島を見る・島から見る「島の文学」という特集企画と聞いたとき、その主題が、「日本近代・現代文学」のためのものと限れば、何が言いたいのか、正直のところ合点がいかなかった。
「島」と書く限り、それは島である。「シマ」と書けばすこし意味がひろがる。「うちのシマ」を守るの侵されるのということは、ある種「領分」「配慮下」を意味して、昔から例の親分子分たちの言い分であったし、今も、そうらしい。「島」を、「あの世」の意味で謂う地方もあるが、あまりに特殊すぎて、特集企画の意図は、そこまで逸脱していないだろう。もっとまっとうに、大島小島、離れ小島、あの島この島の「島」の意味であるのだろう。わたしはそう理解し、お鉢がわたしへ及ぶとは夢にも思わなかった。
だがまた、わたしは、ごく限られた範囲でではあろうが、「島の思想」の持ち主だと思われており、わたし自身も繰り返し発言してきた。その「島」も、明らかに例の島の意味やヴィジョンを離れた島ではない。海に浮かぶ「島」を踏まえたままの「島の思想」といわざるを得ないが、だがしかし、また、やくざ衆たちの謂う「シマ」とも、必ずしも背馳していないかもしれないのである。私にお鉢が回れば、やむをえず私はそのような自分の「島」を語るしか手がない。それでよいという依頼なので、その気で書いて行くのをお断りしておく。
とはいえ、「総論」ふうにとも謂われている。持論や持説を書いて「総論」とは凄まじい。で、そこへ行く前に、漫然と前置きを書くことも許して頂きたい。
日本は「大八州国」といわれる。「豊秋津島」とも「日本列島」とも総称され、日本が、東海粟散の「島国」という自覚は大昔からあった。そのような日本で書かれる文学が、大なり小なり、深くも浅くも、「島」生まれ「島」育ちの文学であり、島にも大小のあることなどを、申し訳のように付け加えることが妙にわざとらしいほど、つまり日本は「島」の寄り合い所帯だと認めざるをえない。その世界からとびぬけて出たような文学と、いかにも「島」めく文学とが「分別」出来ると謂われれば、むろん否定する段ではないが、どんな区別差別が本質的に見極められるか、遣ってみないので分からない。
島には、陸や大陸とはちがい「狭い」意味、海に「封鎖されている」意味などが、つきまとう。「島国根性」は日本人のぜんぶに言われているので、広い本州の人はちがう、小島暮らしの人にだけそれを謂うわけではない。そうなると「日本人」らしいちまちました料簡の人物が活躍する小説や演劇は、どこか「島の文学」だという大雑把なかぶせようも、まんざら否定できなくなり、そしてそんな指摘にはたいした意義の生まれようもない。
しかし明らかに「島」という環境と時代に取材した小説は、幾らもある。「硫黄島」「八丈島」「沖縄」「佐渡島」「沖永良部島」「隠岐」「対馬」「五島」「桜島」「竹生島」「伊豆大島」「千島」「樺太」「淡路島」「小豆島」「松島」「厳島」「鬼界ヶ島」「児島」瀬戸内の島々、果ては架空の「鬼ヶ島」まで、作品の世界になっていない現実の島はないと言って良く、芥川賞や直木賞や太宰賞やその他で評価を受けた作品を思い出すことは、そう苦ではない。しかしながら、戦争文学の舞台でもあれば幻想的な舞台でもあり、瀟洒な、あるいは貧窮の舞台でもある。それはもう「各論」的に語られ得ても、どう総論して、かりに分類などしてみても、それがどうしたというに留まるだろう。一つ一つの作品に触れて「読む」、そして個々に「楽しみ」「感じる」だけのことではないか。そして、そうなるとことさら「島」の文学という特定に、たいした意義は失せている。残るのは個々の作品の出来と不出来とだけではなかろうか。
で、わたしは、気の進まない前置きから、この辺で撤退する。以下の発語は、よほど方面が異なってしまうことをお断りしておきます。
生きとし生けるものは、此の世に「生まれて」くる。この、「誕生」を意味する日本語は、「生を享ける」などと難しく言わない限り「生まれる」の一語しかなく、この「れる」は、文法的には「自然」または「受け身」を意味すると、教室で早くに教わった。また英語の時間には「was born」という「受け身」形で、「生ま・れる」と習った。英語の文法でもっと別の解釈や解説があるかどうか知らない、「was born」は受け身を意味していて日本語に翻訳すれば「生まれる」しかないなあと、敗戦後すぐの新制中学一年生は合点したのである、その余のことは知らない。
では、人はどう受け身で「生まれる」のだろうと、私は想った。私はその頃まで、自分が秦家の「貰ひ子」であると人の噂にも重々知りながら、実父母のことを何も知らなかったから、そういう想像・空想・妄想にはふだんに慣れていて、つまりそれが幼いながら思索・思想の下地を成していた。
私は、育ててくれた秦家に黙然と服して育った。事実はゆめにも冷遇などされず、むしろ大事に可愛がられて育っていた。昔風に謂うと「最高学府」にまでやって貰えた。お前は「貰ひ子」だなどと言われたこともない。親も子も黙って実の親子のように、ほぼ大学をでる間際まで過ごしていた。そして家に子供はわたし独りだった、つまり私は祖父と両親と独身の叔母という大人達のなかの、見た目も「一人ッ子」だった。淋しかった。
こういう境遇で、友達も少なくいつも独り遊びしていた私が、人はどう「生まれて」来るのだろうと想うとき、その「人は」の「人」とは「何」であるのだろうと想うことから、あれこれと問題が展開したのは自然だった。むろん「人間とは何ぞや」などと難しく思索したのではない。
「人って?」という関心ないし疑念は、自然と「自分」という「人」を起点にした、「人の分類」へ向かった。「人はどう生まれてくるのか」は、その先の問題として、むくむくと太ってきたのだった。
「自分」と謂えるものは、此の世にただ「一人」だけいる。一人しかいない。これは疑えなかった。
自分以外は「自分でない」以上、みな「他人」だと思った。すると親子も夫婦も兄弟も親類も「アカの他人」同様に「他人」なのか。「自分」でないのだもの、当然に「他人」だった。世間の人はそういう存在を「身内」と呼んでいたけれど、疑問だった。疑問は到底拭えなかった。そんなのはみな、ただの「関係」を示す呼び名であるだけだ。疎遠な親子も、仇同士の親類も、他人の始まりの兄弟も、琴瑟和すにほど遠き夫婦もいる。
「身内」ってそんなものか。ちがう、と私は断定した。現に育て親に私は親しんでなかったし、実の親は非在、そしてどこかにどうやらいるらしい兄や姉や妹の、顔すら一度も見た覚えがない。所詮「自分」じゃない、向こう三軒両隣の人、町内の人、学校の友達らと同じみな「他人」、つまり「知っているだけの人」という意味の「他人」であると、私は厳正に決定した。
そして「知っているだけの人達=他人」の、背後に、遠くに、「まるで知らない人達=アカの他人」という「世間」が在る。世界中にそういう世間として「人類」が実在している、それは疑えない。軽くも見られない。そう思った。「男」「女」などという分類は、「アメリカ人」「ギリシァ人」などという、「黒人」「白人」などという分類は、わたしの関心や思索とは無縁の、つまり科学的・社会的事実でしかなかったのである。
纏めるとこうである、「自分」と、「(自分でない=知っているだけの人達=)他人」と「(その人について日常的に何も知らない人達=アカの他人の=)世間」の三種類が、此の人の世に「人」として存在している。幼いわたしは、そう考えたのである。
そして、こういう「人」達は、自分も含めて、どのように此の「人の世」に「生まれて=was born」来るのだろうか、と。むろん、生物的な出産・出生の生理現象を問うたのではない。
産み落とすという言葉がある。「生まれる」がほんとうに受け身の形であるなら、つまり絵に描いて想像してみるなら、「生まれる」とは、「此の世=世間」という広い海に、神様だか誰かは知らないが、石を投げ込むように人を投げ込んだのではないか。われわれは、此の世に「投げ込まれた」ように受け身に「生まれた」存在ではないのだろうか。私は、子供心にそう想った。その先は、よちよちと思索の進展である。
もし「生み=海」に投げ込まれた石ころの一つのようなもので「人間」があるなら、溺れて沈んでそのまま死んでしまう。人は魚ではない。
わたしは、こういう想像をした。眼を閉じ、どうか、私の謂うとおりに想い描いて戴きたい。
見渡す限りの、海。広い広い、海。よく見ると、その海に小豆をまいたように無数の島、小さい小さい島、が浮かんでいる。さらによく見ると、それら無数の小さい島の一つ一つに一人ずつ人が立っている。
島は、その人の二つの足を載せるだけの広さしかない。島から島へ渡る橋は無い。橋は架かっていない。「人」は斯くのごとく孤立して此の世という「海」に、「自分」独りしか立てない「島」に、あたかも投げ込まれるようにして「生まれる was born」「産まれ落ちる thrown down」のであると、わたしは想像し、銘々に「自分」なる「人」本来孤独・孤立の「誕生」を、脳裏の絵に描いたのであった。誰一人として、この想像を否定できないと確信した。
海(人の世)と島(「自分」孤りの生=無数の「他人」「世間」の生)との、世界。父母未生以前本来の「人」の在りよう。そんな構図の世界観。
そして思索は、先へ、また動いて行った。
天涯孤独は人間として当然の前提らしいと私は納得していた。その上で、「寂しい」という気持ちを、世界苦(Welt Schmerz)のようにもてあましている自分自身に、いつか気づいていた。手近に謂えば「独り=孤り」はイヤという、苦痛に似た思いである。
気が付いてみると、(本なども読むようになると)、橋の架からない島と島との間で、自分の足ひとつしか載らない小さな島の上で、人が人へ、他人の島へ島へ、さまざまに呼び合っている声が聞こえてきた。自分もまた渇くように呼んでいると痛感し始めていた。人の「愛」が欲しい……。「個」としての「孤」は絶対の世界意思(Welt Wille)であろうとも、「孤」を脱したい人間の意思(Mensch Wille)も確かに在る。人は「愛」を求め合っている。本来不可能と分かっていても、島から島へ橋は架かっていないと分かっていても、なお「愛」を求めずにおれない渇仰が酸の湧くように心身を痛める。愛が受け容れられねば、この世界、底知れない孤独地獄でしかない。
私は、かくて真の「身内」を真剣に考えるようになった。名前をもった社会的・生物的「関係」ではない「真の身内」を、人は寂しさの余り渇くほど求めている、いつも求め続けて、他の島へ呼びかけ呼び交わしていると思った。
だが、それは可能なことか。私は本気でそれを考えた。
そして、こう思い詰めていったのである。
幸いにして、人は、自分独りしか立てないはずの小さな島に、ふと、二人で立てていることに気が付く。三人で、五人で立てているとすら、気づくことがある。恋をしたり、すばらしい親友が出来たり、信じ合える先生や教え子が出来たり、水ももらさぬ伴侶が出来たり、愛し合う子、敬愛してやまぬ親、すばらしいチームメート、慕い合える知己などと、倶に島に立てているではないか。
一過性の相手もあれば、崩れゆく信愛もある、が、生涯変わらない単数の、また複数の相手と、この時に、あの時に、時々に出逢い、それら出逢いの幸福感や充実感ゆえに、ああこの人と一つの「島」を、運命を、分かち合って立っているぞ、と信じられる。
こんなことは、人により多少と深浅の差はあれ、体験する人は必ず一度ならず体験しているものだ。
私は、こういう相手を真に「身内」と呼ぶべきであると思った。親子だから、夫婦だから、きょうだいだから、親類だから「身内」であるといった思いようは、子供心にも軽薄だと思ったのである。
「自分」が独り、自分の他に「他人」が大勢、「世間」はさらに無数。しかも、日々生きて暮らして、「自分」は広い「世間」のなかで「他人」と知り合う。より大切なのは、そういう「他人」や「世間」のなかから、孤り=独りしか立てぬはずの「島=いわば運命」を共有しあう「身内」と不思議に出逢う。不思議にそういう「身内」を見つけ出す、見つけ出したい、見つけ出そう、と「生きて」行く。人として何よりも根底から願っているのは、名誉よりも富裕よりも権力よりも、本質的にかけがえない「身内」だ。世界中の誰も誰もがそう根の思いで欲し欲して生きているはずだと私は信じた。
自著『死なれて 死なせて』(弘文堂<死の文化叢書15>一九九二)に私はこう書いている。
それにしても不思議なことではないか、東京のような巨大都市に暮らしていると、百メートルと離れない近くのお葬式にも、胸にさざ波ひとつも立たないという事実がある。その一方で、顔も見たことのない、年齢も仕事もよく知らない文通だけの一読者の訃報に思わず涙をこらえるという体験もある。十年、二十年たってもまだ「悲哀の仕事=mourning work」の終え得ない死もある。これはいったい、どういうことなのか。なぜ、そうなのか。
それを誠実に考えつづければ、私は、どうしても「世間」「他人」「身内」と感じ分けてきた「自分」の「島の思想」へと立ち帰らずにはおれない。
「死んでからも一緒に暮らしたいような人――そんな身内が、あなたは欲しくありませんか」
私の戯曲『心―わが愛』(俳優座劇場、加藤剛主演、一九八六)では、「K」が「お嬢さん」にそう問いかけ、彼女は声をつよめて「欲しいわ」と答えていた。
あなたは、どう、思われるだろう。
世界中の名作小説や戯曲を私は思い出す。
谷崎潤一郎は、こんなことを言っている。むかし、あるところに男(女)がいて、その男(女)を愛する女(男)がいた。小説はつまりその幾変化であると。
そう簡単ではあるまい。
万葉集の基本の部立ては時代(治世)のほかに「愛(相聞)と死(挽歌)」であった。人は愛し、そして、死なれ・死なせて、生きてきた。幸福に、また無残に苛酷にと。そう謂えるだろう。
そう見極めた上で、私は、人は「生まれ」ながら孤独であり、もともとその運命=足場としての「島」「島」は絶対的に孤立していると観た。島から島へ橋は架かっていない。だが、それでは到底寂しくて叶わない人間は、錯覚、貴重きわまりない錯覚としての「愛」なしに生き難い。互いに島から島へ呼び交わして、広い「世間=海」から「他人=島々」から、「身内」を渇望し、我一人の「島」にともに立とう・立てたと幻想するようになる。必ず、なる。これ以上必要で価値多い幻想はほかに無いのだ。
そして、いつか、そんな身内にも人は「死なれ」る。いや「死なれる」どころか、苛酷に「死なせ」てしまう実例も事実数知れない。光源氏は最愛の藤壺も紫上も「死なせ」ている。薫大将は宇治大君を「死なせ」ている。勇将平知盛はむざむざと目の前で愛子十六の知章を「死なせ」て自身生きのびたのである。ヒイスクリフはキャサリンを「死なせ」、ジェロームはアリサを「死なせ」、王子ハムレットもファウスト博士も愛する「身内」の女を「死なせ」ている。わたしに言わせれば、春琴と佐助も、いわばともに相手を「死なせ」るに等しくして、ともに生きたのであり、世に愛し合うものたちは、時に親を棄て子を棄て伴侶を棄てても、より愛おしい「身内」と運命を分かち合おうとする。
「身内」とは何であろうか、通俗に言えば、まさしく「死んでからも一緒に暮らしたい人」の意味でなくて何であろう。
阿弥陀経に「倶會一處(くえいっしょ)」の四文字がある。意味するところは極楽であろう、が、私は仏門の意義に聴きながらも、囚われない。死んでからも同じ一つの「家」に心おきなく住み合える人達。私はそんな人達を「身内」と思ってきたし、あらゆる文学・文藝に登場して、愛と死とを深く身に刻み合い分かち合った同士は、本質、これと少しも異ならない、その示現そのものだと観ている。
しめくくりのモノローグに、ごく初期の自作『畜生塚』から一部を引かせていただこう。私の主な仕事は、すべてこの作よりあとから生まれた。少年の、青年の、少しはにかんだような「理解」が語られているが、私の死んだ実兄が最も愛してくれた「手紙」である。静かな気持ちで、どうか読みおさめて頂きますよう。
*
もう夕暮といいたいほどの陽のかげが広くもない境内に斜めにきれいな縞をつくっていた。甃(いし)みち、築山、それに萩があちこちにうずくまったようにみえる。鶏がいる。自転車がある。ふとんが干してある。セーターを着た若い人が庫裏(くり)をせわしげに出たり入ったりしていた。それでいて堂前の庭のたたずまいなど清潔で美しい。薄ぐらい感じはない。案内を乞うまでもなく、門を入って右の方へ甃の上を歩んでゆくと立派な石碑がならんでいた。瑞泉寺、前関白と割書きして一段大きく秀次入道高巌道意尊儀と刻んだ大きな石塔を真中に、右に篠部淡路守外殉死諸士墓、左に一之台右府菊亭晴季公之姫外局方墓と刻んだ石塔が並び、これをぐるりと左右後にとり囲んで、普照院殿誓旭大童子とか容心院殿誓願大姉とか妻妾子女の墓石がびっしりと居並ぷ。だが、どうみても非業の死をとげた人たちの畜生塚とはみえない、白いみかげ石がまだ新しみさえ帯びていて、きちんと墓石が整列している。さっぱりしている。
町子はセーターの青年に博物館でみた掛物の残りが寺にあるかときいていたが、それはやはりみんな博物館へ渡してあるとのことだった。
何の恐しげな古塚を期待したわけでもなかったが、仕合せそうにちんと鎮まっている秀次たちの墓所には、妙な皮肉な味があった。町子も私もこの皮肉がよくわかっていた。眩しいほど真黒な猫が門のわきの萩むぐらの下に碧い目と茶色の目とをけいけいと光らせて私たちをみていた。妖しく美しい姿態をきりっと緊張させて、黒き猫は萩の下にいた。ああこれがそうだ、この猫がそうだったのだと感じた。何がそうなのか言葉にはならずに私は合点した。黒猫が目をみはるほど美しいこと、すこしも気味わるくないことが私たちの気分を救っていた。
東京から長い手紙を書いた時も、私はあの萩の下に輝いていたものの美しい光沢を意識していた。文面はともかくとして、町子に伝えた夢想とは大体こんなものだった。
私はもともと定まった自分の家と家族をもっていたのです。いつか私は必ずその家へ帰り、私は家族(身内)と永劫(えいごう)一緒にすごすのです。その家族とは親子同胞といった区別のない完全な家族ですが、その家族が本当にどんな人たちなのか今の私は忘れていてよく想い出せないのです。なぜなら、私はその家を出て、この現実世界の混乱の中へ旅に来ているからです。
今の私の生活はすべて旅さきの生活であり、家庭は仮の宿です。私はいつか、死ぬという手段であの本来の家(この本来という言葉はよくいう父母未生(みしょう)以前の本来です)へ戻り、本来の家族(身内)に逢うでしょう。私より先に帰って来ている人もいるでしょうし、あとから帰る人もあるでしょう。
私がいつか死ぬようにあなたも死ぬでしょう。あなたはあなた自身と家と家庭とを本来もっているのですから、その家へ帰ってゆくのです。その家にはあなた自身の家族(身内)が住むのです。私もその中に入っているでしょう。そして、私の家にあなたはもちろん居るわけです。
この意味がわかりますか。死後の世界、いいえ、本来の世界では、私という存在はただ一つではありません。私のことを身内と考え愛してくれた人たちの数だけ、その人たちのそれぞれの家で私はその人たちの家族として生きるのです。同じことが誰にでもあてはまるのです。
私の家にいるあなたと、あなたの家にいるあなたとは全く同一異身なのです。私の家には迪子(=妻)がいますが、あなたの家に迪子はいないかもしれない。しかし私の家では迪子とあなたは完全に一つ家族です。こうして無数の家がある。
あの世では、一つ蓮(はちす)の花の上に生まれかわりたいと昔の人は願い、愛を契る言葉として実にしばしば用いていますが、それは私のいうこの本来の家と家族との意味を教えているように思います。
笑う前に考えてみて下さい。これは私の理想です。これが信念になるとき、私は死を怖れず望むようになりましょう。これが極楽であり、地獄とはその永劫を一人で生きることです。人は現世での表面的な約束ごとで結ばれた家族、親子、同胞、夫婦や友だちをもっていますが、真実の家族は本来の家へ帰った日に、はじめてわかる。
私は私の家へ、あなたはあなたの家へ、迪子は迪子の家へ帰ってゆくのです。私の家にいる私と、迪子やあなたの家にいる私とは別のものではない。どの家にいても、私は私を分割しているのではないのです。どれも本当の私であり、どの家を蔽っている愛も本当の全的な愛なのです。
年齢も容儀も思想もどんなことも詮索することなしに信じて愛し疑わない身内だけの世界がある。このふしぎな私の夢をあなたもいつか信ずるでしょう。そう信じなければ、人は寂びしくてこの旅の世界に惑い泣いてしまう。
私はこういうことをあの博物館の中で花火のように想い描き、瑞泉寺を出るときに信じはじめました。私の得たふしぎな安心は大きなものです。死をおもうことに恐怖がうすれています。
迪子はこの私の描いた夢を理解したようでした。
06.08.23 ――了――