* 咲くだけではまだ花でない、匂うから花になると。バグワンに教えられた。このイヤな時代。バグワンへ静かに立ち帰りたい。
2015 2/12 160
* 黒いマゴが外へ出たがったので出してやり、そのまま起きて。親鸞仏教センターがいつも送ってきてくれる刊行物三種のうち分厚い「現代の親鸞研究」を拾い読 みしていた、というより目次で目をとめた一つの講演録に気を牽かれ読みはじめていた。「交衆と遁世」や「官度、私度、自度」などの対概念の史的な検討から 中世の遁世の意義や展開が語られていて、この際アタマの整理がつきそうな気がした。長い講演で、まだ入り口にいるが、こういう論考が向こうから舞い込んで きてくれるのは有り難い。何のキッカケからだったかこの親鸞センターとのご縁ももう久しい。
* 昨夜から、しばらくぶりにバグワン語る「一休道歌」上巻をまた読み返し始めた。たまたま五島美術館が堂々として内容豊富な「一休展」の図録を送ってき て呉れていた。なら、たくさんな一休の書や書物や関連の詳細な解説なり伝記なりを参照しながら、バグワンの言葉に耳をすまそうと思い立った。事多い昨今自 身の気持ちをおだやかに静かにしたいとも願ってである。
* わたしは、かねて、「しない、禅」であるよりも、「する、禅」「しながらの、禅」を願ってきた。その思いを理由づけて謂うような分別心はさらに持たな いが、わたしの心は「しない」静まりより「する」「しながら」の静かに添いやすい自覚が、思い込みにちかいモノをもっている気がしている。ま、そんなこと はどうでもいい、いまのままの毎日からどこかへ遁れ出るのでなく、いま・ここのありのままに「して」居ながら在りたいというのだ、それならそうすればいい だろう。いずれ「あのよ(生前)よりあのよ(死後)へかえるひとやすみ」の「いま・ここ(今生)」あるのみ。
2015 12/4 169
* バグワンの講話を毎晩静かに聴いている、「一休」さんを通じて。
「ヨブ記」を読み、「八犬伝」の大団円ちかくを歩み続けている。
2015 12/13 169
* ぐったり疲れている。眼も疲れている。
そんな中で、バグワンの「一休」に聴いて聴いて、落ち着いている。心底、傾倒できる。また少しずつバグワンの声をここへ写したい。
2015 12/14 169
☆ バグワンから今しもわたしは聴いている。
理性(マインド)はちっぽけな人間現象だ。人は心(マインド)を超えることで、初めて何が在るかを理解し始める。
宗教は、寓話や詩や隠喩(メタファー)や神話で語ることを余儀なくされる。詩にはものごとをほのめかす間接的な道がある。詩の言語が今日自称詩人からで さえ消滅したために、人間は非常に貧しくなった。マインドはとても貧しい。現代の精神は、科学を目的として訓練されてきたために、宗教はほとんど時代遅れ のもの、過去のもの、または暴力をともなう狂信になってしまった。
科学は人間性を破壊する危機にすでに踏み入っている。科学は召使いとしては本当に役に立つが主人にはなれない。科学が主人になったふりをすると、危険だ。命取りになる。すでにそうなりかけている。
神が死んだのではない、あなたのほうが神に向かって死んでいるだけだ。神に向かって生きるとは、詩のなかへ入って行くこと、行けること、だ。それが、真 実への開口部、扉、入り口だ。この扉は、心(マインド)の世界と無心(ネーマインド)の世界とのあいだにある入り口だ。そして、心の世界を無心へと橋渡し するのは愛だ。愛を通してのみ生のオーガズミックな神秘を知るに至る。
* バグワンは根源から語ってくれる。縷々、そして端的に、詩的に、的確に聴かせてくれる。
2015 12/15 169
☆ バグワンから今しもわたしは聴いている。
宗教的な人間は風変わりになるものだ、彼は多くの人とは違う現実の中に生き、しかもこの世界から逃げ出さない。彼は日常世界のなかを、非日常的に生きている。一休は、典型だ。彼は風変わりに自己を実現ししかもその自己を無に帰している。
生まれる前にあなたは自分の顔を持ってなかった。マインドという精神作用を持っていなかった。あなたは何にも同化していないまさに無私だった。今日只今 のあなたはどえか。うじゃうじゃと無数のあれこれに同化した怪物のように暮らしている。幾重にも襤褸を着込んで暮らしている。
あなたが身体でも心でもなかった生前の本来を思いだし自覚すること、それこそがあらゆる瞑想の、禅の、めざすところだ。回帰せよ、源へ。われわれは短い 此の人生で日々にボロを着重ねながら「ひとやすみ」「たちどまり、たちまよい」している。回帰せよ、源へ。「ことやすみ」は一瞬だ。死後にも終わりのない 時があなたのあとを引き継ぐ。
すべては去って行く。ひとりでに去って行く。何であろうと過ぎて行く、河の流れのように。
ほんらいもなきいにしへの我なれば
死にゆくかたも何もかもなし 一休
2015 12/21 169
☆ バグワンから今しもわたしは聴いている。
生まれる前、私たちは非存在だった。そして死の後にもふたたびそうなる。仏陀はこの、無自己という観念、自己が無い、という洞察ににより宗教者として徹 底的に偉大だ。「私はいない」と知ることは、何をする必要も、何を所有する必要も、何を達せてする必要も無いと知ることだ。自己が無ければ欲や野心は障っ てこない。
自己が有れば野心が頭をもたげる。ブッダの仏教を除く他の宗教がすべて罠に落ちたのはこのためだ。その「罠」とは、この世のものを望まないように努力は するものの、あの世の、次の世のものを当然香のように望み始めるのだ。欲しがる対象が問題なのではない。後世への「神頼み」という信仰姿勢の「幸福主義」 が、あたりまえのように信仰者を捕らえ捉える。精神的な人をほど捉える。精神的な(スピリチュアル)人たちというのは欲が深いのだ。聖戦などと言い死後の 栄耀栄華を信じて闘う幸福主義、精神の物質主義は幻想がさせる欲望に過ぎないと仏陀は洞察している。生前に自己がなかったように死後にも自己など存在しな い。無惨にも仏教徒の大多数も死後の幸福欲に溺れている。
仏陀は見極めていた。「私は(生前)存在しなかったし、これから(死後)も存在することはない。そうだとしたら、その二つの無のあいだ(今生)に、いかに私(自己)が在りえよう。」
仏陀は言う、「ものを捨てるのではなく、自分の自己・自我を捨てなさい、そうすれば物への欲は自然に離れて行くし死後を煩うこともないと。
他の宗教は、「所有物」を放棄せよと言ってきた。仏陀は、「所有者」という自己を放棄せよと言う。「物」は所詮捨てられない、捨てても捨てても捨てて も、欲を捨て続けても、いつも在る。どう遁世しようとヒマラヤの奥へ逃亡しようと「物」はついてまわる。捨てうるのは物と生きている「我・自己」だけなの だ。現世に生きて自己を捨てよ、世間を捨てることはない、所有物よりも所有者を捨てるのだ、世間をではない、我執の我・自己を捨てるのだと。根を断てよ と。
本来もなきいにしへの我なれば
死にゆくかたも何もんも無し 一休
2015 12/22 169
☆ バグワンから今しもわたしは聴いている。
nothing とは no thing at all という意味だ。「無」とは nothing のことだ。仏陀は言う、おまえは、自分が人間だという夢を見ている、が、おまえの内側には誰もいない―― そこにあるのは純粋な静寂だ。この静寂がサマーディ・三昧だ。この静寂を垣間見始めたらおまえの生は変い「わり始める、死がおまえを脅かすことはない。禅 定とはそういう境地に在ることだ。禅は聖も俗も信じない、無い。何も無い。鏡だ。純粋な状態にある者は、完全な鏡なのだ。来るものは映し去るものは去らせ る。問われたら答え、腹が減れば喰い、疲れれば眠る。心の内には何もない、ニルヴァーナ・涅槃。光明を得た人・鏡になりきった人には既製の答えは無い。固 定観念がない。鏡のように待つだけだ、そこへお前は着て、自分の顔を見る。鏡は無数に変わるが、まったく変わらない。すべての観念を消しなさい。光明(悟 り)という観念も。時々刻々に持ち歩いている「解答」をすべて落としなさい。沈黙。すると静寂・無の奥から答えが聞こえてくる。
他の宗教はその「無」を 「神」と呼ぶ。一度神ということばを使うと人はそれに愛着し執着し、ただただ幸福の授与を神に求め始める。神が観念に化しはじめ。人間に似ているなどと言い出す。名を付けて呼びだす。そして神と神とを闘わせ始める。
仏陀は「無」を洞察する。「無が神」だと見抜いている。
2015 12/23 169
☆ バグワンに聴く。
心には、「ふたつ」在ると思うが良い。ひとつは、大きな、宇宙的な、全体そのもの存在そのものに満ちわたっている意識。ブッダが「無」といい、また澄み 渡って動じない鏡のような「空(くう)」とよんでいる「永遠」がそれだ、「大きな心」だ。「神」と名付けてもかまわない。
もう一つの心は、人がつねに囚われ惑わされ引き摺られながらも頼みがちな「分別=mind」だ。
あれとこれとそれと、どれがいいかと分別し選択しながら随従してしまっている日常的な「小さな心」だ、人はもっぱらこれを指針として、しばしば惑乱し混乱してしまう。
われわれの小さな心は、大いなる永遠の無・空・意識の「かげ」に過ぎない。鏡のような満月を地上にある無数の湖は、海も河も池も水たまりも、それを映 す。月(大きな心)は一つ、かげ(小さなマインド・分別)は無数にある。人の小さな心には始まりも終わりもある。大きな心に始まりも終わりもない。
はじめなくをはりもなきにわがこころ
うまれ死するも空の空なり 一休
* 和漢朗詠集から拾った詩句
烟 門外に消えて青山近く
露 窓前に重くして緑竹低し
唐人の詩、「晴」と題されてある。京都に暮らした風雅の人たちには身に沁みて愛唱されたろう。
風雲は人の前に向ひて暮れ易く
歳月は老いの底より還り難し
和人の詩、「歳暮」と題されている。
おもひかねいもがりゆけば冬の夜の
河風寒みちどり鳴くなり 紀貫之
古今和歌集の中でも一二に好きな歌。鴨川の京都がぱあっと目に浮かび肌に迫ってくる。
もうどうにも分別つかずに愛する人のもとへ歩みを運ぶ
「冬の夜」
河風のあまりな冷たさ寒さに千鳥たちも鳴いているよ、と。
* そこに和尚バグワンの声が聴け、ここに古人の詩歌によせた思いが酌める。幸せであり豊かである。世情政情の現況は、健康をはなはだ損じ、その顔は醜く歪んでいる。末世。
2015 12/27 169
☆ バグワンに聴く。
善をなすにつけ、悪をなすにつけ、おまえは行為者かの幻想で彷徨うている。何も善でないし何も悪でない。非凡な宗教は、行為者である根の思いを無に成せ と教える。行為者という我執の根も思いも無にせよと。人の行為は夢に過ぎない。目覚めると、悟ると、ただもう笑ってしまう。善人も悪人もみな夢を見ている のだ。と、分かると、例外なく人は笑い出す。笑っちゃう。目が覚めること。ゆめから覚めること。みんな夢だったと笑ってしまい笑いが止まらない、それが悟 りだ、光明だ。そう指さすのが宗教だ。
2015 12/29 169
* 最高の義人であったヨブは神のはからいで、信じられぬもの凄い「苦痛」「逆境」に息絶え絶えに喘ぎながら、神に向き合おうと、ついには反抗的な非難を すら投げかえす。三人の友がいてそれぞれにヨブに語りかけ、ヨブは承伏しない。三人の友をも批判しヨブをも批判してわかいエリフも語りかつ非難する。ヨブ は諾かず、なお自身の神に向かう義しさを主張し神への不満を神さながらに口にし続ける。
神が、語り始め、ヨブも答える。神の弁論は長いが、
☆ ヤハウェ(神)は暴風の中からヨブに答えて言われた。
この無知の言葉をもって
経綸(はかりごと)を暗くする者は誰か。
君は男らしく腰に帯せよ、
わたしが君にきくから、わたしに答えよ。
地の基いをわたしがすえたとき君は何処にいたか。
語れ、もし君がそんなに利巧なら。
誰が地の量り方をきめたのか、――君が知っているのなら。
誰が地の上に量りなわをはったのか。
何の上に地の土台がすえられ、
誰がその隅の首(おや)石を置いたのか、
朝(あした)の星がともに喜び歌い
神の子たちがみな喜びよばわったとき。
海がその胎からほとばしり出たとき
誰が扉をもってそれを閉じこめたか、
わたLが雲をその衣とし
暗闇をその襁褓(むつき)とLたとき。
わたしがその上に境をもうけ
門と扉とを打ち破ったとき
「ここまではお前は来てもよい、それ以上は駄目、
お前の波の高ぶりはここで砕かれる」とわたしは言った。
君は生まれてからこの方朝に命じ
曙にその場所を知らせたことがあるか、
地のへりをとらえ
罪人をそこから振り落とすために。
地は封印の粘土のように変わり、
衣のように色に染まる。
悪人からその光は奪われ
高くあげられた腕は折られる。
君は海の源に入ったことがあるか、
深淵の深き所を歩いたことがあるか。
死の門は君に開かれたか、
暗き門を見たことがあるか。
地のひろがりを君は見きわめたか、
その広さを知っているならば告げよ。
* こんなふうに神は延々と語る。読みながら聴きながら、わたしは「フェー」っと呻いていた、これはヨブといえども、ドモナラン。全知全能の造物主として 森羅万象の根源から「君は知っているのか」「見たか」「いたか」と問われていかに神にも同じい義に生きてきたと主張するヨブの神へのすり寄りは完膚無きま で砕かれる。
ともあれ、聖書世界は、あえて想像すれば旧約聖書世界は、「このような神」の君臨を全肯定して信仰している、乃至はしなければならないのだろう。
わたしはまだ神の弁論の一回目しか知らない。まだかなり長く神は語り続ける。
* 先日「炭」さんの長いメールの中に、こうもあった、「 元々カトリックは男女間の陶酔的な性を尊重しない傾向のある宗教と私は感じてきました。浅い理解ですが、神の望む愛に生きるためには俗世的な人間の幸福な どあり得ない、必要もないという宗教ではないかと。
「ヨブ記」のハッピーエンドは後世に書き換えられているものだそうで、原典ではヨブが神に見棄てられた まま野たれ死ぬことになっているそうです。この原典は現在の「ヨブ記」よりさらに素晴らしいカトリック的信仰の告白に思えます」と。わたしには関連の知識が無い、あまりに乏しい。
ただこういう感じは持っている、なべて宗派的な信仰には、奇妙に凝り固まった「立場」「建前」が豪奢に強ばった衣裳のように纏わり付いていて、それは信 仰のための逃げ場(アジール)になっているようだと。カトリックの性への姿勢にもそれが立場、建前という隠れ場・秘所となっていて、最後にはそこへ逃げ込 むけれど、そのぶん、偽善や虚偽の逆に肯定や是認とも安易にくっつきやすいと。どこかに無理と不自然とは無いのだろうかと。プロテスタントはそこに生まれ たのではないのかと。
わたしには分からない、強弁の資格はない。
ただ、こんな唖然とした思いに落ちた記憶がある。或るカトリック信者の作家と話し合ったときに信仰上の微妙に触れたときもその人が「われわれカトリック の立場では」と口にされ、思わずわたしは、あなたは「立場」で信仰されているのですねと確かめた。宗旨・宗派・宗門をわたしが遠ざけて寄らないのは、立 場・建前でするような信仰の不明な混濁を厭わしいと感じてきたからだ。「ヨブ記」はまだ読み得ていない。
それにつけても、このわたしが、懐かしく慕わしいほどに文藝・藝術としてまた読みたいと思い出しているのが、あの世界史的な詩の大作で名作である『失楽園』だということ。
☆ そして、バグワンに聴く。バグワンには宗門・宗派の偏りがない。だからイエスも愛されており、老子も、ブッダも、達磨も一休も、般若心経も 十牛図も真摯に敬愛され深く彫り込んでその根底から語られ説かれている。バグワンにしがみつく必要は少しもない、聴いてわたしがさらに受け容れさせに実感 すればよい。教えられ、示唆されてきた真実は深遠である。
2015 12/31 169