かっている人にと願う。かなり気がかりな「お荷物」になっている。
2009 4・12 91

* 精神の芯のところに、払いきれない疲れが残っている。振り払い振り払い、自身の仕事へ仕事へ舵を切ってゆく。生理年齢は紛れない七十三歳だが、そんなふうには生きていない、未熟にもせいぜい四十台ぐらいの、わるくするともっと若い感じ方で時間を咀嚼している気がする。元気だからではない、成熟できず追いつけていないのだ、わたしがわたしの実年齢に。そしてときどきふらーっと失神しそうに自分を見失いそうになる。やれやれ。

* となりの部屋で、根気よく、妻のピアノの音がしている。
2009 4・16 91

* 書庫へ入っていて、ふと『女人春秋』と外書きのある紙包みに目が留まった。何かなと紙包みを解いてみると、原田憲雄さんが中国の閨秀詩を選し、森田曠平画伯が繪を描かれた特製本で、二十五万円とある。森田さんに戴いたのであろう、こんな「お宝」がほとんど手つかずに棚の上で眠っていた。忘れていた。
また箱入りの美装、安田靱彦、小倉遊亀ほかの装画がみごとな新書版『谷崎潤一郎訳源氏物語全巻』が目についた。箱から出してみた第一巻の見返しには、見覚えの麗筆で谷崎松子夫人の署名があり、「秦朝日子様」と娘の宛名書きをして贈って下さっている。
書庫にはいろんな、わたしも忘れている佳い物が隠れているが、なかなかそこでゆっくりしていられない。。
2009 4・19 91

* いろんなことが起きるものだ。そういうものだと想えばいい。何も起きなかったらいい、とも言いにくいではないか。

* 風の強い一日だった。雲が厚く垂れていた。
2009 4・27 91

* たいへんな三月、四月だった。陳述書、自筆年譜など刊行、九九・百巻の入稿用意。とにかくも歩んでいる。
2009 4・30 91

* あまり好成績とはいえなかった。朝、食事前には90程度の低い血糖値が、たいして食べていないのに病院へ着くと高くなっている。血糖値は午前中に高く上がるそうだけれども。血圧も二度測って150と155。降圧剤を出そうかと。
六月か七月かに、わたしは法廷で原告娘夫妻の弁護士たちから、一時間ほど被告尋問をうけるらしい。そんな際に高血圧ではよくなかろう。はて、いま日本中で、娘夫妻に「被告席」へ呼び出され尋問を受ける父親というのは、何人ぐらいいるのだろう。なにをしても、わたしはいつも「超少数派」である。
二三日前にも、娘は、弁護士を通してわたしのホームページに残存している実名を「他」に替えよ、またはファイル自体を抹消せよ、しからずばサーバーをも容赦しないと。
ほとほと困惑したサーバーからの要請文書が「契約者」の息子の方へ届いていた。
その結果、短歌作品すら

「夕日子」の今さしいでて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風のすずしさ
(昭和三十*年七月二十七日夕日子誕生)

というぐあいになってくる。面妖な訴えで、娘夫婦はこれで果たして何が言えるのか。何が娘は言いたいのか。
両親の、我が子誕生と命名という比類無い「よろこび」まで「その子が親から奪い取る」こんなことが、娘の「人権」として執拗に言われる不思議を思う。町田市第二地区主任児童委員殿。これは親への「虐待」ではないのでしょうか。婿教授殿。ジャン・ジャック・ルソーはかかる「不自然」をも人間の「徳」としたのでしょうか。
2009 5・1 92

☆ お蕎麦屋   光琳
ご無沙汰致しております。お変わりございませんか。
5月になりました。
あっ! と言う間に、入学してから1か月が経ってしまいました。
毎日慣れない授業に付いて行くのがやっとの1か月でした。
それに加え自分の研究も少しずつ始め、校外での特別の勉強も始まり、アルバイトも隔週で始め、健康の為にウォーキングも始め・・・
通学の電車を一本にしぼり、最寄りから歩いて行く事にしました。所要時間は、電車通学時プラス10分位です。
4月という月に後押しされ、新しい事を沢山始め、慌ただしく動いていたら、もう5月。
しかし、ひとつ問題があります。校外での新授業の始まる時間に間に合わないのです! 紙の上の計算ではピッタリ着くハズなのですが、上手く行くはずなく、毎回遅刻してしまいます。少しでも取り返そうと、毎週走って移動しています。なのでその授業の*曜日は“スニーカーを履く日”と決めています。走る走る「光琳」です。

5月1日は、“カナダ研修”でお世話になったカナダ人の女の子マリーが日本に来ました。日本語を習い始めて今年で4年目。大学ではコミュニケーション学を専攻しているそうです。
そんな彼女の関心事は日本の漫画という事なので、先日は一緒に私も初めてのアキハバラへ行ってきました。
アキハバラは不思議な所です。あれほど多くの人が居るのに、みんなの関心事は人ではなく、機械と漫画。若い人たちが多いのに、エネルギッシュさが感じられない、そんな場所でした。
これが日本の全てと思われるのは悲しいので、その後はおじい様・おばあ様とご一緒した浅草を案内してきました。
屋台が出ている事もあって、すごい人の数でした。
前におじい様に教えて頂いた事を、受け売りの様にマリーに教えました。とても喜んでいましたが、マリーは漫画の方が好きな様でした。
そうそう先日、大学の図書館でおじい様にバッタリ出会いました。
授業で谷崎潤一郎について少し触れたので、図書館で本を検索したところ、なんと! おじい様の本を発見!! 他の課題があった為じっくり読む時間が取れませんでしたが、嬉しくて一日その本を持ち歩いていました。
大学受験の頃のおじい様のエピソードが書かれていました。
若い頃のおじい様に遭遇。
頑張ってね、と応援されている気がしてあたたかくて嬉しかったです。
そしてお蕎麦好きの私は、とうとう蕎麦打ちに手を染めました。
友人の父上が師匠です。始めてのお蕎麦、携帯で撮りました。板に付いている名前は、私の師匠が弟子入りしたお蕎麦道場の名前です。
私は、友人宅のリビングが道場になりました。お味見していただけなかったのですが、映像だけお送り致します。
その内、腕が上がったら出前に参ります。
明日また、スニーカーで走ります。走る日です。
お天気がぱっと致しませんが、憂鬱を吹き飛ばしてお身体ご自愛下さいませ。

* また逢いたくなったなあ。
2009 5・9 92

* 家から「ほり出す」という仕置きを何度もされた。戸にしがみついて泣き叫び、ご近所のだれかが、また家の中から叔母が口を利いてくれてやっと家に入れた。ながいこと泣きじゃくっていた。
夜具の押し入れに押し込まれることもあった。くらやみで泣いた。母はときどき、きゅうッとわたしの頬を抓(ひね)った。いーッと声が出て痛かった。だが父も母も手をあげて撲(ぶ)ったことはない。メンコやビー玉など子供には命がけの秘物をまんまと隠され、途方に暮れたことがときどき有った。
ごく小さくから、自分が「もらひ子」とは隣家の鈴ちゃんやよその小母さんらに囁かれ悟っていたが、「もらひ子」だから親が自分にきついとは、少しも思わなかった。たいていの場合自分の側に仕置きされたり罰されたりするうしろめたい理由がありそうだった。だから「かんにんや。もうせえへん、せえへん」と、四つ、五つ、六つ、七つのわたしはいつも泣き叫んだ。
したくない手伝いを強いられるなど、そんなことは「日常のあたりまえ」で、しくじれば容赦なく怒られた。叱言の上に抓られることもあった。だから「虐待されていた」など、夢にも想わない。そういうものだ、世界中の家庭で、たいがいそういうものだ。例外はどこにもあるが、子供は普通可愛がられていて、幾分親の勝手の捨て育ちであった。猫っ可愛いがりの方がはためにも不健康なものであった。

* 夏目漱石は、後に元へ帰ったものの、小さい頃親もとを出され、ある夫婦者の「もらひ子」にされていた。養父母は二言目には「おまえのほんとのお父っさんはだれだい」「おまえのほんとのおっ母さんはだれだい」と幼い者に自分たちを指ささせて際限なかったと、漱石は『道草』に書いている。
実の父も母も覚えず、わたしも四歳ころまで父方祖父の南山城の家にいて、そこから京都市東山区のラヂオ商秦家に「もらひ子」されていったが、誰からもそんないやらしい質問攻めに遭ったことはない。漱石は漱石ならではのあけすけな筆致で、むかし養父母だった「島田」と「お常」の因業なひととなりを、不快も不快なりに、幼少の記憶を反芻するようにいささは懐かしげにすら書き込んでいる。吝嗇を極めた養父母が幼い漱石(作中の健三)にだけは野放図に金をつかい、かえって漱石はつよい不信感を抱き我が儘や癇癪を募らせたと告白している。
漱石は、「もらひ子」に出されたことも元の家に取り戻された事実も、すこしも隠し立てしていない。屈託も斟酌もない。
漱石の例とはよほど事情も違ったけれど、わたしも、「もらひ子」の境涯を「恥ずかしい」と思った覚えは全然無く、意識していたのは、自分がこの家の「もらひ子」であると「知っている」のを、家の大人達、両親にも祖父や叔母にも、毛筋も知られまい気遣ったたこと。言い直せばわたしも、漱石が「おまえのほんとのお父っさんはだれだい」「おまえのほんとのおっ母さんはだれだい」としつこく問われるつど養父母の顔を指さしていたのと、ま、似た真似をしていたのだ。
秦の父は倹約で、無用な、身に過ぎた贅沢など爪の垢ほどもさせなかった。秦家の経済を考えればあたりまえだった。

* わたしは「もらひ子」で構わなかった。実の父も母もまるで記憶にないのだから、自分はじつは誰の子であってもいい「自由」を感じていた。妙な云い方をあえてするならわたしは育ての親や家族に、内心で「いばって」いたとさえ謂えた。

* 親が我が子のからだに痣の残るほど折檻したり、煙草の火を押しつけたり、寒い危険なベランダや熱暑のマイカーの中に放置したり、はては冷蔵庫に死骸にして隠したり、遺骸をバラして山野に捨てたり。
それこそ「虐待」以外のなにものでもない。そんな報道のあるつど心臓が痛いほど縮む。娘よ。父は、そんなこと決してしなかったぞ。
父であるわたしを、二十年ないし四十年もの久しい「虐待」の名において、現に東京地裁の被告席に立たせているわたしたちの娘は、いったいわたしから何をされたと告発しているのだろう。

* この頁の末尾に、わたしは娘の誕生より結婚後に到る各時代の写真をあえて掲示している。わたし自身のというより、むしろ主に妻の、娘の母の名誉を守ろうとしているのだが、それらの写真に、心身に刻印された「虐待の心の痣のあと」を看て取る誰一人もあるまいとわたしは確信している。
写真に写った娘のどの姿態や表情にもあらわれた、ごく自然な和やかな、あえて謂うが愛溢れた「親子・家族の歳月」から、どんな裁判に値する「虐待」が想像できるか、娘は、今以て何一つ法廷で立証出来ていない。母からも弟からも、むろん父であるわたしから見ても、そんな立証が出来るわけがない。どんなに愛されていたかの実例なら、たちどころに山のように具体的に積み上がる。
娘にあるのは、ただもう父を、母を、傷つけて裁判に勝ちたい、賠償金をとりたいという欲望か。
何で?
それが分からない。

* わたしは十二分に傷ついているし、母親も、同じ。ただ日々の不快を、気強く心をそろえて耐えているだけだが、もともと、わたしたちには、娘と争っている気が、その謂われが、何一つない。
娘は、成人前のやす香を「死なせた」哀しみと責任とに心を乱してしまったのだろう。事実それより以前に、わたしたち両親は、娘から只一度も喧嘩をふっかけられた事がない。虐待されたなどと露ばかりも言われたことがない。なにもかも、ぜんぶ、三年前の孫やす香癌死後に、唐突に持ち出されたことだ。
「孫の死を書いて実の娘に訴えられた」作家と、おもしろづくであったろう週刊誌は、娘の夫が「仮名」をつかってもちかけた話を書き立てた。その記事には、しかし、訴えたはずの娘が、顔も名前も、ただの一言すらも、出ていない。「週刊新潮」の「看板に偽り」と、気づく人はみな気づいたのである。わたし自身は記者と一度も逢ってもいない。

* ふつうなら大学教授で西欧のヒューマニズム哲学などを教えている娘の夫こそ、自分の妻に、実父を訴えるような真似はさせないものだが、自分もともに「原告」として名をならべ、舅のわたしを名誉毀損で訴えている。わたしがインターネット上で彼を論ったというのだが、そもそもなぜ論われたのかには全く反省が無い。そして週刊誌の取材に自分一人がうしろめたげに「仮名・高橋洋」で応じて、平然と真っ赤なウソを喋っていた。すべて娘の夫の「高橋洋」教授の独り芝居であった。
週刊誌記者氏の親切に伝えてくれた仮名「高橋洋」氏「六箇条の言葉通りの言い分」は、全て「湖の本エッセイ44」の「あとがき」で、詳細に反駁撃破されている。
「孫の死を書いて」とは、誰にも簡単に実物が此のホームページ上で読んでもらえる、「湖の本エッセイ39」の日記『かくのごとき、死』のことだ。孫やす香の白血病が「mixi」の日記で告知されたその日から、毎日毎日の日記としてこの「私語の刻」に公開されていた。

* ともあれ、そんなこんなのまま、孫の死からやがて三年、わたしは、その命日近い七月前後には、裁判所の被告席に呼び出されて直接尋問されるらしい。
金婚、湖の本の九八、九九、百巻。その間に被告席に立つ。今年はいろいろある年である。

* ところで、こういう事実をわたしがあけすけに、遠慮無く書くのは何故か。
これが、いま、わたしの一主題になってきている。
そもそもこういうことを書くのは「恥ずかしい」こと、「慎むべき」ことであるのか、そうならそれは何故なのか。恥ずかしいとは何か。慎むとは何か。「私小説」を書いてきた日本の作家達は、何をどう恥ずかしがり、どう慎み、それはぜひ必要なことであったのか、そうでなく、そのように恥ずかしがり隠し慎んでいた中に、なにかしら途方もなく大事な真実が文学的に漏れこぼれてしまっていたのか。

* わたしの小説は、創作は、このことで、これから大いに葛藤し展開する予定である。
とにかくもわたしは書き続ける、ぜひ書きたいことは、ぜひ書きたいように、書く。
2009 5・11 92

* ゆうべ、外は雨らしい玄関へ、妻と息子のうしろから、雨に髪の濡れたような背の高い朝日子が帰ってきた。迎えに出たわたしと顔が合うと、かすかに表情が揺れ、にっと笑った。それだけ。とくべつなにごともないいつもの親子四人だった。夢だ。
2009 5・17 92

* 黒いマゴの体調が良くない。外で烈しく揉み合ってきたか、風邪のようなものか、分からない。わたしたちと視線をヒタと合わせて何かしら訴えるようでも。
元気に回復して欲しい。すぐうしろのソフアに用意された柔らかい毛布とクッションへ来て、またとろとろと寝始めている。
2009 5・21 92

* 留守をしてくれた黒いマゴの容態はだいぶ改善していて、食べもし、ノドをグルグル鳴らすようになった。よかった。
2009 5・21 92

* 黒いマゴ、元気でない。オロオロ。
獣医の診察と治療を頼んで、少し生色をとりもどし、水も飲み、食べるものも少し食べて、排泄もできた。目の色にちからが出た
2009 5・22 92

* 今日、五月二十二日付け東京新聞「筆洗」に、こんな記事が出ていた。

* 「筆洗」の筆者がときおり覗く居酒屋の手水場の壁に、所狭しと人生訓や警句が掲げられ、中に、「子どもの我が侭に妥協していると、親も子も物事にけじめを失う」と。なるほどと相づちを打ちながら、ルソーの有名な教育論『エミール』にも、「子どもを不幸にするいちばん確実な方法はなにか…いつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ」とあったと、同じ「筆洗」筆者は引用している。わたしも『エミール』を読んでいる、エミール学者で知らた往年の早大文学部長押村襄教授の研究書も、熱心に併読しながら。
「筆洗」氏もルソーも、謂う所の「子ども」に、 もう「大人」である我が子まで含めているかどうかは問わないけれど、わたしは、病人なら知らず五体健康な「大人である子ども達」の「我が侭に妥協」などしないし、「なんでも手に入れられるようにしてやる」なんて真似は、むしろ努めてしなかった。『逆らひてこそ、父』と自覚し、その辺のけじめはきちっと結んできた。

* 漱石は、有名な講演『私の個人主義』のなかで、党派心なく理非を良く心得た自身の「個人主義」の人に知られない淋しさについて語っている。「個人主義は人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定めるのだから、或る場合にはたった一人ぼっちになって、淋しい心持がするのです。それはそのはずです。槇雑木(まきざっぽう)でも束になっていれば心丈夫ですから」と。
この最後の啖呵は皮肉も抜群だが、かなりの苦渋に染められている。こういう思いをわたしも、広い場所へ出れば出るほど、よくする。「槇雑木(まきざっぽう)でも束になっていれば心丈夫」とばかりの連中は、本当に、いる。いる。「公人」である個人がたんに当たり前に「批評」されているだけなのに、団体や組織が勝手な文句を付けて横車を押してくる。個人の漱石は、「日本と日本人」派の連中に、理不尽に「束になって」言いがかりを着けられ続けていた。
批評されれば、された当人が批評で反論すればいい。
いきなり裁判所へもちこむなど、短絡もいいところだと気づかないのだろうか。

* なんでもかんでも心ゆかないことが有れば、時間空間を溯って、人のセイにしたり、親のセイにしたり、あげく虐待されたなどと言い出すことで、自身の知性と正義を誇りにでもする「大人子ども」、多すぎないか。恥ずかしくないのだろうか。
2009 5・22 92

* 黒いマゴが着実に回復してきた。空腹なのか外へ出たいのか、家中をゆっくり廻遊するように歩いている。ときどき思いがけない高いところにも、ものの隅っこにもいる。
さっきは、妻の妹のつくって送ってくれた、ちっちゃい「やす香」人形に顔をよせて話していた。この「やす香」は、どのような狭い際どい場所にも、きちんと上体を起こし、かるがると腰掛けて、わたしたちを観ている。わたしたちも話しかける。
マゴはいま、機械の足下を探索している。元気になって、翠に溢れたなかへ出て行きたいのだ。
2009 5・23 92

* さて、わたしは、もう「西」でも「東」でも、外向きの立場や肩書はなげうってしまった。肩書に憑かれた「だれかサン」の足場は蹴っぽり、漱石の曰く束になった「槇雑木(まきざっぽう)」のみなさんとは、つれなく「さよなら」「さよなら」して行く。過去を隔て世間と隔てる関守石には、「湖の本百巻」をポン置いて、雑音の闖入をあっさり堰いておく。
視力をかばいかばい、好きな本を読み、好きな芝居や好きな美しいものを観て過ごしたい。日本中の久しい読者のみなさんと、のんびりした電話なんか楽しめないか。
但し例の無茶者たちは、まだまだカサにかかって無理難題を言い続けたいのだろうが、お気の毒だが、あの世までは追いかけて来れない。

* ただ、これは言っておく。

* もし、「公人」同士の節度のある議論・討論がしたいなら、ぜひ、わたしの生きている間に願う。
わたしが死んでしまったアトで、好き勝手をどう立派そうに言っても書いても、それは「卑怯千万の手遅れ」だということ。
ものを言う気なら、わたしが元気な内にどうぞ。
「場所」が必要なら、わたしのホームページ上に「フェアな場」を作ることも出来る。お互いのブログに、双方同文同内容を同時掲載し、本当に公開し、いよいよ始まった世の「裁判員」諸氏の批判を乞うてもよい。「あと出しジャンケン」は断然無効だよとだけ言うておく。
ま、できれば綺麗に終熄し、以降「徹底無縁の没交渉」をわたしたち家族は願っている。賢明というものだろう。
2009 5・24 92

* 菩提寺の前住職が逝去された。わたしと同年であった。ひさしくお世話になってきた、哀悼に堪えない。南無阿弥陀仏。
2009 5・25 92

☆ 宇治五月   藤
秦恒平様 いつもホームページを拝見しています。
先週(関西のインフルエンザ騒動直前に)京都に行って参りました。新緑の京都に惹かれて、名目はお墓参りにと次男を伴って出かけました。いつものような日帰りでなく、たまにはゆっくりしよう、宿は宇治の「はなやしき」と決めて。
京都に着くとまず東大谷墓地へ直行するのはいつもどおり、墓参りの後は祇園社には参らず、はしっこを通り抜けるのは祖母の言いつけどおりに、四条通りに出て四条京阪(最近は祇園四条駅というらしい)から電車に。
宇治線は中書島での折り返しなので、まずは立派な特急電車に乗りました。五条も東福寺も稲荷も深草も墨染も飛び越し、小学校に通った丹波橋には止まったけれど、あっという間に中書島。
そこで乗り換え、観月橋はまるで地形が変わったかのように道路が宇治川の上に交錯し、六地蔵は「ええ、ここがあの六地蔵?」という繁華な街に変貌、黄檗、木幡と、ぐんと減ってしまったが茶畑などあって終点の近代的な宇治駅着。
でも宇治橋からの眺めは変わらず川水はたっぷりと流れていて満足。
川沿いを平等院の正門前を通り過ぎて、とにかく宿に入りました。この宿は大学の一泊クラス会に何度か使ったので馴染みがあり、
とりわけ私は部屋から遮る物なく川と対岸の朝日山が見えるのが気に入っています。小さな発電所からの排水が元気良く合流する地点の、脇に立つ楠大木の、たっぷりとした黄緑色に
「ああ、私はこれが見たかったのだわ」と。
夕方の平等院や宇治上神社も、宿のお料理も全て大満足の楽しい旅でした。

それにしても何故五月の宇治に私はこだわったのか。
やっぱり大学最初の一年を宇治黄檗の校舎で過ごしたから—-とりわけ入学して直ぐの五月の宇治は、鬱陶しい受験から解放されて、合格した成就感、開放感、明るい新緑、自分に注がれる沢山の若い男の子の眼差し、どれもこれも新鮮で、わくわくと楽しかった、人生最高の五月だったから。
帰途もガラガラの宇治電(京阪宇治線をそう言っていた)から、黄檗の粗末な校舎のあったあたり(今は立派な研究施設に建て変わっている)を首をねじって眺めるのでした。

帰ってから本屋で、ご子息秦建日子さんの文庫新著『SOKKI!』を購入しました。
私の手伝っている親の会の事務所が数年前早稲田に引越したので、以来月に2、3度は地下鉄早稲田で降り、穴八幡のある交差点から文学部の前を入試に始まり卒業式、入学式、新学年、早慶戦と大学の暦を感じながら通っています。
そんなわけで少しは土地勘もあるので、楽しく読ませていただいています。
誰にもある若かった日々の甘くてほろ苦い思い出、人生に役にたたないものは果たして本当に役にたたないのか? というテーマ
いいですねえ—–私は役に立たないものって大好きです。
建日子さんにもよろしくお伝え下さいませ。  2009/5/25

* わたしは、この前、宇治を割愛し、日野から黄檗へ、普茶料理を食べに行ってきた。同じ世代に、同じ京都を観ていた。京都は懐かしいが、足下に竪掘りしているような「深い闇の静寂」はもうすこし別の心から、懐かしい。
息子の『SOKKI!』は、彼の小説本のなかで、いまぶん、わたしが一等買っている一冊で。ありがとう。
2009 5・25 92

* うまい昼食をして、帰宅。
さて、少し自転車で走ろうかと思ったが、段取り悪く、愚図ついて。
運動は諦め、目の前の仕事に踏み込んでいた。
食事していた頃、堪らなく憂鬱の塊が胸に溜まっていた。東京という街に暮らすのが限りなく不愉快に感じられたが、では京都か。
そうでもない。分かりよく謂うとこれは漱石病のようなものか。昨日たまたまテレビを触っている内に偶然にわたしの脚色したNHK劇場の漱石原作、俳優座公演の『心 わが愛』をひらいてしまい、そのまま第一幕を観てしまった、あれが響いたか。人が信じられないだけでなく自分で自分も信じられないと呻く「先生」、静かな心がどうしても持てないと杖を地に突き立てて呻く「先生」が気の毒になって、その気分が乗り移ってきた。
『行人』で一郎を狂わせ『心』で先生を自殺させた漱石。だが漱石自身は、狂ってはいたが自殺はしなかった。
* 自殺した江藤淳は漱石論でデビューし、漱石の『心』を愛読したと言っていた。そして自殺した。
『心』の「奥さん」は「私」にむかい、もし自分が先に死んでしまったら「先生」はきっと悲しむでしょう、生きていられないかも知れませんよと話していた。江藤淳は夫人に死なれて後を追うように自殺した。わたしは烈しいショックを受けた。三ヶ月ほど後、わたしはまた、実兄に自殺された。「悲哀の仕事」としてわたしは『死から死へ』を編んだ。その一部を今度の本でも、あえて繰り返しとりこんでいる。

* さ、さらりと忘れよう。
2009 5・26 92

* 途方もないことが起きている。
2009 5・27 92

* 昨日はとても生き苦しいイヤな一日だった。濃い冷たい狭霧が濛々とからだを取り包んできて逃げ場がなかった。寝るのもいやで、見さしていた映画「ダヴィンチコード」を見ながら測ると、血糖値が83と異様に低くなっていた。
2009 5・28 92

* 自分のことは自分が「書いて」始末を付けるということ。
短歌も小説もエッセイ・評論も、全ての日録も、メールも手紙も、わたしの「書いた」全部がわたしの「遺書」であるということ。
文字に書かれていない噂に属するようなことに、死後、わたしは一切責任をもたない。裁きたい人は「書いた」ものの「真実」により裁くがいい。
2009 5・28 92

* 東京會舘の画廊で、とても気に入っていたアイズビリの「裸婦Ⅶ」20号が、まだ残っているかと先日聴いてみたが、売れてしまっていた。ときどき此処に気に入ったものが出る。
関心のアイズビリは案内葉書の中に入っていた小さいものだったが、すばらしい線が綺麗に出ていて、捨てがたく、切り出して目の前に立ててある。機械にも大きめに取り込んであり、疲れると目をやっている。
昨日機械に取り込んだ「十六」も大の気に入り。ちょっと公開が惜しくもう引っ込めた。
出会った美術作品が、幸いに撮影できまた気に入ると写真を保存している。ずいぶん、増えている。いろいろに分類してあり、疲れるとスライドショウを楽しんでいる。「黒いマゴたち」も「木の花・草花・家の花」も「さまざまな外出」も。
ライカマウントのニッカカメラに執着し、叔母の茶室での手伝いを条件に当時五万円あまりのを買ったのが大学に入った頃で。
先日来も昔からの大きい分厚い重いアルバムをみていると、数十冊も有る。有るのは分かっていたが、再確認。
昔から写真は大きく焼いた。つまり、ちょっとした自慢ぎみだった。黒白のよく撮れた写真がいまも好き。しかしみな片づけておいてやらないと、建日子は処分に音をあげるだろう。全部機械に入れて仕舞いたいが。
2009 5・29 92

* 印刷所の連絡を聴き、一息入れる気で黒いマゴを専用の籠にいれ、一緒に新座清瀬方面を電動で走ってきた。はじめのうち啼いたが、暫くして静かになり、あとは呼ぶと返辞し、呼ばれて返辞してやると啼き止み、少し慣れたろうか。
ま、かなり振動し続けで、さぞ疲れたであろう。わたしもいま小一時間、機械の前でうたた寝していたようだ。
2009 6・1 93

* 父存命の頃の樋口一葉の家族は、一族ないし縁戚郷友の「芯の位置」にいて、東京へ出てきてもみなが或る程度の近い範囲にまとまり暮らしていたのが知られている。他国から東京に移住してきた人たちは、およそ似た感覚で親戚知友との相互扶助を頼み、その芯にあたる存在に、心理的にも生活面でも依拠していた。
ながく江戸から東京への変移を経てきた人たちにも、親類縁者はある範囲内にかたまっていて、なにかというと互いに厄介になりあっていた。「親類づきあい」という一語にはそれらの「全部」が含まれていた。

* わたしの妻にはいとこが二十人いると聞いた。義縁を尋ねればひょっとして此のわたしには、二十人の二倍三倍あるかも知れない、が、殆ど何も誰も知らない。
秦の母に姪がいてその一人とは今もメールで話せる。他に何十人いても、すべて識らない。
父方にいとこは一人もいない。一人の叔母は独身の生涯だった。
吉岡の実父には八、九人もきょうだいがあった。いとこは何十人もいるだろうが、交際のあるのは三人か四人。みな、湖の本を支えてくれている。南山城加茂の従弟とは「mixi」のマイミクでもある。
秦の家で私が親類と覚え往来もしたのは、母長兄の家族だけで、他にどんな親類縁者があったかほぼ全然知らぬまま済んだ。
わたし自身の血縁を識ったのは、実兄や継妹とさえわたしが五十になろうとする頃だった。「親類づきあい」なるものをわたしは結婚して妻の縁戚を知るまで持ったことがなかった。結婚当時妻には、すでに両親がなかった。
わたしは、「相互扶助の機構」としての「親類」を持たず知らないことを、かなり大事な自身の利点と考えていた。自分たちの力と努力とだけで生きることが出来るという利点だ。そのとき、自分たちの力と努力と「だけでしか生きられない」のだとは考えなかったのである。それを、天来天恵の「自由」、心細くはあっても、寒しくはあってもそれこそ「自由」と受け取ってきた。それがわたしの「思想」となった。だから「自立」できるし、そう在りたいと頑張った。頑張れた。

* こういう父親をもったこと自体、一族親族主義の家と夫の「嫁」になって行った娘には、「被虐」に等しいことだったか。わたしは、どうやら「そうか」と、理解しかけている。自由とか自立とかを有り難いと感じ力を尽くすよりも、親を頼む、親類を頼む方が自然で当然という「常識」の世界。娘らには不幸にも、わたしはそういう常識を生まれつき捨てていた。

* 漱石の『道草』を読んできて、もし漱石が不本意に一方的に姻戚の被害に遭っているとばかり読んでは、偏っている。
漱石の家庭もまた妻の実家や親類や、また親しい知友との深刻な経済的かかわりなしには存立も危うかった時期がある。
しかし漱石は、「親族が助けてくれて当然」とは考えていなかったし、じつは「助けるのが当然」とも決して考えてはいなかったのである。もっと別の個人主義者、インデペンダーとしての「常識」を持っていた。「いま・ここ」の仕事に誠実だった。
いざという時に「金」が人間をわるくする。『心』の「先生」はそう「私」に教えた。
漱石は「金」の思想家であった、金色夜叉の紅葉山人よりも徹底して。そしてゆらゆらと金で苦悩し動揺し、それを超えていったあとでも「心」にふりまわされて、生涯「静かな心」を求めつつ得られずに死んでいった。
2009 6・8 93

* 二階の廊下、外向きの窓の下に、文庫本専用の低い本棚が三つほど並んでいて、その前に座り込むと、宝物を見ているように、とりこまれてしまう。これは貴重と目をつけると、「ド古本」でも、今すぐ読まなくても、昔からの文庫本を多年買い溜めてきた。ウワッと呻くほど珍しいモノも有る。但しどの本も傷んでボロボロにちかい。行きがかり、黒いマゴが爪を磨いたり、ときにはオシッコをひっかけている気配もあり。
ま、いいか、と。それも我が家よ。
2009 6・9 93

* 「私怨」という言葉に、わたしは少年時代から一種のセンスを持っていた。それは漱石の『こころ』から得たセンスだろうと思っている。
この作の「先生」は、いざというとき人間を悪人にするのは「金」だと「私」に言い、その根の思いや哀しみを、また深い怨みを、わが父の遺産を恣まに蕩尽していた叔父に向けていた。けっして、その「怨みは忘れないのです」と言い切っていた。
この作の「先生」という人は、漱石が書く男達の通弊かのように読まれている或る種ウジウジした男の一人であるが、(それには気の毒に「漱石の病気」が必ずや関与していたであろう。)他の点はとにかくも、「怨み」は決して忘れないと言い切る先生を、わたしは必ずしも指弾しなかった。それでいい、そうあっていい、毅い、と思っていた。

* 文学や藝術の根底には、よく謂う愛や哀しみより、もっと濃密に「私怨」が秘められているとしても当然だろうと、わたしは容認している。いうまでもない『オデュッセイ』や『古事記』より以降、「怨み」は創造のつよい根の力だった。オデュッセイの名じたいが「怨み」の意義を体していると謂われている。『嵐が丘』も『モンテクリスト伯』もしかり、『源氏物語』ですらしかり、洋の東西の名作力作の多くがあらわに底に「私怨」をエネルギーにしている。但し、生きる力になるほどの「私怨」には、他者を納得させるだけの根拠がある。理由がある。

* 夜前わたしは、漱石の『道草』を、感銘に包まれついに読了した。あえて新聞小説を日々読むように、百日ちかくもかけ丁寧に読んできて、ゆうべは最後の数回分を一気に読み上げた。
新聞紙上でいえばその連載百回めで、妻の「住」に向けたこんな「健三=漱石」の述懐を聴いた。
「執念深からうが、男らしくなからうが、事実は事実だよ。よし事実に棒を引いたつて、感情を打ち殺す訳には行かないからね。其時の感情はまだ生きてゐるんだ。生きて今でも何処かで働いてゐるんだ。己が殺しても天が復活させるから何にもならない」
漱石自身に抜きがたく実在したこの述懐が、どんな具体的な事実に根ざしていたか、『道草』は同じ場所で明かしているし、その事実であったことは漱石の日記も夫人の『漱石の思ひ出』も証言している。
『道草』のその箇所を引いておく。

健三は比田(=姉婿)に就いて不愉快な昔迄思ひ出させられた。
それは彼の二番目の兄が病死する前後の事であつた。病人は平生から自分の持つてゐる両蓋の銀側時計を弟の健三に見せて、「是を今に御前に遣らう」と殆んど口癖のやうに云つてゐた。時計を所有した経験のない若い健三は、欲しくて堪らない其装飾品が、何時になつたら自分の帯に巻き付けられるのだらうかと想像して、暗に未来の得意を予算(=難漢字。意を踏む)に組み込みながら、
病人が死んだ時、彼の細君は夫の言葉を尊重して、その時計を健三に遣るとみんなの前で明言した。一つは亡くなつた人の記念とも見るべき此品物は、不幸にして質に入れてあつた。無論健三にはそれを受出す力がなかつた。彼は義姉から所有権丈を譲り渡されたと同様で、肝心の時計には手も触れる事が出来ずに幾日かを過ごした。
或日皆なが一つ所に落合つた。すると其席上で此田が問題の時計を懐中から出した。時計は見違へる様に磨かれて光つてゐた。新らしい紐に珊瑚樹の珠が装飾として付け加へられた。彼はそれを勿体らしく兄(=亡くなった兄の下の兄)の前に置いた。
「それでは是は貴方に上げる事にしますから」
傍にゐた姉(=比田の妻か)も殆んど此田と同じやうな口上を述べた。
「どうも色々御手数を掛けまして、有難う。ぢや頂戴します」
兄は禮を云つてそれを受取つた。
健三は黙つて三人の様子を見てゐた。三人は殆んど彼の某所にゐる事さへ眼中に置いてゐなかつた。仕舞迄一言も発しなかつた彼は、腹の中で甚しい侮辱を受けたやうな心持がした。然し彼等は平気であつた。彼等の仕打を仇敵の如く憎んだ健三も、何故彼等がそんな面中(つらあて)がましい事をしたのか、何うしても考へ出せなかつた。
彼は自分の権利も主張しなかつた。又説明も求めなかつた。たゞ無言のうちに愛想を尽かした。さうして親身の兄や姉に対して愛想を尽かす事が、彼等に取つて一番非道い刑罰に違なからうと判断した。
「そんな事をまだ覚えてゐらつしやるんですか。貴夫も随分執念深いわね。御兄いさんが御聴きになつたら嘸御驚ろきなさるでせう」
細君は健三の顔を見て暗に其気色を伺つた。健三はちつとも動かなかった。
「執念深からうが、男らしくなからうが、事実は事実だよ。よし事実に棒を引いたつて、感情を打ち殺す訳には行かないからね。其時の感情はまだ生きてゐるんだ。生きて今でも何処かで働いてゐるんだ。己が殺しても天が復活させるから何にもならない」

* 思想でも主張でもない、まさに作中人物「健三」の、そして作者「漱石」自身の紛れない「私怨」である。漱石は少なくも家族や親族に対するこれら「私怨」を、ほかにも、海綿が吸った水のように五体にいやほど含んでいた。それにエネルギーを得て、「心」も「道草」も書いた。他の作品にも大小と無くしみこんでいる。
彼漱石の創作が深く広く支持されてきた理由の一つは、読者たちもまたそういう「私怨」を、当然の根拠もあって大事に身に抱き込んでいるということかも知れぬ。しかし繰り返して云うが、その根拠が、『道草』のこの箇所で謂われている「血縁親族の態度」や「奪われた時計」のような「物証」で理由づけられていなければ、ただの軽薄な虚言になる。

* わたしほど執念深くない妻でも、娘婿から、汚らしい言葉で罵詈讒謗の手紙が連発されてきたあの時の「不快と憤慨」とは「どうしても忘れられない」と云う。
一つには、それがあまりに突然に勃発したからであり、現にその前日にも娘婿は我が家、で妻の口から「生活は大丈夫ですか」と案じられていた。婿の返辞は、「ご心配なく、大丈夫です」であった。
それ以前から、何の問題もない両家親密な交渉などは、例えばその少し前まで彼等がパリに留学していた頃の、手紙やはがきの文面がじつに和やかに示している。このファイルの裾に示した、家族和気藹々の写真にも明らかに見てとれる。

* 一つ譲って、仮にこの漱石・健三の立場に、われわれの娘婿を置いてみても、ここに書かれた「陰湿な時計事件」の如きは絶無であって、恨まれる筋は何もなかった。有ったとすれば、「学者婿を娘の夫」にした以上は、生活費や住居で支援するのが嫁の実家として「常識」だと言い募る、不思議極まる「非常識」以外に、何も思い当たらない。だがそれを云うなら、「若い健康な学生身分」で何を云うか、こちらには九十の坂に喘ぐ義理有る三人の親や叔母を抱えている、「非常識はどちらか」と答えるだろう。
そのわれわれの「怒り」は、もとより家族・親族内でのことゆえ、つまり「私怨」である。こういう「私怨」をわたしは縁のものと受け取り、「健三」の断乎たる言葉通りに、忘れない。不自然に圧殺はしない。してもならないと思っている。わたしが漱石を敬愛する所以でもある。
2009 6・10 93

* 晩九時過ぎて「お茶をのみに」建日子が帰ってきた。三時間ほど元気に話していった。いろいろ仕事も苦しいだろうが元気が何よりの力になる。わたしたちの力にもなる。
2009 6・11 93

* 急に印鑑証明を受けに市役所に走ったり、あれこれに追われてどこへも出られなかった。それなりに用は少し片づいたけれど。
2009 6・12 93

* 堀切菖蒲園の記事を朝刊で見て、懐かしかった。高速道路が目に入ったりして殺風景にも迫られながら、とりどりの菖蒲は美しくて、妻と、見飽きなかった。駅近くの中華料理もよかった。その足で柴又へ行った。平成十八年六月五日だった。

あの日は、まだ。
わずか後、六月二十二日に、十九の孫・やす香の「白血病」が、「mixi」で広く告知された。仰天した。この日から、やす香を歎き悲しむ『かくのごとき、死』(湖の本エッセイ39)の「呻く日々」が始まった。
あれから三年経って。
いま、わたしは上記の著書ゆえに、娘夫妻(やす香の両親)から名誉毀損訴訟の被告席に立っている。父の書いたことが、両親の生活に具体的損害を与えたから千数百万円を二人に対し弁償せよと云う。
その、六月二十二日から、やす香死四日後の七月末日に到るわたしの日々の日記記事を読んでもらいたい。大学教授であり自治体の主任児童委員である夫妻の「曰く」は、理解に窮する。訴えるぞと威してきた三年前の八月このかた、夫妻の云うことは、くるくるくると余りにめまぐるしく変わっている。

2009 6・13 93

* 毎朝起きて一番に、父と母と叔母との位牌に向かい暫く故人と対話する。そして妻や建日子や、また娘や孫娘たち母子や、黒いマゴの平安を願い、わたし自身には「気力あれ」と自身の上に願う。
それでもこの六月八日、日記を書きながらもその日が、何十年も前、娘の華燭の日であったことを全く失念していたのを、いま、気が付いた。
2009 6・15 93

* 朗報というより、「当然」と謂うべきだろう、先週末の法廷判断は、「原告★★夫妻」の訴状等をあらためて精読したものの、要するに、「何が名誉毀損なのか」、「何が著作権侵害なのか」、「何故こういう賠償金の請求であるのか」、さっぱり分からない、と。
次回法廷は九月と。原告は要点をもっと具体的にしてくるように、と。わたしへの直接尋問など、数ヶ月単位の先のハナシと。

* この三年ちかく、娘夫妻の言うことは、まこと、「目が回りそうに」次から次へ変わってきた。かつ賠償請求は、事実、千四百万円ほどが明記されている。
「理解に苦しむ、分からない」とわたしがボヤイてきたのと、同じ「難色」を、法廷が、また呈したということか。
去年彼等が「本訴」に持ち込んだときも、裁判所は、「原告訴状の意味がよく分からない」と、受理を一ヶ月ほども引き延ばし書き直しを命じていたが、同じ繰り返し、要するに「言い分意味不明」と、また法廷が首をかしげた、かしげてくれた、らしい。
そういう報告が届いた。わたしへの指示や注文はなかった。

* 誰が口を開いても、「なんでそれが裁判になるのですか」と惘れられてきたが…。
逆にわたしのホームページへの「執拗な壊滅工作」など、「威力業務妨害じゃないですか」とも。
ま、それはそれ。しっかり腹をくくって、根気よく徹底的に対応したい。わたしの立場からは、それしかない。
2009 6・15 93

☆ モゥ,あんたたちみんな,死ンじゃッて,いいからッ!  麗 札幌
先月,遠来の客人を迎えた。
米寿になりなんとしているそのご婦人は,病床にある弟を見舞いに,還暦過ぎの息子に付き添われてきた。息子は,母を迎えに新幹線で実家まで出向き,二人ではるばる来道したのだった。
対面はつつがなく終わり,その後の会食に付き合った。婦人のほうはいたって元気で,牛肉のポアレがメインのフルコースを,難なく平らげていた。
久々の対面に話は尽きず,いつしか,彼女の亡き夫のことに話題が移った。
「酒で死んじゃったような人」と,彼女が語るその夫は,職業がらなのか癇癪持ちで,そのときの家族の対応は,
妻:無視
娘:背を向け壁に向かってひたすら読書
息子:ふらりと表へ
だったそうだ。
聞くままに,壇ふみや阿川佐和子を思い出した。あの二人も,似たような父の性癖に悩まされ,「同病相哀れむ」で,初対面から意気投合したという。
また,これも職業がらか,「無頼の徒」めいた人々も,よく出入りしていた,という。
鯨飲や高歌放吟というお定まりの騒ぎの中で,彼女は密かに願っていたそうな。
「モゥ,あんたたちみんな,死ンじゃッて,いいからッ!」
次のセリフがふるっていた。
「そうしたらね,思った通りの順番で,みーんな死んじゃったの。」
これを,あくまでも穏やかに,莞爾として語るのである。
ところで,全くの偶然だが,私のマイミクさんの一人が,その夫の「後輩」に当たる。別れ際に,彼女に確かめてみたところ,
「お会いしたことはないかもしれないが,夫とお付き合いがあったことは知っている。」
という答えが返ってきた。ついでに,
「貴方には何も言うことはないが,強いて言えば,もっと銀座へ出ていらっしゃい。」なることばをかけてもらった,ということも,よせばいいのに言ってしまった。
「まッたく,下らないことを言って・・・。」
と,苦笑していた。おまけのつもりで,
「では,ご生前はさぞかし・・・。」
と尋ねると,
「えェ,まァ,ねェ・・・。」
と,苦り切っていた。
翌日,彼女と息子は帰京した。息子の方は,地方の任地にとんぼ返り。今度会えるのはいつか,などと野暮なことは,考えないことに,しよう。

* 懐かしいお人の笑顔が、目の前によみがえる。この人、和田芳恵と連名で、わたしを文藝家協会会員に推薦してくれた。巌谷大四さんと仲良しで、京都で何か会のあったときこの二人に京都の案内を頼まれ、泉涌寺や東福寺や智積院、法住寺界隈を歩いた。
東京へ帰ってから、お礼にと二人に招かれ銀座松屋裏の「はち巻岡田」でご馳走になった。
この人は、中国に招かれても、中国の批判さるべきはキチンと批判し非難すらされていた。井上靖さんらは閉口されていたようだが、そういうシマリのよさに魅力横溢の逸人だった。
この人とご縁の深かった出版社で、いまわたしの息子がお世話になりベストセラーを出している。
2009 6・16 93

☆ ハーイ  光琳
アジサイの色も濃くなり、あっと言う間に梅雨になってしまいました。
お二人からメールを頂戴し、とても嬉しいです。
たった今、映画学校の課題を終え、パソコンから送信したばかりです。
怪談デートのお誘い、ありがとうございます。
またお目にかかれる事、しかも一度は行ってみたかった歌舞伎座なんて…素敵です!
喜んでまた駆けつけます。
ちなみに、夏休みの予定は真白です。
海外には行けません。貯金を学校につぎ込みました。
先週、時間を見つけて北鎌倉へ行ってきました。
アジサイ…もちろん! でも、メインは大好きな小津安二郎を訪ねるプチ遠足でした。
まず初めは円覚寺の小津のお墓にご挨拶。
行ってビックリ! 木下恵介のお墓が一つ置いて隣に座っていました!
まるで元気だった頃の二人の様です。
松竹の監督会の際には、小津はいつも木下恵介を隣に座らせていたそうです。
やっぱり!と思いました。
次は浄智寺、生前の小津安二郎宅探しです。
浄智寺脇の山道を少し登り、手掛かりが見つからず諦めて降り始めた時、“小倉”という表札の門を発見!
小津宅隣の小倉遊亀宅だ!と興奮!!!
有名な入口になるトンネルは私有地の為、そこまで。
小津安二郎が亡くなり棺が帰宅した際、冠婚葬祭が嫌いだった里見とんが一人たたずんでいたあのトンネル。
目の前にしながら、やっぱり私有地を犯すのは無礼と、諦めました。
しかし、小津が通った道、坂からの景色は小津の構図でした。
その後、坂を下りた所に古い円柱型の郵便ポストを発見!
絶対小津も触ったであろうと思い、すかさずなでなでなでなで。
締めくくりはアジサイ寺で有名な明月院。
まだその日は色が浅く、明月院ブルーには早過ぎましたが、圧倒的な数でアジサイに埋もれてきました。
あとは毎日学校です。
ざっとこんな日々です。
まーごちゃん、少し回復なさったようで安心致しました。
ご無理せず、優しく優しく。
課題提出の後なのでエネルギーが切れてきたようです。
お伝えしたい事一杯イッパイあります!
お目に掛った時に沢山お話聞いて下さいませ!
お目に掛れるの、楽しみにしております。
これからパッとしないお天気が続きますが、どうぞお身体ご自愛下さいませ。
では、お休みなさい☆

* グンと、筆致に成人ぶりがにじんで来て。勉強が生き生きしてきたのだなと嬉しい。頼もしい。
2009 6・17 93

☆ 建日子です。
父の日ですね。
おめでとうございます。
お体ご自愛を。
近々、また保谷に遊びに行きます。
あ。
あと、秋の舞台ですが、新作にチャレンジすることにしました。

* 最後の一行、嬉しいプレゼントと受け取っておく。

* 子ども達に代わって、わたしからブレゼントするわと、妻が特製の銀バックルのイニシャル入りのベルトを、黒と茶と二本贈ってくれた。ありがとう。なにしろどのベルトも短くなっていた、ハハハ。
それにしても父の日とは「めでたい」ものなのかね。正月ではなし、誕生日でもなし、わたしにとって桜桃忌と謂った日でもないし。
2009 6・21 93

* 三年前の今日の朝、十九歳やす香の名で「mixi」日記は、あろうことか、やす香自身の「白血病」を、二百人前後のマイミク向けに「公表」した。

☆ 2006年6月22日05:04思香(=やす香)みんなへ

長いこと更新しなかったことで
心配してくれた人ありがとう。

人生が逆転したかのような
この一週間。
ここに書き記すことをずっと迷っていたけれど、
やはり自分の記録として
今まで日記を残してきたこのmixiに
書き残そうと決意しました。

「白血病」
これが私の病名です。

今日以降の日記は
微力ながら
私の闘病記録になります。
必ずしも読んでいて
気分のよいものではないと思うので
読む読まないは皆様の判断にお任せします。

コメント等
返信遅くなってしまうかもしれませんが
力の限り努力するのでよろしくお願いします。     2006.6.22

* やす香とマイミクであった祖父の私は、あたりまえのようにこれをやす香当人の文章でありコメントであると疑わずに読んで、仰天した。
だが、診断を聞いたやす香の動顛と慟哭とはたいへんなものだったと母親自身が書いて話していた。
上の平静そのものの文章は、そんな烈しい動揺からたちまち回復してやす香自身に書けたものだろうか。書けたのなら、たいしたものだ。書けはしなかったとしたら、誰かの代筆と謂うことになる。どういう「意図」であったのだろう。
もっとも、この公開がなかったら、わたしたち祖父母は何も知らずにおれてよかったか。いいや。いいや。

* すべて、この三年前の今日から、暗くなった。いまも暗い。いまも悲しいし、いまもつらい。

* 曇りがちな心を晴らそう、会津八一の歴史的な歌集『南京新唱』をわたしの「e-文藝館=湖(umi)」から推奨作に挙げる。
明治四十一年八月より大正十三年に至る作をおさめてあり、先ず「南京・なんきやう。ここにては奈良を指していへり。『南都』といふに等し。これに対して京都を『北京』といふこと行はれたり。鹿持雅澄(カモチマサズミ)の『南京遺響』佐佐木信綱氏の『南京遺文』などいふ書あり。みな奈良を意味せり。ともに『ナンキン』とは読むべきにあらず。」と注している。
この歌集は、この注同様、どの歌にも丁寧な注が添えてあり、ひとつには和歌の理解に、しかしそのさらに奥に「南京」の歴史や美への八一の深い理解がこめられていて、さながらの講話を成している。奈良・ヤマトへの旅を想う人への、恰好の案内をも成している。
2009 6・22 93

* さて、腹をくくって、とりあえずは目の前の通算「第百巻」を、落ち着いて発送しよう、慌てまい。
幸せなことに、法廷からわたしへの宿題が今は何もなく、このまま九月半ばまで忘れていられるのが有り難い。
今日妻と歩いてきた両国、柳橋、浅草橋あたりの風情を、もっと足まめにひとりで楽しみたいもの。
2009 6・25 93

* 七月になった。愛しい孫娘を、こともあろうに娘の誕生日に肉腫で死なせてしまった三年前の「七月」から、まだまだ、わたしたち一家は「自由」が得られない。自分のカレンダーからは、「七月」という一ヶ月を割愛してしまいたいほどだ。
2009 7・1 64

☆ こんばんは、 「琳」です。
記念すべき百巻、頂戴致しました。
ありがとうございます。
おめでとうございます、と言うよりも私にとっては感謝のありがとうございます、です。
この素晴しい同じ時間を共有する事が出来た事に、ひたすら感謝です。
おじい様から大きな勇気を頂戴しています。
おばあ様の陰の大きな力を強く感じます。
すてきです!!!
すてきなご夫妻です。
私の理想です。
昨日は七夕様でした。
今頃天の川を超えて、やす香のもとにも百巻が届いている事でしょう。
ささのはさ~らさら~・・・二番が思い出せません。
今度教えて下さい。
不愉快な気候が続きますが、どうぞお身体ご自愛下さいませ。

* 五色の短冊 わたしが書いた
お星様きらきら 空から見てる だったかな
2009 7・8 94

* こんな交信をしていたらしい。

☆ 天の川  琳さん  7月のばあば
天の川を 越えてやす香のケイタイに 文月の文を書きおくらばや 湖
たちまち胸がぎゅ!!となり・・・
秦(=おじいやん)はさらさらと 苦もなくこう歌に出来・・
それはとても羨ましい。 嫉妬にちかい気持ちです。

 

平成十七年一月二十二日 新宿小田急で買い物

☆ 胸ギュ!!!  琳
こんばんは。
天の川を 越ゑてやす香のケイタイに 文月の文を書きおくらばや
私もおばあ様と同じ、胸ギュ!!!です。
おじい様の歌はやす香へのラブレターみたいです。
おじい様は溢れる想いを言葉に託す達人です。
今回は私たち、分が悪いです。
想いを言葉で表すのがもどかしい時でも、おばあ様には優しい涙があります。
天の川を伝っておばあ様の優しい涙はやす香に届いています。
天の川は、いっぱいの涙で出来ているのかもしれません。
やす香には流れてくるおばあ様の優しい涙が直ぐに分かることでしょう。
きっとあの白く長い指でおばあ様の涙の雫を上手にすくい取り、頬寄せているのかもしれません。
悲しいのではなく、おばあ様の涙で温かさに包まれているのだと思います。
だって、やす香はおじい様とおばあ様に愛された、温かい想い出を持っているから。
やす香がおじい様おばあ様を訪ね、本当に幸せだったこと、私はちゃんと知っていますから。
おじい様おばあ様が私をご存じない頃から、私は知っていました。
やす香を愛で包んでくれる、優しいおじい様おばあ様の存在を。
今年も七月が来ましたね。
明るい笑顔のやす香を思い出します。

* ありがとう。

* 上の写真の日は、四年前、やす香の不幸な発病よりちょうど一年前、平成十七年一月だった、下北沢で、秦建日子の作・演出の芝居を三人で観た。やす香と一緒というのがどんなに嬉しくていそいそ出かけたことか、しかし、どんなにどんなに嬉しくても、買い物などが楽しくても、日記には「若い友達と」としか書けなかった。嬉しさのあまりを書けばやす香の親に知れてしまう。やす香は全てを自分の胸一つに畳んで祖父母との親愛を敢然と復旧していた。
可愛い孫にものを買ってやることも出来て祖父母は嬉しく、やす香も喜色満面、照れ照れになりながら、おっそろしく短いスカートなどを選んで「まみい」に買って貰っていた。雀躍(こおど)りしての喜びようだったのが、悲しくもまた思い出される。

* ああ、そして三年前の今日は、何という悲しい日であったことか。『かくのごとき、死』の七月十一日の日録は、かくも厳しかった。

* 平成十八年七月十一日 つづき

* やす香の状態が、よくない。「mixi」に、やす香が、やす香らしからぬ筆致・文体で永々と書いて告げている。一日も早いうちに逢いたいと「みなさん」に訴えている。
北里大学病院は治療を放棄したのか。親たちから、事情はわたしたちに何一つ伝わってこない。何も来ない。六月六日「mixi」のやす香は、こんなに無残であったのに。

2006年6月6日13:19  ◎筋肉◎
って使わないと衰える!!

パパもママもおうちにいなくって、
明日先生のお通夜に
這ってでも行くために

リハビリだ!!!

って凄んで
家の一階に
オレンジジュースとりに行ったの。

大丈夫だから、
大丈夫だから…
ちゃんと頭に血を送れぇ

って自己暗示と共に(笑)

ばぁちゃんみたいに腰曲げて
見るも無惨なかっこで
10日ぶりくらいに食卓に降り立ち、
オレンジジュース入れて

よし、上り頑張れ自分!

って2、3歩のぼってあらびっくり(◎o◯;)
足に力入りませんΣ( ´・ω・屮)屮
手摺りないとフラフラしちゃう。

こりゃホントにリハビリせねば
って思ったね( ^‐ ^;

んで、
手摺りにしがみつきつつ部屋に戻ってきて、
ジュースおいて、
ベットに安らぎを求めようと
ヘナヘナ座り込んだ瞬間、

ガタン…。

えっ(i―! ゚覆 ゚i―!)

恐る恐る振り返りました。

そーですとも。
汗と涙の努力の結晶を
ものの見事にひっくり返しました。

滴り落ちるジュース…。
まさかそのままにしておくわけにもいかず、
雑巾とりに下に降りる体力もないので、
木の神様にごめんなさいと謝りつつ
大量のティッシュで後始末。

あぁ意外と動けるじゃん自分…_| ̄|●

と思いつつ↑の退勢で床を拭いてたわけです。

よし、
この大量のティッシュを一度ゴミ箱へ…

と思い起き上がろうとした瞬間、

うっiI――Ii( `◎ω◎ ´;)iI――Ii

こっ腰が……_| ̄|●))

なんとまぁ
全然伸びないじゃないですか。
真っ直ぐ立てないんですよ。
腰が曲がってしまった
おばあちゃんの気持ちが

よぉぉぉぉぉぉくわかりました。

みんなちゃんと運動しようね(o `艸 ´o)

* 7月11日19:04   みんなへ  やす香
母が私の「肉腫」という癌について、専門の場所の専門の先生と面会をしました。残念ながら私の癌は「骨」と「肉」の癌で治ることは絶対に有り得ないそうです。
厳しい治療で得られるほんのわずかな時。あるいは治療はせず、痛みや苦しみを緩和しながら暮らす日々。そのどちらかが私に残されたわずかな選択肢だそうです。
余命は誰にもわかりません。
みんなにお願いがあります。病院に来て下さい。mixiを知らない私の友達にも伝えてほしい。みんなに会いたいと。
20才の誕生日を迎えられるかわからない。もしかしたらしばらく生きてられるかもしれない。全然わからない。だからみんなに会いたい。さよならを言うわけでもなく、哀れんでほしいわけじゃない。ただこの遠い辺鄙なところにある私の病室がみんなの笑いの場所になってほしい。その中で生きることが一番私らしい生き方だと思うから。本当に遠いだろうけど、みんなに会いたいです。
すごくすごく重い話だけど、これは嘘でも冗談でもないんです。
ただ生きたいとわめいていても、事実はかわらないんだと…みんなにもわかってほしい。
今日を、明日を生きる。  やす香

* 五臓六腑が動転する。
同時に、いま、やす香の「名」で、これだけの長文をこう書かせている苦い悲しみを想う。これもそう、「白血病」「肉腫」を「告知」した取り澄まして簡潔な行割りの文も、むしろ母親夕日子の筆致にはるかに近いのを、夕日子の文章を多く読んできたわたしは「感じる」。

* 折から堀上謙さんの電話。お宅へのお誘いは受けなかったが、話は聴いてもらった。
「あきらめて投げ出してはいけない、最期の最後まであきらめないで、わらの一すべでも摑まなくては」と。もはや「緩和ケア」に入るというのは、あまりに諦めが早くはないか、と。
わたしもそう願い、建日子を通して伝えたが。母親は完黙して答えない。

* 建日子に。(建日子宛の夕日子のメールが母親に転送されてきたのは、)母さんから、内容を聞きます。
今が大変な非常事態であることは、初めから十分分かっていたし、容易ならざる事態とわたしは分かっていました。診断が遅れていることで、その不安は増大していました。
やす香の「命を守る」ということは、言葉は平凡でも「万全を尽くす」「手を尽くす」ということであり、北里大学病院に拘泥せず、一級の専門医を懇請して懇切に往診を頼むなり、国立ガンセンターなどの緊急の再診を、いわゆるセカンド・オピニヨン、サード・オピニヨンを、せめて「データ的」にも求めるべきではないですか。
そういうことに一家を挙げ奔命・奔走しなくてはならぬ時に、それをしているのか分らない。万一していないなら、「今すぐしなさい」と夕日子に伝えて下さい、これ以上の手遅れにならぬうちに。
病院の言いなりに流される必要はない、むしゃぶりついてでも最善を計って貰えと奨めます。
いまは、父親も母親も、★★家の親族も、挙げて、やす香の救命のために最善をつくす時、それが、真っ先です。
医学書院時代の昔のわたしなら、医学的なツテが求められたかも知れないのにと、残念です。 父

* こんな日記を書かずにおれなかったわたしも妻も、絶望に落ち込むまいと必死だった。だがまた手の打ちようもないほど「隔て」られていた。
しかも、これら日記記事が、やす香両親への「名誉毀損」であると、現にわが婿や娘に訴えられ、千数百万もの莫大な損害賠償金を請求されている。どこが名誉毀損なのか理解に苦しむと、わたしも妻も、この三年疲労困憊の中で堪えてきた。いま裁判所も、更に重ねてなにが具体的にどう名誉毀損なのかと原告に対し全面的に問い直してくれている。おかげで、この暑い夏をわたしたちは、心持ち解放されている、有り難い、とても。

* 金婚の百巻のと、わたしは浮かれているのではない。やす香の死からも、無道な婿や娘の裁判沙汰からも、老いた両親は、いろんな事をしてでも懸命に気分のバランスをはからねば転倒してしまう。渾身の力でただ堪えているのである。
2009 7・11 94

* わたしの「mixi」機能が随分以前から故障のママ、いくら事務局に頼んでも直らない。で、現状のまま放置しているが、ヒマをみて、書きためた「日記」でホームページとダブッテいない記事に限り、できるだけ他へ吸収保管しておいてから、退会しようかと思う。さしづめ、現状で手を放し、当分そのまま放っておく。
「mixi」というと、それは死なせた「孫・やす香とのためにこそ必要」だった。必要が無くなった。ホームページがちゃんと在るのだし、もう事実上不要になっている。
2009 7・17 94

☆ お大事に。  建日子
数日バタバタしていてホームページを読めずにいたのですが、
転倒、ですか。。。たいした怪我ではなかったようで何よりですが、お大事にしてください。
今は、安い値段で質のいいサポーターが薬局にあるので、自転車に乗るときは、肘と膝とにつけておくと安全です。
あと手袋とヘルメットも。

* 冬場は、意図して厚いズボンをはき、腕も厚い袖でガードし手袋もするのだが、こう暑いとそれができない。ヘルメットだけ。肘のサポーターはふと考えたこともあったが。なるほど膝にもね。薬局にね。ありがとう。

* 以下に、またしてもホヘームページのサーバーから文書を用いて「要望」があり「七月中の「一応の「回答」を求めて来ていると建日子から連絡があった。その説明に建日子が文書を届けかたがた保谷へ帰ってきた。前もって電話で伝えてきた内容と、帰ってきて来ての話に齟齬があり、いったん前に書いて置いた記事を、新たに書き直しておく。

* それは娘の方から、直接サーバーに「抗議」があったということか、サーバーに限った要望かは、文書では判明しない。以前の抗議に応じて「自分(=娘) の名」を、父のホームページ「私語」は「別の名」にワケ分からずに変更したけれど、それになお「直し洩れ」が見つかっているので、直して欲しいと。
契約者の息子へ連絡が来たのは、息子の大きなホームページの一部をわたしは間借りしているからである。

* ところで、問題を根に移して思うのだが、いったい、実の親が自分のホームページで実の娘の名前を「書いていけない」どんな法的な理由があるのだろう。わたしは娘を名指しでなんの中傷も攻撃もしていない。娘の誕生日が来れば元気でいてくれるようにといったことを書いてきたし、また、懐かしい昔の思い出などを書いてきた。なぜ、娘の名を親は、いちいち「夕日子」などと書き換えねばいけないのか。またいつも逢いたい孫娘の実名を書き誌してなぜいけないのか。どんな法にどう触れるというのか。説明して欲しいものだ。
息子のホームページに迷惑をかけまいためにだけ、わたしはそんな「理由のない抗議」に応えてきたのだけれども、実のところわたしに対し裁判所から只の一度もそんな「禁止」や「勧告」を受けた事実がない。自分の弁護士からも、娘の実名をホームページに書いては法に触れますなどと言われたことがない。単に、サーバーとの関わりからだけ、面倒を嫌って自発的に言われるままにしてきたに過ぎない。本来は、サーバーが、そんな娘の申し入れに法的な理由がないと門前払いで済むはなしのように思われるのだが。父親のわたしが、この人間社会で、自分の娘の名前をものに書いていけない理由など、どう考えても全く理解できない。戸籍を、全然変更できるのなら話は別だが。

* 数十年以前の『冬祭り』等の小説中に書かれてある「娘と同名」表記にもサーバーの文書は触れているが、それは、問題にならない。
2009 7・18 94

* 夜は妻に手伝ってもらって、ややこしい、面倒な用事を、根気よくぜんぶ仕遂げた。これで、当面、不快ななにごとも目の前から失せる。
汚れた鱗を濯って、いまこそしたい仕事をしよう。
2009 7・23 94

* 愉快に過ごしたい、過ごせそうだと思うと、すぐさま不愉快な用事が差し迫ってくる。がむしゃらに、よほど忙しく立ち働かないと不愉快の毒に汚染されてしまう。
何をやっているやら、生まれてきたことまでがおろかしく思われる。だから小説家なので。そう思う。
2009 7・24 94

* 太左衛さんから、今晩の花火不参残念ですと、お見舞いに、浅草の雷おこしと花火をたくさん送ってきて下さった。ありがとう。
明後日はやす香逝去から満三年であり、母親が四十九歳になる日でもある。三年前の二十九日告別の晩には、太左衛さんの招きで浅草の花火を「送り火」に、やす香を天上に見送った。なぜ告別式に出なかったか。そんな気にも成れなかったが、来れば追い出すとも云われていた。
明後日、せまい庭であるが、戴いた花火でやす香をしのび、母親の誕生日を心静かに思おう。
2009 7・25 94

☆ 昨日は、やす香に  光琳
会いに行ってきました。
やっぱり二十五日にはお喋りしたくなります。
周りには小さな笹が一杯でした。
ドクダミが沢山顔を出していて、なんだかあまり好きではないので勝手に草むしりしてしまいました。
夏なのでお花は向日葵です。
そしてもちろんヴォルビックも!
実はしつこく今日も行くのです。仲良しグループみんなでやす香に会いに行きます。
おじい様のお膝、いかがでしょうか。
おじい様の事ですもの、きっと紳士の痩せ我慢で乗り切られるのでしょうが。。。
おばあ様に優しく優しく介護していただき、早く回復なさって下さいませ。
では、今日も行ってまいります。

* ありがとう。やす香、さぞさぞ喜ぶことでしょう。ありがとう。
明日命日。祖父母は、娘も行幸もいっしょに心静かに、なごやかな墓参が出来ればなあと願っています。やす香もきっとそう願っていると想います。

* 笑ふのが大好きであつたやす香
ま光のまなか
草むす夏に蒼天を揺すつて笑つてくれ
2009 7・26 94

* 脚の傷に乾燥剤を吹き付けると傷口が強張り、場所が膝のすぐ下だけに患部の伸縮するのが痛い。単に歩行する分にはほとんど支障も痛みもないが、階段を降りるときだけ屈伸がこたえる。乾燥剤をやめて、今は傷口をそのまま外気に晒している。乾いて肉が上がり皮膚が出来てこなくては治らないのだろうが、ときどきシャワーで洗って湿してやる。歩く分には、脚が伸びている分には問題ないので、鬱気を避けるためにも日盛りにめげず電車に乗ってくるといいのでは。
熱中症の季節だ、帽子を買おう。わたしも、帽子をかぶろうとした若い時があったが、妻も子たちも、いつも、似合わないと大笑いしていつのまにか捨てられてしまう。似合おうなどという欲はテンと無いのであるが。
2009 7・26 94

* 六時起き。血糖値、110。

* わたしの怪我は漸く癒えて来ています、歩行に不都合なくなっています。心配かけました。
わたしの日々は、いやもおうもなく今日明日から近未来への不快を気力で凌ぎながら、懸命に仕事(稼ぎ仕事ではありません。)と読書と楽しみを創造することです。「いま・ここ」を生きて行くだけで、振り返る過去は、自筆年譜や、鱗をあらう清流へ流し去ってしまいました。良くてもあしくても、生活は「いま・ここ」の建立以外にありません。楽しもう、としています、どんなに不愉快な日々でも。

* 孫やす香の姿が見えなくなって、満三年。母親は、今日で四十九歳。いつも赤飯で祝っていたが。

やす香四歳           やす香 カリタス高校三年生

* おじいやんと呼びて見上げて腕組みてはげましくれし幼なやす香ぞ

* おじいやんはケイタイ嫌ひですかと問ひながら目をほそくほそく笑まひしやす香

* やすかれ やす香 生きよ 永遠(とは)に
2009 7・27 94

* 理史くんに貰った九州の焼酎「博多小女郎」などうまくて。二本とももう飲み終えて。飲むとじつにここちよく昼寝や宵寝が出来る。今日の午後はよほど烈しい雨降りらしく感じながら、すうすうと、黒いマゴに足の先を囓られ起こされるまで、寐ていた。
夕食後の妻のたどたどしいピアノが隣室でしている。八時に終えたら、太左衛さんに戴いた花火でやす香を迎えまた見送ろう。町田から、ママも妹も思い一つで来るが佳い。

* 未整理のままメールボックスに積まれていた今年三月四月の裁判関係のメールを整備した。「陳述書」というものに費やした厖大な精力がありありとメールファイルの回数や大量にあらわれる。大部の単行本を二冊も書いたほど量がある。元気で気力があればこそ出来た。
しかもそれにあわせ金婚のことがあり、『濯鱗清流』上下二冊四百頁の製作・刊行・発送という仕事も加算されていた。わたしの七十四年でいちばん多忙を極めた時期だった。

* 反動の空虚に陥らぬよう、いまも自身を励まし誡めている。

* 夜、妻と二人、やす香も来て、テラスで花火。太左衛さんお心入れのいただき物。
2009 7・27 94

* 階下の一部屋をなんとかしてカラにし、昔のように寝室に使いたいと思い至って以来十年できくまい、いまだに収拾つかない物置になっている。
木の小箪笥から、ソ連の作家協会に招かれて行った昔の、自愛の写真が見つかった。
あの旅は、作家のナントカ寒弥さんをお父さんなみの団長に、高橋たか子さんとわたしとが姉と弟のように随行した。
横浜港から娘に見送られ船でナホトカへ、汽車でハバロフスクへ、飛行機でモスクワへ。モスクワで何日か過ごしてレッド・アロー電車で当時のレニングラードへ、ここでも数日いて、飛行機でグルジアの主都トビリシへ行き、二泊ほど楽しみ、また飛行機でモスクワへ帰り、なお二三日居て、飛行機で成田へ帰り娘に迎えられた。日数など正確には覚えないが、かなりの詳細は、帰国後に東京や名古屋や神戸や仙台で連載した新聞小説『冬祭り』がほぼ正確に描いている。
たくさん撮った写真がみな行方不明のまま、中から自慢の写真数枚だけを大きくして置いたのが、今日、久ぁしぶりに見つかった。気分いい。わたしもご機嫌で若い。
ソ連は寒い寒いと聞かされ、電気工事夫のような上着を常用していた。レニングラードで冬宮(エルミタージュ)をノヴァ河越しに観た日など、凍り付きそうだった。
コーカサスを越えたグルジアのトビリシはうそのように温暖で、のびのびした。もう一度行ってみたい海外なら、まず、トビリシ。
国会議員だったノネシビリ氏はわれわれを、家族中でそれはきもちよく歓待してくれた。下の写真はソ連作家同盟から案内役をつとめてくれたエレーナさんが撮ってくれた。
この二人、のちに日本へ来てくれたときに、妻も一緒に銀座で逢った。
だが、後年の烈しいグルジア政変で、ノネシビリ氏はなくなり、エレーナさんも日本で気の毒に客死された。心優しい人たちだった。
グルジアは、いまも米露の思惑がらみに剣呑な政情にあり、いつ戦争に転ずるか知れない。わたしたちの日々の互いの挨拶は「平和を」と言うんだよとノネシビリ氏は話していた。グルジアやアルメニアは、人類の歴史でも最も古くから最も永く長く戦火に遭ってきた地域なのである。平和を。

 

1979 グルジアの代議士ノネシビリ氏と主都トビリシで

* さて気にしていた写真が一部見つかり嬉しかった。
この調子だと、東と西の二棟の、我が家のいたるところから、懐かしくて嬉しくて見つかると気分のいいタカラものが、まだ、いっぱい出てくるだろう。ウーン「宝庫」に住んでいるぞ、と思う。見たくもない裁判の記録などもあるが、早くぜんぶ捨ててしまいたい。いやいや、そこにはまだ小説のタネがいくらも隠れているんだぞ。書く書く、「私小説」たくさん書くぞ。本気。ハハハ
2009 7・29 94

* 十一時頃まで熟睡していた。明け方五時過ぎると、妻と寐ている黒いマゴが起き出して、もう起きてよと鳴き始める。わたしの足指や踵を噛んだり掻いたりしにくる。堪らない。障子もひっかくぞと威してくる。夢半分に怒ってやったりするものだから、そのままますます寝過ごして行く。
脚の傷、痛みがときおり薄れて消えている。かと、思うとチリチリ、ジリジリ感じる。手で自分の肋骨下をさぐると掌に当たるように感じる、すこし安心する。体重が増えるとこれが触らない。減ると肋骨縁に掌が触れる。たわいないなあと思いつつ寝にまた落ちている。

* 夢に娘を見る。
まったく何の気の悪さもなく、ごく日常ふだんのままあたりまえに話したり笑ったりしている。
数日前も妻と話していたが、もし娘がフイと玄関や家の中に現れたとして、小学校や中学や高校から「ただいま」と帰ってきていた昔と、なに変わりなく空気のように迎えて異和感なく一緒に生活し、口喧嘩したり、議論したり、いっしょに芝居や繪を観たり、好きに食べたり飲んだりできるにちがいないなあと。
もともとわれわれは娘と日々の口喧嘩以外に深刻に争ったことは無いのだから。これだけの不幸なことが長々と有ったけれど、フイっと全部、空無に帰してしまえる親子の「根」をちっとも喪っていないと、両親はあたりまえのように思っている。夢では、わたしはもう何度もそんなふうに娘と暮らしている。
どっちが「演戯」かと思い返せば、娘とに関する限り、われわれ両親は現実の裁判沙汰などのほうを「非現実の現実の災難」と受け止め、甚だ不愉快だし、一歩もひかず闘うし闘っているけれど、胸の内では、娘はむかしのままの娘としか考えていない。
「非現実の現実の災難」など、一瞬も要せず無に帰してしまう魔法など、娘と我々となら、何の難かろうと信じている。

* まず、「もう一人の孫娘」が、かつて姉孫が確乎決然と身を動かしたように、下の孫も、かならず自分自身の理性から、またさきざきの人生への聡明な思惟や思索を介して、そう遠くなく自身の判断で身を動かすだろうそれが十分想像でき期待できる。当然、わたしも妻も、息子も、こころから受け容れ、孫・姪の人生のために協力する。
もう高校三年生。来春は大学受験。三年前はかわいそうに姉やす香の最期と自身の高校受験の用意とが重なった。不如意なことがあったろう。
カリタス高校三年生の姉・やす香が、よく知っている我が家で撮った写真を妹もこのホームページの日記で観ているだろう、むろんコンピュータは自在に操れる。
あの頃のやす香は、学校から海外へ修学旅行したり、どの大学へ進もうかと独り懸命に考え、勉強していた。「おじいやん、こんなの書いてみたの、志望校へ出すの」と課題論文をメールで送ってきたりした。
妹も、いろんな思い悩みの中で友達ともあれこれ話している時機だろうが、もしも「おじいやんやまみいや、叔父さんとも話してみたいな」と思ったなら、まったく遠慮は無用たよと、此処へ、「初のメッセージ」を入れておこうとわたしは思う。
2009 7・31 94

* 黒きマゴの我の湯槽で湯を飲めるただそれだけが嬉しくて笑ふ  遠

* その辺をひっくり返していたらこんな歌メモが出てきた。バカみたいだが、実感。いつの歌だろう、日付がない。
2009 7・31 94

* 金婚でかしこまった夫妻の写真を撮らせたけれど、型のような結婚式はしないでわたしたち東京へ出てくるまぎわ、東山の校祖新島襄の墓の前で、なみいる高弟たち(の墓)を立ち合いに二人だけの結婚式をしてきた。
熱心な同窓にくらべればわたしも妻もキリスト教徒でなく、とくべつ同志社に思い入れが深いわけではない。が、ときとして、建学の頃の新島や基督教のことを「日本」の問題として考えることはある。
2009 8・5 95

* 乗り越えたい仕事の大山を一つ越えた。どんな批評や批判が有ろうとも、わたしの乗り越えて行く山だ。
わたしは、かつて人の「子」だった。いまは人の「父」だ。晩年へ来て、「父」である証しの仕事を次々積むなど予想していなかったが、不幸とは思わない、命冥利と考える。作家冥利という意味である。
2009 8・7 95

* やす香のお友達であった人の「mixi」メッセージが届いていた。あれから三年。つまりお友達はそろって大学を出、就職したり院に進んだりしている。この人は就職している。大学時代の友人が、秋に、建日子の作・演出の芝居に出るらしい。世間の狭さにビックリしていますといったこと。メツセージの人は、やはりカリタス卒で、わたしのマイミクのマイミクさんであった。建日子が秋にどんな芝居をするのか何も知らない。メッセージ、ありがとう。
こんなふうにして、もう一人の孫、やす香の妹の消息なども知れると、嬉しい。大学受験の筈。
2009 8・12 95

☆ 歌舞伎座 ♪ ♪ ♪
残暑お見舞い申し上げます。
歌舞伎、とっても楽しみです! 多分迷子にならずにお会いできると思います。
おじい様おばあ様とお揃いにしたく、私も白いTシャツを着て伺おうと考えています。三人でお揃い、嬉しいです。
最近私は、(研究目的で=)渋谷の bunkamura傍の映画館に通い詰めています。今日も行ってきました。
今上映しているのは古典名画シリーズで、(特に目的のある=)学生は600円で2本の映画が見られます。ハリウッドが中心ですが、今まで見てきたフランス古典映画とは違った面白さがあり、見飽きません。
作られてから70年以上経った映画でも笑いが色褪せないで残っているコメディーなんて、やっぱり映画っていいなと感じます。ハリウッド黄金時代は、やっぱり黄金です。
地震怖かったです!
母は私の部屋のクローゼットの棚からブーツの箱が落ちた! と騒いでいましたが、実は私が数日前に落して、知らんぷりしていたものでした。
うわー、直す前にバレてしまいました。
今、父から回ってきた (村上春樹の=)「1Q84」を読んでいます。
これが終わったら、志賀直哉の「暗夜行路」を読みます。母が二・三日前に読み終わりました。深くドップリはまったそうです。私が読み終わるまで感想は教えてくれません。ただ(清水焼の=)清水六兵衛が出てきた、とだけ教えてくれました。
同時に映画関係の本を3冊読んでいます。
今日から原書でロベール・ブレッソン監督関連の本も読んでいます。
冷夏で夏バテを免れている  光琳

* この時節に 志賀直哉に、『暗夜行路』にドップリはまれるなど、敬意を覚える。
昨夜阿川さんの本を読んでいて、前後のことは控えるが「男がいる」という言葉が、ある人たちの会話に生き生き書かれていて、心底共感した。
志賀直哉のある日常場面での発語であったが、ひいては志賀直哉に接している人たちのこころから志賀への讃嘆の言葉でもあった。
それは知るよしもなかったが、わたしも似た思いをある状況に迫られて口走った覚えがある。
大学に入るさいの面接で、お定まりのように好きな作家の好きな本はと聞かれ、「谷崎愛」のわたしが、ためらいなくトルストイの『復活』と志賀直哉の『暗夜行路』と答え、何故と問われて「男がいる」からと即答していた。そのことを書き下ろし谷崎論『神と玩具との間』の書き起こしに書いている。
わたしの谷崎愛の質を裏打ちしていたのは、志賀直哉という「男がいる」事実だった。その説明は、わたし自身にはいとも容易いが。
阿川さんの本で嬉しいのは、志賀先生と瀧井先生とのことがふんだんに書かれていること。阿川さんはたんに恩師である志賀直哉をめぐる事跡を記録されているのではない。直哉とともにじつに大勢の「人間」を彫り起こすように書いて、まさしく、そこに「人間がいる」と想わせてあまりある魅力を創り出しておられる。わたしはそれに惹かれて惜しみなく夜更かししている。
2009 8・13 95

* 暑さに負け、引っ込んでいた。それで、少し気にしながら自転車で出たのだった。暑さも日照りも苦にならず、むしろ心地よく夏を浴びていた。ただ、車上物思うことの日頃より多かったのがよくなかった。
明日は、プリントした原稿という荷を抱いて、冷房の効いた電車や店で「仕事」をしてこよう。あたまのなかに「課題」が煙のように渦巻くばかりでは、気が欝してしまう。
2009 8・13 95

* 九月歌舞伎座の座席券がもう届いた。九月は、松たか子らの日生劇場「ジェーン・エア」もあり、暫くぶりに俳優座公演も。
その一方で、永い休みも過ぎ、またまた法廷の日程がいろいろに迫ってくる。たじろがず立ち向かう。
2009 8・19 95

* 讃岐の岡部さんに梨を頂戴した。果物は、「夏」が贅沢を極めて美味いと思う。梨、桃、葡萄、メロン。
やす香の病牀へ、果物持参で見舞いに行った。病院の帰りには、妻もわたしも泣いて泣いて。時に相模大野の駅階段に座り込んで、動けなかった。やっと池袋で食事をしても、妻は泣いてわずかのモノも食べられなかった。「やすかれ やす香 生きよ けふも」と祈ったわれわれ祖父母は、それでも言われた、孫・やす香の「命の尊厳」を傷つけた、名誉毀損で訴えてやると。通夜や葬式に来たら警備員の手で追い出す、と。そして三年、わたしは、今も被告席にいる。「名誉毀損」って、何?
2009 8・20 95

* 司会のみのもんた氏が、「規制」という言葉を用いて、ブログの書き込み等を非難していた。相当いろいろ書かれているらしい。
一つにはあれだけ悪罵もふくめて毒のある言葉遣いを「売り」にしている「公人」であり、無理からぬ半面がある。視聴者も「公人」を批評する権利は持っている。マスコミに乗った「公人」は権力者でもある。権力は批判される。それが人の世のバランスというもの。書かれたくなければ、自分のブログにそういう窓口を設けねば済むこと。いい評判は聴きたいがイヤな非難は読みたくない、というほど甘くはない世間が広い。「某チャンネル」など、超然として見なければ済む話。

* 但し、彼・みのもんた氏は、こう言いかえす「私権」なら持っている、「匿名で言うな、書くな。文責を署名で明かして言え。書け。必要なら議論するよ」と。
もとよりこの国には、上古来、童謡(わざおぎ)や落首という「匿名抗議の伝統」がある。
それにしても、インターネットのいわば「公言」時代の言説には、まともな批判や批評であればあるほど、少なくも「匿名」の卑怯を排した「文責明示のルール」が立って良いのではないか、と、それなら、みのもんた氏もハッキリ言ってくれたほうが良い。
テレビのあのような場所に立って、感情のたかぶりで「規制」要望を口にするなど、キャスターとしての資格や識見が疑われる。言論表現の自由や、思想表現の自由を率先守らねばならぬ立場のジャーナリストが、「お上」「公権力」の「規制や取り締まり」を要望するなど、なにを考えているのか。

* わたしは見たことも見ようも知らないが、「某チャンネル」の匿名悪罵のふうはすさまじい、「凄いモノ」と聞かされたことはある。公衆便所の落書きのようと何度も昔から聞いている。そう分かっていて「わざわざ見る方が人間が弱いよ」とそんな愚痴を嗤っているが、改めて言うなら、このインターネット時代にそんなチャンネルやブログに忌憚ない声や言葉が往来し氾濫するのは、いかなる「規制」によっても留められない、まさしく「人の口に戸は立てられない」時代に、もうとうの昔から入っているということ。
だからこそ、ユーザーの自覚と良心とで、最低限度、書き込みは「文責署名(場合により地位所属も。)」という「ルール」が、「不文律」が、モラルとして一般化するように「キャンペーン」すべきなのである。みのもんた氏のような立場の人こそ、迂闊に「規制」などと口走らず、「文責表示」を大声で叫べとわたしは言いたい。

* ホームページに日記・私語を書き始めて十二年半になる。むろん、歯に衣着せず率直に時に癇癪も、批評も書き込んできたのは広く知られている、が、終始一貫、わたし本名で「文責」を明示し「作家・日本ペンクラブ理事」とも立場も示して、必要なら「討論・論争」も辞さない姿勢でモノを言いかつ書いている。匿名や偽名で書いたりしない。
その上、時にわたしが槍玉に挙げる人は、みな「公人=政治家、官吏、著述家、藝術家・藝能人、放送・放映・新聞人、マスコミタレント、大学教員、自治体役員等」に限定されている。その人達は、大なり小なり「一般私民」に対する「言動・表現」に責任を帯びていて、批評されても当然な、ある種の「権力的存在」であるからだ。

* 知る人は知っていて、忘れていまい。
去年の夏、「週刊新潮」は、わたしの氏名・肩書・所属・経歴・顔写真を明示し、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた太宰賞作家」と大見出しの記事を載せた。
ところがその記事に、肝腎の「実の娘」の氏名も写真も、一言半句の「訴え」の言葉も出ていなかった。娘の「代わり」に登場したのは「高橋洋(仮名)」と名乗るどこの馬の骨とも読者にすぐは判じ得ない、わが「実の娘の夫」で、独り喋りまくっていた。この夫が現役の青山学院大学教授であることは、披露宴もしての婿であり、知る人はみんなよくよく知っているのに。
「実の娘」は病人でもなく、口がきけないのでもなく、都下某自治体の「主任児童委員」の職にあって、しかも本名を現に「仮名」に替えて務めている。

* わたしは週刊誌記者氏の口頭取材を断った。代わりに文責明示で「書いて公刊」してある秦の文章なら、何を参照されても引用されても構わないと返辞してあった。
記者氏は、記事を書く直前に、先方「仮名夫」の本名を添え、六箇条の言い分を「直接話法」のままわたしに届けてくれた。それがどんなにデタラメであったかは、みな、即座に反駁を書いて置いた。「湖の本エッセイ44」の「あとがき」に公開してあるから、誰方にも読んで頂ける。

* ともあれ、こういう某チャンネルまがいの、匿名・偽名・仮名・垂れ流し・悪声・悪罵に類した捏造や中傷をこそ、「名誉毀損」の名で「規制し処罰すれば」よろしく、この「実の娘の夫」氏も、真っ当なはなしなら、堂々と本名で、それも夫妻出揃って、記者氏になり私になり訴えれば良かった。
こういう「卑怯」を一流私大で教育哲学なども教える教授が「仮名に隠れ」てやるのは甚だ見苦しいだけでなく、これぞ名誉毀損の犯罪に類するのではないか。

* 「書くなら、文責を明示しましょう、それをせめてインターネットでのモラルにしましょう」と、みのもんたサン、あなたの立場で話してくれたなら、それこそ、ともあれ、いい「コメント」になりますよ。
2009 8・21 95

* 早起きし、やはり「仕事」をしながらもう晩方に。

* 建日子に、谷崎作の戯曲のおもしろいのを一つ二つ紹介してやったりも。いいものを幾つも咀嚼して、若い今のうちこそ藝術的に心ゆく創作、気稟の清質最も尊むべきフイクションを書いておいて欲しい。私小説など、まだ早い。私小説は爺のものだ。
2009 8・23 95

* 有権者が、一人一人ダレないで、本気で批評の利いた投票しますよう期待。
自分の一票で「総理大臣」まで選べるのだと覚えたい。
密室でのやりくり談合で総理大臣がこれまで出来すぎた。そんな元総理たちが元老のような大きな顔をしていては、みっともない。
優れた選挙のできる基本は、国民の「国語力」と喝破した柳田国男を思い出す。

* 建日子が期日前投票に夜前から帰って、いましがた投票に出かけた。わたしたちは、明日に。
八月がこころよく過ぎ、心穏やかに健康で幸せな九月の風が吹くように。
2009 8・29 95

* 九月には単発だが息子のテレビドラマがあり、十月には小劇場で作・演出の新作を「秦組」でやると聞いている。新作の小説もうまくすると二冊相次いで出版されそうと。いろいろ、やるがいい。
2009 9・1 96

* 清水英夫さんの新書版『表現の自由と第三者委員会』に、たくさん、たくさん、学んでいる。

* 妻が聖路加へ出かけている間、家で機械に向かい続けていた。いまは仕事じたいが、じっとガマンの時。手を止めず意識も中断せず。目を大事にして。
2009 9・3 96

* 頭が痛くなるほど 考え込む。すこしでもよかれと工夫し考える。また考える。頭が痛む。もう、今晩はやすむ。
2009 9・3 96

* ぷりぷり太った真裸の赤ちゃんが、まちがいなく建日子が、元気に畳の上をくるりんくるりんと転げて遊ぶ夢を観た。
2009 9・5 96

* 小谷野氏の新書版に続いて、清水英夫さんの新書版『表現の自由と第三者機関』を綿密に読み込み、読み終えた。素晴らしい示唆であった、「今日人」には必読の大事な本だと感謝。座右を離すことの出来ない基本の指導書。ペンの全会員が読んでいたい本だ。
折しも、明日は久しぶりの法廷。何事がまたどんな顔つきで現れ出るやら。
2009 9・6 96

* 「九月述懐」のあとへ出した仙厓さんの繪、躍動して美しく、胸懐の清しさに気づかぬ人はいまいが、「を月様幾つ十三七ツ」に含意を読もうとする人は、どう読むのだろう。いまは、うろ覚えで言いにくいが、この唄には、アジアの広範囲に亘る民俗が分母に有るとも聴いた覚えがある。書庫に入ればどこかにそんな本があったはず。
そのほかに、斯う、月を指さす、「指月」の二字に禅の覚悟の託されているとも聴いた覚えがある。
そういう小耳の知識をまるではなれてわたしは、いきなりこの繪のちからに見入る、ぢっと見入る。

* 今日、この繪を胸におさめていたい。

* ゆうべマゴは入浴、いっそう綺麗な黒になった。

* 九月七日の今日、六月十二日以来の法廷。裁判官が交代し、新裁判官は、原告提出の訴状が厖大で且つ理解に苦しむと「訴え直し」を命じた。その新訴状の「名誉毀損」関係だけが提出され、昨日、代理人を介してわが家に届いていた。今日の法廷で、原告は残りを次回までに提出し、被告は今回分反論を次回にと。次回は十一月上旬、予定。
今日わたしは、街歩きに出、留守に妻が新訴状を読んだ。
新たなことの一つは、「名誉毀損」が「事実摘示できない」ところは、「名誉感情」侵害ということを付け加えてきたらしい。

* 「名誉感情の侵害」は法的に「訴え可能」であるが、あまりに一般かつ多義・多面にわたるので、常人はふつう問題としない。
名誉感情には当然「侵害も褒美も」あるわけで、笑い話、わたし自身は両方とも全然気に掛けないが、例えばもし誰かが、「秦はマイナーだが、天才だ」と書いたとして、普通の人だと名誉感情を「両面から」刺戟されることになるだろう。
それに類することなら、「ご主人、課長さんにもう成られました?」なども、その通りであれ無かれ、奥さんもご亭主も名誉感情を傷つけられるだろうし、「あなたって小柄だから」だけでも、「お宅、ずうっとあのお宅に」というのでさえ、むっとする人はいるだろう。
人が此の世に生きてあれば、名誉感情なんぞで裁判沙汰にしていれば、どうしようもなくなる。ヘッポコの学者が論文をコテンパンにやっつけられることもあろうし、作品を、酷評はまだ良し、完全無視されたといって「名誉感情」を傷つけられ怒り狂った物書きなど、昔から掃いて捨てるほどいるが、裁判にはならない。
「検索」してこの「名誉感情」という言葉を調べると、法に「訴えてもいい」のは、よほど卑屈な神経の細い人の救済のためらしい。このわたしの今日の日記も、またまた「名誉感情」傷つけられたと損害賠償に追加されてくるかな。

* 天下に「稀有の一例」が生まれる。青学教授の婿や町田市主任児童委員の実の娘が、実の父=舅のわたしを、「名誉感情」を表立てて「裁判」に及ぶのである。そして、人は、いずれ、その摘事例が、中傷でも捏造でもなく、自然人・道徳人としてあまりにあたりまえな批評ばかりなのに、ビックリ仰天するだろう。
言うまでもない、この原告二人は明白に「パブリック・フィギュア(公的人物)なのである。しかもわたしは、変名や匿名や無名では何も書かない。全て文責明示の署名入りである。ことは裁判でなく、「論争」の議題に属している。
週刊誌にもちかけ、本人は一切顔も名も出さず、口一つ利かず、事情を知った誰の目にも誰と分かる大学教授の夫が「変名」に隠れ、「孫の死を書いて実の娘に訴えられた太宰賞作家」などという大見出しの中傷記事で、わたしの「名誉毀損」を平気でやれる、しかも「実の娘」は顔も名も一言の訴えすらも出していない。そういう姑息な人物たちだけが、「名誉感情」などという事を裁判所に言い立てるのだ。情け無い。

* 志賀直哉は、先の戦争で、シンガポール陥落の際に一度だけ戦意昂揚と讃嘆の一文を公表している。直哉だけでなく大勢の物書きがかなり一斉に書いていた。
戦後に、浩瀚で立派な志賀直哉全集ができるとき、編纂委員達はこの過去の一文を無視して載せないか、つまり避けて通るかと遠慮を凝らして直哉に伺いを立てたところ、直哉は、一度書いたものを隠せば「卑怯」になる、そのまま出すようにと言下に決めた。直哉にはそういう例が他にも、若い頃の日記などにあり、これまた、苦慮はしたようだが、処分して隠してしまうのは「卑怯」だ、公表して構わぬと自身で決めている。
「男がいる」という褒美の弁を、以前此処に書いたが、たしかに此処に「男がいる」と思わせる。直哉ほどの人でも、歴とした文学論をのぞいても、どれほど数多く生涯あからさまに「名誉感情」を傷つけられてきたか、数え切れない。
だが、また直哉自身が、家族や親族や友人や文壇人たちや使用人等の名誉感情を責め立て傷つけてきた例も、数え切れない。「裁判沙汰」になったという話は知らない。
なにしろ不愉快だと感じると、感じさせた相手に対し志賀直哉は、独特の毒舌で、何倍にもしてやり返している。実例をみると思わず吹き出して笑うほど徹底的にやっつける。決して放ってなどおかないのである。しかしやっつけてやっつけられて、それだけだ。仲直りも早い。それが出来ないのでは、「男」じゃないし第一卑怯だと直哉の態度は一貫して潔い。

* ま、またまた、不愉快劇が幕を開けて、とめどない。わたしはどうするか。わたしは被告で、避けようがないのだから、真っ向闘うのは当たり前、それをしなければ「卑怯」と自ら恥じるだろう。
2009 9・7 96

☆ お元気ですか  鳶
今月七日、気に懸かっていました。次は十一月と、まあずるずる過ぎていくなあと何処かで放念もなさって、できる限り静かに心強く暮らしていかれますように。・・もっともこんなことを書くのは余計なこと、逆に叱られそうですが、わたしの不器用なエールです。
「名誉感情」というのは法律用語でしょうか、普段耳慣れない言葉ですが、考えれば日常の軽い冗談、世間の噂話、毀誉褒貶、慇懃無礼、etcそこここに散らばっていることですね。どこかでスッと言葉をかわして馬耳東風を決め込み、近頃さらに忘れっぽくなったことを「幸い」としています。
法律の助けを借り、時間もお金も使って、それも中途半端なものでなく注いで訴える理不尽を「彼ら」が何故続けていくのかと,やはりわたしには理解できません。異なる解決方法があるはずですのに。
志賀直哉の話は考えさせられました。「ものを書く」覚悟。一度書いたものを隠せば「卑怯」、避けないという姿勢。勿論、社会も人間も変化していくもので、それはどうしようもないこと、そして社会も人間も時として大小さまざまな間違いも犯すもの。そのなかでどのように自分を見つめるか、内省するか・・もの書く人は殊に厳しくなければいけない・・ああ。
話が変わってしまいますが、シンガポール繋がりで。
シンガポールの博物館に行った時、目にした歴史資料のことです。
シンガポール陥落後、日本政府は他の占領地域と同様にさまざまな施策を出しましたが、その中で気になったのは融和を前面にした教育政策でした。何気ない言葉を連ねた小学生や幼児向けの「仲良くしましょう」という意味の日本語の歌が何とも皮肉に感じら
れました。
もう一つは「からゆきさん」に宛てた男の手紙。それも代筆屋に頼んで書いてもらった訥々としたもの。「これは今の俺の持金全部だが、受け取ってほしい。身請けできるほどない、自由の身にさせたいができない、せめて一月でも身を休めてくれ。・・」という内容の手紙。そしてそれに続くのは「俺は近々嫁を迎えることになった、すまない」という衝撃的なくだりでした。叶わぬ夢、叶わぬ情愛、所詮こうなるのだという諦め。彼は彼女は、何を思い、どう生きたのか。昔語りのように遠いことに思えましたが・・。今はもうからゆきさんはいないかもしれませんが、他の国や地域からの「からゆきさん」は今現在も厳として存在しています。
慌しい一週間でした。残暑厳しいのに京都、大阪、広島、神戸と四日間も出かけていました。
京都のルーブル展で念願のドルチの絵に出会えた事は既に書きましたね。受胎告知の絵は普通は一つの画面に天使とマリアが描かれているものですが、これは顔と組み合わされた両手の、上半身だけのいわば一対の肖像画。受胎告知を告げ、神意を受ける二人に集約された画面と言えるでしょうか。初めからこの構成で画家が意図して描いたのかどうか、分かりませんが、美しい絵でした。親指のマリアほど面長でないだけ若いように見えました。天使は普通の少女のように可愛らしく・・と書いてはいけないのかな・・受胎告知の絵は画家によっては驚き慄く表情で表現されているものも少なくありませんが、この絵はひたすら美しく優しく尊いものを示しています。
やっと昨日から、秋かなと気配を感じます。溜まりに溜まっているさまざまなことを少しずつ整理しなければなりません。機械も普段通りに使えるようになって、こちらもたくさん作業があります。
夏の疲れを早く早く取り去って、よき日々をお過ごしください。大切に。

* ありがとう。シンガポールでの話題も、ドルチ画のことも、ありがとう。

* わたしの不愉快な闘いにも、わたしは意義と主張をもっていて、たんに娘夫婦との「裁判沙汰そのもの」に打ち込んでいるのではない。そんなことは、むしろムダだと知っている。だが苦心惨憺言葉を用いて生きてきた作家として、また作家という人間として、こういう際に何が文学的に可能か、何が作家の当為で何が敢為で、作家が組み合わねば、向き合わねばならぬ眞の相手は何か。大げさに言えば命がけで、その、実の有る答えを探っている。と同時に、鳴り響くように自分でピリオドを打つことが出来れば、裁判の勝ち負けと言った行方には未練なく拘泥せず、すべて流して落としてしまえる。はっきり予期できている。
2009 9・10 96

* 矢は弦をはなれた。落ち着いて、的を狙って「仕事」続けたい。
2009 9・10 96

☆ 建日子です。
体調はいかがですか?
建日子の方は、諸々、まあまあ、順調です。
ところで、眼鏡についての日記を読みました。
また、代官山の眼鏡店で一緒に眼鏡を作りますか? プレゼントしますよ☆

* 建日子には、車で、安曇野の「碌山館」へ連れて行って欲しいと思っている。碌山彫刻の原作が確かに観られるのであれば。常念や穂高も仰いでみたい。

* もともと「安曇」という文字やことばはわたしの文学生活に太く根をおろしている。『冬祭り』の冬子は安曇(あど)姓で、作はさまざまに、安曇と水・海の縁を追求している。長野県の「安曇」は早く早くからわたしの頭に鎮座し続けてきた。臼井先生の大河小説『安曇野』とは直には関わらぬ「私」事の関心であるが、なぜか早く死んだ彫刻家、天才的なロダンの弟子碌山守衛の彫刻と事跡には、心惹かれる。安曇野の秋が懐かしまれる。
2009 9・11 96

* やす香か元気でいれば今日二十三歳になる。そのつもりで妻と赤飯で祝った。
2009 9・12 96

☆ こんばんは。
日付が変わってしまいました。
やす香のお誕生日、やっぱり**寺さんへ行ってまいりました。
お花は季節はずれのヒマワリです。
着いたら既にピンクのお花が入っていました。
ちょっと変かな? と思ったのですが、明るく可愛いブーケでしたので、ひまわりにしました。それに、先日テレビで観た“ドクトル・ジバゴ”の中に壺にさした綺麗なひまわりがありました。その影響もあります。
私はあの場所のやす香に、シックな花より明るくポップな花の方が似合うと思うのです。いつも私のお花はあの場所に浮いています。

長い夏休みもあと少しです。
今年の夏休みは映画か読書か字幕の学校に通うだけの日々でした。
もちろん、おじい様おばあ様との素敵なデートもありましたが。
何もなくても、なんだか楽しい夏でした!!!!
来週夏休み最終週に、初めての大阪へ行ってまいります。
2泊3日、目的はUSJ(ユニバーサル・スタジオ・ジャパン)です。
何を食べるかは。。。行ってから考えます。
今からとっても楽しみです!
9月に入り、涼しさと共に重いお仕事も。。。
自転車も再開と。。。
暑さに疲れたお身体を、涼しい季節で優しくおいたわり下さいませ。
夏休みの宿題に手を付けていない  稟です。
2009 9・13 96

* ある日、それまでご縁のなかった方から、わたしの「私語」を読み、「mixi」に参加されませんかとメールで奨められた。平成十八年(2006)二月中頃だった。
たどたどしい手続きをはたから支えられながら参加したのは、その「日記」欄を利して新しい「仕事」を試みたいと気が動いたからで、様子が知れると早速、『静かな心のために』という試論を書き始めてマル一ヶ月、日々ぶっつけに思うままを書き継いだ。かなり気の張る冒険だったが、三十一日間でコンマを打った。
それからさき、新しいエッセイも書いたが、自作の長短編小説、連載エッセイ、評論、講演、対談などを連載しつづけた。新しい読者達の目にすこしでも触れればいいと願った。

* その一方、「mixi」に会員参加した暫くあと、忘れもせぬ孫のやす香たちが遊びに来た二月二十五日、やす香も「mixi」会員だと知り、すぐさま二人は「マイミクシイ」同士になった。マイミクになると日々の日記が互いに自由に読める。おじいやんは、おもしろいやす香の日記はホームページの方へもらうよ、いいですよ、と楽しい約束になったけれど、孫娘二人は祖父母の家へ、両親には固くナイショにして出入りしていたので、やす香の日記をどう自由に読めても「私語」に書き込むことは事実不可能だった。大学生と中学生との孫姉妹で遊びに来てくれる、祖父母にはたまらない嬉しさも、ウエブの日記には書けず、「若い友達」が訪ねてきた、楽しかったとぐらいしか。もどかしさが続いた。

* そのうちにやす香の日記がひっきりなしに体調の違和を、苦痛を、がまんならない歎きを書き続けるようになり、友人達からも間違いない医療をと警告しつづけるコメントが鈴生りに日記のあとへくっつくようになった。オジイヤンも癇癪が起きるほど心配し、親に告げて援助を頼むように言うものの、まさか「癌」とは思いつけなかった。
その年六月二十二日のやす香の「mixi」は、「わたしは白血病」と入院を告げた。仰天した。
祖父母とのマイミクなども、このときにすべて両親に知れてしまった。
やす香の「mixi」は七月七日、「わたしは肉腫」とまた告げた。「肉腫」は癌の中でも最も恐ろしい絶望そのものの業苦。そして七月二十七日にやす香は逝ったのである。
通夜にも葬儀にも、来れば警備員の手で追い出すと祖父母は娘夫妻に宣告されていた。

* 八月になると早々、「やす香の祖父母は娘夫妻をウエブで殺人者呼ばわりした、謝罪しないなら民事刑事の裁判に訴える」とひっきりなしに文書やメールで攻撃され始めた。
以来数年、わたしは、いまも「娘夫妻の被告」として裁かれている。

* その裁判の中で、わたしの「mixi」日記を「削除せよ」という要求がある。わたしが、どんな「mixi」日記を書いてきたかは、会員なら誰でも自由に読める。やす香の亡くなった平成十八年記載分の「全目次」は何度も公表しているし、今度は平成十九年の分も作成した。難儀に手間の掛かる労作であるが、自身の心覚えにもなると。
そもそも娘夫妻が「mixi」当局を責め立てた削除要求は数次に及んだらしいが、わたしの意見を聴き実状をみたあと、「mixi」当局はわたしの方へ「迷惑を掛けた、今後も会員として宜しく」と挨拶し、娘達の言い分を「門前払い」している。
それでも、同じ要求がまたしても出ている。
やっと作った平成十九年分の「全目次」をここに掲げておく。十八年分は何度も「全目次」を公開している。

* 平成十九年(2007年) 「湖・秦 恒平」の「mixi」日記掲載目録

* 一月 一日 この時代に‥私の絶望と希望(チェーホフ劇に寄せつつ)
* 一月 二日 袁枚悠々
* 一月 三日 早春 花びらのように
* 一月 四日 サマ文化とさん文化
* 一月 五日~七日 記念したい井上靖1~2
* 一月 五日 2006年「mixi」に掲載した「湖・秦 恒平著作」目次
* 一月 七日 kasa さんの見返り小僧さんの写真を
* 一月 八日~九日 京言葉と女文化1~3
* 一月 十日~二六日 京のわる口1~18  跋「京都と私」
* 一月十二日 一月十一日は歌舞伎座で
* 一月十六日 閑話休題 京ことばと日本語と
* 一月十六日 秦建日子作・演出『月の子供』本多劇場
* 一月十八日 空蝉と軒端の荻と
* 一月十九日 祇園と歌舞伎と
* 一月二十日 早春
* 一月二一日 志賀直哉の日記
* 一月二二日 湖の本版『早春』の埋め草に
* 一月二三日 河原町商店街のために
* 一月二四日 秦 恒平・湖(うみ)の本 十四年歩み
* 一月二五日 こんなふうに思っていたときも
* 一月二六日 翁と天皇
* 一月二六日 使い慣れた親機大破のため作業難航します。
* 二月 二日 回復への一週間 闇に言い置く私語
* 二月 三日 やっと機械は復旧し
* 二月 四日~八日 京で、五六日 京都案内1~4
* 二月 四日 マイミクにと誘ってくださる人に
* 二月 八日 昨日は一日中歌舞伎座にいた
* 二月 九日~一九日 蘇我殿幻想1~12
* 二月十二日 あらすじで書ける? 小説?
* 二月十九日  私語の刻 存在の詩
* 二月二十日 消えたかタケル
* 二月二十日 『蘇我殿幻想・消えたかタケル』の跋
* 二月二一日 私語
* 二月二三日 昨日の私語の刻 松たか子の『ひばり』
* 二月二三日 私語の刻 『ひばり』のこと
* 二月二四日 闇に言い置く私語の刻
* 二月二五日 「mixi」に送る最後の日記 湖
* 三月十六日 『ひばり』のジャンヌ、近代への誠実
* 三月二十日 ホームページ更新が不可能に
* 三月二六日 京都へ行ってきました
* 四月十六日 『愛、はるかに照せ』
* 四月二二日 「湖」の日記は
* 四月二六日 小田実氏のメッセージ 湖の「私語」に転載
* 五月  三日 憲法記念日の「私語」
* 五月  十日 親機のインターネット破損のため
* 五月十一日 「私語の刻」復旧そして俳優座へ
* 五月二二日 この二、三日の私ごと
* 五月二四日 伝えずにおれない 湖 今日の私語から
* 六月十三日 染五郎の知盛 わたしの船弁慶
* 六月十三日 六月歌舞伎座昼夜の楽しみ
* 六月二二日 六月二十二日 涙雨
* 六月二五日 恋童さんの「小説の豚どもへ」に和して
* 七月 七日 渡らぬ織女 渡る織女
* 七月十一日 「闇に言い置く 私語の刻」より 抱き柱
* 七月十六日 襤褸が脱げるか
* 七月十七日 写真の嬉しそうな巨猫氏は、
* 七月十八日 写真の凛々しい美青年は
* 七月二五日 徳田秋声の『あらくれ』
* 八月  一日  秦 恒平・湖の本エッセイ41『閑吟集』跋
* 八月  三日 花と湖
* 八月  四日 「二度」の地獄 安倍総理に訴える
* 八月  九日 井上ひさし作、大竹しのぶら出演『ロマンス』を観て
* 八月十二日 心と夢との危うさ
* 八月十七日 敗戦の日と納涼歌舞伎
* 八月十七日 涼しそうに
* 八月十八日 幽霊 宮沢りえ
* 八月二十日 海は見ていた 清水美砂
* 八月二十日 励まない
* 八月二一日 鬱陶しくなってきた
* 八月二一日 弱虫
* 八月三一日 家 実父の生家
* 九月  一日 昨・平成十八年「湖・秦 恒平」の「mixi」日記掲載目録
* 九月  九日 枯木寒鴉
* 九月十二日 吉右衛門と福助と左団次 九月の歌舞伎座
* 九月二十日 述懐 そして「星空」
* 九月三十日 珠光の「心の文」①茶の湯も文学も
* 九月三十日 珠光の「心の文」②観世榮夫も松本幸四郎も
* 十月  四日 截金の江里佐代子を心より悼む
* 十月  六日 追従しない 独りぽっちで
* 十月  八日 あッ お月さま
* 十月十二日 中村屋ッ 奮闘公演
* 十月十九日 我當に拍手「新口村」 楽しんだ歌舞伎座の昼
* 十月二二日 蕎麦と能装束と卒塔婆小町と天麩羅の一日
* 十月二八日 兼好の眼
* 十一月  一日 生母
* 十一月  三日 闇に言い置く私語の刻 人生の消費税
* 十一月十六日 山科閑居など 十一月歌舞伎座
* 十一月十七日 玉手御前と合邦 国立劇場
* 十一月二五日 「置き去り」俊寛と「居残り」俊寛
* 十二月  九日 日々に思うこと
* 十二月一一日 めでたし『松浦の太鼓』
* 十二月一五日 一昔前の「闇」に言い置く1  川口久雄 女文化 バグワン
* 十二月一六日 一昔前の「闇」2  東工大 院展 電メ研発足
* 十二月一七日 一昔前の「闇」3  パソコンと漢字 文字コード
* 十二月一七日 一昔前の「闇」4  湖の本 ホームページ ペンにもHP
* 十二月十八日 一昔前の「闇」5  併読 能 囲碁ソフト バグワン 真山賞の我當
* 十二月十九日 一昔前の「闇」6  佐高信と猪瀬直樹など
* 十二月二十日 一昔前の「闇」7 (再撰・再録
* 十二月二二日 七十二歳誕生日の歌舞伎座 湖
* 十二月二三日 一昔前の「闇」8  大坂の松竹座など
* 十二月二四日 一昔前の「闇」9  ペンクラブに 根本的な疑問
* 十二月二五日 一昔前の「闇」10  お国と五平 菊五郎の知盛
* 十二月二五日 一昔前の「闇」11 京都美術文化賞 浅井忠展など
* 十二月二六日 一昔前の「闇」12 茶道具 手紙の引用 核声明
* 十二月二七日 一昔前の「闇」13 『寂しくても』『能の平家物語』『心は頼れるか』
* 十二月二八日 一昔前の「闇」14 電子メディア論
* 十二月二九日 一昔前の「闇」15 フォントと漢字の標準化 作家の稼ぎ
* 十二月三○日 一昔前の「闇」16 レイタースタイル 自問 『戦争と平和』 正字と略字
* 十二月三一日 一昔前の「闇」17 表現の自由 参議院自民惨敗 東工大卒業生と湖の本

* いったい、これは何か。どこに名誉毀損があるか、「mixi」会員なら本文はすべて自由に読める。こういう面倒は、情け無いことに「仕事」とは呼べないのである。しかし、「仕事」にすることは出来る。

* 組みの整理が美しく出来ていないが、不審の方もあろう、問題の前年分も挙げておく。

* 2006年「MIXI」に掲載した「湖・秦恒平著作」目次

2/15 – 3/17 『「静かな心」のために』    31回
3/18 – 4/7  『本の少々』(エッセイ集)    31回
4/8 – 5/13  『一文字で「日本」を読む』   36回
5/16   共謀罪新設法案に反対する
5/21  「長編小説を連載する気持」
5/21 – 6/8(上巻跋) – 9/3  『最上徳内 北の時代』 87回
6/10   マイミクシイの思香(マゴ・やす香)へ 祖父
16/11 – 7/26  『「東工大」青春短歌大学』 上巻 42回
6/23   孫よ生きよう
7/3   七月四、五日は京都で対談
7/11  「優れた文学とは」 (徳内 中巻跋)
7/14   片思ひの歌に寄せて
7/15   願い
7/18   初孫やす香の三枚の写真
7/20   やすかれ やす香 生きよ けふも
7/25   生きよ けふも
7/26   やす香母の朝日子に 湖
7/27 – 8/25   『死なれて 死なせて』 (30回)
7/27   やす香永遠に  おじいやん
7/29   孫やす香の使命
7/30   この花火やす香は天でみているか
8/1   ノータイトルの一言 生きたい
8/3   死なせた は 殺した か
8/11   八月十一日 金
8/19   やす香が夢に来た
8/23   逃げない
8/25   「死なれて 死なせて」を終えて
8/26 – 8/29   『日本語で「書く」こと「話す」こと』 (4回)
8/27   初の月命日
8/30   「心の問題」
8/31 – 9/15   『漱石「心の問題」』 (17回) 後記
9/3   「永かった『最上徳内 北の時代』の連載を終え」
9/4 – 9/17   『秘色(ひそく)』(太宰治賞受賞第一作・14回)
9/6   「湖」と「作家秦恒平」とは「同一人」ですが。
9/7   湖=作家秦恒平は同一人。
9/10   「MIXI」に作品を公開する理由
9/16 – 9/18   『講演・私の私』  3回
9/17 – 9/23   『三輪山』  5回
9/19 – 9/23   『講演・知識人の言葉と責任』 4回
9/21   ホームページの強制削除か
9/21 – 10.12   『闇に言い置く 私語の刻』(HP被害の経緯・反響)22日
9/23   「秘色・三輪山 作品の後に」
9/24 – 9/26   『講演・マスコミと文学』 3回
9/24 – 10/8   『罪はわが前に』上 15回
9/27 – 9/29   『講演・蛇と公園』 3回
9/30   『歌集・少年』 全
10/1 – 10/3   『講演・短歌のことばと日本語』 3回
10/4 – 10/6  『講演・把握と表現』 3回
10/7 – 10/12   『講演・桐壺更衣と宇治中君』 5回
10/9 – 10/12   『清経入水』 第五回太宰治文学賞 7回
10/13 – 10/18   『講演・春はあけぼの』 6回
10/13   「平成癇癖談」1
10/14 – 10/15   「漫々的 書いて行く人との対話」1.2
10/17   「闇に言い置く 遺書として」
10/19 – 10/21   『講演・春琴と佐助』 4回
10/21  志賀直哉と瀧井孝作と
10/21 – 10/24   『講演・名作の戯れ』 5回
10/25 – 10/26   『対談・いけ花と永生』(長谷川泉) 2回
10/27   私の潰されていたホームページのこと
10/28 – 11/1   『畜生塚』 5回
10/30 – 10/31   『対談・極限の恋』(大原富枝) 2回
11/1   『対談・創作への姿勢と宗教』(加賀乙彦)
11/1   「畜生塚と加賀さんとの対談」
11/2   『生まれることと生きること』(竹西寛子)
11/3   「今日の私語から 仏と仏像」
11/3 – 11/7   『対談・京ことばの京と日本』(鶴見俊輔)3回
11/3   「今日の私語から 死を告げる鐘は」
11/8   『竹取翁なごりの茶を点つる記』
11/13 – 11/13   『対談・一遍聖繪と一遍の信』 2回
11/13 ・11/23 – 11/25   『初恋=雲居寺跡』 4回
11/   「芹沢光治良『人間の運命』を読みながら」
11/26 – 11/30   『マウドガリヤーヤナの旅』 5回
12/2 – 12/10   『能の平家物語』 11回
12/3   親機の不調深刻
12/11   『花鳥風月』
12/11   「甲子さんを紹介します」
12/11 – 12/21   『好き嫌い小倉百人一首』 12回
112/21   「当た亥年 述懐 七十一郎」
12/22 – 12/31   『歳末随感十編」 10回
「芥川のこと(追加)・病院・かなひたがる・寅さんたちの国語・和歌・篠村・京都・ソ連へ・お酒・大晦日」
2006年の「MIXI」以上   湖

* 「mixi」のソシアルな機能を利して、わたし自身の文学のために作品を熱心に展開させていたことは一目瞭然。今も「mixi」で誰でも読める。(但し、一定期限開示の目的を遂げた自作創作のうち、湖の本や既刊単行本で読める「小説・エッセイ・評論・講演・対談」等は、目次のみ残し本文はもう撤収してある。)
2009 9・13 96

* わたしが「その人の祖父の異父兄弟」にあたるのだという「mixi」メッセージを貰っていた。父方にはそういう兄弟はいない。母方にはウーンと年の離れた異父兄が二人有るはず。事実なら、嬉しい連絡であるが。
2009 9・14 96

* たぶん母方のいちばん上の兄の孫娘にあたるらしい人の再度のメッセージを貰った。「mixi」で願うのは、一つにはこういう「出逢い」である。
父方の従弟とも出逢えた。元気にしているかな。「また珈琲をいつものように見繕って送ってもらって」と妻に頼まれています。よろしく。
2009 9・16 96

* 十月は国立劇場で高麗屋肝いり趣向の新作歌舞伎が待っている。千葉のe-OLD 勝田さんをお誘いするつもりで十月二十日火曜日が予約してあるのに、勝田さんへご都合も聞いていないし連絡もし忘れている。どうも、この頃こんなことばかり多い。ごめんなさい。
木津川の従弟に珈琲を注文してと妻に頼まれていたのも、此処へ書いただけで忘れていたら、ちゃんと「承知の返信」が従弟から来てビックリ、有りがたい。よろしく。

* こういうズボラが利くと、ますます、ズボラ兵衛になる。

* 両親のどっちかがわたしにとって母方の甥か姪に当たるという、奈良の若い人とマイミクになった。「mixi」を介して遠く途絶えた人たちと、一つ一つまた縁が繋がるといいがナアと願っている。
2009 9・17 96

* 勝田さんとの十月の芝居見物がきまった。楽しみ。従弟から珈琲豆も無事、着。
2009 9・18 96

* 堤さんが「佳いで賞」を喜んでくれた。
建日子もメールを呉れている。十月に新作の芝居を演出し赤坂で公演するとか、わたしたちも見にゆく。題は舌を噛みそうな、『くるくると、しとしっと』とか。やれやれ。しかし久しぶりに新作なのがいい。
十月には「女刑事雪平夏見」の第三作が河出書房から発売と聞いている。題は知らないが、最初のは『推理小説』つぎが『アンフェアの月』だったか。

* モノおぼえはいいし、むかしの、まして京都時代のことならと想うのだが、あの新門前通りの暮らしでわたしは猫がいた、犬がいた記憶をまるで持っていない。猫や犬を飼っていたご近所や友人をまるで思い出せない。
東京へ出てきて、妻と新宿河田町に暮らした六畳一間のアパートに、和歌山の妻の親類から送ってもらった魚の干物を慕って、庭づたいに窓の下へ灰色の猫がきて、ときどきは部屋にも入ってやすんでいったのが、猫という友人との初の交際であった。以来、犬は飼ったことがないが、猫とは数多く関わってきた。
二年いた河田町の「みすず荘」で都合四疋と関わった、飼ったとはいえないが。保谷町へ移転後は鉄筋の社宅の三階でもあって小動物と縁はなかったが、同じ保谷市内に家をもってからは、もっぱら猫を可愛がって飼った。
最初の「ブン」は河田町時代の最初の灰色くんと同じ牡で、ずいぶん可愛がっていたが、三日ばかり京都へ帰省の留守にいなくなり帰ってきてくれなかった。
それから牝ばかり、「ねこ」「のこ」の母子とのべ三十年ちかくも愛して、二人ではないか二疋とも、わたしたちの手で大事に見送った。墓も家のうちにもった。それから、彼女らの血筋ではないかと想われる真っ黒の「まご」が家に居ついて、いまも鍾愛を独り占めにしている。

* 京都でまったく猫や犬の記憶がないのに思い当たり、それが奇妙でならない。
2009 9・20 96

* 映画「おくりびと」 完璧。
笑って、泣いた。監督・脚本・出演者その他に、敬意を表する。アカデミー賞に選んだ識者たちにも敬意を。本木雅弘、広末涼子、山崎努、余貴美子、吉行和子、笹野高史、杉本哲太、その他、また死者をみごとに演じてくれた人たちにも感謝する。

* 息子に云ったことがある、日本映画が少なくも数年前から俄然また良くなってきているよ、甘い考えで半端に映画に手を出したら恥ずかしい目に遭うよ、と。
嬉しくなるほど日本映画近年の秀作を幾つもコピーしてきた。この「おくりびと」は、中でも完璧の達成で、身震いするほど、観ていて嬉しかった。
* わが家では、少なくもモックンが徳川慶喜を演じて以来、そしてお茶の「伊右衛門」のコマーシャルも含め、演技派本木の大フアン。
広末涼子は、多少苦手なのにかかわらず、特異なセンスと演技力とで掴まえてはなさない実力を、十年も前から認めている。「おくりびと」でも期待に応えて余りあった。
余貴美子の存在感も端倪すべからざるモノと以前から知っていた。
山崎といい笹野といい、みなちから溢れた俳優達がこの異色の映画に「打ち込んだ」感触はみごと。満足、満足。
2009 9・21 96

* いつ始めたことか、生母阿部鏡(深田ふく)の遺した歌文集『わが旅大和路のうた』から、短歌を、すべて書き出し終えた。二百二十首ちかく有る。誤記もあり、仮名遣いにも文法にも語法にもやや不確かさの見えるのを、修訂のきく限り修訂した。
文章分は、すべてスキヤンし校正するしかない。きちんとしておけば、いつか、朝日子にも建日子にも、また北澤家の三人きょうだいにも役立つことが有ろう。
かなりつらい「追求」でもあった。
「階級を生き直したような生涯」と亡き兄はこの母を語っていた。生き方はちがうけれども「櫻姫東文章」のように、お姫様育ちの母が、子という子をみな振り捨てまた奪われ、四十代半ばから日本初の保健婦資格を大阪でえて、奈良県、京都府で地に這うように心身を削って働き、しかも奇禍に遭って死の床につき、死んでいった。
言語に尽くせない生涯だったとはこの一冊におおよそ書き継がれている、死ぬる日まで。
2009 9・29 96

* 息子が脚色した「ドラゴン櫻」の何度目かの放映があり、今朝、いいところを観た。この父親は、息子の書いた連続テレビドラマでは、この「ドラゴン櫻」と、「ほかべん」とがお気に入り。二つとも原作漫画の脚色であるらしく、オリジナルでないのは残念だが、ふたつとも彼の創意創案もふくまれているらしく、「好き」である。「反骨の表現」が好きである。
「ラストプレゼント」もよかったが、時が経つと甘い残り味がかえって感興を薄めている。「ドラゴン櫻」は主役阿部某クンの颯爽とした芝居が目立った。若い生徒諸君もたいへんよかった。
2009 9・30 96

* あれこれしていたが、此処へ書くほどでない。終日、雨。街へ出たのが昨日でよかった。

* 生母「阿部鏡」(筆名)の、母が自身「日記」と呼んでいた歌文集『わが旅 大和路のうた』のうち、散文部分をのぞく「短歌抄」を、「e-文藝館=湖 (umi)」に入れた。なぜか「著者別」索引「あ」行でしか出ない。作業手順を間違えているらしい。著者別「あ」行でなら、問題なく読める。この祖母になみなみでない関心を寄せていたわれわれの娘のためにも、「散文」部分もはやく整備し、「短歌集」と併せて復元しておきたいと思うが、これまた並大抵の作業で済まないだろう。歌はそれなりにそこで表現が完結しているが、散文の場合、思い込みも性格も反映し、まして重い死病の床での作業らしく、背景も状況も理解できないところがたくさん有る。調べて歩こうにも、もうわたしにはその元気がない。
2009 10・2 97

* すこし寝て、六時過ぎに起きてしまい、しばらく秦の父母・叔母の位牌と話していた。もう小一年もの朝のならいである。
2009 10・3 97

* 秋たけなわ。十月歌舞伎、俳優座公演、建日子の秦組公演、国立劇場の乱歩歌舞伎。暫くぶりの聖路加診察もある。いいことも、不愉快も、ある。織りなし織りなし生きの緒が編まれて行く。
2009 10・4 97

* 明日は秦建日子「秦組」公演に行く。やす香のまた新しいお友達から、明日の晩に自分も観にゆくが、もしかして「湖さんも」とメールが来ていた。ウーン、残念、すれちがい。わたしたちは昼の部に行く。そのあと妻は昔からの親友とおしゃべりするらしいから、わたしは自由時間になるのに、惜しい。
2009 10・16 97

* 秦建日子の作・演出「秦組」公演『くるくるとしとしっと』とやら、ややこしい題の芝居を見に行く。
2009 10・17 97

* 赤坂見附のどこやらでの秦建日子の芝居、八千円支払い、満員補助席の小劇場で二時間、観てきた。
『くるくるとしとしっと』とは。死と嫉妬らしい。場面は「ER」で。かんたんにストーリイを取り纏め紹介できる芝居ではないが、烈しい群舞も入りまじって幾重にも人模様がぐるぐる回旋しながら、巧みに同方向へ制御・運転された渦巻きになる。で、作も演出も演技も冗漫なく混乱もなく、巧みに、クリアに、スピード感を保ってめまぐるしく進行する。せりふも良く書かれ、狭い舞台でかなりの人数が出入り激しく、躍動し、衝突しながら、それでストーリイが分かりにくくなることもない。建日子芝居で、これまで大なり小なり付き纏った不用意なややこしさが大方無くなっていて、かえってビックリした。
うまくなった、もりあげも、はこびも、掛け合いも。「秦組」かなりよく躾けられていた。
ただ、観終えて、盛んに拍手を送って。
さて、で、何なの。べつに涙もこぼれなかったし、胸に射し込まれたこわさも、うれしさも、かなしさも、さびしさも無かった。
うまい芝居だったなあ、演劇としてけっこう楽しんだなあ、だから良かったンじゃないかと納得してみても、それに付け足される感動というものの、ほとんど何もないエネルギーの発散劇だった。
それでいいんだという納得も不可能ではない。一昨日の俳優座公演の散漫・蹣跚より、よほど達者に活気に満ちて舞台は終始躍動していたのだから、大出来と言えなくもない。だけれども、劇場を出て十分もせず、おおかた筋書きも言葉も淡く消散していたのは何故だろう。作・演出の「うまみ」でいえば優にこれまでの多くの舞台を凌いでいた。お、代表作かなと思った。
だが「うまい」だけでは、演劇は美味しくない。難しいものだ。
魔女仕立て、不老と不死の薬を別々にのまされた夫婦が、妻は老いず夫は老いて死なない趣向は、同じ悲しい物語を少女と少年の『露の世』でまだ青年の昔に書いたことのあるわたしには、珍しくない。追いつめて行くと、生身の人間が、機械的などうしようもない齟齬にはまり込む。ふりほどくのはかなり厄介。厄介を厄介に担うまいとすると、物語をむやみに早回しし、ワルク言うと誤魔化してしまうしかなくなる。愛とか死とか老とか「観」念と「理」解で中和しようとしても、「くるくると」効き目のない落とし穴で身動きならず強張ってしまう。
感動という熱は、とばされてしまった。みんなが、せっせせっせと動いているのに熱気は、熱は、低かった。作における、人間の把握と表現とが、つまりかなり型通り・概念的で薄くは無かったのだろうか。演出の小技の「うまさ」では熱は補えなかったと見た。厳しいかな。

* 俳優座稽古場での「犬目線 握り締めて」は、今日の秦組芝居より演出も演技も運びもナマなところがあったけれど、見終えてのちの「痛く」「突き刺さってくる」批評の鋭さには、「うまく」はなくても、抑えようのない感銘・感動があった。

* 感想、また動くかも知れないが。

* 劇場前に、ともだちと逢う妻を置いて、わたしは新橋から「横浜そごう」へ直行。
朝、届いた一部再校・三校ゲラを読みながら。
で、デパート九階へ五時に着いて、そこで、その場で、めざす個展オープンの日付をわたしが「一ヶ月読み間違えていた」のに気づいた。そればかりか、十一月「十八日」オープンなのに、今日は十月「十七日」だった。二重の阿呆な思い違いに思わず笑ってしまった。
十階にあがり「すし萬」で、初物の土瓶蒸しを添えて佳い鮨を食ってきた。冷えたビールがうまく、酒も。
昨日が休肝日だった。ゆっくり居座ってゲラを慎重に読んだ。六時過ぎにまた各駅停車の電車で上野経由、池袋へ。暑くて汗を掻いた。
2009 10・17 97

* 秦建日子新刊、河出書房版の女刑事物の本が届いていた。『殺してもいい命』だって。何という題だろう。やがて父親は『凶器』という本を出すのだ、何という父子だろう。恐縮。
2009 10・17 97

* 技巧的には十分及第点。だが、技巧的に「うまい」だけでは、ただのエンターテイメントで、ハートは震えない。秦建日子作『ドラゴン櫻』には、『ほかべん』には、揺り動かされる訴求力があった。
一晩、寝ながらも昨日の舞台を反芻したが、残念だが感想は変わらなかった。
どの人物も存在感をもって記憶されていない。ま、松下修の老いるばかりで死ねない夫の登場の瞬間ぐらいか。だが、あの人物は機械的に作り出されただけで、もう劇的には行き場がない。
「朝焼けにきみを連れて」にも「月の子供」にも「PAIN」にも「タクラマカン」にも哀しみを起爆力にした生きた人間が、人間達が記憶できたのに。
それにしても作・演出家は「うまく」なった。
小阪逸、瀧佳保子、歌原奈緒の三人は「科・白」ともに優秀だった、いつも云う「科」は体の切れと動き、「白」とはことばの働きと正しさのこと。「科白劇」としては、ほとんど文句の付けようがなかった、ということにしておく。
2009 10・18 97

* 六時半に起きて黒いマゴを外へ出してやり、もう一度床に戻ったら十時になり、マゴが横に寝そべり薄目で私の顔を覗いていた。
むかしむかしの懐かしい人を夢見たり、街道に沿うて小高い真っ直ぐの樹を、夢で、順々に両手で抱えて植えていたり。
2009 10・21 97

☆ 曇っていますが、空気はカラカラ。 花
午前からワックスがけにとりかかりました。
今日は一階と二階の廊下だけ。
なのに、軽く半日はかかります。
きれいに塗るのは、難しいです。
風、おいそがしいのですね。
『夜明け前』読了しました。青山半蔵の最期は、涙なしには読めませんでした。
『モンテクリスト伯』は、六巻を終えそうです。
お元気ですか、風。

☆ お元気ですか、風。
今日もまたいいお天気なので、朝からワックスがけしました。
パソコンしてるこの部屋の、隣を、半分だけ。
ちょっと慣れてきて、早く済みました。
雑巾、バケツ、モップなどを洗って干したら、「ちい散歩」を見ながら、ちょっと休憩。
風はきっと、校正に集中していらっしゃるのね。メールの返信は、いいです、時間のあるときで。または、気の向いたときで。
お仕事がすすみますように。
花は、文学史など読みながら、風のエッセイも読んでいます。内容もそうですが、風の文章は、花にいろんなことを教えてくれます。
ではでは。
2009 10・24 97

* 隣棟に行けば行くで、こちらにも書籍がたくさん在り、手に取り出すととめどなく誘惑されるが、かろうじて『総説・新約聖書』を持ち出してきた。かんたんな解説ではない、聖書研究の全般を研究書風にレビューした大冊で、『総説・旧約聖書』がなかったら、あの旧約聖書を読み切れなかったかも知れない、本格の手引きなのである。
「マタイ傳」「マルコ傳」と読み進んでいるので、はやく隣から持ってきたいと新約の『総説』を待ちかねていた。つまりそうそうは地続きの隣棟へも行けないほど、こっちで毎日やっさもっさしている。
狭くて話にならず、こっちの一部屋の荷物を隣へ移動させたいのだが、何年越し片づかない。片づけかけるとアレにもコレにも立ち止まって、読んだり調べたりするから全く進行しない。叱られてばかりいる。
実父、生母関連のとりあつめ得た文書や写真や資料がたくさん在る。これらに本格に手をかけはじめると、わたしは「老年の小説世界」におそらく首までつかるだろう。
数限りなく「仕事」があるなあと、気力もわくが、吐息も出る。お宝といえば、小説家にはずいぶんなお宝がまだわたしを待っていてくれる。ウーム。

* そんな中で「阿部鏡子さま」と上書きした薄い紙包みにこんな写真が入っていた。「阿部鏡」は生母が遺著に用いた筆名、しかし通称としても用いていたかどうか。
書物の粗末な写真版ではとても見切れなかったのが、この小さな写真でよく見える。ことに子供達の表情や風景が見える。しかし何処であるか、分からない。奈良県の中であるのはたしかで、大和郡山市あたりではないかと漠然と推測する。
母は、四十すぎてから大阪市内で保健婦養成校を卒業のあと、おもに奈良県内のあちこちで、ほとんど地を這うほどの意気込みで活動していたらしい。この写真で見ると、さ、どういう施設で働いていたか。

* 写真裏には「二十二の瞳よ幸あれ」「指切りして写す」「昭和三二、一二、」とある。遺著『わが旅 大和路のうた』には「噫々 二十二の瞳よ」と題した三頁にわたる一文と、歌二首が挙げてある。
二十二の瞳集まる わが里の 真上(まがみ)に晴るる 青き大空
右左わが肩に寄る 二十二の 瞳に見たる 神のまたたき
みんなと指切り合うた あの、風冷みたい午後   昭和三二、一二
しかし文も歌も後年、「奇禍」に遭い病牀に就いて以降の回想のようであるから、この写真が昭和三十二年の撮影とは限らないが溯っても数年ではあるまいか。幸か不幸か母の顔には蔭が落ちていても、幸い「二十二の瞳」ちゃんらの表情は、小学生か、なかなかハッキリしている。もっと拡大にも堪える。
文中に「小さいオルガンを頼りに」「日曜学校を開いて来た」とか、「かつて何の由縁も無かった此の寂しい村落に、侘しさも哀しみも忘れて微笑む私だった。」ともある。そして「西田中」の「子供等よ」とあるのが、わずかに「村落」を示す地名でもあるだろうか。

* 母の本のぼやけた写真版で観ながら、これは働いていた母を示す唯一の記念であるとともに、この子供達もわたしには懐かしかった。昭和三十年前後にこの年齢なら、まだこの「瞳」たちは達者に生活されているだろう、母の記憶がすこしでも生き延びているだろうかとわたしは永く想ってきた。そして、図らずもこのちいさな写真をもののなかから今日見付けた。
この家並み、この笑顔たち。手がかりが得られるだろうか。もう白髪をいただいていたらしい母は、自ら求めて福祉園や孤児院や僻地・僻村を選ぶようにして保健・養護活動をしていたという。この母に、わたしは「母として逢った」ことが一度も無いのだ。
2009 10・24 97

* 部屋を片づけ、モノを始末していたときに、「(ほうやの教育)第9号 昭和58年12月15日発行」という広報紙の巻頭に頼まれて書いた一文が見つかった。末尾に添えられた筆者略歴の中には、現在岩波書店の「世界」に『最上徳内』連載中であり、保谷市図書館協議会委員を勤めているとある。文中図書館活動に触れているのはそのためというより、それだからこの文を依頼されたモノと思われる。
とにかくこの時期は、わが家の親子四人が四人とも大人ないし大人になりかけていた「意識的な時期」であった。その意味で、はからずもこれはわたしの云うわが家の「大過去」を証言している。妻も、娘も、息子も、往時をいまどう思い起こすだろうか。

☆ 教育を考える -ごく私的に-   秦 恒平
こく私的に「家庭」内のことから語って、責をふさごう。
娘は大学をこの春、出た。今は、赤坂にある美術館に勤めている。息子は私立高校の一年生、電車通学している。二人とも朝は早い。筆一本の私はたいがい寝床の中にいて、ご苦労さん、気をつけて、とつぶやいている。十年まえまで、私も、超満員の西武池袋線で通勤していた。二足のわらじは五年はいていた。重かった。
四人家族、わが家くらい夫婦観子で話し合う家庭はすくないだろう。国政選挙でも、世界情勢でも、三面記事でも、文学美術演劇でも、哲学でも。
互いに、ずけずけと突っこむ。あげく娘が金切り声もあげるし、息子が怒鳴る。そういうことも、まま、ある。ご近所には申しわけないが、泣こうが喚こうが旺盛に話し合うのが、結局、私たち夫婦の娘や息子に対する「教育」だった。また、「伝達」だった。
そして昨今では、いや、もう数年前より子供たちが家庭の外から内へもちこむ話題が、私にも妻にも貴重な「情報」や「知識」となりつつある。家庭内教育が、親から子へ一方的になされる期間など、そう長くはない。親も子から教えられていることは、沢山ある。
だが、親に対して子が、へんに生意気になることは許していない。これを許すと、家庭の外へ出て、先生や先輩や友だちにも、そうなるオソレが生じやすい。人と人とは密着して暮せないが、そうも隔っておれない。その距離感を、親疎ともどもキチンと計れる物指は、じつは日常に用いるその人の「言葉」「言葉づかい」にひそんでいる。これを軽んじていると、結局は、自分自身の位置を心の内でも外ででも、見喪ってしまう。だから社会人の娘にも、おろそかな物言いはゆるさない。高校生の息子には、実力行使も辞さない。もっとも、そろそろべつの工夫をしないと私の方が体力負けしそうだが。
錯雑きわまりない現代を生き抜くのに、けじめをはかる物指が一本や二本で事足るわけがない。私たち家族が猛然と対話し、議論し、時に文字さながらの喧嘩に及ぶのは、お互い目盛りのちがう物指で、あっちから測りこっちから計って、評価の程を示し合っているようなものだ。その結果、お互いにより適切で、より有効な物指を分かち持てるようにもなる。話し合う時間の長い短いは、さほど大事とは考えない。要は「話し合う」というお互いの了解と連帯感とが、日常の判断や行動に知らず知らず安心と自信と確実さをもたらすようになる。そして知らず知らず、譲れない立場と譲れる立場とを、自分でも、相手にも認め合い、認めさせ合うことが出来るようになる。夫婦といえど、親子といえど、姉弟といえど、整列もすれば分散もする。思考や行為を強いることは許されるものではない。「理解」とは、そういう事だと思う。
仕車柄、下保谷図書館をよく利用する。目下書いている小説や評論の主題にひかれて、借り出す本にもしぜん傾向が生じてくる。また時にはまるで無縁な読物を借りて帰る日もある。どっちにしても自分が今どんな種類の本を読んでいるかなど、あまり人に覗きこまれたくはない。読書の秘密はだいじな人格権なのだ。
「A市の図書館へ行ってきたけどね。あそこじゃ、コンピューターに、利用者の実名を残らず入れてるンだって」
わが家で、こんなふうに「問題」を投げ込もうなら、
「エエっ……それは……」と、すぐ食いついてくる、「モンダイですよ」と。
たしかに機械の使いようで、市民の読書内容は「その筋」の手に容易に把握され、もし悪用されれば恐るべき思想統制もすみやかに可能になる。弾圧も可能になる。事実そういう恐怖が、この戦前、戦中には日本国民を金縛りにしたまま、戦争参加へ駆りたてた。
家族がいつも話し合っていると、こういう「モンダイ」の所在へ、さッと近寄れる。そして「問答」が積重ねられるにつれ、はっきりと娘にも、息子にも自分の意見や判断が、その物指が出来て行くのが目に見えてくる。「核」でも「角」(=田中角栄政権)でも、歴史でも文化でも、ああ、こういう考え方が出来てきたなら、他の事も、かなり安心してよさそうだ……などと。同じ問題を、おおかた一緒に考え合っているのだから、やはり「理解」の幅はひろがり厚みも深くはなる。かりに意見は別れても、なにより親としては安心できる。
特筆しておきたいが、今あげた「モンダイ」点など、わが保谷市の図書館は、申し分ない良心的な配慮で、市民の読書の秘密を守ってくれている。中央図書館もまだ出来ていない。お隣り田無市中央図書館の事務室分とそっくりの広さしかない下保谷図書館だ。けれど黒子館長以下、館員諸兄姉の運営の努力と親切と見識とは、広しといえど日本中にそう類はないように思う。安心して、信頼して、図書館が利用できる。
地域内教育を論策する資格は私にはないが、「超」乏しきに耐えながらのわが市の図書館活動を外から内から眺めていると、あれでこそと思えてくる。保谷もいい町だナと思えてくる。金と物とが有り余っているだけが、住み良い町だとは思わない……と、まァ、そんなふうにもわか家族の話し合いは展開して行くわけだ。
むろん、各家庭でもっといろんな「方法」が工夫きれていい。が、家庭内「教育」は、要は、家族が同じ土俵に入ってなさるべき相互性の濃いもの。ことに学齢にある子供たちを、あたかも「孤児」かのように放りッぱなしは、どんなものか。干渉ではない、熱い親子の取り組みあいをと、私自身は、かつて子供心にひしと憧れたのを告白しておこう。もともと家庭のもつべきものを、家庭の外で、たとえば学校内で自力で補填補充するのは、不可能でないにしろ子供にはかなり荷が重い。つらくて、むずかしい。
そして、日本の学校「内」教育は、そういう悩みを抱いた生徒の魂を癒すには、むしろ年々に抑圧的な管理の目ばかりを注ぎつつあるようにも見える。しかも飲んで食って訪ねて、P(親)とT(教師)との教育「外」癒着の傾向が、ぼつぼつ一部に目立っていないか。PTAの「A」は、Adhesion(癒着)の「A」では、決して、なかったろうに。

* 雨が降っているが、「いま・ここ」の気持ちをもう少し落ち着かせたいために、傘をさしてでも、歩いたり、乗ったり、読んだりしに出かけてみようと思う。もっぱら雨は家の中で聴いてきたが、出勤という窮屈な習慣からはもうこれで永く離れてきた。雨の出をいとうことももうあるまいか。
2009 10・26 97

* たくさんメールを貰っていた。中に、法律事務所からのも混じっていて、目の前がうすぐらくなる。まだ開いていない。さきに湯をつかってきたい。
2009 10・26 97

* よく昨日のうちに責了紙を届けておいた。
発送の用意をわきへのけて、代理人作成の文書を読んでいる。昨年の五月頃に始まった本訴は、もうそろそろ結着かと思った頃に裁判官が交代して、フリダシに戻った感じとなった。新裁判官が、原告「名誉毀損」等の申しようが要領を得ないので、すべて新しく書き直すよう指示されたのが、今年の四月。八月末に原告が提出したのは半分だけであった。その半分に被告代理人が「意見」を出そうという書類が届いたので、わたしはそれを読んで所感を代理人に提出しなければならない。ま、予期していた作業であるが、楽しい用事ではない。
2009 10・26 97

* 法律事務所からの大量文書、昨夜に全部プリントしておいたのを読んだ。事務所へも、返辞をした。
疲れて、夕食前、倚子でうたた寝した。夜分は予定の用事をこつこつと。この用事の時には、日本語の映画をそばで流しておくのがいちばん効率がいい。今晩は渡辺謙がいい仕事をしている「硫黄島からの手紙」を。切なかった。

* 体力をかばいかばい、いまは余計なことは何もしない。
2009 10・27 97

* 根気よく、単調ではあってもぜひ必要な作業を、進めている。越えて行かないと何処へも進めないのだから、根気を失ってはいけない。気を励ます術が必要。体でも気持ちでも蓄積疲労を紙一枚分でも減らせるように減らせるよう工夫して、最良に近い手順を見付けて行く。勤務していた頃から、そう覚悟して不必要に自分の心身をいじめないで仕事できるよう工夫してきた。いつのまにそんなに仕事ができるのかとよく聴かれた。仕事が済んだら思いきり解放されて遊びたい気持ちがあるから出来る。残念なのはもうわたしに『濹東綺譚』の荷風のように遊び回る体力も脚力もなくなっているということ。これはかなり悔しい。

* と思っているところへ、法律事務所から長大文書の第二陣が届いた。じっと堪えてとにかく全部プリントした。数時間かかった。ざっと目を通した限り、わたしの代理人は適切に問題を処理し判断を示していささかも譲っていない。心強い。この分だと法廷でわたしが直接尋問される日もそう遠くはあるまい。
2009 10・28 97

* 涼しいは通り越して、時に肌寒い。自然に重ね着している。寒い冬が来る。十月が逝こうとしている。元気でいたい。

* 例の、じりじりと前進。匍匐前進の感じ。

* 代理人に一任すると返辞して御苦労に感謝した。
2009 10・29 97

* 今日に残してあった発送用意の作業は、留守に妻がみなして置いてくれた。ありがとサン。
2009 11・1 98

* 昨夜から、秦建日子の河出書房新刊『殺してもいい命 女刑事雪平夏見』を読み始めた。好調に滑り出していて、これまでこの系列三作の中でいちばん入りやすい。独特の文体をもっているのがいい。文章は簡潔で表現に富み、いいかげんな説明に堕していない。物書きとして練達の味が出てきている。あまく走った文章に流れなければ、強い書き手になるだろう。続きを読んで行くのが楽しみで、機械の前をそろそろ離れようと。まだ九時だけれど。
2009 11・5 98

* 一通り十五六冊をよんだあと、睡魔をおしのけ建日子の新刊を半ば以上面白く読み進めた。大事な感想・批評も首をもたげているが、読み終えてからがいい。雪平夏見という女刑事の造形はたしかで、面白い。どうしてもドラマ化での主役篠原涼子の顔が浮かんでくる。篠原は、この役をやってはじけて美貌に個性味とゆたかな照りが添った女優、むかしからわたしに、おおおと想わせる意外性をもった女優だった。彼女の顔が浮かんでくるのはこの読物のためには大きなトクだろう。
2009 11・6 98

* もう随分以前、「日経」の「プロムナード」に連載していたときの、一編。保管庫にこれだけが単編で残っていた。読み返して気分はそのままなので、拾いあげてみる。

玉ならば磨けよ   父

「お宝鑑定団」とかいう番組を、たまたま茶の間に首をつっこんで、テレビでやっていると、つい見てしまう。
興味は、古書画や骨董。品物の写真をじっとにらんで、専門家のより先に、及ばずながら自分で鑑定を下してみる。どの程度逸れたか当たったかを楽しむのである。
成績は、まずまず。
毎月、その手の図録が美術商から送られてくるのに、興味深く目を通しているお蔭かな、と思っている。
ひそかに自慢にしている「うちのお宝」の、あれはどうだろう、これならどうだろう…などと内心ドキドキしたりする。ナニ、みな安いものばかり、かなり怪しい。
負け惜しみをいえば、貨幣価値はあまり気にしない。本物か写しかもそう気にしない。それなりに佳いモノだと嬉しい、そこを専門家の「目利き」に聴いてみたいと、黙って厚かましく思っていたりする。
だが、わたしの本当の「お宝」は、古書画でも骨董でもない。もう二十何年か、ずうっと仕事机を置いたすぐ脇の鴨居に掛かっている。幼稚園でか、遅くも小学校へあがってまもない息子が、建日子(たけひこ)が、「父の日」に教室でつくってきた「プレゼント」を、ピンでとめ、思い屈するたび目を向けてきた。
青いやや厚手の表紙の、中に、白い画紙が二つ折りになっている。
表紙をあけたその青い裏側には、お世辞にも字のうまいと言えない息子にしては、太いサインペンのなかなかしっかり整った字で縦に、高く、「お父さんへ」と先ず書き、すこし間隔を開いて中央二行に、「いつでも日の出づる人になっていて下さい。」とある。
またややあけた左下に「建日子」と署名してある。誕生後直ぐ産院事務に届けた目の前で、事務員が、姉・朝日子の次の、「次女ですね」といともあっさり女の子にしてしまいかけた名前が、デンと、いつも好もしく目に入り、この「プレゼント」こそは、私の一の宝物でありつづけた。
左の白い紙のほうには、これは鉛筆らしい、上へ横書きに「おねがい」と書いてある。青と白との見開きのまま、私の仕事部屋に変わらぬ位置を占めた幼い「メッセージ」は、言わず語らず父親の日々を支えてきた。支持してくれた。
その後二十余年の息子のいろんな行状、必ずしも芳しい一方とも言えぬ行状と、その「お宝」とは、優にバランスがとれていて、いや、まだまだ「いつでも日の出づる人に」と呼びかけてくれる息子の声は、より嬉しく、光放っている。
どうしてこんな言葉を書いたのだろう…と、想うだに、素直に私は励まされてきた。
その秦建日子が、去年、会社をやめた。つかこうへい氏の指導で、いつしかに彼は戯曲を書き演出するという仕事へ、私も知らぬまに変身し、もう六作めの銀座公演を、この八月十日には終えていよう。いい舞台に創り上げただろうか。
「会社やめます」と告げられ、反対する術をあのとき知らなかった。こっちも似た道を歩いてきた。
「日の出づるように」と酬い返しつつ、いい鑑定団に、委ねたい。

* 朝日子、元気にしているだろうか。
2009 11・6 98

* 夜前、息子の、秦建日子の『殺してもいい命』を読み終えた。読み終えて、これがわたしのいわゆる「読み物」の域から「文学」の域に半身を入れた、これまでの建日子小説の中でいちばん優れた一つになっていると理会した。
半ば近く読み進んで感じていた不満を先ず書いておく。
題名にも「殺」すという言葉があり、人が人を殺すというのは謂うまでもない容易ならぬ動機、苦悩や憤激や怨嗟や絶望があるもので、読者は、殺人小説に堪らない思いとともにドスーンとした人生の重みを覚える。松本清張の優れた作の幾つかなど、そういうふうに印象に残っている。ただの「読み物」を超えた人間の苦渋や人の世のきつさ、きたなさを思い知らせ「文学」の域に入ってくる。この秦建日子の新作にはそれが感じ取れない、殺人がただ「読み物」作りの必要だけで用意され消費され濫費されている。感動や感銘とは無関係にストーリイが紡がれて行くだけではないか。その限りにおいては簡潔な文体で、意外性も伏線らしきもきちんと用意して巧みに物語られているんだが…と。
さて、読み終えて。上の印象をくつがえす作ではなかったけれど、清張型のリアリズムとは別質の「人間」把握、いうならば底知れない人間のもつ気味悪さ、論証によって明らかにされるような人間のリアルを無視したシュールな不気味さ、いや気味の悪さ、を持ち出している。日本の推理小説が、清張型の社会性や時に政治性を衝くことでリアリティをもとめたのとは、意識してか無意識にか、この『殺してもいい命』は不合理と不条理との「人のこわさ」「人の気味わるさ」を主題化して表現したといえる。ヒロインが犯人と向き合って銃弾を放つことをせずに、犯人の恣まな銃撃に斃れるのも、いわばヒロイン自身が身に抱いた気味の悪さを自ら撃ったにひとしい。そこまでたどり着いて、はじめてヒロインをはじめ殺された者、殺した者たちの過去や人生が、かすかに何かを証するように微動する。そのまま小説は一段落している。
自然派の、あるいは社会派の謂っていいが、要するに自然主義文学がハバをきかせていたとき、青年谷崎は、人間の人間であるが故の気味の悪さを美しくひっさげて文壇に現れた。荷風は、谷崎が「都会的な人間の神秘」を書いて新しいと指摘した。そんな話を此処へ持ち出すのは明らかにものの言い過ぎである。が、秦建日子の新作をあげつらうのに、便利ではあるなと感じたので言っておく。荷風は潤一郎を絶賛した。わたしは、称讃というよりまだずっと手前で、たんに「指摘」するにとどめる。俗には俗の質感があり、作者はそれをすらぬぐい取るように文章の上で洗いとっている、と感じられるが過度に俗のよごれをおそれなくてもよい。やりすぎると綺麗なつくりものになってしまう。
ともあれ、読み終えて父に「おもしろかった」と素直に頷かせたことは、建日子自身の文学上の意識や自覚とは関係がないだろう。肉親にだけ分かるいろんなメッセージが発信されているのも感じるが、それはそれ、それだけのこと。彼には彼の手探りが続くであろう、そうでなければならぬ。
2009 11・7 98

* 昨日は法廷の日だった。原告、つまりわたしの婿と実の娘とが、わたしに対し著作権侵害で多額の損害賠償を求める「やり直し」訴状を提出したのが、今日送り届けられた。わたしは、青山学院大国際政経の教授である婿・★★★の著作も論文も、片端も目に触れたことがない。わたしや妻を、学者である婿の経済援助も出来ない非常識人と罵倒し嘲弄してきた手紙類を、適切な範囲で引用しながら「小説」を書いたことがあるだけ。問題にならない。
では、何を以て。
亡き孫で、亡くなる日まで親しいマイミク同士でもあった★★やす香生前の「mixi」日記や祖父母への親しいメールを、祖父のわたしが日記文藝としての創作である『かくのごとき、死』に用いているのは、著作権侵害でかつ名誉毀損だという。量的にも適切、その表現効果上の用い方にも、なんら問題はない上に、やす香とマイミクになるについて生前の約束も出来ている。
また、娘・夕日子が数十年前、結婚前に書いて親の家に置いていった文章を、父親のわたしが惜しんで、ホームページの「e-文藝館=湖(umi)」に掲載していたのは著作権侵害であり、損害賠償せよと言う。娘の書いたモノを「e-文藝館=湖(umi)」に載せてやって、わたしは手間をかけこそすれ、何一つ金銭の利益などとっていない。いい読者の目に、親ばかながら娘の書いたモノを読んでもらいたかっただけで、事実、プロの書き手も含め大勢の読者の好意の批評もたくさん貰ってこれたのである。そういう状態が、七年も八年もつづいて、その間、父は娘から一言半句の苦情も受けなかった。なにが著作権侵害かと惘れてしまう。「e-文藝館=湖(umi)」には親ばかとして作品を紹介したのであり、その甲斐すら実は娘のために有った。それを無視して、すべて今回、突然の損害賠償請求なのである。
娘の文章を父の文章に引用する場合も、著作権侵害になるようなことは量的にも質的にも全然していない。親として、作家として、娘の書いたモノに、コトに、時に応じて関心を持っただけのことである。
訴状をまだ読んでいないが、親にむかい無根拠に法外多額の賠償金を請求する一方で、地元小学校では小学生対象らしき教導的なコラボ活動を、本名を隠し、仮名で現につづけている。父であるわたしは、自分の娘の、そういう二た道を取った表裏ある姿勢をく好まない。いいことはすればいい、が、心にやましいことはないのかと問いたい。

* ま、まだまだこの先は長いようである。鏡は来れば映し、去れば追わない。そういうこと。
2009 11・10 98

* 朝、建日子がブログに「最近、思ったことを、つらつらと」吐露している少しいつものよりマシな述懐を読んだ。人一倍世故に長けていると内心自負していながら口先ではウブがるヘキのあるのから、徐々に卒業気味か。四十一か二か。井上靖夫妻に誘われ、巌谷大四さん、伊藤桂一さん、清岡卓行さん、辻邦生さん、大岡信さんらと、四人組追放直後の北京や大同や紹興や上海に旅したわたしと、息子も同じ年頃になった。かなりしっかり独り立ちした。わたしのアタマの追いつく間に、創作者・秦建日子の「生きた言葉」にたくさん触れたい。
2009 11・24 98

* 秦の祖父や両親・叔母たちの昔の写真が、整理もなく一山もものに入れてあった。誰、何時、何処と分からないのもたくさんあり、わたしでそうなら子供世代にはほとんど意味不明。わたしの手で処分しておくしかない。明治の頃の風俗の知れるものも有る。父が大陸へ出征していた頃の絵葉書なども。
なかに、これは船岡山の従妹、母の姪の若い頃ではないかと思う写真が一枚見つかり、ファイルで送ったら、やはりそうだった。

☆ 京都、のばらです。
わぁ~、この写真私と長女の由紀です!
たぶん船岡公園で撮ったんでしょうね。
当然ですが、若いですね (笑)
懐かしい写真ありがとうございます。
嬉しかったです。

* そんなに頼りないほどわたしは、親族のことに疎い。知らない。いまはメール交換できる従妹とも、せいぜい国民学校つまり小学校ごろの昔に数度会っていたかどうか。この写真も母の遺品らしかったのでそうかと察したにすぎない。従妹には下にもう一人二人妹があった気がするが覚えない。父と碁を打ちに見えていたので伯父さんの温顔や声音は覚えている。

* 「あんた、もらひ子え」と人に囁かれていやおうなく知った昔から、わたしは「しんるい」と呼ばれるぜんぶを無縁なものとし、受け取ろうとしなかった。いまではその「しんるいの人たち」がとても数多いと分かっているが、只独り両親をともにし血肉をわかちあった「兄・恒彦」が死んでしまい、母をともにした姉や兄たちもみな死んでいる。父をともにした妹が二人川崎市にいるが、父の葬儀のときに初めて会い、以来会う機会もない。
そう思ってみると、「京ののばらです」と名乗ってメールを呉れる上記の従妹は、いま、身方の親類していちばん間近い人になる。遠い記憶の従妹は十歳前後の少女だったし、見付けた写真では長女を抱いた若い母親であるが、わたしよりせいぜい一つか二つ若い七十過ぎ。
2009 11・28 98

* やす香のお友達から妻へいろいろ贈り物を戴いた。なかに、黒いマゴがとびついて興奮する布でくるんだスマートなペンギンがいて。
妻も元気、マゴも元気だと、いつも安堵の息をつく。
2009 11・28 98

* この師走には、伝えるところ十二月二十一日わたしの七四歳誕生日には、建日子の小説本が新潮社から出るという。これが嬉しい。

* 若い人に席をゆずっているのではない、が、若い人にはどうか活躍してほしい。
2009 11。28 98

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