◎ 世のなかや目覚めぬままに初春の歩みは早も聲なしてゐき
◎ われは吾れと歩まじ先の道をくらみ倶に頼むよと妻に身を寄す
* 妻と二人での元朝・元日。寂しいと謂えば淋しくはあるが、「生きて越し」これがわれら夫妻の「本来」であったよ。
* 雑煮を祝い、夫婦して例年のように近くの「天神」社に初詣で。
* 午には、京「道楽」の豪勢な三重お節料理の壱重目を酒の肴に戴いた.とても食べきれなかった。
2024 1/1
○ 拝復 法帖二帖ご恵送賜り誠に有難うございました。
ダンボール箱を開けびっくりし、手にして果して私が頂戴してよいものかと当惑いたしました。
書の力強さ美しさに魅せられましたが、二帖とも折目が切れているので、鑑賞するには、補修が必要かと思われます。
倉卒に調べました所、『晩香堂蘇帖』には末尾に董其昌(一五五五ー一六三六)の跋があり、”崇禎六年脩(喫)日上石臘月既望竣”と年記がありますので、崇禎六年(一六三三)十二月に宋拓を摹刻したものかと存じます。『東京大学総合圖書館漢籍目録』子部、書畫之屬p332/下 に、「晩香堂蘇帖十二巻 宋蘇軾書 崇禎五年至七年刻拓清印本」と十二(帖)の青洲文庫本が著録されていました。題簽に「晩香堂蘇帖 天馬賦」とあるように、蘇帖十二巻の内の「天馬賦」の一帖かと思われます。青洲本の「清印本」が何を根拠に清朝に印した本と判断したのか、いずれ折を見て、青洲本と比校したいと存じます。
『觀海堂蘇帖』の方は、末尾の小字跋「蘇文忠西樓帖詩文二帙(呉)荷屋中丞所蔵宋拓本也余/酷愛之與孔(職)庭太史選其精者重摹詩二十九首刻/成置南海中道光戊戌冬寥(生)記「麁脩(印か)」」から、宋拓本の「蘇文忠西樓帖」詩文に帙から寥(生)が孔(職)庭太史と精なる
詩二十九首を選んで道光十八年(一八三八)に摹刻したものかと思われます。他の目録類や、『書道辞典』等の調査も必要だと思います。それらの結果を考え、東京大学総合図書館か書道博物館かで所蔵されるのが相応しいのではないかと愚考いたします、それまで大切にお預かりいたします。
先は御礼のご挨拶とにわか調査のご報告まで
末筆ながら迪子様ペースメーカーをお入れになった由、どうか寒中くれぐれもお大切になさいましてお二人共お元気でよいお年をお迎えくださいますようお祈り申し上げます
二○二三年大晦日に かしこ
浦野都志子拝
秦 恒平様 清案下
* 秦の祖父鶴吉遺藏の雑多にしかも傷みのキツい、しかし私が観ても今日貴重ないし入手不可能にちかい文献類を、これまでも学会、大學、お付き合いのある個々の研究者その他へ受け容れて貰ってきた。浦野さんとはいつ頃からか、もう何十年、こうして折にふれモノを教えて戴いてきた.感謝感謝。
それにしても鶴吉お祖父ちゃんの遺蔵本や文献類は、京の町中でもともと「お餅屋さん」だったというが、どんなに和漢の古典・詩史書で多彩に私を刺激し喜ばせて呉れたことか。おまけに大事典,大辭典、地図があった。小学校時期に私はほとんど近代以降の小説本を必要と為ずに済んだ。祖父の息子の父長治郎も叔母ツルも、まったく本など目も手も触れないひとだったから、父母の「もらひ子」とはいえ、私の「本好き」はおおいに「おじいちゃん」を頷かせていた、ほとんど口は利いてくれなかったけれど、幼少来祖父の本にふれることを一言も咎めなかった。
浦野さんを、ご迷惑にもこんなに煩わせたような、大きに破損した本にも、私は棄ててなどしまえない歴史や古典の価値を感じ続けてきた。
季吟の大著『源氏物語湖月抄』や、また『神皇正統記』 真淵の『古今和歌集講義』や 『百人一首一夕話』等等、日ごろ手放せない『唐詩選』『白楽天詩集』など、恩恵は山のよう。有難い「秦」家に育てて戴いた。天恵と謂いたい。
* ゆるされた残年を、創作を含む書き仕事に、ただ、向き合いたい。
2024 1/4
* もの忘れ、記憶喪失が、徐々にと謂いたいが、足早に来つつある。それが自然と躱しながら歩むしか無い、どうこうは出来ない事。キイで、まだ自在に文章の打ち出せてるのが、有難い。* 幼少の頃、「心に太陽をもて」と、なにやら絵本の類に逼られていた。わたしは、どうじに「唇に唄を」とも教わって、これは好いこと、大事なこととと感じた。お蔭で、私は今にしてまだまだ、声に出さずもくちもとに唄を欠かさない、ときに、ウルサイヨと愚痴るほど、実にさかんに童謡や唱歌を無音で唱い続けている、
このとみろは、なぜか、「京都ヲ 大原三千院」とばかり聲無く口ずさみ続けている。とくべつ三千院に曰わくがあるのでない、流行歌の出だしだけが口に残って居るのだ、むろん大原も三千院も懐かしい。
懐かしいわけでは無いが、同志社美学藝術学専攻で、妻と同じ一つ下の学年に「三千院の御姫サマ」とやらが、いた。オソレ多くてくちを利いたこともないが、よく覚えている。「御姫サマ」と謂うのがどんな事実にあたつているのかなどは、皆目知らず聞かずじまいだったが。それで、このごろとかく「京都ヲ 大原三千院」という歌謡曲の出だしが口に甦っているワケでも無い。
「唇に唄を」は、私の場合はほとんどが童謡ばかり、それは五月蠅くも無く受け容れている、「サッチャンはね」とか「垣根の垣根の」とか、「柱のキズはおととしの」背比べ、とか。
* 時には口うるさいのだが、「心に太陽を」よりは「唇に唄を」のほうが親しめる。小さいから秦の叔母ツルの手ほどきで和歌、俳句の存在やカルタの百人一首和歌に興味を持ち、小学校四年生の秋には戦時疎開先の丹波の山なかで京都恋しい帰りたい短歌を創っていた。有済校に帰った五年生三学期の教室で、作文の課題に鴨川などをうたった短歌を二首詠みいれていた。文章の音感、音鎖を意識していたし、今も大切にソレを感じている。句読点のはたらきをとても大事に意識している。
2024 1/5
* 真夜中の二時五十分ごろ一度手洗いに起った。妻も寝入っていて、茶の間にストーブが燃え、廊下にカラのダンボール函がころがっていた。マアズが遊んだら火の危険があった。コヤッとした。「老夫婦暮らし」という現実に、日夜シカと向き合い要心せねば。昨夜のわたしの日録は23時36分に記録されていた。床に就いたのはそれ以降だったのだ。妻はもう眠っていたろう。
2024 1/7
* 午過ぎ一時半、京も北の奥の奥「花脊」美山荘の七草正月の風情を美しいテレビ映像で見とれていた。
秦の母と戦時疎開していた真冬奥丹波のお正月が、しきりと懐かしい。あの母、あの疎開の頃が生涯で一に懐かしい、、良かったと九十六までの長い生涯に私によく洩らした。あの母、小学校四年、五年生だった私を「もーいいかい」と待っている心地がする。小声で「まぁだたよ」とは応えて居るが。「お母ちゃん」と謂うならともに暮らした覚えの無い実母ではなく、あの「秦の母」しかいない。
2024 1/7
* ひどい夢見であった。なにもかも、寄ってタカッテ、クチャクチャにいたぶられ、軽蔑され,乱暴され、しかしそんな世間からの逃げ道は無かった。堪えるに耐えがたい被害妄想とは、コレ。
わたしは、生まれて、「気がついたら」縁も故も無い大人達の家庭の「もらひ子」だった。それが、そもそもの「独り立ち」という意味でもあった、「自分を護れる」世界をハナから空想し妄想し想像し推察し認否して「創り上げ」て、身辺から、近在から、世間から,社会からの蔑視と否認に耐え忍ばねばならなかった。それが「夢」と化すると,、九十歳近い私の現在にして、見知ったような見知らぬような或る外壁を固く閉ざされた「街衢」を懸命に走って逃げ回り続けねばならない。
こうい子は,、「夢」にも、然様の想像、存在自体を徹底的に否定否認侮蔑され続けるのに,懸命に抵抗し反抗して生き続けねばならない。わたしには、「文藝・文学・そして創作」が,幸いに、ソレであった。
* ま、お正月さんは帰って行かれよう。何が大事か。健康、のようである。
○ 誕生日のメッセージありがとうございます。 建日子
56歳になりました。
こういう機会なので、朝日子に連絡を試みてみましたが、 やはり電話は着信拒否。
ショートメールも受信拒否。
SNSはブロック。
という状況なので、もうぼくが朝日子と連絡を取るのは難しいようです。
* 私が呼び掛けても全く同様 朝日子も孫のみゆきも「他人」の「更に外」と化した。二十歳にもならず亡くなった「やす香」はしみじみと祖父母に心優しかったが。
2024 1/9
* 玄関に掛けていた岸連山「富士」の好い墨軸をはずして、明日『湖の本』最終166巻の納品に備えた。軸のアトへは、これも好きな弍羽の小鳥の色彩畫額を掛けた。
四十年近く年に数回ずつ手懸けてきた「湖の本」発送を終える、心残りは無い、165回ももう送り出し続けてきたのだ妻とふたりで。よくやってきたと思います。妻には、ただただ感謝。166巻は巻頭にやや長い小説『蛇行 或る左道變』を置いて、湖の本としての最終の「私語の刻」を編成した。
* 仕事は已むのでない、何か姿や顔つきを変えて新しいモノになって登場してくるかも、暫く休憩するにしても。
2024 1/10
○ 初メールありがとうございます。
やそはち兄上さま 新しい年が明けましたね。
迪っちゃんの手術もうまくいって、今年は穏やかな毎日を送られますようにと願っています。
でも明日(=今日)からはお二人で、最後の「湖の本」の発送作業をされるとか、どうぞご無理のないように、ゆっくり作業をしてくださいね。
38年間も頑張ってこられたのは すばらしいことです!
これからもっと自由に、ご自分の生活を楽しまれて下さい。
応援しています! いもうと 琉
* ありがとう。 琉っちゃんの繪も詩も より輝かしく表現されつづきますよう。 やそはち
○ 迎春 令和六年
秦さんの新春メールを頂けて嬉しいです
今年もよろしくお願い申し上げます
火の用心
ほんとに ホットしております
浅草の頃 近くで火事が出ると 親父に自転車の荷台に乗せられて現場に行き「よく見ておくんだ」と言われました 消し止められたあとでもものすごい臭いがしました
「秦恒平 湖の本」38年分 全部 本棚に揃っております 全部もう一度読めるといいなと考えてます 最初の方の20冊位は「まだあるかなあ」と考えてお願いできた記憶があります 全部 また読める人は「そうはいねぇだろう」などと思っています
戦時疎開
あの頃の 秦さんのお話をもっと伺いたいです
「あの母、あの疎開のころが生涯で一になつかしい、良かった
と 九十六までの長い生涯に私によく洩らした」
何をおっしゃっておられたのでしょうか
私のおふくろは「進駐軍に帯を売ってきた」などと言ってたことがありました
あの頃の 2〜3年 場所 で「経験がまるで違う」のでほんとにはひとに話しても通じないとおもいます(話したこともありません)
国民学校3年時に4年になったら 学童集団疎開が 東北の方に決まった際 父が「そこへこいつをやったら死んじゃう」と言って 縁故疎開の方法をとり 母兄妹で暖かい湯河原(農家地帯)へ行かせてくれました
すっかり田舎っ平になりました
秦さん コロナ・インフルエンザまだまだです(老人ホームは今だに」です)
ほんとに 人のことなどいえませんが お怪我のないように 火の用心 どうかくれぐれもお気をつけください
本年もよろしくお願い申し上げます e-old 勝田拝
* 勝田さんが、一、弍歳の兄さん。顔が合い,敗戦前後の「往時」を語り合えば、何昼夜もとぎれまいなあ。どうか、お元気で。**
○ 新年早々のメール 有難う存じます
御文中「創刊38年を経て 第166巻に及んだ『湖の本』を終結させる」との由拝見 小生はその「終刊を惜しむに増し」て 「166巻に到つた継続に奇跡を感じ」ざるを得ませんでした
毎々頂戴する度に そこに籠められた努力の尊さと文藝への熱情に頭を垂れてゐたのです
今は思ふ様 解放感を味つて下さい と申上げても既に新しい道を見つけてをられるでせうが
何よりも奥様共々 健康に御留意下さることを念じをる次第です 寺田生 前・文藝春秋専務 作家・思想家
* 太宰治文学賞このかた、一貫して交際、掛け替えない友誼を保ってこれた嬉しさを、いま,しみじみ味わう。
有難う御座います。ご健筆、ご健勝を心より願います。
* もう二時間もすれば、『湖の本』最期の新巻が玄関へ届くだろう。
私の歴史は、まだ終えない。
○ 七日正月もすぎましたが、穏やかな迎春の事だったと存じます。
「翁」を九皐會で観てまいりました。
ご著作の中で 「清いまはる、深いよろこび」とのべられています 若さ漲って、力が入っていました
「今日のご祈祷なり」
秦様ご夫妻の共に祈って参りました。
北陸地方の大地震のお見舞いを申し上げます。 お知り合いの方々にご災害がなかったでしょうか、早く治まって暮れますよ様に。 持田晴美 妻の学友
* 謡曲と仕舞とに修練され、お便りにも、光彩が添ってきている。きょうようという尊さを如実に久しく体現されてきた妻の親友にわたくは敬意を惜しまない。
2024 1/11
* さ、もうほどもなく、『湖の本 166』が出来てくる。
* 九時十五分、予期通り『秦恒平 湖の本』第166最終巻『蛇行 或る左道變 老蚕作繭』が出来て 玄関に山と積まれた。
太宰賞作家・秦恒平・私史の一つの大事なけじめである。
これから、ゆっくり手を掛けて妻と最終の発送に日にちを掛けるつもり。何を急ぐことも無い。
◎ 『秦恒平・湖(うみ)の本』全166巻
「結び」の あとがき
一九八六年 桜桃忌に「創刊」、此の、明治以降の日本文学・文藝の世界に、希有、各巻すべて世上の単行図書に相当量での『秦恒平・湖(うみ)の本』全・百六十六巻」を、二〇二三年十二月二十一日、滿八十八歳「米寿」の日を期しての「最終刊」とする。本は書き続けられるが、もう読者千数百のみなさんへ「発送」の労力が、若い誰一人の手も借りない、同歳,漸く病みがちの老夫婦には「足りなく」なった。自然な成行きと謂える。
秦は、加えて、今巻末にも一覧の、吾ながら美しく創った『秦恒平選集 全三十三巻』の各大冊仕上がっていて読者のみなさんに喜んでいただいた。想えば、私は弱年時の自覚とうらはらに、まこと「多作の作家」であったようだが、添削と推敲の手を緩めて投げ出した一作もないと思い、,恥じていない。
みな「終わった」のではない。「もういいかい」と、先だち逝きし天上の故舊らの「もういいかい」の誘いには、遠慮がち小声にも「まあだだよ」といつも返辞はしているが。 過ぎし今夏、或る,熟睡の夜であった、深夜、寝室のドアを少し曳きあけ男とも女とも知れぬソレは柔らかな声で「コーヘイさん」と二た声も呼んだ呼ばれた気がして目覚めた。そのまま何事もなかったが、「コーヘイさん」という小声は静かに優しく、いかにも「誘い呼ぶ」と聞こえた。
誰と、まるで判らない、が、とうに,還暦前にも浮世の縁の薄いまま、「,此の世で只二人、実父と生母とを倶にした兄と弟」でありながら、五十過ぎ「自死」し果てた実兄「北澤恒彦」なのか。それとも、私を「コーヘイさん」と新制中学いらい独り呼び慣れてくれたまま,三十になる成らず、海外の暮らしで「自死」を遂げたという「田中勉」君からはいつもこう呼んでいたあの「ツトムさん」であったのか。
ああ否や、あの柔らかな声音は、私、中学二年生以来の吾が生涯に、最も慕わしく最高最唖の「眞の身内」と慕ってやまなかった、一年上級の「姉さん・梶川芳江」の、やはりもう先立ち逝ってしまってた人の「もういいの」のと天の呼び聲であったのやも。
応える「まあだだよ」も、もう本当に永くはないでしょう、眞に私を此の世に呼び止められるのは、最愛の「妻」が独りだけ。元気にいておくれ。
求婚・婚約しての一等最初の「きみ」の私への贈りものは、同じ母校同志社の目の前、あの静謐宏壮な京都御苑の白紗を踏みながらの、「先に逝かして上げる」であった。心底、感謝した。、いらい七十余年の「今」さらに、しみじみと感謝を深めている。
私の「文學・文藝」の謂わば成育の歴史だが。私は夫妻として同居のはずの「実父母の存在をハナから喪失していて、生まれながら何軒かを廻り持ちに生育され、経路など識るよし無いまま、あげく、実父かた祖父が「京都府視学」の任にあった手づるの「さきっちょ」から、何の縁もゆかりも無かった「秦長治郎・たか」夫妻の「もらい子」として、京都市東山区、浄土宗總本山知恩院の「新門前通り・中之町」に、昭和十年台前半にはまだハイカラな「ハタラジオ店」の「独りっ子」に成ったのだが、この「秦家」という一家は、「作家・秦恒平」の誕生をまるで保証していたほど「栄養価豊かな藝術文藝土壌」であった。
私は生来の「機械バカ」で、養父・長治郎の稼業「ラジオ・電器」技術とは相容れなかったが、他方此の父は京観世の舞台に「地謡」で出演を命じられるほど実に日ごろも美しく謳って、幼少來の私を感嘆させたが、,加えて、父が所持・所蔵した三百冊に及ぶ「謡本」世界や表現は、当然至極にも甚大に文学少年「恒平」を啓発した、が、それにも予備の下地があった。
長治郎の妹、ついに結婚しなかった叔母「つる」は、幼少私に添い寝し寝かしてくれた昔に、「和歌」は五・七・五・七・七音の上下句、「俳句」は五・七・五音などと知恵を付けてくれ、家に在ったいわゆる『小倉百人一首』の、雅に自在な風貌と衣裳で描かれた男女像色彩歌留多は、正月と限らない年百年中、独り遊びの私の友人達に成った。祖父鶴吉の蔵書『百人一首一夕話』もあり、和歌と人とはみな覚えて逸話等々を早くから愛読していた。
叔母つるからの感化は、さらに大きかった。叔母は夙に御幸遠州流生け花の幹部級師匠(華名・玉月)であり、また裏千家茶道師範教授(茶名・宗陽)であり、それぞれに数十人の弟子を抱え「會」を率いていた。稽古日には「きれいなお姉ちゃん・おばちゃん」がひっきり無し、私は中でも茶の湯を学びに学び叔母の代稽古が出来るまでにって中学高校では茶道部を創設指導し、、高校卒業時には裏千家茶名「宗遠・教授」を許されていた。
私は、此の環境で何よりも何よりも「日本文化」は「女文化」と見極めながら「歴史」に没入、また山紫水明の「京都」の懐に深く抱き抱えられた。大学では「美学藝術學」を専攻した。
だが、これでは、まだまだ大きな「秦家の恩恵」を云い洩らしている。若い頃、南座など劇場や演藝場へ餅、かき餅、煎餅などを卸していたという祖父・秦鶴吉の、まるまる、悉く、あたかも「私・恒平」の爲に遺されたかと錯覚してしまう「大事典・大辞典・字統・仏教語事典、漢和辞典、老子・莊子・孟子・韓非子、詩経・十八史略、史記列伝等々、さらに大小の唐詩選、白楽天詩集、古文眞寶等々の「蔵書」、まだ在る、「源氏物語」季吟の大注釈、筺収め四十数冊の水戸版『参考源平盛衰記やまた『神皇正統記』『通俗日本外史』『歌舞伎概論』また山縣有朋歌集や成島柳北らの視し詞華集等々また、浩瀚に行き届いた名著『明治維新』など、他にも当時当世風の『日曜百科寶典』『日本汽車旅行』等々挙げてキリがないが、これら祖父・秦鶴吉遺藏書たちの全部が、此の「ハタラジオ店のもらひ子・私・秦恒平」をどんなに涵養してくれたかは、もう、云うまでも無い。そして先ずそれらの中の、文庫本ほどの大きさ、袖に入れ愛玩愛読の袖珍本『選註 白楽天詩集』の中から敗戦後の四年生少年・私は、就中(なかんづく)巻末近い中のいわば「反戦厭戰」の七言古詩『新豊折臂翁』につよくつよく惹かれて、それが、のちのち「作家・秦恒平」のまさしき「処女作」小説『或る折臂翁』と結晶したのだった、「湖の本 164」に久々に再掲し、嬉しい好評を得ていたのが、記憶に新しい。
さて、向後の「湖の本」をどう別途継続展開するかは一思案だが、勉めて読者の皆さんとのお付合いを、善い工夫で持続したい。
ともあれ三十八年ものご支援に感謝申上げます。 秦 恒平
* 諸般の用意遅れで、在来予定の「謹呈者(事実は、しばらく以前から、全送付先に「呈上」してきたが。)」へは送り出せたが、「読者」「高校」「大學」への送付がアトへ続かねばならない。ともあれ、一月下旬は一切に片付くよう、残さぬようにと願っている。
とにもかくも、「最終送付本」は予定通り全巻出来て届いていて、慌てずに送り出せば、それで「38年」続けて来た『秦恒平 湖の本』事業の、一切が、済む。
* 読者と寄贈先とへ「湖の本」最終第166巻を送り終えた、なお「高校・大學等」への寄贈草本が済めば、それらを以て、38年の『秦恒平・湖の本時代』が「収束」される。『作家・秦恒平』の時代はまだ途絶えない。
* 明日は、寝室等の設えをすこしく模様替えする。
2024 1/11
* 『秦恒平 湖の本』終刊・終結の『第166巻 蛇行(だこう)或る左道變 老蠶作繭』を、無事、全国の寄贈者、読者に宛て発送し終え、余すは「全国高校・大學等の施設」へ送り届けて、まさしく「大団円」となる。
「創刊から38,年」の感慨は、いずれいろいろに胸に湧くだろう。
こういう「,独り」の作家、その個人の「創作と本と」が、きちっと纏まった編成編てき輯により、多年文壇や学校や識者・読者に「寄贈・送達」されてた事例は、明治以降の日本の文界に無く、世界にも知らない。
* 相応の資財が有ったのだろうと想う人も居る。どっこい、わたくに歯丁度100冊ほどの単行著書が有るが世に謂う私は居たって「ベストセラー作家」ではない。資産家に育ったのだろうとも。とんでもない、私を人手から「もらひ子」した秦の父は小さな「ラジオ屋」,祖父は小さな「餅屋」、嫁がなかった叔母は終生「お茶・お花」の先生をしていた。私は大学で奨学金を貰い、すべて返却し、就職した初任給、最初三ヶ月の支給は12000円の8割、新婚の妻は無職で家をまもっていた。私の財布には、会社の援助で昼食の白飯一碗と味噌汁とが買える「15円」しか入ってなかった。
しかし、年に二回のボーナスに私たちは一銭の手も付けず無条件に「貯蓄」した。これが、徐々に利いてきた。とにかく茂繪に描いたようなスカンピンの新婚夫婦として何年もを平然とすごしていた。貯金以外に先途は無い、が、必ずそれが利いてくると確信していた。事実、そうなっていった。
作家になっても、出版社に泣きつくような真似はしなかった。それよりも、かのになれば自分の手と資金とで堂堂と「出版」すればいい。幸いに私出版社の編集製作で15年半鍛えられた管理職の一員にも成り、『編輯・製作』本づくりの巨細まで学習していた。いま一例が,誰もの感嘆してほめてくれる大冊『秦恒平選集』33巻は、まさしく私の謂わば「手づくり」全集、むろん166巻もの『秦恒平・湖の本』も皆、然り。
* もう早や一年の「卆寿」へ、人生の、ゆるやかな収束へと、私は、妻と共にゆっくり歩いて行く。
2024 1/12
* 必要があり職人が室内で工作する。なにしろ狭いのだから、場を広げ置くのに深夜に起き,独り こつこつと力しごとで場を用意しながら、機械の前へ来ていた。六時をやや過ぎた。暖房を忘れていたので寒かった。
もう今日にも「湖の本 166」の一便は、寄贈者・読者へ届き始めるだろう。私にすれば大きな私史の一郭がまた相貌を替えて行く。
2024 1/13
* 和室の模様替えを、大過なく職人さん終えてくれた。要は、「マアズ」のサンザンに破った障子の書庫側、テラス側、全部をガラス障子に取り替えたのです。作業の邪魔にならないようにと,前日に,余儀ないかなりの力仕事をして置いた。方も首筋も痛んで、全身がダルい。ま、目的は達したのだし。
2024 1/13
◎ 『白居易(白楽天)随感』 白行簡撰
◎ 新豊折臂翁 乱辺功を戒むるなり
新豊の老翁 八十八
頭鬢眉鬚 皆な雪に似たり
玄孫に扶けられて店前に向かって行く
左臂は肩に憑り右臂は折る
翁に問ふ 臂折れて来(よ)り幾年ぞ
兼ねて問ふ 折る事を致せしは何の因縁ぞと
翁云ふ 貫は新豊県に属し
生まれて聖代に逢ひ征戰無し
梨園歌管の聲を聴くに慣れ
旗槍と弓箭とを識らざりき
何(いくば)くも無く 天宝 大に兵を徴(め)し
戸(こ)に三丁(さんてい)有れば一丁を点ず
点じ得て 駆り将(も)て何處(いづく)にか去る
五月 万里 雲南に行く
聞く道(な)らく 雲南に濾(ろすい)有り
椒花(しょうか)落つる時 硝煙起こり
大軍徒渉するに 水は湯の如く
未だ過ぎざるに 十人に二三は死すと
村南村北 哭聲哀しく
兒は翁嬢(やじょう)に別れ 夫は妻に別る
皆な云ふ 前後 蛮を征する者
千万人行きて一の廻る無しと
是の時 翁の年は二十四
兵部の牒中に名字有り
夜深けて敢えて人をして知らしめず
偸(ひそ)かに大石を将(も)て鎚いて臂を折る
弓を張り 旗を簸(あ)ぐ 倶に堪えず
茲より従(よ)り始めて雲南に征くを免がる
骨砕け荕破るることは苦しからざるに非ざれど
且つ図るは楝(えら)び退けられて郷土に帰ること
臂折りてより 来来(このかた) 六十年
一肢廃すと雖も一身全し
今に至るまで風雨陰寒の夜
直ちに天明に至るまで痛みて眠れず
痛みて眠れざるも
終いに悔いず
且つ喜ぶ 老身 今独りあるを
然らずんば 当時 瀘水の頭(ほとり)
身死し 魂(こん)孤にして 骨収められず
應(まさ)に雲南望郷の鬼と作(な)り
万人塚上に哭くこと呦呦(ゆうゆう)たるべし
老人の言
君 聴取せよ
君聞かずや 開元の宰相宋開府
辺功を賞せず 武を黷(けが)すを防ぐ
又た聞かずや 天宝の宰相楊國忠
恩幸を求めんと欲して辺功を立つ
辺功未だ立たざるに人怨みを生ず
請ふ 問へ 新豊の折臂翁に
○ いま、老折臂翁翁穴地、私、八十八歳。
私の文學歴で云うと、まず幼稚園か戦時国民学校へ進んだ頃からの、日本の『小倉百人一首』和歌に馴染み、敗戦の前後、戦時疎開していた丹波でのくらしで、持参していた祖父鶴吉蔵書の中から掌に掴めるほどの小さな本、東京神田の崇文館発行、井土靈山選『選註白楽天詩集』の漢詩で,中でも此の『新豊折臂翁』に幼い心のまま深く深く共感したのだった。秦家には、祖父蔵書にも父母叔母の領分にもいわゆる「小説本」は絶無にちかく「婦人倶楽部」なとのなかに「愛染かつら」などの通俗作は混じっていたが軽蔑し見捨てていた.誰だかのユーモア作だけを時に読んでいた。
『新豊折臂翁』がいかに私に特別であったか。私は「兵隊さんにはなりとない」と幼稚園の頃から口にする当時の大人らの目に「変な子」「妙な子」だつた。国民学校へ入って一二年頃には、がっっこうの職員室そとの廊下に張られた世界地図を友だちと見ながら、真っ赤な米国土の広さを指さし「勝てるワケない、きつと負ける」と口にしたとたん、通りがかった若い男先生に壁に叩き付けるほど殴られていた。
『新豊折臂翁』がいかに私に特別であったか。私の六十余年前に幕の開いた「小説を書く暮らし」の記念の第一作・しょじょさこそは『或る説臂翁』であったことは、『湖の本 163』に久々に採録、どうかしらとあんじたが幸いに得に注目し好い感想を下さる読者の少なくなかったのに感動しました。嬉しかった。いわば白楽天に私・秦恒平は「作家・小説家」として育てられていたのだった。
2024 1/15
* 妻は新年初の保谷厚生病院受診、無事に帰ってくれた。十分とかけない新札に五時間もかかつている。しんぱいしてしまう。
* 賀状四通一通は事務。残る三通、能美の井口哲郎さんも含み。みな妻宛て。「迪子様」存在感増して、わたくしはラクに成っている。けっこう。
2024 1/15
* 今日は迪子の歯科通いに同行して、帰路、久々にせめて池袋までもと思ってはいるが。
2024 1/22
* 妻の歯科通いに江古田二丁目まで同行し,私はレスラン「ガスト」で『モンテクリスト伯』に読み耽って待ち、あと江古田駅近くへ戻って「中華家族」で昼食、メニュ宜しく美味かった。久々、久々に池袋へでたかったが、やめて、帰宅。
郵便での有難い好いお便りが何通も。だが苦闘の施設からも。書き写せる量で無く,順不同に記録だけを。
2024 1/22
* たくさんな懐かしい童謡が、土曜日の朝ごとに歌われると時に声を放って泣いてしまう、「もらひ子」幼少時の孤独な悲しみが今にも胸に生きのびている。
* 肉親や、家族からも、「命がけ」で逃げて廻る夢に魘される。孤立、孤独.お前にはソレしか無いのだよと夢に脅される。
* 寝入るつど魂も凍るようなコワイ、いや恐ろしい不快な夢に襲われる。已にして「生き地獄」がはじまっているのか。
2024 1/27
* 妻に、ちっちゃなカメラを買って貰った、が、以前、同様に三機ほども自分で買いちゃんと遣っていたのに、もはやしかと操作して使いづらいのが情けない。やがてはパソコンも遣えなく…なりそう。j
2024 2/2
* 逼塞の、ここ三、四年、気の晴れぬまま、うち消すようにひびを費やしている。なにもしないでは、ない。やたら、なにかしている。テレビには助けられている。紫式部と道長とのドラマ、笠置シヅ子のドラマに無聊に嵌まるのを救われている。酒は日々強かに呑んでいる。誕生祝いに妻のくれた清酒一升の入る壺酒を、その後へもう二升も足している。良くも悪しくも酔うと謂うことが全然無い。酒故に気分を損じることもない。寝入りやすい。寝入るのはワルク無い。
* 妻とアコ・マコのほか、人の顔を見ない、言葉も交わさない。脱走に成功したエドモン・ダンテスと交替して、深い地下牢にとぢ籠もっているよう、さほども苦にしていないが。。
* 「鬼は外 福は内」を済ませた。夫妻して88歳、年越し節分の炒り豆を、無事89歳を念じて九ついただく。
* 宵のうちにマコと顔を並べて寝入っていた。八時過ぎに目覚めて二階へ来たが、アクセクせず睡ければ寝てしまう気。土曜で、明日日曜も郵便は来ない。人の匂いが薄れて行く老境に、自見の跫音をつつしむのが自然か、無遠慮に歩いて行くか。
2024 2/3
* 京・山科の、詩人あきとし じゅん さんから、懇篤長文の感想と激励のお手紙、とびきりの一升を頂戴している。
あれで新制中学一年か二年になっていたか、叔母宗陽につれられ近江の湖ベの大きな公園での、裏千家園遊会につれてもらい、そこで盃に一と口舐めたのが清酒の初体験だった。秦の父がからきしお酒はダメで、機会は無かったが、結婚後は相当な大酒家になっていった。抑えているが、いまも一升入る黒丹波の佳い壺から、久保田の、獺祭のと、小杓子呑みで、頂戴している名だたるお酒を次々に飲み干している。悪酔いすること、無い。
2024 2/5
* いま、妻の手のほかは誰にも何一つ「借り」ず、気ままな日々が過ごせている。ありがたい。寝ていたいだけ寝てられる。ありがたい。二十四時間の二十時間寝ているほどに。それでラクなら、それが出来るなら、それでエエと思え。今は
2024 2/6
* 夜中、手洗いに起つつど 床へ戻っては『大和物語の人々』を面白く拾い読みしていた、が。眠さもなく、起きて二階へ上がってしまう。何しろ昨日は午過ぎから、断続、耽るように睡っていたのだ。
* 夜九時二一分。宵からずっと寝入っていたが。
朝日子が、ごく穏やかに家に帰って来ている「夢」で 心地温かにめざめた。ほっこりと胸が温かで嬉しかった。健康に、意欲も持って元気で居て呉れますようにと、トーサンは何時も祈っているよ。。
2024 2/10
○ 秦恒平 様
今から95年前、秦テルヲ(=画家)が瓶原(みかのはら)の好本家から借りていた住まいから京都市内に戻る年(私の母恵子が生まれる年の初夏の頃でしょうか )に、 秦テルヲから直接か好本家からかはわかりませんが、好本家とは付き合いのあった祖父へ、次女の誕生祝いであったのでしょうか(好本家は父方祖母(岩田八重 旧姓好本)戴いた作品が(絹本のまま表装されず昭和四年の新聞に包まれて)あったのですが。
コロナ禍の前に(京都三條通り上ル神宮道の=)星野画廊さんに表装してもらうように預けていました。
先日、できあがったと連絡があり引取に行ってきました。
星野桂三さん(=画廊主)表装によってとっても良くなった言われ、驚かれるできばえだそうです。
人も風景も描かれていない、秦テルヲが瓶原で生んだ作品の中では、これだけではと思える特異な作品です
じっと作品の前に立つものを「見つめてくる雀の眼」に魅かれます。 孝一 拝
(恒平実父吉岡恒の甥 叔母岩田恵子長男 恒平と従兄弟)
* 優れた画家の業績を遺した「秦テルヲ」と私の養家「秦」とに縁があったとは思いにくいが、何も知らない、ただ此の優れた画家が、私の長編『墨牡丹』などで親しんだ華岳や麥遷ら「國畫創作協会」の近辺にかなり自在に活躍した画家とは承知している。京都の加茂大橋邊の「テルオ」と署名の素晴らしい『雪景』小品を,星野画廊で買い入れたこともある。なんだか、またタマラズ京都へ帰りたくなった。
* 孝一君もおげんきで、何時も名からの親切も感謝に堪えない。一度、いっとう末の叔母恵子と母子で下保谷の吾が屋までも訪れてくれている。何かと気を配っては私の父方、叔母にも父方の南山城吉岡本家の様子などを知らせてくれ、南山城の風土を伝える資料類も送ってきて呉れる。有難う。
* 引き換え、生母「阿部ふく」方は、縁戚との触れ合いがほぼ完全に絶えている。滋賀県能登川辺で「阿部」といえば豪商「近江商人」の蟠踞し発展したという土地柄。
建日子などが、文藝・文學への本腰で探索・展開し調べて行けば、想像を超えた重量級の史実と縁戚と物語が広がっていて、巨きな規模の「歴史と創作」との世界が手に入るのだが。立ち向かうに足る勉強も意欲も育てていない。甥の黒川創に期待してきたが、はや、もう老いてきている。姪の北澤街子の質実ににじつは私は素質的にも期待をかけていたのだが。どこで、どう暮らしているかも判らない。
私は。百裁までできるしても、何より「身動き」「歩く」ことが出来なくては九州から江戸ヘまで参勤交代を引き摺るような宏大そうな「母系阿部」の歴史、戸口ヘマでも近づけない。探訪がならない。
2024 2/14
* 私・秦恒平の「日本」「故郷・京都」への基礎認識は
『女文化』の女世間
と謂うに尽くせる。
大學より以前から、「男はキライ 女バカ」が私の変更の無い「日本人」認識だった。「女バカ」は最上の賛辞・共感と謂うに尽きている。
京都の「祇園花街」にまぢかく育ち、幼時から秦の叔母ツル(遠州流・玉月 裏千家・宗陽)の花と茶の稽古場で成人し「宗遠」と茶名も承けている私には、「男」とは社交と競合の相手、「女」は懐かしみ親しむ相手と、人間觀がほぼ固定固着していた。「それで八十八(やそはち)までも生きて」きたのだ、どうしようも、どうしたくも無いのです。
2024 2/14
* 睡るまでにも、色んな本を心惹かれ面白くも興深くも教えられもして「読み耽って」いた。『参考源平盛衰記』』の「實盛被討」はじめ源平合戦の様々を読み耽っていたし、『大和物語の人々』も、「忘らるる身をばおもはず」と詠って居た季縄女「右近」などの境遇に好奇心で惹き入れられたり、平安期の人たちへの昔からの親近感が今モ私に生き残ってるのをたしかめていたりした。かと思うと『モンテ・クリスト伯』のダンテス、暴風雨の荒海を泳いで辛うじてとおりかかった船に助けられるのを、日本語訳の日本語の適切に巧みなのも感じ入りながら、嘗めるように愉しみ読んでいた。かと思うと、漢籍をたのしみたいばかりに、予備の支えにと支那の上古史を克明に確かめたりもしていた。「読む」嬉しさが、少年の昔依いらい聊かも衰えてないのを喜びながら。私は西洋語で読む根気は薄いが、『史記列伝』等々の+漢籍を漢字と漢文とで読み次ぎ読み返したい気は昔から途絶えてない。『唐詩選』『莊子』『老子』『十八史略』などなど格好の書物をたくさん遺してくれていた秦鶴吉お祖父ちゃんに深甚の敬意と感謝を喪わない。
2024 2/16
* 暫くぶり、妻と近くのセイムスへ用足しの買いものに。二人で欠かさない「養命酒」を芯に、猫たちのための食べ物病砂や。珍しく薬は買わずにすんだ。私は安い洋酒や握り飯やサンドイツチを。絹漉しの豆腐やうどんも。こういう買いものには馴染んでないので、ちょっぴり愉しむ心地もある。
2024 2/17
*「湖の本」の終結は、私が読み書き添え作を終結したのでなく、単に,従來版の「本」をもう従來の条件で業者が「宅配」してくれなくなったこと、千にかなり數越す部数を妻と二人で「発送」するのは作業として無理と自明なので「終結」ときめたというに過ぎない。「潮時」が来たと謂う事で、別儀は何も無い。
* 私は一種の「思い出」人間で、八十八歳の今モ、遠い記憶は、南山城の吉岡本家から京都の「秦ラジオ肆」へ引き取られた数歳の幼少へも帰って行ける。その時から自分が「もらひ子」なのを間違いなく確認し得ていたし、抗う術の無い自身の運命と心得ていた。事実にむかい反抗したり否認したりして暴れたリしなかった。
2024 2/23
* この頃、引き続いて往年の『ヴギウギ』笠置シヅ子を描いている毎朝に小刻みな連續ドラマを愉しんでいる。「役」を演じている小柄な女優をかつて見覚えないのだが、演技も歌もシッカリ見せ、また聴かせてくれる。何十年と久しぶりの『ジャングル・ブギ』も『買いものヴギ』懐かしく聴いた。少しく胸も疼いた。昭和十年(一九三五)の冬至に私は生まれ、京都幼稚園に送迎バスで通った十六年(一九四六)十二月八日に日本軍は真珠湾を奇襲、第二次世界大戦勃発、十七年(一九四七)四月七日に京都市立有済国民学校(=戦時中の「小学校」)に一年生入学し、二十年(一九五○)四月に、同年三月下旬以来の戦時疎開先(当時の「京都府南桑田郡樫田村字杉生」の農家長澤市之助家)から山越えに同村字田能の樫田「国民学校」四年生として転校入学し、同二十年(一九五○)八月十五日、学校夏休み中「日本國敗戦」のラジオ放送を同地同家の庭で聴いた。広島・長崎の相次いだ「原子爆弾」も同家で聞き知った。
敗戦後、樫田「小学校」四年生の秋十月、同地戦時疎開先で急性の腎炎「満月状容貌」になり、秦の母の機転で迷い無く京都市東山区に昵懇の「松原医院」に直接「運ばれ」て危機を脱し、以降そのま、敗戦早々二学期の内に秦が地元の市立「有済小学校」へ復帰した。
そして、まだ美空ひばりの影も無い敗戦後日本のラジオなどで少年の私はあの「笠置シヅ子」が叫び歌の『ヴギウギ』を聴きしったのだった。街には疾走するジープ、進駐軍の兵隊や、その腕にぶらさがるパーマネントの日本の女達を至る所で目にしたのだった。
* 私は、あの「敗戦直後頃の、京都も日本も」、あえて謂うならむしろ心親しい新鮮に励んだ心地で承入れ、眺めていた。今にして、私はあの頃をとても大事で懐かしくさえある体験期と思っている。あそこで、大きいとは謂わなくても明るい花の咲いている「時期・時代」を眺め感じていたと思う。やがて新制中学に入った頃の男先生達の叫ぶほどの激励は「自主性 社会性 民主性」だった、わたしはそれを獄当然に受け容れて生徒会活動も活発に、二年生の内にも「生徒会長」として、先生方より数多く講堂や運動場の「壇上」に立ってあたかも「指揮さえしていたのである。
2024 3/2
* 夢に、わたくし入社時の「医学書院社長」だった「金原一郎」さんと、「秦の父・長治郎」とが、それは仲良く笑いあい抜き手を切って水泳していて、私は嬉しさに、夢中、声を放って泣いてしまった。
金原さんは、私の、「それはヤヤこしい戸籍謄本」をさっと一瞥、「こんなことは、わたしは、気にしないよ。きみも一切気にするな」と、初の面接の最初に言われて、即、入社に「合格」したのだった。
十五年半ほど在社、金原社長隠退の當日「八月末日」に「私も退社」し、「作家・秦恒平」一本立ちの日を迎えた。
在社の歳月を通じて、怒鳴る「鬼」の、噛みつく「マムシ」のと全管理職社員もビクビクした此の社長に、ほめられこそすれ、一度も「𠮟られも」しなかった。ある年の或る日には、社長自身で私の「課長席」まで見えて、「これは告別写真にするんだよ、貰ってくれよ」ととてもよく撮れた顔写真を手渡しに下さった、佳い御写真だった。広い余白に社長ご自身の手跡で、
秦 恒平君
社長 写真一枚 お贈りします お受取下さい
と。何よりの「寶」のように身のそばを離さず以来何十年、今も手の届くところに置いて、朝晩の挨拶を欠かさない。
* そんな懐かしい「金原一郎社長」と、わたくしを四、五歳で「もらひ子」してくれて終生一貫愛育してくれた「秦の父・長治郎」とが、オウ! なんとハダカで大浪に{抜き手}で元気溌剌、笑い合うて競い泳いでいるのだもの、何という嬉しい光景か。私は、寝たまま夢のまま、おうおう嬉し泣きしていた。
2024 3/6
* 何としても,一歩も外へも出られず、おおかた寝入って過ごして,晩七時。結婚して六五年が経つ。むざと砕け落ちていいモノでは、ない。
幸かとも不幸とも、「妻子も持たない一子で嗣子の建日子」すら、両親の「こんな日」とはアタマに、親たる不徳、きわまれるか。
2024 3/13
◎ 令和六年(二○二四)三月十四日 木 結婚六五年 起床 4:35 体重 56.7kg 早暁起き・測
むそいつせ みぢかに生きて 永き世を
観 聴き 語らひ いや和やかに 恒平・迪子
2024 3/14
* 今日、結婚して、六五年。妻に、感謝。
* 東工大での学生クンだった「柳」クンが祝ってくれた「世界一」というお酒で、夫婦ふたり、感謝し乾杯しよう。
秦の父に京都駅で見送られて二人で上京、新宿区河田町の「みすず荘」の六畳間に入り、新宿区区役所で結婚を「届け」たのが、六五年以前の三月十四日だった。
以来、「ふたり」でさまざまな道を、駆けも走りもせず、歩いてきた。
わたしは、幼少よりの志を得て、思いもよらず太宰治文學賞を授かって小説家に、また国立大学の教授にも思いもよらず招聘された。若い佳い友だちをたくさん持った。妻がよくよく日々、年々、助けて呉れた。
* 払暁 五時五十分、寒 凜乎。
2024 3/14
* ワケ判らずに多くが機械から失せたり.捜せど見つからなかったり、無駄な時間をたくさん費やして,容易にサキも開けない.情けない。メール機能を全部見失って、書きも送りもならず、弱った事に過去の保存分がみな見当たらない、いわば「わが日々の歴史」が消え失せたよう。やれやれ。
* もう午後と感じていたのに、午前九時十五分にもなっていない。進級の機械と格闘しつつ何の結果も展開も掴めてい判っているのはメールが送れず、受け取れない、という機械世間での「孤立」状況、だけ。
みんな投げだし、讀書の森林へ身を置きに入って行くか、幸い、これは即座に可能。
* 午後三時過ぎ、「マコ」が家出したりし、連れ戻すのに疲れる。ドンヨリと心身鈍く重く、処置無しの態。弱くなったものだ。幸いに,逐われる用の無い身になっている。疲れれば寝る、の一手を遣えば宜しい。しかし、疲れる、草臥れている、グッタリというのは有難くない。
メール機能が使えないのも奇妙に「孤独」。やれやれ。自業自得の「機械バカ」な私です。床に就いて、本を読みます。「本」は家に溢れているし。自分で書いて市販の「単行本」になっているのが百数冊、『秦恒平・湖の本』が全百六十六巻。百まで生きても読み切れまい。ところが、他人(ひと)の書かれた論地や選集や全集は単行本が十数メートルに延びた書庫三面の書架に溢れている。建日子はどうするだろう…呵呵。
* どうすればメール機能が恢復出来るのか。見当もつかないとは,情けない。
* 寝てばかりいる。夢見ながらも、なにやら唱っている、らしい。
2024 3/16
* 寝床わき、ちいさなテラス、まさに「狭庭(さにわ)」へ向いてやや広い窓を明けると、手前の小棚にあがってネコたちが喜ぶ。床なかのママに見上げると、縦長に広い硝子窓へ、寄りより唱いかけるように「さみどり」にそよぐ隠れ蓑のたくさんな若葉たちが寄りより風に舞っている。
テラスと西へ庭一杯に細長い書庫との東の片隅に、最初期には一メートルとなくか細くて、根方には亡くなった愛しいネコやノコや黒いマーゴたちの睡っている「隠れ蓑」の樹が、おお、今や書庫上の土庭も家の小屋根も高く抜いて、広いま空へ無数にきれいな枝葉を広げている、そよ風に絶えまなく翠りの枝葉を揺り続けている。わたしは、寝たままにそんな窓の向こうを見上げているのが、好き。大好き。まさしく我独りの静かな静かな時だ。
2024 3/23
* テレビにかすかにも御勢に雑音が混じってきている。さして不自由なく観・聴きできているが、新しくしたいと妻は云い、それもいいが、業者持ち込みの商品定価も確かめず、いきなり請求書のいいなりに支払う気でいるから、それは大きな小品を購入の仕方ではあるまいと止めた。何よりもこれをと向こうは得る気で値まで付けてきた大きなテレビの「商品としてのカタログ」も視ず、定価と支払いに関わる何のやりとりもなく品物をもう搬入させる気でいるから、それはあまりにズサンに過ぎる、「ハタラジオ店」の息子として育った見聞からしても、「定価」も「カタログ」も視ぬまま無条件に、「サービス」して貰っている気で買い込むなど、売り手としても、買い手のお客さんに向いても奨めない。高価な商品であればなおさら、カタログでの機能や特色や、なにより「商品正價」をちゃんと確認の上で、売り手の「サービス」を「期待できるなら、期待すれば」良い。ハナから「売り手の言いなり」を聴き入れてしまうのは、大根の一本や鰯の一尾であるまいし、鷹揚と云うより「抜け」」ている。どうも妻には、そういう抜けたところがあり、それは鷹揚なんてものではない。
2024 3/25
* それでも今日、我が家に一の「逸事」出来。
キチンに、ま、機体も画面も、ま、見映えの大きめ古テレビを久しい「日々昼夜の友」としてきたが、「人の音声」等が擦れ気味に「雑音をかぶり」出した。
機体の見映えも、映像の綺麗さも、廢處分は惜しく、で、そのまま茶の間に移転。西側壁に、國畫創作協会系の画家久保寛(飛路史)の舊作、迫力の大きさで悠揚静かに河底に息づいた『鯉』一尾の、まこと渋くも美しい「横畫軸」のま下へと、据え換えてみた。静謐の画面とテレビ枠のいわば今日風機能美とが上と下でよく釣り合い、満足できた。映像には何衰えなく、人の言葉の擦れて濁ッテきただけが惜しく棄てたくなかった。
ま、これで、同時間に妻は「お相撲」や「録画」が愉しめ、私は国会討議や国際ニュースが聴け、見知らぬ景色や自然が愉しめる。よしよしと。
* そして、もう寝てしまいました
2024 3/28
* どうしょうかと思いつつ、やはり早起きした。猫チャンのアコもマコも喜ぶ。 寒い。
やはり第一義の仕事は途中の新創作を巻頭の要に追いつつ、いわば「私語の刻版」、『新・湖の本 第167巻』めを、もう郵送でなく、「メールで引続き<電送>の利く読者」宛て送り出せるよう着々「用意」「進行」する事。印刷所とも製本所とも縁が切れて、ますますの、本格の「パソコン作家に腰を据えてかかるのである。人生、弾むように推移する、永かった過去も、卆寿をまつ夫婦での最晩年の「仕事」も。
* と言い続けながら、私、いま大肝腎の「メール機能」を見失ったまま、唸っている。認知欠損気味に「卆 九十歳」へ滑り落ちて行く「生涯一作家」を、誰方か援けてと、やっと弱音になる。。
2024 3/29
* なんと.今日は「若い」友だち二人の嬉しい来訪と、お報せと、がありました。
ひひとつは、私を、変わりなく「おじいちゃま」呼んでくれる、あの今モ愛しい亡き孫「やす香」の大親友だった「かをり」チャンが、十歳ほどのお嬢ちゃんと、玄関先まで訪れ呉れました。あがってもらい、お嬢ちゃんが「かをり」チャンと私たちと三人の写真を撮ってくれ、別れ際には「ハグ」して帰って行きました。「かをり」チャン、今も、ま傍の「やす香」写真をみるなり声あげて泣きました。私たちも泣きました。
もひとつは東工大で出逢え丸山君から。
2024 2/3
* やそはちと倶に歩みて花の春や
ながめも晴れの「みち」久しかれ 祝迪子米壽
2024 4/5
* いま、午前九時四十分。朝方、起きた識からうしろ腰のきつい痛みに弱った。朝食して、二階のソファで寝入り,今しがた目ざめた。マリア・ジョアオ・ピレシュの、躍動して好きなピアノコンチェルトを、昨日から繰り返し聴いている。
すっかりピアノ曲好きになっている。大學の頃、同じ同志社で英文学の教授を努めていた吉岡の叔父とたまたま一緒に市電で三條の方ヘヘ帰るあいだに、私が洋楽は苦手でと云うと,美学藝術學を専攻して何を謂うかと窘められた.モットモと心を入れ替えた。懐かしい有難い価値ある想い出だ。此の叔父、当然にも私が専攻の主任園賴三先生ともご懇意で、叔父の口から園先生へ私の生い立ちなどは伝わっていたようだ。東京へ舞い立つ院生の途中まで、わたくしのことをそれは優しく見守って下さった。同じ専攻の一年下、妻になる人と東京へ出たいと申し出たとき、園先生はむしろ前向きに賛成して送り出して下さった。「作家」への道を亡くなられるまで励まし続けて下さった。
はるか昔の事になった。
いまピレシュの美しく躍動するピアノ曲に聴き入りながら、なんと永く生きてきたろうと粛然とする。先生先達にも同輩友人達にも,後進の人らにすら多く死なれてきた。
いま,私の日々に音楽がある有り難さは言い尽くせない。むしろ美術への愛好が、外出も成らない障害で塞がれている。
* 腰の痛み やわらいで呉れようか…。
2024 4/8
* 雨の早朝、六時前。
* アコ、マコ。削り鰹を頂戴と,膝を叩きに来ます。上げるとも。
* メールが利かない、らしい。ひそっと孤独。
2024 4/9
* テレビのドラマで笠置シヅ子の「ブギウギ」や「ワテ ほんまによう云わんワ」を嬉しく堪能して聴いた。ところで,此の「ワテ」だが、渡しは少年の昔に耳にタコほど聞いた物言い・自称だが、「ワテ」は大阪臭くて、いやだった。京都では、と云うてもいいだろう、尠くも我が家では母も叔母も、ご近所の小母さん達も「ワテ」は無く、「アテ」だった。「アテ」には「貴て」の意義がかぶって、クチにもミミにもアタマにも自称は「あて」でなければイヤだった、但し子供はまず使わない、が、父でも、母方の伯父でも、ご近所のおじさんたちも、京都では「あて」と自称の人が断然多く、聴きよかった。「ワテ」はクサイと嫌った。
笠置シヅ子は、典型的な「ワテ」女で、それゆえ私は美空ひばりが東京弁で引き継ぐまで、笠置の唄聲は遠慮し続けた。「ヤカマシイ」と身をよけていた。「あて(貴て)」と想いながら話して欲しかった。
潤一郎現代語訳の『源氏物語』よりも早く与謝野晶子の現代語『源氏物語』を叔母宗陽の社中から借りて耽読したのは、あれで、中学生の修学旅行より以前であった。「貴(あ)て」なる価値にもう魅惑魅了されていた。「ワテ」はイヤだった。
2024 4/9
* 幼少期から妻と上京までを育った新門前の「秦」家(「ハタラジオ店」)の、新橋通りへ抜「け路地」を抱えた、「西向き」和風二階建ての全容、母屋から離家・奥藏までの「写真」が撮れていた。見つけて、いま、目の前に置いた。路地を距てた西の樋口家が取り払われて駐車場になり、それで我が家の西全容が綺麗に撮影できている。いつかの帰京時、幸便に私が撮っておいたのである。
路地うえ二階西に、ガラス窓。そこが私の勉強もし、書架も作り付け、床も敷いて寝起きした三疊の私室であった。
路地西側に樋口家の在った昔は、文字通りに細くて一メートルの余もあったかどうか、南(シモ)の祇園新橋通りへ出られる夜は「真っ暗な」「抜け路地」だった。敗戦後はさまざまに「想い出」の沢山な「我が窓の下」ではあった、進駐軍の兵隊と女とでよう抱き合うていた。
我が家の在った新門前通りは、むしろ外人や進駐軍向けの「古美術・骨董商」らが何軒も店を開けていて、「異人サン」や「進駐軍」の散策路でもあった。中には、小家や二階を借りて日本の女と寝泊まりしている将校級もいた。んな外人が浴衣掛けで古門前通りの銭湯へも気軽に通って、少年のわたくしもその銭湯でよく「進駐軍」とのハダカのツキアイがあった。一つ湯船で首だけ出してノンビリしたりした。英語の会話はムリだったが。なんだか「進駐軍(の兵隊)」は、みんな「のーんびり」と暮らしていた。父の店へ乾電池など買いに来る兵隊もめずらしくなく、新制中学生の私もタマに「応対」したりした。
* 上に謂う我が家の西側添いに、細くて暗かった「祇園新橋通への抜け路地」は、なかなかの「存在価値」「エピソード」も在って、近在で「便利」なと識られた「ろうぢ」であった、その噺もしたくなる、が。
2024 4/13
* 十一時半。今日、工夫し苦辛もして階下の床わきを、小さめのパソコンも含め、諸本・辞典とうとうをかなり整然と整理整頓し,佳い一廓を構築した。私はそういう「整備・整頓」が少年時代から好きで得意なのだ。此処でも仕事や讀書が愉しめるようにと心がけたい。
2024 4/14
* わたしは昭和十年の冬至に生まれ、昭和二十年八月十五日に、日本は「敗戦国」となった。わたしは国民学校(戦時の小学校)四年生夏休みに戦時疎開していた丹波の山なかで「終戦(敗戦)」を聞いた。五年生の二学期に大病して京都へ帰った。戦時中には軍歌こそあれ、歌謡曲などつくられていなかった、それが敗戦後の日本に,京都似も溢れ出汁、その頃の歌が最近にも屡々聴かれる。「歌」とは異様なまで不思議な生きものである。ミミにもクチにも,こびりついたように、七十年後の今にも残って居て、けっこう唱えももする。流行歌はさながらに時代時世を記憶のおんょうの用だ,今いまの歌など識りもしないのに、敗戦五の歌謡曲は、したたかに貴覚え唱い覚えている。
2024 4/15
* いま朝の九時。はやく目覚めて、『主演女優』『悪霊』『モンテ・クリスト伯』の未だ前期。そして『日本の歴史』十一世紀初、『中国の歴史』上古初を読み継ぎ、そして床を起った。目の疲れをひどくして行くと自覚できていながら。目が見えなく成ったら、死を願う事になろうと判ってながら。読んで途中の本、読みたい本、読んでくれとせがまれている本が、家中にまだまだ無数に在る。生きよと、か。
西洋語には「語感」が乏しく蔵書も乏しいが、漢籍は、、日本の古典や史書も、秦の祖父鶴吉以来の家蔵本が多く、少年時代から好き勝手に手に触れていた.。当時、祖父はもう本に「見向き」もしないで、それらの全部を幼い私の「好き勝手」にさせていた。読み教えるなど、一切しなかった。『春曙抄』『湖月抄』『神皇正統記』等の完本は研究施設へ寄贈もした。『老子』『莊子』『孟子』『史記列伝』『唐詩選』等は今モ愛翫している。
優れた「本」がもし無かつたら、どんなにか世界がつまらなかったろう。
* 私の仕事ヘヤはヘヤは二階に六畳、私の大きな選集三十三巻はじめ、特大の事典・辞典・選集等々が百五十巻近くは収蔵の西壁に作り付け書架は別としても六枚の疊のに充満して本やモノが犇めき群れている。書も繪も写真も大小惘れるほど多彩に、かすかにも置ける限り荘れる限り餌も「場」を塞いでいて「鳴り」わたっている、つまりである、古來閑雅を、良し嘉し佳とした『書斎』の観念像をコナゴナに爆発させたように窓前と一瞥雑を極めている。当然に妻と建日子とは余儀ない例外に入ってこない、が、「機械の不機嫌など」あると万万仕方なく鬚髯の技の利く人には、何度か、東工大の卒業生学生くん何人かに入って貰わねば済まなかった、さぞ惘れたろう。趣味でそうなっているのではない。仕事暮らしに余儀ないモノの氾濫が収まりつかないということ。仕事とは、機械やモノを「片付ける」用事では無い、私の場合、どう散らかろうが毎日の「読み・書き・読書そして創作」が仕事。乱雑を整頓するのは年に一度二度で済ますしか無い。此の六ぢょうの書斎は、誠に温かい、暖かくも在る。くつろいで時には仕事の倚子や片隅のちいさなソファで寝入る事もある。全くの「私室」である。
2024 4/20
* 建日子が来て 階下 二階 機械の「メール受発信」を可能に手入れしていって呉れた。ありがとう。感謝。子を持てている幸せと、安心。
この安心、建日子にも持たせてやりたい、が。わたくしは、四歳頃に秦家に「貰い子」されたのだ。
2024 4/20
* 此の働いている機械、大きめの画面真下に、クッキリと鮮明な、しかし手札大とも足りない写真が一枚、立てかけてある。私の「貰われて入った養家」 京都市東山区(知恩院)新門前通り仲ノ町にあった和建築「秦家 ハタラジオ店」の表母屋から奥の離屋 藏 まで西向き全容が、幸運に恵まれ、真西側から 鮮明な写真に撮れている。その西側二階の やや大きい目のガラス窓の内向こうこそ、私が、中学生から、就職上京、秦の養家を去る日までの、まさしく「私室 住まい」であった。新門前通りから南の羲お新橋通りへ繫いだ細い抜け路地を夾んで、西側の樋口家が何故か取り払われていたので、まこと鮮明に「秦家の西向き全容が撮影できていたのだ、幸いに私が帰京の際に撮影出来ていたのだ。
その懐かしい限りの昔の秦家 ハタラジオ店の二階屋を私は、一日と欠かさず見続けて東京とか㋨保谷市下保谷の自宅で暮らしてきた、これからも暮らし続ける。
* 手札大もない小さな写真だが、幸いに実に鮮明によく撮れていて、想い出を誘う何不足もない、それが日々、私は嬉しい。「あの世」へも「連れ持って」行きたいと、それを書き置きたかった。
2024 4/23
* 「生きる」とは一の煩瑣にややこしい「技術」・閉口して負けたら、お終いのようなもの。
わたくし、何ももう慌て急いで生きねばならぬ歳で無い。「悠然と南山をみ」ていて宜しいのだ。
* 大きな佛壇が、隣り西の家には在るが、日々に祀ってはいない。東の、此の住まい家の階下、十メートルとないメインストリートの廊下奥が壇に造られていて、其処に「秦」の両親のとても佳い写真を架け置き、始終 折りごとに、「お祖父ちゃん お祖母ちゃん」「お父さん おかあさん」「お父ちゃん お母ちゃん」と、呼び掛け、挨拶して、朝昼晩、真夜中にも、折りごとに暫くの間「咄」し合うている。
同じ壇には、亡き「いとしい孫」の「やす香」の愛らしい写真もあり、とり囲んで、亡き「ネコ・ノコ・黒いマーゴ」らの小像も置いてある。「やす香 やす香 やす香」と呼びかけ、猫たちとも一緒に、かならず「對話」を欠かさない。
2024 4/29
* :玄関には、横長に下足筺が棚をなしていて小学館版、百巻に余る「日本古典文学大全集」や、私の「秦恒平選集」三十三巻らが壇をなして「前後」列にさらに「上下」積み為されて在る。それらの上、ライトに照らされ、「秦恒平さんへ」と自身献辞のある美貌の女優沢口靖子の顔写真が飾ってある。
* 玄関正面奥の壁には、亡き親友、画家の堤彧子が遺してくれた、そう大きくはないが美しい「盛り花」や、別の画家に貰った華麗な「番い鳥」の小さな額繪を架け、真下真ん中の床には、品格気高い、展覧会で最優秀文部大臣賞を受けた「備前の大壺」を置いている。
* 私は、此の本棚と大壺とのあわい、背を壁ぎわに倚子一脚を今度常置し、時に腰掛け、日本の古典文学を好き勝手に読もうと。ちょうど今は、曲亭馬琴の大作、上中下三巻の『近世説美少年錄』に手を出したところ。
土間ともに広からず「小部屋めく玄関」が、そのまま恰好の『読書場』を成し呉れている。倚子を座に、安静感をとても気に入っている。
* いま朝八時、ネコちゃんらの朝食どき。
* 以前に『容れ物』という一文を書いている。人類が、初めて「容れる」こと「容れ物」を発見し発明したのこそ、「文化最初の」であったろうと。
私、「容れ物」を安易に棄てられない、で、カラの筺や袋がやたら溜まる。「家屋」とは、むろん人や物の「容れ物」に他ならない。
2024 5/4
* 永い生涯の半ばに、私は一度、法廷の「被告席」に立たされた。原告は実の娘、青山学院大教授であった婿の押村高に嫁いだ「朝日子」であった。
私は今日只今にして、なお、「何故」「被告」だったか、全く理解出来ず、判断も、推量すらも出来ない。「実の娘の、實の父」として「実に希有」の「夢・幻」だったとしか想われない。以来、何十年、逢って咄も出来ていない。
私が朝日子を父として心から「愛していた」のを、間近に実見し実感していた人は数多く、その逆を証言した「よそ」の人は「独り」としていないのだ。「人生不思議・不可解」と謂い置くしか無い。
死ぬ前にはもう一度、わが子の、娘・朝日子の顔を見、声を聴いて逝きたい。遺し与えておきたい「モノ」も在れば。
2024 5/4
* 早起きの儘に、例の、自身の「趣味」にあわせた家の内アチコチの「模様替え」をしている。妻は、まだまだ、睡っている。妻には、家の内を荘る趣味が無い。私は、総じて身の周り・身辺をモノとともに片付け設え整えようとする、が。
片付けるとは「棄てる」ことでない。仕舞うとは「仕舞い込む」事で無い。それでいて始終、片付け、仕舞っていねばならない、投げ遣れば、一切が役立たずのゴミになる。
2024 5/6
* 広い家ではない、玄関をまで小部屋のように工夫して用い、いっそそれを愉しんでもいる。わたしは生来、散らかすよりは綺麗に片付けたいタチで。玄関に次いで六畳の茶の間も、此の家のセンターとして、よほど工夫して、せめてサマ良くしてみた。猫たちの幼少時の暴れほうぬ大で障子は処置無く破られ、家中の襖も惨状を覆う餘地ももうその気も無いが、わたしは、やはりコツコツと独り手入れ・手加減・手直しをやめない。
* それもこれも、「玄関」で機嫌気持ちよく宝井馬琴のクソ面白い『近世説美少年録』大冊三冊を嬉しく読み上げたい衝動からで。本は、やはりこころよい席で落ち着いて読むに越した事はない。ちいさな家の内で、「玄関」という場を発見し発明したのは今度の手柄であって、歯どうして家の阿智事ヲ静かに片付けてもいる。
2024 5/7
* 朝寒むに、びっくり。着重ねた。いま、七時半。
妻が、手洗いの生け花に、珍しい「チェリーセージ」を綺麗に生けて呉れている。
渡しは我が家の手洗いを、一の晏樂休養處と考えて、便座で、永い思案にも、うたた寝にも、休息にも心地よい小部屋にと心がけている。綺麗なカレンダーの他にも、今は、大好きなライオン一家三頭が微笑みの記念写真や、大横綱「白鵬」の土俵入りなどを、五月蠅くなく、布壁に貼っている。声を掛けて話し合うたりする。
広くない家だからこそ、玄関もトイレも廊下もみな「部屋心地」に私は工夫する。
* こうして機械前にいると、日に数度は「アコとまこ」とが、「頂戴」と{削り鰹}を貰いに来る。専用の器(革のペン皿二枚)に、一と摘まみずつ分けて、遣る。嬉しそうにナランで食べて、静かに去って行く。可愛い。
2024 5/9
* 玄関を讀書の小部屋めかし、居並ぶ大冊の全集・選集に寄り添うような倚子の座で、やや照明に不足はあれど、ランプで補足しながら、小学館版古典全集から三巻本の『近世説美少年録』上巻を抱きかかえ、もう、半ば近くまで黙読を愉しんでいる。近世の「読み本」は多彩に炎上するような漢字・漢語の「読み・訓み」に、途轍もない特色が有り、それをも面白がれるなら、小説の奇抜が更に魅力を増してくる。「もの語り」の名手「曲亭馬琴」の三巻を満たした 豪腕には、素直に「抱かれて」しまうのが「コツ」であるよ。
かつてはわたくしは近世江戸時代の、こういう「読本」の煩雑としか想われなかった読まされ方に、親しまなかったが、今は、ウハウハと愉しめる。日本語が面白くて溜らなくなってくる。
* 家には、妻がいて、「ふたり」のネコがいる。謂う事無し。不足なにも無い。健康でありたい。
せまい我が家には、東と西の二棟に、庭木の類いが極く尠い。が、書庫と家とのちっちゃな角地に、「隠れ蓑」一樹が、いまや書庫はおろか、二階家の大屋根を侵すまで伸びている。
この、ソレこそ猫の額ほどちっちゃな角地は、今は亡い愛猫たち(ブン、ネコ、ノコ、黒いマーゴ)の奥津城にも成っていて、「隠れ蓑」は人の膝もない小さな植木であった、それが今では背の高い高い喬木と育って、イキのいい翠・緑の葉を、まさしく「萬」と繁らせ美しく日に日に揺れ動いているのだ。
妻も私も、こんな、狭いテラスの一廓に満足し愛している。私は、とことん愛している。わたしに「墓は」要らないよ、「隠れ蓑の根もと」に、愛した「猫たちと一緒に」ただ「骨を埋めて」くれと言い置いている。その日も、もう遠くはあるまいよ。
「読み・書き・読書」は堪能してきたろう、「創作」に心残り遺すなよと自身に言い聞かせている。
2024 5/10
* 「酒は呑め呑め 呑むならば 日の本一のこの槍を 呑みとるほどに 呑むならば それぞまことの ***」の「***」を忘れている、「黒田武士」かナ。
岩見重太郎とか塙團右衛門とか猿飛佐助と謂った「乱世の豪傑達」の「誰」に扮してチャンバラを「遊ぶ」かと競った子供の昔を覚えている。
* 真珠湾から大東亜戦争が始まった昔、昭和十六年師走、わたしは「幼稚園ボ」。明けて十七年四月国民学校に進んだ春の運動場には櫻が咲いていた。
昭和二十年(一九四五)三月半ばに秦の祖父と母と三人で、丹波の山奥、樫田村杉生に戦時疎開し、四年生八月にはヒロシマ、ナガサキの「原爆」を新聞で見知り、盂蘭盆の八月十五日には、「無条件」で日本國は米英等連合軍に降伏した。負けた。樫田小学校の「夏休み中」だった。
天皇さんの降伏を国民に告げる声を、私は、親の借りていた丹波の農家の前庭で、大人達とラジオで聞き、どう浮かれたか「飛行機」に成って両手をひろげ駆け回り、「京都の家に帰れる」と喜んだ。
いま、西暦で二○二四年 あれから、七十九年。
2024 5/10
◎ o:秦恒平 様 岩田孝一(恒平の従弟)です
本日(5/10)
「吉岡家住宅」の建物(恒平の実父方・生家)が、国の登録有形文化財に指定され、
10日、谷口 木津川市長が吉岡家を訪れ プレートの交付式が行われました。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kyoto/20240510/2010020032.html
木津川 「吉岡家住宅」の「主屋」が国の登録有形文化財に
05月10日 16時10分
木津川市にある旧家、「吉岡家住宅」の建物が、国の登録有形文化財に指定され、10日、プレートの交付式が行われました。
「吉岡家住宅」の「主屋(しゅおく)」と呼ばれる建物は、江戸時代後期に建てられた旧家の母屋で、「かやぶき」と「瓦ぶき」を組み合わせた屋根が特徴で、歴史的に貴重な建造物として、去年、国の登録有形文化財に指定されました。
10日は、吉岡家の現在の当主に指定を証明するプレートなどが手渡されました。
土間には、7つの釜で同時に調理ができる「七連かまど」があるほか、冬場に食料を入れておく「芋穴」と呼ばれる貯蔵庫も備えています。
国の登録有形文化財は、府内に650件余りあり、木津川市では2件目になります。
プレートを受け取った吉岡菊子さん(=恒平の従姉妹)は、「この家で生まれ育ちましたが、昔、父親がこの家に誇りをもって住んでいると言っていた意味が最近はよくわかり、今後も住み続けたいです」と話していました。
京都のニュース
NHK京都放送局の18:30からのニュース
京いちにち で放送されました
地上波では京都府内からだけの視聴ですが ネットの NHKプラス では 全国から録画が見られるようです
国の登録有形文化財の手続きが全て終わった事のお知らせまで 孝一 拝
* お知らせ。感謝。
* いま私の左手一メートル余の窓枠に、実父吉岡恒(吉岡家長男)の育った「吉岡家の写真」がある。長い高い石垣の上の、丈高い大きな家である。私は、京都の秦家に「四、五歳で」もらわれる(預けられる)まで、この当尾の吉岡家で育ってた(と想われる)。私が極く初期作に、作中一人称の姓を「当尾(とうの)」と書いているのは、此の生家吉岡が南山城の「当尾(とうのお、か)」の地に在る(と察していたからで。
* 生涯の歌人であった(生まれ育った滋賀県能登川町に立派な歌碑が建っている)生母(阿部ふく)方のその後「今日」が判らなくなっている。能登川の「阿部家」と謂えば、一世に聞こえた近江商人の大実業家も出ていて、私生母の生家や其の後など、知る人には知れているのだろう。私には、いまや、よく判ってない。
* わが実の両親の「ドラマ」は、むしろ、孫の秦建日子なり、同じく黒川創や北澤街子なり、気があれば、追っかけてくれれば良い。欲しければ、私所持の書きモノ、資料など上げる。
2024 5/10
* 南山城当尾の吉岡家を、今、支えている菊子さんから、、例の「指定」ほ報せの電話が。
上下に歯の無いわたし、息が抜けてフガフガ語を喋るしかなのに往生した。
* 昼間、思い立って、杖のたすけで、下保谷の民家道路を、何の意味も無く足任せに小子一時間もゆるゆる、ゆらゆら正しく散策した。さして疲れもしないで帰ってきた。脚を使って歩くのは、今の私には大事なこと、日課にもしていいことだろう。
家には、すこぶる安心、妻と、猫のアコ・マコとが居る。私は、ここ数日、「読み・書き・讀書」には晩出が「創作」の手は、やや留まっている。「放心」もまた栄養と想って。いわゆる「食」は進んでいない。酒の、徳か、毒か、空腹にならない。
2024 5/12
* 玄関座で『近世説美少年錄』を読み進む他はさしたる何もせず。呆然と疲労感を抱きかかえたまま、十一時。何をしていたとも覚えない。不安心や苦労や難儀は何も無い。平穏な老境に恵まれて在る。戸締まりは慎重に、掛くべきチェーンも怠ってない。戸締まりの尻には、不用意な開閉を妨げる用意も守って、夜分など二階書斎にも、階下、玄関にも寝室にも茶の間にも、外からは固く、入れなくしている。職人もほめてくれるほど、木造ながら家は堅固に造られている。
書庫の外、家の内にも当然のように藏書、雑誌 そして「湖の本」が充満.そんな中で「書・画」の類にも五月蠅からぬ程に、處を得させてある。
* 先日 親子で見舞いに来てくれた、亡き「やす香」の写真も抱いた大親友の「カオリン」とわれわれと三人を撮ってもらっ写真が送られてきた。健やか、にこやか、綺麗に成人した「かおりん」の笑顔、ああ「やす香」よと、ほろり。われわれ八八老夫妻も晴れやかに撮れていて。
2024 5/15
* 朝のご挨拶代わりにと、うちのお二人さん、削り鰹を頂戴と。それが、無い。やれやれ。まだ六時十分。妻はまだ寝ていよう。ゆっくりと散策に、でか。暑くなく、降ってもいない。三日、一時間前後の散歩をつづけてか、ふくらはぎが堅い。
2024 5/17
* 五月と云えば大将人形を飾ったが今モどこかに大将さんと馬とが仕舞われているはず。男の子のるあ友人に上げたいが、ふしぎなほど女の児ばかり。先日訪ねてきてくれた、亡き孫「やす香」の親友「カオリン」に女の子のうまれたとき、江戸時代半ば過ぎた「狩野の画家」の、大きな「蛤」の内にひな人形一対を描いた美しい色紙画軸を上げた。あんな風に男子小学生に、古び切らない間に綺麗な「大将人形」を貰って欲しいが。
* もうほどなく死んで行く私に、あまりに、骨董や書画古道具が多い。不幸にして建日子に、その方の趣味も好みもない。金額に換算されるのは不愉快。いっそ道具屋にいっそうしてもいいと、それらい「店」を心当たり当たっている。電話もかかって来始めている。「売る」のは「イヤ」やなあといささか困惑気味。
* いま、茶の間に、いかにも深い水の底に、じいっと大哲かのように沈んで微動もしない大きい大きい鯉の一尾のみごとな画軸が架けてある。こっちが負けるほど深沈と静寂に大きな鯉の、さながらに英姿。画家は、久保寛(比路史)、村上華岳らと国衙創作協会で近かった仲間内。一代の傑作と観ている。
* 玄関正面には、高校の美術コース生で、私から茶の湯を習い稽古していた、不幸に後年若いまま亡くなるその日まで親密であった友、一水會の画人富永彧子の呉れた形見の「花」を架けている。
今、此の仕事の席間近には、親しい読者で、互いに「鳶」の「鴉」のと呼び合うている、十ほど若い兄弟でフリーの我身高木冨子の呉れた色美しい『浄瑠璃寺夜色』画が、まだ額にも入らぬままに、私の父方生家でごく最近、國の有形文化財に指定された南山城当尾の「吉岡本家」の大きな写真と美しく並んでいる。「浄瑠璃寺」は私を生み育てた父方吉岡家の「家の寺」と聞いている。
* 此処まで「書いていて」実に数語にもあまり「ことばと感じ」と行き詰まっている。苦し紛れに「家の寺」と書いたが、適切に表現の語彙が在る。何度ももちてきたのに、今朝は出て来ない。耄碌とは、こうだ。
2024 5/17
○ お元気ですか、みづうみ。
最近の「私語の刻」をお送りいただき大変嬉しく、ありがとうございます。大変恐縮ではございますが、五月十四日だけ抜けて十六日までお送りいただいております。お時間のあります時に五月十四日分をお送りいただければ幸いです。
吉岡家住宅の記事と映像を拝見しました。国の登録有形文化財に指定されるにふさわしい立派な日本家屋で古き良き旧家の風格があります。ここで幼いみづうみが犬と一緒に写っているお写真、もう一度拝見できたらなあと思いますが、難しいでしょうか。あの一枚とても好きでした。吉岡家住宅は遠い将来、文学者秦恒平実父の実家として、秦恒平が秦家に行く前に過ごした屋敷としての文化的価値も加わることでしょう。
実家が文化財の知り合いが二人いますが、維持費が膨大で、しかも修繕や改築したくても制約が多く思うように変えられず、しかも公的援助はないので大層苦労しています。時々映画やテレビ撮影で、大物政治家等の邸宅として使われる程度のささいなメリットはありますが、維持継承は並大抵のことではないようです。吉岡家の皆さまのご尽力で末永く伝統建築を保存していただくことを願っています。
雨さえなければ、散歩しやすい季節です。お怪我に気をつけながらゆっくり散歩を楽しんでください。あけぼのはもっぱらラジオ体操第一、第二です。机の前でこわばった身体のストレッチになります。元気です。 春は、あけぼの
* ま、何と云いましょうとも、「過ぎた、(なつかしい)よそごと」で。
* 眼が、重苦しい。
2024 5/17
○ 五月晴れの朝、おはようございます。
仙台は、今日から「青葉祭り」です。街中を豪華な山車
が牽かれ、スズメ踊りのさまざまの社中の人々が踊り歩きます。ほんの2週間前に「新緑祭」が終わったばかりですのに・・・。 ことほどさように、北国は青葉若葉の季節が嬉しいのです。
でも、私は五月晴れに浮かれていられない昨今の世界情勢だと思います。
今は戦時中ですものね。ウクライナもさることながら、何処より何よりイスラエルの戦争犯罪は眼を覆うばかりですよね。
ユダヤの民は、かつてホロコーストを経験したからイスラエルは何をしようと許される、とでも思っているのでしょう。
今、ユダヤ人がパレスチナで行っている戦争犯罪は、あのホロコースト以下の最悪の犯罪ではないでしょうか.
ようやく最近になって世界中の、(特に)若者たちがイスラエル批判に立ち上がりましたね。
ここ仙台でも「パレスチナの人道支援・イスラエルの戦争犯罪批判」の集会とデモがありました。
仙台の場合、若者は三分の一程度で中高年が多いのですが、約80人くらい集まりました。
私が参加できたのは、一昨日だけですが、主宰の「パレスチナと結ぶ会」の話によると、4月末ごろから毎週水曜日か木曜日に集会とデモを行っているそうです。いつも参加者は、50人~80人ほどだそうですが、地方紙でも地方テレビ放送でも、ほとんど取り上げません。
もしかすると、仙台は、日本は、パレスチナなんか私たちとは関係ない遠いところ(距離的にも心理的にも)の出来事なのでしょうか・・・。
以前申し上げましたように、私は「女川原発再稼働反対」の運動にも参加していますが、私にとっては「女川」も「ガザ」も同じくらい「近い」のです。
例年「青葉まつり」は冷たい雨に見舞われるのですが、今年は晴天で暑くなりそうです。(24℃)
そちら(=東都)はもっと暑いようですね。
どうか熱中症にお気をつけてお大切にお過ごし下さい。
遠景 社会学者 元・大學学長
* 今はむかしになっているが、かつて<私の実兄北澤恒彦(私が稚ないまま秦家に貰われていたように、兄も北澤家に入っていた、らしい)らが、「ベ平連」と謂う「ベトナムに平和を」の運動を起こしていた。
高校・大学ころの私は、内外の立て看板等に朱インクで盛んに「檄を飛ばしている」兄の存在を遠望・傍観しながら、専ら「京都の市街や山野」を「ひとり勉強」し歩いていた。
* いま、わたくしは「イスラエルへの厭悪」に鬱屈していても、さて、何の身を働かす事も出来ていない。「遠恵」さんに「共感する」ばかりで。
それにしても、いま、高校・大学生らの「聲」が、本音もウソも、殆ど{上がり}も{聞こえ}もしてこないが、何故。
同じ事は 企業内社員・従業員の男女たちから「組合活動」への気力や意欲がまるで聞こえてこない現実にも謂える。「イスラエル」疑念は、今日只今の我が国の政治にも企業世界にも厳存しているであろうと謂えるのに。
2024 5/18
起床 7:00: 体重 58 9kg 早暁 起き・測
* 二階の窓が明るい。アコもマコも元気。カーサンは。まだ寝てます
2024 5/19
* 葉盛りの翠りしづかに隠れ蓑のさつき狭庭を満たす曙 * 晴やかといふが愛くし隠れ蓑の萬の葉萌えて揺るる浅翠 * 葉盛りにひそとし揺れで隠れ蓑の明けの翠に萌ゆる晴天 * 葉の揺れや翳と光をうたふかと隠れ蓑樹つあはれ豊かに
* 狭いテラスの狭い片隅に、膝ほどに小さかった隠れ蓑の若木が、いま、書庫を越し母屋の大屋根も抜いて「萬の靑葉に」高く大きく揺れて揺れ静まっている。廊下からも寝室のまどからも二階でも見えて、愛している。
2024 5/21
* 三時半から独り床を起ったまま、乱雑にモノの混雑し乱雑な儘の私の身の周りを整頓し始めて、ちょっとの朝食もふくめ、午前八時半までも片付け仕事。書庫にしきりに出入りしつつ、サテ、何がどう片付いたとも謂えぬまま、二階の此処・機械の前に、八時半過ぎてやっと落ち着いた。やれやれ、何が片付いたのやら。朝から、ただ疲れた。
* 所蔵の古書は、全て祖父秦鶴吉のもちものだった。ラジオの販売と修繕・電気工事もという、昭和も早く時代に先駆けた新規の技術職へと、花街祇園の女性たち相手の貴金属や装飾品の売り手から鮮やかに身していたわが養父の秦長治郎は、ラジオ等の技術教科書以外、古書籍になど一切見向かなかった。明治二年生まれの祖父は「明治」の人、明治三十一年生まれの父は「明治」を置き去りにして行った人、だった。
四つか五つ頃にこの「秦」家へ「もらはれ子」の私「秦恒平」(戸籍の姓は、吉岡)は、明瞭に、祖父秦鶴吉遺贈・舊所蔵の古書・新書に育てられたのである。源氏物語を与謝野晶子の訳や井波文庫で余始めるより遙かはやくから、北村季吟著の注釈『湖月抄』三巻の美装本で幼かった私はもう『源氏物語』の何であるかを知識し、近世の国学者賀茂真淵の名も『古今和歌集』注解本も手にしていた。賴山陽による『神皇正統記』注釈本や『日本外史』通俗通祖急く本も本も、声を上げて読みまくっていた。
有難い事に、史や詩の漢籍も巨大な辞典・事典・年表までも、今なお、今朝のわが書庫になお居並んでいて、私はそれらに手寝触れず放って措く子ではなかった。秦の祖父には今モ感謝しきれない。
何が謂いたいか。祖父秦鶴吉はまさしく「明治の」人だったいうこと。私はその空気の悪阻諏訪家に預かっていたのだ「明治は遠くなりにけり」どころか、私を鼓舞したのは「明治」であったのだ。
* 何を、いま、私は、云いたいか。昨今の「日本近代文学」研究者と自認している人たちの論攷に「明治」の息や空気や匂いが抜けて居て、抜けかけていて、その調子のまま、平然と藤村や鷗外や漱石や、直哉や潤一郎や、芥川や川端康成らが語られろんじられていそうな危うさを憂慮するのでる。これら近代の文豪らは、明らかに根の呼吸を「明治」に学び承けている。しかも、論者らが「明治」など棚上げに「今日」の視野とじゅよとだけでろんじているのでは、それは勝手が過ぎていよう。それを私は、いま、改めて、云いたい、求めたい。
2024 5/25
* 六月か。
* 甘味の、世に払底した戦中、戦後にも、思いがけず「みなづき」という甘い菓子を母からもらえたことが、幾度か有った。懐かしい。その母も、父も叔母も、あの日頃も,、みんな懐かしい。
米のご飯の、世に払底した時節、短くはなかつた、が、少年私は、学校の先生が、日々に教室や講堂や運動場で叫んで聴かせた「自主性・社会性」を耳にタコに元、気だった。小学校から新制中学へ、何度か「全優」「オール5」の「通知簿」を家へ持ち帰ってもいた。胸いっぱいに少年の敗戦「新」時代を呼吸していた。おさない思慕や恋にも何度も胸をふるわせた。
2024 6/1
* 建日子と、本気で「話し合い、思案を」交しておかねば危ない時機へさしかかってる、のだが。
2024 6/1
○ 歓龜神社でしょうか。 尾張の鳶
* 鳶に。 然り。 感謝。
そのあたりは 通称「こっぽり」 小堀遠州家の支配地でしたと。そのちいさな神社も、近江の居城から移したかと 朧ろに聞き覚えています。
すぐ前通りのお向かいに 懐かしい銭湯があり、少年の昔 よく通いました。弥栄中学の女友だちがその辺に数人暮らしてましたなあ。
くらッくらッと 今モ 疲れています。
建日子が、また新刊を出し、シリーズの「三冊」をしあげたようです。読んだ事がなく 作柄や、ナカミは全く知りませんが。励んでいるようで、安心です。
朝日子の事は 爪の先程も様子が知れません。生きていてさえおれば,宜しく。
鳶と 同じ空をとんで、合唱してみたいものです。
お元気で。怪我の無いように。 カアカアカア
2024 6/5
* 朝夕、ホンの近所を一回りだが、ゆうっくり杖をひいて15分ずつくらい散歩した。
寝入りもした。食事も、しは、した。
頻りに、堅い頚のうしろを揉んでいた。
メールもせず、受けず。テレビも観ず。ホンも読まず。
アコトマコとに始終慰められる。
何処でも何時でも、倚子に腰掛けたままでも寝入る。
2024 6/6
* 眼は睡いが、躰は起きようと奨める。二階廊下の窓をあけると、シーンと静まって朝明けが明るい。
我が家は、東西に通した田舎ながらの細い講堂から北側へ、横長な瘤のように宅地が造られた上に蒙一段左右数軒での瘤地が北へ出張っている。我が家はその瘤北側の角地を東西二軒の家屋とちいさな庭とで暮らしている。
じつに静か。車も通らない、物売りも来ない。
前通りは、お向かい、北側の崖を塞いだ住宅七八軒と向き合うていて、我が家のこっち側は、まんなかに現在アキ家一軒分を夾んで、西と東の曲がり角を抱いた二家で生活している。厳粛なほど静謐な、東西に長からぬまさしく「奥道」で私らは暮らしている。
ことに、二階廊下に北面の窓をあけ顔を出して眺める「東の朝明け」、遠く遠く、紫だちたる雲のほのぼのと流れる払暁が好き。
2024 6/7
◎ 木津川 「吉岡家住宅」(=吉岡恒の次男・秦恒平の生家)の「主屋」 が国の登録有形文化財に
05月10日 16時10分 放送 木津川市にある旧家、「吉岡家住宅」の建物が、国の登録有形文化財に指定され、
10日、プレートの交付式が行われました。
「吉岡家住宅」の「主屋(しゅおく)」と呼ばれる建物は、江戸時代後期に建てられた旧家の母屋で、「かやぶき」と「瓦ぶき」を組み合わせた屋根が特徴で、歴史的に貴重な建造物として、去年、国の登録有形文化財に指定されました。吉岡家の現在の当主に指定を証明するプレートなどが手渡されました。
土間には、7つの釜で同時に調理ができる「七連かまど」があるほか、冬場に食料を入れておく「芋穴」と呼ばれる貯蔵庫も備えています。
国の登録有形文化財は、府内木津川市では2件目になります。
プレートを受け取った吉岡菊子さんは、「この家で生まれ育ちましたが、昔、父親がこの家に誇りをもって住んでいると言っていた意味が最近はよくわかり、今後も住み続けたいです」と話していました。 京都のニュース
NHK京都放送局の18:30からのニュース 京いちにち
で放送されました と。
* 旧聞ではあるが、ふと「記録」が眼にも手にも触れたをシオに 再録しておく。建日子も朝日子も、何も識らない。
2024 6/9
* マコもアコも、私の膝を抱え、甘えに来る。人間より遙かに聡いと感じること、しばしば。
2024 7/3
○ カアカア鴉に
“生きたかりしに”を再読、今しがた読み了り、茫然。深く重く、生涯を思います。
同時に光のようなものを感じます。
暑さを避けて籠っています。
元気に過ごされますように。 尾張の鳶
* ありがとう。鳶も。空たかだかと舞いたまえ。
『生きたかりしに』か。「生ききりたかった」ろう生みの母の呻きが、今も聞こえてくる。
2024 7/6
* 録画しておいた「懐かしい唱歌」番組で、『おじいさんの古時計』を、いつも唱歌をきれいに優しく唱ってくれる男性歌手で、しんみりと聴いた。原歌はアメリカのと聞き覚えているが、まことにしみじみと「佳い日本語に飜訳」して呉れているのが、詩人「保富康午」 私の妻迪子の「今は亡い実兄」で、末々まで永く遺るにちがいない「美しい懐かしい唱歌に」して呉れている。妹の保富琉美子も詩集をもち、繪も描く。われわれの息子建日子も軽快に小説本の出版をかさね、劇作や映画監督も手懸けている。
ついでめくが、私の亡き実兄「北澤恒彦」は批評家としての仕事を数冊にしかと遺し、遺兒の「黒川創」「北澤街子」も、小説で、現在「しかと活躍」している。恒彦、恒平の生母「阿部ふく」は生来の歌人であった。歌集ももち、故郷滋賀里に歌碑を建てられている。私も、いま、『少年前』『少年』『光塵』『亂聲』につぐ第五短歌集『老蠶・閉門』を編み終えようとしている。
2024 7/7
○ 毎日ほんとうに暑いですね。
恒平兄上様 まだまだしっかりされていて、新しい短歌集も編んでおられるとのこと、嬉しく思っています。
気温の高い毎日、老人にとってはこんなに不快な辛いものだとは知りませんでした。やはり自分で体験しなければ分からないことが、色々あるのですね。
兄(=詩人保富康午の「大きなのっぽの)古時計」の歌は、多くの人々に愛されて、幸せな歌です。NHKのみんなの歌から始り、小学校の音楽の教科書に載ったことで、日本中に広まりました。NHKから原歌詞の翻訳の依頼が兄のもとにあったときのこと、私もよく覚えています。私が23歳の時でした。遠い昔のような、そうでもないような… 時間というものも不思議なものですね。
どうか熱中症にはくれぐれもお気をつけて新しい短歌集の編纂など、頑張ってください。何とか夏をお二人で乗りきってくださいね! いもうと 琉美子
2024 7/10
* 玄関座の「倚子」では、デッカく重い本の ドストエフスキー『悪霊』と曲亭馬琴『近世説美少年録』三冊の二冊目とを、「補助燈」を片手に読み進んでいる。
寝床では、四八冊本の『参考源平盛衰記』の三三冊目、チャーチル誘拐のサスペンス、ヒギンズの『鷲は舞い降りた』 大デュマの大作『モンテクリスト伯』 大冊『史記列伝』そして三冊の大冊『栄華物語』を、読み進んでいる。
二階、このパソコン機械では「いわゆる讀書」はしない、調べたり書いたり。 ほとんど手紙・ハガキは書かず、電話もしない。
本居宣長らが持参し推奨した簡素かつ清雅の書斎には、白と黒ほど全く倣わず似つかぬ狭苦しい六畳間は、よくもかくもと、吾ながら惘れる無数のモノや繪や本や棚や筺やソファで、歩くどころか、ちいさな隙間を飛び石のように踏んで動き、人や花や景色の写真や版画や繪ハガキや、書の額や、書籍・辞典等々でギッシリの「壁に作り付けの大きな本棚」なとで、さながらかき混ぜの「交響曲のさ中」のような「仕事場」。真冬でも温かいし冷えない。そのかわりホント本にはさんだモノの場を忘れれば探し出す難儀は破天荒なまで厄介。
2024 7/12
* 玄関座の「倚子」では、デッカく重い本の ドストエフスキー『悪霊』と曲亭馬琴『近世説美少年録』三冊の二冊目とを、「補助燈」を片手に読み進んでいる。
寝床では、四八冊本の『参考源平盛衰記』の三三冊目、チャーチル誘拐のサスペンス、ヒギンズの『鷲は舞い降りた』 大デュマの大作『モンテクリスト伯』 大冊『史記列伝』そして三冊の大冊『栄華物語』を、読み進んでいる。
二階、このパソコン機械では「いわゆる讀書」はしない、調べたり書いたり。 ほとんど手紙・ハガキは書かず、電話もしない。
本居宣長らが持参し推奨した簡素かつ清雅の書斎には、白と黒ほど全く倣わず似つかぬ狭苦しい六畳間は、よくもかくもと、吾ながら惘れる無数のモノや繪や本や棚や筺やソファで、歩くどころか、ちいさな隙間を飛び石のように踏んで動き、人や花や景色の写真や版画や繪ハガキや、書の額や、書籍・辞典等々でギッシリの「壁に作り付けの大きな本棚」なとで、さながらかき混ぜの「交響曲のさ中」のような「仕事場」。真冬でも温かいし冷えない。そのかわりホント本にはさんだモノの場を忘れれば探し出す難儀は破天荒なまで厄介。
2024 7/13
○ もう、午後三時二十分。いい中国映画などみていたが。呆然としていた、ボケているかマトモか、判じもつかず身を竦めている。中国の胸に沁みる「郵便配達夫」の映画を観て。視力の弱っているばかりを「ヒシと」感じる。心神の疲れに屈してはいられない。が、むやみと頭の中にサマザマが絡み合い縺れるように固まって蠢く。強いても「其の後」に備えておきたいが、重い。生き存えていなくては仕方の無い「混雑した荷」が負担を日々に増して行く。
肉親、血縁、縁戚。私には、本来ソレが幸いと欠け落ちて無いに等しかった。それが、妻が出来、子らが出来、縁戚や親類が出来、その重さ、軽快ななにもなく、ひたすら重たい。煩わしい。
2024 7/16
* 学校の昔は、「夏休みの始まる日」であったかも。私は終始「学校少年」で、学校や教室との折り合いは良好だった。社会人としてはものぐさで退避気味に、とぼとぼ「独り歩き」していた、か。
2024 7/21
* 娘の朝日子が昭和三五年(1960)に生まれた日、その娘(私たちからは孫娘1986年生まれの)押村やす香が、2006年、二十歳を目前に亡くなった日。
2024 7/27
* 互ひ杖 とでも謂うか、タシにならぬまでも二人で歩けば「聲」は掛け合える。そう思って,今日もガンガン照りの江古田奥、妻の歯医者通いに同行し、帰りには、いつものように、西武線江古田駅近い馴染んだ「中華家族」で昼食し、帰ってきた。
「視弱」と謂うているが、それからする「全身の違和や疲労」は避けられない、それでも、まだ、外出に「互ひ杖」の遣えることに感謝している。
目を遣って、自身書き置いた物や、参考のものを読み返すのは、イヤと謂うよりも、よほどムリなっている。それでも,やはり視力に頼まねば済まぬアレコレ、減りはしない。「業(ごう)」であるよ。「業つくばり」の末路よ。
2024 7/27
* 五時に目覚め、そのまま起きた。いちばんに目薬をさした。いつものように、廊下「奥の壇」で、「秦の父と母」とに篤い感謝をささげ、そして幼い写真の「やす香」や「ネコ、ノコ,黒いマーゴ」たちと暫くの間「お喋り」を交わす。
枯葉が木いっぱいに残っているのだと想った。鳥だった。鳥が一時に枝をはなれた。揉んだように空気が音をたてた。またいっせいに鳥は木にもどり、枯葉になった。惜しげなく日が照っている。 恒平
2024 7/30
* 「手製」で気に入っている我が「玄関座」で、気持よく寝入ってたりすると、アコモマコも、足もとへ来て「八の字」になりすややと寝るから可愛い。
2024 7/30
* 「信じられない咄だが」、くちゃくちゃと掌に丸めるようなアンバイに書き続けていた。疲れれば寝ていた。ウソにも健康とは謂いにくいが。それでもテレビで長岡の花火の美しさに感嘆したり。五輪の柔道を観たり。
朝日子、どうしてるやろ、建日子には文運をと、願ったり。
2024 8/2
* 明日は、一週間ぶりに『光る君へ』が。妻も手もとへ「日本史」の平安朝前半を持ち出し、「紫・清・道長の頃」を勉強の気配、結構なこと、デス。
2024 8/3
* 妻も暑気に弱っている。私は、とにかくも酒を飲んで、乗り切って行く。百薬の長とまで甘えないが、酒の旨いときは、からだの機嫌がいいから、いい。
* お勤め、お付き合いやご挨拶の無い、白髪 白鬚「八八老」の夏日は、呑気である。妻も元気でいて呉れれば、云うこと無し。
2024 8/9
* 「おカーサン」「ナーニ」「おカーサンて好いにほひ」と。秦の母もそうだった。五歳ともなる前に「もらひ子」して呉れた養母であったが、字義のまま「好い匂いのお母ちゃん」そして「頼もしいお父ちゃん」であった。
いま私の家、一回廊下の奥が 仏壇では無い正面に秦の両親の温顔よく撮れた二枚の写真、そして忘れがたい家族の亡くなった「猫たち」と想い親しんでいる小像が温座している。手洗いの往き帰りに、日に何度も何度も私は壇の前に暫く佇み、「お父ちゃん お母ちゃん」とこのまま聲にして呼びかけ、「ネコ、ノコ、黒いマーゴ」と呼びかけて「語り合う」ている、「有難うございました、有難うございました」「アリガト、アリガトウ」と、心からアタマを下げ、懐かしんでいる。そのわずかな「時間たち」が 老いゆく私を「向こうから」支えてくれる。
2024 8/12
* 娘・朝日子は、幸せに心満たされ暮らしているだろうか。
* 息子・建日子は、眞に「文藝・文學」の実作者として 愛読者のためにも、批評に堪えて前方へ炸裂する、長い短いは謂わない、優れた「作品」を世に送って欲しい。
2024 8/12
* 羽生淸(きよ)さんと妻とに親しい文通の在るのは、妻にも有難い、望まれること。この歳になり若い聡い清いお友達が妻に出来てくるのは、私にも嬉しい。
2024 8/14
* 夕食後に、崩れるように寝入っていた。もう明け方かと思ったが。妻は沢口靖子ちゃんの新しい連續ドラマに観入っていた。帝劇での『細雪』だったか、楽屋へ誘われて写真などとってもらったが、どう並んでも、靖子との横並びは、わたしも、妻も、サマにならんかったなあ。
2024 8/14
* いま、零時五五分の二階。寝起きて来たのでは、ない。いまから、床に就く。盂蘭盆に相違ない、が、昭和二十年、あの 敗戦の日である。あの日、戦時疎開先、丹波樫田村杉生(すぎおふ)で、国民学校四年生の夏休み中であった。ラジオに天皇さんの声がしていた、「日本は米英に負けて、戰争は終わる。」わたしは「嬉しくも」心弾んで、隠居を借りていた大きな農家の前庭を両腕で「飛行機」になり,ぐるぐる駆けてまわった。「京都の家」に帰れる。それが嬉しかった。同じ八月のちょっと前にわたしは新聞とラジオでヒロシマ、ナガサキへ投下の「原子爆弾」なるニュースを聞き知っていた。子供心に「戰争は負けて終わる」と察していた。戰争を始めた翌る昭和十七年に京都で国民学校一年生になり、或る日職員室前廊下の世界地図の前で、赤い日本列島と真緑の広い大きなアメリカを見比べながら、そばの友だちに、日本は「負ける」と云うたとたん通りかかった若い男先生に廊下の壁へはり倒されていた。単ににただ、世界地図の上の「国土の大きい広いと、小さい狭い」とを見比べて云うたのだったが。
お盆には京都の家へ、きまって菩提寺常林寺のボンさんが自転車に乗ってお経を上げに、來はる……。わたしは仏壇の「お経」に、「願自在菩薩」の般若心経に好奇心を持っていた。自分でも声に出し覚えたかった。家の大人は、祖父も両親も叔母も、ただ黙っていた。
2024 8/15
* 体調も気分もすこぶる低迷を這いすすむ心地、宜しく無い。豪暑のカンカン照りを侵して、杖を牽いて「セイムス」で酒・肴を買って帰って、「書く」より「呑む」へ手が伸びる。わたくし、むろん大酒はしないが、もともと「酒に酔う」という気味にめったにならない。「酔う」とはどんな気分のことか、ほとんど記憶も自覚も無い。朝から夜まで、いつでも手は出るが、お茶を、湯呑みで飲むていどしか飲まない。「好き」なのだが、量を望んでない、酒で仕事を投げることは無い。これは、じつにまさしく「独り酒」だからで、わたは人と呑み競うように談笑するなど、めったにも無い。つきあいは、悪いと謂うより,はなから、無いに同じく、それが好都合と思って暮らしてきた。妻は呑まない.建日子とも何年にいちどほど、ちょこっと盃を交す程度。酒で愉快になることも不快を躱すことも、まず,無い。
* 前触れの喧しかった暴風雨に遭わずに済んだ。アコやマコも機嫌がいい。わたしは視力の衰えにショボショボしている、が、不機嫌では無い。録画してあるはずの今晩の『光る君へ』を愉しんで、ドストエフスキーか、マクーンかを読み嗣いでから寝入ろう。
2024 8/18
* 「玄関座」で:、昨夕刊や今朝刊など見て。
一昨日 昨日の記事が、私のウロウロで、明瞭な順に書かれていると謂いにくく、なにかと前後しているかも。
* 当然か、サキのことで思案すべきは、尠い。出来れば、建日子、朝日子と話を付けておきたいことは、あるが。姉と弟とで、取っ組み合ってでも好きに談合すればいいと思わぬでも無いが、妻を当惑困苦させてはならないし。
妻のためには、きちんと、打つ手は打っておきたい。
ま、なによりも自分の残り時間を有効に処置したい。秦の母は九六歳まで、父より叔母よりも長生きしてくれた。ま、あり得べくば私もその辺まで、日本と世界と夢の世とを、好奇心で眺めてみたい。
* 左右、肩から頚へ痛みが、凝り凝りと浪打ってくる。
2024 8/24
* 安眠に入れず、夢寐に妙な啖呵を謳ってたり。
ナンダ、ナンダナンダ エー
あんな 男の一人や二人
欲しけりゃ あげます 熨斗つけて
江戸っ子のようだが、耳にしたのはむかし 京都の夏、盆踊りの賑わうころの町内のレコードでもあったか。それを憶えるとなく憶えているので、これは女の啖呵。わたしらの盆踊りは祇園の廓うち、それも戦時の強制疎開で広げれた新地の新道などで夜通しに盛大であったから、ま、こんな啖呵も場所柄であったたのだろう、「欲しけりゃ あげます 熨斗つけて」で「熨斗」なるものの「用」がおもしろかった。わたしは,告白すると,ものごころツイテ以来、年がら年中口の内で唄を噛みつづけている子供だった。上のような唄は幼ではなく少年以降に仕入れてたのだろう、「ハタラジオ店」で育てられたあの知恩院下の新門前通りは、昔も今も、主に観光の 外人客を迎える日本の新古美術骨董の店が目立つ、ま、静かにハイカラな通りだが、我が家の脇の細い抜け路地を南へくぐりぬければ「廓」「花街」の「祇園乙部や甲部」であった、異色のおもしろい街゛った,今も同じ。上記のような啖呵唄は祇園を描いた映画ででも唄われていたか、も。
* ただ、私が始終口のうちに咬んで唄っているのは、概ね、童謡や唱歌。
しかし、こんなのも。
秦の母は唄が好き、父は苦手、なのにその父が私に唯一唄って呉れた唄が有る。
おじいさん おじいさん
あなたの眼鏡で もの見ると
ものが 大きく 見えますね
そんなら カステラ切るときは
眼ぇ鏡 はずして下さいね
あの ラジオ・電器屋の父に貰ったたった一つの歌遺産。わたしは四歳から五歳前ごろに「ハタラジオ店」に「もらひ子」されて、そんな頃にあの父が唄って呉れていた。
おお。「カステラ !」 なんとハイカラに嬉しかったか、それをあの父は、唱いながら切り分けて呉れたのだ。私、昭和十年の暮れに生まれ、十四、五年の「カステラ」ですよ。幼稚園や真珠湾奇襲に二年ほど前。
* さ、秦の、その「おじいさん」「鶴吉さん」となると、これはもう、途方も無く山ほど蔵された「和漢の書籍」で、まさしくわたくし「秦恒平」を文學・文藝の生涯へ推して出すべく「手渡して呉」れたわば「師父」であった。国民学校四年生で丹波の山なかへ母と祖父とで戰時疎開したとき、私は祖父が明治の昔に「通信教育の教科書」に用いた「日本歴史」その他を、むちゅうで読んで「勉強」しはじめていた。父・長治郎も叔母つるも「本」を読まない人だった、だから「おじいちゃん」は、家で揉め事があると口癖に「恒平を連れて出て行く」と脅していた。わたくしが「感じ」を小さい頃から苦にしなかったのは「おじいさん」からの「たまもの」なのであった
* 秦の叔母「つる・裏千家で宗陽 遠州流で玉月」が、九十過ぎまで茶の湯・生け花の先生で多勢の社中を聴いていたのが、どんなに「私の趣味」をそだてたか、謂うまでもない。この叔母は、ちいさかったわたくしに、寝物語に、日本の和歌と俳句の最初歩の手ほどきもしてくれた恩を,決して忘れない。私の「女文化」とい「日本」の認識は、この叔母の膝下でこそ掴み得た。
そうそう、秦の父 長治郎は、観世流謡曲を身につけ「京観世」の能舞台で「地謡」に遣われるような趣味人で、おかげで、謡曲の稽古本は家に悠々二百冊を超し、それが少年私の「日本古典への親炙」に道を拓いてくれたのだ。
父は、また、私に「井目四風鈴」から囲碁も手ほどきしてくれ、後には私、その父に四目置かせるほどになった。
秦の母は、趣味にあてる時間や躰の自由の効かない主婦という嫁であつたが、讀書の出来る人で、私に、漱石や藤村や潤一郎や芥川の名前を聴かせてくれた。後年、敗戦直後に、谷崎の『細雪』や与謝野晶子訳の『源氏物語』などみせると、それは喜んで読み耽り、ことに『細雪』はよくよく良かったようだ。
つまりは私、讀書好きのお蔭で、祖父にも母にも孝行できた。まちがいない「作家」へ歩んで行く最初歩であったよ。
* まだ、早朝六時四十五分。八十年もの「読む想い出」は,豊かに豊かな山のように私の胸に生きている。
2024 8/31
* 保谷厚生病院で朝九時、エコー検査を受けに行く予定。
いま、㈣時半。目がショボショボと、視野の清明を欠いている。
昨日歌番組で愛らしい「ののか」ちゃんの元気いっぱい高らかな歌声を聴いた、ソレを夢にも見てわたしも唱っていた、すこし、泣きながら。。
お母ちゃん
ナーニ
お母ちゃんて 佳い匂い
洗濯していた匂いでしょ
お母ちゃんて 佳い匂い
お料理していた匂いでしょ
幼かった日々、京都の、新門前の、「もらひこ」で入った、四、五歳、秦家での懐かしい、慕わしかった「母」のもう還らない「佳い匂い」の想い出が、歌声になって甦る。あの「秦」の母、「育ての母」は時に怕く、けれど優しく「佳い匂い」がした。「生みの母」「実母」を、わたしは全然知らなかった。
「ののか」ちゃんの歌声を「電気のように」即座に覚え、そして口の中で唱ってた。夢にも唱ってた。
2024 9/2
* 心身と謂う、心の方は今はワキに置いて、「身」は全身にわたり痛いときは痛かったが、時と位置とに応じ、さまざまに色んな塗薬や呑み薬などためしながら、いまは、おおかたに効果も観ながら他オウできている対応出来ている。私の四肢は磐のように堅い、その固さへ浸透する塗りろ呑み薬をたいおうさせられることで凌いでいる。街へ出てもすぐ判る、「杖」は常に同行しているといえ、歩道も階段ですらも、わたしは(昨日の歌舞伎座往復でも)すたすたと歩けて、上り下りも出来ている。綿密に「自身」の状態に向き合い、すこしでも苦痛や不便の緩和を考えて、薬品に助けられ緩和している。出来るのである。
妻は,夜中にも脚が痛むと、ダンゴ虫のように丸くなって脚をかかえているが、適当に薬効を活かす「方途」が体験としてつかめていないか、毎日毎夜に同じように痛い脚を抱えて丸くなっている。身に合った「薬効」を活かせていないのだ。が、痛みには,対応の途を見つけるしか無いのである。いいアタマを持っているなら「自身で働かせねば」その価値が無い。傍で私のしてやれることには限度がある。医者も
、、ま、大概役に立たない、自身の痛みは自身でも工夫に工夫して、適切な薬効と手法とを見つ、け出して頼らねば済まないのだ。 と,書いている今、早暁の四時五七分,妻の脚痛に助言し助言してから二階の機械前へあがってきた。
*「酒は百薬の長」などと聴いてきた。秦の父は一滴も呑めない人だった。
私は中学生の頃にはもう「酒はうまいナ」と思えていた。だが、八八年久しい人生で、その酒に酔いつぶれた記憶は、三度あっても五度と無い。
いま、妻は、週一度の「生協の配達」で、四合瓶を「三,㈣本」買ってくれている。ほかに 人さまに一升瓶を頂戴することも,時に、ある。わたしが勝手に一升瓶や3L筺を買ってくることもあり、だが、量で謂えば、四合瓶を一日で空けることは、めったにしない、が、その気なら簡単に空けてしまう。
ま、「酒は百薬の長」と信仰し、「大酒はしない」と自身決めている。守っている。心身へ一種の「高揚」効果は、ほぼ正確に、在る。
2024 9/13
* 今も、ほぼ日常にひとり口をついて出る幼来の唄に、憶え違いなければだが、コレが、在る。
象さん 象さん お鼻が長いのね
ソーよ 母さんも長いのよ
ちょっと「母と子」の理路必然の對話とはきこえにくく、「象さん母子」のやりとりではあるまい、人の子の「母さん」の思いやりに、なにかしらわが子への諧謔、ユーモア、いとおしみが表れたのか。
ナニにしても、此の、まだ、幼かった「私」には、即座に「ソーよ 母さんも」と応じてくれる実の生みの「母さん」像が、身の周りに「実在して無い」のだった。それで此の唄は、要は「孤り」の「もらはれ子」の私には「苦が手」であった。
しかも、イヤ、だからか、今でも、オー、老耄の私は、しばしば「象さん」「象さん」と口ずさみ唄っている。
いわゆる流行歌は、わたくし、おぼえないし、唱わない、ごく稀にしか。
* いま階下でこの唄を妻がすぱっと当然に訓みとるのを「ホー」と納得して二階へ来たのに、その妻の訓みをもう忘れている。困るなあ。
2024 9/13
* 生きて行くのに、より強固な意欲と健康がぜひ必要になってきた。妻迪子の「存在と健勝」の大切も。どう老いても二人で生きたい,二人で死ぬまでは。
2024 9/14
* 病院では もっと栄養価を多めに補充せよと。たしかに、呑むよりは喰うが少なめになっている。日本酒は、すすめば 四合瓶ぐらい一日でカンタンに空になる。こうもお酒が美味いとは。
秦の父は一滴も呑めず、避けていたのになあ。「血縁」の無い「もらはれ子」と謂うのを、そんなときフッと「感触」していたとナと思い出す。
2024 9/16
* 此の、大きいめの目パソコンの書き入れ画面下には、亡き孫「(押村)やす香」の、此の戸外で撮った写真額を膝に載せて呉れた、お友達の伊藤「カオリン」さんと、老いて歯抜けで妙なトンネル帽の私と、真ん中に短い白髪の妻と、三人の背後に幕末の久保寛(飛路史)描く「大きな池底鯉」一尾を描いた掛軸の写真、もう一枚、京・新門前通り、舊の「秦家、私の育った古色も懐かしい」そのままの木造二階屋、手札大のそんな写真を並べ立てかけて在る。それをいつもいつも眼に入れて私、パソコンのキイをコツコツと圧しています。
2024 9/17
* 娘・朝日子 息子・建日子が。今のうち、父の遺すこれら「私語」に 目を留めていて呉れますように。
これ以外に遺す遺産は、創作、批評、エッセイ、日記・私語、そして狭い土地・家屋・書庫と書籍等のほかには、現金も証券類も ナーンにも呆れるほど「無い」からね。
2024 9/24
* 睡り浅く、夢も見ず、目覚めやすい。体調不安 頚まわり硬い。視力不安、讀書も負担。
こんな寝床では、大概、「幼来近所の遊び仲間から,学校時代の友だちを年度を追い、教室や運動場へ帰り、さらには就職して、作家と成って、と、当時当時、知友関心の名前を、なかば夢寐にさまよいながら拾って拾っている。心地、心持ちの安定に効果あり、またやの睡眠へと滑り落ちて行ける。
男女比は、女子・女性の方が圧倒的に數多いのは、育ちが京都、それも川東祇園花街に「至近」とも「その中」とも謂え、加えて、一つ家の中で茶の湯・いけ花を教えた「叔母つる(生け花・御幸遠州流・玉月)(茶の湯・裏千家・宗陽)の稽古場の華やぎからも、自然当然ではなかったか。私も新制中学三年の内に裏千家で茶名「宗遠」を許されていた。
あえて無茶ぶりで謂うなら、少年の昔むかしから段々に積み上げた感懐と理會は「男は嫌い・女ばか」と成る。この「嫌い・ばか」が占め持った「含蓄」は、ほとんど哲学を為し成しているだろうよ。記憶に在る男女友数々の苗字と名前を書き出してみるか、と、想っていたりする。自然当然に女名前が男のそれの十倍をらくに超して余るだろう。
寝そびれて、未だ真夜中四時の、色よい雑念・私語の刻、で、ござるよ。
2024 10/4