* 朝日賞、推した人は通らなかったが、授賞式とパーティへの招待が今年も来た。
杖を突いてよろよろと出向く先でなく、欠席の返事をした。
京都府から、府の今年度の文化功労賞授賞式に既受賞者として参加をと招かれている。二月十日頃だ、京都は極寒に凍えている時季だ。ムリだと、思う。京都へ行けば、四條縄手から松原通りを清水坂へ上って丹念に前後左右を見確かめながら登って行きたい。経書堂の角で、三年坂(産寧坂)を左へおりてみたい。また登って、経書堂を左へ清水寺の舞台下から音羽の瀧へ、そして懐かしい清閑寺まで足を伸ばし、渋谷の坂道を馬町まで降って行きたい。
ああ、そのさきも、行きたいところばかりだ、想うだに息苦しくなってくる。
2017 1/3 182
* 京都からの電話でおどろいた。「おどろく」は古語で目が覚めたということ。
電話の人は「お師匠(おっしょ)はん」とあだなのように呼んでいた小学校の同期生、クラスはちがったが、親夫妻とわたしの叔母との縁で、気分的には親戚 の従妹ぐらいに感じていた。親世代がみんな亡くなり、わたしははやくに東京ヘ出てこのかた、お互いにまったく消息知れず、文通すらなかった。突然の電話に 驚いた。いまどき「コウヘちゃん」と真っ向わたしに呼びかけてくれる人など、ひろい世間に、ま、三人といまい。
踊りの弟子筋が出版社などに問い合わせ、電話番号などわかったというから、個人情報も洩れやすいワケだが、このさいはわたしも懐かしく、ま、朗報であった。さしづめの用はなく、しかし大きな親類筋とのあれこれ、わたしにも察しられるあれこれなど、話したいらしい。
わたしの本は三冊持っていると。「コウヘちゃんの本は、ムズカシなあ」とやられた。「こんなエロなってはるて知らんかった。お弟子さんが、秦 恒平さん知ってますよて、みな云うんでビックリや」と。それはそれはと笑ってしまう。ムズカシそうで、送ってあげられる本が見つからない。
まちがいなくお互いにやはり八十である、弾んだ電話の声ではそれが想像できない。お茶の稽古に来ていた頃はそれは凛として造形的に綺麗な子だったが。
ああ、ビックリしました。
2017 1/11 182
* 今日は『ユニオ・ミスティカ(仮題) ある寓話』の方へ掛かってきた。読者にどう届けうるかは若にないが、丁寧に推敲し補筆しているのが嬉しいような 照れる仕事にすすんでいる、と云っても今日読み進んだのは書けてあるぶんの二割にも及んでいない。どう仕上がって行くか、実は初稿としては仕上がっている のだけれど、ことりナイショで楽しみながら推敲し添削し補筆しているので。かなり長い作になっているんで、冗長や饒舌は避けたいのである。
こういう仕事をしていると、外出はつい、またねとなる。健康ではない。なんとかして「京都」へ帰ってきたい。
* 京都の染織作家渋谷和子さんから、「染 清流館」での一月個展のお誘いに添え、自作の、すばらしい大風呂敷を頂戴した。壁飾りにも美しいが、うちにはそれだけの壁すら無い。グループ展が多かったが個展を奨められる人があって、立派な展覧会になるだろう。
二月には今年度京都府文化賞の授賞式があり来ないか、来て欲しいと府から呼ばれているが、決心出来ていない。
2017 1/11 182
* 明日からの二月のために南山城、当尾里の浄瑠璃寺(九体寺本堂)を描いた美しい絵を友達から借りて掲げた。
この寺は、実の父方の当尾里に在り、父の祖父が、明治の廃仏毀釈の折り、大庄屋として、身を以てこの堂に泊まり込み、金色の国宝九体仏を賊達から護りぬいてくれたと聞いている。
もういい大人になってからわたしは、幼少以来初めて父の実家を訪ねたとき、木津市で学校長をしていた当主の叔父は、わたしが訪ねてきたと叔母から知らさ れ、飛んで帰ってきて、いろいろの話のあとで当尾里を深切に案内してくれ、浄瑠璃寺や岩船寺へも連れて行ってくれた。ご住職にも引き合わされた。
☆ 床に「聴雪」の軸が掛かり、号には「欠伸子」とありました。
昨日、大徳寺塔頭庭先の一畳台目御茶室で、薄茶一服いただきました。
客座には膝詰めで、正客・和尚様、次客・熊倉先生、三客・私、お詰め福森先生。偶々ことの成り行きで…同席賜わった二十分間に、いくつか気付いた事がございました。
身体が触れ合うほどの間近で共に茶を喫するとは、戦乱の世であれば、さぞ意味深い事と思いやられ、その事を肌身をもって感じました。
桃山時代に、綺羅を飾った殿方が身近に隣客の息遣いをうけながら、三人も四人も集って一碗を回し飲む、その意味深長を体感致しました。
京都で日々を送っていると、数多の不思議に出会います。
「お茶」は日常にあって、身構えることでも特別なことでもありません。東京でお稽古をしていた時には解らなかったことが、お稽古に通っていない今解ったり、そうだったのか!と、合点がいったりすることが沢山あります。
先生の『茶ノ道廃ルベシ』を読み返す時、京都で暮らしているからこそ気が付けること、京都のモノやコトを見て解ることが沢山あります。
塔頭寺院の小間には「聴雪」と書かれた江月宗玩の色紙がありました。
広間には「黄鴬」から始まり「光・香・東風」と春の息吹に満ちた言葉が散りばめられた表装美しい古嶽宗亘の大幅が掛っていました。
寺院の苔むした庭に芽吹いた蕗の薹の写真を送付させていただきます。
少しなりとも京都の風がお届けできたなら、嬉しく存じます。 百
* 一畳台目の席は、極限まで縮めた茶室で、大人が四人は自体ムリに近い。亭主とも三人(二人客)ならこの上なく密度のたのしめる和敬清寂かつ歓談の一座になる。が、それにしても羨ましい。熊倉さんの名もなつかしい。「百」さんの神出鬼没にも感嘆する。
「聴雪」の二字を床がけにされている江月宗玩の別の一軸をわたしも架蔵していて、真跡だといいがと願っている。
* 京の風がこころよく吹いてくる。
2017 1/31 182
☆ 秦 兄
ご本拝受しました。有難うございます。昔の職場仲間と美山町のかやぶき集落へ雪景色見物のドライブに行っており、お礼が遅くなり失礼しました。平日で寒い折にもかかわらず、中国からの観光客が交通のさほど便利でもない田舎にまでも大勢押し寄せていたのには驚きました。
どの会も加齢とともに解散を余儀なくされていますが、先週、小・中の同窓会の幹事をしてくれている西村肇君に粟田の同窓生の葬儀の件で電話をしたのですが、電話口での苦しそうな話しぶりに驚きました。肺が弱って喋るのが苦痛とのこと。
「無理してしゃべるな。メールで連絡し合おう」と電話を切りましたが、幹事がそんな状態ゆえ、今後はますます同窓会の開催は困難になってくると思われます。
目に加え、骨折した右手が不自由で捗らず、苛立ちの毎日です。殆ど外出せずに、狭いコックピットに長時間座っているのを案じて引っ張り出してくれたのが、今日の外出です。
世界は変わります。日本も変えなければなりません。本人は大還暦は無理として せめて皇寿位までは生きて、一億二千万分の一の仕事だけはし終えたいと意気込んでいるのですが、果たしてどうなりますか。どうか見守ってお力添えください。
早や立春ですが、寒さはこれからが本番です。
充分ご自愛のうえご活躍ください。 辰 京・北区
* 西村肇君の病状を初めて知った。こころより平安を祈る。京都で暮らしていたら当然のようにわたしの役目だったことを歳久しく肇君が親切に勤めてくれていた。
もう同期の皆で顔を合わす望みは絶えたろうか。
2017 2/3 183
☆ 「和久傳」節分の掛紙には「福は内・鬼も内」と書いてありました。
メール頂戴しました。ありがとうございます。ご心配頂いた花粉の飛散は、まだのようで…助かってっています。どうぞ、先生もお大事になさって下さいませ。
京の「神楽岡」 神あつまりて遊ぶところ。
今年 今月 今日 今時 神祇官宮主の祝ひまつり…平安宮に、大儺「鬼やらひ」の声が響くころ。
二月二日節分に、先生からの御本が届いて、嬉しくて。
読み始めたら引き込まれ、気が付くと三時間が経っていました。このまま、お休みの一日を楽しく読んで過ごそうとしたのですが…先生への御礼に「追儺」の気分をお伝えしよう、そう思いたちました。
「吉田山には、ときどき神様が降りて来るんだよ。」
母方の祖父は生まれたばかりの私を膝にのせて、話し聞かせたそうですが… 翌年には鬼籍に入ってしまったので、覚えがありません。学生時代を京都で過ごした祖父は、毎朝吉田山中の道を遠回りして通学していたそうです。
山頂の社殿 [ 斎場所 大元宮 ] は、 祭事に限って開かれるとか。茅葺の八角形の本殿に、六角形の後房がついた珍しい形。屋根の上には、方形と円形の勝男木と並んで、宝珠を戴いた露盤がありました。
神仏は習合しているのだなぁと、面白く拝見していると、三人の殿方が後房正面を目指して歩いてこられました。そして静かに一列に並ばれました。それから ゆっくりと謡本を開いて、「神歌」が始まりました。聞き慣れた観世の様ではなく、独特のたゆたう風がありました。本殿から低く漏れ聞こえてくる祝詞と、普 段着のお能。
こんな稀有な機会に恵まれる。京都は、不思議の面白の街です。
「ちはやふる神のひこさの昔より」と謡ったその時、東の方角で鐘が鳴りました。真如堂でしょうか。それとも、くろ谷さん?
お寺の鐘の音を、日に何度も聞くのが京都の日常で す。黄鐘調か、盤渉調か、聞き分けられる耳をもちませんが…何処のお寺の鐘の音も、耳ではなく心に響くので、ただ聴き入るばかりです。
東京の先生のお耳にも、何処かの懐かしいお寺の鐘の音が、蘇りましたなら幸いです。
お身体、くれぐれもおいとい下さいませ。 百 拝
追伸 ———-
今回添付させて頂く写真は、吉田神社の勧請元である春日大社節分會へ以前行った時に写した燈籠です。もう一枚は、疫神祭の時、散供の米が蒔かれる辺りです。
吉田山と神楽岡が、同じ場所を指す言葉だと、京都に来て知りました。
祖父は敬虔なクリスチャンでしたが、神楽岡でたくさんの神様と出逢って楽しんだのだと思います。
* 濃厚に京の風を頬に感じる。よしだじんじゃ、だいげんぐう、しんにょどう、くろだに、かくらおか。 いましも、その界隈を体感しながら奇妙に歪んだ物語を仕上げてやろうと、書き継いでいる。
2017 2/6 183
* 京恋しさが乗り移ってか、「京の散策」三度目、喜寿の歳であった「2005年分」も、幸い反響が好い。日録「私語の刻」の私語を抜き出したに過ぎないが、一年を通じて柔らかに主題を追ってのエッセイに成っていようとは、むしろ心がけてきたこと。
2017 2/7 183
☆ お元気ですか。
あっという間にお正月が過ぎ、1月のスケジュールを終えて、ほっとしたとたんに寒くなって風邪を引いてしまいました。まだすっきりしませんが、今日は街なかへ行き、用件を終え、お菓子を色々と送りました、楽しんで下さい。
湖の本-なつかしく楽しんで居ります。
今日は先日の雪の写真を送ります、わが家の近くでは小鳥が元気に歌って居ります、早く温かくなってほしいな!と思いつつ、無理をせずにお元気でと。 京・北日吉 華
* 感謝。
写真は、渋谷通り坂の途中、小松谷正林寺總門を見入れての雪景と想われる。懐かしい。お寺というと、不思議に「門」に惹かれる。漱石に『門』という秀作がある。禅の『無門關』も在る。
この辺、小松谷というように小松の大臣、平重盛の邸宅があったところで、墓もこの正林寺に在ると思う。いわゆる六波羅の東南極を固めていた。渋谷坂を越 えればそのまま山科へ、近江へ抜けて出られる。つまり都へ入っても来れる。『冬祭り』終焉の場の歌の中山清閑寺は京と山科の境に位置している。
わたしが京都幼稚園へ園のバスで通っていた頃、(真珠湾奇襲・開戦の年だ、)昼御飯をみなでこの正林寺門内で食べたある日、給食に煮た茄子が入ってい て、どうしても「イヤ」、どうしても「食べなさい」で、先生付きで独り境内に残され、大泣きしながら、ぐちゃぐちゃのを嚥み込んだ思い出がある。あれ以来 今日まで煮た茄子をゼッタイに食わなかったが、やはり家では母に口へ押し込まれ嚥み込まされた思い出がある。
さようにもわたしは茄子の煮たのが大っ嫌い。しかし茄子の生っているあの姿形も紫紺の美しさもまた花の優しさも大好きなのであります。茄子は天麩羅でもダメ、漬け物は食べます。
ついでながら、南瓜を煮たのも大嫌いだった。戦時中の代用食で飯にも混ぜて炊かれたが、茄子ほどでなくても辟易した。空腹でも食い気が湧かなかった。そ れが、この二十年ぐらいは薄く切って天麩羅になって出ると甘みを味わえるようになった。青唐辛子も牛蒡もかろうじて噛めるようになった。人参にはいまも手 が出ない。「ずいき」という、なにものだか分からない奇妙な食い物にも辟易した。
ちなみに、茄子喰い大泣きのあの日、同じ幼稚園児で同じその場にいた我が家の真向かいの女の子に「アホや」と嗤われた、嫌いなものが出たら(何と謂うたか)「エプロン」だかのポケットに突っ込んで帰ったら「ええのや」と。そういう知恵も勇気も持ち合わさなかった。
も一つちなみに、この正林寺の界隈、いま書いている小説で使っていて、見確かめにゆきたいのだが、情けない。
* 美学の後輩で京都暮らしの人が、上品な京の干菓子やお香や、わたしにはまさしく故郷・地元「祇園界隈」のいろんな情報を送ってきてくれた。ありがとう。
* 京都へ行かずとも、ただ思い出しながらあれこれ書いていったら、上のような思い出や関連の感想で、すぐに本の何冊も書けてしまいそう。「人」も交ぜて書いていったら、おのづから小説に成って行くだろう、だがもうそんな暢気な残年は恵まれまい。
* さ、明日には幾らか送り出せるだろうか。
2017 2/15 183
* 浄瑠璃寺へも父方当尾の家へも、もう訪れる機会はないだろう。父の敗戦もしっかり書いておきたいのだが。島尾伸三さんの撮ってくれた浄瑠璃寺三重塔を 振り向いて観た写真を選集十八巻の口絵に入れることが出来たのを、なにともなく実父への挨拶のようにも感じている。高木さんの繪が有り難かった。
2017 3/8 184
☆ (京の=)本法寺、宝鏡寺辺りを散策しています。 尾張の鳶
* 雛遊びでも名高い門跡寺など。ウーン、里ごころに誘われる。尾張から京都へは、保谷からよりはよほど近いしなあ。
すこしは花の客などもすくなくなりそうな暖かな五月半ばにも、帰りたいが。
2017 3/12 184
* 少しく以前に突然、京室町の「帯」屋さんのご主人か社長さんから手紙が来て、『茶の道すたるべし』が気に入ったので会いたいと。ちょっと難しいと返事 し、「宗遠 茶を語る」を送ってあげた。五月になら東京まで会いに行くとも言われ、遠慮した。今日またメールで今月六日か十二日に伺うと言われ、これもお 断りした。
メールを下さればご返事できる限りはふつうに致しますのでと。
2017 4/1 185
* 京室町、帯の源兵衛さんのメールで、おおよそのお人と関心とが知れて、向きあいやすくなった。ひとことで日本の「中世」につよい関心のある人のようで、わ たしの久しい仕事の大方とかなり濃厚に触れ合っている。しょせんは会って話して尽くせる程度ではないので、湖の本を読み取ってほしいと思う。
☆ 秦 兄
ご本有難うございます。兄のエネルギッシュな活躍に感服しています。
と同時に、ものを書くことの難しさを痛感している毎日です。私は今 横書きの原稿とは別に、推敲しながら縦書きに書き直しています。
「人事を尽くして天命を待つ」心境に早くならないと安倍内閣はいつまた何をしでかすかしれません。
今朝の地元紙に添付の記事を見ました。「狸橋」 なつかしい名前でしょう。
昔話をしながら兄と盃を交わす日のあらんことを念じています。
毎秋開催の早大のクラス有志会も横浜在住の幹事役が故郷の松山市に戻ることになり、今秋で一応解散するとか。小、中の同窓会も西村肇君の体調不良で開催の見込みもたちません。段々仲間たちと飲む機会が少なくなり、さびしいかぎりです。
季節の変わり目、ご自愛ください。
有難うございました。
早く兄に勉強の成果が伝えられるよう頑張ります。 京・岩倉 森下辰男
* 「白川北通り」という名前を初めて聞いた、有済橋北畔から狸橋北をへて東山線まで、せいぜい二百メートルほどを謂うらしい、わたしの育った新門前通りからは白川を隔てた戦時疎開で通された道路のことである。家から一分とかからず狸橋を渡れる。
その狸橋なる橋の由来を地元で劇にして「櫻祭り」の出し物にしたという。この疎開でできた白川北通りにはその後に櫻が植えられたのを「祭り」ごとにし始 めているらしい、森下君のメールにその新聞記事が添えられていた。記事だけで「由来」までは書かれてないのは残念だが、地誌で読んだ来はしている。何も知 らなくてもとにかくも「狸橋」はなつかしい古馴染みの石橋で、なにとはなくそこまでよく遊びに行った。橋の上が子供の遊び場になった。
橋から、じーっと真下の川波に見入って放心していることもあった、そんな放心に身を任せているのが好きだった。
狸橋となると、次々に思い出が湧いてきて、もてあましそうになる。いまここへ書き出したら湧くように話題がうまれて途方もなく時間をとられる、ウーン、誘惑はされるが今今の仕事へもかからないと。
2017 4/3 185
☆ 花見小路
祗園や宮川町の御茶屋さんへ時折、配達にまいります。
今日は、お届けした後、摩利支天堂から建仁寺境内を抜けました。
途中「浴室」の紅枝垂れが今をさかりと咲いていました。
それは綺麗だったので、海外の方々が群れ競って撮影していらっしゃいました。世界各地から京都まで、旅してお見えになられたのですから、邪魔をしてはいけないと… 脇から、そっと撮ったので、
何だか、はっきりしない写真ですが… 京に咲いた今年の桜をいち早くお届けできればと思い、添付いたします。
花見小路を通ると、そこは中国、台湾、韓国、アジアの方々から、ヨーロッパ、南アメリカに至るまで、たくさんの国の方々が醸し出す異国情緒漂う雰囲気で、今歩いているのが何処なのか、解らなく
なってしまいそうでした。
取り急ぎ、お伝え申します。 鷹峯 百 拝
*あまり懐かしさに建仁寺浴室の春開花の写真を上にもらった。
建仁寺浴室の前まで、中学高校の昔にわたしの駆け足でなら、三分で走って行けた。祇園花見小路をつうっと駆け抜けて小門からだらだら坂をすいと降りたと ころに「浴室」はあった。なに不思議は無く、それでも建仁寺に浴室があるという、いの一番にその前に立つというのがこの名高い大寺を親しみ深いものにし た。うちの庭のように想えた。なにしろ今もそうだが京の昔にも狭い家で育ったから、知恩院でも八坂神社でも清水坂でも「うちの庭のような」ものという感覚 で馴染みもし所有もしていた。観光とか見学とか参拝といった心地は健康なほどゼロに近かったのである。
「浴室」とある、が中は見ないが「風呂」であろう。風呂とは熱いスチームを浴び発汗して清まはるので、湯に漬かるのではたぶん有るまい。
写真の紅枝垂れ、なつかしい。曇っていた青山墓地では六七分咲いてこそいたが、櫻の花やぎはなかった、今年初の美しい櫻を写真の建仁寺で見たことになり ます。感謝。祇園といい宮川町といい祇園花見小路といい、「百」さんの足どりは、そのままにありありとドッカンで目に甦る。帰りたい。。
* 京室町の源兵衛さんから、「一歩 踏み出したい」と、自家、自身の来歴等を前置きに語ってこられた。
☆ 一歩 踏み出したい
母方は彦根井伊家の御用商 特に大麻布を扱う(徳川幕府より井伊家のみ大麻布専売を許認可)戦後 没落 父方はおそらく丹波出身一族 江戸初期より織物を扱う
母方の祖父は能三昧 母は女学校より98歳までシェークスピア研究 叔父はロートレアモンに一生を捧げる
父方の祖母は 富商ながら室町の乞食と蔑称される程 粗衣粗食に甘んじるも 片や茶室を作り茶に没頭
父方母方共に没落と云う環境下 借金を抱え商売に勤しみ今日を迎えるも 遅まき乍ら中世文化に興を覚え 濫読する中 先生の御著書「茶の道 廃るべし」に出会い 何か救われたと実感した次第です 「湖の本」も有り難いです なにより先生が同時代におられることを有り難く思います
本当に何も知らない分からない者ですが もしご迷惑でなければご教示賜りますれば幸いです
なにより先生の御回復 京都にお出かけ出来る御快癒を祈念致します 源兵衛
* 私からは、とかく申し上げるナニモノもなく、ただ創作と著述とがあるだけ。どうお役に立つ何を自分が持っているのか判らないが、メールの対話ででも、もし何かが見えてくるなら、お互いに有り難いとしよう。
秦の母方のことよくは知らないままになったが、福田という元は豪儀な富商で合ったらしいが、母の父か祖父かの代から零落甚だしく、母は優等生だったけれ ど女学校へあげて貰えなかったのを死ぬまぎわまで泣いて悔しがっていた。母の兄は室町で仕事をしていたと漏れ聞いているが、よくは判らないののになった。 この伯父さん、いかにもおっとりとした好い人だった、懐かしいキワミのような京ことばを聴かせてくれた。上の娘、ほぼ同年の従妹とはいまも文通があるの で、今のうちに福田という大きな家の話を聴いておきたくなった。弥栄中学から中信の美術賞まで永くお付き合い頂いた画家の橋田二朗先生も母の出の福田と縁 戚であったらしいのに、それも何も聴かずじまいに終わっていた。
* 実の父方吉岡家は学術・教育の、実の母方阿部家は実業の、ともによほど大きな一家一門で今もありまた曾てあったけれど、わたし自身は、ほぼ生まれなが らに小さなラジオ電器屋の秦家へ貰われ、何もかも「根」に類することは極くの噂程度にしか知らぬまま、一作家の秦 恒平に成った。まして娘朝日子や息子建日子ともなれば、わたしと妻との家庭以外に、それ以前の根の知見など何一つも持っていない。思いようでは、これほど 気儘に自在自由な足場は無い。自身の目と心とで健康に心ゆく一生を生きてくれるように。
私と妻との血筋は、あまりにもかすかに頼りなく、娘朝日子の次女みゆ希独りを通してしか生き続けられない。そのたった一人きりの孫である「押村みゆ希」 の現在も、わたしたちには露ほども判らない知れないでいる。思いようでは「血縁」とは、いかにもイヤなものだ。だからこそ血縁ならぬ「真の身内」という思 想は重いのだ。わたしは幸せに生きている。
2017 4/7 185
* 朝の讀賣テレビが東寺の小雨にけぶる五重塔と華やかな櫻、櫻を一の目あてに、その他京都各地でみごろに美しい櫻をたくさん見せてくれた。嬉しかった。 それにしても「凄い」と懼れるほどの人出。もう今年の花見はこのテレビ櫻だけでガマンガマンと思ってしまった。やせ我慢にもちかいが「さのみ目にて見るも のかは」と、兼好に教わった一条を思い出す。
2017 4/8 185
* この機械は用の足せる稼働までに十分はかかる。気ぜわしくすると動かなくなり最初からやり直さねばならないので、一度稼働すれば一日中でもそのままにしておく。
冷えた機械が温まって(と勝手に想っているのだが)稼働までの時間をわたしは身近な短かな読書に宛てるべく手の届くところに詩歌集その他を常備している。
今朝は中学以来の恩師が最初の歌集『むらさき草』をしみじみと読み、あとがきも懐かしくしみじみと読みおえて、三十分ほども機械は放っておいた。懐かしい懐かしいしみじみとした時間であり先生のまことにお優しい、お顔やお声の甦ってくるお歌であった。泣きそうになった。
* 毎日毎日、トランプだ金正恩だプーチンだイスラム國だテロだ戦争だそして不出来を極めた安倍内閣だと見聞きしているのが、じつに堪らない。しかし目を背け腰を引いてもおれない。で、求めて古典を読み、詩歌にふれて自身をもなんとか清まはりたしと願う。
けさの、給田みどり先生のお歌は、身にも思いにもしみじみしみ通った。恋しいほどに懐かしかった。中学時代の或る夏休みの朝であった、北野の西、紙屋川 の先生がフイと東山知恩院下の我が家に見えて、親たちにことわって、少年のわたし一人をすうっと奈良の薬師寺と唐招提寺へ連れて行って下さった。ああ、な んというすばらしい初体験だったろう。仏像、塔や金堂や境内、西の京のたたずまい。一言の奨めもなかったけれど、わたしは、噴いて湧くように、稚くて拙い 短歌をいくつもあの日のあと創ったことであった。
2017 4/9 185
☆ さ、神座
櫻の美しいころは、木々の芽吹きにも心うばわれるころです。
毎朝通うバスの窓から、糺の杜の大きな木々を見て過ごしますが… 寒空を刺すような冬木立のかたい枝の線が、このところ柔らかみを帯びてきました。徐々 に象を変え、色を変えていく生命のいとなみが目に見えてきました。芽吹き始めたばかりの色みは、深みのある濃い赤というのか、奥ゆきのある紫色の影のよう にも見えます。車窓越しの遠く、その色は見えているだけなのに、穏やかならぬ心地になるのは、きっと中に数えきれないほどの青や緑の色を秘めているから と、そんな気がしてきます。
下賀茂神社を過ぎて葵橋を渡る時、霞たつ川べりは華やかな櫻色と柳の淡い緑に彩られて、春おぼろの景色です。遠くに連なる山並は「墨に五彩あり」のとおり、濃く深い「青黛」のような、また淡く
にじんだ「鈍色」のような、えもいはれぬ重なりを見せて続いています。
先生、『湖の本』をありがとうございました。
賜わった御本の背表紙が、時の流れに染まって薄茶色となっているのを拝見し、胸を衝かれる思いでした。
御作を御自身で刊行なさり、御配本(御発送)までして下さる。そうして下さればこそ手にすることができ、読ませていただくことができる。それを三十年間 続けておいでになった。頭では、解っておりましたが… この度、奥付に「1987月1月1日」と記された『秘色・三輪山』の御本に触れた時、三十年の月日 を(会社の倉庫ではない)御自宅で保管なさっておられるということの、どれほど大変なことであるのかが目に見えて伝わってまいりました。先生がなさってお られることの尊さ、それを続けておられる大変さに、胸を衝かれる思いがいたしました。
また、そのことは先日、大事にいたらずに本当に何よりでございましたが、転倒なさった時の先生のお書きようからも伝わってまいりました。
今頃に気付きまして、お恥ずかしいことではございますが、読者に届けたい、と思って下さる尊いお気持ちを胸に、心して読ませていただきます。
早くに御礼をと思いながら、ご返信が遅れましたのは、先生の母校であられる大学の『啓明舘』と『アーモスト舘』それから相国寺の『法堂』の櫻の写真を添えさせていただこうとの思いからでござい
ました。見上げて撮った歪んだ写真になってしまいましたが… 先生のお心のうちに、何かが灯りましたなら幸甚に存じます。
それでは「大切なお時間」をより長くお過ごしになられますように、何とぞ御身お大事になさって下さいませ。 京・鷹峯 百 拝
* 表題にある「さ、神座」とは即ち「さくら」。日本人のことに愛してきた「櫻」はかく讃仰拝跪の思いで心中に祀られてきた。
美しいメールである。ありがとう。「さくら」のように美しい佳い仕事がしたい。
* 相国寺は大学と地続きのお隣さんであった。というより、ひょっとして元は相国寺さんの境内を同志社が分けて頂いたのかもしれないが。懐かしい。大樹が生き生きと空さしている。感謝
2017 4/10 185
* 朝いちばんに、しみじみ、相国寺法堂への石道、空高くさす櫻と松の大樹を目にすると、佳い人生やったなあと思わず感謝する。すべては無に帰する、が、無になるなにも無い。
2017 4/16 185
* 梅原猛さん 自筆の選集受領挨拶があった。清水六兵衛さん、下鴨へ転居、工場は従前と通知があった。先代九兵衛さんがしきりと懐かしい。
京都美術文化賞の選者を二十数年も続け合った仲間も、清水さん、石本正さん、三浦景生さんらみな亡く、わたしをここへ誘い込んで下さった橋田二朗先生も。
梅原猛さんとわたしとが生き残っていて、わたしは選者を退いている。第二回に推して受賞してもらった楽吉左衛門氏が、いま、わたしのあとへ選者で入ってくれている。
この五月下旬には今年の授賞式が予定されていて、わたしも顔を出したいが、さあ、この体調では、むずかしいだろうな。
2017 4/21 185
☆ 通勤路に
『柊屋』さんの前を選ぶ日もあります。
今、屋根の上にある鳥よけの柵にからむ野木瓜の花が、路に散り敷くほど さかりと咲いています。
今宮門前の楓が、滴るように色を変えた姿とあわせて、お楽しみいただけましたなら、嬉しく存じます。 百 拝
京 今宮門前の大楓
* 「今宮」という神社は、京には古社、大社、名社の数えきれず多い中で、なんともこころ懐かしいはるか平安初期から「やすらい」を願う花まつりの風情を、四季、境内に抱いている。身の奥からふしぎな安息をよび出してくれる。焙り餅の床几がよく似合う。
どうでしょう、この青空へひろげた大きな青楓のいさぎよさ、美しさ。
2017 4/24 185
* 東京へ出て来たばかりの五十七、八年も前は渋谷道玄坂辺を上品な町のように感じていた、が、今は、最低。新宿も伊勢丹・三越の界隈はもっとも都会感に 馴染んで懐かしく想い出されるが久しく出向きもしない。池袋はターミナルではあるが、五十五、六年、デパートで便宜を買っている以外に愛着という何も無 い。
結局は銀座、日比谷、築地。ときにはむしろ浅草や上野の雑踏に馴染みやすい。人生の大半を過ごしてきたというのに東京はまだまだよく知らない。隅田川の橋という橋をぜんぶ歩いて往復渡ってきた時期もあったけれど。
京都へ帰りたい。
2017 5/4 186
* 朝いちばんに京都のお師匠はんが電話で、湖の本の礼を。叔母がわたしのお嫁さんにとひそかに画策し養女にしたかったらしいとは、このまえ、本人が電話で笑い話にしていた。これは知らなかった、が、叔母にすればしそうな思案であった、かも。
いま、京都はどこへいっても中国人と韓国人ばっかりで住み着いている人らもいると聞かされると、なんだか邪魔くさくなる。
2017 5/5 186
☆ 前略 ワードにて失礼いたします。
「湖の本」をお送り頂き、有難うございました。
近年、小さな字が読みづらくなり新聞も拾い読みする程度ですが、今回の「亂聲」は活字が大きく、久しぶりに読書の楽しみを味わわせていただきました。
食通の先生が胃を全摘金満されたのは、大変なことだったと拝察いたしますが、そのぶんかなりスマートになられたのではないでしょうか?
近頃の京都の変貌は恐ろしいばかりで、もう老人がゆっくりくつろげる場所も店もありません。
先日、岡崎の泉屋博古館に行った帰りに祇園でバスを降り、小学校同窓生のやす子おばあさんが座っている「柿善」で、海苔とにしん昆布巻きとおぼろ昆布を 買って、外に出るとまるで祇園条の宵山のような人波に巻き込まれ、流されながらなんとか権兵衛の通りで北に抜け出すと「いづう」の前にもひとだかり、たつ み橋の方を見ると橋の上からあふれんばかりの人、人、人で、フェイク舞子も二、三人。
小学生の頃、あのあたりはネギやトウモロコシの畑で、今の「かにかく碑」の辺には小さな土蔵があって、中に消火用の手押しポンプが入っていた、などと言っても誰も信じないでしょうが、ほんとうに夢のようです。
末吉町の「するが屋下里」で大つつを買いましたが、ここは表の商標を描いた大きなガラス戸が不透明になっていて、店の中が見えないからか観光客はほとんどおらず、京都の老舗の落ち着いた雰囲気が残っていて好きな店の一つです。
ここから縄手通りを下がって人通りの多い四条の手前で抜けロージを通って川端通りに出て、鴨川を渡って木屋町で地下の阪急に乗るというのが、大体いつものコースです。
(頭の中で歩いてもらえましたか?)
小生の住む桂も阪急の桂駅と東向日駅の間に「洛西口」駅ができ、JRも桂川駅をつくったので大きなイオンもやってきて、あたりにマンションがぞくぞくと建っています。
便利にはなりましたが、楽しんでいた「桂の里のわび住い」という風情はなくなってしまいました。
終戦近くに生まれた小生の世代は、いまおもえば良き時代を生きてきたものだとおもいます。
あと少し何事もなく過ごせれば安らかに逝けるとおもうのですが、何やら近頃キナ臭くなってきたようですね。
最後のご奉公に玄武隊に召集されるのでは、と不安です。
末筆ですが、先生のご健康とご活躍をお祈り申し上げます。草々
西京・梅園 服部正実 写真家
* わたしより心持ち若く近所で育った人であり、この店々も辻々もありありと目にも胸にも覚えがあって懐かしいどころでない、が、よほど京都の街通りは変貌しているらしい。わたしは下駄履きで本を読みながら四條も河原町も歩いていた。
2017 5/8 186
☆ いやはかなにも
夏のはじまりの緑蔭は、ふりそそぐ陽やわたる風、そよぐ緑の色までもやはらかです。
京で勤め先の建て物は、裕福な呉服商主人の住まいだった町屋を 庭や主だった部屋はそのままに、靴を脱がず歩けるように改装したものです。今、坪庭の「いろは楓」が新緑のもと紅い小さな花を揺らし綺麗です。
毎日ながめる西の庭は「ひかりの坪庭」で明るく、奥の料亭部カウンター席越しに見える東の庭は「かげりの坪庭」で、 陰をめでるかのように植栽なども工夫されています。日がな目にする楓の花も、間もなく苔の上に散りしいて姿と色を変えてゆくことでしょう。
御作の「花と風」そして「小倉百首」のうち 小野小町に添うた一首を拝読させていただき、思うたこ
とがございます。
ながめせしまに「古りゆくもの」は、花のいろ、花の散りたるという、花のことばかりではなく、過ぎてゆく時間のことも含まれているのではないかと…
また、その「古りゆくもの・流れてゆく時間」こそが「風」ではないのかと…
突風や嵐がきて何もかも吹き払ってしまうばかりでなく、ただ日々を過ごし、褻(け)の日常を繰り返していても風は吹いいているのだと、そんなふうに思ったりしてみたことでございます。
天災が起こったり、意識的に人為の大きな力が加えられたり、また意に反して人為の代償のような事故がおきたりして、物事や世の中が変わってゆく。大風が 吹きあれ立ち向かわなければならない時とともに、普段にも そよとも気づかず吹く風のあるを忘れずに日を暮らすのが大事と教えていただいた気がします。
「花、吹きはらう風」のあることを以前『湖の本』の読者であった頃も目にしながら、その時は今よりよほど若かったので 思いの至らぬことも多うございました。またこうして再読の機会を得、そのうえ
新しい御作も読めますことがありがたく、深く感謝いたしております。
今日、「お花屋さん」のことを書くつもりでしたのに… 鈍なことでございます。また改めて、書かせていただきます。 百 拝
* 「風」とはそのような働きであり命でありましょう。それもまた生ける「花」を、ファシネートな「花」を真実身に帯びて知れること、とも。紙の花はイヤです。
* いかにも京も中京の家居は風情豊かで奥ゆかしく、空気に触れるように懐かしい。
どんな御縁があったのか、こういう大店に生まれ、わたしより一つ年かさなお嬢さんが叔母の稽古場へ、お茶にお花にと毎週通って見えていた。茶の湯の方は よく叔母に代わってわたしが稽古を見、いつしかに熱心に、みるみるうち、佳い「茶の湯」の風趣を身に添えていった人だった。不幸にも若くして亡くなった。
2017 5/9 186
☆ 風薫り
緑滴る鎌倉へ行ってきました。
小手鞠、芍薬、藤、菖蒲…。
好んで訪ねていたのは、ついつい 桜や紫陽花、紅葉の季節だったので、五月の古都は新鮮でした。
少し汗ばんだ肌に海風が心地よく、長谷寺の見晴らし台でごくっと飲み干したラムネに、初夏を感じました。
お出掛けに 至極の好季節と思いますよ。 九
* 雑踏とばんり耳に入る京都、 ひとしお遠く感じられるよ、嗚呼。
2017 5/11 186
* 弥栄中学にいら した万年元雄先生から、雅なかぎり彩々のあられを大きな缶にたくさん頂戴した。先生は、いまもお寺のご住職。橋田二朗画伯もご一緒にお三人仲良しであられ たわたしの担任、西池季昭先生は、菅大臣神社のご神職であった。京都やなあ。京都が恋しいほどなつかしい。おととい京都美術文化賞のことしの授賞式であっ た、行きたいと願ってはいたが、妻の入院がかりに無かっても、とても思い立てなかった。よほど臆病になっている。
幸いわたしの厖大量の仕事の少なく見積もっても九割は「京都」に触れて語り尽くしている。谷崎潤一郎が述懐していたとおりに、わたしも「秦 恒平選集」三十三巻ができたあとは、ゆるりと心静かに読み直せる日々をもちたい。
ただし、いま、もう複数の声で、おまえ自身で「秦 恒平論」を仕上げてから死ねと、きつく嗾されている。秦建日子に父・秦 恒平の全作を「解説」する力があるとは思われず、他の誰にも、「小説・創作」「論攷・批評」を綜合して作家世界論の書ける誰ひとりも今は思い浮かばないの だから、と。
そんな必要は、ない。さほども遠くなく、わたしは日本国は文物も自然も猛火に灼かれると感じているのだ。
2017 6/1 187
* 高校以来の久しい友、遺伝学者であった天野悦夫君の訃を、夫人が深切に伝えてこられた。
言葉を喪い、しんしんと寂しい。
昭和二十九年(一九五四)の文化の日、もう大学生だった二人で、北山金閣寺、仁和寺、大覚寺から嵯峨野の野宮をすぎて天龍寺までも歩いた。天野の撮って くれた学生服の写真が、名刺大で二枚、手札で三枚、いまもアルバムに残っていて残念にも彼の写ったのが無い。おおらかに優しい青年であった。ずうっと湖の 本を送り続けていた。寂しさを超えて悲しくなってきた。
2017 6/10 187
* 京都の星野画廊のなつかしいメールをもらった。星野さんのメールは、ありがたいことに、あたりまえにも、いっぱいの繪の印象や記憶をも喚び起こしてく れるので、いっとき、そんな空気に浸っていられる。けっこう画廊で繪を買って帰っているのを、掛け替え掛け替えするつど、朱の大鳥居のみえる神宮道、粟田 坂、白川道などが目に甦り里心を誘う。誘われすぎて恋しさに息苦しくもなる。
2017 6/10 187
* 金沢大学 法・経・文 同窓会創立50周年記念誌に書かれた井口さんの「金沢大学らくだの会創設譚」という一文を読ませて頂いた。いかにも井口さんの「青春」一断面が穏和な筆致で的確に描き出されていて、羨ましく読んだ。
わたしの大学時代など、教室では懸命にノートをとり、済めば構内から足早に京の街や郊外の寺社へひとりで歩きまわっていた。のちには、妻になる人と二人 で、ただただ歩きまわっていた。歩いているかぎり費用は要らない。貧しい学生だったが、たっぷり「京都」に学んでいた。
2017 6/14 187
* 六月逝き、京は祇園会の七月に入る。
疲れ果ててもいい、いっそ荷物最少に限り、往復の新幹線を確保、東京へ戻ったら都心のホテルに一泊休息というのは、どんなものか。京都市内は要領よくタクシーを使い廻すとしても、やはり歩くべきは歩かねば。では、どこを歩くか。
泉涌寺・日吉ヶ丘・東福寺、そして智積院・京博から、或いは東寺へ走ってから、また京都駅へ。
それとも祇園、八坂神社、円山公園、知恩院を歩いて青蓮院を経て白川ぞいに狸橋からもとの我が家の新門前通りから祇園町を四條へぬけて、残り惜しくまた京都駅へ、か。
清水寺改修工事かと。しかかりの小説のためには清水坂を建仁寺・宮川町・鴨川までゆっくり降って行きたいのだが。
* まひるまの夢か。
2017 6/30 187
☆ ゆっくりお昼をとっている間に
小雨も止み、日枝神社へ。
女坂には紫陽花や白百合もひっそり咲いていましたが、境内は夏越の祓をする人で賑わっていました。
「水無月の夏越の祓する人は」「思ふこと みなつきねとて」と心の中で唱えつつ茅の輪を八の字にくぐって、帰りには赤坂見附に出て、和菓子「水無月」「白水無月」も虎屋で買って。
カレンダーも七月になりましたね。気力・体力が回復なされることを願っています。 九
* 夏越(なごし)の祓い で 茅の輪を「8」の字に潜る。夏越の「な」は古来「蛇(ナーガ)」の意味を体していて「茅の輪」の「ち」も、むろん「おろ ち」「かがち」の「ち」即ち蛇体が成す輪。「8」の字にというのも、八岐大蛇神話に由来する。へびは、精力猛然、その力を戴くための夏越(なごし)の茅の 輪なのである。おのづと炎夏に負けまい願いがこもっている。
出雲の神話の、大国主は、また、大名貴(オオナムチ)ないし大巳貴(オオナムチ)とも敬われた。大きな貴い蛇神、巳ィさんこそが、即ち大いなる国の主なのであった。出雲大社の祭りは日本海からの「蛇迎え」から肇まる。
2017 6/30 187
☆ さ、水垂(みだれ)
一昨日の「吉符入(きっぷいり)」をうけて、京の町に二階囃子のひびく頃となりました。
今朝、船鉾町では「神面改め」の儀がおこなわれたとニュース映像が伝えていました。七月の、ひと月をかけて祭禮は続き、晦日の疫神社夏越祭まで、町は、特に中京の辺りは『ハレ』の氣ただよう場となります。
逝ってしまった六月は、私の生まれ月でしたが… 子供の頃ずっと、誰に聞いても「水無月」の疑問を解いて下さらなかったので… 誕生日が好きではありませんでした。高校に入ってから漸く「七夕の星あひの空」は、梅雨どきの七月ではなく、およそひと月あまり先の八月であり、それは旧 暦にのっとっているのだと知りました。それで漸く、年月が決まった日にちで割り切れるものではないことや「月の名」に紛れ、混乱していたことが少しずつ 解ってきました。ちなみに今日は、旧暦では(閏の月なので)五月十日です。先一昨日(さきおととい)に降った豪雨を「集めて、早く流れる川(最上川)」を (芭蕉が)詠んだ季と、疑問なく重なる月です。
打ちつける激しい雨風にさらされた、先一昨日(さきおととい)の六月三十日は「夏越祓」でしたが… 浄めの露でもあったかのように、昼過ぎからは陽も射す天気となり、たくさんの方々が茅の輪をくぐっておられました。私も夕刻に『北野天満宮』へまいり、御神事を拝見いたしました。
帰宅して夕食をとっている時、能『水無月祓』の謡いが耳から離れません。「越ゆればやがて輪廻を免る」と。
時計を見ると、午後八時からの人形流しに充分間に合う時間です。『水無月祓』のシテが出掛けたのは、下賀茂の神社でしたが… その日「夏越大祓」をなさっておられたのは上賀茂の『賀茂別雷(わけいかづち)神社』であったので、バスに揺られて行きました。
二の鳥居の前では篝火が焚かれており、廻る瑞垣(みづがき)を背に火の番をする人を衛士に見紛うたのは、老眼鏡のせいかもしれません。その先の、それは大きな茅の輪の向こうに見える、双の立砂は厳かで美しいのですが… 細殿を覆うたアクリルの板や、床に敷かれた化学繊維の安手のカーペットを目にすると、穏やかならぬ心地して… なかなか落ち着くことができませんでした。
それでも、御手洗川と御物忌川の交わる所に建つ橋殿で、二川が合流して「ならの小川」と名を変えた流れに、人形を一枚ずつ祓うように落としてゆく所作を 眺めていると、静まることができました。宮司の唱える「大中臣祓詞」がひびく中、流れに揺られ数多の人形は、斎串(いぐし)に留まったり
、また流れたりして行きます。見ていると自身が水の流れである気がしてきて、引き込まれてしまいそうでした。
全ての人形を流し終えた後、麻布を裂き、綿布を裂いて流します。その後に、参列した人々を祓った「麻緒」を結った榊を、二つ折にして、それも流れにのせるのです。「氣吹き放ちてば、失いてむ」と唱えておられるように、聴こえました。
白石の参道を歩んで帰るとき、また心が痛みます。一ノ鳥居との間に建つ外幣殿には、名入りの高張提灯がぐるり常設に吊り下がってしまっているのです。もちろん御事情がおありとは、察せられは致しますものの…
先生が、御存知の景色とは、もう大分違ってしまっているのです。
下の御社である賀茂御祖(みおや)神社は古式に倣って、旧暦に合わせた立秋前日に「夏越神事」をなさっておられます。神事の内容は、時を経て、形を変えて続けておられるようでございます。そして ‼︎ 境内に建設されたマンションはすでに完成し、分譲が始まっているとのことでございます。
花、吹き祓う風。 新しいその花は、どんな花を咲かせるのでしょうか。
花屋さんの店先に並ぶ園芸品種の花々を見る度に… 人が良かれと思って手を加えていった先に、出来上がった花々は、私には痛ましいとしか感じられません。
祗園御霊會も、凄まじい風にさらされながら受け継がれてきた祭禮であるのだと、京に暮らすようになって、より一層感じるようになりました。この炎暑のひと月は、私にとっても何かを感じながら、いつもとは違う気持で過ごす日々となりそうです。
本日も取り留めないことで、失礼を致しました。 京・鷹峯 百 拝
* なによりの京土産、こういうたよりの貰える幸せをしみじみ思う。感謝。
2017 7/4 188
* 粟田校ので、弥栄、日吉ヶ丘の同窓、もう今では数少なくなった昔の友のひとり西村明男君からメールが繋がった。近来の朗報。最晩年を、心おきなく話しあえると嬉しい。
* 豪雨鳴る。
2017 7/4 188
* 粟田校ので、弥栄、日吉ヶ丘の同窓、もう今では数少なくなった昔の友のひとり西村明男君からメールが繋がった。近来の朗報。最晩年を、心おきなく話しあえると嬉しい。
* 豪雨鳴る。
* テルさんの有り難い、嬉しい一文を貰い受けた。ここへ出すことはまだ断れていないが、内容から観て、独りでも多くの人に読んで欲しい伝えたいので、転載します。
☆ 辺野古座り込み報告―補足 2017・4・15 西村明男
(1) なぜ 座り込み?
戦後70年日本は戦争に巻き込まれず、我々の世代は戦争で命を落とすことなく懸命に仕事に励み、家族を養い、何とか年金で暮らすことが出来ています。この 後もこの平安・平和が続くでしょうか。当今の世界の情勢・日本政府の対応を見ていると何かきな臭い危うさを感じます。世の中はトランプ、安倍晋三、習近 平、金正恩たち政治家の思惑や駆け引きで動いているのでしょうか。私たち「小さな市民」はただ黙々とこれに従うほかないのでしょうか。
昨年末に沼津で「しかしそれだけではない・・加藤周一幽霊と語る」という映画を見ました。加藤さんは太平洋世界戦争時、戦争で亡くなった人たち、戦争に反 対した人たち恩師・学友と語り合います。その人たちの思いを今の世に生かしたいとの痛切な気持ちが伝わってきました。加藤さんは現役世代とも語り合いま す。志はあっても役人・サラリーマンはなかなか行動に移すことは難しい、頼りになるのは若者と老年世代だと。「小さな市民」が声を出すことで戦争を止めら れないでしょうか。
(2)沖縄・辺野古で
沖縄では「小さな市民」の声が大きな力になっています。沖縄では昭和20年はまだ終わっていません。沖縄島民の4人に1人(本島では3人に1人) が、米軍に日本軍に自分の家族に殺されました。同じことがまた起こるかもしれないと考える人が増えています。戦争が始まれば、沖縄が標的になる可能性は高 いです。辺野古は普天間からの移設だけではありません。戦闘機滑走路・空母接岸湾・火薬庫を備えた大規模軍事基地の建設が進められています。辺野古基地建 設反対闘争は沖縄の「島ぐるみ」です。これを沖縄だけの闘いにしてはならないと思います。
(3)与邦国島・宮古島・石垣島への自衛隊配備
戦争はいつも自衛の名のもとに始められます。尖閣島への中国人上陸への備え?小規模日中戦争?ありえないと言えますか? 戦争は始まると止めることができない。
(4)三上智恵監督ドキュメンタリー「標的の村」「戦場ぬ止み」「標的の島」
三上さんは東京生まれ、大阪毎日放送・琉球朝日放送を経て、民俗学を
学びながら、沖縄の人たちに寄り添いつつ貴重な映像に結実、見ごたえのある3作品を世に問われました。(キネマ旬報2015文化映画ベストテン第2位)諸兄姉にも機会あれば是非ご覧いただきたいです。 以上
* 「テルさん」と、京、祇園石段下の弥栄中学の時代から、だれもが呼び慣れてきた。高校から京大へ、そして知らない人のいない大企業で、副社長とか社長とかになったと聞いている。
そんな彼の上記の体験記であることも言い添えたい。
2017 7/4 188
☆ 今宵、境内に初蝉の声
今朝、祗園會の神用水清祓式が十時から行われていました。
神輿を、渡御に先立って洗い浄める御神事を、先生に写真でなりともお伝えしたいと思いながら、間に合わず… 残念なことでございました。
四条大橋の中程に斎竹を立て『鴨川』が其処だけ『宮川』と名を変える水を、紐で結んだ手桶を降ろして汲み上げるのを初めて見た時、「水むすぶ、つるべの縄の繰り返し…」と謡う、お能『檜垣』の一節が思い出されたことでした。
京都はこのところ、三日続けて夕立にみまわれておりましたので、今宵は如何と、心配でございましたが… 夕方になって、ようやく辿りついた八阪神社の境内には降る気配もなく、油蝉の声が響いておりました。
今年聴く、初音に耳を澄ませていると、おって熊蝉まで鳴きだして…夏のさかりを知らされました。お装束をつけた『児武者』が、御神水の湧くお伊勢遥拝所のあたりを走り回っており、遠く鉾納め所のあたりには『馬長稚児』の姿も見えました。小さなお子たちが、紅くて丸い小ぶりの提灯をさげて西楼門前に居列び、洗い浄められた御神輿をお迎えする姿は愛らしく、また素肌をさらしていてさへ暑い最中にたくさんに着込んで務めている姿は健気で、胸にせまります。赭熊をつけたお子たちは、とくに稚く… しゃがんでしまいそうになるのを励まされて頑張っておられました。南楼門から入られた御一行は、神輿ましまされた後、舞を奉納なされます。復興された『白鷺の舞』は先代茂山千之丞師が振付けられたそうですが… 詞に室町の声音がするようでした。お装束も津和野や出雲・浅草とも、違う様で… 雅びた都ぶりが伝わって来るようでした。白鷺たちが、羽をたたんで退いていく頃、東山から十六夜の月が顔を見せました。人の聲さんざめく境内に、閑かに光が降るようで…
人の声音が篳篥ならば、降りそそぐ月光は笙の音。風月同天。東の京にまでお届けできましたなら、幸いでございます。
浮きたつ心地のまま、遅くに帰宅すると、『湖の本』が届いてい、嬉しいことでございました。ありがとうございます。心して読ませていただきます。 百 拝
* 受け入れて胸の内が光るほど有り難い便りであった。幸せ者だと思う。蝉の声がそのまま耳にある。八坂神社の西、四條大路末、石段を一段一段のぼった上の朱楼門の美しさ懐かしさが身に迫るほどまぢかに実感できる。もういちどでもいいから、彼処に立ちたい。
2017 7/11 188
* さ、十一時。機械から離れます。 京都は、祇園会。宵山もまぢかく、コンコンチキチンが聞こえてくる。わたしの腸にまでしみとおった祇園会への思いは、『慈子』にある。寺町で後祭りの山や鉾をみたあと、紙屋川にお利根さんの家を訪ねて慈子に逢っている。あの静かさ、のなかに通り過ぎてきた祇園祭の本当の魅力が溶け合うていた。あの静かさへ帰りたい。
2017 7/11 188
☆ 祇園会神幸祭宵宮
今日の宵山に、出勤が遅番となって、頂戴した『湖の本』をようやく拝受いたしました。
1990年6月から、1992年11月まで。2年半をかけて先生が刊行なさった11冊の「おく、ふかく、おもい、御本」を手にすることができました。今、これから出社いたしますものですから、言葉を添えられず…申し訳ないことでございますが… 取り急ぎ、御礼申し上げます。
今朝、早くに撮った「神幸祭宵宮の八阪神社境内」の写真を添付させていただきます。ピントが合っていなかったり、何だか分からない写真だったりしてして、 失礼ではございますが… 少しでもお伝えできましたなら、嬉しく存じます。 百 拝
* 十日朝の四條大橋の儀式は、わたしも観たことがない。 鴨の清水をもってする御輿洗い、三基の神輿の中御座を四条大橋へ担ぎだして清める。まだ朝曇り、北山を遠くのぞんだ鴨川がしみじみ懐かしい。
森友も加計も安倍夫婦も、トランプも、みんなイヤイヤ。
相撲を観に階下へ降りよう。白鵬が小兵俊敏の逸材宇良の初挑戦を受けるのが楽しみ。白鵬には無事に確実に最多勝記録を積み上げた上で全勝優勝して欲しいと願っている。
2017 7/16 188
* 祇園会鉾巡幸の実況を懐かしく楽しんだ。鬮あらための所作なども楽しんだ。さすが祇園会のとほうもない大きさ深さ美しさ。
☆ 山鉾巡幸の朝
昨日、京都は夕立にみまわれ、宵山に水をさしましたが… この時期、天の浄めとも思われます。
今朝も、うす曇りで少し心配な空模様です。
添付の写真は、八坂神社舞殿にまします「中御座の神輿」です。
(今、通勤のバスの車中です。たった今、白鷺の舞う賀茂川「葵橋」を渡りました。)
このところ湿気と熱気にまとわりつかれる連日の暑さ、今日も続くようですが… (中京に入り)ハレの気配あたりに立ちこめてきて、気分も昂揚いたします。)
今朝のこと、取り急ぎお伝え申します。 京・鷹峯 百
2017 7/17 188
☆ 祇園祭
暑い日、市役所前、河原町御池角で山鉾巡行を見て、これから尾張へ帰ります。
昨日宵山はやや雨にたたられましたが、わたしは宵々山に行き、昨日は教室でした。
(中略)
今は列車の中、改めて書きます。
泉山戒光寺の仏さんに叱られに行きたいでしょうね。叱られなくてイイですが!
お元気で 尾張の鳶
* いま、「京都」の地名とともに、むせるほど想いをめぐらせている「或るモノ・コト・ヒトたち」のために、帰りの車中から、的確でたくさんな「オフレコ」のアドバイスがあった。おおかたは自身もう目を向けてはいたが、背後を支えられたようで自信ももてる。ありがとう。
* 誰もいない畳敷きの御堂にあがりこむと、内陣の奥に大仏さんがおいでになる。座像でない立像で、お顔は覗き込むように見上げる。静座したり胡座になったり、時には昼寝もした。だーれも来ない。戒光寺の丈六釈迦はわがものては言わなくても、いつも二人きりで向きあってきた。日吉ヶ丘高校に通って、一つは泉涌寺の来迎院、二つは奥の観音寺、三つは広大な東福寺の全部、それら泉涌寺末寺のひとつ戒光寺の丈六さんの御堂。安らかにいつも一人きりになれてお釈迦さんに日により叱られたり笑われたり知らん顔をされたりした。高校時代も、大学へ行ってからも、東京で暮らして帰ってくるたびにも。
たまらなく懐かしい。
2017 7/17 188
☆ あまりに
ささやかですけれど、祇園祭を思う縁のモノを 昨日郵便で送りました。
豪雨や雹、そして暑さの日々、くれぐれもお身体気をつけて。 尾張の鳶
* なんだろう。ありがとう。
* 尾張の鳶から、 蘇民将来のちまき。すぐ玄関外へ掛けた。「祇園会」最新の案内書も。役に立ちます。
2017 7/19 188
* 上に出した、八坂神社境内夜の写真は胸にしみ入って懐かしい。わたしに「神社」といえば「八坂神社」しか無いほど、慣れ馴染み親しんだ。我が家以上にわたしの「京都」だった。それに比べるとお寺はたくさんの馴染みがある。青蓮院、知恩院、高台寺、建仁寺、六波羅蜜寺、清水寺、清閑寺、智積院、三十三間堂、松源院、泉涌寺、東福寺、東寺、南禅寺、永観堂、法然院、真如堂、詩仙堂、曼殊院、円通寺、嵯峨の寺寺、醍醐や宇治の寺寺、三千院など大原の寺寺、際限もなく心親しい。
けれど神社となれば、八坂神社が恋しいほど懐かしい。鉾や山よりもわたしは金色燦然三座の御神輿が懐かしい。
2017 7/20 188
* 八坂神社の夜景にしみじみ見入る。拝殿の満艦飾の提灯の静かなあかるさ、目に染みる。
2017 7/21 188
* 京都の「まるごとイラスト・マップに見入り、詳細な地名辞典をさぐり続けている。イラストマップは遠い記憶を印象濃く甦らせてくれる。ただ、字の小ささに目をこらすのが辛い。
2017 7/22 188
* 明け方まで、中学時代の恩師、懐かしい懐かしい西池季昭担任の先生の夢を見続けていた。学校をあげての大がかりな同窓会がどこか遠い観光地で開かれていて、西池先生、シックな正装で参加して下さっていた、昔のままの元気なお若さで、そういえばわたしたちもセイゼイ社会人一年生ほどの若僧だったが、こまかしい夢の記憶はなく、ひたすら先生を懐かしく取り囲んでいた。そして会も果て、先生をどこか遠くへお見送りすべく、大きな駅まで誰であったか男子生徒と二人で町を歩いていった。
西池先生はもうとうの昔に亡くなられ、わたしは東京からかけつけ、告別式で弔辞を読んだ。先生は京の菅大臣神社の神主さんのまま、祇園石段下わたしたちの弥栄中学で数学の先生をされていた。懐かしいいい先生方にたくさん恵まれ、事実上の新制第一期生だったわたしたちは、一年生から、自主性と、進取の気象、そして社会性を植え付けてもらった。
いまも、あの当時の先生、お二人、お若かった佐々木葉子先生、万年元雄先生とお付き合いがある。
夢の西池先生、懐かしかった。列車に乗ってどこへ帰って行かれたのだろう。
* すうーっとまた夢へ引かれて行きそうに瞼が重い、朝のまだ十時半なのに。
四條の橋から鴨川越しに、遠く遠く曇った大空と北山のかげが目に見える。
2017 7/23 188
☆ 「河合」 賀茂川と高野川、出あいて鴨川となるところ
四条の橋の上から見はるかすと、川と川、であう辺りが恋しいせいか、その景色が目に映る気がします。実際は、直線距離で三キロメートル近くもあるので見えはしないのですが…
このあいだ、その辺りへ「蘆刈」に出かけました。
今、こうして私が京都で暮らしていられるのは、何人もの方々のお蔭があってのことです。その内のお一人が、草木が好きな外国のお方で、日本の伝統に興味をお持ちでいらしたので、『日本書紀』の言葉を添えて以前に差し上げたところ、たいそう喜んで下さいました。
そのような訳で今年も「蘆刈」にまいりました。朝ずいぶん早くに出かけましたので賀茂川の水面
が陽の光を映じて美しく、その光景を見た時に、先生にお伝えしたいと思いました。
もう一枚の写真は、大徳寺塔頭の庭に咲く「鬼百合」です。陽ざかりに、いきいきと咲く夏の花の勢いを、先生にお伝えしたいと思いました。
私は今、勤めておりますが(恥ずかしいことながら)お給金が生活に間に合わず、食事がままならなくなってしまうことがあります。そのような時、お寺でお掃除をさせて頂き、食事を頂戴いたします。お庭の掃除をさせて頂くだけでも、美しいものにであい、様々なことに気付く、有り難いことでありますのに… その上、お食事まで頂戴いたしてしまい… 深く感謝しながら噛みしめます。
また、先生がお届け下さる御本に捺された「謹呈」の文字を目にする度、私にできることは何だろう? と考えます。「京都の美しいモノやコト」をお伝えする。今のところ、それ以外に思いつけず… 勝手ながら送らせて頂いております。お好みに合わなかったり、的はずれであったりも致しておるかと存じますが… いくばくかお伝えできましたなら、嬉しく存じます。
京都は、連日の酷暑の中、明日は還幸祭です。
先ほど、勤め先に御縁の『北観音山囃子方』の御一行様が店に立ち寄られ、振る舞い酒の接待をいたしました。『日和神楽』の音が帰宅した今も繰り返し響いています。先生のお耳にも届きましたなら幸いです。 鬼百合 拝
☆ 波都賀志神
「葛野川、鴨川、であうところ」 今日、書き始めたメールでは、そこまで辿り着けませんでした。 また、日を改めて書かせて頂きます。 百
* 図星を指すように、当面わたしの関心へ「百」さん、接してきている。京の地理、地図が光条となって交錯する。
2017 7/24 188
* こんどは京都へ、と思う。それにしても昨日の浅草、境内も仲見世も人で犇めいていた中に、浴衣姿で写真をとっている人が「いー、ある、さん」とかけ声してシャッターを押していた。気がついてみると、群集の何割かは中国語で喋っていた、みな、浴衣姿で。京都もこうなのかなあと、妙な実感をもった。それでも、わたしは、どんな人ッ子ひとりいない京都を持っていると思っている、いまでも。
2017 7/30 188
☆ 「よろしゅう、おたのもうします。」
八月朔日に、農家の方々が新穀をおさめ「田の実の節句」として祝う初穂献上の風習が、武家の贈答儀礼「八朔の禮」に転じていったのは何時のことであったのか… 思い出せません。
旧暦に則ってなされる行事ですから、本来ならばまだ先の(今年の暦では)九月二十日ちょうど彼岸の入りの頃にあたるのですが…
毎年この日、八月一日の夜のニュースには、凛として華やいだ祇園藝妓舞子の方々の御挨拶まわりの映像が放じられます。「田の実」が「頼み」になったのだと、どなたかに伺った覚えがあります。恩義ある方に御禮を申し上ぐる日。
先生、此の度も同じ時代に生まれ合わせ、御作を読むことのできる仕合わせを、御本を送付いただいて、手にすることのできる有り難さを、深く感謝し心より御禮申し上げます。
猛暑の最中に送り出し作業の、お身体へのご負担は、さぞや…と、祈るような気持ちでおります。
何のお慰めにもならないとは存じますが… 勤め先に、八坂神社から授与されたばかりの護符がありましたのを、写真に撮ってみました。勝手ながら、添付させていただきます。
どうぞ、お大切になさりながら…と、お祈り致しております。 京・鷹峯 百 拝
* 八朔(八月の一日=朔)の今日(京)は、新門前の我が家のまえも、端麗に正装した祇園甲部の藝妓が、西町の京舞井上八千代家へ 「よろしゅう、おたのもうします」とあいさつに出向く姿を、例年、見かけた。我が家は新門前通り仲之町の東端にあり、西之町には井上流家元(=京観世片山九郎衛門家)の住まいがあり、祇園の女たちはこの日はのこらず日頃の謝意をつたえに参集する。たぶんそんなニュース映像は今日もながれるだろう。
夏の夜もすゞしかりけり月影は
庭しろたへの霜とみえつゝ 民部卿長家
なんの誇張でなくこの詠のままに、足もとから浮かぶような涼しい夏の月影を浴びたこと、何度もあった。この和歌、ただ歌合のための修辞でなく、みごとな写実であったと想う。
2017 8/1 189
* 関根正雄訳『出エジプト記』に引きずり込まれてもいる。実の父が遺してくれた『新約・旧約聖書』全一冊で長期間かけて全部を通読したときより、さすが に岩波文庫一冊でしかも平易な現代語になっているので、すくなくも前半は神話というより物語を読む感じ。加えてチャールトン・ヘストンがモーセを演じた映 画『十戒』の記憶がありありとある。それが、いくらかは邪魔でもあり助けにもなっている。
『創世記』も同じ岩波文庫に成っていて、『ヨブ記』とともに買ってある。
岩波文庫の新版『源氏物語』をアタマから読み進んでいて、小学館版の全集本で「宇治十帖」をゆっくり夢の浮橋」へ近づいている。「絵巻」月報は全三十六册ほどのちょうど半分を楽しんで、当分続く。
いま「湖の本」の校正からは手が離れているが、「選集」第二十三巻の最終稿を毎日読んでまだ四分の一ほど。新しい巻の編成で、入稿前原稿を仔細に検討もしていて、根気が要り、芯が疲れる。
食べて楽しもうという欲が失せ、自然 酒を生なりで飲んでいる、いろんな酒を。最近では岡山の「喜平」が近江の「鮒鮓」を肴に数日堪能した。いま、貴重品の「粒雲丹」を戴いているので、生協から酒の配給を待っている。
ほんとうは、京都へ行きたい。宿が取れないなら、晴れた日に富士山を眺めに行くか、温泉へ行きたい。
2017 8/22 189
* わたしは京の祇園町へ抜け路地一本で通える背中合わせの知恩院門前通りで育った。祇園は甲部も乙部もよく知っていた、両方の銭湯にかよったし、国民学 校三年生まを終えるまでは、つまり丹波へ戦火を避けて疎開するまでは、秦の母に手をひっぱられ、女湯でからだ中を洗われていた。敗戦後の新制中学は祇園町 のま真ん中、八坂神社石段下にあり、「祇園の子」は大勢が同級で、同窓生だった。なつかしい。
そんな次第で、わたしはいわゆる色里へ客として遊びたいという欲求は一滴ももたずに大人になり、そういう世界へ近寄ったこと、ただの一度も無い。女を買 うという感覚はこの身の上でも皆無だった。一代男の世之介を羨む気持ちは滴ももたないのである。しかしもう本卦還りの世之介は、と同好の友を語らい、豪奢 に渡海の大船をつくって、ありとある性具や強精・催淫の薬や食物、衣裳を満載し、はるか海の彼方の「女護が島」へ旅だって行く。ウーン、すこしは羨ましい のかなあ。
ちなみにこの世之介が僅かな期間ではあれ祝言して理想的に美しくも聡い妻女にしたのが、名高い高尾太夫だった。しかし永くは専有しなかった。
いま一つちなみに書いておく、「世之介」の「世」とは、世の中とは男女の仲の意味で、これは平安の大昔から日本人の誰もが心得ていて、近代現代人がただ 忘れているだけなのである。わたしが、閑吟集の小歌、「世間(よのなか)はちろりに過ぐる ちろりちろり」を評釈したとき、専門の学者からそうは読まな かった、学者は窮屈で」と謝られたのを思い出す。わたしの『閑吟集』をまた御覧下さい。
2017 8/23 189
* 友人たちの繪を観ている。細川君は中学で同年、堤さんは高校で二つ若く、高木さんは「いい読者」で十ほど若い。繪の描ける人、羨ましい。図画工作はに がてだった。観る方へまわって、言葉で美しいモノを書き続けた。京都美術文化賞の選者を二十数年担当した。京都にいた若いうちに観られるかぎりをよく観て 歩いた。茶の湯の御蔭で広い範囲でじかに触れたり近づけたりもした。京都はそれだけで大きな美術館・博物館であり専門学校であった。『花と風』『女文化の 終焉』『趣向と自然』『手の思索』『茶ノ道廃ルベシ』らは、いわば京都「学部」生としての気負いの卒論であった、か。
2017 9/1 190
* 朝、まだ寝坊の熟睡中に、そして昼前に京・古門前の「おっしょはん」から「枕草子」着の礼の電話を受けた。まずまず昔のままの声音と聞こえてケッコー であった。立派な邸に一人住まいなのか若い誰某らが面倒をみてくれているのかは分からないが、健康そうなのが何より。もう自分では踊れないでいるという が、弟子筋に稽古はつけているらしい。尾上松緑こと藤間勘右衛門の門下。ま、おきばりやす、元気に。
* はやばや「湖の本137 泉鏡花」一巻の再校が出そろってきた。選集二十三の再校ゲラ、選集二十四の初校ゲラがもう届いていて、湖の本も。息を呑むほ どの仕事量の上に、選集・湖の本ともに新しい次々の巻の編輯と入稿も必要になってくる。そして小説も要注意の微妙な仕上げにまさに今取り組んでいる。
病気も怪我も、とても、していられない。幸いどの仕事にもわたしは興がって打ち込める。残念だが京都へ帰っては行けそうにない。あれが食べたい食べたい などと云う欲もない。酒量だけが、気を付けないと日に二合がこなからの二合半に上がりかけていて、べつにワインと缶ビールに手を出していることもある。熱 量は摂れるが、蛋白質がつい不足しがち。
2017 9/13 190
* 玄関に小堀宗中筆と伝える雪月花三幅対のうち「月」を掛けた。
月 そらにのみ見れともあかぬつき影の
水なそこにさへまたもあるかな 宗中
「月」 一字が大きく美しく書けている。歌は、月並みだが。宗中は、小堀遠州子孫、旗本小堀家の中興をうたわれる茶人で「政優」の名とされているが、上の三幅対の箱蓋には「小堀政廣筆」と銘記されていてやや悩ましい。
この「月」の軸を廣い床にかけ、京の蹴上、都ホテルの茶室で叔母の美緑(みろく)会が釜を掛けた。のちに渡米してサンフランシスコで結婚した大谷良子さん(ロス在住池宮千代子さんの姉)を、この「月」の軸の床まえで撮った写真が一枚遺っている。
軸は、よく映えた。はなやかに思い出の多い茶会であった。淡々斎好み、みごとな「松」蒔絵の美しい「末広」銘の茶器を用い、わたしの見つけてきた「須磨」焼と称したおもしろいかき分けの茶碗を替えに使って、能「松風」を趣向の茶会にしたのを覚えている。
茶器の「末広棗」は高麗屋のお祝いに謹呈し、「須磨」の茶碗は池宮さんに謹呈した。
宗中筆と伝える「雪月花」三幅対、指導に当たっている後輩加門宗華さんに託して母校日吉ヶ丘高茶道部「雲岫会」に寄贈できればと想っているのだが、どうでしょう。
* 亡き島津忠夫さんの『老のくりごと 八十以後国文学談儀』から、「秦 恒平氏の『京都びとと京ことばの凄み』を読む」の一文を転載させていただく。
秦恒平氏は「湖の本」という創作とエッセイのシリーズを私家版でつぎつぎと刊行している。最近(平成二十三年二月)「京と、はんなり 京昧津々(二)」 が送られて来た。「私語の刻」と題する後記の冒頭には、「雲中白鶴」と題して、二首の和歌を読み、「七十五叟 宗遠」と記した平成二十三年の年賀状をおい て、賀状の返礼に替えるといったいきな計らいのあとに、正月前半の「闇に言い置く私語の刻」を摘録して跋とする。この私語もおもしろく、考えさせられるこ とが多いのだが、今回、収められている「京都びとと京ことばの凄み」という長文から、いろいろのことを考えさせられた。これは、平成二十二年の京都女子学 園創立百年同窓会での記念講演とある。
京都を離れ、東京にもう五十年以上も暮らしているが、若き日を京都で過ごした思い出が、氏に終生付きまとっていることは、今まで何度も書かれ、読んで来 た。「京都に五十年、六十年暮らしている方の京都より、また幾味かちがった、歴史的な視野と批評とに培われた「京都」が見えている」という立場、これは私 も重要だと思う。
京ことばを散りばめられながら、話されて行く中に、平安朝文学を研究する上にも多くの重要なヒントを与えられる点がある。
では京の「美学」つて、何でしょうね。
春は、あけぼの。
これが「京の美学」です。これだけで、モノの分かった人になら「十分」なのです。
という。「春は、あけぼの」といえば、当然『枕草子』(雑纂本)の冒頭が思い出される。もとより、そうなのだが、氏は、「佳いものをいくつも選び出す。それぞれに、順序を付ける。つまり「番付け」をする」ことだと。
ある日、皇后さんは女房たちに、問題を出しました。
春夏秋冬、季節により、もっとも風情豊かな美しい「時間帯」はいつやろね…と。
女房たち、質問に身構えます。
まず「春は……」と聞かれて、おそらく、いくつもの答えがブレイン・ストーミングよろしく口々に出たことでしょう。しかし皇后さんは、そのなかから、 「あけぼの」という趣味判断の力に、最良の価値を認めました。そして、書記者として優れた才能を認めていた清少納言に、「春は、あけぼの」と記録を命じた のでありましょう。これぞコロンブスの卵と同じでした。かくもみごとな選択の出来たことで、定子皇后のサロンと、記録『枕草子』とは、歴史的な名誉と評価 とを得たのでした。
研究者による論文ではないから、考証はしていない。しかし、『枕草子』の性格と定子サロンの一面を生き生きと映し出しているではないか。
「京ことば」は、まさに千年の政治都市の培った「位取り」の厳しい日常の暮らしを、その現場感覚を、反映しています。夥しい敬語の微妙な「敬」度差は、それが世渡りの武器として駆使されてきた実態を、まざまざと、反映してあまりある。
という敬語の問題、それを、「祗園まぢかに生まれて七十五年、京都を一歩も出なかった」叔母を、にわかに氏の東京の家に引き取っての話、
お医者さんがこう「お言やした」、御用聞きがこう「言うとった」、御近所の奥さんがこう「言うたはった」、それを直接話法のまま全部京都弁に翻訳して叔母は喋ります。(中略)
それにしても叔母の翻訳の見逃せない点は、例えば、「慣れたかな」が「お慣れやしとすか」とか、多分「風邪をひかんようにね」と言われたのが、「お風邪 おひきやしたらあきまへんえ」とか、相手の普通の物言いを、自分に対する「敬語」に置き換えていることです。私でさえ聴き過ごすほどですから、京都慣れし ていない妻や子や、よその人の耳には、ただもうもの柔らかな物言いとしか響かないということです。
という、氏に取って卑近な日常の実例を取り上げて、
暮らしの現場で、コンピューターなみに「人の顔色」を読みながら繰り出される、その場その場での「物言い」の微妙さこそが、「京ことば」の、ひいては「日本語」の、タンゲイすべからざる、怖さ畏ろしさなんです。
という結論に導いてゆく。『源氏物語』に見る敬語はまさしくこうした見方を肌で感じながら読んでゆかねばならないのだと思うのである。私は三十年以上も名 古屋の「源氏の会」で『源氏物語』を読み、放談を繰り返している。いま「玉鬘十帖」を読んでいて、源氏方と内大臣方への微妙な敬語の違いを、注釈を頼りに 説明しているのであるが、これは、当時の女房社会では、それこそコンピューターなみに使われていて、作者はそれをいきいきと描き、当時の読者はそれを直ち に感じ取っていたことだろうと思う。
* 日ごろ思いかつ語ってきたわたしの要点を、平安文学・中世文学の泰斗であられた島津さんにきちんと読み取って貰えていたのだ、嬉しいことだ。折しも「枕草子 現代語選訳」を湖の本で出したばかり、わたしの思い切った現場感覚のかつて例のなかった読み込みを、「『枕草子』の性格と定子サロンの一面を生き生きと映し出している」と受け容れて戴けたのは、まことに嬉しいことだ。「敬語の使い分け」という京都びと日ごろ微妙の物言いを源氏物語の読みで裏付けして戴けたのも嬉しいことだ。
2017 9/17 190
* 「墨彩」という古書画ま写真誌が送られてきた。べつに珍しいことではないが、送ってきた「わたなべ」という店が、京都市東山区新門前中之町の花見小路 西南角と略地図までついていて驚いた。この現在「わたなべ」のある同じ場所、わたとの育った同じ中之町の町内に、わたしが京都を離れるまで近藤さんという やはり古美術や版画系の店があり、幾つか上の兄上級生と妹同級生と、もっと小さい弟がいた。縁があるかないかは知るよしないが懐かしかった。ちょいとメー ルで、「懐かしく」とも書いて送った。新門前通りがふわあっと眼に浮かぶ。
2017 9/21 190
☆ お元気ですか
すっかり秋らしくなりました。今日は雨になりました。
頑張ってお過ごしの様で何よりです。
今日は雨のなか用事が出来て! 出掛けました。
懐かしい界隈で手にいれました、ご賞味下さい、明日夕方に着くかと思っています。
今年中に帰郷出来たら良いのにな!! 日々御大切に 京・北日吉 華 高校後輩
* ありがとう。
* 三日も余裕が有れば、帰りたいと願うが。思い切り、であろうか。
2017 9/22 190
* わたしの小説は、たいてい京都に触れている。小説の仕事をしていると自然に京都に触れてられる。今日もそんな時間を持っていた。
* 晩がた、京都の「華」さん、東山安井「柏屋光貞」の京菓子「おおきに」を抹茶に添えて送って来てくれた。なんと懐かしくて美味しいか。安井は祇園の南 寄り、建仁寺の東、絵馬のおもしろい安井金比羅宮がある。「おおきに」とはおかしな名付けと思われるかしれないが、祇園の舞子藝妓たちは日ごろから「お互 いに 思いやり 気をつけ合うて にっこりと」と躾けられ、「おおきに」を、欠かさぬ口ごとにしている。わたしがきっと懐かしがるとよく察して選んで、こ の日ごろ草臥れきったわたしに送ってきて呉れたのだ、「おおきに」ありがとう。
先日は、大学で妻と同期の友達が、「京便り」のいろんなパンフなどをやはり好きな和三盆を添えて送ってきてくれた。
みなが、元気で元気で長生きしてくれますように。
わたしは独りの孤りっ子で育ったので、根が、すこぶる人懐かしいタチなのである、根の哀しみを琴線に晒して暮らしてきたと思う。
2017 9/23 190
☆ 先日、
ご近所のお寺の庭を掃いておりましたら、積み重なった瓦の中に「祇園まもり」を見つけました。謂れは、聞けずじまいでしたが… 何か、不思議を感じました。
空が高くなりました。手をつきあげて、背伸びして、思わず駆け出したくなるほど良いお天気です。
でも…駆け出す元気はないので、ゆっくり秋を楽しみながら、のんびり歩いてきます。 鷹峯 百
* 京の散策 羨ましい。鷹峯からは西山まわりに金閣へも、北山ぞいに紫野や船岡へも。「空が高く」という嬉しさが目に見える。ゆっくり、のんびり、それが今は最良の境涯。大切な元気は、だれもかもしっかり抱きしめていて欲しい。
2017 9/24 190
* 「なんにも言わんかて、分かる人にはわかるの。分からへん人にはなんぼ言うても分からへんの」と京都で中学生の昔、上級生に教えられた。大人になって それをどこかに書いたら、当時高名な数学の大家が、「そんなことの言える女の子が中学にいよる。京都はすごい」とどこかに書かれていた。
わたしは、「分からへん人」にも懸命にモノを言うては失敗し嫌われてきた気がしている。
2017 10/2 191
* 先日、わたしの育った京・東山新門前の美術商「わたなべ」から図録「墨彩」を送ってもらって、返信かたがた故旧の思いでメールしておいたのへ返信があった。懐かしい内容に富んでいるので、記録させて貰う。
☆ 秦 恒平 様
お便りありがとうございます。また、お返事遅れまして申し訳ありません。
新門前、古門前界隈は昨今の海外からの観光客の関係で様変わりしております。
私は、古門前切通(きりどおし)どんつきの思文閣から15年前に独立しまして、近藤さんと同じ場所で商いをさせてもらっています。
私が中之町(=秦の育った町内)に来るまでは、近藤さんの後をご親戚の横田さんが版画(浮世絵ではなく近代作家の創作版画)を商いされていました。
横田さんは怪我をされて息子さんも跡を継いでくれない理由で、店を畳まれました。横田さんがお便りの馴染みの方かどうかわかりませんが、今は比叡平にいらしゃるようです。
そのあとへ私が入ったわけです。
様変わりを一報します。
古門前の林さんの立派な家は本年に取り壊されて、その跡地に只今旅館が建設中です。
申し訳ないのですがハタラジオさんの場所の記憶は私にはございません。
花見小路新門前の東南角には金光教さん(数年前に全焼、その後再建)、その東隣に古美術の中島さん(ゲンサンは亡くなり孫が店主) その隣が一階が店舗のマンションビル(ここですか?) そのまた隣が(鬘の=)八木源さんとなります。
(東の梅本町の=)美術倶楽部前の鶴来さんは店を畳まれ(店はそのままでご夫婦でお住まいされています。)美術倶楽部隣の真珠の駒井さんも店を畳まれ、数年前に新しいビルになりました。
繩手のたる源、今昔、新門前の菱岩は健在です。
その他いろいろありますが、移り変わりがこの数年で激しくなりました。
どこか気になる所がありましたら、出来る範囲で偵察に行きますのでお知らせください。
それでは簡単ながら現状報告を終了します。 新古美術わたなべ
* 声を放ちたいなつかしさいっぱいの便りで、興奮した。
古門前の林本家・別家・分家からも、縄手のたる源、今昔、切通しの菱岩からも、叔母の稽古場へお茶・お花の稽古に何人も通って見えていた。わたしが叔母に代わって代稽古したこともしばしばであった。
「わたなべ」の今ある同じ場所・家で、三つほど年かさの秀才先輩、同学年の女生徒、少し年離れた弟がいた。お母さんという人が、お父さんとべつに二人一緒に暮らしていた。
古門前の「思文閣」会長とは、理事時代の「美術京都」へ呼んで対談したことがある。息子の社長がお宝鑑定団で古画の鑑定に出ている。
新門前通りの東際には京都美術倶楽部があり、その西に駒井という真珠の専門商、向かい南側に「鶴来」という古美術商があり、古風なマントをきて雪駄の大 将が、妙にひそひそとよく我が家のわきの抜け路地を抜けて祇園町へ脚を運んでいた。新門前通りは、文字どおり美術骨董の店通りだった。中の町、梅本町の表 通りには、ほかに煙草屋、散髪屋、饂飩屋そして我が家のラジオ・電器屋しかなかった。戦後になり、「鬘」を扱って時代劇テレビによく名の出てる「八木鬘」 が加わった。
西の町へ行くとも瓦屋、仕出しの菱岩、花岩、それに井上流家元などがある。
2017 10/2 191
☆ このあいだ、お彼岸の中日に
「み吉野」まで行ってまいりました。
京都駅から近鉄線で橿原神宮前駅へ。乗換えて下市口駅へ。
そこから、バスに揺られて丹生へ。またそこから、吉野へ。
思いもかけず、丹生川と吉野川の清らな水に触れてきました。
計画をたてて出かけた訳ではなく、急に都合がつかなくなった同僚の代わりに『丹生川上神社』と『吉野水分神社』の御朱印をいただく役目を仰せつかっての「吉野ゆき」でございました。
同僚のお母様は病が重く、御朱印を目にしたい「ご神水の山水」を口にしたい、と願っておられたので… お役に立てるならと思い、出かけましたのですが…
独り山間の道をバスに揺られながら、車窓を眺めての小旅行は、かえって私が佳い機会を与えてもらったのだと、後から気付きました。
前日の雨に潤った樹々の緑は美しく、一斉に咲いた淡黄色のタラノキは身を震わせるように風に吹かれて花を散らします。また、白い小さな金平糖をたくさん 纏ったように見える虎杖(いたどり)の花も、粉雪が舞い散る美しさです。水辺に向かって葛の葉がなびく様は、銀地の屏風を後ろに立てかけて、いつまでも愛 でていたい見事さでした。
秋風に葉の舞い散るころ「秋山吾者(あきやまわれは)」と詠んだ『額田姫王』を思い出します。そしてお能の『国栖』が想われて、それと同時に先生のお書きになられた『秘色』 の様々が胸の中を駆け巡ります。
『選集・第二十二巻』を拝受して、頁を繰ると、吉野川に架かる橋に先生は立っておられました。
眼差しの先にあるものを、お伺いしてみたい。
でも、教えていただいてしまったら、それは一つきりになってしまうから、そっとしておいたほうが良いのかしら、とも思います。
「美しい」モノとコトとオモヒとを書いて下さった御本。
ゆっくり読むことで過ごす豊かな時間を頂戴いたしたと、嬉しい思いで一杯です。深く感謝申し上げます。ありがとうございました。
秋野の美草刈り葺き宿れりし宇治の宮処(みやこ)の假廬(かりほ)し思ほゆ
額田姫王の歌ではないやも、とのことですが…
「美草」は「尾花」と聞き及び、吉野の川辺に咲く「薄」を撮ってみました。一緒に写っているのは「紅虎杖ベニイタドリ」で、向こう岸に見えているのは吉 野杉です。添付させていただくには、余りにも…はきとしない写真ではありますが… 「紅虎杖」の別名は「明月草」とのこと。中秋に免じてお許し下さいませ。
吉野の秋の 芒・紅虎杖
先生が写っていらっしゃる四十数年前のお写真の、多分少し川下の最近の光景です。
そう言えば、歌にある「宇治の宮処」は、行宮が営まれた「下居」の辺りとおっしゃる方がおられました。。
長々と思いつくままに、失礼を致しました。
『秘色』を読み『枕草子』も読み、届けていただいたばかりの選集も開いており、興がおさまりません。
でも、落ち着いて! ゆっくり楽しんでまいります。 京・鷹峰 百
* 感謝。
* 京の神宮広道(粟田口)の星野画廊が新発見の小波魚青の大作「戊辰之役之図」を報せて呉れている。伊達宇和島藩の若者が目撃のまま写生し二十三年後に内国勧業博覧会に出品し褒状を得ている。「大政奉還150周年記念展」を開いていると。
知恩院三門から瓜生石、青蓮院を経て粟田坂を下りながら平安神宮の大鳥居を。星野画廊は坂の下、三条通を渡ってもうすぐ東側にある。行きたいなあ。
2017 10/4 191
* 京・山科の馬場俊明さんから頂いた絵葉書でのお便り。その繪写真が、三條大橋西北詰めから東山を眺望していて胸が熱くなるほど懐かしい。しかもこの写 真にはわたしの通学した鉄筋三階、屋上に重要文化財の火の見櫓を載せていた白堊の有済小学校校舎が見えない、無い。いつごろにあの校舎が新築されたか覚え ないが、ソレより以前の光景だとはっきりし、またひとしお懐かしい。三条京阪駅は昔、昔の感じでしかと見てとれるが、驚いたことに、大橋東南詰めに、まる で絵本に出てくるまるで玩具積木のような、背の高い飾りたくさんな小さな塔まで載せた洋館が建っていて、これは、わたしの記憶に、まったく無い。厭わしく はないがまったく不似合いな建物、何だったのか識りたいもの。
この、縄手道(大和大路)が三条大通りを起点に南へと起きている辺には、三縁寺はじめ数軒の寺院が並んでいた。それで、そうしたあたかも「寺壁」の東手 一帯をあの辺では寺裏と呼んでいた。「松竹」の発祥地とも想われている、また祇園会真四角の一等重い御神輿をもっぱら祇園会には担いで出る若松町・若竹町 が其処にあった。
そのはるか、遠い東山の山懐には知恩院三門も大きな御影堂もその大屋根を白う浮かべて見えている。
三條大橋は、擬宝珠もそのままに何変わってもいない。小雨なのか、日照りなのか、傘を差した人もいる。いま、この橋の上も外人さんでいっぱいなんだとか。
母校有済校の辺とみえるところにはあの火の見櫓らしきが小高く見えるとともに、ひときわこんもり大きな木立の影が立っていて、校庭北寄りに木曽義仲愛妾 を祀った碑とより添っていた天文記念物の大椋の樹であろうと思う、あの辺、古門前通りや縄手の町屋には他にそんな大木は無かった。
絵葉書には極めて薄れた細字ながらかろうじて「水清き加茂川に架る三條大橋(京都名勝)」とかつがつ読める。その上には英字で同文とおぼしきが印刷されている。「絵葉書資料館」のハガキらしく、詩人のあきとしじゅんさん、お心入れのお便りと感謝する。 2017 10/7 191
* 昨夜「尾張の鳶」が送ってくれた仏様は泉涌寺山内戒光寺の丈六釈迦像であった。京の立像では昔から三番めに丈高い仏様として知られ、日 吉ヶ丘高校時代から数えきれぬほど独りで御堂にあがっては向かい合ってきた。ま、何かと叱られに参ったのである、送られてきた動画には、添って、お坊さんと見学らしい客との対話のような場面も 在り、じつは此 の戒光寺本堂でわたしはついぞ参拝の客人はおろか住持の僧ともたった一度も出会ったことがない、いつもお釈迦様と二人きりの時間を満ちたりて過ごしていた。で、ま さかと、戒光寺と思われず、ひょっとしてあの泉鏡花「龍潭譚」最後の場面になるお寺かと想ったりしたが、訝しんでいた。
今朝「鳶」 がメールで一と言、戒光寺と報せてくれた。ありがとう。京都で、どこが一等心静かに成れたか、それは泉山の来迎院、戒光寺、そして東福寺、八坂神社だった。
戒光寺ならお寺に大きく「丈六釈迦」とあったように思う。
* 不思議に動く写真を、ここへ取り込むスキルを持たず、惜しい。
2017 11/3 192
☆ 辰巳大明神
奥様の日に日にご回復なさってゆかれるご様子、何よりでございます。
昨日、祇園のお茶屋さんに配達にまいりました折 『辰巳大明神』の前を通りかかりましたので、思わず手を合わせました。
主にお商売の繁盛や、芸事の上達を願う神社と存じながら… 奥様のご快癒と、先生のご無事を祈らずにはおれませんでした。
お届けした帰り道、もう一度通りましたので、今度は鳥居をくぐり、鈴を鳴らして拝しました。そして、櫻の葉がもみぢして綺麗だったので、先生にお見せし たいと思い写しました。時間が気になり、気が急いて、一枚しか撮れなかったので… ちょっと曲がったような写真ですが…添付させていただきます。小さくて見えないかもしれませんが、お供物に卵が六個あがっているのも写っています。
御二方ともにご自宅で、お過ごしになる日の早く訪れますように、祈ってまいりました。
お昼は暖かくても、朝晩は冷え込む日々が続いております。
どうぞ、くれぐれもお大切に、お身体おいとい下さいませ。 京都 百 拝
追伸
ほんとうに、よろしゅうございました。
退院のお日にちが決まられたと。
夜中に目が覚めて、先生のHPをひらいて知りました。
お祝い申し上げます。
ご快癒をお祈り致しております。 鷹峯より
* ありがとう、ありがとう。
何と黄葉し落葉しかけた「辰巳さん」の懐かしい風情、我が家から軽く駆け足すれば二分とかからない新橋ぎわに祀られている。小さい頃からいつも祠を眺め 眺め秦の母や父につれられ、祇園の廓なかの銭湯、松湯や鷺湯へかよった。女湯は、男湯の倍以上も広かった。わたしは平気で三年生ぐらいまで女湯で母にアタ マなど洗われていた。
* も一度、ありがとう、と。不徳ナレドモ孤デナイ嬉しさを身に痛いまで感じる。
2017 11/9 192
☆ 秦 恒平様
前略
いつも「湖の本」をいただき恐縮しています。
毎回九割がた読んだら少し感想を記してお礼をと思い続け何年もたってしまいました。毎度六七割読んではバイト嬢や姉に廻して感想を聴いたりもしています。『亂聲』には感嘆の声をあげています。
一冊一冊、姉に読ませたいのですが、手離せば戻って来ないのでは、と思いなかなか送れません。店の手近な場所と、家の、ベッドから手が届くところに置いてます。
お前は今 何をしているかと問われれば、少し返事に窮します。
何もかも中途半端のままです。
(長い 中略 どうしてどうして旺盛な活動と想えるが。)
愚痴ばかりでご免なさい。
個展も 約束のカザフスタン バタペストも 来年後半には実現できたらと思ってます。
来年はパリ・京都姉妹都市六○周年(今年?)で 個展の話が持ち上がったり消えたりしてますが、
来年五月には北白川伊織町のロンドクレアントという梅マヤオさんのギャラリー 三十五点位の個展を予定しています。これは秦さんらもDMを送らせていただきます。
(優秀な二人の科学者の息子さん達について 中略)
くだくだしく自分の事を書き連ねましたが、
秦さんの驚異的なエネルギーに感服ばかりしていないで、爪の垢でも煎じて飲んで、来年から頑張ろうと思っています。 敬具
甲斐扶佐義 写真家・エッセイスト 京・木屋町 八文字屋主人
* 焼けた、元の「ほんやら洞」の主人、亡き兄北澤恒彦の年来の同行者だったと。深くは識らないが、京都の市井を優れた写真で確保して行く藝術家で、京都美術文化賞にも選考し、「美術京都」へ招いて巻頭対談したことも佳い写真集がたくさん有る。
久しく会わないが、兄恒彦に繋がる故旧として、わたしには唯一というに近い知友である。
甲斐さん、長い手書き手紙とともに、来年の「甲斐扶佐義カレンダー」を三册も送ってきて呉れた。これが有り難い。来年からは新日鉄のカレンダーが来なく なる、多年塩漬けだった株を手放したから。美術系の美しいカレンダーを呉れていた松下圭介君も亡くなった。来年は佳いカレンダーに不足かなと案じていたが 甲斐三の写真を家のあちこちで楽しめる。なんだか希望がふくらむ。
☆ 拝復 湖の本137『泉鏡花』4冊、拝受しました。早速、ご送付くださいまして、誠に有難うございました。奥様が手術入院されたとのこと、心身共に お忙しい時に申し訳ありません。心よりお見舞い申し上げます。恐縮ながら、書籍代として計1万円を送金させていただきました。ご査収ください。
先日の台風で、帰宅時に乗ったJRが暴風で停まり車内に閉じ込められたことから、風邪をひきました。10月下旬に台風とは気候がおかしくなってきていますが、京都も紅葉が美しくなってきました。 草々 田中励儀 同志社大教授
*「京都」の声が聞こえてくる。ほんとうに、そろそろ京都へも帰れるかしれない、少なくもこの三週間、わたしは杖を手にしていない。歩行はしっかりし、自 転車にも二十日の日の病院へ駆けつけのとき転倒したけれど、以降は危なげなく乗り繋いできた。「尾張の鳶」に頂いた収納力のある安定した背負い鞄がどんな に役立っているか、御蔭でわたしは両手を開放できていつでも使える。病院へモノを運ぶにも実に有効に助けられている。
2017 11/10 192
☆ その後いかがですか
大変冷たい日々が続きますが、いかがお過ごしですか、
京都も紅葉が見頃になりました、
先日嵯峨へ用事があり出向きました、
外国の観光客が多くて、東山も同じく、その上、国宝展、東福寺の紅葉で 日本人も大勢の人出です、結構な京・東山に住んでいるので大変も半分です、
久しぶりに買い物に出ましたので 何か美味しい物を、手が掛からず、食せるかと、今回はスープにしましたが有名ホテルは撤退されて 良さそうな物が見付からず、適当な物を送りました、明日午後に届くとか? ご賞味下さい。
奥様も家に帰られるとつい無理に成りますので 十分に、無理せずにご静養されます様に、
来月は早ゃ顔見世です 南座の耐震工事がまだ出来ず 今年は岡崎の旧京都会館での顔見世です、1日に行って来ます。
くれぐれも無理をされずに、今年を過ごされます様に。 京・北日吉 華
* 山茶花に染みし懐紙に椎の実を
ひろへば暮るる東福寺僧堂
はりひくき通天橋の歩一歩(あゆみあゆみ)
こころはややも人恋ひにけり
十六、七歳、高校一、二年生の頃は、東福寺紅葉の秋もひっそり閑としていた。夕暮れの境内がことに好きで、こころこめて短歌をつくっていた。授業途中で教室を抜け出ては東福寺や泉涌寺を訪れていた。
* 華さん、いろんなスープを沢山送ってきて下さった。感謝。ひとしおの日吉ヶ丘の青春を感じさせてくれる人で、郷愁をかきたてられる。「どこもかしこも人出で、結構な京・東山に住んでいるのは大変も半分です」とは贅沢な嘆声。人出の一人になって歩きたい。
2017 11/23 192
* 美しいものを見たい、出会いたい。久しぶりに戒光寺の仏様に逢い、思い和んだ。
2017 11/24 192
☆ 京・光悦寺 鷹峰界隈(の写真を添えて)
美しいものは、生きることを支えてくれる。
目にうつる、鮮やかな色も。
心にひびく、先生の言葉も。 鷹峰 百 拝
☆ 紅葉
帰国して時差ボケ数日、そして今は京都の紅葉を楽しんでいます。鴉には羨ましがられてしまいますが。
東福寺の人出に疲れて昨日は友人と植物園、上賀茂神社、本法寺へ。
今日25日は天神さんに行きます。
白楽天の本、岩波文庫に全詩がまとめられているか不明ですが、お手元に届くと思います。吉川(幸次郎)先生の本も。
機械の不調を解決できたらと願っています。
寒くなってきましたが、くれぐれもお身体大切に。 尾張の鳶
* 選集の仕事が、編輯が「京都」へ動いているので、京の便りはひとしお身に沁みる。京そだちだから成った仕事、京育ちでなければ成らなかったろう仕事を、莫大にと云えるほど積んできた。
ただ、思うのである、わたしの京都には、二年にも満たなかったが京都府下の深い山村疎開暮らしも含まれていて、この体験には感謝を禁じ得ない。俳優のひ の野正平が自転車で日本列島をはせ廻っているあの「故郷」感覚をわたしは、一方で京都市街での暮らしと同列にあの丹波の山奥にも篤くまた熱く抱いている。 京都や東京だけが日本ではないという国土愛を大事に大事にしている。処女作の「或る折臂翁」も文壇処女作「清経入水」も丹波というわたしの「京都」に根を 生やしたのだった。時折り、ひの正平にてがみを書きたくなる。
2017 11/25 192
* 京都の、さまざまに美しい精緻で清潔な「竹垣」編みの至藝に憧れて外国の男性が、京都の職人さんに弟子入りして、竹という素材が秘めた性質をそれは見 事なに生かしながら、さまざまな組み方で「生け垣」編みの稽古に打ちこんでいた。光悦寺垣、南禅寺垣、龍安寺垣、建仁寺垣、智積院垣等々の精微な割り組 み、 身の痺れそうな感激でわたしはテレビ画面をみつめていた。教える人、習う人、見まもる人たち、素晴らしい文化交流である。神懸かりに頑なな観念論な どに微塵も煩わされず「竹」の命を不思議なほど精微に汲み取りながら美しい竹垣が出来て行く。
もはやモンゴル人の相撲イジメに凝り固まってきたような、神懸かりにいかがわしい「相撲道」「角道」談義を朝から晩まで毎日聞かせる連中の、汚らわしい ほどのしたり顔、あまりにバカげて見える。バカの一つ覚えに神事神事と掘り返せば、果ては何が現れ出るのか分かって喋っているのだろうか、どれほどのこと を頭に入れてああも舌足らずに依怙地に吠えているのか、「竹」一本を生かした職人藝の清らかさに感じ入った目には、胸には、相撲屋たちの夜郎自大、浅まし い気さえする。
2017 12/4 193
* 京の華さんから、抹茶とお菓子を戴く。いつもいつも、戴いている。京都の、東山区のいろんな地図を送って下さる。地図があればわたしはいくらでも好きなままに歩き回れるのだ、京都なら。昔の京都が目に、脚に、肌によみがえる。
いま無性に、小松谷正林寺界隈へ思いが走る、しかも森々とした夜景に。わたしの小説がその辺で迷子になっているのです。
2017 12/21 193
* 京都府から、文化賞受賞者の明けて二月一日のパーティ招待状が来たが、寒さ真っ盛りの季節で、遠慮の他はない。
2017 12/25 193