* 金沢の、文化勲章陶藝家、十代大樋長左衛門年朗さんから東京で個展をするからと案内が来た。大樋は好きな焼き物で、わたしも五代か六代あたりの名碗を二枚所持している。楽のわかれで、楽には当代吉左衛門が天才を発揮している。楽の碗は一入作以下数碗を愛蔵している、が、本当に適当な人が出来れば差し上げてモノの命をのびやかに生かしてやりたいと願っている。道具は、ほんとうにものが分かって心から愛しうる人のもとでないと、孤独死してしまう。
2013 2・18 137
しかし、創作家とはつねに「批評」の人であらねばならぬ。朝と書き、犬と書き、小さいと書き、甘いと書いても、すべて批評として文章表現に生かされる。他のもので置き換えられない、その適確で深切であるか無いかが、また他者により「批評」される。
2013 3・2 138
* 種を蒔いて すぐには芽は出ない。
ほんとうに、それが良い種であるなら根気よく育てること。それに尽きる。わたしは、よく思い出す、子供の絵本に出ていた逸話か、楠木正成が少年多聞丸の頃、大人にも揺らせないほどの釣り鐘を「指一本」で動かせるといい、事実、動かしたという。途方もなく粘り強く指一つで押し続けている内に釣り鐘は揺れ始めたと。
わたしは、半信半疑に絵本を読み、しかし、結果として「半信」の方へ、いわば人生観を肩入れした。ものごとを可能にし実現して行くには「その道」しかないと信じたのである。
2013 7・1 142
ものを書くのに、才能は、どう現れるか。少なくも一つ謂える。「推敲する」力と根気、それが創作文章での確かな「才能」です。推敲の力は、数行の書き出しだけでも分かる。一つ、(これで十分なのではない、誤解ないように。)申し上げる。「のようというのだ」と覚
えてくださると好い。
「(の)ような(ように)」「という(といった)」そして語尾の「のだ」の、この三つは、書きながらも我から首を傾げて思案した方がいい。
大概、この三つは必然の必要から書かれず、ただの口調子で書かれている。省いてしまうとピンと文章の立ってくる例が多い。この三つの頻出する文章は、たいてい、救いがたい「駄文」である。
序でながら、例の一つであるけれど、「私がすること」「あなたのなさること」の、「が」と「の」を、確かに書き分けられる人も、少ない。丈章の品位、作の「品」を左右する例が多い。
2013 7・2 142
* 問題で難題は、眼のこと。よくなる兆しが現れない。網膜の新術式実用普及まで持ちこたえたい。
今日も小説を進めた。もっともっと進めねば。「これ一つしか書けないと命懸けで」書く、それを究極の楽しみとする。三木清は言っていた、「十あるもののうち今日は一つ書いておいて、明日また一つ書けばいいというような考え方が」文学を「毒している」と。「これでてあ畢りということになれば、十もっておれば十出さなくちゃならぬ。生活態度においてもそうだ」とも。彼の目前には、彼自身の非業死にいたる大戦の惨劇が予想されていた。今はそれが、無い? とんでもない。「迫る、日本の最大不幸」にわたしも包み込まれているのを忘れまい。だからこそ楽しんで命懸けに生きねば。わたしは癌さえも現に抱いている、忘れてはいない。
2013 7・3 142
「名言」だのと持ち上げて安直に抜き書きを読んでことが済むなら気楽きわまる。「名言」は、自身の肺腑を突き破って自身で吐くべき言葉なのだ。
2013 7・18 142
「読む」という営為はただ受容的な慰楽でなく、自身の「創る」嬉しさに繋がる。そうでなければわたしは「読まない」だろう。
2013 11・11 145