* 歩みもならぬ密林を分けてゆくようだ,創作は。頭へ、脚へ、なにが絡んで来るや知れないが,安易に立ち止まればそれまでとなる。それは凶器に似た脅迫だ。
2023 1/4
* 前夜に床に就き、夜中はほぼ一時間余ずつ尿意に、起つ。尿量は各回十分に。これで体重は増えない。雲散「夢」消。ただ、起き際に「見送る」「見送らない」とう姿勢・態度・生きように思いいたっていた。日々の「生・活」で、見送ることも見送らないことも起き、わたしは、いずれかなら「見送らない」で執拗なのかと思われる。「見送った」らおしまいになる。「見送らず」に可能なら関わり育てて行く執拗を、私は生涯受け容れることで時々になにかを成し遂げ創ってきたと思う。「みおくる」という無為の清々を必ずしも好しとも良しともしてこなかったと、今しも気づく。「見送る」のは清々しくも想えようが、放任の怠惰のまま自堕落に落ちる。「見留め・認め」つつ見送る者は見送れば好く、私は立ち止まって、無考えには「見送らない」できた。そこに秦恒平の『私語の刻』が「意味」も「役」も成してきた。
2023 2/4
* 自身で言う「拙著」なら、「本に為るな」と「喝破」した人がいた。つい口にもし字にも書いて謙遜を「誇示」するような始末になりやすい。決まり文句はラクでもあり、逆効果にもなる。物言いは素直が好い。
2023 2/13
* とにもかくにも、気を確かに生き続けて創り続けてゆくまでのこと。いまさら世に出張って発言したり行動したりは出来ないし其の気は元々無い。成ろうならこの現在と、無限大の過去世からの種々「文化」の恵みを、老体の栄養に、よくよく味わい食したいまで。
2023 4/14
どんなに美しい女面であれ、どんなに恐ろしげな鬼の面であれ、どんなに不思議な色気をただよわせた永遠の少年面であっても、例外というものはないと覚悟して「能」の世界は成り立っている。たぐいない中間表情の美しさの彼方に、無限に可変的で絶対に不変の「人間存在」を「神」とともに容認しようという、生と死とを跨いで、「能」とは、譬えようもなく強烈な人間解釈の演劇だと言わねばならない。
2023 6/21
◎ 「幼少に聞き覚え唱った、妙な唄」を 記憶の儘に、 歌詞の一、二番のみ。
〇 『鯉のぼり』 文部省唱歌
一、甍の波と雲の波
重なる波の中空を
橘かおる朝風に
高く泳ぐや鯉のぼり
〇 二番以降の歌詞はくどくて戴けないが、一番は胸の奥まで颯爽と澄むようで、「唄」「歌詞」の代表作の一つに数えていた。それは音韻の晴朗な連鎖・連繋に由来していると、子供心に「カ行音」の配置、「ア行音」の設置に、それがもたらす歌詞世界の明瞭を汲み取っていたから。和歌でも短歌でも俳句でも詩でも文章でも「カ行音」「ア行音」を一に心しているといないでは「唄」としての印象に大差が出る、と、私はこんな『鯉のぼり』をうたっていたころから感じ、感じ入り、教えられていた。「カ行音」「ア行音」そして「ハ行音」の配置の効果に無知・無神経な詩人歌人文人は、「ことば」という「こころ」の濁りに無神経なのである。
2023 9/25
* 小説の念入りの推敲・添削が、半ばになろうと。じいっと辛抱しながら難儀を仕分けて行くのが推敲。ガマンを見捨てると、作の流れも醜く淀む。疲れるが。しかし徹した推敲なしに脱稿はありえない、譚・中編でも。まして長編は。疲れる。目も胸も。
2023 10/5
*「着想」とは、算数の分数で謂えば 「分子」かと。 「分母」を養い培うこと、「創作の母体で原義」かと思うけれど、七十年取ッ組んでも、みるから薄っぺらい吾が「分母」に呆れ、もうもう、保たないほど疲れた。何だか莫迦囃子でも踏んで遊び終えたくさえ。 老耄 謂うに堪えない。
* 「懸命に、元気に、洒落(しゃらく)にさえ遊び心も培いながら 創作続けて下さい。
視力を大切に。「見える」視力だけで無く、「観る」意思力も、と、涸れた「湖」の絶句です。
2023 11/16