ぜんぶ秦恒平文学の話

名言集 2017年

 

* 「私語の刻」のこんな「私語」、誤記・誤打をおそれぬ書きッ放しではあるのだが、それでいて、わたしの日々の意識では、こういう短い感想や雑駁な記録 であれ、「文章」の勉強は十分出来ると自覚している。「文体」という、自身に根をはった「歌わない音楽」をどう養い引きだし奏でるか、こういう場がこれで 貴重なエクササイズになってくる。句読点一つ、音韻の流れ、組み立てを、こういう簡単な行文を通じ、なかば無意識にこころがけて、勉強している。機械打ちの行文のこれは恵みであり励ましにもなっている。「私語の刻」また文藝。勉強の時間である。
2017 2/2 183

* わたしは寄せ集め文学全集では、書き手の作だけでなく「年譜」も愛読する。「字書・辞書・事典」も各種楽しむが、たとえば歌舞伎座で手に入る「歌舞伎 読本」などもまる暗記してしまいそうなほど、毎年刊行のものを、寝床の傍に置いて夜中に愛読し楽しんでいる。色んな施設や企業、出版社から、凝った雑誌を 送ってくれるのを、せいぜいわたしは読むようにしている。丸善の「学鐙」 「ちくま」「波」「本」「春秋」或いは歴史の吉川弘文館の「本郷」その他、右か ら左にはとても処分しがたい雑誌が送られて来る。念入りの「文化」である。

* 「文化」についてわたしは、以前に、人は入浴してからだを洗うにも、手洗いへ入って排尿排便するにも自分なりの手順を守っているもので、それも「文化」だと謂うた。手当たり次第のやりっ放しに手順・手続きを創って行く、それこそが文化・文明の根底だとも。そんな感覚で、わたしは「包む」ものの発見、 発明、「容れる」ものの発明を殊に大事な「文化」と観てきたので、ことに容れ物としての「函・箱・筺」をなかなか棄てられない。いい「はこ」が明くと、つ いとって置く。わたしのこの狭い仕事部屋にそんな空き箱が、紙のも木のも金のも在りすぎて困惑している。しかし佳い「はこ」には魅される。容れるにふさわ しいモノを創りだしてやらなくちゃ、などと思う。
2017 3/20 184

* 実の父方吉岡家は学術・教育の、実の母方阿部家は実業の、ともによほど大きな一家一門で今もありまた曾てあったけれど、わたし自身は、ほぼ生まれながらに小さなラジオ電器屋の秦家へ貰われ、何もかも「根」に類することは極くの噂程度にしか知らぬまま、一作家の秦恒平に成った。まして娘朝日子や息子建日子ともなれば、わたしと妻との家庭以外に、それ以前の根の知見など何一つも持っていない。思いようでは、これほど 気儘に自在自由な足場は無い。自身の目と心とで健康に心ゆく一生を生きてくれるように。
私と妻との血筋は、あまりにもかすかに頼りなく、娘朝日子の次女みゆ希独りを通してしか生き続けられない。そのたった一人きりの孫である「押村みゆ希」 の現在も、わたしたちには露ほども判らない知れないでいる。思いようでは「血縁」とは、いかにもイヤなものだ。だからこそ血縁ならぬ「真の身内」という思想は重いのだ。わたしは幸せに生きている。
2017 4/7 185

* 桶狭間の急襲と成功、作品論は、結句そうでなければ、ぬるま湯をかき混ぜただけの駄文にたいてい終わっている。
研究者の論攷は責任をもって先ず「正しく」そして興趣に満ちて「おもしろく」あってほしい。
その余一般の評論は、ともあれ「おもしろく」て、しかも読みはあくまで「正しく」あって欲しい。佐助犯人説のようなただでたらめな思いつきは、いけない。明治に殉じて「こころ」の先生は自決したなんてのも、困る。
「読む」ちから、眼光紙背に徹して正しく「読む」ちから無しに作品や作家への意義有る批評は成り立たない。
2017 4/8 185

* 日本の文化財が焼損せず汚損・破損せず、まして破壊されずかつ不当に損失・略奪されないようにと、わたしは、わが身をおもうよりも大切に痛感してい る。人名はもとよりとして、日本の文化財が蹂躙破壊されるのを恐怖する思いがなにより戦争イヤ、という気持ちの底にある。その思いで、わたしは石器土器の 往古來、無数の名品、名作、逸品の名と姿とを折り有るつど思い出し数を数えるように指折り折り思い出している。我が愛国のそれが芯、どんな機械文明よりも 手作りされ手塩に掛けられてきた文化文物こそが、「國と民族」との芯に在る。
2017 4/11 185

* どう死ぬかの選択は無い。死ぬまでは生きる。どう生きるか、というだけである。
2017 4/20 185

* 鷹峯の「百」さんがこの前送ってくれていた、上に出した「祈る」絵、墨の描線の豊かに力強く生きた魅力、目が離せない。不退の行法に励む善財童子で あったろうか、それは誰でもいい。この祈る姿に見事に健康な「いのち」が感じられて嬉しいのだ。「いのち」の溌剌こそ幸福というもの。
2017 5/4 186

 

* 老子はロジックを用いない、アナロジーで語っている。わたしの最も惹かれるのがそこだ。わたしは論攷や評論や研究めく仕事を、「花と風」でも「女文 化」でも「趣向と自然」でも「谷崎論」でも、詞藻をつくしてのアナロジーとして、極端にいえば「詩」かのように書いてきた。バグワンに融け込めるのは彼も またロジックに毒されていない、毒されるな毒されるなと手を引いてくれるからだ。
2017 6/1 187

* ほんとうにしたいことを、まよいなく、して、して、しつづけることは、ほんとうに難しい、が、ほんとうに望ましいとは、少なくもそれは信じ切っている、わたしは。多情でもなく仏心ももてず、不俗是仙骨にもほど遠いけれども。
2017 6/27 187

* 作者が過去に日記などで喋ったり書いてたりを足がかり手がかりにする小説の「読み」は、しばしば作者にだまされバカされる結果になる。谷崎読みで徹底的にわたしは覚えた。
作の全ては現に書かれ只今読んだ「現作の表現」に尽きていて、それを眼光紙背に徹して如何なる行間からも読み取らねば、ただ賢そうな「知ったかぶりの読み違いや読み落とし」に陥る。
過去の古証文にばかりとりついて、眼前の本文から心眼を逸らした「研究と称する軽い読み」が、とかく、はやりがち。作者たちはたいがいそう思っているだろう、作者が万能で神の如き者とは決して言わない、とても言えない、けれど。
2017 7/17 188

文学という藝術は溌剌とした生きの命である文体と表現の個性で自立する。独自の文体を持てなくては作家などと謂えない。いま世間にばらまかれている、私の所へも送られてくる安い同人誌の作のほぼ全部は、ただの自伝風か回顧録ふうに止まっていて、文体なく表現なく雑な「説明」に終始している。情けない。
歌わない音楽、独特な息づかいが刻む「間」の流れの飛沫くほどの確かさ美しさ、ちからづよさ。
むかし、亡くなった杉森久英さん巌谷大四さんと銀座を歩いていたとき、ある中年過ぎた作家志望の女性が熱心にあとを追ってきて、しきりに杉森さんからの助言を求め続けていた。しまいに、何が一番大事でしょうと訊ね、するとそれまで黙って応えなかった杉森さんは一言、「文体」とだけ言われてそれだけだった。
そのあと、わたしは巌谷さん杉森さんに「はちまき岡田」でご馳走になった。わたしは店が自慢の美味しい料理以上に、作家でもあったし名編集者でもあった杉森久英さんの、端的に「文体」といわれた一語を公案のように胸にとりこんだ。一緒に中国へ旅した巌谷さんも名編集者だった。後に、亡くなる日まで丁寧にお付き合い下さった、大久保房男さんも、いまもことあるつど励まされている新潮社の坂本忠雄さん、講談社の徳島高義さん、天野敬子さん、文春の寺田英視さんらもみな勝れた名編集者だった。もっともっと早くには、太宰賞に満票で選んで下さった選者先生もとびぬれた名編集者でもあられた。おそらく、どのお一人も違うことなく「文学は」とお尋ねすれば「文体」と言われたに相違ない。
2017 7/20 188

* 読書は、限られた範囲を精読するだけでは何かしらが欠けて身に付かない。片々とした小冊子や雑誌・新聞記事もふくめ方面を限定しない好奇心からの濫読 が存外に世界を味わいよく深くしてくれる。永井荷風の人を誡めて奨めたこの読み方をわたしは長く実践してきた、が、余命をおもいつつ好みを優先させつつあ る。
2017 8/9 189

* わたしの二階六畳仕事部屋の雑踏がどんなかは、謂うもおろかで笑ってしまうが、なかで場を塞いで積みあがっているのが、紙のといわず木といわず大小の 「函・筺・箱」である。わたしの揺るがぬ信奉に「(女体も含めて)容れ物は文化である」がある。端的にツボ同様に「ハコは文化」なのであつて容易に棄てら れない。かなり困惑もしながら、「そやけど文化やもんなあ」と諦めている。
笑ってはいけない、歌合や繪合や花合を知っている人も「はこ合わせ」りあったことはめったに知るまいが、事実、宇多院や歌人伊勢の御の時代に為されてい たことが記録にある。有ってすこしも可笑しくない、すばらしい手箱には国宝もある。浦島の玉手箱とて使い捨ての粗末なものではよもなかったろう。
わたしを困らせているのはしかしそんな美麗の上等ではない、ただ菓子や嗜好品の空き箱にすぎないが、いつか役に立つかなあと惜しむのだ、「ハコは文化」だもん。やれやれ。
2017 8/11 189

* 書いている小説を、過剰にならぬよう気を付けながら少しずつ太らせて行けるとき、わくわくする。弄くり廻すのは下策だが、舞い手のいい後見のように、つかず離れず面倒を見て行くのが、小説という生きもののためには、いい。
2017 8/28 189

* とにかくも疲れる。ぐたっと来る。横になると寝入る。寝入ってはおれないのだ。生き生きした何かへの興味や好奇心をかきたてて生き続けねばならない。煩悩の技ではない、命をムダにしたくない。授かった命への恩を敬虔なまで返さねばいけない。
2017 9/21 190

* 日本は、いつも繰り返し云うように「政治」「経済」の国ではない、「文化」の日本なのだ。文明ではない、「文化」の日本なのだ。少なくも、「文質彬彬」でこそあらねば心貧しい下品な国に落ちこんで行く。安倍や小池の口から、文化への謙遜な愛をだれが聴いたろうか。

* 「創作」的な仕事をする人間は、「嫉妬」されても仕方ないが「軽蔑」されてはいけない。それも技術的な上手下手のレべルではない、「作品を欠く」こと によって軽蔑されてはいけない。あたら才能もフイにしてしまうのは「人」に「作」に「品」という「花」が無いからである。
2017 10/3 191

* 「討ち入り」「仇討ち」を待ちかねているわけでないのに、時として隠忍を重ね自重に苦しみ抜く赤穂浪士のような心境に落ちこみかけた自分を感じること がある。自分で自分が分からなくなる、ただワケもしらず緊張して暮らしているのが他人事のように哀れになる。やれやれと息を吐く。三船の内蔵助が率いる 「大忠臣蔵」を、多くはフィクションとよく知りつつ、その世界へ身を投げ入れているような自覚におどろく。わたしの中にはどうも赤穂浪士なみの根深い怨み ないし憾みがさも「公儀へも吉良へも」根づいているのだろうか。そうなの…かも知れぬ。いやそうと思えば自分が分かりやすくなる気さえする。
2017 11/16 192

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