* 帝劇から浅丘ルリ子主演「にくいあんちくしょー」の招待状が届いたが、今回また聖路加の診察時間と重なってしまい、浅丘ルリ子は、観たいのにダメになるのが二度目である。残念。妻に、友達と行ってもらう。
2002 2・13 12
* 今日は、劇団昴が演じる漱石原作の「それから」を、妻と観に行く。福田逸氏厚意の招待。しばらくぶり楽しみの日である。明後日の帝劇招待にはわたしは差し支えて行けない、妻が友達と行く。浅丘ルリ子の観られないのは惜しい。喜劇らしい。
2002 2・17 12
* 三百人劇場、劇団昴公演の「それから」は、杉本じゅんじ脚色、樋口昌弘演出。若手の勉強公演のようであった。代助役も三千代役も平岡役にも不満はなかった、こんなものだろうという演技で、原作の空気を感じさせていたと褒めてもいい。問題は脚色と舞台装置で、平板にして混雑。ぜんたいに映画のシーンを長い暗転とおそい溶明を乱発しながら説明的に筋を追ってゆく。緊迫感もなく、鋭い問題提起もなく、材料を、めりはりなく置いてゆくだけの張り合いのない舞台に終始した。舞台装置がなんとも陳腐で消化不良。もっと大胆に、もっとシュールに、代助三千代への批評をこめた面白い把握と表現が観たかった。拍手に熱が入らなかった。
* 小雨の懸念があり、有楽町の方へは出ずに、巣鴨から池袋に戻り、しばらくぶりに天麩羅の船橋屋へ。わたしは甲州の酒の笹一が目当てで、天麩羅に主眼。妻は春の味覚。菜種のひたしなど小鉢のついた刺身もついた定食を注文。
芝居の感想だけで、話題は漱石の上へも広く及んで、ゆっくりくつろげた。
もっとも、何となく体調は頼りなく、どこかしら五体がゆらゆら。脈は正常そうに打っていたけれど、左の胸の全体に圧迫感がさしひきして気持良くなかった。なによりも眠い。
2002 2・17 12
* また千代田線で有楽町にもどり、帝劇へ。後藤和己氏からの招待で、大地真央のミュージカルレビュー。入り口で総支配人と顔が合い、即座に、たまたま明いてたらしい前から四列目中央の最良席に切符をとりかえてくれた。オペラグラスの必要もない、音楽的にも文句なしにいい席で、総支配人いわく「リクツもなにもないものですから」というレビューを、妻と一緒に気楽に気楽に楽しんできた。細い細い腰の大地真央がボリュームのある歌唱で愛嬌豊か。筋も何もリクツを言い募るような本当に何もないものなので、わりと開放された快感があった。だれだか気の張る客の来べき席だったようなので、そういうことは縁者達には知れているから、あまり行儀悪くも無愛想にもしていられない。きちんと舞台に目を向け続けていたが、眠くなりようもない音楽劇であるから、粗相もなかったつもりだ。
演目は「パナマ・ハッティー」海外で評判の原作ものらしい。可もなく不可もなく、フィナーレでもう一度主なナンバーをおさらいして歌ってくれるサービス付きだった。
2002 3/5 12
* 午後、三百人劇場で「フィリップの理由」を観てきた。舞台装置が洒落ていて、開演前から嬉しくなった。二階最前列真正面といった感じに最高に見やすい席が用意されていて、満喫できた。妻のがわに、藤田洋氏が来ていた。能楽堂でもよくいつしょになる批評家だ。
芝居は、何とも説明しにくいが、わたしはとても面白く観た。効果音と道具や人の出し入れがうまく演出されていて、舞台の奥があたかも能舞台の橋がかり然とつかわれて、舞台前面で演技していた俳優達がなにかで退場してゆくときは、或る位置から、とたんに能役者の引き込みのように静々とした足取りで退場してゆく。
「フイリツプの理由」というやや分かりにくい題の戯曲そのものよりも、俳優達の演技と演出とがリクツ抜きに楽しめて、有り難かった。俳優も演出家もたいへんよくやったと思う。戯曲づくりの間とテンポとが、うまいのだろう。どんな芝居だったかとストーリーに戻して言うのが億劫になるほどなのに、推移の全体が演劇的に効果を挙げていた。珍しいほどの舞台に感じられた。ただ涙をうかべるような感動はなにもないのだった。
2002 4・17 13
* 愛華みれ主演のミュージカルを、二階最前列の真ん中から見せてもらってきた。たわいない話で感動とはほど遠いけれど、舞台装置も演出も適切で大いによろしく、群舞もソツなく魅せた。ただ、ヒロインが小柄に見え、出番の大方がメガネでジーパンの普段着だからというわけではないが、主役にぜひ必要なオーラが立っていない。それが難と言えば難であったが、妻と二人で楽しんできた。地下のモールで鰊そばを食べて池袋へもどり、「さくらや」でウイルス除去のソフトを買って帰宅。
* このところ飲食過多で血糖値が高い。明日は診察日。すこし、これも、はらはら。
2002 4・25 13
* 練馬から大江戸線で六本木の俳優座劇場へ。稽古場公演の「八月に乾杯」は、久しく村瀬幸子と松本克平の人気二人芝居であったのを、岩崎加根子と小笠原良知が引き継いでの初舞台。女のリーダが、ひどく感じ悪い女で感じ悪く出てくる。感じの悪さをわざと岩崎は感じ悪く表現し、孤独な外科医師ロジオンをいやがらせる。観客は自然ロジオンと同じ感じでリーダをみる。客はロジオンの身になり舞台にとけ込んでゆく。
小笠原は器用な役者ではないが、大きい。懐を深くして芝居の出来る素質、を持っている。今日の舞台では、大女優と言っていい岩崎を、感じの悪い女から感じのいい女へ、ゆったりと導いてゆく。小笠原が佳いだろうと想ったのが的中し、岩崎は自在に舞台を創り上げて行けた。それだけの厚い胸板と大きな掌とをロジオン役がリーダ役に終始差し出し得ていたのが、感銘の基盤であった。すばらしく見やすい三列目の真ん中に席をもらって、妻は後半涙を流しっぱなし、しきりにハンカチを動かしていた。
六十数歳、危険信号の心臓をかかえた外科医ロジオンは、この町に、かつて戦場で外科医師として「戦死」させた妻の墓を、ひとり密かに守り続けており、サーカス団で切符売りをしてきたかつて女優だったリーダも、同じ頃に、ただ一人の息子をドイツ人との戦争で「戦死」させていた。
二人だけで、短い場面を幾つも幾つも綴り合わせてゆく舞台。演技が過剰でも不足でも調和はたちまちに毀れてしまう。
金を掛けない簡明な舞台をちいさく巧みに動かし回しながら、袋正演出は、簡潔に、適切であった。こういう舞台なら毎日でもみたいなあと想わせた。わたしの頬にも涙はじわっと流れつづけた。
2002 4・27 13
* 明治座の「居残り左平次」に招待された。これはぜひ観たいが…と、一瞬他の予定との差し合いに胸が冷えたが、時間差がぴたりうまく繋がって、オーケー。つかこうへい氏が手塩に育てたと聞いている、風間杜夫と平田満が張り合うらしい、楽しみ、楽しみ。そして晩には、辰之助の「尾上松緑」襲名口上と勧進帳が待っている。舞台二つ、観客として妻が元気に持ち堪えてくれるのを祈りたい。「涙流して」笑ったりしびれたりしたい。 2002 4・30 13
* 明治座の「居残り左平次」の前に、三遊亭円生の噺を聴いておいた。うまいものだ。風間杜夫がどう演じるのか、平田満がどんな芝居を見せるのか。
浜町へは久しぶりだ。朝日子のサントリー美術館就職では谷崎松子夫人が動いてくださり、何百人から二人だけの採用に押し込んでもらった。関係者のお礼に接待をと、松子夫人が場所も決めて下さったのが明治座前の料亭で、場なれないわたしと妻とで、ぎごちないお礼の席を勤めた。汗をかいた。
いい職場だとよろこんでいたのが、結婚し、妊娠してのつわりがつらいという口実で、フイと辞めてしまった。「口実」であったろうと、思う。妻=嫁の勤務を、夫も婚家もこころよしとしなかったのだろう。
2002 5・6 13
* 連休のうちあげに、すこし雨もよいだけれど、終日外で楽しんでくる。明治座「居残り左平次」と、歌舞伎座の「尾上松緑襲名」と。
2002 5・7 13
* すこし雨に降られたが、明治座まで順調に、一時間あまりで。シックないい劇場で、ロビーや廊下を飾る絵画の質の高さは、かなりなもの。山口華楊の「黒豹」など。緞帳にも片岡球子の富士など。新橋演舞場や日生劇場並みの落ち着きで。しかし客の質は高くなかった。芝居の「居残り佐平次」も、円生の噺からして段違いに低調な、体温の低い低いものだった。
そもそもこの落語は、サゲが「おコワにかけられた」という、これは円生師匠の理解では、「おーコワ」という恐怖の被害感を示している。度はずれた無銭飲食からの「居残り」を「商売」にした佐平次は、一種の悪党・悪漢であり、大恩ある旦那をすら、みようでは「ほとけ」だが、言い換えれば「ばかだ」と言い放つ凄みをもっている。髪結新三や法界坊なみの、根が土性骨の座った、藝のある、生活力のあるひどい「ワル」なのである。そのワルの面白さが、まったく風間杜夫演ずる佐平次には出ていなかった。なまぬるいドタバタにしてしまっていた。平田満の清水の次郎長など、何の妙味もないつくりものでしかなく、脚本が悪いのか役者もへたなのか、ま、後半へかけてやや持ち直したかという程度の、娯楽性にも物足りない半端芝居であった。二人の主役に、オーラが立っていない。むしろ高橋由美子ら遊女たちの群像がそれなりにはんなりしていた。ま、「明治座」という劇場を楽しんだが、芝居はやや退屈すらした、という塩梅。
このところ、劇団昴の「フィリツプの理由」俳優座稽古場の「八月に乾杯」と、新劇がたいそう好調だったので、比較しても、今日の商業演劇はずいぶん煮え切らないと感じた。
2002 5・7 13
* 秦建日子作・演出「タクラマカン」の、最初から数えて第四演目だろうか、力を入れて台本をまた新たにし、新配役で、六月十九日から五日間、七か八ステージかを新宿で公演するという。過去十指にあまる芝居を作・演出している中でも、完成度と迫力とで、もっとも人気のあった舞台の一つ。舞台が終えると、ほんとうに目を真っ赤にした人がいっぱい出てくるのをわたしも見たことがある。師匠のつかこうへい氏にも「ウン」と言ってもらったと聞いている。わたしも、大いに提灯をもってやりたい。
昔は、東工大の学生君たちを大勢わたしが招待してみてもらったが、もう、みなサラリーマンになって、途方もなく忙しいことが遠目に見えているので、遠慮して、直接は声をかけないようにしている。
一つの作品をねばりづよく繰り返し上演している劇や劇団は、珍しくない。今度はどうやるだろうという楽しみもある。
2002 5・9 13
* そうそう。秦建日子作・演出の「タクラマカン」のパンフレットによると、
六月十九日初日午後七時 二十日同 二十一日同 二十二日土曜は二時と七時 最終二十三日日曜は一時と六時 開演。 場所は 新宿アイランドホール(03-5323-2141) 問い合わせは エム・エー・フィールド(03-3556-1780) 前売り4000円 当日4500円 と、ある。 2002 5・10 13
* あすは前進座の芝居がある。
2002 5・21 13
* 井上靖先生のご縁から、案内のあった国立劇場の前進座公演「天平の甍」を観てきた。鑑真和上を嵐圭史、起ち上がって拍手したかったほどの佳い鑑真像で、それ一つで舞台の全部を支えていたのは立派であった。感動した。どんなにそつなくうまく演じても、鑑真和上が普通ならば、舞台はお話にならないだろう。聖者の熱情が最良の信仰と人間とにささえられていてこそ成り立つ作品であり、嵐圭史は前進座を支える今や大黒柱の実力と誠意とを渾身表現し得ていて、感銘を受け、心を洗われた。梅雀の栄叡も力演であった。国太郎の普照はやや軽い感じのママ、懸命に、出ずっぱりの大役に耐えていた。
感じ入ったのは、群像の配置のみごと絵画的に美しく一糸乱れない舞台構成、その実現を可能にした依田義賢の的確な脚色であった。一糸乱れない舞台というのは、一つ下手すると感情の感動を阻害しかねないが、この舞台では清潔感と共に志の高さを保たせ、成功していた、たいへん成功していた。
観客の平均年齢は確実に五十代の後半を上回っていただろう。そしてこんなに自然に拍手がわいて、その拍手の内容の納得できる舞台というのも珍しい。ひいきの役者が出るから、あざとい笑いをとろうとしたから、というのとは全く違い、ひとえに鑑真和上へのいわば人間としての自然な感謝と感動に発した拍手が、回を追うに従いますます広く高く多くなっていたのは、観客の気持ちの佳い反応であった、気持ちが良かった。気持ちよく感動して涙を流すことができた。真摯な、高邁な志で、統一感をみせた良い演劇の達成だった。むかし滝沢修で観た「その妹」の舞台の冴えを思い起こしたりした。冴えていた。
* 妻は、先日池袋のメトロポリタンホテルで買った服を着ていた。例によって、わたしが眼をつけ、あれはいいよと予め選んでおいたもの。妻のために服を選ぶわたしの眼も、自然に高くなっている。
* 佳い舞台だと機嫌もいい。勘違いして青山一丁目に行ってしまったので、大江戸線にのり、途中下車して喫茶店で時間待ちしてから、「八海山」のある、食器の吟味のなかなかいい新宿の店で、うまい和食を食べてから帰宅した。練馬駅の構内で久しぶりにケーキのモンブランを二つ買って帰った。玄関へはいるとさっとマゴが足下で出迎えてくれる。 2002 5・22 13
* 三越劇場は客席に傾斜がなく、前席を丈高の頭に塞がれるととても観にくい。それを配慮して貰ったような、見やすい席が用意されていて、オペラグラスを併用しながら、快適に舞台を楽しむことが出来た。感謝。
森鴎外 舞姫の恋 を解釈した舞台であった。前半は薄っぺらくて、エリーゼとの出逢いも恋も、帝劇の通俗な芝居なみ、お話にならなかった。加藤剛の感傷的な「ぼく、いい子でしょ」といったひ弱いお人好しな面ばかりが続いたので、あの複雑無比な「鴎外森林太郎」を観ている気がテンでしなかった。それに、こういっては悪いが、「心 我が愛」の時の、先生と奥さん、先生とお嬢さん、先生と私、私と奥さんを彷彿させる場面や言い回しが、やたら繰り返され、失笑してしまった。そのうちに退屈さえしてきた。
先日に、俳優座稽古場公演で「八月に乾杯」の高度に演劇的ないいものを観ていたので、商業演劇並みに水準を落としたメロドラマでは、とうてい満足できない。それに前半の筋立てに特に新機軸も出てこなかった。
ただ、開幕のところで、一の親友賀古鶴所に書き取らせた名高い「遺書」と、立花一男の賀古役の出来は、スケール大きくて、たいへん先に期待を持たせてくれたことは言っておかねば不公平だろう。
だが、すぐに期待は裏切られていった。加藤が出て話し出し、芥川龍之介などという、とってつけたような、芥川内面の片鱗もない役が出てきて舞台の味を薄くし、またしげ子夫人役のおなじみ香野百合子が出て、加藤との夫婦の対話になると、これはもうあの「心」の「先生」「奥さん」そのままの台詞になってしまって、なんだこの役者たちは「別の演技」は出来ないのかと、憤慨するぐらいガッカリした。
後半になると、当然、筋書きも持ち直して盛り上げにかかる。だが、例えば「釦」という鴎外の優れた詩作品は、そのまま「読み上げ」ただけでは鴎外の「文藝」であり、即ち「演劇」とは謂えない、のである。演劇の中に直接文藝作品をもちこみ、どう朗読しようとも、そこで却って演劇の密度は薄くなり安易になる。そういう意味で「脚本・台本」も手薄のそしりを免れなかった。
二万哩をベルリンから鴎外を追ってきたエリーゼを、森一家が、総掛かりで追い返しにかかる。現実にもあった名高い事件そのもので、そのままがすでに「劇的」なのだから、相応に興味は引かれ、じっと舞台に真向かう気持ちになる。当然である。あげく感傷的な哀れもさそわれ、私の妻のように泣く客が居てもおかしくない。わたしでもほろりとした。だが、それは舞台の手柄ではなかった。舞台に感動していたのではなかった、少なくも私は。
実際の鴎外は、追ってきたエリスとの再会を、小説「普請中」などに書いている。物静かに、冷え冷えとした日本批評がらみの別離の場面だ。「キスしてあげましょうか」とエリスは言い「ここは日本だ」と鴎外は退けている。たぶんフィクションだろう。この事件でどうエリスが追い返されたのか、舞台の作者が「解釈」願望をもつのは無理もない。わたしも、其処を「どうやるのかな」と待つ気持ちがあった。
結果的にいえば、あんな「ごまかし」で、エリーゼが、すんなりと、嬉々としてというほどの「芝居もどき」で追い返されたわけがなく、森家の側の願望妄想のようなものだ、一族エゴそのものの理由づけでしかない。舞台のエリーゼは、鴎外からもコケにされているに過ぎない、作者「解釈」のたわいない餌食になっているのだ。
はっきりいって、森鴎外は生涯「芝居」をして生き抜き、その苦渋が、あの岩見人森林太郎の仮借ない「遺書」への「逆転」になった。それは明らかだ。かれは帰国後ただもう「かのように」生きて「芝居」をしぬいたが、だがベルリン時代のエリスとの恋は芝居ではなかったろう。いや、それも甘くは観られない、作品「舞姫」の太田豊太郎の恋こそは真実であったろうが、それを書いた森林太郎は「創作という芝居」を演じたのであったと言える。そして豊太郎も林太郎も等しく恋を棄てて、官途についた。国に「機械」として雇われた。追ってきた現実のエリスも「機械」の冷たさで断然追い返した。生身の鴎外は苦しく悶えたではあろう、が、彼には「芝居をして生きる」という覚悟がもう出来ていた。
だが、同じ覚悟がエリーゼももてたという今日の芝居の「解釈」には愉快になれない。そんな「芝居」をエリーゼも競演して悔いなかった、そして進んで帰国したという解釈ほど、鴎外側独善の「ごまかし」は無いだろう。あんな舞台の鴎外のうすっぺらな述懐にエリーゼが感激して結婚をあっさり諦めたというのは、あまりに女を愚弄したはなしで、あの追い返しは、寄ってたかっての森一家と、日本陸軍と、日本国とのまさに「明治的欺瞞」劇なのである。鴎外は物陰に隠れてその「結論」に従った。従うしかない、典型的な第二次知識階級の鴎外であった。彼は西周や森有礼ら第一次知識階級ではあり得なかった。専門の知識を期待された技術的な「車夫」的な知識人として、車夫がイヤなら頚を切られる存在だった。事態はエリーゼ側からすればバカにするなというような理屈で、変な譬えだが、金に目のくらんだ宮さんに熱海の海岸で袖にされた、間貫一かのようなエリーゼ解釈だ。すべては我が文豪の鴎外のために「よろしく落ちを付けた」ものに過ぎない。二人で徹頭徹尾の修羅場を演じて呉れた方が、遙かに演劇として誠実で、鴎外・エリスの恋としても真剣であったろう。エリーゼに代わって「バカにしないでよ」と言いたい。
森家親族の西周が出てきて、ものの見事に林太郎君の恋をぶった切る。鴎外は西の説得に反駁せずただ従ったのである。西周は、わたしの一昨日の講演でいえば、第一次の知識階級として、徳川慶喜のタメにも明治新政府のためにも、有能に働いた幸福な知識人の一人だった。福沢諭吉らと共に歴史上もっとも幸福に恵まれた得意の知識人であり、明治国家に対するその誠実な入れ込みようからして、鴎外森林太郎の甘い恋を一蹴したのは、あまりに当然な結論だった。
鴎外はそれに逆らえないほど、すでにして上長の言うがママを強いられていた技術的な道具並みの官僚であった。まして彼が、市井の一開業医で終わることなど、断じて許さない森一族の姿勢も、当時としてはあまりに当たり前で、鴎外にこの壁を突き抜くなど不可能であった。鴎外はこれにも従った。そして妻帯し、離縁し、また美術品のような若い妻と再婚して「デレツク」の愛妻ぶりを、終生「芝居し」つづけた。芝居・芝居・芝居の人生の、魂の奥の奥で鴎外は激越に苦悶し呻いていたが出さなかった、表には。その表れが彼の文学文藝であった。いや、文学・文藝すらも「芝居」でなくはなかったろう、どこか。「かのように」「かのように」彼は生きた。
だから、エリーゼを追い返そうと、或る「芝居の共演」を女に持ちかける舞台の鴎外は、あり得なくはないのである。だが、「はい、そうですね」と「共演に応じる」女として「エリーゼの二万哩」を、あっさり解消したつもりの今日の舞台は軽薄至極で、恋する女の真実をコケにしている。そんな「芝居」のウソなんぞ心から蹴飛ばせる女であるから、二万哩の波濤をあえてして、日本にまで鴎外を追ってきた。彼女は、ゲットーで苦しい生活を強いられていたユダヤの女性だったという。「芝居し」て生きられるような甘っちょろい環境にはいなかった。惚れたから追いかけてきた、そんな程度の生き方ではいられなかった。実の鴎外が、実のエリスと、会ったうえで追い返ししたか、ついに会わずに、森家一統が必死に説得し脅しすかし金に物を言わせたか、細かな事実は、長谷川泉氏の研究などに教えてもらえようが、とにかくこの舞台は、こと「舞姫の恋」の始終という点では、女の愛をウソくさい芝居にこと寄せて、かわそう、かわそうとコケにした「ごまかし」の決着に成っていた。不快だった。
だが、鴎外最期の場面はわるくなかった。加藤剛はここへ来て「鴎外の死」をよく演じてくれた。拍手出来た。腹の底からそれには拍手できた。だが舞台の始終を肯定したのではない。ああまたしても上滑っての失敗だと思った。
加藤剛は役者バカになれず、配役の役になれず、しつこいほど「加藤剛」という評判の「高潔で誠実な俳優」役を、「いい子にいい子に」演じようとしている、どの舞台でも、だ。それでは、いろんな人間の悲劇も喜劇もとうてい実現・再現できないではないか。結果として、やたら演技が女性的に、ひよわく見えてしまう。
鴎外も漱石も伊能忠敬でも、男の中の「男」である、しかも善人ではなく、むしろ悪人だと認識した方がいいぐらいな激しさを抱いていた。悪人である男のエゴを男っぽく貫いて、そして誠実に苦しみ、狂ってさえいた。誠実な善人なんていやしない。
それなのに加藤は、一昔前の教室での「先生のお気に入り」優等生っぽく振る舞っている。終始、「加藤剛であるぞ」の姿勢や意識が見え見えで、人気スターの顔から脱却出来ない。それではとても真実感のあるリアリティーに富んだ、例えば鴎外も漱石も、舞台の上で生きてこない。いい読者なら頭に入れている、複雑で魅力ある彼等の人間像が、そこに現じてこない。当たり前だ。作り声で、声が浮いて、透けて、たるんで、歌なんか歌っちゃって。気持ちが悪い。気色が悪い。
加藤剛よ、どうしたんだと呻いてしまう。ちがうよ、ちがうよ。彼等はモットモット、カッコわるいんだよ、だから凄いんだよ、と。凄みが彼等の秘密なんだよ、言い換えれば彼等の個人主義とは、根のところで悪い男の深い深いものすごいエゴイズムであり、それ無しには、「明治」という「時代」のどす黒いエゴイズムに、とうてい対抗出来なかったんだよ、その耐えて闘っていた苦しみを、えぐるように造形し演じて見せてよと、わたしは心親しい俳優加藤剛にぜひ伝えたい。エリスを犠牲にするしか鴎外は生きられなかった。鴎外はその悪が分かっていた。そんなせつない鴎外に、あんな薄い「芝居ごっこ」で、エリーゼが眉を開き面を明るませて帰って行ってくれるなど、思えたものか。そう言いたい。
* ま、けっこうわたしは昂奮したのだから、舞台に載せられていたとも言える。三越八階の特別食堂で遅い昼食をともにしながら、妻と、飽かず今の舞台を話し合っていた。和食をドライシェリーと清酒「梅錦」で美味しく食べた。新献立だそうだがわるくなかった、値も張らずに。銀座に戻り、木村やで小粒の餡パンを沢山買った。帰ってからカメルーンが力つきてドイツに敗退し、決勝トーナメントに出ることなく帰国する結末をみた。フランスも一勝もせずに敗退した。日本はどうか。チュニジア戦が残っている。集中力が失せていないのを祈ろう。
2002 6・11 13
* 明日の桜桃忌は、早朝八時半から眼科の視野検査と診察、さらに糖尿の定期診察。晩には、秦建日子作・演出「タクラマカン」新宿公演の初日。
2002 6・18 13
* 新宿アイランドホールは、かつて建日子が公演した中で、いちばんリッチな劇場環境だった。贈られていた花束などもいままでとは桁ちがいに多く、派手で、建日子がこの業界でともあれある位置を占めていることは、よく窺えた。それはいささか私を安堵もさせたが、そういうのが虚名に過ぎないのも分かっている。とにかく「付き合い」の社会なのだから。七八つのステージでたとえ満席にしても営業的にはさぞ苦しかろう。だが、芝居公演がやれるとやれないのとでは、使い捨ての消耗品になるか、一つの才能として認められるかの分かれ目にはなるだろう。経済的にはむしろマイナスに近いだろうが、芝居の公演はやった方がいいという以上に、やるべきだろうと私は勝手に観測している。
* 今晩の舞台については、初日のことであり、論評は控える。あまりに平場で、わるいことに目の前に巨大な壁のように大男が席を占め。半分がた舞台は見えなかった。
* 早々に帰宅、萬歳楽「白山」で太宰治賞三十三年を自祝。桜桃のうまさ、格別。
2002 6・19 13
* 夕方六時、新宿アイランドホールでの「タクラマカン」秦建日子作・演出、大谷みつほ・納谷真大主演の、最後の舞台を観てきた。
初日には、わたしは、実は妻もそうだったというが、いたく不満を覚えて帰った。二日目以降、わざわざ出かける気がしなかった。二日目は妻だけが観に行き、私は美しい人の顔を見に飲みに行った。
三日目に、建日子が車中の携帯電話で感想を聞いてきたので、不満の理由を簡単に話した。思い当たるらしき応答であった。そして二度目の今晩、最後のステージを観に行った。
「ずいぶん手を掛けたよ」と、開演前に、ちらと本人に聴いた。今夜も見やすい席ではなかったが、妻が少しでもよく見える方をわたしに譲ってくれ、初日よりは、舞台がとらえやすかった。それだけでなく、舞台の「推敲」が格別にすすんでいて、十のところの九から九半までの完成度は、みごとだった。俳優の出し入れ、動き、情感の乗せかた運びかた、音楽の効果、すべて的確に配役・配置され、舞台の上に、幾度も幾度も動的な佳い画面が創られた。その点では、稽古の途中に建日子からのメールが、「脚本のクオリティとしては、過去最高でしょう。あとは、演技がどこまで追いつけるか。自信はあります。TVと掛け持ちなのがやっかいですが」と言ってきた、「クオリティ」云々が、それなりに謂えていたし、それに近い称賛の感じは、不出来な初日にすらわたしは持っていた。ただ、初日の舞台は「自信」が裏目にでて、ちょうど、ワルく推敲しすぎた文章が味気なくなってしまうように、舞台の肌理がかえってあらくザラついて、上滑って行く感じがあった。しかも、それだけが不満の理由ではなかった。
今晩は、場面の呼吸に深いゆとりが出来、舞台に砂のこぼれたようなザラザラした不満がよく拭い消され、肌理しっとりと、ある種の「あはれ」が、香りの佳い油のように流れていた。今夜こそ「脚本のクオリティ」は、たしかに高くなっていた。
少し皮肉に言い直せば、作者が「クオリティ」を、技術的な「うまい・へた」の意識から口にするときは、かえって危険なのである。やりすぎ触りすぎてザラつき、それに気付かずに満足してしまう。第一、うまいかへたかは、もう少し別の意義の「クオリティ」に奉仕する効果なのだが、作者は、それが「目的」かのように度々勘違いする。その結果が、初日のような、へんに味気ないせっかちな舞台になって出る。わたしの不満はもとより、息子には点の甘い妻ですら、初日は、やや「天を仰いだ」という気味であった。「観てやって下さい」が人様に言いにくかった。
ものの順序として、初日根本の不満を書いて置いていいのだが、それはもう当の作者に電話で伝えたことだし、今晩の舞台でさっき保留しておいた、十のうちの最後の一ないし半のところの、つまり終幕部での不満、ないし不審を書き留めておけば足りる。
* 物語は、不特定なある国の、海にまぢかそうな地域(東京都のように思おうと、地方の町程度に思おうと、もっとべつの国であろうと、かまわない。)に、「浜辺育ち」の「ひとでなし」が、「町育ち」の市民に徹頭徹尾あくどい差別をうけて暮らしている設定になっている。人によればぎょっとするほど刺激的で過激に大胆な図柄だが、リアルな設定ではなく、むしろシュールリアルに、よくもあしくも物語がルーズに組み立てられている。それが味噌になっている。
「ひとでなし」は、四人の青少年と、一人の少女「けい」と、「じじい」が一人。青年のうち一人の「カラス」は、町の女郎屋の親方の用心棒がつとまるほどの腕っ節。そして他の男三人と年取った「じじい」との、喰うにも窮した空腹と貧寒との日々は、知恵と敏捷とで「盗み」の名人である少女「けい」が、かろうじて養っている。字も読めない若い男たちは、いかなる希望も絶対的に叶えられっこない侮蔑と排除の悪環境に閉塞を強いられ、働くこともならず、ただもう「あの国」への渡海をだけ日々に夢見ている。その差別・被差別の徹底は、ものすごい。少なくもそういう建前に舞台は作られる。
私は、そういう差別状況を、京都という都市で、小さい頃から、体験的にも学習においても、人より遙かに関心深く多く、識ってきた。そして、それについて丁寧に語り合うことは、我が家での子供たち教育の一つの柱ですらあった、むろん差別への強い批判である。建日子が今度の舞台を通じて謂う、「この国」の「町育ち」社会と「浜辺育ち」疎外という図式にも、自然とその感化の反映していないわけがない。誤解されてはならない、この「タクラマカン」は、徹頭徹尾「浜辺育ち」を「ひとでなし」と呼び捨てるモノたちへの、お前たちは「ひとでなしで(すら)なし」とする批評と批判を、最も多くの汗をかいて強調している。
その上で、作者のその主張が、舞台の最後の場面には、どう生きていたか、活かされたか。それが問題として残った。
作者は、一人も「町育ち」市民を舞台に出さない。いや例外として、町の女郎屋から逃げ、たまたま「カラス」の貧しいすみかに飛び込んでかろうじて追っ手の暴力を免れる、「はづき」という少女が一人いる。彼女は、今、上に謂った意味ではない、文字通り「ひとでなしでなし」として、「ひとでなし」の身内になりきり、「カラス」との純な相愛を演じ始める。だが、その仕返しに「カラス」は「町育ち」の暴力で、強かった膝を撃ち砕かれ、「あの国」でいつかボクサーになりたい夢も打ち砕かれる。「カラス」を愛し励ます「はづき」もまた「あの国」へと心の底から切望するが、それどころか「カラス」を治療の金すらないのである。
作者は「町育ち」市民社会の「権力的顕現」として、治安の軍隊を舞台に登場させる。その手法に工夫がある。新任の責任者「ツキノ」少尉は、或る動機から、「浜辺育ち」の「ひとでなし」に熱心に接近し、ついには一少年の就職のために町中を説いて奔走する。上官に批判的な根から差別者だった部下二人も、いつか少尉の行動にひきこまれて、大変な苦労の末、「くさいくさい」「さわれば手がくさる」ような「ひとでなし」少年のために就職先をみつけてやる。「浜辺育ちのひとでなし」は、一人も字が読めずろくにものも知らない。余儀なく「ツキノ」と部下は、少しばかりの教育をすら彼に授けてやった。
この就職できた少年は、恋心を抱いた仲間の少女「けい」にスカートを買ってあげたい。そして初の給料をつかんで感動と愛情のあまり駆けつけた先は、以前に「けい」のためにスカートを盗んだその店だった。盗んだスカートなんかいらないと、少女は内心の嬉しさを噛み殺して突き返したのだ、だが、今度は稼いだ金で買うのだと、少年は、その店の中で夢中に愛の言葉を叫ぶ。だが、少年は、駆けつけた官憲に蛇を打つように簡単に撃ち殺されてしまう。公園で撃たれし蛇の無意味さよ 草田男。
少女も仲間も絶望を深める。そんなときに「じじい」が言い出す、多年ひそかに心掛けておいた、死ねば五千ギースおりる生命保険のあることを。「じじい」は愛を失った失意の少女にそれを告げて、自分を殺し、その金で、是が非でも「あの国」へ行けと勧めるのである。少女にナイフを握らせたまま「じじい」は「けい」に向かい挑発に挑発を重ね、激しくも衝動的に少女の刃物を身に深く受ける。「人殺しだ、じじいが殺された」と叫べと教えながら「じじい」は死ぬのだが……。なんと、「浜辺育ち」の者に保険金は支払えないと、死なれ・死なせて残された若い「ひとでなし」たちは、支払いを、乱暴に拒絶されてしまう。
抗議に立つ若者たちの集団演技には迫力がみなぎっていた。
「だれがどろぼうか」「だれが暴力的か」「だれがホンモノのひとでなしか」という問いかけの、電気の走るような訴及力。
あげく「どろぼうなら負けないぞ」と、若者たちは、「ひとでなしのなし」の「はづき」も加わり、「四人」だけで国の銀行を襲い、治安軍の武装兵士に囲まれる。「ツキノ」少尉は、保険金支払いについても「浜辺育ち」の側に立ち、支払い側の不当不正を主張していたが、当局はこれを無視し、銀行に閉じこもった四人に対し「撃て」の命令を「ツキノ」に強いる。苦慮のままの「構え銃」の叫びがむなしく繰り返され、誰かしら別の声が「撃て」と叫ぶ。若い四人は勇戦して潰える…ので、あるらしい。
* ここまでは、いろんな細部の展開をともない、ルーズな構成と設定を利して、かえって緊密に物語が運ばれて行く。今晩の芝居は、そこまでは満足の行く、なかなかの「クオリティ」であった。
だが、このあと、ひとり取り残された少女「けい」が、「ツキノ」の尽力でえられた「じじい」遺産の五千ギースの袋を足許に投げ出され、その金で「あの国」へ行け、「あの国」で教育を受け、「あの国」で歴史を学べ、ウソも学べと説教される。「けい」は、今自分が「生きて在る」この事実が大切だと納得して、「船出」への決意を、直立の姿勢で示す。解任された元少尉「ツキノ」は、「浜辺育ち」に荷担した罪を問われて裁判に掛けられるのである。
* 「タクラマカン」は最初「砂漠」の題で構想され、そんな題は味気ない、いっそ「サハラ」の方が面白いぜと冷やかしたので、「サハラ」で初演された。再演の時から「タクラマカン」に変わった。が、この固有名詞自体に特定の意味はない。いろいろに「読まれる」題として投げ出してある。それはそれで構わない。
だが、以前の舞台では、主役の「けい」ももろともに、総員が銀行襲撃で撃ち果たされ、しかしまだ稚い少年の一人だけが、「ツキノ」の配慮であったろう、「あの国」へのキップを手にした。
その程度なら、むしろ良かった。
今回は、なんと主役の「けい」が、はなから銀行襲撃に加わっていないのである。襲撃や仲間の死をすら知らないらしいまま、「ツキノ」少尉の口から、そして手から、仲間と保険金の顛末を聴き知り、その金で独り「あの国」へ出て行くというのだ。それはないのではないか。
初日、わたしは、前半大半の「クオリティ」なんかにではなく、この終幕部分での大きな後じさりに不満を爆発させた。仲間全員の死と残った「けい」との間に、紐帯が抜け落ちているのである。仲間に対し終始生活力ある指導者としていわば君臨してきた「けい」が、仲間を死なせておいて独り「あの国」に逃れたとして、それでは、息を詰めてきた観客の胸の内からは、むだに空気が漏れてしまう。喜びよりは落胆が、希望よりはみじめで半端な敗北感が、ただ観客にはのこるだけではないか。
「タクラマカン」の「差別」は、リアルな事実事象でなく、作者により構想された観念の所産である。だからこそ、ルーズな設定を利して思い切り徹底したことが言えるし、やれるのである。事実、そういうふうにわりとうまく書かれている。それはそれで少しも構わない。むしろ、それだからこそ徹底的に差別被害のひどさを、観客の胸に叩き込めるのだ。批評や批判の観客への刺し込みが、深く、厳しくなるのだ。観客は解決不能の「絶望」を与えられることで、反発反感の火を胸に抱いたまま劇場をアトにして行く。観客の胸に呻くほど「絶望」の棘を刺し込んで帰すのでなければ、「タクラマカン」上演の意味なんか無いぐらいなものであるのだ。感傷的な「生きる」なんて一言に甘えて、「けい」だけが「じじい」の金で「あの国」へ。やめてくれ、と私はむかついた。
その結末自体は、今晩の舞台でも改めようがなかったけれど、それまでを丁寧に、美しいほどに演じ直していたため、全体の感銘は密度も温度も高めていた。手放しで泣いている人の多いことに驚かされた。最後の暗転の中へ、最初の拍手を送った客は、わたし、であった。わたしの頬も早くから涙にしとど濡れていた。作者は、かろうじて「炒り豆に芽を」出させたと、拍手してやったのである。
* だが、「乱暴」に、もし私があの舞台を作り替えるとしたなら、最後の場面はこうなる。
仲間たちの銀行襲撃を告げられたばかりの健気な指導者「ケイ」は、保険金の五千ギースと銃とを手にした「ツキノ」少尉により、無惨に、額を撃ち抜かれ殺されるだろう。「ツキノ」の行為の一切は、「このようにして、やつら浜辺育ちのひとでなしは、一人残さずこの国から処分する計画であった」と語らせるだろう。「ツキノ」の裁判は、すべて「形式的な決着」のためのものだとうそぶかせるだろう。
それぐらい徹底的に描きだすことで、「カラス」や「はづき」や「じじい」や、その他の心優しい「ひとでなし」の若者たちの、「あの国」へ賭けた切ない切ない脱走願望が、単なる逃亡願望以上の、絶対の選択であったことを、食い込むほどに観客の胸にたたき込む。
それでこそ、あらゆる差別への批判・非難になり得るかもしれない、それは簡単には言えない。この問題は簡単には言えないことを、わたしは、少なくも建日子よりは深く識っている。「タクラマカン」の若い作者、いやもう、三十四歳、わたしがちょうど太宰賞を受けた年齢だ、けっしてもう若くはない彼は、まだ、この問題を甘く半端にしか知らない。船の底荷が軽いのだ。
* もう一人、ほかの人の批評も此処に書き込ませて貰い、間接に秦建日子へ伝えておきたい。ますます耳が痛いであろうが、良薬である。
* お久し振りです。
HPを時折見させていただいていますが、実際お会いしたのはもう半年以上になってしまいますね。最近疲れがたまっているようにHPに書いておられますが、身体には充分気をつけてくださいね。と、私が言う以上に、身体のことはわかっておられるとは思いますが。
昨日、建日子さんの「タクラマカン」を見て来ました。再演でしたが、内容をほとんど覚えておらず、芝居が進むに連れ思い出し、こういうものだったな、と思い出しながらみていました。正確に以前の演出を覚えていませんので、間違いがあったらお許しください。
学生時代に見たときには、建日子さんの芝居は「状況提示」のみで、そこでの解決法や何をすべきかということに対して、投げ出したままであるような気がする、というような感想をもった覚えがあります。それはみているものにその問題を投げかけるという形式をもった芝居であったのかな、と、今は思うことができますが、そのときはもどかしい感じがしました。
それが、今回は、よりメッセージ性が強いといいますか、芝居の中で使われる「前向き」というものを前面に押し出す演出になっていたのではないかと思いました。現在の状況を提示し、その状況に対して「前向き」に対峙することが、その状況を変えることのできる唯一の方法だと、はっきりと宣言しているのです。
これは時代性の問題かもしれません。
私が学生の頃は世紀末(これが本当に関係していたかはわかりませんが)でもあったし、今以上の閉塞感が感じられる状況だったのかな、と思うからです。しかし、エンディングなどは、まったく逆の終わり方をしているのですから、この2-3年の変化というより、演出すべき世界が変わったことが大事だと思います。また、そのような「前向き」なメッセージ性を語る自信が建日子さんについたということなのでしょうか。
つまり、私はこの芝居を見て、わかりやすさの向上と、強いメッセージ性を強く感じたのでした。
しかし、もう一方で、前回以上の歯がゆさを感じてもいました。それは表現されていた社会と個人の関係についてです。
一方ではより明確に「前向き」というメッセージを掲げていながら、
浜辺<まち<あの国
という構図、もしくは
個人<警察=国家
という構図によって社会を捉え、さらにそれを「固定されたもの」として描いているのは、この枠組みを打破することに対する「前向き」な姿勢の表現という意味では、「わかりやすく」よいのですが、その境界を「越境する」ことによってしか「現状は打破できないむと語るのは、「わかりやすすぎ」ではないか、本当にそれは「前向き」なんだろうか、と感じてしまうのです。
というのは、実は「浜辺育ち」と「町育ち」を分けているような枠組みは、非常に流動的であり、ある意味で、自分=個人、が作り出しているのではないか、と感じているからです。確かに、社会がその枠組みを作り、保持しているのは確かです。しかし、その枠組みに対して、無抵抗になるのは「個人」の選択ではないか、と感じるからです。無抵抗だからこそ、「あの国」であればどうにかなる、という別の世界への憧れという形をとるのではないか。
実は、枠組み自体を動かそう、と、ほんの普通に頑張ること、頑張っている人って、いっぱいあるんじゃないかと思うんです。そういう「もがきやあがき」を真正面から描いても良いんじゃないか、そういう中に表現されていない何かがまだうずもれているんじゃないか、と思うのです。そういう何かを見せてほしいな、と思いました。
以前の「タクラマカン」は、その「何か」を見つけられないもどかしさがそのまま出ていたのではないかと、芝居の後に感じました。だから、状況提示で終わっていたのです。状況を、そのまま、どうしようもないものとして提示していたのです。それによって作る者と観る者とがそのもどかしさに、一緒にのたうちまわっていたのではないか。それが本気で「物足りない」と思わせていたように思います。
今回はそのもどかしさはなく、わかりやすい「前向き」というエネルギーのようなものに全てを託していることによって、逆に物語(状況)との距離をとっており、「歯がゆく」感じたのではないか、と思います。
私も、普段の生活でこの枠組み自体をほんの少しでも良いから、動かしたい、と感じています。
今やっていることが、なにか、どんなことでも良いから「作る」ということを変えられたらいいな、と。つまり「あの国」なんてものはなく、「この国」で「前向き」でいたいと、常に思っているということではないか、と思っています。
だから、簡単に「越境」を語ってほしくないと感じたのだと思います。
独り善がりの感想になってしまいましたが、今の自分がやらなければいけないこととダブっているような気がしたので、秦先生にお伝えしました。
今度は直接お会いして、「今、作る」ということに関して、お話できたらよいなぁ、と思っています。
* この感想が、どういう「的」を正しく射ていて、どういう「的」は大きく逸らしているか、それは建日子が考えねばならない。
だが、わたしも一言は書き添えておこう。
実は「浜辺育ち」と「町育ち」を分けているような枠組みは、非常に流動的であり、ある意味で、自分=個人、が作り出しているのではないか、と感じていると書かれているが、たぶん、それは同じ「町育ち」同士の中での流動や個人のように思われるからである。
「あの国」へ行きたい。
それは、譬えば、「真の難民の絶対の苦境」から出ている呻きであり、そんなのは単に越境であり、逃亡であり、努力無き敗北であると言えるのは、そういう難民状況に立たされたことのない、意識するとせぬとにかかわらず「浜辺育ち」を「ひとでなし」として当然な「この国」の「町育ち」普通の市民同士の、痛みのない立場から、なのである。「タクラマカン」は、あまりに痛切なテーマを書きながら、これほど好意的に深切な観客の胸にも、けいやカラスやはづきたちの「あの国」願望を、ただの、努力無き「逃亡」ではないか「越境」にすぎぬではないか、と、物足りなく感じさせる程度に「不徹底で甘かった」のである。それがまた、わたしの、創作者であるわたしの、今回「タクラマカン」への根本の批評である。非難ですらある。
それでも、もう一度言って置かねばならない。この「浜辺育ちのひとでなし」状況を、現在の日本は、現に、まだ、確かに抱え持っていると。これは放恣な作り事でも夢の設定でもない。もしかして「あの国」があるなら、必死に「あの国」へ行きたいほど絶望に心萎えた人など、「この国」にはいないなどと思っていては、少し、のんきすぎる。「とりわけて歴史を学べ」と作中の一人が言っていた。そんなことは真実心でも言えるし虚偽と瞞着心からも言えるので要注意であるが、それでも、「この国」の「市民同士の意識」だけではお話に成らないほど、えげつなく「人外」を隔てた険しい垣根は、歴史的にも現実現在にも、実在している。その認識上で、だれが、「本当のひとでなし」かと、「タクラマカン」の作者が、ねばりづよく声を挙げ続けることを、「この国」の一人として、あの「はづき」の友の一人として、わたしは希望する。
* 芝居のあと、ホールの地下の和食の店で、千秋楽を祝って「めで鯛」の刺身と小懐石で「上善如水」を飲んだ。さらに一階のカフェレストランで、妻はお茶とケーキを頼み、わたしは、壁の宣伝写真に惹かれて「ビーフシチュー」とパンをまた食べた。コーヒーも飲んだ。
帰ろうと街路に出たところへ「カラス」を演じた納谷真大君が飛び出してきて、挨拶してくれた。上でわたしたちも彼を探していたのだ、一言感謝したくて。彼はこの役は二度目であろう、特に今夜の「カラス」はまことに傑出していた。秦建日子が創りだしたもう大勢の人物たちのうち、「タクラマカン」の「カラス」は図抜けてよく書けている一人であり、それは納谷君の力に多く負うている。声を掛けてきてくれて嬉しかった。同じように建日子の盟友である「じじい」の井元工治君にもホールで声をかけてもらった。この力量在る脇役の存在に建日子の舞台は繰り返し幾度も助けられてきた。そして「じじい」も「カラス」も、初日より今夜はまたさらに佳い芝居をしてくれた。大阪弁のうまかった白国秀樹君、「地図」いらいお馴染みの中島一浩君、同じくうまくなったせきよしあき君とも話せた。女優の三人いや四人とは出逢わなかった。「けい」の大谷みつほは可愛らしく健気であったが、最後に労られたように一人船出していったのは、作者作意の齟齬。同じなら彼女一人の壮絶なガンバリと犠牲のうえに他の仲間全員が「あの国」へ行けていたら、まだしも納得しやすかったかも知れぬ。そういうリーダーであった、同じ役を「サハラ」で演じた生方さんの「けい」は。あれは名演だった。
* 芝居より前に、林丈雄君とこれもまた久しぶりに会い、おそめの昼食をともにし歓談した。
* 初日以来書かずにいたことを、さて書くとなって、もう二十四日の午前五時十分、徹夜だった。おやおや、である。ま、その程度に快く昂奮させてくれたのだと息子に感謝しよう。ただし鼻なんか高くして欲しくない。 2002 6・23 13
* 公演パンフレットとして秦建日子が「挨拶」している文章を読んだ。さらりと書けていた。スキャンして、ここへ紹介したいと思っている。
* これは、「タクラマカン」を作・演出した秦建日子が、配役の役者たちに触れた、劇場で当日配布の「ごあいさつ」で、じつは、徹夜明けの今朝に初めて読んだ。こういうこと、であるらしい。「闇に言い置く 私語」のなかに混ぜておきたい。
* ごあいさつ 秦建日子
23歳の夏。ぼくは、カード会社の営業マンだった。月々新規開拓*件というノルマのために、ぼくは新宿のとあるマンションの扉を叩いた。偶然、部屋の主はいた。偶然、彼はその時暇であった。偶然、彼は社会人半年のひよっこと雑談をしてもいい気分だった。雑談の中で、彼はふと、ぼくに尋ねた。
「面白いホン書く若いやつ、知らんか?」
カード会社の営業マンに、そんな知り合いがいるわけない。が、単に「知りません」じゃ会話が終わってしまう。そこでぼくはこう答えた。
「シナリオライターですか。格好いいなあ。いっそぼくが書きたいくらいです」
彼は一瞬きょとんとし、それから急に、電話をかけはじめた。
彼「あ一、**だ。この前のドラマの話……あれをな、(急にぼくに)おまえ、名前なんていう? はた? (電話の相手に)はた! はたってやつに書かせることにしたから。うん。よろしく(切る)」
ぼく「……」
彼「(ぼくに)内容はこれだ。三日で書いて来い」
ぼく「あの……」
彼「早く帰って書け」
ぼくは、訳がわからぬまま、三日でホンを書き、それは、そのまま関西テレビの深夜ドラマとしてオンエアされた。
これが、師・つかこうへいとの出逢いである。
脚色は一切していない。
つかこうへい事務所に出入りするようになり、25歳の時に、初めて舞台の作・演出をした。
最初のうちは、「記念受験」くらいの気分だったが、一度やると欲が出てきた。サラリーマン人生には早くも飽きがきていた。おれも、プロの物書きになれないかなあ……などと、タクラマカンのセージのように、甘ったれた想像ばかりしていた。
そんな時に、井元工治と出会った。
その頃ぼくは旅行会社の広報部門に所属していて、パンフレットの印刷をどこの会社にするかを任されていた。いくつもの印刷会社が、是非うちともお付き合いをと営業に来た。その中に、井元の会社もあった。井元は、ブリキの自発団、劇団3○○、パラノイア百貨店といくつもの劇団を練り歩き、芽が出ず、30歳にして役者を断念し結婚して子供を作って平和な生活を送り始めたばかりであった。
「井元さんがおれの芝居作りに協力してくれるなら、うちの仕事、おたくに回してもいいっスよ」
ぼくは傲慢に言い放った。その会社は、井元を人身御供として差し出し、その年、1千万円近くの売上げをぼくの会社から上げた。ひどい話である。
27歳。ぼくは、井元からのアドバイスをもとに、見よう見まねで一本の芝居を作った。
「地図~朝焼けに君をつれて~」
そのキャストの中に、せきよしあきがいた。いや、最初からいたわけではない。友達に誘われて稽古場に遊びに来たら、話の流れで、その場で出演が決まってしまったのである。この、せきが客にバカ受け! 大塚のジェルスという100人入れば超満員という小さなところでやったのだが、口コミであっというまに客が膨れ上がり、最終日には150人以上の客が入った。ぼくは、「当たる」という感覚に酔い痴れ、後先考えずに会社を辞めた。
これからどうしょう……
つかこうへい事務所の中にいて、つかこうへい風の脚本を書き、つかこうへいの真似をして無理に口立ての演出をつけ、つかこうへい事務所の役者とばかり付き合う毎日では、未来は開けない気がして仕方が無かった。つかこうへい事務所で偉大なのは、あくまでつかこうへいだだひとりである。
そんな時に、大学時代の友人の紹介で、築山万有美と納谷真大という、富良野塾出身の役者と出逢った。納谷の紹介で、中島一浩とも出会った。三人とも、やたらとわがままで気難しく、何でも自分が一番じゃないと嫌という連中だった。ダメだしには露骨に嫌な顔をした。でも、芝居だけはチャーミングだった。彼らと作った「サハラ」という舞台は、いろんな意味で、ぼくをタフにし、フリーにした。
ぼくはつかこうへい事務所を離れ、TVドラマを本格的に書き始めた。
その後、44歳にしてパラサイトシングルのゴクツブシという松下修という役者と知り合い、ぼくの人生観はますますラクになった。
六本木で飲み屋を経営してその金で芝居やってる豪傑・白国秀樹とも出会った。
人生は何でもアリである。なら、楽しく生きよう。書きたいものを書こう。もっともっとわがままに、やりたいやつとだけ仕事をしよう。
そして、大谷みつほを見つけた。
初めて会って10秒で、「大谷主役の芝居を書きたい」と思った。稽古初日、あまりのド下手ぶりにクラクラした。いまは、持ち前の根性で、普通の下手にまで上達した。公演初日には、まだ一週間ある。もしかしたら、奇跡を起こすかもしれない。いや、きっと起こすだろう。起こせ。ぼくは、大谷を信じている。(親バカ)
人生は結局、誰と出逢うか、だとぼくは思う。いいことも悪いことも、すべて「人」からやってくる。
舞台稽古が始まってから、いろんな事情で女優さんがひとり降板した。既にチラシを5万枚印刷し、プレス関係にも写真を渡していた。大ビンチ! でも、結果として、ぼくは、矢部美穂という女優と新たに出逢えた。彼女が、急なオファーを快諾してくれなかったら、この舞台は実現しなかったと思う。当日パンフレットで、出演者に感謝するというのも妙な話だが、書いてしまおう。ありがとうやべっち。
「タクラマカン」を通じて、ぼくはまたいろんな役者と出会い、スタッフと出会い、そして、観客の皆さんと出逢えた。
その昔、初対面同然のぼくにむかって「どうして生きてるんですか?」と聞いたキミ! ぼくは思う。
生きることって、悪くない。
本日はようこそいらっしゃいました。
最後までごゆっくりお楽しみください。
* 「書きたいものを書こう。もっともっとわがままに、やりたいやつとだけ仕事をしよう」とは、口でこそ言え、容易なことでないのは、特にテレビドラマの仕事で、吐き気のするほど思い知らされているようだ。だが、芝居の方はどうやらその一筋に頑固を貫いてきたらしいが、見ようでは、頑固過ぎるかも知れない。思いつきの小劇場作品は書けても、例えば、原作ものの脚色など注文されたときに、どれほどホンと時代と人間が「読める」のか、そういう蓄えや備えも要るのではないか。他人の創作劇を演出してみる機会も有った方がいい。だが、今のところは気が動いていないらしい。
2002 6・24 13
* 寝に行こうと思って念のためもう一度確かめたら、卒業生君のこれまたとても嬉しいメールが来ていた。みな同じ学年で同じ教室にいて同じように教授室で話し合ってきた、専攻はちがえども。
* こんばんは! 秦さん、お久しぶりです!湖の本ありがとうございました。「なよたけ」ゆっくりと声に出して読みたいと思います。
なんだか暑くなったり寒くなったりですね。
このところ、ご多分に漏れず、サッカー漬けの毎日です。今日は韓国負けてしまって残念!!
恥ずかしながらこれまで、韓国にそれ程興味を持っていなかったのですが、あの気迫あふれるプレーに、にわかに興味が出てきました。
考えてみれば、日本人は、アメリカやヨーロッパの事情には詳しいくせに、お隣さんにはあまり目が向いていない気がしますね。逆にアメリカやヨーロッパの人たちは、日本のことなど、実はほとんど知らないみたいで、韓国の人たちは、良かれ悪しかれ、日本のことは気になって仕方ないように見えるのに・・
建日子さんの「タクラマカン」、土曜日昼に観てきました。
あの設定のような状況を、実感としては知りません。両親が京都育ちということもあってか、話には何度か聞き、読みもしますが、「あの国」にすべてを託すしかないような、そんな悶えるような絶望的な心境を、想像や推測や知識以上のものとすることは、今の私には、無理そうです。
思い浮かんだのは、このところ報道されている、北朝鮮からの亡命者たちのことです。
でも彼らはまだ救いのある状況なのでしょう。中国に逃れることが出来ていたのですから。真に思いを致すべきは、彼らの背後にいる、国から出ることも出来ない、数知れない人々でしょうね。
望まずして世界から孤立し、未来への展望もない閉塞した社会。
多くの貧困の極にある人々と、少ない富を独占する一握りの人々からなる社会。
そこで貧にあえぐ人々は、豊かな生活を享受する同国民を、外の世界の国々を、一体どんな気持ちで眺め、受け止めて生きているのか。想像を絶します。そこには、「浜辺育ち」と「町育ち」の関係と、どこか共通するものがありそうです。
一番共感できる登場人物は、「ツキノ」でした。「町育ち」でありながら、忌み嫌われる「浜辺育ち」の中に入り、向けられる猜疑の眼差しを、ほんの少しずつ少しずつ、溶かしてゆく。命をかけて救ってくれた人を前に、触られて「体が腐る」と泣くしかなかった、「人の心の分からない」「ひとでなし」だった自分。その自らの姿を、鋭く身中の棘として、おそらくは、真の「ひとでなし」とはなんなのかを問い続け、行動し続けたのでしょう。
しかし厳としてある、「この国」の硬い現実は、そうしたツキノの想いとは関係なく、彼女と彼女の関わる人々を、容赦なく押し流していってしまいます。
必死にかけずり回った末に、ようやく就職させたハルキは、初の給料で恋する女性へのプレゼントを買おうとし、訪れた店先で、あっけないほど軽々しく、撃ち殺されてしまう。「彼女の船になりたい!」と叫びながら。
そして最後には、ほかの四人さえも、自身の部隊で葬ることになってしまう。
・・なんという不条理でしょう。
最後に「ケイ」だけが銀行襲撃に加わらず、ひとり「あの国」へと旅立ってゆく展開には、正直とまどいと、どこかに何か引っかかる感覚がありました。
ハルキやカラスたちの死は、図らずも全て、ケイが起点となってしまっています。ケイを想う気持ちゆえにハルキは職につき、結果命を落とし、それが引き金となって、ジジイはケイを挑発して保険金を残そうとし、保険金が出ない怒りにかられた末に、カラスたちはツキノの部隊の前に散ります。
仲間たちの死に、「死なせた」との思いを、ケイは生涯痛烈に抱き続けるでしょう。
そのケイだけが、ジジイの保険金とともに、あの国へ旅立ってゆくなんて。・・一体彼女は、どうやって生き抜いてゆくというのでしょうか。
ツキノはそのケイに、「私には、何が足りなかったのか」との言葉をかけて送り出します。それが「この国」の法律では、重大な犯罪に当たることを承知の上で。
ケイの旅立ちは、容易には変わらないであろう「この国」の未来への、力およばなかったツキノの想いの実現への、一条の光のようにも思えます。
ですがそこにあるのは、確かな勝算などではあるわけもなく、空気のひと揺れで消えてしまいそうな、幻のような光。ただただ、信じること祈ることしかできない、宗教にも似た飛躍です。
「人間を信じてみようかと思います」と言って、ツキノは裁判に臨んでいきます。とことん行動の人だったツキノの口から、ただ「信じる」との言葉。
ケイの旅立ちは、ツキノの、そして作者の祈りなのかもしれないと受け止めました。
長くなってしまいました。
またお時間のある時にでもお会いしたいです。それでは、お体くれぐれも大切になさって下さいね!
* 的確に観てくれている。これほどのことを二時間の中で受け取ってくれている、正確な言葉と文とで。作・演出家は、謙遜な思いで感謝していいだろう。
ツキノをこう評価した観客は珍しいのかも知れない。アンケートではどうなのだろう。わたしは根性が曲がっているのか、ツキノの真情を好感を持って察したことはあまりなかった。ウサンくさい気がしていた。「なるほど」そう見るか。胸を少し突かれた。
この人の感想がより広い範囲へ敷衍されてゆく確かさにもわたしは希望をもつ。有り難うと言いたい。そして相変わらずしっかりと健康な声音を聴くおもいを楽しんだ。
2002 6・25 13
* タクラマカンの事。 例えば東京育ちの人には、これを実感としては理解出来ない筈。根強い差別の実態、そしてそのツケを。現に、以前長男にこれを話題にした時、頭ごなしに母親が叱られた事があります。そんな事が念頭にあるのも時代錯誤だと。けれど狭い私の交友の中ででも、これまでどれだけ多くリアルに話題に乗りましたか。
その状況に強く立ち向かう講演を聞いて強く感動し、更に彼女が中学時代の当時目立たなかった同級生だと気がついた話、永年その調停の仕事に携わり、夜昼なくの呼び出しで、神経をめためたに病んだご主人の事、私達の卒業後の中学での手に負えないツケの話、聞き合わせに雲を掴むように出向いた話、婚約が解消の話等々。
先が見えない程、遠く遠く、それでも、少しずつ好転して行くのは確かな気がします。
* タクラマカンは、必ずしもわれわれの知っているソノことと限定無く、一般に、人間社会の、日本のといわなくても、根強い人間の差別本能、たえず自分ではない被差別者をつくりだすことで自己満足しようとする不当な「位取り社会」への批判を表現しているのだと思います。だからナニを思い浮かべてもよく、領事館に駆け込む人を思い浮かべてもよく、極限に追い込まれた広義の「難民」のやむにやまれぬ渇望を描きたかったのだろうと思います。
人間が人間でいる限りは続くであろう業病です、なにかにつけて他を差別し、自己の優位を護りたいあくどい執念は。これは「時代」だけの問題ではない、「人間」の愚かな傲慢と本能の問題です。
本質的には、深い好転の望みにくいものだと思う。
イスラエルのあのエゴイスティックな暴虐も、裏返せば、歴史的な罰にはまりこんでいます。イスラエルもパレスチナも。アメリカも。
不幸にして「この国」に、近い国々との間で一度深刻な深刻な事変が起きれば、日本中が「あの国」を渇望するようなことになりかねない、とは、思いませんか。
* 作者のテーマはそうかも知れません。広義のものかもしれません。
世界の歴史は人間のエゴで始まり、人類が滅亡するまでエンドレスです。だからこそ、桃源郷を求めるのは人間の永遠のテーマであり、そして叶わず臨終が来ます。
こんなことを言える歳です。
本能の傲慢と欲望、多かれ少なかれ、私もあなたも、そしてあの人もこの人も、それを持ち合わせた愚か者です。世捨てを装っている人にも見え見えです。反面、その状況から多くの文化が産まれます。つまりは批判の対象として。
広義の被差別ではなく、ソノことと絞って考えた方が余程観客には分かりいいかと思うのですが、これは無理ですね。少なくとも、私の場合、他は考えませんでした。差別行為と、そのツケがまわってきた状況を、近辺で余程見てきたからでしょう。
今回は残念ながら舞台を観ていませんが、幕が下りた時、若い観客の何人が、あなたの言う、人間の「世界」にまつわる差別・被差別を想い描いたか、と思うのです。
* 芝居を見ている殆どの東京人が、歴史的なコトを知りません。実感している人は伏せています。
私の所へ届く若い人のメールを読んでいると、北朝鮮やカンボジアやケルトやパレスチナや、ナチの時代のユダヤ人や、日本の統治下朝鮮の、比喩的表現とみているようです。それでもよかろうと思います。
2002 6・27 13
* 台風がどんな様子でどの辺に停滞しているか。今日は、だが、福田透氏が演出の芝居を楽しみにして出かけた。だが、山本周五郎原作・福田透脚色の劇団昴公演「幽霊貸し屋」は、なんでこれが今、芝居として必要なのと、ワケの分からないものであった。一柳みるの「ノッた幽霊」はなかなの見せものであったけれど、終始、で、これは何なのという煮えない不審のママ、終幕。七月夏場の怪談、さりとて怖くも涼しくも何ともなかった。ガッサカリして、六本木の俳優座劇場から一直線に帰ってきた。
* 今夜半から明日朝へ掛けての台風関東直撃が無事で通り過ぎるのを願う。
2002 7・10 14
* 台風とまともに重なり、ご招待の帝劇ミュージカルを失礼した。だが、やがて台風一過の空になるだろう。
2002 7・16 14
* 三十分早く理事会を失礼して、五時開演の帝劇公演「残菊物語」を観に行った。支配人の厚意で、手持ちの券の席が、中央の前列、とても見よい席に替えられ、妻と二人で、おそらく、帝劇のレパートリーの中で最良の、落ち着いた佳い舞台を堪能した。十朱幸代のお徳と市川右近の尾上菊之助。右近にはやや物足りないところも感じたが、十朱は、後半へ掛けて深切によく場面を盛り上げ、佳い女ぶりであった。
藤間紫が、流石の貫禄。江戸者の上方流れで、へんな大阪弁だが堂々と、決めるべきは最高によく決め、圧倒的。杉浦直樹の五代目菊五郎は、ま、少しこなれないなりに誠実に演じていた。
帝劇の舞台ではめったになく、熱い涙が泉のように湧いた。心地よかった。
2002 9・17 14
* 俳優座公演は、藤沢周平の原作を三つ程寄せ集めに脚色した、長屋ものの時代娯楽作で、川口敦子や可知靖之のようなうまい役者が悠々とやるから、たるみは無いが、いかにせん、何のために俳優座劇場での俳優座公演にこのような体温の低い、批評性の微塵もない娯楽品をみせられるのか、理解に苦しむのである。
凛々たる新劇が見たいと思う。
藤沢周平は持ち上げる人もこの頃多くて、佐高信などもえらい提燈の持ちようだが、同郷人の贔屓に過ぎない。わたしが二三(二三で言っては公正を欠くとは思うが、)読んだ限り、ぬるい人情話ばかりで、モチーフからの感銘も表現からの感嘆も、なに一つ無かった、温度の低い作品だなあといつも思ったものだが、今日の芝居も、原作者の責任ではないといえば言えるものの、要するに、毒にも薬にもならない低調なシロモノでしかなかった。もっぱら俳優達の演技だけを見ていた。
川口や可知のうまさは、この芝居を待つまでもなく十分知っている。うまい。岩瀬晃といったろうか、馴染みの女優も、その亭主役の男優も、申し分なく演技で楽しませてくれた。青山眉子も例の如く達者だし、阿部百合子、香野百合子も、ま、そこそこ。役者達にはピンからキリまで文句は無かったのである。
ただ、この長屋芝居の、ヤスモノのテレビ時代劇より低調で、どうでもいい類型的な陳腐なおはなしには、ウンザリした。ラチもなく笑っている分には、その場限りそれでいいものの、芝居がはねてみると、オイオイ俳優座サン、こんなのでいいのかいと、心配も本音で言いたくなる。招待して貰ってこんなセリフはないだろうと言われても、困る。やはり思ったとおりは言うのが「感謝」だ、わたしの流儀では。
これなら先日の帝劇の「残菊物語」の方が、五十倍百倍身にしみた。長屋モノでもいい、話材は何でもいいのだ、そこから何をつかみ取ってわたしの胸にたたき込んでくれるか、だ。なーに、娯楽ですよ、ちょっと笑ってくだされば上出来、上出来などというセリフは、お雇いの劇評家なら言うのかも知れないが、俳優座劇団がそうバカくさくおさまってもらっちゃ困ります。そもそも、今日の題も脚色・演出家も、みな、もう忘れてしまい思い出せないのである、今。
* 劇場の地下へ張り出しているような地下店におりて、妻と、浦霞の冷やで、刺身、新そば、牡蠣ふらい、貝の甘煮などをゆっくり腹に収め、くつろいだ。それから、日比谷へ出て、開店十二年を祝っている「ザ・クラブ」へ入って、ボトル・フェアにちと便乗。ご祝儀に出たグラスのシャンペンで乾杯し、今年初の松茸飯を食べて、疲れの取れたところで銀座一丁目までぶらぶら。明治屋でパンとチーズを仕入れ、九時ちょうどに帰宅。肩の凝らない休息の一日であった。ああそうか、芝居とは、こういう暢気な一日のバランスシートから、むやみにハミ出ちゃいけない、そういうものであるのか。わたしの考え方が窮屈だというわけか。フーン。
* 来週の仮名手本忠臣蔵通し狂言には、堅いことは言うまい、当たり前の話。
歌舞伎座では歌舞伎を観る。能楽堂では能や狂言を観る。帝劇や芸術座では商業演劇を楽しむのである、楽しみ分けるすべは幾らか心得ている。
俳優座や三百人劇場では、俳優座らしい劇団昴らしいパリッとした演劇が観たいのである。
2002 10・5 15
* 日本舞踊家の西川瑞扇さんから速達があった。この同じ十五日に国立小劇場で、わたしの作詞した「細雪松の段」を舞うので観て欲しいと、じつは数日前に電話があり、妻が受けていた。あいにくの日程で残念ながら観られない。「細雪」の題で先ず谷崎作詞の「花の段」そしてわたしの「松の段」を舞い、さらに「花を添えて」という舞が用意されている。
うーん、観たかったが。松子さんと重子さんとをやはり二人で舞うらしい配役になっている。正月の芸能花舞台で舞った人達である。メールで、今度舞う機会には一人で「松の段」を舞われてはと勧めて置いた。松子夫人は一人舞いでの「松の段」を望まれ、今井栄子が舞ってくれた。よかった。二人の方が分かり佳いだろうが、一人舞いの方が舞い手の藝が深く見える。松子夫人もそういうお好みであった。いやもう、惜しいことで。
2002 10・14 15
* 二時開演、昴公演のアーサー・ミラー作「転落」を、三百人劇場で観てきた。すこぶる面白くて、大満足。
ちょっと簡単には言いかねるフクザツに出来たドラマだが、うまいのである、作劇が。演技者達も上等の芝居を見せていた。わずか六人の登場人物がしっかり組み合い、葛藤する。いわば重婚の物語なのだが、開幕から展開を経て終幕までの動きに、途方もなくややこしくも厳しい議論が積み重ねられている。セリフ劇である。だが単調にならない、出し入れの演出は巧妙で自然、快く観ていられる。流れはすこぶる自然に、美しいほどスムーズで、心地よく睡魔が誘いを掛けそうなほど。
ま、こんなことを言うてみたとて、何も伝わりはしない。観て感じるしかどうしようもない、それほど、つまり純然と「演劇」なのである。佳い演劇である。アーサー・ミラーの作劇にわたしは脱帽し、1500円の台本を買ってきた。
ここ何度か昴劇団は不調であったが、これで回復。これこそ新劇だと、嬉しかった。新劇の劇場で、舞台で、イージィな時代劇や現代風俗劇は願い下げにしたい。俳優座も昴も、なんだか、競ってやすい時代物をこのところ見せたが、お手軽過ぎた。
2002 10・23 15
帝劇からは森光子主演のお馴染み「ビギン・ザ・ビギン」の招待券が、やっぱり今日届いた。二年前の舞台をわたしたちは楽しんでいる。森光子がすこぶる佳いのである、この舞台は。
2002 11・5 15
* 明夕、橋本敏江さんの「平曲」演奏に招かれている。平曲二百句を通して演じるという大事業に挑戦中の、当代の佳い琵琶演奏家で、湖の本の読者。この師走には、「五節沙汰」「都還」「奈良炎上」まで進んでいる。まだ平家悪行のさなかであるが、源氏も起ち、平家はもう富士川で水鳥の羽音に追われ大敗している。
演奏の場は西池袋自由学園の明日館。ほんとうの平曲そのもので、世に浮かれている平家琵琶の「まがいもの」とは、ハッキリちがう。
* 日曜は二時から俳優座稽古場で、井上ひさしの原作「不忠臣蔵」を八人の俳優が語るらしい。吉良邸討入りには浅野家中の実に八割以上が不参加であった。井上氏の原作はこれらの「不忠臣たち」の事情を書いた戯作らしい。趣向である。演出家が語り物に構成したらしい。ひとりで聴きに行く。
第三週はよく出掛けるが、月曜の理事会以外は、遊び。猿之助の歌舞伎、観世栄夫の「卒塔婆小町」、梅若万三郎の「六浦」などがつづく。小さな原稿はすべて不義理した。「風」だけを年内に書きたい。
2002 12・13 15
* それでも正午過ぎには家を出た。俳優座稽古場の招待は、余裕のない場所なのにいい席がいつでも用意され、有り難い。休んでアキをつくるのは俳優達に気の毒、息子の芝居でもよくそれを言われる。指定席をアケられるのはイヤに違いない。今日は千秋楽。
で、井上ひさし原作、構成・演出宮崎真子の「不忠臣蔵」に出掛けた。妻は遠慮したがわたしは「師走だもの」と楽しみにしていた。赤穂藩は五万石のわりに家臣の多い藩で、吉良に討入り切腹した四十六人、これに、身分的配慮と遺族たちへの報告役という役儀から切腹に加わらなかった寺坂吉右衛門を加えても、全家臣のほぼ三割になるならず。七割が不参加だった。そこへ着目したのが井上さんの短編集で、そこから三編を選んで俳優座の八人が読んだ、語った、のである。
簡潔な舞台であった。
最初の「中村清右衛門」は三人の俳優が語った。一膳飯屋のおやじ役荘司肇など、革ジャン姿。可知靖之が「不忠臣」念流の達人、ちいさな道場主で弾琴の名手中村清右衛門に。その中村に襲いかかる刺客細川藩の武士役内田夕夜の格好は、右翼の満州浪人のようであった。みな台本を用意し自分でめくりながら読んでゆく。
この場では、さすがに可知の呼吸が自然で、荘司は例によって少し下手で聞き苦しく、内田の読みは未熟であった。
刺客は義士磯貝十郎左衛門の介錯をあやまった武士で、磯貝と中村とは武術でも琴を介しても極めて昵懇、二世を契るほどの念者の関係にあった。その中村が討入り間際に脱盟したのである。しかも磯貝は中村の琴爪を差料に付けて切腹に望み、清右衛門も磯貝の琴爪や形見を大事にしていた。臆しての脱盟ではなかった。主君内匠頭の武士としての未熟についに納得が行かなかったのである。
大石内蔵助はその清右衛門の言い分を受け容れ、その一方で、もし討入りに失敗し愛する友の磯貝が空しく死んだとき貴公はどうするかと、訊く。清右衛門は、死にものぐるいで磯貝のために吉良を討つと答えた。よろしい、では「二陣」を任せたぞと大石は言い、しかしもし首尾行くわれらが吉良の頚を刎ねたあとは、そなたの立場はさぞ苦しかろうと予言した。
この限りで、明らかにこの中村清右衛門、主君のためには「不忠臣」に相違ない。なるほど、この狙いは、わるくない。
同時に、これだけのことを、原作の短編を「読んで」おもしろく楽しむのと、俳優三人がかりでものものしく、だがなかなかの美しさで語り聴かせてくれるのとで、どう違うのか。どれほどの冥利をわたしはこの稽古場の座席で得ているのだろうか、と、思っていた。とても贅沢な場にいる気もしたし、これだけのことか、とも思われた。
語り聴かせて貰えるぶん頭がよく働いた。この「作品」は所詮、脱盟や不参加に「理=ことわり」をつけているが、ことわりは、一度付けてしまえばもう先が無く、リクツ抜きの感動や感銘とはほぼ無縁のことになる。中村清右衛門をすばらしいと思うよりは、理屈など関係なくむしろ磯貝十郎左衛門の切腹にいたる討入り顛末のほうが、ほとんど理不尽なほど永く人の胸で生きる。現に生きてきた。此処のところが、至極、だいじな秘儀の分岐点である。井上ひさし流の着目は鋭いようでも、じつは、一発はじけて総ておしまいという薄さの上に浮いている。真の感銘の裏側にまわって、どこかを、こちょこちょと擽るようなものだ。趣向はあるが、底は存外に浅い。
* 第二話の「松本新五左衛門」は、明らかに「不忠臣」ではない。「忠臣」のままにさせて貰えなかっただけである。よしなき縁のしがらみの中で、一味の秘密保持のために余儀なく脱盟を強いられた。同志らの復讐が成ったあと、あまりの羨ましさに身ごもっている妻の前で落涙し、しかも命を惜しんだ卑怯者の汚名をきせられ妻とは別れさせられ、何の惜しい命かと、みごと割腹して果てている。
この一編は、同じ一人の「おさき」という語り手を、三人の和服の若手女優が語り分けた。割腹した父を母の胎内にいて知らず、誕生後に母にも死なれた遺児の、「おさき」はその子の乳母役なのである。旗本社会の内幕に絡み取られた悲劇であり、遺児はいまなお顔も知らぬ亡父卑怯の汚名により、幼い友達にも虐められている。
三人の語り読みは、まずまずであり、暢達の妙にはほど遠かった。間合いを計るはかり方が、ほぼ納得のいく「演出」として、言葉の流れに楽譜を刻むようにして浮き立ってくる。楽譜通りに、はいはいはいと刻まれたリズムや間合いは当然人工的で、五七五七七を指折り数えながら短歌をつくるのと似ている。つまりは自然に出来上がっていない。玉成していない。女優は中野今日子、坪井木の実、佐藤あかり。しかし、今謂う欠点は、たぶん、演出家の気負いが気負いのママ残存した「不自然」といえよう。
* その点、第一話のベテラン可知靖之をすらしのぐ「読み・語り」の巧さ自然さで舌を巻かせたのが、第三話「橋本平左衛門」で近松門左衛門役をつとめた、伊藤達広。いきなジャケットで長身すらり。眼鏡。すがた佳く立ったまま語る間合いの、生き生きと柔らかに、厳しく、すごみもあり、俳優座にこんな巧い人がいたよと、失礼ながら、大いに見直した、というよりこれまで気付かなかったのを恥じ入った。三十年余も俳優座の舞台は欠かしていないのである。
伊藤の「読み・語り」には、先に謂う楽譜の下敷きがまったく見えなかった。彼の力量というより自然な呼吸が活かしている「読み・語り」の間に成っていた。間なんてものが実は無かったのである、あるのは目に見えない時間の美しい音楽であった。これの出来る人だけが、名優になれる。
* 第三話には赤穂の浪人が二人出る。一人は大坂曾根崎蜆川の女郎お初と心中した同志「橋本平左衛門」と、脱盟して天満の女郎屋主人となっている「佐々小左衛門」で、佐々は橋本の心中死にいたる経緯に見極めを付けて、主君仇討ちに結集の仲間を明瞭に批判する立場から、脱盟した。その意味で中村清右衛門同様に意志的な「不忠臣」であるが、橋本平左衛門は、いささかの動揺もなく別の深い思いからお初を身請けし、苦界からすくい上げたかった。その深い愛情から、家に重代の名刀を質に入れた。それを盟友二人に心なく罵倒され赤心を疑われたため、余儀なく命惜しまぬ「忠臣」の誠を、愛するお初との心中で表現してしまったのである。
これまた「不忠臣」ではなかった。だが受け取られなかった。
森一の演じる小左衛門は、平左衛門を心中死に追いやった軽薄な武士道に憤りを発して盟をあえて破り、女郎屋を営んでいた。だが、今将に門左衛門の目の前で、世間の慢罵と投石の厄に遭っている。近松は狂言作者として天満屋の心境を「取材」に来ているという趣向である。
森一の天満屋は、可も不可もない、普通の「本読み」であった。
* 以上、なかなか面白いとも言えるし、家で寝転がって井上さんの本を、好きなリズムで好きな流れや思いで読んでいたほうが、もっと多くを得たかも知れない、いや、やはり時代読み物の不満足な印象でがっかりしたかも知れない、などと、感想は右往左往したが、要するに一の弱み・薄さは、今日の舞台が、「不忠臣」たるの「理」の説明に落ちて、いや其処へ落とすしかなくて、そこまでの藝で果てて、その先が無く「おしまい」になるところ、であった。
第三話など、とても優れた作意で、感動をはらんだストーリーですらあったが、だが、とどのつまり、繰り返しこれを読み返すだろうか、また聴きたいだろうか、思い出すだろうか、というと、そんな気はしないのである。趣向から入ってそこを突き抜けないモノのツクリは、ま、こうなりやすい。
客の拍手も、ちから弱かった。
やはり舞台を活かすには「演劇」として話をツクルべきであろう。とても贅を尽くした「巷談」鑑賞という感じになっていた。「演劇」の一部を「語り」として魅せたけれど、それは演劇の魅力とはやはり異質である。部分がトータルを凌駕する例も絶無ではないが、そういう一例とはお世辞にも言えなかった。だが、面白かった。そうでなかったら、こうは律儀に感想を書かない。
極月の十五日、ちょうど三百年前の浪士達が泉岳寺でお上の沙汰を神妙に待っていた刻限に、平成の俳優座稽古場公演「不忠臣蔵」の千秋楽とは、妙であった。それへ出掛けたのは、この日の招待を希望したのも、わが、ささやかな師走の趣向であった。
* 六本木には他に馴染みの場所がすくない。俳優座の裏、ここだけは馴染みの「升よし」で旨い寿司でもつまんでゆければよかったが、日曜日で休み。余儀ないこと。
で、はやばやと帰った。「ぺると」でコーヒーをのみ、若い主人と「映画」の話などしてから帰った。昨日DVDで観た「黒いオルフェ」から始まり、いろいろと。
2002 12・15 15
* あすは歌舞伎座の夜を観る。あさっての誕生日は、うって変わり千駄ヶ谷で「卒塔婆小町」のあと、人形町の望月太佐衛率いる「光響会」に馳せ付ける。佳い歳末。
2002 12・19 15
* 四時過ぎに、雨中を、飛ぶように秋葉原経由で日比谷線の人形町へ、そして水天宮ちかくの日本橋公会堂=日本橋劇場へ。五回めの「光響会」に、例年変わらずのお招きゆえ、私ひとりで、やはり参会した。
朝の十時半から幕があいて、延々といろどり華やかに望月太左衛主催の大きな鳴物の会である。趣向の好きで上手な太左衛さんは、全国にわたるお弟子さん達を糾合し、大勢の協賛を得て、こういう大会を、とても楽しく盛り上げる。能が無ければ、今日など、半日は楽に此処に居座っていただろう。残念ながら「風流船揃」と「勧進帳」の二つを聴くだけで今宵は失礼したが。
ひとつには、空腹で気分が悪くなり。
先日妻と水天宮にお参りした晩みつけておいた、「ふぐ」店にと思ったが、「ふぐ」ではなんだかあっさりと物足りない気がして、このあいだ美味しかった中華料理の「翠蓮」に、また一人で入った。好きなマオタイがあり、佳い老酒も。持参のものを読みながら、一人では多すぎるほどを温かくたっぷり満腹してから、また日比谷線で銀座へ、そして有楽町線で保谷へ帰った。雪にはならなかったが、ついに雨は上がらず。
車中でもずうっと読みふけっていた、現会員武井清氏の「ペン電子文藝館」用プリント原稿『武田落人秘話』百五十枚を、終盤へかけてなかなか面白く読み切ったのが、大泉学園のすこし手前だった。
2002 12・21 15