ぜんぶ秦恒平文学の話

バグワン 2020年

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

62 *  2004 08・01     バグワンについて、ときどき人に聞かれます。雑念をもちたくないので、検索サイトで出て来るバグワンに関する総ての情報に、わたしは遠のいて無関心 でいます。ひたすら「個と個」で向き合っています。『存在の詩』『般若心経』『究極の旅=十牛図』の順にバグワンに近づいたのでした。『老子 道(タ オ)』その他にも。十数年、同じモノに躊躇いなく反復向き合ってきました。ただし内心から切実に求める気持ちになれない間は、バグワンに接してもたいした て何もえられず、逆に高慢のはたらくおそれがあります。無心に切実に望む気持ちがあれば、こよなき叡智に触れることになりましょう。少年の昔から多くの聖 典や啓蒙書を経てきて、たまたまバグワンに辿り着いたわたしですが、そう、確信しています。
この人、祖師でも教祖でもない。少なくもわたしはそのようには触れ合っていません。透関した人。達磨のようにコワイけれど、深い深い海のよう。高い高い青空のよう。知的興味で接しても無意味な相手です。
「降参」して「帰依して」かからないと。口先だけの興味では何のタシにもならず、多くをむしろ逆に失うでしょう。  2004 08・01
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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

63 *  2004 08・24     おまえの内なるブッダにごあいさつする、とバグワンは『般若心経』を語り初めています。
そしてこう語り継ぐ、おまえは夢にも気付いていないが、おまえは現に既に一人のブッダであり、ブッダフッドこそ誰一人の例外なく自身実存の本質であり中 核であり、それは、これから外からおまえに訪れてくるようななにものでもない、ブッダフッドはおまえの「最初」にあり「最期」にもある根源の境地なのだ が、ただおまえたは正体なく眠りこけていて、それに全く気付いていない。おまえが今在るのは、まさに、そういう「気付かない存在」としてであり、真に目が 覚めさえすれば、おまえは、すでに未生以前よりブッダフッドに住しているのだよ。
バグワンは、そう云います。
* 決定的な指摘だと感じます。では、どうしたら目覚めるのか。われわれはそこで手短かに how to を求めていろんな手段へ奔走し、しがみつき、苦労して修業したり学問したり信仰の柱に抱きついたり、心身を苦しめたりします。エゴそのもののむき出しの奔 命をもって尊しとしはじめます。ああ。すべてそれは夢の継続であり、妄執の睡りは醒めるどころで、ない。
* 世界史的な大哲ヴィトゲンシュタインは、哲学の役割は、「哲学」では何の役にも立たないことをわからせることだと喝破しています。
それはこういうことだと、バグワンはわかりよく謂います、高い梯子の頂上までは哲学でも連れて行けるが、その先の一歩へ歩み出すのには、「哲学学」など 何のタシにもならない。百尺竿頭一歩をすすめよと禅のいうその先の一歩へは、梯子世界とはまったくべつの「目覚め」で進み入るしかないと。
しかしそれには聖典も苦行も知識も何一つ役に立ちはしない、ともバグワンはニベもない。
ではどうすればいいのかではない、そのことに翻然目覚めねば、おはなしにならないと。目覚めが来る、それは待つ目覚めであり、本当に目覚めたら人はその瞬間おのづと高笑いして、その、自然なゆったりした境地を受け入れる、と。
いかなる聖典も目覚めるための役になど立たない、目覚めた人が、ああ目覚めたんだと自得するのにはすべての聖典はすばらしいけれど、と、バグワンは云う のです。その謂う意味はさこそと、奥ゆかしい。わたしのこのような言表も、かなしいかな目覚めぬ前の世迷い言にすぎません。バグワンが仏陀のように達磨の ように透関した人だとは信じられるけれど。
* 人は、じつは自分が見えても分かってもいないのに、自分のことは自分にはよく分かっている見えていると思いこんでいる。しかし、その自分像とは、取り巻いている他人たちが自分を見ての意見や感想や褒貶の「集合」像に過ぎない、と、バグワンは云います。
ところが、そういう大勢の「他人たち」が、また銘々に自分のことをそのように思っているのだから、滑稽なことになる。自分のことなど何も分かっていない 他人が互いに他人を見合っていわゆる「自分」が虚成されているに過ぎないとなると、これは滑稽なことだではないか、と。  2004 08・24

* そんな滑稽を、まだまだ担ぎ続けているなあと、笑ってしまいながら、滅入る。
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64 *  2004  08・25     昔から「悟る」という言葉を人はいともやすやすと使いながら、それがどんな境地であるのか想像すら出来ず、つまりは俗用の語彙に勝 手気ままに利用してきました。そしてほんとうに「悟る」ことの想像もつかない難しさに対して、畏敬の気持ちを、とても及びがたい断念をもち、悟ったといわ れる人たちの逸話を羨望しました。夏目漱石も参禅しては門の前から引っ返していました。あの人は「悟った」が、自分は「悟れない」といった気持ちを大勢の 修行者たちはもってきたわけです。
だが、あの人は、自分はと、つまりは個々の分別や自覚で「悟る」というような考えは、それ自体「悟る」という転機からは千里も万里も離れているとバグワンが云うのは真実でしょう。
自分が自分で「悟る」などという物言い自体が撞着しています。そこに「自分」があるかぎり、なんで「悟り」のありえましょうか。
「どうしてひとりの人が悟ることなんかできる?」とバグワンは云います。そんな観念自体が、悟らない心(マインド)の、執念き一部にほかならないと。 「私は悟った」などというその「私」が落とされていてこそ「悟り」はいつか来る。無心に待てない、待ち「かまえ」ている私・自分・人に、「悟り」の目覚 め・気付き・ enlightend は起こりようがない、と。
おそらくバグワンは正確に語っているのでしょう、わたしは、悟りを求めて待ちかまえてジタバタする気、ありません。「今・此処」になるべくゆったり自然 にいながら、その至福の瞬間を忘れて待っていたい。バグワンの言葉を頼むことすらなく、ただただ音読し聴き続けているのは、なにかが分かりたいからではな い。その時をただ楽しんでいるだけです。  2004 08・25
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65 *  2004 09・04    己が神への狂信と、異なる神(徒)への憎悪。それどころか、ともに同じ神を信じながら、同じその神の名にかけて、何の痛みもなしに為しうる惨虐。信仰という抱き柱を凶暴にふりあげて、不毛の残虐が為されています。
我(我々)と彼(彼等)との、容赦ない乖離と、殺傷をことともせぬ利害衝突。バベルの塔の不遜に対し、さまざまに言葉を異ならせてしまった神の罰は、あまりに苛酷に過ぎたとわたしは思っています。
はっきり言います、人間の不幸は神の意志に胚胎しています。人間の愚かも又、同じ。
神は在るでしょう、が、人間はそれを忘れた方がいい。人間は己の足で立つのです。歩むのです。手を繋ぐべきは神とではない。隣人とです。それも偽善(ウソ)クサイかも知れない。
わたしは「真の身内」を願いました、神よりも仏よりも。
バグワンは、もうおまえはブッダであるじゃないか、気が付いていないだけだと、言ってくれます。
まだ気付けないし目覚められませんが、その時が来ると思います。待たずに待っています。
人を愛しながら待っています。人のためにも待っています。  2004 09・04

* 東工大では講義の毎時間に大教室を満たしていた学生君達に、容易には答えにくい「問一問」を強いて応えて(出席票の余白に書いて)貰っていた。ある日は「不安か」と問い、驚くべき多数が単なる目先のそれを超えて現代の不安を感じていると答えていた。
東工大の学生達の勉強は、広範囲に例話すれば「手・」技術」に関わっていた。わたし自身は時代と人間を批評し始めた最初から「手」を思い『手さぐり日本 手の思索』は私の批評の主要な柱になっていた。そのなかでも私が言うた一つは「手直し」の知恵の必要であった。
今、世界は、人間は、「手」の産む利便に引き入れられながら「手もなく」我を忘れて浮かれている。最たる一人がトランプであり、その追随者ないし迎合・ 便乗の政治・経済であり、遺憾にも多くの若い人たちではないか。「手直し」の利かない「手」ほど危ないものは無い。今こそそう思う。
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66 *  2004  09・05    エックハルトは、最初の説教で、神殿から商人達を追い出すイエスにふれています。神殿とは、神の己れに似せて創った人間の「魂」のこ とであって、魂はからっぽで、そこには神だけが在るべきだと言うのです。「商人」という措定にエックハルトは「取引」という言葉を引っ掛けています。「商 人」にアテツケて、あれこれをことばの質にして神に願い出る者たちをエックハルトは指さし、そんな「取引」に神はまったく応じないと。そういう取引に奔走 する商人なみの人間どもは、神殿に無用であるとイエスは追い出すのです。
祈願という言葉の虚しさにわたしが漸く気付いたのは、数年ほど以前からでしょうか。願い祈りたいのは人間の真情の尤も赴きやすいところですが、だからわ たしは自分自身にも悉くは否認しづらいのですが、すくなくも「吾が為に」いろんな誓いを差し出して「祈り願う」ことは控えています。
他者の為にはまだ祈り願うことは容易に止められません。  2004 09・05 2020 1/6 218

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67 *  2004 09・10    思考・分別。良いことの代表のように思っていますが、それらが「外」世界を支配する「心=マインド」と称して、人をわるく愚かに利害本位にコントロールしてしまいます。
政治屋は、その尤も図々しい手先なのでしょう。
宗教屋と教育屋はこれに次ぎます。  2004 09・10
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68 *  2004 09・30    頭と頭とのただのコミュニケーションでありたくないですね。ハートとハートとのコミュニオンでありたい。知識で動かされるコミュニケーションでなく、フィーリングでとけ合えるコミュニオンでありたい。
コミュニーケーションでは、「ただ言葉のみ与えられ、言葉のみ語られる。ただ言葉のみ受け取られ、」単に知解されてしまいます。言葉だけでは生き生きと した本質的なものは伝わりにくい。言葉は不十分なツールに過ぎません、だからこそ叮嚀に活かして用いねば。言葉はとかく不足するか過剰になるか。それが言 葉。コミュニケーションにはそんな言葉に頼らざるをえず、コミュニオンでは往々、なにも云わなくてもわかり合える。
これが、バグワンから早くに得た、一つの強い足場でした。言葉では言いおおせない、その近くまではやっと達しられても。ということは、恐らく小さい頃か ら感じていたことなので、バグワンの曰くは、すぐ得心しました。老子らが、言葉にした瞬間に真理は真理でなくなるのだと何より先ず説いているのも、分かる 気がしていました。
過剰に言われると、往々かえって事がウソくさくなります。雄弁は銀、沈黙は金という機微でしょう。沈黙とは、言葉数を少なくしてひと言の表現力を強くする・高めるということ、あーあ、しかし、なかなかそう行かない。   2004 09・30

* いま、なにが心から悦ばしいことか。家族や友知人の健康。創造的な佳い言葉との出会い。

* このところ、毎日、静かな懐かしい音色のジャズ・バラードに身を包まれて機械部屋にいる。

御幸道(ごこみち)のむかし目に見え雪の朝   遠
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69 *  2004 10・01   人が一本の中空の竹となったとき、天籟がそれを鳴らす、と。響かせる、と。
このバグワンのイメージ、すばらしい。
かぐやひめが竹にひそんでいたように、竹誕生の伝説は、南海諸島にことに豊富で、やはり、中空の竹に対する憧れが多く語られています。
今にも自身が中空の竹であり得たらと、その実感を求めて、とても強く憧れます。なにかがその竹の空洞を鳴らすように近づいてきます。闇を懐かしむのと似 た感覚。エゴという余分な混雑物=フシが竹の筒からすっきり抜けきり、そうそうと風が吹き抜けて行くような、一本の中空の竹。
眼を閉じていて、いましも、しばらく眠っていました。とろとろと。いっとき、からっぽになっていました。ここちよかった。  2004 10・01
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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

70 * 2004 10・04   わたしの脚色した俳優座公演、漱石原作「『心 わが愛』のキイワードは「身内」でした。
『身内』とは。
バグワンは、ヘッドトリップとハートトリップということをよく言います。ヘッドトリップとは分別心、それでは人間関係のなかで信じたり疑ったりを反復し思議しているに過ぎません。まだ他人と他人の仲です。ハートトリップなら「身内」に近づいているといえます。
疑いは半欠け、信用も半欠け、それは同じことの表裏にすぎないとバグワンは言うのです。
幼な子は父親の手にすがり
父の行くところならどこにでもついて行く
信ずるのでもなく、疑うでもなく――
これは「父よ」とただよんでみるだけで済む「子」の全的な信頼・帰依を示唆しています。
信じたり疑ったりの繰り返し、それを ヘッドトリップといいます。父と子との譬え、それをハートトリップといいます。恋は所詮ヘッドトリップ、わたしの 謂う「身内」は全的なハートトリップだろうと思います。「恋は罪悪です。しかし神聖にいたる道だ」と『心』の「先生」は「私」に向かって繰り返し言う。神 聖とは「身内」の意味でもありうる。「先生」も「K」も、恋の心で心騒いで「静」をついに得られなかった。彼らは「お嬢さん」「奥さん」のほんとうの「身 内」になりきれなかった。
ヘッドトリップの人であった漱石は。それに自身も気付いていましたから、則天去私を願った。願ったと言うことはそれに達したという証拠にはなっていな い。「先生」も漱石も気の毒な人でした。むかしむかし、中学前に、息子の建日子は『心』を父親のわたしに読んで聞かされて、「なんて可哀想な…K」と泣き 出しました。
わたしは今は、やはり「先生」の淋しさを、気の毒に感じます。  2004 10・04
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71 *2004 10・05    ☆ 完全に女性的に子宮のように受容的にならなくてはならない と。読んだ瞬間に驚きました。バグワンほどの人物も、こういう表現をするのかと、びっくり。
子宮のように受容的という表現に、男の女への思い込みや都合のいい理想化、あるいは性的な力関係の優越性の匂いを感じました。大袈裟ですか? 受容的は よい意味で使われていますが、それでもわざわざ女性と子宮と譬えるのはどこか何かが「ちがうのとちがうやろか」僻みかもしれませんが、差別を受ける側とい うのは重箱の隅をつつきたくなるもの。
本筋で、バグワンが女性を低く見ているとはまったく感じませんし、この本のテーマに影響のあるものでもなく、こだわるつもりはありません。でも、この表 現、無意識の無神経さというか長い間の男性中心文化の厚みの壁なのかと感じました。バグワンの言葉に何度も心安らぐ想いがしているので突然のこの表現に狼 狽したのでしょう。 都内読者
* > 完全に女性的に、子宮のように受容的に
ユダヤ教、キリスト教、回教以外はといえるほど、信仰の深い基盤は「女性性」にあるとは宗教学の常識で、女性的な、時には露骨に女体に譬えたいろんなメ タファー(隠喩) が、いろんな宗教に氾濫しています。一例が、老子は「谷神」と謂い、また「玄牝」と謂っています。受容、帰依、降参、みこころのままに、みなその深い意味 は、底知れぬ豊かな慈悲にあふれた女性・女体的受容でしばしば譬えられて来ました。バグワンの失礼な偏見というのではなく、むしろ女性的なものへの信頼と 敬意に満ちたメタファと考えていいのではないか。バグワンは、どこからどうみても、最も本質的に深遠な世界の基本は、「女性性」だと確言しています、真実 に最も近いメタファとして。
だから、暫く目をつむって、「子宮」という語をメタフアとして容認して欲しいと思います。それに子宮・秘宮という語自体にもともと深い敬意が籠められていることにも気付いて欲しい。膣とは違う。
真の宗教家に男性中心文化の人は少ないのではないか、むしろ本質的な人ほどみな「女性性」に対する世界観上の敬愛を持っています。キリスト教徒でも例外でなく、むろんイエスも。
バグワンは男性本位者では全然なく、彼はここぞという機微では「女性性」に頭を垂れ、それなしに世界は無かったとしています。わたしはそう聴いて読んでいます。
> バグワンの突然のこの表現に狼狽したのでしょう。
これは、この人が、本当に神的なものに帰依し信仰し降参してこなかったことを告白しているのと、同じ。バグワンはここで「子宮」という一語に、愛の根源 を、世界の原型を見ているのですから。信仰とは、それへの信仰でしょうよ、どの宗教であろうとも。「母」と読み替えればいいのです、あたかも「母に受容さ れたい」のが信仰の喜びでありましょうから。
* 子宮事件で作者自身が有名に仕立てた話は、瀬戸内寂聴さん。まだ駆け出しの頃か、小説に「子宮」という言葉をつかったのが非難されて、以後永く仕事 の依頼が無くなったと、何度も書いたり話したりされています。それを聴いたり読んだりしたつど、わたしには現実のことと思えなかった。子宮は、鼻とか口と か胃とか腎臓とかとちがい、神経ともならんで、むしろ尊称にも近いのに。そして世界の生成の秘儀を創造するときに、男性原理などものの役に立たない、根源 は女性的受容にこそ創成の真意は成り立つぐらい、直感的に分かりそうなものです。
老子の、「玄のまた玄、衆妙の門」 と謂い、また 「谷神死なず、是を玄牝と謂う」 というのも、その喝破でしょう。  2004 10・05

* 「女という不思議」に感動を覚えてなかったら、小説は「書け」なかった。「読む」楽しみももてなかったろう。天照女神、木花咲耶媛、少将滋幹の「母」  光源氏の「桐壺、藤壷、紫上、宇治中君」芦刈の「お遊さん」谷間の百合の「モルソーフ夫人」心の「奥さん」たけくらべの「みどり」徒然草のはじめに点綴 される「俤の女」……
笑い話のようだが、小説を書こうと書き始めた最初は、国民学校(小学校)の一、二年生で、武士が武者修行に出かける場面だったが、ものの二行と書けなく て「ヤメ」た。バン・ダン右衛門や岩見重太郎を知っていたのだ、が、彼等は「男」で、何の「不思議」も感じにくい「石」のようなモノだった。ダルシネアや アルドンサを感じ、信じ、愛していない「ラ・マンチャの男 ドン・キホーテ」では、どうしようもない。
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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

72 * 2004 10・07    バグワンは云います。
帰依、降参、無条件の受容  そこまで行けば言葉やシンボルは必要ないと。
「本当のこと」はその言葉のすぐ脇で起こる。言葉はひとつのトリックでありひとつの方便にすぎなくなる。「本当のこと」が影のようにその言葉に寄り添う。
おまえがあまりにも心にとらわれてしまっているとき、(ヘッドトリップしているとき、)おまえは「言葉しか」聞こうとしない、読もうとしない。それでは「それ」は伝わらない。
もしおまえが分別のマインドに、心に、こだわらなければ、そのとき言葉に伴っているとても微妙な真実の影 とても微妙で、ハートだけがそれを見ることの 出来る不可視の影 意識の不可視のさざ波 波動(ハートトリップ)  それが伝わり コミュニオン(身内の愛と理解)が直ちに可能になる、と。
2004 10・07

* いまも、深く肯く。
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72 * 2004 10・09    バグワンには、なにかの「効果」「効用」を気ぜわしく望むことなく、静かな目覚めへの詩(うた)のように、ノーマインドで聴きつづけたい。聴くだけでいいと思います。「考え」なくていいと思う。
彼は云います、「考える」とは選択することだ、つまりトータルに受け容れることが出来ず、偏狭に、まず、いいとわるい、美しいと醜い、正しいと正しくな いなどと「分別=マインド」した上で、いいを選び、美しいを選び、正しいを選ぼうとする。だがそういう「分別」という判断は、所詮はわるいこと、醜いも の、正しくないものと表裏して、必然もう一方も引きずる。しかも瞬時にころころと態度や行為の中で反転し交替してしまう、と。
心=マインドは頼れない、善人も悪人もない、人間の心は瞬時に千々に乱れたり騒いだり砕けたり惑ったりするものだと、さしづめそれが漱石の把握した、「心」という頼りないシロモノの正体でした。
考えて分別するのでなく、あるがままに観じながら生きたい。だが、だれにでも出来ることではない。もし仏陀を、もしイエスを、もし老子を、もしバグワン のようなマスターを「観じ」得たならば、ためらわず聴き、求め、あっというまにすれ違ってみのがしてしまうことのないようにしなさいと、バグワンは云って います。彼が正しいとか正しくないとか考えているヒマは、もう、わたしには残されていない。ほかに何も見当たらない、感じられない。だからただ彼に聴いて います。抱きつきもしない、縋りもしない。ただ聴いています。
親鸞は地獄があるか極楽があるかも知らない、分かろうとも思わない、ただ法然先生が念仏すればいいと云われるのだから念仏するだけだ、それで瞞されていようが地獄へ堕ちようが、ほかにどうしようがあるものか、と云っていました。
親鸞は法然とすれちがって二度と逢えないこわさを、瞬時に悟ったのでしょう。  2004 10・09
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74 * 2004 10・14    人間の所業に「もっともっと」が価値をもつことも、無いではない。たとえば藝の道など。わたしはそれをしも、そんなに潔いとも崇高とも想わないのですが。
自然な鈍磨にはそれなりの美があるものです。若きより老いにいたる自然な曲線を幸いに設定されているのに、ことごとしく逆らってみることを時に勇ましくも、時に愚かしくも思うのですよ、わたしは。
ましてたかが企業利益の、前年同期**パーセント増などという見込みを果てしなく願ってみても、壁に突き当たり奈落へ沈むのは当たり前の話です。昔、管 理職のはしくれで年計画のそういう提示を飽くなく上に求められ続け、あさましいなあ企業というのはと、ほとほと苦笑ものであったが、バブルの夢はあえな く、世をこぞって潰れていきました。
ひとによれば「もっともっと精神」こそが文明開化の幸を人間にもたらしたと思っているでしょうが、それは機械文明にほぼ限られていて、その機械文明がも たらしたのもたんに「便宜・便利・安楽」という薬効に過ぎぬ事、この薬の毒性もまた甚だしいということは心得ていざるをえません。それが、ほとんど人間の精神を 根から荒廃させつつあるのかも知れぬという視点を、はなから喪失しているから、世間にも世界にも、ロクなニュースがないのです。バカらしい。
* バグワンは、例えば智者で哲学者であるバラモンたちを、「頭=ヘッド人間」として批判します。あまりにも多く知りすぎて、概念を、理論を、教理を、 聖典をかき集められるだけかき集めて「もっともっと」とヘッドに溜め込んでいるが、それは根から「開花」したものでなく、「起こった」ものではなく、すべ て外からの「借り物」であり、つまりは腐ってゆくだけのガラクタでしかない、真の無智を覆い隠す心のトリックにすぎない、と彼バグワンは言う。ほんとうに そうだと思います。
或る大哲学者は、もし「哲学」が真に「役立つ」とするなら、それは、哲学なんてものが人間の最後の最後には何の役にも立たないと「分からせる」ことだと言い切り、大事なのは、そんなヘッドトリップから、百尺竿頭さらに一歩をすすめるハートトリップであると言っています。
知識では決して賄えない秘密の世界が、明快な世界が、ある。あれかこれかという分別でなくトータルにその世界を enlighten する一瞬を、「求めず」に、つまり自我=エゴ=分別=マインド=心を「落とし」て、「待て」と、バグワンは云うのです。
「もっともっと」が、エゴの拡充でしかないトリップでは叶いません。
* 或る意味で優れた人は、たしかに、おおかた「もっともっと人間」であったでしょう。そこから綺麗に enlighten した人も、そうは願わなかった人もいるでしょう。中でも政治家は例外なく「もっともっと」の欲の塊であり、だが、バグワンはその生態はつまりは「梯子登 り」に過ぎないと言い切ります。
梯子のテッペンへ上がりたい。それが大統領、それが総理大臣、だが、それが何なんだと言うのです。それだけのことだ。「人のため」という巧言令色で権力欲という襤褸を隠した、大方がただもうあさましい無意味な存在だ。
明治維新の政治家達も、国民を利用するだけして、政体が整うと、あとはえげつなく国民を足蹴にしてくれました。歴史的な敗戦への素因をもののみごとに積み上げつづけたのでした。「もっともっと」の欲深さで蠢いたものらよ。
* 法然や親鸞は、優れた智者たる「もっともっと」を綺麗に棄てていました。蓮如は、優れた宗教家ではあったけれど、法権の組織者として 「もっともっと人間」で終わることを免れなかった。今にのこるそのシンボルが、本願寺です。宗教・宗派ほど政治とくっつきやすいとは、古今東西の実例が、 あまりに数多く如実に教えています。バグワンが徹底的に政治家と聖職者とを同列に批判するのも無理からぬ話です。  2004 10・14
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75 * 2004 10・18     バグワンは、人はどうかして自分が「誰かさん somebody 」でありたがる、と言います。自分は作家ですとか、弁護士ですとか、代議士ですとか、俳優ですとか。それも、どうしても、人気作家ですとか、腕利き弁護士 ですとか、大臣になりましたとか、売れっ子ですとか思いたがり言いたがる。支えているのはエゴで、エゴである限りにおいてお好きにどうぞというところです が、所詮は梯子のぼりの藝当にすぎません。梯子をただ高く登ってそれが何なんだと言えば、何だとも言えたことであるわけがなく、いずれ「死」の波にザアと 流され影も形も消え失せてしまいます。「誰かさん」けっこう。けれどはかない限りと気も付かぬまま、ちいさな裸の王様が無数に存在している、その一人でど うかいたいいたいとは、囚われているというしかない。そういう人は、いつまでたっても、「誰でもない人 nobody 」の強さや、確かさからほど遠い。
バグワンはずいふん聞きづらいことをジャカジャカ言ってくれる人ですが、なんでそんなに「誰かさん」でいたいんだと聞かれるときは、耳がちぎれそうに痛 い。だが彼のいうことは確かで、逸れていませんね。「誰かさん」という真っ黒いピンを針ネズミのように五体に刺して奔命し奔走してきた自分を、過去に否認 は出来ません。では、今は。それにしがみついていないか。いないと言いたい自分に十分気が付いている、とだけは言えるのすが。  2004 10・18
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76 * 2004 10・19     云うまでもなく、バグワンは「梯子上り」を全否定はしていませんし、わたしも。そもそも、それが「梯子登り」以外の何物でもなさそうだとは、年を取 らないと分かりません。やるだけやった者にしかじつは分からないのかも。ヴィトゲンシュタインも、「哲学」をはなから否定するのでなく、哲学が「何の役に も立たない」ということを本当に分かって、それ以上のところへ出て行かねばと分かるために「哲学があるのだ」と云っています。
微妙ですが、「nobody」の確かさを分かるためには「somebody」の道を通らざるを得ない。そうすれば「somebody」であるだけでは本質の安心と無心には至れないことに気が付くと。
険しい道です。難しい。いや、難しい。  2004 10・19
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77 * 2004 11・08    くらい、あやうい夢をつづけざま見ていました。アンナ・テラスの世界、「先祖」の世界、明治十七年の悲惨な農民達の世界、応報を説いてやまない今昔物語の世界。
バグワンは、老子を語り、老子の本文から、ぎりぎりの限界まで弓弦を引き絞ってしまったら、そこまでしなかったらよかったと必ず悔いるものだ、と言っていました、ゆうべ。
人生の綱渡り、まっすぐ渡りたければ、右に左に、揺れては戻すのだとも。
わたしは、まだ、はるかに遠い。  2004 11・08
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* バグワンは澄んで曇らぬ鏡のようであれ、来る者は写し去る者は追わぬ。去来にとらわれることなく、しかもくっきり写せと。いい教えと思う。
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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

78 * 2004 11・09     いまバグワンの老子を読んでいたら、
弓をぎりぎりまで引き絞れば、
ほどほどのところでやめておくべきだったと思うだろう……
という言葉を、繰り返し、いろんな角度から語り継いでいました。
「老子」本文では、 持而盈之、不如其已、 の八字。 盈 とは、過剰に十分に至ろう、もっともっとと逸ることだと謂われます。わたしの手元の沢庵禅師 の解ではそうです。で、そんなことは、やめたがいいというのが、次の四字。つまり、ぎりぎりにまでものごとを追いつめてしまうと、総てを喪失しかねない。 バグワンは、バランスを忘れるなと言うのです。
レバノンの詩人・哲学者のカリール・ジブランは、恋人達は寺院(愛)の互いに「柱」のようであるべきだと謂っています。バグワンがそう話してくれまし た。柱と柱とは同じ屋根を支えてはいる、けれども彼等があまり近づきすぎたら、またあまり遠ざかり過ぎたら、寺院全体は崩れてしまう、と。(あまり賢すぎ るような気がして、わたしは少し不満ですが。)
バグワンはこれが愛のアートであり、コツだと言うんです、これにも少しわたしは拘りますが、バグワンは、愛し合う二人が近づきすぎるとお互いの自由を侵 害し合うと警告しています。誰しも自分のスペースを必要とするものだ、愛は、それが互いのスペースと共存するときはビューティフルだけれども、侵害し始め たら有害になる、と。
まったく聡明なバランス感覚で抵抗しにくい。けれど、愛、いや恋とは、余儀なくこういうバランスを乱し合ってしまうことで、悩ましくも、愛おしくも、烈しく深くも、憎らしくもなるものでは…という思いは、感想として持つのですよ、わたしは。
ただ、そういう喜怒哀楽に拘泥的には立ち止まらないでしょう。そういうものだと眺めて、やりすごします。所詮は「理」でも「理詰め」でもなく、文字通りの「解・決」などはつかない、ハートトリップなのが、愛や、いい意味の恋だろうなと思うですだ。
それにしても、つい、何かにつけ、弓をぎりぎりまで引き絞って、動きの取れないはめに自ら陥ることはあり、バグワンに叱られてしまいます。ダメなヤツであります、わたしは。
バーナード・ショウは、「ひとりの人間が愛に於いて賢明になるまでには、その人生は終わってしまっている」といっています、とか。ごく年老いた人は、愛に於いて賢明になるが、愛の可能性も終わっている、とも。
憎らしいことを言うなあ。彼ショウは、しかしこんな切実なことも言います。
「私はいつも、なぜ神が青春を若者達に費やしてしまうのか、不思議でしかたがない。それは、より賢く、人生を生きてきていろいろなことを知り、ひとつのバランスに達している老人にこそ、与えられるべきものだ。ところが神は、青春を若者達の上に浪費しつづける」と。
ショウは、老人を甘く評価しています。老人が「賢い」などと言えるかどうか、わたしは、我ながら疑問に感じています。  2004 11・09
2020 1/18 218

 

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

79 * 2004 11・23     何かを営まねば人は安心できない、そしてその営みから概して傷ついて、それも癒さねばならないんです。マッチポンプですが、それを射抜いて「弁証法」という方法論も生まれたのが人の世でした。
バグワンは『道(タオ)』の中で「九九の陥穽」ということを語っています。
無心に平和に生きて悠々とした人に、強いても九十九枚の大きな金貨をやると、ふしぎにもう一枚の金貨を加えたなら百枚になる、せめては百枚にしたいと願 い初めて、無心も悠々もまんまと棒にふるものだ、マインドという分別で生きねばならない人間の陥穽は、せめてもう一枚、もう一寸、もうちょっと、ちょっと の果てしない「もっともっと」で地獄に堕ちて行く、と。
そして百枚になればそれで満足しなくて百一枚に二枚にと追いかける。それが「向上」だと思いこむが、必ずそれが地獄への転落になる。事実成っているのが普通だ、と。
普通かどうか知りませんが、バグワンの辛辣な観測には服しています。「退蔵」の二字をわたしが、なかなか出来ないままにも「理想」として見ているのも、「九九の陥穽」を実感として予測するからです。
もっともっとと生きねばならない人生の坂道がある。息子の秦建日子など、まさにその坂を歩んでいます。登っている。それが価値的に輝く時期(ステージ) と、それがあさましく腐朽してくる時期とが、あるものです。誰にも。  2004 11・23
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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

80 * 2004 12・06      知識は無際限にあらわれます。いくらでも教わり蓄えられる。しかしどんどん移り変わって行きます。知識に関しては若い者が確実に年寄りを凌駕して 行くのは当たり前の話。「知識という分別」に関する限り、若者はいつの時代でも年寄をバカ扱いしてきました。九十の老人の知識はそれだけ古びていて、二十 歳の若者の新知識に並べるワケがない。だが、それとてもどんどん移り動いてゆき、定着する知識というのは想像以上に少ない、いわば賽の河原。もっと適切に 謂えば、青空を覆い隠しながら湧いては流れて消えて行く、無際限な雲の群れのようなのが「知識」です。
「智慧」はちがうと、バグワンは云います。智慧は雲の彼方の不変普遍の青空のように在り、知識とはまるで異なる。青空は決して移動も消長も増殖も雲散も 霧消もせず、永遠の過去から永遠の彼方にいたって、なお実在します。智慧は青空のように在り、人がそんな智慧に至る(=気付く)には、普通の場合、滴が垂 れて湖になるほど時間がかかるそうです。
東洋では智慧を重んじたので老人が重んじられましたが、西洋では分別可能な知識が優先されたので、老人は歴史的に重んじられにくかった。
バグワンは、ゆうべ、そんなことをわたしに語って聴かせました。わたしはそれをもう数度も聴いています。聴いているだけです。分かったなどとは云わない。
普遍の青空と浮動の雲霧。智慧と知識。
なるほどと、そういうふうに受け入れられる実感への素地は作ってきました。  2004 12・06

* 打てば響く と教わってきた。ただ動けではない、向かうべきは正面で迎えよと。
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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

81 * 2004 12・28    人は死を敵視し、恐れ、かつ死と闘って生きてきたと謂えるでしょう。だがこの勝負に勝った者はいません。死を「敵」と思ってしまうことが、人を不安と動揺のさなかに戦(おのの)き漂わせてしまうようです。
生まれた瞬間から人は「死とともに」生を歩み始め、死を身内に育みながら生きてきました。死は、「同行二人」の人生の最たる伴侶なんですね、そう思え ば、死を敵視した戦闘的な不安はなくなる、と、わたしの書くこれよりもっと効果的、適切な物言いで、バグワンはわたしにいつも語りかけます。
死と闘って一寸逃れに藻掻き苦しむ不安や恐怖から、人は所詮勝って逃れられるなどということは、ない。死は生の敵ではなく、生まれたその時から友であった。これ以上もないほどしっかり手に手をとって歩んできた、自分自身の「影」なのでした。
ゆうべ遅くに、こんなメールが来ていました。
☆ バグワンは言います。
人が<わが家>に帰り着いたとき
そこには何ひとつやることなんかない
人はただあらゆることを忘れ
そして、くつろぐ
神とは究極の休息だ
これを覚えておきなさい
482頁「存在の詩」
憧れています。でも、少し怖い。この神は死を通らないとたどり着けないのですもの。
自分はまだ中年の若者。試行錯誤して迷い惑い回り道して、いつかここに行きます。  蝸牛
* このバグワンの云う境涯を、この人は「死後」に得られる「休息 =神」だと考えるらしいが、おそらく、そうではあるまいと思う。
「人が<わが家>に帰り着いたとき」とは、死後のことではない。
「今・此処」にすでにわれわれはその「家」を持っていながら、気が付かない。
死を敵視し不安を抱いて無理な闘い、勝ち目のない闘いに奔命しているから、気が付かない。
バグワンはそう促しているのでは。  2004 12・28

* 15年も以前に、こうもバグワンに聴いていた。顧みて、肌寒いまで自身の未熟に思い当たる。
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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

82 * 2004 12・30     夜前音読したバグワンの言葉を、何と云うことはないが、今年の一つの締めくくりかのように、書き写してみます。これは和尚の、『TAO老子の道』上巻 (訳者はスワミ・プレム・プラブッダさん)の中ほど、250頁以降の数頁です。
同じ個所をもう数回わたしは翻読して、そのつど何かしらを感じ、つき動かされます。長冊の唐突な途中からではありますが、それは気に掛けません。どうや ら、これはとても大勢の聴衆を前にした和尚バグワンの講話であるらしい。しかし「あなた」と呼びかけていれば、むろんわたしは自分のことと思い、「おま え」と聞き替えてじっと聴いています。

☆ バグワンに聴く

意識というのはひとつの祝福にもなり得る。が、それはまたひとつの禍いにもなり得る。あらゆる祝福は、必ず禍いと連れ立ってやって来るものだ。問題は、 どう選ぶかはおまえにかかっている、というところにある。それをおまえに説明させてほしい。そうすれば、われわれはこの経文(『老子』)に楽にはいってゆ くことができる。
人間には意識がある。人間が意識的になったその瞬間、彼は「終点」をもまた意識するようになった。自分が「死ぬ」定めになっているということ—。彼は 明日を意識し、時を意識し、時間の経過を意識するようになる。遅かれ早かれ「結末」は近づいて来る—。
彼が意識的になればなるほど、それだけ死というものがひとつの問題、唯一の問題になってくる。どうやってそれを回避するか? (だが)これは、意識を間 違った使い方で使っていることにほかならない。それはちょうど、子供に望遠鏡を渡しても、その子がどうやってそれを使うか知らないようなものだ。彼はその 望遠鏡を、反対の端からのぞくこともできる。
「意識」というのはひとつの望遠鏡だ。おまえはそれを間違った端からのぞくこともできる。そして、その間違った端にもいくつかそれなりの利点がある。そ れが新しいトラブルを生んでしまう。望遠鏡の間違った端からでも、おまえは多くの利点があることを発見できる。短い目で見ると、たくさんの利点が考えられ る。「時間を意識している」人たちというのは、「時間を意識していない」人たちに比べると、何かしら得るものだ。「死を意識している」人たちというのは、 「死を意識していない」人たちに比較すれば、達成することが、たくさんある。西洋が物質的な富を貯えつづけ、東洋が貧しいままだったのはそのためだ。
もし死を意識していなかったら、誰が構う? (この東洋的な)人々は、瞬間から瞬間へと、まるで明日など存在しないかのように生きている。(それなら) 誰が貯蓄する? 何のために? 今日だけで、あまりにもビューティフルだ。
なんでそれを祝わない? そして、明日のことはそれ(明日)が来たときにしよう……。

西洋(の人達)は無限の富を蓄積してきた。みんながあまりにも「時間」を意識しているからだ。人々は自分たちの一生を”物”に、物質的なものごとにおと しめてしまっている。摩天楼……。彼らは大きな富を築いている。それが、間違った端から(望遠鏡を)のぞく利点だ。彼らは近いところにある、短距離の特定 のものごとしか見ることができない。彼らは遠くの方を見ることができない。彼らの目は、遠くを見ることのできない盲人の目のようになっている。
彼らは、それが最後には大きな代償を払うことになりかねないということを考えずに、いまのいまかき集められることだけしか見ようとしない。
長い目でみたら、こんな利点は、利点ではないかもしれない。
おまえは大邸宅を建てることもできる。が、それが建つまでにおまえはもう「さよなら」の支度だ。おまえは全然そこに住めやしないかもしれない。おまえ は、小さな家にビューティフルに住むことだってできたかもしれない。山小屋だって用が足りたろう。ところが(西洋風になった)おまえたは、自分は宮殿に住 むのだと心に決めた。(だが、)いま、宮殿ができてみれば、肝心の(住む)人がいない。おまえがそこに「いない」のだ。
人々は、「自分自身という代価」を払ってまで富を蓄積する。最終的には、結果的には、ある日彼らも、自分たちは自分たち「自身」を失ってしまっており、 そして自分たちは、役にも立たないものを買い込んでいる(いた)のだということに気づく。その代価は大きかった。しかし、いま(「さよなら」の時)となっ ては、どうすることもできない。時は過ぎている。

もし(「さよなら」への)時間を意識していたら、おまえは、狂ったように「物」を貯め込むことだろう。おまえは自分の生命エネルギー全部を「物」に転化してしまうだろう。
(「時間」だけでなく、)「全領域」にわたった意識を持っている人間は、この(今・此処の)瞬間を、可能な限り楽しむ。彼は浮かび漂うに違いない。彼は 明日のことなど気にかけまい。なぜならば、彼は「明日などけっして来やしない」ことを知っているからだ。彼は、最終的に達せられなければならないものは、 ただひとつ、自分自身の〈自己〉だということを深く知っている。
生きるがいい。それも、「自分自身」(の実存・本質)と接することができるくらいに、本当に「トータルに」生きるがいい。それに、(トータルに生きる以 外に、)ほかに、自分自身と接する方法などありはしない。(トータルに)深く生きれば生きるほど、おまえはそれだけ深く自分自身(の実存・本質)を知る。 人間関係においても、ひとりでいても…:.。
“関係”の中に、「愛」の中に、深くはいってゆけばゆくほど、おまえはそれだけ深く(トータルに自分を)知る。愛がひとつの鏡になるのだ。そして一度も 「愛したことのない」人は、”独り alone” になることもできない。せいぜいのところ”孤独 lonely” になれるだけだ。
愛し、そして(人間同士の本質的な)「関係」というものを知った者こそ “独り” になれる。いまや、彼の”独りであること” には(それ以前とは)全面的に違った質がある。それは(もう) “孤独” じゃない。彼は(これまで)ひとつの関係を生き、自分の愛を満足させ、相手を知り、そして「相手を通して」彼自身をも知った。(だが)いまや彼は、自分自 身を「直接に」知ることができる。もう「鏡」の必要はない。
ちょっと、誰か、一度も鏡に出くわしたことのない人のことを、考えてごらん。目を閉じて自分の顔を思い浮かべることが、彼にできるだろうか? 彼は自分の顔を想像することもできない。彼はそれを瞑想することなどできやしない。
しかし、鏡のところへ来てそれをのぞき込み、それを通して自分の顔を知った人間は、目を閉じて内側でその顔を見ることができる。(人間その他との)「関 係」の中で起こるのが、それだ。ひとりの人間がある関係の中にはいってゆくとき、その関係は「鏡」(の代わり)になって、彼自身を映し出す。そして彼は、 自分の中に(とうから)存在していたことなど夢にも知らなかった、たくさんのものごとを「知る」に至る。
その相手を通して、彼は、自分の怒り、自分の慾、自分の嫉妬、自分の所有性、自分の慈しみ、自分の愛を初めとする、彼の実存の何千というムード(生の実況)を知るに至る。彼はその「相手を通して」たくさんの空気と遭遇する。
(そして今度は)だんだんと、彼が(我から自然に)もう「独りになれる」瞬間が来る。彼は目を閉じて、自分自身の意識を「直接に」知ることができる。私が、一度も「愛したことのない」人たちには、瞑想はごくごく難しいと言うのはそのためだ。
深く愛したことのある人たちこそ、深い瞑想家になることができる。(本質的な)関係の中で愛したことのある人たちは、今度は、自分たち自身で(自立し自 覚して)いる態勢にある。いまや彼らは「成熟」している。もう(たんなる)相手は必要ない。もしそこに相手がいれば、彼らは(豊かに、自由に)分かち合う こともできる。だが、(殊更にそうしたい)その”要求”は(それ自体)消え失せている。もうそこには何の依存(関係も必要すら)もない。

* (   )内は、わたしが敢えて補足しました。いまぶん、その程度のわたしだということになります。「身内」は、関係(呼び名)をすら溶解していわば「匂い合う」 ような間柄だと以前にわたしが私語したのを、バグワンは、より平明に、深く語ってくれているのではないでしょうか。
バグワンはこの前の辺で、死は「敵」ではない、生まれた瞬間からの「友」だと示唆しています。死と敵対すればするほど、不安と恐怖は深まる一方で、然も絶対に勝ち目はない。死を敵視して藻掻きにもがくのは聡明ではないと。  2004 12・30

* 見に沁みて聴き、いまも聴く バグワン和尚の徹底した教えで、わたしは今も、十六年以前よりもなお身内深くに聴いて抱き容れる。これからもいつも此処へ帰ってくるだろう。
2020 1/22 218

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本107摘録) 聴きつ・思い直しつ

83 * 2004 12・31
☆ 補陀落渡海と身内幻想
秦さま 丁寧にお答えをいただきまして、ありがとうございました。「身内」幻想と言ったら、お叱りを受けるでしょうか。
人間のエゴ(利己性)は体から生じるものだと思っています。意識は体を保全する目的で生じたのではなかったでしょうか。ひとりしか立てない島に二人、あ るいは多数で立つ、きっと体を乗せる余地はないでしょう。観念上でしか、あるいはネット上にしか、存在しえないと思うのです。
「ネット心中」については、マスコミは報道を自主規制しているようですが、沈黙して過ぎ去らせるなんて、言論の敗北ではないですか。
インドネシアの大地震&大津波のニュースになんともいえない傷ましさを感じます。目の前で濁流に流されていく家族を見送らねばなかった人たちのことを思 います。中世という時代には、疫病、飢饉、戦争、天災、こういう死が日常茶飯事であったことを思えば、浄土信仰というのは、生き残った人間がなおも生き続 けるための智恵とすら思えてきます。死が日常茶飯事になってしまえば、人間はあまりにも恐怖したり、脅かされたりしないように適応していくものではないで しょうか。
イラクの人たちにとっては、どうなのでしょう。
「こういう天災にあえばあうほど、人間の手で防げる人災だけは、せめて起こすなと望む。」――同感です。不幸は人間がつくりださなくても、地上にあふれていますのに。
来年、来年こそは、少しはちがった風が吹いてくれればと祈ります。
どうぞ、よい年をお迎えになりますように。
安物のワインの力を借りて、メールを送り出します。ぜーんぜん知性的でも理性的でもないので、恥じ入りつつ。   大阪・まつおより
* 「身内」は「貴重な錯覚=愛」であると思いつづけ、書き続けてきました。「幻想」と言い換えてもいい。しかもなお「愛」ゆえにそれの 「在る」ことも、わたしは知っています。「絵空事」の不壊(ふえ)の値いを。現世の論理や常識から、百尺竿頭なお一歩を踏み出す勇気があれば。
ひとつ、わたしには課題というか、気になる分岐点があるのです。
「人間のエゴ(利己性)は体から生じるものだと思っています。意識は体を保全する目的で生じたのではなかったでしょうか。」
後段の議論は措いて。
前半の「体」についていえば、わたしは逆に感じています。思っています。
人間を「エゴ」の苦へ誘い込み追い込みイタブるのは、「体」ではなく、「心」の方だと。モノとしての「体」など影のように実体がない。色即是空。物理学 もそれは認識しています。心という我執がすべて影を形にし働かせていると。「静かな心」「無心」「平生心」を久しい人の歩みが容易に得られなくて苦しんで 来たのは、それかと。  2004 12・31

* 懐かしい歳末のメール対話であった。大阪の「まつお」さんは延慶本平家物語に関した著書も持った詩人で、大阪の或る地区で懸命に働いていた女性だった、古典に取材し鎌倉初頭を書いた小説も読ませてもらった。私に出版への力があれば紹介して上げたいほどの力作だった。
この「まつお」さんとだけ、わたしは「花方」を書きますよと約束しておいた。上の年紀をみてもずいぶん久しい前のことになる。わたしはこれでけっこう根 気がいいようである。「まつお」さんからは「湖の本」の支払いが来る程度で、もう久しく話していない。会ったことはいちどもなく、どういう方か分からな い。作者と読者とは、そういう間柄である。
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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

84 * 2005 1・1      「意識」は、最後には「死」を意識するようになる。もし意識が最後に死を意識するようになると、ひとつの恐怖が(おまえの心に)湧き上がってくる。 その恐怖は、おまえの中に絶え間ない「逃避」をつくり出す。そうするとおまえは「生」から逃げ出そうとする。どこであれそこに「生」があると、おまえは逃 げてしまう。
なぜなら、どこであれ「生」のあるところには、「死」のヒント、一瞥、がやって来るからだ。
あまりにも死を恐れている人たちというのは、「人間」に「恋」をしない。「物」と恋に落ちる。物は死なない。生きてもいなかったからだ。
物ならいつまでも「持って」いられる。そればかりでなく、交換可能だ。もし一台の車が駄目になっても、きっかり同じつくりの別な車で埋め合わせられる。 しかし「人間」は埋め合わせられない。もしおまえの伴侶が死んでしまったら、それは永久に死んでしまうのだ。別の伴侶を得ることはできる。が、埋め合わせ ることなどできない。良きにつけ悪しきにつけ、同じ伴侶ではあり得ない。
もしおまえの子供が死んでしまったら、べつに養子をもらうことはできる。が、どんな「もらひ子」でも、自分自身の子供と持つことのできた、その同質の関係は持てないだろう。傷は残る。容易には癒やされない。
あまりにも「死」を恐れる人たちは、「生」をも恐れるようになる。そうして彼らは「物」を貯め込む。大きな宮殿、大きな車、何百万ドル、ルピー(インド の通貨)、あれやこれや、不死のものごと……。ルピーというのは薔薇よりずっと不死だ。彼らは薔薇などお構いなしで、ルピーばかりを貯め込みつづける。
ルピーは死なない。ほとんど不滅だ。しかし、薔薇となると……。朝、それは生きていたのに、夜までにはもうおしまいだ。彼らは薔薇を怖がるようになる。 彼らはそれを見ようとしない。あるいは、ときとしてもし(薔薇がみたい)その欲望が起こってくると、彼らはプラスチックの造花を買い込む。造花ならいい。 造花ならあなたは安心できる。不滅性という錯覚を与えてくれるからだ。造花は、いつまでもいつまでもいつまでもそこで咲いたかおをしている。
本物の薔薇……。朝、それはなんとも生き生きしている。だが夜までに、終わりだ。花びらは地に落ちている。それはその同じ源に戻っている。大地からそれ はやって来て、しばらくの間花開き、その香りを存在全体に送り出す。そうして使命が果たされ、メッセージが渡されると、静かにふたたび大地に戻り、一滴の 涙もなく、何のあがきもなく消え失せてゆく。
花から花びらが大地に落ちてゆくのを見たことがあるかね? どんなに美しく、優雅に落ちることか……。何の固執もない。ただの一瞬といえどもしがみつこうとなんかしない。一陣の風が吹いただけで、花全体が大地に落ち、源に帰ってゆく。
* 「死」を恐れる人間は、「生」をも恐れるだろう。「愛」をも恐れるだろう。なぜなら、「愛」とはひとつの花なのだから……。愛はルピーじゃない。生を恐れる人間は、「結婚」することはあるかもしれない。が、なかなか「恋」には落ちまい。
結婚というのはルピーのようなものだ。恋はバラの花のようなものだ。それはそこに在るかもしれない。そこに無いかもしれない。なかなかしかし、人はそれ が確信できない。それは法的な不滅性などなにも持っていない。結婚というのは何かしがみつくことのできる(抱き柱のような)ものだ。証明書がついている。 裁判所が後に控えている。背後には警察や社長のつっ支え棒がある。もし何かがおかしくなれば、彼らが全員駆けつけて来るに違いない。
ところが愛に関しては……。
バラにももちろん力はある。しかし、バラは警官じゃない。それは社長さんじゃない。バラの花は身を守ることなどできない。
愛は、来てまた去ってゆく。結婚はただ来るだけだ。それは死んだ現象だ。それはひとつの制度にすぎない。
人々が「制度」の中で生きたがるというのはまったく信じ難いほどだ。恐れて、死を恐れて、彼らはあらゆるところから「死の可能性」を一切締め出してしい たがる。彼らは自分たちのまわりに、何もかも「そのまま続いて」ゆくのだという「ひとつの幻想」をつくり出したがる。何もかも「安全で、安定」していてほ しい。この安全性の陰に隠れて、彼らは「ある種の安心感」を抱く。
だが、それは馬鹿げている。愚かしい。何も彼らを救えはしない。死がやって来て、彼らの扉を叩けば、彼らは(そのまま)死んでしまうのだ。
* 「意識」は、二つの展望(ヴィジョン)を持つことができる。ひとつは「生を恐れる」こと。なぜならば、生を通じて死がやって来るから だ。もうひとつは、「死をもまた愛しはじめる」くらいに、「深く生を愛する」ことだ。なぜならば、「死は生の内奥無比なる核心」なのだから……。
最初の姿勢は「考える」(=思索する)ことから出て来る。
二番目の姿勢は「瞑想」から出て来る。
最初の姿勢は「過剰な思考」(=過剰な分別=マインドという騒がしい心)から来る。
二番目の姿勢は無思考のマインド、〈静かな心=無心=ノーマインド〉から来る。
意識は、思考にまでおとしめられてしまうことも、反対に、思考はふたたび意識へと溶かし去られることも、できる。
ちょっと厳冬の川を考えてごらん。氷が張りはじめて、水の一部分はいまや凍りついている。そうして、もっとひどい寒さがやって来て気温が零度を割ると、川全体が凍りついてしまう。もうそこには何の動きもない。何の流れもない。
意識というのはひとつの川、ひとつの流れだ。そこに「思考=心」がはいり込めばはいり込むほど、その流れは凍ってしまう。もしそこに、あまりにもたくさ んの思考(=分別)が、あまりにもたくさんの〃思考障害〃(=動揺、迷惑、邪推、疑心暗鬼)があったら、そこにはどんな「流れ」(静かな心=無心・虚心) の可能性もあり得ない。そうなったら、その「川」は完全に凍りついている。あなたは、もう死ん(だも同然)でいるのだ。
* ある大学教授にバグワンの話をすこししてみましたとき、バグワンは「全否定ではないか」と案じられました。たちどころにわたしは結論を持ち出そうとは思いません。
「なぜ人は生きるのか」とか「生きている意味は何か」とかいう問いに対し、過去に地球上にあらわれた覚者=ブッダたちは、その手の質問に対し、みな「沈黙」で応えているとバグワンは云います。
そもそもそのような「問い」自体に意味がない、ないし誰にも答えられないと云うより、答えるべきではないと、バグワンはそこまで明言しています。そんな ことで「分別」したり「錯乱」したりするのは無意味だと。「いま・ここ」「今・此処」に生きているそのことを大切にせよと。
大切な大切なことがある、それに「気付く」のだ、「目覚めて知る」のだと。バグワンはそう云います。そして「死」を敵視してのたうちまわるのでなく、死を友として「生」を慈しみ生きよと。
* そういうバグワンを、わたしは「全否定の人」とは想いにくい。何が真実大事か。バグワンはそれを語り続けています。目覚めてしまえば大事なものな ど、何も無い。が、目覚めて気付く迄には「何が大事か」は在る。大事なのは「目覚めて気付く」こと。それまでは如何なる聖典も修業も役に立て得ようがない と彼は言い切る。だが、はっと目覚め気付いた瞬間からは、聖典と貴ばれるほどのものが、初めて自分は覚めたんだ、気付いたんだと正確に知らせてくれるとバ グワンは云うのです。
* どうすれば目が覚め、どうしたら気付けるのか、その方法論も、バグワンはたぶん何処かでは語っているのでしょうが、わたしはそのような「方法」を覚 えたいと今は願っていないのです。ひたすらバグワンに「聴く」だけでいます。聴いて「待って」います。「間に合う」かどうかは知らない。だが、それより大 事で大切なことが、少なくも今の自分に在る、在りうる、とは思っていないんです。
わたしの腹芯にいて幼來一度も立ち去らないでいる「友」である「死」に、わたしは静かにわたしの手を執らせていたい。現実に日夜あれやこれや熱心にして いるつまり「仕事」も「用事」も、いろんな営為がみな、だからこそ楽しめるし遊んでしまえる。「それだけのもの」と、云うしか、ないからです。   2005 1・1

* 十五年前、私、六九歳 元旦 の「バグワン」であった。十五年、わたしはどこをどう放浪き歩いてきたのだろう。ま、ま。このまま歩いて行くだけ。
2020 1/24 218

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

85 * 2005 01・24     夜中に二度三度起きてしまう日がつづくと、いやおうなく寝床の中で真の闇にむきあうことになります。この機会を、わたしはむしろ珍重しています、ふしぎな体験ができるから。
眼は、明いていても閉じていても、ほぼ完璧な闇で。この「闇」に「深さ」は感じても、限定された「広さ」は感じません。無際涯に広いし、深い。闇って、なんて美しいんだろうと鑑賞しているときもありますが、ふつうは何も考えないようにし、じいっと闇に向き合っています。
すると、いつ知れず自分の「体」感覚が尽く滅尽し、内蔵は愚か五感も体感も無くなっています。「体」というものがなく「意識」だけがまだ生きています。 ああ「生」とは「意識」のことで、必ずしも「意識」に「体」は係わっていないのだ、「体」はもともと空無なのだ、と、そう分ります。意識そのものにだ け、成る。成れる。それが嬉しくてわたしは「闇」に包まれて在るのが好きなんです。闇の宇宙=全体=トータルに、「体」という個体としてでなく、「意識」 として溶け込んでいる安心と静謐。
この「意識」も、いつか失せるでしょう、それが「生」「死」の転帰。「体」もまた生死とは関わっていない。まして頼りない「心」なんて。
* ま、わたしはそんなふうに眠れない夜中を「闇」に包まれて過ごしています。
* 体をそのように見切ることによって、わたしは断然「心」より「体」に親しい。体の望むことは叶えたいと思う。体にしたがっている方が、心=分別=マ インドにしたがうより、同じ「しくじり」でも軽くすみそうな気がしています。つまり体と意識とをハートフルに仲良くさせ、分別に縛られずに自由に過ごした い。心に振り回されるのは、マッピラ。  2005 01・24

* 和尚バグワン・シュリ・ラジニーシと共生していたような十五年前をとうじの感想のまま顧みて一抹の不承もなく今も首肯く。首肯ける。
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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

85 * 2005 01・24 01・25
☆ 週末、バグワンを読みながら、躓いていました。
与えるなんて何ごとか?
あなたは与える何を持っている?
救うなんて何ごとか?
あなたは自分自身さえ救っていないのに
どうやって人が救える
キリスト教は、与えて与え尽くせ、自分の人生も命までも他者に与えろという宗教です。愛とは自らが痛むまで与えること。マザーテレサの言葉です。マザー テレサのように有名ではなくても、自らの命を与えて死んでいった多くの無名の人々を思うとき、与えるな、という言葉に戸惑いました。
スマトラ津波災害に寄付したり人道支援すること、国境なき医師団などボランティアやチャリティーには大きな偽善もあるでしょう。でも、偽善でも実際にお 金も手助けもないのとあるのとでは大違い。偽善でもしないよりするほうが遥かに正しいことと思わずにはいられません。救えなくても、救おうとする行為は、 行動は大切に思えます。
与えることでそうする本人が幸せになれるかどうかはわかりませんが、助けを必要とする人を捜し求めていく生き方を、私は讃美することはできても、否定することができません。
たとえば、シドッチ神父には、「よくぞ来てくれた」と感謝しますし、殆どの日本人が名前も知らないミッション、テストウィド神父にも、涙とともに敬服し ます。治療法のない時代に自分も罹患する覚悟で、日本で初めてのハンセン氏病の病院を設立して過労死のように死にました。その病院を継いだ四人の神父たち も、多くの患者を助けながら、次々と刀折れ矢尽きるようにして倒れています。
「あなた自身の内なる実存が暗いのだ あなたには救うことなんかできない あなたには与えることなんかできない」というのは、まるで何もするなというような響きに感じられて、納得できないまま読み進みました。
すると、やはりバグワンの素晴らしい答えが出てきました。
もしあなたが自然に与えられるなら
ビューティフルだ
ただし、そのときには心の中には何もない
自分が何かを与えたんだという計算などひとつもない
それが与えることと分かち合うことの違いだ

ティロパは分かち合うなと言ってるんじゃない
彼は取ることにも与えることにもこだわるなと言っているのだ
もしあなたに手持ちがあり
それが自然に起こって、あなたが与える感じになったら与えなさい
ただし、それは分かち合いであるべきだ
贈り物――
これが贈り物(Gift)と与えること(Gifting)との違いだ
人間愛に生きたキリスト者などは、この境地に達していたわかりやすい例かもしれません。アッシジの聖フランシスのように、自然に与えていたのですね。
でも、「分かち合い」というのは、黙っていて自然にできるようになることとは、思えなくて。
凡人は突然変われるものではありません。とりあえず偽善でも、まず与えることを訓練していないと、教えてもらわないと、急にはできないことだと思っています。
無理にするならしないでよい、という生き方もありますが、それでは誰が一粒の麦になってくれるのかと、友のために死んでくれる人がいない世界になど生きていたくないと、今のところ、バグワンに「問いかけ」ています。
トンチンカンを大いに笑ってください。ほんとうにおバカ。
なかなかこの手ごわいバグワンに近づけません。でも、これからバグワンがどのような道を示してくれるのか、とても楽しみにしているのです。   蝸牛
* この友人のメールには顕著な一徴候があります。「自分」ではない他者・聖者の例を次々に挙げ、顧みて「他」を「知識で評論」していま す。自分は、すばらしい聖者や宗教から「恩恵を受ける」立場にいる。自分自身で「分かち合う」立場には身を置いていない。自分には急には「何も出来ない」 と。
*  > 与えるなんて何ごとか?
> あなたは与える何を持っている?
> 救うなんて何ごとか?
> あなたは自分自身さえ救っていないのに
> どうやって他人を救える
『存在の詩』 504頁の下に出て来ますね。
この第9話は、バグワンの声のとてもよく聴えるところで、あなたのこの引用に至る二十頁ぐらいを深く感じ取っていれば、上の引用個所は、ごく普通に素直 に受け入れられる所であり、あなたの言っているような普通のリクツについても、バクワンはすでに深切に触れて語り継いでいると思います。
そして、これより先の頁へ読み進めば、ますます彼は、あなたの言うているようなリクツを超えた「深み」から、人間存在そのものに光をあてて語っているのが分かります。
どちらかといえば、この章でバグワンは、つねになく解析的に、そしてものを積み上げるように話していて、分かりよい、説得される章だと、わたしは感じてきました。
> 凡人は突然変われるものではありません。とりあえず偽善でも、まず与えることを訓練していないと、教えてもらわないと、急にはできないことだと思っています。
無理にするならしないでよい、という生き方もありますが、それでは誰が一粒の麦になってくれるのかと、友のために死んでくれる人がいない世界になど生きていたくないと、今のところ、あなたはバグワンに問いかけています。
「友のために死んでくれる人がいない世界になど、生きていたくない」というあなたの表白。この「友」とは、すなわち「あなた自身」のことと読めます。それははからずも露呈した利己主義でしょう。
ホカならぬ「あなた」が、人の友として、その「人のため」に、いざというときは死んで上げる、自分はその為にも「生きていたい」という覚悟こそ、望ましい、本当の表明ではないのですか。そういう自身への励ましが、少しもあなたの物言いに表わされていない。
これは「突然変われる」とか「変われない」の問題でない。自分を自然に何かの前へ「投げ出せる」のか、自分自身を「分かちあえる」のか(「与えて貰う」 のではなくて)、それに「気付く」か「気付かない」か、だけなのです。一瞬で「気付ける」のです。「訓練して・変わる」なんてことでは、全くない。
自分が、人の前へ、なにもかも身を投げて「分かち合おう」とはしていない、それだけのことをあなたは言わず語らず示しています。裏返せば、自分は「人から与えられていい立場だ」と思っている。ずいぶん甘えた姿勢です。
してもらうのでなく、してあげる。それが本当に無心に、無欲に、見返りや名誉への欲望なく「自分には出来るかどうか」を、自問しなさいとバグワンは言う ているのではありませんか。その間際に立って、「あなた」に、「与え得る」一体「何」があるのかと、バグワンは、ほかならぬ「あなたに」向かって問うてい る。問題を他の人達へ一般化して「評論」してはいけない、「あなた自身の問題」として考えなくちや。
> 与えるなんて何ごとか?
> あなたは与える何を持っている?
> 救うなんて何ごとか?
> あなたは自分自身さえ救っていないのに
> どうやって他人を救える
これは、世間の人に向けて言われているのではない、「あなた」一人に向かって言われているのです。「あなたの問題」として先ず考えなくては無意味です。
あなたは命をあたえて人を救えますか。「救えます」「救いたい」と自然に言い切れたときに、初めて他を顧みて「評論」すればいい。「知識」でこねまわさない。生きているのは「知識」でなく、「あなた」だ。  2005 01・24
☆ 今朝、HP、読みました。
「蝸牛さん」にはいつも「辛辣」でいらっしゃいますが、彼女は彼女で大真面目に考え、書かれているのですね。彼女にも大いに共感する部分がありますよ。
夜中の「闇」について書かれていること、とてもよく分かります。わたしにとっても幼い頃から、そのようにあった「闇」です。
どうぞ寒さ、そして花粉症に負けずこの季節をしのいでください。  鳶
* ゆうべのバグワンにかかわるメールの往来、わたしからの返信は、言い過ぎだったでしょうか。わたし自身は、「分かち合える」まして「与え得る」も のなどたいして持たないし、「命をなげだす」思い切りが出来るかどうかも、自身に問いつきれないのですい。だから人にも自分のためにそうしてくれないかと 依頼・依存することもしない、だろう、と思っています。
ただ、ものを思ったり考えたり知識を用いたり感想を述べたりするとき、自分をまっさき「受益者」の立場に置き、自分がどうするか、どう出来るかを考えに 入れずに、他者や一般を「評論してしまう」ことは、したくない。どんな疑問や不審も、自分自身との関わりは如何と、真っ先に、または最後に、問いかける。 自分の問題にこそ関心があります。立派な人を讃美したり、そうでないひとを否定・批評したりでは、顧みて「他を語る」だけの評論に過ぎませんから。
いちばん、その意味で、蝸牛さんの、「誰が一粒の麦になって<くれる>のか」、「友のために死んで<くれる>人がいない世界に など生きていたくない」という「なってくれる=なってもらいたい」「死んでくれる=死んでたすけてもらいたい」という受益の受け身姿勢に、わたしは驚いた のでした。
とても蝸牛さんは正直で、こんな揚げ足を取っているわたしのほうが不正直なのかも知れませんが、してもらって讃美する立場からでなく、自分はどうするのかが聴きたかった。自分のことは措くとして、ではなく。
* 蝸牛さんを非難したのではありません。やはり、この大事な問題で、「自分は」と内心に問い直す機会をもったのでして、また改めてバグワンにおける菩薩行(大乗) と羅漢行(小乗)との「見取り」如何にも思い至らずにおれなかったのです。
また、偽善であれ何であれ、百円千円は、困っている人には、同額の百円千円に通用して役立つではないかという、あまりにもよく耳にするリクツについて も、バグワンはどう語り、わたしはどう思っているのだろう、というところへ、押し付けられるのしたる。この「闇に言い置く私語」の場が、誰しものそのよう な思案の場になることをわたしは歓迎しています。  2005 01・25
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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

87 * 2005 01・28     高校二年頃、角川文庫が創刊されてまだピカピカの頃、なけなしの貯金をはたいて高神覚昇という人の『般若心経講義』一冊を買いました。昭和二十七年 暮れか翌新春に買っています。今、背は、ガムテーブで貼ってあります。表紙の角はちぎれ、総扉も目次も紙が劣化してぼろぼろ、全体にすっかり赤茶けていま す。
この本について思い出を語り出せば、ながい話になります。
よく読みました。一つにはこれがたしかラジオ放送されたそのままの語りで、姿無き多数聴衆を念頭に話されているため、耳に入りやすい譬えや説話がふんだんに入っていて、高校生にも読みやすかった。
もう一つには、日吉ヶ丘という、頭上に泉涌寺、眼下に東福寺という環境に人一倍心から親しみを感じていたわたしは、知識欲はもとよりとしても、またもう 少ししんみりとした感触からも、しきりに鈴木大拙の『禅と日本文化』だの、浄土教の「妙好人」だのに関心を寄せていたのでした。社会科の先生の口癖のよう な倉田百三の、たしか『愛と認識との出発』や阿部次郎の『三太郎の日記』なども覗き込まぬではなかたっんですが、同じなら同じ倉田の戯曲『出家とそま弟 子』にイカレてもいました。
もう一つは、まだ仏典に手を出すちからはなかったものの、「般若心経」とだけは、幼くより仏壇の前でワケ分からずに親しんでいたという素地がありまし た。あのチンプンカンプンに少しでも通じられるならばと、勇んで『般若心経講義』を自前で買ったんです、その本が、いまこの機械のわきに来ています。
高神覚昇のことは皆目識らないも同じでしたし、今も同じですが、この文庫本からは多くを得ました。ことに知識欲に燃えていた少年は、講話もさりながら、佛教の理義に触れたいわゆる「註」の頁
に、それは熱心に眼を向けていました。「感じる」よりも遥かに「識りたがっていた」のです、何でも彼でも。
泉涌寺の来迎院で、のちに長編小説になった「朱雀先生」や「お利根さん」、わけて「慈子」と出逢った「少年」わたしの学校鞄には、まさしく、こういう知識欲も、詰まっていたのでした。
青竹のもつるる音の耳をさらぬ
この石みちをひたに歩める        東福寺
ひむがしに月のこりゐて天霧(あまぎ)らし
丘の上にわれは思惟すてかねつ    泉涌寺
十七歳の高校生が、ちょうどこの頃から短歌をわがものにして行きました、いつしかに小説世界へ心身を投じてゆく、前段階として。『般若心経講義』を読んでいたのと、こういうわが『少年』の短歌とは、ひたっと膚接しています。
そして四十、五十年。バグワンの『般若心経』に、なかなか落とせなかった眼の鱗を幾つも落とせたかと、わたしは感謝しています。   2005 01・28

* きちっと、15年前の感懐。そして今も思いはここに拠って、ズレていない。つまりは、いっこう進歩も深化もしてないだけか。
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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

88 * 2005 02・11  ☆ バグワンに聴きます。
最も上等の人士が道(TAO)を聞くと、     上士聞道、勤而行之
一生懸命にそれに従って生きようとする……            老子
ただし、一生懸命に精進することによって、人はだんだんと、変身の最終段階においては「努力」それ自体がひとつの障壁(バリヤー)であることに気付き始 める。おまえが一生懸命に〈道TAO〉に従って生きようとしているとき、その生はけっして自然な生でなどあり得ないからだ。それはひとつの強いられた生で しかあり得ない。統制されていて、自由じゃない。努力はすべて自我(エゴ)のものにほかならないからだ。〈真実〉を達成しようとする欲求すらもエゴから出 て来る。人はそれを落とさねばならなくなる。
ただし、覚えておきなさい。人がエゴの努力を落とせるのは、その最大限まで努力したときに限るということを。「もしそうなら、初めッから努力なんてやめ にしよう。なんでそんなことをする?」などとけっしては言えなのだい。無技巧い言えるほどの技巧を持つことは、どんな規律も通ってこなかった者たちにとっ ては不可能なわざだ。
最終的に、藝術家も、自分の藝術を忘れ去れるようにならなければならない。それが何であれ、彼は自分の学んだものを忘れ去るときが来る。しかし、忘れることができるのは、それまでに真摯に「学んだ」ものに限る。
最初にひとつのことを学ぶのも難しい。しかし、いったんそれを学んでしまったら、それを忘れるのはもっと難しい。ところがこの後段こそがとてもとても不可欠で重要なところだ。さもなければ、おまえは仮に巧みなテクニシャンではあっても、真実アーティストではあるまい。
完璧な絵描きは、筆やキャンバスなど必要としない。完璧な音楽家は、シタールやヴァイオリンやギターなど必要としない。いいや、そんなものは素人のものだ。
私は、ひとりのとても年取った音楽家に出会ったことがある。彼はもう死んでいる。彼は一一〇歳だった。ラヴィ・シャンカールは彼の弟子だ。彼はどんなも のででも音楽を生み出すことができた。本当にどんなものででもだ。彼が二つの岩のところを通りかかれば、彼はそれで音楽を作ってしまう。鉄のかけらを見つ ければ、彼はそれで演奏を始める。そしてあなたは、いままで一度も聞いたことのないようなビューティフルな音楽を耳にする。あれこそ本当の音楽家だった。 彼のひと触れまでが音楽的だった。もし彼がおまえに触れようなら、おまえの内なるハーモニーと音楽の、内奥無比なる楽器に触れたということを、おまえは目 のあたりに体験する。突如として、おまえは振動し鳴り響きはじめる。
最も上等の者たちは、一生懸命(真実)に従って生きようと、大変な努力をする。そうして、だんだんとおまえも、自分の大変な努力が、少しは役に立つものの、大いに妨げにもなるということをも併せて理解する。納得して生きかわる。  ― バグワン―
* わたし(秦)は、瀧に打たれたり、身を焦がしたり、峯々を渡ったり、穴に籠もったりというような難行苦行が「悟り」を「獲得」する行為であるなら、そ れで悟った人が本当にいるのだろうか? とながく想ってきましたし、今でもじつのところ疑っています。わたしには山林抖薮や断食への同情が余りなく、その 辺で宗教学者の山折哲雄氏との対談で、まともにぶつかり合いました。わたしには、あれは悟りへの道であるより、疲労の極の朦朧という無心に類似の境地のよ うなもので、座禅で得られる静謐な内奥とは似て非であろうと想われるのです。
普通に人為の日々をすごしながら、人為に拘束されたり束縛されたりしないで、平静に「そのとき」を待てばいいと、そう、わたしはバグワンに教えられてい る気がしています。勝手にしているので、正しいともあやまちともわたしは知らないのです。「今・此処」に文字通り一所懸命に、一期一会に在ること。一会一 切会、一新一切新、一斬一切斬。
ただ「努力」で、出来ることではないのでありましょう。  2005 02・11 2020 1/28 218

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

89 * 2005 12・09  ☆ バクグワンに聴く。
(ボーディ・ダルマ=達磨大師が、こう語っている。)  自らの(無)心を仏(ブッダ)と知る者は剃髪の必要がない。俗人もまた仏だ。自らの本性を知らないなら、剃髪者もー介の狂信家にすぎない。
「しかし、妻子ある俗人は愛欲を捨て去りません。いかに彼らが仏に(ブッダ)成りえましょう?」
私は自らの本性を見抜くことしか語らない。愛欲について語らないのは、ひとえにおまえたちが本性を見抜いていないからだ。ひとたび本性を見抜けば、愛欲 はもともと取るに足りないものだ。それは見性の喜びのうちに消え去る。たとえなにかの習わしが残っても害はない。本性は本来清浄無垢であるからだ。たとえ 五つの集積(五蘊)からなる物の身体に住まおうと、本性は本来清浄無垢であり、腐敗堕落することがない。
固執をやめ、万事をあるがままにあらしめるなら、ただちに生死中に大自在を得る。いっさいが変容され、あらゆる妨げをものともしない融通無碍の霊力が得 られる。どこにあってもただ安らぎしか見いださない。これを疑う者はなにひとつ看破しえない。最善はなにごとも為さぬことだ。ひとたび為せば、生死の輪廻 は免れえない。だが本性を見抜く者は、屠殺人であろうと自らを仏(フッダ)と成す。
「しかし、屠殺人は殺生することで悪業を犯します。いかに自らを仏と成しえましょう?」
私はただ見性の一事を語る。業を犯す云々は語らない。なにを為そうと、業は人を制しない。
西天(インド)の二七人の祖師たちはただ心印を伝授したのみ。私(達磨)がこの国(中国)に到来した唯一のわけは、この大乗の即座の教え、「(無)心こそ仏なり」を伝授するためだ。私は戒めや施し、苦行は語らない。
言葉や動作、見聞や覚知はすべて動いている心の働きだ。あらゆる動きは心の動きより起こる。だが、(無)心は動きもせず働きもしない。あらゆる働きは本来空であり、空には本来いっさいの動きがないからだ。
ゆえに経文に言う。「動かずして動け、旅せずして旅せよ、見ずして見よ、笑わずして笑え、聞かずして聞け、楽しまずして楽しめ、歩かずして歩け、立たずして立て」と。またこうも言う。「言葉を超えよ、思いを超えよ」
さらに説くこともできたのだが、この手短な論でこと足りよう。  (達磨大師語録)
* この達磨発語の大要はむろんすばらしく立派なもので敬服のほかありませんが、また明らかに一つの偏向をみせてもいるのを、以下に バグワンは 達磨に敬意を籠めつつ訂正しようとしています。
☆ (バグワンは説いています。) これら(上記)の語録におけるボーディダルマの教えは、尽きることのない興味を呼び起こすものであり、すべての真 理の巡礼者にとって計り知れない重要性を持っている。だが、ここにはいくつかの誤った言明がある。これは初めてのことなのだが、おそらくそれらの言明は弟 子たちの誤った理解から生じたものではなく、ボーディダルマ自身が犯した過ちだ。
それゆえに、語録に入る前に、私(バグワン)はいくつかのことを明確にしておきたい。
まず、ゴータマ・ブッダ(釈迦如来)の教えは、二種類の探求者たちを生み出した――ひとつは「アルハト(阿羅漢」と呼ばれ、もうひとつは「ボーディサットヴァ(菩薩)」と呼ばれる。
アルハトは光明(=悟り)を得るためにあらゆる努力をするが、ひとたび光明を得てしまうと、まだ暗闇のなかで手探りをしている者たちのことは完全に忘れ てしまう。彼は他人にはいっさい関心がない。光明を得るだけで充分だ。実のところ、アルハトによれば、慈悲という高邁な考えですらやはり執着の一形態とい うことになる――これには理解されるべき深い意味がある。
慈悲もやはり関係性だ。いかにそれが美しく高邁なものであろうと、やはりそれは他人への関心だ。それは依然として欲望だ。善い欲望であったとしても欲望 であることに変わりはない。アルハトによれば、善い欲望にせよ悪い欲望にせよ、欲望は束縛だ。その鎖が黄金でできているか鉄でできているかは問題にならな い。鎖は鎖だ。慈悲は黄金の鎖だ。
アルハトの主張によれば、誰ひとり他人を救うことはできない。誰かを救うという考え自体が誤った基盤に基づいている。人は自分自身しか助けることができない。
凡庸な精神(マインド)は、アルハトはなんて利己的なのだろうと考えるかもしれない。だが、いっさいの先入観なしで見たら、おそらく彼もまた世界に宣言 すべきこのうえもなく重要ななにかを持っている。他人を救うことですら、その相手の生や生き方、彼の天命や未来にとっての干渉となる。それゆえに、アルハ トは慈悲というものをいっさい信じない。彼にとっては、慈悲心は自分自身をこの執着の世界につなぎ止めておこうとするもうひとつの美しい欲望でしかない。 慈悲心とは欲望の別の名前だ――美しい名前かもしれないが、欲望する心(マインド)につけられた名前であることに変わりはない。
なぜ他人が光明を得ることに関心を持たねばならないのか? 自分とはいっさいかかわりのないことだ。誰にも自分自身であるための絶対的な自由がある。ア ルハトは<個>を、その絶対的な自由を主張する。たとえ善意からであろうと、ほかの誰かの生に干渉することは誰にも許されない。
それゆえに、アルハトはたとえ光明を得ても弟子を受け容れない。けっして教えを説かないし、いかなる方法でも誰かを助けようとはしない。彼はひたすら自 らの歓喜(エクスタシー)のうちに生きる。自力で彼の井戸から水を汲める者がいたら彼はその者を妨げないが、人を招待することはしない。おまえが自分から 彼のもとにやって来てかたわらに坐り、彼の臨在を飲んで旅を続けるとしたら、それはおまえが勝手にやっていることだ。たとえ道に迷うことになっても、彼は おまえを止めたりはしない。
ある意味で、かつて<個>の自由にこれほど大きな敬意が払われたことはなかった――まさにその論理的極限だ。たとえ深い暗闇に陥っている者がいても、ア ルハトはただ静かに待つ。彼の臨在がなにかの助けになるのなら、それはそれでよい。だが、彼はおまえを助けるために自分自身の手を動かそうとはしない。あ なたをどぶから引き上げてやろうと手を貸したりはしない。どぶに落ちるのはおまえの自由だ。それに、どぶに落ちることができたのなら、そこから出ることも 充分に可能なはずだ。慈悲という考えそのものがアルハトの哲学とは無縁のものだ。
ゴータマ・プッダ(釈迦牟尼如来)は、何人かの人々はアルハトになるだろうことを認めていた。そして彼らの道は、たったひとりの人しか彼岸に渡すことが できない「小舟」のようなものなので、「ヒーナヤーナ」「小乗」と呼ばれることになると考えていた。アルハトは、「大きな船」をつくり、そのノアの箱船に 群衆を集めて彼岸まで連れてゆこうとは考えない。彼はただひとりで行く。二人と乗れない小さな舟で。彼は独りでこの世界に生まれ、独りでこの世界を生き、 独りで死んできた。何百万回となく。彼はたった独りで宇宙の源泉に向かおうとしている。
仏陀はアルハトの道を認め、それに敬意を払ったが、一方にはこのうえもない慈悲心を持っている人々がいることも知っていた。彼らが光明を得たとき、まず 最初に起こってくるのは自らの喜びを分かち合い、真理を分かち合おうとする熱望だ。慈悲が彼らの道であり、彼らもやはりなにかの深遠な真理をたずさえてい る。
これらの人々はボーディサットヴァ(菩薩)と呼ばれる。彼らは他の者たちを同じ体験に招き、いぎなおうとする。彼らは道を歩む用意ができている者たち、 ただ道案内が必要なだけの、助けの手が必要なだけのあらゆる探求者たちを手助けしようとして、できるかぎり長くこちらの岸辺にとどまろうとする。ボーディ サットヴァは、暗闇で手探りをしている盲目の人々への慈悲心から、彼岸へおもむくことを延期することができる。
仏陀には、この両者を受け容れるに足るだけの包括的で広大な視野があった。彼によれば、ある人々がアルハトになるのは、それが彼らの本性だからであり、またある人たちがボーディサットヴァになるのも、それが彼らの本性であるからだ。
これがゴータマ・プッダ(釈迦如来)の立場だ。それはありのままの実情であって、どうすることもできない――アルハトはアルハトにとどまり、ボーディ サットヴァはボーディサットヴァにとどまる。どちらもその最終の目的地に到達するのだが、彼らの本性にはそれぞれに異なった天命がある。目的地に到着した あと、道は二つに分かれてしまう。
アルハトはこの岸辺(此の世)にただの一瞬もとどまろうとはしない。彼は疲れ果てている。このサンサーラの車輪に充分に長くとどまり、誕生と死のあいだ を何百万回も巡りに巡った。もうたくさんだ。彼はうんざりして、これ以上は一瞬たりともとどまりたくない。迎えの舟が到着すると、彼はただちに向こう岸 (彼岸・あの世)へと渡りはじめる。それが彼の<あるがまま>だ。
だが一方には、船頭にこう告げることのできるボーディサットヴアがいる。「待ってください。そんなに急ぐことはありません。たしかに私はこの岸辺に充分 長くとどまりました――惨めさや苦しみや、苦悩や苦悶のなかに。でも、いまやそれらはすべて消え去っています。私は絶対的な至福と静寂と安らぎのなかにい ます。それに向こう岸にこれ以上のなにかがあるようには思えません。 ですから私はできるかぎり長くここにとどまって、人々の手助けをしたいのです」
たしかにゴータマ・プッダは矛盾のなかにすら真理を見いだすことのできる人のひとりだった。彼はどちらにも自分の方が優れているとか劣っているとか感じさせることなく、その両者を受け容れた。
しかし、ボーディサットヴァは自分の道を――――アルハトの道に対して――「マハーヤーナ」「大乗」「大いなる船」と呼び、こう考える。「アルハトの舟 はただの小舟でしかない。なんて貧しい連中なんだ。たった独りで行ってしまうなんて」というわけで、ゴータマ・プッダ以後二五〇〇年の長きにわたって、こ れら二つのアブローチのあいだには絶え間のない葛藤が続いてきた。
ボーディダルマはボーディサットヴァに属している。それゆえに彼はアルハトを中傷する多くの、真実ではない言明をしている。
私(バグワン)は、アルハトにもボーディサットヴァにも属さない。私はいっさい仏陀の道には属していない。私には私自身の展望(ヴィジョン)、私自身の 洞察がある。だから、なにからなにまでボーディダルマに同意しなければならない筋合はない。それにとりわけこの点に関しては仏陀ですら彼には同意しないだ ろう。ボーディダルマはある特定の派閥の信奉者だ。
第二に、彼(達磨)は荒くれ者、きわめて恐ろしい人だった。彼の肖像を見たことがある人はわかるだろう……その絵は子供たちを恐がらせるには充分だ。だ が、それは彼のほんとうの姿ではない。彼は王子だった。南インドの偉大な王、強大なパラヴァス帝国の王、スハー・ヴェルマの息子だった。彼は美しい人だっ たにちがいない。これらの絵は彼の実際の姿を描いたものではない。それは彼の奇異な個性、その無法性を描写している。
だから、彼はいくつかの点でおまえ方が容認する必要のないことを言っている。彼は自分がマハーヤーナという特定の派閥、特定のイデオロギーに属している というだけの理由で誤ったことを述べているが、私はその箇所をはっきりと指摘したい。私はゴータマ・ブツダと同じように、アルハトとボーディサットヴァの どちらにもこのうえもない敬意を感じている。   (バグワンの語録)
* バクワンは達磨の否認者ではありません、彼ほどボーディダルマを敬愛し信頼し帰依している人はいないでしょう。バグワンは誰よりも老子と達磨とに、最も「自分自身」を感じている人です。
そのバグワンはまた、阿羅漢と菩薩との行き方を二者択一しない人です。人には人の本性があり、本性の無垢に随うまでと認め、さらに進めて慈悲心を優れて尊く認めつつ、それもまた高貴な一つの「我」であり「執着」であるとすら洞察しています。
わたしは、このような強い認識から遥かに遠い、無縁の存在でしかありませんけれど、こういうバグワンの理解に初めてふれたとき、やはり眼の鱗を落とした 気がしました。何度目にもなる読みの途中で、なぜともなくこの個所をわたしは自ら書き写したくなったのです。   2005 12・09
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☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

90 * 2005  12・12     和歌山の読者から前に、お手紙をもらって「佛教」の話題に及びましたが、おおむね納得されたようでも、根本にまだ残る問題があるよ うです、「佛教本来の佛教」として、Sさんは、「佛教って何を説いたのだろう」と自問され、本当は「人間としてのふるまい」ではなかったのか、と自答され ています。
「佛教本来の佛教」を、「ブッダ」として大悟されたゴータマブッダ=釈迦如来の本源の導きと意味するなら、このSさんの自答は、まだ、よほど隔たって遠いものでしょう。
「ふるまい」というと、善き行いの意味ともなり、取りようでは、いわゆる「道徳=モラル」に近づいてきます。人間社会に道徳モラルは大切でありましょう が、菩薩が大乗の船にみちびいて、多くと共に彼岸に赴こうという慈悲の向かうところが、「人間としてのふるまい」よろしき善男善女をというのは、やはり 「佛教本来の佛教」とはかけはなれた、後生の解釈になるのではないですか。
もとより「無心」「無作」のうちにあらわれる善行は、尊い。
ですが、「無心」「無作」はそのように簡単な前提ではあり得ないでしょう。それこそが、在りたき真の核心であり、人は、容易に容易にはとても「無心」に も「無作」にもなれません、「静かな心」になれません。もし、そうなれるなら、忽ちに善悪、美醜、賢愚等の世の常の二元対立=単なる分別心から離れられる でしょう。自身を離れて自身の本性そのものが、分別ならぬ「ブッダ」であると気付くでしょう。
この「気付き」に到れば、極楽も地獄もない、善も悪もない、道徳でもふるまいでもない「無心自在」「自然法爾」を示現して、生死を超越するのではないか。釈迦は、そのように根元の佛教を体験し提示されたのでしょう、あやしげながら、わたしが推察しますのに。
「人間として」という前提にも、我執、が出ます。「ふるまい」に善悪や美醜を分別して、善につき美につこうとする、その際にも我執・我慢や我褒めが生じ るのは防ぎようがないでしょう。それらはみな「心=マインド=分別=我」の働きにあり、「無心」「無作」とは成りようがない。「困っている人が手助けをす る」「自分を育んでくれているものへの報恩感謝」「慈しみの気持ち」「悪に対する怒り」「善に対する賛同」等々、みな善きことであり、人間社会の道徳モラ ルとして結構であり、誰も反はしない。しかしそれらが「無心」「無作」の「行為」たりうるかというと、容易ならぬ、場合により自己矛盾や撞着を示すでしょ う。前提になっているそれら善行自体が「無心」「無作」と直ちには重なりにくいからです。「有心」の「作意」に成りやすいからです。
大事なのは、善行か無心かなどと「択一」の問題にすべきではないということ。ブッダは、善行せよ、宜しく振舞えとは教えていないのです。自身のうちなる ブッダに「気付き」なさい、そうすれば四苦八苦も滅し、生死の苦を超越できる。そのためには「静かな心=無心=無作意」の「無我」を「見性」「覚性」する こと、と、教えているのです。
こう言葉に置き換えるだけなら、愚かな私にも出来ます。これの真の体験は、しかしながら、容易でない。が、つまるところ、そうなのです。それだけです。それが難しい。成ろうとして成れるものでないからです。わたしは、ただ、「待って」います。
* もう一つ、Sさんの呈されている問題で大きいのは、「不立文字 (言葉に頼らない)」か「経典信頼」か、ということ。
Sさんは、大切なのは「経典」を「どう読むか」ではないか、と言われます。「不立文字」「教外別伝」となると、一寸……と。
これは大問題ですが、わたしの率直な思いでは、いわゆる仏法僧という、「法」は、大蔵万巻の「経典」にあるのか、あの「拈華微笑」にあるのか、むろん後 者だということです。見性し覚性し無心に達した人であるならば、はじめて万巻の聖典は(例えば)己の境地の確認の為だけの役に立つでしょうが、それへ達し ていない者には、ほとんど何一つの役にも立たないのが聖典というもので、強いて役に立てようとすると、忽ちに経典が即座にただの通俗な「道徳書」「指南 書」に変じてしまう。そのようにのみ使われてしまいます。それどころか、ますます自我について離れがたく、無我の無心へは遠のくばかりになる、と。
知識や解釈のための聖典・経典では何の意味もないのです。道徳的な意味でのみの善男子・善女人をあるいは量産するかもしれませんが、一つ間違うと道徳を 我褒めしてしまうエゴイズムに走ってしまう恐れがあります。悪人も困るけれど、自分は善人であると善行を勲章の替わりにしていると、偽善に陥る。偽善だっ て善のウチだからいいと思いますがという言葉を、以前、やはり読者のひとりから聴いたことがあります。議論のしようもないことです。
大蔵万巻の佛教の経典の全部が、釈迦ではないはるか「後生の著作」であり、著作者の理解と解釈と主張とをこめた意見であり、同じく佛徒でありながら、正 反対ともいえる立場をとっています。史的事実です。菩薩(大乗)派と阿羅漢(小乗)派とはずいぶん違い、互いに他を否定し合ってきました。
ところが「佛教本来の佛教」において、釈迦はその「双方の在りうること」を容認しているのです。それが「佛教」です。その釈迦は、生涯に一巻の聖典も自 身の筆で書いていない。厳格なこの「事実」をどう「読む」のか、それが大事と思われます。わたしは、万巻の後生の解釈より、「拈華微笑」の伝説に尊いもの を覚えます。同じことは「イエス」の聖書にも謂えるでしょう。  2005 12・12

* 15年前の 話し合いだったが、昨日のことのように思い出せて、しかも今の私、まだ、どうにもこうにもならない没分暁漢(わからずや)のままの毎日と謂うしかない、ああ。
2020 1/30 218

☆ 往年の 『バグワンと私  途上の独白』 (湖の本108摘録) 聴きつ・思い直しつ

91 * 2005  11・03    すぐれた、または偏って過剰な「知識」に惑わされた少女が、母の肉体を化学的な「実験」にもちいて瀕死に陥らせているというニュース。
行き方は過激ですが、この手の知識人種の犯罪行為は ときどき繰り返されます。
ひと言でいえば、いくら賢くても 「人となり聡明」でなければ何にもならない適例です。
知識こそがつまり心(マインド)であるとバグワンは喝破し、マインド、つまり文字通りそれかこれか、どれかあれかの「分別心」だけでは、結局は迷妄の夢を漁るだけに陥るしかないとも。
同感します。 知識は心、聡明は無心。   2005 11・03
2020 1/31 218

* さがしていた文庫本の『創世記』がみつかり巻頭の「創造記」を読み、深く頷けた。神の創造があったと頷くと言うより、世界を創造するなら「や はり」こうだナとおもしろく納得した。納得できるこの私の資質が、あの壮麗なミルトンの叙事詩『失樂園』の「詩」や、法蔵菩薩の世自在王佛への帰依と誓い などに納得し魅されるのだなと思う。
しばらく『創世記』を読み続けたい。
どうも『論語』は性に合わない、私はもともと老子、荘子に惹かれながら大人になった。茶名「宗遠」の「遠」一字も『老子』にもらっている。
佛教の経典では、やはり『般若心経』徹底の「空」に惹かれる。浄土三部経に親しむのも『般若心経』を胸の奥に抱いてのうえで「南無阿弥陀仏」へ素直に身が寄せられる。バグワン・シュリ・ラジニーシのおかげでもある。
2020 4/17 221

* 喪ったかと落胆していた「湖の本107 バグワンと私 上」一冊分を、広漠とした機械の中から辛うじて見付け出した。疲れた。大仕事だった。
この肉親にも同じい馴染みの旧友機械クン、おそろしいほどのコンテンツを呑み込んでくれている。
湖の本150巻の全部、選集既刊32巻の全部、1998年三月から二十数年欠かしたことのない「私語 日乗」が毎年毎月毎日の365日、ほぼ8700日 分、そして創作、エッセイ、随筆等々の依頼原稿。そして萬と数え切れない永年保存のメールと写真。パソコンが無かったら、とてもこれだけの原稿用紙やノー トや資料を収容保存しきれない。
驚いたことにそれほどの大量を事ともせず「すっかり全部」保存してくれるモノも別に在る。
いやはや、 あらためて、東工大教授に招聘してくれた大学に感謝します。何故かなら、東工大の学生君らの助力なしくて私に「ホームページ」の何のと、出来得た話でなかった。ぜったい無かった。感謝。

* が、いまや、視野が、春霞とはこれかというほど滲むように霞んでいる。休憩。
2020 5/10 222

* 選集最終巻の編輯 「湖の本」にして一冊分ほど、分量超過している。
「私」か「記録」か。
「業績記録」としては、「受賞後満十年自筆略年譜」 詳細な「選集全書誌」「単行書籍101册全書誌」「湖の本150巻全書誌」が用意出来ている。文字通りの「記録」に徹している。私個人としては重い記録である。
「私」の開陳としては、「バグワンに聴く」「読み・書き・読書と、<ペン電子文藝館>創立」「歴史に問い、今日を傷む現代批評」「一筆呈上 匿名批評集」「秦教授の自問自答」「平成は穏やかであったか」となり、「受賞後満十年自筆略年譜」は、私的記録は簡略に、「作家」としての活動内容となっている。時代・現代と深く接触している。

* しばらく このまま放置する。
2020 6/1 223

* バグワンに教えられ、自身を「鏡」と、心している。鏡は 来れば写し 行けば追わない。
2020 7/26 224

 

* 『選集』最終巻の巻頭には、ためらいなく、「死の間近で」の『バグワンに聴く』を置いた。小説や論攷のほかで、私・秦 恒平とのしみじみ「対話」をと想つて下さる方には、この一編を遺して行きたい。
2020 8/5 225

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