ぜんぶ秦恒平文学の話

詩歌 2010年

 

述懐 平成二十二年(2010) 正月

生きているだから逃げては卑怯とぞ
幸福を追わぬも卑怯のひとつ  大島史洋

春の寒さたとへば蕗の苦みかな    夏目成美

むかし聴きしおやのかたらふ声したり
その戸なあけそ みおやいますに  湖

棟方志功・画

2010 1・1 100

* 元日をはばからず、姉千代と母ふくとのことを書いておく。いわば「魂迎えの正月」という私勝手の思いで。

* 大晦日から年を越した夜前も、遅くまで、亡き姉・川村千代が呉れていた手紙を順に重ね順々に読んだ。何度も涙し、息をのんだ。生母と実父との消息で、わからなかったことが、次々に具体的に見えてきた。
これら姉の手紙をたてつづけに貰っていたのは、はじめは昭和五十二年だから、三十四年も昔なのに、その当時わたしは、まだ、そのような手紙に真向かって行くことが出来なかったようだ。思い込みを、ないし理由のないわたしの推量を、姉の手紙は、適切に親切に訂正していってくれる。
姉の亡くなるまで、わたしは姉の手紙と姉自身の短歌稿とを、たっぷり、もらいつづけた。昭和六十年に講談社から『愛と友情の歌』を出したとき、山之口貘の詩と土岐善麿の短歌で始めた「夫婦の愛」の章の、満載作の結びの位置に、敬愛と感謝をこめ、わたしは川村千代の遺した一首を、「姉」とは伏せたまま、採録した。

☆ 我も覚め夫も目覚めて暗闇に言葉交しし夜もありにき   川村 千代

身も世もなく崩折れた辛い死を見送ってから、いつしかに歳月は流れた。やっと、昔、夫と枕を並べたある夜のことどもがこんなふうに静かに思い出せるようになった。とは言え年老い静かに、夜半も過ぎて眠りがたい独り寝の床でのこと…と、言い知れぬ寂しみに歌一首がしんみり優しい。作者は、だが、たしかに今また、「暗闇」でといわず何時といわず、夫と自在に「言葉交し」えているのだろう。 昭和五七年の合同歌集『箱舟』所収。

* いまは「湖の本エッセイ40」の『愛、はるかに照せ』で読めるこの本の「親の愛」の章に、生母・阿部鏡の遺歌集から一首でも採ってやりたかったが、昭和五十四年『昭和萬葉集』巻十・月報8に紹介しただけで終えた。わたしの歌集『少年」に添えた「母と『少年』と」がその一文で、そこに母の歌が一首と六首紹介してある。先の一首が、
此の路やかのみちなりし草笛を吹きて仔犬とたわむれし路   鏡子
昔々の、能登川町時代に、千代が亡き母のために建ててくれた立派な「歌碑」にきざんだ歌で。
阿部鏡子歌碑除幕式は昭和三十七年五月十三日、能登川の安楽寺 変電所前で行われ、引き続き近くの尼寺でお茶の会もと、「御案内」文にはあった。
案内の表に、歌碑と歌の読みと、病床最期の頃の母が眼鏡の写真が掲げてあり、表情はしっかりしている。案内文は「長女 川村千代」が故人の閲歴と供養の意を書き示し、裾に「発起人」四人の連名がある。三人目に「井伊文子」の名がみえ他の三人は識らない。

* ついでながら昭和三十六年二月二十二日、母最期の日より前にすでに用意されていたのではないか、葉書二倍大の厚手白紙の左側に、「さようなら 鏡子」の遺書、右に「奥山は暮れて子鹿の啼くならむ大和の国へ雲流れゆく」の一首と病床最期と思しい穏やかな顔写真が示してある。
裏面には七首の短歌が並び、「京都博愛会病院在院中に詠む」と注してある。兄の恒彦は『家の別れ』という一文の最期にこの七首を掲げている。恒彦は、この一文を書いた昭和四十九年秋には、未だ、能登川の此の歌碑は見ていないと書いている。
兄も引いたこの母遺書裏面の七首と、わたしが「昭和万葉集」に紹介した母の七首とでは、只一首だけ、同じ。同じその一首こそが本当に母の辞世歌だったと想われる、即ち、
十字架に長したまいし血しぶきの一滴を浴びて生きたかりしに
と。

* 姉川村千代の遺してくれた母を語る一文を、いま、元日をハッキリ意識したまま「闇に言い置」きたい。

☆ 阿部鏡子は、明治二十七年十一月三日、大阪四貫島カナキン会社(東洋紡前身)社宅にて呱々の声をあげ(父は専務)幼女時代は文字通り乳母日傘で育てられました。十一才の時父が会社を退陣した為家族と共に故郷能登川に帰り、彦根高女を卒業しました。家族のすすめにより、文学少女の夢を捨てて、商家に嫁ぎましたが死別し、その後親族に反対されながら、看護婦、マッサージ師の勉強をして資格を得、病める人の友として働きつゝ文学の道にいそしみました。
晩年は、大和の無医村の診療所で、部落の人達の為に奉仕していましたが怪我がもとで背柱を病め(いため=傷つけ)三年間病床に苦しみ、ついに癩療養所で働きたいという夢もはかなく消えて、昨年二月二十二日永眠致しました。病中自分のつたない歌をとりまとめ、歌文集「大和路のうた」を出版しました。
阿部鏡子は後半生を自分の生きたいまゝ、生きつらぬいた人で、その為に肉親とも疎縁となりました。今さら子として何もつくし得なかつた事を残念に思いますが、せめて、故人の 「幼い時遊んだ、なつかしい故郷能登川の路ばたに歌碑を建ててほしい」との最後のたのみを実現してその霊をなぐさめたく、ささやかな歌碑を建てました。
名もなき老女の歌碑の除幕式に皆様のお出でを乞う事は真に恐縮に存じますが、御都合をつけて、御来席下さいますよう伏してお願い申上げます。
昭和三十七年四月末日
長女 川村千代

* ありがたい姉をもったと感謝をささげる。
2010 1・1 100

* 仁科理さんの詩がすばらしかった。ペンの同僚会員でわたしも関わっている近代文学研究の学会長。久しいお付き合いになる。おゆるし願って、此処に、尊敬とともに馬渡さんの述懐をそっと置かせて戴く。

☆ 平成二十二年 元旦  馬渡憲三郎 (仁科 理)

いつからだろう
深夜にめざめ
脈絡もなく
石への思いがつのるのは

見られることもなく
寡黙のままで
在ることに
徹したものたち

夜明けの空へ
駆けのぼるのは
聞き落としてはならぬ
その優しさの
声だ
2010 1・3 100

* 明日は、秦建日子の誕生日。

もう少しで、誕生日だね。おめでとう。思い出すね。

母ひとり産むにはあらで父も姉も一つに祈るお前の誕生  1968.01.01

赤ちゃんが来た・名前は建日子・男だぞ・ヤマトタケルだ・太陽の子だ
1968.01.08 建日子誕生
これやこの建日子の瞳(め)に梅の花    1968.01.23 建日子退院

心ゆく仕事 深みのある仕事を 一つ一つ積んで行かれよ。元気で。 父
2010 1・7 100

* 橋爪文さんの詩集『地に還るもの 天に昇るもの』を頂戴した。すでに「e-文藝館=湖(umi)」にも「ペン電子文藝館」にも『夏の響き』と題した詩篇の数々を戴いているが、それらも含めて橋爪さんの最初の纏まった「原爆詩集」であり、原民喜の原爆小説『夏の花』『廃墟から』に相並ぶ決定的な名篇として古典の域に必ず入るであろうものである。『夏の響き』で既に涙を絞られたが、響く感銘はこの詩集のどの頁からも突き刺す問いかけとともに胸に突き当たってくる。タクサンのタクサンの人が読んでほしい。世界中の人が読んでほしい。
15年余り前から反核・平和海外ひとり行脚を続けている橋爪さんへの、心からの敬意と感謝とを添えて、「表題」になった巻頭の一編をぜひ紹介したい。

☆ 地に還るもの 天に昇るもの  橋爪文 同題『詩集』より 砂子屋書房新刊

その瞬間
鮮烈な閃光に土の粒子が総立ちした
数えきれない生命が塵となって宙へ消え去った

一灯もない広島に夜ごと星が降る
降りそそぐ星たちは
あのとき飛散した土の粒子
瞬時に消えたもろもろの生命だ
あおく あかく
光を放ち 声を発して
地へ還ろうとする 星
愛する人のもとへ
父の 母のもとへ
我が子のもとへ
生まれ育った大地へ

しかしそのとき
降りしきる星の光に洗われながら
今夜もいくつかの魂が昇天して行く

* 目を背けても、忘れてもいけない歴史の醜行がある。ヒロシマもナガサキも、また都市への無差別爆撃も、ゆるしてはならぬ。
2010 1・18 100

* 夜のやみにしづみて妻の屁を聴けりあな暖かや寝息しづかに  遠
2010 1・29 100

* 生母ふくの遺品の中に、大阪中央放送局でつくって、短歌ラヂオ放送の「入選」「佳作」者にかぎり配布したものか、リボンで綴じた謄写版刷りの小冊子が在った。選者は前川佐美雄、第一級の昭和の大歌人で広く敬愛された人。わたしも生前に一度お目に掛かりまた文通もあって、母のこともかすかに覚えていて下さった。以下に、「選評」を筆写するが、稀有なほどの称讃を得て、「入選」三作の第一席に置かれている。前川さんほどの歌人に褒めて頂き、どんなに嬉しかったろう。母はこの当時、京都市醍醐の「同和園」に保健婦として勤務していたのである。遺品の中でも、ことに大事そうにこの冊子は厚い二つ折りのボール紙に包まれていた。

☆ 短歌選評   選者 前川佐美雄
大阪中央放送局 昭和二十七年二月二十三日放送

数多い投稿歌の中から 京都市伏見の阿部ふくさんの作を先づ選びました。

北満の曠野の墓碑にさす月を養老院に仰ぐその母

戦死したわが子を思ふ母親の歌です。この母親なる人は現在一人身となつて養老院に住まはれてゐます。 或る静かな晩 中天の月を仰ぎ見て、この月はわが子の墓、北満の曠野で戦死したわが子の墓にも射してゐるだらうと聯想せられたわけです。北満の曠野に果してその墓碑があるかどうか、又 それに月がさしてゐるか どうか、などといふやうなことは問題でありません。作者にとつてはそれがあるやうに見えるのです。ありありと眼に見えて来るのです。そういふ感懐を端的に 至極直接的に 簡潔な語で表現したのは立派です。三句「さす月を」と決定的に言つたのも効果的で 結句を「仰ぐその母」と言ふことによつて、墓碑はわが子の墓碑であることを自然に説明してをりますと共に、ここに品位が出、又餘情がこもつて一層感慨ぶかい歌になつてゐます。月による聯想 又は月に托して歌ふことは、歌を古めかしくしがちですが、この歌にはそれが少しもありません

* これは母がそのように「思い入れて」想像し創作して歌った一首であり、北満の曠野に戦死させた息子を持っていたのではない、あるいはその施設にそういう「母」なる人が身を寄せていて、介護の間に述懐を聴いて「代わりて」詠んだのだと思われる。ただし、戦時中に、次男・英作を若くして病死させた悲痛を母は体験していた。
ちなみにこの歌は、母の遺歌集『わが旅 大和路のうた」では、結語の「母」が「仰ぐその父」と置き換えられている。この歌にわたしは◎を付けていたのを今確かめた。

* 実両親のまるで「洪水」に首まで浸って、わたしは何かにつかまり堪えている。堪えなくてもいいのかも知れないが。
2010 1・30 100

述懐 平成二十二年(2010)二月

朝湯こんこんあふるるまんなかのわたくし   種田山頭火

木々おのおの名乗り出たる木の芽哉      一茶

ひとと逢ひ人と歩みて五十余年(いそよとし)
山ゆき野ゆき春はあけぼの    遠

速水御舟・名樹散椿(部分)
2010 2・1 101

* 雨から雪に、冷えると天気予報。冬二月、いちばん寒い季節だ、雪も降ればよい。つもれば、払うまで。

 

百尺の竿振て松の雪払ふ
2010 2・1 101

* 山本健吉さんの『芭蕉』にも最良の食事を喜んでいるときのように惹きき込まれている。美事な句を、より美しい筆致で説いて下さる。広末保さんの『芭蕉』はやや概念的でゴツゴツしたが、句に即した山本さんの鑑賞、さすがに身に染みて懐かしい。
「談林時代」の  此梅に牛も初音を啼つべし  夏の月御油より出て赤坂や  蜘何と音をなにと鳴秋の風
「『虚栗』時代」の  枯枝に烏のとまりたるや秋の風  芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉  櫓の聲波ヲうつて腸氷ル夜やなみだ  髭風ヲ吹て暮秋歎ズルハ誰ガ子ゾ  世にふるもさらに宗祇のやどり哉  馬ぼくぼく我をゑに見る夏野哉
「『野ざらし紀行』(『冬の日』以前)の  野ざらしを心に風のしむ身哉  猿を聞人捨子に秋の風いかに   までを読んできた。やめられない。
2010 2・18 101

* 山本健吉さんの新潮文庫「芭蕉」は、ゆっくりゆっくり読み進んで、濃やかな「うま酒」のようにわたしを魅する。いま「冬の日」以前の、「虚栗」より以後の「野ざらし紀行」から、
野ざらしを心に風のしむ身哉
猿を聞く人捨子に秋の風いかに
道のべの木槿は馬にくはれけり
馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり
蔦植て竹四五本のあらし哉
秋風や藪も畠も不破の関
明ぼのやしら魚しろきこと一寸
まで読んできて、もう一句、
馬をさへながむる雪の朝哉
を今夜読む。芭蕉の句境にひたと身を添えながら、山本さんの鑑賞には山本さんならではの叡智の日本語が繊鋭にはたらきかける。それが魅力。
2010 2・28 101

述懐 平成二十二年(2010)三月

音ばかりよするや鳰の浦波も霞にこもるあけぼののの空   水戸光圀

僕ですか? これはまことに自惚れるようですが
びんぼうなのであります            山之口貘

このごろのよしなきゆめのくるしさに
ひとりのさけのいろにむせぶぞ 遠

不二   歌舞伎座緞帳
2010 3・1 102

* 生母の遺文のうちに、昭和二十五年六月四日という日付で、十五年に及ぶ奈良での生活から京都市左京区の孤児院「平安徳義會」へ、住み込みで転勤してきた活版の挨拶ハガキが混じっていた。五十五歳。余命は十年余。
だが、その十年余のうちにまた奈良県にもどって、辺地の診療所に住み込み保健活動に従事している。何か体躯に痼疾があってか晩年は自身いくつもの病院を転々し厄介になっていたようだが、不幸せな人達への保健や保育の「意義」に感じる意気は壮んで、上の挨拶も気魄に満ちている。
この孤児院は、地理的に兄・恒彦の家と弟・恒平の家との中間に位置し、道理で、このころ母は中学の小使室を煩わしてわたしにモノを届けたり、校門に待ち受けていてわたしを困惑させ怒らせたりした。「恒平ちゃん」と呼びかけてチルチル・ミチルの石膏像など贈って来、会ったことのない兄との親交を暗にすすめてくるこの「小母さん」の意識と、「眞の身内」を胸を熱くして待つわたしの思いとは、あの頃、冷たく千里も離れていた。
秦の親に、あの「小母さん」への年賀状など出すよう強いられ、「謹賀新春」とただ四字で出した昭和二十七年のわたしの年賀状が生母遺品に含まれていたりする。高校一年の三学期を迎える正月だ、東福寺のそばを通り抜け日吉ヶ丘高校へ通っていた丁度その時期のわたしの作歌は、
刈りすてし浅茅の原に霜冷えて境内へ道はただひとすぢに
樫の葉のしげみまばらにうすら日はひとすぢの道に吾がかげつくる
歩みこしこの道になにの惟ひあらむかりそめに人を恋ひゐたりけり
が当たっている。「境内」といい「道」といい「惟ひ」といい、まるで「別世界」が胸の内に創られかけていた。わたしは満十六歳だった。

* 母方の親戚に中村家があり、いますぐどういう縁戚かを正しく云えないが、母が末期の時まで深く信頼し依頼していたその中村氏から、昭和三十五年 (1960)七月初め頃に、お手紙を戴いている。
消印に「深草」とあるのは、不治の病で京都国立病院に母が入院していた事実と符合し、氏は母の容態やわたしへの希望を、こまやかに伝えてきてくださり、もうこの月末には長女の生まれてくるのすら承知で、母・阿部福の「よろこび」を伝えて下さっていた。
母が重篤の病床にあると知ったおそらく最初の報知であっただろう。心を痛めなかったわけではないが、わたしは、事実上これに完全に目をつむり、やり過ごした。
わたしは、自分が、父や母の子としていかなる事情で生まれたか知らず、いかにして父も母もまったく見覚えぬ状況のママに、京都市内新門前へ、秦家へ、「もらひ子」に出されたのかを、どう知ろうにも知れなかった。釈然としないまま、ただもう近隣から「もらひ子」と囁かれ、不可解の思いのみ強いられていた。その事情は、じつに、この中村氏の手紙を受け取ったわたしが二十五歳時点でも、すこしも変化がなかったのであり、わたしは肉親についてほぼ何一つ満足に知らぬことをむしろ「身の幸い」と観じ、肉親や血縁を自分自身から「拒絶」しきっていたのだった。
働きかけは、父方からも母方からも、兄その人からも断続して有ったけれど、その後もながく、昭和五十二年ころまで、全て受け容れなかった。

* それはそれとして、その後も中村氏に戴いていた七、八通のお手紙の、最後の一通に同封されていた生母・阿部福の中村氏に宛てたハガキは、昭和三十五年十月三十一日消印、京都市博愛会病院内で書かれたもはや死期にまぢかい一通でありながら、筆致と行文はむしろ溌溂と趣致に富み、思わず、今夜、わたしはそれをしみじみ眺めた。

先生 いくら感謝してもつきないほどおせわに成りました 何も報いずゆるして下さいませ お預けの手紙(来信)物はすみませんが皆もやして下さいませ必ず 何もかも皆すんだ事はもやしてしまって下さいませ これからは神と私と二人で生命をともに致します かしこ  阿部福

* ちょうどその頃にわたしは、生まれてまもない娘を目に入れながら、秋の朝日光(あさひかげ)を歌っていた。

そのそこに光添ふるや朝日子の愛(は)しくも白き菊咲けるかも   遠

* そう、そして明日三月十日は、その娘が産んでくれた二人目の孫の誕生日。祖父母の二人で赤飯を祝うつもり。この春は、大学受験であろう。心健やかに日々を送っていてくれますように。せめて元気な消息だけでも伝わってくると嬉しいのに。
2010 3・9 102

述懐 平成二十二年(2010)四月

命二ツの中に生きたる櫻哉         芭蕉

十字架に流したまひし血しぶきの
一滴をあびて 生きたかりしに   母

今にして知りて悲しむ父母が
われにしまししそのかたおもひ   窪田空穂

酒呑めぬ花見の客やさむさうに  遠

花ながらわれは不屈の物書きぞ      湖

黒目川ぞいの春
2010 4・1 103

* また生母ふくの短歌を編輯しておいたのを、仔細に読み直していった。母についてかなり多くを知ってきた今は、歌にも素直な読み込みが利いて、一冊の歌集として見なおしても、水準に十分達して個性的な世界になっていると思われた。
糖尿の方、いいですね、このままで行って、但し体重をせめて八十キロまで下げて下さいと毎度のことをまた言われてきたが。
2010 4・16 103

* 君子蘭の大きな鉢植えがたくさん花をもっている。華鬘草も。

花にらのうす紫や恋ひそめて  湖
2010 4・23 103

* 前に、『野ざらし紀行』の『冬の日』以後へ入った辺までの芭蕉句を、嘆美して挙げた。山本健吉さんの、名著と謂うを憚らぬ『芭蕉』により続く名句をただ嬉しくて挙げてみる。

春なれや名もなき山の朝がすみ
我がきぬにふしみの桃の雫せよ
山路来て何やらゆかしすみれ草
辛崎の松は花より朧にて
命二ツの中に活たる櫻哉
行駒の麦に慰むやどり哉
貞享時代
木枯やたけにかくれてしづまりぬ
古池や蛙飛こむ水のをと
よく見れば薺花さく垣ねかな
名月や池をめぐりて夜もすがら
初雪や幸ヒ菴ンに罷(まかり)有ル
初雪や水仙の葉のたはむまで
君火をたけよき物見せん雪まろげ
酒のめばいとゞ寐られぬ夜の雪
原中や物にもつかず鳴雲雀
髪はえて容顔蒼し五月雨
昼顔に米つき涼むあはれ也
起あがる菊ほのか也水のあと
痩ながらわりなき菊のつぼみ哉

* 以降『笈の小文』東海道の部に転じて行くが。
なんという、これら、しみじみ佳い句であることか。桃、すみれ草、松、櫻、麦、竹、蛙、名月、初雪、水仙、雪だるま、夜の雪、雲雀、昼顔、菊、菊の莟。これらが、句の中でどんなに豊かに美しくされて在ることか。
三句をと迫られれば、私は、「初雪や水仙の葉のたはむまで」の繊鋭な視覚、「昼顔に米つき涼むあはれ也」の働き人(ど)への優しい視線、「痩ながらわりなき菊のつぼみ哉」の、みのがさない女のひそやかな艶。おそるべき、視力。
さて、みなさんはいかが。話し合ってみたいですね。

* このところ本家の宋の『水滸伝』と『本朝水滸伝』に時を構わず読み耽るのだが、文庫本はもう全十巻の第三巻。ま、これは講釈そのもので、語り物。しかし、日本の講談・講釈ではあまり聴かないが、本家の水滸伝には無数、およそ遠慮会釈なく、所を選んで「詩」ならぬ「祠」といわれる詩句が割り込む。それ自体が筋を表現し描写してなかなかの憎さ・面白さなのである。はじめは五月蠅いかなと感じたがすぐそれが効果に気付くと却って面白さに斜めの読みとばしなどしないで、時に口ずさんでみる。しまいに、よほどの佳句はあとで書き取って置いてもいる。
興亡は脆き柳の如く
身世は虚しき舟に類(に)る
とか、太山を語って
根は地の角に盤(わだか)まり、
頂は天の心(まなか)に接せり。
とか、フムフムと頷いている。
2010 4・29 103

述懐 平成二十二年(2010)五月

わかき人 金まうけつゝ學問す。
金まうけたのしくならば、いかゞすらむか  釈 迢空

水すまし水に跳ねて水鐵の如し          村上鬼城

煉獄の火にも鞭にもひるまざる
痴れもの棲むかわが胸の此処に      母

いゝえやつぱり此の私は
お前達よりも遥かに憂愁である       母

にくていの鴉一羽は口あきて
空へ片羽をバシと鳴らしつ          湖

 

ご近所の春爛漫
2010 5・1 104

* 「述懐」にかかげた母・阿部鏡(本名ふく)の二首、うまいへたとは関わりなく、ずばりと言葉を出して通俗でも月並みでもない。数ヶ月集注してこの亡き生母と関わり続けてきたが、通俗や月並みとはかけはなれた境涯を爆走して死んだ人であったと、こころもち惘れながら脱帽している。
この人にくらべれば、この母の六番目の末子に当たるひよわいばかりのわたしなど、よほど通俗でつきなみであると恥じ入る。
母とは、まだまだこれからさまざまに付き合って行かねばならない。

話したき夜は目をつむり呼びたまへ羽音ゆるく肩によらなむ   母

ほとんど辞世にもちかい思いと時機とに、この歌は、母の万年筆で色紙に書かれ、遠く離れ住むわたしに宛てられていた。手にしたのは母死後何年も過ぎてからだ。「よらなむ」という表記に母の願望がうかがえる。わたしの呼ぶのを待っているのか。だが、まだ母と話したいと云うより、いろいろに想像し推理している段階にわたしは座り込んでいる。
2010 5・1 104

* 美しく装幀された句集を戴いた。
最近、目立つ傾向の一つだが、一句に漢字がつまっていて、頁をくる印象が黒々と重い。なかには十七音をすべて漢字だけで表現した句もあり、ひらがなは一つ二つといった句はいくらでもある。
芭蕉の名句に親しんでいる日々には、こういうサーカスの藝のような表現はキツくて不自然で詩情を覚えない。切れ字の妙趣、探し回らねば見付からない。俳句のおもしろさ、かそけき静かさもこまやかな視覚も聴覚も味わえない、元気ジルシの少し空疎な演説でも聴いている心地がする。
2010 5・7 104

* 本家の『水滸伝』をただ読み流すだけでなく、気に入った詩句を別に書き留めている。この大作は根が連続また連続の「講釈」なのであり、「語り」の随処に、しばしば詞や詩が挿入され意外な雅致を帯びる。この一両日にも、こんなのを書き抜いた。

窓外の日光は弾指(またたくま)に過ぎ
席間の花影は坐前に移る
一杯未だ進めざるに笙歌送り
階下の辰牌(とけい)は又た時を報ず         1-80

一輪の月は掛かって銀の如し。
金杯は頻りに酒を勧め 歓笑して昇平を賀す
酩酊して酔醺醺たり 銀漢に露華新たなり。     1-100

時来たって富貴なるも皆命に因り
運去って貧窮なるも亦た由(ゆえ)有り
事は機関(はずみ)に遇わば須らく歩を進むべく
人は得意なるに当たって便ち頭(こうべ)を回らすべし
将軍の戦馬は今何くにか在る
野草と閑花と地に満ちて愁う            1-105

山影将に沈まんとし 柳陰漸く没す
断の霞は水に映じて紅光を散じ
日暮れて転(うた)た収まって碧霧を生ず       1-111

忙中の閑。読み流すのは惜しいと思った。
2010 5・11 104

* 『水滸伝』では、宋往時の講釈を半ば聴き、半ばは、点綴される多くの詩や詞に目を惹かれ、時に秀句を書き写すのを楽しみにしている。

山影将に沈まんとし 柳陰漸く没す
断霞は水に映じて紅光を散じ
日暮れて転(うた)た収まって碧霧を生ず

男児未だ遂げず平生の志
且(しば)らく楽しむ高歌して酔郷に入るを

雨病雲愁に非ずんば、
定めて是れ憂いを懐き恨みを積めるならん。

粗茶淡飯もて春秋を度(わた)る
好し弥陀の国裡に向って遊ぶに

雲は峯頂を遮り、日は山腰を転(めぐ)る。
岩前の花木は、春風に舞いて暗(ひそ)かに清香を吐き、
洞口の藤羅は、宿雨を披(こうむ)って倒(さかしま)に嫰線を懸く。

一泓の泉水を通じ、四面の煙霞を納(い)る。

玉蕊と金芽は真に絶品
僧家の製造に甚だ工夫あり
兎毫の盞の内に香ぐわしき雲は白く
蟹眼の湯の中に細かき浪は舗(し)く。
睡魔を戦い退けて枕席を離れしめ
清気を増し添えて肌膚に入らしむ
仙茶は自のずから合(まさ)に桃源に種うべし
根を移して帝都に傍(ちかづ)くを許さず

* 舌頭に千転しているうちには、まさしく肌膚に入るだろう。
2010 5・15 104

* 『水滸伝』七冊目を読み終えて、ここで豪傑百八人が勢揃えした。小説ではあるが体裁は講釈の仕立てであるのが、大味を大味として許容し得ており、面白く読める。詩や詞の挿入も効果的で、躓くことなく面白くソレも堪能している。

* 盤珪禅師の「うすひき歌」から引いて、上田秋成はこう自身の口調で理解し述懐している。

悪をきらふを善じやとおしやる
嫌ふ心が悪じやもの

これは、まさしく然り。すばらしい。バグワンに帰依してきたおかげで迷い無く受け容れる。同じ盤珪の共感した俚謡に、

思ひ思ふて出る事は出たが 舟の乗場で親恋し

も、深読みがきいて胸を突かれる。
こういうことも高田衛さんの研究書から聴いている。わずかこれだけのことで、本の何十冊に匹敵する体験が得られる。ソレは体験ではない知識を得ただけだろうとは、若い頃なら云われて仕方がないが、この年になると、受け取れる懐に下地の用意がある。
2010 5・25 104

宗遠日乗  「百四」

 

述懐 平成二十二年(2010)六月

悪をきらふを善じやとおしやる
嫌ふ心が悪じやもの       盤珪禅師・上田秋成

ただ人惑を受くること莫れ        臨済録

在りと見て在らざる影へ燈もし来し
此の業火消す原始粒無きや 母

つゆ寒むや しくしく啼くな腹の虫      湖

加茂大橋の新緑 糺の森遠望
2010 6・1 105

* 詩に曰く、  (『忠義水滸伝』第七回)
世に在り人と為りて七旬を保つのみ
何ぞ労せん日夜に精神を弄(はたら)かすを
世事到頭、終(つい)に尽くる有り
浮花の眼を過ぐるがごとく総べて真に非ず
貧窮も富貴も天の命(めい)
事業も功名も隙裏の塵
便宜を得る処(おり)にも歓喜する休(な)かれ
遠くは児孫に在(むく)い近くは身に在(むく)ゆ

* さて、現実問題としては、悟り澄ましてもおれない。
この「私語」は、これから四十日ほど、折に触れ修羅の炎を巻き上げるだろう。頭の整理には、「闇に言い(書き)置く」のが一等効く。どうか、苦々しく思う方は当分の間この欄へのアクセスを中止されるようお奨めします。

* 世にもまれな、娘夫婦の「被告」としてこの私は法廷に立つ。
いったい、なぜ、そのようなことになってきたのか、わたし自身、経緯を顧みておかねば、尋問に答え泥むことになる。頭の中で思い出しているだけでは効果がない。書いて、記録し整備して、自身納得しなければならない。
真っ向、立ち向かう。
それが一等素直で正直な仕方だと信じている。
わたしが、娘夫婦を訴え、巨額の賠償金を請求しているのではない。父親を被告席に呼び出して賠償を請求しているのは、青山学院大学国際政経の教授(婿)と、町田市の主任児童委員(娘)である。教育や教導に携わる公人の彼らが、裁判沙汰にしているのである。
では、この公人たち、いったい「何を主張」して父親を訴えているのか、そんなことから、わたしは「復習」しておかねば、被告席で無用に立ち往生しかねない。
幸い、作家であるわたしには、関聨の著書も何冊も在る。この日録「生活と意見」も十数年来完備している。すべてホームページに公開してあるから、裁判員に準じて下さる方は、青山の職員・学生も町田の先生・市民も、ご自由に閲覧して下さい。きちんと名乗って質問して下さるなら、答えられる限り答えたい。
そういうことの、気にくわない方は、どうぞこの「闇に言い置く私語」から、このさき、当分、耳を塞いでいて下さい。
私には、これも作家の「仕事」のうちなのです。「仕事」である限り、誠意を尽くして努めねばなりません。
2010 6・6 105

* わたしは「被告」として尋問を受ける。自分の弁護士からも、娘夫妻の弁護士からも受ける。資料を持参していいのなら、あらゆる形で完璧にちかく大量に揃っているが、素手で立つのであろうから当座の臨機応変で答えねばならない。講演のアト質問を受けるのとは様子は違うだろうが、忘れたことは忘れたと言う。なにしろ、今階下で観ていた映画の出演者の名前ですら、二階へ来るともう思い出せない。
『恋愛適齢期』のジイさんはジャック・ニコルスン、バアさんはダイアン・キートン。覚えていた。女の監督は、忘れた。軽量映画であった。

☆ 詩に曰く (『忠義水滸伝』第十回)
天理昭昭、て誣 (あざむ)く可からず
奸悪を持って良き図(はかりごと)とおもい作(な)す莫かれ
自らは謂(おも)えり冥中に計を施すこと毒(むご)しと
誰か知らん暗裏に神有って扶けんとは       1-333

* また、明日、苦闘する。幸いいま腹痛無し。日付がやがて変わる。
2010 6・7 105

* 今日も耐えがたい作業の中で「いま・ここ」の自身に立ち会ってきた。人から身を逸らしたり躱したりは出来るけれど、自分に対しては出来ない。真向かうときは向かうしかない。

* 忠義水滸伝より
万里の煙波と万里の天
紅霞遙かに映ず海東の辺
魚を打(と)る舟子は渾(す)べて事無く
酔うて青き簑を擁(かぷ゛)って自在に眠る  10-14
2010 6・9 105

☆  睡眠薬をのんでから。 砂
真夜中に、メールというのもよろしくないのですが。星野画廊に、石原薫さんの絵が、そろってあるそうです。機会がありましたら、ご覧になってください。若いころに観たきりなので、いま観たらドンナかなと、思っています。亡くなった麻田浩さんと、同じ頃の人ですが、この方もはやくに亡くなりました。存命なら、どんな絵になっているかな。
南アフリカでの、ワールドカップの試合もみました。日本では考えられない熱気です。もう寝ます。おやすみなさい。

* 眠くなってきた。

* 眠っていられなかった。新刊受け入れには隣家の玄関に積んだ本の山、荷物の山を片づけておかねばならない。取りかかると忽ち腰に激痛が来る。堪えていられる僅かな時間しか作業はムリ。ゆっくりやらない、堪えていられる短時間に一気に決めただけの力仕事をやってしまう。
それからまた機械へ戻って不愉快仕事を一段落まで、やってのける。何のためにこんなこんなことをやってるんだと半ば思い、面白い晩年だともやせ我慢でなく思う。

☆ 忠義水滸伝より
青鬱鬱として山峰は緑を畳(かさ)ね
緑依依として桑柘(そうしゃ)は雲を堆(つ)む。
四辺の流水は孤村を繞り、
幾処の疎篁は小径に沿う。
茅(わら)の簷(のき)は澗(たに)に傍(そ)い、
古き木は林を成す。
籬外には高く酒を沽(う)る旆(はた)を懸け、
柳陰には閑かに魚を釣る船を繋ぐ。     15-88
2010 6・12 105

☆  詩に曰く (『忠義水滸伝』第十六回)
祝融は南より来りて火龍を鞭うち
火旗は燄燄と天を焼いて紅なり
日輪は午に当りて凝りて去らず
万国は紅爐の中に在るが如し
五岳の翠は乾きて雲彩(くも)は滅(き)え
陽侯は海底にて波の竭(か)るるを愁う
何(い)つか当(まさ)に一夕金風(あきかぜ)の起こりて
我が為めに天下の熱を掃除せん          2-130

* 梅雨に入る。梅雨が過ぎればこの詩句のようになる。描写は暑苦しいが漢詩句の音楽は、舌頭に心地よい。
2010 6・13 105

☆  詩句にいう   忠義水滸伝より
熱気は人を蒸し、囂塵(ごうじん)は面を撲つ。
万里の乾坤は甑の如く、一輪の火傘は天に当たる。
四野に雲無く、風突突として波翻り海沸き、
千山は燄を灼き、ヒツ剥剥として石は烈(も)え灰は飛ぶ。
空中の鳥雀は命将(まさ)に休えんとして、樹林の深き処に倒さに顛(まろ)び入り、
水底の魚竜は鱗角脱して、直ちに泥土の窖(あな)の裏(うち)に鑚(もぐ)り入る。
直(つい)に石虎を教(し)て喘がしむること休み無く、
便(たと)い是れ鉄人なりとも須べからく汗落つべし。   2-131

頂上には万株の藤樹、根頭には一派の黄沙。
嵯峨として渾(あ)たかも老龍の形に似、
嶮峻として但だ風雨の響きを聞くのみ。       2-131

上には上があり
たとい幽霊のように悪賢くても
足を洗った水を飲まされる               2-145

人は忠義に逢えば情偏えに洽い
事は顛危に到りて志益ます堅し            2-145
2010 6・14 105

* 汗になり、肌着を一度取り替えたあとは、めずらしく安眠、八時半になっていた。
発送の作業が済めば、たとえよろよろとでも羽を広げて歩きに出たかったが、妻が歯医者を予約してしまい、しかしそれも、気より、からだが頼りなくて、失礼しようと思う。暑いが、冷房すると違和感が来る。
四日の人間国宝の會から二週間、途中十五日のコクーンでも不調に陥り、いずれも名演・快演のちからに助けられて苦境を凌いだが、連夜夜中の苦痛がつづいたなかで、力仕事の発送を完遂した。完遂は喜びだが、力を使い果たした気味もあり、体力回復のためここ三日は心を解いて休息し、月曜、弁護士との打合せに備えたい。度外れた暑さが難敵として加わってくる。

祝融は南より来りて火龍を鞭うち
火旗は燄燄と天を焼いて紅なり
日輪は午に当りて凝りて去らず
万国は紅爐の中に在るが如し
五岳の翠は乾きて雲彩(くも)は滅(き)え
陽侯は海底にて波の竭(か)るるを愁う
何(い)つか当(まさ)に一夕金風(あきかぜ)の起こりて
我が為めに天下の熱を掃除せん

ことを、水滸伝に借りて願いたい。
2010 6・18 105

* 「名前も記憶もないというのは、安らかさの本質であるはずだがね‥‥」と、記憶を失っている相手の顔をみたまま誰かの云っているのに、本のなかで出会った。しばらく、そこから立ち去れなかった。

* いま毎日「愛読」中の本は多すぎるほど、十八冊ほどある。中でも胸の内を吸い取られそうに、ひたと眼をあてて愛読しているのは、山本健吉さんの『芭蕉』で。
昨夜読んだところは、短いが心嬉しかった。ともに味わって下さる人もあれと、紹介させていただく。
生前の山本先生とはふしぎに繰り返し私的に話し込める場を得ていた。わたしが文学批評の本格に触れて心酔した最も早い時期のひとつが、先生の「詩の自覚の歴史」だった。今も座右にあり手に取ると、克明に傍線が引いてある。愛読体験の切なる一つだった。

☆ 五月雨にかくれぬものや瀬田の橋  芭蕉 (曠野)
(新潮文庫山本健吉『芭蕉』上より)

元禄元年(一六八八)大津に滞在中の作。大づかみに掴んだ、瀬田の唐橋の大景である。其角が『雑談集』に、「八景を亡(バウ)ぜし折から、此一橋を見付たる、時と云所といひ、一句に得たる景物のうごかざる場を、いかで及(および)ぬべきや」と言っているのに盡きる。五月雨が湖邊の風景をすべて濛々と降りかくしているなかに、ただ一つ長蛇の如く、瀬田の橋が横たわつているのである。「隠れぬものや」とは、一見概念的な表現であるが、それがかえつて、具象的な描写よりも利いている。大景を描くには、餘計なニュアンスの伴なわない裸形の言葉の方が、効果を發揮することが多い。琵琶湖それ自身が大景であるが、その中にこまごましたものは、一面の煙雨に消されて、橋だけが墨一色の景に浮び上つているのだ。
似たような例に、「五月雨の降りのこしてや光堂」があり、さらに渾然とした表現に達したものに「五月雨を集めて早し最上川」がある。この三句は、中七がやや概念的な表現で大景の中核を掴み、座五に固有名詞を据えている點で、似ている。だが、これらの土地の名は、皆和歌的な情趣を引きずった歌枕ではない。中では「瀬田の橋」が、一番和歌に詠まれてはいるが、ここでは土地の名の持つ歴史的連想よりも、風景的・形態的連想の方が重視される。その點から言つて、この句は寫生的發想の句であつて、芭蕉特有の歴史的意識に伴なうイメーヂの重層化はない。あるいは、芭蕉の意識にあつたとしても、この句にその表現の所を得ていない。この句の平面描写を救つているものは、けつきよく「隠れぬものや」という、概念的であるがゆえに、直接的・断定的でもある、力強い把握である。この七字に、芭蕉のウイットをさえ、見る人は見るであろう。
2010 6・23 105

* 「短歌21世紀」をいつも戴いていて、大河原惇行さんの御配慮かと想って感謝している。このところの氏の連載「石川啄木の世界」を愛読している。啄木を語られると、つい引き込まれる。この日々点描のいわば短歌世界への述懐は、一節一節が簡潔に適切に語られていて咀嚼しやすい。有り難い。今月も、「言葉の残滓」「生の表れ」「俗のこと」「常識でない世界」「現実ということ」「意味が多い時代」の六節もが三頁内に収められ、啄木短歌とともに大河原さんの胸奥がゆかしく覗き見られる。おゆるしを願って、引かれている啄木の歌を六つ並べてみる。なつかしい。

「さばかりの事に死ぬるや」
「さばかりの事に生くるや」
止せ止せ問答

顔とこゑ
それのみ昔と変らざる友にも会ひき
国の果てにて

火をしたふ虫のごとくに
ともしびの明るき家に
かよひ慣れにき

よごれたる足袋穿く時の
気味わるき思ひに似たる
思出もあり

わが部屋に女泣きしを
小説のなかの事かと
おもひ出づる日

馬鈴薯の花咲く頃と
なれりけり
君もこの花を好きたまふらむ

大河原さん述懐の小題にこの歌一つ一つを宛て、氏が何を云われているかを想ってみるのもいい。

* わたしの実父が、もう遠く離れ住んでいたわたしの生母と十余年ぶりに奈良市で再会したとき、父は母へ、金田一京助の『定本石川啄木』と安藤静雄の『啄木の歌』を贈っていた。二冊は母の手からわたし恒平にと秦の親に託されて、今も書庫に寄り添うように仕舞われていた。
金田一さんの本には、実は一時啄木評価を騒然とさせたショッキングな一章が設けられていて、わたしは、それをとても気にしている。しかし、本は紙も活字もはなはだ劣化していて読み取りも難しいほど。なんとかこの本からスキャンして電子化して置けないかと悩んでいる。どこかに、角川文庫にでも新装版が手に入れば何でもないのだが。
2010 6・28 105

述懐 平成二十二年(2010)七月

少数にて常に少数にてありしかば
ひとつ心を保ち来にけり         土屋文明

詩歌などもはや救抜につながらぬ
からき地上をひとり行くわれは     岡井隆

夢をよぎる幻の中のまぼろしと
一人の名をば呼びてなげくも         湖

歌詠むは恋ににてわれに愛(かな)しとも
かなはじけふは昏々と寝むよ      湖の母
 

愛らしきやす香
十九年生きて逝きぬ
2010 7・1 106

* 手持ち飛鳥井家であろう正二位雅章の歌懐紙では、「七夕同詠 星河秋興」と題してある。
天の川つきのみ舟の追風もこゝちすゞしき雲の衣手
七夕は、本来、初秋。いまわが家には新笹がほっそりニョキニョキ生え出ている、涼しい浅みどり色して。
2010 7・7 106

* マキリップの第二部を読み進んで、二時に寝て、七時半、すっきり起床。機械を使う。人事は尽くした。
建日子も来て、裁判所へ送ってくれる。迪子もさぞ疲れているだろう、終始懸命にいろいろ手伝い心遣いしてくれた。ありがとう。
水戸からも愛知からも有り難い声が届いている。言うことは、ない。

* 妻の入れた手洗いに「もじずり」が、直く高く40糎ほども淡紅の花を、細い茎に巻き巻き登らせている。美しい。

もじずりのひたすら直く桃いろに   湖
2010 7・13 106

* 忠義水滸伝 巻二十、二十一を開けば
古人の交誼は(堅きこと=)黄金をも断つ
心もし同じき時は誼みもまた深し

死生ともに能く守る歳寒の心   2-252

酒は人を酔はさざるに人は自づから酔ひ
花は人を迷はさざるに人は自づから迷ふ
直饒(たと)ひ今日能く悔を知らんよりも
何ぞ当初(そのかみ)に去(ゆ)きて為す莫きをせざる  2-286

仮意と虚情は却つて真に似る
花言と巧語は精神を弄ぶ
幾多の伶俐(さか)しきものは他(かれ)に陥れ遭(ら)る
死後は知る応(べ)し舌の根を抜かれんことを     2-293

* まことや。
2010 7・15 106

* 秦さんの「書いて」こられた「すべて」が秦さん自身を保証しています。信じています。外の雑音などわたくしたちにとっては、何でもありません、と、お便りがたくさんつづく。ありがたい。読者だけではない。大学、各界からも、さりげなく、力づよく。

* 『かくのごとき、死』を読み返していますという読者が多い。その人達は気づかれていよう。
孫・やす香逝去の平成四十八年七月二十七「前日」に「輸血停止」されたらしいことには、確度高い証言がある。それにより起きた結果は、七月二十七日の「永眠」(母親による「mixi」告知)だった。奇しくも(と、云っておく。)「母親の誕生日」であった。この偶然らしき符合に、いろんな甘やかな解釈をした人たちも多かっただろう。

* 事実を追ってみると、
二十五日火曜日に、やす香と病室で会った友人は、やす香の好きな音楽のディスクをプレゼントし、「たくさん聴くね」と、やす香の曇りない痛切な感謝の言葉を聴いている。
その前日、二十四日月曜日には、われわれ祖父母と叔父建日子とが、病室で、やす香と対話していた。
ところが、この晩かつて無いことにやす香の父親からわが家へ電話が来た。「医師と話し合ったが、ここ二三日の寿命と思われるので病院近くに宿を取っては」と伝えられた。医師と…。何なんだそれは。仰天した。 (すべて、その時の記録がある。)
その二日後、七月二十六日水曜日にやす香を親しく見舞って病室に出入りしていたという或る親友は、なお「土曜日にもまた見舞いに来る」つもりだった。ところがこの水曜の二十六日に、なんと「輸血停止」されてしまったと、迷いなくこの人は、正確にはこの親子は「断言」している。「mixi」にきちんと出ていて、保管してある。
★★★は週刊誌の記者に「そのフランソアさん」ならよく知っていると云っているが、わたしもそんな人は知らないし、この証言、この記録とは無関係である。

* 造血機能の完全に破壊されているのが「肉腫」である、輸血停止とは「死」の決定以外の何物でもない。法廷で原告弁護士はわたしに、どんな意味かと問うていたが、わかりよく云えば「生命維持装置の停止」に、効果として同じいと教えると、絶句して質問を替えていた。
かくて必然、「母親の誕生日」に、十九の娘は「命終」の日を迎えたのである。

* ところで、この数日自作の新聞小説『冬祭り』をはからずも読み返していて、改めて、おどろいた。
熟読してこられた読者は、ドンな作者よりとうに早く気づいてられたかも知れないが、さ、それが「偶然の奇遇」とみるか、「意識された契合」とみるか、「不思議な」と云っておこう、不思議な叙事・展開に遭遇して、やす香の死が母の誕生日と同じだったことに、えもいわれず、ぞぞっとくる愕きにとらわれた。
何なんだ、これは。この「はからい」の感触は。

* 我々の娘は、当時の秦朝日子は、二十余年前、父と親しい神学者・野呂芳男氏を訪ねた際に、「わたくし、『冬祭り』の「加賀法子」なんです」と興奮して告げていたらしい。野呂さんの電話で聴いた妻から間接に伝聞しただけだが、あの娘の、例のフワフワした興奮・昂揚の一例のようにしか感じなくて、聞き捨てに、一度もその後顧みたことがなかった。
たまたま今度また『冬祭り』を読んでみようと読み直していって、そんな大昔の「聞き捨て」をふと思い出し、妻に確かめると、そんなことを確かに野呂さんが笑いながら話されていたわよと云う。
『冬祭り』を読んで欲しいのでいま詳しくは書かないが、「加賀法子」とは、ソ連作家同盟との交流目的で、「訪ソ」の旅に、他の作家たちと出かけた作中人物「私」に、横浜埠頭のナホトカ号上から、つかずはなれずモスクワまで絡みついてくる若い女性だった。「私」は、モスクワに「逢いたい人」を待たせていたが、その人妻である「冬子」は、かつて此の世に「二日半」だけ生きた「娘」を、死なせていた。「法子」はどうやら、その二日半だけ生きて死んだ娘、じつは「私」の娘、であるのかもしれないのだった。むろんこれは「、秦文学・畢生の恋物語」と本の帯に書かれていた、大きな構想で動いた全然のフィクション小説であった。

* わたしたちの娘・朝日子は、じつに、この父に絡みつく「娘・加賀法子」と自分とを、幻想だか妄想だかで「一体化」していたらしいというのが、『冬祭り』を「名作」と新聞書評していた野呂牧師からの情報、かつて他に聞いたことのない、「唯一の」情報だった。「冬子と法子」とは、『清経入水』の「紀子と和子母子」の後身であると、批評した野呂さんは書かれている。そしてこの現世の「私」を愛してまといつく二代の不思議の母子は、ともにとうに「ほぼ同日に死んでいた」のである。

* さて、もう一度、念のため、ハッキリしておく。

* 「朝日子」という、わたしたちの娘は、もう思い出の中にしか、いなくなった。今後は「夕日子」などという気味の悪いマーキングはやめ、今日(七月十三日の法廷。正式に改名の通告があった。)より以前の「わたしたちの娘」を語るときは、生まれながらわたしたちが命名した「朝日子」と呼んで懐かしもう。あの法廷の日より以後、もう、わたしたちに「朝日子」という「娘はいない」。
この「私語」の中でも、今日より以前の気味のわるい「夕日子」というマーキングは、凡て親の名付けた元の美しい名の「朝日子」に戻す。
本人が決意してもう変名・改名したと裁判所の法廷で正式に証言しているのだから、「朝日子」はもはや原告★★★の妻の名ではなくなった。「秦朝日子」の思い出は「秦の親の所有」であり、「★★朝日子」もすでに「存在しない」。「朝日子」という名は、秦の家族の所有に確実に帰している。「朝日子」は自分だなどとは言わせない。
かくも、わたしの思いは一面、感傷的である。だいじなものを無残に足蹴にされた怒りもある。改名は「親不孝」と一喝した理由である。新刊の、『私  随筆で書いた私小説』に一九七七年「家庭画報」十月号に書いた「ぼくの子育て」が出ている。どんな思いで「朝日子」と娘に名付けたかを書いている。
長い一文だが、ほんの書き出しを再録しておく、昔の娘よ、読むがいい。

☆ ぼくの子育て  冒頭の一部

ゆらゆらと朝日子あかくひむがしの海に生れてゐたりけるかも
たたなづく青山の秀(ほ)に朝日子の美(うづ)のひかりはさしそめにけり

こんな歌を斎藤茂吉の自選歌集『朝の螢』に見つけた昔、いつの日か生れるわが子の名前は「朝日子」と決めた。歌集は昭和二十一年十一月に出ている弐拾円の新装版だが、私が古本屋で参拾円で買ったのは二十七年暮だった。茂吉に教えられたままを、「笹はらに露散りはてず朝日子のななめにとどく渓に来にけり」とうたった自作の一首が、翌二十八年二月、高校二年生三学期の歌稿に残っている。
茂吉は「朝日子」という文字とことばを愛したらしく、『赤光』『あらたま』の二歌集からえらんだ『朝の螢』三百五十余首のうち四首に用いており、モーニング・サン・シャインか、美しいことばがあるものだと感じ入ったのを私は忘れない。
その娘・朝日子が、いま高校二年生の夏休みを待っている。男女いずれにもいいと思っていたが、女の子の名前になってみると親はその方がよかったと思うし、当人も気に入っているらしい。ただし呼びようで「アサヒコ」君に聞こえてしまう咎は私が負うしかない。
梅さきぬ
高き梢に

梅さきぬ
朝日子に

花三四
的皪(てきれき)と

蘂(しべ)は黄に
香はほのか
とうたい出され、さらにながくつづいてまた、
的皪と
蘂は黄に

花三四
香はほのか

梅さきぬ
朝日子に
とうたいおさめた三好達治の詩「梅さきぬ」と出逢ったのは、娘がもう幼稚園の頃だった。弟の「建日子」はまだ生れていなかった。
姉の場合より、もっと弟の命名で親は、というよりもっぱら父親の私は、重い咎を負うことになる。日本の土俗タケルの、勇気に満ちて熱くたけった活力をと願って名づけた建日子が、誕生の早々、産院の書類に「次女」と記入され、大慌てで取り消してもらわねばならなかった。まことに申し訳ないが、それでも私は朝日子にまさる名前と思っているし、当人もいやでないらしいのは何よりだ。.
親と子の間に権利や義務が、有るという人も無いという人も居よう。私はこの、生れ来たわが子に名前を付けてやる、少くもそれだけが親から子への権利であり義務だと思っている。親はわが子への最初の愛情をそこに添える。籠める。
人の名前と限らず、私は久しく生き抜いて来た、すべて物の名前、というものに関心をもつ。それを、その物を、その事を、その土地や山や川や木や草を、人が何と名づけ、呼び馴れて来たか、そこに生きた語感を注意深く受けとることから、私は私の感受性をつとめて大事に育ててきた。
語感とは、ことばのただ意味のことではない。ことばの生命感でなければならない。物や事の名前は、多くの人がそこに見出しえたそれぞれの生命感をながの歳月かけて秘蔵し、豊かな秘密や魅力を表現しえていることを、私は信じている。姓名判断のようないたずらに観念的な思弁は私の好まないところだが、その時代、その土地、そこで生きて暮した人々に一つ一つの物や事がどう名づけられ呼ばれていたかを知ることで、実に多くのことが正しく判ってくる。そう思っている。なぜなら人は自分の使うことばにこそ具体的な愛を籠め批評を籠め、願望も理想も、また忌避の念も縮めていたはずと思うからだ。ことばは「心の苗」と思うからだ。
そんなわけで私は、他の何をおいても、自分の娘に親が「朝日子」と命名した一切を心して受けとめて欲しい。また同じことを「建日子」にも望んでいる。というより、それだけを望めば十分なのだ。

* さ、すこし、心身をやすめたい。
2010 7・17 106

述懐 平成二十二年(2010)八月

石麿にわれ物申す 夏痩に良しといふ物ぞ鰻取り食(め)せ  大伴家持

金亀子(こがねむし)擲(なげう)つ闇の深さかな          高濱虚子

仁王立ちに蒼穹(そら)つきあげて夏雲は底紅の白き花とたぐへる   湖

われならでなしうるなにもありはせぬと思ひいたりてたれを憎むぞ   遠

堤彧子画・夏に咲く
2010 8・1 107

* 丘灯至夫という作詞家の名をかすかに覚えている。この人の「編」になる『歌に見る近代世相史』という一冊、傷んでいるが大事にしている。旺文社刊で「12月号別冊附録」とある。たぶん昭和六十年のように推測できる。末尾に明治大正昭和三代の年表もついているなど旺文社のものらしい。粗末な紙で製本だけれど、ふんだんに風俗の写真が入って目を惹き、頁の上に歌詞を、下段には世相史が全頁に語り継がれている。こういう附録は懐かしくも大事なモノになると意識して保存した。「急速に進む文明開化」「帝国憲法の発布」から語りおこされていて、唄のトップバッターは土佐の高知の「よさこい節」で、次が「ノーエ節(農兵節)」、川上音二郎作詞の「オッペケペー節」と続く。
権利幸福嫌いな人に、自由湯をば飲ましたい
オッペケペ、オッペケペッポー、ペッポッポー
かたい裃かど取れて、マンテルズボンに人力車
いきな束髪ボンネット、貴女に紳士のいでたちで
うわべの飾りは立派だが
政治の思想が欠乏だ
天地の真理が判らない
心に自由の種をまけ
オッペケペ、オッペケペッポー、ペッポッポー
それからやっと「蛍の光」「あおげば尊し」「庭の千草」なんてのが顔を出す。真珠湾奇襲の昭和戦争期になると、「月月火水木金金」「加藤隼部隊歌」「轟沈」「お山の杉の子」「海軍小唄」などが並び、敗戦。「りんごの歌」で全編がししめくくってある。150近い歌詞がならんでいる。歌える歌が多いがてんで歌えないのもある。明治大正昭和歌謡集。それなりにモノゴトはきちっと伝えてくれる。ときどき手に取り歌っている。これが好きなどと選べないほど、いろいろある。
与謝野寛に「人を恋うる歌」があり、歌詞の四番目に、「ああわれコレッジの奇才なく バイロンハイネの熱なきも 石をいだきて野にうたう 芭蕉のさびをよろこばす」とあるのが、鐵幹らしくて破顔一笑。山本健吉さんの『芭蕉』下巻へ読み進んでいるところなので、「芭蕉のさびをよろこばず」にトンと小胸をつかれた。これも明治か。
2010 8・27 107

述懐 平成二十二年(2010)九月

一休が身をば身ほどに思はねば
市も山家も同じ住みかよ        一休宗純

月天心 家のなかまで真葛原       河原枇杷男

こころにもあらで浮世や鱧の皮      湖

 

堤彧子画・安居
2010 9・1 108

* 司法官の風呂敷包み秋に入る   塚口理
2010 9・1 108

☆ 閑かさや石にしみいる蝉の声  芭蕉

* 山本健吉さんが奥の細道の最良の吟といわれ、こまやかに鑑賞されているのを嬉しく読んだ。詩論としてもみごとであった。
人により、句の石はこんな石だ、イヤ別の石だと議論があったり、こんな蝉だ、イヤ別の蝉だと議論があったり、蝉は一尾だいやたくさんだと議論があったりするが、詩の前には無用の現実論である。山本さんの透徹した詩の理解が嬉しかった。
* 手近に、上村占魚さんの編まれた『吟行歳時記』と、琅玕撰集『萩月』があり、時々開いている。「秋に入る」の題に、
司法官の風呂敷包み秋に入る 塚口理
の句が「萩月」にとってあるのが、むずかしい。
それにしても厚労省の村木元局長が当然の無罪となったのはめでたく、検察の取り調べ調書の強圧無道には怒り禁じがたい。「司法官」に対する世の不信は増すばかり。
2010 9・10 108

* いわゆる夏バテか。仕事の途中で、うとうとする。ムリをしないでやすみやすみする。

残る暑やちからを抜きて夕の樹々   大野登
2010 9・12 108

* 亡き上村占魚随筆集『瓢箪から駒』を夫人より頂戴。西穂梓さんの『光源氏になった皇子たち』も来贈。
2010 9・14 108

* 唐詩選の五絶を昔から愛している。なんとか手に負えるから。最初に、好きなこんな詩があがっている。

主人不相識  偶坐為林泉  莫謾愁沽酒  嚢中自有銭   賀知章

このみごとなお庭の持ち主とは相識ではないが お庭に惹かれて紛れ入りました。酒が好きで過ごしていますが、気にしないでください、まったくお庭の美しさに魅されているのです、酒銭でご迷惑をかけることもありません。
昔々の王子猷の故事をも心持ち伝えており、「嚢中自有銭」の句は杜甫にも受け継がれたのではなかったろうか。
2010 9・20 108

* Are you fine?

☆  しわしわの礼服を出し秋日和   梧桐壽美義
2010 9・22 108

☆ 宿昔青雲志 蹉跎白髪年 誰知明鏡裏 形影自相憐   張九齢
宿昔青雲の志 蹉跎たり白髪の年
誰か知らん明鏡の裏 形影自ら相ひ憐れむ

* だんだんこういう心境に近づいて行くか。
2010 9・22 108

述懐 平成二十二年(2010)十月

たびはたゞ うきものなるに 古里の
そらにかへるをいとふはかなさ  一休道歌

月の夜や石に出て鳴くきりぎりす    千代女

くらきよりくらき道にぞ入ぬべき
はるかに照らせ山の端の月   和泉式部

そのそこに光添ふるや朝日子の
はしくも白き菊咲けるかも     湖

棟方志功・祈願
2010 10・1 109

* 六時前に起き、ネクタイぬきで式服を着てしまい、やはりゲラを持ち、用心の薬をたくさん持ち、六時台のバスに乗り、西武線から下巻の校正を開始。新神戸に着いたとき、ほとんど休み無く182頁の半分まで読み終えていた。

* 新神戸からホテルオークラ神戸まで、タクシー。美しい落ち着いた街だ。ホテルで、ネクタイをつけ、必要なモノだけ鞄から出して、鞄は預ける。メインロビー、東京のオークラと似ていた。

* 一時、チヤペルで結婚式。関西テレビの報道記者でアンカーをつとめている新郎、わたしの顔をみて感極まって泣いたのにビックリしたが、新婦のすらっと丈高く美しいのにも感動した。明朗で気持ちのいい挙式。

* 披露宴が始まったとたん、真っ先に祝辞に呼ばれてまたビックリした。

* 上手に赤い畑のトマト
わたくし以上に、妻がわがことのように喜んでいます、お二人に おめでとう を先ず伝えておきます。
そして、これは、新婦の**さんへの、私からお祝いの贈りものです。

よく知られた、俵万智という歌人の作った、こんな短歌があります。

親は子を育ててきたと言うけれど (漢字一字トバします。)手に赤い畑のトマト

東京工業大学に在職した私が、六十歳定年でお別れまぎわ、今から14年も以前に、今日の新郎・井筒慎治君ら学生諸君に出題した、毎度お定まりの「短歌」でした。井筒君らは、この短歌一首を話題に、いわば「子育て」観「親と子」観を書いて、教授の私に提出したのでした。虫食い個所に、漢字一字を補うだけでなく、「この一首にもとづき原作者の親子観を批評せよ」と。
どんな理解が出てくるか、虫食いを埋めるより、その方が私は読みたかったんです。むろん、本題の文学の講義とは、まったく別に出題していたんですが。

じつはこの歌を、この虫食いのまま、当時の学長さんにも呈してみました。
学長は「両手に赤い畑のトマト」と答えたうえで、これぞカンニングでありますが、作者である俵万智さんに、じかに電話して尋ねたんです。俵さんの弟がうちの学生でもあることは、当人がそう告げてくれていたので、私も知っていました。学長、ずるい!
むろん作者は、「勝手に赤い」ですと教えていました。

親は子を育ててきたと言うけれど勝手に赤い畑のトマト 俵万智

ま、これしか無いという表現であり、こう言われてみると、ちょっと痛快な、だが待てしばし……ほんとかな……ほんとに「勝手に赤い」のかしらん……という気が、しないでもないんですね。
それにしても木村学長の「両手に赤い畑のトマト」とは、どういう意味じゃと思いました。想像もしてなかった。
ところが学生たちの回答でも、木村孟学長と同じに、断然「両手」が多かったんです。いやいや、「両手」のほかにも、「片手」「右手」「左手」「傷手」「軍手」まで、ありました。「握手で赤い畑のトマト」なんてのも。でも、これはねえ、いただけませんね。
ですが、皆、それぞれに、まんざらふざけたわけでもない。

なかに、「上手に赤い畑のトマト」とあるのだけは、ひょっとして、俵万智原作の、断定的やや挑発的な表現よりも、子育て、または親離れといった真実味を、よく自覚している気がして、「面白いな」「うまいな」と思いました。
要する所、親達には、ま、好きに言ってもらいます。逆らいません。けれど自分は、自分を、なにもかも親任せにはして来なかった。折り合いよく親にも満足してもらい、こっちも「上手に、」赤くて旨そうな健康な「トマト」に育ったつもりですよ、といった味わい、が、あるんじゃ、ありませんか。
なにもかも「育てて貰いました」というほど受身でない。さりとて「勝手に育ったんだい」と、ふんぞり返る子供でも、もう、ない。
此の、「親は子を育ててきたと言うけれど 上手に赤い畑のトマト」には、大人になってきた落ち着きもなかなか生かされ、なるほどと、日頃から思える学生の名前が、その回答には、くっついていました。 井筒慎治君でした。

井筒君はこう書いていました。

子どもの気持ちからすると、「親の気付かぬうちにも、子は自立しているのよ」と俵さんは言っているのでしょう、と。同時に、多少の「強がり」も含まれていて、それがかえって若い読者の共感を呼んでいる気がします、と。

今、この席に、慎治叔父さんを祝って見えているでしょうか…、

「私の姪も今年、(コレは、ずっと昔の東工大時代のことですが…、)もう四歳に成るので、私は、(つまり井筒君は)「オジさん歴4年」ですが、少しだけ「子を思う親の気持ち」が分かる気がします。直接育てているわけではないので、本当は間違っているのかも知れませんが、時々田舎へ帰って、姪の成長する姿を見ると、「子は、親がどうであっても育つものだなあ」と思います。同時に姪の母=私の姉の姿からは、「親にとって、子どもは、宝なんだなあ」と強く感じます。
俵さんが「勝手に赤い畑のトマト」と歌っていたのを、たまたま私は知っていたのですが、私は、この姪には、どうか「上手に赤い畑のトマト」に育って欲しいなあと思っているのです。

今日晴れやかな美しい限りの新婦の「**」さん、 あなたの「夫」として今まさに其処にいる井筒慎治君は、根から、そういう自立もし、また心優しい人であることを、教授であった、同時に小説家である私が、今・此処で保証しますよ。
お二人して、(これ、どうかな言っていいかな…)すばらしい「お母さん、お父さん」に、なられますよう。

井筒君 **さん おめでとう。

よき日ふたり あしき日も、ふたり…。  おめでとう。

* お姉さんも泣いてしまい、むかしむかし四歳だった姪がすっかり娘さんになっていて、わたしの話にびっくり。もう一人可愛い妹とデュエットした歌がじつにうまいのに、わたしが、またビックリ。

* とても気持ちのいい楽しい披露宴でした。ご両親も、井筒君も、ご挨拶の中でていねいにわたしに触れてくださり、恐縮。

* 六時四十五分の切符を六時十二分に切り上げて貰い、十時ちょっと過ぎ、無事帰宅。帰りの新幹線と西武線とで、下巻の校正182頁分きっちり完了、これが我ながらえらかった。三校したことになる。
新神戸まで日帰りし、部厚い湖の本の全一冊分を往き帰りに読み切ってきたのは、体力は費やしたに違いないが、気力旺盛の集中力でちょっと自分を見なおした。無事に、おめでたい、喜ばしい席へ出られ、怪我なく帰って来れたのが、いい。
2010 10・16 109

* 白菊の夕影ふくみそめしかな   万太郎

* 風邪ぎみか。からだをやすめる。
2010 10・22 109

述懐 平成二十二年(2010)十一月

月天心貧しき町を通りけり           与謝蕪村

みどり児のわれを捨てにしおやの行方
尋(と)めきてむなしわれすでに老ゆ  中西悟堂

秋の月仰ぎてのみもありがてに
筆の林をわけぞわづらふ        上田秋成

なにをしに生きてある身の無意味さを
ふとはき捨てて 仕事にむかふ 湖

小野竹喬画・生命の樹

2010 11・1 110

* 確実に、寒さへ滑り落ちて行く。季の佳句をもとめて手近の歳時記をくってみても出会わない。
向きを変えて、短歌で笑おう。

「あの人」と娘に呼ばれしあのひとは一般的には父といいます   松本宏一

わたしより八、九年若い人だ。

ばさばさに乾いてゆく心を / ひとのせいにはするな /
みずから水やりを怠っておいて   茨木のり子

わたしより八、九歳年上の人だ。
2010 11・19 110

* 「紅葉舞秋風」の一行を観ていると、脳裏にある記憶がいろいろに甦る。
清閑寺御陵の紅葉にくらくらと酔ったことがある。満山紅葉の比良山大谷をケーブルで渡ったのも懐かしい。黒谷の紅葉を狩って帰り、大きな水盤に浮かべて座中に置き、客と差し向かいの茶の湯を楽しんだ夕方もあった。鞍馬から貴船へ越えて、紅葉漬けになった日付も覚えている、十一月二十六日、昨日であった。
東福寺も、高校生のむかしは紅葉の季節にもひっそり閑としていた。大学生の頃の静かな真如堂も懐かしい。
だが、めくるめく紅葉の「舞」う景色には、あまり出逢っていない。むしろ櫻吹雪の方に。

* 七重八重 山茶花の淡紅(とき)の頽(くづ)るるを愛(うつく)しみ見る われや好色  遠
2010 11・27 110

述懐 平成二十二年(2010)十二月

憂き事のまどろむほどはわすられて
覚むれば夢のここちこそすれ     崇徳院

買物籠さげていでゆく老妻に気をつけて
行きなさいといふ何となけれど    前田夕暮

冬菊のまとふはおのがひかりのみ     水原秋櫻子

われはわれといふがかなしさ枯櫻     湖

敦盛・称名
2010 12・1 111

☆ お元気ですか。  播磨の鳶
敦盛・称名の面(=この私語頁冒頭の述懐に添えた能面)に圧倒されます。
お体のことが心配です。このところ腹痛という記載がやや遠のいていましたが、とにかく最大限の配慮で過ごされますように。
東京はもう雨があがったでしょうか? 昨日午後から日本全体が低気圧の前線通過の影響を受けているとか。この雨で庭の柿、藤の葉などが落ちています。
電子レンジで熱くしすぎたコーヒーを脇に置いて機械を立ち上げました。
もう十二月になってしまったとは、そのあまりの何気なさにいっそ驚きます。

天皇制の問題、海老蔵の事件、から実に核心に迫った考えを書いてくださっているのに目を見張りました。(テレビで普通の役者はこんな甘いことをしたらたちどころに終わりだと強い口調で述べていたのは、(役者の=)梅沢富美男でした。多くの人は諂いやらさまざまな処世訓を意識しながらものを言っているように思われました。)
強い共感があります。書かれていることはすべて紛れもなく長い長い間一貫して書かれ主張されてきた事柄です。HPの場から、さらに多くの人の目に触れるところでこの文章が読まれたらと思うのは、わたし一人だけではないでしょう。

容易ならぬことが容易に良い方向に進展できるように遠くから祈ります。様態の変わる月日を早く見定められたらと祈ります。

門玲子氏の『江馬細香』は図書館から借りて現在読んでいます。
つくづく思うのは引用されている細香の漢詩を読者がどこまで理解できるか、ということです。わたし(=中国史・京大卒)は比較的漢文に慣れているほうですが・・それでも彼女(=細香)の詩をわが身のものとして感じとることが、時にもどかしく難しい。江戸、あるいは明治のかなりの時期まで当然の素養としてあった漢文が、もはや遠い遠いものになってしまっています。この本とは別に『江馬細香
詩集』が出版されているようですが、そのいくらかでもこの本の中に「翻訳・解釈」されたものが入れられたなら、読者は彼女を理解できるでしょう。頼山陽はたとえば平田玉薀などとも交情あり、一度は彼から結婚の話も父親にあったという江馬細香は遂に誰とも結婚することなく生涯を終えるなど、深い事情も出来事も思いもそこにはあったでしょう。その痛切を超えて彼女の詩があるでしょう・・。そこにいっそう近づくためにも、読み下し文以上のものを求めてしまう、これは邪道でしょうか?
繰り返し くれぐれもお体大切に大切に。

* 鳶さんはかならずわたしの藝能観などに反応してくれると思っていた。

* 門玲子さんの『江馬細香』は、初版本のあと、最近藤原書店から読みやすい佳い新刊本が出ていて、こちらでも、点綴されている細香の詩作には、せいぜい読みくだしと簡単な語釈がついている。ま、わたしはそれで足りて、情趣はほぼ懐かしく汲んでいる。
門さんの作には、漢詩も働いている、が、この作品の妙趣は、地の文章の比類無い落ち着きと、温かみと、雅に美しいこと、表現のディテールに現実感と想像とがよく行き届いて、通俗でないこと、か。
漢詩として細香詩を見るときは、師の頼山陽らの当時江戸時代漢詩と同様同列に、どうしても脱色・脱臭しきれない語の斡旋上の和様・和臭を斟酌せざるを得ない。
わたしたちは、日本人の作る漢詩によりも、先に、ほんものの漢詩、それも陶潜ら以降、李白・杜甫また白居易以降等々の頭抜けた詩の妙味に先に親しんでいて、それからすると、弘文天皇や菅原道真、和漢朗詠集の倭詩や、下って中世の五山詩や、近世の新井白石の辺まではまだしも、江戸末期の山陽以降志士慷慨の漢詩などは、一寸は食してみても、はやばや「ご馳走さま」と言ってしまいたくなる。
細香苦心の詩句の斡旋にすらも、どうしても唐詩選等に親しみ学んできた者には、重苦しく粘った措辞がまま見受けられる。門さんの本に、はじめのうちどうしても目を向ける気がされなかったという吉川幸次郎先生らの感触にも、山陽詩等への異物感と辟易が先立っていたに相違ないのである。
その上でなおかつ、わたしは門玲子の筆に調理された、創作上の江馬細香女の味に触れて愛読している。
2010 12・3 111

* 五十三年を経てきた、今日がその日。祝意は七日の歌舞伎で、一足早くに。

* むかし医学書院で最初の上司だった歌人に<こんな歌があり、佳い歌だと思った。一字虫食いにして東工大で学生に読ませたが、作者の漢字一字、「常」を見つけた学生、ゼロに近かった。

妻の手は軽く握りて門を出づ( )の日一日加はらんとす  畔上知時

それで今度は、「常」を意味すると考える「英語」を挙げてほしいと求めた。これは、わたしも勉強させてもらった、数百人の学生がめいめいにいろいろの英語表現を提出してくれた。
そのなかに「ALWAYS」もあって、なるほどねと頷いた。映画になっていた最初の歳は、慥か昭和三十三年か四年だったと思う。五十一、二年昔で、五十一年前にわたしはまだ京都で、学部を卒業し院に入り、その前年に妻との結婚を決心していた。五十二年前には妻の学部の卒業を待ってわたしも院生を抜け、二人で東京に出て新宿区の一隅で結婚生活に入っていた。
「常」の日といえば謂えたし、鬱勃として本気の勉強をまたはじめようとしていた。あの映画の中の、作家志望青年は独身で芥川賞を狙い続けていたが、わたしは、そういう野心は持つまいとしていた。書きたくはあったが、ついに書き出したのは昭和三十七年の真夏だった。二十六歳半だった。
賞を狙うなどわたしにはハナから問題外で、とにかく、盆も正月も病気も例外とせず句読点一つでも朦朧とした「かな文字」の二つ三つであろうと書いて、書き続けて決して休まない、それで四十歳になるまでに一作でも売れたなら有り難いと。間違いなく、日々励行した。そしてまた、読みに読んだ。小説も研究も歴史も雑学も。それがわたしの、わたしたちの「常の日」であった。貧の底で、手作りの私家版を四冊造り、四冊目の巻頭作『清経入水』が、天運に恵まれ第五回太宰治賞に招待受賞した。三十三歳半だった。

* その五十三年の今日は、娘夫妻との裁判の和解折衝の用意のため、あいつぐ弁護士のメールに答え、答え、答えて過ぎた。いまはそれも含めた「常の日」に、挫けずに立ち向かい続けている。

* 死刑と求刑された裁判が、無罪と判決されていた。いったい、どういう裁判がされてきたのか。心寒い世の中である。

* そう云えば、先の、「常」一字の英語化でわたしを感心させた学生回答の一つに、「CALM」が有った。静穏。望まれる。
2010 12・10 111

☆ 秦先生   馨
ずいぶんと冬らしい寒さが近づいてきましたが、おからだにさわりのありませんよう。
私の方は一番下が二歳半をすぎ、少しだけ一息つくことができるようになりました。
とはいえ三人の子どもがいると三つの独楽を回し続ける生活になり、しかも自分も回りながら独楽回しもしていますと、どうしても
ほっこりとする時間が少なく、先生へもすっかりご無沙汰してしまいました。
少しずつ作っていた歌をお送りします。
心の中のやわらかな感情を形に残しておきたい、と思う時に歌に記録しはじめたのが始まりですが、それはほとんど子どもへの思いを中心としたもので、スイッチを切り替えている仕事のことなどは全く歌にできずにいました。
ようやく最近、仕事のことも少し詠めるようになりました。
きっかけは、気持ちよく仕事のできたある都市への出張で、帰る間際に、その町のまさにその場所が、父が十八まで過ごしたところだと気がついたことでした。
父は晴れ男で、葬儀の日も明るい日でしたが、その出張も小春日のほろほろとした日でした。
仕事に関わることでも、ふと顔を上げた時の感情をようやく三十一文字にのせられるようになりました。
キトラ古墳の壁画取り外しは、ようやくこの秋に終了しました。これも明るい日に最終日になりました。明日香の四季を七回見ました。
最後の歌は、自分の仕事についてです。格別に優秀でもないですし、家族持ちで自分の能力をすべて仕事に投入しきれるわけでもないのに、時折こわいほど都合よく仕事の出会いが転がっていくことがあります。
あとは言い訳も必要ないほど他愛ない歌ばかりです。
今年は珍しく男性から遠巻きな好意を寄せてもらうことの多い年でした。そんな誰にも言えない心の揺らぎも入っていたりします。
「情念」の歌は私のことではなく、研究者や頭脳明晰の方には知も情も目いっぱい持っている方が多く、その方達の情をくるんだ知の
戦いを見ているとため息がもれたり。
歌は、作るのもよいものですが、読んで諳んじていることが大切という気持になってきました。
この間書き込みました「かのときに」は、まさにあの夜の気持ちでした。
年齢のせいか、昔ほど次々記憶していくことができないのですが、それでもよい歌と丁寧に出会っていきたいと願っています。
しばらく明治以降の歌を読んでいましたが、昨日先生のmixi で但馬皇女の歌を久しぶりに目にして、しみじみと、「あぁ、万葉
集、佳いなぁ」と。
前にも書いたような気もいたしますが、穂積皇子の「恋の奴のつかみかかりて」は好きな歌です。
家でも学校でも毎日が不安定でぐらぐらしていた十代の頃を思うと、今こうして家族に恵まれている幸せを夢のように感じていま
す。私がいまこうしていられるのは、ひとえに主人のおかげですが、この状況になって初めて生まれ育った家族への思いを見つめ直
し始めています。
姉の心に寄り添うことがいつかできるはずと思いつつ、今は距離を置こうと思っているうちに死なれてしまい、いや死なせたのかもしれません、手を差し伸べなかった自分を思い、母への気持も母に死なれる前に濾過しておかねばと思うようになりました。
母から学んだことを一つ一つ意識して感謝を込めて、いま数えています。
今日書かれていた、「常」に該当する英語、私にとってはconstant もしくは equilibrium です。
equilibriumの化学用語訳は「平衡」なのですが、これはある反応とその逆反応が一定ずつ生じていて、系の中の状態としては一定を保っている、という状態を示します。
いまの私の毎日はまさにそのような気がしています。
またしてもとりとめもなくなってしまいました。
冬至十日前、一番日暮れの早い時期ですが、くれぐれもお体をおいたわり下さいませ。

* 懐かしい卒業生の、一年ぶりの短歌を、それはそれはと肝腎の歌ファイルを、開いても文字化けで。わたしに技の理解が有れば綺麗な字に変換できるのだろうが。も一度頼んで、送ってもらう。この人の歌稿は、わたしが勝手に「聞馨集」と名付けて、もうかなり数多く書き留めてある。
「equilibrium 平衡 ある反応とその逆反応が一定ずつ生じていて、系の中の状態としては一定を保っている、という状態」と。なるほど、生き生きした「いま・ここ」は、そういう「常」態に在るようだ。

* 聞馨集 に、また新たな作歌が加わりました、よろこんで読みます。
着実に、語の斡旋も情感も視力も加わっているように感じます。まとめてゆっくり読み進みます。
少し街を歩きすぎて、ではないナ、東京駅に出店の寿司で飲み過ぎ、今夜は、少し睡魔の誘いあり、あらためていろいろ言い送りますので、ゆるされよや。  湖
2010 12・11 111

* 「聞馨集」に新たに加わった二十数首中の初め七首を、わたしのかなり気儘に読み返してみた。許されよ。

くちなしはいまだかすかに薫りおり 吐息しづかに蒼きゆふぐれ

☆ なかなか佳いが、「いまだ」の硬さに替わる表現は。「かすかに」「しづかに」の重ねは「蒼きゆふぐれ」という佳い表現をやや相殺していないか。仮名遣いは「薫りをり」。

我が腕におさめらるるもあと数年 悔ひなく子らを抱きしめらまほし

☆ 末句の「ら」は衍字か。「母が腕に」か。「おさめらるるも」少し苦しい。

三人の子にふとんそれぞれかけ直し明けぬ朝(あした)に家を出(いで)をり

☆ 「三人子(みたりご)の」で、どうか。「ふとんそれぞれ」は散文的過ぎて雑然。
三人子(みたりご)の着蒲団にそっと手を掛けて明けぬ晨(あした)に家を出で来つ   などとも。仕事で出張の多いらしいお母さんである。

はつらつと毎日新たに遊ぶ子の才気を思ひし新緑の夕

☆ 昨日もけふも新しい遊び編み出つつ子らが発明のたのし新緑   とか、どうかしらん。

三姉妹口にせざるをその子らは誰もが言ひをり「お母さん大好き」

☆ 三姉妹みな 口にせざりしそが子らの口そろへ云ふ「お母さん大好き」
三姉妹の一人が作者なのは言うまでもない。

お煮しめの煮方着物のたたみ方母に教えられしこと数えり

☆ お煮しめの煮かた着物の畳みかた母のおしへし指に余れり

小春日につつまれその森歩きつつ父に呼ばれしことに気づきぬ

☆ この森や父と歩きて小春日にわが名呼ばれき然(さ)なりき愛(かな)し
これは、原作の状況をわたしがやや拡大して了ったかも知れぬ。

* どうも、わたしの出過ぎのようであった。とりあえずの、わたしの鑑賞。

* とって返して、今度は我が方の例の要事に。人事を尽くしておきたい。
2010 12・12 111

☆ 秦先生
お忙しい中、歌のご教示、ありがとうございました。
言いたいことを過不足なく表現するのは、難しいですね。言葉を積み上げていって伝わるもの、一瞬のシャッターの方が伝わるもの、いろいろと奥が深く、難しいです。
ただ三十一字という制約は、私にはちょうどよいようです。十七字だとすくないですし、散文詩だときっと私は厚塗りの表現をしてしまいそう。
その前に、「この言葉にこういう意味を持たせる活用があったはず…」と辞書をひいても中々見いだせないという語彙不足も深刻です。ただ、先生に(メールのなかで=)お送り頂いた歌二つ、その格の高さと表現の巧みさをしみじみと理解できる程度にはなりました。
少しずつ少しずつ精進していきたいと思います。
今日は河野裕子さんの本と、「旧石器遺跡『捏造事件』」という本 とを持って日帰りで奈良に行きます。
冬休みには美智子皇后の「瀬音」を拝読したいと思っています。
ありがとうございました。   馨
追伸
思い出しました、「湖の本」最近の上巻で、「白秋短歌にも、このような」と書いてらした白秋の、
道のべに雉あらはれ美しき(尾を曳き過ぎる春ふけにけり)
下の句があってもよい気がしました。
私が初めて雉を見たのが、まさに春の昼下がりでこのような情景だったこともあり、すこしひだるい春の午後と雉の尾を重ねた表現はあり得るのでは、と。
蛇足です。

* この卒業生がはじめてわたしに歌を送ってきたのは二年ちょっと前の秋だった。院を卒業し、希望通りの文化畑の研究職に就いてからでも十年ほど経ていて、もう三人の此のお母さんであった。
長短の性質(たち)は違えど大中小同じ顔して寝入りし吾子ら   馨
ともあった。短歌にこころ惹かれた動機などは聞いたかも知れず忘れているが、一時のことでなく、今回も含めれば百拾首ほどを何度にも分けて送ってきてくれた。奇特な志で、四年間、教室で「青春短歌大学」を開校していたわたしには嬉しいことの最たる一つ。
在学中から、やはり馨さんと同じに河野裕子の歌が好きだった女子学生の「小闇」さんも就職して少しの間いかにも理系の匂いのする、研究室の中から生まれた歌を見せてくれていた(「e-文藝館=湖(umi)」に入っている)が、編集者の仕事が忙しいかだいぶ無沙汰のままになっている。

* ところで上の「追伸」であるが、短歌では、下二句にまでちからが及ばず、無くもがな、無くても好いのではと思う作が、白秋ほどの人にも、いやいや著名な著名な多くの歌人にもあるものだと、湖の本104『秦恒平が「文学」を読む』上巻に、いわば「美句抄」(上句で足りた美句たち)の一部を挙げて置いた。「馨」さんはその一例に、もっともな異存を表明してくれたので、これまた嬉しいいいことである。
二、三例、挙げておこう。
冬青(もち)の葉に雪の降りつむ声すなり(あはれなるかも冬青の青き葉)
春日向ぬくむ手鞠は掌に乗せて(綾は見えずもほの光りさす)
聴くものに春はのどけき鑿かんな(昼の鼠のそことなきこゑ)
鐸(すず)鳴らす路加病院の遅ざくら(春もいましかをはりなるらむ)
2010 12・13 111

☆ 事始め    晴

暖かい師走にほっこりとしていますうち、もう京都では事始め、鎌倉八幡宮ではすす払いとか。
日が過ぎていくのが恐ろしいような。お変わりなくお過ごしですか。
今日は冷たい雨に濡れ落ち葉が。インフルエンザの予防注射は今年もパスされたのでしょうか。どうぞ、人込みにはご注意を。私も電車の中や建物の中はマスクです。
明日は歴史を歩く会「古往今来」のお仲間と文京区周辺を歩き、最上徳内のお墓にお参りに行きます。

* 討ち入りのこと聴かざりき十四日 00.12.14

* 十年前の自句がそのまま役に立つ。
2010 12・14 111

* 冬至
朝寒むを心よしとぞ声晴れて
朝餉のわれも妻もこと祝ぐ
寒いのがめでたい日とや壽(とし)とりて  七十五叟
* 国立劇場  太鼓うって本懐祝ふ高麗屋
2010 12・21 111

☆ 一休道歌
ひとり来てひとり帰るも迷なり
きたらず去らぬ道をおしへん
世の中はくふてくそしてねて起きて
さてそのあとは死ぬるばかりぞ
死にはせぬどこへも行かぬこゝに居る
たづねはするななにもいはぬぞ
なにごともみな偽の世なりけり
しぬるといふもまことならねば
道はたゞせけん世外のことゝもに
慈悲真実の人にたづねよ

* たった五首を引いて書き写して。だがこの文字の塊が、「須弥山」のように振り仰がれ、峰は目がくらんで見えない。冗談じゃないぜ、コレ。
2010 12・21 111

* 実を云うと、かなり長期間、わたしは昨日の誕生日にひょっとして頓死するのではないかと想っていた。べつに何の謂われ因縁があるのでもない、瀧さんが書いていたことに通うかも知れぬ覚悟を抱いていたのである。昨日も、日付が変わるまで起きていて、そのことは忘れていなかった。バカなことだ。

* 機械の前にメモがあってどうも気になる歌の半出来が書いてある。なぜかこの秋から冬へ、美しい山茶花のことをよく想った。

くづれてなほはなやぐ淡紅(とき)の七重八重山茶花の夢をみて愛(かな)しけれ  湖
2010 12・22 111

* 宗教的な人々は、黄金時代は過去にあったと云う。非宗教的な人々は黄金時代は未来に到来しつつあると云う。ひとりは過去について語り一人は未来について語る。しかし、どっちも同じ、どちらも「現在」を避けたいのだ。
しかしシンの精神性(スピリチュアリティ)は現在に始まり現在に尽きる。過去を持たない、未来も持たない。「いま・ここ」がすべてだ。 わたしがバグワンに最も多く深くを聴いて帰依するのは、ここだ。凍えるほど寒い自覚だが、過去は無く、未然未来ももとより無い、槍の穂先に立つ人生だが、覚悟に満ちればその槍の先の「いま・ここ」に世界が示現する。その世界を精神的に、肉体的に楽しくする、豊かにする。生きるとはそういうわたし自身の覚悟以外の何でもない。

* わたしの「いま・ここ」は、有り体に一言すれば「不愉快」に尽きている。だから執拗に腹痛も起きる。だからこそわたしが刻々に積み上げて行くのは「愉快」な豊かさ。幸せ。
生きているだから逃げては卑怯とぞ幸福を追わぬも卑怯の一つ   大島史洋
2010 12・29 111

* 平成二十二年を見送る。なにとなしに生き延びてきた。

憂き事のまどろむほどはわすられて
覚むれば夢のここちこそすれ     崇徳院
2010 12・31 111

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