ぜんぶ秦恒平文学の話

詩歌 2008年

 

賀正  平成二十年歳旦 述懐

しやつとしたこそ  人は好けれ     閑吟集

春ひとり槍投げて槍に歩み寄る    能村登四郎

我は我と言ふことやめよ  奴凧    湖

(二○○八年 元日)

平和を願い 皆様のお幸せを願います。  秦 恒平

美ヶ原、春雪の曙 左遙かかすかに富士山 (写真)
2008 1・1 76

* 平静な、さらさらと来たお正月である。そのような一年でありたい。

☆ 2008年
新年を迎えました。あけましておめでとうございます。
今年は穏やかな年でありますように、と祈っております。
お元気でと祈ります。  菜畝 茨城

* 元日や タケルもグーも一つ家に   遠

* 天神社に初詣。
2008 1・1 76

* 山種美術館のカレンダーは、表紙・横山大観の『心神富士』から、一月二月は上村松園の美人画『牡丹雪』。鳥山玲さんの「輝」くカレンダー、一月二月は、飛翔華麗の『丹頂双希』。

* お静かに二日の朝を迎へける   遠
2008 1・2 76

* 歯の先生は、わたしたちの娘よりも若い。葵さん。この名に、歴史的かなづかいで読みがな、ふれるかな。
「あふひ」さんである。それで葵は、和歌にもしばしば「逢ふ日」にかけてなつかしく歌われている。血反吐を吐きそうにキリキリ、ギリギリ、ガリガリ、ゴリゴリと口を開かせ容赦ない先生だが、眼を閉じてそういうイキなことを想っている、いつも。
さもなければ、歴代天皇の百二十五世を何度も数えている。今日はあまりにガリゴリがキツかったので、紫式部や額田王等は歯医者にかかってたろうか、などととぼしい知識を脳裏でひっかきまわしていたが、カナテコで歯をひきぬくという地獄の王や獄卒のことしか想い浮かばなかった。
2008 1・5 76

* そうそう昨日、「お宝鑑定団」の再放送を観ていて、やっぱり歌の読みが変だと思った。以前に観た、その時もすぐ不審を書いたが、肝腎の歌を書き控えていなかった。鑑定は、京都の思文閣社長の田中氏であった。
歌は、山本五十六元帥が、真珠湾攻撃の隊長であった人へ、為書きを添え呈上した軸で、布哇からの攻撃大成功の「電信」を聴き取った元帥感動の一首であった。
この歌の読みで、いつも自信満々の田中氏は、確信を持って、結句むすびの一字一音を、「よ」と繰り返し確言していた。「与」の崩し字と読まれたのだろう、しかし、短歌の結字が、「よ」という詠嘆・呼びかけ・強意の助詞で終わるのは珍しい。氏の読み通りに書くとこうなる。

突撃の電波は耳を劈(つんざ)きぬ 三千里外布哇(ハワイ)の空よ  山本五十六

しかし放映の短い瞬時ながら、わたしには最後の字は「由」の崩し字と見えた。「ゆ」である。「~から」を意味する大昔からの助詞である。こうなる。

突撃の電波は耳を劈きぬ 三千里外布哇の空ゆ   山本五十六

突撃成功を告げる電信速報の「声」が、三千里の彼方ハワイの空「から」耳を劈いてとびこんだ、という感動である。
「布哇の空よ」では、「三千里外」の「布哇の空」から「電波」で届いた「耳を劈」く 捷報に、雀躍りしている歌人五十六の「歓喜の現位置」が、生きて働かない。歌の言葉の一々が、「連動」して適切につかみにくい。感動が甘い。語勢も緩い。少し女々しくさえある。
動作の行われる地点また経由過程を示す「ゆ」の用例は、万葉集の「田子の浦ゆ打出てみれば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」ほか、幾らも有る。ただいかにもわたしにはその文字一字を丁寧にテレビ画面に観る余裕がなかった。「布哇の空よ」「よ、です」という鑑定人の強調だけが先に耳に来て、軍人五十六の短歌の結びが「布哇の空よ」ではピンと来んなあと感じたまでである。
それよりも何よりも、鑑定されたお値段のほどに仰天した。
2008 1・15 76

述懐

白きうさぎ雪の山より出でて来て殺されたれば眼を開き居り  斎藤史

手で顔を撫づれば鼻の冷たさよ   高浜虚子

寒ければ寒いと言って 立ち向ふ  湖

(平成二十年二月一日)
2008 2・1 77

* 手洗いに、草花の瓶が二つと思っていたのが、一つは白い小花をあつめた造花だった。誇りかに巧みにつくられてあり、わたしの眼も見えにくかった。そのうちにほんとうの草花の方は、さすが日かずへて衰えていったが、ながく目を楽しませてくれた。フリージァははじめ三つ咲いていたのが、そのまま十三にもなり、咲き競った。造花は変化がない。

てざはりのなきなさけかな紙の花はいろもかはらずにほふこともなし
ちよろづのむなしきこと葉しげらせて紙の花はなにのほこりまみれぞ

花は、生彩あってこそ。
2008 2・15 77

述懐

弔葬を喜(この)まざるに、人道は此を以て重しと為し、すでに中傷せられんとす。
心を降して俗に順はんと欲すれば、則ち故(=自己本来の心)に詭(たが)ひて情(=自然)あらず。
堪へざる也。    叔夜

よく晴れし冬の日窓をおし開き鼻の先よりまずあたたむる      山崎方代

底ごもる何の惟(おも)ひに野の霜のかがやきにゐてもの恋ふるらむ  湖

(平成二十年三月一日)
2008 3・1 78

* 自祝  これやこの 四十九年つれそひて
花待つ老いの 弥生 歌舞伎座    湖
2008 3・14 78

* 望月太左衛様
偲ぶ会のお知らせを頂戴し、また懐かしい美味しいお菓子も頂戴しました。有り難うございます。
偲ぶ会 嬉しく有り難く拝聴拝見にあがりたいと、あつかましくお願い申し上げます。連名のなかの太左さんとは、もしかしてお嬢さんでしょうか。(=実は母上)
昨日は歌舞伎座で昼夜、長左久さんにおめにかかってきましたよ。歌舞伎座には毎月のように通っています。老いの一の楽しみです。
ちょうど昨日は私どもの結婚して四十九年めでした。「春の壽」に、言祝いでもらってきました。
これやこの四十九年つれそひて春待つ老いの弥生歌舞伎座  湖
ご活躍をこころよりおよろこび申し上げます。   秦 恒平
2008 3・15 78

* 万葉集や古今集を全巻のこらず読んでいる人は、専攻学の研究者はおけば、そうはいないだろう。わたしも古典の好きな和歌集を勅撰・私家集にかかわらず全部を通読したものは少ない。
で、可能な限り音読してみようと思い立ち、万葉集をいま巻二十一まで読み進んできた。便宜に尚学図書の古典全集本を用いているが、訓みに、ときどき記憶と異なるところがあったりする。原表記が入ってるといいのにと思いながら、一日に、少なくも数頁ずつ声に出し読んできて、オリジナルに佳いなと思う歌に、鉛筆で爪印を置いている。
いわゆる「和歌時代」の和歌はかなり頭に入っているので言えるのだが、万葉歌は「ちがう」。日本人詩歌による感情表現では何といってもオリジナルで、はじめてこういうふうに表現したという原点性がくっきり印象づけられる。また忘れていた物言いや表現、はじめて識る表現も満載で興味深い。なによりも、七五でない、五七調が明瞭に確認できるのは音読の功徳であろう。まだ訓読出来ていない詩句も相当あることに気づく。
けっこう覚えているのだと気づくほど、久しい間に記憶に残った歌の多いのに嬉しくなる。いわゆる詠み人「知らず、知れず」の作の多いことが、作者名の入った作よりも「万葉集」を意識させるのも、初体験だ。もともと「歌」はこういう風に生まれていたのだと納得する。
まだ、「いやしけ吉事」の最後の最後まで読み上げるのに、万葉集、先はたっぷり有る。読み始めてよかったと思い、つぎに古今集に転じたときどんな比較の感想や発見があるかと楽しみだ。
2008 3・26 78

述懐

蓑虫のちちよと鳴きて母もなし    高濱虚子

色見えでうつろふものはよの中の人の心の花にぞありける   小野小町

これやこの強情我慢 花吹雪     湖

(平成二十年四月一日)
2008 4・1 79

* 上の、小町の歌に本居宣長は自著『古今集遠鏡』に、「草ヤ木ノ花ハ 色ガアルユヱニウツロウヂヤガ 色ハアルトモ見エズニ ウツリカハルモノハ 世ノ中ノ人ノハナバナシイ心ノ花デサゴザリマスワイ」と同時代の俗言を用いて謂うている。
九大教授今西祐一郎さんから昨日この『古今集遠鏡』上下巻(平凡社東洋文庫)を頂戴した。宣長は目配りひろく斟酌しながらも、独自の確信から、古今和歌集を、いかにも楽しげに読み直している。今風にいえば現代「話体」訳か。前々から通読してみたかった貴重な本を贈られ、嬉しい限り。ご丁寧にメールも頂戴した。
2008 4・1 79

* 四月になった。落花狼藉の修羅になるか、どうか。

* 満開の花を、貪欲に、人波ものみこむほどに。これは、もうわたくしの謂う意味でものすごいことであった。鶯谷駅の蕎麦で痛む腰や背中をやすめて帰ってきた。花を眺めながら、かなりわたしは放心していた。考え込むことばかりがある。今もある。
今朝の「述懐」に一句加えたがいい。

これやこの強情我慢 福壽草   湖
2008 4・1 79

* 昨日、黒瀬珂瀾氏の著、ふらんす堂刊『街角の歌』を贈られた。「365日短歌入門シリーズ①」とある。二月二十一日相当の頁にわたしの歌一首が採ってある。

鐵(かね)のいろに街の灯かなし電車道のしづかさを我は耐へてゐにけり

解説は本によって読んでもらうのがいい、異見のある人もあろう、が、全体に好意ある紹介で感謝する。わたしが十七歳の頃の歌で、夕やみせまる電車線路の「鐵のいろ」に、ひかる「街の灯」を眼にしつつ少年のせまる歎きに耐えてひた歩んでいた「あの日」を思い出す。
この著者は、阪大の修士を終えている七七年生まれ。三十過ぎか。わたしの学生諸君よりまだ幾らか若い。ちなみに「元日」と「大晦日」相当の各一首を挙げてみる。

ならび立つ煙突に今日けむりあらず年の始と思はざらめや   植松 寿樹
すでにして暑くなりたる街上に命をかけし物音ぞする     斎藤 茂吉

かならずしも暦に宛てて選んだのではないと分かる。植松の歌も茂吉のも上乗のうたとは思わない。
2008 4・13 79

* 自分自分の暮らしの「今・此処」に、気負わず立ち向かってさらりとしていられること、どんなに大事だろう。
一、二ヶ月前の月初めの「述懐」に、
寒ければ 寒いと云って 立ち向かふ
という妙な自句を挙げておいたのに、湖の本の払込票に幾つも反応があった、好きな句ですと。嬉しかった。
2008 4・28 79

述懐

僕ですか?
これはまことに自惚れるようですが
びんぼうなのであります。          山之口 貘

初心にも高慢のあり初雲雀          原子公平

つねになき懐(おも)ひなどあるに
ほろほろと斜陽は街に消えのこりたり    湖
(平成二十年五月一日)
2008 5・1 80

☆ 秦さま メールありがとうございました。思いやりのあるお言葉に、しばらくあったかな思いで過ごしました。
(あの古典の物語で=)陵辱された「人」って、どなたのことでしょう。(創作に=)興味津々です。
大好きな『梁塵秘抄』を、また読んでいます。
いいなあと思いながら読んでいるとき、「私は(このウタが=)好きです」とすっと書いてあったりすると、わけもなく嬉しくなります。
いままで違った読み方をしていたのが、「ふたつ」ありました。
ひとつは341番。

吾主は情けなや 妾が在らじとも棲まじとも言わばこそ憎からめ 父や母の離けたまふ仲なれば 切るとも刻むとも世にもあらじ

このうたを私は、あいそづかしをした女が未練がましく迫ってくる男に、父母の反対を口実にして絶縁を言い渡したうただと思っていました。「あんたは、情けないわね。私が一緒になるのがイヤだと言っているなら憎らしいでしょうけど、両親が反対してるんだもの、仕方がないじゃないの。切られても刻まれても一緒にはならないわよ。」と。
もうひとつは、426番

聖を立てじはや 袈裟を掛けじはや 数珠を持たじはや 年の若き折 戯れせん

「聖を立てないものか、袈裟を掛けないものか、数珠を持たないものか。でも、それは年をとってからのことで、若いうちはせいぜい、戯れをしようぜ」と。
これだと、「はや」じゃなくて、「やは」になっているでしょうか。「はや」は「早く」かも。
あるいは、「聖を立てないのはさ、袈裟を掛けないのはさ、数珠を持たないのはさ、年の若いうちに遊んでおこうと思ってさ」でしょうか。信心は、年をとってからすればいいというニュアンスがあるように思います。
こんな読み方はダメでしょうか。
12世紀は魅力的・・・。人間は平等だと、人間はどうして知るのでしょうか。目に見える世界は全然平等ではないのに。法然は、すべての人が平等に救われなければならないから、阿弥陀仏は誰でもできる口称念仏を正定の業としたと言っています。あの疫病、飢饉、地震、戦争の時代に日本の平等思想が醸成されたということ、不思議でなりません。どうお考えでしょうか。
福田首相が環境問題サミット用に何年後かにCО2の60%~80%削減を目標にすると、すごいことを言ってました。これって、たぶんクリーンエネルギー原発の推進とセットになってるんでしょうね。水力や風力・潮力発電ではムリでしょうね。
ほんとは、どっちが目的なんだか・・・イヤーな感じがしました。  大阪・まつお

* 梁塵秘抄から、先ず。わたしは自分の本でこう読んでいる。

* 三四一番。

★ 吾主は情なや 妾が在らじとも棲まじとも言はばこそ憎からめ 父や母の離けたまふ仲なれば 切るとも刻むとも世にもあらじ

「わぬし」は女言葉でしょうか、あなた、ですね。「わらは」は女言葉です、わたし。
あなた、情ないこと言わないでちょうだい。このわたしが別れましょとか、一緒に住まないとか言い 出したのなら、そりゃ憎いでしょうよ。でも、そうじゃないのよ。お父さんやお母さんが仲を裂こう となさってるだけ。わたしは、身を切られても刻まれても、あなたから離されたら、生きてなんかい ないわよ ──。
こう読めば、時代を超えた、これで、今どきの歌謡曲の歌詞にも巧くするとなりそうなくらいですね。
「わぬし」「わらは」と、この辺は、もうぎりぎりいっぱい「個人」が顔を出してきていて、私的な述懐を、私小説ふうに歌詞に表現しているのが巧い。「情無や」「憎からめ」「世にもあらじ」などと、この若い同棲者たち、どこか、ナウく、そして純情に、あなたは感じませんか。

* 親の反対を口実にしたあいそづかしの「だまし」とは読まなかった。「父や母のさけたまふ仲なれば」を挿入句に、これに多くの事情を籠め、男からの歎き節を和らげ、一貫してゆるがぬ女の優情と真情を酌んで無垢の感銘を得た、わたしは得ようとした。甘いか、な。どっちの女が好きか。わたしの場合、それで、決まる。いっしょに死ねるほどの人をわたしは小さい頃から求めていた。
歌舞伎の舞台にも、よしない「あいそづかし」ゆえに、妖刀の籠釣瓶に斬られる花魁始め、何人もがあえない惨劇を招いていた。意地悪は男であれ女であれ、感動に結びつかない。「謡ひ」「謡ふ」嬉しさに、あまり似合わない。

* 四二六番。

★ 聖を立てじはや 袈裟を掛けじはや 数珠を持たじはや 年の若き折 戯(たわ)れせん

歌っている中身は、むしろ簡単なんです。聖をとくに修験者と限ることもないでしょう。ともあれ禁欲の聖ぐらしをとおすことなんてするもんか、袈裟なんて着るもんか、数珠も持つものか、年の若いうちはさんざ色恋を楽しみたいよ、という宣言。
この歌を、あの「鵜飼は可憐(いとほ)しや」という「うた」の、「現世は斯くても在りぬべし、後生我身を如何にせん」という嘆きと一対にして眺めたい。「遊ぶ子どもの声聴けば我が身さえこそ動(ゆる)がるれ」と幼な子の姿に涙をためた大人、親、老いたる古代に対して、あの嬉々と遊んでいた無邪気な子ども、新しい時代、中世は、もうはや、こんな「うた」を歌う若者にまで成長してきて、さらに、古き過ぎゆく世代をはらはらさせたことでしょう。そう思って読み直しますと、いかにも若い世代の声ですね、これは。

聖を立てじはや 袈裟を掛けじはや 数珠を持たじはや 年の若き折 戯れせん

「はや」という舌打ちとも嘆息とも非難とも聞こえてくる言葉にならない言葉の、批評!

* これらの「はや」は、「~なんかするもんか」という激意の表白、すてぜりふともなる意思表示の接尾語と理解している。後の閑吟集に至って、「何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ」と極まる思いの前蹤と受け取っていた。
「湖の本」版 梁塵秘抄、閑吟集がさらに世に浸透してくれると嬉しいのだが。
「まつお」さん、ありがとう。

* 「あの疫病、飢饉、地震、戦争の時代に日本の平等思想が醸成されたということ、不思議でなりません。どうお考えでしょうか。」

* わたしには「当然」に思われるが。下降史観を強いられ続けた日本で、それが極限へ来れば、恨みがち、歎きがちに切望されるのは「なぜ平等ではないのか」という呻きに裏打ちされた革命志向になる。しかし政治的に革命のエネルギーを持たない日本の人たちには、信仰という「抱き柱」は、それしかない幻想として魅惑の吸引力をもった。安定して幸福な人は、平等など意識もしないで我が世を謳歌するのが人の世の「常」なのでは。「無常」の思いは多くの場合極度の不幸の自覚にひきがねを引かれてきたように思う。

* 福田総理のCO2 削減案でサミットをリードしたいという魂胆の根には、かなりしぶとい「だまし」のからくりがすでに用意されていると、わたしも疑っている。ただの大風呂敷でなく、ほかに大きな犠牲や負担やひずみを強いながらの表面づくろいである、と。
2008 5・12 80

* 荻江 細 雪 松之段   秦 恒平・詞 荻江 壽友・曲

あはれ 春来とも 春来とも あやなく咲きそ 糸櫻 あはれ 糸櫻かや 夢の跡かや 見し世の人に めぐり逢ふまでは ただ立ちつくす 春の日の 雨か なみだか 紅(くれなゐ)に しをれて 菅の根のながき えにしの糸の 色ぞ 身にはしむ

さあれ 我こそは王城の 盛りの春に 咲き匂ふ 花とよ 人も いかばかり 愛でし昔の 偲ばるれ

きみは いつしか 春たけて うつろふ 色の 紅枝垂 雪かとばかり 散りにしを 見ずや 糸ざくら ゆたにしだれて みやしろや いく春ごとに 咲きて 散る 人の想ひの かなしとも 優しとも 今は 面影に 恋ひまさりゆく ささめゆき ふりにし きみは妹(いもと)にて 忍ぶは 姉の 歎きなり

あはれ なげくまじ いつまでぞ 大極殿(だいごくでん)の 廻廊に 袖ふり映えて 幻の きみと 我との 花の宴 とはに絶えせぬ 細雪 いつか常盤 (ときわ)に あひ逢ひの 重なる縁(えに)を 松 と言ひて しげれる宿の 幸(さち)多き 夢にも ひとの 顕(た)つやらむ ゆめにも 人の まつぞうれしき
昭和五十八年三月七日作 五十九年一月六日 国立小劇場初演

* 松子夫人の、なみだを絞って舞台に見入ってられた横顔を忘れない。藤間由子、今井栄子、花柳春、京都先斗町連中らが繰り返し演じてくれた。
今度は、西川瑞扇さんが舞う。
その松子夫人に、どんなにお骨折り戴いて娘はサントリー美術館に就職できたか。そして松子夫人に娘のための主賓においで願い、晴れやかな華燭の宴が実現した。父も母も大汗をかいて奔走した。
だが、その両方で、若い夫婦は谷崎夫人に向かって申し訳ないひどいご無礼を重ねてしまった。
その上にあれだけ可愛がって戴いた娘や、その夫から、いま、父のわたしが「訴えられ」「損害賠償」を求められていると聞かれたら、あなたいったい何をしたのと、泉下で、どんなお顔をなさるであろう。
2008 5・19 80

述懐

残月清風雨声となる       閑吟集

蛍袋はつと大きな虻を吐く   大橋敦子

笹はらに露散りはてず朝日子のななめにとどく渓に来にけり  湖

ムリは利く 利くムリはある しかれども 利かぬムリするムリは ムリなり  湖

(平成二十年六月一日)
2008 6・1 81

* このホームページの「窓」に「自己紹介」欄がある。常日頃は忘れてしまっているが、娘・朝日子の方から、理由がよく分からないのだが、そこにある自分の名前を「伏せ字」にしてほしい、他の案件の検討の前提条件である、必ず、と主張しているらしい。そんなことは何でもないから、そうしてある。理解に苦しむ。
父が実の娘や孫の名前を必要な「身上書」や「プロフィール」や「自己紹介」に書き入れるなどアタリマエのことで、今後もそれを必要とする事態は、お互いに幾らもあるはず。
ましてわたしの娘に、わたしの名付けた大切な名前である、今後も娘の名も、孫達の氏名も、必要に応じ繰り返し文字で書き表す必要は絶えまい。

* 「朝日子」とは「朝の光」を意味する万葉の昔からの大和ことばで、私は高校生の頃、斎藤茂吉の短歌や、三好達治の詩からおぼえ、高校二年の頃、こんな短歌を京都の泉涌寺辺でつくっている。将来子どもが出来たときは、男の子でも女の子でも「朝日子」と名付けようとそのとき思い決めた。

笹はらに露散りはてず朝日子のななめにとどく渓に来にけり

この一連の歌の最初に、

笹原のゆるごふこゑのしづまりて木もれ日ひくく渓にとどけり

という一首を朝日子は好きで、「mixi」の「木洩れ日」というハンドルネームにしているのだと思う、本人は否定するだろうが。
さらに朝日子の生まれようとする前、妻が妊娠の頃には当然二人の子の名は「朝日子」と、両親共に予定していた。その妊娠の頃にも、短歌がある。

父となり母とならむの朝はれて地(つち)にくまなき黄金(きん)のいちやう葉
霜の味してそのリンゴ噛む迪子愛(は)しきかもうづ朝日子笑みもあらたし
良き日二人あしき日ふたり朱(あか)らひく遠朝雲の窓のしづかさ
ひそみひそみやがて愛(かな)しく胸そこにうづ朝日子の育ちゆく日ぞ

そして昭和三十五年七月、誕生の日には、

「朝日子」の今さしいでて天地(あめつち)のよろこびぞこれ風のすずしさ
迪子迪子ただうれしさに迪子とよびて水ふふまする吾は夫(せ)なれば

さらに育ち行く秋には、

そのそこに光添ふるや朝日子の愛(は)しくも白き菊咲けるかも

と詠んだ歌が、私の歌集『少年』にのこっている。
私たち両親にはじつにそういう「朝日子」の名であり、ゆめおろそかにならぬ愛児の名であったし、今も寸毫変わりないのである。
2008 6・5 81

☆ 心配です。  笠 e-OLD千葉
秦さんのホームページにもご無沙汰していました。それで、「頸まわりの硬いのなど医者に診せるのも好いが、薬がふえるだけ・・・」を見つけました。
やはり主治医に診せてください。以下省略。
どうかそうしてください。どうかお大切にしてください。「未来」は長いです。 拝

* やがて定期の検診日にも。感謝。

* 夕燕我には翌(あす)のあてはなき   一茶

* おそるべき君等の乳房夏来る  西東三鬼
2008 6・8 81

 

* 建日子は、元気に夜中の二時過ぎまで話し込んでいった。それから就寝前の本を読んだ。
太平記では、尊氏親子や高師直らと、尊氏弟の直義入道とが反目し闘おうとしている。南北朝時代のいわば知名の英雄達はもう殆ど他界。室町時代というのがどう用意され開幕して行くのか、教科書的には甚だ稀薄な時期を、克明な記事で埋めているのが太平記後半だと思えば、もはや血湧き肉躍ることもないただの混乱期も、そうですかそうですかと声に出して読み進められる。
万葉集は巻第十四から十五へ。音読していれば、いくらでも読み進んで行く。ときどき目の覚めるほどの秀歌に出逢う。

* バグワンは変わりなくわたしを潤し、多く気づかせ、静かに立たせてくれる。
旧約の「イザヤ書」は、まだ半ばにも行かない。旧約聖書の「預言」というのがどういうものであったか、イスラエルの紀元前の苦難の歴史とともに、具体的な言葉と事件をとおして教えてくれる。
哲学史はヘレニズムを語り、インド・ヨーロッパ語圏とセム語圏の文化の比較をとおして世界観をかたちづくる、いわば手法差を説いてくれている。ギリシャの自然哲学の久しい推移からソクラテス、プラトン、アリストテレスが相次いで現れた「奇跡」のような大いさに、何度触れても新鮮に胸とどろく思いがして、そしてヘレニズムへと、モノもコトも拡張して行く。ローマの時代がはじまり、キリスト教が世界宗教となってくる。
西欧を主とした哲学史では、どうしてもインドや中国の思想が手軽にワキに置き去りにされかねない。

* 色川さんの自分史『廃墟に立つ』は、おもしろい。同時に青春の意義が、この敗戦直後の頃と、例の「六十年代」を経ての昨今とを見比べて、おそろしいほど様相を変えてしまっている「事実」に、殴り倒されるほど痛い感慨を持たずにおれない。
「学生」という世代が、色川さんたちの時代は、それはひいてはわたしたちの時代ともまだ言いうるのであるが、いかに精神的にも行動の原点的な力としても機能していたか。
天皇制の残存という占領軍の政策に見合って、どれほどの代償を日本がアメリカに貢いだか、と、それを顧みるだけでも、あのころの日本人の一人一人が「時代と日本の運命」とに関わっていた。まだ小学生であった、新制中学生になったばかりのわたしでさえ、関わっていたのだと実感する。
天皇の戦争責任を問わないという占領軍の決定を、たぶん当時日本人の八割九割はよろこんだと思われる、幼かったが国史好きなわたしも、ほおっと安堵の息をはいた実感のある記憶をもっている。しかしその安堵を「質」に取られて、どれほどの貢ぎを日本国民は世界に、いや当面はアメリカに対し支払ったかを想うと、フクザツ過ぎる苦みに今なおタジログのである。

* ルソーの『エミール』は、もとより翻訳に頼って読んでいるのだから、そのハンデもあるにせよ、正直の所、「優れた空理空論」を読まされている実感から自由になれない。不自然なほど人為的に「自然」という旗印をかかげながら、ヒューマニズムへの背徳的な阿諛と自画自賛が語られている気がする。もとよりそんな辛いわたしの感想は、わたし自身のルソーに対する無知にもよるのであろうと、割り引かねばならないが。

* バイアットの『抱擁』の、徹したペダンティズムの魅力。
わたしの息子の『アンフェアな月』の文字通りに「発語」のセンス。
それ以上の何があるかは今のところ全然不明であるが。
2008 6・10 81

* 夜通し雨を聴いていた気がする。

* しやつとしたこそ 人は好けれ  閑吟集
2008 6・12 81

* 万葉集を音読していて、以前、梁塵秘抄のうたについて大阪の松尾さんに問われていたのと関わる歌に、二つ、出逢った。

上野(かみつけの) 佐野の舟橋 取り放し 親は放(さ)くれど 我(わ)は離(さか)るがへ (3420)

事しあらば 小泊瀬(をばつせ)山の 石城(いはき)にも 隠(こも)らば共に な思ひ我が背 (3806)

あとの歌には補記があり、「言い伝えによると、ある時女が居て、父母に知らせないで、ひそかに男と交わった。その男は女の両親に叱られるのを恐れて、だんだんためらう気持ちが生じた。そこで、娘子はこの歌を作って、その夫に贈り与えたのだ、という。」と。
松尾さんが挙げていた歌は、梁塵秘抄の三四一番であった。親が何と言おうとわたしはあんたと石城(墓)のなかまで離れないんだから、安心して、という万葉集のアトの歌は、むかしからわたしの好きな一首で、敷衍すれば親の世間のを越えて、男女の双方から通用する覚悟である。世間の理はとにもかくにも、そこに覚悟の愛があり、偽善や演戯の汚損がない。擬似行為(パフォーマンス)ではこの真情はうまれない。梁塵秘抄の件の歌謡の、これらは遙かな前蹤といえるだろう。
2008 6・16 81

* 愚の骨頂劇を、仕方がない、続けねばならぬ。

* 「mixi」に書いた。

* 娘と婿の被告として   2008年06月22日11:15
異色の晩年を迎えることになりました。昨日東京地裁から訴状が送達されました。
マイミクの方はおよその事情をご存じです。
卒業生諸君には十数年前からおりおり漏らしていましたので、秦さん、モノモチがいいなあと呆れているでしょう。
久しい「湖の本」九十数巻の読者の方は、「かくのごとき、死」などの作品を通してよく事情はご承知です。

およそのキッカケなどは、此の「mixi」日記の一昨年、2006年に残っている記事で分かります。
この年は、孫のやす香が必死の余力で「mixi」に、肉腫という過酷なガンとの闘いを書き続けた年で、七月二十七日に二十歳を目前に亡くなりました。祖父母も両親もあえなく愛する孫・娘を「死なせて」しまったのです。
「死なせる」は、日々にテレビからも聞こえてくる「自責の痛苦」を帯びた普通の日本語です。私には『死なれて死なせて』という死の文化叢書の一冊があり、東工大で開講直前には大きく写真入りで新聞もテレビもとりあげ、私の本としては、広く数多く読まれた一冊でした。自己紹介の必要がなかった。
そして孫を「死なせた」と震え歎いたのは、真っ先に私達祖父母でした。
ところが、やす香を「死なせた」とは、両親を「殺人者」と謂うのだと、青山学院大学教授である婿と、お茶の水女子大で哲学を学んだ娘は、娘との告別式の三日後から、父親を、舅を、民事刑事で「訴えてやる」と、声高に言い立ててきました。所属団体や私の知人たちにも抗議文を送ると。訴訟の「警告」が日々に手紙やメールで届くなど、堪ったものではありません。
それが、いわば十数年前「遠過去」の不幸に次いで起き、その年いっぱい継続した「第二幕」の開幕でした。いろんな椿事がありました。その年の私・湖の「mixi」日記は、ほぼそれを記録しています。
さらに昨年の八月から今日只今にいたってなお、「第三幕」の「仮処分」審尋へ、私は「債務者」として法廷に引き出されていましたが、ついに「第四幕」の「本訴」が始まることとなりました。私はほんものの「被告」になりました。
一昨年の民事調停では、娘達は、私に「五十万円」の要求を示しました。和解を期待した「調停」は、残念にも不調に終わりました。
今度の本訴では、婿と娘は私に「千四百二十万円」の名誉毀損等の賠償を請求しています。
娘さん達にもよくよくの思いがあるのでしょうと想われる方もありましょう、それはそれで、よそ目には自然なことです。真相はどうでしょうか、私は作家ですから「書いた作品」の内容に責任を持ちます。
彼らの謂う「名誉毀損」とはいかなるものか、提示された訴状の列挙にしたがい、まずは数例どんなものか、私の公式ホームページが、当座の「反論」と共に掲載しています。

http://umi-no-hon.officeblue.jp/

心強いことに、娘の弟で、作家、劇作・演出家、脚本家として働いています秦建日子は、全面的に父を支持し支援してくれています。嬉しいことです。

被告は実に忙しいのです。なかなかこの「mixi」には手が回らないと思います。
作家・秦 恒平の日々「いま・ここ」の生きように、興味や関心のおありの方は、どうか、「生活と意見」を示すホームページの日録『闇に言い置く私語の刻』で、継続してご注目下さい。 URL は上にあげました。
厖大で多彩な質・量を擁するホームページ『作家・秦恒平の文学と生活』には、公刊されたほぼ「全作品」や、十年の途絶えなき「日録・私語」や、文藝サロン「e-magazine 湖(umi) = 秦恒平編輯」や、「電子版・湖の本」全巻も掲載されています。日記だけでも数万枚を擁しています。世紀をまたいだ時代の証言としても、無数のエッセイ集また評論集としてもご覧願えるはずです。

さ、太宰治生誕百年、太宰の跡を追う太宰賞作家の、すさまじい「晩年」が今日から始まります。お笑いください。  湖

* ことさらに決意したとか拳をにぎりしめたのでは、ない。こういう日々が来たのなら、こういう日々に沿って、老境を終末の海へ海へただ流れてゆくだけのこと、相変わらず書いて行くし芝居も楽しむし、一枚の鏡になり、来るものはありのままに映し取り、去るものは追わない。セキとして声なく鏡が真澄の青空になるのがなにより望ましくはあるが、此の人の世にある以上は黒雲の去来もまた、わが心がらではあるのだが、拒むことは出来ない。「我は我」とも思っていない。

我は我ということやめよ 奴凧   遠

年頭にこう述懐した。その通りである。すべて夢、遠からず覚める。いやもう、半ば覚めています。静かな眼を抱いた大嵐のように過ごせるのは、退屈至極な日々をすごすよりよほど景色面白い「川下り」か。
2008 6・22 81

* 「木綿」という文藝冊子をいつも下さる榊弘子さんの巻頭文に、李賀、というより鬼才李長吉でなじんだ唐の詩人の詩句がひいてあった。

長安に男児あり
二十にして心已に朽ちたり
また
人生窮拙あり
日暮聊(いささ)か酒を飲む
祇今(ただいま)道已に塞がる
何ぞ必ずしも白首を須(ま)たむ

二十七歳で死したる詩人。二十七歳で小説を書き始めたわれ、白頭、七十二郎。生きすぎたか。

* シェイクスピアはルネサンスとバロックとに、半身ずつを置いた。バロックといういわば「演劇の十七世紀」を大きくリードしたのは、彼。「演劇」はバロックの象徴的な第一級藝術だった。現代演劇にうけつがれる質的・技術的な「根」は十七世紀にすべて下りた。時代・世紀そのものが、演劇的に白熱した。「人生は劇場」だった。
シエイクスピアの「十二夜」はこう言う。池田香代子さんの訳で聴こう。

世界は劇場
女も男もみんな役者
登場しては、退場し
一生、さまざまな役で七幕を演じきる

「マクベス」では、

人生はうつろう影絵芝居
あわれな役者風情がふんぞりかえり、歯噛みする
ほんのいっとき舞台をつとめ
ぱたっと音沙汰なくなる。どんちゃん騒ぎの
うつけのしゃべるおとぎ話
意味などありはしない

さよう。意味などありはしない。そうと知ってか知らずにか、だからさて、どのように「ほんのいっとき舞台をつとめ」るのか。その「つとめ」ように、浮き世の人さまざまが現れる。俄かも漫才も万才も能も狂言も歌舞伎も新劇もアングラもある。シェイクスピアの辛辣もあればイプセンの深刻もあり、南北のケレンも青果の大まじめも、つかこうへいや野田秀樹の批評もある。スチャラカもケセラセラもある。どうせ「ぱたっと音沙汰がなくなる」のだ、確実に。それがどうした、それでいいんだよとシェイクスピアに尻をまくっても構わない。
バロック時代の演劇人は「人生」を、さよう「劇場」に見立てたが、同時代の詩人達は、人生は「夢」だと言う。一六○○年に生まれたスペインのカルデロンは、芝居の中でこう尻すぼまりに声を落としている。

人生だと? 狂乱だ! 人生だと? 空っぽのしゃぼん玉だ! 作りごとだ! 影だ! 幸福がなんになる。人生はすべて夢、あまたの夢は一つの夢なのだから……
目新しくも何ともない。われわれは荘子の蝶の夢も一緒にみてきた。バロックより少なくも一世紀前の日本では、『閑吟集』が端的に喝破していた。

夢幻や 南無三宝
くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ

「ただ狂へ」とは、でたらめでいいという意味ではない。好きなことを好きなだけ一途にやればいいという意味だ。信じたことを信じただけ一途にやればいいという意味だ。出来ることを出来るかぎり一途にやればいいという意味だ。実感のないウワッツラのゴマカシは言うな、するなという意味だ。「くすむ」とは、口先ばかりキレイがる意味だ。
2008 6・23 81

* 朝、静かに雨。

* 妻の話では、「孫の死を書いて娘に訴えられた太宰賞作家」と見出しの、「週刊新潮」発売広告が新聞に出たそうだ。

* 正しくは、「娘夫婦に訴えられた」であり、原告筆頭は、青山学院大学国際政治経済学部教授の夫・★★★である。
妻・朝日子(私の長女)のかげに入り、ともするとこれは「娘と父との喧嘩沙汰」で、自分は妻の味方をしているだけという姿勢を装ってきた。しかし、世間にもザラにありみっともないことだが、いわば舅と婿との十数年の確執が、太い太い「根」である。
孫を書いた『かくのごとき、死』よりも、じつは長編小説のための下書き仮題であった『聖家族』というフィクションの方に、はるかに太い遠い「根」がある。
★★は、これがイヤでイヤで、なんとかウエブから消してくれと懇願し続け「仮処分」の法廷にも持ち込んだ。和解でもする気かと消去してやると、和解どころか、「千数百万円」を請求の「本訴」に持ち込んだのだ、自分が筆頭の原告で。

* わが家では、老妻も、わたしも、娘の「朝日子と争っている」気では、全然ない。『聖家族』に画かれてあるような男の、卑怯さ愚劣さを嫌悪して、十数年、二十年近く、婿の乱暴と無礼を「ゆるさなかった」だけである。それを、人目も羨む仲良かった娘と父との争いに仕立てて、わが家に対し、ある種のうらみ・ひがみの意趣晴らしがしたかったのであろうか、現に彼の妻に相違ない娘は、その夫と行をともにするしか無いのだ。孫の死を書いた『かくのごとき、死』なら、読んで下さった読者は、実の娘に実の親を名誉毀損で訴えさせるような悪意の産物でないこと、ちゃんと分かってもらっている。 (増刷するな、売るなと勝手なことを要求されているが、たとえば作家論目的で必要とされる方などには、よろこんで、いま、提供できる。)

* 週刊誌記者さんが、たぶん録音して纏めてわたしに伝えてくれ、感想を問うてきた「六項目」、夫・★★★の、終始「真っ赤なウソ(娘の母の即座の感想)」としか言いようない言葉は、まさしく「父娘の喧嘩」に「すり替え」た姿勢を、全面に押し出している。
逐条反駁しておいた終始は、この「私語」の今月、六月二十一日の「つづき」の項に、週刊誌発売より前に全部記録してあるから、読んで下されば事情は分かるだろう。
今朝発売の週刊誌記事の内容は、何も知らない。買いに行って読もうとも思っていない。それより、記者さんとメールでかわした文学談義などのほうが楽しかった。放たれた矢のさきへ奔っていって、受け止めることなど出来はしない。意味もない。

* 娘とわたしとが、どんな親子であったかを示す写真が、このファイルの末尾に載せてある。
ほんとうに仇同士のように仲の悪い娘、憎い父ならば、そんな父親と「同行」して、大手婦人雑誌の「旅」企画に、喜色満面でつきあうワケがない。まして娘は、母親のいわば「代理出演」であり、すでに結婚し子供も生まれていた。「弟の誕生」以後、「娘の死」まで四十年父に「ハラスメント」されつづけたなどと主張している娘なら、こんな「旅」を、こんな笑顔で、父親と二人でとても楽しめまい。「お断り」の一言で済む。
娘は、ウソをついているか、つかされているに過ぎず、どんな「ハラスメント」か、いつ、どこで、なにが、こういう物証が有ってなどと、「原告立証責任」の果たせるわけがない。何の立証も証拠も添え得ぬまま、その逐一が否定されていった経過は、すべて「民事調停」や「仮処分」の法廷がらみに、「記録」がある。むしろ、そんなことのあり得なかった証拠の方が、次から次へ出ている、データもしっかり添え、証拠の現物も付けて。そして一言半句の抗弁も出来ていない。グーの音も出ていないのである。写真は此処に一例として。

 

雑誌「ハイミセス」1991年3月号の「旅」企画に、娘・朝日子
を伴い、松山、柳井、厳島などに遊んだ日々のスナップ写真。
このファイル末尾参照。「ハラスメント」のくらい陰、ありますか。

* 一目瞭然、各時期の全ての写真が、全ての父や母への手紙の文面が、どんな「ハラスメント?」と呆れている。
また保護者たる親が小さい頃に子を躾けて叱ったていどは、どんな家庭にもある。わたしはも叱るべきと思ったときは叱る。「ばかか、お前」と一喝する。子供の意を迎えて子の顔色をうかがうような真似は、わたしはしない。それが「虐待」か、「ハラスメント」か。
物書きの弟息子は、はっきり言うている。
「朝日子は、ビョーキなんだよ。朝日子はお父さんがめっちゃくちゃ大好きなんだよ。その大好きなお父さんから、良きにつけ悪しきにつけて、例外というモノもコトも無しに愛されたいヤツなんだよね。是々非々の愛では絶対にダメ。しかしおやじは、いいときは手放しで褒める、しかしダメな時やモノやコトにはきちっとダメを出し、半端にはうけいれないでしょう。俺はそれでいい。朝日子は、それでは絶対に不満。そして褒められたことや愛され可愛がられたことは忘れても、ダメとつきはなされたことは覚えに覚えて、それが積もって、今では憎さ百倍、何としてでもお父さんに復讐し勝ちたい。そういうビョーキなんだ。仕方ないんだよ」と。
同じことは何人もの読者も観測している。口も揃えている。わたしは「ビョーニン」に訴えられているわけだ。

* 結婚前も結婚後も、娘は、父の作家生活にそれはよく協力してくれた。
連載の新聞小説のために、夫や娘と海外生活の間にも、自分で探して大きな写真集を送ってきてくれたり、リードを翻訳してくれたり、和やかな手紙、経済援助依頼と感謝の手紙をくれたり、それが、みな、結婚後のことだ、当然だ。家族でいるのに、手紙など書かない。
結婚後も、母親が疲れてしまうほどよく里帰りし、近所で笑い話になるほどだった。父親にデパートで服を買わせたり、食事を奢って貰ったり。大学に入ったときは、銀座の「きよ田」で祝われ、たまたま同席した懇意の編集者に張り込みすぎですよなどと笑われさえした。そういうのが朝日子は大好きで、有名人のいるパーティーにはよくくっついてきて、岡本太郎や井上靖や梅原猛と会話しては満悦であった。なにが「ハラスメント」か。
あげくはそういうお一人に、谷崎夫人に、きわめて難関の就職に口をきいて戴いたり、結婚式にも出て戴いたり。そんなこと、朝日子ひとりにく出来ることでは全くなく、すべて父を拝み倒さねば出来たハナシではなかった。旅の写真も、その延長である。小さいときからの可愛い写真は、一枚残らず父親が撮っている。嫌いで憎い憎い父親にあんな無垢な可愛い笑顔がどうして向けられよう。
その娘に★★★を引き合わせたのも父親である、完全なミステークではあったけれど、朝日子の方はニタニタに笑み崩れて悦んでいた。
その父に、その夫が、ものすごい暴言をあびせたとき、朝日子は直ちに夫の「暴発です」と謂い、夫の性格批判なども適切に手紙で親たちに書いて寄越している。このファイルのうしろに掲示してある、平成五年自分の三十歳誕生日に父に寄越している朝日子の便りの、なんとおちついて平和なことだろう。
★★★が暴発したあと、母親はつよく離婚を望んだが、私は、父は、賛成しなかった。夫婦には相性があり、そうでなくても孫娘二人のためにも離婚はすべきでないと。じつは、そのために、娘は帰る先をうしない、父を訴えるところまで、もう引き下がれない夫婦の道を歩いてきたのであろう。これは可哀想なことをした。夫婦が離婚の危機にあったこと、それをやす香・みゆ希ふたりが毎晩のように泣いて憂慮していたという「証言」もわたしたちは手にしている。朝日子は、父を訴え、「殺してやる」と叫ぶような、ありもせぬ「ハラスメント」を言い募ってでも、「夫婦」でいるしか行く先が無いのだろう。それを夫・★★★は利して、自分はこの争いに関係がない、妻がひどいおやじと争うのを応援しているだけだというフリをしている、それが「週刊新潮」に喋っていた六箇条に露骨に出ている。「孫の死」を書いた『『かくのごとき、死』にのみ触れて非難し、自身に立場がないと信じ切っているらしいフィクション小説『聖家族』には小指の先も触れようとしない。朝日子をインタビューに出さずに都合のいい代弁で、「真っ赤なウソ」に終始している
。わたしの妻は、記者の伝えた婿の弁を読んで、即座にこう叫んで呆れ返ったのである。

* あの夫婦には、このファイルの「旅」写真などが、目の上のタンコブになってしまい、「肖像権」侵害だとも訴え出ている。わが家でわたしの撮った可愛い孫の写真を使っても「肖像権」は親が相続した、訴えるぞと内容証明の手紙を送りつけてくる。「ハラスメント」などとバカげた捏造を取り下げるなら即時撤去してあげるよと、ツッパネてある。わたしにはわたしの名誉を、ひいては妻や息子の名誉を守る権利がある。

* 今日は、牧野総合法律事務所との打合せ。

* 妻や息子の話では、週刊誌の記事は、案の定、朝日子とわたしとの争いのように、孫の死を書いた『かくのごとき、死』だけ。私の氏名と顔写真は出ているが、★★★は、「仮名・高橋洋氏」になっているという。ガハハ。仮名でなければ、また大学の名など出さない約束でなければ取材に応じないということだったか。娘の名前すら出ていない。
核心は、しかし私の書いた小説の方にあるし、『かくのごとき、死』
は、内容のある「日記文学」なのである。かたちは事実の日録だが、構成上は「創作」され「趣向」されている。
なによりわたしは、陰口を叩かない、自分の氏名と文責を明らかにし、「書く」作家の姿勢で終始している。ウエブで書かれた新世紀の、特異な内容で満たされたこれは「私小説」の新種なのである。なぜこれが「仮処分」で抹殺されねばいけないか。わたしは承服しない。
私の作品リストには、『聖家族』なるものは存在しない、仮題の下書きに過ぎない。なぜこれを私の書斎であるウエブから躍起になって消去させたいのか、そんな必要があるか、義理があるか、これまた全く理解しない。わたしは趣向のあるフィクションとしての小説を、私小説を、ちゃんと書いてはいけないのか。理事であり会員である私のこんな受難に、「日本ペンクラブ」はどういう見解だろう。「日本文藝家協会」はどういう見解だろう。見て見ぬフリか。「週刊新潮」の記事はその辺にどんな見解をみせたか、わたしは読んでいない。
新たに別の取材が有れば、取材に応じるだろう、もし健康が許せば。
『かくのごとき、死』だけでなく、『聖家族』も提供する。「書いた」ものは、みな提供する。あいまいには喋らないが。

* 一昨年の民事調停で、賠償「五十万円」と主張た娘夫婦は、今回本訴で「一千四百二十万円」寄越せと言う。牧野法律事務所は「時間制」で請求書を出します、弁護士一人一時間、一万五千円ほどになる。家一軒分ぐらいすぐかかるだろう。幸い、息子には遺産の必要がない。妻は息子が面倒を見てくれるはずだ、頼む。
一字一字で四百字の原稿用紙を埋めて稼いだ血の汗が、こんなばかげたことに費消されるのは下らないかぎりだが、これがシャバという地獄の在り様さ、それにわたしの稼いだ金を、わたしが使う。底をつけば、スカンピンだった昔へ戻るだけ。命も、金も、ちっとも惜しくないし、仕事もしながら、惜しげなく自堕落そうな楽しみにも、高尚そうな楽しみにも生き生きと使い切ってしまおう。

* この数年余、メールでの年賀に腰折れを書き付けてきたが、六六郎の述懐がそのまま今の思いである。積んだのを齢に代表させたが、ま、あれこれいろいろ積んできたのである。ろくろくと積んできた。済し崩してもとの平らに。一代の男意気じゃなあ。

ろくろくと積んだ齢(よはい)を均(な)し崩し もとの平らに帰る楽しみ   六六老

来る春をすこし信じてあきらめてことなく「おめでたう」と我は言ふべし
ありとしもなき「抱き柱」抱きゐたる永の夢見のさめて今しも   六七郎

めをとぢてこの深きやみに沈透くなりねがはざれ我も我の心も
よきひとのよき酒くれて春ながのいのち生きよと寿ぎたまふ       六八叟

七十路(ななそじ)に踏ン込んでサテ何もなし有るワケが無し夢の通ひ路   古稀蔵

歩みこしこの道になにの惟ひあらむかりそめに人を恋ひゐたりけり     十六歳

熊谷じゃないが、みんな夢なのは知れてある。覚めるなら一日も早く覚めたいと、この十年、十余年、願ってきた。「間に合う」だろうか。

* 言うまでもない、こんなことだけに奔命しているのではない。
毎日「書く」「創る」仕事をしている。残り時間が惜しまれる。満身創痍、病気だらけの体で、いつどんなクラッシュが来るか知れたモノではないが、わたしの日々の「いま・ここ」は、この「私語」におよそいつも、これからも、明かされている、確かな文責とともに。
いつでも、だれでも、好きに覗かれていい。正しく引用されるなら、ご自由に。わたしは週刊誌もわざわざ呼んでくれたことだ、「太宰治賞作家」らしく、無頼に元気に、「書いて」生きる。ほかに何も出来ない。五メートル走る体力すらないが、幸い自転車はゆるゆるでも動いてくれる。「一瞬の好機」は、どこにでも有る。「青山」も欲しない。伊藤整さんのいわゆる「ごろつき」のように古くさい「書き手」の余命を好きにつかいたい。現実にベチャベチャして如才なく生きるオポチュニストにもソフィストにもならない。なれない。

* この追伸は、欠かせない。親しい気持ちを寄せて下さっている皆さん、ビックリしてどう慰めよう励まそうなど、考えられませんよう。
わたしは、秦恒平はまっすぐ立っていますから。
わたしが町田市主任児童委員であるらしい娘・朝日子や、青山学院の婿・教授を訴えて出たりするみっともないメに遭わなくて済んだのを、幸いに感じています。
もしこれが筆禍というものに属するなら、文士たるものの勲章かもしれないのです。子が親を筆の上のことで訴える、これは近代文学史で、ひょっとして最初例でしょうか。わたしは書いた作品をいささかも恥じてなどいないのです。
婿達が欲しいのは金で、なにも名誉なんかではない。婿・★★★は名誉など無いから書かれたのであり、娘・朝日子は「ハラスメント」の捏造までして、恥ずかしげなく実の父を訴えたことで、自ら名誉を剥ぎ捨てただけのこと。しかし私は娘をとうに赦していますし、「身内」でない知性もなさそうな婿は、眼中にないのです。裁判の上で応酬するだけの相手です。だから、あまり心配して下さいませんよう。
生まれるときも独りでしたし、死ぬときも独りです、たぶん。なによりも朝日子が恥ずかしくて死なないことを、心より願っています。

* べつだん今急に、わたしにして欲しいことは、弁護士側に無いそうだ。インシュリンと目薬さえ持っていたら、すこし長い旅も出来そうだ。あすは、ひとつ、うまいものを食いに行こう。

* これで、おしまい!
2008 6・26 81

☆ 独楽は今軸かたむけてまはりをり
逆らひてこそ父であること   岡井 隆  朝の一服より

昭和五七年『禁忌と好色』所収。現代の歌人を代表するすぐれた一人。時に含蓄に富んだ歌が、ずかりと出る。この歌も作歌の状況を越え幾重の読みにも耐えながら、父なるものと子なるものとの不易の相を想わせる。「こま」遊びのさまをまず思い出す。こまとこまとを弾かせ合っても遊んだ。鞭打ち叩くように回したこともある。地面でも掌でも紐の上でも回したことがある。父と子とでいま「こま」を闘わせているとも読める。父がなかなか子に負けてやらないでいるさまも見える。だが「独楽」の文字づかいから、子が独り遊びし、父は眺めながら、父としての現在と子としての過去を心中に思っているのかも知れぬ。
「軸かたむけて」は美しい表現だ。力づよくも力衰えても読める。どっちにせよ懸命に回っている。父は子とともに、子よりも切なく回っている。「逆らひてこそ父」と感じつつ心も身も子より早く萎えて行くさきざきのことも想っている。「こま」はもはや心象であり、象徴として父の心に回るのみとも読める。だが、気楽にくるくる回る「独楽」同然の子の世代に対し、なお父として鞭もあてたい、弾き合いたい、それでこそ「父」だという思いの底に、過ぎし日のわが父の顔や声や落胆の吐息がよみがえっても来ていよう。子への愛に父への愛が重なり、人生の重みに思わずよろけながら耐える。
秦恒平『愛と友情の歌』講談社刊 所収
2008 6・27 81

* 肌身のずずぐろく汚されるような日々は、一昨年八月一日以来もう二年ちかくなる。慣れることは、ない。
慣れたら平気ですよと言って下さる人もあるが、わたしは「慣れて」平気になるより、このまま平気でいる。
ひどいことになっていますねと驚きながら励まして下さる声、声。感謝します。そのなかに、存知寄り同業の方のこんな初のメールが届いている。今朝も戴いている。ふーん、詳しい人は詳しいや、と驚く。

☆ 秦さま
双方弁護士がついていると思いますが、訴状を見ないと詳しいことは申せません。まず「告訴」という言葉ですが、これは刑事の場合ですので「提訴」にしてください。
「被告」といっても、民事の裁判などというのは、その気になれば誰でも、誰に対しても起こせるものです。
刑事事件の被告とはまったく違うものです。また週刊誌にも(原告の、)「作家ですから表現の自由はある」とありましたが、作家でなくとも、日本国民である以上表現の自由はあります。
名誉毀損は、事実であれば違法性は阻却されます。あとはプライバシーの侵害ですが、作家が自身の家族の死を描いた作品などいくらもあります。
法的にあちらの主張が通る可能性が高いなどということはありません。インターネット上に書いたことは、消してあればだいたい問題にはなりません。「湖の本」は、一般の書店などで販売しているものではないことを強調すればよいと思います。
ここで重要なのは、文学の専門家、たとえば東大教授などの肩書のある人に意見陳述してもらうことです。
私は教授ではありませんが、必要とあれば陳述書を書いてもようございます。
もう一つ疑問なのは、青山学院大学教授(国際政経学部 「週刊新潮」記事の仮名・高橋洋)といえば、公的責任を有する立場にある人で、そういう人が仮名を要求することに、私は社会通念上疑問を感じます。
後ろ暗いところがなければ、正々堂々と実名を名乗るべきでしょう。  *****

☆ 秦さま
私は裁判実務には少し慣れています。
もちろん、私の言葉はご自由にお使いください。
(原告の)「ハラスメント」というのがどのような行為を指しているのか分からないのですが、1980年代から、米国では、成長した娘が、子供のころ父親に性的虐待を受けたとして提訴する事件が相次ぎ、後にそれは、フェミニストカウンセラーによって捏造された記憶
だということが分かりました。これは矢幡洋『危ない精神分析』という本に詳しいです。精神分析というのは、神経症などの原因を、幼時の経験に求めることが多く、しかし実際には何もない場合、誘導して「父親から虐待されなかったか」などと聞くうちに、記憶が捏造されるのです。もし必要であれば、ご一読ください。
ジュディス・ハーマンの『心的外傷と回復』などは、まさにフロイト流「父親による虐待」説を推し進めた本です。詳しく調べようかと思っています。  *****

* さて、今日は、ほぼ小一年に達する「仮処分審尋」の日。
この間の大半は、先方債権者の「只今、用意」「用意」でべんべんと費やされてきた。その間に、マスキングも「聖家族」消去も、向こうの望みをかなえても、双方の合意がないかぎり「仮処分審尋」は終えるということが「出来ない」そうで、先方は果てしなくこの審尋を続けながら本訴も始めるという姿勢だと、昨日牧野事務所の説明と報告があった。なんというムダであろう。
審尋の日は、わたしは外出して気を晴らしてくる。幸いにというか、あるいは不都合にも湖の本の初校を終えて返す義務がある。旅に出るにも、それは一度果たしてからにするより、ない。今日はゲラを持って出る。ひどいあめでないといいが。ヘリコプターの爆音がしている。窓外はやや明るんでいるか。
2008 6・27 81

 

☆  暗がりに汝(な)が呼ぶみれば唯一人
ミシンを負ひて嫁ぎ来にけり   遠藤 貞巳   朝の一服より

おぅと声が出た。
破顔一笑。快い笑みに祝福の思いが湧く。
「呼ぶ」のがいい、声が聞こえるようだ。いじけた声ではない、貧しくとも心豊かに健康に、若い生活を倶に支え合って行こうという、気迫に溢れた「汝」の声だ。
女の、「ミシン」ひとつの愛と活気と決意とを受けて、迎える青年にも思わず一歩を力強く踏み出す気概が湧いたであろう。これが結婚だ。
「暗がり」を、人目を恥じてとは読むまい。決意して即刻に今夜から、と私は読む。そこに、「夫婦」の出発点がある。宵から朝へ。
原始の暦はそのように数えられていた。 「国民文学」昭和二六年四月号から採った。

* 件名無し、正体不明のメールが昨日から続いている。即座に廃棄。ムダである。

* 「珠」さんが京都で拾ってきましたと以前に送ってくれた木の種を、庭の土にもどしてやった。

* 私の「いい読者」たちにお願いしておきます。

* 私のこのホームページを、またも無道に全棄却されてしまわないうちに、全保存可能の方は、どうぞお手元に、しかるべく遺して下さい。「闇に言い置く私語」は、文章の改竄さえなければ、いかようにお手元で編輯して保存されてもけっこうです。原版は手元に保存しています。
残念ながら「電子版・湖の本」は、入稿時校正のままのものもあります。多くは勝田貞夫さんのご尽力で、紙の本版からスキャンされていますが、それとても校正未了がまだ多いのです。「紙の本版・湖の本」に拠って校正を全うしておきたいのですが、余力がありません。手伝ってくだされる方、よろしくお願いします。

* 私の「全文業」は、機械を実質使い始めたこの十年来のものは、ほとんど漏れなくこまかに分類し、保存されています。なるべくデータを副え、引き出しやすいように整理しています。
前世紀・平成初年・昭和期のものの主要な大方は、幸い殆どが百冊余の単行本・出版物になっていて、主なモノは、だいたい「湖の本約百巻」にも再録・収録されています。
初出本や雑誌・新聞も、ほぼ全部がたぶん漏れなく保管されていますが、一部古い新聞原稿や書評などは薄れて行きます。電子化しておきたいのですが、余力がありません。

* 蔵書は、図書館のキャパシティーに問題があり、寄贈が無になりやすく不安定なので、欲しい方にさしあげ、あとは思い切って全廃棄もやむなしと考えています。りっぱな全集やセットもの、辞典・事典類はもったいなく苦慮します。私の読者や研究者で、秦の手元にこういう本や作品(秦でない著者のもの。)はないかと問い合わせて下さり、うまく有れば、悦んで差し上げます。

* 書画骨董・茶道具は、同好の友もあり、機会をみつけて残らず差し上げて行く予定。すべて整頓し、いましばらく愛玩して処分します。読者のの方、こういう道具があるかと具体的に問い合わせて下さい。有れば、いいですね。

* わたしの著書類も、多年の必要に応じて余分に買い置いたモノがあります。ぜひ欲しいという本、幸い余裕があればよろこんで記念にさしあげます、署名はご勘弁下さい。

* けさ、また、信頼できる久しい関わりの出版人から、親切な助言と、何らかの支援を言ってきて下さった。感謝します。

* わたしは自分に「徳」があると想ったことがない。世界史的用語としてはとにかく、日本人の用いる「徳」の字を、むしろハッキリ嫌ってきた。「損はいや徳と道づれ」の処世が不快なのである。
「徳は孤ならず」という。誰の言葉であったかも覚えていない。わたしは、何度も何度も書いてきた、自分は、「不徳なれども孤ではない」と。わたしが極めつきの少数派であることは、どの世間に出てもほぼ明白だが、わたしの詩と真実は「不徳」にある。これは覚えていていただきたい。
「徳」の「不孤」とは、わたしからみれば、利益で大勢が「つるんで」いるだけ。日本では「徳」とは「損でない」「得」の意味であることは、中世の「徳政」をみれば一目瞭然、莫迦げている。
きわめて数少ないだろうが、わたしの「不徳」をかえりみず親切と情義とを尽くして下さる方、わたしの謂うそういう人たちこそ、「身内」と謂うに近い。その点は、わたしに数多くの著作がある。

* 婿・★★★の謂うように、親子だから舅婿だから夫婦だから当然「身内」じゃないか、などと、わたしは成人以来思ったことがない。そんな薄っぺらい理解はない。婿の考えていたそんなことなら、子が親を、婿が舅を法廷に引きずり出し、金をよこせと裁判沙汰は起こせまい。家族内で「話せば済む」ことだ。もしそんなことなら子が親を、親が子を、夫婦がお互いに殺し合うか。しかし世間はそんな惨虐例に満ちてきている。この青山の大学教授は、ハナからすでに自己矛盾を犯している。
このルソー学徒、十数年前の「暴発」事件の時も、仲人さん一緒の話し合いに、只の一度も顔を出さず、「叔父様」にぜんぶマル投げで、面と向かい一言も話し合えない弱虫の大人であった。わたしと妻とは、一度も欠かさず事態改善のために汗みずく渾身努力したのだが、三十半ばの健康な「学者」自称の男が、「叔父様」の袴の下に隠れっぱなしだった。なんだ、こいつ。わたしは何度も苦々しく嗤わずにおれなかった。
姻戚は「身内」なら、自分で出てきて自分たちの手と思いで解決に努力すればよい。あそこで、すでに彼は間違っていた。それでいてわたしに向かい、『エミール』を読めの、自分は「リベラルな教育環境で育った」のと、ごタイソーな。論語読みの論語知らずではないか。漏れ聞いたある東大教授が、言下に舅への「嫉妬ですね」と切り捨てたという話を思い出す。
2008 6・28 81

☆  十五年待つにもあらず恋ひをりき
今吾に来てみごもる命よ    長崎 津矢子  朝の一服より。

この慶び、いかばかりか。「十五年」がものを言う。しかも感情をよく抑えて一首の表現は誇らしいまでに端正に、かつ活躍している。「子」への愛は、何といってもこの「みごもる」ところから始まる。しかも身龍りの歓喜には、それに与って力あった夫ないし男への愛も重なる。この作者の場合、ほとほと諦めにちかい「待つにもあらず」であったかも知れず、それゆえの「恋ひをりき」は、ギりギリの表白として力がある。ことに下句の一気に言い放った感動の深さには自然な大いささえ感じとれる。「命よ」の「よ」までしっかり働いている。  昭和四十年『三春柳』所収。
秦恒平・湖の本40 『愛、はるかに照せ』所収
2008 6・29 81

☆  卯月浪父の老いざま見ておくぞ   藤田 湘子   朝の一服より

ひねもす波が大きく寄せて、その波に身も心も清まわりながら久しい祖霊の加護を蒙る、そういう日がこの島国には一年に何日かある。四月八日もその一日に当たってきた。悠久の時をこえて人が人の不思議の血脈にひしと思い当たる日でもある。繰返し繰返す波のように、命の糸は紡ぎ続けられてきた。作者の覚悟のほどを横から説明できるものではないが、手強い表現に籠められた「生きる」姿勢に心地よい響きがある。「父」は「老いざま」をもってしても子の境涯を正すのである。正されようと子は願うのである。昭和五七年『朴下集』所収。
2008 6・30 81

* 六月二七日仮処分審尋の報告書が届いた。法廷のことは書くと叱られるからあまり謂えないが、『かくのごとき、死』に問題が絞られてきていて、書かれていることの「真か偽か」など問題にしていないと★★★らは主張し、『かくのごとき、死』により★★★夫妻の社会的威厳というか尊厳というか価値というか、が「損なわれた」のを問題にするのだという。
あわてないで、この主張をジックリ吟味してみようではないか。もし「偽」なることが書かれているので社会的地位の名誉を損なわれたと言うなら、書かれていることの真偽、この場合「偽」を追究すればいいではないか。
「真偽は問わない」「問題ではない」とは、『かくのごとき、死』の書いていることはすべてが「真」「本当」だと認めているのである。そうでなければ「真偽」を争えば自ずと先の主張に繋がるではないか。
それが出来ないと言うことは、「本当のことを言われたから」傷ついたということになり、これは「名誉毀損」ではない、自分たちが「恥を掻いた」だけの話である。
「木洩れ日」日記のようなひどい捏造と虚偽によって恥を掻かされたなら、私のような怒って自身の力で証明すればいい。『かくのごとき、死』でそれは★★★らには出来ないだろう、出来るならこの審尋に一年もかかるワケがない。べんべんと「用意」が出来ないと延ばし延ばし、肝腎のモノは何一つ的確に提出できないまま「本訴」へ持ち込んだ。民事の提訴は誰にもゆるされている。しかもその訴状の謂うところがよく裁判所にも理解できなかったらしく、受理に五週間もかかった。よくよく裁判官もこんな長丁場に呆れ、本当なら仮処分と本訴とは別建てであるのが普通だが、一緒の法廷で同時進行することにきまったらしい。有り難いことだ。

* 「法を以て理を破るも、理を以て法を破らざれ」と初めて読んだとき、仰天した。そう書いたのは昨日のことだ。「禁中並公家諸法度」などを京都に強要した江戸幕府の鉄則だった。家康の言ったことだが、「秀忠の時代」に、これが冷酷なまで貫徹されて、後水尾上皇は切歯扼腕、いかんともしがたかった
「いかなる人間の情理も真実も法の力で押し破ってかまわない、いかに人間の情理や真実であろうとも法を破ることはゆるさぬ。」
なんという凄い、物凄い暴力かとわたしは書いた。法治国家なら当たり前などと思っている出来損なったのが賢いつもりでいるから、此の世は住み辛くなると書いた。★★★夫婦の、事の真偽はどうでもいい、『かくのごとき、死』で自分たちは社会的価値を損なわれたと唱えているらしい、法廷の報告によると。語るに落ちて馬脚を露わしている。

* それに較べ、映画『バティニョールおじさん』の美しい人間の真実はどんなに輝いて胸にしみ透ったことか。パリの街、占領ナチ軍に捕らわれてユダヤ人一家はドイツに拉致され、終生行方知れない。この逮捕と拉致とに、ちょっとした気分の揺れから関わってしまった隣家の料理人バティニョールおじさん。彼の家族もよくなかった。ことに娘婿として婚約している男は、ナチに媚びて権益を漁り、隣家のユダヤ人一家を密告して捕らえさせている。
ところがある日その隣家の長男である少年がひょっこりバティニョールおじさんのところへ顔を出したから、彼は恐慌をきたした。
だが、結局このおじさんは、少年と二人の従姉妹とをスイスへ送って救おうと、木訥な中にしたかな工夫もガンバリもみせて、虎の尾を踏むスリルを幾たびも必死に味わいながら、ついに四人でスイスの地を踏んだ。おじさんはもうパリには帰らなかった、帰れもしなかった。よろこぶ三人のユダヤ人少年少女三人との人生へ踏み込んだのである。このフランス人に、実は五十年秘めてきたユダヤ人の血が流れていたかどうかは、分かるような分からぬままのような。
ナチは、「法を以て理を破るも、理を以て法を破らざれ」の権化だった、彼らの法とはすなわちゲシュタポであった、情理や真実はおろか命も屑のように扱う冷血であった。
いま日本の政権のしていることも、自分たちに都合のいい法を乱立しておいて、真実と情理に富んで誇らしいわれらの日本国憲法は平然と押し破るのである。其処の所を読み違えてはならない。
そもそも法と理とが対立するモノのように思う法理解が歪んでいる。真偽のなかに真実と情理を問わずにどうしてまともな法判決が可能になるか。或る知識人が行きずりの女性の恥ずかしい写真を撮ったり、ウエブに載せたりするのと、祖父母が幸福感に溢れて撮った孫や我が子の写真を、嬉しさ愛おしさ懐かしさで自分のウエブに掲示するのと、ひとしなみに積みするような法は、いくら法律家がシラーッと「それもこれも同じ違法行為」ですと謂おうとも、わたしの理と真実とは受け容れない。そういう一律の強行こそを「無法」と謂うのである。

* ではでは。六月よ。 突きあたり何かささやき蟻わかれ 柳多留
2008 6・30 81

述懐 七月

薫風や蚕(こ)は吐く糸にまみれつつ   渡辺水巴

みづからを思ひいださむ朝涼しかたつむり暗き緑に泳ぐ  山中智恵子

黄の花にサボテンの露の匂ふよと在りしやす香の声きく今朝ぞ  祖父
2008 7・1 82

☆  いねがたき我に気付きて声かくる父にいらへしてさびしきものを   相坂 一郎
「ねむれないのか……」襖ごしにでもあろう、父は子を気づかってくれる夜ふけ。多少のいらだちも抑えて、「えぇ」と答えたのか「いいえ」と返事したか。ここまではごく分りよく、そして「さびしきものを」に無限の情が龍もる。この父は自身衰老の坂をはや下りつつあるのやも知れぬ。この子は、たとえばせつない恋を失った直後であるのやも知れぬ。失意とも不安ともつかぬ日々の夜の底で、言葉にもならない声を父と子とはかけ合い答え合いながら、縁のきづなを手さぐりして、しかもそのように生きつぐ寂しさに生きの命の重さをおし量っているのだろう。子は父の健康を、父は子の幸福を。しかも父であり子であることの測り知れぬどんよりとした、くらさ。 昭和七年『地下の河』所収。 朝の一服より
2008 7・1 82

* 七月は、かつては嬉しい月であった、初の娘・夕日子の生まれ月であった。嬉しい月であった。いまは、初の孫・やす香に十九の死なれ月になった。なんたる悲しみ。どういうはからいか、日も同じ。『死から死へ』を書かせた江藤淳の死も七月下旬だった。

* その七月が来た。心して日々を送り迎えたい、「くすむ」ことなく。

くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して
何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂へ      閑吟集

「ただ狂へ」とは、でたらめでいいという意味ではない。好きなことを好きなだけ一途にやればいいという意味だ。信じたことを信じただけ一途にやればいいという意味だ。出来ることを出来るかぎり一途にやればいいという意味だ。実感のないウワッツラのゴマカシは言うな、するなという意味だ。
「くすむ」とは、口先だけキレイがる意味だ。

* 一期一会。それは「一生に一度だけの出会い」の意味ではない。日々、生涯、無数に繰り返す、その繰り返しの一度一度を、一生に一度「かのように」清新に実意深く成せよということ。処女長編『慈子(あつこ)』のなかで、慈子の父上・朱雀先生にわたしはおしえられた。
2008 7・1 82

* 蕪村の丹後時代に、

夏河を越すうれしさよ手に草履

がある。蕪村の作でも著名な一つ。人を訪ねた門前に細い川があり、少年の日をなつかしみこういうことをしてみたという「解」がふつうである。河川というとき、河は細川ではない、大河を中に家二軒などとも謂う。しかし漫々の大河でなくても、磧あらわな徒(かち)渡りの楽しめる河もある。それは、いい。蕪村の句作に、ただ眼前の、門前の、河だけが眼にあったろうか、とわたしは想う。

春の海 ひねもすのたりのたり哉  蕪村

も、ただこういう海の眺めだけの句ではあるまい、「須磨にて」とあるからは、光源氏が海辺に出てみそぎした日が想い重ねられ、先祖への思いも、海神へのおそれも、巧みに秘められ籠められての秀吟とわたしは読んできた。そういう理解には出会えなかったのであるが、蕪村は、歴史や物語や想像との重層する句作に、発想に、優なる天才を籠めていた人だ。

人言を繁み 言痛(こちた)み 己が世に 未だ渡らぬ朝川渡る   但馬皇女

高市皇子の妻でありながら、穂積皇子との出逢いに敢然と朝川を渡った皇女の歌も、また万葉世界の空気を震わせた著名な秀歌。
蕪村は丹後の風興に加えて卒然この万葉歌を念頭に、俳諧の表現へ、自身の趣向を嬉しく楽しんだのではないか。訪ねていったさきが女なら、男女逆転しての俳味がまた嬉しい。
蕪村の丹後は、いろんな意味で重要すぎるほど重要だが、やがて京都へ出てきたとき蕪村には、新しい妻が寄り添っていた。丹後でえた後妻であるとわたしは理解してきたが、このあたり、定説がない、アイマイモコとしている。この一句はそういう背景をしのばせるドラマ孕みの一句だとわたしは強く思う。そう読んで、句の面白さは何倍も増す。

* この「私語の刻」に、こんな随感随想なら、一杯入っている。それを読みに来てくださる人が、嬉しいことに多い。「書いて」わたしは酬われている。幸いにそれがパブリック・ドメインでありうれば、いい。有り難い。
2008 7・1 82

☆  父母よこのうつし身をたまひたる
それのみにして死にたまひしか   岡本 かの子  朝の一服より

残念きわまりないことだが、ほとほと「子を持って知る親の恩」であり「孝行をしたい時には親はなし」と嘆くのが人の常であるらしい。親への愛憎――と敢えていうが――の深まりこそ、その人その人の人生を浮き彫りする。夫婦愛の表現では、どこか一途なところが魅力にも限界にもなる。子への愛にもそれがより感傷的に出てくる。だが、みずからも親になり(また親になれずして)親を思った詩歌には、ともすれば人間としての悔いがからみ愛が屈折して不思議な光を放つ。この歌など、すぐれた作家であったかの子の生涯を特に重ねて読む必要のない、それだけに普遍的な「子」の感動がうめき出ている。「この」の特定、「のみ」の限定、「しか」の喪失感。いずれもふつう短歌的表現としてはナマになりがちなところへ深切な心を籠めている。だから「たまひ」という優しい敬語の重ねが情をたたえて、深い「うた(うったえ)」の意味をもちえた。まさに大方の「父母」は子に「現し身」を与えただけかのように、さしたる事も成し遂げず、地の塩となりこの世を去って行く。人の世はそれだけ険しい。はかない。だが「それのみ」という認識を、卑小と限っで読むばかりでは済まない。それどころか「それ」以上のことは、人類の歴史始まって以来いかなる1父母」も成しえたわけではなかった──と、作者は感謝の愛を今捧げている。 「短歌研究」昭和十三年一月号所収
2008 7・2 82

* 日脚の確実なうつろいに、おどろく。

* 北沢栄 紫圭子 両氏の詩集『ナショナル・セキュリティ』は立派であった。メタファの働きを生かした最現代への批評、詩の機能が生彩を放っている。

* 詩を書かないわたしだが、詩人の知人は少なくない。硬質の瞑想と批評に富んだメタファの人だったのが、だんだん柔らかな独り言で、日記のような散文 (詩?)を書いている詩人もいる。必然あってか、怠惰なのか、見分けがつかない。そこにはもう感想しかなく、洞察も批評も失せている。惜しいと思う。詩誌という「仲間」で仕事を始めると、そうなってしまう人がいるのか。孤独をおそれて詩が書けるのか。

* 早稲田大学文藝科でわたしのゼミを一年受けた、妻の曰く「あなたの一等昔の学生さん」である平澤信一君が、もう「君」でもない立派な先生だが、『宮沢賢治 <遷移>の詩学』という研究成果一冊をはるばる贈ってきてくれた。思わず雀躍りするほど嬉しかった。教室で出逢った最初の印象も講義後の会話もわたしは忘れない。ウワァ大変、こんな連中のメンドーをみるのかと、外部のわたしをそんな教室にウムを言わさず引きずり込んだ此処の主任教授を恨めしがったほど、平澤君の舌鋒は鋭かった。新米の作家講師をつるすぐらいの勢いだった。ま、わたしはそうカンタンに吊されないが。
あの年は、息子秦建日子が早大法科に推薦入学し、わたしは「秦 恒平・湖の本」を創刊した一九八六年で、平澤君はたしか三年生だった。
あれからずうっと彼の仕事にも消息にも触れていたし、なにより彼は有り難い真摯な「湖の本」継続読者でいてくれる、今も。彼の研究は、よほど一途に宮沢賢治に集中し、新知見を出すことも度々あった。
この早稲田でのわたしの文藝科ゼミからは作家は角田光代さんを送り出せたし、評論では平澤君がこうして励んでいる。松島政一君のようなたいへんユニークな編輯と評論の活動を続けている人もいる。もっといるだろうと思う。たった二年間、手伝ったに過ぎないゼミであったが、ムダではなかった。

* 御著上梓心より祝します。 秦 恒平
平澤君  よかったなあ、めでたいことです、大きな佳い一歩が踏み出されました。多年研鑽とか執心出精ということばがこの本にこそ燃え立つように輝いている。どの一編にも君の息づかいと体温がある、それがホンモノの証拠ですよ。
折角健康を労りつつ、次の一歩へもう踏み出されていると信じます。着実に、時に大胆無比にも歩んで進んで行かれますよう、都の西北から祝意と激励とを送ります。ありがとうと申し上げる。  秦 恒平
2008 7・2 82

☆ 産みしより一時間ののち対面せる
わが子はもすでに一人の他人   篠塚 純子

措辞は乾いていっそ不器用に粗いが、「わが子はも・すでに一人の他人」とある表現に、いわば文明なり時代なりに対する批評を読むことが出来る。「他人」とは何で、他人でないなら、ではその相手は自身にとって真実何なのかを問う思考の体系と、「親子」を不動の軸に人間関係を組立てる思考の体系とは、この日本でも鋭く一度衝突していい時期に今はある。親子を、この作のように「他人」同士からの愛ある出発と考える歌は、かつて無かったかも知れない。 昭和五八年『線描の魚』所収 朝の一服より
2008 7・3 82

☆ しづかなる悲哀のごときものあれど
われをかかるものの餌食となさず   石川 不二子 朝の一服より

これも私なりに読みたい、「しづかなる悲哀のごときもの」であると「愛」の本質を受け止めて、あやまりであるだろうか。この歌はけっしてそのような「悲哀」を否定や否認はしてはいないと読める。避けがたい運命のように受け止めたまま、なお堪え耐えてそれと戦い抜いてみたい意志が読める。
我々は「愛」をあまりにやすやすと受け入れることで、その隠された「むごき部分」の「餌食」たるに甘んじては来過ぎなかったか。「われをかかるものの餌食となさ」ざる所から、「愛」への主体性を確保したい…と、私も思う。 昭和五五年刊の『短歌年鑑』から採った。
2008 7・4 82

☆ 女子の身になし難きことありて悲しき時は父を思ふも   松村 あさ子

プロを自称するような歌人は、こうはかえって歌えまい。こう真率に「悲しき時は」と一見露骨には歌えまい。しかしこの歌では「悲しき時は」以外の表白はあり難いだろう、ここに「女子」の「をみなご」ゆえの一切が託され、男の私にもその重みは察しられる。まだまだというより、いつまでもなお女ゆえ「身になし難きこと」は増えても、減りそうには思われない。母ではない「父を思ふ」と歌われているのは、けっして母が無みされている意味ではないが、どうしてもここは「父」であらねばならぬ2ぶん、娘の今が今「女子」として生きる苦しさや険しさも、痛いまで想像がついて来る。息子は母を慕い娘は父を慕うといった通りいっぺんの解説とは、かけ離れて厳しい人の世渡りが目に見える。「父」には、なにかしら「娘」の思い及ばない不思議の「力」でもあるのか。悲しいことに在るわけもないそんな力が、あると想像できてそれがいざという時に娘の力になるのなら、片思いにそう思いつづけていて貰うしかない。娘の父でもある私は、そう願う。この歌のようには娘に自分を思い出させたくないな…と、祈る思いでもある。「国民文学」昭和十一年三月号から採った。   朝の一服 より
2008 7・5 82

 

☆ 少女のわれが合せかねたる貝合
会はざればいよようつくしかりき   斎藤 史

「短歌」昭和五九年七月号の誌上で出逢ったこの歌には、感動した。「貝合」は一対の、もともとは一つの貝殻と貝殻とを多くの中から捜して合わせる、優美な古代からの姉様遊び(ゲーム)であるが、いわば男と女との運命の出会いを祈る思いを併せ寓意していること、勿論だろう。「合せかねたる」には、ハキとは言わないその辺の根の深い嘆きの声が聞こえる。だが、この近・現代を通じて稀にみる優れた詩人は、優れていればこその資質として、この嘆きをあしき感傷には流してしまわない。下句の毅さには、目をみはっていい。「会はざればいよよ」とは、運命を乗り超える気迫なくては出て来ない詩句である。同時に、虚実の魔法である「詩」の本来の境涯をも暗示しえている。愛と美の意味を兼ねた「うつくしかりき」という過去への物言いに籠めて、事実ならぬ、「会はざ」りし真実在を一層大きく、美しくも愛しくも把握できているそういう「現在」の生きが肯定されている。あつかましい肯定ではない。しみじみと寂しい静かな肯定である。そういう寂しさや静かさによく耐えられる毅さが、この、よく永く生きていまも健在な詩人の、人間としても女としても、優れた美質であろう。
人生、「会ふ」ばかりが男と女との愛とは限らない。そうも思いつつ、世の恋人や夫婦たちは「会ひ」えた喜びを、さらにさらによく培うべきなのである。 朝の一服より
2008 7・6 82

☆ 離婚せしわれはいささか不幸なる女として子の心に住めり   篠塚 純子

「子」の推量に負けているのではない。余裕をもって逆に「子の心」を覗き見ながら、「離婚せしわれ」をさえ距離を置いて観察している。「いささか不幸」なのか、たいへん「不幸」なのか、それとも「離婚」ごときに幸、不幸を左右されない生活力のある「われ」なのかは、想像の限りでない。こういう風にあっさり乾いた歌が、従来の歌壇に見られなかった事だけは言えよう。昭和五八年『線描の魚』所収。 朝の一服より
2008 7・7 82

☆  家計簿もつけますだから今すこし影も曳きます青春すこし   田中 あつ子

結社誌のなかで表彰されていた若い歌人の面白い作品。「家計簿もつけます」という前に、若い夫婦の間にいささかの応酬があったものか。その挙句の協定事項らしいが、だが…という感じに「だから」とスッと出ている。その切返す気味の盛んな口調に、たしかに「すこし」「青春」が「影」をまだ「曳」いている。若い妻はその「影」を愛している。捨ててしまいたくないと思っている。なるほど「家計簿」は「青春」との対向地点にあるらしい。反抗の声なのではない。若い妻が若さを愛惜してなにがわるい。たとえそれがなお世間的には未熟の証であろうと、妻として一歩未だしと言われようと、すすんで振り捨てていい「青春」は持たなかったという意気が、この一首から私には感じとれて、思わず微笑に包まれた。けっこうだと思う。歌も、精いっぱい新鮮で佳いい。「かりん」昭和五九年十月号から採った。 朝の一服より
2008 7・8 82

☆  これやこの一期のいのち炎立ちせよと迫りし吾妹(わぎも)よ吾妹
真命の極みに堪へてししむらを敢てゆだねしわぎも子あはれ    吉野 秀雄

「せよと迫りし」を奥歯にものをはさんで読んでは、この夫婦の愛に失礼である。かくも美しく激しく「せよ」「する」という言葉が詩歌の言葉として詩化された例を古今に知らない。性交を暗示して、「する」という時のこの言葉にまつわりついた隠語ふうの陰湿さが、この歌の「せよ」という「真命」を賭しての妻の「炎立」つ求愛には、微塵もみえない。「ししむら」とはまさに臨終の妻が糸一筋にこの世にとどめた赤裸々自体である。それを「敢てゆだね」て夫に抱かせて今しも逝く妻の、愛。生きの命の証として、夫婦として無比に生きた愛の証として、「性」の交わりが一期の最期に燃えあがる。こんな美しい真実の歌こそ、我々は「文化」と呼び「詩」と呼んで記憶したいと思う。 朝の一服より
2008 7・9 82

 

☆  家族とも言えど異なる部屋に居て人はひとりで生きているなり   冬道 麻子

すぐれた歌だと思う。何の説明の要もなく、大きなことをしっかり口にだして教えられた気がする。事実はこの歌のようでないという感慨も私にはある。その感慨に立ってこの歌を読めば、一首は毅然と人間の自立を勧め、癒着しがちな「家族」なる関係過剰を本質から批評しているようにも読める。銘々に「ひとり生きている」現実を、力づよく肯定していると読める。だがまったく逆に、分裂し分散した「家族」の現実を批判しているとも取れる。あるいは表面は癒着しながら、実情はみなバラバラに「異なる部屋」を心に持ち、「ひとり」に閉じ龍もつていると批判、または批評しているのかも知れぬ。「家族」について日本では、まだ一般には思索も反省もほとんど行き届いていない。「現代」がそこまで成熟しないまま「風俗」ばかりが疾走して行く。まだ年若いといえる作者は、想像を越えた重病の床から、そういう「日本」を澄んだ目で見つめている。どう読むかは、読者が問われている、のである。昭和五九年『遠きはばたき』
所収。  朝の一服より
2008 7・10 82

☆  起き出でて夜の便器を洗ふなり 水冷えて人の恥を流せよ   斎藤 史

友らに、父に、母に、夫に。多くの最期をすべて目をそむけることなく見据えて来た、毅い詩人の愛の歌。「水冷えて」の一句に籠もる清冽の詩魂を汲みたい。「冷え」はふつう心理的には負の印象に結ばれ易いのだが、ここでは「便器を洗ふ」「恥を流」すという意図に応じて、極まりなく清く、清まわる印象を喚起してほとんど呪術的効果を挙げている。結びの句の祈願に愛がほとばしる。何の奇矯な字句も技巧も用いずに、心から溢れ出る「うったえ」を果たしている。蕪雑に言語と文字とをあたかも玩弄して得意顔の無感動短歌は恥じよ。言葉を生かして、詩化して、深く感動して歌わねば「うた」には成らぬ。「短歌」昭和五九年七月号に引かれていた歌を採った。 朝の一服より
2008 7・11 82

☆ 青竹のもつれる音の耳をさらぬ 2008年07月12日00:17   鳳

青竹のもつれる音の耳をさらぬ この甃道(いしみち)をひたに歩める 秦恒平

私の居る所は、大学付設の研究所にしては小規模で、学生やポスドクの数も少なく、皆自室に篭り、計算用紙やパソコンに向かって黙々と研究しています。
チームワークが重要で機械音や金属音で賑やかだった工学部の頃とは、随分違った世界です。
裏を竹藪に囲まれています。竹藪に面した部屋では、風の吹く夜は裏から聞こえて来るざわざわとした音が研究の友です。
この歌の黙々とした雰囲気、今の私の居場所にぴったりなのです。

* なつかしい歌。
十七歳、高校の二年生だったか、この歌を国語の先生でポトナム同人だった上島史朗先生に他の「東福寺」一連十数首とならべて読んでもらったとき、この歌について、文法としては「もつるる音」だろうが、いいんだよ「もつれる音の」で構わないんだと言って下さった。歌集『少年』は、都合六度も姿を変えて本になったが、「もつるる音の」とあらためたのはずっと後であった。いまも「もつれる音の耳をさらぬ」でよかったと思っている。
このところの空気のわるさにクサクサしていたときに、「鳳」さん、ありがとう。日のはじめの気分を清めてもらったよう。「東福寺」の歌は、十七で威張るようだが、まさしくわたしの「短歌開眼」だった。

東福寺  (昭和廿八年 十七歳)

笹原のゆるがふこゑのしづまりて木(こ)もれ日ひくく渓にとどけり

散りかかる雪八角の堂をめぐり愛染明王(あいぜんみやうわう)わが恋ひてをり

古池もありにけむもの蕉翁の句碑さむざむとゆき降りかかる

苔のいろに雪きえてゆくたまゆらのいのちさぶしゑ燃えつきむもの

雪のまじるつむじすべなみ普門院の庭に一葉が舞ふくるほしさ

日だまりの常楽庵に犬をよべばためらひてややに鳴くがうれしも

はりひくき通天橋(つうてんけう)の歩一歩(あゆみあゆみ)こころはややも人恋ひにけり

たづねこしこの静寂にみだらなるおもひの果てを涙ぐむわれは

日あたりの遠き校舎のかがやきを泣かまほしかり遁れ来つるに

冷えわたるわが脚もとの道はよごれ毘盧宝殿(ひるほうでん)のしづまり高し

内陣は日かげあかるしみほとけに心無ケイ礙(しんむけいげ)の祈願かなしも

右ひだりに禅座ありけり此の日ごろ我にも一の公案はあり

青竹のもつるる音の耳をさらぬこの石みちをひたに歩める

瞬間(ときのま)のわがうつし身と覚えたり青空へちさき蟲しみてゆく
2008 7・12 82

☆  傘を振り雫はらえば家の奥に父祖たちか低き「おかえり」の声   佐佐木 幸綱

私らが子供の頃から遠く仰ぎ見て海山の学恩も被った佐佐木信綱。そのような欝然たる大家を祖父にもった人の作とは、敢えて考えないでこの一首を読む道もある。「父祖たち」というほど、切実にいつも大きくは考えていないにせよ、大なり小なりこれは「子孫」が共有してきた「家」の威圧であり安堵であるからだ。「家の奥」がつよいイメージを持ちえている。「おかえり」にも象徴的に重く強いる響きがある。こわいと思い、うとましくさえ感じ、しかもいつの間にか「おかえり」と家の奥でつぶやいている、自分。自分はそうはならぬと言うは易く、だが逃れられない呪縛に安住もし服従もする日がやがて来る、そのおそろしさへ早や断念すら兆している。「傘」「雫」「振り」「はらう」も、ある日の作者の状況というだけでない、しとっと重く湿った余儀ない心象への縁語と読むべきだろう。「短歌現代」昭和五七年三月号から採った。
2008 7・12 82

☆  捨てかぬる人をも身をもえにしだの茂み地に伏しなほ花咲くに   斎藤 史

「えにしだ」に「金雀枝」と「縁」の重ねを読み、しかもここは地縁や職業の縁であるより、重い血縁の思わず地に伏すほどの「茂み=しがらみ」と取った。一首の高揚は、むろん、それでも「なほ花咲くに」の感慨に在ろう。ここにこの詩人の不屈の人間愛がある。「捨てかぬる」のである、重い思いには遁れようもなく相違ないのだが。姿、調べ、思い、滞ることなき「表現」の美と質感である。昭和五一年『ひたくれなゐ』所収。 朝の一服より
2008 7・13 82

☆  家族とふ毒を煮つめて吾ら居れば赤の他人来て清く呼ぶ声   佐々木 靖子

「家族」をうたった詩歌は、例えば「子」への愛を歌ったそれとは、様子がだいぶ異なる。「親」を歌った詩歌にも愛憎の思いは交錯するが、そこには他人に成りようがない宿命とあらがう感情が濃い。
これが「家族」という単位に拡大されると、ここに「他人」の要素が利害からんで毒の味を生み出す。「夫婦」ももとは他人なら、「兄弟」は他人の始まりという言葉もある。しかも「赤の他人」というほどに割り切れた道は望めない。親族が加わればもっと毒の味も濃くなる。「家族」の愛は清いものと限らず、修羅と相剋の渦に毒気を煮つめている場合も少なくない。
そういう渦のさなかへ何げない「赤の他人」が舞いこんできた時の銘々の反応やいかに。この歌が実際にどんな状況を具体的に歌っているのか私は知らない。知らないから自由に想像しても読める。読者である私の、それは権利である。
この「家族」に例えばお嫁さんが加わって、ほがらかに甘い調子で新婚の夫を呼んでいるのではないか。「家族」の歴史も癖も利害も良いも悪いも、およそ何ンにも知らないで来た新参の「他人」の、無責任とさえ取れる屈託ない「声」に、一同バカらしいハラ立たしい、だがいちまつホッと心和む思いで、すばやい目まぜが交錯する。凄い、が、そういうものかも知れぬ。「人」昭和五八年十一月号から採った。
2008 7・14 82

☆  まぼろしのわが橋として記憶せむ母の産道・よもつひら坂
闘ひに死ぬるは獣も雄ならむ父へのあこがれといふほどのもの   東 淳子

すぐれた構想力で成長を遂げつつある歌人。昭和五七年『玄鏡』と五三年『生への挽歌』から採った。人の生きの底昏さと力づよさとを父母未生以前の根の深みから歌い抜く姿勢がある。しかもからい断念と喪失感にむしろ支えられ、父も母もこの歌のなかで実在の重量をえている。作者はこの重みを負うて生きているのだろう。ことに「母」の歌は日本神話の世界を畳み込み、「橋」一字にとこしえの他界を実感させながら「産道」といった言葉に緊密な詩化を遂げている。「よもつひら坂」という「橋」を余儀なく渡って来たことの幸不幸を超えて人間は、生まれ―死なれ、生きて―死ぬ。父を負い母を負い、闘って、死ぬ。闘いのさなかほとばしり出たこの、親への「愛」を私は心して聴いた。  朝の一服より
2008 7・15 82

☆  あなかそか父と母とは目のさめて何か宣らせり雪の夜明を   北原 白秋

大正十年『雀の卵』に収められ「父と母」と題されたこの歌は、ぜひ次の二首とならべてしみじみと読みたい。
あなかそか父と母とは朝の雪ながめてぞおはす茶を湧かしつつ
あなしづか父と母とは一言のかそけきことも昼は宣らさね
日本の父と母との、すくなくも戦前までのこれは悠久を思わせる典型的な姿であり、愛され尊敬された姿であり、この静謐に美も倫理も覚悟の深さも意気の毅さすらも秘められていた。「日本」は好むと好まぬにかかわらずこういう父母の国であった。子もこういう父母にまた成ろうとした。すくなくもそういう時代が長かった。むろん現代の読者は、せめてここに青い畳と白い障子との暮し、火鉢と縁側と庭先との暮し、寒くて静かで寡黙な社会の、しかも自負をたたえた厳しい空気も察して読まねばならない。作者はこの「父と母と」を現実の父母を超えてシンボリックに歌っていよう。慈愛の深さをただしく汲みとつて、歌の「格」というものが備わっている。愛誦に耐えて心温かい。なつかしい。 朝の一服より
2008 7・16 82

* 七月十七日 木 祇園会

☆  買物籠さげていでゆく老妻に気をつけて行きなさいといふ
何となけれど               前田 夕暮

「気をつけて」という呼びかけを、この私も、家族の誰彼ということなく贈れる最低限の愛情ではないかと、うるさがられながらも励行している。たった一つのそんな言葉が、もし事故や怪我から身を避けうるよすがともなるなら…と、つい思う。まさに「何となけれど…」なのではあるが、つまらぬ事とは思えない。昭和二六年『前田夕暮遺歌集』に収められている。 朝の一服より
2008 7・17 82

☆ 風の音とも雨の音ともうたたねの夢深々と夫に入りゆく   山本 佳芽子

「うたたね」ではあるが、この「うたた」には初、二句をうけて、なにかしら作者の心境に深く揺れ動くものをも感じ取りたい気がする。事柄は知れないが、なにかしら頻りに募る情緒の誘いがあるのだ。はたして「夢」に「夫」との逢いが成就し、一首はなまめかしいほどにエロスの色を匂わせる。「夢深々と夫に入りゆく」はおそらくは願望にも彩られた倒叙でもあろう。「夫」の方からも「深々と」妻に「入り」来る「夢」でなければならぬ。「風」「雨」ともに深部の性感に触れてくるシンボルと読める。昭和四四年合同歌集『澪標』から採った。
2008 7・18 82

 

☆  こころ濡れて親族は垣つくれどもわれはさぶしゑ父に価はねば   岡井 隆

単に「父と子」との関係が孤立して在るのではない。まま親族に囲まれてそれは在る。葬儀や法事の際にはそういう垣根が堅固に目に見える。捨てかねる「えにし」の輪だ。いやおうなくその輪の中で、垣の内で、子は父との相対を強いられる。容赦ない比較の視線を浴びる。浴びなくとも浴びる気がする。人の世を「親族」として羽翼を張ろうとする隠れた意向は、まだ、個人の行動や思想をすら制限している。この歌の「こころ濡れて」では、おそらくは垣内が挙って「父」をいたむ情緒がいわれているのだろうが、「親族」なるものの濡れた、ウェットな結ばれもこの一語で批評されていよう。それにしても「われはさぶしゑ」には賛成しない。あつあつの飯に冷や飯が混じったような白けがのこる。いっそ「俺はさびしいぞ」と率直に歌って欲しい。また、「垣を」と一字送って欲しい。『人生の祝える場所』所収   朝の一服より
2008 7・19 82

☆  クリストを人なりといへば、
妹の眼がかなしくも
われをあはれむ。   石川 啄木

明治四五年没後の『悲しき玩具』に所収の、作者最晩年の歌。晩年といっても二十代で死んで行った樋口一葉と同じ、まだまだ若い惜しい天才詩人だったが。この歌を読むと反射的に思いだすのが、第一歌集『一握の砂』の昔に、なお若き日々の友を思い出して作っていた、この歌。
神有りと言い張る友を
説きふせし
かの路ばたの栗の樹の下(もと)
「神など無い」と「説きふせ」たのだろう。その作者はやがての死を身に潜ませながら、「クリストは(神でない)人」だとなお言い放つ。
だが黙ってそんな兄を見守るだけの妹の視線に、作者はいくらか動揺もしている。「かなしくも」「あはれむ」という直接の感情語がむしろ自分自身を批評している。そこにこの歌の重い意義もある。
「手」を人の身に置いて悩みや痛みを癒しえたのはキリストだった。そういう「手」の力が信じたくて、「ぢつと手を見」て、かつその手にもどの手にも救われる事のなかった作者。『一握の砂』の頃なら兄が妹を「かなしく」「あはれ」んだろう。『悲しき玩具』の頃には、妹の愛憐にこの兄は無意識に心濡らしている。そんな気がする。  朝の一服より
2008 7・20 82

冒頭の数行パソコン操作ミスで消去してしまいました。ごめんなさい。

枕頭のグロキシニヤはあなたのやうに黙つて咲く

朝風は人のやうに私の五体をめざまし
あなたの香りは午前五時の寝部屋に涼しい

私は白いシイツをはねて腕をのばし
夏の朝日にあなたのほほゑみを迎へる

今日が何であるかをあなたはささやく
権威あるもののやうにあなたは立つ

私はあなたの子供となり
あなたは私のうら若い母となる

あなたはまだゐる其処にゐる
あなたは万物となつて私に満ちる

私はあなたの愛に値しないと思ふけれど
あなたの愛は一切を無視して私をつつむ    高村 光太郎

昭和十六年刊行の『智恵子抄』から、詩人の妻智恵子没直後の「亡き人に」を採った。巻末の「梅酒」という詩も好きだが、表現のしなやかさ、悲しみのなかにも愛の自然がうるわしいこの詩で、名高いこの愛の詩集を代表してもらおうと思った。付け加える何ももたない。
2008 7・21 82

☆  亡き父をこの夜はおもふ話すほどのことなけれど酒など共にのみたし  井上 正一

十分の出来ではない。だが「うったえ」は強い。第三、四句の大きな字余りに難があるのではない、ここはうち口説く感じがそれなりに調子づいて出ている。私が不十分と読むのはむしろ「おもふ」三字の含蓄の薄さだ。ここはもっともっと切実な心の嘆きや寂しさが的確に表現されて欲しいところ。こういうことを作者が「おもふ」のは、よくよく生き苦しく辛く寂しい事件がこの日にあったのだ、が、男の世界ではそれをどこへ訴えることも成らぬ場合が多い。あんなに邪魔に思い煙たく感じていたおやじの顔が、そんな「夜」はふッと目の底をはしる。酒がのみたいなあ一緒に。「父」なればこそ、何をことさら話し合う必要もなく励まされも慰められもするだろうと、作者は、やっとやっと「父」を全身に感じている。昭和五三年『冬の稜線』所収。 朝の一服より
2008 7・22 82

☆  妊るを昨夜は母に告げたれば縄なふ汝(なれ)のしきりに唄ふ   中島 権之助

若い妻が初の子を妊娠しましたと、その妻みずからがと私は読みたいのだが、夫の母に告げた。それが「昨夜」のことだった。一夜あけて、あんなにもこれまでは家のなかで遠慮や気おじの過ぎた妻が、はればれと歌う唇をもち、元気に「縄」を綯っている。夫の家で夫の子をみごもり、やがては母になる。その自信が歌わせている。夫はそう聞き、姑たちもそう聞いているのだろう。デッサンの利いた、とにかくも面白い一首に成しえた。ぐっと押し込んだ「告げたれば」も「しきりに」も、微妙なところへよく届いた表現になっている。「アララギ」昭和三一年二月号から採った。 朝の一服より
2008 7・23 82

☆  花が水がいつせいにふるへる時間なり眼に見えぬものも歌ひたまへな   斎藤 史

「歌ひたまへな」は素直にとって、他人にあつらえ望んだもの言いだろうと思う。歌の道をともに行く年少の友らへの言葉と聞いても差支えはない。
むろん「眼に見えぬもの」とは何か、なぜそれ「も」歌わねばならないのか…が問題であり、斎藤史の短歌観がこの歌で歌われているとも言える。
たとえば単純な写実本位を主張する立場から言えば、「眼に見えぬもの」などを追う表現は二義的というしかないだろう。だが本当にそうなのか。そう問い直す考えがなければ斎藤のようには歌えまい。
花も水も「眼にみえる」ものだ、が、花といい水といいその「ふるへる」不思議の命は、「眼」でのみは捉え切れない。しかしその不思議に感動しその不思議に参加して行くのでなければ、花や水の、美も真もおよそよそのもので終わるしかなく、その限りではどんなに精巧に外形は写しえたにしても、それは死んだ花や水の外面でしかありえない。
眼に見えるから自然なのではない。むしろ眼に見えぬものと表裏合わせて自然に成るのだ。どの片方で終わっても、それこそ不自然。眼に見えぬもの「も」、という含みを正しく聞かねば間違ってくる。「花や水がいつせいにふるへる」或る特定の「時間」を、この歌はさして言っているのだろうか。むしろ目の前に人を置いての「いま」を指して、ほら…あんなに、と示しているのだと思う。
もののうわべしか見ようとしない人が多い。不思議の命にこそ感動して欲しい、そういう真実を、美しいとも、すばらしいとも、愛して欲しい。そう、この歌は歌っているのではないか。昭和二八年『うたのゆくへ』から採った。 朝の一服より
2008 7・24 82

☆  春昼の校庭に立つ足裏にさくらさくらと散るものの声   東 淳子

桜の花びらが一面に散り敷いた校庭に立っている、と想っていいだろう。「足裏に」は一つにはそういう状況を説明する役目がある。が、同時に地の底を経て他界に至る道、いわば境としての「足裏」でもあるのを見落としてはならぬ。「さくらさくらと」にも、或る重ねられた「うた」の効果がある。「弥生の空は見渡すかぎり」と今しも生徒たちは歌っているのかも知れぬ。姿なく声もない声が作者の耳には今しも聞こえているのかも知れぬ。例えばあの戦争の日々、「さくらさくら」を相言葉のようにいくさの庭に散って行ったもののことも、作者は忘れてなどいないはずだ。「散るもの」とは花なる「さくらさくら」だけでなかった。生きとし生けるものが散って行く。散って「もの」となる。「ものものしい」「ものがなしい」「ものがたり」「もののけ」の「もの」になる。作者の思いには今しも春、入学を果たして来たばかりの無邪気な生徒たちでさえも、「散るもの」に数えられていよう。その運命がいとおしまれ、また何ものかへのそれは憤りとも見合っていよう。ざっと読んではみたが、尽くせたとは思わない。洞察の力を美しく詩化しえた秀れた現代短歌。昭和五三年『生への挽歌』所収。 朝の一服より
2008 7・25 82

 

☆  先生と二人歩みし野の道に咲きゐしもこの犬ふぐりの花
先生は含み笑ひをふとされて犬のふぐりと教へたまひき   畔上 知時

師の谷鼎の没後歌集『水天』を編んだ弟子たちの一人。昭和五八年『われ山にむかひて』所収の微笑ましい、かつ巧みな歌。どこといって無理なく自然に今は亡い師をしのんで、心優しい。大声にものを言っていないのも佳い。「犬ふぐり」の「名」だけを師は弟子に教えたのではあるまい。歩一歩の野の歩みのなかにも、目配りがあり、心入れがあり、感動も発見もあることを弟子は師のなにげない言葉づかいや、笑顔や、身振りからも習ったのだ。だから懐かしく慕われる。  朝の一服より
2008 7・26 82

☆  モザイクのやうにアパートの灯はともり
ふとなまなまし家庭といふもの   和泉 鮎子

社宅ずまいの頃に似た感じをもった。が、社宅である事がかえって感じかたを狭くしていたとも思う。もっと直接にかつ詩的にも「ふとなまなまし」と思ったのは、ソ連へ旅してモスクワのホテルの窓から、大通り越しに見た高層アパート群の「家庭」の「灯」だった。カーテンのかかった窓がびっくりするほど数すくなかったので、どこかしことなくマル見えだった。この歌、そう深刻に取らなくていいと思う。「ふとなまなまし」で押さえて受け取った方が、淡い詩情に添えてかえって読後に衝撃がある。「家庭といふもの」への認識など、常は忘れて生きていたのが、「ふと」蘇る。
昭和五九年『花を掬ふ』所収。 朝の一服より
2008 7・28 82

☆  筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと   与謝野 晶子

「入る」は気になる。ここはものを「入れる」意味で「入る」意味ではないのだから。読み損じはしないけれど、敢えて文法を侵してでも、より正しく「人るる」と律の内的必然にしたがうべきである。字余りになっても確実にその方が一首の訴及力は強いし美しい。この作者の歌には往々こういう点でのなげやりが見える。そうはいえこの歌は佳い。そんな品物を「お父さん」は愛していたんじゃない、この「わたし」を一等一緒にあの世へ連れて行きたいはずなの…よ。だがそれを心の内の叫びとして、「名のりがたかり」と押さえているのは作者の「母」としての愛でもある。それ故に先立った「夫」への愛と悲しみとはいっそう深くせつないものになっている。みごとというしかない。同じ昭和十七年『白桜集』所収の悲しみの歌に、
山々を若葉包めり世にあらば君が初夏われの初夏
いつとても帰り来給ふ用意ある心を抱き老いて死ぬらん
なども印象にあるが、やや甘いか。 朝の一服より
2008 7・29 82

☆ 父をわがつまづきとしていくそたびのろひしならむ今ぞうしなふ   岡井 隆

「逆らひてこそ父であること」と歌った歌人の、「父」をうしなったまさに悲痛の一点鐘。父ほど、ある意味で邪魔な存在はない。くそッと思わせることで、父ほど「幾十度」憎らしかったものはない。その「父」を死なしめるのが、実は自分自身ではないのかと、「子」は「今ぞ」思い当たる。その時には、だが、確実に「父」はいなくて、自分がその「のろひ」の的の「父」親にすら成ってしまっている。昭和五七年『禁忌と好色』所収。  朝の一服より

☆ 思ふさま生きしと思ふ父の遺書に長き苦しみといふ語ありにき   清水 房雄

拙い歌だが、だが、父と子の身にしみて合点の利く係わりはよく捉えられている。子の目に、往々 「父」という存在は思うまま好き勝手にしか生きていない生きものとして、映じるものではある。「長き苦しみ」の文字を、まだ必ずしも全面的に受け入れているわけではない作者だろうが、それでも、そうだったのか、やっぱり……と子の胸にふと突き当たってくる実感がある。子もまた、それだけの人生を歩んできたということか。そんな自分を、今はすこし離れた場所からわが子が、お父さんは何でも好き勝手にして…と眺めていないでもないのだ。死んだ父が、そういう時、涙ぐましいまで懐かしい。「アララギ」昭和三一年八月号から採った。 朝の一服より
2008 7・30 82

☆  庭のそとを白き犬ゆけり。
ふりむきて、
犬を飼はむと妻にはかれる。   石川 啄木

遺歌集『悲しき玩具』(明治四五年刊)の最末尾の歌であるのが胸に残る。何ともない只事歌にみえて、これは不思議に劇的に思われる。「庭のそとを白き犬」がとことこと歩いて通り過ぎた…のは、あきれる位平凡な光景としか思われないのに、作者がそれを眺めていた姿勢や視線や気分に自分のそれを乗せて行くと、「白き犬」の「ゆけ」る事実が途方もない運命の影のように想像されてくる。だが家のなかにいる「妻」にはその重大さが分からない。目にも入っていない。作者はだからはっきり「ふりむいて」そして、「犬を飼」おうよと提案するのだ。現実には犬を飼うはおろか人間の食うにも窮していた作者夫婦の、それは「死」という「運命」を感じながらの、最期の象徴的な対話であったろう。「白き犬」は、幸運や力や、また死など、一切の不思議を託されたシンボルとして作者の視野を通り過ぎて行ったのだと、私は読みたい。またその理解のまま、敢えて、「庭のそとを白き犬ゆけりふりむきて」という片歌の形でも読みたい。つまり「犬」が「ふりむき」「ふりむき」通って行く。作者は見送ってしまう。「妻にはか」った時にはもう「犬」はいなかった…と。啄木短歌のかなしみが、この歌ではひとしお象徴的に出ている。 朝の一服より
2008 7・31 82

 

述懐 八月

思ひきや身を浮雲となしはてて嵐の風にまかすべしとは      崇徳院

浮き沈み来む世はさてもいかにぞと心に問ひて答へかねつる  藤原良経

ひかりふる梢のみどり濃くゆれてつかのまわれは生きをうしなふ  湖
2008 8・1 83

☆ 幼き息子よ
その清らかな眼つきの水平線に
私はいつも真白な帆のやうに現はれよう
おまへのための南風のやうな若い母を
どんなに私が愛すればとて
その小さい視神経を明るくして
六月の山脈を見るやうに
はればれとこの私を感じておくれ
私はおまへの生の燈台である母とならんで
おまへのまつ毛にもつとも楽しい灯をつけてあげられるやうに
私の心霊を海へ放つて清めて来ようから。          佐藤 惣之助

すぐれた詩人だった。ことにこの『季節の馬車』は佳い詩集であり、もっと広く愛されていい。この詩には、たとえ死の後にさえも久しく愛児を見守ろうという親の愛と覚悟とともに、子の母への純潔な愛も籠められている。言葉の選択や響きも美しく、愛誦に堪える。  朝の一服より
2008 8・1 83

☆  初めてのわが口紅に気づきしか口あけしまま見入る弟   中島 輝子

この歌も、言葉に表れているかぎりでは説明も解釈もない、簡明な作だ。ただの写生的な歌だ。だが「姉」が「初めて」「口紅」をひくという事は、そんな姉を呆然と見る「弟」とは、それが即ちもう人生の劇である。かりにこの弟がもういくつか年若ければ「口あけしまま見入」ったどころか、姉の「口紅」になど気もつかずじまいだったろう。もう少し年が行っていても、こうは驚くまい、ひやかす位が関の山だったろう。この歌で「姉」と「弟」とは、微妙に出会いしかも離れ始めたのである。「口紅」をひいた「姉」は、もはや「弟」だけの姉ではなくなっている。そう弟も姉も気づき始めた歌。この歌が只事歌と見えながら心を惹くのは、その微妙なドラマのためだ。作者の意識より「歌」の方が先へ行って大きくなっているのかも知れぬ。「ぬはり」昭和二六年八月号から採った。 朝の一服より
2008 8・2 83

☆  落葉焚く焔囲みて妻と佇つ此の家に老いて残りし二人   和田 政夫

夫婦が健康に歳月を送れば、余儀なくいつか「老」が忍び寄る。「残りし二人」は寂しいが、「二人」在るのは、せめてもの幸と言わねばならぬ。私なども久しく親たちにそういう思いをさせている。しかもその私たち夫婦にして、この歌の夫婦のように「残りし二人」となる日がもう来ている。人生次第送りの意味が身につまされ分かって来るにつれ、こういう歌に目がとまる。「地上」昭和五〇年六月号から採った。 朝の一服より
2008 8・2 83

☆ ふくよかなパンの包みを押しあてて妻はその胸もちて戻れる   石本 隆一

私はこの歌を見た瞬間に聖なる母の映像を持った、目の底に。小市民生活を場にした素朴で健康な「夫婦」の姿とその感想とは矛盾しないものだったし、エロスをアガペに置き換えて行く手順が言葉の魔術で果たされている気さえした。「ふくよかなパン」とおそらくは若い妻の「胸」とに映像の重ねを読むのは容易い。が、それを聖い印象に満たした表現が、「押しあてて」という実に何でもない物言いに尽くされていたと気づくことは、大きな鑑賞上のポイントだろうと思う。さりげない言葉の駆使により新鮮な表現効果を挙げたこういう歌を、私は好む。自然に「愛」が流露している。昭和四五年『星気流』所収。 朝の一服より

☆ 洗濯物とりこみてゐる妻の胸みるみる白きものに溢れつ   橋本 喜典

この歌も「妻の胸」に愛を覚えている。「洗濯物」の「白」で聖化を遂げている。そしてこの歌でも、「みるみる」という一見安易な表現に一首の効果を、挙げて預けている。私にはそう読める。初句、三句と体言による渋滞がいささか気になるが、存外それある故に下句の速度感が、清々しいものになったとも言える。昭和五二年『黎樹』所収。  朝の一服より
2008 8・3 83

 

☆ 落葉焚く焔囲みて妻と佇つ此の家に老いて残りし二人   和田 政夫

夫婦が健康に歳月を送れば、余儀なくいつか「老」が忍び寄る。「残りし二人」は寂しいが、「二人」在るのは、せめてもの幸と言わねばならぬ。私なども久しく親たちにそういう思いをさせている。しかもその私たち夫婦にして、この歌の夫婦のように「残りし二人」となる日がもう来ている。人生次第送りの意味が身につまされ分かって来るにつれ、こういう歌に目がとまる。「地上」昭和五〇年六月号から採った。 朝の一服より
2008 8・4 83

☆  雪女郎おそろし父の恋恐ろし   中村 草田男

草田男という大俳人をはなれて、句のおそろしさに打たれたい。「父の恋」のかげには泣き憤る母がいる。だから恐ろしい。父の恐れと母の恐れとを底知れぬ影のように子はくらぐらと打ち重ねて胸に抱く。黙然とかき抱く。美しい、しかしぶきみな雪女郎。因果なことに子はそんな父の恋人にかすかに自分も恋していることさえあるのだ。見たこともない、母。見たこともない、恐ろしい父。のめりこんだ父。真剣な父。ヤケクソの父。そういう「父」にいつか自分もなりそうな恐ろしさ……。肯定とは言わぬが、けっして否定否認の句ではない。いわば、悲しいまでに藝術が美しい。昭和十四年『火の島』所収。  朝の一服より

☆ 十六夜の長湯の母を覗きけり   津崎 宗親

作者の実情をはなれて自在にいろいろに読める。「いざよひの」以下の調べも面白い。岸田稚魚門下の昭和五五年合同句集『大綿』から採った。老母の長湯を心配して覗きに行つたのかもしれない。「いざよふ」に「長」いへの語感の繋ぎも見えなくはない。が、この句にはまぎれない「母」へのかそけきエロスの感触がある。「十六夜」のなお豊かな月かげにまだまだ若い母の裸形が湯気をふくんで光っている。「長湯」には、ある満たされた安らぎや心足りた自愛の含みも取れる。母は湯のなかで女にかえっているのだろう。どうしたかなと案じて覗いたには相違なくても、一瞬、母なる「女」に目をふれた息子もまた、その時、男になり父にすら化っていたのだろう。浴室の明りよりもほのあかるい月明を身にまとうて、実は母はこちらへ背を向けていたのでなく、目ざとくもわが子と視線をまじえさえしたかも知れない。神話的瞬間である。原初の愛が空に舞ったろう。「十六夜」に民俗の背景を探るのも面白く、「覗きけり」の露骨さが句を大柄にしている。  朝の一服より
2008 8・5 83

☆  まだあげ初めし前髪の
林檎のもとに見えしとき
前にさしたる花櫛の
花ある君と思ひけり

やさしく白き手をのべて
林檎をわれにあたへしは
薄紅(うすくれなゐ)の秋の実に
人こひ初(そ)めしはじめなり

わがこころなきためいきの
その髪の毛にかかるとき
たのしき恋の盃を
君が情に酌みしかな

林檎畠の樹の下に
おのづからなる細道は
誰が踏みそめしかたみぞと
問ひたまふこそこひしけれ     島崎 藤村

「あげ初めし前髪」「こひ初めしはじめ」「踏みそめしかたみ」と、いかにもものの初めの初々しさに、詩一篇が処女の胸さながらに美しくふるえている。この詩人を小説「家」や「新生」や「夜明け前」の作者とばかり思い込んではならない。

吾胸の底のここには
言ひがたき秘密(ひめごと)住めり
身をあげて活ける牲(にへ)とは
君ならで誰かしらまし

とも歌ったこの詩人の呻きは、近代日本人の覚め行く魂の自覚にほかならなかった。その自覚が、かくも抒情味に富んで優美に表現されながらあしき感傷をまぬがれ、しかももう「和歌時代」の和歌的な発想でもリズムでもなかった事にこそ驚いていい。
恋を歌った近代詩は、藤村以後の方が、佐藤春夫にせよ北原白秋にせよ室生犀星にせよ、むしろ過剰な感傷と修辞に酔い気味であったのかも知れぬ。国民的に愛誦されてきた恋の名詩をその後ほとんど持たない詩史…に、日本と日本語との不幸があるといえば、詩人たちは何と応えるのだろう。  朝の一服より
2008 8・6 83

☆ こちらむけ
娘達
野良道はいいなあ
花かんざしもいいなあ
麦の穂がでそろつた
ひよいと
ふりむかれたら
まぶしいだらう
大かい蕗つ葉をかぶつて
なんともいへずいいなあ     山村 暮鳥

ナイーヴといえば言えるし、素朴な味わいが「いいなあ」と思うが、こんなでいいのかなあと思わぬでもない。
次の昭和元年に出た伊藤整『雪明りの路』は、青春の気に富んで、しかも、しつとりと深い色彩をたたえた、佳い詩集だった。「青葉の朝に」をここに挙げる。 朝の一服より

☆ 青葉となつて雨の降る朝
おまへは硝子戸のかげで
そつと黒いまつ毛の涙を拭いてゐる。

それほどの思ひがあつたのなら
何時かのあの月のよい
さう僕が十九の秋の一夜
不思議な情緒にとりつかれて海辺の丘をさまよつた夜更けに
なぜ素足で出てきて
身体も白く透き通つたまま
僕といつしよに海で死んでしまつて呉れなかつたの。     伊藤 整

日本の近代詩は、外在律から自由になったその時から、むしろ詩の表現としては窮屈になり、妙にしどけなくもなり、短歌や俳句の厳しい表現を容易には超ええなくなった趣がある。その一方で、流行歌の作詞表現がけっこう若者らに浸透して、詩的満足がもっぱらそこで購われている。「詩」の市民性が稀薄になっていないか。それでもいいのか。  朝の一服より
2008 8・7 83

☆  割烹着の裾よりスカート少し見えいよいよ君をいとしと思ふ   吉村 睦人

発見の歌であり、しかも誰もが分かる納得できる意味では共感の歌であり、思いの底にあったものが、いみじくも代弁された喜びをもつ。「割烹着」だけでは、気がつかない。ふだん見ている「スカート」だけの姿でも気づかない。いつもは見なれない働き者の「裾」からいつも見なれて心をひかれてきた「スカート」がちらと見えた。好きな少女の思いがけない好もしい一面が瞬時に結晶した。好きになって行く時は何を見てもこうなのではあるがと、スタンダールの『恋愛論』は教えている。昭和五八年『吹雪く尾根』所収。青春の恋をうたって心晴れやかな歌集である。
次には発想と表現の質において、やや年かさな印象の作品も挙げておく。  朝の一服より
2008 8・8 83

☆ ひたぶるに人を恋ほしみ日の夕べ萩ひとむらに火を放ちゆく   岡野 弘彦

何ともいえない気分になる。やすらかなような、胸をかきむしられるような気になる。涙ぐましくて、激しくて、歌は美しい。五つの「ヒ」を陪昔に、「萩」「放ち」の二つの「ハ」音が輪郭正しく浮かびあがる「うた」の効果。しかも「詩化」を遂げた一語一語。
詩も歌も「うた」にほかならず、音楽の美を見捨てて言葉の藝術が成るはずがない。ただに音の美を言うのではない。言葉の一つ一つが十分な「詩化」を遂げているかどうか、そういう基本の語感が歌でも詩でも俳句でも大切なのは言うまでもない。のに、それがなかなか実作者らにも分かっていない。
以下の読み、実情と或はかけ離れているかも知れぬが、出会いの昔の感銘にしたがいたい。
「萩」は一夜豊産の「風土記」伝説このかた不思議になまめかしいものを身に負うた花で、「火」もまたこれの根をより強く肥やすために「放つ」のであるが、この歌では「火を放つ」という行為により、「人を恋」うる魂鎮めも魂ふりもが願われていそうな気がする。「ひたぶる」といったつい言い過ぎになりがちな言葉が、これくらい適切に美しく用いられた例は少ない。現代の、恋の名歌と言い切っていい。昭和四二年『冬の家族』の巻頭歌。 朝の一服より
2008 8・9 83

☆  音信不通になってから七年になるが、実はその間に一度、
私は汽車にゆられ、船にのり、その人を訪ねて行った。
が、その人は学校の父兄会に出掛けて不在だった。私は
黙って気付かれぬようにしてまた帰ってきた。
神の打った終止符を、私はいつも、悲しみというよりむ
しろ讃歎の念をもって思い出す。不在というそのささや
かな運命の断層に、近代的神話の香気を放ったのは誰の
仕業であろうか。実際、私の不定貪婪な視線を受ける代
りに、その人は、窓越しに青葉の茂りの見える放課後の
静かな教室で、躾けと教育についてこの世で女の持つ最
も清純な会話を持っていたのだ。              井上 靖

昭和五四年刊の『井上靖全詩集』から、「不在」と題された散文詩を採った。このような愛と別れとが、また、ある。男と女とには、ある。この「不在」を「神」の叡智として受け容れている「私」は、「その人」に対し愛うすき者であったろうか。逆である。これほどの愛を知らぬまに受けていた人の幸せを、私は思う。愛は、肉の領分にだけあるのではない。  朝の一服より
2008 8・10 83

☆  少女のわれが合せかねたる貝合 会はざればいよようつくしかりき   斎藤 史

「短歌」昭和五九年七月号の誌上で出逢ったこの歌には、感動した。「貝合」は一対の、もともとは一つの貝殻と貝殻とを多くの中から捜して合わせる、優美な古代からの姉様遊び(ゲーム)であるが、いわば男と女との運命の出会いを祈る思いを併せ寓意していること、勿論だろう。「合せかねたる」には、ハキとは言わないその辺の根の深い嘆きの声が聞こえる。だが、この近・現代を通じて稀にみる優れた詩人は、優れていればこその資質として、この嘆きをあしき感傷には流してしまわない。下句の毅さには、目をみはっていい。「会はざればいよよ」とは、運命を乗り超える気迫なくては出て来ない詩句である。同時に、虚実の魔法である「詩」の本来の境涯をも暗示しえている。愛と美の意味を兼ねた「うつくしかりき」という過去への物言いに籠めて、事実ならぬ、「会はざ」りし真実在を一層大きく、美しくも愛しくも把握できているそういう「現在」の生きが肯定されている。あつかましい肯定ではない。しみじみと寂しい静かな肯定である。そういう寂しさや静かさによく耐えられる毅さが、この、よく永く生きていまも健在な詩人の、人間としても女としても、優れた美質であろう。
人生、「会ふ」ばかりが男と女との愛とは限らない。そうも思いつつ、世の恋人や夫婦たちは「会ひ」えた喜びを、さらにさらによく培うべきなのである。    朝の一服より
2008 8・11 83

☆ 一日もはやく私は結婚したいのです
結婚さへすれば
私は人一倍生きてゐたくなるでせう
かやうに私は面白い男であると私もおもふのです
面白い男と面白く暮したくなつて
私ををつとにしたくなつて
せんちめんたるになつてゐる女はそこらにゐませんか
さつさと来て呉れませんか女よ
見えもしない風を見てゐるかのやうに
どの女があなたであるかは知らないが
あなたを
私は待ち佗びてゐるのです 山之口 獏

「若しも女を掴んだら」というケッサクな詩もこの詩人にはあり、表現の軽みの底にたゆたう時代の重い嘆きは昏いのだが、獏の詩は持ち前の「正直で愛するに足る青年」(春夫)の詩情で読ませる。独特の「考えかたのおもしろさ」(金子光晴)に、詩がある。 朝の一服より
2008 8・12 83

☆ 春の夜のともしび消してねむるときひとりの名をば母に告げたり   土岐 善暦

「男女の愛」があり、そして成る成らぬの別はいくらかあれ、「夫婦の愛」がいつか期待され実現して行く。「ひとりの名」とは何という初々しい佳い表現だろう。「春の夜」であり「ともしび」があって、「母」もまぢかに一日の果てを寝入ろうとしている、そういう時に、決意と愛とを秘めて静かに結婚の意思とともに、「ひとりの名」は「告げ」られる。仰々しくはなく、しかも場面は適切に描き尽くされ、リアリティは確保されている。昭和二六年『遠隣集』所収。 朝の一服より
2008 8・13 83

☆  真白なる大根の根の肥ゆる頃
うまれて
やがて死にし児のあり   石川 啄木

「ましろ」でなく「まっしろなる」と読みたい。ぜひ同じ作者の次の二首とともに読みたい。

おそ秋の空気を
三尺四方ばかり
吸ひてわが児の死にゆきしかな

底知れぬ謎にむかひてあるごとし
死児のひたひに
またも手をやる

ものみなの実りの秋である。第一首一行めのイメージは豊かに象徴的だし「秋の空気」は明るく澄んでいる。その生きの命の健やかさに背くようにして、いとけない「わが子」がひとり死んで行く。人と生まれ親となって最も悲痛な一瞬が歌われる。生も死も無力な親の目のまえで「底知れぬ謎」と化している。ただもう、死んでしまった子の額にうつけたように繰返し「手」を当てている。はかない「手当て」である。
この作者には「手」をうたった歌がひときわ多い。無神論者啄木でも何か不思議な力が信じたい、こういう切羽つまった時こそは殊にそうだったろう。啄木はそういう時「ぢつと手を見る」人だった。「死児のひたひにまたも手をやる」手当てびとだった。くやしい、せつない愛の「手」だった。「手」を信じ「手」に失望した詩人。明治四三年『一握の砂』所収。 朝の一服より

☆ 若ければ道行き知らじ賂(まひ)はせむしたへの使ひ負ひて通らせ   読人しらず

「古日」という名のいとけない男の子をなくした親の、長歌につづく反歌の一首で、二度と帰らぬ他界へ去って行く子を恋い思いわずらい、袖の下は使うから、どうか旅路の道案内の者らよ、幼い子を負うて行ってやってくれと歌う。『萬葉集』巻五所収  朝の一服より
2008 8・15 83

 

☆ 襟カバー替えて布団を敷き終る佗しいのも君が来る迄の二月 加藤 光一

「君が(嫁いで)来る迄」と読んで自然だろう。「二月」を「にがつ」と読むか「ふたつき」と読むか。私は「布団を敷き終」った今、現在……の表現として「にがつ」と読む方が春待つ季節感もあらわされ、音調、声韻ともに優れると思う。あと「ふたつき」の意味はその言外に汲んでいい。歌の懐はそう深くないが、人生の春をことぶれして心地よい。「未来」昭和三一年三月号から採った。  朝の一服より

☆ 木に花咲き君わが妻とならむ日の四月なかなか遠くもあるかな   前田 夕暮

これは極め付けの秀歌として知られる。前の加藤の歌にくらべ、一段と歌としての整理が利いている。だから一見して一首が澄んで明るい。音も文字も整っている。表記という事も詩人はもっともっと考慮に入れるべきだろう、と、この夕暮の歌を見るつど思う。お手本のようにきりっと佳い姿だ。それにしても男の純真な抒情、ここに極まれりの観がある。「木に花咲き」とは、「君わが妻と」なる「四月」の桜であるとともに、待ちわびる今、の梅も、重ね言われていようかと私は読んでいる。「木の花」は古くは梅、のちに桜と思われて来た花の謂(いい)だろうから。明治四三年『収穫』所収。  朝の一服より

☆ 暗がりに汝が呼ぶみれば唯一人ミシンを負ひて嫁ぎ来にけり   遠藤 貞巳

おぅと声が出た。そして破顔一笑。快い笑みに祝福の思いが湧く。「呼ぶ」のがいい、声が聞こえるようだ。いじけた声ではない、貧しくとも心豊かに健康に、若い生活を倶に支え合って行こうという、気迫に溢れた「汝」の声だ。女の、「ミシン」ひとつの愛と活気と決意とを受けて、迎える青年にも思わず一歩を力強く踏み出す気概が湧いたであろう。「暗がり」を、人目を恥じてとは読むまい。決意して即刻に今夜から、と私は読む。そこに、「夫婦」の出発点がある。宵から朝へ。原始の暦はそのように数えられていた。「国民文学」昭和二六年四月号から採った。  朝の一服より
2008 8・16 83

☆ いまよりは妻といふべし手を執れば眉引ふせてすがるかなしさ   長谷川 通彦

「眉」を「引き伏せて」ではない。「まよ(ゆ)びき」で一つの意味があり、眉墨で引いたその眉とここでは取った方がいい。たんに眉を美しく表現したと取ってもいい。それで「ふせて」が音としても意味としても姿としてもさらに美しく情深く感じ取れる。初夜の床の情景、「すがるかなしさ」が利いて来る。むろん「愛しさ」の意味である。「日本」の夫婦だなぁという気もする。それも、やや古い昔の「日本」だろうか。そうでもないのだろうか。床ならぬベッドでは、こういう感じにはなるまいなぁ…などと思い入れが濃やかになる。「アララギ」昭和十五年七月号から採った。 朝の一服より

☆ 夕汽笛一すじ寒しいざ妹(いも)へ   中村 草田男

広漠とした宇宙大の想念から、糸をひくように「夕汽笛」に誘われて「一すじ」に、つまりは一途に「いざ妹へ」と、思わず肌を寄せて行く、愛。「寒し」を、ただに気温の低さと取り、だから温かな妻の側へとのみ取っては浅くなる。それでは「寒し」が負価だけを負う。どう読んでもこの「寒し」には一句を生かしている霊的な「詩」の効果が感じ取れるはず。それは、おそらくは想念にも愛にも湛えられている凛々と清冽なものを言い当てているのだ。負の語が醇乎として詩化され、「夕汽笛」が、大空から「妹」の懐袍へ、名人が射た矢のように射抜いて行くのだ、詩の魔術だ。昭和十四年『火の島』所収。 朝の一服より
2008 8・17 83

☆  細雪妻に言葉を待たれをり   石田 波郷

むろん「ささめゆき」と読む。どんな雪かは、人それぞれの想像で読み込めばいい。優しい濃やかな夫婦の沈黙を、その魅力を、かく雄弁に言いおおせた句は賛嘆に値する。夫婦の心寄る波がしらが今しも崩れ合おうとする瞬時の、愛。同じ作者の次の句とともに、昭和二三年『雨覆』所収。 朝の一服より

☆ 牡丹雪その夜の妻のにほふかな   石田 波郷

こういう魔力に溢れた秀句をつづけざま読んでいると、ほとほと俳句に惹かれる。十七音の俳句の方が、三十一昔の短歌以上になお春秋に富んでいる気がしてしまう。近代短歌の第一・二世代の歌人の作品にさえ、裾の方が、つまりは下七七が寒い弱い、無くもがなのような歌が、拾い出せばずいぶん有る。「現代短歌」よ、第三藝術とまでわらわれるなかれと言いたい。 さてもこの句の、夫婦ふしどのまどかに優しいことよ。安らかに「夫婦の愛」を極めた溢美の一句と言える。   朝の一服より
2008 8・18 83

☆  枕辺の春の灯は妻が消しぬ   日野 草城

「灯(ともし)」と読みたい。これまた口舌(くぜつ)を無に帰するすばらしい一句。どの一語一語も抒情万倍、描写万倍の効果を挙げている。私が強調したい、語の「詩化」とはこのことで、「枕辺」も「春」も「灯」も「妻が」も「消す」も、みな何でもないいわばその辺りの尋常そのものの言葉に過ぎない、のに、この句のなかでは挙げて夫婦祝祭の甘美へ向けて、さながらに花咲いて見える。ことに「灯は妻が」の、「は」と「が」との助詞の効果はまことに的確、「消しぬ」の言い決めを万全に支持しえている。「妻が」の含みの面白さ、脱帽。昭和十年『昨日の花』所収。  朝の一服より

☆ はばからず仰伏す妻に面を寄す恋愛は何か何か稚し   千代 国一

選り抜きの俳句を三、四読んで来て短歌に転じると、いわゆる短歌的抒情といわれるものの長短が際立って目に見えてくる。よくも悪しくも下句七七にそれが出る。この歌も、恐れげなく言い切れば、「はばからず仰伏す妻に面を寄す」だけで佳い一句に成っている。むろん季題のこともあり直ちに俳句とはいわなくても、片歌(かたうた)としてこれで一首と押さえて差支えなげに見受ける。「恋愛は何か何か稚(をさな)し」と読むのはどこか気恥ずかしい。
だが、この下句があっての一首と無くての片歌とでは、微妙なところで歌われている内容が別に読める。そういう岐れが生ずる。そこに作者の意図が現れ出て、やはりここがものを言う。気恥ずかしいと感じさせたまさにそこの所へ作者は一首の世界を形作っていて、下句は必然なのだ。同時に、俳句ならばこの必然を拒絶ないし止揚してしまうのかも知れぬとは思う。あるいは、「恋愛は何か何か稚し抱きしめる」というぐあいに、最初からナマにぶつけて行く道を取るのかもしれない。そうすることで作の「私性」をむしろぬぐい取る。
さてこの歌の歌い起こしの魅力源は、「はばからず」の率直さだろう。率直でいて、しかも含みがある。「はばからず仰伏す」と読んで妻の姿態を想い、「はばからず面を寄す」と読んで夫の動作を想わせる。但し作者の技巧がそこにあったとはわたしは見ていない。作者から作品が離れて立った時に生じた含蓄だろう。昭和二七年『鳥の棲む影』所収  朝の一服より
2008 8・19 83

* 万葉集を習った初めに、防人歌や東歌をことばとして覚えた。
いま万葉最終巻を読み進んでいるが、最終の二巻はいわば大伴家持家集にちかく、そのなかに、彼がその職掌との関連で多くの防人歌を収集し、拙劣なのは捨てて選別に力を大いに致していたことが分かってくる。有り難いこと。防人制度というのは想像を絶して家族の悲劇であった。胸に迫る歌がある。素朴な日本古語にも出逢う。
もうやがて万葉読みも大団円を迎える。
同じく太平記も残り少なくなってきた。一度は全巻を通して読んでおきたい、次は、今昔物語か。
旧約聖書は、まだまだ歳月がかかる、そして新約聖書もある。今読んでいる文語大冊の聖書は、実父の遺品。異母妹たちが呉れたもの。
2008 8・20 83

☆ 新樹揺る荒れも好もし妻龍めに   篠塚 しげる

「荒れも好もし」がやや息短く説明的なのは気になる。が、初句と結句とのイメージや文字面の照応は美しく、家の内外の対照からかえつて「荒れ」に含みが出てくる。まして「新樹」に清潔なつよい男の性が表現されていると読めば、なおさらに「好もし」までも閨房の愛を想わせて、みじかい息づかいが生きて来る。昭和三三年『曼陀羅』所収。  朝の一服より

☆ あさがほや少しの間にて美しき   椎本 才麿

朝顔の花が、ほんの少しの間に美しく咲きそめたという句であるのかも知れぬ。美しいのはすこしの間だけと嘆いているのかも知れない。それならここに採るのは見当外れになる。だが私は「花のような妻」が歌われていると読んだ。「すこしの間にて」も、そこにまだ暁けがた夫婦相愛の無垢の寸時があって、そして夫は、妻を「美しき」と愛でているのだと読んだ。作者は江戸時代中期の人。『続の原』所収。  朝の一服より

☆ 幾度か口ごもりゐしが一息に受胎を告げで窓に立ち行く   吉田 よしほ

文字どおり感激のあまりの反射的な振舞いに女らしさも見て取れる、といった歌なのだろう。緊張した男女の葛藤も読めなくない歌い口だが…、悪しき深読みに過ぎよう。うぶに心熱い喜びが爆発した、そして母となる日へのもうひそかな決意も秘めた、「窓に立ち行く」だろう。夫婦の道が一段の前進を遂げたには相違なく、誰しもが共有しやすい歌である。「国民文学」昭和二六年十月号から採った。  朝の一服より
2008 8・21 83

☆ 内職の終り待ちゐし夜の床に寒い寒いと妻が入りくる   吉川 禎祐

「寒い寒い」は事実寒いのだし、夫の待つ床の中は温かいのだし、なにを夫が「待つ」のかちやんと妻は承知なのだし、同じ思いで余儀ない内職」を頑張って終えて来たのだし、だが、そうは顔にも素振りにも出したくないから……「寒い寒い」と夫の胸のなかへ飛び込んで行く。ちょっと照れくさい夫もおかげで受け入れ易い。まっとうな、じっくりよく馴染んだ夫婦の共演が、そつなく描かれた。「多磨」昭和二四年三月号から採った。  朝の一服より

☆ 湯上りの匂ひさせつつ売り残りの饅頭を持ちて妻が寝に来る   荒武 直文

これも同想の一首。微笑ましい。しかも十分に短歌たりえている。どのような思想歌や観念歌よりも的確に、市民が身を賭して守らねばならぬ愛と自由とはここに歌い切られている。それが、説明抜きに伝わってくる。「アララギ」昭和二八年八月号から採った。 朝の一服より

☆ しまひ湯をながくたのしみゐし妻が湯槽に蓋を置く音がする   前田 米造

これも同想。夫はもう床にいて「しまひ湯をながくたのしみゐ」る妻のことを想っている。早く来いと待っている。だが妻の「たのしみ」をもまた夫はたのしんでいる。あぁ…もう湯からあがったな…。佳い所を正確に写し取っていて、下句が十分にものを言っている。暮しのなかでの、夫と妻との隙間ないコンビネーションが表現された。『昭和萬葉集』巻十五から採った。   朝の一服より
2008 8・22 83

* 「香」さんに、すこしカラミます、暑気払いに。ゆるされよ。  湖

沈みはつる入日のきはにあらはれぬ霞める山のなほ奥の峰  為兼

措辞のあちこち気になる歌です。
「沈みはつる」「入日」の、うつろう時間の把握が逆でもあり、ダブリでもあります。沈み果てた日はもう入日ではないのですし。「いりひ」「いるひ」しだいで、音も混雑しかねません。
「きはに」は、「とき」なのか「位置」なのか、詩語として寸足らずです。「きはにあらはれぬ」は、語の斡旋としても表現としても難がありますし、「あらはれぬ」を否定の「ぬ」と読む人はいないにしても、「露はれぬ」「霞める山」とのならびは意義の流れが齟齬し、ギクシャクしています。
「きはにあらはれぬ」が、名手にしては成功していない無理筋とおもわれます、わたくしには。

しづみゆく入日のきはに霞みたつ外山の奥のなほ奥の峰

などと尋常ではあるが、僭越ながら。
ただし、まぶしい入り日に真向かってこういう風に山の霞みが目にはいるかどうか、微妙な時の間をとらえているとはいえ、頭で作った歌のようにも思われます。
いずれにせよ歌人の云いたいのは下句の風情でしょうね。京都なら北山のやまなみにこういう風情はしばしば観られますが、夕日の落ちてゆく「きは」の西山に向いて、この景情に目をあてることは、少し無理なのではと体験的に感じます。まぶしくて。 御免あれ。
☆ 湖さん   2008年08月22日 11:48
かういふご意見が、うかゞへるのが、ミクシイの、たのしくも、ありがたくもあるところとおもひます。しかも間髪を入れぬタイミングで。
為兼の「しづみゆく……」のうた、わたしは、下の句に一目惚れしてしまひ、上の句は、すーつと通り過ぎてゐました。といふことに氣がついたのも、お説を拝見してからのこと、時にへんな深読みをしてうろうろすることがあるくせに粗い読みしかしてゐなかつた、と、思ひ知らされました。
つぶさに読んでゆけば、おつしやる通りだとおもひます。「まぶしい入り日に真向かってこういう風に山の霞みが目にはいるかどうか」にも、得心がゆきます。
わたしはつぶやきました。「為兼さん、あなたのこのうた、後世の「湖」と名告る読者には見やぶられましたね」。
湖さんのやうな眼を持てるやうになりたいとおもふ一方で,甘ちやんのわたしは、名手の技にうまく欺されたい、欺されて酔うてゐたいといふ氣持ちも捨てかねてゐます。   香
ごめんなさい。ゆふべ、書き終らぬうちに、変な不安感に襲はれて、おくすりを服んでむりやり寝てしまつたので、ご返事が今になつてしまひ、間のぬけたことになつてしまひました。

* 「香」さん 22日 21:47
戯れが少し過ぎたのかと申し訳なく思っています。ごめんあれ。
お大事に。 日々ロクなことはないので、一服の清涼剤を戴いたのに、とんだ茶々を混ぜてしまいました。 湖

☆ 湖さん  23日 02:14   香
しまつた、申しあげなければよかつた。こゝのところ、為兼さんのことであつちこつちしてゐまして、『太平記』を読んだり,「玉葉」や「風雅」をめくつたりして、少々、寝不足気味だつたものですから。
とてもうれしいコメントでした。
京極為兼といふひと、わからないところの多いおひと。とりついてみましたが、苦労しさうです。
2008 8・23 83

☆  うつくしい女房を呵(しか)るのが自慢にて   『武玉川』

慶紀逸の編著になる、『武玉川』の第十篇から採った。ああそうですか、そうですか…。 朝の一服より

☆ 俯けば言訳よりも美しき   『武玉川』

よく分かる。むろん男ではない、女…それも娘というより、結婚して間もない新妻の風情と眺めて、ひとしお佳い。誰の作だか、ともあれ川柳の批評性こまやかに、情に富んだ一句。 朝の一服より

☆ 稲は刈取る穂に穂が咲いて、どこに寝さしよぞ親二人   『山家鳥虫歌』

近世の民謡。親孝行の歌ではない。若い二人のはばかりない愛の営みに、ちと親二人が目障りなのである。おおらかな自然の愛が人の暮しにも実りあれと誘っている。   朝の一服より
2008 8・25 83

☆  幾たりの人に背きて得し妻か雪ふれば雪の日のことおもふ   久保田 登

人は生涯にどれほどの選択を重ねながら生きるものか。とりわけて結婚は大きな選択であり、それ故に、母の胎内を通過して来た以上に重い自覚で選び取らねば済まない。世に、やすやすと結婚して来れた人は数すくない。さながらの闘争としてようやく夫を得、妻を得て来た人の方が多い。夫婦はそのような意味では陣営を一にして相戦い助けあう戦士・戦友であり、厳しい思い出を多く頒ち持って生きている。この一首の感慨はさぞ多くの人の、夫婦の、胸に共鳴を誘うことだろう。昭和五〇年の合同歌集『序章』所収。 朝の一服より

☆ 妊るを昨夜は母に告げたれば縄なふ汝のしきりに唄ふ   中島 権之助

若い妻が初の子を妊娠しましたと、その妻みずからがと私は読みたいのだが、夫の母に告げた。それが「昨夜」のことだった。一夜あけて、あんなにもこれまでは家のなかで遠慮や気おじの過ぎた妻が、はればれと歌う唇をもち、元気に「縄」を綯っている。夫の家で夫の子をみごもり、やがては母になる。その自信が歌わせている。夫はそう聞き、姑たちもそう聞いているのだろう。デッサンの利いた、とにかくも面白い一首に成しえた。ぐっと押し込んだ「告げたれば」も「しきりに」も、微妙なところへよく届いた表現になっている。「アララギ」昭和三一年二月号から採った。  朝の一服より
2008 8・26 83

☆  吾妻かの三日月ほどの吾子胎すか   中村 草田男

「かの三日月」には愛を籠めた思い出が、熱い記憶の一夜が生きている。そうも読んでなお、胎児のみごもりの姿態へも「三日月」の繊さ細さを重ね想うがいいだろう。「吾子(アコ)」を待つ愛が目前の「吾妻(あづま)」へのいとしみを何倍にも促している。「吾」という所有形が、この句でほどみごとに生かされた例はすくない。昭和十四年『火の島』所収。 朝の一服より

☆ 森閑と冥(くら)き葉月をみごもりし妻には聞こえいるという蝉よ   永田和宏

八月をあえて「葉月」と置いたのが厚みを生み、四句までさながら、全体によく統一のとれた自律した「歌」の世界に成った。「蝉」は、生きとし生けるものの象徴であり、真夏の象徴であり、母なる妻の胎内にひそんで今しも生き続けるものの象徴であろう。現代の「気鋭」と呼ぶにふさわしいこの作者の知性が、しみじみ佳い感性化をも遂げている一首ではなかろうか。昭和五〇年『メビウスの地平』所収。  朝の一服より

☆ 妊れる妻さはやかに髪切りて項(うなじ)のあをし愛しかりけり   横山岩男

季節的にも長い髪がうっとおしかったのか。それとも妊娠期に独特な気の詰りを果断に突破したものか。あんなに長い美しい髪をいとおしんでいた妻の思い切りに、夫は、あるがままを幾分超えた感動を誘われているのである。それが「愛しかりけり」といった、やはり思い切った表現に繋がった。昭和五〇年『弓弦葉』所収。  朝の一服より
2008 8・27 83

☆ 三月の産屋障子を継貼りす   石田 波郷

夫が妻のために「継貼りす」る句と取りたい。春は近く、風はなお寒い。簡明に言いおおせて気の澄んだ秀句である。昭和二三年『雨覆』所収。

☆ 妻の肌乳張つてゐる冴返る   瀧井 孝作

昭和十一年三月の句。まだ寒気に冴え返った春という季節の恵みが、みごもっている妻の肌の照りに満ち溢れ、力ある愛を感じさせる。昭和五○年刊の『山桜』所収。

☆ 人間のひとついのちを生み出だし妻が面にあはれ紅斑   来嶋 靖生

いまひとつしっくり言い尽くさぬうらみは、ある。「あはれ」などの効果に実感と表現との微妙なずれがあったかも知れず、時が経つにつれ、そうなのかも知れぬ。だが、こう「うた」いだすしかない感動を作者は瞬時に一首に捉えた。その意気の探さ確かさが「うた」を成立たせる。この「紅斑」、人みなが感動をもって共有出来る一期の一会なのである。昭和五一年『月』所収。  朝の一服より
2008 8・28 83

☆ ジャンケンに勝負の意味を子に教へ仮借なき世を妻は生きをり   島田 修二

この「子」がかりに病弱な子だとしよう。そう読めばその子に、たとえ「ジャンケン」ほどの事にも「勝負の意味」を教えねばならぬ母は、母自身の「勝負の意味」にも挑んでいる、のだ。愛する「子」に「世」は「仮借なき世」であるだろう、それならば、まちがいなく母にとっても「仮借」があろうわけがない。そして同じ思いをひしと頒ち持つ目で「子」の父はそんな「妻」を見ている。肯定している。肯定し続けねばならないのだ。昭和三八年『花火の星』所収。 朝の一服より

☆ 妻の手は軽く握りて門を出づ常の日一日加はらむとす   畔上 知時

「軽く握り」と「常の日一日」という表現で、中年を過ぎた年配のサラリーマン朝戸出のさまが目に浮かぶ。地の塩のような働き手。よく己れが見えよく暮しが見えていて高ぶらない。しかもこの初々しい夫婦の身ぶりには、いたずらには老いさらばえない愛が匂っている。「常の日一日加はらむとす」は教えられる一句であった。なかなか「常」とは守り切れない日々のあえぎに、あくせくしている日ごろだ。昭和五八年『われ山にむかひて』所収。 朝の一服より
2008 8・29 83

* 昨日、二冊、本を戴いた。
一人は久しい読者の小山光一さん。新刊『身近な漢字を楽しむ』(文芸社)が贈られてきた。小山さんは『漢字な~るほど話』『漢字の歩む道』などの著者。漢字学者。
漢字は無際限に在る。一字ずつ選ぶ方がむずかしいほど。それが熟語化すると、意義は飛躍的に増えてくる。日本語と違い、漢字での言葉づかいは、増殖性が莫大。
「菊」が好きだが、目次を見ると「外来種で、訓がない」と。たしかに「菊」には訓がない。万葉集に菊の歌は一首もない。平安初期へかけて日本へ来て、薬用以上に花が愛され、古今集には十三首も菊の歌がある。百人一首にも白菊の歌がある。白菊は孝女の名前にもなったし、「白菊の目に立ててみる塵もなし」と芭蕉は吟じた。
なんといっても漢字とのお付き合いは私的にも久しい。わたしの『花と風』『手さぐり日本』『日本を読む 一文字日本史』『日本語にっぽん事情』などの著書は、漢字一字の含蓄を通しての日本文化論・日本社会論だった。
あなたも貴方の本が書けます。
もう一冊は、先だってメールをもらってハテわが娘かと思案に暮れたが、「空」さんの本だった。三十四歳の娘さんに死なれた母親の、まさしく「悲哀の仕事」として結晶した、『あなたにあえてよかった』。
これから読む。こういう本が日本中、世界中でどんなにたくさん出来ているだろう。そこまでは出来なくても、生きている人の胸の内は、死なれ・死なせた者の奥津城になっている。
2008 8・30 83

* 月々の「述懐」に一つずつ自作を加えている。
この手の作をわたしは手控えていないので、歌集『少年』以降、相当な数に成っているだろうが分からない。いつ、どこにどう書いていたか、捜索しようもない。
こういう述懐は、汗や尿のような排泄物と同じであるとは、谷崎潤一郎の名言であり、それに服している。俳句ふうになったり、短歌になったり、わたしの場合和歌にもなる。エロスの歌は和歌の方が表しやすいと知っている。すこし挑発的・刺激的なわたしのエロス和歌を秘め持った人たちが日本列島に散開しているかも。だいたい、口からこぼれでるように戯れ歌は出来る。いやいや戯れどころでないのも在るよ。
2008 9・1 84

* いつから読み始めたろう、一夜も間をあけることなく、『万葉集』全二十巻を、「いやしけ吉事(よごと)」まで悉く、詞書や人名・職位までも、みな読み終えた。
巻十九、二十により、万葉集が大伴家持の編纂物であったことを、つくづくと知らされる。そしてこの編纂作業が、すくなからず家持の人生苦、時代への怒りや失望とともに終熄してゆく寂しみに、きつくとらわれる。柿本人麻呂や父旅人や山上憶良のように、家持は時代にうけいれられ常に褒めそやされていた歌人ではなかった。歌道執心のわりに孤独な作者、孤独でなくても必ずしも花やかな時代の表へは出て行けない歌人であった。
巻二十最期を飾る有名な一首も、明らかに山陰に左遷された任地での作だ。そしてこの後の家持の後半生は、悲惨な最期へ転げ落ちて行き、つらい死後をさえ迎えねばならぬ。彼は大伴という武人の誉れを帯びた家の、それを大切に意識し続けた、繊細な心根の一歌人だった。情熱もあった。ロマンチストだった。女達には愛されたが、権力社会からはいつも距離をもって離れていた。
うらうらと照れる春日に雲雀あがりこころもかなしも独りしおもへば
わがやどのいささむら竹ふく風のおとのかそけきこの夕べかも
そんな歌があった。
そういう家持とともに読んだ、彼が熱心に職掌をいかして収集した「防人歌」は胸に残った。つよく残った。
家持の存在をまだ少しも意識しないでいた、万葉集大半の前半は、おおらかで力強く、治世を賛嘆する雑歌も、愛・恋の相聞も死の挽歌も、みな一首一首が独り立ちして記念碑的な相貌を帯びていた。物語歌も大切に集められていて有り難かった。
わたしの意識してきたかぎりで、それらはいわゆる「和歌」でなく、まさに「万葉古歌」であった。
家持が手をかけるより以前に、三巻ないし数巻は「原万葉集」がすでに形成されていたかどうか、そういう議論には踏み込まないが、偉大な遺産がこの二十巻に凝集している民族の幸福を、わたしは今、静かに感謝して反芻している。
2008 9・2 84

* 「悪いやつ」とも長い人生にたくさんぶつかって来た。ひとつ言えそうなことは、文学の名作で「悪いやつ」だけを書いたものは少ない。すぐ思い出せない。どうしても「悪いやつ」は懲らしめられている。典型として「悪いやつ」、と子供ごころに脳裏にやきつけたのは、やはり『モンテクリスト伯』のダングラール、フェルナン=モルセール、ヴイルフォール、そしてカドルッスの四人だった。似たり寄たりこういう「悪いやつ」と出会ってきたなあと思う。

* ダングラールは嫉妬深さと出世したさと、尽きるところは金銭欲で、陰険に策を弄して人を陥れたぶん、自分は上へ上へ上がってゆきたいという「悪いやつ」である。究極は金銭欲と物欲。実直で健康な青年エドモン・ダンテスを、卑劣極まる悪知恵で他人を手先に踊らせて地獄へ突き落とし、ダンテスの地位を奪い、善良な主人をだまし討ちにしてゆくような男である。
フェルナンはそんなダングラールの手先につかわれて、恋敵のダンテスを政治犯として訴え地獄の底へ突き落としておいて、女をうばい、小心なくせにきわどいところで後ろ暗い手ひどい悪事をなすことで、思いがけず栄達してゆく卑怯な悪人である。
ヴイルフォールは、栄達と保身の為なら鷺を烏に描きかえても、善良で無実の者を、じつは善良で無実と知りつつも徹底的な地獄に突き落とし、二度と日の目を見せぬ事で身の安全を図り、権勢に媚び諂って地位を高めてゆくような悪いやつである。
カドルッスは、いささかの分別をもちながら身の安全のためには目をつぶり、負い目を酒を浴びてわすれ、目前の欲に目がくらんで悪事の山を築いてゆく陋劣で破産的な悪人である。
デュマという作家は、エドモン・ダンテスの造形以上にこれら「悪いやつ」の典型を栄華や惨憺の巷に活かした作家として凄腕であった。

* わたしは、子供心にこれら悪人像をやきつけたが、これらの亜型・亜流にどれだけ多く出会ってきただろう。会社にも団体にも学校にも大学にも文壇にも、知識人社会にも、うよと蠢いていたのは、これら「悪いやつ」の末流・末裔であったし、だから人の世は混迷の内に滑稽な活況をみせてもいるのである。
彼らにはっきり言えるのは、金、地位、名誉、栄華、偽善、色欲。「抱き柱」に抱きついていない者は一人もいなかったということ。
もう一つ、エドモン・ダンテス=モンテクリスト伯は事実上此の世に存在しない、し得ないとしても、上の、ダングラール、フェルナン、ヴイルフォール、カドルッスなら、うじゃうじゃいるという否定しがたい娑婆の現実。
さらに今一つ。むろんわたしも含めて、人は、己が内なるダングラールやフェルナンや、ヴィルフォールやカドルッスの断片と日々に向き合いながら、堪えて暮らさねばならぬと言うこと。
そこを超えるためにも、人はむやみと「抱き柱」をかついでは、しがみついては、ならない。どう寒くて心細くても「自由」に独りで立たねばと思う。

☆ かりそめの台詞なりとはよも知らず膝を正して頷きし夜や

苦しいよ 口惜しいよ
だが、此の道は
偉い……と言われる人間が
一度は越えた道なんだ

まころびつ越えむか今宵恩讐の岡のかなたに白き道あり

恩讐の岡ふみ越えむ瞬間のわれを抱きて泣かむ人あれ

光明は彼の岸にありわれを焼きし業火はすでに消えにしあるを

けさ見れば小さき花弁にべに染めて薔薇の挿芽に初花ひらく

わが挿しし挿木ゆ青き双つ葉のうら若々し命ゆたかに

初花のうら優しさよ紅つけて小首かしげてたれ待つ汝れぞ

このあした愛し初花ほころびてわが膝のへに露でかたむく

* 上は、わたしの生母・阿部鏡(筆名)が遺して逝った歌文集『わが旅大和路のうたうた』のなかの、極くすこしの抜き書きである。わたしはいまこの本からの、こうして歌詠みであったらしき母の歌を、一つひとつちいさな「ほころび」は調えながら、写経するように書き写している。さだかに、今此処まですすめて引き出してみたわずかなこれらが、いつ頃の感懐であるやらもわたしは判然としない。「東文章」の櫻姫のように、兄北澤恒彦にいわせれば「階級を生き直したような」凄惨な母の生涯であったというが、「苦しいよ。くやしいよ」という呻きのなかからも薔薇の初花にそそいでいる視線は静かに優しいと、子として人としてわたしはよろこぶ。いうまでもないが、母のためにことわっておく。ここに「偉い……言われる人」は、ブッダやイエスを思っていたのである。
わたし自身で歩いて聴いたが、この母はある世間では「魔性」「魔物」といわれ、ある世間では「生き仏」「仏様」といわれていた。
2008 9・3 84

☆ 万佐さん、有難う!  郁
ご丁寧に有難うございます。何時までたっても以前のままの私ですね。 ですからきわたった絵がかけないのですね。逃げてばかりですね。
自分を守っているのですね。そうなんですね。 そして言い訳のような言葉を並べてばかり!! います。
逃げている自分がいるのもわかる気がします。打ち込みかたが足りない自分もいます。 大いに反省してまた出直します。この言葉もいままでにどれほど申しているでしょうか? もうあきれ果てておられることでしょう。
自画像は恥ずかしいかぎりです。 沢山描いたのでどれをお送りしたのか?
本当は沢山みていただきたいものが 絵がありますが、どうも思うに任せません。 来秋の個展の折には横浜までおいでくださいますか?
なかなかこれと思う作品がないようですが、人生きっと最後になると思いますので する予定にはしています。
なかなか思うようなことがお伝えできません。悪しからずお許しくださいませ。
10月末には(昔の勤め先=)**の方たち7名で京都 宇治 比叡山などなど 観光してきます。 もう12年つづいています。同じ年齢のかたたちです。懐かしいおもいです。琵琶湖など! ではごきげんよろしく。

* 「万佐さん」などと呼びかける人は、この人ぐらいか。
日吉ヶ丘高校では学内新聞に「菅原万佐」という筆名を使っていた。この名で後に三冊私家版をつくったが、「新潮」編集長に本名が宜しいと言われて捨てた。「菅原万佐」の名で三種類合わせても、もう三百冊ほどもあるまい私家版が世の中に出ている。わたしの本とはもはや気づかれてもいまい。もう一冊の「清経入水」だけが秦恒平の名で出た。四冊合わせて五十万円もしていた時期があったが、わたしの懐とは無縁だった、ハハハ。

* 高校後輩の「人生きっと最後」などという述懐が、もう笑えなくなっている。

若い人に次々にあとを追い越されゆっくりでいい我の花みち

先週末、朝早に病院へと最寄り駅へ歩いていたときも、いつも通り通勤の若い人たちに追い越されて行く。少し早足になってみようとしても敵わない、いやいや、ゆっくりでいいんだと思った。底紅の白い木槿やもう咲き残りか百日紅などの咲く道だ。「今・此処」をゆっくり歩めばいい。そう教えているのはわが内なる友の、「死」であり「生」であるとわたしは気づいている。
2008 9・8 84

* 万葉集二十巻を読んでいる間、はやく古今集を読みたいと思っていた。古今集の春の歌を毎夜読み継ぐにつれて、万葉集の、譬えがわるくて恐縮するが、かたい便を絞り出すようなつよい表現が、懐かしく思われたりする。
古今集和歌の表現は、その後、ご千年余の和歌表現の規範になったけれど、とにかくも言葉や調べの出方がまことに「ゆるい」「やわらかい」。魅力であるが、ひっかかりが弱い。それでいて、万葉が強烈な真情なら、古今は理づめに過ぎた抒情。意味もおもしろみもわたしはよく受け取れるけれども、万葉から、変われば変わるモノだなあと云う愕きは大きい。そしてわたしが好きな和歌というときは、この古今和歌からは幾世代か先へすすんだころの、拾遺・後拾遺ころの、物語和歌と並行した、理の淡まった優艶な抒情ににじみ出る王朝人の悩ましさだと分かってくる。
ところが古典文学全集は、万葉古今のアトは新古今へとんでしまう。
2008 9・12 84

* 三十一文字の言葉優しい譬喩にのせ、知解のバっチリ利くリクツをうたいあげるのが「秀歌の遊び」の最たる成績であった。本気でそうであった時期が、古今和歌集のいわば前半期を占めていた。そのくさみを、歌のうまさでなんとか脱却の道筋をつけたのがいわゆる六歌仙たち。彼らを批判も半分こめて称揚した紀貫之ら選者たちにして、なおその弊は免れていない。だが、すこしずつ後撰集の時期へ迫って行くにつれ脱臭できて行く。うまいリクツをうまい譬喩やなぞらえで打ち上げるのは単騎の勝負だが、後撰集時代は和歌が社交の具となり、相聞ないし唱和ないし応酬の快に供される。妙なただのリクツ遊びよりも、情味を解して相手の胸にうったえる歌にした方が、恋もえやすく、気持ちも伝えやすい。和歌の成熟はそこで成っていったのであり、わたしの理解では「和歌」は、やまとうたの意味でも女うたの意味であるよりも、はるかに「和する歌」として機能していった。歌物語の歌は、たとえ単独の述懐歌と見えていても、心根に「和してくれる存在」へのあこがれやしたしみやうらみやかなしみが籠もっている。十から十一世紀ほぼいっぱいの和歌とは、およそそんなものであって、わたしは愛読してきた。
だんだん、和する心から、ひとり歌う、うったえる歌に自立して行くようになり、千載・新古今のいわば獨詠・藝術和歌と鍛錬されていった。過去の優れた和歌は本歌として咀嚼され、獨詠歌のいい肥やしになった。
古代和歌への、わたしのおよその理解はそうである。
2008 9・14 84

* 愉快な仕事も、不愉快だが必要な仕事も、たくさん、した。
長塚節の『鍼の如く』全部をていねいに読んだ。伊藤左千夫の明治期の短歌抄も。前田夕暮、若山牧水という双璧の代表的な歌集も撰抄した。
長田幹彦の力量豊かな忘れられていた秀作『零落』や、白柳秀湖の記念碑的な問題作『駅夫日記』も。埋もれていた中から拾い上げて、読んで、思わず感嘆の声を漏らした作だ。田山花袋の『蒲団』と時期を同じくしながら、武蔵野の風情も豊かに、しかも日本の労働者初のストライキを生真面目な筆で書いて、プロレタリア文学に先駆した力作だった。
2008 9・15 84

* 今朝の「朝の一服」は吉野秀雄の挽歌で、とても「一服」どころではない。こころして選び、読み、感動した。感動を、「詩歌」において分かち持って下さると有り難い。

* 短歌は、詩歌は、たんなる「ことばのあそび」ではない。「うた」はいのち限りの「うったえ」だ。
2008 9・25 84

述懐 十月

秋の江に打ち込む杭の響かな    夏目漱石

遠き樹の上なる雲とわが胸とたまたま逢ひぬ静かなる日や    尾上柴舟

月皓く死ぬべき蟲のいのち哉     遠
2008 10・1 85

* いま、ある人の作品を預かっていて、やや判断しかねている。
当人は「詩」といわれ、わたしには「詩」と読めない。特定の人たちを見入れた「檄」と読める。
その人は、詩とは、人への「応援歌」だといわれる。応援歌も詩であり得ぬわけではない。人を励ます詩はいくらもある。問題は、詩である応援歌か、詩とは呼べない応援歌かだ。だが一種の「詩論」とともにその人は代表作として四編の作を添えておられる。詩としてのみ「e-文藝館=湖(umi)」に掲載するのは躊躇われるが、詩論に添えたサンプルとして一つの論説として受け容れるか。迷っている。その人に恥を掻かせたくない、掻くのがわたしであっても、それはガマンできるが。

* 迷いや思い乱れのあるときは、湯につかり本を読む。くすりだ。

* 万葉集全巻に次いで、『古今和歌集』全てを、興趣津々、読み終えた。巻末の真名序もおもしろく読んだ。
根を心地(しんち)につけ、花を詞林に発(ひら)く。
韻文とは謂わない、詩歌を愛し志す人が、生真面目に忘れてはならぬ原則だ。思慮遷りやすく、哀楽相変ず。マインドという分別心や軽躁な遊び心で「いじくり、いらう」には詩歌は容易でなく、たたのファッションやパフォーマンスで詩歌に戯れかかるとき、深く自らの人品をかえって軽薄に損なうはめになる。事神異に関(あづか)り興幽玄に入るのも、かならずしも神代に限ったことでなく、現代の優れた詩人達も心を尽くしてそうしている。映画『ル・ポスティーノ』の南米詩人が、詩に真摯に惹かれて行く郵便配達夫にむかい詩を一心に語り伝えようとし、かれもまた真剣無比に学んだのは、「隠喩」一事の深さと高さであった。
むろん詩に「喩」だけがあるのではない。東洋では風・賦・比・興・雅・頌の六義をはやくより教えてきた。諷刺、直叙、直喩、暗喩、そして善政をほめ神の盛徳をほめた。
いま詩歌は直叙におおきく偏り、根はふかい心地から遊離し、花は詩香を忘れた恰も達意だけの標語に堕している。まさに人奢淫を貴ぶに及んで浮詞雲の如く興るていたらく、それが残念ながらケイタイ風俗に結実し流布し、「mixi」のようなソシアルネットも例外でなく、詞藻涸れて浮花いま咲き栄えようとしている。情けないことになろうとしている。

* 詩歌という「うた」は、人渾身の「うったえ」であることを忘れ、遊具に見立てて詩精神は縊られて行く。情けないことになろうとしている。

* 詩歌に思いがあり、しかし読まれる機会の乏しいのを嘆く人は、どうか、わたしの「e-文藝館=湖(umi)」詞華集を開いて、かなり精選された近代の作者や現代の作者たちに、創作や鑑賞の思いを添わせてみて欲しい。そしてそれらの中へ、「比較されるため」にこそ自愛の自作を大胆に送り込んできて欲しい。
2008 10・5 85

* 新制中学の修学旅行のまえ、父に富士山は「どれぐらい高いか」と尋ねたことがある。父は、ナミの山ならこれぐらいと、かすかに眉をあげ、「富士山はなあ」と、ぐいっと頤を高く上げた。ものの説明であれほど適切だった例をあまり知らない。
秦の父に習ったこと、教わったことをときどきそういう風に思い出す。「秦」は「はた」ではない「はだ」が古い読みだとも正確に教えてくれた。祖父も蔵書に筆で「hada」とローマ字書きしていた。
祖父から口頭で教わったことはないが、想像を超えた大量で良質の漢籍や辞典や古典の蔵書で以て、信じがたいほどわたしを裨益した。
父は、読書は極道やと嫌いつつ、なによりも自ら謡曲という美しい伝統藝を少年わたくしの耳に聴かせ、また大江の能舞台へ、また南座の顔見世歌舞伎へ行かせてくれた。
叔母は茶の湯と生け花をたっぷり体験させてくれた。短歌や俳句という創作へクイと尻を押してくれたのも間違いなくあの叔母であった。
わたしは、新門前のハタラジオ店に「もらひ子」されて、数え切れないトクを貰っていたのである。親孝行をしなかったのが今になって恥ずかしくてならぬ。
2008 10・6 85

* 鎌倉の「馨」さんが、歌をつくって行く気になった。メールの中に次々織り込まれてきた。「聞馨集」となづけて、当方でも記録して行こう。措辞はだんだん落ち着いてくるものだ。
マイミクさんたちの中にも同じような動きが見えてきている。
佳いメールや佳い日記が自然に書けていれば、詩は、そこへもう影を宿そうとしている。機械から生まれる平常の日本語に、そういう兆しの現れくる時機が来ているのだと思われる。

☆ 秦先生  馨
金木犀の香る季節になりました。
夏に引っ越しをしたのですが、新居には金木犀が四本あり、いっせいに香りを漂わせ始めました。
来年あたりはもう少し大きくなった木から、早めに花を取って桂花陳酒を作ってみようかしら、などと考えています。
湖の本をご準備されていらっしゃるとホームページで拝見していました。
新居の住所をお送りしていなかったように思います。遅くなりまして申し訳ありません。
新住所は 割愛 となります。
前の家は花で有名なお寺の参道で、あまりの観光客の多さに辟易としていましたが、新居は住民しか入ってこないところで、引っ越してほっとしています。裏は山、ホタルやカニがいる川が目の前で、子ども達の格好の遊び場となっています。
湖の本は、上記の住所にお送り下さいますよう。
証明の難しい言論問題に日々取り組まれどれだけの心身の疲労を伴うかと、あらためて先生のご健康が気づかわれます。どうぞどうぞおからだをお大切になさって下さいませ。
2月に父、3月に祖父が亡くなりましたが、こんな中でも、子ども達の顔を見ると疲れが融けてゆく毎日です。

真四角の毛布の三隅をそれぞれに握りしめおり起きて見つれば
長短の性質(たち)は違えど大中小同じ顔して寝入りし吾子ら
母の吾に贈りたまひし何よりははらからのありき吾もまた子らに

「完」といふ字を思わせし葬儀かな この如月は光に満ちて

静かに老いていった父は、その生き方の総まとめのように亡くなりました。父のような父であったことに本当に感謝しています。
金木犀の香る季節は喉を痛めやすい季節でもあるようです。くれぐれもご無理をなさらないよう。

追伸
無事にお帰りになられたとのこと。ほっと安心いたしました。
心配性なもので、思わずミクシィで足あとをつけて頂いた息子さんの方にまでメールしてしまいました。
ご多忙な方なのに私の心配にお付き合い頂いたりして、本当に申し訳ないことをいたしました。お許し下さい。
水曜日のメールにも書かせて頂きましたが、最近、五七五七七の中に家族への思いを入れることが多くなりました。
いつだったか先生に「短歌を作ってみませんか」とお誘い頂いたことを思い出して、下手な歌を少しお送りいたします。

夕映えに染まりたる子らいとしくて帰り来よとは声かけられじ
「おはよう!」と蓮花はじけし音のごとその後は笑みて走り寄り来む
いと清き明るき深き香しき花開くやふに四月子笑まふ
ゆるやかに坂をくだりし父送り今また母が坂に立ちおり

お旅の疲れをゆっくり癒されますよう。 馨

* ご心配かけました。京都へ行く「予告」を省きましたので、ご心配かけました、ごめん。
環境、ますますよくなったようで、それが日々のお暮らしに反映していますようで、私どもまで余映にあずかっています。
ご不幸続きでしたね、お悔やみ申します。何も何も安らかにと祈ります。
胸中に不快がありますと真夜中にもどきっとして目が覚め、安定剤が欲しくなったりしますが、堪えて、本など読んでやりすごします。老境の健康不安に重なってきますといけません。なるべく楽しく過ごして過ごしてと心がけています。
あなたをはじめ、卒業生たちのメールや日記にたくさん励まされたり癒されたりしています。幸せなことです。
ご一家のますますの平安を祈ります。
新住所のこと、手配しました、ありがとう。

追伸 お歌は当方にも記録して、読んで行きます。感想なども時折に挟んで送りましょう。
こういう仕方での「述懐」もいいものです。あなたに似合っています。
上手にと願わずに、先ずは素直にことばが弾みますように。それが心地よい流露感を伴ってくるとつまり自然に上手になっているわけで、その先はしっかり思いを彫琢してゆけばいいと思います。語法はいつのまか正しく身に付きます。
急ぐ旅ではありません、楽しんで思いを「具体・具象」に、つまり自然や暮らしに預けて行く旅です。 楽しんで下さい。 秦 恒平
2008 10・11 85

* 万葉集、古今集についで、というよりポーンと跳んで、今、岩波版の『千載和歌集』を読んでいる。こんな本を買っていたのかなと思ったら、月報のアタマに「俊成の時代」というエッセイを自分で書いていた。岩波からの謹呈本であった。著作カードに書き忘れるところだった。
それでいて、古今集の次は千載集を読むと決めていた。本のあるのは記憶していた。
わたしは近代に感化された短歌もつくってきたけれど、遊び心では物語和歌にふんだんに薫染されていて、和歌ふうにも自然に「述懐」している。そしてたぶん歌風としては、後拾遺ないし千載集に近かろうと自覚していたが、いま、千載集を「春上」から読み始めると、なんだか、わが家に帰ってきたような安息と親愛にとらわれ、どれもこれも秀歌に思えるのだから幸せなもんだと悦に入っている。
もともと古今集も新古今集もすこし「やり過ぎ」と漠然と思ってきた。古今集を通読してそのとおりに感じながら、その限りで古今集の価値高さも再認識できた。
千載集は肌身にふれ、心親しい。わたしの日本の自然や心情に承けてきた、ある静かさや寂しみは、この辺の和歌に根をもっていたのかと思う。
なに不思議はない、言い替えれば小倉百人一首で古典語にはじめて触れたという基盤が露出しているに過ぎない。百人一首と源氏物語の和歌。前から後ろから寄せて返す波のようにわたしは千載集ふうのあはれや静かさにいつとなく染め上げられていたのだ。千載和歌集など、かつて一度も手にしたことは無かったのに。
「俊成の時代」か。なるほどわたしは俊成や西行の弟子筋であったか。定家、定家と口にしつつ、じつは定家をわたしはほとんど書くことがなかったか、俊成・西行があっての定家を観て書いていた。『月の定家』という小説一編も、もともとは「しゆんぜい」「さいぎやう」を書いて、時を置いてから「さだいへ」を副えて一編に纏めたのだった。
2008 10・13 85

☆ 雀です。
「三輪神社で写典ていうのしてみたい」と言う友人がありまして、お参りにでかけておりました。
冷やそうめんとにゅうめんがメニューにならぶ夏日続きですが、黒ずんだ〆縄やちぎれかかった勧請縄に年の残りを感じます。
明日は卯の日。大神神社でも狭井神社でもご病気の軽減をお祈りして、展望台で山々の気に浸って帰ってまいりました。
月光と澄んだ空に、邪鬼が退散しますよう。少しでもおすこやかな毎日でありますよう心よりお祈りいたしております。囀雀

* ありがとう。
汀なす蘆のさゆれの湖雀 囀りきかな秋のうれひに  遠
2008 10・16 85

☆ 作   昴
小倉山なきし子鹿のピィピィと声聞くときぞ秋はかなしき
打瀬舟静かな水面暗き影
袴着をむかえる前の娘達輝き続けよ花の咲くまで
橋架かる小川の傍の電柱や

枕詞を使って短歌を作ってみたらどうだろうと思ったけど、北海道では作れないということ発見。
季節感も地名も違いすぎます。

* 枕詞の時代ではありますまい。 遠
仔鹿なく背の尾の森の夕日かげ彩づく秋と見つつ愛(かな)しむ

たが影や水面(みなも)くれゆく打瀬舟(うたせぶね)

橋というふしぎの界(もの)を風が渡り人影ににて立つか電柱   2008 10・23 85

述懐 十一月

足もとはもうまつくらや秋の暮    草間時彦

心いつか老の境にしづまりて冬の蠅さへいまはにくまず    吉井勇

橋というふしぎの界(もの)を風が渡り人影ににて立つか電柱    湖
2008 11・1 86

☆ 父母よこのうつし身をたまひたるそれのみにして死にたまひしか   岡本 かの子

残念きわまりないことだが、ほとほと「子を持って知る親の恩」であり「孝行をしたい時には親はなし」と嘆くのが人の常であるらしい。親への愛憎――と敢えていうが――の深まりこそ、その人その人の人生を浮き彫りする。夫婦愛の表現では、どこか一途なところが魅力にも限界にもなる。子への愛にもそれがより感傷的に出てくる。だが、みずからも親になり(また親になれずして)親を思った詩歌には、ともすれば人間としての悔いがからみ愛が屈折して不思議な光を放つ。この歌など、すぐれた作家であったかの子の生涯を特に重ねて読む必要のない、それだけに普遍的な「子」の感動がうめき出ている。「この」の特定、「のみ」の限定、「しか」の喪失感。いずれもふつう短歌的表現としてはナマになりがちなところへ深切な心を籠めている。だから「たまひ」という優しい敬語の重ねが情をたたえて、深い「うた(うったえ)」の意味をもちえた。まさに大方の「父母」は子に「現し身」を与えただけかのように、さしたる事も成し遂げず、地の塩となりこの世を去って行く。人の世はそれだけ険しい。はかない。だが「それのみ」という認識を、卑小と限っで読むばかりでは済まない。それどころか「それ」以上のことは、人類の歴史始まって以来いかなる「父母」も成しえたわけではなかったと、作者は感謝の愛を今捧げている。 「短歌研究」昭和十三年一月号所収。 朝の一服より

☆ 独楽は今軸かたむけてまはりをり逆らひてこそ父であること   岡井 隆

現代の歌人を代表するすぐれた一人。時に含蓄に富んだ歌が、ずかりと出る。この歌も作歌の状況を越え幾重の読みにも耐えながら、父なるものと子なるものとの不易の相を想わせる。「こま」遊びのさまをまず思い出す。こまとこまとを弾かせ合っても遊んだ。鞭打ち叩くように回したこともある。地面でも掌でも紐の上でも回したことがある。父と子とでいま「こま」を闘わせているとも読める。父がなかなか子に負けてやらないでいるさまも見える。だが「独楽」の文字づかいから、子が独り遊びし、父は眺めながら、父としての現在と子としての過去を心中に想っているのかも知れぬ。「軸かたむけて」は美しい表現だ。力づよくも力衰えても読める。どっちにせよ懸命に回っている。父は子とともに、子よりも切なく回っている。「逆らひてこそ父」と感じつつ心も身も子より早く萎えて行くさきざきのことも想っている。「こま」はもはや心象であり、象徴として父の心に回るのみとも読める。だが、気楽にくるくる回る「独楽」同然の子の世代に対し、なお父として鞭もあてたい、弾き合いたい、それでこそ「父」だという思いの底に、過ぎし日のわが父の顔や声や落胆の吐息がよみがえっても来ていよう。子への愛に父への愛が重なり、人生の重みに思わずよろけながら耐える。昭和五七年『禁忌と好色』所収。 朝の一服より
2008 11・6 86

☆ 親子  瑛 e-OLD川崎
晩秋の蓼科山を背景にお二人の写真(「mixi」)、父と子、母と子の澄んだ芯のある歌二首を鑑賞させていただきました。

* 午後おそめに、二時間ほど自転車で走ってきた。走ってきたというより、乗ってきた。
坂道に閉口すると頑張らず、引いて登る。それでも運動になる。夕景色の黒目川を下流からずんずん溯り、落合川との合流点から落合ぞいに転じた。水嵩をました夕明かりの川面に真っ白な鷺や朽ち葉いろの鴨たちがいたるところにいた。

白さぎの思案げなるや オバマ勝つ  遠
2008 11・6 86

* さしせまった用に迫められながら、なんとなし漫然と時を手繰っている。これも休息か。

* 表紙に母校の校章が印刷された大学ノートを手にしている。「芸術学概論」と表題があり、Pf.金田とあって、結婚前の妻の氏名がしっかりした妻の字で書いてある。わたしはこのキチンとした書字にいかれたようなもので、同じそのノートの中に書いているわたしの悪筆ときたら、きわまりない。いまも機械で字を書いている動機の最たるは、自身の悪筆が見たくないことで。
妻の筆記した金田先生の藝術学概論は丁寧に切り取られて無くなっている。未使用の白いところをわたしが利用して、昭和三十六年四月二日日曜日の「序」にはじまり、五月三十日早暁まで、「歌日記」を書いている。その三十日の跋を、「昭和三十三年六月から三十五年歳暮まで二年半にわずか三十六首しかのこせなかった。幾分は収録しないですてはしたが尠い」と書き出している。
中をみると、妻の歌も書き置いてある。三十四年二月末に上京して三月に結婚し、三十五年七月二十七日に娘が生まれている。後に編んだ歌集『少年』にこの三十六首から採った歌はさらに少なく、大方を捨てていたようである。わたしの思いはもう歌をはなれ、小説が書きたい書きたいと思っていた。しかし書き始めたのは三十七年七月末であった。
この大学ノート利用の時期は、わたしが就職した医学書院で編集部に加わり、看護学系の雑誌編輯制作を担当しながら、守備範囲を猛然はみ出て、医学研究書の出版企画にも吶喊しかけたころに当たる。

* ことに『新生児研究』の企画と刊行とは、文字どおり日本の医学史に一画期をもたらした。
当時、産科医は赤ちゃんを新産児とよび、小児科医は新生児と呼んで公然対立し、生まれてくる赤ちゃんを両科で協力し管理する体制は、日本のどの大学にもまだなかった。赤ちゃんの両科での奪い合いすら普通であった。そんな昭和三十五年七月に、わたしの娘は生まれた。そんなころに、はじめて、東大医学部で産科と小児科が「共同」で新生児カンファレンスを計画しているのを医局の黒板で知り、躊躇無くわたしはそれへとびついた。産科の小林隆教授、小児科の高津忠夫教授の部屋をわたしはノックした。当時東大医学部の教授といえば、じつの天皇さんより強大な天皇の存在であった時代。それを構わず教授室をノックして新米無名の編集者は、両科で共同研究・共同執筆の『新生児研究』出版を恐れげなく、いやかなり恐る恐るもちかけたものだった。わたしがもう少し東大医学部という「権威世界」に慣れていたら、こんな企画にはとても踏み出せなかったろう、が、生まれたばかりの我が愛娘の健康管理とまた記念のためにもと願い、破天荒の冒険に独断で突っ込んだのだった。
紆余曲折はあったが、危うく潰れかけた企画の危機もすりぬけ、両科数十人の共同執筆の大研究書『新生児研究』は立派に出来たのである。そして日本に「新生児学会」が生まれる大きな第一歩と成った。日本中の大学や病院に、小児科産科共同の「新生児科」体制が漸次着実に出来ていった。未熟児研究と保育も飛躍的に進歩した。
仙台市でひらかれた第一回の新生児学会に、わたしは会長先生から会員なみに招待されたのである。
そういう時の数少ない短歌と文章とで綴られた拙い歌日記が、ひょいと目の前に現れて、わたしは、それを読んでいたのだ、今日は。

* 跋文はこう続いている、もしわたしの娘が、この日記を見ているなら、心して読んで欲しい。
「しかしこの二年半こそこれからの私たちのどんな一歩一歩にも忘れられないスタートラインであり、土台であり、魂の故郷となることはまちがいない。ここに私たちの一切が芽生えている。ここに私たちの幸福のつきぬ泉があり、わたしたちの努力への尽きない励ましがある。
迪子も夕日子(仮名)も私も、この二年半の月日が形を与えてくれた。それは三人が一人一人ばらばらな存在ではなくて、この上もなくたしかな一つの根源に芽生えた相愛の枝であることを教えている。
迪子と私の枝は夕日子にくらべてすこし老いている。しかし夕日子は若く若く、いつの日か私たち以上に輝かしい芽を次の世代へふき出すだろう。すばらしい枝とならび立ってくれるだろう。もし私たちの家系が育つための豊かな土壌をさがすなら、この二年半を想い出そう。その土壌こそ、そこに根ざした逞しい根こそ、愛し合う鮮烈を幸福と感じた魂、あい寄る魂に他ならない。
夕日子、きっと幸せに。
迪子、かぎりなく健康にかぎりなく私の妻として。
心からの敬意と愛をもって、私のためにも大切なこの集を、まず迪子に、そして夕日子に贈る。」と。
そして跋を書き終えた一年余ののちにわたしはとうとう「小説」を書き始め、さらに七年、昭和四十四年桜桃忌の日に太宰治文学賞に迎えられた。
小説を書き始めて以来、盆も正月も旅も病気もなく、一日として書き継がぬ日はなかった。太宰賞の前年には、いま作家・劇作・演出家である秦建日子が生まれた。みんなが幸せであった。
この歌集の結びの歌は、こうである。昭和三十五年十二月二十一日。秦 恒平が二十五歳の誕生日である。

そのそこに光添ふるや朝日子の愛(は)しくも白き菊咲けるかも

蓼科山と白樺湖を背に。建日子が撮った。 08.11.04

* やがてわたしは七十三歳。妻も来春には同い歳に。その来春は、金婚。半世紀。根底、なにも変わっていない。揺れてもいない。

* 愚痴になった。
心いつか老の境にしづまりて冬の蠅さへいまはにくまず    吉井勇
2008 11・8 86

* 十四日というから討ち入りかと錯覚しそうなほど。師走はもうそこへ来ている。気ぜわしいことだ。静か…でいたいもの。

黄金(きん)いろの秋の光はあはれなり三四郎の池に波たつ夕べ   遠

遠い昔の自詠を、朝いちばんに思い浮かべるとは。
2008 11・14 86

* 何のために、だれの為に「朝の一服」を連載し続けているのだろうと、ときどき、心うつろに倦むこともある。短歌を「つくる」人はやたら多い現代であるが、人の作を心深く読もうという人は必ずしも多くないのをわたしは知っている。この連載の原本は、書いてあるように、わたしの娘が結婚式をしたその日付の「あとがき」を添えて、娘に贈った講談社刊『愛と友情の歌』であり、のちに湖の本で復刊して『愛、はるかに照らせ』と改題した。いま続けている『朝の一服』はなかみはみな同じであるが、それなりに子供達、ことに娘へのいたわりのメッセージであることは、大勢の人がきっと察して下さっているだろう。
極度の悲しみは人を鬼にするとわたしは「葵上」のような能を理解してきたが、ガンに倒れた孫のやす香は、「必死」の悲しみの底で決して鬼にはならなかったと想いますとやす香の親友に聴いたとき、ありがたいことと、祖父母は泪をこぼした。やす香に死なれた母親はどうなのだろう。
2008 11・17 86

* 「朝の一服」を選んでいて、思わず胸先で呻いた。

* 思いは自然に溢出する。むりに出した思いは重い。さすが選り抜いた歌人達の思いは厳しく美しい。
2008 11・21 86

* 千載和歌集の「恋」の巻二を読み終えた。予想していたように、千載集の恋の歌はなだらかに大人しく、措辞いかにもいかにも優しい。すこし月並みに尋常すぎるのを割愛すれば、たいへん優れて心地よい恋の歌がゾクゾク楽しめる。
俊成の撰で、平家物語にもしられるように平忠度は西国落ちの直前に師の俊成の門を叩いて家集一巻を預けてゆく。勅撰の栄誉にせめてあずかりたいという心根であり、唱歌で覚えた。そういう時代であるから、『女文化の終焉 十二世紀美術論』などの著者としては、もっとも深く馴染んだ時代に編まれているから、作者の名も古今集なみによく分かる。顔見知りというぐらいの気がある。その人達の日々の恋情を噛み砕いて歌にした言葉に惹かれる。
その人達が年がら年中恋に酔いしれているわけではない。しかし「恋」って何? という演習を彼らは欠かさないのだ、それが人間理解のベースにある。なんという尊い平和だろう。
おかしいことに、恋の巻へ来て、坊さんの名前が続々現れ、まことに典雅に酸いも甘いも噛み分けた恋の歌のならぶのに笑えてくる。圓位(西行)、西往、寂蓮、俊恵、寂然、寂超、源慶、朝恵、静縁、静賢、顕昭、道因、仁昭、祐盛、慈円等々数え切れない馴染みのある坊さん達が、公家や女房をそっちのけに恋の秀歌を連発しているのを読むのは、苦々しいどころか、平和なものである。
2008 11・26 86

* 坊さんたちがすてきに深切な恋の和歌を詠んでいるのも感嘆ものだが、もっと感嘆するのは。
いまもし「昭和和歌集」が勅撰ないし国家的文化事業として企画されたとき、天皇さんも皇后さんも皇太子さんも遺憾ないことは毎年の歌会始めで存じ上げている。だが、内閣総理大臣や最高裁長官や衆参国会の議長各氏は、名を連ねて和歌が詠めるだろうか。俳句なら中曽根さんはやる、和歌の話はあまり聴かない。陣笠大臣達がりっぱに参加できるとはとても想われず、麻生総理などいちばんに落第。
ところが古今集でも千載集でもどうだろう。天皇、院、法皇はもとより、摂政も関白も太政大臣も左大臣も右大臣も大納言も中納言も、現代と比して目もくらみそうな高位高官たちが、四季の歌も賀の歌も哀傷の歌も、旅の歌も、とりわけて恋の様々な歌も、まことに美しくみごとに歌っていて、かえって万葉集には含まれていた庶民や下級官吏の歌など、皆無に近い。ときに遊女の和歌がまじるが。
古今集の撰者達はみな下級の貴族公家達であったが、千載集の選者は藤原俊成。大納言を極官とする羽林家の総領、大貴族だ。ま、そういう時代であったんだからと納得しておくけれども、つまりは誰よりもまずこういう人たちが世を動かす文化人であり知識人であり藝術家であったという事実には、やはりちょいと当節と較べて頭を下げておきたくなる。
2008  11・26 86

* 「朝の一服」をすこし多めに。

* 親の「遺品」の歌を「mixi」にも載せ、その中に「明珍の火箸」の歌があったのへ、北海道からコメントが来ていた。聴けば、わが徳内さんのお墓のある近くに、「明珍」家の菩提寺もあるらしい。ついでにその近所に「穴子天丼」のうまい店があるという。コメントの主はいま北海道住まいだが、実家にいたころ美味しくて家族で食べたと。
穴子大好き。行ってみたいと尋ねたら、教えて下さった。本郷へでも用のおりに足を伸ばしてみよう。
2008 11・27 86

述懐 平成二十年師走

遠山に日の当りたる枯野かな      高濱虚子

この一首遺さば死ぬも悔なしと思ふ歌などわれは望まず   大悟法利雄

子は子ぞと親は親ぞとなにごとぞ冬ざれの道に歯をくひしばる      湖
2008 12・1 87

* つい先日、「mixi」の「朝の一服」で、父の遺品の明珍の火箸をうたった一首を出しておいたら、北海道からコメントが来て、今度はまた昔の学生さんからもコメントが来た。コメントの出てきかたは話題によりいろいろになるが、いい気分になれる。

☆ 明珍(みょうちん)よよき音(ね)を聞けと火箸さげ父の鳴らしき老いてわが鳴らす   藤村 省三

初句は、「この火箸はモノがいいんだよ、明珍の作なんだよ」という直接話法。「明珍」は具足鍛冶師で、他に火箸や釻など茶道具の名品も製した作者の家名。金の含量が多めで、チリーンチリーンと佳い音色がする。今は亡い父の自慢の品で自慢のしぐさだったのを、いつとなく年老いて自分も、そっくり踏襲しているのだ、苦笑いの内にも、感慨深いものがある。作者のまぢかで自慢のしぐさに小首をかしげているのは、はたして子か、孫か。私も子供の頃に実はよく鳴らして遊んだ。「国民文学」昭和五〇年八月号から採った。
2008 12・1 87

* 千載集を一首一首熟読して行きながら、勅撰和歌集としての千載集をいまごろに読んでいる自分の手遅れを残念にも申し訳なくも思っている。十二世紀という百年をこの上なく大事に考えて、小説もエッセイも論考もおどろくほど数重ねてきながら、千載和歌集をその分母として前提として読んでいなかった弱みに、改めて気づかされている。崇徳院と俊成と後白河院との、云うに云われぬ至妙の連繋をすべてに先だってわたしは承知していなければいけなかった。反省としてのみ書いておく。
2008 12・4 87

* 五十一年経った。楽しみの歳末大歌舞伎は、明日に。もう十日過ぎると、七十三歳になる。

また一つ階段を上るのか降りるのか知ったことかの吾が吾亦紅(われもこう)  湖

* 師走も半ばになりました。お変わり有りませんか。
秋ぐちに四国からはるばる頂戴したあの吾亦紅が、まだ二十顆、ぱっちりと元気なんです。水もよく吸い上げています。吾亦紅を三つ四つは風情で愛したことありますが、二十顆も細い細い枝に留まってみんなパチッと空間に位置をしめている星座のような美しさは、すこぶる心ゆくみもので、新発見でした。朝に昼に夕に眺め、今も数を一つ一つ確かめて、励まされる思いで愛しています。
それだけのことを申したくて。
今日は、プロポーズして満五十一年目なんです。生きています。
あなたもお元気で。 湖
2008 12・10 87

* 晴れて、冷えている。冬。
「ゆめ」さん厚意の、鱒寿司に黒造り添えて到来、「一の蔵」のとびきりも。暮れであるなあ。十六日に歯医者通いが決まっているが。ほかは七十三になる誕生日だけ。

* 校正に精を出したい。

ゆっくりと師走を春へ歩みたし 遠

句のつもりではなかったが。
猫でも犬でもやる、ぶるぶるっと総身を振るうとものが散る。
散るものは散るのである。
2008 12・12 87

* やはり今愛読している『千載和歌集』の、丁度三部ある「雑」巻のなかの「雑中」といわれる一巻を読んでいて、俊成の編纂意図の痛切さに愕かされている。古今和歌集からわたしはいきなり千載集にきたので、先立つ勅撰の五集を編纂意図から意識した覚えがないし、紀貫之等の古今集の雑の編輯に特別胸にギクリという覚えはもたなかった。
だが藤原俊成は凄いほどの意図をもって、「雑上」には藤原道長時代を中心に、晴れやかな王朝の栄華と平和と満足の歌を列挙し、対比的に「雑中」には俊成時代の「現代」の生の懊悩や絶望や不安の歌を押し並べている。勅撰の主人公である後白河院への非難や批判を意味してはいず、むしろ、この王者の政治により、源平闘諍にあらわな現代の苦境が除かれるであろうという「期待と称賛」の気持ちこそをむしろ表しているようなのである。そこには後白河院との紛れない申し合わせである崇徳院鎮魂の気持ちが前提になっている。
こんな編纂意図が隠されていたとはわたしは迂闊に分からなかった。順に従った「通読」という読み方でないとこれは分かりにくい。
2008 12・17 87

* そんなことにも感じ入りながら、千載集で「丹波康頼」の、ようやく流刑地の喜界が島を離れて都に戻り、近江にまでお礼参りに出かけている歌を読んだりすると、まざまざとそこに「渦中の人物」の気息もうかがえ、平家物語で読み知る康頼とはもっとなまなましい「存在を実感」できたりする。次の正月、歌舞伎座でまた幸四郎が俊寛を演じるが、千載集で読んだ康頼の歌一首ゆえに、よほど印象深く舞台に真向かうことであろうなと感じたし、今も感じている。康頼は播磨屋の歌六がやる。
2008 12・18 87

* 旅疲れ癒えける頃か冬ざれのまそらに鳶の一つ舞ふみゆ

にくていの鴉一羽は口あきて空へ片羽をハタと鳴らしつ   遠   08.12.17

☆ 鴉に。    鳶
メールありがとうございました。歯の痛みは治まっていますでしょうか?
鳶は・・そう、旅疲れ、舞い疲れですね。
帰国するまで身体は実に快調でした。長いフライトも座席が空いていて横になれたのを幸い、かなり眠り、翌日は普段通りに過ごしました。が、やはりその後は、時差ぼけや風邪に近い症状が続いています。今週末、客を家に招待する用事と絵画展の作品搬入が重なり、少々神経質になっています。
今日(昨日)のHPにモンタネッリの『ローマの歴史』について書かれていましたが、わたしは旅にこの本を持ち歩きました。再々読? 何回目か、数えていませんが。やはりローマとチュニジアの歴史(ハンニバルやカルタゴ)は、今回の旅と深い関連がありましたから。またエトルリヤやギリシアとの関わりも、シチリアも、常に関心の範囲内ですから。そして、たまたま鴉と同じ時期に同じ本を読んでいるという、勝手なひそかな楽しみもありましたから。
文庫本の裏表紙には辻邦生さんが書いてられます、「読みだしたら止められないような本がある。小説の場合もあるし、ノン・フィクションの場合もある。だが、歴史でこんな面白い本はちょっと例がない。ローマ史は大体陰気臭いときまっている。ところが、これはそうではない。シェークスピア劇が連続上演されているようだ。息つく暇もない。人間臭さでむんむんする歴史である。」と。
今度訪れたカルタゴ遺跡は、もう御存知のように、ローマに破れて焼き尽くされ、人が住めないように塩を撒かれましたが、やがてローマのアフリカ支配の一大拠点として栄えました。遺跡にあるのはローマのものばかり、それも見事に壊れた石の遺跡・・。名将ハンニバルの彫像の苦渋に満ちた表情はどこで見たのか、記憶定かではありませんが、不思議に明瞭に思い出します。彼は戦いに敗れてトルコに逃れますが追い詰められて毒を飲んで自殺。ただし彼の遺骸は見つけられなかった、というのが一つの慰めのような気がします。
「歴史に愚と不幸以外のどんな聡明や幸福が酌めるというのか、それはたいがい錯覚であり、人類はせっかく手にした聡明や幸福もあっというまに永い永い暗い愚と不幸の手に手渡し平気でのたうって苦しんできた。それが分かる」と鴉は書かれています。私たちが生きてきた、そして生きている今現在もその同じ歴史が進行していると強く感じます。
日本に戻ってたちまちに日常の世の中の状況に揺られています。同時に、失業率50パーセントというチュニジアを思い起こします。ニュースは深刻な不景気の話、社会正義の実現は不可能と、嘆きたいことばかり。
庭の紅葉はまだ紅葉を僅かに残しています。
夜のフライトでしたので、出発当日に京都まで行き、清水寺の紅葉を楽しみましたが、その余韻とはいえないまでも、庭のひこ生えの小さなもみじも捨てがたいのです。南天は既に鳥たちに実をすっかり食べられてしまいました。
くれぐれも風邪など引きませんよう。今年は早くもインフルエンザへの注意報が出されたとか。常に体調、気遣ってください。
2008 12・18 87

* 誕生日の朝に    七十(ななそ)たび三つを加へて冬至かな

やすかれ、やす香  日あたりの草生(くさふ)の庭にすずめ来て
老いをよぶらし目をとぢて聴く    遠
2008 12・21 87

☆ からす,誕生日おめでとう。元気によい一年であるように。 とび

* 千回の弁慶きッと泪せり   湖
藤間紀子様
七十三歳の誕生日を、西浅草の「高勢」で静かに食事し、帰宅して、ふたりで、録画しておいた勧進帳そして高麗屋のみなさんのお幸せなご健闘を、心嬉しくしみじみ拝見しました。佳い日の佳い時間を満喫しました。感謝します。
高麗屋さんに宜しく。皆様ますますのご平安ご活躍を、さきざき、いつまでも楽しませて下さい。一言御礼。 秦 恒平
2008 12・21 87

* 毎日、「朝の一服」で愛の歌を、此処にも「mixi」にもあげて、読み返している。心静まり温まるいっときで。
誰彼となく読んでも欲しいし、読まれてなくても、それはそれ。自身の胸奥を深く覗き込んでいるいっときである。「夫婦」「子」「親」「血縁」「友」「師弟」まできて、もう残り少ない。「さまざまの愛」までみな書きぬいたところで、「mixi」から離れようかと思っている。決心したわけではまだないが、もういいかなあとも。
気になるのは「mixi」今年の書き込み分、またメッセージ往来などの記録保存が出来ていない。それも自身の著作に類するので、投げ出してしまうことは出来ない。

* 少し疲れている。
2008 12・22 87

* いま蜻蛉日記を読んでいるが、日常の述懐にも、それどころか対話・会話のあいだにも頻繁に、呼吸するのと変わりなく「和歌」が出る。男でも女でも、詩的な言葉のあたりまえのような斡旋力におどろかされる。俗談平語がよほど洗練されていないと、そこから瞬時の飛沫かのように和歌がああも適切に生まれうるワケがない。貴族達の日常言語がどんなであったか、奥ゆかしい。
口ぎたないのは、二十一世紀当節の恥ずかしいありのままだが、テレビジョンと、タレントと他称される人たちとの我が物顔が、日本語をひどく汚くしているのは間違いない。年末年始、高い電波代を濫費し、なに厭う顔もなく各局ともに鉦と太鼓で埒もないタレントたちを好き放題遊ばせ騒がせて「見せ物」にするのが決まりのようだ。正直、苦々しい。「藝」への敬意は心底深いけれど、藝無し猿の程を知らぬ放埒を「時世粧」かのように容認する気はわたしには無い。テレビ局番組関係者達の低俗度がそのまま氾濫しているに過ぎない。
この時節、電波に掛かる費用をもっと節約すべきではないのか。
2008 12・23 87

* 歴史上にも、好きな人あり嫌いな人物もある。「平時忠」の名で行跡の思い出せる人ももう少ないだろうが、「平家にあらずんば人にあらず」などと傲語したイヤなやつである。その時忠の歌一首に、千載和歌集「釈教歌」の巻で出会した。勅撰集というのは歌人達の存在証明の役もしている。
2008 12・25 87

* 千載和歌集を一度読み終えた。気に入りの「秀歌」をえらびながら、もう一度読もうと思う。
2008 12・28 87

* のこり三日となるとなんだか気ぜわしくなるものだが、それは、よそう。

ゆっくりと師走を春へ歩みたし 遠

今月十二日の日記に、句のつもりではなくそう書き付けていた。読んでみると存問の一句とみえた。
2008 12・29 87

* マイミクの「うきふね」さんが、「朝の一服」にコメントを下さっていた。
「mixi」に参加し積極的に日記を書くことで行動にもハバが広がって、それがまたいい日記につながるという、望ましい連鎖。感心する。自然当然にマイミクも増えている。

* 「mixi」の「マイミク」というものが人によりどう想われているか知らないが、人により、うまくその仕組みを生かしている。「うきふね」さんなど佳いお手本のように見える。
お茶のお稽古を実に多年熱心につづけている人でも、人のためにお茶をたててあげることは滅多になく、簡略な作法ですら客を迎えてお茶を点てて差し上げたことは無いと聞くと、わたしは驚いてしまった。驚いて思わずその人に、「それじゃ「mixi」に参加してながら、マイミクをちっとも増やさないのと同じだなあ」と言った。
「それ、うまい譬えですね」と感心しながら、たぶんその人は何かしら思い当たったのでは無かろうか。

* その日の「朝の一服」には佳い作品が並んだ。大晦日、大歳の最期に、もういちどそれを読んで頂き、「うきふね」さんのコメントを記録させて頂こう。

☆ 猪鍋(ししなべ)や吉野の鬼のひとり殖ゆ   角川 春樹

「言霊の鬼、前登志夫氏」と添えてある。私には分かる気がするが、前氏を知らぬ人には無理だろう。それならば採るまでもないようなものだが、この句、そんな限定を大きく超えた魅力がある。たんに一人の現代歌人をほめるだけでない、もっと初原へ帰って「鬼」そのものへの強い愛を感じさせる。
鬼が「ひとり殖」えた…、それがなぜ作者の喜びになりまた私の喜びになるのか、理づめに説く気も起きないがいわば「鬼の世界」を信じているのだ。むごいばかりな「人の世界」に無い、貴い秘密を抱き込んだ真実を信じ愛しているのだ。「吉野」はそういう世界だったと、古いものの本には証してある。だが「吉野」ばかりか「日本」中がひろくそういう世界だった。昭和五九年『補陀落の径』所収。

☆ この祭はかなしみ多し雪が疾(はし)り鬼が裸体であることなども
見捨てられ追はれし村も遠ざかり鬼のしづかにねる雪の洞   春日井 建

今は昔朝けの堂に栗鼠は来て籠(こもり)の鬼と遊びけらしな   木山 蕃

春日井の昭和四五年『行け帰ることなく』から二首、木山の昭和五四年『鬼会の旅』から一首を採った。日本中に、「鬼祭」「鬼会」といえる催しは数多い。が、何故かという事までは人はあまり考えない。自分とは関係がない…という気もするのだろう。そうだろうか。ここに挙げた歌で「鬼」は雪のなかを「裸体」で「見捨てられ追はれ」て、わずかに村はずれの「雪の洞」や「堂」に籠もりながら、人外に栗鼠などと遊んで心をやっている。まぎれもないそれは敗者の境涯のように想われ、人はさも「鬼」だもの当然かのように思い切って、顧みない。そこを敢えて顧みて本当に自分は、自分たちの歴史は、敗者でなく勝者のそれであると断言できるのかどうか、よく思い直してみたがいいだろう。日本の歴史で、もっとも「かなしみ多」く、「愛」に欠けていた部分として「鬼」の世界への偏見と差別が、ある。自分だけは「鬼」ではないなどという思い上がった誤解から自由にならない限り、日本人の暮しに、真に高貴な「自由」は確立できないだろう。

☆ わが合図待ちて従ひ来し魔女と落ちあふくらき遮断機の前   大西 民子

前の岡井隆の歌でいう「通用門」が、この歌では「遮断機」という一層毅然たる表現に転じている。「われ」と「魔女」とは異なる世界を踏み越えて変身の間際の、同じ二つの顔に相違ない。この歌でも「われ」と「魔女」との価値判断はしていない。出来もしない。「われ」のなかにいつも「魔女」は潜み、「魔女」として生きる暮しが「われ」の暮しでもある。お互いにしめし合わせて不都合なく生きて行くよりないと、世界を分かつ「遮断機の前」は、両者が慎重に瞬時に打合せを遂げる秘処なのである。むろん作者が勤めの退けどきや、通勤途中の踏切などにうち重ねて想像してみるのは、「岡井隆氏」の場合と同様、いっこうに差支えない。ただ、そこで読み止まっては面白くない。これらは私のみる所、自身および「生きる」ことへの、まぎれない、「愛」の歌である。昭和三五年『不文の掟』所収。

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ウキフネ 2008年12月30日 21:17 「鬼」
ミクシィで、秋にいただいた大きな課題。私の中の不在の「鬼」
能の鬼の面をみると、恐ろしいより哀しみを思います。
今日の3首。続いて大西さんの魔女の1首に、来年への生き方を示されたような。大げさですが、足の立ち位置のようなものを思わざるをえません。
「鬼」に対しての解説を読ませていただいても、まだまだ理解が届きません。
ー 「鬼の世界」が貴い秘密を抱き込んだ真実を、愛し信じている。ー
自分の中の「鬼」を見ようとしない事は、自分自身以外の人に対しての愛の不足でしょうか。
自分だけは「鬼」ではないと偏見と差別を持って別の世界を見ている自分がいるのも事実です。
世の中にしっかりと「立ち向かい」が出来ない、平衡感覚だけで過ごしてしまいがちなことが、自分自身が自由でないことです。
やはり難しい課題です。が、考える機会をいただき有り難く、しっかりと受け止めて過ごしたいと思っています。
「朝の一服」連載を、来年も写真と共に楽しみにしています。
どうぞ平安な良い新春をお揃いでお迎え下さい。
2008 12・31 87

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