* 「まったり」という形容が若い人たちにつかわれているらしい。
幾昔かまえは「まったり」は「はんなり」以上に理解されていなかった。いまは、どうなのだろう。
「はんなり」は、「花あり」または「花なり」の語源で、わる口のじつに達者な京ことばの使い手のなかでも、希に見る純真な褒め言葉だろうと思って、早くから小説につかい、講演や読書会では盛んに質問された。『京と、はんなり』という本を書いて以降、類似題の本がつぎつぎに出たのを覚えている。
しかし「まったり」は、意味するところ、つかいみちは承知しているが、「はんなり」とはやや筋のちがった批評語で、裏千家に学んだわたしたちは、主としてお茶のいかにもよく点った感じに用いてきた。どちらかというと、味覚にちかづけて用いていた。悪口ではない、むしろ感触のよろしさを褒めていた。
上の「昴」の文によれば、安息してゆっくりした気持ちで「汽車を待って」いる「気分」を表現しているようで、最近耳にする用例は、これに近いのかなあとふと思う。
2008 1・14 76
* 新しい「湖の本」の初校が、出そろった。また仕事に追いかけられる時期が来た。この寒い日々、先に、春よ来いよと願う。
三月は、早々に「憲法」について、集会へ出て話さねばならない。わたしのことだ、まともに憲法の話せるワケがない。ないならないで、少しは問題提起ができるといいが。
次いで、京都美術文化賞の選考で、そろそろ呼び出しのかかる季節になっている。二十余年。六人の選者の、一人が病気で退任され、一人が亡くなられた。一人補充されて五人になっているが、今度もう一人が補充されるのではないか。
2008 2・19 77
* 京の菩提寺から春季彼岸会の案内が来ている。お寺と相談したいこともあるが、葉書やファクシミリでは億劫になる。この時代だ、出来ないなら仕方ないが出来るのなら「電子」寺になって頂きたい。それなら住職とも宗論はおそれいるが日ごろの不審なども確かめたいと思う。
2008 2・25 77
* 「湖の本」新刊の初校を終えた。これからが気ぜわしくなる。
「美術京都」対談の方も、ほぼ仕上がった。高齢の対談者だった、予定した社長でなく会長が出てみえて、うまく応答を引き出せなくて困惑した。仕方がないので、質問や独語のかたちで問題点を付け加えて、それだけは伝えようと手入れした。先方で、若い人たちがその問題提起に少しずつ応じ書きくわえてくれて、サマになった。よくなった。これも上がり。
憲法のはなしは、雑誌の方でも運動体の方ででも、活字にするというので、原稿を渡した。これも終わり。
やがて美術賞選考会の通知が来るだろう。明日は、また糖尿病の定期検診。出かける日のお天気がいいと気も晴れるが。
三月四月五月、春はいろいろある。色々の中には、昨年八月以来の「仮処分審尋」がいまだに続いていて、成り行きが、見えているとも見えてこないとも。ペン会員牧野二郎さんの法律事務所にお任せしてある。
2008 3・5 78
* くわしい記憶や感想がうまく再現できないけれど、一昔にもなろうか、下鴨の河合神社の前庭に、方丈記の「方丈」そのものの忠実(そうな)復元家屋が設置されていて、たちすくむほどの感銘を受けた。解体して運搬や収容のきく造りであったのは原作のとおり。はたして自分が此処に暮らせるだろえかとは厳密に自問自答に及ばなかったけれど、作者長明の境涯は、風立つように肌身に感じられて、さよう、感動というしかない感慨のままわたしは立ちつくした。日をかえてもう一度観に出かけた気がする。
わたしは、生まれてこの方、広い部屋に暮らしたことがない。いちばん広くて戦時中に丹波の農家で借りて住んだ「隠居」の八畳間。隠居は八畳と長三畳との二間だった。水屋がつくりつけてあったと思う。
「わが家」と名の付く家では、京都では四畳半、東京ではいまも六畳間。この分だと、たぶん広い部屋には縁なしに死んでゆくだろう。もっと広くいたいと願う気、むろん、有る。その一方で、『方丈記』の方丈や、小間の茶席に憧れる思いもウソではない。
しかし住処をわが「抱き柱」にするのはよしたい。温かければ、涼しければ、ありがたい。
2008 3・13 78
* さあホンモノかどうか、わたしは、松花堂書と「極め」の付いた「蝸殻」と大きな二字横書きの軸を持っている。隷書。字は隷の得手であった松花堂でもいいが、そばに添えた拙劣な不釣り合いに小さい署名は、後生の愚行としか思われない。二大字はあきらかに時代の汚れが洗ってある。ま、道具屋のまともな売り物にはならないが、二字はみごとに柄大きく丈高く、わたしは叔母にぜひ買っておけばと奨めた。まだ大学生だったろう。
叔母がいかほどを懇意の道具屋に支払ったかは知らない。カタツムリの殻ほどの部屋で生涯過ごすさだめを自ら買い込んだようなものかと、後々も苦笑されたが、その大軸も大隷も、気に入っている。六畳の壁に掛けると威風あたりを祓うのである。ホンモノでなくてもキズモノでも、構わない。
2008 3・13 78
* お母さん先生は忙しい。
わたしも、波のひたひたという感じで忙しくなってきた。十八日には、また歯医者、そして近用専用の眼鏡を受け取りに青山へ。太左衛さんお招きの「偲ぶ会」も、目前の楽しみ。そしてすぐ、「美術文化賞」の選考のために京都へ行く。往き帰りの切符も予め。
連日、湖の本新刊の発送のためにも、いろいろ。からだを動かすのはいいこと。
2008 3・15 78
* あす京都美術文化賞の選考会があり、帰洛。今日の内に京都に入れれば、明日の会に遅参しなくて済む。天気は向こうで下り坂とか。傘の分、荷が重い。花粉も感じている。
少し本を読んでから出かける。
2008 3・27 78
* 品川の方へ妹と一緒に石原叔母を見舞うという迪子と一緒に出て、東京駅で別れた。
車中、「湖の本」の校正に精を出す。好天、ぼうっと視線を窓外に放っても富士山は見えず、もうもうと白煙を上げている煙突がたくさん見えた。
宿にはいって、さて何処へ出かけようという気もなく、高校野球を観、そのうち福田総理が記者会見をするというので聴いてみた、が、より具体的な約束事というにはアイマイな手前勝手が見え透いていて、鼻白んだ。なんじゃこれはというアホらしさ。そのうち、おやおや此は息子君のテレビドラマの再放送じゃないのかと、久しぶりに篠原涼子の「ばかか、お前」を聴いてしまった。若い同僚刑事とすっぱだかで一つベッドの朝目覚め、若い方が動顛なんかして、いまいち、おもしろいなと手を打つほどではなかったので、地下の「桃李」におり、酒抜きの中華料理で夕食に。満腹。酒を抜いたのは改めて飲みに出かける気で。
* 北山通りで教えられた通りに「樅」を見付けた。祇園から思い切って移転と聞いてのち、場所も分からず間が開いていたが、千枚漬けやジャガイモなどもらって、連絡先が判明。今度はぜひにと思っていた。
八時頃に店を見付けた。ちょうど、ママもそろりと姿をあらわした。
綺麗な、とてもすっきり仕立てのシックな店が出来ていた。シーバス・リーガルを明けてもらう。ガラスは敬遠し、白い磁器に染付で、達者な毛筆で歌の書き下ろしてある姿のいい猪口を棚に見付け、それで、ストレートのスコッチを堪能した。うまかった。ボトルの四分の一ほど呑み、中学高校の同級生のママと、歌は無し、おしゃべりだけして十時半。
客来がつづいたのをしおにまた四条の宿までもどった、が、なんとなくもう少しという気持ちで室町辺をさすらううち、古いおもしろい角店を見付けた。「古雅」とはいうがいささかもうボロ店なのだが、老舗めく風格がないではない。客は一人だった。あなごの雑炊を鍋で煮てもらいながら、加賀の「菊酒」を正一合。相客と親爺と三人でいろいろ話しながらが楽しくて時を過ごした。
* 部屋に戻って、洋服などはちゃんと始末していたが、ベッドでゲラを読んでいる内、はっと気づいたら灯のついたままの真夜中だった。
2008 3・27 78
* 朝寝坊、朝飯もよして、十時半頃チェックアウトし、地下鉄で同志社に入り、文学部事務室で、いつも「湖の本」でお世話にもなっている読者に初対面、お礼を申し上げてから、キャンパスをゆるゆる東へ栄光館の門まで通り抜けてゆく。優しい櫻に少しは逢えて嬉しかった。あいかわらず「ほんやら洞」の表はきたない。穢いのが自慢なんだろうか、そういう自己主張もああマンネリ化してしまうとまるで紋所みたいに鼻につく。
菩提寺で墓参。天気晴朗。
地下鉄で三条へ戻り、縄手、新門前、菱岩のわきを東へ、そして白川沿いに一度逸れ、狸橋からまた新門前へ入って、花見小路を四条へ。なにとなし、写真に撮っておきたかった。
めあての何必館へ。展示は『何必館拾遺』とあるが、意味あいまい。「拾遺」の意味を読み損じていないか、展示は拾遺どころか館が自慢の表道具というか、逸品揃い。こんなのを拾遺=のこりもの、とは云わない。
圧巻は良寛、わたしは、これほどの大作の良寛のよく揃ったのを知らない。村上華岳、入江波光、山口薫ら選り抜きが揃っている。蜀山人、富本憲吉らが揃う、そしてクレーはじめこの館の顔のような逸品。オンパレードである。館内は実に静か、しかも展示が佳い。久しぶりに梶川芳友の顔を見るようだったが、本人は出張中で、息子君に声を掛けられて、しばらく歓談。彼には伯母さんになる貞子ちゃんの逝去を、確かめてしまうことにもなった。くやしいことだ。わたしの顔を見て記憶しているこの妹は、亡くしたわたしの孫娘やす香よりもまだ少し年若い。それでこの二人は私の中で、よく重なり合うのだ。
* 四条へ出て、ぱっと目に付いた香取屋のウインドウの、洒落たハンドバッグを妻の近づく七十二の誕生日のために買った。それを紙袋でぶらさげて京都中央信用金庫に入る。二時前。石本正画伯らお二人がもう見えていた。
二時から、梅原猛さんの進行役で、京都美術文化賞のこれで二十一年目だか二年目だかの受賞者選考に入る。
今年は異例であるが洋画・日本画から授賞がなく、陶藝から二人、版画から一人を選んだ。清水九兵衛さんに死なれた大きさをしみじみ感じた。あの人は、亡くなる間際までも、ちっとも判断や意見に老い衰えたとんちんかんがなかった。五十代で選者に加わったいちばん若かったわたしが、七十二である。むずかしいところへ来ている。
* 選考会を終えてから、四条通へひとり出て、新しくなった京料理の「田ごと」でゆっくり弁当を食べ、京都駅で乗車時間を少し早いのに換えて、四時三十五分に京都発。
車中は残りの校正を熱海辺までかけて終え、『抱擁』を読みながら帰った。品川で窓外の雨に気づいたが、保谷駅に着いたときは傘の人影はなかった。旅のあいだ、かなり何度も腰の痛むのにへこたれたが、痛み止めなど飲んで、ま、なんとか無事に帰宅。
2008 3・28
* 「囀雀」さんは赤目にちかい名張の人と、この私語の読み手さんたちはよく知っている。
鞍馬から貴船へ。町内会の遠足に、あれは母と参加した幼来、大学時代の妻とも、結婚後の家族とも、朝日ジャーナルに『洛東巷談』、中日新聞などに『冬祭り』を連載の頃には記者さん達とも、また一人でも、良く訪れた。ところがわたしは、赤目の瀧も室生寺も知らない。三輪山まで行きながら長谷寺へも詣でていない。
夏場所はじつに楽しかった。あの十二日目、あんな劇的な大相撲にじかにお目にかかれたのだから、隣桟敷などに「京」たちも一緒だったりしたら、それは賑やかだったろう。じつはあの日に何十年分もの声援を送りすぎ、ノドの調子がいまもって少し変なのである 2008 6・4 81
* 今日中に京都へ入る。明日の夜にはこっちへ帰っている。京都美術文化賞の二十年か二十一年目の授賞式に、選者の一人としてお祝いに参加。それにしても清水九兵衛さんの顔の見られない寂しさ。
* せめて無事、雨にあいませぬように。
2008 6・5 81
* 緊急申し訳ありませんが。
実は一両日以前、入浴後に、上の血圧が57 下が30代という超低血圧で頸周りが石のように強張り、恐い思いをしました。高血圧かと思って測ったらあまりに低く、仰天しました。すぐ横臥し、その晩は徐々に、徐々に回復しました。翌日の仕事には問題在りませんでした。
昨日まで何事もなく平常に過ごしましたが、今朝七時前に起きて、京都へ出かける用意しながら機械に向かっていますうちに、また高血圧かなと思う不安な感じになり、測りましたら異様に血圧低く、先日と近似の急の苦痛に襲われました。
理由などわかりません、むしろずうっと高血圧を案じていましたが。
今日中にゆっくり京都に入り、落ち着いて明日の授賞式にと思い用意していましたが、これは医者に診せた方がよいように思います。独りでホテルの個室で一夜すごすのが不安心になりました。一過性のなにかで済めばよいがと思います。
理事会ばかりか授賞式までも、急の欠席、お許し下さい。いまもう、少し落ち着いて回復に向いていると思いますが、大事をとりたいと思います。
宿の方、キャンセルしておいて下さいますように。
お忙しいことです、見舞いの電話などお気遣い無くやり過ごして下さいませ。申し訳ありません。
もともと私は低血圧気味でしたが、一時高くなって来ていると、高い方を医師も警戒していました。余病との合併が起きないよう用心します。
重ね重ねお詫びします。 取り急ぎまして。 秦 恒平理事
* 何とも言えず口を利くのも億劫な感じで弱っていたが、体調不穏、虫の知らせのような物であったらしい。このまま安静にし様子を見てみる。熟睡をはかってみる。朝起きてすぐ型どおりにさっさと家を出ていなくてよかった。
* どうということは、ないと思っている。所詮、からだのことはからだが知っているだろう。わたしが慌てても仕方がない。しんどければしんどいで、仕事を続けていると忘れて行く。用心は必要だが、過度に意識はしない。したいだけ、やれ。したくないこと、億劫なことは避けるしかないのである。わたしが避けなくても躰の方で避けている。心より、よほど賢い。
2008 6・5 81
* 京都の宿でひとり目覚めている予定であったが。今朝は黒いマゴに起こされ、脚をつつかれるやら手にとびつかれるやら、六時に起きた。大過なく。
正直の所、独りだけのホテルに一夜寝るのが昨日は不安であった。痛烈に脚が攣るだけでも処置のしようがない。胸や頭や頸まわりの状態を観つづけていて、なにが起きてもそばに人がいてくれればどうにかなる。独りで安全へ逃げ込むのは、かなり難しい気が昨日はしていた。
* たまたまヒョイと出てきた二年半ほど前の弥栄中学同期会の記念写真を、機械にとりこんだ。六十六人、在学当時からすると五分の一ほどの出席、多い方かな。先生方はお一人ももう姿がない。そして見れども見れども、三人に二人、四人に三人も、名前が思い出せない。こういう記念写真には氏名を入れておかないと意味が甚だ薄れる。
「古稀」記念の会としてある。どうみても満七十歳の面々には見えない。頭の中に子どもの頃から焼き付いていた七十のイメージとまるで一致しない。みな健康な表情であり姿態であり服装である。喜寿に「ま」たと云っていたが、もう五年。実感は湧かない。
* 六年前にカナダから帰っていた田中勉君を、祇園「千花」に招待した日の写真も目に触れた。田中君が送ってきてくれていた。彼は若い。我は、くらい。やれやれ。
2008 6・6 81
* 京都の星野画廊が「岡本神草展」のためのすばらしい図録を送ってきて呉れた。感嘆。声も、しばらく喪って見入っていた。飛んで行きたいほど。
伊勢崎で描いている友人の画家が、京都まで車でいっしょに観に行きませんか、安全に運転しますからと誘ってくれたが、自動車の旅にはあまり気がない。窮屈。
ながいながいながい自動車での取材の旅を何日も重ねた経験がある。九州の窯場という窯場を山の奥までかきわけて走り回ったし、弘法大師のあしあとを尋ねて四国や近畿を山奥までも走り回った。有り難い旅であったけれど、自動車はけっしてラクでなかった。
汽車、電車の車窓に身をまかせた旅も、長すぎるとつらい。
京都駅発、鹿児島の終点指宿駅まで、「各駅停車」でなどというのは言語道断の苦痛で、熊本駅で音をあげて途中下車したような、わたしは生来トンチン漢であるが、概して車窓の旅は楽しい。
いま、息子とふたりで、二三日でもそんな旅がしたいなあと夢見ているが、彼の方はあまりに忙しい。
すこし元気をなくしていた小学生の息子を、日光中禅寺湖畔の宿まで連れ出して、ボートに乗ったり、借りた自転車で走ったり、裏見の滝を観に歩いたりした。
あれは『蘇我殿幻想』取材の一人旅に建日子をともない、橿原神宮を起点に当麻寺から竹内峠を歩いて越えた。京都で一泊し東寺などみた後、タクシーを使って近江湖東をひたはしりに、能登川でわたしの生母の歌碑を観たり、母の長女を、初めて会う父のちがう姉を訪ねあてたり、そして五個荘の石馬寺や知友の家を訪ねたりして、最後に東海道新幹線の終電に米原から飛び乗ったりしたこともある。
墓参りに京都へ行き、見返り阿弥陀の永観堂で静かに座り込んだり、天竜寺の庭先でわたしは疲れて畳に寝込んでしまい、しかし息子は起こしもしないでじっと待っていてくれたのも忘れない。
2008 6・18 81
* 関東では盆の中日であるようだが、京都では八月十五日がお盆であった。その体感がのこっていて、七月の今日はいよいよ祇園会宵宮の近づいた夏の風情を、梅雨明けを、例年よろこんでいた。かァっと暑くなるのをむしろ待っていた、子供こころに。
今は暑くなるのがおそろしいほど。温暖化という言葉はもう古びた感覚で、はっきり高温化と謂うべきか。
2008 7・15 82
* 祇園会の長刀鉾巡行のようすを、お稚児さんの行儀を朝のテレビで観た。宵宮の囃子は野暮用で聴きのがした。
祇園会といわゆる祇園という土地とは不可分というのが常識だろう、が、祇園には今少し生活の上で、いやちがうわたしはまだ子供であったころは、遊びのうえでというのが正しいだろう、縁が濃かった。雑誌「ずいひつ」に書いた、ちょっとしたそんな旧稿の埃を払わせてもらおう。
* 祇園の路地遊び 秦 恒平
今、合併で「西東京市」と新たに呼ばれることに決まった東京都郊外に暮らしている。東京暮らしが京都の頃の二倍の永さになったが、いまだに、京都からわざわざ「いつお見えでしたか」と聞かれたりする。京都の住人と信じてくれている人が今もいるのである。
武蔵野の匂いのまだ少し残っているような市にいると、街並みはあっても、京の祇園の辺とは、なにもかも違う。あたりまえの話だろうが、何故あたりまえかと理屈を言い出すと難儀なので、適当に思考は停止している。
西東京でのご近所についぞ見たことがなくて、祇園にも、生い立った新門前通りにも幾らもあったのが、「ロージ」だ。大勢がそんなことには気が付いているといえば、その通りだろう、が、そうでないかも知れない。「ロージ」というものをつぶさに知って暮らして、また「ロージ」など捜しても見つからない街にも暮らしてみて、やっと、気が付くのかも知れないではないか。
四条の表通り、祇園町南側にも、路地(と書く)はあるが、北側ほど数多くない。割烹の「千花」のように路地の奥に店は明けているが、裏ん丁まで通り抜けの抜け路地となると、南側ではほとんど記憶にない。
だが北側は、ことに花見小路より東にはいったい何本の抜け路地が通っていることか。花見小路より西になると、中華料理の「盛京亭」や割烹「味舌」などのような、こっちはドン突きの路地が多い。そのかわり富永町へも辰巳橋・新橋まで通り抜けのきく便利な辻がある。新橋通りの先には「菱岩」の切通しへ出られる抜け路地もある。あれが無かったらどんなに不便やろ。祇園の人たち、八千代はんのお稽古場へすいすい行けなくなる。
祇園の南も、奥へ踏ん込むと、これは数え切れないほど、蜘蛛手十文字なすほどの路地がある。抜け路地がある。パッチ路地もある。路地の奥の粋に出来てあるのは祇園甲部のご自慢のうちであるかも知れない。
だが少年というよりも、もっと子どもの頃から駆けずりまわって遊んだ者には、祇園町の路地は、なかなかの秘密境なのであった。「探偵ごっこ」などというものが流行った時は、有済学区の新門前の子ども達が、探偵と泥棒の二手に別れて、躊躇もなく弥栄学区の祇園の路地という路地を、追いつ隠れつの戦場に「利用」したのであった。
言うまでもないが、行き止まりの路地は逃げ隠れの側には物騒で感心しなかった。抜け路地が便利でスリルがあった。パッチ路地は、ことに在り場所を心得てその長所を生かし、奥の暗がりや物陰を伝い隠れては胸を轟かせて、捜しかつ逃れ走って、興奮のるつぼであった。
あのワルサがと、祇園の人には迷惑千万であったろうし、本誌に「お茶屋遊びの文化」などを説きまわすお人たちには無粋の極みだろうが、わたしの祇園体験には、こんな路地遊びの秘密の見聞が、申し訳なく微妙に刷り込まれている。
だから堪らなく懐かしいのである。
* さ、気を奮いたたせて、今日も今日の「今・此処」に直面する。
2008 7・17 82
* 基本的に、わたしは夏が好き。頭が焦げるほどの炎天下でも、小十分ぐらいならバスを待ちながら「夏気分」が楽しめる。蒸し暑くなければ、日照りは少年の昔を思い出させる。
気の遠くなりそうな京の武徳会の水泳帰り、日蔭のない川端通りを二条の北から三条へ帰って行く暑さ。また丹波の山奥の山の上で、燃えるような赤土の長い急坂を、木橇をえいえい持ち上げては滑り降りていた。よくまあ日射病にもかからなかったものだ。
夏は夏休み。ことに八月一月はまるまる遊んだ。学校の宿題はほとんど全部七月の十日間で片づけておいた。
戦時中で、食べ物の楽しみは極端に少なかったが、京都では流しに真瓜、トマト、ときに西瓜があった。丹波ではなんとなし木の実や草の実が食べられた。蛙の大合唱。蝉は京の街中でも電柱や狭い庭の木へ来てよく鳴いた。
だが街中でも田舎でも、長虫には閉口した。
2008 8・21 83
☆ 近況 門
地蔵盆を過ぎて、まともな気温に戻って来ました。今年は7月から猛暑びでびっくりです。
今頃になって老化防止にネット等始めました。難しくて、そろそろです。
懐かしい京都、読みました。
最近は、観光京都になって一味変わりました。
旅の友は、年に数回京都へ来るとか、私は結構過ぎるのかしら!
湖のホームページは、読む所が多くて大変です。
又、暑い日が戻るらしい、ご自愛を!!
* 京ことばは、読み解くにもなかなか難しい。それが楽しくもある。
2008 8・24 83
* 今日は、自身を解きはなったようにぼう然と暮らしていた。
群馬の杉原康雄さんに、京都へでかけてたくさん撮った写真を、ディスクでもらっていた、百何十枚も。祇園会の写真。それをボウっと眺め暮らした。
杉原さんはわたしより少し若い、日吉ヶ丘の美術コースの卒業生。なぜか早くに群馬伊勢崎に転居し、熱心に画家として絵を描いてきた。
2008 8・26 83
* 『モンテクリスト伯』を初めて読んだのは新制中学の内で、もとより人に借りてであった。
わたしは自宅に自分の持ち物としての文学・文藝本を一冊も持たなかった。自分のものとして持っていたのは幼稚園で月に一冊ずつ配られた「キンダーブック」一年分。それしか持てなかった。漫画などゼロ。講談社絵本などもゼロ。
他に、持てていたのは祖父鶴吉の蔵書であるたくさんな漢籍、すこしばかり日本の古典、評釈。祖父のか、父のか分からない中学用の通信教育教科書、そして明治期の事典や随筆、美文典範、浄瑠璃本の類。母や叔母の数冊の婦人雑誌。
特筆すべきは観世流の謡の出来た父の謡曲本。
仕方なくわたしはものごころついてより、それらを片端から順繰りに繰り返し開いていた。国民学校の生徒、小学・新制中学生には、おそろしく偏った書物環境だった。
だから、本を読ませてくれる人、まして一日二日でも貸してくれる人は、神様ほどありがたがった。少々遠くても、よくは知らない親しくもない人の家でも、本を読ませてくれるなら平気で出かけていった。
「お構いなく」で、ひとり読み耽り、読み終わるとくるりと頁を元へ戻し、必ずもう一度読んだ。そして、「おおきに。さいなら」と帰ってきた。
医者の注射が怖くて大嫌いなのに、医者の待合いはものの読める誘惑と魅力のある場所だった。
* 本のうえで忘れがたい恩人は、思い出して、一軒と二人。
死にかけたほど満月ようにむくみ、母の咄嗟の判断で丹波の疎開先から一気に京都の東山松原の樋口寛医院の二階座敷に入院したとき、枕元の戸棚に、漱石全集のうちの数冊、新潮社版世界文学全集の数冊がならんでいた。漱石本のあの装幀といくつかの題を見覚えたが、読もうとした記憶がない。
手を出したのが『レ・ミゼラブル』やダヌンチオの『死の勝利』やモーパッサンの『女の一生』やフローベール『ホヴァリー夫人』などだった。『モンテクリスト伯』はなかったと思う。読んだとは言えない、病気を治して早く家に帰りたかった。
とはいえ、「本」の世界はどうもこの辺に本道がある、ほんとの世界があると敗戦直後の小学校五年生なりに気が付いた。その感化と恩恵とが大きかった。
* 二人の一人は、恩を受けた順に言うと、与謝野晶子訳の『源氏物語』豪華な帙入二冊本を、頼めば惜しみなく家の蔵から持ち出し貸してくれた、古門前の骨董商、林本家の年うえのお嬢さんだった。叔母のもとへ裏千家茶の湯のお稽古に通っていた。
何度も借りた。源氏物語ただ一種とはいえ、わが生涯に恩恵は計り知れない。その時期が、『細雪』で名高かった谷崎潤一郎の新聞小説『少将滋幹の母』を愛読していたのと重なったのも、言いようなく有り難かった。源氏物語と谷崎とは一重ねにわたしの宝物になったのだから。
* 次の一人は、源氏物語と谷崎愛とも、とても無関係であり得ない、が、今その話はしない。新制中学二年生の夏前に初めて出逢った上級生で、わたしはそのひとを「姉さん」と慕った。その姉さんが、どういうことか、泰西の名作本を次から次へ惜しげなく学校へ持ってきては貸し与えてくれた。十八・十九世紀のヨーロッパの代表的な名作は、別れるまでのわずか半年のうちに姉さんが読ませてくれた。なぜそんなことが姉さんに出来たのか詮索のスベはないが、ゲーテもトルストイもバルザックもフローベールも、むろん『赤と黒』も『女の一生』も『椿姫』も、そして『モンテクリスト伯』も、痺れるように感動して読みに読んだ。
そして、最期に、卒業してよそへ去って行く卒業式の日に、姉さんはわたしの手に漱石の春陽堂文庫『こころ』一冊を、形見のように呉れていった、「呈」梶川芳江と署名して。
『こころ』はわたしの文学愛の原点になった。「源氏物語」と谷崎も同じく。
そして読み物をあまり高く見ないわたしの読み物の最愛作として『モンテクリスト伯』もその方面の不動の原点になった。
* いままたわたしは『モンテクリスト伯』を読み始めている、意図してトルストイの『復活』と並行して。この二作に因縁を求めているのではないが、大学入学の面接で愛読書を聞かれて『復活』と『暗夜行路』とカッコをつけたほど、男の小説としてわたしは愛読してきた。『モンテクリスト伯』もやはり「男」の小説ではないか。そして大デュマのは読み物で最高に面白い大長編であり、『復活』はいわば純文学の極北。ちょっと較べ読みしてみたいと思った。
不愉快な日々の多くを忘れさせる力のあることは分かっている。
わたしは高校生の頃から、嫌なことがあると先ず食べた。だめだと、なけなしの金をつかって映画を観た。それでもだめだと大長編小説を読んで、読んでいる間にたいていはカタがついていた。『モンテクリスト伯」か『戦争と平和』か『源氏物語』を選んだ。今なら『南総里見八犬伝』も加える。『ゲド戦記』全巻もすばらしい。
* で、今読み始めて『復活』の出だしにリードされている。
エドモン・ダンテスが、悪人ばらのたくらみで地獄のシャトー・ディフに落ち込むまでは不愉快きわまること、毎度承知。いっそ孤絶の地下牢に入りきってからが希望が持てる。ダンテスが婚約披露の幸福の絶頂を経て逮捕されてしまう辺までのデュマの筆致は、読み物そのもの、快調だが通俗なお喋りでジャンジャン進めてゆく。だがトルストイは軽い筆付きで運びながらも要所をおさえ、あわれな娼婦マースロワ、かつてのうぶな少女カチューシャの淪落と、何の呵責ももたず彼女をそこへ突き落としていて知りもしなかった青年貴族ネフリュードフの、それぞれの道筋を簡潔に語り継ぎ、そして今これから「再会」の場面に入って行く。そこはマースロワを殺人の罪で裁く法廷であり、ネフリュードフは陪審の役を帯びている。彼はまったくカチューシャのことなど忘れている。
* これから大デュマは徹底的に男の復讐を描いて行く。その規模は雄大で華麗で、一抹のあわれもいたみも秘め持っている。ダンテスを陥れたフェルナン=後のモルセール伯爵の妻となったメルセデス。ダンテスが命と愛した婚約者メルセデス。だがモンテクリスト伯となったダンテスは、凄絶な復讐を遂げて行きながら、救いあげた美しい元奴隷王女のエデをひそやかに深く愛して行く。
ロマンチストのわたしは、メルセデスに姉さんの面影を託し、エデに妻を感じたりしてきた。それは源氏物語の場合の藤壺と紫上にも連動しやすかった。おかしな秦サンではあるまいか。
伯爵大トルストイの筆は、ネフリュードフの贖罪と、甦るカチューシャの魂の物語を、遠くシベリア徒刑地の果てまで追って行くだろう。二つの名作を並行して読むことで、わたしは、物語世界をわたし独りの自在な思いで、さらに豊かに自分のものに創り上げたいのである。この歳だ、ゆるされていいだろう。
2008 8・31 83
* 「適任かな」「資格があるかな」と唇うすき妄言・放言ヘキの某候補者は、しかつめらしく記者達の質問に答えていたが、二度とも、首を傾げた。このアイマイな日本語よ、「はたして適任だろうか、自信がない」とも、「適任なんだろうな、おれは」とも、聞こえる。読める。「資格があるかな」も全く同じ。
結果次第で、だから右と言ったろう、左と言ってたじゃないかと、それこそ言を左右にできる朦朧とした日本語なのである。これぞ元をただせば、はなはだ政治的素質の濃い「京ことば」なのである。
「適任やろか、そやろかなあ」
「資格あるやろか、そうやろか」。
アメリカの大統領候補達の明瞭すぎるほど自己肯定のことばと、決定的に異なっている。
総裁・総理候補と観られている某女性代議士も、野球の始球式にかこつけて言を左右し、こういうウラのある物言いが公家の社会では洒落ていると、奥ゆかし(隠された奥を覗き込みたい、の意)がられた。露わに言わず、言をとことん左右するのがかしこい大人だったということ。
わたしは、好かない。
2008 9・4 84
* 秦の母の十三回忌のため、正午の新幹線で、妻と京都へ。
妻を疲れさせないようにお寺へは明日の午前とお願いしてある。
宿はしばらくぶりに二条のホテル・フジタを二泊用意した。五階東向き、好天のもと鞍馬、比叡、大文字山から粟田、華頂、音羽山さらに稲荷山まで東山三十六峰、くっきり。眼下は水鳥も人もあそぶ、鴨川。
* タクシーで、千代の古道から広沢の池へ、そして金木犀のかおり高い清涼寺釈迦堂で下車。経堂の経蔵をぐるぐると押して廻してきた、転法輪の功徳ありや。
境内の茶店で、炙り餅、蕨餅、わたしは善哉。ほっこりと落ち着く。池みずに影をうかべた千代原山の愛らしさ、大覚寺から釈迦堂へ、北嵯峨はどこへ視線を送っても気持ちがいい、民家も古寺もゆたかな緑にくるまれ、金色の日射しを浴びて、木陰や家蔭は涼しい。秋が静かに香っている。
さ、歩けるかなと妻を案じながら、念仏寺や二尊院、落柿舎などなじみのところはみな割愛して近道を通っていろんな花、花の風情に足をとめとめ、山陰線を越えて野宮へ。そして深い濃い竹藪の夕暮れをくぐり抜けて、天竜寺前を渡月橋へ。夕べの嵐山・大堰川を見渡すのは少年の昔からわたしの好きな眺望。欄干にもたれて妻も満ち足りていた。
一路タクシーで二条鴨川にもどり、ホテルで和食。
もうどこへも出ないで、宵闇の鴨川と東山とをたのしみながら本を読んだりテレビをみたり。
2008 10・8 85
* 早朝、五時四十分過ぎ。窓をあけはなてば、日の出まえの山の端は、春ならぬ「秋の曙」が目の真ん前で刻々とあかく静かに燃えはじめ、比叡や鞍馬の上には薄紫の雲がたなびき染めて。息を呑む三十、四十分の内に日輪来迎、山ぎわをまぶしく照らす。
ホテルフジタは、この「日輪来迎」が素晴らしいお値段の内で、こんなに美しい東山はよそで見られない。
二条といえば、平安京の中央であった。まさしく三十六峰の真ん中に真向かってまおもてに黒谷や真如堂が、永観堂や南禅寺がみえる。優れた来迎図が遺されているのはあたりまえ。むろん「月」こそすばらしいが、わたしはここへ泊まれば「曙」に魅されてはやく起きてしまう。妻の睡眠不足になるのは気の毒で気がかりだが、妻も床をはなれて、まじろぎもせず日の出前の東山の山なみと空とに嘆声をもらしていた。
* 十時に、出町の萩の寺へ。まず墓を清めて香華をささげ、十念念仏。わたしと同年の住職は病院に入ってられ、若い住職が本堂で読経してくれた。わたしと妻もときどき唱和。もう一度、墓参。
* わたしの法事は、父にも母にも叔母にも、たいてい妻と二人でだけ。もともと親族のすくない家であったけれど、母方にはわたしの従妹もいて、現に墓参りもしてくれていてじつに有り難いこと、だが、わたしたちの法事にはお呼び立てしない、ただただ夫婦二人でお坊さんと一緒に御経をよむ。木魚を打ち念仏する。それでいいというわたしの考えを、父、母、叔母それぞれの一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌と繰り返してきた。
* 一度ホテルに帰り、またタクシーをつかって、一路、大原三千院へ。往生極楽院の阿弥陀三尊にお目にかかるべく。
日ざしは清く黄に輝いて苔も木立も森も山も濃い緑に映えていた。静かに境内をあるき、呂・律の山川を聴きながら三千院を出て、勝林寺、宝泉院へも。
燃え落ちて立て直したという寂光院は遠慮し、惜しげなく大原を辞して、また一休みのためにホテルに戻り、冷えた飲み物などからだにとりこんでから、今度もまたタクシーで御池大通りを室町まで。
「染」会館で三浦景生さんの展覧会を観た。妻は三浦さんの染めの画境にいたく惚れ込んでいて、面白い面白いと讃美する。小さな野菜や果物をモチーフにたしかに創造世界が奇抜かつ活躍して、しかもシンとした奥のある小画面を成している。面白い。雅趣がある。卆壽を超えた人の若々しくて緻密な構成力がしかも軽妙なのである。かなりの色彩を細緻な線のちからが支配し、画面が音楽を奏でている。広い畳敷きのホールも落ち着いている。
京都美術文化賞で何回目であったか授賞した「先生」が「学生」達をつれて作品の前で講義のためにあらわれた。聴いてみたくもあったが、邪魔になってはいけないので会館を辞して、すぐ近くの「旧・明倫小学校あと」の藝術会館に立ち寄った。明治二年に京都市が全国に先駆けて小学校制を起こしたとき、いちはやく室町の意気込みが発足させた有名な学校だったが、都市中央の過疎化で此処も廃校になり、その建物を今の施設に転用しているのが、なんとも「昔のまま」の校舎・教室の風情。入ってみて、わたしも妻も思わず歓声、嘆声をもらした懐かしさ。粋な、ハイカラな、クラシックな京の「町衆」趣味が遺っているというのか。
* 室町に満足して、錦通りを烏丸を渉って東へ。錦の食品も覗きたいが、イノダ本店の珈琲で一息入れて行こうと堺町を北へ。疲れをやすめて今度は、ま、目新しい観光客向けの店、店が路上にまで溢れたかのような三条通を、寺町まで歩いて、南東の角ちかい老舗の「三島亭」にあがった。
なにしろ「一人前参銭也」の昔からあるすきやきの店。精進あげに恰好だが、この店の肉は、ふるえの来そうな程、高価。めったには上がらない店だけに、いっそ勇躍二階へ。むかし此処から祇園会の鉾巡幸を観たことがある。こんなところで鉾の行列が角道を曲がっていた時代もあったなど、京都の人でも覚えていない。
すきやきは、むろん、うまかった。満腹した。
ゆらゆらと三条河原町まで出たが、妻の疲れ具合を察してタクシーを二条のホテルまでつかった。ゆっくり早めにやすませて、わたしは夜更けまで読書。
* なんとなし不安で、夜中に精神安定剤をのみたくなったが、そうはしないで、本を読み継いで寝た。
2008 10・9 85
* 今朝も六時二十二分、朝焼けの日の出を眺めた。それからまた暫く寝入った。
十時前にチェックアウトし、しかしロビーでゆっくり池の水鳥などみてフレッシュジュースと珈琲とでサンドイッチをつまみ、心身落ち着いてから、タクシーで平安神宮から広道を青蓮院前へ、円山公園の入り口まで走らせた。
氏神の八坂神社に参拝。丹塗の拝殿や楼門に木立がまだ真緑に照り映え、八坂神社境内はいつ来ても何度来ても懐かしい。
弥栄中学前から万亭わきの花見小路でタクシーを拾い、新門前の「菱岩」で、前日に注文しておいた弁当二人前を受け取って、新幹線へ。もう体力も限界で、早いがよいと帰路を選択、黒いマゴの留守してくれている家へ、四時すぎには帰り着いていた。黒いマゴ、驚喜して迎えてくれ、まつわりついて離れない。留守番、ありがとうよ。
酒を仕入れ、持ち帰った二人前の「菱岩の弁当」を、マゴも一緒に美味しく食べた。さすが菱岩、一人六千円の料理の一品一品、すみずみまで美味しいことは。
* 此処へ予告もしないで留守にしたので、「馨」さんや「雄」クンらに心配させたようだ、ごめんなさい。
* こんな簡素な法事でも、そのつど京まで出かけてというと、気疲れはする。一度だけ、妻の代わりに建日子と二人で出かけたこともあった。
まずまず、ほっとした。
2008 10・10 85
* 京都美術文化賞の財団理事を二十余年ひきうけ、「選者」を務めてきたほかに、梅原猛さんと一緒に雑誌「美術京都」の編輯顧問をしてきた。具体的にはいろんな人との「巻頭対談」を梅原さんと交替でやってきた。
ところで、そろそろまたと思っていたところへ事務局から新たな対談の具体化依頼が来た。
ところが依頼文のなかに、「お相手につきまして、ご検討いただき、何人かあげていただきたく存じます。なお、対談相手につきましては、当金庫取引先に限定いたしたく」とあるのに驚かされた。ああ、潮時だなと感じた。
* 「美術京都」事務局の皆様
「対談相手につきましては、当金庫取引先に限定いたしたく、」というご要望に私はお応えするすべを持ちません。
一つには、取引先が私に分かるわけなく、
一つには、「美術京都」の編輯に関わっては、雑誌編輯上の質・内容において極力良かれと願うだけで、「当金庫」の営業に寄与することは考えにありませんでした。
この際、対談の担当を辞退します。 秦 恒平理事 平成二十年十月二十三日
2008 10・23 85
* 歯医者からフランス料理の「リヨン」に戻って昼食したのが長くかかり、俳優座に駆け込んだときは開幕から十五分遅れ。かろうじて夫婦で補助席に入ったが、十分舞台はよく見え、問題なし。
* 学校や職場での「いじめ」を描いた、そのままテレビドラマで通用する舞台で、「演劇」的な冒険も趣向も創作もゼロに近い。よく言って、生真面目につくってあるホームドラマ。ただし見終えて後、何かが「解決」されたとは少しも思われず、みんなが何と無く「決然と明日へ向かい意気込み」はしたものの、ほんものの「明日」からこの人たちどう「いじめ」と立ち向かえるのか、全然見通しが立たない。もっともそうな常識の台詞はいっぱい聴いたが、みな、「識者」たちがテレビで喋ったりしているのと少しも変わらない。テレビのホームドラマと全く同じアングルで、何も解決の付かない、見通しの立たないものを、演劇・新劇の座元である「俳優座」がやってて、どんな「演劇」的新味や前進があるというのだろう。
まことに真面目な舞台、真面目な作物であったし、俳優も真面目そのもの。あれれ、こんな舞台で出逢うんだと逸材の誰彼などの顔を観てちょっと勿体ない気がしたが、どこがマズイというわけではない。ひとり、件の「問題」からは「もう上がり」の「おばあちゃん」役の気炎も体験も胸にきちんと届いて懐かしいほどであったけれど、そして泪も零して観ていたけれど、所詮俳優座がわざわざやる「演劇」とは思わなかった。
* 「いじめ」問題は簡単な思いつきや、現象の上わ撫でで書ききれるものでない。「差別」問題への深刻で厳粛で周到な理解や洞察無しに、「いじめ」を簡単なうわべだけで問題にしても、殆ど何も変わらない。
あるいは、「いじめ」問題は一種の「戦争」抜きには解決しない。
* わたしの育った京都の同じ町内で、戦時の国民学校時代、わたしより二年上の剽悍な少年Aが、同年の温厚で大柄な少年Bをいつも言語道断にいじめ抜いていた。だが、ある日、ついにB少年は決然と立ち、まさに一騎打ち、A少年を腕力ないし暴力で徹底的に復讐し、力関係は掌を返したように覆った。これしかない。わたしは観ていてそう感じた。
丹波の山奥の村の国民学校に疎開転校したとき、わたしよりやはり二年上、或る部落の少年A率いる一団が、別の部落からの高等小学校一年、つまり一つ年上の孤立した少年Bを、日ごと、徹頭徹尾目を覆いたいほどいじめ、痛めつづけていた。ところが、ある日、田舎の学校の運動場を追いつ追われつ、いじめ団の主将A少年と孤独ないじめられ役B少年とが、一対一、一騎打ちの体で猛烈に闘い初め、Bは、Aを、完膚無きまで暴力的に圧倒した。勝負あった。そして、陰湿を極めたいじめはかき消すようになくなり、運動場はB少年の晴れて天下と帰した。これしかなかった。やはりわたしは観ていてそう感じた。
疎開先から京都の敗戦後の小学校に帰ると、教室の中でやはり或るA少年とB少年とが烈しく葛藤していた。そしてこれまた二少年の互いに泣き叫びながらの一騎打ちの乱闘でお山の大将争いの決着が付いた。勝手にやっとれとわたしは思っていた。
* いまのいじめはこんな単純な物でないようだ。弱かった側が、強い側を、腕力で逆転すれば済むような単純な組み立てでほんものの「いじめ」問題は出来ていない。まして精神論では片づかない、が、とかく識者は精神論で批評している。精神でも論理でもない利害と感情とを深い基盤に陰気に隠しているから「いじめ」は複雑怪奇なのである。きれい事では済まない。もっと凄いきれいきたないの思いが絡まっているのだ。どこかでは、凄惨なほどのリベンジが発動されるだろう、それはもうテロリズムになる。それしかない、とは、やはり怖ろしくて言えないからこそ「いじめ」問題は小手先の議論や創作では片づかない。
2008 11・21 86
* 昭和十六年(1941)、真珠湾奇襲と開戦の報じられた日。六十七年の昔、わたしは京都幼稚園に通っていた。爆撃を受けなかった京都で、爆弾が庭に落ちた希有な幼稚園であった。
2008 12・8 87
* 梅原猛さんがペンの会長時代、わたしは一理事として精励していた。梅原さんの肉声にも、いろいろに耳を澄ました。
時には梅原さんを怒らせたこともある。怒って、会長を辞めると起ち上がったほど。しかし、わたしは動じなかった。児戯に類すると、知らん顔をしていたら梅原さんもまた座った。そんなことが、いま懐かしい。
その梅原さんの言うことで、しっかり耳に留まったことも幾らもあった。さすがだと思うことが多々あった。
その一つに、小泉純一郎を評して、歴代最悪の総理大臣だと断言されたこと。
小泉人気が絶頂にあった頃で、わたしはオオーゥと内心感嘆した。今となって、小泉がどんなにパフォーマンスやサプライズに長けながら、政治家としてはひどいことをやったかがよく分かる。なによりひどかったのはブッシュのポチだったことで、アメリカ発の要求に応じてどれほど過酷な政策を日本国民に強いたことか。麻生も坊ちゃんの驕り丸出しだが、尻が抜けていて、すぐボロを出す。小泉は陽気そうに陰険政治を実施していた。梅原さんのあの時期でのあの「小泉最悪総理説」は、慧眼と讃えられる。
* 梅原さんと顔を合わせて口を利いた最初は、華岳らを書いた『墨牡丹』を「すばる」に一気に発表して、梅原さんも褒めて下さったあと、たまたま京都にいった機会に、東山七条の旧美大、学長室にいきなり訪問し礼を言ったときで。
爾来、何度も何冊も書評したり解説を書いたりした。それも、わたしはいつも褒めてばかりいなかった、「猛然文学」「非小説」だのと書いたり、いちばん今要警戒の保守的論客かも知れぬなどと書いた。それでも梅原さんは山のように次から次への出版本や全集を下さった。今も、しばしば戴いている。
祇園に、梶川芳友が「何必館」を建て、開館記念に、「太子樹下禅那図」を飾って村上華岳命日に茶室に招いてくれたのが、梅原さんと山口華楊画伯と私と三人だった。しみじみといい時間であった。
それ以後、たまたまわたしは、梅原さんをいわばチーフにしたような京都美術文化賞の選考委員に就任して今日に至っており、その間、東工大教授を退官したわたしを梅原さんはペンの理事に推薦して下さった。ずいぶん久しいお付き合いなんだと我ながらおどろいたり感謝したりするが、会長だった梅原さんはとうに退任されている。わたしの理事は六期もつづいたが、もう卒業させてくれるだろう。
2008 12・23 87
* 歳末から年始へ、生活を移動する人はそろそろ動き出す。
勤務の昔は、妻子を安全に先に京都へ送るために、汽車の切符を苦労して手に入れた。自分はとり歳末勤務を終えてから東京を発った。
歳末の京都は、思えば嫁である妻には仕事も多く、しんどいことであったろう、が、それなりに、時間が出来れば一緒に町歩きを楽しんだ。晩はよく繁華街へ出歩いた。
幼い娘の手を引いて、わたしは京の古社寺もよく経巡った。三十三間堂、醍醐三宝院。ニッカのカメラで沢山娘を撮した。
新年には祖父母や叔母も一緒に、祖父の思い立ちで写真館で写真を撮らせたりしたこともある。建日子も生まれていて、娘には祖母が丹精の和服の晴れ着も着せた。祇園で花簪なども買った。
夢のようである。しんしんと底冷えする京の大歳であったが、心持ちは暖かかった。
* 京は雪だそうだ。
東山魁夷画 年暮る
2008 12・27 87