ぜんぶ秦恒平文学の話

京都 2013年

 

☆ その後お変わりございませんか、
毎日頑張ってお過ごしの様子が伺えます、お薬の効果はどうですか! 暖かくなれば少しは楽になるでしょうが。
お初釜での折り、携帯に納めてきました、(母校校庭に置かれていた)ロダン『青春時代』の-2世- です。以前のは、美術コースが銅陀校舎へ移しました。同窓会50周年記念に、OBがカンパして、新しい作になりました、門を入って東側のメタセコイアの足下に置かれ、今は葉が落ちて明るく、良く見えています、美術コースのが無くなったのは寂しですが。
やっとロウバイが咲きました、毎年は年末から咲くのですが、今年は水仙もまだ咲いていません。その内に。
携帯電話なので画面が上手く行きません、お許しを!  洛東 苦集滅路  華

* ロダンの前の「青年像」は校舎への入り口ちかくに建っていた。佳いものだった。美術コースが銅駝美高として移転して行ったあとも、茶室の「雲岫席」は日吉ヶ丘に残されたらしい。隅々まで今も眼に在る。
2013 2・4 137

* 三時半、歯科へ。治療後一路保谷へ。駅構内で買い物して帰宅。
晩は、茶の間へ持ち出した大冊の「京都市の地名」また「京都市東山区」とある地誌と歴史を、ひたひたと耽読、多く朱筆を用いた。面白くてやめられなかったが、まだまだ百の一しか読めていない。落ち着いて、そして脳裏に新たな起爆剤を埋め込みたい。
大事典の小さい文字を裸眼で「読める」「読み耽れる」のが有難い。
東山区は、いわばわたしには「家の庭」のようであった。うまい水を吸い込むように記事が頭に入ってくれる。
2013 4・8 139

☆ 鴉へ    尾張の鳶
再び一か月近く御無沙汰してしまいました。
HPの記載では最近いくらか涙などの状況が緩和されたようで、ホッとしています。が、歯が折れたというのには驚きました。食物の摂取にどうぞくれぐれも留意なさって、蛋白質やカルシウムを摂ってくださいとしか書けないのですが。
わたしも体調に問題あり、MRIやCTなど検査をうけたのですが、悪いものではないだろうということで放免されたものの、それですべて良しという感じでもありません。まあ、それだけ自分も「老人」になりつつあるということです。
今週、奈良博物館での『当麻寺展』に行ってきました。当麻曼荼羅はもちろんお目当てでしたが、京都禅林寺の「山越阿弥陀図」に思いがけず会えたことが一番の喜びでした。昨年十一月から一部分ですが模写していたので、細部まで写真では記憶していました
が、やはり本物に出会えて心いくまで視ることができました。
関西への往復の琵琶湖あたりは、桜は満開をやや過ぎた頃で、存分に桜も楽しみました。相変わらず一羽鳶のふらふら飛行、です。
国内の、鴉がHPで気力精力傾けて書かれている原発等の問題、そして最近の北朝鮮のミサイル云々の問題など、否応なしに突き付けられていると感じます。
友人の一人が鬱で入院しました。以前から懸念されていたこと、それでも何もできなかったと苦しい気持ちがあります。
どうぞ元気にお過ごしください。転倒など決してしないよう、気を付けて。
少しずつ体調が軽快されますように。

* 自在に翔んでゆける鳶がうらやましい。禅林寺の「山越阿弥陀図」とは懐かしい。知恩院の「早来迎図」に向き合ったときの讃嘆も、いまだ胸にある。
昨日の晩にも京都の、建仁寺、宮川町、六原、六波羅蜜寺、清水坂などの地誌を、咀嚼するほどに耽読していた。何といっても京都の風と光と匂いに再会できる日を楽しみにしている。次の桜桃忌ころには、元気になれているといいが。
2013 4・12 139

* 永榮敬伸氏より、日本近代文学会関西支部『京都近代文学事典』編集委員会編の同「事典」を贈られた。堂々詳細な大冊で、わたしのような京都市生まれの作家だけでなく、広範囲に、京都に関わった近代の文学者、思想家、学者を網羅し、繁簡の差は差として、丁寧に記述されている。永榮氏は、「秦恒平」の項目を、四頁にもわたって、出自や私生活にもふれつつ私の文学の性質や成績を親切に叙述されている。恐縮です。感謝。
2013 5・23 140

* 中国の文学史は日本のそれに何十倍する。清初の批評家金聖歎はそんな中国歴代の文学から六種の傑作を選んで「才子書」と賞した。
一に『荘子』 二に『離騒』 三に『史記』 四に杜甫の律詩 五に『水滸伝』 六に『西廂紀』
わづかに一と四とに触れており 五は読み終えている。手元の本で、一、三、四は読める。水滸伝は訳本が揃っている。せめてこれら「六才子書」をみな読んでみたい。陶潜詩、李白詩、白楽天詩をはじめ詩は手元本で永年少しずつ愛読してきた。最近では沈復『浮生六記』を愛読した。袁枚の伝も愛読した。文学とはやや逸れても、史書や論述の大著や大辞典は幸いに秦の祖父鶴吉の蔵書がかなり残してある。秦の父は京観世の謡曲をならって舞台の地謡にもかり出されていた人だが書物に目を向けることのない人だった。祖父の方は相当な蔵書家で、多くの漢籍古典のほかにも、日本の史書や歌書や俳書や、源氏物語湖月抄、古今集講義本、百人一首一夕話などを孫の目には豊富に遺していってくれた。恩沢計り知れない。そして父の妹、叔母の玉月・宗陽はわたしに生け花と裏千家茶の湯そして茶道具のおもしろさを伝え置いてくれた。
思えば思えばわたしは恵まれた京なりの文化環境に育ててもらっていたのだ、なかなかそれとは久しく自覚できなかったのだが。
2013 6・2 141

* ときどき、むしろたまたまと謂うべきか、テレビの場面が目に入るつど「またかい」と声が出るほど「京都」を舞台のドラマや案内や解説が多い。幼いよりたっぷり馴染みの街や辻や川や木立や山や店の写真がふんだんに、と謂うより、手当たり次第に画面に飛び出してくる。わざわざ帰らなくても「京都」が或る程度楽しめる。
もう一度同窓会を考えていますと世話をしてくれる中学友だちが手紙をくれている。うん、もう一度なら出掛けて行けるだろうと思っている。
大学での友人から京の「蚊やり香」を頂戴した。「蚊取り」ではない、「蚊やり」…。物言いも懐かしい。
2013 6・26 141

☆ 紅燈 『日活画報』一九二四年八月号 註は割愛
旅に来てまづよろしきは祇園町花見小路の灯ともしの頃
白足袋の似合ふは河内屋与兵衛ならで祇園町ゆく仁和寺の僧
鴨川の流れは耳になれたれど歓楽の酒われになれざる
恋知りし舞妓の笑は淋しかり若き役者の扇持つてふ
木屋町の茶屋の女房の鉄漿つけて眉あほくそる夏姿かな

* ちなみにこの文や歌の成されたより十一年余も遅れ、一九三五年師走にわたしは京都で生まれた。四、五歳ごろから養家の秦に入ったが、育ったその家は祇園の郭にぴたっと背中合わせの(知恩院下)新門前通りにあった。「カフェレーベン(人生)」なんて、いかにも時代を懐かしく感じさせる。
そして、溝口の短歌よ。まさしくこういう空気のなかに染まってわたしは少年時代、大学時代を過ごしたのである。
2013 7・15 142

* もう休もうかと思い、兄のインタビュー本を読み始めたら、面白い。わたしは市立日吉ヶ丘高校の生徒だったが、此処は当時日本でも唯一の「美術コース」をもっていて、美術一般ももとより、場所が場所で清水焼の釜場である五条坂とも泉涌寺ともいろんな近縁ができていた。それが後年の京都美術文化賞の選者を二十四年も務める下地になった。選者のお一人であった清水九兵衛(六兵衛)さんとも仲よくしてもらい作品を幾つも頂戴していたし、亡くなったあと代替わりされた現在の清水六兵衛さんとも親しくしてもらっている。まえの九兵衛さんとは日曜美術館で話し合ったこともあった。
それだけでなく、わたしは清水焼の世間を背景に小説も幾つか書いてきた。ひょっとして兄よりもよほど早くから清水焼に関心があったのである。その清水焼の五条坂や渋谷や泉涌寺をめぐって兄は、実に兄らしいつっこみで陶芸家の藤平長一氏とはなし合っている、いや討議すらしている。わたしはこの藤平氏の万珠堂も知っているし藤平伸氏を京都美術文化賞に推して受賞してもらってもいた、この対談のことは知らないままに、である。
そんなこんなで、対話の話題がよく分かる、たぶん一般の読者の何倍も分かっている気がする。これは引き込まれそうである。廣瀬さんに重ねてお礼を申さねば。
2013 7・31 142

* 兄・北沢恒彦が掴みだそうと聞き役、また炙り出し役をしている『京都五条坂陶工物語』をどんどん読み進んでいて、一つ大きな問題点が抜け落ちているのに気づく。この表題からすれば一応問題外とみて差しつかえないのだが、わたし一人のかねて多大の関心からいえば、「五条坂」という看板でぜんぶ蔽ってある対談には、見逃せない大脱落がある。たしかに陶工世界に限定すれば「五条坂」かも知れないが、それでは「清水焼」という大看板との整合性はとれるのかということ。歴史的にながめれば、「五条坂」という地域名にくらべて「清水坂」の名と地域の問題性は百倍も大きくて深くて難しい物を抱えている。清水焼の伝統はせいぜい近世の半ば以降、それも粟田焼より遅れて地歩をひろげ固めた地場産業。それがに「五条坂」という云い方に集約して陶工達には把握されているというのが兄たちの本の足場・立場であろう。
その一方、「清水坂」という名と史実と問題とは優に平安時代の奥深くにまで遡れる。奈良時代へも手がかかっているかも知れぬ。清水寺の存在は象徴的だが、創立は坂上田村麿に遡る。そしてこの境内下の坂、清水坂に巣くった者ら、「坂の者」らの「人世」は、想像を絶した複雑さと広さとをもって日本史において意味と意義を主張してきた。文字どおりに「清水坂」という命題が大きく存在した。兄たちの本では、その歴史への省察がばさりと棄てられて意識もされていない。陶工達には無関係だからか。そうも謂えるが「清水坂」の歴史には触れたくない気味が差し挟まれていたかも知れぬ。
わたしが永くかけて書き継いでいる小説のひとつは、もし強いて題するなら「清水坂物語」でもあるのである。言うまでもない、わたしが清水坂に根ざした東山鳥部野などの世界に取材した小説は、長編『みごもりの湖』や『風の奏で』や『冬祭り』や『初恋 雲居寺跡』や『底冷え』等々に歴然としているが、それをもっと深刻に広大に世界をひろげ時空間をひろげて「表現」可能にならないかというのが、ま、苦心でもあり楽しみでもある「一仕事」なのだ。
そういう眼でながめると、ことさらに「五条坂」に極言した視野の裁ち落としは惜しくもあり不備にも感じてしまう。ま、兄は「清水坂」の歴史には眼が届いていなかったのだろう、それがあれば、彼のことだ、清水焼陶工等の歴史をもっと深く追おうとしたにちがいない。無いものねだりは今さら無意味であり、バトンはわたしに手渡されているのだと思っている。
2013 8・2 143

* 京都の廣瀬さん、むかしに兄と職場をともにしていた方に頂戴した、兄・北沢恒彦のインタビュー対談本、『五条坂陶工物語』を異例のはやさで読了し、しみじみといま、亡き兄の「えらさ」「たしかさ」に尊敬と思慕を加えている。兄の著書の一冊二冊には触れてきたが、この藤平長一という五条坂陶藝店街の大立者を向こうに回しての兄の「つっこみ」は、周到で鋭敏で深刻に建設的で感動に満ちていた。兄は当時京都市役所の一角に身を置き、中小企業経営の「歩くコンサルタント」として市の内外に知られていた。
大昔になるが、わたしたちが実の兄弟であると知って驚いた人たちは、また一様にわたしに向かい、北沢さんは「えらい人ですよ」と教えてくれた。真継伸彦さんも小田実さんも井上ひさしさんも、そうだった。
不幸にしてわたしは兄について生まれながら何も知らず知らされず、二人ともそれぞれよその家で育っていたのである。五十近くになるまで顔を見たことも無かったのである。
兄のことを知りたい、しかし、自分のハートで知りたいと願ってきた。だが、沢山な手紙、晩年のメールのほかは、数回しか逢ったことがない、そして兄は自殺しましたと遺族に聞かされた。わたしは死に顔をみに行く気になれなかった。酒を酌んでの大勢の思い出話を聴く気もなかった。
もとより今度読んだ本は、兄の死より以前、一九八二年・昭和五七年の真夏に出版されている。わたしは中日・東京新聞ほか新聞三社のために連載小説『冬祭り』を書いていた。もう、兄との郵便等の交際ははじまっていた。
兄はこの本で、章の移るに際し述懐の短文をこまめに挟んでいて、そしてさいごの最後に「蛇ケ谷を歩く」という長い締めくくりを書いている。そこに兄の素顔も肉声も思いも強さと優しさもよく表れていて、わたしは熱い共感と共に巻をおくことが出来なかった。
清水焼という。広義に歴史をふまえれば三條粟田から清水坂、五条坂、日吉蛇ケ谷、泉涌寺、そして今では山科も含めた広範囲が「清水焼」の名を歴史的に負うている。その中に、作家がおり商人がおり陶工たちがいる。藤平氏らの五条坂は主として陶商人の世界であり、他種類の手工藝に汗みどろに働く陶工の世間もある、蛇ケ谷(山科)は根拠地だ。だが、文化勲章や人間国宝に値する知名の大作家たちも清水坂その他に厳として屹立している。三者の関係はなかなかに難しいのである、そのような一端はわたしも二度三度小説世界へ取り込んでいる。だから、猛烈に懐かしい。懐かしい兄の肉声をわたしは存分に聴いた。嬉しかった。
2013 8・10 143

* 哲学者ジムメル(1958-1918 )は『断想』に、こう言っている。
「人類の苦痛が殆んどその哲学の中に入つてをらぬのは不思議である」と。
苦痛ほど普遍的な受苦はないのに。今日の人類があまりに耐え難く苦痛に喘いでいて、しかもただ右往左往の他にない理由は、これか。彼はさらに言う。
「慰めという概念は普通人々がこれに意識的に与へてゐるよりも遙かに広く深い意味を持つてゐる。人間は慰めを求めてゐる存在である。慰めは救助とは異るーー救助は動物もまたこれを求める。  一般に人間を救ふことは出来ない。それ故にこそ人間は慰めといふ不思議な範疇を作り上げたのである」と。
無視できない洞察である。
ジンメルは、また言う。
「何処であれ他国で暮すことは言葉に尽せぬ幸福であるーーそれは吾々の二つの憧憬即ち漂泊に対する憧憬と故郷に対する憧憬との綜合ーー生成と存在との綜合であるから」とも。
他国という名の外国で暮らしたことがない、が、荻生徂徠が「江戸は旅宿の境涯」と喝破していたにちなめば、わたしも妻も五十年どころでなく他国の東京に暮らしながら故郷京都や千里山を想っているわけで。さ、即ち「幸福」であるかどうかは即断しかねるけれども。
2013 8・16 143

* 今日の大文字は、無事に夜空に少しは涼しく映えたろうか。
2013 8・16 143

* 夏は暑いんや、暑いからええんやと少年時代に思っていた。夏が好きだった。早朝の朝顔が好き、夕立の夕方が好き、家々で床几を道へ持ち出して涼み、子供らが声を揃えていろいろに路上で遊ぶ晩が好きだった。自動車など通りもしなかった。
昼間は、はだかで青畳にころがりまわる暑さだった。扇風機の風が湯のようだった。泉水に脚をいれて金魚と遊んだ。家からもう赤褌をしめて遠くの武徳会まで水泳に行った。日陰のない川端道を西日のカンカン照りに焼かれながら家に帰ってゆく暑さと疲労。あのころは熱中症とは謂わなかった、日射病と謂ったがそれらしい被害をうけた覚えがない。
もっと以前、丹波に疎開していた山村暮らしでも焦げるように暑い夏はあった。赤土の山肌を板にまたがり滑り落ちて行く遊びもした。小川の少しの深みを岩場にもとめて水しぶきをあげて跳び込んだりした。百合が咲いていた。蝉が鳴いていた。夜は闇のなかで他の蛙が大合唱した。
それでも記憶にある猛暑とは三十度を越すという意味だった、三十三度などという途方もない気温は、暑い京都でも、その年年にせいぜい一度あるかないかだった。
2013 8・19 143

* 未曾有の暴風雨に嵐山渡月橋がいまにも流されようとしている。基盤も橋脚も濁流に包まれいまにも木造の欄干が押しつぶされかねない。夢にも見たことのない光景におののく。避難指示は二十数万人に出ている。滋賀県にも京都府にも初の特別警報が出た。颱風は最悪の被害を近畿以東にもたらし、関東東北に迫っている。
地球の温暖化で海洋の水位と温度とがあがり、その影響が、穏やかな温帯であった日本列島を亜熱帯化しているのが近年のかつて経験したこと無い異常・異様気象となって襲いかかっているのだろうと素人考えながら推察している。もしもそうならこの傾向は年々に暴威を増しつつ永く継続すると想わねばならない。
2013 9・16 144

* 「秦さんの本ならなにでも買います」と言ってくださっていた多年の「有り難い読者」東宝の後藤和己さんが亡くなったと、娘さんからお知らせがあった。帝劇の芝居にたくさん招いてくださり、とくに忘れがたいのは大好きな沢口靖子の『細雪』上演のおりは特別席に招かれ、さらに楽屋へまで連れて行ってくださったこと。ご冥福を祈ります。
選者の頃、京都美術文化賞に推し受賞してもらった漆藝家望月重延さんから、秋の新匠工藝展への招待が届いた。二十四年もの選者体験の中で、毎回三人の授賞者中、五十人近くはわたしが、あるいはわたしも、推して受賞してもらってきた。あの人、この人と思い出せばみな懐かしい。早くに強く推した楽吉左衛門さんには、わたしの退いたあとの選者を引き受けて貰っている。まだまだ若かった截金の江里佐代子さんは惜しくも亡くなられた。選者同士で仲よくして頂いた清水九兵衛( 六兵衛) さんも亡くなられた。わたしを選者に、財団理事にと推された橋田二朗画伯も亡くなられた。選考会を主宰されてきた梅原猛さんが幸いお元気なのが喜ばしい。
2013 9・21 144

* 『みごもりの湖』をひたむきに読み返し続けている。作者であることも忘れている。事実、こう書いていたのか、こんなことを書いていたのかと胸をつかれる。
300頁も校正し読み進んで、もうあますところ30頁分。黒谷、清水坂、祇園・四条、同志社、そして五箇庄や観音寺山・老蘇などなど懐かしい限りの京・近江をこれ以上はあるまいと思うほど丹念に描いている。
2013 10・16 145

☆ 秦先生
書籍安着のご連絡、まことにありがとうございます。
少しでも先生のご故郷の香りを思い出していただければと思い、本をお送りいたしました。京都は、本当にすてきな喫茶店が「普通に」あるところがとてもすばらしいと思っています。
『濯鱗清流(三)』も頂戴いたしております。ご挨拶が遅くなりましてまことに失礼をいたしました。
いまの折、あえて2001年の文学論・藝術論をおまとめになった秦先生のご気概、感じ入った次第です。
いろいろ印象的な文がございましたが、ご子息の建日子さんに言及された
「公開する文章は、よほどの覚悟できっちり書くべきだ、自身の誠実と蓄積の全容を賭して」の一節に、改めて襟を正す思いになりました。
ちなみに、ちょうどお送りした『京都の喫茶店』(木村衣有子著)の前身にあたります本『京都カフェ案内』も奇遇にも2001年の刊行でした。
眼のご不調が続いていらっしゃるとのことですが、お酒は楽しまれているとの由、安堵いたしております。
お誘いのお言葉、本当にうれしく、またありがたく存じます。ぜひご一緒できる機会がございましたらと思っております。歌舞伎でこちらへいらっしゃる折など、ご連絡いただければ幸いです。
急に寒くなってまいりました。
引き続きお身体どうぞご自愛くださいませ。  平凡社  洋

* イノダの本店や、ソワレ、フランソア、六曜社など、京都に暮らしていた頃から馴染みの喫茶店だった。大学の教室にいるより、やがての妻と京都中を歩き回って、文字どおり「京味津々」の寺社や茶席や、山や野や川や、御陵や墓地や、飲み食いの街を楽しんでいた。金のかかることは東京へ出て以降の帰省時だったけれど。しにかく歩きに歩いていた。喫茶店ぐらいならナントカなった。
2013 10・28 145

* いま「学生時代」という歌が新しく唱われるとしたら、どんな歌詞や曲になり誰が歌うのだろう。ペギー葉山の「学生時代」はいまもときおりわたしは聴いているが、ちょっと若いなあと思う。わたしは、自分で思っていた以上に『みごもりの湖』という小説に自分の大学時代を反映させていたと気が付いている。わたしがもう肩に重みを感じていたのは、生まれ、死なれ、死なせ、死んで行くことであった。わたしの大学には神学部も神学館もありチャペルもあった。しかしその方角へ歩み寄ったことはなかった。わたしは「京都」に生まれて京都を通して日本の歴史や文化や民俗に心身を預けていた。あの小説のヒロインたち近江の五箇庄に育った菊子・槇子姉妹、また菊子の友の品部迪子や槇子の友の西池静子を通して、その体験を具象化しようとしていた。わたし自身の分身かのような作家幸田靖之はむしろものの蔭に引き沈むように身を置かせていた。ペギー葉山の歌声にもいくらか共感の懐かしさはもっているが、同志社大学に身を置いていたわたしの本当の教室は「京都という日本」であり過ぎること多く、そのためにつとめて柳田国男や折口信夫らの世界を意識しつつ覗き込もうとしていた。
文学的にいえば、大学に入った頃のわたしは、源氏物語、百人一首、平家物語、徒然草でがっちり下地を造られていて、その上へ谷崎潤一郎、夏目漱石、島崎藤村がドーンと乗っかった。小林秀雄らのいわゆる評論の方へは敢えて近づかず、それよりは西欧近代の大作名作を手の届くかぎり貪るように愛読した。歌集『少年』に結晶した短歌への愛すら大学時代には見捨てようとしていた。小説でなければ、満足しなかった。小説が書きたかった。
2013 12・20 146

* 画家竹内浩一君から「星星会展」の案内に添えて手紙と画集が送られてきた。メンバーは他に、下田義寛、田淵俊夫、牧進の三氏。竹内、田淵両君には選者時代に京都美術文化賞を受けて貰っている。竹内君は日吉ヶ丘高校の後輩でもあり、当代きっての俊英と知られている。

☆ 秦恒平先生
ごぶさたお許し下さい。
お体の加減はいかがでしょうか。
師走に入って随分さむくなりました。呉々もご自愛ください。
「星星会展」は各年おきに開催し五回展をもって終了いたしました。この度、五回展をまとめた全作品、80点を日本橋、高島屋8Fホールで展覧会をいたします。
正月のこと家庭でゆったりされているところですが、是非ともご覧いただきたいと存じます。 竹内浩一
2013 12・24 146

☆ 秦恒平様
文学から政治、時代状況まで熱く語っておられる姿をいつも目に浮かべています。
視力・視野の不安よくわかります。
わが母親 右眼は光を失い左眼(視力0.3)だけで拡大鏡片手に新聞を読み日々暮らしています。白壽へ余年わずかとなりますが
…。  同封のお守りは母が信じている地蔵尊であります。   京山科  神戸大名誉教授

* 京都祇園町「目疾地蔵 仲源寺」のお守りを頂戴した。育ったわが家からものの数分、四条縄手、南座の東寄りにある名高い「めやみ地蔵」さんとは。懐かしい限り。幼稚園から国民学校にかけて二年ほどもこの仲源寺へ「お習字」の稽古にわたしは通った。「略縁起」の一文も添うてある。聞き覚えのところでは、「雨やみ」を祈った地蔵尊とも。「雨奇晴好」の扁額が桃山期と目される唐門に掲げてある。お守り大切に身につけます。ありがとう存じます。
2013 12・24 146

☆ ご家族様のご多幸を
お祈り申し上げます。
「和食」が無形文化遺産に登録されました。その中に寿司も入りますので 頑張ります。
楽しみにご来駕お待ち申します。 京都四条河原町上ル西側  「ひさご」寿司

* 亡兄北沢恒彦に誘われて二階でめずらしく対座し、この店の美味い寿司をご馳走になった。以来久しく、兄の死後もわたしたちはこの店を大の贔屓に親しんできた。とても良心にあふれた誠実な勉強家ご夫婦のお店で、評判も高い。どうぞご贔屓に。
2013 12・24 146

* 染織作家渋谷和子さん作のテーブルセンターとお手紙を戴く。
☆ 度重なる御芳情拝受し乍ら
御無礼のまま今年も余日一週間ばかりとなりました。
御不快の中での次々意欲的なお仕事ぶり、いただく新刊書を私の気つけ薬として拝読させていただき乍ら、 余りに不甲斐なく過ぎる己と闘う日々の私です。お赦し下さい。
何とぞ 何とぞ御自愛ひたすらに 良き春をお迎え下さいます様、来る年が地球上に平穏をもたらします様、祈りつつ、有難うございました。
間の抜けた御礼迄  合掌
秦恒平先生    渋谷和子

* 渋谷さんにはむかし、新潮社新鋭書き下ろし作品としての『みごもりの湖』の装幀をしてもらった。ずっと後年、梅原猛、石本正、清水九兵衛さんらといっしょにわたしも選者の一員だった「京都美術文化賞」を受けてもらっている。久しいお付き合いになる。
2013 12・27 146

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