* 孤立感という孤独感は、とりわけ猛毒。夫婦とか兄弟とか親子とか、名付けられた「関係」で解毒はできないと、思っています。
大問題。 湖
2007 1・16 64
* 郁さん 決意に賛同します。 湖
あなたの体力や気力が堪えうるのなら、どうか母上を、よろしく。ただし共倒れに、とりかえしつかぬ負担を後々に抱き込んではいけません。あなたが長生きしなくては。かねあいが難しいが、誇り高きご老人の、平安ないい終末を祈ります。
展覧会のこと、決意をに賛同します。とうとう此処までの覚悟をしたかと感慨深い。ずいぶんヒドイことを言ってあなたを傷つけてきたと思います、許されよ。
メールの中に「自分なりの自分らしい気負わない作品を」とあるのは、しかし、危険信号ですから撤回されますよう。むしろ今回こそはしっかり気負って、死にものぐるいの、コレまでになかったものの誕生・創作を期してください。
だいたい、ものを創る人が「自分なりの自分らしい気負わない作品を」などと言い出す時は、はじめから言い訳用意、逃げ腰の逃げ道づくりなんです。
きみに、「自分なりの自分らしい何か」なんて、「ほんとに在るのかい」と、わたしは授賞した当日、今後も「自分なりに自分らしい」仕事をと口走って、えらい先生に睨まれました。あの青くなって震えた瞬間。それが、本当の出発でした。わたしは忘れない。そんなものが本当に「在るのか無いのか」、あなたは、今度の展覧会で血相かえてでも見つけ出さなくちゃいけないんですよ。
「自分なりの自分らしいものを自分なりに」と言っている限り、もし失敗しても、「自分なりにやったんですもの」と言い訳が利いてしまう。言い訳がはなから用意できている。これが、危ない。
創作の場合、言い訳の「退路」はあらかじめ絶っておき、形相を変えて必死で取り組まねば、せっかくの「最期の機会」がムダに終わります。がんばってください、今度こそ。そう激励します。おなじことをわたしは自分に向かって言うているのです。
2007 3・5 66
* 能の場合、三役が、つまりは笛方が最後に幕に入ったところで、能一番の好演に感謝し静かに拍手を送るていどが、礼としても、許される限度だろうと思う。能舞台は、ただの藝能の演技・演奏とは本義を異にしている。超越した「翁」の、さまざまに姿形を変えた、「影向」の能なのであり、松羽目はただの装飾ではない。来臨の神のよりましである。神前の柏手は神の所為を称賛するのではない、来迎を促し頼むのである。その気持ちをワキが見所にかわって演じてくれる。
少なくもシテのひきあげる橋がかりや幕入りにもう拍手するのでは、幽玄また清明な舞台の感興を無惨に殺してしまう。あまりに無残である。感銘は見所の一人一人が胸奥に深くたたんで、感動に堪え黙して座を立つのが本筋の深切だとわたしは考えている。深い深い静かさからあらわれ、また深い深い静かさへと去って行くのが、能、ではなかろうか。
2007 3・7 66
* いまに始まることではないが、ものを育てたい土地、田畑には、ゆったりと肥やしをふくませねばならない。関係の濃いあれこれだけを肥やしにしたがるとかえっ土地が固まって痩せる。何の役に立つだろうかと疑ったりせず、書き手は、創り手は、おいしいものをゆったり身に蓄えているといい。目に見えて役に立たなくても、とてつもない隠し味があらわれたり、信じられない働きのいい中間子に活躍し、幸運をひきよせてくれたりする。今のわたしに知識欲はないが、好奇心は衰えずにある。好奇心がいい鉱脈にふれはじめたりすると、何がつかみだせるか知れない。具体的な効果はなくても面白くて溜まらない余得がある。底荷になる。
2007 4・4 67
古社寺をめぐって社寺印を捺して貰ってくれば「行った、知っている」という人がいる。良い体験は、そういうものでない。二度立ち向かう気を起こさせないものは、概して、つまらない。但しこの際に、ぜひ覚悟しておきたいのは、作品がつまらないとは限らない、作品に比して当人の人間の方がよほど「つまらない」場合もある。作品を「つまらない」と投げ出すのは人間の勝手だが、作品の方からおまえは「つまらない」と言われるのはかなり恥ずかしい。
2007 5・5 68
意識の流れのような「私語」で、もし「表現」していることがあるとしたら、「今・此処」で「生きています」という呟き、だけ。
2007 5・22 68
* 久しぶりも久しぶりに、思い切った読者の長めのアイサツと告白とが届いた。家族親族のことを書いていて、その限りでは当人なりの覚え書きのようだが、そういうのをわたし宛に送ってきてくれた本意に、或る動機が働いているのではないかと思った。もっと長く丁寧に具体的に書きおきたい気が、機が、生じているのではないか。「斯くありし」とおりに書こうとしても書けるものでない。「斯くあるべかりし」真意を、飾らず、ウソにならず毎日続けて表現してみてはと奨めた。
忙しい勤務の母親である。しかし息子さんはもう大学生、やす香と同じ歳に生まれている。ムリをしても続かず、続けねば続かない。
続けるためには、たとえ一字二字、一行二行でもとぎらせず毎日続けてゆくといいし、粗い目次をつくって、書きたい範囲を自分で了解し、散漫を予防し、書き出しはよほど強く印象的な或る場面から初めること、と、奨めてみた。
2007 5・28 68
* 花と湖 花は大好きだし、写真に撮るのも好きだけれど、花は「花」でよいと思っていて「名」を覚えようとしたことがない。
此処「mixi」にかかげた花の写真の、一つは、妻と散歩していて撮ったもの、「花にら」と教えてくれた。他の二つは、妻の育てているのを勝手に撮っただけで、名は聞いていない。美しければいい。
『ゲド戦記』風に謂えば、いずれどんな名も通称でしかなく、真の名ではなかろうし、などと思う。わたしの名にしてもおなじこと。だから「湖」で佳い。
この「湖」の、根のイメージは、少年の昔に見入った、お盆に仏壇に供える野菜などを乗せた、蓮の葉。さっと清水をふりまくと珠の露となり、たちまちに溜まって一つの小さな「みづうみ」にかわる。露の一つ一つを大勢の人と想えば、「みづうみ」はわたしの謂う「身内」のイメージ、ひとつの「世界」を意味するか。 湖
2007 8・3 71
* たとえば吉永小百合たちの『ひめゆりの塔』といった映画を、わたしは、どうも素直に観ていられない。戦争場面が、ではない。戦争のことなど観念的にしかまだ頭にない純でお行儀の良い女学生たちの、ブルーマ姿の学校場面などが、気恥ずかしくて、観ていられないのである。
何故だろうと思いつつ、思い当たるのが、つまり時代や教育(家庭教育・社会教育)によって、拒みようなく強く「枠づけ」されてしまった人たちを観るのがイヤなのだということ。
清く正しく美しくといった女学生も、戦時の、みんな同じ顔した少国民も、兵隊さんも、学校教師も、政治家も。みな、「自身」をやすやすと見喪って時代や社会の鋳型どおりの「枠」内に安住している。
身空ひばりの『悲しき口笛』や『東京キッド』を観ていると、ひばりの演じる少女だけでなく、あの時代の「美空ひばり自身」が、時代の古くさい鋳型の「枠づけ」から、めちゃくちゃにハミ出ている。天才が「枠」をあたりまえに蹂躙し粉砕すべく発揮されている。しかし当時のPTAのオバさんたちが、どんなにひばりを罵倒していたことか。
「らしい」だけの存在が、きらいだ。
学生らしい学生、先生らしい先生、作家らしい作家、ニートらしいニート、会社員らしい会社員。世の中の秩序や安全のためには「らしい」方がややこしくなくていいのであろうが、ウンザリだ。「枠」への叛逆。それなしにどうして本当に「生きている」と言えるのだろう。
2007 8・19 71
* 人の「今・此処」は、つまり「今・此処」なんですね。その「今・此処」は、なるべく静かに受け容れて生きるものです。人は「今・此処」の積み重ねの中にいろんな風景を抱き込んでいます。過去は、しかし過去とすべきでしょうね。
2007 8・31 71
しかし、何といっても子を殺す話はよろしくない。『寺子屋』よりは、舞台に映えた官能美がありすくわれるけれども。手に掛けて親が子を殺してはいけない、どんなリクツがあっても不快だ。
要するにいかに泪を誘おうとも、所詮、天子だの将軍だの大将だのの世界の中では、熊谷たちは、無意味なただの歯車にされている。社会のがっちり食い込んだ「ワク・仕組み・抑圧」のきびしさに対する、バグワンの謂う意味の本質的な「叛逆」が無い。勝海舟にものしかかっていた「幕臣」という「ワク」を、あの坂本龍馬は直ちに「日本人」という自覚で本質的に叛逆できた。そこが希有。社会や教育や階層や生まれつきなどというものの強いてくる、身動きならない「わく組」という抑圧や制圧の中でしか生きられない者達の「」劇には限界がある。どこかで、バカげていると思ってしまう。
「ワク組」の最たるものが「法律」というやつだ。法律家は法律の不十分な日本語に自ら縛られて身動きしないことを「遵法」と謂い、人間の限界を自ら固めてしまっている。わたしのような無法者は、情けないはなしだと慨嘆する。
2007 9・11 72
* 文学はほんらい音楽です。文学の根は詩歌ですもの。優れた文体は、音楽です。
「音楽」と書いて「音学」と書かなかった幸せを感じるとき、
「文楽」と書かずに「文学」と書いてしまった不幸を思います。
文学を絵画のように想いはじめたときから、文学は「映像の手下」とおちぶれ、「文学の音楽」を見捨てはじめたのではないでしょうか。
文学は音楽です。 湖
2007 11・1 74
* からだが、ゆっくりしている。朝、一度床を離れたが、ふらりと舞い戻りそのままゆっくり「また寝」した。日から日へ。つまりは「いま・ここ」の推移。出来ることはしっかりやり、ムリの必要ないときはムリしない。ムリということのどうしても必要な事態は有る。ムリばかりしていると、本当に必要なムリが利かない。集中力とは、余儀ない、強いられた、ぜひ必要なムリが「出来る」と謂うことだ。
2007 12・27 75
* 自分の病気に「同化」すると、暗くなる一方です。自分でないもう一人の自分の病気を、「観察」するのは有効です。
自分の「体」は、家屋でいえば壁や屋根や床のような建物そのものだと想い、「自分」とは、それらに囲まれ包まれている「内なる空気」だとわたしは想っています。「内なる空気」は、壁達の「外なる空気=天」と全く同じです。
そんなふうに想っています。 湖
2007 12・29 75