フィクションという「うそ」は大いについてもいい、が、それを「作品」へ構築する「表現(映像)と言葉」とには徹底して、不勉強なウソはいけない。「創 る」限りは、悲愴でも諧謔でも滑稽でも、時に愚劣でもいい、が、胸にひびく「表現の誠意」が「作品」には必要とつくづく思う。
2020 1/4 218
* 烈しい攻勢や抵抗に耐えることは出来る。作業や仕事の渋滞によく耐えるのは存外に難しいが、或いは人生とは渋滞に耐え歩き続けることか。
2020 1/15 218
* すぐさま次の『選集 32』の、各界へ献呈分送り出しの用意にかかる。済むと、すぐまた私にはまる51年めの桜桃忌がくる。『選集』終結は急がない が、「湖の本」創刊34年をちょっと様子を異にした一巻で自祝したい。わらうひともあろうが、こういうけじめをキチンキチンと践んで行けばこそ息の長い仕 事が積めて行く。会社勤めの15年半にも、どんな予定や目標も一度として外さなかったのは自分の仕事を把握し切っていたからだ。受賞した時、社の長谷川泉 編集長(森鴎外記念館館長・国文学者)が、ある新聞社からの取材に、「A級の編集者」と評価してくれていたのが、「会社を卒業」時の通知簿のようであっ た。
2020 3/20 220
* 「十年以上経っても古くなっていないこと」に批評や判断や思想の要点があると私は思っています。
2020 3/23 220
* ものに、名がある、その有り難さ、嬉しさ、楽しさ、優しさを、今の日本人はガサツに忘れ果てている。
2020 3/28 220
* 仕事とは「用意」なのである、ことに連年連続して繰り返す仕事ほど、間隔によるが、間隔が短ければ数回分の前途を頭に入れてねば忽ち「用意・準備」の欠陥から仕事は停頓・渋滞し破産しかねない。
比較的間隔のある場合も、一つが終えればもう少なくも「次ぎ」のための「用意・準備」に掛かっておかねば、間際へ来て狼狽し結果渋滞して手数も増え疲労も加わり、仕事にキズのつくことも起きる。
2020 5/19 222
* 『創世記』というのは、まことに容易ならぬ寓意の満ちて溢れた書物、文庫本のたった一、二頁を読み進むのも恭しいまで私は慎重に向かっている。神は、なぜ、弟アベルの貢ぎは嘉され、兄カインのそれには目も当てられなかったのだろう。そんなことも、私は、しらない。
前にも触れたか、「その人(人間=アダム)は彼の妻エバを知った。彼女ははらんで」と、ある。「カインはその妻を知った、彼女ははらみ」とも、ある。男 女・夫妻の性の交為が、「知る」という言葉に明示されてある。少なくも人類の歴史とは男女が「知り」合って成された結果なのだ、「知識」の根底に神はまず 性の合致を確定されていた。巨きな深い「教え」だと謂わざるを得ない。軽薄な今日人のように「知る」重みを軽んじてはいけないのだ。
2020 5/20 222
* 白いちいさな花の名を十薬とは知らなかったが、新しく入れた写真、翠りの「葉」が潔く冴え冴えと撮れて気に入っている。わたしは「花」は変わりなく好きだが「葉」と いうものの形と色のよろしさをなつかしく愛している、昔から。花は集めても詮無いが、葉は無数に集めてみたいと何度も思ってきた。葉は美しいのだ、造形とみても。
2020 5/28 222
* 「からだ言葉」「こころ言葉」という言葉で「言葉」を発見したのは、私だった。東工大から江藤淳教授の後任へ迎えられた時、前任の川島至教授から、 この際博士号をとったらどうですか、「からだ言葉・こころ言葉」で充分ですから論文の体にしてみませんかと熱心にすすめられた。教室で漱石をを講義する気 のわたくしに「博士」はねとお断りしたが、川島さんが「からだ言葉・こころ言葉」の発見という発明というか、を評価してくれているのが嬉しかったのを忘れ ない。「なんだあ」というようなもんだが、「なんだあ」という気が付く機微に発明は起きる。「ことば」は生きている宝なのである。
2020 6/1 223
現下の日本には、戦争戦闘体験者はもう一人も実在しないまま、国防の防衛のと構えているが、真剣で有効な「参籌」 能力は、山縣級の眼からはゼロに近いのではないか。肌寒いほどの現実である。戦争は、シテはいけない。もう一つ、シカケられてもゼッタイにいけない。この 後者の備えが「日米安保」では、限りなく頼りない。トランプ型のアメリカは、すこしの損でもすたこらと日本など棄てて立ち退く、これ、間違いない。
2020 6/10 223
* ラコニックな志賀直哉の名文には衷心敬服する、が、私は、直哉とは異なった創作世界を築いてきた。その構築の、もし「手法は」というと、何だろう。
冗談を云うのではない、それは、「と思う」 「と想う」 のである。それを「信じる」のである。
自然でも人でも情況でも、「と想い」「と思い」「信じ て」書く。どのように幻怪異様ななフィクションでも感情や思索でも、人でも自然でも情況でも、「と想い・と思い」それを「信じて」創れないなら、書いてもヤワに脆い、ロクなこと にはならない。
2020 7/13 224
しかし、わたしは相変わらず、超現実の不思議を創作的に体験したい気でもいる。そういう世界をいつもまさぐるように引き寄 せようとしている。「現実」はいつも奇態に痩せている。やせこけて乾涸らびている。その痩せや乾涸らびに直面して書き写すのが「文学」と心得ていた人たち の時代があった、よく知っている。そのアトを追いたいとは思わないだけ。
2020 9/12 226
* 生きる、生きて行く、のも衣食住と行為・行動がかかわる以上、明らかに複雑な技術である。人はそれぞれの力量と知恵と欲望とで技術的に生きている。上手下手が係わっている。
そんなことが面倒で不快で抛とうとして抛てた人はいない。抛つのも技術なのだから。
そこで、面倒くさいという「投げやり」の技術が顔を出してくる。若い人にも無くはないが、老耄してくると、これがバカにならない。
* 気がつくと寝入っている。目が覚めて、仕事を続ける。頸筋や肩が堅くなっている。構っていられない、出来る時に出来るだけ仕事を積む。積み重ねに励まされて、前へ出る。また前へ出る。それで良しとして、前へ出る。心身疲れているけれど、少しずつ前へ出る。
2020 9/25 226
* 先日、『神様のくれた時間』という面白い映画に嬉しく満足した。今日は夕食後に、『パリの真夜中』とでも謂うのか、アメリカからパリへきた自称「作 家」氏の途方もなく且つ嬉しくなるような奇想の彷徨映画を心底楽しんだ。大笑いもした。建日子といっしょに観たかった。建日子の顔も見たい。
「創造力」と「想像力」とには、かくも豊かなまだ見知らず手も触れられてない「世界」が待っている。陳腐な味も姿も薄いツクリものをムリに、手軽に、 作っててはダメということ。文章での場合は、把握表現の確かさ美しさ弾み、そして時世を超えてわたってゆく、かつて無い新鮮味。
2020 10/4 227
わ たしは処女作このかた「性」を大事に考え描写や表現にも心を用い続けてきた。「性」に真向かわない、真向き合えない作家をわたしは信用しない。
2020 10/6 227
* 今日午後は、ひたすら寝入っていた。「寝てもの想ふ」という発想法もあり、これまでも何度も援けられてきた。ただ怠けているのでない、が。励んでいますとも威張らない。
2020 12/16 229
* 変なことを云うが、いま、この前の行文の「結び」を、
「つい背へ掛け回して温まっている。」 と結ぶか、 「て」音の重ねを避け句点「、」を一つはさむか、しばらく思案していた。この「私語」は、そうい うことで、文のつくり、推敲の実習場に意識して利用している、いつも。いそいで、慌てて粗雑になっている例が多く、独り恥じ入っている。文章の生き、息、 の、良さ悪しさは意味を抱いた語彙よりも、助詞、助動詞の「音」勢が支配してくることが多い。小説を書き始めた頃からそう気づいていた。そしてなかなか、 うまくは行きません。
2020 12/22 229
それにしても忠臣蔵というのは朽ちる気配ない日本の「劇」の大当たり真骨頂と受け取れる。凄いということばを用いて不当でない、実に数少ない日本の演劇の至宝と想われる。
2020 12/30 229