* 優れた詩や短歌や俳句を、好むままに無心に次から次へ読んで行く時間こそ、思無邪にちかい。かくも豊かに人の胸に湧いて人の口より発せられる、ことばの、思いの、多彩な真実。
よく選ばれた詞華集ほど嬉しいものは少ない。そこでは、とかく浮華不実に流れがちな人のことばが、月をゆびさす指のように優しい。深い。月をゆびさす指は、けっして月ではないのだが。月は、そう、「月」というしかない。
この桜しろがねの壺に挿そうかな夜寒なにかは月も入れんよ 高橋幸子
三輪山の背後より不可思議の月立てりはじめに月と呼びし人はや 山中智恵子
暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月 和泉式部
わたしにも十七と十八の年に、月の歌がある。二十代に月の句もあった。
ひむがしに月のこりゐて天霧らし丘の上にわれは思惟すてかねつ
うすれゆく翳ならなくに夕月のほのかに松をはなれけるかな
月皓く死ぬべき虫のいのち哉
* 建日子の『月の子供』の成功を祈ろう。
* さ、もう寝よう。
2007 1・16 64
☆ 牧野富太郎 千葉 e-OLD
小学生の頃(国民学校)どういういきさつだったか、理科の先生と、牧野富太郎と、神奈川県の真鶴岬へ植物採集に出かけた。
真鶴岬にはツツジが咲いていた。
「ねえ、きみ・・ツツジの花弁は五枚、その中の一枚だけ斑点がついているでしょ。ほら、その花びらは上を向いているの。」
今でもツツジやサツキの花を見ると確かめる。やさしかった顔を思う。
道端の草をむしって、
「これなんですか」と聞いた。
「それはホトケノザ。」と教えてくれたが、「・・あのねえ・・植物はね、・・こうして・・根から全部採ってあげるの」とやって見せてくれて、大切そうに胴乱に入れてくれた。 「・・あのねえ・・」の意味に気付いたのはずっと後のことである。
* こんな歌を思い出しましたよ。 湖
先生と二人歩みし野の道に咲きゐしもこの犬ふぐりの花
先生は含み笑ひをふとされて犬のふぐりと教へたまひき 畔上 知時
2007 2・4 65
* 原本の電子化原稿を校閲しながら、合間に、岡下香という死刑囚の獄中歌集『終わりの始まり』を読んでいた。口語短歌「未来山脈」の編集発行人光本恵子さんから送られてきた。この人との縁で作歌に入ったらしく、口語での非定型であることも作者の実意・実情を吐露しやすくしたであろう。
友達と鬼ごっこして遊んだと綴る十才の孫の文字が 時々かくれんぼ 岡下 香
* もう明日になった。眼も乾いている。
2007 2・5 65
* 唐銅(からかね)に黄のフリージァと霞草なげ入れてうれし愛(うつく)しければ 湖
2007 2・13 65
* すみだ川舟よぶ声もうづもれて浮霧ふかし秋の夕浪 清水浜臣
浜臣は江戸不忍池の畔に暮らした医師で村田春海の門にあり、和歌・文章ともに名声を博したといわれる。
清水浜臣を語ろうというのではない、語るのはたまたま目に触れた上の歌一首である。近世和歌ではわるくない、佳い方の一首である。
試みに、何でもいい一首、二首、古代のよく知られた和歌をあげてみる。
花の色はうつりにけりないたづらにわが身よにふるながめせしまに 小野小町
やすらはで寝なましものを小夜ふけてかたぶくまでの月をみしかな 赤染衛門 浜臣の歌は少なくも途中に三ヶ所の気息休止がある。末句の体言止めもふくめると、四ヶ所で息切れがしている。五、七、五、七、七音の見えない連続の小箱の中に、律儀にちぎった言葉を決まりごとのように入れている。言葉を「置いて」いる。
和歌全盛の頃の読み手は、あたかも言葉をちぎって音数にそろえブツ切りに置いてくるような歌い方はしない。読む者・聴く者にそんな拵えものの感じをまるで持たせない。句が句を呼び込んで連綿と流れて行く。
浜臣の歌と、小町や赤染衛門の歌では「聴こえ」の柔らかさが、全然ちがう。時代の差異もあるが、語と音との斡旋、語感にそもそもめ雲泥の差がある。「うた」であるからは「うた」われる命を窮屈に殺してはならない。浜臣の歌には句が句を自然に催し迎えて行く声調に乏しい。
2007 2・14 65
* しきりに風が鳴っている。なにとなく放心していて、用もはかどらない。こういう日は、ゆるりと過ごそう。ジョン・ウエインの『駅馬車』とエディ・マーフィの『ネゴシエーター』を観た。両方ともヒロイン役の女優が美しかった。ふたりとも胸もとが魅力的。
なにといっても女性の胸は永遠の魅力。しかしながら某姉妹などのバケツをふせたような巨乳は気味悪い。ああいうのを売り物にし買い物にするやからの気が知れない。
シンプルなセーターやブラウスやシャツのまま、あっさり襟もとをくつろげたり、胸の線をそれとなく美しくみせている人に出会うと、自然心ひかれる。
もうよほど昔のことだが、こんな歌に出逢った。
いつまでも美しくあれといはれけり日を経て思へばむごき言葉ぞ 篠塚純子
この歌を、もらった歌集で初めて目にしたとき、ウムと唸ったのを思い出す。男は、まるで当たり前のように、また祈るように、こういうことを平気で女の人に口にしてきた。むごい気持ちでいうのでは、ない。やはり祈るような気持ちというのが近い。「美しくあれ」のポイントは、男どもにより色々異なるのであろうが、女の人は、なにを男に美しくあれと求められるのがいちばん「むごい」のだろう。
写真はいる
夜色 京祇園八坂神社石段下(四条通) もっとも懐かしい故郷
(手前左右に、東山通。左方が祇園町南側 右方が祇園町北側)
2007 3・31 66
* どんな世間を游いでいても、赤身に塩をすりこまれるような辛いこと不快なことは有る。無くなることはない。そして不条理なものごとほど、千万の言い訳も利かない。
建日子も、いま、そういう不快な毒水をあびせられていることだろう、出る杭は無道に打たれるし、打たれる意味が無道でなく、本人が気づいていない場合もある。
特効薬はない。
しかし、このあい間家に来たときわたしは彼に言った。自分より格下と思われる相手でなく、今までのつきあいとは角度や方面のちがった目上の「良い知己」を求めて触れあうようにと。知己をえて、身内をえて、いろんな意味で豊かになるがいいと。
この父とも、臆せず高ぶらず、ときに静かに話すがいい。
亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし 井上正一
このお義理にも上手と読めない歌一首に出逢ったころ、建日子はまだ中学に入るかどうかだったが、いつかこういう感懐に胸を濡らす日が来るであろうことをわたしは痛ましく感じていた。わたしはまだ死んでいないが、建日子にはもうキツイ日々がきているだろう。何かの折にはすこしも気遣いなく顔を見に帰ってきてよし、呼び出してくれてもいい。
独楽は今軸かたむけてまはりをり 逆らひてこそ父であること 岡井隆
子が父に、父が子に、逆らう。
だが待て。わたしが父であるだけではない。建日子がまたみずからも父であって初めて、この岡井さんの歌の示唆する境涯が、人生が、複眼で観えてくる。
2007 4・4 67
* 南山城の加茂駅近くに喫茶店をもうすぐ開業する若い、若い従弟から、美味しそうな各種ブレンドの珈琲豆をもらった。宅急便の荷がすてきに良い匂い。四袋にそれぞれ当尾、加茂、瓶原(みかのはら)、泉川と名がついているのも懐かしい。
泉川は木津川の古名。
みかのはら わきてながるる いづみ川 いつみきとてか こひしかるらん 百人一首になだかい良い歌の「泉川」がこの木津川のことか、いまの京都御所の南西の辺へ流れていた泉川か、両説がある。「みかのはら」というまぎれもない知名を冠しているので南山城の木津川説がつよいが、藤原定国の邸だった泉殿の池庭を流通していた泉川には、この歌の作者とされる中納言兼輔に近縁がある。
しかしながらこの知られた名歌、じつは兼輔作でない「よみびと知らず」の作である公算が高い。木津川説はやや動かしがたいか。 2007 4・17 67
* 近日、ひときわ胸をうった作物に、俳誌「安良多麻」を主催される奥田杏牛さんの編まれた『奥田道子遺句集 さくら』がある。
七十句ほどの小冊の文庫本であるが、吟じてみて、境涯のいかにも俳句にしっくりなじんで、語の斡旋の淳にして瀟洒なこと、舌を巻いて全句共感した。奥田主宰が雑誌を編まれる傍らで、数年前から夫君に強いられるようにして「埋め草」なみに作句されたものというが、信じがたいほどの純熟。まず、俳句の集にふれて、こんな思いの恵まれることは希有である。享年八十三。ご冥福を心より祈りつつ、もっと読みたかったと歎かれる。
杏牛さんにお願いして「e-文庫・湖(umi)」に戴きたいと思う。
2007 4・20 67
* 古池や蛙とびこむ水の音
芭蕉のこの句を数瞬の後に絵にしたかと想われる竹内栖鳳の絵(カレンダー)が目の前にのこしてある。翠と黄色との魅力横溢のむらむらから蛙が一匹わずかに頭を水面に出している。肢体はむらむらの水のしたに。
静かさ寂しさ安らかさ。至福の大世界。
ところがこの句、外国語に翻訳され始めた頃、例外なく蛙は複数で表現されていたそうだ、禅ふうの理解が海外にも行き渡る以前は。
日本人なら、一万人に一人も蛙を複数とは想っていまい。そして名句と理解してきた。俳諧を代表するもはや記号にも等しくなっている、句と。
「果たして名句か?」というシンポジウムのあったことを「鷹」の小川軽舟があとがきで紹介していた。高浜虚子は閑寂趣味の受け取りを拒み、「陽春の天地躍動」と鑑賞していたそうだ、今日の金子兜太は「蛙は複数」として譲らぬそうだ。如何。
2007 4・23 67
* 瀧井先生の句は二つ頂戴した。
妻の肌乳張つてゐる冴返る
しぐれ行く山が墓石のすぐうしろ
後の句は谷崎先生の法然院のお墓にまいられた折りの句。谷崎先生からは和歌三首、松子夫人のも一首頂戴した。いずれも心に残る。
思いようではあるが、これほど多くの人たちのこれほど多くの優れた詩歌がいつも身内にしまわれていて、おりごとにわたしの感懐を代弁してくれるという豊かさ。感謝、限りない。「文学」とは、「感動」とは、こういうこと。言葉の冷めた達者な駆使など、何ほどのことでもない。紀貫之のむかしから詩歌は人の心を動かしてこそ、なのである。ただ此処で誤解しやすいのは、表現した表現された「詩歌・文学」が終点ではないのだと謂うこと。それらが指さしたさきのもの (真如の月)を、人が、作者も読者も、深く望んで心を無にし静かにして憧れ想うということ。「指月」である。
2007 4・23 67
☆ シチリア 7 静
マレーナ
美しく若く マレーナである人生を・・
レモンの果肉食み 酸っぱさに胸傷んでも
マレーナ 花は萎れてしまうのだよ 早々と
美に撓んで
わたしたちは生きる
生きるとは砂噛むごときものとしても
真昼 嘆きの声は続く
果たせない約束は 螺旋を描く
愛には レクイエムを
苦い戯れに 切ない囚われに レクイエムを
アレトーザの泉
川の神アルフェウスから逃れようと
妖精アレトーザは泉になった
アレトーザの泉に 今も水湧き出でる
ギリシア神話には男神から逃れるために
変身遂げた妖精や女神
女の幸せは男との愛にかかっている
そう拘るよりも むしろすっきり潔い
潔くあれ!女たち
春の風に 女は泣かない
けれど 女はそれほどに潔いか?
欲望はないか?・・・欲望とは何か?愛とは何か?
軋む心に 愚かな問いは行ったり来たり
遺されたもの
かつてこのようにあり 今このようにある 女の顔
かつてこのようにあり 今このようにある 男の顔
振り向く女の顔もうつろ 男の顔も静かそのもの
テラコッタの顔は 語らない
entheos神々の呼びかけだった
昔日 情熱に駆られ おのれの血の沸騰したところ
躍動し 挫折し・・今・
ふくよかなランドリーナのヴィーナスの胸乳下には酷い痕跡
ミロのヴィーナスより美しいと モーパッサンは賛美した・・
女に向う腕 既に形を喪った腕は 永遠に届かない
翼もつゴルゴンは自在に空を飛んでいたか?
今 あっかんべえの舌さえ笑いを誘い そして寂しい
黄金色の翼もつ風が吹く
夜の女神ニュクスは 息子カロンを産んだ
夜は 渡るべき川は・・それは安堵かもしれない
唇は硬直し 竪琴の奏でる旋律は凍り
黒陶の肌は輝き 夜の海を宿した
遺されたものたちの
あまりにひっそり あまりにひそっり
* これほどの詩人も野にいる。
2007 4・23 67
* 敦厚の感に溢れた佳い手紙で、こんなふうに自身をひらくことの出来る人の魅力を、身いっぱいに聡明にうけとれる配偶者候補の出現を、わたしは年久しく願ってきた。
『愛、はるかに照せ』の二つめの章「夫婦の愛」は、こう書き初めてある。
男女の愛があって、結婚し、夫婦になる。そして子が生まれる。子を持って知る親心。あまりに尋常なようではあるが、このサイクル、当分変わるまい。では、ものの初めに「求婚の広告」という詩から読んでみよう。山之口貘の『思弁の苑』(昭和十三年刊)から引く。佐藤春夫が序詩に、貘の詩を、「枝に鳴る風見たいに自然だ しみじみと生活の季節を示し 単純で深味のあるものと思ふ 誰か女房になつてやる奴はゐないか」と書いているのも、この詩を受けてのものだろう。
★ 一日もはやく私は結婚したいのです
結婚さへすれば
私は人一倍生きてゐたくなるでせう
かやうに私は面白い男であると私もおもふのです
面白い男と面白く暮したくなつて
私ををつとにしたくなつて
せんちめんたるになつてゐる女はそこらにゐませんか
さつさと来て呉れませんか女よ
見えもしない風を見てゐるかのやうに
どの女があなたであるかは知らないが
あなたを
私は待ち佗びてゐるのです 山之口 貘
「若しも女を掴んだら」というケッサクな詩もこの詩人にはあり、表現の軽みの底にたゆたう時代の重い嘆きは昏いのだが、貘の詩は持ち前の「正直で愛するに足る青年」(春夫)の詩情で読ませる。独特の「考えかたのおもしろさ」(金子光晴)に、詩がある。
* 電子メールやケイタイ電話の氾濫で、恋がかえって育っていない。恋でなく「つきあい」だとお互いに軽くかつ身構えて、「恋」「愛」に到達しない。到達するための表白も表現も思い切りヘタになっている。どっちもが心の底で「つきあい」レベルに躊躇している。いっそ、上の詩など、代弁してくれないか。
* 何度も何度も書いてきた。
佐々木邦のユーモア小説を初めて古本屋で立ち読みしたのは、まだ小学生だったか。漱石に、『心』という小説のあることをわたしは知らなかった。
立ち読みした邦の小説の、わが記憶に焼き付いているその場面で、やはりある青年が本屋の立ち読みをしていた。立ち読みが目的ではない、帳場に座っている娘さんに恋していたのだ。だが奥にはこわい親爺がいる。娘は青年の気持ちを察しているが、ためらっている。彼はどうやら立ち読みの風情で日参しているらしい。
そして青年、意を決して一冊の「本」を書架からぬきとり娘の目の前へ差し出した、が、渡さない。彼は娘に示して、「本」の題をしきりに指さす。「本」の題は「心」。
彼はそれを繰り返す。娘も察したのである、ついに。青年の恋は「本」「心」だと。
そんなにうまいこと『心』やなんかいう本があるやろかと、立ち読みの少年私は心幼くも小説家の手際に疑心も抱きながら、恋ごころの表現は難しいモノだと覚えた。
うまく言えない。かわりに万葉集の歌番号をもちいて「恋心」を伝えた年配の体験者はすくなくなかろう。
わたしが『閑吟集』の鑑賞本を出版する、と、すぐ、「307」とひそかに伝えてきた人がいた。番号が示していた室町小歌は、端的、
「泣くは我 涙の主はそなたぞ」 とは、ウソ。
こういうふうに気持ちを伝え合う大人も昔はいただろう。ケイタイ時代の恋はあまりにウジャジャケていて、本人すらなにが本気やら、まして受け取る側ははなから本気をさぐりもしないのかもしれない。本気で誠実に伝えるすべ、それが難しかったのは古今東西、同じだ。だから可憐な、
あまり言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の早さよ 閑吟集
といった懸命の「手」が、無数に発明された。とはいえ、結論はきまっている。愛の難さに屈せぬ、誠実な本気だ。
* 思いがけない心嬉しい便りを手にするということ、ときとして、突然、有る。突然だから嬉しさも、どうしたんだという気持ちも、ある。
2007 4・27 67
* 草まくら旅にしあれば母の日を火鉢ながらに香たきて居り 土田耕平
☆ 今夕 お願いした四冊届きました こんなに早く届けていただけたので 一と組はこの火曜日に機会があり その席に持って行こうと思います
感謝。
あと
もう 「体調のことも大事な仕事」と 不義理をされても良いではありませんか おからだの事 奥様・働き盛りの息子様の為にも あまり私されませぬよう お大事にと
まだうまく伝えらるように話できませんが
父が脳梗塞で倒れ10ヶ月弱入院し逝きましたが 母はその間 体調の不良を自覚しながらも 父を最後まで自分が守る・看病する 一緒に入院するわけにはいかない
その為 検査は受けない もし何らかの病で 手遅れとなっても自分の責任と 家族・医者にも宣言し 結果 父の死後に検査を受けた時は すでに末期癌でした
母の父 誠一郎は二人の妻ともに先立たれており 最期は 守伯父夫婦と嫁ぐ前の母が世話をしていた その体験もあり 自分は夫を看取るのだという意識 吉岡からの嫁として 病で弱った夫を 歯医者として 尊厳をもたせたままおくるのだという意識 父への愛 いろんな思いがあったのだと思います
検査を拒否した時には 話もしました
ただ こちらも迂闊にも納得してしまってました
ただ 子からすれば 今もやはり 母はそのからだと命を 私して逝った と
ですから ...
母の日に 拝 巌 従弟・南山城
* 泣く。
* 従弟はほかにも柳生の里との地縁や血縁にふれて分かる限りを教えてきてくれる。ありがとう。
むかし、わたしは一大発心して、自分の血縁やルーツ探訪の行脚を試みた。作品の中で「当尾(とおの)宏」とよく名乗っていたが、その加茂町当尾村に実父の生家、往年の大庄屋吉岡家も訪ねて当時府立木津高校の校長先生だった守叔父夫婦に歓迎されたし、加茂駅近くの医家に嫁いでいた従弟の母上恵子叔母にも逢ってきた。
わたしの遠い遠い朧な吉岡での記憶に、お姉ちゃんが二人、元気な犬が影のように浮かんで消えていなかったが、恵子叔母さんはその小さい方のお姉ちゃんだったことに合点がいった。どんなに嬉しく懐かしかったことか。東京へ帰ってからもわたしは妻や子が驚きあきれていたほど興奮しつづけていたのである。
その叔母と従弟とは西武線の石神井公園駅ちかくの親戚を足場に、突然保谷の我が家を一度だけ訪ねてくれたこともあった。今でも、石神井公園を電車で通るつど同姓の医院の広告が目にはいるときっと恵子叔母さんやいとこをわたしは思い出すのである。
2007 5・13 68
* コメント 05月16日 湖
理系の研究機構にいる研究者には、切実な、いつになってもキツイ話題・問題ですね。よそながら身につまされます。
幸運、天の配剤を何よりあなたのために切望しています。
この問題でわたしはあなたに、あまり大きな顔は出来ないんですよ、自然科学ならぬ哲学・美学の院を見限って、妻に成る人といっしょに京都を捨て、東京に駆け落ちしましたからね。念願の、創作人生に出会えましたけれども。そのおかげで、あなたがたとも出会えた、幸せでしたよ。 湖
☆ コメント 雄
湖さん,コメント有難うございます.
いえ,そういうことではなく,結局どのような選択肢を取るかで,その人の価値観が現れるように思うのです.先生の場合,いずれの選択肢を選んだにせよ,最終的に幸せな人生を歩むことができたというのは素晴らしいことだと思います.
ちなみに,上の文章を自分で書いておきながら,少なからず違和感を感じていました.そして気づいたのですが,研究室の移籍云々や会社に関しては,科学(または仕事)への誠実さ云々よりも,ボスや会社に対しての忠誠心が大きく反映される気がします.そういう意味では,あまり良いたとえではなかったかもしれません.ボスへの忠誠心云々は僕にとって,それほど大きい問題ではなく,恋愛相手を選ぶのはむしろ自然なことかもしれません.特に,既に相手がいて移籍先を選ぶ場合,お互いの興味を反映させつつ,最良の移籍先を探すというのはよくあることです.
確かにおっしゃるように,研究者どうしのカップルの場合,お互いにとって最良の行き先を選ぶということは非常に重要であり,かつ難しい問題でもあります.
* 天の配剤を祈る気持ち、それだけがある、わたしには。山之口貘の「求婚の広告」を彼がしているとは思わないが、その詩と詩集『思弁の苑』に佐藤春夫が附した序詞に、「枝に鳴る風見たいに自然だ しみじみと生活の季節を示し 単純で深味のあるものと思ふ 誰か女房になつてやる奴はゐないか」とある。もう一度「雄」くんに代わり貘のその詩をかかげてみる。お節介を怒るなよ、雄。
☆ 求婚の広告(1938) 山之口 獏
一日もはやく私は結婚したいのです
結婚さへすれば
私は人一倍生きてゐたくなるでせう
かやうに私は面白い男であると私もおもふのです
面白い男と面白く暮したくなつて
私ををつとにしたくなつて
せんちめんたるになつてゐる女はそこらにゐませんか
さつさと来て呉れませんか女よ
見えもしない風を見でゐるかのやうに
どの女があなたであるかは知らないが
あなたを
私は待ち佗びてゐるのです
* おそらく最高度ないし最先端の研究に従事しているラボの、ほんのかすかな一端を覗き見るおもしろさ。逆立ちしても現実のわたしは其処へ歩いては行けないのだから。だからといって無縁だとは思わない。わたしの学生が現にそこで生きている、一人の若い男として。
今朝のその男の日記も見過ごせぬおもしろさで、わたしの機械にとびこんできた。
2007 5・17 68
☆ はじめてのおもちゃ 馨
実は子どものおもちゃを買ったことのなかった私。
いま家にあるおもちゃ類は、頂き物・おみやげ(これは夫や私からのものもあります)・サンタさんからのプレゼント、という経由で到来しています。
あ、お友達の誕生日用にトイザラスに行った時に、ねだられてメルちゃんを買ったことはあるなー。でも、これはやむをえない仕儀でした。
・・・が、初めて主体的におもちゃを買いました。息子用おもちゃ(←あくまでムスメのではないところがポイント)。
いま息子のマイブームはなんとお片づけ。
目についたものはなんでもかんでもポイっ! ポイっ! ポポイのポイっ!
ゴミ箱に入れる場合もありますが、外に投げ出すことが圧倒的に多いです。我が家の裏口には猫用のドアがついているのですが、そこから次々に投げ出したり、昼間はベランダから投げ出したり。
捨てられたもの・・・私のスリッパ。ムスメのおもちゃ。テレビのリモコン。私の化粧品類。お財布。たたんだばかりの洗濯物。掃除機の口。積み木 etc… うち、今でも見つからないもの・・・テレビのリモコン。私のハンドクリーム。
で、考えました。
この片付け魔(いや捨て魔だな)、何か無害な方向に持っていかれないか。
というわけで、一念発起して初めておもちゃを買いました。
木のボックスにいろいろな形の幾何図形の穴が空いていて、同じ形のブロックをあてはめていく、というよくあるおもちゃです。
このおもちゃ、息子のニーズとマッチしていたせいか、購入後、延々と遊んでいます。入れたり出したり、入れたり出したり。ようやく少し目を離して家事をできるようになりました。よかった、よかった。
が、やっぱり。おもちゃ到着2日後、一連のブロックの中で扇形が行方不明となりました。そのときは締め切りのリビングに私と二人でいたのに、どこを探しても出て来ない~~。
息子の身の回りに四次元ポケットがぽこっと空いていて、そこをのぞくと、扇形のブロックやテレビのリモコンや使いかけのハンドクリームが浮かんでるんじゃないかなー。
紛失後3日して突然出てきた掃除機の口は、きっとそこからこぼれ落ちたんじゃないかなー。
なぁんて思いを馳せる母でした。。
ちなみに、ムスメにおもちゃを買わなかったのは、ちっこい時から「自分で作る」という子だったのが一番の理由ですねー。この前も「お母さんはDS買ってくれないに決まってるから自分で作ったの」と、工作物を見せてくれました(^^)。今はお人形(サンタさんより)用の二段ベッドを工作中。
安上がりな子どもです。
☆ 女の幼き息子に 佐藤 惣之助
幼き息子よ
その清らかな眼つきの水平線に
私はいつも真白な帆のやうに現はれよう
おまへのための南風のやうな若い母を
どんなに私が愛すればとて
その小さい視神経を明るくして
六月の山脈を見るやうに
はればれとこの私を感じておくれ
私はおまへの生の燈台である母とならんで
おまへのまつ毛にもつとも楽しい灯をつけてあげられるやうに
私の心霊を海へ放つて清めて来ようから。
* 夕方自転車でほんの少し近在を走ってきた。きつい風が奔っていた。
2007 5・20 68
* 手洗いの新しい花花が、棚にも床にも色優しく咲き溢れている。心憩うのは、広い世界で、我が家の手洗いだけの心地がする。外に出ると、からだが腐りそう。忍術ではるかな野の世界へ抜け出したい。
汚い政治はどの世間にも濡れ雑巾のようにぐっしょり。『心』の「先生」ではないが、人が信じられないのに自分が信じられるわけがない。濡れ雑巾になっている感触、堪らなく汚い。洗う場所がない。
* 擬死ほども尊きてだて我はもたぬ昨日今日もそれゆゑの虚飾 十七歳の私の歌
* あのころわたしは孤りだった。いまわたしは、ちがう。そばにバクワンがいる。彼にわたしは抱きついたりしないが、手の届くところで彼は並んで歩いてくれている。彼は横で呟いている。
おまえ自身が燃えていないのに
おまえは人の光をともそうとしているのかね
おまえはかえってそれを吹き消してしまいかねないよ
2007 6・3 69
☆ 沈まば湖の底… 鯉素
雨がいつまでも降り続き
森や道がうみに沈んだら
鯉に身を変え
水の底にてお待ちしています
* 鯉素とは手紙のこと。おもしろい鯉がいるなあ。おどろいた。
2007 6・5 69
* 季節はずれだが。ちょっと手近な英和辞典を使ったら、その裏の見返しにこんな句を書き散らしていた。紙質がわるくてさらさらと頁の繰れないじつに使いづらい辞典だった、英語の勉強が嫌いになったほど。高校に入り、親に頼んで買ってもらったのに。句は、大学時代に書き込んだもの。
むしすだく つゆけきまでの いのちして 宗遠
宗遠という茶名は大学に入る前後にもらった。ドイツ語の辞典にも一句書き込んでいた。
死にいそぐ道にここだも春の花 遠
あれから半世紀の余も生きてきた。長生きするかもしれん。
2007 6・15 69
* 涙雨。 去年の今日の「mixi」で、わたしたちは孫のやす香自らする「悲報」に泣いた。今も泣いているが、それではやす香も悲しかろう、淋しかろうと気を励ましている。西武線のすいた車中で、まみいに寄り添い私の方へ笑んだやす香の遺影が、いま手の届くところに。
やす香…やすかれ。
さにはべの草葉なみうつ慈雨の季にひとりを堪へてやす香恋ひしも
おぢいやんと呼びて見上げて腕組みてはげましくれし幼なやす香ぞ
あの日から、わたしは凍っている。
2007 6・22 69
☆ ふりだしに戻る ボストン 雄
(前略) こちらに来て半年が過ぎようとしている.新しいアパートを見つけ,新しい環境に住もうとしている.これまでの半年は無駄だったとは思わないし,思いたくはない.アメリカでの生活に慣れただけでも,大きな収穫だと思わねばならない.日本は恋しいが,多分,いま日本に戻ったら,浦島太郎のような感覚を味わうことだろう.それくらい,アメリカの生活に慣れてきた.
前に日記でも書いたが,今は何一つうまくいかない.仕事は勿論のこと,色々な問題が山積している.正直言って,辛い.
しかし,考えようによっては,今は過渡期なのかもしれない.過渡期は決して心地よいものではないが,変わるには必要な時期だ.ここをどのように乗り越えるかで,今後が決まってくるのだろう.
人間の真価が問われるのは,何か成功を収めた時でもなければ,それによって表彰される時でもない.それらはあくまで過去の結果にすぎない.他人は結果で相手を評価するけれども,それは所詮,他人の評価だ.他人の評価がどのように変わろうと,その人自身の本質が変わる訳ではない.その人の真価が本当に決まるのは,逆境をどのようにして乗り越えていくかだと,僕は思う.
* まあただよ。もういいよとは言はれまじ。もういいよとは、もうおしまひぞ。 湖
2007 6・30 69
* 夜前、興膳宏さんに戴いた本を読み終えた。
わたしは。新井白石らのほか、和臭の濃いわが近世の漢詩は、頼山陽のものをはじめ、あまり好まない。上古・上代の漢詩は鑑賞に堪えるけれども。興膳さんの本を読んでいるとしきりにまた唐詩選や陶潜や白居易の詩が読みたくなる。宋詩や、また歓楽の味の濃い袁枚の詩もなつかしい。
2007 7・6 70
☆ ジェノバより 馨
出張でジェノバに来ております。
今日からまたヨーロッパを転々としますので、いつまでネットに繋がっているられるかわかりませんが、但馬皇女の歌を取り上げられているのを読ませていただいて、思わずメール差し上げたく。
というのも最近、万葉集を読み直しており、今回の旅行にも持参してきたものですから。
海外出張には、普段は必ず川端の「古都」を持って行きます。日本が恋しくなったときの、栄養補給と言いましょうか、心のサプリメントとして。
文学作品としての「古都」の完成度についてはさておき、本を少し開くだけでも、やわらかく一気に日本の持つたおやかな部分に包まれることのできる作品です。言葉の一つ一つがすばやく体の中に吸収されていくのです。まさに心のサプリメント。
漢方薬のような奥行きがあるわけではありませんが、スーツケースの中にこれが一冊あると妙に安心するのです。
今回、万葉集も持参してきたのは、このところ読み直している中で、実は万葉集にも同じように言葉からのすばやい吸収力を期待できることに気がついたからです。
以前は、古典は背筋を伸ばして向かい合っていたものですが、万葉集はごく気軽に、それこそ葡萄を口に含んで糖分を補給するように、触れ合えるものですね。それでいて人工的なサプリメントの軽薄さは何もなく、味わおうと思えば上等の葡萄のように何層もの甘味や酸味を見出すことができる。
一度、国内出張にすでに絶版になった文庫本を持っていきホテルに忘れ、着払いにしてまで送り返してもらってからは、出張には、なくした場合に必ず再購入できる本しか持参しないことにしました。
万葉集や古都は、そういう意味でも安心して持参できる作品です。
話が逸れてしまいましたが、但馬皇女。
穂積皇子の「恋の奴」の歌が私は大好き。電車の中から外を見たり、自転車を飛ばしたり、と美しい景色を見るときによく諳んじていました。
昔は万葉集の中でも相聞歌のほうに心惹かれたもので、そういうものばかり拾い読みしていました。
でも、最近は雑歌を中心に読み直しています。
言葉の一粒一粒から湧き上るように、この国のやわらかな情景が浮かびますね。
そういうイメージの喚起力に気がつくようになったのは、子供たちと過ごした1年少しの間に、私の中での日本の情景がとても豊かになったからかもしれません。
以前から地面のあるところにしか住めない人間でしたが、それがさらに強まったと言うか。子供とともに鳥の声に耳をすませ、桑の実の実るのを待ち、蛍を見に行き、棚田の中でオタマジャクシやタニシを見つけ、などと暮らしていた1年間。
子どもたちが私に贈ってくれたすばらしい贈り物でした。
そんな恩人でもある子供を置いて異国の地にいる母は、いつも働きながら子どもたちに詫びているのですが。
一面の青田を見ても以前には「景色」に過ぎませんでしたが、そこに一苗ずつ植えた人がいるのだ、と思うようになった今、青田の中に昔の開墾の苦労まで含めて「日本」とそれを維持してきた先達を見るようになりました。
子どもとともに増えていった、こうした私の中の「情景の引き出し」を持って万葉集を読むようになって、粒だった言葉に気がつけるようになったのだと思います。
但馬皇女に惹かれてとりとめもなく書いてしまいましたが、どうぞ乱文お許しください。
もう少しして朝が来たら、外国の大きな松ぼっくりが見たいと言っていた娘のおみやげに、公園に拾いに出かけようと思っています。昨日、仕事先の近くでたくさん見かけたもので。(土のついたものを持ち込むのは本当は違法かしら)
娘や息子が私に与えてくれたもの以上のものを、この子達に返すことはとうていできないだろうな、と思いつつ。
お体、どうぞどうぞお労わりくださいませ。
身にも心にも「葡萄」の常備は必要ですね、と、北イタリアより。
* 東工大のわたくしの教室には、こんな学生がいたのである、嬉しいことに。ものごとに、いつもこの人は正対している。斜に構えたりしないのが、魅力。教室にいたのはよほど長くて、二年か一年半。以来、十数年が経っている。
穂積皇子の「恋の奴」とは、しかし、びっくり。但馬皇女はこの皇子のもとへ川を渡っていた。
家にありし櫃(ひつ)に鍵さし蔵(をさ)めてし 恋の奴(やつこ)の掴みかかりて
皇子が宴飲(うたげ)の日に、酒たけなわとなれば好んで謡った歌という。光源氏にはるかに先駆したような、色好む御子であったという。
* 譜に書けないのが残念だが、わたしは高校の頃から、自分の短歌や、多く古今の和歌や短歌を好きに歌えるように、専用の曲をつくって持っている。
「笹原のゆるごふこゑのしづまりて木もれ日ひくく渓にとどけり」という十七歳自作に曲を創ったのだが、どんな和歌にも用いている。「久方の光のどけき」にも「近江のうみ夕波千鳥ながなけば」にもひしと合う。歌は、いつも身のうちに在る。
2007 7・7 70
☆ かぼちゃ 俊
いつの間にか
おばあさんが独り住んでいた苫屋(とまや)が取り壊され
少してんこ盛りの地べたになっていた
それから
春先に畑地に変わっていた
建売の造成更地ではなかった
地べたは二十坪ばかり
前の平屋は二間ほど
小さな庭があって
季節の花々が丹精込めて植えられていた
家の脇に湧水下流の
蛍が棲むといわれる小川が流れている
惜しいいことに
暗渠ではないけれど
コンクリ・ゼブラの縦縞が清流の景観の半分を覆って
味気ない排水路風情にもなっていた
これがなけりゃ
こんなところに住みたいな
と思っていた
おばあさんは
私が知るはるか昔からここに住んでいたのだろうか
今日、見ると
かぼちゃが花を咲かせ実をつけていた
アスファルトやコンクリや
電柱や
建売ばかりじゃ
詩ごころが
まったく
ひからびてしまう
主は替わったのだろうか
種まき育む人は誰だろう
情緒はかすかに残り
伝わってくる
今朝は
世間の塵を離れるひとときがあった
* 山間丹波のちいさな字(あざ)では、あそこのかぼちゃが大きい、いやこっちのかぼちゃがよう生ったと、農家ごとに評判していた。戦時疎開のころの話。
ご飯に炊き混ぜのかぼちゃはベタついて嫌いだった。かぼちゃというのが茄子の次ぐらいに嫌いだったが、今では薄く切っての天麩羅だとおいしい、甘いと言って食べている。しかしまだ茄子はだめ。今日も「レカン」で「茄子はつかいません」とアイサツがあった。先日の「御蔵」では加茂茄子の姿煮が、ああ好きな人には美味そうに見えるのだろうなと思いつつ、きみわるく、とりのけて食べなかった。野菜料理の特製の目玉のようであり、もったいなかった。
2007 7・13 70
* もう久しく親しい、ペンにも推薦した詩人の、同人誌作品を読んだ。どう繰り返し読んでも表現の端々に推敲不足が見える。いったい、同人間で互いに批評があり切磋琢磨しているのだろうか。そうでなければ同人誌というのは作品発表の便宜だけの無風地帯になってしまう。
2007 7・15 70
☆ ロバート・フロストの詩より 清
美しき森は 暗く深し
されど 我に 守るべき約束
宿る前に 辿るべき長き道のりあり
ロバート・フロストの詩を偶然読んだのは中学二年生だったか。(姉の本棚にあった。)孤独感と気概の間をうろうろしていた当時、詩のひとひらはわ
たしへの「励まし」になった。あの時、孤独はひたすら戸惑いに塗りこめられた孤独で 冷たく寂しいものだった。思春期特有の片思いに似た感情に怯えていたのかもしれないと今になって思うが、あの頃、生きること呼吸することは大袈裟だがつらかった。
美しき森は暗く深し・・美しいと期待したいが、暗いのも深いのもすべて見定められるはずがない。ただ辿らなければいけないと、やっとやっとなだめ励ますだけだった。
先ごろ書店で彼の詩集を見つけて買い求めた。
その詩の題は「雪の夕べ森のそばに橇を止めて」という。
最後の「宿る前に辿るべき長き道のりあり」と記憶していた部分の訳は「だから私には眠る前に何マイルも行かなければならない。」となっている。原文を書き出してみる。
Stopping by Wood on a Snowy Evening
Whose woods these are I think I know.
His horse is in the village ,though;
He will not see me stopping here
To watch his woods fill up with snow.
My little horse must think it queer
To stop without a farmhouse near
Between the woods and frozen lake
The darkest evening of the year.
He gives his harness bells a shake
To ask if there is some mistake.
The only other sound`s the sweep
Of easy wind and downy flake.
The woods are lovely, dark and deep,
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.
最後の「宿る前に辿るべき長き道のりあり」と記憶していた部分の訳は「だから私には眠る前に何マイルも行かなければならない。」となっている。そこから感じ取るものにかなり食い違いを生じてしまう。改めて図書館の他の翻訳を探したが、さして変わりばえしなかった。
原文を読み、その文脈から考えても おそらく淡々と、韻文よりむしろ散文の感覚で捉えたほうが納得する・・ということは、これまでの思い入れはわたしの思い違いに近かった。
それでも構わなかった。既にわたし自身の中で、それは一つの決定的な「訳」になっていて、それどころか彼のその詩から遊離して、一つの格言のようなものになってしまっている。
そして同時に原詩の何気ない言葉に思えるものが周到に選ばれていること、脚韻の美しさ、軽やかさを意識していることを知った。日常のさりげない言葉からさまざまに尽きない深い意味を汲み取ることができる気がする。今その思いを強くしている。
中学の同期会の時、もう記憶の彼方に沈んでいた人から声をかけられた。何十年も前の当時、彼女は服装も着崩して、不良らしい振る舞いだった。高校は違ったのでその後の消息はまったく知らないままだった。その彼女がまっすぐわたしに近寄ってきた。いかにも家庭の主婦をしてきましたという雰囲気とは異なるが、潔さ、一種のすがすがしさ、まっすぐなものが彼女から感じ取られた。
「あの詩、覚えている?・・あなたに教えてもらった詩よ。好きな詩を選んで読むってことになって、困って聞いたら教えてくれた詩よ。」そう言って彼女が口にしたのが、あのフロストの詩だった。その一行はあまりに思いがけなく唐突に過去から浮かび上がった。
「覚えてるわよ。あの頃覚えたのって忘れてないわねえ。」自然にわたしの口からもその一片があふれ出た。
「あれからいろいろなことがあったけど、この言葉で、わたし、随分助けられたの。だから今日はお礼を言いたかったの。本当にお礼を言いたかった。」
そうか、そうか、わたしも少しは友達の役に立ったんだ。
そして繰り返しになるが、この一行が「宿る前に辿るべき長き道のりあり」と訳されていたからこそ彼女に意味深長に聞こえたのであり、「だから私には眠る前に何マイルも行かなければならない。」では、わたしから彼女に伝わることも恐らくなかったろう。
そして十数年前ボストンで知り合った友人もロバート・フロストの名前とこの詩をあげた。
「これはね、ニュー・ハンプシャーの森を歌ったもの。ニュー・ハンプシャーには二千もの湖や池がある。面積の90パーセントが森林。君の国よりもっと森が多い。しかも3000フィート以上の山が200以上もある。」
素直でアグレッシブなアメリカ人とは少し外れて、彼は静かな含羞の人だったが、森のことを誇らしげに語った。
確かにニュー・ハンプシャーの青々した山は素晴らしかった。時まさに秋十月、週末にレンタカーを借りて、山深いところに家族旅行した。森、点在している湖、何よりも記憶に焼きついたのは紅葉だった。たくさんの木々の紅葉を見た。この先一生分の楓の紅葉を見たと思った。
わたしたち日本人もまた美しい日本の自然を、森を歌いたい、心から歌いたい。勿論、この日本の自然を大切にしていく強い確かな姿勢あってのことである。
美しき森は暗く深し
されど我に守るべき約束
宿る前に辿るべき長き道のりのあり
わたしたちの森は何処まで続いているか、暗いか 深いか・・明るいと思えば明るい、暗い森にも日が射し込む箇所もあるだろう。深い森でも時には思いがけず切り開かれた場所に至るだろう。時々は怠け心のままに休息し、宿り宿り、辿り辿り、さて長い道のりとは・・何処まであるか、何処で途切れるか。
それにしても わたしの森が美しいか、醜いか、それすら実は全く分からない。暗く深い、その不分明さだけは身に沁みて感じていても。
* 「道のり」を、水平の遠い彼方に読み取る風情もあれど、「道のり」を垂直の闇の虚に汲み取るのも、有るべく。遠くへ遠くへ尋ねてゆくのでなく。美しい森はもともと胸奥に抱いているのではないか、気づかないだけで。 湖
ようすは少し違うかもしれないが、詩句の読みのちょっとした差異から深いとまどいに心を揺らした記憶が、わたしにも、ある。小説『慈子(あつこ)』に書いた。
ヒロインが大原の三千院近くの茶屋で女主人の「徳女」の自らしたためていた句色紙を、「蛍籠とうから夢とけじめなく」と読み取ったのが、じつは「蛍籠どこから夢とけじめなく」の読み損じであったこと。
この微妙な差は、「夢」なる一字の世界をゆらし続けて、いまもなおわたしの胸の奥でけじめがつかない。
2007 7・17 70
* 予定通り、手近の全集ですぐにも読める万葉集、古今集、新古今集の全歌を、明日から音読し始める。気が向けば一日に何首でも。もともと和歌を詠むのは好きだから苦にならない。むしろ後撰集や千載集なども読みたいのだが、国歌大観を持ち出すのは重すぎるし。字もあまりに小さいし。
2007 7・19 70
* 一年萬感
あるはなくなきは数添ふ世の中にあはれいづれの日まで歎かむ 小野小町
つまもわれもおのもおのもに魂の緒のやす香抱きしめ生きねばならぬ 祖父
* 墓参も先日に。
* 今日は、1960年生まれ娘・夕日子の誕生日でもある。健康でありますように。
2007 7・27 70
* 浅草花火
満月も待ちかねている花火かな
満月を上客にして花火かな 宗遠
2007 7・28 70
* しばらく前から『萬葉集』全巻をと、音読を楽しんでいる。新古今集まで、我が家に刊本で揃っている勅撰和歌集を全部読み通しておきたい。萬葉集は、者によりすこしずつ「読み」がちがう。むかしに覚えたとおりの読みでないと、オヤッと思ったりする。
2007 7・31 70
* 最新の「湖の本」には『閑吟集 孤心と恋愛の歌謡』を送り出した。最愛の歌謡集である。
☆ ご無沙汰いたしております。
過日 金沢の「ふるさと偉人館」に立ち寄りましたら 館長さんが個人的に出していらっしゃるという小冊子が置いてあり 中に 御著作のことが 書いてありました。
すでに お読みかもしれませんし あるいは 館長さんとお知り合いでいらっしゃるのかなとも思うのですが (同館の企画展 北方心泉展や 細野燕台展は 初めて知ることばかりで 面白く) 御名前を目にして 嬉しい思いがいたしましたので 一応同封させていただきます。
☆ 先月から今月にかけて読んだ本 (左葉子通信14 平成十九年五月二十日発行 左葉子こと松田章一より抜粋)
『愛、はるかに照せ』秦 恒平・湖の本エッセイ40
「秦恒平湖の本」は昭和61年以来21年間に九十冊の小説とエッセイの個人出版である。まだまだ続くようだ。
これは講談社の「日本の抒情」シリーズの一冊として刊行されたものである。原題は『愛と友情の歌 詩歌日本の抒情』という。
男女の愛)、夫婦の愛、子への愛、親への愛、血縁の愛、師弟の愛、さまざまな愛、の各分野にわかれ、それぞれの歌への筆者の思いが短く書かれている。
朝日新聞の「折々の歌」と同一ではない。また単なる秀歌集でもない。「うた」は「うったえ」であるとして、まさに肺腑をえぐる賛嘆と感動と慟哭が書き綴られているのだ。
心濯われる書に接して二百ページ読みおわるのが惜しい一冊であった。絶唱という語があるが、これは「絶評」というべき一冊であった。
* 毛筆の美しい手紙を下さったのは文藝春秋老練の編集者で、いつもいつもこういうご厚意を戴いている。また「ふるさと偉人館」の館長さんも久しい「湖の本」の心強い読者の一人であり友人である。しかし「少知庵」さん、こんな洒落た通信を始められていたのは初めて拝見した。
お二方に、感謝します。
2007 7・31 70
* ある人が、ある人の本で、短歌が「世界をくつがえす爆弾や呪文」になるとマニフェストされているのに感じ入っているのを読んで、ちょっとコメントさせてもらった。
* この本を読んでいないので、この本の批評は出来ません。
ただ数十年、和歌にも短歌にも実地に触れてきて、歌人たちとも直接間接に大勢ふれ合ってきて、月々に歌誌も歌集もたくさん読みつづけてきた体験と批評とからいえば、短歌が世界を覆す「爆弾」や「呪文」として働いてきた実例も気配もわたしいは感じられません。
短歌という短詩型の「うったえ」の質がたいそう優れたものであることは分かっています。『歌って、何』『愛、はるかに照せ』などの自著で短歌がどんなに優れて魅力ある表現か、またなかなかそれが実作上達成できないのは何故かなどを、わたしは考え続けてきました。
いかにかりに「私史の玉」であっても「歌史の玉」にはなれずに「歌史の瓦」で終わるのか、いかに短歌が「世界」どころか「日本」をすら真に動かす爆弾にも呪文にもなれずにいるか、そもそも爆弾や呪文になるのが短歌の真の得手であるのかどうか、なにかしら現代短歌の実情とはよほど食い違った、未熟で空疎なマニフェストのように想われます。
わたしが希望するのは、この本を読む前に、この著者の短歌の実作を読んでみたい。それが短歌の可能性にどれほど強く交差し、なにをわたしに訴えてくるか。
言葉だけで景気の良いことを声高にいう本は、繰り返し出るものですが、紹介された限りで察して謂えば、爆弾や呪文を予感させるそれほどの短歌そのものをどうか実例として読みたいなと謂うことです。それも過去の大歌人の仕事でなく、また俵万智程度のものでなく、しかも今日のアップ・トゥー・デートな作者の短歌そのものを。 湖
2007 8・3 71
☆ 母の歌集――「子なき娘」に―― 麗
母は短歌をたしなむ。5月に上京して会ったとき,私家版を作るのだ,と表紙に使う写真を選んでいた。それができたと,先週土曜日に届いた。
母が短歌を作るのを知ってはいたが,そのものを目にしたことはなかった。結構なページ数に,昭和59年,今から23年前から現在までの作品が並ぶ。夫と娘2人と孫2人と,自分の母への思い,たまに出かける海外旅行の思い出,自宅の窓から見える副都心の眺め,など,所謂,身辺雑記風な題材からなる。
歌の師匠と思しき御仁が,「平凡といえば平凡,しかし,その気持ちが大切。」などと,「平凡」さを扱いかねたような讃文を寄せていらした。
平凡な題材でもいいではないか,装わず,偽らず,取り繕わず,歌に作れば。しかし,そんなことば選びが出来れば,もはや平凡とは言わない。装い,偽り,取り繕い,結果的に平凡に堕する歌が何と多いことか。そして,母の歌は…。師匠の御仁は,題材ではなく,ことば選びの点で「平凡」と言ったのかもしれない。
いちいちの歌を引くことは差し控えるが,私のことを詠んだ歌に,唯一,「装わず,偽らず,取り繕わず」,歌に作ったと思われることばがあった。「子なき娘」。
このことばは,私を特定するものとして,繰り返し登場する。確かに,語呂はいい。
歌によると,この,「子なき娘」は,勝手気ままに生き,来年は不惑だなどと言いつつも表情には幼さを残す,らしい。他人が,世間が,自分をどう見,どう思うかを知る機会はありそうでないことだが,自分の母親の作った歌にそれを見つけるとは,さらにない。そういう意味では貴重な経験である。
だから,我ながらしつこいと思いつつも,続けて書く。
私が学生時代に,前田夕暮のご子息,透氏自らのお誘いを受け,歌誌『詩歌』に参加していた頃,「『詩歌』の飼い殺しにされてもね」と,母は言い放った。進学,就職,結婚,などなど,私が「気に入らない選択」をしたと,母から投げられた悪し様な罵りは数多い。悪罵に関することば選びの的確さは,一種の才能と言えるかもしれない。その才能が,対極のことばを選ぶ際には,少しも効かない。皮肉なものである。
ことさらに「子なき」と形容するところに,娘の私に対する,「子をなした」母の優越感を感じる。しかしその裏からは,それ以外のことに対する,妬み・嫉み・僻みが透けても見える。これらは,母の慈愛とは対極の感情であるが,それが自ら(みずから)の内に在ることを,このことば選びで,母は自ら(おのずから)認めている。認めた以上,再び,取り澄ましたことばで覆い隠してはいけない。中途半端という,平凡以下の出来になるだけである。いいではないか,娘を妬ましく思う心の葛藤を詠んでも。作品としてよいものができれば。
「芸術は必ずしも清浄な心から生まれるものではない。(佐藤愛子(2002)『私の遺言』新潮社 p.241)」
* この一文にわたしは感心した。母上の歌集へ、最良の賛辞になっている。他人はなかなかこうは書いてくれない。
ほとんど会ったことのないわたしの生母も歌を作って、一冊にして遺していった。わたしが国民学校の頃に短歌を一つ二つ残し、新制中学では田のドノジャンルよりも熱心に短歌のノートを作で書き埋めていた頃、高校ではのちに歌集『少年』に成るほど一心に歌に励んでいた頃も、じつは生母と短歌とのことなど何も知らなかった。知るすべもなかった。いま、わたしは母のためにもう一度母の短歌をわたしの思いで再編集してみようと試みている。
* 佳い一文ですね、これ以上の賛辞は他人には書けないでしょう。
現代の歌は、ことに「私性」の所産です。「私史の玉」たらんと歌われてそれで良しとしうる所産です、たとえ「歌史の瓦」に過ぎなくても。そういう歌集をたくさん戴きます。
「子なき娘」を歌う例も、娘に「子をなすな」と戒める母の歌も、まま、ありますね。
岡井隆さんは、短歌は「ことば」という「パーツ」を選び選びつくる構造物かもしれぬと書いていました。わたくしが東工大や「ミマン」で試みていた「虫食い短歌」の記事を読みながらの感想のようでした。
詩歌がたんなる言葉選びであるわけはありませんが、言葉もよく選べない例はすくなくありません。
根底には、日本語の「内在律」を適確に見つけ創り出す「詩性」が「生命」なのだと思います。詩は「うた」であり「うったえ」なのですからね。
前田透さんは、わたしの歌集『少年』を、歌壇から声を上げて真っ先に称揚し推賛してくれた歌人でした。懐かしい昔話です。そのご縁で秦野市での夕暮記念の大会で講演したりしましたよ。 湖
2007 8・7 71
☆ 老いた時への祈り イエーツ 加島祥造訳
ああ、お願いする──どうか
ひとが頭だけで書くような詩に
私がおちこまないように、
守ってほしい。
流行を越えて残ってゆく詩とは
骨の髄で考えたもの──。
自分が賢い老人にならないように、
そして誰もが誉めそやす老人にならぬように
どうか私を守ってほしい。
ああ、一つの唄のために
他のことは阿呆になれない自分だったら
なんの値打ちがあろう!
お願いだ──いまさら流行(はやり)言葉も使えなくて
ただ率直に祈りをくりかえすのだが──
どうかこの私を
おいぼれて死ぬかもしれんその時も
阿呆で熱狂的な者でいさせてくれ。
* 加島祥造さんから『イエーツ訳詩集』を頂戴した。ちょっと原作にあたって考えてみたい点もあるが。他のすべてはいいのだが、骨の髄で「考えたもの」とは。「考えた」に躓いた、意味されてある真情は察しているのだけれど。「阿呆で熱狂的な者」のまま死にたい気持ちには共感する、出来れば「阿呆で熱狂的な無心」のままにと願う。
2007 8・12 71
☆ 大掃除 ボストン 雄
今,日本はお盆の帰省ラッシュだろうか.
朝,新居に来て初めて,パンを焼き,コーヒーを入れる.美味しい.前のアパートには,古いトースターはあったが,使ったことが無かった.コーヒーメーカーは無かった.新しいアパートには両方ともあるので,試しに使ってみたが,なかなかいい感じ.昼には焼きそばを作る.ソースを入れた途端,予想外の匂いがしたので,おや?と思い確認すると,ソース焼そばではなく,カレー焼きそばを買ってしまっていた.どおりでカレーの匂いがした訳だ. 早めに昼飯を食べてから,新居を出て,今日もまた前のアパートへと向かう.一旦荷物を置き,ニューベリーストリートを歩く.ビーコンヒルと並んで,この辺りの雰囲気は,ちょっとヨーロッパっぽい.せっかくなので,写真を撮る.
前のアパートに戻り,部屋の掃除をする.荷物はほぼ,片付いた.ガス台や風呂場など,汚れやすい場所を丹念に掃除する.前の住人からの汚れもあるので,全て落とすのは無理だが,まあ,やるだけのことはやった.要らないものを,片っ端から捨てた.どうしてか分からないが,捨てるという行為は気分が良い.ストレス解消になる.
必要なものを少し持って,帰路に着く.途中,寄り道をして,Russo’sで野菜類を購入.
これで,生活の基盤は完全に新居に移った.明日からは研究に打ち込みたい.
☆ 「新居」の字 ふとなまめかし きみがために 愛(うつく)しき日の吉き兆しなれ 湖
* 卒業生の一人が転職して愛知県から静岡県に移り住んだ。卒業生ではない読者夫妻にも、近年同じ例の転居があった。愛知県から東京への転勤もあり、大阪から東京への転勤記者クンもあった。ボストンでも、これは単なる転居だが「新居」に引っ越した。若いときにはあること。
京都から東京新宿へ「新居」を得て移り、北多摩保谷町の社宅へ移り、そして同市内の下保谷に家を建てて、わたしも都合三度転居した。もう、したくない、が、もう一度ぐらいしていいか知らんとも心の内でちょっと思う。
2007 8・13 71
* 『千夜一夜物語』が文庫本の十六冊めに入っている。十五冊めの辺と限らず、年老いても子を授からない王様立ちの歎きに歎いて不思議を招く物語の数多いことに驚く。
『世界の歴史』はフランスの二月革命、六月事件を読み越えて行った。
『萬葉集』は巻三の「譬喩歌」を読み継いでいる。悉く音読しているので、いいなと思うとつい二度ずつ読み返している。黒人の歌がよかった。人麻呂の長歌短歌もやはり大きい。
『閑吟集』についで『梁塵秘抄』の原稿作りも進めていて、やがて全六章の三章半ばに達する。『梁塵秘抄』はNHKラジオで語った口調のママに原稿が再現されている。『閑吟集』は倣うていの口話体で書き下ろしたのである。
* 気のせく仕事へ手が着かず、すこし弱っている。
2007 8・16 71
* 第一回審尋への法律事務所の答弁書も本日の審尋報告も受け取っている。穏やかな気持ちでいる。
* 平成十九年 八月尽。
このはつき 尽きてものおもふたれあらむ あはれ なさけといふさけは酌め 湖
2007 8・31 71
九月述懐
絲瓜サヘ佛ニナルゾ後ルヽナ 子規
蟻台上に餓えて月高し 横光利一
手足ステ 抱キ柱ステ 月見哉 湖 (平成十九年九月十六日)
2007 9・1 72
* こんなのが読めて、気が和む。
☆ 吉井勇 純
小さな子どもが川で遊ぶのを眺めていて、ふと思い出したのです。
枕の下を川が流れていて、その音がするのだ…
寝ている間にも。。
小説だったかしらん。
博覧強記の先輩が 吉井勇だよと指摘して下さいました。
かにかくに 祇園は恋し 寝るときも 枕のしたを 水の流れる
あっ、そうだった、と思って少し恥ずかしく思いました。
夏の思い出です。
* 流るる だろうかと思います。でも、「寝るNERU」との響きあいでは「流れるRERU」が正しくも思えます。文語歌にあえて口語をまじえ、歌人であった国語の先生に、その方がいいといわれたこともあります。けれど「寝るNURU}「流るるRURU」が作者の正しい音楽のようです、やはり。
この歌碑の据えてある祇園白川から、小走りに一分ほどの新門前通りで育ちました。
歌碑のこの位置で、(まだ歌碑は今のように出来てなかったけれど、)戦後の新制中学に入ったばかりのわたしは、ロケーションに来ていた美空ひばりを、手の届く間近で「見」ました。「ちっこい、黒い、雀みたいなやっちゃなあ」と思い、それは、ほとんど初恋でした。
あの白川は、むろん戦争前は両岸に茶屋がひしとならび、川面は、辰巳橋の上に立たぬ限り見えませんでした。橋をわたって母と祇園の銭湯に通いました。松湯、鷺湯。女湯には、出勤前の舞子さんが大きな髪の頭を、ぷかぷか浮かべていました。脱衣場には芸子舞子の名を紅く染めた団扇がいっぱいかかっていて、それでヒラガナなど覚えました。
お元気で。 また、おしゃべりしてしまいました。 湖
2007 9・6 72
重陽 独り酌む 盃中の酒
病を抱き 起ちて登る 都西の階
* 朝、起きるのが、楽しめない。気がつくと、黒いマゴがわたしの片手を両手で抱きかかえ、かるく噛んでくれる。安定剤は避けて、のまない。与えられた一生を避ける手はない。
2007 9・9 72
* 大伴家持と数多い女性達、ことに坂上大嬢らとの相聞歌に優れて佳いものがある。心惹かれる。
『太平記』も、世界史のビスマルクの平和も、根は醜い。
夜前、『イルスの竪琴』の英語版第二巻を読み終え、今夜から第三巻に入る。
2007 9・18 72
* きのうのお相撲を楽しく思い出し出し、気を励まして日を暮らした。或る意味では希有に実の入った日々ではある。堪えて、為すべきは為すしか、ない。奮起してまた無心に泥の中へ潜り込まねばならない。明日朝目覚めても、いやな気分のまた数日がつづくけれど、それが我が「体験」だ。財産のようなモノだ。
* 佛は常にいませども 現(うつつ)ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢 に見えたまふ
2007 9・21 72
述懐
蟻台上に餓えて月高し 横光利一
霧黄なる市(まち)に動くや影法師 夏目漱石
月皓く 死ぬべき蟲のいのち哉 湖 (平成十九年十月一日)
2007 10・1 73
* 二時まで、眼を霞ませながら数多く読みふけり、おしまいに、『ゲド戦記』。アレン王子と大賢人ゲドとの、世界の歪みを救いに生死の世界のさらに奥への危険な危険な、ぜひ必要な旅の話。
そして最期の最後はいつものようにマキリップの英語最終巻『風の竪琴弾き』に、夜前はひきずりこまれて、二十頁近く読み進んだ。一度灯を消したが、また灯して読み継いだ。眠くなっていても、この本にたどり着くと読んでしまうから、不思議。
ひとり、灯火のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。
兼好さんのお説、まったくごもっとも。
同じ心ならん人としめやかに物語して、をかしき事も、世のはかなき事も、うらなく言ひ慰まんこそうれしかるべきに、さる人あるまじかりければ、つゆ違はざらんと向ひゐたらんは、ただひとりある心地やせん。 兼好
ついこうなってしまう。
妻でなければ、ま、ひとり見ぬ世の人を友としたくなる。いい傾向ではないのだが。
2007 10・2 73
* バグワンに聴いて、ああやはりこれだと、胸に思いがおさまった。
このところ万葉集の巻五で、山上憶良の「詩文」に引きこまれている。日本の「文豪」として山上憶良は最初の一人だと実感する。
太平記は、後醍醐帝の一宮が魂を奪われた恋人・御息所との出逢いのほどの、優艶きわまりない和文を音読し、いささか上気した。太平記はまこと音読でしか読み通せない魅力を、凄みに通う魅力を、もっている。
いましもわたしの底知れぬ不快を癒すのは、ひとつ、見ぬ世の友‥。ふたつ、何のためらいも、うたがいもなく、わたしの横に立っていてくれる人‥。
2007 10・5 73
* もう幾日にもなるだろうか、「お宝鑑定団」を見ていたら、山本五十六連合艦隊司令長官が、真珠湾攻撃に成功した武勲の部下に与えた和歌一首の、軸であったか屏風であったかが、鑑定されていた。
由来からも書の生彩からも真筆に疑いはなかった。鑑定した田中大氏は丁寧に理由を述べてその歌も読み解いてくれたが、真珠湾を劈いた我が軍の意気が聞こえてきたというほどに読まれて、それは正しい。ただ、結句結語の一音を「よ」ですと強調していたのが、可笑しかった。
私の目には明らかに「由」のくずし字とみえて、「ゆ」 つまり「その方角から」を意味する助詞に相違なく読めた。勇壮な男歌の結句を結ぶ一音が「よ」とは、いかにも歌の響きが弱い。正確な言葉として覚えていないのは当方も弱いが、「真珠湾から」または「戦場から」ハッキリきこえてきたと歌われていたと、そう、わたしは読んだ。あの字は「よ」とは読めなかった。
2007 10・8 73
* 高校生の頃に東福寺の通天橋でよんだ短歌一首を、大岡信さんが採ってくれた、その掲載された新刊岩波新書の『折々の歌』が、留守に贈られてきていた。一文を送っておいた雑誌「ぎをん」も届いていた。俳優座の、また劇団昴の招待状も来ていた。
明日は歯医者のあと、梅若万三郎が招きの『卒塔婆小町』を観てくる。
2007 10・19 73
☆ 歌集『少年』
「みずみずしい」の一言につきます。漢字ではありません、平かなです。お若い頃から難しい語彙を使いこなしておられるのに驚いております。すばらしい才能ですね。とても及びません。多才なことはエッセイから想像しておりましたが、今回は別な驚きでした。ますますの御活躍をおいのりいたします。
節分の日 春を待ちつつ 名古屋大学名誉教授
2007 10・21 73
☆ わが歌はらくに生まるるがこころよし時かけて成りし歌を危ぶむ 窪田章一郎
* 同感。歌に限らないかも。西行や慈円を思う。俊成や定家をなみするのでは、決して、ないが。
2007 10 23 73
* 人に和して
うつすらと ほこりうかべて 初氷
あはれとも いふべき人や 初氷
2007 10・26 73
述懐
柳ちり清水かれ石ところどころ 与謝蕪村
人に似て猿も手を組む秋の風 浜田洒堂
黄金色(きんいろ)の秋のひかりはあはれなり
三四郎の池に波たつ夕べ 湖
(平成十九年十一月一日)
2007 11・1 74
* 霜月来る。
* そばに置いた生母・阿部鏡(=ふく)の遺著を手に、ふと眼についた、歌。
儚きはこの世の旅の常なりとわが燻(く)べる香の衿にしむ朝
この頃母が何歳でどこに暮らしていたか分からないが、『わが旅大和路の歌』と本には題してある。ただの「旅」でなかった。「客愁」にぬれた孤独な「過客」の旅路であったようだ。一つ前に、「人は去りわれは老いしに福寿草は在りし日のごとより添ひて咲く」ともある。
大阪市に出来た日本で初の保健婦学校を、第一期四十数歳で卒業し、主に奈良県北部で活動していたらしいと遺著は示唆している。
在りと見て在らざる影へ燈(と)もし来し此の業火消す原子粒無きや
奥山は暮れて子鹿の啼くならむ大和の国へ雲流れゆく
母は詩文集をこう結び、わたしたちにちょうど娘・夕日子の生まれた頃、十字架に果てたひとの血しぶきの一滴をうけても「生きたかりしに」と辞世し、大怪我から再起不能の重症の命を、突として、どこかの病院で喪ったという。
* この母から、兄・北澤恒彦も弟・秦恒平も、生まれた。兄は母をうけいれ、弟は拒みとおした。
2007 11・1 74
* 親しいある人の言葉ですとして「人生の消費税」ということを書き込んだメールも届いていた。消費税はやむをえないが、無用に高く払いすぎないように言われた、と。その人の創意になる言葉であるなら、近頃にないいい表現だ。
むやみと消費税を払い、心身ともに困憊してしまう人がいる。想像以上に大勢いる。自分だってそうかも。
過剰には払わない確かな調節に、「生き方」の、或いはうまい或いはへた、が現れる。ケチってもいけないが、ほどほどに惜しまないと、放埒に自身をモノの餌食にしてしまう。
しづかなる悲哀のごときものあれど われを かかるものの餌食となさず
石川不二子
みずから求めて餌食になろうとし、自虐の自己表現を自意識する人は、少なくない。「われをかかるものの餌食となさず」という歌人の決意はまれに見る強い表現になっていて共感する。よく生きるための消費税は「適切に」支払うのがいい。払いすぎて「元本」を、身も蓋も無意味に無くしてはならぬ。
2007 11・3 74
☆ 初雪 maokat
この日記を書くようになってから、今年の初雪はきっと、底冷えする暗い午後、藻岩山の方から細かい雪が静かに降りてくるのだと、勝手に想像してました。
昨夜二時過ぎまで仕事をしていて、朝を寝過ごし、雨の中出勤しました。そしたら昼のニュースで、朝方のみぞれが一時雪になって、札幌は初雪を記録しました、と。
見てないよ、今年の初雪。も一度降り直してよ。
紅も黄も 目に滲みたり 初小雪
* 和して hatak
くれなゐや 黄や 秋かぜの果てどころ
小雪とて おのづからなる泪かな 湖
2007 11・3 74
* 人と逢う予定だったが、事情で断念した。湖の本など日程が逼迫し、心身の調和を顧慮すれば、この一日は大きいと感じた。落ち着いて、身辺整理を急ぎたい。
* 思い出している。
以前、環さんといわれる最高裁判事がおられた。「湖の本」創刊からの継続の読者であった。お名前すら存じ上げないでいたが、あるときお手紙をくださり、お仕事柄を明かされながら、あなたのお作に「人と魂とのかがやき」を愛読していますと書き添えて下さっていた。こういう法律家もおられるのだなと、物静かなお人柄と筆づかいに感銘を覚えた。もう早うに亡くなられた。「死なれた」と思った。「いい読者」たちにたくさん死なれてきた。
* 新刊発送の用意、おおかた出来ている。
* 梁塵秘抄の人たちはまだしも後世や浄土への想いを抱いていた。
われらは何して老いぬらん 思へばいとこそあはれなれ
今は西方極楽の 弥陀の誓ひを念ずべし
暁静かに寝覚めして 思へば涙ぞ抑へあへぬ
はかなく此の世を過ぐしては いつかは浄土へ参るべき
いまわたしに、こういう抱き柱はない。欲しいか。いいや。後世も来世も信じていない。
2007 11・6 74
* 暗がりに汝(な)が呼ぶみれば唯一人ミシンを負ひて嫁ぎ来にけり 遠藤 貞巳
おぅと声が出た。そして破顔一笑。快い笑みに祝福の思いが湧く。
「呼ぶ」のがいい、声が聞こえるようだ。いじけた声ではない、貧しくとも心豊かに健康に、若い生活を倶に支え合って行こうという、気迫に溢れた「汝」の声だ。
女の、「ミシン」ひとつの愛と活気と決意とを受けて、迎える青年にも思わず一歩を力強く踏み出す気概が湧いたであろう。
「暗がり」を、人目を恥じてとは読むまい。決意して即刻に今夜から、と私は読む。そこに、「夫婦」の出発点がある。
宵から朝へ。原始の暦はそのように数えられていた。
「国民文学」昭和二六年四月号から採った。
* 迎え入れる青年もまた二階狩借りかなんかしていて、「おう来たかい」と愛と歓迎の声で和したかの風情。これが「結婚」だと、共感があった。昭和二十六年は、わたしが高校一年生。
2007 11・9 74
* 去年亡くなった親しかった歌人青井史さんの遺歌集『天鵞絨の椿』が、ご子息の手で編まれて上梓された。一冊を有り難く頂戴した。
題が佳い、青井さんを彷彿とする。年をへだて二度も癌に冒されたとは思われない、艶やかに元気そうな和服姿に何度もペンの例会で会ってきた。むしろ体格は豊かに見え、ときに、ひやかしたほどなのに。美貌、心懐かしい閨秀歌人であった。
声援し続けた「鉄幹」研究で、たしか日本歌人クラブ評論賞を授賞し、それが最期になった。わたしの編んだ詞華集にも幾つも歌をもらっている。師匠の馬場あき子の雰囲気をいちばん美しく受け継いだ感じの佳人であった。主宰歌誌「かりうど」の収束も潔く見事だった、感心した。まもなく死なれてしまった。
響灘とよむを聞きて戻り来つ一瞥がよし故郷といふは
夫の作る酢豚少しずつうまくなり老後という時間始まりてゐる
死の日まで言はざる言葉一つもち椿は渾身の朱の色を燃す 青井 史
2007 11・9 74
☆ 秦さん。今月13日に、無事第一子が誕生しました。 敬
男の子で、3880gと大きかったです。名は航太朗(こうたろう)としました。
出産には立ち会うことが出来ましたが、母子ともに大事なく、元気に産まれてくれて、何よりホッとしました。
困った時の神頼み、とは少し違うのかも知れませんが、考えられることを全部やったあとには、自然と祈りたくなる気持ちが生まれるものですね。天命を待つ、というような静かな境地ではなく、むしろ、何にすがってでもという心境でしたが。
この先の子育ては、どうなる事か全くの手探り状態ですが、あまり気負わずに、でもその一つ一つのプロセスをしっかり受け止めつつ、大切にしたいと思います。
* 祝 航太朗くん 萬歳 秦 恒平
航太朗くんの元気な生誕を祝し、
ご両親の健闘を称えます。おめでとう。
穹(そら)をゆき洋(うみ)をゆき陽はほがらかに
太(おほ)いなれきみの志すこと 秦 恒平
安心しました。とても嬉しいです。
* 子育てすると思うより、子に育てられる親の気持ちで、と、すすめたい。
2007 11・26 74
述懐
雪の夜や重(かさな)ッて行 鳥の声 内藤丈草
更くる夜や 炭もて炭をくだく音 大島蓼太
むかし聴きしおやのかたらふ声したり
その戸なあけそ みおやいますに 湖
(平成十九年十二月一日)
2007 12・1 75
* 子規の高弟というよりも「客分」のような先達に、内藤鳴雪翁がいた。明治四十年十一月に博文館から出た『鳴雪俳話』一冊が、私が少年の昔から家にあり、今もこうして手に取ることがある。
夜前、なにげなく多く採拾されているいろんな発句俳句を拾い読みしていて、いささか趣味に投影させていた。明治元年には京都に遊学していた人で、後に文部書記官にも任じていたが、つまりは子規の盟友だったとだけ覚えている。
文字通りいろいろな視点から述者の好む又は批判する句を多く取ってあるなかで、季節はずれながら、目に入った一句にたちどまった。
中間の堀を見てゐる涼み哉 木導
「中間=ちゅうげん」は、邸奉公、武家奉公している奴・小者のことだが、いいしれぬ彼または彼らの境涯が物静かに見えて、興を惹かれた。伴をしてきた主人の用の済むのを待っているとも、仕事の合間の休憩とも想われるが、たんに「堀をみてゐる」一句の働きのたしかさ、よろしさに感心した。
「涼み」「涼しさ」の句は少なくない。みな、かなりに、句にする前から「趣向」している。これが過ぎるとかえって暑い。
こんな雅な本ともいっしょに育ってきた。建日子は、たぶん読むまいなあ。本の処分を考えるとき、今にして頭が痛い。
2007 12・8 75
* 吉田博歌集『にび色の海』を戴いた。友人のご主人、理系の老学究である。八十近いとうかがっている。
全編を拝見して、近年から作歌に臨まれたということも分かるが、歌のセンスに、初々しい抒情味と、久しい人生を歩んできた人の把握の深さとが、こころよく入り交じって読めるのが個性的で、好もしい。
全巻をおおって、断然重みを成しているのが、全五章のさらに前に置かれた一首であり、じつは初めにこれを読んで、一瞬畏怖し緊張した。これほどの歌で一巻がうずめられていたら、ちょっと怕いなと。
一刷けのあかねを乗せし朝の潮いさりを終へて舟帰り来ぬ 吉田博
優れた写実味をもちながら、述懐の深みに久しい「人生」を静かに省みた自愛が溢れている。なにごとでもない情景と見えて、措辞のたしかさだけが表現しうる象徴性をもっている。他者にも自身にも丁寧に懇切に生きてきた人なのだなという感歎を、わたしは全編を通読して惜しまなかった。
歌の巧拙はいろいろに批評できるであろうが、此処に紛れない「私史の玉」が光っていると思った。
2007 12・9 75
* 喜多隆子さんの歌集『系統樹の梢』は、この人の第三歌集になる。最初の歌集から戴いている。古代史の巣のような「大和」の奥深くを呼吸している歌人で、措辞も表現も個性に富んでいる。大和には、東淳子さんのような優れた歌人も暮らしているが、それをいうなら吉野山にも大きな歌人がさながら蟠踞している。「大和短歌」といってもいい近代短歌群が、前川佐美雄の昔から在る。わたしの生母も、その末の末流にいて歌を作っていた。
* 喜多さんの一冊の中で、これは大和短歌とは関わりない一首ながら、ふと目にとめたのが、
母妹に養はれつつ養ひき 子規山脈に女岳(めだけ)なかりき 喜多隆子
という批評の歌、慨嘆の歌で。
子規門には短歌に伊藤左千夫、長塚節らがあり、俳句に高浜虚子、河東碧梧桐らがあり、そういう彼らの末へ行くとことに俳句には幾らかの女岳も目立ってくるが、第一次の山脈には、なるほど「女岳」は皆無にひとしい。何でもない指摘とも大きな批評とも着眼とも謂える。
洛陽の紙価を高めるわけではないが、歌壇には喜多さんばかりでなく、日本国土にしっかと根付いた表現で、ゆるぎない個性と達成をかかえた女歌人はまだ何人も実在していて、虚名にうわずらない地の塩の味わいで「日本語を磨いている人」たちがいる。実にくだらない歌しかつくれない人もいるが、じつに確かな言葉の持ち主もいる。
* 四半世紀をこえて親しくしてきた多摩の詩人に中川肇氏がある。中川さん、最近『一行詩集』を出して贈ってきて下さった。無季の句も多く混じっていて、ただそれだけのことではない思いから、「一行詩」とされたのだろう、わたしは全編を読んで気に入った詩に爪印をつけていった。年代の新しい作、古希に近づき古希に達した近来の詩に多くそれが附いたのは、めでたいことであった。箱入りの佳い趣味の本で愛蔵に堪える。半世紀以上も昔の作には、
春の土手校長の子と喧嘩する 中川肇
がある。見えるようだ、が、わたしは「春」を推敲できないかしらとも思った。近年の作では、
身にしむや頼みの綱の主治医老ゆ
秋の蝉みんな空見て死んでゐる
待宵や切ないほどのまた明日 中川肇
などへ来る。最後の句にあえてほのかな春愁も読みとりたい。
* 岩波新書、藤田英典編『誰のための「教育再生」か』が著者連名の挨拶付きで贈られてきた。『なぜ変える?教育基本法』のいわば第二弾。「いまの改革では学校は崩壊する」とうったえた研究報告の声である。
2007 12・11 75
* 昔々のわたしの「私語」を必要あって調べていたら、一九九九年六月十八日の記事の中に、「朝日子の葉うれを洩れてきらきらし という句をえて、下句も出来ていたのに、忘れた」との一行があった。
この「朝日子」は文字どおり「朝日の光」を意味しているが、それを念頭に娘に名付けたのは偽りないのであるから、娘の印象とも、しょせん無縁でなかったろう。
はっとこれに目を留めたのは、嬉しいはなしではないが、昨年来、あるいは今も、娘が「mixi」での自分のニックネームを「木洩れ日」と付けていることである。じつは、西東京市というより旧・保谷市の市営のホールが「こもれびホール」なので、そんなことも知って夕日子は「木洩れ日」を名乗ったかなどと想像していたが、わたしの、上の、「朝日子の葉うれを洩れてきらきらし」という、歌の上句らしきを読んでいたのかなあとも、今朝、はじめて想像したことである。
夢の中での話なのだろう、下句も出来ていたのに「忘れた」というのは。
* 「必要」というのもことごとしいが、わたしのすでに七十四におよぶ「闇に言い置く 私語」のファイルの中から、すでに夕日子の婚家の姓、また夕日子の夫の名は、漏れなく他に置換ないし消去されていて、「検索」で拾い出すことが出来なくしてある。「理由」はともかく、「そうして欲しい」という希望を容れたまでの話。ところが更に妻・夕日子の名前と「対」のように記事に出ていると、夫の名では「検索」されなくても「朝日子」を「検索」すれば、すぐワキで夫の実情が分かってしまって心配だと、追加の希望も持ち出されているとか。
よほどそんなことがイヤだというらしいから、面倒だが、それも全部記事内容を調べ、該当しそうな箇所は置換してやろうと、ま、調べ始めて見たのである。
ファイル1から11まで、とりあえず調べてみたが、「夕日子」の名の出る記事は数十あったものの、すべて「娘」を思いやる回想や情愛の思いやりばかりで、夫との関わりで名前を消してしまう必要など、皆無であった。読んでいても、懐かしい、こころよい記事ばかり。
暮れの内に、のこる全ファイルも調べてみる。なんでそんなことが必要だろうと訝しむ気はあるが、すべて先方の思惑。やれやれ。
2007 12・11 75
* 平成十五年九月十二日 金曜日の「私語」を見るとこんな記事になっていた。
☆ 初孫のやす香が十七歳の誕生日を、朝一番、赤飯で妻と祝った。いちばん娘らしいこの十年を、同じ東京に暮らしていながら顔を合わすことが許されていない。惜しい十余年であることは、やす香やみゆ希にもそう、われわれ祖父母にはましてそうである。
ま、こんな非道も、世間にはいくらも有るのだろう。たぶん世間並みをやっているわけだと、わがことながら仕方なく「眺めて」いるのである。娘や孫達が、せめて健康でいてくれればいい。
捨てかぬる人をも身をもえにしだの茂み地に伏しなほ花咲くに 斎藤 史
あまりの残暑厳しさに電子メディア委員会は人が寄らず、流会となった。今日の戸外のギラギラと眩しいこと暑いことは、言語道断。
暑さのせいではないが、昨夜は三時間余を眠っただけで、六時には物音で目が覚めてしまった。もう一度寝入るのも面倒で起きて、妻と赤飯を祝ったのである。
私の留守に、妻は十余年来、初めて娘と電話でしばらく話すことができたという。二人のためにとても良いことであった。
母と娘とのあいだに、表向きであれ裏側でであれストレスが緩和されるなら、まちがいなく良いことである。
「親不孝をしていて申し訳ありません」と、すぐに夕日子は母にアイサツしたという。
* 夕日子もきっと覚えているだろう。平成十七年二月までの「私語」に、夕日子の婚家の苗字は、只一箇所も無い。夕日子が夫と「対」のかたちで間近に記事にされている箇所も只一箇所もない。もともと無かったのだ。
2007 12・11 75
* 同僚理事の倉橋羊村さんから『おはよう俳句』を、関西の笠原芳光さんから『日本人のイエス観』、ペン会員のつつみ真乃さんから句集『水の私語』を頂戴した。
毛布にてわが子二頭を捕鯨せり 辻田克巳
こんな句を倉橋さんの本ですぐ見付けた。笠原さんの本を今夜から読書のうちにすぐ加えてみる。『総説・旧約聖書』『旧約聖書』そして『日本人のイエス観』とならぶとわたしの関心を示唆するようにみえるが、関心は関心にしても関わりようはあっさりしている。無心の関心である。
2007 12・13 75
* 戴いた四国の玉井清弘氏歌集『天籟』をしみじみ読んだ。
はじめて玉井さんの歌集に出逢い、朝日新聞の短歌時評でとりあげて、もう四半世紀に近い気がする。この人の短歌を読んでいると、短歌という述懐の確かさが信頼されて、嬉しくなる。本ものの文体が毅然と立っている。女の人では、米田律子さんや北澤郁子さんの短歌にもそういう意味の感懐をもつ。
ずいぶん不確かで味ない歌集もいくらもいくらも在りすぎて心許ないけれども、けっしてそんなのばかりではない。ただ、これらの歌人より世代を一つ二つ若くしたときに、そこから確かな安堵をどれほどの歌人が得させてくれるか、その辺わたしは不案内である。求めて探しに出歩いてもいない。
2007 12・16 75
* 肩書のついた名刺を破(や)りすつる 遠
* さしたること、無し。
2007 12・31 75