ぜんぶ秦恒平文学の話

バグワン 2018年

 

☆ バグワンに聴く  『般若心経』より

おまえはそれに気づいていないかもしれない。
自分がひとりのブッダであるなどとは
それは源であり
目的地でもある
ところが、おまえは眠りこけている

* いろは歌の結びに
あさきゆめみし
ゑひもせす
と有る。はかない夢をみたよ 酔いもしないが と読みやすい、が
浅き夢見じ
酔ひもせず
と、前句は否認・否定とわたしは読んでいる。
生きて今在ると思う、それが浅はかな夢であり、覚めよと教えられている。
この感懐のもっとも自覚的に熱く世を蔽おうとしていたのが、俊成が選した千載和歌集の時代かと眺めている。夢から覚めようと願う歌、夢だ夢だと自覚している歌が、秀歌が、かなりの数見受けられて、選歌していて何度もほろっとも、はっともして頭をたれた。

* 夢の大安売りは人の世の軽率な早とちりである。夢に浮かされず、覚めて励むのが本筋である。
2018 1/1 194

☆  「荘子」内篇に聴く
天から受けたものを十分に全うして、それ以上を得ようと思うな。要は己れを虚しくするに尽きるのだ。(亦虚而已) 至人の心のはたらきは、さながら鏡の ようで、去る者は去るにまかせ、来る者は来るにまかせ、(不将不迎) 対応しながら跡をとどめない。(應而不蔵)   (応帝王篇第七)

* バグワンにも「鏡」と聴いてきた、忘れたことはない。云うは易いのだ。

* 「自分の家」と題した、何年と知れないが「七月三十日、三十一日」と業務上の日付のある新聞記事の校正刷りだしが、もう明日には読めなくなるという古 びようで見つかった。妻に書き取ってもらった。記事内容には記憶がある、が年次は忘れ果てていて、機械の中に記録されているかどうかも不明。しかし記事内 容は自分史にとっては捨て去れないもの、見つかってよかった。あきらかに「畜生塚」時代の思いなどを後年へ反映させている。危うく拾い取った。おおよそは 読者には知られている認識ではあるが「文章」というものは、いろんな面でメモとは別の顔色をしている。
書き写しておく。
2018 8/6 201

* 手の届くところにバグワンの講話本が九巻もある。一番手近な『般若心経』はもう藺篇もうことごとく絶ち頽れてかろうじて表紙でくるんであるだけ、手荒に繙いたわけでなく繰り返し読み耽った結果であるが、むろん捨て去れはしない。
わたしはバグワンの呼びかけに向きあうとき、かれは本のうえでは「あなたは」と語るが、わたしは「おまえは」と聴くことにしている。

☆ バグワンに聴く
おまえは、ねむりこけている。おまえは自分が誰かを知らない。おまえはそれに気づいていない、夢に見たこともないかもしれない、自分がひとりのブッダで あるなどとは。誰ひとりとしてほかの何ものでもあり得ないなどとは。ブッダフッドこそまさに自分の実存の本質的中核であるなどとは。それは源であり、そし て目的地でもある。ところが、おまえは眠りこけている。お前は自分が誰かを知らない。覚めなさい。

* バグワン一人の示唆ではない。久しい日本史の多くの男女知識人たちは自分が夢に生きて夢から覚めたいのに覚められないのを歎いている。和歌にうたわれる「夢」の文字には歴然とその苦い嘆きが籠められる。
わたしも、その一人のまま、迂闊な顔で歳を喰ってきた。
2018 8/7 201

* もりとも・かけい・安倍総理夫妻、自民党代議士、日大監督・理事長、ボクシング会長・理事会、東京醫大。
ウンザリ報道の尽きぬ連鎖。ウンザリしながら目も耳も背けておれぬ情けなさ。

* 目も耳もただ洗いたくて異世界文学に全身で親しむ。

☆ バグワンに聴く
人間は芽生えつつあるブッダなのだ。芽はちゃんとあり、いつ何どきにでも花咲き得る。すでにそこにある。<寶>はそこに在る。もう少しの目覚めが必要なだけ。
2018 8/8 201

 

* 九時半、『ゲド戦記』第五部「アースシーの風」完結編を深い静かな感動で読み終えた。いま、あらゆる読書体験の中で選ぶとしても、一に、この、ル・ グゥインの名作を指さすだろう、この作品には帰依していると謂うていいあのバグワンの教えが、澄み切った風のように流れて生きていると感じる。この一ヶ月 ちかく、わたしはこのゲドやテナーやレバンネンやテハヌーやハイタカのおかげで幸福だった。陶淵明の詩にも通いあう幸福感であった。
2018 8/9 201

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