ぜんぶ秦恒平文学の話

京都 2023年

 

* 元旦の年賀状、意匠のベスト5。今年も、京都の川浪春香さん「読書」作画が秀逸。四国の星合美弥子さんの梅花うさぎ、石川県能美の井口哲郎さん「ゐねむり」うさぎの絵と書、高麗屋白鸚丈の「迎春 立ちうさぎ」の絵 そして、絵ではないが、並ぶ人無い服部正実さんの大屋根瓦「鍾馗さん」の豪快な風貌。
東工大卒業生も、鷲津くん、菅さんら、変わりなく十人に余って嬉しく。
中学の友は、健在社会活動の西村テル(明男)さん、同期の渡辺節子さん、一年下の才媛八木一子さん、小学校ではお嫁候補だったとか「オッ師匠はん」の大益貞子がいた。
昨晩テレビの歌舞伎に出演していたの高麗屋松本幸四郎クンからも、歌人俵万智サンからも、丁寧にご挨拶が来ていた。
2023 1/3

* 正月三ケ日が過ぎようとして、はや疲労の極にある。なにをしたでもない、小説を読み返して先を窺い、また、年賀状から住所録へと。後者は目疲れがひどいが,必要な仕事。一般教育の教授を退任して、はや四半世紀に逼り、それでも親しい年賀状をくれる卒業生が十人に余るとは。わたしを覚えてて懐かしくも親しくも想っててくれるのだ、かつての私自身にそんな大教室・一般教育の先生は(専攻の三先生のほかに)無かった、年賀状を差し上げ続けもしなかった。「先生」と呼んで今も恋しいほどな方々は、やはり中高校の頃の先生方になる。決して忘れない。
2023 1/3

〇 感謝  只今 湖の本、届きました、変わらず長い間続いていますね、楽しんで読ませ頂きます、近日は頭の方がふらついて一寸おかしくなったのかと? と思ったりしています。
21日土曜日には日吉ヶ丘(高校)へ、久し振り、雲岫会の初釜に行って来ました、懐かしい限りです、良い思い出です。花びら餅もおいしかったですよ。
まだしばらくは寒い日が続きます。お体を大切にお過ごし下さいませ。 華

* 「雲岫會」とは、私が日吉ヶ丘高校生だった二年生の昔、学校へ申し入れて創設し、一切の稽古も指導していた「茶道部」の名で、茶室に「雲岫」席と命名されていた。佳い茶室だった。「華」は、私の三年生時に一年生で入部、作法最初の割り稽古から点前左方その他私の師導を受けて、なかなか美しい行儀作法の部員だった。久しくも久しい今もお茶人。懐かしい。七十年の餘もむかしに出会い、卒業後も大人になっても、途絶えなく続いた親愛の後輩。私の通った京都幼稚園のごく近所住まいだった。茶名は、宗華。私は、宗遠。懐かしい。近年に夫君を亡くされ寂しい日々と。お元気で、達者に、どうか。
花びら餅は、我が家での叔母宗陽の絵画お正月初發釜にはきっと用いた佳い凶和菓子なのである、日吉ヶ丘茶道部の初釜も同じ老舗の花びら餅で祝っていた。
2023 1/23

* イヤな夢は見なかったが、自身、追憶を漁(すなど)るように、むかしむかしの教室や校内や、近所にいた幼少の友の名や顔を数えるように想い出すのが、もっとも平和な嗜眠効果になる。みんな、京都。東京での夢はみたことが無い。市街を占拠して横行する゛ャングのような集団に夢で脅されるようなことは、「京都」の夢には無い。

* 京都のことで新ためてビックリは『参考源平盛衰記』で出会った「将軍塚鳴動」のこと。将軍塚へは数え切れないほど東山を登っていて、「塚」の上まで挙がったりしていた。一人のことも友だちとのことも、時には中学の教室から、先生も一緒にみんなでワイワイと登って清水寺の方まで散策したり。で「将軍塚鳴動」なんてことは、祭神田村麻呂へささげ゛た「お世辞」ぐらいに感じていた何も調べなかった。相前後してのものすごい大地震が日本列島を奔走したように読み途中の参考『盛衰記』に教わった。識らないで来た「れきし」はまだまだ山ほど在るのだ。
2023 1/25

〇 ご本ありがとう。秦 兄
齢相応に身体は部品交換をしたい器官を各所に持ちながら、何とか今年も越年できて安堵しています。福盛、藤江、団、明さん、渡辺節子、中村(山口)節子らも元気に越年の由、賀状が届いています。
今夜から明日にかけて大雪との予報どおり、午前零時の今、雪は降り続いています。数年前までなら、朝一開門と同時に、圓通寺の庭の雪景色の写真を撮りに出掛けたのですが、今は僅か3分ほどの距離が億劫で その気になれません。
二冊目の世直し本も書きはじめたものの、網膜剥離の術後も左眼はほとんど機能せず、片目でキーの打ち損じなどが多く、中々捗りません。
打ち損じといえば、兄の「湖の本」の安倍晋三が安「部」晋三に化けていましたよ。
安倍が銃殺されたニュースを見た時、最初に脳裏をかすめた四字熟語は「因果応報」でした。
萩市にメール友が居ますが、安倍晋三の祖父の安倍寛は地元では聖人と崇められた人格者で、東条首相に退陣を迫り反戦平和主義を貫いた政治家であったとか。因果応報も母方の祖父である 岸信介のDNA遺伝子のためでしょう。
岸一族の被害者の一人、山上徹也の裁判が注目されます。
又 メールします。体を労わって下さい。  辰

* ナントナント。あの圓通寺ちかくの住まいとは、羨ましい。私が小説の中で寺院を印し商的に初めて描いた、描けたのは『畜生塚』であったと懐かしく想い出す。愛しい「町子」と、ふっとぷように市中から馳せていったのが、新聞記事に誘われての感動の「圓通寺」体験だった。「町子」は私の書いてきた数々のヒロインの中でも突出して読者に愛されたと思われる。その愛が後押しの力に成りわたしは「作家」への道を誠に幸運にシカモ早足に歩き出したのだった。圓通寺か……、懐かしい。
2023 125

*弥栄中学へ入学の年に「理科」を習った、お若かった当時の佐々木葉子(現在・水谷)先生、「とらや」の羊羹に宇治茶も二袋も副えてお手紙下さる。あのお若かった方が九十六歳になられ、いまなお往年の生徒の「文筆」仕事をお励ましお心遣いして下さる。なんとい私は幸せ者か。
2023 1/26

* 先日『慈子』を所望され贈った京都の直木和子さん、高校の縁だろうとは想ったが記憶に無かった。今朝、礼状が届いて、懐かしく納得した。叔母の秦宗陽が、裏千家業躰金澤家での茶の湯稽古同輩だった東福寺内大機院主、わたしもよく識っていた直木宗幾さんの、二女と。あるいはフィクションながら『慈子』冒頭の大臺機院茶席や座敷を拝借しての叔母が社中らでの初釜場面などに、大事に登場して貰ってたか知れない、間違いないと想う。それだと、十分懇意であったはず、記憶はまだよく戻らないが、東福寺内の立派な塔頭あの大機院の「直木さん」となると、秦の叔母とはごく濃やかなお仲間うち、新門前へもよく話し込みに見えていたし、なんとも懐かしい。『慈子』を新ため読まなくては。
2023 2/10

* 「建国」とまではシカと自覚しづらい。茫漠と「紀元節」の方が懐かしい。こんなのは、神話っぽいのが大らかに胸に納まる。紀元節というと、少年の昔は熱い粕汁がキマリだった。「酒粕」「酒」も大好きになった。秦の父は、雫ほども酒がダメ。母の話では若い頃は茶屋遊びしたと聞いたが。

* そういえば昨晩は妻と映画、最高に盛りの頃の木暮実千代・デビューしたばかりの若尾文子の『祇園囃子』(編集短縮されていたが)を久しぶりに観た。高校生も早い時季だったが、四条河原町の映画館、満員の立ち見で独りで観た。かなりの刺戟作と観た、少年ながら。
育った家は、抜けロージの一本で花街・甲部乙部の祇園町と背中合わせだった。尋常の道路は無く、「隔て」られていた。いくら隔てても、祇園のこと、子供にもよーく知れていた。秦の父に甲部と乙部とどう異なうと聞くと、現下に「藝妓と娼妓と」と。明快。とはいえ、藝妓の甲部とて…と子供心に「分かって」いた。その分かっていた内実をえぐるように描いて見せたのが映画『祇園囃子』、高校生とてなにも吃驚などせず、即、納得した。通った祇園石段下戦後新制の「弥栄中学」へは、乙部の子も甲部の子も同学年で大勢通学していた。じつに「異色」の新制中学だった。私の処女作で、好評注目されてそのごの足どりを華やかにしてくれたのが「祇園の子」だった。幼い実在したヒロインは、利発によく出来た「祇園乙部」の置屋育ちの子だった。知恩院新門前から通学のわたしは、その印象清潔な同年女生徒を、遠見に、敬愛すらしていた。昨晩観た映画「祇園囃子」は
変わりなく胸に食い込んだ。「男」という「獣を」概して「嫌う」ようになって「学んだ」映画であった。なにとなく、見聞体験の材料はまこと豊富なのに、わたしは「祇園」をめったには小説にしてこなかった。
2023 2/11

*  尾張の鳶、昨日か一昨日か泉涌寺へ来ていると写真を呉れていたが、3センチ四方の写真を大きく為る手順を失念していて観られなかった。文面は無かった、機械的なややこしさで外出先では字が書けないのだろうと思っていた、わたしは、今、機械の画面へ字を書いていて、それ以外に電送のための字の書きようを識らない。

* 午近く、尾張の鳶、京都からか、家に帰ってからか、大きなダンボール箱に、京都の、好きな鰊蕎麦をはじめ、おやま、あらま、まだあるよと、沢山な京土産がマンパイに詰まっていた。食べて元気になれという鳶の見舞い、感謝に絶えず嬉しく頂戴した。午は「鰊蕎麦、ゼッタイ」と、午後一時を期して妻によういしてもらい、映画『トスカ』の詠唱と奇怪に展開の画面を観ていた。
鰊蕎麦、ことに京の蕎麦の風味最高、喜んでご馳走になった。一合余の名酒「久保田」も呑んでいた.尾張の鳶、ありがとう、ご馳走さん !
そして、二階へ来て、奇怪前の倚子に向く前に、気に入りのソファに甘える気分で古詩を下ろした、忽ちに寝入った らしい。夢も見ない 快眠の、熟睡…。目覚めたら、もう夕方へ日の傾いた、五時!! この眠りもまた尾張の鳶から戴きものであった。ありがとう、感謝感謝。 あれもこれも、いろいろ。つぎつぎにご馳走になります!
それにしても心神「疲労」の深さにも、愕く。 五時四十分。
2023 2/19

* デスクトップの背景を八坂神社(祇園さん)の石段上、四条大通りに直面のひとしお懐かしい華麗な西大門の写真に変更した。
2023 3/4

○ 「湖の本163」初校を明日9日午前着予定の宅急便でお届けいたします。
「湖の本162」は3月23日のお届け予定で動いております。
ご都合が悪ければ教えてください。  凸版印刷  関

* 加えて、私の方は『湖の本 164』入稿のための原稿編成に取り組まねばならない。何を「柱」にするか。休めるヒマは無い。
「休む」とは、「もういいよ」と応えて、天上の意味になる。そう思っている。
思い残すこと。もう一度でも 「京都」に身を置きたい。
2023 3/8

* 初櫻の写真をもらった。懐かしく、よっく、覚えている。

○ ほんの少しの櫻を どうぞ。
授業で(修学院離宮)訪ねた事がありましたね。桂離宮より好き、と思いましたが 植栽の佳さだったのかも しれません。
少しずつ暖かになるのが、うれしいです。今、覚えているのは、その みどりばかりです。
うちの庭は土がコチコチ 草花は 葉ばかり立派です。
大変なく お元気に。  豊中市  沙

* 懐かしい往年、大学での若き日々を想い出させてくれる、たった一人の人、妻の仲間で傑出していて、以来久しくも久しくなつかしい文通が続いていて、心嬉しいばかり。
美術の講義では、京都市内で指折りの離宮や古社寺や、名品名画や名庭・名建築へ連れて戴けて、その現場で目を皿に講義を聴いた。
たしかに私も、桂離宮の、窮屈なほど巧緻な仕立てよりも、修学院離宮のはれやかに宏大な樹々の翠に心惹かれたし、そんなことも言い合っていたのだ。
教室やキャンパスを出て、市内・郊外での贅沢を極めた小人数での現地・現場授業の嬉しかった恩恵、忘れない。一緒だった友だちの懐かしさも、忘れない。
もう六十数年の昔になるが、こうして懐かしい佳い音信をかわせる人が、今も、たった一人でも有るこの幸せ、感謝に堪えない。
2023 3/9

* 刷り上がってきた『湖の本 162』一部抜きを、珍しく読み返し読み耽っていた。
私の京都時代、とは、即ち「學童・生徒・学生」時期に相当る。そしてそれらを終え、直ぐ東京へ出て、就職し、結婚したのだった。
よくよくウマが合っていたか「学校」の昔は、先生方も学友たちも、みながみなしみじみと懐かしい。「育った家」「新門前通り」の「ハタラジオ店」を基点・地盤にしていたのだから、人にも地域にも一入の馴染みは当然のこと。有済少、弥栄中、日吉ヶ丘貴、そして無試験で同志社大へ。先生方の御顔も、大勢の学友の顔も声も名も、湧き立つように蘇る。惹き込まれて読み返していた。
無意味で無駄な、国立大への受験や受験勉強などに手間や時間を取られず、成績推薦の無試験ですっと大學へも進んだ。青春の貴重な時間をかけて私は「京都と日本史」とを「歩き回る」ことで身につけた。それで良かったと今もしみじみ思う。
2023 3/19

* まるで気が弾まない。体調ととのわないからか、米大統領にまたもトランプかといった、あまりにばかげた報道などのせいか。凍えそうな孤独感、寂寥感を覚えている。からだと仕事が許してくれるなら、飄然と旅に出たい心地。何処へ。アテはない、京都としか。 京都へ帰りたいとは、ほとんど、「死にたい」というのと同義のように身内にあかい炎火が立つ。

* 夕方も早い五時前に食事して、そのまま 八時前まで寝入っていた。風邪けの嚔や洟水が不快、なにも出来まい間々寝入ることに。世田谷区の土方洋一さんの懇切な来診に「慢性的な脱水状態なでは」「心して水分を御摂りになっては」と。多分に謂えていると私にもそんな予感も自覚もある。土方さん、合わせて、「今年は故郷の夜の四条大橋にお立ちになる折が繞ってくるようお祈りいたします」と。「四条河原町から加茂川をわたって八坂神社へ、さらに知恩院方へとぬける道は、私にとっても長年歩き慣れたなつかしい道のりです。 今年は三年ぶりに訪れたいとおもっております  どうぞお元気で 四月二日」と。胸に波打ってくる。土方さん、ありがとう存じます。
2023 4/5

○ お元気ですか、みづうみ。
<生きた心地がしない>ご体調のごようす、何をどうすれば、少しでもみづうみがご健康でお気持ちも晴れるのかと、もどかしさのまま悶々としています。あけぼのの日々はみづうみのことを想い、すっかり湿っぽくなりました。

<幸い「要再校」本紙は送り終えてあり「湖の本 162」発送の用意はおおかた妻がして呉れてある。発送に必要な 宛名用紙か、もう五回分の用意はあるので「ガンバッテ」とハッパをかけられた。アリガト。>

奥さまなればこその最高のお励ましです。今のみづうみを支えるのは『湖の本』であることを知り尽くしていらっしゃいます。夫婦は同志であることが理想ですが、お二人はまさにそのような唯一無二の「身内」でいらっしゃる。
今のわたくしはみづうみに手が届きませんけれど、「秦恒平」の論攷に悪戦苦闘しながら必死に近づこうとしています。みづうみに、書き上げたものをお読みいただけますように、どうかどうか長生きしてお元気でいらしてくださいますようにと願いながら、「読んで・書いて・考えて」生きています。
「欲しい」資料が許されるなら「年譜」が一番頂戴したいモノです。文壇デビュー以後のもの、公開されていないみづうみの年譜が、もし存在すれば是非にと思います。
わたくしの願いは、何度も申し上げましたが、未来の読者のために、著作権継承者を奥さまと建日子さまお二人だけに限定して正式な書面にしていただきたいということ、また書かれたものすべてを正しく管理保管、場合によっては出版する遺著管理人を、ハンナ・アーレントのように元気なうちに早くから決めていただくことです。この遺著管理人は一人だけにする必用はなく、たとえばウェブ担当者、ホームページの管理人も含まれましょう。ホームページは日々変化する生き物ですから、内容が同一でも常時ネット環境にあわせてバージョンアップして対応する必用があるのです。引き受け手はいらっしゃるでしょ。
今回の「とめども波の」の「有済」の章を拝読し、背筋がぞくっとして凍りついてしまいました。東京山の手育ちで、このような「凄い」話の存在を身近に一度も経験することなく、本の中の他所事としてしか知らなかった自分を深く恥じます。自分の人生が変えられるような物凄さでした。「湖の本」だからこそ出版できたもので、現在の出版界では決して日の目を見ることのない話。この見て見ぬフリの臭い物に蓋をしてきた日本人の罪深さに慄いて恐怖を感じるのは、わたくしだけではないはずです。怖い、ひたすら怖い、酷い話でした。何がコワイと言って、自分を含めたふつうの無関心な人間ほど醜い恐ろしい怪物はいないと思い知らされました。悪は無関心な人間の為すものと。
次巻『或る往生傳』の中に潜んでいるだろうデーモンも、きっとわたくしを変えてしまうのだろうと思っています。それがどれほど凄まじくても受けとめる覚悟はあります。
みづうみの日々にご平安がありますように。素敵な一日をお過ごしくださいますように。                             春は。あけぼの
* こういう方が在って、わたくしは文士として存在仕得ている。感謝の他ない。

* 江戸は「旅宿の境涯」と喝破したのは荻生徂徠だった。今日の東京もおおかた変更はされていない、多くの住人が「田舎」「本籍地」という根拠を地方に持ったまま、東京に、地所や住居をいわば「借りて」暮らしている。私のようにもはや戸籍上の本籍地をお国に返上してしまって何十年も何倍もの久しい者でも、根は「京都」と頑固に思い込んで断然変改しない。「旅宿の境涯」その通りですと居直ったままでいる。さもないと実感で生きていられないのだ。「東京都」さん、ゴメンナサイ。

ところで、上にご希望の、作家としても私人としてのも、「秦恒平年譜」は、もう自編は出来ない、そのヒマはない。ただ幸いに私は和歌山の三宅さんにお世話になった限定豪華本『四度の瀧』昭和六十年元旦刊行までの「年譜」は、その本にほぼ整ってある。そして、それ以降は私自身が「外向き」仕事を愛しい指揮して避けたので、文藝上野年譜は『湖の本」で、大略は確認できるはず。私事私行はてどによるが、およそ無いにおなじいいか、幸いに機械の「私語の刻」が具に書き置いているだろう。機械の雉は、強いても削除していないので、大方は機械に残って居ねだろう、板に保存した何かも有るかも知れぬ。 2023 4/10

* 「新機」を明けることは手順を踏んで出来るようになった。「舊機」まのように、「ひらかな打ち」で日本語の書けない内は、「新機」は好奇心でのアレコレ遊び道具でしか無い。メールも設定出来てない。
「新機」の世界はしかし廣大で多彩なように想像できる。ま、ソレを暇なときに楽しんで遊び道具にしながら、なにかしら活路が開けるのかも。私自慢の、八坂神社緋の西大門の写真が美しい。其処へ帰っている自分を感じ、想い出も山ほどあり、しみじみと懐かしい。石段下みなみがわに戦後「六三新新制」の市立弥栄中学があり、私は事実上開校最初年の一年生として入学した。知恩院新門前通りのわがやからは、家の脇の「抜けろーじ」を脱けて祇園乙部の内を軽くかけあしすれば数分で中学の門に着いた。門前は市電や市バスの走り買う京都市一の繁華、史上大通り。「八坂神社」はその東の極みに建ち、はるか西の極み桂川の西に秦氏が司る「松尾神社」が在る。
2023 5/16

◎ 日本唱歌詩 名品抄  18    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 花     武島 羽衣     明治33・11
春のうららの隅田川、
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る、
ながめを何にたとふべき。

見ずやあけぼの露浴びて、
われにもの言ふ櫻木を、
見ずや夕ぐれ手をのべて、
われさしまねく青柳を。

錦おりなす長堤にに
くるればのぼるおぼろ月。
げに一刻も千金の
ながめを何にたとふべき。

* 詩をかいた武島羽衣の名は、国民学校時期の幼少で、まだ存命だった秦の祖父鶴  吉蔵書の何冊かに見ていた。つねな「美文」の二字を冠される人だった、私は幼い名  からに警戒して、そんな、明治前中期に流行ったらしい「美文」とやらに馴染まず、  意識して目もそむけた。夏目漱石は「美文」を軽蔑していた。「美文」を旗にかかげ  文壇を制覇していた連中を花で嗤っていた。私はその後も永く漱石にくみした。羽衣  のものを読み知ったのは此の唱歌でだった、私は「東京」とまるまる縁の無い年齢で、  この唱歌で「東京」「隅田川」を想像し、なにかしら懐かしんだ。
なによりこの詩を私に印象づけたのは、弥栄中學二年生当時に、構内の催しの中で、   講堂の壇中央に独りで出てこの唱歌「はな」を読唱した三年生女子を、全人類女    子を超えて 魂の底から愛し慕っていたのだ、それは「やそしち歳」の今にしても   も変わらない、其の人とは早くに死に別れていたけれど、あの講堂の壇上でこの   「花」を歌い上げた人の声も姿も忘れない。この人も私を眞に「弟」と愛してくれた。
一年早く卒業の日には、私に漱石作の文庫本『心』に自署して記念に呉れた。そし   て、どんな事情でか天涯の遠くへひとり去って行った。
「心」は、私の聖書となった。
気恥ずかしいが、この「姉さん」が「花」の隅田川を唄った同じ講堂の檀上で、一   年遅れて同じ催しの日、私は先生に命じられ、『ローレライ』を独唱したのだった、   あれは気恥ずかしかった。「なじかは知らねどこころ侘びて」、天涯に去って行っ   た人が私はただ恋しかった。「小説家」に成って行く運命だった。私に、「われさ   しまねく」東京とは、唱歌「花」の隅田川かのようであった。
今、八十七歳の私が書いたのである、この感傷の文を。
2023 5/19

◎ 日本唱歌詩 名品抄  26    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 旅 愁     犬童 球渓   明治40・8
一 更け行く秋の夜、旅の空の、
わびしき思ひに、ひとりなやむ。
戀しやふるさと、なつかし父母、
夢ぢにたどるは、故郷(さと)の家路。
更け行く秋の夜、旅の空の、
わびしき思ひに、ひとりなやむ。

二 窓うつ嵐に、夢もやぶれ、
遙けき彼方に、こころ迷ふ。
戀しやふるさと、なつかし父母、
思ひに浮ぶは、杜のこずゑ。
遙けきかなたに、こころまよふ。

* 国民学校の昔によく口ずさんだ、すこし小声で、複雑な思いで。私には恋し    い「ふるさと」は無く、「なつかし」い実父母を識らなかった。日々の暮らしは   「もらひ子」された京都市東山区東大路西入ル(知恩院)新門前通り仲之町だった    家の脇の、細い、途中ひとくねりした「抜けロージ」を南へ駆け抜けると、そこ    は謂うところの「祇園花街」北端の新橋通りだった。こっちは有済小学区、あっ    ちは弥栄小学区だった。故郷では無かった、「現住所」であり生みの母の顔も實    の父の顔も覚えがなかった。近所の子やおとなからは「もらひ子」とささやかれ    また言われていた。この唱歌はまさしく私が幼少來、青年・結婚までの「人生旅    愁」の歌であった。大声では歌えなかった。
一つ付け加えておく、京都市は幸いに戦災にほぼ完全に遭わずに済み、敗戦直    後の、戦時「国民学校」から京都市立「有済小学校」に戻った校庭には、全国各    地から、また海外から帰還家庭のまさに種々雑多の識らない生徒が加わっていた。    女生徒立ちの服装はもんぺからハイカラまで、目を奪った。好きな女の子も見つ    けた。そういう此の大方は、時期が来るとみな銘々の故郷や移転先へ散り戻って    ゆき、おのづと「別れ」体験が生じた。わたしは、横浜へ帰ると聞いた「新田重    子」という成績優秀でスポーツもよくした女生徒と人生初の「別れ」体験を時勢    により強いられた。寂しいものだった。女の子たちはそんな私を囃して何人も出    声を揃え「コーイシや新ィッ田さん、なつかし重子さん」と囃した、それが少年    小学生、私の『旅愁』であった。忘れない。

* 自身に断っておく、いま、此処にこういうふうに書いてきたことは生まれ育ちの「愚痴」なんかでは、ない。その後の人生を豊富に活きるために蓄えていた、謂わば「堆肥」であった。これらがあって、自身の歩みの紆余曲折に「味」がついた。その「味」こそが創意や創作や發明をうながす契機活動へと多様に押し上げてくれた。
「堆肥」という言葉は、戦時疎開ののうそんで目の当たりに実感した。「堆肥」無くては実りは瘠せる。人の個性は、活くべき「堆肥」の量や質に養われると識らぬままでは、かぼそい草のようなものしか生まない。
2023 5/27

◎ 日本唱歌詩 名品抄  27    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○ 故郷の廃家     犬童 球渓   明治40・8
一 彧年(いくとせ)ふるさと、来てみれば、
咲く花鳴く鳥、そよぐ風、
門辺の小川の、ささやきも、
なれにし昔に、変らねど、
あれたる我家に、
住む人絶えてなく。

* こういう「故家」「故郷」を私は持たない。戦時疎開していた、元京都府南桑田郡樫田村字杉生に、僅かに近い思いは持っている、が。今では、何と云おうと「京都」が、「京の川東、東山区の歴史と女文化」とが私精神の故郷と極まっている。東京は、西東京は人生最長のせいちではあったが、実感としては「出先き」で合ったし、今も然り
2023 5/28

〇 秦さん  メール・「湖の本」162・163有難うございます。体調よろしくない状況で次々と見事に情報発信される恒平さんに いつものことながら感心しています。当方はちょっと元気がありません。とても「浩然また昂然」には程遠いです。
プーチンのウクライナ侵攻と日本の対米追従・軍備拡張に強く強く反発します。
テル
* 弥栄中学の同窓生には ひとしお逢いたい、「元気で」いて欲しい。西村のテルさん、團彦太郎、片岡我當、そして小学校から大學まで同じ道を歩いた富松賢三クン。
女性では、ちょうど今も着ている翠の軽やかなカーデイガンを編んで贈ってくれた渡辺節子、健在かな。祇園の料亭「浜作」女将の洋子ちゃん、元気なお祖母ちゃんで長生きしろよ。
2023 6/3

◎ 日本唱歌詩 名品抄  37    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○  村 祭    文部省唱歌 明治45・3
一 村の鎮守の神様の、
今日はめでたい御祭日(おまつりび)
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
朝から聞える笛太鼓。
二 年も豊年満作で、
村は総出の大祭り。
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
どんどんひゃらら、どんひゃらら、
夜まで賑わふ宮の森。う朝から聞える笛太鼓。

* 街なかで育ったが、昭和二十年三月下旬からの戦時疎開とその延長とで、     秦の母と国民学校=小学校三年末から、四年、五年秋まで「丹波の山奥」に農     家を借りて暮らしていた。一村と謂わずともその一部落の、みな農家の子や家     族とは自然に、「都会もん」と嗤われながらも馴染んでいた。ささやかながら     鎮守の宮もり祭りもあつた。この唱歌はけして他所のことでなかった。
そして京都へ帰り、戦後新生の弥栄中学一年生になった年の「全校演劇大会」     で、私の一年二組は、ね私の熱心を極め演出した「山すそ」と謂う農村の児童     劇で「全校優勝」した。その舞台で私は此の「どんどんひゃらら、どんひゃら     ら」の歌をうまく遣った。二位には隣の一年一組が成って、その日のことを私     は後年に『祇園の子』という短編小説にし、これを良しと観た何人もの評者が     いて、ちいさいながら一種の出世作のように遇された。懐かしい想い出です。
2023 6/9

◎ 日本唱歌詩 名品抄  38    (岩波文庫『日本唱歌集』を参照、秦が「抄」。)
○  冬の夜    文部省唱歌 明治45・3
一 燈火(ともしびちかく衣(きぬ)縫ふ母は
春の遊びの樂しさ語る。
居並ぶ子どもは指を折りつつ
日数(ひかず)かぞへて喜び勇む。
囲炉裏火(いろりび)はとろとろ
外は吹雪。

* 「過ぎしいくさの手柄を語る」父親の二番には、きのりしなかったが、一番    「衣縫ふ母」の歌には心惹かれて、ひとりで、こっそり唄った。「居並ぶ子ども」    には、びっくりした。「ひとりッ子」の「もらひ子」だった私には、その賑わい、    羨ましい前に異様でもあった。とは言え、私にもこういう囲炉裏端の体験はあっ    た、戦時疎開した先の丹波の山奥のちいさな部落で、二軒めの宿りに画につくら    れた築山の奥の「隠居」で寝起きし、始終母屋の農家族から呼び迎え可愛がられ    ていた。農学校へ通学のお兄さん、女学校を卒業していたお姉さんが二人。お父    さんは戦死されていたが、働き手の優しいお母さん、上品に物言いも静かなやは    り働き手のお祖父さんお祖母さんの六人家族だった。みなが心優しく、まして囲    炉裏を囲んで談笑の真冬は、寒い寒い雪の積む夜は、わすれがたいのだ。懐かし    いのだ。
2023 6/10

* 「ま・あ」ずと目覚めて、ふと、空腹感。外は雨あがりか、冷いやりと。
中・高同窓、しかしほぼ何も関わり無く、口を利き合うた覚えもなく、中学での全校学級委員会で顔を見知っていた程度の渡辺節子が、この春さきにふっと送って来て呉れたなさしく手編み袖無し真緑の上着をやや肌寒い日には着て過ごしていた。組もいつも違ってたし、高卒以来の何十年いちどとしてであっていない、が、たまたま同窓会で編んでいた卒業生名簿に昔の儘のじゅうしょしめいをみつけ、出来合いの「湖の本』震撼を贈呈しておいたのだった、毛糸編み緑の袖無し上着はその返礼かのように贈られてきた。これも人生不思議哉と珍らしく、感謝して頂戴した。渡辺節子が、粟田小学校で「三節」の一人と呼ばれていたのは、いつともなく聞き知っていたし、安藤節子も中村節子も心親しくよく知り合っていた、「(お)澄まし」と、男子連によくいじめられていた渡辺節子とだけは何の折衝もなく、ただ、彼女が中学時代、ひとり、人のいない講堂で大きなピアノを弾いていたのは、たまたま見て聴いて覚えていた。
知る限り、講堂のそのピアノの弾ける女子が、もう一人、我が家の真向かいに育った石塚公子がいた。この「キミちゃん」とは、同じバスの送迎で、馬町(うままち)の上(かみ)、京都女子大付属のような「京都幼稚園」に通っていた。ちなみに、戦時にもまるで空襲されなかった京都市で、ただ一度不発の爆弾の真夜中に落ちたのが、此の京都幼稚園の庭であった。
2023 6/13

○  故 郷     文部省唱歌 大正3・6
一 兎追ひしかの山、
小鮒釣りしかの川、
夢は今もめぐりて、
忘れがたき故郷(ふるさと)。

二 如何にゐます父母、

恙(つつが)無しや友がき、
雨に風につけても、
思ひいづる故郷。

三 こころざしをはたして、
いつの日にか帰らん
山はあをき故郷(ふるさと)。
水は清き故郷。

* これほどに実感に打たれ目に涙をためて唱いつづけた唱歌はない、むろん     故郷京都から東京へ出て家庭を持ち職場を持ち、そして朝日子、建日子が生ま     れて、私は「こころざしをはたし」小説家に成った。
「山はあをき故郷(ふるさと)。水は清き故郷」とは、文字通りに私の生まれ育     った「京都。 東山 白川 鴨川」の景色そのままで。妻にも子らにも聴かせ     ず、ひとりの思いを抱いたまま、どれほど、この「三番」歌をひしひしと独り     唱っていたことか。 京都。然り京都よ。
2023 6/16

* 六月だから懈いいのか、夏季とも暑く極まればかえって怠さからぬけられのか。少年の昔、私は春秋よりも、盆の底で灼かれるような凍り付くような京盆地の真夏、真冬が好きで元気であったが。
2023 6/16

〇 ホームページは やはり読めないですが、お変わりないですか。
第三日曜の明後日は、父の日ですね。
父と先程電話で話しました。八九歳の父も八五歳の母も、幸い大きな病気もなくて元気ですが、時々気弱な事も言います。
七月には大阪の文学館で仕事もあり、その前にちょっと帰省、終ってから京都に二泊します。久しぶりの京都、宵山の前ですが、きっと観光客も多い事でしょう。今月末締め切りの仕事を幾つか抱えながら、どこへ行こうかと考えています。(やそしち様でしたら、どちらにいらっしゃるのでしょう)
この週末は、真夏並みの暑さとか。
食べやすいものを少しでも召し上がって、目を適度に休ませてください。
どうぞお元気で。 澤美

* 何事か異変に遭遇すれば、ためらわず「京都へ帰る」気でいる、その京都で早速にも行って見たいところ、とても一、二に絞れないが、先ずまちがいなく、知恩院した、白川ぞいに北へ向き、やがて東向きの小路を粟田口へ出て南向きに坂をのぼり、巨樹に掩われた青蓮院から巨大なお城の、知恩院の奥山をめぐって円山公園へ降りて散策、「祇園さん」八坂神社を西の大門石段上から石段下へ四条大通りをながめ、思いで多い歩道を花見小路西、北向き細い路地奥での中華「盛京亭」か、四条南側、縄手ちかいやはり南向き路地奥の割烹「千花」の贅を懐かしむ、か、すぐ西に目疾み地蔵さんにお参りし、劇場「南座」脇の「松葉」で鰊蕎麦を味わうでしょう。
それでなければ、
一散に泉涌寺下、即成院まで車で走り、下車。東へ居並ぶ幾つもの脇寺に添って坂道をのぼり、先ずは『慈子』と出会いの懐かしいかぎりの来迎院静寂のお庭で「憂き時と世」を忘れたい。
そして泉涌寺境内の砂を踏み、眼下の母校日吉ヶ丘高を懐かしみ西へ降り道、やがて大機院わきから洗玉湲を越えて「東福寺」宏壮の境内をもとおり歩いて「帰るのを忘れる」でしょう。
そして気を取り直し、七條東の静かな恩賜博物館の名品に堪能するでしょう。館の真向かいは「平氏の遺産」三十三間堂。

* 疲れきってか他に理由があってか、たしかに早く起こされはしたけれど、一仕事のあと、夜昼の判じも就かず、よくよく寝入ってはや午後三時、夜中かと思いながらふらふらで目覚め、此処、機械(パソコン)の前へ来ていた。
京祇園の橋本嘉壽子さん、弥栄中三年五組で一緒に卒業した女友だちから、京風の凝ったお菓子とも塩吹き「出汁の素」とも謂える『初霜』の珍味を戴く。ありがとう。此の「嘉ぁちゃん」は、健康の理由から一年上にいた人、幸いに、元気にひさしく「湖の本」にも最初から付き合ってもらっている。ますますお達者でいて下さいよ。
「この学年」女子では、嘉ぁちゃんと同じく最初っから読者でいてくれた中村節子さん、最近に翠の毛糸でジャケットを編んで呉れた渡辺節子さん、それに割烹「浜作」の大女将だった北村洋子ちゃんの四人が健在。有済小学校卒では「お嫁」候補だったと聞く、いまも踊りの「おっ師匠はん」の林貞子ちゃん、高卒では私筆名「菅原万佐」になって呉れたうち菅井チエ子さん、樋口万佐子さんが嬉しくも健在で、「湖の本」をいつも送り届けている。
2023 6/17

* 暑苦しい。中学生頃の京の真夏は、辛抱などという程度のモノでなかった。無視するしかなかった。するとそれなりに季節の魅力が体感でき、だから祇園祭も夏休みもプールも地蔵盆も、シンから楽しめた。京都の極暑も極寒もわたしは愛し好んで受け容れていた。暑い寒いにどうゴチャゴチャ云うてもハナシに成らない。
2023 6/28

* 七夕月の初朝を、祇園会の肇まる季節を迎えた。
真夏は、 少年來心弾んでむかえる時季だった、とくに得意でもなく、しかし泳げる夏、学校が「夏休み」になる七月だった、ソレは私が気を入れて励む、決まった『宿題』外の『自由研究』、休み明けの登校に心勇んで教室や職員室へ持参の「結果」へ独り心励めた「永い」お休みだった。祇園祭、お盆、地蔵盆、盆踊りの夏だった。ロマンチックをすこしずつ覚えていった少年ならではの成長季であった。たくさんな子供仲間たちや町内外の大人たちの顔、いまも想い出す。加えて、そこには少年なりに見聞きし学び得た「敗戦・終戦」後という特殊な「空気差「温度差」が見聞きされ体感もされた。「赤い血潮の予科練の」「七つ釦は櫻に碇」と唱う素地は払拭されていた。私独りについて謂うなら生涯の処女作小説『或る折臂翁』を胸に育み育て行く歳月への初歩がそこに在った。あり得て生々しかった。小学生、新制中高生なりの「批評」も働いていた。無駄には費やさなかった「夏」「夏休み」であった。
2023 7/1

* 中高同窓、久しくも久しく敬愛し親愛する「テルさん」こと西村明夫クン(元・日立の重役)、心入れの和風洋風多種多彩な私このみの菓子の大函を贈って呉れました。有難う。
敗戦後の、京都市立有済小学校いらい同年同歳で馴染んだ、古門前「林家」の養女の貞子ちゃん、もう久しく若柳だか花柳だかの踊りの「おっ師匠はん」、ひところ大人らの間ではわたしの「お嫁」候補だったと、本人が、超の老後に笑って教えてくれた美女からも、例の、わたしの好きな「鰻料理」を夏向きに送って来て呉れた。實を謂うと京都をはなれてこのかた一度も顔の合うたことがない、が、電話をかけてきてくれて、こえだけで昔の儘に賑やかに話すことは在る。いかにも小説の女主人公に創りやすい心親しい旧友である、『或る雲隠考』のなかへ化けて呉れている、純の創作で在るのは、謂うまでも無いが。
2023 7/1

〇 先生、何度もメールを差し上げ申し訳ございません。
「有済」という名前が出ていたので、70年前を想い出し懐かしくなりました。
小学生の頃は「有済校」という名前が厭でした。近くの小学校は粟田、新道、清水と皆んなわかりやすい名前だったのに、「有済」だけが何となく古臭くてわけの分からない名前だったからです。
もう随分前になりますが、10名くらいで小学校の同級会をやった帰りに、廃校になっていた有済小学校に行ってみると、校舎の壁に校歌が書いてあったので
歌詞を読みながら全員で合唱しましたが、歌い終わって全員しばらく沈黙しました。今なら少しは歌詞の意味もわかりますが、「耐えて忍べば済す有り」という所は 全員ナスビ(茄子)を連想したそうです。
70年も前のことで記憶も定かではなく多分間違っていると思いますが、歌詞を
書いておきますので先生も是非お歌い下さい。

学びの窓に居並びて
心は清く身は強く
難きに耐えてたじろがず
励み励まん諸共に。

耐えて忍べば済有りと
校名負えりわが友よ
朽ちざ絶えざるその名尊びて
勤め果たさん諸共に    京 桂  服部正実

* やはり「有済校」のご縁でしたか。
前にも申し上げましたか、京都市東山区の有済学区、新門前通りの「ハタラジオ店」に育ちました私には、近くの、白川、狸橋を古門前の方へ渡ったすぐ先に、「紙函屋」さんと「お餅や」さんとの「服部さん」二軒(古西町か)が、子供心に印象に残っていまして、同じ「有済校」とを結ぶ縁に、親しく記憶してきました。ことに「お餅屋の服部さん」には、一学年上の「優等生・陽子さん」がおられ、卒業式には私の在校生「送辞」に卒業生「答辞」を読まれたり、後には、私叔母宗陽の「茶の湯稽古場」にお稽古に見えたりと、懐かしく忘れないでいるのですが、「有済」と関わっての「服部さん」は、他には存じません。
「耐えて偲べば済すあり」の「有済校」や「ともだち」や「地理」のことなど、『湖の本』のそう遠くない以前に、何度か何冊かに繰り返し書いたり触れたりしてきました。御覧戴いたかに存じます。

* この服部さん、私よりはお若く感じている。なにといっても、戦時「国民学校」 敗戦後「小学校」にかかわる同期生や間近な先輩後輩の記憶や話題には胸が鳴る。多くは亡くなったが、逢いたい、話したい友だちの名や顔が生き生き蘇る。有済小学校では健在の富松賢三君に会いたくて溜まらない。
そういえば、昨日「鰻」をはるばるご馳走に送って呉れた舞踊の「お師匠はん」林貞子ちゃんが、女生徒では今や數少ないかぎりの独り。東山線東入る袋町にその昔に暮らしていた横井川貴子さんがもう一人、「湖の本」での、ご縁。
2023 7/2

〇 恒平先生   お忙しいのに私のメールにわざわざお返事を頂き大恐縮です。
狸橋を古門前のほうに渡ったところの「二軒の服部さん」はしりませんが、橋の手前に確か平田という、私と同級生の豆腐屋さんがあったような気がします。
せんせいのお宅のあたりには、わたしの同級生もたくさんおりましたので、狸橋のあたりにはよく遊びに行きました。
谷口さんという美術商や、 東山通に出る手前の路地に山田君というのがおり、その東隣りの大塚医院がかかりつけでした。
先生は以前からあのあたりのことをよく書かれておられるので、そのたびに懐かしく思い出しておりました。
先生とは 何故か小学校、中学校、高校と同じなのが不思議なご縁ですね。
今、なにかそのあたりのことをお書きのようとも想われ、楽しみにしております。
コロナ禍と猛暑とが襲ってきます!
くれぐれもご自愛くださいますように。 京 桂  服部

* 知恩院下 古門前通りと新門前通りとを「結ぶ」「渡す」「繫ぐ」のが剛っつくてしかも瀟洒な、十メートルとない石橋が、白川を渡す『狸橋』だった。謂わば二つの門前通りの「臍」に相当した。
服部さんのメールに出る名も家や人もみな判って懐かしい。美術商の谷口さんはいわば我が家も属した「仲之町」の顔に相当して、敗戦後の暫くは寄留していた親類を含め同年以下数人の女の子が暮らしていた。同年の「薫ちゃん」は、私が生涯を通して一等力んで勉強や成績を張り合った海外から帰還か戦災に遭ってかの、ハイカラな女友だちだった。我が家とはやや斜めに三、四軒西に向き合うていた。そしてやがてはみな銘々の根の都市歳や街へと移転して行った。想い出せば何もかもキリが無い。
2023 7/4

* 今西祐一郎先生  到来の話題のこと、ですが。視界視野みな穏和な京都に育ちました者の、反射的な納得や理解を申しますと、
当該     思ひのこすことはあらじかし   は、
けっこな (=強いて謂うまでもなく=) こっちゃ     と私は 読み切ってしまいます。
老耄 日々疲労疲弊に困憊しています。残年の少なさを肌身に覚えます。  どうぞ、お大事にお過ごし下さい。
2023 7/5

* 今日は妻の歯科の予約日、前回わたしが「熱中症」に潰された覚えがあり、わたしも同行する気でいるが。今はまた六時前の早朝。此の先、どれほど暑くなるかは判らぬ。先には39どを越した日もあった。「夏の暑い」でしられた往年の京都、わたしか中学の頃は33度にも成ると大人も子供も仰天したが、今や「チョロイ」ものになった。まさに命がけで極くの熱暑と連れて歩かねばならぬ。独り歩きなど危険きわまりない。
2023 7/14

* 京都の直木和子さんに次いで、早樫(今は、今井姓)てる子さんからも、祇園会 宵やまの匂いも賑わいも添えての便りをもらった。高校生の昔の顔しか知らない,覚えが亡い、それが懐かし
2023 7/14

* 「口癖」のように自身の日々を「読み(調べ読み)・書き(私語の刻)・讀書と創作」と謂うている。ほぼ言い尽くせている。娯楽や慰安は、ま、テレビで映画(「ホビットの冒険」や「剣客商売」など)、そして(在れば「酒」とか)。「讀書」なくては、生きた心地がしまい、これはもう幼少來の姑癖に
当たる。枕元には日々に読み継いで手放せない本が何冊も並び、積まれている。「積ん讀」では無い。今ぶん…
日本文学  「源氏物語 少女」 「参考源平盛衰記 巻二十一」 藤村「新生」 秋聲「あらくれ」「新世帯」 坪谷善四郎「明治歴史 下巻」越
中国文学  「四書講義下巻 孟子」 「聊齊志異」 「水滸伝」 「遊仙窟」 文彦「主演女優」  西欧文学 ホメロスの神話  ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」  トールキン「ホビットの冒険」ま、穏健な楽しみようであろう。勉強に類するのは「孟子」と「名詞維新 下巻」くらい。

* 午後三時。本を読んでは寝入り、また読んで。是を休息の休憩のと謂うのは当たらない。心神に活気の無いままヘバって居るだけのこと。情けない。それても手に執るどの一冊とてみな選り抜きで、魅される満足には不足は無い。秦の父長治郎は、本というモノを手に読んでいたことが無い。一度も観た覚えが無い。あ、それは謂いすぎで、この父は能舞台の観世流地謡にかりださるほどに謡曲がたくさん謡えた、私にも一時期教えようとしてくれた。
叔母つる(茶名宗陽 華名玉月)父の妹は、師匠という仕事がら茶道誌「淡交」は講読していたし、若い頃は婦人雑誌もみていたようだが、所詮は読書に気が無かった。
秦の母たかは、手近に,小説本が在りさえすれば喜んで読んだが、そんな本のまるで無い家で、わたしは少年の頃から「本」は買う物でなく他家他人に借りて読むモノと思っていた。自前で本を買い始めたのは、中学を終える頃に「徒然草」「平家物語」がはやく、谷崎本へひろげた。『細雪』一冊本を奮発したときは、秦の母は喜んで読んで「ええなあ」と共感を示してくれた。嬉しかった。

* ところが秦の祖父鶴吉は途方も無く蔵書家、それも大方が漢籍、史書、古典、事典・辭典か、私もお世話になった山縣有朋の『椿山集』や成島柳北の『柳北全集』あるいは「神皇正統記」や「史記列伝」や「唐詩選」や「十八史略」や「四書講義」や「老子」「莊子」「孟子」や「唐詩選」「白楽天詩集」等々信じがたい名著が押し入れの奥の長持ちや、たんすに犇めき遺されていた。私は、全面的に是等書物の「文化」に薫染されて黙々と成人した、いや念願の小説家・作家に成れた。小説の処女作は『或る折臂翁』それは白楽天の長詩『新豊折臂翁』に想をを得ていた。
不思議なモノだ、「人生」は。
2023 7/17

*「絶景}の随所・各所に満開の『京都』をテレビで。ためいきをつき、想わず声を放って懐かしんだ、わたしの行ったことの無いけしきなどほとんど被一つも無い、瞬時に、此処は、これは、あそこは と判る。なんという、やわらかに優しい翠に満ち満ち、穏和に静かに冴え冴えと美しい「京都」ょ、懐かしい、涙ぐむほども。直ぐにも帰りたい……。
晩のテレビは、祇園会山鉾の巡行などを見せると。すぐ録画の手配。
2023 7/22

* 今朝のことだ。暗い寝室の 戸を細めにそっと明けて、
「コーヘイさん」
と、柔らかに「ひと声だけ」小声で呼ばれ、ふッと目ざめた。誰の立ち姿も戸ぎわに見えず、そうっと柔らかに「コーヘイさん」と呼んだ小声は、ごく穏和に、優しいほどの、しかし、たしかに「男の声」だった。誰とはかき消えたが、その小声、あるいは「兄・恒彦」のように感じられた。「生みの父母を倶に」しながら「一つ家に育った記憶」の断片も無いその「兄」であった」ならば、「北澤恒彦」ならば、夙に、「自ら死んで」いる。この日ごろ耳に聞く気の「もういいかい」の呼び声、「まあだだよ」と返辞していた、あれは「兄・恒彦」の誘いであったのか。判らない。濃い暗がりからまこと優しく呼ぶ「低聲」であったよ、「コーヘイさん」と。
亡き恒彦兄の生前に、数度とも顔を見合う機會はなかった、が、逢えば兄はわたくしを「秦」と苗字では謂わなかった、「恒平」という名前を呼んでくれていた、「さん」などとついてかは覚えないが。
何にしても、そんな夢のような、「夢に相違ない」朝早い四時台の目覚めであった。

* あれが「女の声」であったなら、いろいろに思い出せる人は、数人、いや十人でも想い浮かぶが、「女の聲」ではなかった。
男で、私をはっきり「コーヘイさん」と読んでくれた独りだけが、祇園石段下の市立弥栄中学に入学「一年二組」組で日ごろを倶にし成績を競いあった「つとむサン」粟田小学校から来た「田中勉君」であった。紛れもなかった秀才「つとむサン」は、同じ日吉ヶ丘高卒のあと志望の大學を外して、就職、いつかカナダに渡った。海外での詳細は知らないが、彼が帰国のおりは、二、三度ならず會っている。祇園の「千花」で食事したりもして、極くの畏友であった、が、いつしか海の向こうで、病気らしくもなく、ふわっと灯の消えたように亡くなったと伝え聞いた。

* 實兄の恒彦か、あの親友「ツトムさん」か。暗い寝室の戸ぎわから、影のまま立って「コーヘイさん」と柔らかに読んだ小声には、この二人しか想い及ばない。二人とも、とうに亡くなっている、それも、兄は自殺、「ツトムさん」もあるいは、と。
今朝、まだ床にいた私の名を呼びかけた、あの、「小ごゑ」忘れまい。
2023 7/25

* 正午過ぎ、盛んに、午雷り 盛んに天駈けっている。

* 大阪高槻市の三好一子さん、スープの大きな重い一箱を戴く。懐かしい名前、白川の東に大きな、戦後は進駐軍が接収し役所のように出入りしていた邸宅八木家のお嬢で、中学高校の「一年下」に聞こえた優等生だった。同じ学年に早樫てる子さんがいて、八木さんと競う聞こえた優等生だった。「一學年下」の女子優等生というのは、目立つ存在で、幸か不幸か同学年女子には見当たらない、と謂うより観ようとしなかった。そういう独特の価値觀が「一学年違い」には在るのだった。
八木さんも早樫さんも、学校時代は校内委員会で同席する程度だった、ろくに口もきいてなかったろうに、七十年後のいま、二人とも「湖の本」のもう久しい読者。人生、不思議に有難い。めでたい。
2023 8/1

 

◎ 私・秦恒平の 幼少青年時・感慨を覚えた書物・作品たち(順不同)

〇 『天の夕顔』 中川与一  借読か。買ったか。「妹」梶川道子と耽読

懐かしい。この作が、「恋愛小説」という意識と受容で「耽読」した最初であった、「姉さん」と慕った上級生「梶川芳江」ははや卒業後何処と知れぬ天涯に去っていて、その妹、私しより一年歳下、弥栄中学二年生の「梶川道子」を私は「妹」という意識で「戀」した。指導できる部の先生のいない、というより不必要な、弥栄中学「茶道部」を主宰しはじめた私は、校内・校庭内に備わった本格に佳い「茶室・茶庭」を{校長先生・職員室の容認放任の儘まこと気ままに使って、部員に「茶の湯初級の作法」を難なく教えていた。私は「叔母宗陽」のもとで小学五年生から茶の湯を「猛烈な勢い」で稽古し学習し「裏千家の許状」も得ていて、中学生三年にもなればもう疾うに「叔母の代稽古」もちゃんと勤めていた。
まして佳い茶室の本格に遣える弥栄中學で、三年生生徒会長として新しい「茶道部」を起こし、参加の部員に点前作法を教えるなど誰の不審も受けず、先生方もまるまる信頼して私に「部の運営・指導」を任されていた。
あの慕いに慕った「姉さん・芳江」の妹たち、二年生「梶川道子」一年生「梶川貞子」は、真っ先の「新入」茶道部員でもあったのだ、もとより二人を、古都に「梶川道子」を「妹である恋人」のように私は熱愛した、精確に「距離」も保ちつつ、私は高校生になってからも「弥栄中学茶道部」の指導に通い続けた。歌集『少年』昭和二八年私十七歳での短歌集「夕雲」二十首は顕著な記念作になり得ている。
朱らひく日のくれがたは柿の葉のそよともいはで人戀ひにけり
窓によればもの戀ほしきにむらさきの帛紗のきみが茶を点てにけり
柿の葉の秀の上にあけの夕雲の愛(うつく)しきかもきみとわかれては
『天の夕顔』は、そんな二人して憧れ読み合うていたが、手と手を触れあうことも、ついに、無かった。「道っちゃん」は、いま、どこか療養施設のベッドにいて、気丈にしていると「梶川」三姉妹の弟夫人からかすかに伝わっている。
2023 8/2

* 起き掛け 右、かなりの量の鼻血を出した。そのまま寝入った。昼食してまた寝入った。二時半。『原爆』のことを遠い日から想い出す。国民学校四年生の私は高羽の山の奥へ戦時疎開していたが、新聞に出た記事に少年ながら「愕然」と固まったのを躰に覚えている。
2023 8/6

〇 秦さんへ
「太平洋戦争で戦局が悪化すると、当時枢密院議長だった鈴木貫太郎は、首相に推される。固辞したが、昭和天皇の大命により、やむなく第四十二代内閣総理大臣に就任、終戦工作に動く。広島、長崎に原子爆弾が落とされたとき、もはやここまでと、ポツダム宣言受諾の聖断を昭和天皇に仰いだのは貫太郎である。貫勘太郎の考えは、「天皇の名の下に起こった戦争を国民が納得するよう終わらせるには、天皇の聖断を賜るしかない」というものだった。
無謀な本土決戦を主張する軍部の強硬派を押さえ、日本を破滅から救い、戦争を終結に導いたのは貫太郎である。
八月十五日正午、天皇自身による終戦の詔勅がラジオ放送されると、勘太郎
は内閣を総辞職した。」
(「Chiba千葉チーバ」2019年10月3日初版 洋泉社
「日本を破滅から救った元関宿藩士の宰相」より)
秦さん
私は集団学童疎開(東北)を逃れて 暖かい南の温泉場にいました 土地の元気な子たちが川の隅に石を積んで水を溜め 泳いでいるのを眺めていました。
「天皇陛下の放送がある」と教えられて家に帰ったのを覚えております
こういう話を聞いてくれる人は だれもいなくなりました。お読みいただいてありがとうございます
秦さん   ほんとにまだまだコロナが油断できません 諸々、くれぐれもお気をつけお大切にされてください 老人ホーム勤務も何とか頑張っております   千葉   勝田拝

* 敗戦=終戦の、あのカン照りに暑かった国民学校四年生八月夏休み中の「あの日」を、私も鮮明に記憶している。広島長崎が新式の大爆弾で壊滅したと報された日には、「これで、おしまい」と勘じた、その前に、小磯も鈴木も敗戦のための内閣総理と見えていた。「ご聖断」のラジオ放送も、隠居を母と借りていた大きな農家の前庭を、ただ両手ひろげて走り回りながら聞いた。「京都へ帰れる」と明るい希望を持った。

* もともと少年の私は、昭和十七年四月、真珠湾奇襲から半年して京都市立有済虚組学校に入学して間もない或る日、教員室の外に貼られた「世界地図」を友だちと眺めていた。地図には日本軍の戦果を示すらしい小さな日章旗があちこち刺してあった。それでも日本は「勝てへん」よ、「負けるよ」と私は口にして日本国の小さな「赤色」と比べアメリカの廣大な「緑色」を指さし見比べたその俊寛に通りかかった若い男先、生に、廊下の壁に叩きつける勢いで張り飛ばされていた。「しもた」と思いつつ「先生かて、よう地図観て見ィ」と思いながら、殴られから、ゆっくり起ち上がった。「シナ事変」は向こうが自壊し、「日露戰争」は幾つかの幸運に恵まれたとこの少学生はかなり耳や目で勉強していた。
2023 8/10

* 嵐峡めく山川ぞいの路で、なんと懐かしい、嬉しい、若々しいあの「姉さんと道ちゃん」が歓声を上げ倶に遊びたのしんでいる「夢」をみて、目ざめた。声が耳に残るまま、四時過ぎに床を離れてきた。「ねえさん」が「道ちゃん」を「迎え」にきていたかと、と思った。そうかも知れず、それならやがては、妹の「貞子ちゃん」もいっしょに「三姉妹」して「私を」迎えにきて呉れるか、とも。よしよし。それもよし。
2023 8/11

* 華 案じています。元気にしてますか。
何を楽しみにしてますか。 手伝えることあれば云うてみてください。
お盆 そして大文字。京都へ帰りたい。家がなくなり 宿が無く。 電話で予約というにも慣れなくて。
坂を下るように 体調体力も 心許なくなりました、やれやれ。この、 やれやれ。安堵でなく 嘆息。やれやれ。
清閑寺への坂みちが懐かしくて成りません、もういちど あのお寺から遠い山を眺めたい。  ウシロ(背後)の高倉御陵の、深紅に燃えて風に騒ぐあの晩秋の紅葉、紅葉 紅葉の大揺れを もう一度 観たく 聴きたく。
華 お大事に。  恒平

* 老いて「独りになる」寂しい極みを懼れない人があろうか。

〇 メール頂き 有難う御座いました。この頃は、何も出来なくて、テレビを相手に過ごして居ます。体調も今一で、頭もボンヤリしています、食べるものも何とかです。
近頃は夕方に 時々 一人で東(清閑衒道)へ歩いています。こんな日々を過ごして居ます。
過ぎし大昔去の楽しかった事など思い出しながら! 華

* 機械画面、真まん中の真下に、文字通りに目の下に「紫宸殿前庭」の絵葉書が清々しく静まりかえっていて、どんなさわぐ想いも推し静めて呉れる。私の目と重いには「此処」が、独り静かに立てる、「やすの河原」。
2023 8/14

* 本音を吐いて、憎しみほどのものを吐き出した、が、消え失せた。そういうことか。もう、大文字が燃えているか。帰りたい。京都でこそ生涯を終えたい。
2023 8/16

* 走り去るように日々は過ぎ、京都はこどもらに嬉しい「地蔵盆」になる、町内中の大人たちが町内の子らをいろいろに愉しませ喜ばせて呉れる数日、だった昔は。今もそうだろう、路上での映画や盆踊りや、芸人を呼んでのマンザイや音曲も愉しめた、町内中で、それは、四方八方 何処の町内でもそうだった。胸のときめく、京都中がまさしく「夏休み」の娯しみだった。
東京で、七十数年。そのような 何も覚えない。無い。
2023 8/20

* 「八時字二十分」 両の眉尻を少し下げていた少年時の同級生の顔がよみがえる。三階の教室の窓から外へ出て、そのまま壁伝いに運動場まで這い降り、吾等の度肝を抜いたヤツ。元気に生きのびてるかなあ。
2023 8/27

* 晩、たまたま歌番組に出逢って、うまい・へたの極端例に、閉口してられず、盛んに褒めたりクサシたりして楽しんだ。美空ひばりがしみじみ懐かしく、ひょっとして彼女こそがわが「初恋人」であったのかも、などと独り合点したり。
小学校六年か戦後新制中学一年の真夏も真夏、わたしは売り出して盛んなひばりと、家から間近い新橋白川ばたで、触れ合うほど間近に出会っている。ちっこい女の子だった、わたしは「ひばりが来てる」と耳にするやパンツ一枚のはだかのはだしで駆けつけたのだ、人がギシと取り巻いてる輪を潜り入るようにして、もうホンマに触れ合う近さまで攻めよったものだ、口は噤んでいた、あれで有済小学校の卒業式には卒業生答辞を読んだ生徒会長だったが、油照りにクソ暑い京の真夏の夏休みの男子にはパンツ一枚のハダカが、ま、「制服」だった。ちっちゃい幼い、見るから子供の「有名な美空ひばり」は「よそ行き」のスカート姿だった、それにも少年は見惚れたものだ、暑い暑い京都祇園の真夏の午下がりだった。傍らにせせらいでいた白川は、今も変わりなく清う流れているはず。
2023 8/28

* 早起きして真っ先に此の機械(パソコン)前へ来る、と、大きめの機械画面真下の真ん中に、御所、紫宸殿まえの淸寂そのものの広場、紛れもないこれぞ「京の都」の象徴が鎮まっている、私は朝まっさきに「其処へ帰る。
そして機械の下、左の端、に立ててあるのが、無色、閑雅な線だけで描かれた「高山寺」蔵の、飄々と弓を引いて「遊ぶ」二匹、いや二人と謂いたい「兎たち」の名高い「戯画」縦ての繪葉書。想わず笑んで觀る。此処、無色で佳い線だけでの雅境には、これぞ京も洛外の山紫水明が「歴史」のように秘めてある。
葉書の二枚、むろん戴きもの。はいけんしなおす。
「紫宸殿」のには、

拝復 このたびは研究室宛に谷崎潤一郎研究書数十冊をお送りいただき、誠に有難うございました。国文学科の図書として登録し、書庫に配置して容赦の閲覧に供します、以前にも春陽瞳版『鏡花全集』全15巻をご寄贈いただき、ご後輩に感謝しています。
私は3月に定年退職し、新しい生活に戸惑っているところです。数年前から京都御所(=大學に接して真南 秦)の一般公開が通年に変更されたので、散歩に出かけたりしています。 草々 田中励儀

とある。紫宸殿広場が一際に慕わしい。

* もう一枚の、高山寺藏「弓で遊ぶ兎たち」清雅に無色の「戯画」は、どなたから頂戴したろう。

新年おめでとう ございます。お変わりなくおすごしになられてますか。 現状維持もたいへんです。無理? ダイジョブと六割程の動きをしても、後で、こたえています。 ドラマの背景に映っている京都のあちらこちらをみています。旗本の家が京都御所だったりして。 洋ものも。この空と光りの工合は 砂漠のものではないとか。テレビもよく観ています、うたがい深く。困りものです。

『鳥獣戯画』の「空気」に暮らすような、同じ大學専攻での一つ年下、妻が同期の友だち、宛名も二人に書いてあり、「卯」の春の、洒落た「戯画」である。私は此の一年後輩が好きであった。 と、視線を上げると、この機械画面のうえの棚に、私が愛して惚れぬいた村上華岳の名品『墨牡丹』の絵葉書が。同題、私の出世作のひとつなった小説『墨牡丹』をよく「識ったひと」からだ、多分…と手に取った。やはり「兎」戯画を呉れていた彼女、コレは妻迪子へ宛てての「繪」ハガキ。

永栄啓伸の本(=『秦恒平 愛と怨念の幻想』)をお送り下さりありがとうございます。 読みました。
長谷寺に白いぼたんが咲いていたそうです。 今日は疲れ目。(泪ポロロの小さな戯画) うっかりころばないようにしましょうね。

* 名高い長谷の牡丹に触れ合うての繪葉書『墨牡丹』は、宛名に無い私へ、親愛の投げキスと戴いておく。。感謝。
2023 8/31

◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を記憶の儘に、冒頭のみ。
〇 「第三高等学校校歌」  澤村胡夷 作詞・作曲
紅(くれなゐ)萌ゆる岡の花 緑の夏の芝露に
早緑(さみどり)にほふ岸の色 残れる星を仰ぐ時
都の花にうそぶけば 希望は高くあふれつつ
月こそかかれ吉田山 われらが胸に湧き返る  以下 十一番迄

* 此の欄の趣意としては早や「脱線」を承知で。
私が生涯で最も早く「憧れた」のは、国民学校(小学校)を出たら京都一中か二中を経て、あの吉田山の「三高」に合格し、美しい校歌「紅萌ゆる」を「わがもの」にうたうことであった。「校歌」に惚れていた。
だが、敗戦。学制も「六・三・三(小・中・高)制」に変わって夢は「泡」と消えた。
私は、試験を受ければ必ず受かる京都大學には、「気」がまるで無かった、当時火炎瓶だのデモだのの騒がしさも好まなかった、受験はせず、ためらいなく高校三年までの成績優秀の推薦で、三年生二学期の内に「同志社」への無試験入学を決めた。京都御所の静謐にひたと接した、あの「新島襄」が創立の「私学」、赤煉瓦の建物も美しいキャンパスも気に入り身も心も同志社に預けて、以降を、自由自在に私は「京都」の久しい歴史と山水自然のこまやかな美しさへ「没頭」した。「小説家」「歌人」へと「七十年の道」がもう見えかけていた。
2023 9/15

〇 尾張の鳶は、京都へ旅の謝仕を送ってきてくれてるらしいが、うまく画面に表わせない。 やれやれ。京都を眺めて心楽しむか、うらやましさにカンシャクを起こすか。
2023 9/15

◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『ローレライ』 近藤朔風 譯詞  ジルヘル作曲
三、 なじかは知らねど心わびて
昔の伝説(つたえ)はそぞろそろ身にしむ
寥(さび)しく暮れゆくラインの流れ
入り日に山々 あかく映ゆる

二、 美(うのわ)し乙女の巌頭(いわ)に立ちて
黄金(こがね)の櫛とり身の乱れを
梳きつつ口吟ぶ歌の声の
神怪(くすし)き魔力(ちから)に魂もまよふ

〇 敗戦後新制中學の一年、いや二年生の音楽教科書に載って居て、音楽の時間に音楽室で習った。まことにつまらん歌だと、譯詩の平凡にもイヤ気がした。なんで戦後日本の自主性・社会性・民主主義をと日々叱咤激励されるわりにはあまりアホらしいたわいない歌だとクサシていた。
ところが、である、その翌年の全学年より揃うて講堂での集会に、音楽の小堀八重子先生、嚴として、その全学集会で「ローレライ」を「独唱せよ」と。誰が。私が、である、マイッタ。音楽教室で、うちの組だけの音楽の時間なら、期末試験がわりに、みな、一人一人唱わされることはある、だが、ちがうのだ、それとは。京都市内でも人に知られた立派な大講堂の檀上で、先生のピアノ伴奏で「独りで唱え」と。「ローレライ」をと。講堂には、むろん全校生が倚子席にぎっしり。青くなり赤くなり、へどもどしたが、こういうときに断乎とニゲル気概と意気地がない。
じつを謂うと、同様の全校集会が前年のおなじ時期にもあり、そこで、やはり広い講堂の壇上真ん中でうたった上級生女子がいた。歌は、「春のうららの隅田川 上り下りの舟人は」という春の歌、唱った三年生女子は、一年下の私の、心から「姉さん」と思慕し敬愛していた「梶川芳江」だった、食い入るように舞台の「姉さん」を見つめ、美しい歌声を全身に体していた。その思い出があり、一年後に私に唱う役が与えられのにも、こりゃ困ったと閉口もしつつ、けれどあの卒業していった「姉さん」の「跡を継ぐ」のだからと、じわっと昨年を懐かしんだのである。あの聰明に優しかった「姉さん」も亡くなった。こんな妙チキリンな述懐を天井で微笑していることか。
それにしても『ローレライ』には歌詞も曲も馴染まなかった。以降も此の歌を口ずさむコとは絶えてなかった。だが、アレ、わが弥栄中学三年間の一のハイライトではあったなあ。とちりもせず、調子も外さずとにかく唱い終えたのだもの。

◎ めぐり逢ひていつも離れて酔ひもせでさだめと人の醒めしかなしみ
2023 9/30

* およそ仕懸かりの仕事の「現状」は、機械画面上で「確認」した。出来た、収束をより精確に。メールもせず、届きもせず、至極孤独な現状。鳶は文字通りに、「外遊」すると。わたしは「外遊」出来ないが、「京都」か、せめて「都内」へ出てみたいが、建日子が母に電話してきて、コロナ・インフルエンザの蔓延は只ならないと。この身の弱りの今、病気はしたくない。病気でつ触れては、うまりに無念だ。「じっと我慢」の「籠り居」
で「仕事」に努めよう。
十月か。七十年近くは昔の十月十六日の真昼、妻とのデートで初めて大文字山に登り、しがいよりも比叡山の巨きく見える側斜面で景色佳さを楽しんだ、持参の魔法瓶は登山途中で木に当てて割ってしまってたが。
同じ二十六日には、二人で初めて「鞍馬山」を登って越え、貴船へ下りた。私は至極貧乏で、どんな気晴らしも出来なかったが、京都中、街も山もよく「歩いた」よ。歩くのにはお金が要らなんだ。その当時はどんな神社仏閣も鷹揚にただ觀せも入れもして呉れた。有難かった。感謝した。
2023 10/1

◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『村祭』  文部省唱歌
一、村の鎮守の神様の
今日はめでたい御祭日
どんどんひゃらら どんひゃらら
どんどんひゃらら どんひゃらら
朝から聞える笛太鼓
〇 京都の町なかで生まれ育ったが、太平洋戦争に入ったのが昭和十六年十二月八日、京都幼稚園での師走、翌春四月に市立有済国民学校に。三年生をもう終える雪深い三月、戦災の懼れを避け、京都府南桑田郡樫田村字杉生(すぎおふ)に母と祖父と三人で縁故疎開した。四年生が目の前だった。
上の『村祭』の小規模にもソックリを私はその「杉生』部落のお祭りで体験していた。山中をはるばる仲間と歩いて越えて南桑田郡篠村の賑やかなお祭り日も見聞体験した。京都市には音に聞こえた『祇園会』の大祭がある、ソレとは比べものにならなくても「村祭り」村中の大人も子供も大賑わいに踊り唱う。懐かしい思い出。
そしてぜひ付け加え太鼓と。戦後新制の市立弥栄中学に入学の歳の「全校演劇大会」で、小堀八重子先生担任の吾が一年二組の『山すそ』という「農山村舞台」の児童劇を、学級委員の私が率先演出役になり、主役、クラスデモ最もおとなしい目立とうとしない女子を断然起用訓練したのが成功し、実に、三学年全生徒の投票で「全校優勝」したのだった。嬉しかった。「祇園の子」という短編の処女作にもその嬉しさを書き置いたのも、文壇への有効な足がかりとなった。
この舞台で私は此の唱歌『村祭』を、背景の合唱で気分良く取り入れた。懐かしい少年遙か遙か大昔の少年活躍の思い出、掛け替え無い。
2023 10/2

◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『草津節』
一 草津よいとこ 一度はお出で(ア ドッコイショ)
お湯の中にも コーリャ花が咲くョ(チョイナ チョーイナー)
四 お医者様でも 草津の湯でも(ア ドッコイショ)
惚れた病いは コーリャ治りゃせぬ(チョイナ チョーイナー)

〇 一番など、よほど幼かった、しかも太平洋戦争が始まっていたころにも唱っていたのは、草津の湯に人気のあったためとは想う、が、ここで謂う「草津」を幼いわたしは、「南浅間に西白根」と唱う「草津の道」など知らず、京の町なかからは隣県・滋賀の「草津」のように想っていた。
私は「温泉」にひたと浸かった覚えを、九州のどこだったか、取材の必要で訪れた四国愛媛、出雲、石川の山中、群馬のどこか、箱根、四度の瀧 北海道の何処だったか、ぐらいしか持たない。
八七年を生きてきたこれまでに、私は「旅する」余裕と機會をほとんど持てず持たなかった。望みもしなかった。貧寒というでなく。家で好きに、が、落ち着いた。
京の新門前暮らしの少年時代に通った近所の「銭湯」、古門前の新し湯、祇園の清水湯、松湯、鷺湯、縄手の亀湯などへ、好みの、空いた早い時間に通って、ゆーっくり湯船に浸かるのが好きだった。秦へ「もらひ子」されてきた幼い日々には、父や祖父につれられ、、また母や叔母と女湯へもしばしば連れて行かれた。「銭湯」にはそれなりの「好さ」「めづらはさ」があったと、今でもはっきり「色んな思い出真夜中に起きて」が懐かしい。「女湯」で近所の、また国民学校の女の子と、湯からくびだけだして並んで湯船に居たことなど数え切れない記憶がある。冬至は当たり前の情景で、戦時に「家湯」の遣える家は無かった。焚き物が無かった。夏場は、井戸端で盥の行水だったが、我が家では時折りそんな行水を脅すように長い青大将が現れ仰天した。寝ている枕がみの障子際を蛇に通られ、添い寝してくれていた叔母つると共に着布団ごと空を跳んでにげたことも有った。近所を清流白川が趨っていて、石垣にも橋の上までもよく蛇が出た。どこの家にも蛇は出ていた。それも『花の京都』なのである。
2023 10/7

◎  『月皓く』を書いたころ、なつかしい人に逢った。
〇 早くそこを遁れないと賽銭箱の柵に押しつけられ、右にも左にも動けなくなる。おけら火の火勢をもうそこに轟っと浴びながら、からがら拝殿の東側から円山公園へ飛び出す、と、ごうん一一と肚(はら)に響く知恩院(ちおいん)の鐘だった。暗やみに夢見るように幾つも火縄が舞っている。降る寒気をついて公園を抜けまだ東へ池を越えて、山の上の釣鐘堂まで除夜の鐘撞きを見に行く人が沢山いる。
「行ってみますか一一」
「いいえ、此処で聴いていましょう。もう押し合うのは大変。一一あの辺、ね、撞いているのは。あ、凄いの一一胸の底まで響くわ」
「一一」
「宏さん、あなた寒くありません」
「寒い。脚に何かが噛みつくみたい」
「歩きましょ。凝っとしてたら凍えてしまうわ」
「ね、清水(きよみず)さんまで行(い)こか」
「一一」
「あそこは人がぎょうさんお籠りしてはる。音羽の滝に打たれてる人もあるし、舞台へ出ると」
「きれい一一」
「きれい。今夜みたいに月があるとあの山の端(は)がきらきら光って、まあるいの」
「行きましょ行きましょ」
仁科さんは先に立つくらい元気に歩いた。
真葛ヶ原から二年坂、三年坂まで、流石にめったに人とも出逢わない。たまにまだ正月の用意の終らない家の前だけ灯が洩れて、その辺り二、三軒の門松や〆飾りが行儀よく

* 叔母(秦つる 裏千家茶名 宗陽・御幸遠州流花名 玉月)の「御茶の先生」「お花の先生」歴は永く 二十代から亡くなる九十近くまで。当然に稽古場へ通ってきた社中の人数も数え切れないが、私は小学校の五年生頃から稽古場に居座って、高校生の頃には代稽古し、自身も中学・高校に茶道部を起こしててまえさほうを永く教え続けた。
当然に、叔母の稽古場へ通ってくる女性の大方は私より年長、記憶の限り私より若かったのは早く亡くなって私を泣かせた「龍ちゃん」ら数人ともいなかった、か。

* 小説 『月皓く』の、上記「仁科さん(仮名)も叔母のもとへ通っていた社中の一人、六、七歳も年長だが、懐かしい人であった、後に渡米し、結婚し、亡くなった。大晦日、元旦にかけおけら日の燃え盛る八坂神社に初詣でし、淸水寺へまで行ったのも小説のママである。

* 私の思想的基盤である日本文化論が「女文化」であるのは謂うを俟たない。私は幼来京都の「女文化」と長幼の「女友だち」とで多く培われた。「懐かしく心親しい」いのはおおかた、ソレであった。
2023 10/25

* 新作にと「想い」寄せている仕事へ、あまり手がかりが多く書き出しそびれていた。へんなことと思われようが、しきりに「うろおぼえ」の童謡が口をついて出て、
サッちゃんはね サチコて云うんだ ほんとはね
だけど チッチャイから
自分のこと サッちゃんて 云うんだね
可笑しいね サッちゃん
「可愛いね」かもしれず、間違えててもそこは大過なく、「サッちゃんはね サチコて云うんだ ほんとはね」は「ほんと」。ただ私の知っているその「サッちゃん サチコ」は、可愛かったけれどもう「チッチャ」くはなかった、初めて顔をみた、見合うたころは、着たきり寸づまりな着物の母親が、ガラゴロ手押しで、たぶん煮焼きなどした小魚の類いを小さな「かけ声」で売りに来る荷車のわきを温和しくついて歩いて来た。我が家の前あたりに立ち止まると、待ち受けてたように近所の小母さん等が寄って気楽に喋ったり笑ったりし、わたしも母や叔母のちかくで、ボヤッと芸もなく立っていたりした。荷車の脇の(?_?)名のことくちをききうなど、あるべくももなく、しかし年格好は、わたタクシが敗戦後小学校の五年生なら向こうは三、四年かと見受けた。
2023 11/20

◎ 『古文眞寶』宋 黄堅・編選  日本 久保天随・釋義

〇 商山路有感  白居易
萬里路長在  六年今始帰
所經多舊館  大半主人非

〇 いま、京都の浄土宗總本山知恩院下、私の育った新門前通りへ数十年経て帰っても、まさしく斯様でろうなと想う。それでも帰りたい。東京での暮らしに、いま、何の魅力もおぼえない。
2023 11/21

〇 今日も素晴らしくいいお天気です。あちこち痛めながら、医者には脅かされながら世話をした庭には、まだ蜂がきて、見ていますと一生懸命に花粉をつついています。
今は田舎は菊がさかりです。
お疲れが溜まっていらっしゃるようで、心配致しますが、お出掛けになれない日々が続いた後遺症というものでしょうか?まだまだご活動なさるはずだと私は信じております。
一度、でかけてしまえば、また出掛けたくなるものだと思いますがいかがなものでしょう。
私は全ての役割を終えたように思っております。 那珂良

* 晩八時すぎ。グタッとしている。

* 生存が確認でき 欣喜と安心の到り、天地に感謝。お作(=グループ展への出品画)を見られないのが残念。ギャラリーの地図を眺め、目に見るように京都「市内」の賑わいを細々と想い浮かべました、忘れないあなたの風貌と声音も。
「創作」の続くのは 命にとり何よりの励ましです。お続けあれ、わたくしも。
日に日に弱って行くのを自覚しますが、そっちはカラダくんに託し、わたくしはココロくんを励まし、せいぜい仲良くしています。「同志社」と繋がる一縷は、もはやあなた独りかせいぜい二人になりました。
健康にご長命あれや祈ります。
あなたの感化で すっかりピアノの独奏曲が好きになりましたよ。
今日十一月二十一日から ちょうど一ヶ月の冬至で「やそはち翁」の米寿を迎えますが゛、もう二年すると「クソ(九十)爺」ですと。 呵々。
お元気でお元気で お怪我無くありますよう。
やそしち はた
2023 11/21

あとがき

一九八六年 桜桃忌に「創刊」、此の、明治以降の日本文学・文藝の世界に、希有、各巻すべて世上の単行図書に相当量での『秦恒平・湖(うみ)の本』全・百六十六巻」を、二〇二三年十二月二十一日、滿八十八歳「米寿」の日を期しての「最終刊」とする。本は書き続けられるが、もう読者千数百のみなさんへ「発送」の労力が、若い誰一人の手も借りない、同歳,漸く病みがちの老夫婦には「足りなく」なった。自然な成行きと謂える。
秦は、加えて、今巻末にも一覧の、吾ながら美しく創った『秦恒平選集 全三十三巻』の各大冊仕上がっていて読者のみなさんに喜んでいただいた。想えば、私は弱年時の自覚とうらはらに、まこと「多作の作家」であったようだが、添削と推敲の手を緩めて投げ出した一作もないと思い、,恥じていない。

みな「終わった」のではない。「もういいかい」と、先だち逝きし天上の故舊らの「もういいかい」の誘いには、遠慮がち小声にも「まあだだよ」といつも返辞はしているが。 過ぎし今夏、或る,熟睡の夜であった、深夜、寝室のドアを少し曳きあけ男とも女とも知れぬソレは柔らかな声で「コーヘイさん」と二た声も呼んだ呼ばれた気がして目覚めた。そのまま何事もなかったが、「コーヘイさん」という小声は静かに優しく、いかにも「誘い呼ぶ」と聞こえた。
誰と、まるで判らない、が、とうに,還暦前にも浮世の縁の薄いまま、「,此の世で只二人、実父と生母とを倶にした兄と弟」でありながら、五十過ぎ「自死」し果てた実兄「北澤恒彦」なのか。それとも、私を「コーヘイさん」と新制中学いらい独り呼び慣れてくれたまま,三十になる成らず、海外の暮らしで「自死」を遂げたという「田中勉」君からはいつもこう呼んでいたあの「ツトムさん」であったのか。
ああ否や、あの柔らかな声音は、私、中学二年生以来の吾が生涯に、最も慕わしく最高最唖の「眞の身内」と慕ってやまなかった、一年上級の「姉さん・梶川芳江」の、やはりもう先立ち逝ってしまってた人の「もういいの」のと天の呼び聲であったのやも。
応える「まあだだよ」も、もう本当に永くはないでしょう、眞に私を此の世に呼び止められるのは、最愛の「妻」が独りだけ。元気にいておくれ。
求婚・婚約しての一等最初の「きみ」の私への贈りものは、同じ母校同志社の目の前、あの静謐宏壮な京都御苑の白紗を踏みながらの、「先に逝かして上げる」であった。心底、感謝した。、いらい七十余年の「今」さらに、しみじみと感謝を深めている。

私の「文學・文藝」の謂わば成育の歴史だが。私は夫妻として同居のはずの「実父母の存在をハナから喪失していて、生まれながら何軒かを廻り持ちに生育され、経路など識るよし無いまま、あげく、実父かた祖父が「京都府視学」の任にあった手づるの「さきっちょ」から、何の縁もゆかりも無かった「秦長治郎・たか」夫妻の「もらい子」として、京都市東山区、浄土宗總本山知恩院の「新門前通り・中之町」に、昭和十年台前半にはまだハイカラな「ハタラジオ店」の「独りっ子」に成ったのだが、この「秦家」という一家は、「作家・秦恒平」の誕生をまるで保証していたほど「栄養価豊かな藝術文藝土壌」であった。
私は生来の「機械バカ」で、養父・長治郎の稼業「ラジオ・電器」技術とは相容れなかったが、他方此の父は京観世の舞台に「地謡」で出演を命じられるほど実に日ごろも美しく謳って、幼少來の私を感嘆させたが、,加えて、父が所持・所蔵した三百冊に及ぶ「謡本」世界や表現は、当然至極にも甚大に文学少年「恒平」を啓発した、が、それにも予備の下地があった。
長治郎の妹、ついに結婚しなかった叔母「つる」は、幼少私に添い寝し寝かしてくれた昔に、「和歌」は五・七・五・七・七音の上下句、「俳句」は五・七・五音などと知恵を付けてくれ、家に在ったいわゆる『小倉百人一首』の、雅に自在な風貌と衣裳で描かれた男女像色彩歌留多は、正月と限らない年百年中、独り遊びの私の友人達に成った。祖父鶴吉の蔵書『百人一首一夕話』もあり、和歌と人とはみな覚えて逸話等々を早くから愛読していた。
叔母つるからの感化は、さらに大きかった。叔母は夙に御幸遠州流生け花の幹部級師匠(華名・玉月)であり、また裏千家茶道師範教授(茶名・宗陽)であり、それぞれに数十人の弟子を抱え「會」を率いていた。稽古日には「きれいなお姉ちゃん・おばちゃん」がひっきり無し、私は中でも茶の湯を学びに学び叔母の代稽古が出来るまでにって中学高校では茶道部を創設指導し、、高校卒業時には裏千家茶名「宗遠・教授」を許されていた。
私は、此の環境で何よりも何よりも「日本文化」は「女文化」と見極めながら「歴史」に没入、また山紫水明の「京都」の懐に深く抱き抱えられた。大学では「美学藝術學」を専攻した。
だが、これでは、まだまだ大きな「秦家の恩恵」を云い洩らしている。若い頃、南座など劇場や演藝場へ餅、かき餅、煎餅などを卸していたという祖父・秦鶴吉の、まるまる、悉く、あたかも「私・恒平」の爲に遺されたかと錯覚してしまう「大事典・大辞典・字統・仏教語事典、漢和辞典、老子・莊子・孟子・韓非子、詩経・十八史略、史記列伝等々、さらに大小の唐詩選、白楽天詩集、古文眞寶等々の「蔵書」、まだ在る、「源氏物語」季吟の大注釈、筺収め四十数冊の水戸版『参考源平盛衰記やまた『神皇正統記』『通俗日本外史』『歌舞伎概論』また山縣有朋歌集や成島柳北らの視し詞華集等々また、浩瀚に行き届いた名著『明治維新』など、他にも当時当世風の『日曜百科寶典』『日本汽車旅行』等々挙げてキリがないが、これら祖父・秦鶴吉遺藏書たちの全部が、此の「ハタラジオ店のもらひ子・私・秦恒平」をどんなに涵養してくれたかは、もう、云うまでも無い。そして先ずそれらの中の、文庫本ほどの大きさ、袖に入れ愛玩愛読の袖珍本『選註 白楽天詩集』の中から敗戦後の四年生少年・私は、就中(なかんづく)巻末近い中のいわば「反戦厭戰」の七言古詩『新豊折臂翁』につよくつよく惹かれて、それが、のちのち「作家・秦恒平」のまさしき「処女作」小説『或る折臂翁』と結晶したのだった、「湖の本 164」に久々に再掲し、嬉しい好評を得ていたのが記憶に新しい。
2023 11/28

* 体調不安は掩えない。安眠もしていない、始終まさしく「夢想」の内に「京都」と「少青年の思い出」を拾い続けている。

* さすがに幼少、昭和十六年、しかも地元を離れ送迎バスで通った私立「京都幼稚園」での友も先生ももう影淡い、が、その年「十二月八日」、まさしく82年前の「真珠湾奇襲」そしてつづく「太平洋戦争・第二次世界大戦,のことは、いずれのヒロシマ・ナガサキ原爆・そして敗戦・戦犯裁判、闇市・進駐軍・街にあふれた売春婦等々、鮮やかに子供心に記憶している。
そう。「開戦」翌、櫻の春にわたしは京都市立有済国民学校に入学。そしてちょうど「三年生を終えた」ときに、当時戦時下の京都市東山区松原警察署管轄の技術者として「ラジオ班長」を委託されていた父長治郎の意向で、知縁を頼み、秦の祖父と母と私三人は、京都府南桑田郡樫田村字杉生(すぎおう)の富農長澤市之介氏宅の「隠居」を借り、いわゆる「戦時の縁故疎開」生活に入り、「四年生早々」から山をまるまる一つ越えた樫田村田能部落の府立樫田国民学校、実に程もなかった「八月敗戦」からは樫田小学校へ、「五年生二学期半ば」まで山越え通学していたが、五年生の秋、突発、私は満月様顔貌の急性腎臓病を発病、此の際秦の母は躊躇いない機転で即刻私を引っ担ぐように亀岡市経由京都市内へ帰り、家へも戻らずずその足で、東山区松原通に掛かりツケだった親しい樋口医院へ担ぎ込んでくれた、まさしく、それで命助かったのだ。
辛うじてその五年生二学期末から、久々に旧母校、有済記小学校に復帰、六年生では戦後の合い言葉、自主自治のなのもと全校生徒選挙によって初の「生徒会長」に選ばれたり、歯筒の戦後小学生生活を謳歌した。市内に一郭の只の使用学校経ったが、戦時戦後の海外からの機関や戦災等による家を挙げての京都市へ罹災避難家庭が充満し、学校の運動場はわたくしなどまた「モンペ」蔟の目をうばう洋服やスカート・ブラウス・カーディガン等の見知らぬ顔顔顔に、まさに「おったまげ」た。それでも、私、大いにがんばったのだ,五年生では卒業式に在校生送辞を、自身六年卒業式には卒業生答辞を読み、一の優等生として有済小学校を卒業したのだった。山ほどの思い出が、今もいきいきと身内に宿っていて、そして、相次ぎ、祇園八坂神社「石段下」の京都市立「新制」弥栄中学に入学した。実にこの年の春から、「旧制」の久しい憧れでも目標でもあつた京都一中や二中への「入試進学」と謂う制度は廃止され、京都市立に限れば、六年(私の場合、有済小学校) 三年(新制弥栄中学) 三(新制日吉ヶ丘高校 但し入試)制に、ウソのように一切切り替わったのだった。
2023 12/9

* 京都黒谷の宏大な山墓地のてっぺんに小さな三重の塔が建ち、その縁に腰掛けて学制の昔よく話した。そして求婚し婚約した。墓地の見事な紅葉を一と枝戴いて新門前の叔母宗陽の茶室に入り、ふたり向き合って茶の湯一席「婚約」の茶を喫み交わした。昭和三十二年師走十日のことだった。

* 二人で,夫婦自祝の夕食、迪子の遙かな学友市川澄子さんから祝って戴いた名酒「越乃寒梅」をすこし酌み交わした。
2023 12/10

○ メール頂き、有り難う御座いました。
今日は久しぶりに日吉ヶ丘(高校の茶室「雲岫」席)へ行って来ました。懐かしい限りです。
天候も良くて、美味しくお茶を頂いて来ました。少しは若返った様に思って・・? 帰ってきました。京都に居ればこそです。
いつまでもお元気で過ごされます様に! 華

* 雲岫席(京都市立日吉ヶ丘高校・母校に備わった「茶席」私が二年生で提議創部した茶道部の本拠)で 一碗の濃茶を分けて、頂ければどんなに嬉しいだろう、一気に「あの頃」へ駆け戻れそう。
日吉ヶ丘は青天だったでしょう,いつも晴々と懐かしい極みのわれらが母校。
華  元気出して しっかりと、残年余生をともども生き抜きましょう。
わたしは、よほどもう草臥れてますけれど、ガンバルよ。ガンバリや。 恒
手指痺れて、紙に字は書けない、が、メールは大丈夫。遠慮無しにいつなりと話しかけてくれると嬉しい。せいぜい返信します。 遠 (高校卒業の頃受けた,私の裏千家茶名は・宗遠)

* 高二のころ、私が学校と掛け合って創設かつ指導した「茶道部」の、「あと」を委ねた二年後輩の、華。、わたしは大学生の半ばまで日吉ヶ丘へ出向いて部の、また作法の指導をしていたが、十分信頼できる後輩鳥羽華子に茶道部「雲岫會」の一切を託して、やがて東京へ居も暮らしも移した。
いらい優に六十四年が過ぎて、いも鳥羽は茶道部と茶席との後見役をガシッと勤めてくれている。懐かしくも感謝に堪えない。元気でいて呉れるのも心強いが。ご主人を近年亡くされていて,胸痛む。
2023 12/16

* 歳暮に、メールで送れる何人かの人に『埋み火 京の底冷えに』を、恥ずかしい誤植もコミで、送った。
* 此処へ、「令和五年のあとがき」として、書き写して置こう。

◎ 謹賀迎春  令和六年

埋み火  京の底冷えに   秦 恒平 作

「さ、歳を送りましょ、おあがり」
「有難うございます。ご馳走になります。
その年の稽古茶席、最期に埋み火の客は、新年には京都を離れ、もう稽古にかよってこれないという年上の人だった。そのYさんを叔母と鈎の手にはさんで、まだ高校生だった私は、水屋に近い席で年越し出前の天ぷらうどんを、わざと元気よくふうふうふいてするする食べた。
「除夜の鐘、もう成增やろ」
「もうさっきから鳴ってるよ」
「ーーー」
「大晦日の晩にはお炭点前をして、こうやってお茶点ててつごもりそばをいただいてから、あしたの朝の大福茶まで保つように、炉の炭を灰で埋み火にしとくのどすえ。そして一年中お世話になった火ィに、えらいご厄介さんどな、ありがとうございました言うてお礼をな」
叔母が喋っているまに私は紙釜敷の炭斗を水屋から取ってきた。釜を揚げ、火種を起こし炭も新たにつぎ添えて灰匙でこなもり灰を寄せながら、山なりに、赤く燃えた火を埋めて行く。叔母も、爐縁へ膝行して出たYさんも、私が灰を盛り切った所で思わず三方から炉に向かって静かにアタマを下げた。知恩院の鐘が響き、路地を足音賑やかに連れ立っておけら詣りへ抜けて行く若い声が通り過ぎる。私は時計を覗いた。
「新年ですよ」
するともうYさんは炉端からつっと退り、叔母の方へ両手をついた。
「明けましておめでとうございます。旧年は、一方ならず、お世話になりましてーーー。どうか先生、幾久しく、お達者に」と、そこまで言ってYさんは急に両手で顔を包んでしまった。
「はい、おめでとうさんどす。あんたさんも何処へお行きやしても、お大事にな」
叔母は立ち、ひょいと床の間に片足かけてさすがに器用に、井泉水書く四字の軸の裾を三分の一ほど巻きあげて、掛釘から外して来た。
「一陽来復や。なんにもようしてあげられなんだけど、荷物にもならへん。これ、お年玉に差し上げますよって。な」
「ま、いけませんそれは先生、お大事なものを。よう覚えて、一陽来復、決して忘れませんから」とYさんは涙の顔も手も一緒に慌てて横に振った。構わず叔母はするする巻き切って、押入から箱と有合せの紙を出して来ると目の前で無造作にくるんだ。Yさんは弱ったという顔で私を見た。
「おめでとうございます」
私は両手をついて叔母とYさん半々にお辞儀した。Yさんも丁寧に返礼した。
「叔母みたいなシブチンが呉れる言うのやしーーー、遠慮せんかてええですよ」
「まあ」
あははと叔母が真先に笑った。自分で貰い物をしたほどに、私の方が嬉しかった。
叔母は立ってもう結び柳を持ちながら私たちには初詣を勧めた。毎年私は必ずこの茶室から祇園町を抜けて八坂神社へ参り、さらに知恩院か清水まで歩くのだ。
「ね、一緒に行きましょ」
私が誘うとYさんは初々しいほど一瞬含羞んだ顔をした。そして白い顔がうなずいた。急いでジャムパーを取りに離家をでた。庭に月が照って、銀色に瓦屋根が濡れていた。
八坂神社は石段も甃の参道も晴やかな初詣の人渦を幾重にも巻きこんで、見上げる空まで揺れるような賑わいだった。厄除けのおけら火を細い縄のさきにうつして貰い、、赤い火の色をちいさくくるくる回して帰る人波に、占領軍の兵隊やMPも混じっていた。
拝殿まで容易に進めなかった。もみ合うなかで足を踏まれたかいやあと叫ぶ若い女声までが新年らしく陽気で、寝おびれた鳩が屋根から屋根へ人の頭の上を羽音高く渡ると、そこまでも燃え盛る神火の焔は微塵の火の粉をばんばん吹上げて松の梢を真黒く夜空に浮かばせる。私はYさんの手を牽き引っ張るように一歩一歩神前へ近づいた。鈴を鳴らす太い綱にいくつもの手が一斉に取りつく。私たちもやっと片手だけ綱に触れ、そして掌を合わせればたちまち横から後ろから押されてよろけた。
「ずいぶん熱心に拝まれますね。何を」
Yさんは私を見て笑顔でからかった。何ということもないのだ、「恰好だけです」と返辞して、一刻も早くそこを遁れないと賽銭箱の柵に押しつけられ、右にも左にも出られなくなる。おけら火の火勢をもうそこに轟っと浴びながら、からがら拝殿の東側から円山公園へ飛び出す、と、ごうんーーーと肚に響く知恩院の鐘だった。暗やみに夢見るようにいくつも火縄が舞っている。京の底冷えをついて公園を抜け、まだ東へ池を越えて、山の上の大釣鐘堂まで除夜の鐘撞きを見に行く人が沢山いる。
「行ってみますかーーー」
「 いいえ、此処で聴いていましょう。もう押し合うのは大変。ーーーあの辺、ね、撞いているのは。あ、凄いのーーー胸の底まで響くわ」
「ーーー」
「恒平さん、あなた寒くありません」
「寒い。脚に何かが噛みつくみたい」
「歩きましょ。じっとしてたら凍えてしまうわ」
「ね、清水さんまで行こうか」
「ーーー」
「あそこは人がぎょうさんお籠りしてはる。音羽の瀧に打たれてる人もあるし、舞台へ出ると」
「きれいーーー」
「きれい。今夜みたいに月があるとあの音羽の山の端がきらきら光って、まあるいの」
「行きましょ行きましょ」
Yさんは先に立つくらい元気に歩いた。真葛ケ原から二年坂、三年坂まで、さすがにめったに人とも出逢わない。たまにまだ正月の用意の終らない家の前だけ灯が洩れて、その辺り二、三軒の門松や〆飾りが行儀よくしんと目立つ。
「ね、恒平さん」
「はい」
「ーーー」
「何ですか。言うて下さい」
「ーーーお茶習って、よかったわ」
その年の秋はじめ、叔母は嵯峨の二尊院ちかくに茶席を借りて、「正午の茶事」を社中の希望者に稽古させた。Yさんはお点前など役はつかなかったが、わざと「客」として席半ばに座っていた叔母の隣で、神妙に叔母のする通り真似て濃茶を喫み、懐石を食べていた。濃い藍ねずみにしだれ柳と籬に菊の着物がよく似合っていた。ーーーこの人に、またあんな機会があるのだろうか、本当にこの人は、京都を離れて行くのかーーー。
高い石段の上に清水寺の勅使門は凜と影を浮かべ、きらきらと屋根が光る。かすかに落ちる遠い瀧の音に聴き耳立てて空を仰げば、いっそ花やかに月かげに白く濡れて、柔毛のように木々の影がふるえて見える。
つと手を取り合ってYさんと私は石段を上り、塔の横から本堂の方へ急いだ。遠目に舞台が鏡のように照って、何人もの先客が心なし凝っとたたずんでいる。御堂の奥は大きな燈明が昏い影を常闇の底から揺り動かし、お籠りの白衣の老人夫婦や祈祷を捧げる二十人足らずの人が、みな黙々とひとかたまりの濃い翳になって蹲踞って見えた。
今度はYさんの方が永く眼をとじて合掌していた。
「何、お願いしてたん」と、私はからかった。
「また、きっとお目にかかれますように」
「誰に」
「恒平さん、に」
照れて私はあはあは笑いながら、とっとと舞台へ一人で出て行った。何だ、何だ、一体これは何だ、夢か、絵空事か、お芝居か。私は涙を頬に伝わせ、擬宝珠のある欄干に痛いほど胸を押し当てて真昏な谷底を覗いた。音羽の瀧に灯が流れ、人だかりがしている。經か陀羅尼か、声高に唱えて細い樋口を落ちる瀧に肩を打たせている白鉢巻の老女を、Yさんは厳しい横顔で息をつめて見下ろしていた。姉さんーーと、そう私は心の中で呼んでいた。死んだらあかん、死んだらあかんよと呼んでいた。寒い寒い京の底冷えだった。
あれからーー三十五、六年。Yさんは去年の師走に、カリフォルニアで、子供さんもなくひっそりと亡くなっていた。妹という人からのしらせで知った。
埋み火は、もう開くすべもな。この冬も、また、京都は冷えるだろう。  (結)
2023 12/23

○ ひときわ寒い朝に
寒いパソコンの前で(『埋み火』)読みました。ご健在、頼もしく、安堵しました。お寺の板の間の冷たさや、京都の湿った寒さがよみがえります。
先日は京都の町で迷いました。時間や、体力の見当がうまく働いていないようです。
木犀の花が散るともみじが朱くなるというもみじも、葉を落としてしまいました。
目標、サフランの花を咲かせて、パエリャをつくること。丁寧に。
お大事にお過ごし下さいますように。 豊中  美沙

○ 秦先生  掌編小説「埋み火 京の底冷えに」嬉しく拝受、拝読いたしました。ありがとうございました。
最初の数行で忽ち作品世界に引き込まれてしまうのが、いつに変わらぬ秦作品の力、魅力だなあと、あらためて頷いたことでした。
昨日今日、京といわず、日本中が底冷えしていますが、どうぞ、風邪など召されぬようお大事になさってくださいませ。
白川郷など大変な積雪だとTVで騒いでいますが、当地も、今朝、今冬初めて5センチほどの雪が積もりました。
先生のHPは、十月二十日までは拝読できます。どうかして継続なされて下さいますよう。何方か手伝って戴けないでしょうかねえ。○
今年も一週間余りとなりました。いろいろなことがあり、先生のお考えをHPなどで知りたいなあ、と思うことも多いのですが・・。  I・YAMAN

○ やそはち兄上様
美しい短編小説を読ませて戴きました。
思いがけず、年の暮れのしみじみとした京の世界をのぞかせて頂きました。
まず思い浮かんだのは、初めて京都のお宅にお伺いした時のこと、叔母様のお茶室に通して頂いたと記憶しています。私は、高校の修学旅行の途中で、迪っちゃんと(真如堂の)恒子さん?と3人でお邪魔し、アルバムなどを拝見しましたね。
小説の最初の場面がお茶室だったので、思わず私自身も高校生になった気分で読ませて頂きました。
この落ち着かない最近の世相の中で読む京都の都市の暮れの様子は美しく、初々しい「恒平さん」の気持ちや、清水寺の鐘の音、お茶室の引き締まった空気や動作所作が一段と染み入りました。
また「一陽来復」という言葉も、今の世の中の希望であるようなそんな言葉に、新しい年への希望を抱きました。
どうぞこれからも美しい文章を書き続けて下さいね。元気を出して頑張って下さい! (妻の) いもうと 琉

○ 思いもかけない贈り物 ありがとうございます。
無事に満の米寿お迎え
おめでとうございます。
寒波の後はまた季節外れの暖かさになるようですね。
どうぞお大事に よい年をお迎えください。 下関 緑

○ 秦恒平さま お歳暮「埋み火 京の底冷えに」を拝読いたしました。ありがとうございます。
来年こそ、遊びに伺いたいです。
どうぞ、お元気に。 島尾伸三 作家

○ 秦 兄
奥さんの具合はいかがですか
先ずは満八十八歳の誕生日、おめでとう。
11月3日、奥さんの病院行の件で受信以来、返信がなく案じていますが、
『埋み火 京の底冷えに』を見て 特に異変もないようで安堵しています。
地球沸騰の近年ですが、流石にきのう、きょうの京の底冷えは堪えます。
互いに老体を労わりながら、佳い年末・年始を迎えましょう。  京岩倉・森下

○ 短篇明珠 拝読 一服の良茶を喫した気分です
今年も様々な御作を拝読し 旺盛な創作意欲に心を打たれました 「汝も励め」と鼓舞されて 奮発しなければならないと思ひを新たにしました
良いお年をお迎へくださいますやう念じてをります
寺田生 作家

○ hataさん
お歳暮の小説をありがとうございました。
京都のピンと張った冬の空気を感じることができました。数年前まで参加していた除夜の舞の厳かさを思い出し、失われつつある季節感を取り戻せた気がします。
凛としていたいと思いました。
ご無理のございませんように。
感謝いたします。 沖縄  名嘉

○ 冬至になりました。
ご退院、記念日、共にお祝いなさって、、、、と理解してよろしいのでしょうか?
お歳暮、いただく立場ではないと思いますが、ありがとうございます。
京の鳥辺野にはかなり広い実家の墓地があり、父がお寺さんによくしていました.力があったのでしょう。
狭い石段を登り始めると、狭い左に軍人の墓碑、右に庶民の墓地が広がっていました。
今は谷底まで開拓、最後はマンション形式の墓になっています。一人は そこに納まりました。
地学的には、京都の有名な露頭ですが、そこから二筋の水が落ちているだけの、音羽の滝がありましたが、、みのうの瀧になれていたこどもには、滝、という言葉は⁇ という感覚でした。
今は人任せ、私は関東。
下の男の子を連れて行った夏の暑い日、地元?のお年寄りに、あんたさんえらいねと褒められたことがありました。
古い、遠い記憶ですね。
冬至も過ぎました。
少し、少しと延びていく陽を、新しい年を、うつくしくお迎ええくださいませ。  那珂良

○ 秦様  年の暮れ。良い作品を読ませていただきました。ありがとうございます。
京の年明けに 身の引き締まる思いです。
寒さはこれからとか。どーぞどーぞお身体をおいといくださいますように。
迪子さまともに揃って 良い新年をお迎えくださいますように。   練馬  晴美

○ 「埋み火」有難うございました。
秦先生の文章を読ませていただいておりますと、いつも祇園のことが懐かしく想い出されます。
大和大路新橋の家で聴いた知恩院の除夜の鐘、おけらまいり、など先生とは7,8年後ですが、ほとんど同じ記憶が残っております。
今年ももう終わりますね。
世界が無茶苦茶になった一年でしたが、まだまだ続きそうです。
来年も何とかしっかり立っていたいと思います。
京  桂    服部正実

* 体調の違和すこぶる、變。六時半をまわったところだが、やすむ。

* 読者の方、メールアドレスとお名前さえ下れば、歳暮の掌編『埋み火 京の底冷えに』をお送りできます。
2023 12/24

* 「やかましい 喧しい」という批評・非難は「京都」では「かなり厳格」であった。言い争う少青年も大人達も「やかましい!」と相手を罵っていた。東京ではそういう場面にそうは出会さなかった、いや、「黙れ!」が、それか。しかし「やかましい」と「黙れ」とには微妙な差異が感じられた。継続と遮断。批評と拒絶。「京都」という社会は、なるべくは「ブチ毀し」にしない「先々への配慮」がある。「喧しい」だけのおヒトは嫌いだ。

* ときに「喧しい」メールを寄越す人が在る。つねは、そうでないのに、である。興奮が過ぎるのか、関心を牽くためか、ワケが判らないのか。「黙れ」とは、拒まないが。
2023 12/28

○ 廬山 三輪山の面影を心に住まわせて読み進み 隠沼に至る……まさに配列の妙です
今の時代 この年令でこそ味わえる讀書体験でした。
竜の子と傘寿の春をゆうらゆら)
二○二四年
佳いお年でありますよう
心よりお祈り申しあげます。 不一   羽生淸   美学者 元・大学教授

* 京の名菓「雲龍」で傘寿祝って戴く。もう一度、どうかして逢いたい人。

* 京都新聞では,例年、誕生日にその年齢カケル100円の寄付を望まれる。8800円也。事も新聞に其の旨名前が出たと報じてきた。

* 京都府文化功労賞受賞者の會にも案内が来ているが、失礼させて貰う。
2023 12/28

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