* 渋谷に、少しはやめについたので、「松川」で鰻の昼飯。この店はわたしが上京し、あちこちの病院や医学部を取材して廻っていたころから馴染みで、「鰻の寝床」。東工大の学生も何人か此処へ連れてきた。味は、有楽町「きく川」ほど、ではないが。
むかし大学以来の友人重森ゲーテが、なんでも人形町辺でご馳走してくれた「宮川」もいい店だった。「宮川」は銀座松屋にも、赤坂にもうまい出店がある。
まだ小林保治氏と毎月のように仲良く食べ歩いていたころ、彼は神田の鰻屋にわたしを連れて行ったことがある。二階へ上がった。此処で鰻とキャベツの塩もみとが付け合わせらしいと知った。彼に教わった店では鶯谷にちかい「鶯泉楼」という中華料理を憶えている。早稲田の学生と来たと言っていたが、どんな「説話」古跡が在るのだろう、あの辺に。
* 松濤の能楽堂で、その小林氏といっしょになった。保谷の堀上氏も。
梅若万三郎の「翁」は悠揚せまらず、めでたかった。頭取の幸清次郎はじめ小鼓三人が小気味よく良く鳴って、おおいによし。若い大鼓の亀井広忠はいつもの懸命の藝で、紅潮してくるとすばらしい美男子、若き日の中村勘九郎に似ている。
面箱、千歳、そして三番叟は、可不可なし。すこし囃子に負けていたか、淡調に沈み睡魔につけこまれたあたり、若い衆の力及ばざる所か。鈴がほとんど響かない。それじゃ三番叟のめでたさは半減する。それと、鈴は「目より高く」を原則として守って欲しい。梁塵秘抄に、たしか「神腹立ちたまふ」とは歌ってなかったか。
古めかしい狂言も、万佐晴の能も、魅力なし。初春は「翁」で足る。
* 濁り酒で、快勝・大勝した二番の碁譜をゆっくり読み直してきた。これも初春。
2003 1・13 16
* 昭世の会 お能の会、ありがとうございました。わたくしは、おかげさまで、佳きものに逢い、堪能いたしましたけれど、当日の演者友枝昭世は、佳き見手のお出がなくて、気の毒なことでございました。
昭世の「藤戸」、佳かったというより、凄みがあって圧倒されました。
前場、ワキがたいへんな速さで謡い、語りもとても早かったようにおもいました。宝生閑のこの役は前にも観たことがあるのですが、同じ演者かとおもうほどで、動きにもメリハリがあるというのか、はっきり、大きく動いていると感じました。
シテのほうは対照的に、極端に動きを抑えた演技で、それなのに、ワキの佐佐木盛綱を追いつめ、時には、丁々発止とわたりあっている感じがあって、現代のせりふ劇を観る思いがいたしました。
昭世はふつふつと沸き上がる憤り、かなしみを、なにもしていないと見える演技で表現していました。ほんとうにみごとでございました。
言いなだめられて橋懸をもどってゆく姿に、なみだがこぼれました。
後場。酷く殺され水底に沈みゆくさまを再現してみせる漁師の亡霊の胸に吹いている冷たい風をおもいました。水底の冥さ寒さが感じられました。杖を持ちかえたときにひらいた掌、ぞっとする冷たさでした。
たぶん、彼はいくたびとなく、理不尽に殺されたそのありさまを、再現していたにちがいありません。さればこそ、人の噂にもたち、母が盛綱を問いつめることにもなったのでしょう。
お囃子も謡も佳く、堪能いたしました。ただ、ワキと二人のワキツレの謡が、揃わないところがあって、ちょっと興をそがれましたけれど。
終ったあと、拍手がありませんでした。それだけ、みんな、ほうーとしていたのでしょう。よいものでございますね、余韻があって――。笛方が幕に入るころになって、拍手がありましたけれど。
『能の平家物語』にある盛綱観をおもったりしながら帰ってきました。
いま、ハリーポッターという、子供むけの魔法使いの本を読んで、ぼんやりしております。
* 結婚披露宴と重なってしまい、せっかく昭世師のお招きであったけれど行けなかった。それで、この人にならと思える人に代わって貰った。それもまたよかった、昭世も不足は言うまいと思っている。
2003 5・27 20
* 納涼歌舞伎、三部通しの日程が中村扇雀事務所から報されてきた。梅若万三郎の八月「三井寺」を観にこないかと招待が来ている。
2003 7・19 22
* >> 梅若万三郎の「三井寺」も観たいのですが、翌朝二十二日には木曽まで話しに行かねば成らず、前夜の能楽堂に出掛ける余裕は、たぶん、ありません。松濤の観世能 楽堂で自由席ですが、招待券が二枚ありますよ、もしどなたかとおいででしたら送ります。万三郎は能を美しく創るシテの一人と思っています。真夏のこと、そうは混む まいと思います。>>
もし、ご都合がつかず、他に手をあげる方々もいらっしゃらなければ、友人と一緒に喜んで伺わせていただきます。とても上等の鑑賞者とは言えませんが、よいものを観たいと思っています。
夫は幸い緑内障ではありませんでしたが、先生と同じで視野検査を嫌がっています。時間がかかる上に何だかそのときの体調に左右されるおおざっぱな検査に感じられるそうです。検査技師の方はコンピューターでちゃんと正確なものを出せると力説したようですが、理系人間の夫でも、ほんまかいな、というところらしいです。
先日友人が急に眼が見えなくなる瞬間があると、青くなって病院にいきましたところ、老視ですと診断されてがっくりしていました。若くても老化は着実に始まっていることを実感しつつ、私も毎日パソコンの前で何時間も過ごして乱視がすすんだような気がしています。先生もどうかお眼ばかり酷使なさいませんように。 品川
* 佳いものや佳い人に出逢えないのはくやしいものだが、かわりに機会を生かしてくださる人があると、ほっと安堵する。
* 万三郎は 月例の招待券です、少しも気にせず、空いていたらどこへでも厚かましく腰掛けて、すこしでも気持ちよく御覧になってきて下さい。
券は、郵送しますが、費用など全く無用で、心遣い決してしないでください。
三井寺では、つい泣いてしまいます。かわりに泣いてきてとは言いませんが、もし月明が舞台に感じられたら悦んで下さい。万三郎があなたがたのために好演してくれるのを祈ります。
あすは糖尿のために定期診察を受けに行きます。病院よりも、そのあとのことばかり楽しもうとしていていけない患者です。
お大事に。きれいに梅雨が明けるといいのですが。 賢治が、寒い夏はおろおろ歩きと書きそうです。
2003 7・24 22
* 事多かった一週間をなんとか無事に乗り切った。金曜の糖尿診察まで、ともあれ休める。出るにも、好きに出られる。そして土曜は、万作・萬斎らの「靫猿」に招待されている。前の名人万蔵と、万作と、あれは今の萬斎が小猿で「靫猿」を演じたのも、昔に、観た。別の組み合わせの「靫猿」も一度ならず観ている。わたしは獣の出る藝は狂言でもサーカスでも猿牽の藝でもあまり好きになれない、「靫猿」ほどの重い大作も例外ではないが、ま、能でいえば「道成寺」なみの大事の藝。やはり、心して楽しみたい。
2003 9・21 24
* 国立能楽堂で、祖父野村万作が大名、大叔父万之介が太郎冠者、父萬斎が猿牽、萬斎の息子が小猿初舞台の、狂言「靫猿」を観てきた。この舞台は、脇柱から橋がかりの目付柱へ、舞台を斜め三角に二分した、前半分の三角地帯で大方の演技がなされる。それも斜線上へ、大名、太郎冠者、猿牽が直線に演技し、紐で牽かれた小猿だけが、前方へ出て可憐に働く。舞台前半分の三角形斜辺がとても大事に構成されており、ま、狂言ではそういう構成が多いといえば多い。その斜辺に当たる線のまっすぐ見通せる席は、だから、それなりにいと面白い。わたしの今日の招待席が、ちょうどそれに当たっていて、とても見やすくまた面白かった。楽しめた。
靫猿は、無体に、大名が生きた子猿の生皮を靫の用にと強要する。観ようではいやな舞台なのだ、が、猿牽と猿の愁嘆に心ひかれて存外あっさり大名は要求を引っ込める。喜んだ猿牽が小猿を舞わせて祝言し、大名は無邪気に小猿の舞いをめでて自ら猿まねし、ものなど沢山かずけ与えて、めでたく終える。今日の舞台は、万作の柄であろう、嫌みがうすく無邪気な大名がむしろ強調されて、たいへん気分のいい「靫猿」になっていた。
小猿がたいした身動きで、声こそまだ出ないが舞は猿らしく上手で、父親ゆずり、先が楽しみ。
* 安福健雄、大倉源次郎らの「安宅」素囃子が、気力満ちた演奏で、しんから楽しんだ。大鼓、小鼓、笛。それだけの合奏が寸分狂いなく「音楽」として完成している。気持ちよく嬉しかった。囃子終えるとそのまますぐ「餅や」が舞台に登場して、珍しい狂言「業平」を萬斎、万作らが面白く演じてくれた。意地汚くて色好みの業平を、さすがに萬斎はめずらかに見せ、万作がここちよげに付き合っていた。
野村万作家三代の狂言デーであり、能楽堂には竹下景子、壇ふみ、関根恵子などの顔もあり、ドナルド・キーン氏や小山弘志氏、堀上謙氏、松田存氏ら見知った顔が多かった。はんなりと佳い狂言会であった。
* どこへ寄る気もなく池袋に戻り、「さくらや」で昨日と同じ光学マウスをもう一つ買って帰った。
2003 9・27 24
* 明日は電子文藝館の委員会。そのあと卒業生二人と会う。あさっても卒業生二人と会う。
来週は月曜から木曜まで街へ出ている。三越名人会で久しぶりに荻江節「細雪 松の段」の舞を観る。浜畑賢吉が火付盗賊改・長谷川平蔵を演じる舞台「光る島」もある。テネシー・ウィリアムズの芝居もある。招待が続いている。その間に、ロサンゼルスからの旧友夫妻を迎える。前の機会にはわたしがひどい風邪で逢えなかった。
それら全部に先立って糖尿の診察がある。先でよかった、アトでは気が縮む。
月が替わるとすぐ、人気も実力も今抜群の友枝昭世が、能「野宮」に招んでくれている。名曲である。月半ばには観世栄夫の能「清経」にも招かれている。名曲の中の名曲。能は佳い能だけを、狂言も佳い狂言だけを観れば十分。昭世の会では名人萬の「富士松」が、栄夫の会では気鋭萬齋の「清水」が出る。珍しい。
さらには俳優座が、稽古場での「三人姉妹」に、本公演の「冬物語」と「マクベス」とに、相次いで招待してくれる。その中間で歌舞伎座の「近江源氏先陣館」や「河庄」などがある。豪華に藝能堪能の秋。悠々楽しみたい。
* いつか、出たくてもからだがもたなくなるだろう、それがいつのことか、なるべく二人揃ってゆっくりでありたいと願っている。用心もしている。機会の「数」をへらしても、より佳い機会を楽しみたい。そのために、久しく地道な蟻になって懸命に働いてきたのだ、力をあわせて。いい苦労をしておいたと感謝している。
2003 10・23 25
十一月は、早々に友枝昭世の「野宮」という美しいかぎりの大曲がある。観世栄夫の「清経」もある。歌舞伎顔見世は豪華版の夜の部を予約してあり、さらに俳優座招待の力こぶの入った名作三舞台も月末に続く。嬉しいこと。十一月には「ペンの日」もある。
2003 10・31 25
* 昨日今日と溜まっていた作業を幾つも前へ運んだ。家にいると、それが出来る。家にいると、だが、からだを動かさないから運動不足になる。
あすは二時間の大曲、昭世の能「野宮」を観てくる。もう何年前になるだろう、一時期「湖の本」の読者で、コンタクトレンズの優秀な技師であった人に、ぜひ一度「野宮」の能を観たいと頼まれたことがあった。感想は聴くおりもなかったが、今は新潟県の深い山奥の実家へ帰っているかとも、かすかな風のたよりに聞いた。
明日の友枝会が済むと、しばらくの間、十一日の委員会あたりまで、外出を強いられている用事はない。
2003 11・1 26
* いいお天気
太陽はもっと高くなって
昨日の寒さはどこにいったのでしょう、
ストーブを抱えた日の次は
半袖になり、窓越しの満ちた光を受けています。
まっすぐな心のように。愛のように。 千葉
* こういう日記で朝を迎えている人もいる。ありがたい、そういう陽気の一日でありたいもの。
光はわがおもひと謡う平安の美女の舞を、能舞台に、さ、観に行こう。どんどことやり合っている国会討論会もだいじだが、よく聴いていると、あれは鳴らない太鼓を虚しいと自覚しつつ打っているようなもので、愚かにしらけるばかり。
嵯峨野宮の竹林のさやぎが、耳の底からわたしを誘う。もう蚊柱立つ季節ではない、静かにたたずんで、我とわが心のうちなる、鬼か、仏か、空っ風かを感じて来よう。
* 友枝昭世の「野宮」は、ほぼ完璧の仕上がりで、美しく美しく、感動した。念のため、観世流の父が遺愛の謡本を懐中して行き、演能の前に二度通読しておいた。それほど、わたしは気を入れて能楽堂へ出向いた。
詞が頭に入っており、源氏物語はそらんじており、嵯峨野宮あたりの風光も眼裏にありありと在る。その上にわたしには小説「慈子」があるのだ。
泉涌寺来迎院の慈子に初めて逢い、慈子の父上朱雀先生に逢い、学校の帰りにまたお寄りと言われた嬉しさに、高校の放課後に来迎院のお庭先へとんでいったとき、先生は静かに「野宮」を謡っておられた。季節はずれですのにと生意気を口にして、おまえは謡曲がわかるのかとおどろかれた。あの、原題を「齋王譜」といった小説世界の深い根の一つは「野宮」であった。そして小説に幾重もの底を成していた徒然草世界も兼好の思いも愛もまた「野宮」と齋王とにあった。
わたしは、今日、昭世の能を観ていたのではない、シテの御息所だけをじいっと観つめて、眼を離さなかった。優れて位貴(たか)く、知性と哀情に富んで美しい御息所の幽霊に出逢っていたのだ。手にした双眼鏡でわたしはひたすらにシテの姿に魅入られた。どんな謡の詞にも、どんなシテの舞にも起居にも、わたしはその美しさと寂しさと悲しさを彫り込まれるように感じ続けた。
わたしは、もともと、源氏物語の御息所に対しては、親愛も共感もはもってはこなかった、これなかった。生霊となり葵上をとり殺し、夕顔をとり殺した人だ。死霊となって紫上をなやませ、女三宮を出家に追い込んだ人だ。
だが、その根底に哀しみの極限があったのを、わたしは心から識っている、そうなんだと、何度も何度も書いている。「光はわがおもひ」御息所を鬼にしたのは、光君その人の男心であった。親しみはしないが、深い同情をわたしは御息所にもってきたので、鬼と化して狂い、哀しく調伏されてしまうような能「葵上」の御息所よりも、美しい極みの「野宮」の御息所に惹きこまれるのである。今日の御息所は、それはそれは深々と静かに美しい女人のまま、ついには救済され、解脱を得て行った。嬉しかった。女人の美しくも美しいことが、こんなに嬉しい能はなくて、妙なことをいうようであるが、わたしは不思議に遠く遙かな「青春」をすら呼び戻すのである。慈子がわたしの心に住んでいた青春を。観念の青春を。幻想の青春を。もう喪ったのかもしれない青春の絵空事を。
* このようにわたしは、ヘンな男なのである、正気とは思われない。
* ともあれ友枝昭世の今日の好演、いや名演にわたしは感謝する。どこからどこまでも御息所が舞い続けていた。あれは昭世ではなかったのである。香川靖嗣、粟谷菊生らの地謡もじつに良かった、ワキの宝生閑もすっかりの閑流で空気を満たしたし、粟谷辰三の後見も適切で行儀が良かった。囃子は尋常で過不足無かった。
* 昭世さんの配慮であろう、わたしの隣に堀上謙氏が、その向こうに小林保治氏が並んだ。本当は、昭世の能と続く野村萬の狂言「富士松」を観たら失礼する気で居たが、席の左右を塞がれていて出られなかった。
萬の狂言はたいへんけっこうであった。「野宮」の間狂言を巧みにしっかり勤めていた野村与十郎が、上手に萬の狂言顔に付き合って、連歌の狂言をおもしろく盛り上げた。萬という名人は、わたしが初めて出逢った頃は生真面目な顔立ちで、弟万作よりも損をしていた。わたしは狂言師が狂言顔を創れないのでは落第だと何度も書いていたが、そして佳い狂言顔の例に京都の今の茂山千作を推していたが、今では萬の顔こそが絶品の狂言顔である。この顔になってきて俄然萬は先代の名人万蔵に迫ってきた。
* しかたなくもう一番の能「小鍛治」に付き合ったが、わたしにすれば、不用であった。これでは折角の興が冷めてしまうとおそれ、遠慮無く眠ることにした。この舞台ではわたしが大の贔屓、あの勘九郎若い日の颯爽とした美青年を彷彿させる、大鼓亀井広忠の出演だけがご馳走であったし、大鼓は眼をつむって夢の中にいても小気味よく響いたのである。この能の若いシテは、謡からして稽古を積みに積んだ方がいい。
* で、小林氏らに誘われて、帰り、代々木で食事をした。あと、堀上さんと二人で大江戸線練馬を経て保谷に帰った。八時過ぎであった。
2003 11・2 26
* 福原百之助と徹彦の笛「嵯峨野秋霖」を聴いている。昨日の「野宮」の余韻が身内にある。
2003 11・3 26
* 八列目中央、左通路わきという絶好の席を戴いて、観世栄夫の能「清経」と野村萬齋の狂言「清水」を観てきた。国立能楽堂。
* 狂言は、萬齋に叔父万之介がつきあっていたが、萬齋の狂言は、能楽堂の狂言でなく歌舞伎座の狂言。まったく考え違いをしている。
あれなら勘九郎や三津五郎の狂言ものを演じている方が、百倍も面白い。能舞台で歌舞伎を演じられては、半端でやりきれない。大名と太郎冠者の受け渡しも正確でなくて間抜けがし、これはもう一にかかって萬齋のいわば増上慢というに近い。黒澤映画や新作の舞台ではめざましい才能をみせるけれど、能舞台での狂言でしんから感心させられたことは、ウソでなく一度も覚えがない。これではまずかろう。昭世の会の、伯父野村萬はすばらしかった。今夜の甥萬齋は、出来損ねでしかなかった。
* 観世栄夫の「清経」には、最後で、どっと涙を吹きこぼした。修羅能とはいえ、むしろこれは、死なれた妻と死んだ夫の幽霊との、愛と恨みの対話劇であり、正確な組立ての傑作能で、小書(こがき=特別の演出)が「恋の音取」となると、寸分の弛みもゆるされない。清経は清盛孫の一人で、左中将。都に最愛の妻を残して一門ととともに西国に都落ちしているが、前途をはかなみ、ひとり柳が浦に舟を出し、横笛音取(おうじょう・ねと)り朗詠し、一念、御仏の名を呼んで入水死を遂げてしまう。その遺髪を家来のワキ淡津三郎がたずさえもち、都の妻の元に届ける。このワキを演じた宝生閑は立派で、深く眼を眼鏡で覗き込んでも、凛として微動もなく、しかも情け深く演じていた。この人の粘った謡には賛成でないのだが、当代のワキでは他を圧している。おもえば、もう三十数年閑のワキを観てきている。父の弥一もすばらしいワキであったが、迫ってきている。
ところがワキの三郎から清経遺髪をうけとり嘆きに沈む妻のツレの能が、いけない。謡が出来ていない。姿などはよろしく、面も美しく用いていたが、栄夫の清経のすごいほどの力量と表現の前では、ハナシにならない。それが残念無念で、せいぜいツレの方は観ていなかった。
シテの清経は、栄夫のすみずみまで想像力と勘定とを利かした、しかも力感と哀情とのあわや爆けそうなつよい切ない演能で、今夜は謡も粘らず魅力十分、もうツレの半端なんか問題でなく、ひたすら目が離せなかった。視力の落ちた私には眼鏡がほんとうに有効、とても舞台が美しかった。
観世銕之丞率いる地謡が舞台の邪魔をせず、しっとりとたいへん情け深く宜しく、もともと詞章も曲もことにみごとな謡曲であるから、優れた波に乗るように、見所は夢幻能へ運ばれて行く。カッパと入水の前あたりから清経の面は、面とは見えない生彩を放ってあまりに哀しい夫であり武将であり公達の顔をしていた。すくと舞台にまた身を起こして激情をともないつつ奈落にふたたび消えて行く余情の深刻さ、まさにドラマであった。
それもこれも、一噌仙幸の笛一管にのり、妻の夢枕へ万感湛えてしずしずとあの世から近づいてくる清寂幽玄の緊迫が、まず有ってのこと。このシテ登場の「音取」は、一度味わうともうクセになり、だれもが惹き込まれてしまう。
* 歯が痛くて何も食べられず、能が済むと、玄関でお礼を述べてから、まっすぐ帰宅。混んだ電車で立ちながら、いよいよ「日本の歴史」は、第十三巻「江戸開府」を読み始めた。家康秀忠家光三代の幕府政治。この巻が全巻の真ん中にあたる。この先が現代に至るまで、じつに長い。
2003 11・12 26
* 或る気がかりにしている好きな能役者の年賀状をもらった。ホームページがあるので覗いてみたら、ご子息(か)がサイトを運営しているらしく、質問などを受け容れるとあったので、能とはどういう「藝」ですかと尋ねた。東工大で学生に突きつけていたより、ご当人が能役者であればなおさら是は大きすぎる難問である。
やがて丁寧な返信があった。とても嬉しかった。返答じたいには満足ではないが、応えて貰って嬉しかった。急いで答えてくれなくてもいい、舞台の藝で答えて下さいと感謝した。一つ楽しみが、さきざきに出来た。
2004 1・3 28
* 一度ぐっすり寝ておきたい。建日子の芝居がはじまる。初日と五日目とを観てくれと云われている。梅若万三郎の「翁」にも行く。俳優座劇場の芝居にも招かれている。京都行きがあるので、今月前半はとくに外出をおさえているが、それでも気の抜けないスケジュールになっている。歯の治療も聖路加診察も委員会もある。
2004 1・4 28
* 午まえから渋谷へ向かう。松濤の観世能楽堂で、梅若の研能会発会、万三郎が「翁」を。新年ではあり、「翁」はご祝儀として、やはり魅力。
万三郎の付けていた白式の尉面は素晴らしい表現力を発揮して、目出度かった。
だがそれだけ、で、どうも今日の演能はちぐはぐ、面箱を持ち出した役者が舞台に面箱をおいたまま、なんと、にじり口から運び出されてしまうのもおよそだし、千歳の梅若紀長も、三番叟の野村与十郎も、なんとなくお粗末なのに、ガッカリした。気合いの乗りが淡く、がさつ。いちばん困るのが、鈴になってからの鈴を振る高さ。まるで畑の野菜に虫除けの駆除液でも撒くみたいに、腰をかがめてチッチッチッと鈴を振る。下品なことこの上ない。「眼より下にて鈴振れば 神腹立ちたまふ」という今様の句もあるではないか。丈高く凛々と振らねば天下招福擾災の祈念にならないし、いかに農事にかかわるしぐさとはいえ、根本は祝言藝ではないか。高らかに品良く大らかな藝で祝って貰いたい。ここ三年ほどの梅若の三番叟が、だいたいみなハズレなのは残念無念。
羽衣と恋重荷とが予定されていたが、失礼して渋谷の街に出た。
* 渋谷という街が手に負えないと感じてからは、ここで落ち着ける店を探す気にもならなかったが、たまたま通りがかったビルの八階に、ワイン・レストランがあった。料理は世辞にも旨いとはいえなかったが、値段の内で、食前のシャンパン、そしてかなり吟味した赤と白とのワインを各二種、飲ませてくれた。つごうグラスで赤白を五杯は、堪能できる。そんな店があった。あれで料理がいいと、かなりなものだが。
食べて飲みながら、自分の作品にアカを入れて、ゆっくりできた。どこへ回るにも時間ははやく、山手線を池袋まで寝て帰り、西武線も保谷まで寝て帰り、家までタクシーに乗った。
そうそう池袋の駅構内に出ていた文庫本の古本屋で、ひっさしぶりに分厚いミステリーを二冊買った。京都へ持って、行き帰りの列車で読みふけろうかなと。講演、はやく終わらせてしまいたい。
2004 1・12 28
* 松濤の能楽堂では、めずらしく、誰とも知った顔と出逢わなかった。二番目の「羽衣」は観たいものの一つだったが、シテが物足りなく見捨ててきた。松濤の招待券は指定席以外の自由席だから、そんな時は一番右の奧手すり寄りの席へつく。視野がいい。どうせ眼鏡をつかわなければ今はどこにいても霞んでしまうのだから、明いてさえいればウシロの右奧へ入ることにしている。昨日は、なんだか人恋しくて、だれか来てないかなあと眼で探したりしていた。誰とも逢わなかったので「シノワ」へあがる気になった。
2004 1・13 28
* 喜多流で当代、友枝昭世さんとならぶ名手塩津哲生さんの、式能への嬉しい招待が来た。正面の好席。
「お寒い日々でございます。実先生お好きでいらした鶴 お出まし叶ひましたら無上の喜びに存じます」と。
式能。ユネスコ第一回世界無形遺産認定「能楽」として、二部に分けて、各流儀の俊英が出揃う。塩津哲生は二部の一番目「鶴」だ、亡き家元喜多実畢生の舞台を弟子が引き継ぐ。ツレは、狩野了一。囃子も佳い顔ぶれだ。
続く狂言「佐渡狐」は、三宅右近。さて。
休憩後は観世流の「通小町」が、小書雨夜之伝。これは悩ましい。そして名手大蔵流山本東次郎の狂言「呼声」は面白い。最後に、私には珍しい金春流から大曲「融」の笏ノ舞。
さ、能三番、狂言二番、観るにはかなり地力がいる。が、二月十五日の国立午後三時。嬉しい。一部は朝九時半始まりで、これは間に合うのが正直シンドイ。 うれしく参上、楽しませて貰おう。感謝。
2004 2・9 29
* あすは都が主催の式能。塩津哲生さんの喜多流秘蔵の能「鶴」などを観てくる。能三番、狂言二番。見所で気力・体力がもつかどうか、楽しみだ。春一番に元気をもらわなくては。
2004 2・14 29
* 都の主催の式能第二部のはじめが、お誘いをいただいた喜多流、塩津哲生師所演の、いわゆる新作能「鶴」であった。土岐善麿作、亡くなった家元喜多実演出の喜多の当流もの。鶴の舞には「乱」の味わいがとりいれられて、笛の一噌流藤田大五郎作曲。シテの出の謡にちょっと洋楽っぽいフーガふう技巧がこめてあると聞いた。
赤人の「和歌浦に潮みちくれば潟をなみ芦辺をさして田鶴なきわたる」に取材して、鶴の精による和歌徳説話になっているが、つくりは、鶴の精の舞い=鶴翔の美しさが魅力。物着でいわば前シテの女が後シテの鶴に変じ、大きな袖をかろらかにひろやかに羽ばたいて舞いに舞う。幻想的な美しさに神秘のめでたさの添う、どことなく祝言能の味わいは忘れがたい。前シテの出は、やや女装束が両肩をかために張っていて、背丈を必要以上に殺していたのが惜しまれるが、後シテから鶴の舞はかすかにエキゾチックなバレー風も感じられておもしろかった。あんなところではなかろうか。
この能は狂言方のワキを出さず、シテ方のツレが浦見の都人を演じる。これを狩野了一がやり、少年の頃以来久々に素顔(ひた面)でみたが、むかし大いに期待したほどは能にオーラが立っていなかった。同じ頃から大鼓の亀井少年に心惹かれていたが、こっちの方はもう立派な青年、少壮。舞台を観るたびに力演に煽られている。
* 例によって狂言は、ひどい。三宅右近を芯にした「佐渡狐」だが、もともとさほど面白くもない狂言の所作を、三人が三人ともすみずみ、かどかどのところで自堕落な動作にしてしまっている。彼等、「所作」と「動作」との作意の差も心得ていないのか。いうなれば、四角いところをマルク掃いて済ましている。いつもの能会の観客とは客層がちがう、それはずいぶんちがう、のは確かであるが、だからナメテかかるのなら藝人の風上に置けない。
すっかりこの狂言にシラケた。お天気にのびやかに落ち着いていた心嬉しい気分をフイにしたくなく、適当なところで能楽堂は失礼して、往きにみておいた中華レストランで、瓶出しの紹興酒をちんまりした湯呑みに二杯のみながら、気分よく原稿に読みふけって、さあっと一散に帰宅した。夕焼け空に風が出始めていた。
2004 2・15 29
* しばらく三人で近くの店で休息し、わたし一人が抜けて、表参道の銕仙会館へ。観世栄夫さんの「実盛」への招待。ここは椅子席でなく靴を脱いで上がる階段席。ワキ座前のとても佳い席を占め得て、シテの時空に手で触れるほどの近さ、そして最良の「実盛」を堪能した。なにしろ俳優として一流の人、その人が実盛という平家方の老武者を毅然と演じ尽くして、つよく、あわれに、またところどころの型の美しいことにも嘆賞の思い禁じがたいものがあった。もう立ち居にも若い人とは同じに行かない演者が、錦衣をまとい鬢髪も髯も黒く染めて討死にを覚悟の戦の場に臨む。
その凛々、その壮烈。舞台を踏みしめる脚の確かさつよさ。美しさ。わたしは舌を巻いて感嘆し驚喜し満足した。ああよかつた、新宿からひとりこちらへも脚をはこんで本当にいいことをしたと、心も体も熱いほど満たされた。栄夫さんに感謝しなければならない。恵美子夫人(谷崎先生夫妻のお嬢さん)にはお目に掛かれなくて残念だったが、受付ではいつもの係の人から丁重な挨拶を受けた。恐縮した。小山弘志さんも見えていた。
2004 3・14 30
* 明日は歌舞伎座の「昼の部」を観る。はねたあと、息子たちも合流して夕食をともにする。自動車で保谷まで送ってくれるという。明後日は、夕過ぎた刻限から国立能楽堂で友枝昭世の、大曲「伯母捨」二時間半、に招かれている。濃密な時空間にはまりこんで二時間半、シテもたいへんだが見所(けんしょ)もよほどの気力を要する。
2004 4・4 31
* 昨夜は電気を消したのが、四時前。寝入りばなにいちど眠りを中断され、そして八時半には起床、少し眠い。これでは、晩の、長い能の「伯母捨」で、捨てられた爺のように眠ってしまいそう。
2004 4・6 31
* 古典文学全集の「姨捨」を読んでおいた。だが、からだはたぶん持つまい。
2004 4・6 31
* 昨日の歌舞伎劇が、束になってかかっても、今日の友枝昭世の能「伯母捨」に遠く及ばない、それほど今日の演能は絶妙で、二時間四十五分をわたしは、シテの迫力・魅力に酔い、寝なかった。東京を新幹線で出て京都へ着くまでの時間を、シテの幽霊は、精緻に美しく、微妙に深々と、時空間を織りなして山巓の月光に夜遊、捨てられた伯母の悲しみをまさに「死に顔」のママに表現し尽くした。
出掛ける前に、謡曲「姨捨」を丁寧に読んでいった。それが効いた。微かな面の照り曇りをとらえるために、今夜はことにオペラグラスの威力を利用したのも効いた。シテと視線も顔も長時間くり返し真向かう絶好席をもらっていたので、シテの感情と「死せる生命感」がひしひしとよく伝わって来た。嬉しかった。二時間四十五分を、今夜ばかりは長いとすら感じなかった。
香川靖嗣・粟谷菊生らの地謡がとても美しく、際だってよかった。ワキの宝生閑に気が入っていた。亀井忠雄の大鼓、北村治の小鼓、金春惣右衛門の太鼓、一噌仙幸の笛、今夜はひときわよく響いて過不足なく。こういう出揃いの佳いときは、シテが引っ張って居るともシテが助けられて居るともわからないほど、渾然とする。
能はふつうシテが先に幕に消えて終えるものだが、「伯母捨」のシテは山巓に捨て去られた伯母の幽霊である。旅人との月明に輝いた清寂の夜遊も、しらしらあけの朝間となれば、旅人が山頂を去り、やはり女は捨て置かれて孤絶の境。そのしみ入る寂しさ悲しさを、頽れ、膝を折ったまま、シテがながくながく動かない、あのときの昭世の表現は永遠の美を示して感動させた。泣いた。そして、囃子もうちどまり、静かに起ったシテは、長い長い時間を掛けて橋がかりを幕の彼方へ消えて行く。その間、超満員の能楽堂はせきとして微かな音一つたてない「感動の無音」を保ち切った。すばらしかった。
* 先日の観世栄夫の「実盛」もすばらしかった。その栄夫さんと、廊下で出逢い、少し立ち話しした。見所では隣から武蔵野大学の羽田昶教授に挨拶された。初対面。少し離れて堀上謙氏からも声がかかった。塩津哲生が後見に出ていて、しっかり顔を覚えた。香川靖嗣とときどき間違えてきた。ふたりとも友枝昭世とならぶ名手で、喜多琉はいま佳い盛りである。
* 六時半始まりだった。落ち着いた。帰りは少し冷えた。よれよれの鞄にチョッキを入れて行ったのが役立った。風邪を引いてはつまらない。
あまり元気ではなかったが、友枝昭世に優れた藝術の恩恵をうけ、元気に帰ってきた。ビタミン愛か。
* 「ペン電子文藝館」の作業はだが溜まってしまっている。
2004 4・6 31
* 梅若万三郎から橘香会の「天鼓」を観て欲しいと招待状。この能は前シテが父、後シテが少年の複式能で、鼓を芯に幻想的な音楽の秘蹟と父子の愛とがあらわされる。少年は罪を得て湖底に沈められている。鳴らぬ鼓が、父が打てば玲瓏と鳴って湖底にとどくのである。
この六月五日は建日子作の「5」という芝居(演出は他の人がする)が下北沢の小劇場であり、妻達と見に行く予定であったが、わたしは「天鼓」に乗り換えさせて貰う。
もう一つ予定と重なってしまったのが、芸術至上主義文藝学会総会が六月六日。これは早くに予約しいい座席券も手に入れてある、成駒屋の「鳴神」の日で。学会で発表するわけでも聴きたい何かがあるわけでもないが、今年から「参与」という名義で加わるように依頼を受けている。ちょっと具合悪いが、勘弁して貰う。
2004 5・11 32
* 月がかわると、はやい内に京都で、京都美術文化賞の授賞式、財団理事会、「美術京都」巻頭対談がある。大急ぎでトンボ返しに帰ると、電子メディア、電子文藝館の委員会がつづき、万三郎の「天鼓」があり、橋之助と扇雀の「鳴神」があり、ペンの理事会があり、桜桃忌が来る。そして、新海老蔵の襲名六月興行は昼夜通しの好席がとれている。嬉しくないのは、どんじりに眼科の視野検査がまたある。こういう中へ、湖の本の二冊発送という力業がねじ込んでくる。まだ何か忘れている予定がありそうだ、幾つかある、ある。六月が、活気に満ちてやってくる。慈雨の季であって欲しい。
2004 5・30 32
* 今日は国立能楽堂での梅若「橘香会」に招かれていた。最初に万三郎の「天鼓」があり、これだけで十分、息子の舞台は断念してもこれだけは観たかった。「弄鼓之舞」という小書(=こがき。特別の演出)ツキで、これがすばらしい。中国が舞台。天から降った鼓を皇帝に差し出さなかったために水に沈められた少年、天鼓。地上に留められた天の鼓は誰が打っても鳴らなかったが、天鼓の父王伯が召されて打つと、妙なる音色で鳴り渡る。勅使が少年天鼓の霊を丁重に弔うと、あらわれた天鼓の亡霊は、玲瓏と鼓を打ち囃して舞い遊び、いつかまた姿を幻とかき消すのである。
万三郎が演じようが誰が演じようが、前シテの王伯は極めて動きの少ない能であり、鼓を打ち出すまではほぼ寝ていても差し支えない。能鑑賞の先生である隣席の堀上謙さんも寝てられた。わたしは、寝はしなかったがほとんど眼を閉じて謡と囃子とを聴き入りつつ、時折グラスで舞台を眺めていた。
地謡は必ずしも上等ではなかった、少し謡がガラス質に硬く浮いていた。それに殿田健吉のワキ勅使は、お素人なみの単調さでとしまりがない。だが、それを数層倍して、さすが此の曲に出て来た囃子方は、おみごとであった。ことに笛方の若い松田弘之の吹奏は、鼓膜をじかに心地よく響かせて、ただならぬ力演。ああいう耳の奧の生理的な共鳴体験はめったにない。恍惚とし、昂奮もした。幸清次郎の小鼓、安福建雄の大鼓、そして金春惣右衛門の太鼓。これ以上は望めない気品と音量と間の確かな美しさ、「天鼓」の鳴りのめでたさを現前させて、ほぼ完璧。
舞台と音楽とに感情移入し、嬉しく、愛でたく、そして悲しい寂しい後シテ少年天鼓の亡霊ぶりであった。万三郎の後シテは、いつになく鋭く角度のきいた演技で、此の水底に沈透(しず)いた異能の少年の悲しみとよろこびとを、きびきびと美しく表現し、この演者の美質を遺憾なく発揮した。身を乗り出すようにし、行儀も構わず堪能した。耽溺もした。そして十分だった、すぐ能楽堂を出た。
能の果てるときに、心なく観客が拍手を繰り返すのが残念だった。能楽堂でだけは拍手をやめてもらいたい。シーンと水をうったまま深い清寂を味わいたい。友枝昭世の舞台では、感動の余り手など誰も打たないが、ひとつにはそれとなくその様に観客におしえてもいるのであろう。
* どこへも寄らず一散に帰ったと云いたいが。千駄ヶ谷で総武線にのり、新宿で降りて池袋行きに乗り換えた。そのつもりなのに、ふと気が付くと新中野駅。慌ててまた新宿に戻った。降りて、また別口から同じ電車に乗り込んだのであるらしい。どうやら、わたしもそろそろ危ない。
家に帰ってもまだ妻は下北澤から帰っていなかった。なんとなく、そのあと、ぼうとして過ごしてしまった。しょうがない、成り行きだ。明日は一日芝居芝居で明け暮れる。「父さん観てくれよ」とわざわざ云ってくる建日子の自信作なら、やはり観てやりたい。
なんでも今日の午公演には、猪瀬事務所の二人が見に来て呉れるらしいとも、建日子は電話で話していた。感謝。
2004 6・5 33
* 野村万之丞がわずか四十四歳で亡くなった。茫然としている。当節、最も意欲的で力も添うていた狂言師であった。ひそかに強く嘱望し声援していた。従兄弟の萬齋にいい意味で対抗し、実のある研鑽と探訪と創作を重ねていた。まだすることに荒削りな勢いがあり、これから真に成熟し大きく深まって行ける才能であったのに。なんたることか。
2004 6・11 33
* 池田良則氏が、後援している金剛宗家永謹の東京能の入場券を送ってきてくれた。珍しい能である。「RIMPA展」も始まる。
2004 8・30 35
* 田中美知太郎先生のエッセイを読んでいる内、寝た方がイイと思った。昼過ぎて二時ごろだったか。
そのまま朝青龍と黒海の結びの仕切がもう時間という時まで寝ていた。相撲はやはり横綱が勝った。
夢をいろいろ見ていた中で、しつこく「あらゆる水音の音符表現とその理論」という課題を背負っていた。
またどこか部屋の中で立ったまま、娘の朝日子に、「後藤得三の孫」のことを知らないかと尋ねられ返辞できなかった。後藤さんは宗家喜多実の兄であった能の名手で、同じ下保谷に住まわれていた。とうに亡くなられている。気散じな聡明な奥さんがとてもよくお世話されていたが、たしかその元気な奥さんが先に逝ってしまわれたのではなかったか。得三には子がなかったのだから、孫もいないはず。あるとすれば、一時期藝養子のように後藤の人になっていた観世栄夫さんの子がそうとも謂えるが、栄夫さんには谷崎松子夫人の娘恵美子さんとのなかに二人か三人の子がある。そこまで繋ぐと、かろうじて夢で朝日子がそんなことを謂う筋がついてくる。朝日子は松子夫人に可愛がられ、結婚式には主賓としてお招きした。亡くなったときはわたしといっしょに馳せ付け最期のお別れをした。
喜多実も亡く、その次男でわたしも親しくさせて貰った喜多節世も亡く、現家元、節世兄の六平太は、一門とのイザコザで長く、あまりに長く、逼塞している。あんな状態がいいとは思われないのだが。
2004 9・13 36
* 人が一本の中空の竹となったとき、天籟がそれを鳴らす、と。響かせる、と。このバグワンのイメージ、すばらしい。かぐやひめが竹にひそんでいたように、竹誕生の伝説は、南海諸島にことに豊富で、やはり、中空の竹に対する憧れが多く語られている。
今にも自身が中空の竹であり得たらと、その実感を求めて、とても強く憧れる。なにかがその竹の空洞を鳴らすように近づいてくる。闇を懐かしむのと似た感覚。エゴという余分な混雑物=フシが竹の筒からすっきり抜けきり、そうそうと風か吹き抜けて行くような、一本の中空の竹。
眼を閉じていて、いましも、しばらく眠っていた。とろとろと。いつとき、からっぽになっていた。ここちよかった。
あす、万三郎の能だったと忘れてしまっていた。行くかも、行かないかもしれない。
2004 10・1 37
* 万三郎の「采女」を不参失礼した。晩、テレビで土浦の花火コンテストを見た。秋の夜空をこがす花火の無心な華麗としみいる寂寥感。闇はほんとうに魅力満点の光の画面だ。
2004 10・2 37
* 明日は散髪し、明後日は自信のない診察を受けに行き、土曜には卒業生クンの結婚式で少し話すことになっている。日曜には友枝昭世師の能「柏崎」が楽しみ。「柏崎」という短編小説を書いて何年になるか。あの『修羅』のなかの一編、好きだった。
2004 11・3 38
* 底知れない冷たい吐きけがある。眼をとじ、闇にしずみ、忘れる。やり過ごす。
* 昼過ぎ、楽しみにしてきた友枝昭世の能「柏崎」(「柏原」とうっかり書き違えてたこともありそうな。こういうこと、この頃増えている。)を観に行く。一時間半の、稀に見る宗教観の溢れる能。母と子の「再会」能である。そういう能には名曲が多い。「三井寺」「櫻川」など。「隅田川」のような悲しい死別もあるが。
今日は泣いてしまいそうな予感がある。
2004 11・7 38
* 昭世の「柏崎」は可も不可もなく、どちらかというと、理でせまる東京女ふうであった。頼む主人に遠地で死なれ、忘れ形見の幼い花若は遁世して行方知れない。家来の小太郎ははるばる女の元へ遺品や花若の書き置きなどを届けに来、女は哀しみの余り嚇怒する。死んだ者は致し方なくも、花若がいっぺんの書き置きで遁世行方知れないとは何事か。怨めしいと。そして狂女となり各地をさまよい長野の善光寺にまできて、花若にめぐり逢うのだが、その前に、女人禁制と咎めて狂女を追い払おうする僧との間に、一種の宗論めく対決がある。女は一歩も引かない、その辺、狂う女とは言い条、また理知的に対抗する女の意地が出る。昭世はそういう女のように演じていると見えた。あわれ一方ではないのだった。
うしろに小林保治氏がいて、小山弘志さんとも堀上謙さんとも、また馬場あき子さんとも逢い、立ち話したり肩を叩いたりしたまま、能一番で失礼した。
* 萬と、急死した万蔵の弟で近く万蔵を襲名する、次男与十郎との狂言「水汲」も見てよかったのだが、根津美術館の「宋元の美」展が今日で終わるので、思い切って表参道へ移動し、地下鉄駅から歩いて、美術館へ。
2004 11・7 38
* 来る正月の早々に、加藤剛の『次郎長が行く』三越劇場の招待が来た。宮本研の旧作である。正月下旬には三百人劇場の『ゴンザーゴ殺し』を観に来るようにと。ハムレット絡みのこれは文字通りの新劇である。俳優座と劇団昴との競演は、いつしれず私の生活を彩る藝術風景になっている。ありがたい。
正月にはこれに秦建日子の小劇場上演で新作の『月の子供』が下北沢で始まる、これには初めと終わりの二回観たいと座席が頼んである。建日子は一月十二日 (水曜)午後十時から、新しい連続ドラマの開始とも聞いている。今はそういう時だ、しっかりガンガンおやり。小説も第二作が有るに違いない。第二作というのはなかなか難しいものだ、心を籠めてすてきなエンターテイメントを打ち出して欲しい。
すっかりお能から身を退いているが、誰かの森厳な「翁」に出逢いたいもの。歌舞伎は高麗屋へもご縁が繋がりそうで心強い。初代吉右衛門を中心に福助(芝翫・歌右衛門)、染五郎(幸四郎・白鸚)、もしほ(勘三郎)という南座顔見世からわたしの歌舞伎は開幕した。ことに高麗屋はその頃新門前梅本町の「岩波」を定宿にして、先代幸四郎一家は(つまり今の幸四郎・吉右衛門兄弟ら)、わたしの実家のわきの抜け路地を通って行き帰りしていたし、時には、父の店に入ってきて電池などを買っていってくれた。
そんなことがあり、ひとしお幸四郎家をずうっと贔屓にしていた。この家の枝葉は、更に、先の団十郎(長男)、先の幸四郎 (次男)、先の松緑(三男)そして女婿の現雀右衛門へと大きく拡がったから、この一家のことを知っていると、おおかた歌舞伎の世間は見通せたものだ。
その上に、わたしは当時片岡我當の長男であった秀公(現我當)と中学で同期だったし、実は彼は大学もわたしと同じ同志社に入っていた。我當の姉も上級生にいて、文化祭で「修禅寺物語」をヒロイン役で堂々演じてみせてもくれた。
肩肘はって能が一、人形が二、歌舞伎が三などといっていた高校生だったが、やはり歌舞伎の魔のような魅力は随一で、とうとう今日、歌舞伎のいわば虜囚となっている。我當君のおかげであり、さらには扇雀丈とのメールのご縁を繋いでくれた囀雀さんにも、感謝しなければならぬ。番頭さんにも重々お世話になっている。
2004 12・11 39
* 梅若万三郎の、新春十日「翁」の招待が来た。これだけは期待していた、有り難い。しかも能高砂流し八頭八段之舞が付き、翁のシテが高砂のシテをそのままつとめるのである、「高砂やこの浦船に帆を上げて」。この重ね重ねの清まはり、いといと有り難し。しかも「翁」の三番叟は野村萬齋がつとめる。今度こそはより大きく豊かに勤めて欲しいぞ、萬齋君。そしてつぎ、狂言「末広かり」とは、めでたい番組だ。能の三番目に勝修羅の「田村」まで出て、サービス満点。
2004 12・20 39
* 島田紳助というタレント(藝人)が、身から出た錆とはいえ苦境にある。好き嫌いは別にして、紳助の藝は当代抜群の一つで、存在自体にオーラが立っていた。何をやらかしたのかよく分からないが、相手方女性が彼を藝能社会から永久追放してとまでを主張するなら、それが過剰な報復でないのなら、もう対等に顔も名も出して、堂々と闘って貰いたい。
抜群の「藝」は、いわばパブリックドメイン(公共財)である。政治家の悪行は永久追放に値しても、藝人の場合は藝で償わせる道がむかしから在ったし、わたしは、微妙な藝能差別かなと思いつつも、それを否定しない。
能役者の梅若万紀夫が楽屋で人のもちものであった鬘帯を盗んだことから、あの世界できつい制裁に遭い、随分長く観世流の舞台に立てなかった。万三郎の襲名など以ての外とされ絶望かと想われていた。わたしは、それが「過当過剰の制裁」になることを憂慮し、なんどか、「藝」で償えばよいと書いている。話している。彼が逸材であり、稀に見る美しい能を創れる才能だと知っていたからだ。その藝の根を断ってしまうほどのこととは考えなかった、一瞬彼はその鬘帯の美しさに惑ったのだと想いたかった。
幸い彼は随分な期間を苦労して復帰が叶い、万三郎襲名も果たしてくれた。一人の卓越した藝人は、徹底的に葬られずに済んだ。その能は、磨きを加えている。
島田紳助が何をどのように犯したのかは知らない、が、「過剰な報復」のないことを願いたい。但し実状を知らずに言うている。考えが変わるかも知れない。
2004 12・29 39