* 五つ六つのころ、新門前の家のくらい中の間で、母が針挿しを膝にひきつけ、つくろいものをしている。母にはりつくようにちいさなわたしは座って、独りごとを言うたり、母にお話をねだっている。祖父も叔母も二階にもうあがっていて、父は寄合いか何かでまだ帰ってこない。隣のまっくらい部屋で先にひとりで寝かされるのが、わたしはイヤだ。時計がチーンチーンと鳴る。「なぁおかあちゃん」「なんやいな」「おはなししてえな」「も、お寝やす」「いやや…」
そんなことを思い出している、今。
2007 1・9 64
☆ おやすみの前に 「も、お寝やす」「いやや…」今日の私語の最後のところ、とても素晴らしい繪になっています。なんでもないことをこういう風に書ける。読みながら溜息をついていました。 春
* 秦に嫁いできた母は、秦家の父や叔母や祖父とはすこし異なる「文化」をもっていまして、若い頃はときどき歌を歌ってくれましたが、ときにはヘンな、妙なのもまじりました。
おじいさん おじいさん
あなたの眼鏡でもの見ると
ものが大きくみえますね
そんならカステラ切るときは
眼鏡はずしてくださいな
ちょっとしたゴシップにも通じていて、谷崎先生の細君譲渡事件や松園さんのアンマリド・マザーであったのを幼かったわたしに話してくれたのも母でした。 湖
2007 1・10 64
* 「TVタックル」を聴いていても、情けないばかり。
* 郵便物の仲から「茶道の研究」二月号をとりあげ巻頭の茶碗の写真に一瞬声が出た。一瞥、魅された。観ると、当然だ、大きな窯割れ、金繕いがみごとな景色に化けた本阿弥光悦作、赤楽の「雪峰」ではないか、光悦茶碗でわたしの一二に好きな、まろやかな一碗。理屈も何もない、それも写真にすぎないのだが、ジーッと観ていると目頭が熱くなる。
安倍総理だの柳沢大臣だの桝添代議士だのという不快なモノを拭うように忘れた、残念ながらしばらくの間だが。
たった一度だけ、鷹峯の光悦会に叔母にくっついていき、茶席で、光悦の黒茶碗で一服戴いた。上気していたがお茶はおいしく、茶碗の器量は莫大であった。茶碗に負けていると思い、その思いを大事に思った。茶碗の銘をそのまま忘れた。銘という名前を通して大切なものが逆に忘れられてしまいそうなのを畏れた。
光悦寺。鷹峯。光悦会や洛趣会。懐かしい。
自転車に光悦籠と魔法瓶とを積み、新門前から鷹峯へ走って、入り口の竹筒に十円玉を落としてひっそと庭に入り、紙屋川の瀬音のきこえる山の斜面、数ある中の一つの茶室の板戸をあけ、畳に腰掛け、鷲と鷹とのまろやかな山容を「感じ」また「眺め」ながら、一服、二服のお茶を点てて喫んだ。嵯峨といい北山といい、ああいうことが高校生、大学生のわたしに出来た街であった、京都は。
妻とも行った。娘夕日子も連れて行った。
2007 2・5 65
* 血糖値86。 よく晴れている。
* 東京発、京都着までびっしり校正。
* 三時半から「京都美術文化賞」の選考會。清水九兵衛さんを欠いて淋しい。
梅原猛さん、石本正さん、三浦景生さん、それに新任の元京都近代美術館館長の内山武夫さんと五人で。
今回は日本画、洋画、染色から三人を選考した。わたしは、すこし年配ではあるが入江波光の子息酉一郎さんを推して、みなの賛同をえた。清水さんの後任にだれかを決めねばならず、梅原さんの意向に任せた。
* 会議のあと、かねて計画通りすぐタクシーで清水坂にむかった。三年坂のうえ、経書堂で下車、あいにくの雨におそれをなしてすぐ土産物店で傘を買ったが、すぐやんで、荷物になってしまった。
丹念に、なめるように界隈をさぐって写真をたくさんとった。清水寺の真下までいったが、本堂へは上がらなかった。
三年坂で、甘味がほしくなり、昔からある古い甘党の店でぜんざいと、おはぎ付きの抹茶を、おいしく。「糖尿病とちがいますかあ」と図星をさして呆れられた。
この店に、色遣いの懐かしいパステルの舞子繪があった。つるた・げんたろう。優しい小品。写真を撮らせて貰った。
「永年お店してましても、繪ぇ観てもの言うておくれやすお人て、ほんま、いやはらへんの」と女将は歎くが、三年坂、清水道に殺到している若い人たち、外国語の人たちをみていたら、そうやろな。
花にはまだ早いが、清水寺楼門前にも、興正寺参道にも、こころもち早咲きの桜を観てきた。とにもかくにも今度の京都はこの界隈で全部の時間を費やしてもいいと思っていたので、暮れて行く清水道をゆっくりゆっくり高台寺のほうへくだり、そこまで行かずに途中の辻を西へ折れ、旧竹内栖鳳宅の前へ抜け出ていった。ここも佳い路で。
そしてとっぷり暮れた人けない石塀小路へ入り、ただ通り過ぎる気でいたが、「サバティーニ」がひっそりと高級そうな店を出しているのみつけて、入る気になった。ピカソの署名入りリトグラフを階下にも二階の食堂にもふんだんに飾った、それだけでもご馳走の、行儀のいい店だった。シェリーと白ワインとで凝ったパスタもついたコース料理を、本を読みながらとっくりと堪能した。
正直の所、「銀座レカン」や「京都萬養軒」のフランス料理ほどはいかない単調な料理であったけれど、ひれ肉の炭火焼きがじつに食べやすく美味かった。赤ワインも欲しかったが、少し遠慮した。気持ちの良い店であった。
下河原へ出てみるとそこにはなじみの「浜作」があるのだし、なにより「美濃幸」のような料亭もある、此処で食べても良かったなあなどと贅沢を思いながら、ご神灯のあかあかとした八坂神社にお参りし、宵明かりの四条大通へ降りていった。
ちと思案して東山線からもとのすみかの新門前へ向かったのは、「mixi」で知り合った店が、我が家の筋向かい辺にあると知っていたから、だが、惜しくも店は開いてなかった。足裏もふくらはぎももう疲れて痛んでいたので、思いきってホテルまで車をつかった。部屋で缶ビールをのみながら、湯もつかわず、「K19」というハリソン・フォードの映画を一本観て、そのまま部屋の灯も消さずに寝入っていた。
2007 3・22 66
* 早起きして、菩提寺へ墓参に。大住職が脳梗塞を再発して、よろしくないと若い住職に聴いた。わたしとほぼ同い歳である、気が萎れた。
ゆっくり今出川通りを西へあるいて、同志社栄光館から構内をずうっと通り抜けていった。新年度前の春休みで、ひっそり閑。
「良心を全身に充満したる丈夫の地に来たらんことを」
校祖新島襄の碑に正門の内で真向かい、わたしの良心はどこに在るだろうと愕然とした。
* もう一度、昨日と同じ清水坂・経書堂の界隈をどうしても歩いて行きたかった。もう一度あの舞子の繪も観たかった。
* 新幹線ではまたも校正に没頭。それでも富士川をわたったあたりで、もう夕霞む富士ヶ峰の興趣ゆたかな繪のようなすがたを眺めた。カメラをむけたがあの霞んだ空も富士も映しきれなかった。
おかげで行き帰りに「湖の本」の再校は大幅にすすんだ。重い荷物だったが持って行ってよかった。京都で、花にはまだ早かったが花粉のわずらいなく、ひとり、静かに取材にまた飲食に堪能できたのはなによりだった。
行くつど、京の街や町がよく変わっているとは、お世辞にも言いにくい。それでも、こっちにその気と備えとがあれば、しっとり落ち着いた気分になれる。その気分にしてくれる独り歩きの場所はいくらでも在る。ありがたい。
* 学生の頃は、ひまがあれば今の妻と歩き回っていた。いまは独り歩きがいい。淋しいほどの気持ちでひとりでぽつぽつと歩いている、モノが肩先へよって来ればいいと思いながら。
2007 3・23 66
* 京の山焼きはどれも遠方から観られるので、「鳥居形」といえどもそこそこ大きい。むろん東山の「大文字」ほどではないし、「妙法」や「船」のように、譬えていわば字画はフクザツでない。そばまでいっても、季節により灌木などに埋められているし、間近すぎては形は容易に納得しづらい。食べ物屋の仲居さんの言うている、ほどよい「雪」の日には、不思議でもあるまい、鳥居形が、東山よりの高いところから遠望すると、時に綺麗に浮かび上がっている。
わたしの高校は九条の東、東福寺より高みの日吉ヶ丘に在った。真冬、寒気に全身をさらして校舎二階三階の西はずれに立つと、京の下京を遠く越えてそれらしくくっきり見えることがあった。いつもいつもではなかったが。
2007 3・24 66
* 瓢亭ちかくの「ホテル」のこと、あれは評判がわるい。
しかし歴史的に言うと、大きな寺社の門前や鳥居本には、昔からお色気の場所、遊郭がつきもので、祇園も上七軒もかつての島原も伏見も、似たようなもの。京にはその手の遺跡が、いたるところにある。南禅寺境内の出逢い茶屋風の建物には「禁令」がなんども出されていたが、あまり効果無く、その名残といえば謂えそうなあのようなホテルかと想うと、ときどきくすりと笑ってしまう。
今は遊び女がいるのでない、あそこへは、お色気びとが自前に夢を見ようと忍び込む。太古からの発想でいえば、明浄処なればこその性的祝祭の場と謂えなくもないから、わたしは憤慨まではしない、が、無いほうがいいのにと思う。
2007 3・24 66
(写真 祇園石段上より四条夜景)
* 昨夜に、おもいきり大きく入れた祇園八坂神社の西楼門からの四条大通りの夜景は、あれでせいぜい宵の七時過ぎくらい、いいタイミングで車や人影に無用な邪魔はされなかったが、あの大通りの電光のあかるさは、まだ街が生き生きと活気をもっている風情。
同じ刻限の町なか通りは、高台寺下も石塀小路も新門前も、比較にならない暗やみにもう沈んでいたが、四条通はさすがアフターファイヴの活気に満ちて見えた。
ただ四条の祇園界隈には、ばかげた高層ビルがなく、空の闇が広い。それもあの門からの視野をくらぐらと落ち着かせている。
あの大通りの左右、をそれぞれ裏に入れば、名高い祇園花街、甲部、乙部の二様の賑わいが、あの時刻なら人に溢れて写真の奥に隠れている。そんな殷賑をちっとも感じさせない「夜色四条の寂寞」もわたしには懐かしかった。
左手前の煌々とあかるい店が、昔は、瀟洒な洋館二階建て、フルーツの「八百文」だった。二階は洒落てレトロなパーラーだった。この店の真後ろに、わたしの通った京都市立弥栄中学がある。開校三回生、つまり戦後の新制中学として発足した事実上入学最初の一年生だった。
2007 4・1 67
* 「京都市東山区」の歴史をつぶさに文献で顧みている。古くから霊地、葬地、風光明媚、別荘地、大寺社支配、平家六波羅館、六波羅探題、大貴族支配、門前町繁華、遊郭、藝能発祥、寺社御用等の工藝・商業、散所の民等々。
同じ京都のなかでもひときわ異色の地区。南山城の父、東近江の母に生まれ、運命にさそわれて京都市東山区で育ち人と成った。この運命にわたしは感謝している。大気を呼吸するようにわたしは今でも「東山区」を呼吸している。三月末にこの「私語」にかかげた、祇園八坂神社西楼門からの四条通夜景は、そのままわたしの根の「心象」だ。
2007 4・5 67
* 今日はこういう一日、それでよし。すこしずつ生活が身軽くなってゆくようでありたい。
創作、執筆、「湖の本」百巻、ペン理事・委員、「美術京都」「京都美術文化賞」の監修と選者と。老境の仕事には有り余って十二分。仕事は軽くならないが、たぶん人間関係は実質を欠いて自然当然にはるかに淡泊・淡交に推移するにちがいない。
年々歳々四季の花にかわりないが、人はますますうつろい行くであろう、あたりまえである。それでよし。
祇園さんの西大門、石段上に腰をおろして晩景の四条大路の灯に見入っておれば、そこがわたし独りの「禅場」である。来る人は来てわたしの隣に黙ってすわるだろう。其処はなかばもう他界に接している。
2007 4・7 67
☆ 筍 泉
季節物、恒例の若竹煮、木の芽和え、筍ご飯の用意をしました。残念、まだ九州産しか出ていません。
京都西山、善峰(よしみね)さんの参道で、初物筍のお値段の高かったこと。
仕事休みの三日間、義弟が車のサービスをしてくれたので、存分に京の桜巡りが出来ました。
到着の日は、山科から、長閑な井手の里へ地蔵禅寺の枝垂れ桜を観に走り、夕刻、八幡の麓で背割り桜を観る頃は、寒くて首をすくめていました。
翌日、京都新聞の桜情報に、丹後山国の「常照皇寺」も満開て書いてると、弟が。たしかあそこは市内よりは二十日は遅い筈やと、首を傾げながらも、ばたばたと忙しくしていた妹と、確かめもせず、まあ、ドライブや、行ってみよか、と延々と走って山国へ。
咲いているワケがなく、奥深い山は、まだ微笑だにしていない。義弟とお寺の庭師さんとの、
「新聞に満開て書いたりましたで」
「新聞社は観にも来んと勝手に書かはんにゃわ」
なんてやり取りを聴いていましたが・・・心密かに読めてきたので、帰宅後、新聞で確かめると、満開は「嵯峨野の常寂光寺」でした。ジャジャーン
では、とそのまま西山の善峰さんへと走り、午後は天候に恵まれて、明るい京都盆地を手に取るように眺め、何本かの満開の枝垂れを観ました。
いつも混雑の嵐山は車で通り過ぎるだけですが、京都ならではの、虚空蔵さんの十三参りの子に沢山出会い、これはいい風情です。
亀山をバックの渡月橋の景色の佳さは、何度も観ているのに、「ええなあっ」て感嘆の声が出ます。少し離れた大覚寺が空いているのを知っていて、大沢の池を一めぐり、のんびりと散策です。
翌日、混まない内にと朝早やに醍醐寺へ。去年は晴天に映える最高の桜を観ているので、曇り空の今年はやや落ち着いて。
山科から大石内蔵助が伏見へ出るに使ったという狭い近道で七条に出て、第一目的の泉山(せんざん)へ。
あと何年、こうして京都へお墓参りに帰れるかな、と日吉ヶ丘の母校を眺めながら物想い。そして帰りはついでに、山科毘沙門さんへ。
車に乗らない一日は、蹴上からの散策。今回はインクラインにも登り、荒れたプール跡を見て弥栄中学の水泳大会を思い出し、岡崎から平安神宮、そして粟田坂下、三条角の「お福」で美味しいおうどんを食べるのも、目的。
青連院への道を選ばず、白川筋から光秀首塚に頭を下げて、古門前の坂を登って、知恩院へ。
円山公園、左阿彌の辺りでゆっくりと休んで、祇園、辰巳橋を抜けるのも、いつも通り。
四条から三条までは賀茂川べりの遊歩道を。そして宿近く、山科からは疎水端の桜を観ながらの桜ずくしでした。
筍ご飯が炊けたようで。オヤカマッサンドシタ。
* どこもかしこも、自分の眼で景色が、花の風情が偲べる。
* いつのまにか日付が変わっている。
2007 4・8 67
* もったいないミスチャンスを平気で繰り返している東京近郊のわたしたち。昴の、「いいな」に胸衝かれる。
「京の昼寝」という物言いがあった、今は言わないが。「東京の昼寝」はありそうだ。 昔は、京都の者が昼寝しながらでも身につけたものを、地方の人は不自由に勉学しなければならなかった。美術も文藝も、やはり優れた作品に触れることが、その後に大きい。それと、今ひとつ、ものの生まれ出てくる風土の実感が体験として大きい。物の色、物の音、ことば、山紫水明、空の色、風の声。そういうものが役に立った。
いま東京の者が東京のそれを活かしているか、何とも言い難い。 2007 5・5 68
* 今日は京都で「美術文化賞」授賞式と役員会。出かけたかったが、出欠の返事期限当時は、脚の痛み強く、鞄を提げて旅は無理と判断し、欠席通知しておいた。
幸い今日現在、脚はよほどラクになっているが、右膝下の腫れは、重苦しく退かない。歩行はもうほぼ普通に出来るが、ふくらはぎは、左が搗きたての餅のようだとすると、右は、木の幹のように固い。
2007 6・8 69
* 夜前、ふと妻と、ひばりの『東京キッド』を観た。ひばり十二歳当時の映画で、わたしが最初の最後に祇園白川、吉井勇の歌碑のまえで「黒いちっちゃい雀みたいなヤツ」と出逢った頃だろう。
作中、余裕綽々しかも素直な発声で、やわらかに幾つものうまい歌を聴かせる。驚嘆のほかないが、特別出演していたエノケンの「藝」にも感心した。なるほどこれはたいした「藝」だと、二人してたっぷり笑った。こういうコメディ映画では有名な監督だった、斎藤寅次郎とかいったか、幾昔もの映画づくりの手際を興深く見せてもらった。
アチャコの藝には惹かれなかったが、妻が、藤山寛美の「藝」へあれが導いたかもという感想には頷いた。
映画はわたしの新制中学二年から三年生へのころに制作されていた、昭和二十五年。わたしはひばりに奇妙な「初恋」を覚えながら、人を慕い、与謝野晶子の源氏物語、谷崎潤一郎の新聞連載『少将滋幹の母』を読み、はじめて「襲撃」という小説を書いて先生に見せたら、目の前で破られてしまった。
中学の教員室が、一団の父兄たちに襲撃された光景を、校舎内から目前に見ていて書いた。祇園甲部の郭をひかえた運動場南の塀を、続々と半裸の男たちは乗り越え乗り越えて職員室に殺到した。大事に至る前に先生方は収束されたらしいが、どんな話し合いがあったかまでは知らない。
2007 6・17 69
☆ 疏水沿いの散策 瑛 川崎市
京の五条大橋から鴨川の土手を歩いて、岡崎へ。琵琶湖疏水の豊富な躍動の流れを岡崎の仁王門通りで見る。ここまでは朝の通勤時間、通学時間滞の人の流れ流れをさおさしながら、五条大橋から一時間の足。疏水と、緑陰の近代美術館と、能楽堂の観世会館を見たかった。最近はやりのガラス建築に対峙する、古いが重厚な京都市美術館の姿も確認する。
京都の岡崎は「文化ゾーン」といわれている。湖さんの日記で星野画廊と秦テルヲの回顧展が取り上げられたことがあるが、星野画廊にも寄ってみたい。画廊はここからそう遠くはないだろう。
平安神宮の丹(に)色を左にして、東は朝の山気日佳の懐が大きい。
この地の、昔からの見聞は心の「積分」となり、今の見聞は「微分」でありましょうか。ターレスの言葉かも知れないと思いながら、哲学の道へ歩いて行きました。過去の多くの先人、先人を慕った同僚や後輩が、京都というこの地を歩いていると目に浮かびます。かたい口調の日記でありますが。読んでください。
* あの平安神宮の丹朱の大鳥居のまえ、疏水に架かったあかい橋。あの橋が、新制中学の頃のわたしたちの飛び込み台でした。真下の深い早い疏水へとびこんで游いでいました、水泳パンツでなく、褌でした。
危険な水泳で、ときどきあの疏水では事故がおきました。
あの橋をわたり、三条通へまっすぐ広道を戻って行き、三条へ出るすぐ手前の東側に「星野画廊」があります。ちいさな画廊ですが、この画廊の内懐は深く厚く、おどろくべき収集文化財でつまっています。機会があれば立ち寄って下さい。
此処で、気に入ったのを三点買っています。その一つが秦テルオのしんしんと降り積んだ雪景色でした。京の出町、我が家の菩提寺が描きこまれています。
能楽堂のまぢか、疏水から白川が南へ流れ出て町屋のなかを流れている辺、とても風情があります。あの岡崎一帯に壮大に六勝寺が建ちならんで栄華を誇った白河法皇時代の、その白川の顔が、三条通へ出るまで、昔ながらに見られます。ちょっとした秘処です。 湖
2007 7・12 70
* 少年の頃京都市内に暮らしていて、梅雨といえば六月のこと、七月には梅雨はあがって十六七日の祇園会には、降っても夕立と思っていた。事実、御輿の渡御の真っ最中にとほうもない夕立が来ていっそ爽快であったのを思い出す。
ことしは、西の方に不幸な大雨が来ていたが、東京では梅雨らしい日々をあまり感じないまま、もう七月中旬になっている。まだこれから梅雨がつづくといいたげな塩梅だ。
2007 7・13 70
* 建日子の愛猫のかわりに、「mixi」に、京の美妓の写真を借用した。今年は脚の痛さに京都行きを遠慮したが、毎年のように美術財団の理事会後の宴会に、年々に祇園や先斗町や上七軒などのきれいな人たちが交替で接待してくれる。鴨川西石垣(さいせき)の料亭「ちもと」で撮っている。髪型や着物からも舞子ではないが、若い。美しい。梅原猛さんも、亡くなった清水九兵衛さんもご機嫌の笑顔をのこされている。
2007 7・22 70
* 「原子爆弾」の報じられた日を、或いは報じられた新聞に目を当てたときを、朧ろに覚えている。言葉での内容よりも、胸で受けた衝撃を覚えている。ふつうの爆弾とどうちがう爆弾なのだろうと思い乱れた感覚がいまものこっている。
丹波の山間に疎開していた。国民学校は夏休みだった。
田舎の春や秋があまり印象に無い。ひたすらに照って暑い暑い真夏、雪に埋められて身動きできない真冬。雪よりは、黄金色に照りつける澄んだ太陽光の真夏をわたしは好んだ。蝉が鳴きしきった。夜には蛙の、闇をおおう分厚い布のような大合唱。黒い山がせばめた細い天の奥で、星がまたたいた。
2007 8・7 71
* 緑につつまれた家の、正しくは家の「前景」の写真(割愛)は、人に頂戴したもので、記憶にあやまりがなければ、京都市内西院辺の産院で生まれてのち、いつの頃からか、もう二つか三つか、四つ前のころか、父方祖父母にひきとられていた、南山城の、実父生家である。
自伝『丹波』につぐ『もらひ子』(時期的には『丹波』に先立ち、さらに三冊目に『早春』があり、『客愁』三部作を成している。)の冒頭辺に出てくる、大庄屋を務めた代々の屋敷。 廃仏毀釈のむかしには危機に見舞われた村内の浄瑠璃寺などを、曾祖父の頃か、身を以て守ったと聞いている。
* わたしの人生で、かすかに記憶ののこった、此処が原点。四つか、五つになっていたか、この畑道を、秦の養母に手をひかれ、京都へ預けられ、貰われ、そして大学院を一年ですてて妻と東京へ。やがて西東京へ。以来妻とずうっと暮らしてきた。
後年、『蘇我殿幻想』を「ミセス」に連載していたときにも、カメラマンたちと一度訪れたが、その少し前、生母の数奇な人生のために書き下ろしていた『生きたかりしに』の途中に、ひとり、何十年ぶりかに此の家を訪れ、叔父夫妻にも、また加茂で叔母にも会った。初対面に等しかった。
その前後に、わたしは、異父姉兄三人や、実父と異母妹二人や、実兄北澤恒彦やその子たちや、各地の親族をとぼとぼと訪ね回って会っている。いずれも初対面か、それに同じだった。一人ッ子のはずが、一時に多くの血縁につながれて愕いた。
この静かな静かな一葉の、何と謂うのだろう「長屋門」とでも謂えば当たっているのか特徴のはっきりした「家屋敷」の写真をみていて、久しく息苦しかったおもいは実にきれいにみんな流れ去っていることを、こころから嬉しく思う。なつかしく思う。
* わたしは自身の墓についてなにもアテはしていないが、定まった墓よりも、何ヶ所か散骨してほしいと切に願う場所はもっている。
当尾の里、みごもりの湖、新門前狸橋の白川、弥栄中学校庭、泉涌寺来迎院の門前渓流、黒谷墓地の三重塔、鞍馬火祭りの門前、さらに新宿河田町元みすず荘近く、そして今の家のネコやノコの墓と一緒に。
2007 8・31 71
* 京都行きが決まり、その用意も必要。美術骨董という世界を老会長に聴いてくる。
2007 9・4 72
* こんなのが読めて、気が和む。
☆ 吉井勇 純
小さな子どもが川で遊ぶのを眺めていて、ふと思い出したのです。
枕の下を川が流れていて、その音がするのだ…
寝ている間にも。。
小説だったかしらん。
博覧強記の先輩が 吉井勇だよと指摘して下さいました。
かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕のしたを 水の流れる
あっ、そうだった、と思って少し恥ずかしく思いました。
夏の思い出です。
* 流るる だろうかと思います。でも、「寝るNERU」との響きあいでは「流れるRERU」が正しくも思えます。文語歌にあえて口語をまじえ、歌人であった国語の先生に、その方がいいといわれたこともあります。けれど「寝るNURU}「流るるRURU」が作者の正しい音楽のようです、やはり。
この歌碑の据えてある祇園白川から、小走りに一分ほどの新門前通りで育ちました。
歌碑のこの位置で、(まだ歌碑は今のように出来てなかったけれど、)戦後の新制中学に入ったばかりのわたしは、ロケーションに来ていた美空ひばりを、手の届く間近で「見」ました。「ちっこい、黒い、雀みたいなやっちゃなあ」と思い、それは、ほとんど初恋でした。
あの白川は、むろん戦争前は両岸に茶屋がひしとならび、川面は、辰巳橋の上に立たぬ限り見えませんでした。橋をわたって母と祇園の銭湯に通いました。松湯、鷺湯。女湯には、出勤前の舞子さんが大きな髪の頭を、ぷかぷか浮かべていました。脱衣場には芸子舞子の名を紅く染めた団扇がいっぱいかかっていて、それでヒラガナなど覚えました。
お元気で。 また、おしゃべりしてしまいました。 湖
2007 9・6 72
* 京都南山城古寺探訪と題してある略地図には、一休寺(酬恩庵)、法泉寺、観音寺(大御堂)、蟹満寺、神童寺、海住山寺、禅定寺、山城国分寺(恭仁宮跡)、現光寺、笠置寺、岩船寺、浄瑠璃寺(九体寺)の名が上がって写真も。木津川は東から西へ流れ、もののみごとに木津で眞北へ折れて北流している。川の東に沿ってJR奈良線が、川の西に沿って縒り合うように近鉄奈良線とJR学研都市線が走っている。
* その近鉄山田川駅に、国民学校一年生の折の吉村ひさの?先生が住まわれていて、何の用でか、その学年を終えた春休みに、秦の父につれられ、はるばる山田川まで先生宅を訪れた記憶がある。大人の話にすっかり退屈していたが、帰り際、先生は私に「古事記」を訓み下した古本を下さった。日本の神話にどっぷりつかった最初で、あの春休み中に、同じ本をわたしは何度も何度も何度も繰り返し読み、ほとんど暗誦した。二年生になり、わたしは日本神話を、先生に命じられ教壇にあがって「話す」役を、何度もつとめた。泣き虫のダメ一年生が、元気に立った転機であった。
2007 9・8 72
* 明日京都へ向かい、三時から対談してくる。その用意に今からかかる。
一泊して、心落ち着かぬまま、展覧会を一つ観て、なにか美味いものを昼に食べて、蜻蛉返しに帰ってくる。
2007 9・12 72
* ホテルに戻り、しばらく休憩してから、夕食には洋食。赤のグラスワイン。メインはひれ肉。ソースと、添えた野菜の料理が斬新にうまく、食べきるのが惜しいほど。前菜もスープもパンも、デザートも。時間を十分掛け、グリーンを読みながら、落ち着いた。ひとりは寂しいようで、最高に落ち着く。身の回りの空気にすっぽり穴ごもりする心地。あと、どこかへ出かけ、それ以上呑む気は、全くなし。
部屋で、テレビを観ながら、縄手の交番東で買ってきた美味い「餡しら玉」を、ひとり心ゆくまで食べきった。そして、映画も観ず、本も読まず、妻に電話だけ掛けて、すぐ眠った。眠たかった。
* 妻との電話で、妻の受け取った胸をうつ或るメールのことを聴き、わたしは、電話の途中から、あと一人になってからも、泣いた。
生前の孫・やす香のために、わたしは、恰好の細長い綺麗な袋に、五百円玉が手元に来るつど容れて溜めていた。保谷に来てくれるようになった或るいい機会に、わたしたちはやす香にそれをやったのである。数万円を超していたが、そんな金額のことでなく、やす香はよっぽど嬉しかったと見え、何度も何度も友達にその話をし、嬉しさを胸いっぱいに大切にし隠さなかったという。
こういう、わたしたちを泣かせるいい声が、声々が伝わってくる。なんという、ありがたさ。
そしていまわたしたちの置かれている苦境もよく知っていて、慰めの声が、励ましの声が、まるで、やす香自身の声かのように伝わってくる。
なんという嬉しさ、ちからづよさ。
2007 9・13 72
* オークラ京都ホテルで目覚め、入浴。朝飯は摂らず。水分と目薬と、インシュリン。
* 雲行きはかなり怪しかった。降られるか。
まっすぐ菩提寺へ。墓参。若住職とほんのすこし話し、加茂大橋の東詰から平安神宮へ。
* 九時半開場の展覧会には三十分の間があり、渓流橋の上から、深いところで藻の流れている疏水をしばらくのぞき込んでいた。橋下の水べりに、作り物のように細い鷺が一羽、凝然と佇立、滅多なことでみじろぎもしない。しんぼうよく観ていて、むろん生きた鳥であるのを確かめてから、神宮道を、三条までゆっくり往復。東山から西向きに伏流、たぶん白川に流れ入る幅三尺とない小溝川に目をとめたり、家のあわいから真西へ奥深くきれこんだ迷路のような抜け路地を見つけたり。
鳥居下の疏水まで戻ると、まだ鷺は同じ場所に佇ち尽くしていた。
* 国立京都近代美術館の『麻田浩展』に。
* おそろしい画境であった。
此の世界を、ちょうど一皮引っぺがした「向こうの世界」を画家は凝視しているのだが、凄惨というしかない。一切の物音を惨殺した地獄の静寂。人間は殆ど存在しないが、たとえば乱雑に崩れてデコボコの敷石の下に人の手足などが圧し潰されていたり、影とも灰ともなく文字の意味通りに頽廃した残骸のようであったり、それすらめったに見えず、あらゆる世界が荒廃のなかに死の静寂を「モノ」のように存在させている。
乾いてはいない、苦悩の泪のように浅田浩は美しい露をいろいろに置き、また「状況」のなかに多くの円い小窓をあけてさらに遠い光景や風景を描いている。
麻田浩の作品をたまたま一つ二つだけ観ていては、こんな怖ろしい真相は分からない。しかし、このように、悲劇の終焉までに積み上げられた沢山な見事な画業をつぶさに観て行けば、顔を覆って、「ああ、麻田さん‥」と声がつまる。こんな世界を見続け、その表現に没頭しているという画境涯は、誰も謂うまいが、これではもしわたしなら発狂しない方がふしぎだ。そこに凄惨の美はあるが、絶対に画家の魂の健康な救済はあり得ない。「ああ、お気の毒に」とわたしはほとんど震えながら、繰り返し会場を歩んで圧倒され、悲哀の思いに堪えがたかった。
* おそらく『麻田浩論』は、まだ、だれもまともに真っ向から書けていないだろう。書くに忍びがたく、深い悲しみに圧しひしがれてしまう。こんな厳しい、こんな美しい、こんな辛い「地獄変」をわたしは観たことがないのである。
あの「秦テルオ」にはもののみごとに実在した「救われ」が、麻田さんの刻々と死へ時を刻んでいた遺作の数々には、無いのである。
しかも繪は見事というしかない。ああ、どうすればいいのか、わたしは‥‥。
* 上の階で観てきた麻田辨自、麻田鷹思その他の作は目にも入らなかった。
* 三度めにみた渓流橋の上から、もう鷺は見えなかった。あれは麻田浩がわたしを出迎えに来ていたのか。
* いつのまにかかんかん照りの神宮道を、またゆっくり三条通りへもどりながら、菓舗「平安殿」で看板の平安殿を二つ買い、少し先の喫茶店でやすみながら、店のオバサンにことわって食べた。甘いモノがとても欲しかった。インシュリンも打った。
星野画廊でまた繪を観るのはつらく、立ち寄らずに、向かいの店で、妻のみやげに、縮緬生地のはんなり佳い柄のブラウスを一枚買った。以前にも買った店だ。
とかく胸の騒ぐのを、わたしは自身をだましだまし宥めるようにゆっくり歩いて、地下鉄で荷物を預けてきたホテルにもどり、すぐその足で京都駅へむかった。まだ十一時半にならなかったが、もう京都にはいたくなかった、或る意味で十分満たされていた。それ以上は独りではシンドかった。
大きめの缶ビールを買って十一時四十六分発に飛び乗り、A席に入った。京都はぎらぎら照っていた。汗みづく。世界史よりも、グレアム・グリーンに惹かれて一時間半ほど読み、その間に社内売りの穴子弁当を食べた。目が疲れると、いつかうとうとと寝入って、新横浜の手前で目が覚めた。
東京駅からも一路家路を急いだ。東京もぎらぎらと照っていた。
2007 9・14 72
* 市ヶ谷河田町。東京へ来て、六畳一間の新婚生活をはじめた町。となりが牛込だった。牛込という地名だけは京都にいた頃から頭にあった。都電の駅に牛込とか神楽坂とかあって不思議なほど親しめた。
女子医大の看護短大に学んだという人からメールをもらうようになり、しきりに河田町十二番地みすず荘の昔をよく思い出す。ここから六十年安保の国会デモにも通い、ここで夕日子が生まれ、肌を接するほど直ぐ近くに東京女子医大があり、フジテレビがあった。三島由紀夫の自決した旧陸軍省も、国立東京第一病院も近かった。
牛込北町へ坂を下りて行く途中には古いちいさな映画館もあり『おはよう』『秋刀魚の味』などを妻と観た。
あのころは乗り物賃を出せなかったから、ひたすら歩いた。歩いて身にしむようないい場所は近くになかった。それが京都懐かしさになり、それが小説へわたしを追い立てていたかも知れない。秦さんの書く京都は、ふかふかの絨毯をふむように足下が豊かに深いと筑摩の編集者が言ってくれたことがある。必ずしもホメタとは限らないが、宝のように保存してきた京都を書いているという自覚は、いつももっていた。
2007 11・4 74
*井上真央と謂ったろうか、若いよく知らない女優が、祇園の峰子を主演した特別版らしいドラマ『花いくさ』を、録画しておいて観た。祇園甲部の物語である。
わたしの通った祇園石段下の戦後新制中学は、昭和二十三年三月までは小学校で、そこに祇園甲部乙部の子女が通っていた。同じ年の春から新制中学になり、その他市部からの子女も通うようになった。わたしはその年の新一年生だった。
同じ市部でも、わたしのように、いわゆる祇園町(ぎおんまち)へは、背中合わせに家のワキの抜け路地一本で通れた者もいれば、山科に近いあたりから祇園石段下の学校まで通ってくる子もいた。ドラマは、ヒロイン学校生活などきれいに抜いて、徹して祇園甲部の内情だけを描いていた。
テレビ映画として上出来の演出とも脚本とも私は思わなかったにもかかわらず、印象的な幾つもの場面を介して、私の胸をなんどかクッとつまらせたことも白状しよう。たとえばヒロインが地唄の「黒髪」を舞いはじめた出だしの唄声と三味線を聴いて、わたしは落涙した。名曲の誉れ高い「黒髪」であり、ほんまものであったから、またほんまものが相応の舞台装置の中で出たから感激したのだろう。井上真央の舞におどろいたわけではない、が、地方を努めていた老妓(失礼!)名取裕子の三味線を構えた姿にも惹かれた。だいたいこのきゃんきゃんした女優はそう好みでないのだが、このドラマでは扇の要役にいて、じつに佳い味わいで人のよさと賢さとを演じ、第一等の出来、五来監督の映画で花魁を演じていらいの好演だった。すこし点をひくとすれば、京ことばができない。置屋「岩崎」のお母さんの白川由美なみにみな話してくれないと困る。ヒロインも、重いワキたちも、京ことばのひどさで興をそぐこと甚だしかった。山村紅葉などにせめて終始付き添わせて、教えればいいのに、ちょっとオレに声をかけてくれたら祇園の言葉なら完璧に教えてやるのにと、いらいらした。
それでも名取裕子、井上真央は懸命に演じて、何度か感動させた。
歴史的な映画監督たちの歴史的な祇園ものの名画、廓ものの名画を見知った眼には、映画としては二級であったが、もう一度チャンスをやりたい気がした。名取の大人しいねえさん藝妓を、もう一度みたいと思う。
とにもかくにも京都を舞台にするのはまだしも、それなら、京ことばの徹底的な習得を義務づけて配役して貰いたい。
祇園て、「ほんまにあんなんか」と聞かれる。そういうことに、わたしは答えない。
わたしは祇園町と背中合わせに暮らし、お座敷前の舞子や藝妓たちと、同じ廓うちの銭湯の湯につかっていたような子供だったけれど、それだけにあの街で遊んでみたいとは、ゆめ思わないできた。
同じ祇園といいながら、甲部があり乙部があるという、それだけで、本質的に親しめない世界であったから。
井上真央の演じたようないわば「甲ぶりッ子」は、廓に縁のないわたしのようなヤボな少年からは、かなり「ケッタイ」な存在であった。
藝は抜群と聞いていたのに、敢然甲部を脱出し、高校に入り大学に入り先生になっていった若い後輩を、一人、わたしは記憶している。「そう決めました。賛成して下さい」と謂われた。中学の茶道部にその子はいて、大学生だったわたしは母校に茶の湯を教えに行っていた。
2007 11・25 74
☆ 寒くなりました 藤
秦恒平様 急に寒くなり身も心もびっくり致しました。湖の本『梁塵秘抄』有り難く受け取りました。
秦様が身をけずるようにして作って下さって居る本なのに、それを十分に読みこなす力のない自分が申し訳なくて—ぱらぱらとページをめくっております。
祇園のドラマ珍しく夫と共に”熱心に”見ました。
京ことばが下手やしいらいらするわ、といちいちケチをつけ、踊りが下手や、着物に変なシワがある、とかと文句をつけ、そのくせやっぱり懐かしい京都、祇園界隈——-夫婦そろってがやがやとテレビを見ている今を幸せに思いました。
松本清張の「点と線」も見ました。
夫は出張の車中でよく清張の推理小説を読むようですが、私は秦様同様に登場人物がみんな”哀しい人”すぎて後味がつらくて
余り読みません。私の好みは哀しいのにどこかおかしい人たち。
昭和30年代が丁寧に再現されていてこちらも又懐かしかったけれど、「結核で療養している佳人」とか「夜行列車で20時間近くもかけての旅」とか今の視聴者には実感が伴わないでしょうねえ。
一つ違和感があったのは、「安田」がうなぎを食べる前に使ったおしぼりタオル。あの頃はあのような青緑の格子の入ったおしぼりはなかったと思う。白とか、白で端だけが薄青とかでないと—–
テレビ見て文句ばかりつけて、いやな婆さんになったなあって自己嫌悪(もうすぐ私も70才です)。
いろいろ、つぎつぎ、お身体の不調があるようで心配しています。
お大事になさって下さいませ。 2007/11/27
☆ 京の地元もの 泉
孫が幼稚園でもらってきた風邪(流感ではなく)のおこぼれを貰い、熱が出なかったせいか長引き、中耳炎になり、今治療中。従いまして私は片眼でなく片耳で過ごしています。
「点と線」「球形の荒野」は松本清張の小説ではのめり込ませた二作です。
初テレビドラマ化の「点と線」は、ベテラン脚本家竹山洋の腕前と云いたい、いいテレビドラマであった、と。これもビデオ撮りしてのめり込みました。
京都物は、悲しい性で、つい方言のイントネーションのあら探しをしてしまう。
峰子さんのドラマは、確か東京育ちの筈の白川由美と、あのいけず役の戸田菜穂は完璧でした。
祇園甲部の舞妓さんが、例えオフでも白川行者橋を散策している場面は違和感があります。
以前に観たテレビ小説で、洛中の商家を一歩出るや、次の瞬間には南禅寺の水路閣を散歩しているなんて、なんやこれは、と距離感のつかめている者は白けてしまいます。
な~んて、いやな婆さんやなア やれやれ
* 期せずして故郷も互いに接近した、老主婦さんたちの感想。
「藤」さんのご亭主はわたしの同級生だが、彼と「泉」さんとわたしとが、話題になっている白川行者橋、楊並木の白川に架かった何本かの御影石でできた細い橋、まで行こうとしたら、ま、早足三分で三人の顔が合う。そして祇園の舞子、藝妓たちにしても普段着でなら直ぐそばの古川町へ買い物に来るのに散歩の範囲なのだから、べつだん可笑しくない距離だけれども、祇園の女の姿のままあの白川沿いを歩くなどということは、感覚的に、どんなに距離は近かろうとも、まず、決してない。ありえないと地元のモノは知っている。だがまあ、そこが映画なのである。あの美しい景色を取り込まない手はない。なにしろあの辺は、マーロン・ブランドが日本へ来て、いちばん印象的だったと漏らしたところだ、あのマーロン・ブランドの表敬には、いっそ地元のモノがびっくりしたもんだ、なんやね、あんなとこがええのかな、と。それほど馴れて、肌身に馴染んだ景色だ。
* みなみなそろって、e-OLDs。インターネットがなかったら、こんな感想がただ交わされるだけでなくこう公開されることもない。居丈高に、こういう交流は対話でも会話でもないと怒る人もいるし、わたしも信じすぎないでいる方だが、なかなかどうして、電子の杖は、健康で真面目な老境を励ましているのである。
藤さんも泉さんも、上の文章を、わざわざ手紙で書いて切手を貼って私に送ってくれるだろうか、それは考えられない。メールにはメールの利もあることに素直であっていいのである、もはや今日。悪用する人を警戒することだけ覚えていた方がいい。
2007 11・27 74
* 喜多流の塩津哲生さんから、師走と正月との喜多能楽堂の招待券を頂戴した。一月の「翁」にぜひ出逢いたかった。ちかごろ、梅若は正月に限って満席になり「翁」に出逢えなかった。塩津さんのご厚意に、こころから感謝申し上げる。師走の「道明寺」も楽しませていただく。
喜多では、友枝昭世とならんで、塩津哲生、香川靖嗣というもう二人に、四半世紀も注目して、たいていの場合、期待を裏切られることがなかった。ふとしたことから、メールもつながるようになり、ひとしお身近に感じてきた。友枝昭世、塩津哲生、また梅若萬三郎、また宝生流で久しい読者でもある東川光夫さんも、来年から能に誘ってくださるという。能にふれる機会がまだ幾らか残っているのをわたしは喜んでいる。
2007 12・5 75