ぜんぶ秦恒平文学の話

老議員創設を

 

*  「老議院」創設の声をあげたのは、十三年以前、西紀二○○○年に行った山折哲雄さんとの対談「元気に老い 自然に死ぬ」の中でであった。着想は、それよりもよほど先だった。あのころも参議院のひどさに呆れ果てていた。参議院をやめて「老議院」に替えたいと願った理由は一二にとどまらない。
参議院はすでに衆議院へのチェック機能を完全に失い全面「政党」化していた。かつて「緑風会」の掲げていたようなせめて是々非々の姿勢も地を払い、党議拘束の政党エゴが数だけで政策を争っていた、いや争うならまだいい、議員の頭数にまかせ、討議が成り立っていなかった。今では更に更にその悪弊が増している。参議院議員の知性も良識も憂国の思いもまったく働きを持っていない。
その一方、いまや日本人の年齢構成は老齢増の傾向を早足に歩いていて、65歳以上の全人口にしめる割合は三分の一に優に達しているのではないか。加えて日本人の健康度も格別に増し、わたしが少年・青年・中年頃の壮年にもひとしい健康体の65-75歳男女は、信じられぬほど増えている。その判断力・経験力は国民全体の大きな財産とすら謂えるのに、適切に活用されず、昔ながらの安易な常識で、さも「引退者」「要保護者」かのように社会から棚上げされている。理不尽の極と云わねばならない。
しかもそのような65-75歳の保有している資産は、若い世代のそれに比較して社会や国を動かし維持するに足るものを持つとすら観られていること、政治発言の端々に、いや表立ってすら麗々しく認められているではないか。
おおむね健康を維持し確保している65-75歳には、若い世代の参政権にむしろ勝る「実力」が認められて当然と思われる。期待に応える「能力」を優に備えていて、今日・未来にこそ、引退者ではなく「国政・国運の加担者」として働いて貰わねば大きな損失となる。

* わたしは参議院を廃止して老議院をと思ってきたが、「参議院」の現状を「老議院」的に改組して良しと考え直している。その最も具体的な実現の道は、
① 議員の「年齢を65-75歳」と限定すること。
② 議員は特定の政党・団体の推薦を受けないこと。
③ 議会は衆議院決議に対する公正妥当な法的規制力のある要請・助言に徹すること。衆議院はこれを誠実に顧慮し討議せねばならぬ。
④ 議員定数は百人を限度とし、地方区別の選挙を避けて全国視野で選挙する。即ち、国体、法制、外交・親善、国防、人権と安全、福祉・保健、教育、経済・金融、特許育成、農産業育成 国土保護、エネルギー確保、地方自治・道州制、自然保護、文化学、自然学、藝術 藝能・スポーツ等々に関わってきた「少なくも三名以上」を選抜できる立候補を全国に求め、国民の投票により選出する。
⑤ 「老議院議員」の能力は、個々の専門的経歴よりも人間的な見識・良識・器量の豊かさ大きさを優先し、討議と協力とに長けた、高邁な人格、古い物言いになるが真に「一世の師表」たる心身健康な人物を期待する。立候補に当たっては、政党や利益団体に属していない可能な限り「知友親友」「最低五十人」の信頼と推薦を受け、「推薦者の氏名と略歴」が明らかであることを要する。
⑥ これにより衆・参(老)両院の「ねじれ」は打開され、また高齢世代への政治的・社会的な不当・不公平な阻害も改められる。「一票の格差・不公平」が違憲判決を受けている。全国民の三分の一を占めようという高齢者への政治的不公平も当然改められて良い時節である。

* 私、「作家・秦 恒平」は、上をもって今日只今の「声明」とする。広く討議されんことを切に願う。
この「闇に言い置く」欄に掲示してよいとの「ご意見」あらば、FZJ03526@nifty.ne.jp お寄せ下さい。但し信頼に足る「文責(氏名・メルアド)」不明の投書は一切受け容れません。このネット社会でのせめてもの節度・姿勢は、最低限度「文責明記」当然としなければなりません。これも私のネット社会へ参加以来十数年の不動の信念です、ご理解下さい。

* 早くも妻から、上の提案をゼッタイに不可能と否認されてしまった。
容易に可能と思えるようなことなら提案しない。
不可能に等しければこそ、それが望ましいなら望ましいと、実現への隘路をどうかして吶喊したいと、智恵を絞って苦心惨憺するのが心ある道であろう。道義というものだろう。
今日もっとも低俗な集団が政党政治家集団であり、その半分が参議院を構成している以上、保身一つのためにも彼ら議員や周辺予備軍はかかる徹底した参議院改組に賛成するわけがない。分かっている。
だから提案は無意味なのか。
無意味に見えるほど困難なればこそ、その困難の現に基盤になっている「参議院の衆議院に対するチェック機能放棄という良識腐敗と無責任」とは、民主主義確保のため、どうにかして打開しなければ済まないのではないのか。いろんな提案が出てこそ健全なのではないか。
憲法壊憲にせよ原発稼働の無責任にせよ、いろんな反対運動はもっともっと支持され拡大されねばとわたしは思う。その一方で、そうした運動がより強力に目 的実現へ盛り上がりにくいのには、理由があると思う。運動の根が国会という「議会」に下りていない、そこに高い分厚い壁がある。いま多くの難問・難題・懸 案の多くが実現して行かない理由の最大のものは、「議会」が「国会議員」が「党利党略の政党」が決定的に邪魔をして憚らないからだ。安倍「違憲」内閣にむ かい、内閣も衆議院も「違憲」を恣にしている、改めよと、裁判所より先に提議し抗議しなければならぬ筈の参議院が死んでしまっているから、どうにもこうに も革まらないのである、違うか。
「議会」の半分が死んでいて、どうして「議会制民主主義」が保てるのか、現に全く保てていないではないか。
保てるようにする道はないのか。その一つの提案をわたしはした。昨日今日の思いつきではない、十年前から発言してきた。
いい考えだが実現不可能だから無意味だというのは、健康な良識の行く道であろうか。こういう考え方が選挙権放棄にも繋がっているとは思わないか。「選挙 に行くなんて無意味ですよ」と政治学専攻の学徒がわたしに言い放ったことがある。情けないヤツだと思った。絶対不可能と思われたことの実に多くが、政治の 世界史にあって、ついには実現してきたでないか。
わたしはデモにも参加できない病老体であるのを恥じていない。しかし、一作家として一現代人として、言えば言える言うべきことを言わずに済ませば、それは、恥ずかしい。種は撒かずにおれない、かすかにも「信」があれば。

「私語の刻」2013年6月30日

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