* 元旦 卯の春を憂無げにいはふ初日の出こころ静かに夫婦(ふたり)して生きめ
* 二人で、雑煮を祝った。建日子はどう祝ったろう.朝日子は。
〇 あけましておめでとうございます。
まだまだコロナは終わりが見えませんが、用心深くお過ごしください。
ちなみに、僕の2023年は、
2月に舞台の本番と、新作の小説の発売。
3月に舞台の本番と、脚本を書いた映画の公開。
という感じで始まります。
映画はそのうちテレビでもやると思います。
頑張ります!
☆秦建日子☆TAKEHIKO HATA☆
2023 1/1
* 夢は見ないで、寝ながら「唄」に溺れていた。「夕焼け小焼けの」だ。それも「赤とんぼ」でなく、「十五ぉでねえやぁは嫁に行き」の「お里ぉの便りぃもぉお、絶えはぁてぇた」の「おしまいの一句」ばかり。歌詞の記憶が正確かも確かめられないが「絶えはぁてぇた」ばかりが眠りの底へ蘇り続けた。
「十五でねえやは嫁に行」くとうたうのが、わたしは小さい頃、苦痛だった。数え十三で小学校をあがり、二年の「実務女学校」なるものが、わたしの母校校門からすぐ突き当たり横一字の木造二階校舎が建ち、二階の窓辺に「おねえさん」達がよく顔を出し談笑していた。其処へ進学して卒業すれば、ちょうど十五、「嫁に」行く、行ける歳であったのか。秦の叔母ツルもそんな学校へ通い、裁縫など習ったと云うていた。叔母は布かし習性嫁がなかった。
「開校一」によく出来たという秦の母タカは、富んでいた家が俄かに零落し、その程度の学校へも入れて貰えなかったのを生涯の無念残念悔しさに、九十六歳で亡くなるまで、話題が「学校」になると悔しがって泣いた。
「絶えはぁてぇた」「絶えはぁてぇた」と終夜、夢にわたしは口ずさみ続けていた、ようだ。そして五時前には床を起ってきた。わたしを底でとらえる価値観は、思想は、そんなメロディに養われてきていたワケだ。一言にして「感傷」か。後年、シラーと出逢って彼の主著の題にこの「二字」の含まれたのを見、粛然としたのを忘れない。
あまりに屡々言われたが、「変な人」であるのか、やはり私は。
2023 1/2
* 妻と、ポストへ妻の賀状を投函に。私は猛歳久しく暮れ正月が過剰な「年賀状」に滅入ってしまうのを断乎と避けて、一枚も書かないと決めてきた。
ポストからの脚で、近くのひそと静かな「天神社」へ初詣で。
2023 1/2
* 清潔に,置いたモノの寡い書斎がよく褒められていたのを、子供心に覚えていたがる。が、まや私の六疊一間、壁には作り付け元朝名書架は造りつけてあるが、それにしてもナンという華麗とみまがう混雑の賑わいよ。障子も襖も戸袋も原形無くなく張ったり貼ったり継いだりネコにやぶられたり、凄まじい。美しいカレンダーの繪や写真も、お相撲のカレンダーも、気に入りの大ポスターも 必要な翁地図も、いただきものの絵画系美術品も、写真の気に入った郵便葉書も、何デモかでも貼ったり置いたり飾ったりしてあり、それでも、井泉水「花 風」の二大字額も、秋艸道人書の「学規」も潤一郎書「鴛鴦夢園」の超大な南洋大豆殻も、高城富子さんに頂戴した「浄瑠璃寺夜色」の美しい繪も,南山城当尾の父方吉岡本家国指定の有形文化財大写真も、朝日子の石膏顔自像も、沢口靖子大小七枚者写真も、のこりなくそれぞれに所を得て観にくくは衝突していない。白鵬、テルノ藤横綱土俵入りはじめお相撲さんのカレンダーもいきいき貼られてある。
一つには大きな書架に、私の「秦恒平選集」全三十三巻を囲んで多彩に何種もの全集や大事典の満杯なのが音楽っぽく賑やかな「書斎を睥睨」している。とても人サマはお通しならないが、恐がりのわたしも、はおかげで、此の室に何時間、夜通ししていても淋しくない。「湖の本」の全巻もならんでいるし、金原社長の下さった献辞入りの好い写真も、父や母や妻や建日子ややす香の写真も、愛ネコの「ノコ」と浴室で相見ている愛らしい写真も在る。ゴッホ描く「靴」も「阿修羅像」も、懐かしくも亡き龍ちゃんとしか見えない少女画も鼓さんの描き遺して行った風景額も谷崎先生の六代目の向こうを張られた御顔も、ピカソの「平和の鳩」画も、京博倉の「隅寺心経」の麗筆も、むかしむかし妹と愛した梶川道子の中学の修学旅行土産の飾り栞も、みな所を得てこの煩雑に場を占めている。私はえらい人ではない、こういう嬉しい人なのである。誤解しないで欲しい。
2022 1/6
* 倦まれたあの日を思い出しながら、今から、カーサンと、建日子誕生日を祝い 赤飯を 戴きます。 おめでとう。 父
人間世界は烈しく動揺し 自然は衰貌に傾いています。が、動揺のみしているわけに行かない。建日子には建日子ならではの、父には父のいのちが「生・活」を求めて衰えては居ない。踏みしめて歩み続けたい,建日子は登り道を行け、父はしかと区下り道を踏んで行く気。それぞれの景色を楽しもう。
カーサンを、頼むよ、建日子の愛と配慮とに信頼しつつ。
建日子自身の健全/健康がとても大切と、父は見守っています、いつも。
父は、いま、毎朝『ツアラトゥストラ 斯く語りき』に聴いています。
2023 1/8
* 何十年も前、三階、左右に三軒ずつの社宅に暮らしていた.三階の左に入っていた。まだ長内朝彦と両親との簡明な暮らしだった。三階までピアノを挙げていた。向き合った中間は階段で、踊り場と謂った広さも装飾部分も無かった、ただ階段だけ。
* 時期は覚えないが、各階の中に踊り場のやや広い、しかし向き合いに部屋があるだけの、まるで別の社宅っぽい夢を何度か繰り替えして夢に見ている。社宅で無く,住人も知らないよそ人たちで、親交と謂ったなにものも夢にも記憶が無いが、やはり三階の左方に暮らしていた。夫婦二人か、時には私がひとり独居していた。この社宅には,地下に共用のやや広い浴室があった。洗い場よりも湯の箇所の方が広かった。そして、過去の何十年かに何と葉無く数度はその社宅での夢を見てきたが,夢にも閑散と何のおはなしも無かった。
昨夜、実に久しぶりにその社宅に独りでいた。妻も朝日子もいない、独居だった。
前後に何の「事」も「関わり」もなく、しかし、明らかに相次いで二度セックスを夢見た、清潔に熱くて実に見事という交接が二度続いて夢は覚めた。身を重ねた相手の名に一つも覚えが無く、ただ見事に体麗で綿密な交接だった、二度あった。夢は、くっきりと、しかし素早く立ち去った。わたしは若かったか。いやわたしはちがいなく「やそしち老」に相違なかったが、不如意な何一つ無く密接であった。つまりはわたしは矍鑠と健康な老体であったと謂えよう、それに満足した。ケッコウだと実感し、夢に何の前後も無かった。
* こういう夢をわたしはまだ見るのか。フーンという心地だった。そこに具体的な助勢が全然漢詩競れず、簡潔に清潔な女体だけが健やかに無表情に実在していた。静かに熱かった。
* ハイ、それまで。いま、六時半。まだ世間は寝静まっている。「ま・あ」はもう大好物の削り鰹をそれぞれにちゃんと貰って行った。わたしは。やや空腹感。
酒は、避けようと、決めた。決心の長続きに期待する。呑めば寝てしまうのだ、そして体調を崩す。秦の父は完全な下戸だった。秦の母はあれでお酒を少し含むことに,テレながら嗜好を感じていた。秦の叔母は、茶事の際の盃ごとに馴れていた。
私は、この秦埜叔母に連れられ、裏千家がゅさいの琵琶湖畔での悠遠会に連れて行かれた幼い頃に、さ、五年生頃か,中学にまだの頃、大人達の嗜む酒なる飲料に興趣とうま味すらとを初体験した。しかし、修飾語も、家で酒を飲むことは久しく無かった、が、作家として編集者と付き合う頃からは、接待してくれる編集者側がへきえきするぐらい、平然と酒量を上げていた。しかし,明らかなこと,酒は呑みすぎないが宜しい。ここのところ、それで体調を崩し気味であった,明らかに。
2023 1/10
* 浄瑠璃寺夜色 すばらしく佳い。繪と同じほどの大きい写真で、お寺に近い当尾の、父方祖父の屋敷と並べて観ている。「秦恒平」以前の自分を感じられる。
* 下保谷は 人少なく、静謐で、市街感覚を全く忘れて暮らしている。
2023 1/10
* 近来に無かったほど朝寝した。出来た、とも。手洗いには夜中三度も起ったか、どうか。起きる都度努めて御茶で水分も補給するし、日によっては暗闇のなか手探りに「のど熱」薬、「乳酸系」腸薬「龍角散」を服して体調に資している。この数日、からだへアルコールは日に缶ビールせいぜい二本しか容れていない。「空腹」かんも覚えるように。しかし「食」欲に成らない。濃厚計の食はからだが忌避する。求めて好んでいつも呑みたいのは妻が「特製」の出汁スープ。これは、頗る美味い。二杯も欲しい。「米」の飯に食は全く湧かない。何故か。とんがった鍼のように米が堅い。粥にしてすら米が堅い。京都の頃の、東京へ来てからも、この十年も前までの「米」はこんな凶器めく堅さでなく、いわば餅・餅とむっくり柔らかだった。旗の父はそういう米の飯の大好きな人だった。御飯だけでも満足して(但し梅干しは絶対にノー)食していた。わたしもその白飯の温かなうま味は覚えている。昨今東京の米の「固さ」と謂ったら無い。寿司屋の握りにも固さがある。東京内侍、原産地の製米・精米の拙さなのではないか。
わたしはもともと魚がむしろ嫌い。「鰈」しか食べなかった。実はナマの魚も心中には危ぶむ記が抜けてない。
高級の「中華料理」を事に好むのは火が通っていると、前庭だけでも安堵しているから。上等のステーキ、牛肉、よく揚がった厚いとんかつ、鱧、鱈、蟹、海老、新鮮な牡蠣そして蛤やいい浅蜊など貝類などが好き。危ないモノには手は出さない。得体の知れない料理モノには手を出さないし、くさい香料物や濃いに原形をとどめてない判じ物も、ノー。
* 寿司は、なくなった元の銀座「きよ田」が極まっていた。相客もよかったが、大将がよかった。辻邦生さんが、中国への旅仲間として最初に連れて行ってくれた。妻ともよく行き、眞実寛げて美味いこころよいお店だった。一度、朝日子のお祝い日に連れて行ったら、後日、大きな出版社の親分株に、子連れで入る店で無いと𠮟られた、が。そういう斟酌はわたしはしないのである。じつは「沢口靖子」との縁を仲立ちしてくれたのは「きよ田」の大将。いま家に或る疊代の大きな靖子写真の大方は「きよ田」が声を掛け、送られてきたのだった。「きよ田」の想い出は尽きない。これに匹敵して想い出の懐かしいのは、バー「ベレ」だった、ここへも家族中で馴染んだ。じつに「ワケ知り」の気っぷの豊かに朗らかな聡いママだった。想い出は尽きない。巌谷大四さんが最初に連れて行って下さった、歌舞伎の半四郎たの、沢山の有名な漫画家だの、新聞記者だの、たくさん知り合った。
あーあ。朝から、こんな想い出話とは。朝起きの空腹感。あれれ九時過ぎ。
2023 1/16
〇 今日(25日)は寒い日でしたが、三日月の美しい夜です。
八十七様 今日は、湖の本161号をお届け下さり 本当に有り難うございます! その後体調は如何でしょうか。毎日寒い日が続いているなかで 湖の本をよくぞ頑張って出されましたね。いつも本当に その意志の強さに驚いてばかりいます。
また先日は、中川肇氏の貴重なクレーのカレンダーを有り難うございました。ご自分で集められたクレーの絵をスケッチブックに貼って全集を作られたとは! そしてカレンダーも発行され それも今年で終わられるとは… 。
どうかくれぐれもコロナやインフルエンザには気をつけて、この寒い季節を乗り越えて下さいね。
最近は落ちた椿の花の絵を描いている いもうとより
* 美学藝術学を学んできながら、私、造型の能はまるでない。「絵を描く」「繪を先生に提出する」というのが、学校時代の「苦の種」だった。妻も、此の妹も、ことに「いもうと」の方はプロで通用の才能を作品として観せてくれる。詩集も出している。はやく亡くなった「おにいちゃん」保富康午も少年の昔から詩を書き、草創期のテレビ社会で制作者としても活躍していた。妻とは私、その頃に出会った。
コロナもあり、久しくも顔を見ない。元気に長命なされや「いもうと」よ。
2023 1/26
〇 紅梅が
大寒らしく寒波がきて雪が降り、袋田の滝も凍りました。全面凍結はしばらくなかったので観光地は悦んでいます。でも、すぐ溶けるのでしょう。
コロナ以外にも外出を躊躇する寒さですが お元気でしょうか?
珍しく私は今日は水戸に泊まっております。
間もなく二月、水戸では紅梅が咲いています。植物は確実に季節をとらえますね。 寒いですが お身体の調子が良いことを祈っております。 司
* 季節感に彩られた爽やかなお便りはひとしお嬉しい。袋田の滝は妻と、わざわざ、と言うか池袋駅でふと思い立って観にでかけた。瀧への入り口近い旅館で、大きな深い白木の浴槽にまんまんと湯を湛えた浴室を遣わせて貰ったのが素晴らしい想い出になっている。侘卓しん゛「温泉」を謂うときは、此の想い出につよく惹かれている。
2023 1/29
* 高校三年、誰もが切望の「京都大學」を見向きもせず、他大學受験も一切打ち棄てて、早々成績推薦の無試験で、ためらわず「同志社」に籍を得ておき、ひたすら独り探遊して「京都」なる歴史・自然の「栄養」を堪能し尽くしていた、私の、むかしのハナシ。十年余若い親愛なる「尾張の鳶」は、はるばる当時東海地方から京都大学生として京都へ來住した人。
「試験」なるもの、「生徒」時代だけで飽き飽きしていた。就職試験だけは通らずに済まなかったけれど。
* 生まれてこの方、袖も触れ合わず互いに「もらひ子」として別天地に育った「実兄・北澤恒彦」のことは,一言で言えば「よく知らない」まま顔も合わさず、五十歳ころまでも別天涯に「人為的に」離されていた。
初めて出会って、実感としては「あ」というまにもう「死なれて」いた。
彼のことは、私より遙かに、よく、多くを知った「知友」が大勢いて、私の出る幕はもともと「無い」のである。「出よう」が無い。
2023 1/31
* やがて、八時。「マ・ア」の朝御飯時間。わたしも、すこし空腹。階下へ。
2023 2/10
* 六時起き。
「アコ」が、明け方、やや異様なま寝ている私に甘えてきた。夢うつつに体調を案じてやる、が、なにしろ北向き戸外の積雪は残っていて、寒い。「ネコは炬燵でまるくなる」との童謡の証言は不滅。ああ寒い。
着替えなどあれこれのあと、機械へ来たところ。
朝食は、早くても八時、「マ・ア」ズと同時に供される。「マ・ア」ズはもう、私から大好物の「削り鰹」を、少しずつ、貰っている。一日に、数回私を訪問し、好物を静かに強要。そのつど、食後の遊戯めき襖を噛み砕いた穴・穴を広げて行く。寒いよ、狭い部屋でも暖房が効くまでは。
* 「建国」とまではシカと自覚しづらい。茫漠と「紀元節」の方が懐かしい。こんなのは、神話っぽいのが大らかに胸に納まる。紀元節というと、少年の昔は熱い粕汁がキマリだった。「酒粕」「酒」も大好きになった。秦の父は、雫ほども酒がダメ。母の話では若い頃は茶屋遊びしたと聞いたが。
* そういえば昨晩は妻と映画、最高に盛りの頃の木暮実千代・デビューしたばかりの若尾文子の『祇園囃子』(編集短縮されていたが)を久しぶりに観た。高校生も早い時季だったが、四条河原町の映画館、満員の立ち見で独りで観た。かなりの刺戟作と観た、少年ながら。
育った家は、抜けロージの一本で花街・甲部乙部の祇園町と背中合わせだった。尋常の道路は無く、「隔て」られていた。いくら隔てても、祇園のこと、子供にもよーく知れていた。秦の父に甲部と乙部とどう異なうと聞くと、現下に「藝妓と娼妓と」と。明快。とはいえ、藝妓の甲部とて…と子供心に「分かって」いた。その分かっていた内実をえぐるように描いて見せたのが映画『祇園囃子』、高校生とてなにも吃驚などせず、即、納得した。通った祇園石段下戦後新制の「弥栄中学」へは、乙部の子も甲部の子も同学年で大勢通学していた。じつに「異色」の新制中学だった。私の処女作で、好評注目されてそのごの足どりを華やかにしてくれたのが「祇園の子」だった。幼い実在したヒロインは、利発によく出来た「祇園乙部」の置屋育ちの子だった。知恩院新門前から通学のわたしは、その印象清潔な同年女生徒を、遠見に、敬愛すらしていた。昨晩観た映画「祇園囃子」は
変わりなく胸に食い込んだ。「男」という「獣を」概して「嫌う」ようになって「学んだ」映画であった。なにとなく、見聞体験の材料はまこと豊富なのに、わたしは「祇園」をめったには小説にしてこなかった。
2023 2/11
* セイムスへ妻と。薬品や「マ・ア」ズ用の砂など、タクサンに買いものして重い荷を持ち帰った。さて、それで疲れたと謂うこと、無かった。
2023 2/14
* たった独りの孫の「押村みゆ希」に大人の優しさがあって呉れればと妻とふたりでいつも待っている。率先祖父母を労ってくれた亡き姉の「やす香」のように。「やす香」の写真はあちこちに置いて、一日中、真夜中でも、欠かさず「おじいやん」は話しかけている。
2023 2/17
* いま見入っている日付等から「白詩 江客に贈る」画面、真っ白い地も鮮鋭に黒い漢字もひらかなも、美しくて見とれている。早朝の冷気につつまれ、戴き物の綺麗な「肩背覆い」も、部厚い温かな「膝掛け」も有難い。かすかに空腹感もある。朝食は「マ・ア」ズと一緒の、八時。
2023 2/21
* 「アコ」が妻あしもとの隙をみて家出、いいお天気なので少しく遊ばせておく。必ず帰ってくる。
* 私昼寝の内に「アコ」なにごとなく帰還したが、「マコ」に猛烈に𠮟られていたと。いつも、こういう結末。いい兄弟。どっちが兄で弟かは判然としないが。
2023 2/22
* 就眠前に処方の利尿剤を服さなかった。のど元へ来る不快をあらかじめ抑え、『薔薇の名前』『参考源平盛衰記』『水滸伝』を読んで、前夜も早い内にリーゼ一錠とともに寝入ったろうか。
夜中の尿意に起こされることなく、安眠のうち、四時半に目覚め、そのまま起きてきた。繰り返し排尿してない分体重減は無いが利尿剤と浮腫止めを併用すれば三十分余ごとに尿意で起たねばならぬ。,眠りを寸断されないのが助かる。利尿剤は、朝飯後に服することにする。いま、五時半にも藻ならない早曉、強い空腹感がある。朝食は、八時、「マ・ア」ズと一緒。
2023 2/25
* 家の中で、確かに締まって老いたと確信してきた極く大事な物の在り場が分からなくなっている。緊急咄嗟の時に老夫婦は困惑のそこで藻掻くだろう。老耄は家政にさし逼って濃い翳を既に差し掛けている。困った。
2023 2/26
* 幸か不幸か ひな祭りとも縁が無く今朝を迎えた。もう何十年前かの二月二十五日に、孫の「やす香」と「みゆ希」とで嬉々として棚飾りしてにこやかにオジイやんの写真に撮られていった。あが「やす香」と戸顔を合わせた最期になり、あの年七月二十七日、はは・朝日子の誕生日にはかなく、まこと儚く病死した。「みゆ希」はひな祭り利した日以降、一度も顔を見ず、何処に暮らし、結婚したか、子が、つまりは私たちの曾孫があるかどうかも知れない。娘の朝日子とは、あのひな祭りのはるか昔から真向きに「かお」も見られない。
実の父とも生みの母とも、また実の兄とも、ただ「一日」として一つ屋根の下に暮らした覚えが私には無くて、死なれている。さんにんともに自死ないし自死に近かったらしい。何というはかない「血縁」よ。
私が血縁を頼めないとを「覚悟」して「身内」「眞実の身内」を血縁を頼まぬ他人たちの中に切望した生涯は、だれかが謂うた、「小説「を書くために小説のように生まれ、妻が謂う「生きた小説」のように老いて老いて、ただ老いててきた。「妻」と「建日子」とがいてくれた、よかった。ありがたし。
2023 3/3
◎ 「かくあい(かくわい)ということば
久しくも久しい「友」であり「師」である「常用の辞書」、久松潜一監修『新潮国語辞典』の、もはや表紙も背も裏も頁の中にさえ手荒にガムテープで補強されて,片時も「読み・書き・読書と創作」の仕事のそばを去らないのに,心底感謝している。新潮社で「新鋭」の名のもとで「書き下ろし」長編小説が数人の新人にもとめられ、私は、一,二年も『みごもりの湖』と取っ組んでいた始めに、編集担当の池田君が上の辞典を呉れた、何よりも言葉と表現を大切に、と。
あれから何十年になるか、往時は渺茫と遠くかすんでいるが、此の辞典は無二の友として身のそばを離れなかった。有難くも心強かった。
「国語辞典」に身を寄せて愛し信頼していない「書き手」など、同じ文藝の仲間と私は思えない。思わない。正しく識らずに無茶に遣いかねない「ことば」は、よほどの手だれでもたくさん抱えていて、なに不思議なくも、当然。その事実・現実に畏怖しない「書き手」もいい加減なもの。いい加減な発語や表現は、じつは、やたらと多いのだ。
ところで、何日か前から、私、「かくあい(かくわい)」という「もの謂い」に引っかかって来た。まだ両親や叔母と京都で暮らしていた昔から、おとなは、ときどき、「かくあい(かくわい)」が、「いい」「わるい」と口にしていた。「うまいぐあいや」「なんか、うまいこと加減できん・調子が合わん」といった感じ方らしく、それなら「具合」と同じか、ちょっと感じ違うかなあと思っていた。「工合・具合」には、「体裁、対面、都合、それに健康状態」また「道具の遣い加減」を謂う「意味・意義」がハッキリしていて、どの辞典でもそう説明している、が、「かくあい(かくわい)」が「いい、わるい」と自分でも謂うたり感じたりとは、「ちがう」と子供なりに謂いも聞きもしていた。
それとても、しかし意識して記憶に値いするとも思わず、無数の日本語、日用語の「ひとかけら」で、平時に事ごとにいつも覚え、また用いる言葉では無かったし、忘れて不自由といった語彙でも無かった。
ところが、ここの処の、いつ時分からか、老耄のすすむにつれ、なにかしら、爲るも為すも不器用になってきたにつれ、「かくあい(かくわい)」がいい、わるいと、奇妙に日用の「機微」に触れたかの「単語の一つ」が、私の「暮らし」にありあり蘇ってきた。
例えばである、身につけて間もない不馴れな着衣の釦と釦穴とが変にシチくどく合わない、合わせにくい、のが、いつしかに馴れて、手探り一つで容易に役立ってくれる。身に添いにくいと感じたモチモノや道具や衣類が、いつ知れず身に合い着こなし使い慣れている。そんなときに「かくあい」が掴めてきた、知れてきた、「かくあい」を覚え馴染んできたナ、などと「謂う」て来なかったか。
「かくあい」佳いのはうれしく、何かにつけ「かくあい」の好いと悪いの差異は、意識するしないなりに、妙に生活上の行儀や作法の「コツ」かのように思い馴れているが、私独りの独り合点か。
2023 3/4
* ふっと、濃い深い孤りの淋しさを感じる。「人と逢う、話す」ということが絶えている。建日子とさえ、一年に三度ほども顔を見て、しかし對話の余裕はいつも殆ど無い。「さいなら。元気でな」と帰って行く車へ声をかけるだけ。毎日のように、ツイッターだか何かで「現状」は報じているらしい、が、「世間への發声」であろうし、それすら私にその「場面」を開く機械上の手順が無い、機械の技術に遮られて、わたしにはマッタク読めない。彼が、どんなに多彩に生き生きと活動し、何を感じ考えているのか、父の私には何も見えない、判らない。
「老いる」とは、こういうコトかと思いあたると、より早足に「今」を立ち去って行こうとの実感に逼られる。
思えば「読み・書き・読書」と自身を律した「日乗」に、いきいきと愉しく交わす「對話・会話・談笑の言葉」が、歴然、脱け落ちているのに気づく。妻とは話せるが、家庭的な日常語に限られやすく、「智・情・意」を分母にした生新の情報味を求めるのは「他人」で無いだけに、却ってただ尋常に停頓し、難しい。
自然「読書」にのみ頼って、これでは、生ま身の人間同士の「ぬくみ」に欠ける。「恰好の他者」として「猫たち」だけの居てくれる暮らし。「健康」とは言いかねる。
2023 3/13
◎ 令和五年(二○二三)三月十四日 火 結婚六十四年記念日
○ むそよとせ みぢかに生きて永き世を 観・聴き・語らひ 彌(い)や和やかに
○ ひさかたの光りの朝を祝ふよと吾(あ)らが さ庭に來鳴くひよどり
2023 3/14
* 妻の学部卒業を待ち、二人で「京都」に別れ、上京、就職先に初出勤し、64年前の三月十四日、新宿区区役所で結婚届を済ませた。この日、荻窪の、妻の田所宗佑伯父宅で東京の保富家側親族に祝ってもらった。
* 人間の世界は年々に、日々に、穏和とは謂いにくいけれど、想えば始原の太古より人々は「難しく」「ややこしく」よほど「身勝手に」生き抜いてきたとよ。ま、その伝で今日も、明日も、行くか。行きたいが。
2023 3/14
○ 恒平様 迪子様
ご結婚記念日おめでとうございます〓 64年目 お二人ともご病気を乗り越えてご無事な日々のなか 記念日を迎えられて 本当に良かったですね! お二人は学生時代とちっとも変わらず仲良しで 本当に良きご夫婦ですね。どうぞこれからもお元気で、お幸せな毎日を創造されて下さいね~ 心からのお祝いの気持ちを送ります! いもうと 琉
○ お二人様おめでとうございます!
心静かなお祝いの歌もご披露いただきありがとうございます。
六十四年前にお二人で慶びのご上京のお話を持って 祖父たちの家に訪ねて来て下さったこと、嬉しく思い出しています。
長男出産後の折で慶びも倍加した気分で、離れる寂しさも消えたのでした。
お互いに長い月日を無事過ごしてきた事喜びです。
教え、導かれたことの多さも改めて感謝しています。
お二人様の益々の充実した日々を祈っています。
何よりもお元気でいて下さることを。 晴
2023 3/14
* 九時半にちかく。二階の機械へ這い上がってきたが。全身状態、人事不省に近いシンドさ。寝てしまうより、無し。眼が、重(オモ)痛い。手首が見た目も細く、肚にチカラ無し。
寝に、階下へ降りる。幸い「要再校」本紙は送り終えてあり「湖の本 162」発送の用意はおおかた妻がして呉れてある。発送に必要な 宛名用紙か、もう五回分の用意はあるので「ガンバッテ」とハッパをかけられた。アリガト。
2023 3/17
* 刷り上がってきた『湖の本 162』一部抜きを、珍しく読み返し読み耽っていた。
私の京都時代、とは、即ち「學童・生徒・学生」時期に相当る。そしてそれらを終え、直ぐ東京へ出て、就職し、結婚したのだった。
よくよくウマが合っていたか「学校」の昔は、先生方も学友たちも、みながみなしみじみと懐かしい。「育った家」「新門前通り」の「ハタラジオ店」を基点・地盤にしていたのだから、人にも地域にも一入の馴染みは当然のこと。有済少、弥栄中、日吉ヶ丘貴、そして無試験で同志社大へ。先生方の御顔も、大勢の学友の顔も声も名も、湧き立つように蘇る。惹き込まれて読み返していた。
無意味で無駄な、国立大への受験や受験勉強などに手間や時間を取られず、成績推薦の無試験ですっと大學へも進んだ。青春の貴重な時間をかけて私は「京都と日本史」とを「歩き回る」ことで身につけた。それで良かったと今もしみじみ思う。
2023 3/19
* 午前、妻と、保谷北町方高へブラフラと散策の花見に。陽気宜しく櫻の開花にも、盛の満開にも、色美しくけっこう静寂の町なかで、間々大木の繁りにも春の大空にもまま魅せられ、疲れ切りもせず、満足の、ま、老夫婦がよたよたの散策を楽しんできた。おしまいに、一度入って気に入っていた店で、ラーメン等の昼食にも憩うてきた。下保谷から北町へは、流石に田畑よりは新しげな民家の並びが多かったけれども、實に静かに空は廣く、のどかに心やすまる田舎風情が楽しめた。隅田川や千鳥ヶ淵や東工大の大櫻も素晴らしいが、懐かしく思いおこして足りる。
* それよりも新作の、とはいえ相当に年月を重ねて書き継いできた作の、仕上がり進行へ気を入れて進みたい、願わくは「湖の本 164」巻頭へ持ってきたいと願っている、焦りは、せず。
2023 3/21
○ お元気ですか、みづうみ。
昨日湖の本を無事に頂戴しました。みづうみに申し上げるのを忘れていたかもしれませんが、ご本はビニール包みなしでも毎回とてもきれいに届いています。謹呈箋も お手間を考えるといつも申し訳なく思っていましたので、以後も不要とお考えいただきたく存じます。
今朝、<作家人生の「まえがき」>まで読了しました。デビュー前の若書きですのに、すでに大家にしか成りようのない凄みの文章を読ませていただきました。著作四作「まえがき・あとがき」がそれぞれ立派な独立した作品で、出発時点においてすらの、この文学的到達には 肌に粟立つものがあります。
これから「とめども波の」「洞然有聲」に入ります。この二作品は みづうみのレイタースタイルの名作のように直観します。
情けないと怒らないでいただきたいのですが、「洞然有聲」は「とうぜんゆうせい」と読んで間違いございませんか。奥深く静かでありながら聲を出すという意味に受け取ってよいものか? お教えくださいますか。
「とめども波の」の 最初の和歌三首 素晴らしいです。みづうみの名歌ベストいくつかに挙げたい。お母上からの歌人遺伝子が大輪の花を咲かせています。
もし誰かに似るのなら、容姿ではなく才能のほうが嬉しいと思うのは欲張りでしょうか。
昨日から 花冷えの雨です。どうかご体調くずされませんように。発送作業のお疲れでませんように。
毎回湖の本を心待ちにして、その期待の裏切られたことがない、そんな文学者は稀有です。 益々の高みにお上りください。 春は、あけぼの
* 作者へ出で立ち前の四冊「私家版本」への「まえがき・あとがき」を揃えてみた編成をご支持下さり、「ああ、よかった」と、嬉しく手を拍ちました。
「洞然有聲」は「とうぜんゆうせい」 志して惟うことある方々には、つねに胸深くにちからづよく響いている「聲」かと想われます。
歌三首に目をとめて戴け、幸せです。縁淡く死に別れていた生母の文藝を引き継げてますこと、母は喜んでいてくれましょうか。
◎ あかぬまの花冷えの雨もうつくしくわれの狭庭(さには)に木々とうたへる
2023 3/26
* じりじりと事は前へ押し出し運んでいるが、老耄の生活基盤は、崩れとまでいわずともずるずる緩んで、怪我や病に繋がりかねない危なさはもう常在して居る。しかも何も対応対策らしきは出来ていない。ときに烈しい語調で読者のお叱りを受けることもあり、よーく分かっていて、しかし、なーんにもできない、しないままで居る。それでまた𠮟られる。わたしも妻もボケているのだ。むかしの家庭では、こういう時、お嫁さんが気配りし手出しもし年寄りの世話を焼いていたのだろう、それが出来ない、したくないから、核家族化が定着したと思う。
むかし、新門前の父母や叔母がいっせいに加齢をはやめてきたとき、それは真剣にどう、東京へ三人を引き摂るか移り住んで貰えるかと苦心惨憺したのを想い出す。
2023 3/31
* 夫妻揃うての、妻が八十七歳誕生日を、赤飯と、紅書房お心入れの名菓と、ワインとで祝う、怪我無く 堅固であれや。
2023 4/5
* 歯科から帰って、ただただ寝入っていた。
建日子が、帰ってきた。……、もう建日子「との」時間、残り少ない、無いに近いのだなと、諦めるように思う。
朝日子との、みゆ希との時間は、もう希望の無い「ゼロ」同然のままに吾が世は果てる…らしい。次の歌に、いま、私は同感していない。
生涯にたつた一つのよき事をわがせしと思ふ子を生みしこと 沼波美代子
幸いに、「身内」の思いを、「肉親」よりも遙かに遙かに豊かにわたしは識っている、感触している。過去にも。現在でも。それが、「生きてきたわたし」が、「わたし自身にだけ」与えうる「遺産」だ。
2-23 4/7
* 体力と気分が許せば一度街へ出歩きたい、それどころか、遠くアチコチへ人の顔も見に行きたいほどの気は有る、が、いながらにヨロケている。左下脚に、折れそうな曲がった感覚が有る。
どこかヤブレカブレ気分も出来かけていて、なんとでもなるさと出たトコ勝負に老い尽くす気もある。行き倒れたら、それはそれまでと。あとあとを真剣に語らい合い肩の荷を下ろしたいとコッチは痛いほど本気で願ってたが、建日子も妻も、テンでその気が無くて「おハナシ」にならない。トーサンの好きにすればいいと。肩の荷は、情けなく、何一つ軽くはシテ貰えない。ま、生まれ落ちたときから、血縁・肉親とは「他人」も同じだった。死ぬる日にも同じは、天命なのか。
2023 4/9
* ケア・マネージャを頼むようにと奨められていて、そんな折衝をしたら、明日(今日)にも顔見せに男性が家へ見えると言う。わがやにそういう他者の定在ぎみに顔出しされるのは希有もなにも無いことだっただけに、生活が混乱しては閉口する。そんなことを夜中に思いいたり、深夜の三時に機械前へ来て、思うところ要点を取り纏めた。
* ケア・マネージをお願いするに当たって
全てが「初」の事なので、予め、思うまま最初に、依頼者(秦家)として「申し合わせ」「ご同意」お願いしたいことを、順不同に申し上げます。
* 願わくは、「胸部」に日常的に「負担」のある「家内(妻)」の生活部分(台所・浴室・便所・庭廻り等)を主にしえんいただき度く。その意味では「女性のお手助け」がより望ましいとも。
* 「夫(秦・文筆家・出版家・「読み・書き・読書と創作」専念)」の「日常」と「書斎・書庫・書籍・機械器具・関連資料・著作原稿等々」には、一切関与・接触しない。触れない。
* 「二階」は 夫妻の「私室」であり、「特別にお願いする力仕事等」のほかは「ケアの対象」としない。
* 「一階」では、「玄関」「寝室」「書庫」「書籍」「物置」「諸道具」等は、「特別にお願いする力仕事等」のほかは「ケアの対象」としない。
* 来訪・来宅に関しては、「事前の申し合わせ」が望ましい。「秦」の仕事柄、訪客等による「気散じ」には困惑するので。
べつに「懇談等」の望ましくまた必要な場合は、躊躇いなく申し合わせたい。
* 願わくは、「家内(妻)」の疲労を「ケア」お願いしたい。
* なお夫妻ともに「基礎疾患」「通院(ないし入院)の必要」を抱えています。そんな際のことは、応急に「ケア」のお力添えが願われます。 以上 とりあえずの記
令和五年四月 日 秦 恒平・迪子 ともに87歳
* 要は、「家」をである前に「妻」を支援してもらいたい、ということ。
* 玄関に、ひさびさ、、岸連山の柔らかな墨の「富士」を掛けてみた。
ものに乗って高みへ軸をかけるなどという作業が危険で出来ない、妻の肩を借りてモノを倚子などに乗るしか無いとは、老いぼれた躰になった。アタマは如何。
2023 4/11
* 市のケア・マネージ部署の佐藤龍一氏来訪、「説明」」を聴く。
* まだ ケアに相当しそうには無いよう、と。
2023 4/11
◎ 私たち ケア・マネージを頼もうと思いましたが、現状では頼まれてくれそうにないと分かりました。
ただただ寝入りに寝入って、疲れを躱しています 二人ともに。呵々。笑い事では無いのですが。
ウンベルト・エーコという人の、ギチギチに中身の濃く詰まった大長編、映画にも成った『薔薇の名前』を、律儀に一字一行ずつ読み進んで、半分過ぎました。弱い視力をさらに痛めています、が。そして源氏物語を五、六行ずつしみじみと。じゅうにぶんにそれでたのしるのが此の名品のかがやきです。
○「やそしちよ」と 神も仏も呼びなさる 生返事して拗ねていますよ 歯無くはかなく
○ われは湖の子 さざなみも さわがぬ濱の まつ並木 煙も雲もはればれと なげの苫屋に光りさす われ待つ子らは無けれども
2023 4/11
* 来週金曜、妻のための「ケア」に関して聴き取りに女性がみえるという。なににしても、要心へ半歩一歩進めばありがたい。
2023 4/15
* 今朝は、保谷厚生病院で、予約の受診に。
* 妻の体調、少なくも何種かの検査を奨めると。来週から、そういう段階を一応迎える。何かと心忙しく慌ただしくなる。落ち着いて、協力して、というより私が専心力を貸して乗り越えて行きたい。一つには妻は例年のごとく春過ぎから雨季前に季節病めいて体調を崩し気味になる。そして乗り越えて行く。乗り越えて欲しい。今週打ちにケアマネージに関する話し合いが予定されている。役だって欲しい。
2023 4/17
* 明日、妻の胃カメラ検査。どうか、無事無難でありますように。
2023 4/22
* けさは、妻の胃カメラ検査。無事に終えますよう、祈る。
2023 4/25
* お早う 「 ??秦 建日子さんが近況アップデートを投稿しました」 左に上記のような「通知」は 頻頻と受け取っているが トーサンには 全く内容が読み出せず、 「建日子が、日ごろ、何を思い、考え、何処で、どう何をして暮らしているのか」 「もう何年もの間」 「全く知らない」「全く知れない」ままで生きている。 「見も知らぬ アカの他人同士のよう」で、なんとも 寂しいモンだ。
カーサンは、今朝 胃カメラ検査。カーサンとはいろいろと連絡できているようなの、で、それは、安心。
トーサンの体調は ずうと自覚的には、異様。
家系を引き継ぐ「当代と二世」としての大切な受け渡しなども、トーサン亡き後の依頼・依願なども、したい…話し合っておかねばと、思っても何一つも出来ていない。お互いに深刻な後悔をかかえずに、人生の「引き継ぎ」をしておきたくても なにも出来ていない。
「父と子」として、文字通りに「情のない、情のうすい」現況を トーサンは案じている。それを もう人生の終局近く、寂しい気持で、言い置く。 父
* 妻の胃カメラ検査 目立った異常は無くて、一安心。よかった。安堵。
2023 4/25
* 「マア」ズは仕事部屋へドアあけ襖あけ自在に侵入できる。吐いてての徘徊と探索は気まま、思いも掛けぬモノが階下へ運ばれていたり。今朝はウカと藏い忘れた「鰹」袋ヲカラにし、階下廊下に吐瀉のアト有り。
出るときは、ドアを重いモノで妨碍するのだが、忘れることがあると、すかさず「お二人」に入られ、徘徊される。多大の被害はなくても、失せ物が出ると迷惑する。
可愛い「子」たちのこと。怒鳴ってやる程度で、体罰は加えない。ドアの閉め忘れは私の責任。
2023 5/7
* 例に無く長時間、途切れずに睡れて。目覚めるとはや六時半、そとは明るく。「ま・あ」すに朝の削り鰹をあげました。まさしき五月雨、すこし両腕が冷えている。
* 妻が予約の病院受診、幸いに異常と謂う程の何も無く済んだのが有難し。
2023 5/8
* 十日、明後日には「新刊の湖の本 163」が出来てくる。発想の準備はまだ万全で無い。妻は午の前に厚生病院循環の受信。わたしは「湖の本 164」入稿などで郵便局へ。雨が止んでいるといいが。
2023 5/8
◎ 日本唱歌詩 名品抄 18 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 花 武島 羽衣 明治33・11
春のうららの隅田川、
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る、
ながめを何にたとふべき。
見ずやあけぼの露浴びて、
われにもの言ふ櫻木を、
見ずや夕ぐれ手をのべて、
われさしまねく青柳を。
錦おりなす長堤にに
くるればのぼるおぼろ月。
げに一刻も千金の
ながめを何にたとふべき。
* 詩をかいた武島羽衣の名は、国民学校時期の幼少で、まだ存命だった秦の祖父鶴 吉蔵書の何冊かに見ていた。つねな「美文」の二字を冠される人だった、私は幼い名 からに警戒して、そんな、明治前中期に流行ったらしい「美文」とやらに馴染まず、 意識して目もそむけた。夏目漱石は「美文」を軽蔑していた。「美文」を旗にかかげ 文壇を制覇していた連中を花で嗤っていた。私はその後も永く漱石にくみした。羽衣 のものを読み知ったのは此の唱歌でだった、私は「東京」とまるまる縁の無い年齢で、 この唱歌で「東京」「隅田川」を想像し、なにかしら懐かしんだ。
なによりこの詩を私に印象づけたのは、弥栄中學二年生当時に、構内の催しの中で、 講堂の壇中央に独りで出てこの唱歌「はな」を読唱した三年生女子を、全人類女 子を超えて 魂の底から愛し慕っていたのだ、それは「やそしち歳」の今にしても も変わらない、其の人とは早くに死に別れていたけれど、あの講堂の壇上でこの 「花」を歌い上げた人の声も姿も忘れない。この人も私を眞に「弟」と愛してくれた。
一年早く卒業の日には、私に漱石作の文庫本『心』に自署して記念に呉れた。そし て、どんな事情でか天涯の遠くへひとり去って行った。
「心」は、私の聖書となった。
気恥ずかしいが、この「姉さん」が「花」の隅田川を唄った同じ講堂の檀上で、一 年遅れて同じ催しの日、私は先生に命じられ、『ローレライ』を独唱したのだった、 あれは気恥ずかしかった。「なじかは知らねどこころ侘びて」、天涯に去って行っ た人が私はただ恋しかった。「小説家」に成って行く運命だった。私に、「われさ しまねく」東京とは、唱歌「花」の隅田川かのようであった。
今、八十七歳の私が書いたのである、この感傷の文を。
2023 5/19
* 美学先輩の半田久さん、今日の名産といえる「竹の子ごはん」をこんもりと柔らかに煮て、下さる。竹の子、大好き、少年の昔が懐かしい。秦の母はいわばいろいろのまぜ御飯を炊く名人だった。父も、小姑の叔母も口うるさかったので、母は苦労したのだ。祖父鶴吉もともどもうちの大人たちはシンラツな批評家だった。四、五歳の「もらひ子」だったが、わたしもまた秦の大人たちを見つめるように批評していた。
2023 5/20
◎ 日本唱歌詩 名品抄 26 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 旅 愁 犬童 球渓 明治40・8
一 更け行く秋の夜、旅の空の、
わびしき思ひに、ひとりなやむ。
戀しやふるさと、なつかし父母、
夢ぢにたどるは、故郷(さと)の家路。
更け行く秋の夜、旅の空の、
わびしき思ひに、ひとりなやむ。
二 窓うつ嵐に、夢もやぶれ、
遙けき彼方に、こころ迷ふ。
戀しやふるさと、なつかし父母、
思ひに浮ぶは、杜のこずゑ。
遙けきかなたに、こころまよふ。
* 国民学校の昔によく口ずさんだ、すこし小声で、複雑な思いで。私には恋し い「ふるさと」は無く、「なつかし」い実父母を識らなかった。日々の暮らしは 「もらひ子」された京都市東山区東大路西入ル(知恩院)新門前通り仲之町だった 家の脇の、細い、途中ひとくねりした「抜けロージ」を南へ駆け抜けると、そこ は謂うところの「祇園花街」北端の新橋通りだった。こっちは有済小学区、あっ ちは弥栄小学区だった。故郷では無かった、「現住所」であり生みの母の顔も實 の父の顔も覚えがなかった。近所の子やおとなからは「もらひ子」とささやかれ また言われていた。この唱歌はまさしく私が幼少來、青年・結婚までの「人生旅 愁」の歌であった。大声では歌えなかった。
一つ付け加えておく、京都市は幸いに戦災にほぼ完全に遭わずに済み、敗戦直 後の、戦時「国民学校」から京都市立「有済小学校」に戻った校庭には、全国各 地から、また海外から帰還家庭のまさに種々雑多の識らない生徒が加わっていた。 女生徒立ちの服装はもんぺからハイカラまで、目を奪った。好きな女の子も見つ けた。そういう此の大方は、時期が来るとみな銘々の故郷や移転先へ散り戻って ゆき、おのづと「別れ」体験が生じた。わたしは、横浜へ帰ると聞いた「新田重 子」という成績優秀でスポーツもよくした女生徒と人生初の「別れ」体験を時勢 により強いられた。寂しいものだった。女の子たちはそんな私を囃して何人も出 声を揃え「コーイシや新ィッ田さん、なつかし重子さん」と囃した、それが少年 小学生、私の『旅愁』であった。忘れない。
* 自身に断っておく、いま、此処にこういうふうに書いてきたことは生まれ育ちの「愚痴」なんかでは、ない。その後の人生を豊富に活きるために蓄えていた、謂わば「堆肥」であった。これらがあって、自身の歩みの紆余曲折に「味」がついた。その「味」こそが創意や創作や發明をうながす契機活動へと多様に押し上げてくれた。
「堆肥」という言葉は、戦時疎開ののうそんで目の当たりに実感した。「堆肥」無くては実りは瘠せる。人の個性は、活くべき「堆肥」の量や質に養われると識らぬままでは、かぼそい草のようなものしか生まない。
2023 5/27
* 佳い「読者」とは、少なくも「辭典・辭書」をつねに重寶し、且つ二讀、三讀、くりかえし読んでくれる人と、むかしに「誰か」が謂うていた。自身に徴して「そのとおり」といまも確信している。
作家への出発が太宰治賞で認められ、新潮社の依頼で「新鋭書き下ろし長編」に『みごもりの湖』を書き始めたとき、担当編集者の池田さんは、まっさきに『新潮国語辞典』を我が家にただ黙然ともたらして呉れた。気持は、即、理解した。
以来、はるか半世紀の余におよんで、現に今も私の手にその『新潮国語辞典』は在る。表紙は手擦れに傷み、背はすべて、小口も、ガムテープで労られてある。
「辞典」を用いない「書き手」を私は尊重しない。手もとにも書庫にも、明治以来現代に及んで大小各種の「事典」「辞典」はまぎれなく五十種は愛蔵し愛用している。むかし老いの黒川創が「マサカァ」と私の書庫を実見し納得して帰ったのが想い出される。辞典も事典も、ただただそれらを手に「読書然」と「愛読」してきた。歴史的仮名遣いのためにはゼッタイに必要だった、容易に正しくは覚え切れていまいが。
いまも池田さんの呉れました手擦れに満身創痍めく『新潮国語辞典』は私の寶典。今も目の前の手もとに在る。
* 「ことば」は私ら書き手には「寶」である。宝は遣われる使い方使い道により値打ちが替わる。昨今は謂うなればコマーシャル時代、テレビからは肉声の宣伝がいやほど乱射されてくる。わたくしは、それらの実演上で「ナント スゴイ」と聞く売り言葉は信用しないと決めている。「現代」を説明し批評するに不快に大仰な「売り言葉」は、「ナント スゴイ」そして「ヤスイ」か。
2023 5/30
* 書庫へ入ってみた。……、かなしくなった。コレだけの蔵書、コレ程の蔵書が、私がいなくなれば、妻も建日子も、紙くず同然に処分するのだろうか、物語や小説はむしろ少なくも、価値ある、しかし読み手のチカラを本の方から逆に問うてくる書籍が総じて多い。甥の恒(黒川創)になら或いは読めて役立ちそうな本は多いが、建日子では向きがちがって手も出さない、出せない、だろう。この近年、公私立の図書館も、容易には受け容れもらっては呉れない。文學文藝の、前途ある若い学究や熱愛者と今は附き合いが無い。蔵書の少なさに泣いていそうな短大や地方大学は在りそうに想うのだが、見つけ合うツテがない。
2023 6/5
* 私・秦恒平の「ホームページ」は「何処に開いているのでしょうか」と、不審の問い合わせ、頻り。
實は、私にも判らない。東工大卒鷲津君、柳君の「苦辛」がどう活きて働いているのか、事実は、此の私の力不足、理解が、何処へも行き届かぬまま、事実上、設定が立ち枯れているらしい。両君の好意熱意と設定に、私自身が体力消耗で途中にヘバって、マイってしまったために、仕方なく半途に立ち往生しているのだと思う。困りました、が、私の至らなさであり、両君ゆえの現状ではありません。
秦の父は、今の私のいま年齢八七歳頃まで、京都市内で現職の「ラジオ・デンキ屋」さんだった。わたしには所詮は商売を継ぐ「電機」技術を理解もちからも無かったのだ、私はひたすらに「読む」人として成人し、秦の父は徹底して本など一冊も読まず、いつもラジオの腹を暴いては機械に触れていた。その点で、父の「もらひ子」恒平はツボにはまらなかった。
2023 6/7
* 明日は建日子が、顔を見せると謂う。明後日は歯医者。下の左奥に二本しかない口へ、上も下もぎっしりの入れ歯だという。あまり嬉しくない。
2023 6/7
◎ 日本唱歌詩 名品抄 37 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 汽 車 文部省唱歌 明治44・3
一 今は山中、今は濱、
今は鐵橋渡るぞと
思ふ間も無く、トンネルの
闇を通つて廣野原。
* たいした詩句ではないが、何と云おうと「汽車」は珍しくて。記憶にあ る私が汽車に乗った最初は、敗戦前昭和二十年の冬か春か。ご近所の口添えを 微かな頼みに戦時疎開先に、当時、京都府南桑田郡樫田村字杉生の、それも山 の上の一軒空き農家に、秦の母と祖父とで転がり込んだ三月まだ深い雪の中か ら明けて四月の樫田国民学校四年生へ転入進級の頃であった。バスで亀岡町へ 降り、山陰線の汽車で保津峡に添い、嵯峨、二条など経て清うと易まで乗った ことが、そう、以降二年近くの内に七、八回もあったろうか、最期には私が腎 臓炎で満月のような顔に成り、咄嗟の決断で母が引っ担ぐように京都へ連れ帰 り、いきなり松原通の樋口医院へ運んでくれたのだった、危うい命であった。
宇治の汽車の満員は言語に絶して、ホームから窓へしがみつついて割り込んだ 覚えもあり、窓にガラスなど何処にも無く、山陰線保津峡駅から京都花園駅ま でにトンネルが、七、八つ、凄まじい煤煙に泣かされた。顔が黒ずんだ。
そんな「汽車」初体験だったもの、この唱歌の「阿呆らしさ」は嗤えた。
弥栄中学の修学旅行で初めて席に坐れて汽車旅をした。結婚してからも東京京 都の往復に、終始立ちっ放したことも度々あった。「汽車」の想い出はすこぶ る悪しいのである。上の唱歌など゛わらってしかうたえなかったが、一沫の懐 かしさへも惹かれた。
2023 6/8
* こういう鬱陶しい時節・季節には、疲れれば「眠る」が勝ちだ、怠けたなどと思わない、良薬に類している。五時六時に目覚めればすぐ起き、足せる「事や用」は足しておく。たとえ二時間を寝入っても、また目覚めて午までにまだ一時間余っている。早起きの徳というべし。午後には久々に建日子の顔が見られる。朝日子彦の顔も見たいがなあ。
* 建日子二、三時間も話していった、か。
* 朝日子やみゆ希の話題になると、予期を超えて話題が凍えて行くのに私の身は縮まった。私に有る情愛や懐かしさが、建日子にも妻にも、つまりは母親にも、冷え切っているのに愕然とした。
孫の一人、亡きやす香の妹みゆ希の住所さえ探しようも探す気も無いという。朝日子は我々にとって完全にアカの他人になっているという。わたしにはそんな気は毛頭無いのに。
実父母との暮らしの記憶を毛筋ほどももたない私、「もらひ子」として秦家に養われ成人した私、血縁の実兄ともただ一日として一つ屋根の下で過ごして記憶の無いまま自殺され、その息子、甥の独りにも自殺されている私、娘にも離れて娘の子孫の一人には病死されもう一人には毛筋ほどの思いも分かち合えないで往き別れているわたくし、息子の建日子には妻として紹介されたことの亡い同居女性に、孫の恵まれる気配もない、父の私。
徹底的に私は此の世に血縁の暖かみをすべて奪い取られるべく産まれてきたとしか謂いようなく、やがては根性を終えるだろう。
肉親をたのまず、ひたすらに他人の内に「身内」としての篤い合いをただ求め続けてきた私。ま、肉親の愛に溺れていたならとても創作家になどは成れなかったろうが、寂しい生涯の儘果てて行くのだと苦い笑いただ噛み殺して行くのだと断念し果てているよ、もう。
2023 6/8
◎ 日本唱歌詩 名品抄 38 (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 冬の夜 文部省唱歌 明治45・3
一 燈火(ともしびちかく衣(きぬ)縫ふ母は
春の遊びの樂しさ語る。
居並ぶ子どもは指を折りつつ
日数(ひかず)かぞへて喜び勇む。
囲炉裏火(いろりび)はとろとろ
外は吹雪。
* 「過ぎしいくさの手柄を語る」父親の二番には、きのりしなかったが、一番 「衣縫ふ母」の歌には心惹かれて、ひとりで、こっそり唄った。「居並ぶ子ども」 には、びっくりした。「ひとりッ子」の「もらひ子」だった私には、その賑わい、 羨ましい前に異様でもあった。とは言え、私にもこういう囲炉裏端の体験はあっ た、戦時疎開した先の丹波の山奥のちいさな部落で、二軒めの宿りに画につくら れた築山の奥の「隠居」で寝起きし、始終母屋の農家族から呼び迎え可愛がられ ていた。農学校へ通学のお兄さん、女学校を卒業していたお姉さんが二人。お父 さんは戦死されていたが、働き手の優しいお母さん、上品に物言いも静かなやは り働き手のお祖父さんお祖母さんの六人家族だった。みなが心優しく、まして囲 炉裏を囲んで談笑の真冬は、寒い寒い雪の積む夜は、わすれがたいのだ。懐かし いのだ。
2023 6/10
* 目覚めを刺戟の不時の玄関ホーンに、ともあれ すこし間を置いてドアをあけた。夏至近い五時前、前道は綺麗に明けていた、人の気配は無かったが念のためポストをあけると朝刊の外に縦に四つに畳んだ小さくない白い紙が入っていた。「織田信長公末裔」を名乗ったいわば怪文書。やれやれ。そのまま五時前に床を起ってしまった。やれやれ。あとくされなきを願う。
2023 6/17
* 父の日の堅固を祝って建日子、父が大好きな名酒「獺祭」一升を送り届けてくれました。有難うよ。母さんや君等の健康を祝っても、「乾杯!」
2023 6/18
* 亡くなっている実兄の、あまり楽しくない夢を観た。総じて安眠していなかったが、目覚めは、いつもより遅かった。
2023 6/22
* 「六月病」となづけたい、ぐったり疲労・がっくり疲労にメゲているのは、私だけではない。妻も、私以上に同じく。 しかも、明日には『湖の本 165』が出来て届く。だが、創刊半世紀余にして、初めて「発送用意」が調ってない。あきらめ、居直り、ゆっくり日数をかけ、徐々に「送り出す」とする。週刊誌でも月刊誌でも無い全てが「単行著作」なのだから。
2023 6/22
* 廊下の奥に 仏壇とは謂うまい、正面奥に「秦」両親の佳い写真を懸け、前方に,亡き孫「やす香」が五歳頃の愛らしく玄関外でポーズの写真を中に、右寄りには、妻が描いた生けるごとき亡き「ノコ」の彩色の顔、左寄りには私の目にとめ買ってきた「ネコ・ノコ親子」と觀える・観たい仲良い坐像と、「黒いマゴ」のシッケイしているような小さな愛らしい黒い坐像を置いている。
わたしは、夜中、利尿効果で多いときは五六度も手洗いに起つが、その途中、かならず「秦の父母」に挨拶して語りかけ、また愛らしい「やす香」はじめ猫たちの肖像や彫像とも、きっと「ひとしきり、あれやこれや」話し合うてくる。得がたくなつかしい,胸の熱いいわば「秘密の刻」を喜び楽しんでくる。そしてまた寝床へと戻る。妻は知らない。
2023 7/9
* 今日は妻の歯科の予約日、前回わたしが「熱中症」に潰された覚えがあり、わたしも同行する気でいるが。今はまた六時前の早朝。此の先、どれほど暑くなるかは判らぬ。先には39どを越した日もあった。「夏の暑い」でしられた往年の京都、わたしか中学の頃は33度にも成ると大人も子供も仰天したが、今や「チョロイ」ものになった。まさに命がけで極くの熱暑と連れて歩かねばならぬ。独り歩きなど危険きわまりない。
* 歯科治療の妻に付き添い、江古田の奥へ。終えて西武線江古田へ戻って「中華家族」で五十度ほどの強いが美味い支那の酒で昼食し、妻の銀行での用にも付き合って帰宅。すっと寝入って覚めて、大相撲が中入り。
とにもかくにも、この大暑、やすみやすみ生き伸びねば。「やそはち爺」は慌てず焦らない。ノビたらノビたままでも「私語」程度には「書け」て、臥たままでも本は「読め」る。さいわい庭掃除も薪割りもしなくて済む。耐えて忍ばずとも「済(な)すあり」で済む。そうしか出来ないなら、それで「済(な)し」置くのも一法と。
* 暑いというより「暑苦しく」五体にこたえます。 先日は 医者の帰りの熱暑に当たり 「熱中症」に潰されましたが、今日も同じ江古田の奥まで 妻の受診と往復を案じ、付き添って行きました。
今日は、暑いは暑くても 空は曇っていて助かりましたが、疲労困憊は,同じこと、ほとほと夫婦でフウフウのてい、帰宅してそのまま ノビ ました。目覚めたらお相撲は半ば過ぎてました。
柳君のご厚意はしみじみ嬉しく有難い、が、やはり「明日土曜日のご足労」を やすやすお迎えする気力・体力、みすみす我々に足りていません。状態 察してくださるよう、謝まって、お願いする次第です。
さいわい、こんな風に機械で字が書けますのは僥倖、ヘタバリながらも 必要な仕懸かりの「先」を、少しは「書き継げる」のがさいわいです。
二人して数えてめいめい「八十七の爺・婆」、 昔噺の絵本に紛れ入ってるようなよたよたの日々です。
ま、勝手な自己評価ですが 「気」だけが ややまだ確かなのかもとフンバッテます。
早く元気に 柳君の 顔見たし聲聴きたし、その好機のためにも 日々怪我なく、永くは病み伏さず在りたいと願っています。状況、お察し下さい。
日々、ご家族お揃いで元気元気に、お幸せに と祈ります。 七月十四日の夕方に 秦 恒平 迪子
2023 7/14
〇 ご無沙汰しております
京都府 山城南部(南山城)の岩田孝一です
「湖の本」が届くたび 元気でおられるとおもっております
ありがとうございます
こちらの元気でいるしるしにコーヒー豆を送ります。
先日、奈良国立博物館で開催の浄瑠璃寺躯体阿弥陀修理紀念 特別展 「聖地南山城」
に行ってきました。
南山城がその地名の読みさえ広くは知られていない状況の中、
聖地南山城を発信したいと博物館の研究員の方々が実に用意周到に準備を重ね、
明治に浄瑠璃寺より流出した十二神将像(現在は東京国立博物館に五体、静嘉堂文庫美術館に七体収蔵)
を浄瑠璃寺本尊薬師如来と140年振りに並べての展示を目玉とし、
墾田永年私財法から太閤検地までの中世の荘園仏教の信仰空間という言葉にしたくなるような場になっていました。
図録と併せて前にお送りした地図の最新版を同梱しました。
(前回のは裏表を?げて、笠置寺から東大寺(修正会が修二会となった道)、
興福寺から笠置寺(貞慶上人と弥勒信仰の道)となっていたのですが、それを一枚にしたものを頂きました)
笠置寺の巨石群は孫悟空が「斉天大聖」と落書きした釈迦の指のようです。
今年も 暑い夏が始まりました お元気で
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_/ 岩田 孝一
* 岩田孝一様 どうぞ日々お元気でと願います。
叔母様にも もう一目も二た目もお目にかかりたかった。
: 沢山 沢山 ありがとうございます。「コーヒー」も嬉しく 頂戴の『聖地 南山城』のいろいろも 衷心 楽しんでいます。
「当尾」への地理も いろいろの地図で 良く覚えた気がします。無数の仏様たちに御守り戴いている気が しみじみ します。
守叔父様にご案内いただいた岩船寺や浄瑠璃寺の想い出に合わせ 豊饒なまで仏様たちと出逢いました。深い信頼を自覚します。歩一歩 南山城へ帰って行きつつあるかと「安心」を得ています。
暑さに潰れぬよう気遣いながら 日々「読み・書き・讀書と創作」に根気よく励み、じつのところは 五体疲弊疲労に潰れそうですが、「南山城」の無数の佛様たちに励まして戴きながら もう少し もう少し 「まあだだよ」と 天上へお返辞しながらの日々 大事に致します。
あなたも、みなさまも、どうぞお達者で,日々の酷暑をお凌ぎ下さいますよう。 恒平 七月十六日
もう一度もう一度 当尾を訪ねたい、が、ムリかなあ…
2023 7/16
* 「口癖」のように自身の日々を「読み(調べ読み)・書き(私語の刻)・讀書と創作」と謂うている。ほぼ言い尽くせている。娯楽や慰安は、ま、テレビで映画(「ホビットの冒険」や「剣客商売」など)、そして(在れば「酒」とか)。「讀書」なくては、生きた心地がしまい、これはもう幼少來の姑癖に
当たる。枕元には日々に読み継いで手放せない本が何冊も並び、積まれている。「積ん讀」では無い。今ぶん…
日本文学 「源氏物語 少女」 「参考源平盛衰記 巻二十一」 藤村「新生」 秋聲「あらくれ」「新世帯」 坪谷善四郎「明治歴史 下巻」越
中国文学 「四書講義下巻 孟子」 「聊齊志異」 「水滸伝」 「遊仙窟」 文彦「主演女優」 西欧文学 ホメロスの神話 ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」 トールキン「ホビットの冒険」ま、穏健な楽しみようであろう。勉強に類するのは「孟子」と「名詞維新 下巻」くらい。
* 午後三時。本を読んでは寝入り、また読んで。是を休息の休憩のと謂うのは当たらない。心神に活気の無いままヘバって居るだけのこと。情けない。それても手に執るどの一冊とてみな選り抜きで、魅される満足には不足は無い。秦の父長治郎は、本というモノを手に読んでいたことが無い。一度も観た覚えが無い。あ、それは謂いすぎで、この父は能舞台の観世流地謡にかりださるほどに謡曲がたくさん謡えた、私にも一時期教えようとしてくれた。
叔母つる(茶名宗陽 華名玉月)父の妹は、師匠という仕事がら茶道誌「淡交」は講読していたし、若い頃は婦人雑誌もみていたようだが、所詮は読書に気が無かった。
秦の母たかは、手近に,小説本が在りさえすれば喜んで読んだが、そんな本のまるで無い家で、わたしは少年の頃から「本」は買う物でなく他家他人に借りて読むモノと思っていた。自前で本を買い始めたのは、中学を終える頃に「徒然草」「平家物語」がはやく、谷崎本へひろげた。『細雪』一冊本を奮発したときは、秦の母は喜んで読んで「ええなあ」と共感を示してくれた。嬉しかった。
* ところが秦の祖父鶴吉は途方も無く蔵書家、それも大方が漢籍、史書、古典、事典・辭典か、私もお世話になった山縣有朋の『椿山集』や成島柳北の『柳北全集』あるいは「神皇正統記」や「史記列伝」や「唐詩選」や「十八史略」や「四書講義」や「老子」「莊子」「孟子」や「唐詩選」「白楽天詩集」等々信じがたい名著が押し入れの奥の長持ちや、たんすに犇めき遺されていた。私は、全面的に是等書物の「文化」に薫染されて黙々と成人した、いや念願の小説家・作家に成れた。小説の処女作は『或る折臂翁』それは白楽天の長詩『新豊折臂翁』に想をを得ていた。
不思議なモノだ、「人生」は。
2023 7/17
* 寝苦しい一夜であった、妻は明け方から苦悶の聲。男手のうまく働かないこんなとき、切実に家に「お嫁さん」が、八七歳の老いた女手を助けて呉れる「若い女手とハート」が欲しい。まだ夏は七月、それも中旬、残暑が去るまでに二た月もある。凌げるというのか。凌げねばどうなるのだ。
* 建日子と連絡も取れない。メールはした。電話は何度掛けても「いま、電話に出られない」の音声だけ。なんという頼れなさ。不用意。
* まことに不愉快な「午さがり」だった。
* 仕事に締まりが着いてさえ居れば、旅に出たいと思う、が、幸か不幸か、今こそソレが叶わない工面に多くが直面している。差し掛かっている。
2023 7/18
◎ 私・秦 恒平 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇『阿若丸・萬壽姫』 講談社絵本 借用)
講談社絵本というのは、わが幼少、大方は幼稚園から国民学校一年生までの「圧倒的な存在」で、大判各ページの繪に、何にでも恐がりな私は、掌で眼を蔽いながら指の隙間から繪をこわごわ点検のあとで、字の方を読んだ。「字や文を読むには、幼稚園以来母や叔母の「婦人倶楽部」ていどなら何の苦労もなかったが、こわい「おはなし」には文字どおり辟易し、萎縮した。どんな話材に縮かんだか、「子が親に別れてしまう」噺が一等こわかった。「囚われ」の父をもとめ、丈高い竹によじ登ってその撓いに頼んで父のもとへ密かに尋ね行く「阿若丸(くまわかまる)」や、やはり土牢に囚われたたしか母の唐糸を尋ねて偲び忍び近づく「萬壽姫」のおはなしに戦いたり、つまりは「怖い、怖ろしい、悲しい」ことの大方をわたしは、何より早く、先ず「講談社絵本」で体感し実感したのだった。
わたしは幼年來、いわゆる「漫画」を軽蔑し、めったに受け容れなかったが、「ノラクロ」と、すこしおそくに「長靴三銃士」だけは受け容れて,機会あれば何度でも読んだ。前者はユーモラスに軽妙な繪に、後者は「怕いような繪とおはなし」に惹かれたのだろう。こま漫画の「フクちゃん」にも軽く軽くいつも共感できたが、しかし要するに「漫画」「つまらん」と自身諒解していた。「猿蟹合戦」や「桃太郎」などの絵本は一瞥払いのけていた。
* 今、この「私語」を、真夜中の一時半に書いている。床に就いても實に孤独に寂しく、とても寝付かれない。「やそしち爺」にもなり、まだ幼稚園前の昔に養なった「感じやすい」孤独感が生き存えているのだナ。「萬壽姫」や「阿若丸」に悲しみ歎きながら、わたしは、しかも「生まれながらに肉親を知らない、喪っている」という実感を、まるで「個性」のように見誤って蓄え育てていた、きた、のだ。結果、どうしても肉親、血縁に親しみ愛する励みが私に無い。とてもさびしいけれども、無い。そのお蔭でわが子にも背き叛かれる。
眞の「みうち」は「世間の他人」から見つけるしか無いと、わたしは、「今日只今」でも実感している。「眞の身内」と眞実愛した、血縁など無かった数少ない生涯の「人たち」を、いまも、どんなに恋しく慕い愛し親しんでいることか。だが、そのような人らの大方は、もう「天」にいて、そして呼び掛けてくれる。「行くよ」「もうすぐ行くよ」と黙語している、今も。
* 終夜 寝なかった。眠るのが、肝に障るほどイヤだった。本も読んだが、読んでなくても茫然としたまま、頑固に寝入らなかった。要するに生気を失っていた、六時十分、今も、だ。
いい爺が何に抗がうのだろう、目玉も痛いほど疲れ切りながら。
2023 7/19
* 仕懸かりの「長編」を「読み返し」ていた一日。
今日水曜は生協の四合瓶が一本届くのを、待ちかね半分がた直ぐ呑んで、また読んで、寝入って。妻も不調で寝入っていること多く、ひとりテレビで気に入りの映画「雨あがる」を楽しんでいたが、後半の画面が愚茶に乱れ頽れて。で、この機械前へ戻って親しい「e-old勝田貞夫さん」のメールを読んだところ。
2023 7/19
* 四時間と寝ていない。建日子が来て、結果、部屋の都合で夫婦別室で寝るとなり、妻は我が家で唯一「舟底天井」の和室・客間で、敷きっ放しの蒲団で、ほぼ寝たキリに寝入っている。わたしはもともとの寝室に独り床を敷いている。
お互いに「夜中緊急」の何事が起きても、即「伝え」も「聞き取る」ここともならない。それでわたしは夜中、「寝入る」よりは「起きたまま仕事」してしまう。夜はせいぜい「寝ない」ことにわたしは自身を慣らそうとしている。一昨夜は一睡もしなかった。昨夜は四時間も寝たか。幸いわたしには取り組んで前へ前へ運びたい「仕事」がある。そんな異様に過剰な暮らしは「生・活」と謂えない。賢いこととはとても謂えない。二人して寿命を縮めている。それに備え、緊要の「覚え」を認(したた)め置こうとしているが、遺憾にも「物忘れ」は日を追い激越に烈しく、まま、手をつかねて困惑のていを我と我が身に曝している。
* 意識を脇へよけている感じに、ボーゼンとしている。苦痛と謂うでない、しかし「不全」の「不快」。今晩は早く寝入ろう。と謂えども、したくも、すべきも、「場を明けて」易々は通して呉れぬ。
2023 7/20
* 妻も私も手の施しように困惑するほど疲労し半ばは病んで疲れている。わたくしは、睡眠を割いても、時を選ばぬ「読み・書き・讀書と創作」へ駆け込めるが、妻は、家事炊事の助け手もなく、建日子の住まいに嫁も孫も無く、私の体力もほとんど役に立たなくなっている。よろけて転ぶのだ、よろよろが本来の自転車を走らせる方が、歩くよりも安定してるという仕儀。もう公の「人頼み」に頼るしかなくなってきた。
2023 7/21
* 今朝のことだ。暗い寝室の 戸を細めにそっと明けて、
「コーヘイさん」
と、柔らかに「ひと声だけ」小声で呼ばれ、ふッと目ざめた。誰の立ち姿も戸ぎわに見えず、そうっと柔らかに「コーヘイさん」と呼んだ小声は、ごく穏和に、優しいほどの、しかし、たしかに「男の声」だった。誰とはかき消えたが、その小声、あるいは「兄・恒彦」のように感じられた。「生みの父母を倶に」しながら「一つ家に育った記憶」の断片も無いその「兄」であった」ならば、「北澤恒彦」ならば、夙に、「自ら死んで」いる。この日ごろ耳に聞く気の「もういいかい」の呼び声、「まあだだよ」と返辞していた、あれは「兄・恒彦」の誘いであったのか。判らない。濃い暗がりからまこと優しく呼ぶ「低聲」であったよ、「コーヘイさん」と。
亡き恒彦兄の生前に、数度とも顔を見合う機會はなかった、が、逢えば兄はわたくしを「秦」と苗字では謂わなかった、「恒平」という名前を呼んでくれていた、「さん」などとついてかは覚えないが。
何にしても、そんな夢のような、「夢に相違ない」朝早い四時台の目覚めであった。
* あれが「女の声」であったなら、いろいろに思い出せる人は、数人、いや十人でも想い浮かぶが、「女の聲」ではなかった。
男で、私をはっきり「コーヘイさん」と読んでくれた独りだけが、祇園石段下の市立弥栄中学に入学「一年二組」組で日ごろを倶にし成績を競いあった「つとむサン」粟田小学校から来た「田中勉君」であった。紛れもなかった秀才「つとむサン」は、同じ日吉ヶ丘高卒のあと志望の大學を外して、就職、いつかカナダに渡った。海外での詳細は知らないが、彼が帰国のおりは、二、三度ならず會っている。祇園の「千花」で食事したりもして、極くの畏友であった、が、いつしか海の向こうで、病気らしくもなく、ふわっと灯の消えたように亡くなったと伝え聞いた。
* 實兄の恒彦か、あの親友「ツトムさん」か。暗い寝室の戸ぎわから、影のまま立って「コーヘイさん」と柔らかに読んだ小声には、この二人しか想い及ばない。二人とも、とうに亡くなっている、それも、兄は自殺、「ツトムさん」もあるいは、と。
今朝、まだ床にいた私の名を呼びかけた、あの、「小ごゑ」忘れまい。
2023 7/25
* 寝室の冷房機を買い換える。そとは、空気も焦げそうな酷暑。
2023 7/25
* 深夜三時頃か、妻苦悶し、付き添い看護。「熱中症」とも思われ、そうまで寝室が暑いとも私は感じてなかった、妻が固陋と思しい円背による上半身の前傾圧迫で息苦しくなるかと私は察しているが、背の丸さを意志的に矯正ようとしないでは、繰り返す苦痛となる。背筋は勤めて伸ばそうと努めて欲しいが。
* もう五時半をまわっていて、この頃の私には普通の朝の起床、だが、流石にやや睡いけれど。六十三年もの昔になるか。朝日子が、東邦医科大学で森田久男先生のおせわで生まれた。森田先生には朝日子の、のちに青山大教授となる「押村高」との結婚式にもおいで戴けた。
「押村」朝日子が、今日、どう暮らしているのか、私たち両親は、もう久しくも久しく「片端」も知らない。知りようが無いのだ。「親類」としての縁が完全に絶えてしまっていて、それもそれ、今日「七月二十七日」を「命日」として、孫娘「やす香」が二十歳になるならずで敢えなく病死して以来のことだ、「事理滅裂」のうちにだ。、私たち両親・祖父母は、突風に首をもがれたように情けなくひたすら悲しい運命を怨む。悲しいめに遭ったものだ。
2023 7/27
* 機能しにくかった、ないし毀れていた寝室の冷房機を買い換えた。さむいほど冷風がくるので、戦くほど。風邪を引いてはバカげる。慎重に。
2023 7/28
* 作業の成行きで、不愉快きわまりない「箇所」の整理もせねばならす、吐き気がした。東都での人生、平穏でない不快な何年かに脳みそが泥塗れに汚されていた。
2023 7/31
* 「秦」という家は、山背國に「京都」創設の平安時代開幕に建設的に篤く関わり、その京都を象徴した賀茂神社、松尾神社、稲荷神社をも氏神とも擦るほどに濃い関わりを持っていた。ソレよりも更に遠く夙くから「太秦」の広隆寺や蛇塚古墳や嵯峨の大堰建設等にも秦氏は中心的に関わっていた。
確かに、私が井上靖を団長の日本作家代表の一員として中国に招かれたおり、人民大会堂での当時副主席と会見で、「秦恒平(チン・ハンピン)先生は、お里帰りですね」と諧謔されたように、「秦」氏の「中國」での経歴は、紀元前を遙か遡って遠く久しい、しかし「日本」での「秦」氏も、藤原氏、源氏、平氏よりさらに舊く、時代を追って身分は低迷し平民へと溶け込んだ。一時期、「騎馬」専業のようにな武士に「秦」氏が多く繪に描かれていたりする。聞き知る限り、「根」を秦氏におるして様々の別の苗字を名乗った「秦氏」は日本中に夥しく、その数も「源平藤橘」氏らのそれを凌駕していると。「日本」は「秦氏」のおうこくであったと徳歴史家の著書も実在している。
* とか、ああ、なんて「ヒマ」そうな私であるか。
2023 8/3
* 起き掛け 右、かなりの量の鼻血を出した。そのまま寝入った。昼食してまた寝入った。二時半。『原爆』のことを遠い日から想い出す。国民学校四年生の私は高羽の山の奥へ戦時疎開していたが、新聞に出た記事に少年ながら「愕然」と固まったのを躰に覚えている。
2023 8/6
◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)
〇 『出家とその弟子』 倉田百三 借讀
高校一年生の国語の教室にみの図化に美しい女生徒が居て、いつも静かに読書していた。歌集『少年』の巻頭に、
窓によりて書(ふみ)読む君がまなざしのふとわれに来てうるみがちなる
とある其の人で、名前はしかと覚えないが、このひとから、私は『出家とその弟子』ばかりか、堀辰雄の『風たちぬ』等々静穏な私小説系の何冊もを借りて読んだ。近代も後期の純文学へ道を拓いてくれた人だが、一年生の内に転居・転校してゆき、そして「亡くなっている」という噂も後年に聞いた。はかない出逢いで在ったが、貴重な想い出を『出家とその弟子』を介して私に刻印していった。明らかに『般若心経講義』を自前で買った時機と前後していた。
『出家とその弟子』は、小説でなく戯曲だった、例のごとく私は家の中で、一心に声につくって「出家」と「弟子」とを語りわけ、』家の大人等を辟易させた。倉田百三の『三太郎の日記』なども此の頃、社会科の先生が教壇で熱心に話され、手を出したモノの歯が立たず失礼したのも覚えている。
2023 8/10
〇 お元気ですか、秦先生。
これから書くことについては、秦先生からの何かお返事がいただければと願うものです。誰もが思っていても言葉に出来ず秦先生に直かおう窺いしやすいことではないので、あえて、蛮勇をふるって私が書きます。と申しましてもこれまで何度かお訊ねし、お願いもしてまいりましたことです。今回が本当に最後のお願いと思って書きます。
僭越は百も承知で、読者代表として申し上げることですが、著作権の相続者を、奥さまと建日子さまのみにしていただければと思います。今後の紛争を防ぐために朝日子さんとみゆ希さんには行かないようにしていただきたいのです。
「著作権相続」についてはネットで検索すればたくさん出てきます。手続き等については難しいものではなさそうです。少し引用します。
著作権の相続に、特別な申請手続きは不要
① 著作権は相続の対象になりますが、権利自体が自動的に付与されているものなので、相続する人が特別に申請する必要はなく、誰が引き継ぐかが決まった時点で著作権を自動的に引き継いでいることになります。引き継ぐ人が決まるまでは、相続人全員が著作権を共有している状態になります。
② 著作権を誰が引き継ぐかを、必ず遺産分割協議書に記載する特別な申請は必要ありませんが、誰が著作権を引き継ぐのかを第三者に証明できるようにしておく必要はあります。遺言書で引き継ぐ人が指定されていれば問題ありませんが、相続人全員で話し合いで決めた場合は、遺産分割協議書にきちんと明記しておきましょう。
③ 共有で引き継ぐ場合、文化庁に申請する著作権は複数の相続人で相続することも可能です。しかし、著作権の使用許可を判断する人が複数いると、判断に時間を要するためトラブルが起こりやすくなるという危険もあります。このような場合は、公にも権利関係を明確にしておくために、権利が移転したことを「文化庁へ登録」しておくことをオススメします。登録は、文化庁の「著作権登録制度」に従って行います。
著作権を相続させる文例
第〇条 遺言者 Aは、遺言者が有する下記著作物の著作権を、長男 Bに相続させる。
書名:〇〇〇〇
著作者の氏名:〇〇〇〇
ポイント
著作権には登録制度(文化庁_著作権登録制度)も設けられていますが、著作権の権利移転に、何か登録するといったことは必要ありません。
秦先生は充分ご存じのことですが、著作権には二種類あり、著作人格権は著者のみが保有します。著作者の一身に属する、著作者人格権は遺産相続の対象となりません。
著作者人格権とは、著作者の人格的利益の保護を図るための権利であり、具体的には以下の4つとなります。
公表権
氏名表示権
同一性保持権
名誉声望を害する方法での利用を禁止する権利
公表権は、公表するかどうかや公表方法などを決める権利です。
氏名表示権は、著作者の名前を表示するかどうかなどを決める権利です。
同一性保持権とは、著作物を無断で修正されない権利です。
名誉声望を害する方法での利用を禁止する権利とは、著作物が著作者の名誉を害するような方法で使用されることを禁止する権利です。
財産権としての著作権は相続対象者全員のものになります。簡単にいうと、印税を受け取るのは誰かということです。
印税については読者は無関係。未来の読者に深刻に影響するのは、秦恒平作品が読めなくなり二次利用して論じることも出来なくなることです。
秦先生の著作権含めての相続人のお三人の中で、おそらく一番長く生きるであろう「朝日子」さんの動きを非常に懸念しています。(一般的に女のほうが長生きです)朝日子さんが弟の建日子さんより長生きなさる場合、また建日子さんにお子さんがいない場合、著作権はいずれ「みゆ希」さんに行きます。
みゆ希さんについては何も知りませんが、亡くなられた「やす香」さんとは大きく違い、ご両親の影響が露骨に強いのではと思っています。
これまでの「私語の刻」記事と『逆らひてこそ、父』『かくのごとき、死』等を読んできて、私の思い続けてきたことは、朝日子さんの秦先生への強い愛の裏返しとしての壮絶な復讐が、いつか始まるだろうという恐怖です。
朝日子さんが著作権継承者となれば、秦恒平のあらゆる作品の出版や利用を拒否して、みゆ希さんとそのお子さん含めれば可能な、著作権の続く七十年の間に「秦恒平の作品」をことごとく世の中から抹殺できます。「殲滅作家」にすることが父親への最大の最も効果的な復讐になるからです。私の三文小説的発想と嗤われるかもしれませんが、戸籍まで改名して「朝日子」の名前を捨てたということは、それほどの覚悟だと思われます。前回の裁判など、ほんの手始めの復讐に他なりません。私は「凄惨な父と娘の悲喜劇」が長く続くだろうという、自分のこの見立てをほとんど「疑わない」のです。さらに朝日子さんがもし父親について、「虐待者であったという嘘」を書いた場合も、「秦恒平の作品」があれば秦先生の真実は伝わります。しかし「作品が抹殺されていれば」それは無理です。無実の汚名は晴らせません。
著作権相続についてはっきりさせておくことは、奥さまと建日子さんを不毛な相続争いから守ることにもなりましょう。遺産相続争いの泥沼はイヤというほど見聞きしてきました。そのために子どもを一人しかつくらなかったご夫婦を何組か知っています。何十年も争っている著名な画家一族の話もあります。
朝日子さんの場合は、復讐のために「金銭的な要求だけではなく、相続の遺留分として著作権を継承したい」と言い出すかもしれません。娘にその権利はあります。そしてうまく遺産分割協議がすんだあとに、私の懸念しているような事態になれば、また激しい争いになりましょうか。お金の問題なら遺留分として渡すという妥協もできるでしょうが、「著作権だけは決して朝日子さんに譲らず、」奥さまと建日子さんのお二人に「死守していただきたい」です。
奥さまと建日子さんが、朝日子さんとの「争い」に巻き込まれるほどお気の毒なことはありません。お二人は、残念ながら朝日子さんと闘うほど強くない。復讐の一念ほど人間を狂わせるものはありませんので。
私が、朝日子さんを悪く言い過ぎだと思われたら、お許しください。ですが、私はむしろ朝日子さんにある意味、同情、共感することも出来るから、このような失礼な、出過ぎたことを秦先生に書いているのです。
私は、どうしても朝日子さんに復讐を完遂させたくないのです。彼女に「悪」をなしてほしくありません。それは朝日子さんご自身を致命的に傷つけるでしょう。復讐がかない、快哉を叫んだあとは、どうなるか。人格の崩壊です。地獄です。復讐ほど人を不幸にするものはないでしょう。私は秦先生の愛した娘さんをそのような目に絶対遭わせたくありません。朝日子さんの復讐相手は本来なら「夫」であるはずですが、サイコパスの夫より父親のほうを遙かに愛していたのですから、こうなります。憎しみは形を変えた愛です。
奥さまと、建日子さんは、夫として、父としての「人間」秦恒平を第一に愛していらっしゃいますが、それ「だけ」では朝日子さんには勝てません。「文学者秦恒平作品を守る」という「読者の視座」も必要です。ですから、朝日子さんより強い秦先生に、今こそ著作権についてきちんと決め、「書面で遺言作成」していただければと願っています。この件について、すでに秦先生が対応済みでいらしたら、失礼の段どうかお許しください。
私が、秦先生の著作権や遺著管理についてのことを書くほど信用に値する人間ではないことは重々承知しています。
それでも、今まではっきりとした秦先生のご決断を伺ったことはありませんので、どうしてもお伺いしたくて、これが最後と思って書かせていただきました。もし秦先生が、ご自身の作品を抹殺される可能性があっても、朝日子さんに著作権を委ねるというご決断に至りましたら、それは秦先生のご決断として受けとめ、私は黙って引き下がります。
台風の予報もございます。台風のもたらす蒸し暑さがお身体にさわりませんように。世間は夏休みに入りますが、秦先生は休みなくお仕事に励まれていることでしょう。どうか心ゆくまで「読み・書き・読書」なさって、お気持ちだけでもいっぱいお元気でいらしてください。
長生きなさってください。 一読者が書きました。
* 呻いています。
2023 8/11
* 昨日は、無慚なまで「深く濃く沈んだあと味」の半日だった。気が腐りきった。
朝日子のことなど想い出したくなかった、ただ辛いだけ。 さて今日は。こんな真夜中(二時前)に起きてしまい、どうするのだ。仕掛け仕事の続き…。出来るなら、いい、けど。
* 六時頃に少し寝入り、八時過ぎに目ざめて、以降。あれこれしていた。自転車でポストへ想っても、二の脚をフンで二度とも「危険」と、出掛けなかった。疲労は濃い霧のように五体に浸みている、なにをムリする必要在ろう。
2023 8/12
* それより、内玄関の正面が寂しいので、このところ、あれをと架けたかった「久保比呂志」作の、實に立派、畏ろしいほど立派な『鯉』一尾の大軸を妻と二人がかりで架けた。金魚や鮒や鮎でない、川魚の王の「鯉」が画面を大きく占めて、一尾悠然と水に静まっている。こっちが「位負け」のてい。
架けたいと永く願っていたのが、この「お疲れさん」のさなか夫婦して出来たのだから、目出度い。嬉しい。
久保比呂志は、土田麥僊らのお仲間だった…はず。
*私の、この六畳の狭い仕事部屋には、障子際に不相応に佳い革のソフアともに、机が四卓、天井際の冷暖房機は別に、大小の機械が十機働いていて、大きな作り付け頑丈な書架に満杯の外の、各種大小の書籍や辞書・事典が山積している。抽出しの文書棚も満杯で四つ立ち、その余の雑物は床に置き放題、私の出入りの通路も、モノ、モノに侵蝕されて、文字通りの狭い「雑踏」なのだが、西と南の障子戸、障子窓、そして東の襖四枚は、それ自体がそのままかなりの「画廊」になっている、ただしみな貼り込みの写真や印刷物だがよく選び抜いてある。白鵬、照の富士、それぞれの見事な土俵入り写真もあれば、栖鳳、玉堂、土牛、曾太郎らの名品が、用済みのカレンダーから斬り遺して在る。加えて、高木冨子の美しい『浄瑠璃寺夜色』本作があり、亡き懐かしい富永彧子の清雅な「風景」も小さな額に入っている。
それより何より、この部屋には、高浜虚子にならぶ荻原井泉水が「秦恒平雅兄一餐」と献辞の『花 風』と二大字の大きな額、また宮川寅雄先生に戴いた、先生の先生「秋艸道人」筆の有名な『學規』も架けてある。ほかにも幾つか。
その上に、娘のように遠くから愛している女優澤口靖子のドデカイ写真がちらとみただけで少なくも四枚、みなにこやかに笑んで呉れている。わらはば、わらへ。
* ところが、未だ在る。読者や知友のお便りが「佳い繪葉書」でくると、倚子席の身辺に隙間を見つけては飾る、今も八、九枚が直ぐ数えられて、目の前の間真ん中に老いたのが、「日本の清潔」とはコレとしみじみ得心の、『紫宸殿と前庭』のすばらしい静謐。左近の櫻、右近の橘、一面白沙の広庭。吸い込まれる静謐の美。
また、村上華岳の『墨牡丹』 京「高山寺」の弓討つ「兎」らの『戯画』、建仁寺の『風神雷神』、菱田春草の『帰樵』 祇園会の『薙刀鉾』 アネス・ドルチの『親指のマリア』 能面の『十六』 さらには静寂のうちに花やいだ『飛雲閣正面』 さらに加えて、大恩を受けた医学書院『金原一郎社長』の献辞も添って頂戴した「告別用だよ」の上半身温厚なお写真 さらには妻が描いたいまは亡き愛猫「ノコ」の、生けるが如き肖像。
これらの繪や写真が老耄の私をどれほど寛ぎ励ましてくれているか、計り知れない。出来れば、この「仕事部屋で」こそ 私は、死にたい、と願っている、心より。
2023 8/12
* 一九四五年 昭和二十年 の今日、盂蘭盆の日に「日本帝国」は米英等列国に「無条件降伏」した。私は、当時の京都府南桑田郡樫田村字杉生(すぎおふ)という細い街道一筋を八方から山々に囲まれた二十軒とない部落に母と戦時疎開し、険しい山を越えて樫田国民学校に通うくらしの、丁度夏休み最中であった。
敗戦して最も子供心を衝かれたのは、或る日、ジープで来た占領兵の命令で各戸「刀狩り」にあったこと、また夥しい數、何枚かのむしろの上へ供出されたこと。
母も、タンスの底から二ふりの大小を出した、朱鞘と黒い鞘と。農家の人が、出さずに山へ隠してきましょうと持ち去った。「みつかったら沖縄へ重労働」と云われていた。匿したとい我が家の日本刀はついに、そのまま、行方知れなかった。少年が「敗戦」の実感はアレがきつかったと、今も想う。
2023 8/15
* 秦の祖父鶴吉の旧蔵、明治四十年、鳴雪・内藤素行著『鳴雪俳話』博文館蔵版を、私、少年來 折に触れ手にして頁を繰る。愛読書と、謂うか。
2023 8/20
* 早起きして真っ先に此の機械(パソコン)前へ来る、と、大きめの機械画面真下の真ん中に、御所、紫宸殿まえの淸寂そのものの広場、紛れもないこれぞ「京の都」の象徴が鎮まっている、私は朝まっさきに「其処へ帰る。
そして機械の下、左の端、に立ててあるのが、無色、閑雅な線だけで描かれた「高山寺」蔵の、飄々と弓を引いて「遊ぶ」二匹、いや二人と謂いたい「兎たち」の名高い「戯画」縦ての繪葉書。想わず笑んで觀る。此処、無色で佳い線だけでの雅境には、これぞ京も洛外の山紫水明が「歴史」のように秘めてある。
葉書の二枚、むろん戴きもの。はいけんしなおす。
「紫宸殿」のには、
拝復 このたびは研究室宛に谷崎潤一郎研究書数十冊をお送りいただき、誠に有難うございました。国文学科の図書として登録し、書庫に配置して容赦の閲覧に供します、以前にも春陽瞳版『鏡花全集』全15巻をご寄贈いただき、ご後輩に感謝しています。
私は3月に定年退職し、新しい生活に戸惑っているところです。数年前から京都御所(=大學に接して真南 秦)の一般公開が通年に変更されたので、散歩に出かけたりしています。 草々 田中励儀
とある。紫宸殿広場が一際に慕わしい。
* もう一枚の、高山寺藏「弓で遊ぶ兎たち」清雅に無色の「戯画」は、どなたから頂戴したろう。
新年おめでとう ございます。お変わりなくおすごしになられてますか。 現状維持もたいへんです。無理? ダイジョブと六割程の動きをしても、後で、こたえています。 ドラマの背景に映っている京都のあちらこちらをみています。旗本の家が京都御所だったりして。 洋ものも。この空と光りの工合は 砂漠のものではないとか。テレビもよく観ています、うたがい深く。困りものです。
『鳥獣戯画』の「空気」に暮らすような、同じ大學専攻での一つ年下、妻が同期の友だち、宛名も二人に書いてあり、「卯」の春の、洒落た「戯画」である。私は此の一年後輩が好きであった。 と、視線を上げると、この機械画面のうえの棚に、私が愛して惚れぬいた村上華岳の名品『墨牡丹』の絵葉書が。同題、私の出世作のひとつなった小説『墨牡丹』をよく「識ったひと」からだ、多分…と手に取った。やはり「兎」戯画を呉れていた彼女、コレは妻迪子へ宛てての「繪」ハガキ。
永栄啓伸の本(=『秦恒平 愛と怨念の幻想』)をお送り下さりありがとうございます。 読みました。
長谷寺に白いぼたんが咲いていたそうです。 今日は疲れ目。(泪ポロロの小さな戯画) うっかりころばないようにしましょうね。
* 名高い長谷の牡丹に触れ合うての繪葉書『墨牡丹』は、宛名に無い私へ、親愛の投げキスと戴いておく。。感謝。
2023 8/31
* 自作ながら、発表して即「芥川賞候補」にあげられ、瀧井孝作先生、永井龍男せんせいからともに「美しい、美しいかぎりの小説」と声をそろえ激賞し推薦して戴いた『廬山』を読み替えも閉ちゅ、声を放って泣けた。私のこんな意識よりはもかに以前、早くより実兄北澤恒彦(生まれてより一つ屋根に両親兄弟で暮らした覚えの、全然無い兄)が指摘して呉れていたように、今して、脱稿初出より優に五十㊿余年、初めて「啼いた」の゛ある。身の深くに備わってきている阿弥陀如来への信仰と亡き生みの両親、育ての両親や兄恒彦への哀悼が地から噴くくように共鳴してきたものか。読み貸す機會をつくりえて、良かった。
20223 9/2
* 朝八時四十五分、早起きした私か茶を湧かす。京の秦の家では当然のように夜来残りの番茶は捨てて新しく湧かしていた。当然と思い、少なくも私自身はそうしている、新しい水と新しい番茶。茶は、私惜しみなく多めに淹れ、熱湯で十二分に煮出す。ぬるい番茶は旨くない、徹底して煮出すと「番茶」が、煎茶や玉露に負けないうま味に成る。わたしは敢えて番茶を、熱滔、淹しに淹す。京都でもそこまではしなかったと想うが。
2023 9/4
* やや大きめの画面のパソコン機の前に腰掛ける。私の、定座。真っ先に目にする目の真ん前に清潔無比の「紫宸殿広前」 左手に、高山寺の「弓射る兎たち」の清々しい白描戯画、視線を少し棚上へ上げると村上華岳描く「墨牡丹」、その右脇に白描の「長刀鉾」 そして華岳繪の左に、九谷焼の碧が冴えて葡萄の垂れた繪の、細身に丈のある湯呑み。さらに左へ、華奢な造りの小さな置時計。視野を上めにひろげると、何方に戴いたか「薬師瘡守稲荷御守 元気回復 鎌倉大町 悪病封じ 上行寺」の、鮮やかに緑色の御守りが懸けてある。狭い部屋の一郭、余儀ない「物沢山」とはいえ思いの外に整然と行儀は佳い。
想えば朝日子小さい頃から片付け屋で模様替えが好きな子だった。私と似ていた。
* 夫婦でない両親に生まれて、一つ家に暮らした覚え全く無く、一つ遭うの兄とも全く無く、気がつけば、四歳ごろか、京都の「ハタラジオ店」の「もらひ子」になっていた。
そんな身の上からも、わたしは昔から夢見ていた、いつか、いい妻に出逢い、息子に優しい「お嫁さん」が出来て、可愛い孫を抱かせて欲しいと。
幸い佳い妻は得た、が、「お嫁さん」も「孫」も現にいない。せっかく私を貰い育ててくれた「秦家」は、心から秦の両親や叔母に申し訳ないが、建日子独りで「絶えて」しまう。八十八の齢を目前に、「運命」という二字がきつい針のように身を刺す。愚痴か。愚痴と思う、が。悟った顔はしない、が、何となく悲しくなり、悟らない爺は、小学生時期にじしん発明した「身内」「眞の身内」という「想い到り」が恋しくなる。すべて「罪は、わが前に」しかし「眞に身内の思い」で慕い愛した思い出が、ある。忘れない。「世間」があり、「他人」がいて、そこから「眞の身内」が得たい。「得られた」という実感がもてていた。おさなかった「もらひ子」は懸命にわが「眞の身内」を尋ね尋ねて「少年」になり、「うた」を詠み初めていたのだった。
2023 9/5
* 今、何時なのかを心得ない。時計を観る。六時三十五分。それが朝なのか夕方、認知していない。日記の書きようからシテ朝かと想うが、調色したとは覚えず、私同様か、それ以上に妻の体調の違和が濃い。こういうとき、こっちもフラついている私に適切な手伝いが出来ない。こんな際の「嫁たのみ」が「時代遅れらしい」とは心得ている、が、それでも、たとえ一時でも素早い助力があればなあと嘆息する。
娘の朝日子とは孫「やす香」の病死を機縁に「切れ」ていて、もう多年私は娘の現状の片端も識らない。幼来多年「父の虐待」の被害を受けたと「父の私を法廷の被告席に立たせた娘」である。深く深く愛しこそすれ、なんで子煩悩を笑われた私があの「朝日子ちゃん」を虐待するものかと、知人はみな呆れて首を横に振るが。
弟の建日子には、「妻」と戸籍上も決まった人と紹介されたことも「結婚式」という儀式も紹介されたこともない。真面には緊急時の助けも願えない。顔が合うのは、正月、建日子と連れて我が家の雑煮を祝いに来る、事実として、只それだけの縁、なまじいに、なみの友人知人よりも、支援を頼みづらい。公共の支援を期待し依頼のほか無いということ。
* 幸いに助言や示唆はあれこれ貰えている、それに従わざるを得まい。
* 私は小学校の内に、ひとはみな、みはるかす大海洋に無数に散点する人一人が起てるだけの小島に「生まれる」のだと悟った。そしてよびかわし呼び交わし、人は人間たちを「身内」「他人」世間」と認識し、眞の「身内」とだけ、一人でしか起てないような「島に」倶に起てるのだと「観念」した。血縁や肉親を私は、生まれながらに喪っていた私は、ひたすら「眞の身内」に出会おうと努め生きてきた。よかったと確信している、
2023 9/9
◎ 何と云うことか。昨日は体調違和のどん底で、立ち居も、杖着いての家内での歩行もままならず、睡眠へ遁れるほかに途が無かった。
そして今日、午後の一時半に、やや身軽く感じながら睡眠の連續から、床を起った。血圧や血糖値は計っていない。「アコ」に手ヒドク噛みつかれた左掌は傷が展転し手の甲は腫れ上がっている。左手なので助かっている。
「アコ」は足もとへ纏わりつくのがすきで、私にすたすた歩かせない。階段などでは危険で、つい蹴飛ばして離そうとするがめな。よっぽど私が好きなのだろうが、危なくてコが進まなくてつい蹴飛ばすほどに追いやるさなか、パアっと飛びついて私の左手首へ噛みついた。やはり毒か甲と掌に数カ所のかみ傷が出血し、甲は今もむっくと浮腫んでいる。幸い左手で良かった。
2023 9/11
* 猫の「アコ」に咬まれ傷は皮膚の奥で悪化してか、右手の甲の浮腫んだ腫れは痛んで退く気配が無い。
2023 9/12
* 目も明いてられないような全身のけだるさのまま、もう九時半。休ませて貰おうか。
どんな明日が来るか、明日は明日。寝酒の切れているのが頼りない。「アコ」の咬まれは未だ腫れている。痛みもある。生きているだけで、色んなコトが有るのである。
2023 9.12
* 夫婦揃って八十七歳の暮しや健康如何と、公のお役目らしき婦人が朝の内に尋ねてみえ、一時間ほど三人で話した、が、要領を得たとも得なかったともボンヤリと、声ばかりデッカイ応答で帰って行かれた。
こういう要件は、本来は資格のある「保健婦」さんの仕事かと思うのだが。
医学書院の編集職にあった十五年半のうちに、看護系では、「準看護婦」「正看護婦」「助産婦」「保健婦」の各月刊雑誌を私自身「企画編集・担当」してきた。それぞれに国家試験があり、それぞれに「専門職の資格保持者」であり、なかでも「保健婦」さんは市井にも活動範囲をひろげて、「看護職のごく高等な資格者」たちだった。時に「先生」とも呼んで一緒に仕事した。
今日我が家に見えたのは、ま、西東京市の吏員かその周辺での臨時「聞き取り・質問役」のような中年サンであった。要領を得て帰られたか、心許なかった。
2023 9/14
* 馴染みの「唄」番組があり、歌唱プロらしい正装の男女が合唱してくれる。
今日、「青い月夜の浜辺には」という唄を妻と聴いていて、私は嗚咽を忍べなかった。泣き出した。
子供の頃、養親たちや人に隠れ、孤りこっそりと口に唱う唄だった、泪を流しながら。街育ち、「青い月夜」も「浜辺」も「濱千鳥」も識らない、が、「親をたづねて(さがして)啼く」小鳥とは、数歳から幼稚園、国民学校一、二年までの「私自身」に相違なかった。生母があり実父があり「夫婦でない」大人たち。家出傍に居る秦の祖父も両親も、叔母も「もらひ子」してくれた人たちとだけは「知らされずに」も、幼少、感知し察知していた。唄の{ハマチドリ}には成りたくなくても;以外の何でもない、あり得ない幼少だった。此の手の唄には、過剰にも弱かった。
今にして思う、私には幼・小・中・高・大學の何時時期にも「親と慕い」「愛された」先生方がおいでだった。「あおげば尊し」「わが師の恩」を私は、もったいないほど戴いて来れた。決して忘れない。
2023 9/15
* 妻は、お相撲が好き。若い大関「豊昇龍」贔屓。
私は、無意味や強引な、また本姓のままの「美しからぬ・しこ名」は好かず、贔屓にもしない。大相撲の美学はあの「姿」と「四股名」と「技」とに。熱の入る今、「熱く」なれる贔屓力士は、いない。昔は。
双葉山、羽黒山、安藝ノ海、栃錦、柏戸、大鵬、玉の海、千代の富士、霧島、白鵬。
2023 9/15
* 気が腐っていたので、処方の利尿薬は避け、常は避けている催眠の「リーゼ」を服して、それでも独り「零時過ぎ」てもキッチンで酒を飲みテレビの国際ニュースなど聴いてから、床に就いた。幸い手洗いへ起ったのは、一度。夜中にも要心のビタミンなど補強して、目ざめたのが曉暗の四時。猫「マ・ア」達の朝のトイレ用足し を脇で見、仏壇の秦の両親や亡き孫「やす香」そして我が家に歴代の愛猫たち「身内」らと静かに「話し合うて」から、此の二階へ来た。
「マ・ア」に削り鰹を遣り、私も一口含んでおいて、機械を開けた。
毀れたままの「ホームページ」が、結局東工大卒業生らの親切も行き届かぬまま、まだ復活できていない。それは大勢さんから「復旧か新設」を まま「懇願」され続けて居るの…だが。私には不可能。私も、「東工大の先生」時期から四半世紀が通過して来て、耄碌のすすむまま、所詮私にはもう「専用のホームページ」は「絶望」であるかの気配。
2023 9/16
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。
〇 『人を恋ふる歌』 与謝野寛(晶子の夫) 作詞デ
妻をめとらば才たけて ああわれコレッジの奇才なく
眉目うるわしくなさけある バイロンハイネの熱なきも
友をえらばば書を読みて 石をいだきて野にうたふ
六分の侠気四分の熱 芭蕉のさびをよろこばず (他に幾番も)
* 才もなく眉目うるわしくもないが、「なさけ」はふかい方の「妻」と信頼してきた。
「書を読んで」書ける「友」には嬉しいことに、コト欠かない。
昨日も留守中、寺田英視さん(文藝春秋「文学界」等の編集者を経て「専務さん」まで)の新著『泣く男』が贈られて来ていた、倭建命にはじまり、大伴家持、有原業平、源三位頼政、木曾義仲、大楠公、豊太閤ら、さらに吉田松陰にまでも「男泣き」の系譜を「古典」からも論攷されている。いかにも「寺田さん」であるなあと、読み始めへの興味、はや溢れている。
この寺田英視という久しい「友」こそが、すでに「165巻を刊行」して、なおなお続く、世界にも稀な『秦恒平・湖の本』刊行を「可能」にと率先「凸版印刷株式会社」を紹介して下さった、それなしに「湖の本」がもう40年近くも途切れなく刊行しつづけられたワケが無い。「わが作家生涯」のかけがえない恩人であり久しい読者のお一人なのである。心して明記しておく。
2023 9/17
*「靖子(沢口)」と向き合うて、碁を生真面目に三番ぬ戦わせて、いた。二番は靖子が勝った夢を見て二人ともご機嫌だったのが、零時過ぎだった。丁度今、同じ夜中の四時十分。そのまま二階機械前へ来てしまった。まさか碁も打てまいから「しごと」を続ける。背の方のソファで半疊大の「靖子」の顔がわたくしを観ている。別に大小五つ「靖子」の写真がこの雑多な部屋に微笑んでいる。申し分の無い「娘」である。
2023 9/22
〇 『湖の本164少女 』をご恵送いただき、誠に有難うございました ”始筆書き下ろしの「創作」”或る折臂翁を拝読、戦中・戦後にまたがる話の院櫂に惹かれました。初樹の父・弥繪・康岡それぞれの人格が゛心に迫り、崖が重要な役割を持つ構成と結末の急展開に驚かされました。白楽天詩からの発想にも独創性を感じました。秦さんの幼稚園生にして真珠湾攻撃を無謀と案じ、ぜったい「兵隊さん」になりたくなかったとの感覚は凄いと思いました。「不敬」「非国民」といった言葉が散見し、何の留保も無く自衛隊への好意的な論調が流通している昨今に危機感を持ちます。 励 名誉教授
* 此の、祖父鶴吉旧蔵、國分青厓閲 井土靈山選『選註 白楽天詩集』(明治四十三年八月四版)を手にした国民学校時期に巻中の七言古詩『新豊折臂翁』加えてに感動的に出会ったのが、加えて敢えて云えば「敗戦前に戦時疎開」していた丹波の山奥の借り住まいで、裏山深く独り登って見つけたある「崖」の誘いが、この、作家生活へ向かう第一筆処女作の「原点」となった。作家になってからも直ぐには世に出さなかった。期するあり、温存していた気がする。
いま此の様な「的確な読後感」を頂戴できたことを、生涯の喜びに数えたい。佳い「詩集」を遺して行ってくれた畏怖に値した秦鶴吉祖父に深く深く感謝している。秦家へ「もらひ子」された幼少はまことに幸福であった。
2023 9/22
* サゲは怪談めく夢で逢ったが、廣く謂えば私にはもう固有化した夢一連の一、二場面であった。総じては愉しく展開し進行して、オシマイが怪談に成る。やれやれ。
それよりも、寝足りない思いで六時にも成った。睡いとは健康ハツラツで無いということか。咬まれ手はまだ腫れて局所痛が残って居る。忘れてられる限り忘れている。
* 「湖の本 165」赤字合わせ了。「再校読 責了紙へ」「表紙」初校未了。
「湖の本 166」『蛇行』要進行 脱稿。「私語の刻原稿」の作成。
「噛まれ手首」の痛み執拗。 二時前。ただたた眠りたい。とても健康とは謂えない。
2023 9/23
*妻は一人で歯医者へ。わたくは家で仕事。
2023 9/26
* 妻が歯医者から一時過ぎに帰ってきて以降、いま夜の八時四十分。夕食を挟んでほとんど寝入りに寝入っていた。文字通りの「生・活」が出来ていない。ソレで良い様な現状で無いのは明瞭。と謂うて、怠けて寝ているのでも無い。私は少年の昔から秋口が弱い。すり脱けて行かねば。
* 酒が切れ、妻の留守に大ところの料理酒を少し盗んだ。旨くなかった。「湖 165」責了へ気が急いている。
2023 9/26
* およそ仕懸かりの仕事の「現状」は、機械画面上で「確認」した。出来た、収束をより精確に。メールもせず、届きもせず、至極孤独な現状。鳶は文字通りに、「外遊」すると。わたしは「外遊」出来ないが、「京都」か、せめて「都内」へ出てみたいが、建日子が母に電話してきて、コロナ・インフルエンザの蔓延は只ならないと。この身の弱りの今、病気はしたくない。病気でつ触れては、うまりに無念だ。「じっと我慢」の「籠り居」
で「仕事」に努めよう。
十月か。七十年近くは昔の十月十六日の真昼、妻とのデートで初めて大文字山に登り、しがいよりも比叡山の巨きく見える側斜面で景色佳さを楽しんだ、持参の魔法瓶は登山途中で木に当てて割ってしまってたが。
同じ二十六日には、二人で初めて「鞍馬山」を登って越え、貴船へ下りた。私は至極貧乏で、どんな気晴らしも出来なかったが、京都中、街も山もよく「歩いた」よ。歩くのにはお金が要らなんだ。その当時はどんな神社仏閣も鷹揚にただ觀せも入れもして呉れた。有難かった。感謝した。
2023 10/1
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『草津節』
一 草津よいとこ 一度はお出で(ア ドッコイショ)
お湯の中にも コーリャ花が咲くョ(チョイナ チョーイナー)
四 お医者様でも 草津の湯でも(ア ドッコイショ)
惚れた病いは コーリャ治りゃせぬ(チョイナ チョーイナー)
〇 一番など、よほど幼かった、しかも太平洋戦争が始まっていたころにも唱っていたのは、草津の湯に人気のあったためとは想う、が、ここで謂う「草津」を幼いわたしは、「南浅間に西白根」と唱う「草津の道」など知らず、京の町なかからは隣県・滋賀の「草津」のように想っていた。
私は「温泉」にひたと浸かった覚えを、九州のどこだったか、取材の必要で訪れた四国愛媛、出雲、石川の山中、群馬のどこか、箱根、四度の瀧 北海道の何処だったか、ぐらいしか持たない。
八七年を生きてきたこれまでに、私は「旅する」余裕と機會をほとんど持てず持たなかった。望みもしなかった。貧寒というでなく。家で好きに、が、落ち着いた。
京の新門前暮らしの少年時代に通った近所の「銭湯」、古門前の新し湯、祇園の清水湯、松湯、鷺湯、縄手の亀湯などへ、好みの、空いた早い時間に通って、ゆーっくり湯船に浸かるのが好きだった。秦へ「もらひ子」されてきた幼い日々には、父や祖父につれられ、、また母や叔母と女湯へもしばしば連れて行かれた。「銭湯」にはそれなりの「好さ」「めづらはさ」があったと、今でもはっきり「色んな思い出真夜中に起きて」が懐かしい。「女湯」で近所の、また国民学校の女の子と、湯からくびだけだして並んで湯船に居たことなど数え切れない記憶がある。冬至は当たり前の情景で、戦時に「家湯」の遣える家は無かった。焚き物が無かった。夏場は、井戸端で盥の行水だったが、我が家では時折りそんな行水を脅すように長い青大将が現れ仰天した。寝ている枕がみの障子際を蛇に通られ、添い寝してくれていた叔母つると共に着布団ごと空を跳んでにげたことも有った。近所を清流白川が趨っていて、石垣にも橋の上までもよく蛇が出た。どこの家にも蛇は出ていた。それも『花の京都』なのである。
2023 10/7
* 勝手なひとりごと、まさしく「私語」を書き散らし幾らか楽しんで、オウ、まだ早暁五時。二階の窓から真東の空、茜に染み横流れに長大な雲か、遠く低くに美しく、嬉しくなる。とてもトクした気がする。これから、今日が始まる。朝食は ネコ達の餌にあわせ、我が家では午前八時。もう三時間近く朝飯前の「仕事」に成る。
2023 10/7
* なんとなく生きて行くのが心細く、寂しい。
ワケは私に判らず、京都で、ふっと自殺してしまったという、敬愛されていた市民活動家の実兄北澤恒彦が、「思われ」てならない。何で自殺であったのか。
2023 10/16
* 朝日子の夢をみて目ざめ、そのまま二階へ来た。三詩四十五分。
2023 10/23
◎ 『月皓く』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 早くそこを遁れないと賽銭箱の柵に押しつけられ、右にも左にも動けなくなる。おけら火の火勢をもうそこに轟っと浴びながら、からがら拝殿の東側から円山公園へ飛び出す、と、ごうん一一と肚(はら)に響く知恩院(ちおいん)の鐘だった。暗やみに夢見るように幾つも火縄が舞っている。降る寒気をついて公園を抜けまだ東へ池を越えて、山の上の釣鐘堂まで除夜の鐘撞きを見に行く人が沢山いる。
「行ってみますか一一」
「いいえ、此処で聴いていましょう。もう押し合うのは大変。一一あの辺、ね、撞いているのは。あ、凄いの一一胸の底まで響くわ」
「一一」
「宏さん、あなた寒くありません」
「寒い。脚に何かが噛みつくみたい」
「歩きましょ。凝っとしてたら凍えてしまうわ」
「ね、清水(きよみず)さんまで行(い)こか」
「一一」
「あそこは人がぎょうさんお籠りしてはる。音羽の滝に打たれてる人もあるし、舞台へ出ると」
「きれい一一」
「きれい。今夜みたいに月があるとあの山の端(は)がきらきら光って、まあるいの」
「行きましょ行きましょ」
仁科さんは先に立つくらい元気に歩いた。
真葛ヶ原から二年坂、三年坂まで、流石にめったに人とも出逢わない。たまにまだ正月の用意の終らない家の前だけ灯が洩れて、その辺り二、三軒の門松や〆飾りが行儀よく
* 叔母(秦つる 裏千家茶名 宗陽・御幸遠州流花名 玉月)の「御茶の先生」「お花の先生」歴は永く 二十代から亡くなる九十近くまで。当然に稽古場へ通ってきた社中の人数も数え切れないが、私は小学校の五年生頃から稽古場に居座って、高校生の頃には代稽古し、自身も中学・高校に茶道部を起こしててまえさほうを永く教え続けた。
当然に、叔母の稽古場へ通ってくる女性の大方は私より年長、記憶の限り私より若かったのは早く亡くなって私を泣かせた「龍ちゃん」ら数人ともいなかった、か。
* 小説 『月皓く』の、上記「仁科さん(仮名)も叔母のもとへ通っていた社中の一人、六、七歳も年長だが、懐かしい人であった、後に渡米し、結婚し、亡くなった。大晦日、元旦にかけおけら日の燃え盛る八坂神社に初詣でし、淸水寺へまで行ったのも小説のママである。
* 私の思想的基盤である日本文化論が「女文化」であるのは謂うを俟たない。私は幼来京都の「女文化」と長幼の「女友だち」とで多く培われた。「懐かしく心親しい」いのはおおかた、ソレであった。
2023 10/25
◎ 令和五年(二○二三)十月三十・三十一日 火曜 神無月盡
* いま、三十日 午後二時前。妻は十時半には受診に厚生病院へ出たまま、また帰らない。電話も無い。
私は、凍り付くように案じている、心配して。自分がいまにも死ぬような煩いでもいいが、妻の病院通いは怖ろしいのである。
〇 生きてください
いかないでください
* まだ生きたいし いきたくもない、が、逼り寄られている感覚は退かない。
2023 10/ 30 31
* 妻、近々にも 背部からの手術に入院余儀無しと云われてきた。最も案じてきた、しかし思いよらずにいた石の曰わくに、茫然かつ深く動揺、耐えがたいまま睡眠へ逃げこんで、寝に寝て寝て寝て月末の夕刻まで。私が闇衰えてもいいが、妻には変わりなく元気でいて欲しいのだ。
無事に乗り切って欲しい、十日ほども、留守居の独り暮らしになるらしい。家に独り居はじつに寂しい。変わってにゅういんしてやりたいが。手術の何が目的かもまだ聞いていない。ただただ無事の成功を都念願、祈念するのみ。病院は、どこかこの沿線の順天堂とか。昔の、無いか北村教授の温顔とご親切が懐かしい。
* 滅入っている。この歳になり、一日でも妻と離れて暮らさねばならないとは、得がたい。
ひたすらに、無事健康な成り行きを期待し希望し念願するのみ。ネコたちと、懸命に留守をし、妻の無事健全な退院帰宅を切に願うのみ。.
2023 10/30 31
◎ 令和五年(二○二三)十一月一日 水 霜月 朔
* ただ、じっと、祈るのみ。いま何を云おうとして、云う言葉のみつからない重苦しさ。妻を病院へ入れる重苦しさには、堪えねばならない。そう重苦しい入院では無い筈なのだ、と謂い聴かせるがいい、それが事実なのだから。
2023 11/1
* 妻と、諸用意の買いものを「セイムス」でして来たり、機械に向いていたり。一日、一日を無事に先へ送って行くことを考えている。例年の「文化手帖」も届き呼び掛けてくる。早大、城西大、「165」受領の来信。
2023 11/2
* 妻 順天堂病院への「紹介状」受け取る。愕いたことに、京都の森下君のご家庭でも我が家と同じく、奥さんの発病と手術沙汰になってると。
2023 11/3
* 手狭な我が家では、廊下と謂えるのは階下に、玄関から置くの仏壇(とは遣ってないが)までと、階段を上がっての二階、表道路向きに窓四つの廊下と、だけ。二階には、窓下に文庫本専用書架が並び、廊下途中にはかなり思い「足踏み機」が老いてある。わたくしは、それをときとき110度も踏む。これは相当な運動量。階下の部屋には仰向き全身反っくりかえって腰も背中ものばす重い機械が据えてある。私はこれに、永いときは300 も数を数えて反っくり返る。背も腰も伸びてくれる。こういうことがまだ出来るので、乗り降りにさえ気を付けるなら自転車、ラクラク走れる。ただ「歳と相談」して油断も無茶もしていない。「無茶」に近いのは「超早起き」というより、真夜中を寝ないで機械に向き合い過ぎることか。
うちのはしご段は、たいした高さでない、踊り場で曲がっても合わせて二十段とないだろうが、この上下も苦になっていない、不思議と、長めの杖を前方へ伸ばしたまま上り下りすると奇妙に身が軽い。妻は、綱渡りのサーカスがながい棒をもちいている効果と同じ感じが「杖」に現れているのでしょうと。これは結構な理解で、私にも合点が行く。
* 我が家には、今一つ、私の「発明した」夫妻だけの作法がある。二人とも部屋の出入りには廊下をスリッパで歩く。その部屋へ出入りのさい、自分のは形なりに脱ぎすてたままだが、決まって私ならば妻のスリッパを、今度穿くとき穿きやすいように、キチッと向きへ揃えておいて上げる。お互いにソレをし逢うことで、自然と顔は見ぬまま、声もかわさぬまま、親しみ合える。手がるい心遣いを交換しているのです。
2023 11/4
* 紹介状持参での初診療病院の初診察は、予約から手間がかかる。自然と入院手術とやらもサキへ延びる。病状等も鎮静安静化していて貰いたい。
2023 11/5
* 少しはムリも承知のガンバリで、気がかりな「湖の本 166」入稿(送稿)を強行。すこしでも肩の荷を軽めたいと。ポストヘは自転車に乗ったが、帰りは「危険」と感じ、曳いて戻った。顚倒は、ヘルメットで少し防げても、骨折すれば容易ならぬ怪我となる。自分の足で歩ける内は歩くこと。
* 酒が切れた。一升瓶、セイムスヘ自転車で走るか。やはり体調を虞れて、ガマン。買いものの荷が重いときは、自転車を曳いて行く。幸いにセイムスは遠くない。
* 明日は妻の歯科通いに付き合う。脈拍が弱って、瞬間的にも失神、卒倒の虞がこの近々にもあった。
* 妻は暑いほどと云う。わたしは、ゾクゾクと膚寒い。
2023 11/6
* 紹介先病院での診察がのびのびになって、しかし妻の容態にとくに變化はなく穏便に推移しているのがしみじみ有難い。私は新入稿を終えて、まずはおおきく息をしているという風。しかし、自身の衰弱は察しが付いている。ただ静かに時を迎え送るだけ。
とにかくよく寝ている。寝る気になれば直ぐ寝られる。
2023 11/6
* 夜通しの雨であったか、天が鳴っていた。安眠したとはいえない、やはり近々これからの妻をいたわる独り居の日々に思いは夢にも流れていた。
2023 11/7
* 午後には妻の江古田の歯科通いに付き合う、瞬時にも「卒倒」は危ないので。お互いさま。私も転ぶのだが。
2023 11/7
* 歯科医通いは余儀なく。歯が上下とも無いような現状を緩和のため。妻の場合、受診病院から他病院への紹介と診断や手術の依頼なので、向こう方の受け容れや日時の問い合わせが必用、その最初の受診日が、来週のげつようになったので、やや予約の日時へ余裕ができているというまで。その初受診次第でその後の手術の是非や日取りが見えてくる、らしい。じっとガマンして「待ち臨む」より無い。
2023 11/7
〇 恒平兄上様
みっちゃん(姉) 来週あたりご入院とのこと、きっとうまくいくと信じています。毎日お二人のご健康をお祈りしています!
お留守番頑張って下さいね。猫ちゃんたちがいてくれて良かったです。何かお手伝いが必要なら、言って下さいね。
「湖の本」165に私のことや「おにいちゃん(故保と見康午・詩人 放送作家)」のこと書いてくださりびっくり!おにいちゃんも喜んでるでしょう。
「落ち椿」の絵を描いていると今までにない何か自由な気持ちになって、何か歌っているような気持ちがします。色彩も少し変わってきたような…
詩は書いてないですが、今は「風景は詩」だと感じられます。凄いなあ雨も風も嵐も! 月も! という感じです。
どうぞどうぞ 一生懸命生きていきましょう。
きっとみっちゃんは大丈夫ですよ。いもうと 琉より
2023 11/8
* わが「老境」を記録する側面としても 在りがたい読者のお一人例として。
〇 お別れのご挨拶をした覚えはございません。みづうみのほうこそ<こんなヤツもいたなあと、覚えてて下さると光栄。>とお別れみたいなご挨拶書いていらしたではありませんか。プンプンします。しかも「あなた」と、よそよそしい他人事感たっぷりで……最悪の気分です。
奥さまのご入院前でご機嫌が悪いのでしょうか。
インスタントラーメンしか召し上がらないのなら、せめて賞味期限内の卵でも落としてくださいますように。
ヨーグルトやバナナやみかんなどは栄養がありラーメンより簡単手頃に食べられます。最近はコンビニ弁当も充実しておいしいと聞きます。
順天堂のような大きな病院内にはコンビニが併設されていて、昼休みはドクターやナースで繁盛しているはずです。是非お試しください。
生活の自立が出来ないのが高齢者ですから、素直に建日子さんにも助けを求めてください。
高齢の親は子どもに迷惑をかけるのが重要な努めの一つです。子育ての仕上げのようなものとご理解ください。子に迷惑かけたくないというのは、親の教育義務の放棄です。猫は可愛いがられるのが仕事ですが、親はたいてい猫ほど可愛くないというのが少し困りますが……。
わが家の老猫は、昨日の点滴で見違えるように元気になりました。 現代医学の力、獣医学の進歩も目覚ましいことに驚いています。
お留守番の間に、さびしさに飲み込まれませんよう、たとえばわたくしの質問とお願いにご対応頂けましたら幸いです。みづうみを休ませないイケナイ女になってやる、と少しばかりむくれておりますので。
みづうみ、どうかお大切に、お元気でありますように。
奥さまのご快復をお祈りしています。 冬は、つとめて
* すくなくも私の困惑のおおきい一つは、建日子の内縁とも外縁とも知れない、戸籍上のとも知れない、知らされてない或る「女優なみ」の女性と ぼコミュニーケートの無い現状に、助けて、手伝ってともとても頼みにくい、頼めない現実が、デンと居座っている。妻はそれでも對話会話できている、らしい。わたくしにはうまく折り合う時季も道もついてなく、向こうもそのようで、いわゆるわれわれの「お嫁さん」として妻の手助けには、従來久しく、ほぼ全く役に立って貰えていない。其の人の我が家へくるのは、正月の雑煮を二世代で祝い初詣でにもつきあってもらう、まさに「それだけ」と謂うに同じい。自然建日子とも、母親はしらず、父とすこという優しい関わりをもつ機會すらめったに無い、それが現実そのもの。「酒」の呑める人なので、私の気に入りの酒器二、三を、正月の機に手渡しに進上したようなことはあった、けれど。
* 生来、幼少來、成人來、私は運命かのよ雲丹所詮は「血縁」「肉親」との関わりの持てないヤツという不幸な自覚が育っている。実父母を夫妻として、また現実の親子として、一度も認知していない。一つ屋根に暮らした事実が無いのだ。実兄とも一つ屋根に暮らした記憶はゼロ、名乗り合うて出逢った最初は互いに五十歳ごろ、そして兄は突として自死した。可愛かった甥の一人も外国で自死した。実の父母も、友に暮らすことは無くて、二人とも自死に同然に亡くなったと聞いている。
そしていま、私は最愛した娘朝日子を現実に喪ったママに老境を歩んでいる。息子建日子とはしあわせというべし、ほそぼそと付き合いはあるが家庭と仮定という親愛の時季には恵まれていない。 わたくしが、血縁・肉親よりも生涯の歩みから見つけた触れ合う多「身内」「眞の身内」という哲学を編んで、戯曲の「心 わが愛」その他の著作に「身内」人を構築しつづけてきたこん゛んの催しは、そこに、「肉親、血縁」の愛を感じることの切ないほどの「乏しさ」ゆえであった。いわばわが「愛読者」をこそ「身内」と頼み願うのが何よりも自然で瓈難いのだ。詰まりは諦めたのだ、肉親や血縁は。
* やはり妻の或いは入院手術かというを考えては気が重く沈む。独りの留守居に慣れているワケが無い。 疲れで、視野視力の濁りも物憂い。大酒が呑みたいタチの酒好きではない。ま、目の前の仕事に向き合うしかない野暮な書斎人と謂うに尽きるか。ま、本をよく選んでうちこむが上策。
現代モノの中国『主演女優』か七、八分がた読んでいる『水滸伝』をもう二冊程か。じつは『大無量壽経』の三度目ほどの再読も望ましく、五十冊近い『参考源平盛衰記」を半ばまで、清盛の最期まで読み進んでいて、現代語訳したいほど惹かれている、が何十年ぶりかで『モンテクリスト伯』もいいなあと、欲が深い。『古文眞寶』の詩にも惹かれている。本が無いので無く、在りすぎるほど在るわけだ。いいではないか。
2023 11/11
* 妻の入院手術もあるかという指定病院での初診まえに、いま、私は一小説家として何が出来るか、するか。そこへ頭から突っ込んで行くとして何が書けるのか。
2023 11/12
*ただただ疲れ切ってている。恒彦も恒で在ったろうか。 明日は妻の順天堂初診に付き合う。そのあとがどう展開するのか判らない。入院手術ともなれば、見舞いその他の往来にもただただ疲れる。過去にも在った体験だが、ろうれいという余儀ない追加が身観に堪えよう。疲れるだろう、妻も、私も。ケアを恃むことになるかも。
2023 11/12
* 今日は、妻の初診に同道。平穏無事を祈る。
* 視力の衰え、痛むほど。此処で諦めるのか。奮発するか。
* 妻に付き添って、ものすごい大きな練馬高野台の順天堂病院へ言って来た。聖路加病院よりもおおきく廣く多面的に多彩且つ清潔だった。初めての医師の診察は、おだやかであった。今後の受診やまた手術入院などは、妻がよく呑み込んで自身で決着するのがいいであろうと感じている、が。
* それにしても九時過ぎに家を出て、夕近くの帰宅、相当に疲労した。院内を歩き回るだけで歩行数は凄かった。
* 留守に、頂き物も来信も多かった。仕遺したいろいろも多いが、疲労に負けて、今夜はもう、みな投げ出しておく。
2023 11/13
* 戴くメールで、手厚いご親切と重々判っていながら、「いつもの余計なお世話を書かせてください。」とあるのも、これはもう辞退することにした。そう何時までも天上からの「もういいかい」の呼び声に「まあだだよ」とばかり堪えて居れない、しかし為遂げられる仕事はしておきたく、少々生活上に未熟や不手際があっても、構っていく心境に在る。親切なお世話にも堪えきれないだろう失礼は予め許して戴きたい。
深夜一時十五分、寝入れない。寝たと思うと尿意尿意で起こされつづけている、仕方なく二階、機械へ来てしまったが、今もきつい尿意。妻の入院手術を控えたが重い圧になり、渡しの寂しがりが燃え立とうとしている。出産も含めて妻の入院は何度かあったが、私も若くて行動的、シカモ朝日子や建日子が家に居た。独り居は実は、本性嫌いなのだ。両親兄弟と一つ家暮らした記憶が全く無い、そういう僻みも働いていよう。
よそう、こういう愚痴はわたくしを傷つけるばかり。
2023 11/13
* 夜中 暗い中で着布団を踏み損じて、顚倒した。二回目。
* 妻の入院は 手術後も十日と謂われている。なにしろ宏大々の練馬高野台 順天堂病院での施術となり、やや予定が先へむいているが。ま、こんなことは以前にも在りはしたが、やはり怺えにくい。
* 独りの留守となると、何かと生活上の「うちあわせ」をしとかないと、私には何も判らない。ものの置き場も使い方も 近所づきあいも、支払いなども。今日明日にもそれを打ち合わせておかねば
2023 11/14
* 背のソフアに、アコ、マコ 私のゴトの合間を「鰹頂戴」とお待ちで有ります。よしよし。
2023 11/16
* 猫の「ダイレクトレジスタリング」覚える。
2023 11/17
* 晩の九時二十分、今日も、今し方まで、大方寝入っていた。それが、どういいか、どう良くないか、判断出来ない。寝たいから寝ていたのだと思う。「湖の本 166」初校が出るまでこうなのだろう、その内に、妻のやや長い入院の日々がくる。
十二月二十一日の私米寿の当時までに穏和にコトが過ぎていて呉れますよう願う。
2023 11/17
* 何とも判別のつかない茫然とした機械作業に時間をとられて居た。どうすりゃいいのさ、この、わたし。
* わけもなく、と謂うしかないが、ガクッと心身が崩れている。気の弱り、弱気、臆病が取り憑いている按配。寝入るか、吸い込まれるほとの本を読むか。「独り」を懸命にイヤがっている自分を感じる。妻とだけの世界。朝日子も建日子もみゆ希もいない。感覚できない。メールも来ない。 寝入るのが賢明と思われる。いま、心惹かれているのは『浄土三部経』か。寝入るのが賢いと思う。
2023 11/18
〇 おはようございます〓
午前中の暖かい日差しにほっとしています。
治療の方針など、お決まりになられたでしょうか?
何のお手伝いもできず
ただ良い道筋が開いて行く事のみ願っています。
余計なメールで、煩わしてごめんなさい。
ご主人様のご都合など、ご心配が多いと思いますが、若い時・フイアンセのときから迪子さんの身体一番、健康を考えておられた秦様ですから、この際沢山の不便、辛抱を耐えていただきたく思っています。お二人様の良い道すじを一緒に祈らせてください。 練馬 ☀
>
@> ・晴 さま
> ご親切なメールをありがとうございます!
> 心臓が歳で疲れて来たので打つのを休むのだと思う訳です。休んでいる心臓に鞭打つて働かせていいのかな、なんて思う訳です。
>琉(妹)がね、誰にもわからないのが寿命だから、わからない事を憶測しても無駄と。そうかもね > ミチコ〓琉。
* それでも無事を願う。
2023 11/19
* 手洗いへ起つために寝床にいるような頻繁な一夜をやはり早く起きてきた。あさい眠りのまま、仕切り無く何かしら目当てのあるような断片の想いを夢に積んでいた。新しい小説へアタマが向いているのだ、大事は此の先。
* 今日は余儀ない要で、二人して江古田奥の、現在中年女医の神戸歯科へ出向く。
転ぶまいと、互いに声をかけ手も貸せる、ふたりづれだと。
2023 11/20
〇 お元気ですか みづうみのご不調も、奥さまをご心配なさる日々にも、心を痛めています。「お元気ですか」は健康状態の「お訊ね」ではなく、久しい合言葉として書いています、これからも「お元気ですか」の挨拶を続けます。
最近の「私語の刻」をお送りいただきありがとうございます。
ご様子が少しわかりますが、読めば読むほど落ちこむばかりです。みづうみが、「ひたすらに書いて」いらっしゃることは救いですが、またそこに無上のお幸せもおありだと信じています。ベートーベンのシンフォニーを聴くと、私ですら「負けてたまるか」と鼓舞されるように、疲れ果てながら這ってでも書くと仰言るのに励まされます。
もし私に「分母」があるとしたら「秦恒平」以外にはありません。
明日は勤労感謝の日とか。みづうみのお誕生日までひと月を切りました。どうかみづうみも迪子さまもご無事にお大切に「生来作家」の米寿のお祝いをお迎えくださいますように。
冬は、つとめて
* 正直なところを、真向にいま云うておくと、このところ私は しばしば、自死して逝った実兄北澤恒彦のことを思っている。兄、何故自死して逝ったろう。兄の子供達にも判るまい恒彦兄の「誕生」其のものに萌し根ざしていた「さびしさ」が私には感じられる、自分のモノとしても。
* 妻の入院予定日が近づいてくる。万善に心用意して無事に退院して欲しいと願っている。私もアコ・マコもガマンし努めねば。
初校が出て、有難い。気持の芯とも支えにもなって呉れる。平常心、そして文章世界の設計に協調・親和すること。
* よく寝て 平安に在ること。
2023 11/22
* 今日は、長い長い待ち時間を待って、迪子には、医師面接で入院手術の日取り確定。しかし
「当院では、入院中の見舞面会など一切禁じているなどと。
そして終始付き添っていた此の私は、「大」順天堂病院からの帰途、保谷駅の、下り階段ではげしく顚倒、固い石段の五、六段もを平に回転しながら転げ落ちた。
周りの人はむろん私も文字通りに仰天驚愕、だが、幸いにも「寒がり」の私は上も下も「超」厚着していて、そのおかげで顛落ぶりの派手なのに比べては、ほぼ無事無傷に近く、打撲の痛みのほか、外傷無しに起き上がれた。背負ってたリュックも防御に役立っていた、が、それにしては我ながら、文字どおり「仰天・回転」のハデハデしい階段転げ落ちではあったよ。一寸先は「闇」であったよ。
* ま、無事でよかった、本当に。私までお先に病院へかつぎ込まれていたらと想うとゾッとする。
* もっぱら「湖の本」初校の確認等を寝床に坐ってし、余のなにもせす、飲み食いもせず、寝入った。
2023 11/24
* サテサテ どんな日々がこれから「我が家」を導くのか、判りません。
2023 11/25
* 明後日 迪子は、「ペースメーカー」施術を主な目的に練馬高野台の順天堂病院に入院する。およそ十日ほどの入院中、わたしは、二人のアコとマコとで留守番。何もかも独りで不慣れな日々には成るが、迪子の健康な退院を、怺えて、待つ。独りは、いかにも淋しいが。
2023 11/27
* ともかくも今期「最終 結び」と思っている「166」の初校スミ 要再校ゲラの「戻し」を急ぎたく今日は熱中し続けていた,疲弊は痛みと倶に増してはいるが。
* とにもかくにも二十九日午後一番には,迪子の順天堂病院入院のために付き添うて行く。ソレまでに仕事上大事の懸案「湖の本166」初校済み「要再校ゲラ」をTOPPANへ返送したい。相当に手はかかるが、コト細かく。の戻し
2023 11/27
* 明日、妻、練馬高野台の順天堂病院に、入院。付き添って行くためにも、今日の内に「湖の本 166」要再校の初校ゲラに詳細入念注意し手を入れて「返送」用意、さまざまに問題箇所があり神経をとがらし、懸命に用意の一日に成った。駅階段から転げ落ちた痛みなどが右半身に在るが,今やそんなことは気にして居れず、妻の無事入院容易に気をつかっていいた。十ほどは妻が留守を、アコ、マコとともに私独りの生活留守居に成る。その用意、心用意も容易でない。
* が、懸命に集中・考慮して、巻末五頁もの「あとがき」、それも『秦恒平 湖の本』少なくも今一期、創刊以来38年をまずは閉じる一別の「挨拶」とも一心の回顧と反省とも謂うにあたる『あとがき』まで書けた。
明朝には、妻と病院への途次にTOPPN宛て郵送出来る。
2023 11/28
* 順天堂病院は、原則、入院患者への見舞い、病室へ立ち入り等々を禁じていて「見舞い」たくも見舞えない。郵便物もだめ、携帯電話での通話が関の山と。***
2023 11/28
あとがき
一九八六年 桜桃忌に「創刊」、此の、明治以降の日本文学・文藝の世界に、希有、各巻すべて世上の単行図書に相当量での『秦恒平・湖(うみ)の本』全・百六十六巻」を、二〇二三年十二月二十一日、滿八十八歳「米寿」の日を期しての「最終刊」とする。本は書き続けられるが、もう読者千数百のみなさんへ「発送」の労力が、若い誰一人の手も借りない、同歳,漸く病みがちの老夫婦には「足りなく」なった。自然な成行きと謂える。
秦は、加えて、今巻末にも一覧の、吾ながら美しく創った『秦恒平選集 全三十三巻』の各大冊仕上がっていて読者のみなさんに喜んでいただいた。想えば、私は弱年時の自覚とうらはらに、まこと「多作の作家」であったようだが、添削と推敲の手を緩めて投げ出した一作もないと思い、,恥じていない。
みな「終わった」のではない。「もういいかい」と、先だち逝きし天上の故舊らの「もういいかい」の誘いには、遠慮がち小声にも「まあだだよ」といつも返辞はしているが。 過ぎし今夏、或る,熟睡の夜であった、深夜、寝室のドアを少し曳きあけ男とも女とも知れぬソレは柔らかな声で「コーヘイさん」と二た声も呼んだ呼ばれた気がして目覚めた。そのまま何事もなかったが、「コーヘイさん」という小声は静かに優しく、いかにも「誘い呼ぶ」と聞こえた。
誰と、まるで判らない、が、とうに,還暦前にも浮世の縁の薄いまま、「,此の世で只二人、実父と生母とを倶にした兄と弟」でありながら、五十過ぎ「自死」し果てた実兄「北澤恒彦」なのか。それとも、私を「コーヘイさん」と新制中学いらい独り呼び慣れてくれたまま,三十になる成らず、海外の暮らしで「自死」を遂げたという「田中勉」君からはいつもこう呼んでいたあの「ツトムさん」であったのか。
ああ否や、あの柔らかな声音は、私、中学二年生以来の吾が生涯に、最も慕わしく最高最唖の「眞の身内」と慕ってやまなかった、一年上級の「姉さん・梶川芳江」の、やはりもう先立ち逝ってしまってた人の「もういいの」のと天の呼び聲であったのやも。
応える「まあだだよ」も、もう本当に永くはないでしょう、眞に私を此の世に呼び止められるのは、最愛の「妻」が独りだけ。元気にいておくれ。
求婚・婚約しての一等最初の「きみ」の私への贈りものは、同じ母校同志社の目の前、あの静謐宏壮な京都御苑の白紗を踏みながらの、「先に逝かして上げる」であった。心底、感謝した。、いらい七十余年の「今」さらに、しみじみと感謝を深めている。
私の「文學・文藝」の謂わば成育の歴史だが。私は夫妻として同居のはずの「実父母の存在をハナから喪失していて、生まれながら何軒かを廻り持ちに生育され、経路など識るよし無いまま、あげく、実父かた祖父が「京都府視学」の任にあった手づるの「さきっちょ」から、何の縁もゆかりも無かった「秦長治郎・たか」夫妻の「もらい子」として、京都市東山区、浄土宗總本山知恩院の「新門前通り・中之町」に、昭和十年台前半にはまだハイカラな「ハタラジオ店」の「独りっ子」に成ったのだが、この「秦家」という一家は、「作家・秦恒平」の誕生をまるで保証していたほど「栄養価豊かな藝術文藝土壌」であった。
私は生来の「機械バカ」で、養父・長治郎の稼業「ラジオ・電器」技術とは相容れなかったが、他方此の父は京観世の舞台に「地謡」で出演を命じられるほど実に日ごろも美しく謳って、幼少來の私を感嘆させたが、,加えて、父が所持・所蔵した三百冊に及ぶ「謡本」世界や表現は、当然至極にも甚大に文学少年「恒平」を啓発した、が、それにも予備の下地があった。
長治郎の妹、ついに結婚しなかった叔母「つる」は、幼少私に添い寝し寝かしてくれた昔に、「和歌」は五・七・五・七・七音の上下句、「俳句」は五・七・五音などと知恵を付けてくれ、家に在ったいわゆる『小倉百人一首』の、雅に自在な風貌と衣裳で描かれた男女像色彩歌留多は、正月と限らない年百年中、独り遊びの私の友人達に成った。祖父鶴吉の蔵書『百人一首一夕話』もあり、和歌と人とはみな覚えて逸話等々を早くから愛読していた。
叔母つるからの感化は、さらに大きかった。叔母は夙に御幸遠州流生け花の幹部級師匠(華名・玉月)であり、また裏千家茶道師範教授(茶名・宗陽)であり、それぞれに数十人の弟子を抱え「會」を率いていた。稽古日には「きれいなお姉ちゃん・おばちゃん」がひっきり無し、私は中でも茶の湯を学びに学び叔母の代稽古が出来るまでにって中学高校では茶道部を創設指導し、、高校卒業時には裏千家茶名「宗遠・教授」を許されていた。
私は、此の環境で何よりも何よりも「日本文化」は「女文化」と見極めながら「歴史」に没入、また山紫水明の「京都」の懐に深く抱き抱えられた。大学では「美学藝術學」を専攻した。
だが、これでは、まだまだ大きな「秦家の恩恵」を云い洩らしている。若い頃、南座など劇場や演藝場へ餅、かき餅、煎餅などを卸していたという祖父・秦鶴吉の、まるまる、悉く、あたかも「私・恒平」の爲に遺されたかと錯覚してしまう「大事典・大辞典・字統・仏教語事典、漢和辞典、老子・莊子・孟子・韓非子、詩経・十八史略、史記列伝等々、さらに大小の唐詩選、白楽天詩集、古文眞寶等々の「蔵書」、まだ在る、「源氏物語」季吟の大注釈、筺収め四十数冊の水戸版『参考源平盛衰記やまた『神皇正統記』『通俗日本外史』『歌舞伎概論』また山縣有朋歌集や成島柳北らの視し詞華集等々また、浩瀚に行き届いた名著『明治維新』など、他にも当時当世風の『日曜百科寶典』『日本汽車旅行』等々挙げてキリがないが、これら祖父・秦鶴吉遺藏書たちの全部が、此の「ハタラジオ店のもらひ子・私・秦恒平」をどんなに涵養してくれたかは、もう、云うまでも無い。そして先ずそれらの中の、文庫本ほどの大きさ、袖に入れ愛玩愛読の袖珍本『選註 白楽天詩集』の中から敗戦後の四年生少年・私は、就中(なかんづく)巻末近い中のいわば「反戦厭戰」の七言古詩『新豊折臂翁』につよくつよく惹かれて、それが、のちのち「作家・秦恒平」のまさしき「処女作」小説『或る折臂翁』と結晶したのだった、「湖の本 164」に久々に再掲し、嬉しい好評を得ていたのが記憶に新しい。
2023 11/28
* 午後 妻を,練馬高野台の順天堂病院「入院」へ付き添って行く。手続きは簡明、そして私は病棟入り口から帰され、西武線と保谷タクシーで、帰宅。途中『湖の本 166』全初校戻しと表紙など入稿郵便を投函。手もとに当面の南作業がみな,無くなった。
* 病室の迪子とは、メール出の對話が可能、これは電話よりも、善い。
アコもマコみ淋しそうに戸惑っているのが判る。つとめて優しく触れ合うている。
迪子の就寝も早かろう。私も。となりの迪子のとこに、アコとマコとも来て顔を寄せ合って寝入ろうとしている。
迪子の安眠、明日の無事平安を心底祈り願いつつ。
2023 11/29
* 今朝、妻迪子は練馬高野台の順天堂病院,多分胸部に「ペースメーカー」設置の手術を受ける。
*一夜。アコ、マコと三人で寝入って、けさ六時には目覚め、ミチコに激励のメールを送り、秦の両親や往年のネコ・ノコ・黒いマーゴたちにも迪子、カーサンを護って下さり呉れるようこもごもマコ・アコも一緒に祈った。般若心経も口誦した。
無事の成功と予後の平安を祈願する。
* かなり冷えて寒い。空腹を覚えている、また「おでん」を温めて朝酒をやるか。アコとマコとのキマリの量の朝食には、一時間 間がある。
幸いに当面為し置くべき「仕事」のほぼ全部を昨日までに遂げて「TOPPAN」に託したところ。疲労疲弊と顛落怪我とを背負い、よくそこまでもっていけてたと、我のガンバリ・フンバリに、やや呆れ気味に感謝している。心静かに以降に立ち向かえる。なによりも,今朝は妻の施術の無事成功を切望。
* 夜前は心淋しく、アコ・マコの結句妻の床へ慕いよって寝入るのがいじらしかった。ためらわず、私も寝入った。
* 十時過ぎ。まだ建日子からも報せがない。妻の無事を祈る。
〇 手術は無事に終わりました。
来週の月曜日に検査。そこで問題がなければ火曜か水曜あたりに退院だそうです。建日子
* みちこからも、一、にメール。
私は、疲れ休みに,永く寝入って。琉っちゃん等もいくらかの交信在り。寝入って過ごした。食事なども、ネコたちの世話も、まずまず。そして疲れ休みに寝入ってしまった。一安心できて,感謝。た。
2023 11/30
* 師走に。
建日子の先のしらせでは「手術は無事に終わりました。来週の月曜日に検査。そこで問題がなければ火曜か水曜あたりに退院だそうです。」と。少なくも、あと五日は退院を待つと謂うこと。経過無事の上、半日一日も早く帰って来て欲しい。
* 七時に起き いま、九時すぎ、台所でなにやかや遣っていた。猫たちの食事や水や排尿便の始末もした。かなり草臥れて睡いほど。用が無いなら,幸いにゴトも急ぎ用はないので、つとめて寝ようと‥それでもこの朝、既に宅配が一つ有ったし。
* 九時半現在。病院からも建日子や誰からもメール無し。
2023 12/1
* 駅階段を転落の、たしかに後遺症だろう,頚も肩も痛む。整形外科に見せよと奨められてはいるが、今の我が家で夫婦ふたりがもし入院とならば、家庭は無事維持できない。建日子を頼っても「家・事」は維持も出来まいし、彼の久しい同棲同居の女史は、見舞いの聲一つも掛けてこない。名前も忘れそうなほど私たち老夫妻とは、遠い存在。
となると、公的なケアをいよいよ恃むしかない。私自身は、死ぬほど苦痛があっても、この家・この部屋を離れ去るまいと覚悟している。もう『死ぬる』はさほ怖いとも思えなくなってきている。所詮は「肉親」とは互いに見放し見放されている。
* 晩六時半 晩飯が思い当たらないので、スープと、戸棚の奥に在った 緑色した箸にも棒にもかからんほど固いあんパンをむりやり囓って、半分捨てた。食欲無し。苺を、蜜柑を食べたか。
階下ではテレビを摘まみ見のていど。寝入るのが何より。二階では幸いにも差し迫った用はもう片付けてあるので、ただパソコンをいじるだけ。
下の入れ歯を嵌めたので、ものは食べやすくは成っている、が。
あすは 盬ラーメンでも見つけるか。酒は在る。蜜柑もある。柿は皮が剥けない。
2023 12/1
〇 ぐるぐる巻きの包帯はとれて、点滴の棒も用済み。身が軽くなりました。
建日子にも退院の事は詳しく知らせろと言われましたが、
退院の話はまだまだです。
看護師さんは皆さんとても親切です。
あなたの事を聞いてくる人もいますが大 勢の看護師さんで誰と覚えられません。
食べてね! ミチコ〓
2023 12/1
* 台所での悪戦苦闘、孤軍奮闘、ラーメンの半分しか食えず、食欲ゼロに近い。ただもう疲労困憊の態。
〇 お父さんはチンは使わないでいいように食品を揃えてあります。
湯を沸かして袋ごと五分温めれば食べられる物がて-ぶるの下、ダンボール箱に沢山あります。
調理台の下の戸棚に炊飯器にご飯とそばに高野豆腐の煮物、食べましたか?
冷蔵庫の中も探しましたか?
猫の砂は台所へ入ってすぐ、ダンボールの箱の側にあります。それを足すだけでいいですよ。ミチコ〓
* 疲弊・疲労の極。どうしようもない。
2023 12/2
〇 恒平兄上さま〓
朝食に苺ミルクとはおしゃれですよね!でも今日は寒いですから、暖かい何かをぜひ召し上がって下さいね。お風呂は入れますか? 色々気をつけてゆっくりやって下さいね。
駅階段での転落 あにうえ様は骨がしっかりしていらっしゃるので良かったです。創作も頑張って下さいね。猫ちゃんたちにもよろしく! いもうとルミコ〓
〇 恒平兄上様〓 迪っちゃんは如何されているのでしょうね。ペースメーカーの効き目はどうでしょう。
兄上様は、今日はちゃんとお食事出来ましたか? 可愛い猫ちゃんたちのためにも、体力をつけて下さいね。
小説のお仕事も頑張られたと思います。迪っちゃんの帰ってくる日まで、もう少し頑張って下さいね~ 私は今日は、コロナワクチンを打ってきました。 いもうとルミコ〓
* 夕五時 空腹なのかも知れないが、食べたく無し。テレビでも見て、マ・アにゴハン上げて早く寝入りたい。
* 明日は日曜。 月曜日の検査がとても大切、それ次第で一両日の退院も実現する。緊張せず、平生心で迎えて下さい。
ヘトヘト。八時にゴハンあげたら寝ようと思う。飲み水は再々かえてやってます.美味しそうに飲むのに感心した。
琉っちゃんから,何か見舞いらしき包みが届いてますが,見てない。
控え置きの安直の食べ物や飲み物は、みな不味くて閉口。
ラーメンも半分捨てた。スープ、蜜柑。
御飯、カステラがあるとか、すっかり忘れてたが、食べられるかなあ。ま、口に入るモノを食べるように勉めます。
ねむたい。おやすみ。
○ 了解しました。
諸検査の他に抜糸もあります。
月曜日は緊張するでしょうね
明日はリラックス出来ますように。お休み ミチコ〓
2023 12/2
○ 寝る前にお便所に行っていました。廊下にリハビリ用の10メートルごとの印があります。私は10メートルに16歩かかります。お父さんは何歩でしょう。
お父さんももう寝て下さいね。
おやすみなさい ミチコ〓
*ネコ達が 吐いた形跡はない。マコは、今も二階の足もとへ来て坐っている。アコは、ソファで、トーサンの仕事の背中を見つめている。
十メートルを 16歩 は 大幅だね。一メートルを 2歩見当でわたしはふだん歩くよ。
いま、九時半。こどもたちに八時のエサ、わすれたみたい。遣りに階下へおります。 おやすみ。 コヘ
2023 12/3
* 夢に怯えているのに気づく、さしたる夢でも無いに。心身違和とはこれか。妻も猫たちも平然と寝入っている。
2023 12/7
* こう,機械に向いていて、右の頚の痛みは、むしろ強まっている。けれど、病院へは行かない。いずれ末期は向こうから遠慮無く近づいてくるし、覚悟している。この仕事場から動かず、此処で死にたいと,繰り返し妻には告げてある。
妻も私と同齢そして同弱、ま、妻のことは建日子が気遣って呉れようし。私は、早くに逝ってしまった大勢の声をいつも慕わしく懐かしく聴いている。
2023 12/7
* 体調不安は掩えない。安眠もしていない、始終まさしく「夢想」の内に「京都」と「少青年の思い出」を拾い続けている。
* さすがに幼少、昭和十六年、しかも地元を離れ送迎バスで通った私立「京都幼稚園」での友も先生ももう影淡い、が、その年「十二月八日」、まさしく82年前の「真珠湾奇襲」そしてつづく「太平洋戦争・第二次世界大戦,のことは、いずれのヒロシマ・ナガサキ原爆・そして敗戦・戦犯裁判、闇市・進駐軍・街にあふれた売春婦等々、鮮やかに子供心に記憶している。
そう。「開戦」翌、櫻の春にわたしは京都市立有済国民学校に入学。そしてちょうど「三年生を終えた」ときに、当時戦時下の京都市東山区松原警察署管轄の技術者として「ラジオ班長」を委託されていた父長治郎の意向で、知縁を頼み、秦の祖父と母と私三人は、京都府南桑田郡樫田村字杉生(すぎおう)の富農長澤市之介氏宅の「隠居」を借り、いわゆる「戦時の縁故疎開」生活に入り、「四年生早々」から山をまるまる一つ越えた樫田村田能部落の府立樫田国民学校、実に程もなかった「八月敗戦」からは樫田小学校へ、「五年生二学期半ば」まで山越え通学していたが、五年生の秋、突発、私は満月様顔貌の急性腎臓病を発病、此の際秦の母は躊躇いない機転で即刻私を引っ担ぐように亀岡市経由京都市内へ帰り、家へも戻らずずその足で、東山区松原通に掛かりツケだった親しい樋口医院へ担ぎ込んでくれた、まさしく、それで命助かったのだ。
辛うじてその五年生二学期末から、久々に旧母校、有済記小学校に復帰、六年生では戦後の合い言葉、自主自治のなのもと全校生徒選挙によって初の「生徒会長」に選ばれたり、歯筒の戦後小学生生活を謳歌した。市内に一郭の只の使用学校経ったが、戦時戦後の海外からの機関や戦災等による家を挙げての京都市へ罹災避難家庭が充満し、学校の運動場はわたくしなどまた「モンペ」蔟の目をうばう洋服やスカート・ブラウス・カーディガン等の見知らぬ顔顔顔に、まさに「おったまげ」た。それでも、私、大いにがんばったのだ,五年生では卒業式に在校生送辞を、自身六年卒業式には卒業生答辞を読み、一の優等生として有済小学校を卒業したのだった。山ほどの思い出が、今もいきいきと身内に宿っていて、そして、相次ぎ、祇園八坂神社「石段下」の京都市立「新制」弥栄中学に入学した。実にこの年の春から、「旧制」の久しい憧れでも目標でもあつた京都一中や二中への「入試進学」と謂う制度は廃止され、京都市立に限れば、六年(私の場合、有済小学校) 三年(新制弥栄中学) 三(新制日吉ヶ丘高校 但し入試)制に、ウソのように一切切り替わったのだった。
2023 12/9
* 京都黒谷の宏大な山墓地のてっぺんに小さな三重の塔が建ち、その縁に腰掛けて学制の昔よく話した。そして求婚し婚約した。墓地の見事な紅葉を一と枝戴いて新門前の叔母宗陽の茶室に入り、ふたり向き合って茶の湯一席「婚約」の茶を喫み交わした。昭和三十二年師走十日のことだった。
* 二人で,夫婦自祝の夕食、迪子の遙かな学友市川澄子さんから祝って戴いた名酒「越乃寒梅」をすこし酌み交わした。
2023 12/10
* 寝ていて。左真横の腰骨にいたみがあね、これも階段転落の遺尫か。今朝は九時という早い時刻に、先ず諸検査のため厚生病院へ出向く,妻と。
2023 12/11
* 妻の妹が、真っ先に祝ってくれました。
* 明日十二月二十一日、私、滿八十八歳の「米壽」を迎える。「めで鯛」と鯛の謳ってくれる祈念祝賀のメロディカードが、もう、妻の妹から贈られている。寿。賀。
八十八年、短くはない。永いとも実感してこなかった、ただ、コツコツと歩いて来たナと思う。結婚以来、隙間なく妻と並んで歩いたのがこの長壽「米壽」のちからであった。
そう思う。感謝。
2023 12/20
◎ 令和五年(二○二三)十二月二十一日 木 師走
恒平 誕辰以来 今朝 滿八十八歳
起床 6:45 体重 56.5kg 早暁起き・測
○ やそ八の名を「壽」いで温かに「米」の飯をぞ妻と祝へる
2023 12/21
○ 米寿のお誕生日、おめでとうございます。
報道はされないだけで、相変わらずコロナと、さらにはインフルエンザもかなり流行しているようですので、引き続きどうかご用心を。
来年は新しい小説をまたお届けできるかと思います。建日子
* ありがとう.何よりです。健筆、願い祈ります。
* 胸のポケットに入るちいさなカメラを三機も、使い切ったかダメにしたか。
しかし、いま、費用惜しまず、私のような「機械バカ」でも遣える新しいカメラが是悲欲しい。買いに出たい。が、コロナは決してまだ油断ならぬとか。建日子に頼めまいかなあ。
* クリスマスには縁も、気も無い、が、昨夜は銀座など盛り場はやはりはでやかに明るく飾っていたのかな。今日は。 ひょっとして妻と江古田の歯医者へ行くかも知れない、が。江古田の「中華家族」に置いている中国酒、あれが美味いのだが。えらく戸外は寒そう。
*「中華家族」でフンチューを2盃。寒くはなかった。
* 長く永くは歩けないと、だんだん判ってきて。これで諦めては都心に出られない。銀座、上野、浅草は、せめて、もう一度行って見たいが。
* 来て好いはずのメールが来ていないと、先方の健康を案じてしまう。お互い様、健康でいたい。
2023 12/25
* 朝一番に妻と連れ立って五分で行けるセイムス出の買いもの。子供のように(自分のお金でだが)ちょっとした「買いもの」が心愉しい。安い洋酒や握り飯や目薬など買う。養命酒も買う。
2023 12/28