ぜんぶ秦恒平文学の話

美術 2003年

 

* 朝の光  hatakさん
寂とした京の旅、冷え枯るる述懐に、「雪間の草」をみせばやと思います。
今朝目が覚めると、外はめずらしく快晴。居間は、東の窓から差し込む朝日に満ちていました。FMのクラシックを聴きながら朝食を摂ろうと、オーディオのある棚に目をやって、美しいものをみました。寝る前に、何気なく飾っておいた村上華岳の画集、『太子樹下禅那之図』のページ、若き釈尊が悟りを開かれ、苦行をされた森から今出てこようとしています。木々の向こう、晴れ晴れとしたお顔にまで朝日が届いて、光輝いていました。銀色にうねる木々も生き生きとした光を発し、思わず手を合わせました。
朝日と夕日、どちらが好きかと問われると、迷うことなく夕日が好きと答えます。でも今日の朝日には、光に満ち溢れる力を感じ、美しいなぁと感嘆しました。
京のお寺の梅の木も、この光を浴び、枝の節々では、もう小さな芽が分化をはじめているはずです。ただそれに気づかず通り過ぎているだけ。
華岳の絵は、仏もはんなり。冷え枯るる中にもはんなりはあるのですね。
どうか暖かくお過ごしください。 maokat

* この繪は、何必館長の梶川芳友が奮い立った、そして遂に手に入れた、この繪のために何必館を建てた、そういうドラマに裏打ちされているが、もう、こんな伝説は忘れて、やはり華岳その人の魂に沈透いて行くべきだろう。
昨日の展覧会で受賞者の岩本和夫の繪を褒めたとき、「華岳のわかる方に褒めて戴けるのが嬉しい」と頭を低くした。
華岳――。わたしは一瞬ぼうっとした。シーンとした。あの瞬間、わたしは、あとでひとりになれる場所を訪れたいと思ったのかも知れぬ。
華岳の作品で心服する作は多い。信じられないほど数多い。そういうことは、そうそう他の画家にはないことだが、国画創作協会の土田麦僊、榊原紫峰、小野竹喬、入江波光らは例外に属する。本当に、好きな作品が多い。しかしわたしの場合、やはり華岳において圧倒的に好きな繪の数が多い。
昨日、しかし、わたしを一瞬ほうっとさせた脳裏の名作は、繪専卒業制作の「二月の頃」であった。吉田山から銀閣の方をみた田園と、山。現在の風景とはまったくちがう昔の景色であり、人っこ一人の影もない。少なくも無いものとして、わたしは、其処にそよいでいる風のかすかな声を聴いていた。なんという寂しくて静かに暖かい繪であろう。もしこの景色に放つとすれば、人影でなくより若い作品の佳い大きい「牛」の繪かなあと思う。天才の若描きが懐かしかった。

* 華岳の観音図を手に入れました、ぜひ観にいらしてくださいと、誘われたことがある。旅の道をすこし転じて、見に行った。見せてもらった。昔のことだ。あの人に逢いたい。
2003 1・22 16

* 亡くなられた画家幸田侑三の未亡人から「遺言」で出来た清楚な画集を頂戴した。銀座の文春画廊での知求会の頃から繪にしたしみ、幸田さんはわたしの湖の本を愛読して下さり、今は奥さんが購読し続けて下さっている。清々しい静謐な静物の名手で、わたしは、好きだった。何点もの絵がいつも眼の底に生きている。画家とは斯くあるべしと、一切の社会的な場にはでず、佐藤多持氏らとの知求会にだけ謹格な美しい作品を毎年数点ずつ出されていた。亡き歌右衛門をさらに優しくした、みるから静かな人柄と見受けたが、繪は、それだけでない底に力が籠もっていた。だから茄子をみっつ描いただけの絵にも静かな迫力が漲った。
近いうちには回顧展も成るらしい。知求会で奥さんにも数度お目に掛かっている。一つ一つ「遺言」の果たされてゆくのを、じっと見守るばかりだが。
岐阜の吉田修三画伯、京都の麻田浩画伯、神奈川の森田曠平画伯、東京の橋本博英画伯、そしてこの幸田侑三画伯。優れた画家の友人に死なれてきたことを思う。みな、わたしの文学のこよなき理解者でもあった。

* むろん、ものを書くのに、ひるんではいけない。筆をまげてもいけない。意気を喪ってはそれよりも多くを喪うことになる。
2003 2・14 17

* 歯医者に行く妻に便乗のていで、一緒に家を出た。そうでもないと、つい昼過ぎになり、めんどくさくなって、やめてしまう。有楽町線、練馬で妻は江古田の方へのりかえ、わたしは銀座一丁目まで直通。
日本橋でおり、一思案して、先ず三越の青木敏郎展、これが目当てであった。この画家の作風に興味がある。書きかけている長い小説「寂しくても」のためにも、この画家の作品をどうかして纏めて観たいと願っていた。
百パーセント賛成というのではないが、たいへんな技術の持ち主であり、画風からしてやや画壇では孤立を強いられるかも知れない、が、根はヨーロッパの強い伝統を吸い上げよく学んで、いいかげんな余人の遠く及びがたいモノをもっている。
影というものをどう考えているかが、も一つ、分かりにくい。コントラストでモノを掴んでいるが、それは何かしら辛い苦労からの「わかりいい退避」であり、より深く、陰翳と光線との底知れぬ葛藤にもっと力強く我から巻き込まれて欲しい。二つ、今のままでは文学で云う「モチーフ」の切なさとは異なる、ただ対象物の按配の面白さを趣向して終わっている。そのためにどれも似た印象になる。ただし徹底写実・写真・写形の巧さは絶している。三つ、つまり趣向されたモチーフ(写真対象)の按配におわるため、そのいわゆるモチーフが、どの繪の場合でも、たまたま「其処に置かれている」のであり、取り替えが簡単に可能なように描かれてしまう。モノが画面に底知れず根を生やしていないと受け取れる。四つ、つまりは技術に繪が殉じている。作者の顔はみえてこない。作者の呻くハートが鼓動していない。絵画は技術であるという意味のアーティザン(職人藝)で満足し、アート(藝術の感動)を、むしろ姿勢として断念または放棄している。観てとれる眼にはそれが観てとれる。
画家と会場で、わたしとしては珍しく長時間対話し、珍しくわたしからの言葉をも率直に伝えた。青木氏は分かっているのである。そこが辛いところだ。

* 高島屋へ歩いて戻り、創画展の春季展(八階)と会員小品展(六階)を観た。これは無残なモノで、魂のふるえる繪の一点として無く、キタナイ、ヒドイ繪ばっかり。橋田二朗さんが都合で出品できていないのに、むしろホッとしたほど、会場が粗雑な印象であった。春季展の受賞作三点も意味不明というしかなく、僅かに石本正さんの裸婦と上村敦之の鳥の並んだ一面、大森運夫の繪ぐらい会釈してきた。岩本和夫もよくなかった。小島繁司もよくなかった。画家達、絵を観る客をなめているのか。

* 高島屋のわきの美国屋という古い小さい小さいビル店にあがり、鰻を食べた。白雪一本。鰻も酒も佳いのは知っている。ところが今日は二階にいた女店員が、若い方の店員を捕まえて終始店のやりかたについてのグチやタキツケに終始し、本も読めないで聞かされている始末、これには参った。なにしろ狭い店なので防ぎようがない。おまけに相席になり、大きなマスクの鼻をならしたおばあちゃんで、ガクン。
口直しもしたかったが、日和がよろしからず、雨雲に追われるようにまた銀座から有楽町線で保谷へ。その間、白雪が腹中で溶けたか、ぐっすり寝入ってしまい、あやうく保谷で乗り越すところだった。
家までの十余分、かすかに雨足に追われたが滑り込んだ。
2003 3・3 18

* 二時前に京都中信本社に入り、例年の京都美術文化賞の選考会。洋画ではわたしの推薦者に授賞ときまり、彫刻と染織からも一人ずつ。日本画はやや今年は希薄な感じがした。そこが面白いと言えるが、京都であるから「伝統」本位というわけでなく、かなり選考は「前衛」的に行く。彫刻という分野の名前ではあるが、一般市民の感覚や常識からすると、これが彫刻なのというほど「抽象的な造形」がだいたい選ばれる。陶芸でも染織でも、前へぐっと踏み出していないとあまり問題にされないのは、わたしは良いことだと思っている。中村宗哲のように、さながら京都の伝統のスポークスマンふうに活躍している人でも、それはそれ、それだけではねと落ち着く。
今年の彫刻は、メビウスの帯をさまざまに作り続けてきた人だと九兵衛さんの推薦。さ、それが、ただのヴァラエテイであるか一つ一つの創造的作品か。展覧会がみものだ。
2003 3・26 18

* 今日は、それからが良くなかった。
観てやって欲しいと母上に頼まれていた若い女性の個展を、すこし体調あやしいが今日最終日だしと、無理に銀座まで出て行った。蒸し暑い土曜であった。和光の裏あたりで佳い場所だ、食味の楽しみもある。
で、画廊に入った。
いけなかった。手頃で値頃の小さい売り繪ばかり、少しくリトグラフも。大作らしきは一点も見あたらず、描写・写形・賦彩ことごとく「いいかげん」に雑然、ものの様子を絵の具でなぞって、絵葉書なりに景色が無感動に紙の上に置いてあるだけ。これなどマシかなの一点も見あたらず、茫然落胆した。ま、期待した方が間違いで無理ないことである。絵を描くことに惑いや悩みの影もうかがえず、仕上がりも綺麗ですらない。まして美しくない。デッサンが出来ていない。ものが掴まえられていない。根本、繪を誤解している。お絵描きである。個展をすること、お友達に売れること、だけが目的になっている。事実売れているのである。本人は画家のつもりでいる。
狭い画廊の繪の並んだ真ん前で、画家もまじり女ばかりの仲間数人がたえまなく談笑、こっちは繪の前にもまっすぐ立てない。のいてくれと頼まねばならない。
「へんなオッサンが入ってきて」という風情で、ま、これは仕方がない。それにしても人に作品を観てもらうという行儀ではない、隅には菓子などひろげてお茶まで出ている座席があいているのに。

* 反射的に思い出した。昨日のペンの懇親会。
梅原さんが六年の会長を退かれる挨拶を丁寧にされている。演壇の前には各社お雇いのカメラマンたちが寄っているのはこれは当然だが、中に混じって明らかに会員であるいい年配の男が、デジカメでしきりに演壇へ閃光をとばしている。話など聴こうともしていない。井上新会長にかわっても、やはり、会員ではその男ひとりが、演壇ににじり寄るようにして閃光をとばしつづけて、記念写真撮影のつもりか、タレントのおっかけヤングなみに余念がないのだ。もっとあと懇談になってからならともかく、何という失礼なヤツだろうと呆れた。あそこはめて謹聴し、ペンの一つの交代劇に感慨をこそ抱く瞬間ではないか。
そもそも、人の写真を安易に撮るなと言いたい。むかし、同じような会場で三好徹がいきなり知らぬ人に顔写真をとられ、その場で厳しく抗議していたのを、わたしはそばで観ていた。聴いていた。首肯いた。
さきのデジカメ会員のようなのが多くて、あんな会には出ませんよという難しい会員を何人も知っている。わたしもそうだった、役目のない頃は。

* 個展のお嬢ちゃん、といっても三十前後。デジカメは六十過ぎた定年男。どっちも根本で道に迷っていて、しかも気付いていない。ま、いろいろいるから此の世なのだと、かろうじて「ノー」を「イエス」に向き替えた。
疲労の余り、食欲もうせ、楽しみにしていた何処へも行かずに、一直線、銀座から家に帰った。保谷駅でシュークリームを買い、家に帰ると妻が冷えたビールを出してくれた。久しぶりにビールが欲しいなあと、昨日か一昨日に呟いていたのを聞いていたらしい。感謝。
2003 4・26 19

* この数日甲斐扶佐義氏の写真集を何冊も見ては、クスンクスンと笑いつつ共感している。この人のカメラワークは他の追随をゆるさない、前後左右に人なき独歩の道であると感心する。さて、どうそれを京都ないし京都人を対象とした美や美術の問題に絡めて話し合えるか、引き出し役のわたしの責任は重い。予行演習に、昼飯のあと、写真集に惚れ込んだ妻と、しばらくこの件で意見交換した。だだだと話題が双方から重なり合い出てくる。ウン、これで用意はよしと安心した。
2003 5・21 20

* 衝動買いではないが、広告だけ見て、エイとばかり「浮世絵揃物全集」を一括で買った。清長から広重まで。むろん歌麿も写楽も北斎も。大きな版なので、十何冊、たちまち置く場所に困惑しているが、なるべく身近に置いて楽しまねば。わたしが浮世絵の大冊を揃えて買うとは、昔なら、自分で自分を信じなかったろうが、近年はむしろ惹かれていた。線だけで楽しめる上に色彩も美しい。歌麿、北斎、写楽。とっても嬉しい。優美な気品の鈴木春信に殊に心惹かれる。
少し割引はあったけれど、今や月々無収入に近い身にはおそろしく高価であるが、この美しさには換えがたい。どこへ置こうかなあと途方に暮れながらも、チョー重い大きい本の一冊一冊を、順にハコから出したり眺めたり、チョー嬉しい。
2003 5・21 20

* 就寝前の楽しみに一つ加わったのが、揃物の浮世絵をじっくり眺めて、解説もゆっくり読んで、数葉から、一揃いほどずつ見惚れること。いまは第一巻の鈴木「春信集」にはまっている。かつては春信描く女の肢体の風に靡く柳の葉のようにほっそりしたのが薄弱に感じられ好まなかったのに、今では、その豊かに確かな線と、色と、趣向の自然とに魅了されている。どぎつい色を一つもつかわないのが静かな音楽のような効果をあげていて、それを生かしているのが、優美で清潔な刻線のみごとさ。
歌麿たちのような大首ものはなく、王朝以来の和歌的な好尚をたくみに換骨奪胎して、情景の把握には的確な知性すら感じられる。こんなに見事な物であったのかと、揃物の世界にまんまと捕らえられてしまった。この歳になっての嬉しい初体験である。
こういうところへ少しずつ進んできた契機は、やはり歌麿の線や色の美しさからであったと、今にして自覚する。
大安売りの八万円。しかし全十二巻あり、春信の巻を卒業するのに、まだ当分はかかるだろう。嬉しい買い物をした。佳い底荷を仕入れた。
2003 6・1 21

* どこへも出られなかった。用事もあったし、ひどく眠くもあった。「ペン電子文藝館」の「校正」手順がより精確になるために、どう工夫したらいいか、気に掛けている。本館に挙げたアト、起稿参考原稿による「点検校正」制を採用すべきだろう。
わたしの注意力や記憶力も落ちている。あのシュリーマンの名前をフリーマンなどと此処にも書いていた。親切な友人の指摘で救われている。人の名前を比較的精確に覚える方であったのに、このごろは思い出せないときがしばしばである。
今日は茫然としていたときに、「春信」の美しい揃物浮世絵を眺めて遊んでいた。春信の繪をうかつに見ているとすべて女の繪と錯覚するが、むろん男も描かれている。その男が女とみまがうように描かれていて、わずかに髷や帯刀で知れるものの、面貌も衣裳もうかとしていると女としか見ていない。それでは情景が見てとれない。よく「みる」うちには見えてくる。
次いで作風というものの紛れなさも見えてくる。春信と豊信では一目してちがうけれど、春信と春重や湖龍斎はたいへん似ている。似ているけれど、よく見ているとちがいは歴然としている。本の版の大きくて重いのはシンドイが、大判には大判の魅力がある。揃い物は肉筆でなく刷り物であるから、色校正がよく出来ていれば本でも、原寸大などでかなり味わえるのである。春信の淡い柔らかい色遣いと趣向の品のよさには感じ入る。
2003 6・10 21

* 朝一番の宅急便で、在外秘宝の「肉筆浮世絵」が巨きな一巻本で帙に入って贈られてきた。送り主は同僚委員の森秀樹さん、深く感謝。
ゆうべも揃い物の春信集にずいぶん遅くまで見入っていた。これは十二巻有るその第一巻であるが、到来以後まだ春信に堪能している。浮世絵はむろん江戸の錦絵にはじまるものでなく、京都や上方にも優れた作者は先行していた。刷り物で江戸錦絵として売り出した最初の天才的な画家が鈴木春信であったということ、それ以前の肉筆浮世絵をも得て、おおかたの首尾も尽くせるのである。豪勢なプレゼントに感激し恐縮しているが、嬉しいと、一言に、やはり落ち着く。
2003 6・11 21

* 高島屋でファックス用紙を重いのに少し多めに買い込み、中央線で東京八重洲口に移動して、京橋まで歩いた。陶彫展で「湖の本」の久しい読者の出品作を二つ観て、また近くの、うどんの「美々卯」わきの南天子画廊で、京都藝大名誉教授吉原英雄氏の個展に参上。例によりたいそう興味深いコラージュ風の墨の作品が並んでいて感銘を受けた。
「美々卯」は堺に本家がありうどんが自慢の店と、わたしは谷崎潤一郎の書簡を調べていて教えられた。鶏なんばを取り、樽酒一合。
そして妻の体力消耗にあわせて、それ以上はどこへも寄らず銀座一丁目から帰った。保谷に着いてから「ペルト」で旨い珈琲をのみ、ゆるゆる歩いて帰った。雨には降られずに済んだ。
2003 6・11 21

* 昨日戴いた「在外秘宝」の『肉筆浮世絵』は一度に目を通すのが惜しくて、昔風の物言いをすれば「たまひたまひ」観ている。素晴らしい。図版の縮尺の度合いは肉筆画では大きくならざるを得ないのが残念だが、工藝要素の濃い版刷の画質とはちがう。
嬉しいのは、室町中末期以来の職人尽繪ふうの画態から、花下遊楽図や洛中洛外図や風俗画図等々の歴史的な流行作・標準作の逸品が、かなり揃って収録されていて、安土桃山期を経て江戸初期に流れ込む風俗画の流れが、克明に推知できることだ。
まだ冒頭の五分の一も眺めていないけれど、この編集と収録の態度なら、間違いなくわたしの手に入れた「春信」や「清長」らの揃物へも「浮世絵美術史」として連携するであろうと期待が持てる。その辺が確認できたら、いつか読もうと買ってある岩波文庫の「浮世絵類考」もやっと読めるだろう。ずいぶん以前、古本で手に入れておいた。浮世絵を閑却してはなるまいと考え始めていたからだ。
なににしても持ち上げて五キロできくまい豪勢な本を頂戴し、嬉しいも嬉しいが恐縮はそれ以上である。が、やっぱり嬉しい。
2003 6・12 21

*『肉筆浮世絵』をひととおり眺め渡し、美しさに魅入られた。なんという色彩の力のつよいこと、しかも造形の力も独特に興味深く、感嘆、感嘆。北斎に及んでいる。特刷りの貼り図版になっており、額に入れたいのが何枚も何枚もある。刷物もおもしろいが、肉筆のインチメートな迫力はすばらしい。
画集は、大版なほど繪は引き立つ、が、本の重いには参る。上村松園、浅井忠などもこういう大きい重い版の完備本がある。立てておくだけでも存在感がある。集英社版の大きい佳い画集を、むかし、よく社から貰った。そんな中の「伊藤若冲」をまだ少年少年していた甥の恒(黒川創)が持って帰って、のちにこの画家を書いて小説家としてほんとうのデビューを果たした。蔵書が、若い世代の役に立ったのは嬉しいことであった。昨今は袖すりあうほどの機会もないが、はんなりと生きておるのかな。
2003 6・13 21

* このところ揃物浮世絵は「鳥居清長」を楽しんでいる。「鈴木春信」が柳の葉のそよぐような美人画なら、清長は超八頭身の「群像」に大きな魅力がある。海外へ優秀作の殆ど、全部に近く、流出したと言われる理由は、そのすらすらっと高く延びた人物の丈高さに有るかも知れない。
それだけではない、何と云おうか、刷絵のことであるおおかた原寸大の小画面に、数人、時にそれ以上の美女や美男を豊かに描き込んで、いささかの混雑もないみごとな構図の妙才に、感嘆を禁じ得ない。色彩はどぎつくなく目にしみる柔らかな美しい配色で、情景に、生活感と背馳しないしかも俗に流れない雅な趣向があって、浮世絵にはむしろ通有の不自然さがあまり無い。安永天明以降の江戸錦絵のなかで、他に譲らない確乎とした地歩を保ち、見飽かせない魅力、ファシネートな力感に満ちている。
寝床で、重い大判の本を、両腕高くさしあげまるで腕力を鍛えるようにして、三十分ほどに、数枚から十枚足らずの浮世絵を、図解の文と合わせて楽しむのである。これまでのわたしのなかにやや希薄であった世界が、ここちよく流れ込むように移動してくる。浮世絵に関してなにの欲もないので、ただ楽しめる。

* 鎌倉末期から南北朝にかけて農民の力が、村の、「惣」の力が増してくることは、歴史の通念として心得ていたけれど、水田での稲作主体で来た農村、その大方というより全部が、錯綜する力関係・支配関係で「荘園」化され収奪・支配されてきたのだから、有力農民だけでなく貧しい一般の農民までが歴史的に或る自立の力をもてるには、よほど水田耕作以外の要因が必要だろうにとは朧に感じながら、そこでただ立ち止まっていた。
水田でなく、従来軽視され支配のやや埒外に置かれていた「畑」「畑作物」それが下層農民にも少しずつ現金(銅銭)収入を得させていたこと、それが市の展開や、商人、工人の展開と協働関係にあり得たことなどを、具体的にいま「日本の歴史」第八巻に教えられている。
こういう農村の構造的な歴史は、はでな政治の表面史にくらべ、ついつい興味や関心から漏れ落ちるところだが、村や惣に入り込んでその構造を理解しない限り、たとえば藝能の展開にしてもつかみ取れるものではない。
おもしろく読み進めていて、やがて後醍醐による「天皇御謀叛」が迫り来る。

* 光源氏は愛恋の思いを押し殺して、いつわりの娘、じつは養いの娘である玉鬘(夕顔の遺児)を、実父藤原氏(往年の頭中将)にそろそろ引き合わせようと心づもりしている。六条院物語が、けだるいほど満たされた栄華のかがやきのなかでゆっくり進んでゆく。音読は続いている。
2003 6・16 21

* 夜前から二巻有る「歌麿」の初巻をひろげているが、俄然大首の世界であり、それはまた緻密に美しい衣裳表現の魅力世界でもあり、春信や清長よりも大胆な女体表現の世界でもあり、ドキッとする楽しさに溢れている。ゆっくりゆっくり楽しみたい、毎晩寝入る前のお楽しみである。
2003 6・26 21

* 連夜、歌麿の繪を数点ずつじっくり眺めている。解説もしっかり読みながら。同じような顔ばかりに見えていて、なかなかそうではない、見過ごしがたい描き分けの妙味が伝わる。歌麿の魅力は、女の「顔」をひきたてる衣裳と髪との表現、その精緻・精微・適切に的確なことを楽しむだけで、小一時間に数点。それ以上は満腹する。ただの美人画でなく、歌麿は女達の生活の場を、時空間をいろいろに広く懐かしく、よく見ている。それと子供をみごとに良く描いて女達をたしかに引き立てている。一枚一枚に大いさと謂いたいほどの深みの迫力があり、流石にと感嘆久しゅうしている。
2003 7・3 22

* 昨日で「歌麿」の巻を終え、「写楽」に移った。役者絵ばかりといっていい。おもしろい。現代の似顔絵画家はすこし知っているが、写楽のは明らかに似顔絵として愛好者に受けたにちがいない上に、すぐれて造形的で批評的で、揺るぎない勢いある表現になっている。おもしろい。魅力に溢れて見飽きない。女形の顔はあるが、女は描かれていない。描かれたモデルの当人がどう苦笑したか悦んだか怒ったかはしらないが、客のわれわれは、よう描いてくれたと拍手し感謝するばかりだ。
前後して栄里にも芸人や町人の大首でまことに上出来の肖像画もあるが、数は多くない。その他大将格の栄之(大家の武士出身)をはじめとする栄派の浮世絵は、ときに美しい上品なのも交じるにせよ、力はよわい。綺麗事に流れる。
だが、歌麿も写楽もそんな綺麗事とは性根がちがう。格でいえば栄之は、琳派なら抱逸だろうが、歌麿と写楽は、光琳すら超えて宗達なみのスケールである。おそらく北斎となると光悦級になる。
浮世絵それも揃物がこんなに面白い世界だとは、やはり観てみなくてはわからない。本でもこれだ、やはり実物が観たい。そもそも歌麿に眼の鱗を落としたのは、リッカーだったかの浮世絵美術館に気まぐれで迷い込んでからだと思う。衣裳の彫りと刷りと色彩の美しさにぞっとする色気があった。尻の線にあった。ガラス越しに観ていたけれど、瞬時自分が痴漢かのように刺激を受けているのでビックリしたのを覚えている。
歌麿の絵柄は雄大と言いたいほど大きくて、肉体が自然に描けている。胸をはだけて生活している江戸の女達、なにも遊女ばかりでなく市井の品のいい女達も、なにかまうことなくゆつたりと胸乳をあらわしていて、美しい。いまどきのやすいヌード写真なんかよりもはるかに佳い。健康でいい。
浮世絵の背後にいわば春画の陰翳が裏打ちされているのは間違いないにしても、表へ出てきている浮世絵は、総じてたいそう健康であることを理解したい。淫猥感はまるで無い。春信、清長、歌麿、写楽と来て、彼等の表芸についていうなら、健康そのものだ。そして彼等はみなたいした批評家である。
2003 7・17 22

* 昨夜までに「豊春・国貞」「国芳・英泉」らの浮世絵揃物を、たっぷり見終えて、昨夜、ついに「北斎」巻を開いたが、いきなり揃いの「富岳三十六景」には、ごしごしと眼を洗われた。声もない、というより、ウーンウーンと賛嘆と感動のうなり声を上げっぱなしであった。
歌麿と写楽。これは颯爽の巨峰でありそびえ立っている。つづく上記の四人その他も、さすがに面白いけれど、いかにも浮世絵浮世絵して泥味も濃い。ところが北斎の屹立して斬新しかも巨大なことは、歌麿と写楽とをひっくるめて受けて立とうという巨大さ、しかも趣向の自然ただならぬ冴えである。おおっ…と、やがて声をうしない、惜しむように巻をひとたび閉じた。すばらしかった。
2003 7・30 22

* わたしに蒐集の趣味はない。手持ちの茶道具の数は多いが、ほとんど叔母の遺品。置いておいても息子建日子に趣味はなく、わたしが眼をあいているうちに処分した方が好いかなあといささか重荷にしている。場所もえらく塞いでいる。
頭の中で蒐集しているとすれば、それは魅力的な海外の映画俳優や女優の「名前」と、ビデオに撮ったその証拠品ぐらい。それと商売柄の辞書・事典が百種類は超えていて、もっともっと欲しい。
そんなことを云いながらも、頂き物だけでも工藝品は、いつ知れず、あっちにもこっちにも沢山溜まっている。陶藝だけでなくガラスや七宝も。繪はときどき買うが、貰ってもいる。亡くなった徳力冨吉郎さんの鮎や、池田良則氏の裸婦や、亡くなった俳優嵯峨善兵さんの祇園新橋図や、メヒコ墨絵の島田政治氏の風景やランプの繪や、少し珍しい手のものも。叔母からきた茶掛けには我が愛蔵作品が幾つもある。契月、五雲、竹喬、印象などの他に、保証の限りでないが宗旦の水仙絵入りの文、江月宗玩梅花絵入りの墨跡、松花堂「蝸殻」二篆字横物など。
ゆうべも妻と話していた、今日明日にも旧暦の七夕という、さる公家もの七夕を詠んだゆったりした歌懐紙の大軸があるのを、今宵は久々に出してきて、ダリの大きなリトグラフに替えてみよう。夕暮れにはまだ間がある、戸外はかっとあかく日差しがして、今夜は星が光るであろう。
2003 8・1 23

* 数日かけて大判の重い「北斎」をひろげては「富岳三十六景」に堪能してきた。三役といわれる「波裏富士」「凱風快晴」「山下白雨」の素晴らしい出来はもとより、気に入った贔屓の作がたくさんあり、この富岳の揃物そのものが、日本美術史上の大きな存在であることを疑わない。清爽の気に満ち、甘くない。気概に満ち、冴え渡っている。意欲が前へ前へ溢れ出ている。先がある。
そういえば、ずいぶん以前、長野県に北斎館をたずねて日曜美術館で放映した。わたしは信州新町美術館で大下藤治郎らの水彩畫についてカメラの前でかたり、翌日は、小布施町の「北斎館」で北斎を語っていた。あの美術館めぐりのシリーズは本にもなった。すっかり忘れかけていた。
2003 8・6 23

*「北斎」の二巻をしまい、安藤「広重」の三巻揃物へ入ってゆく。全十二巻、楽しませてもらえる、たっぷりと。これが済んだら頂戴した肉筆浮世絵の集成本が待っている。これを一層の楽しみにしている。
2003 8・12 23

* いま、眼の前に興福寺の阿修羅像の切り抜きの写真が立っている。なんて美しい清冽な表情か。わたしは、あれこれのいろいろを、此の阿修羅のみごとさと並べて比較し、比較するまでもなく瞬時に勝負は決まって、たいていのことは阿修羅の前に、意味も表情も解けて消えて流れてしまう。喪ってしまう。阿修羅像以上のものでなくちゃダメだと決めてしまうと、目の前に、何も「問題」自体が無くなってしまう。それどころか自分自身もじつにショウモナイものになってしまう。自分だけは例外にしてアマク見逃そうなどとは考えない。なんと、すばらしい阿修羅であることか。

* 杉山寧の「朝顔」がカレンダーに咲いている。淡い青と、濃い紫。すこしはずかしいような莟のかたちも見えている。上から右へ鍵の手に空間をあまして、構図されてある。朝顔の花ほど、わたしをたちどころに国民学校前半の京都の家に運んで帰すよすがは、他にない。そしてまた海など知らなかったのに、わたしは今だに「われは海の子しらなみの」という唱歌が好きだ。身のうちを回流するかのように、六十余年の記憶がゆっくりとうねっている、これは何なのだろう。そういう歳だといわれれば、一ぺんにカタはつくが。 2003 8・20 23

* フラナガンという人の「モダン・アート」(原書)は学生の頃からの愛読書だった、図版多く記述は具体的であった。中にマチスのデッサンがあり、大好きだった。袖無しのブラウス姿で安楽椅子に身を傾けてこっちを見ている女性であった、二の腕、スカートのお尻のまるみ、そして瞳。魅惑の線の味わい。豊麗の印象は、また清潔でもあった。
全くの白地に黒い線で描かれているので複写は簡単だった。だが、やはり本の中でいちばん綺麗な線が出ていた。昔の「写真」版だから、大きくコピーすると写真版独特の線があらわれ印象を濁す。
スキャナーで再現した写真で、時に再現が出来なくなってしまうものがあり、今まで諦めていたが、「自在眼フライト」というソフトで扱うと写真が現れてくれる。気が付かなかった。一つずつ覚えて行くものだなあと思う。わたしなど、パソコン教室風のところへ行ってみても、一日と辛抱できないだろう。
むかしむかし父に強制されて夏休みいっぱい大阪門真のナショナル(松下)工場へ出掛けテレビジョンの講習を受けたが、徹底して何も頭に入らなかった。ひたすら苦行であった。
2003 9・2 24

* 京都市立美術館長内山武夫氏より、画家「秦テルオ展」の詳細大冊の図録を頂戴。有り難い。才能豊かな異色の画家は数えれば何人もいて、そのうち、結局優れた一人一人がみな「異色」の人なのだと思えてくる。が、それでもなお「秦テルオ」は特異な一人として傑出している。同姓だが、血縁など何の関係もないけれど、注目せずに居れない業績をのこした画家で、痛切な個性は簡単な言葉ではとうてい説明しきれない。百聞は一見にしかずの最たる画風、内山さんは自筆添え書きで、京都ででも東京練馬美術館ででも、ぜひ見て欲しいと。この展観企画には、星野画廊の桂三氏も旺盛に協力していただろう、星野氏のおかげでどれほど多くのいわば湮滅画家たちが、またの日の目をみてきたことか。幸い練馬での展覧会が京都展より先にあり、美術館は保谷から間近い。開催日が心待ちされる。
秦テルオの才能を高く認めて支援していた同時代画家たちには、土田麦僊、村上華岳ら国画創作協会の俊英たちがあり、京都を中心にした当時大正期画壇は、ある意味で沸騰し充実しまた動揺もしていた。
2003 9・20 24

* 一水会出展の油彩、以前に増して、格別に美しく纏まっていると。いつもの例のモチーフ(円形枠の棚)が今回初めて、活かせたなとみました、後景に脇役風に置いた効果でしょうし、陰翳もやわらかに落ち着いています。
上ひだりの黒い人間のような樹木のようなシルエットはバランスを欠いて成功していない。そこだけ手抜きしたように感じてしまうラフな捌きです。これが無かったらどうでしょう。弱いですか。
絵の右側半分は佳いですね、美しい。下の左も、ほぼ。細い壺を垂直に置きたかったのはよく分かりますが、質感よわく、無意味に不安定です。
しかし、絵としては断然前進しています。
その上で、この先がどうなるか楽しみでもあり不安でもあり。
不安といえば、あなたの構図の甚だ特異なのは、視線の流れが右下から左上へという。これは珍しい例に属することを、十九世紀のヨーロッパの美術史学者が説いています。ふつうは、左下から右上へ、左から右へ、です。劇場の花道がひだりにつき、左の下手から右の上手へたいていは移動します、視線が。一という漢字を書いて見れば分かります。これは、意図してしましたか。これがあなたの自然ですか。悪いとは云いません、とにかく稀有の例とすら言えます。    湖
2003 10・8 25

* 秦テルオ講演を正式に引き受けた。手持ちの資料をプリントしてみたが、分厚い単行本の優に一冊ほどもある。無心にまず読み、また展覧会が練馬で始まったらせっせと通わねばならぬ。幸いに美術館は近い。
2003 10・8 25

* 今日出掛けたものの、遠くまで出張る気になれず、駅近くの「ペルト」の店を借りて二時間ほども秦テルオの資料を読んだ。それでやっと文献が一つ二つだけ。
しかし感動した。想像した以上に大きな豊かな画家である。優れた藝術家である。その人生は波瀾に満ちて、しかも静かに成熟する。すばらしい。
2003 10・9 25

* 今朝も、のんびりと(か、どうか知らないが)プロペラの飛行機がゆっくり頭上を渡ってゆく。

* 絵の写真を機械のわきに立て、見ながら仕事しています。
黒い人体風と、細長い壺と。どっちかを省くなら人体の方、と思いながら凝視しています。視線の奧へ通るのを黒いシルエットが通せんぼして、そこで画面を限画し狭く妨げている感じです。この黒い武骨なシルエットが無くても絵画のバランスは崩れないで済む、絵の奥行きが明るく深く通るような、素人考えですが、感じです。
すると、前の壺もこんなにも長い首でなくて、首半分の長さで効果的なのではないのかなあと。
それにしても、あなたの絵で「美しい」季節感・構成感を感じた、ひょっとして初の制作ではないかなあ。いや、頂いた紫陽花が、おとなしいながらに、ずうっと日常に眺めていて佳い色彩の力を、あなたらしい品の良さで発揮しています、これも「美しい」作品です。
この今度の絵では、ことさらに、美しい右側に対し、左で黒い濃い影を置いて対抗させなくてもいい感じだなあ、やはり。それほど、右のあかい色彩群がはなやいで佳いですね、写真だけで云うのはナンだけど。

* 制作についての過程を、メールさせていただきます。
こんなにおっしゃっていただきけるなど予想もしませんでした。率直に嬉しいです。有難うございます。
あの作品の動機は、ムリをして最高のキャンバスを求めたことでしょうか。真っ白な画面の前に座ったとたん、わ!やった!! と快い興奮につつまれて、次々とイメージがふくらんで・・・すっかり私自身になれました。
観葉植物のクロトンはお店で迷わず求めました。さてこれと丸い飾り棚をどう配置すればいいかしら・・・どうすれば魅力ある奥行きのある構図がなせるか? バックにはどうしてもフェラガモの布地をあの色で入れたかったのです。
大きな画面に向き合ってあれこれと草稿を重ねました。
うしろの黒い人形も迷いながらいれました。 あそこにいれないと画面がもたないようにおもいました。
左前の骨董の引き出しは、こだわって買い求めたものです。
つぼはおっしゃるとうりで、あいまいですね。これはきちんと描いていたのですが・・・・かたい! ので、すこし消しなさい! と先生にいわれました。 私の不消化でおわっていた場所です。
それと、右下から左上に視線のながれる画面構成のことですが・・・意図したものではなく・・・・自分が描きたいように描いたのです。特異なものとはつゆしらず・・・です。
今回はとにかく開きなおって自分のやりたい放題に描いたものです。  先生の目を気にしないで・・・出品しないでも・・・いい・・・と・・・・。ところが先生はそれを出品しなさいといわれ、自身驚いたのです。
途中ですが・・・・またつづきをいれます。すみません。

* 永年にわたって、あまり褒めてあげられなかった、感想を聞かれれば悪態ばかり伝えていた、仕方がなかったが、少し変わってきた。悪態ばかり云いたいわけではなかった。よかったなあと思う。やはり多少でも褒める方が気分が好い。
2003 10・10 25

* 秦テルオの詳細な年譜をつぶさに読んだ。いい年譜が書けるといいうことは、研究が行き届いている事であり、わたしは、どんな作家論でも、年譜がどれほどおさえられているかで評価する。研究書には索引が必備、そして人物を論ずるのならどんな年譜に基づいているかが成果の分かれ目になると考えてきた。秦テルオの図録についた年譜は、なかなか優れている。関連の資料も要約や簡略化しないで載せていて、参考にしやすい。
なにしろしかし小さい字でぎっしり書かれた文献類で、視力には厳しい。しかし読んでいてわくわくするほど興味深い。
2003 10・10 25

* 銀座一丁目のサエグサ画廊で、群馬の杉原康雄氏が「薔薇」の個展。氏は京都の日吉ヶ丘高美術コース(往年の京都美工の後身、現銅駝美術高校の前身)の卒業生で、同じ高校のわたしの数年後輩になる。わたしは美術コースではなかった。久しい湖の本の支援者でもある、現在群馬の伊勢崎市在住。
この個展は質的に安定した薔薇の絵が十八点。安易に描きならべただけのものでなく、さすがに年期と研鑽の成果で、一点一点としても画廊全体としても統一感ある、しかも独立感もきちんと確保した手だれの薔薇花が並んだ。病弱のハンデがありながら、誠実に花を見ている。もっと見抜いてもいいという批評も可能だが、小さな個展の仕事としては優れて安定した画境と見受けて、安心した。画家も顔色よく表情もよろしく、嬉しく安心した。もう二三日の会期だが、湖の本の装幀をしてくれた、やはり日吉ヶ丘の美術コースでの杉原クンの先輩堤さんにも見てもらいたい気がした。
2003 10・15 25

* 吾亦紅がこんなに吾亦紅らしい魅力で大きく取れた写真は珍しいなあと、心嬉しく秋を好感している。

* じつを云うと、むかしの大学生の頃から写真を撮るのが好きで、貧しい中で苦労して手に入れたニッカという佳いカメラで黒白の写真をよく撮った。うちのモノのなかで建日子がいちばん処分に困るのはこのアルバムねえと妻が言うほど大きなアルバムが何十冊と有る。これらを機械に入れてしまえば嵩がひくくなるのにと思うが、ホームページに写真の頁をつくる「手順」が掴めていない。スキャンして機械に入れても、転送することが出来ない。昔に田中孝介君に習って出来たのに、みな手順を忘れてしまい、転送できていた写真が消え失せてしまいもしている。

* 石本正氏や橋田二朗さんから創画展の券がたくさん来ている。演劇も美術も読書も、秋。「飽き」でないことを望む。
2003 10・17 25

* 家から駅への十数分。出がけから腰の痛みがあったが、歩いているうちに両足膝から下が鉄棒のように固まり痛くなり、歩くのに苦労をした。正直、駅まで行くのがイヤであった。池袋線と山手線を乗り継いでいるうちに強い痛みはひいた。
上野駅からの公演は晴れやかに人出も多かった。西洋美術館でレンブラントをみせていた、しまったパスを忘れてきたと舌打ち。都の美術館で、かつてわたしの『閑吟集』を担当してくれた安田さんと会った。大英帝国の秘宝とか財宝とかのオープニングがあり、もと山種美術館にいた川口直宜氏とも出会った。
わたしは創画展に入ったが、大歎息してしまうほど会場は冷え込んでいた。思えば上村松篁さん、秋野不矩さん、その他当会のスターの何人もが相次いで逝去、大きな目玉になる画家が払底してしまっている。石本正の絵が今年はつまらなく、上村敦司がつまらなく、橋田二朗に元気がない。おやおや、この生気の無さでは、思い切って解散かなあとよけいな心配をしたほどつまらなくて、十五分とまがもたずさっさと出たものの、脚痛でははじまらない、すたこらと池袋へ戻り、ひとりパルコの「船橋屋」で、せめて好きな天麩羅で甲州の酒「笹一」をと、脚を休めた。特注した「はぜ」がうまかったが、それ以上に、ぷりぷりした牡蠣を揚げてもらったのが、それは旨かった。天麩羅でもフライでもいい、牡蠣の油で揚げたのは旨い。それ以上呑むなと職人にとめられ、笹一は枡に二杯。電車でひとねむりし、まっすぐ帰った。家まで歩いたが、往きほどは痛まなかった。
2003 10・17 25

* 杉原康雄さんがおっしゃってられました。 今回はやっと褒めていただけて、次へのステップになりました。と・・・喜んでられました。竹内浩一さんと大変親しくしているともおっしゃってられました。好感のもてるかたでした。
絵 薔薇の絵 について・・・・・私にはあのような絵は描けません。なぜならば・・・薔薇が同じ色ばかりで一枚の絵を仕上げておられるからです。バックに相当な苦心をはらっておられますが・・・・そのエネルギーを、ひとつかふたつの薔薇の花に与えて欲しいです。
偉そうにいいすぎたでしょうか? 描けないくせに・・・・ごめんなさい!

* この批評、おもしろいですね。
彼は、かなり意識して、でもそれでいいのだと思っているのかも知れません。絵が、形として美しく把握されて生きるなら、彩色には多くを頼まないという造形感覚・構築感覚かも。
彼病弱の事情から完成していない絵もあったようですが、基本的に彼は洋画家でありながら、ものの形を線で堅固に把握し、色彩は簡明に、およそ線構築の美感を助けるだけでもいいと。竹内君の美術にもそれが、ある。彼等の気持ちには、村上華岳が云っていた「色彩は瞞着」という思いが在るのかもしれませんね。ものの形をしっかりとらえて造形したい、という。
あなたの批評にも彼は聴かねばならないし、彼らの造形的把握からあなたが受け止めていい姿勢もあり得ます。
2003 10・18 25

* 「デッサンがとれていない」「取れないことが多い」という述懐に、わたしが勝手に、(対象=モノの性根が掴み)取れないと注釈したけれど、ご当人の思いと同じかどうか分からない。この人は少なくも素人画家ではない。
2003 10・19 25

* 衣服を、丸善の売出で買い調えることが多かった。今日もその予定でいたが、妻の体調で、急に一人出かけることになり、それならばと、先ず中村橋の練馬区立美術館に立ち寄った。
「秦テルオ展」は閑散としていたが内容はすばらしく、時間を忘れて観てきた。「母子」「絶望」「血の池」など一連の作品は、思わずくうッと涙が煮えてくるほど見事であった。ことに「絶望」という絵画ほど胸にせまる藝術作品を、そう数多く観た覚えがない。立ちつくし、動けなかった。
わたしの講演題は「秦テルオの魔界浄土」で出してある。崇高な魔界。多彩な画風であり特異な世界観であり、母なるものが鍵を握ってその宗教性に優れた扉を構えている。
会期中、繰り返し観にゆきたい。
西武池袋線の中村橋駅から改札を出て左へ駅をでるとすぐ、駅線路に沿って左折の道がある。駅の果てる辺りに区立練馬美術館はあり静かな佳い環境で、よい絵と心行くまで立ち向かうに絶好。

* 中村橋から有楽町線で有楽町下車。交通会館の十二階催し場で、予定の衣服をほぼ即決で買い調えた。五時だった。帝劇下のモール「きく川」でしばらくぶりに鰻と菊正二合。もうその足で直ぐ下の有楽町線に乗り、練馬まで座れなかったけれどそう疲れもしないで、保谷駅からも歩いて帰宅。
2003 10・23 25

* 秦テルオ展ありがとうございます。
地球も人類の未来も永劫に続かない。はっとしました。歴史の中ではほんの一瞬に過ぎない「生」です。「今 ここ」を実感し、毎日を大切に過ごしたいと思います。私自身滅びのときへと歩んでいるわけですから。
佳い日を 佳いときを お元気でお過ごしくださいますよう。

* テルオ   何時だったか、その異常もしくは怠惰ともいえるような生活振りを読んでいます。それに添った沈んだ色づかいの個性的な絵も、近美や日曜美術館で観ていたなと、記憶に残っています。
観て綺麗、和む絵でなく、時代背景もあるでしょう、その日常生活、そのものが滲み出て、女性には全部が全部理解しきれませんが、訴えるものは感じました。個性的なこの手の絵はきらいではありません、あの奇天烈なボッスの絵が好きなように。
十一月に入りましたら、足を運びたく思っています。
今、多彩にお出かけの予定を読みました。入り込む蟻の隙間もないのでは、と。

* 一つ言えることは、「観て綺麗、和む絵でなく、時代背景もあるでしょう、その日常生活、そのものが滲み出て、女性には全部が全部理解しきれませんが、訴えるものは感じました」という予備的な感想の、少なくも一部は、かなり新ためられるのでは。
秦テルオの生涯は、母への深い感謝と、貧しく働く人達へ身を寄せた記録、そして零落し倫落した地獄の女性達へのすさまじいまでの愛と共感を経て行きつつ、最終段階で家庭的に得た妻子たちに浄土と幸福を祈り、美しい国土と故郷への静謐な讃歌を歌う。根底を、愛と健康とに支えられている。
綺麗な絵などというものは、テルオには単に邪道であり道楽にひとしかった。土田麦僊が同時代の甲斐莊楠音の絵を「穢い絵」と排したことは有名だが、秦テルオはそのような麦僊に対し、ヒューマニズムの極北に位置していた。
テルオの才能は多彩に豊かで、生涯に、色んな作品を色んなテクで描いている。ポンチ絵か浮世絵かとおもうのもあれば、濃艶なのも清純なのも、じつに技術確かに巧緻なのも一筆書きのような軽妙魅惑の絵もある。概して画面は大きくない。そしてその人生の到達点で、極めてユニークに「仏」を描いている。背後に愛した妻子との家庭と、恐らくは法隆寺百済観音への親密な傾倒があるように想われるし、感化の根に、あの村上華岳晩年の画境があったことも間違いあるまい。
しかしそこへ行き着く道中なればこそ、彼は「絶望」「血の池」「淵にたたずみて」「母子」など、一連の、ムンクやゴーギャンを感じさせる、しかし独自独特の名作を生み出してきた。すべて幸うすき女の人生に注がれた万斛の涙の、結晶して、底光りを発した宝玉のようであった。一見「異状もしくは怠惰」と誤解されやすいが、テルオは魔界の底を這い回るような時期にも、多数の優れた絵画を描きつづけていた。彼は終生個展を主にして世に作品を表し続けたが、その量は半端ではない。たた不幸にも戦火で多くが焼失したのである。
こういう人材であり才能であったために、彼の身辺には時代の優れた知性や才能の多くが、具体的な応援や支持のために繰り返し集まり、そういう人達の提唱で開かれた展覧会や頒布会が何度も催されていた。秦テルオは身振りの大きいだけの浅薄な異端児ではけっして無かったのである。
今度の展覧会ではそんなテルオと時代や行動や藝術的感性を分け合った、「魂の色の似た」大勢の作品も展示されていて、情況がたいそう分かりよい。中でも野長瀬晩花は、華岳、麦僊、紫峰、竹喬、また波光らとともに歴史を画した国画創作協会の創立メンバーでテルオの戦友でもあった。また戸張孤雁は荻原守衛らとならぶ手練の彫刻家であり、必然の出逢いでテルオを深く刺激した。また竹久夢二との交渉もナミでないものがあった。
その他にも千種掃雲、北野恒富ら、特色に富んだ同時代人の多くの作品が楽しめる。ことにテルオの学校時代の先生であり優れた社会派の画家であった千種の作品が適切によく選ばれている。
2003 10・24 25

* 囀雀サンの此のメールにいう「中野美術館」とは、京都の材木商だった先代が心魂を傾注して創り上げた小美術館で、珠玉とはこれを謂うかと思う宝物のような小さな建物に、宝石のような収蔵品がおさまっている。じつに佳い村上華岳が揃っているし、逸品の小品絵画が粒を揃えて光っているのである。今の館長は息子さんである。先代はわたしの大学専攻の先輩であり、温和な人で、美術雑誌の対談に引っ張り出したものの、話して貰うのに往生するほど口数の少ない人だった。美術館によせたわたしの原稿に、わたしの好きな芭蕉のそんな言葉が入っていたはずだ。
2003 11・1 26

* それでも元気が出たので次の中村橋で下車し、練馬区美術館で秦テルオ展を二周り三周りゆっくり見直してきた。少し入れ替えがあった。大正七年ころの「絶望」「血の池」「女たち」「淵にのぞむ女たち」「母子」など、それより前の「女たち 花骨牌」「吉原」など、みな力に溢れていた。昭和五年のまさに日本画の小品「瓶の原」(階段に陳列)がすばらしい境地であった。美しい極みの子供らが「遊戯」の軸装もみごと、瓶の原時代か東京時代の終期か仏画に見まがう「眠れる子」の母子像、また後年の釈迦三尊も。
2003 11・21 26

* 黒田清輝のたしか「朝妝」といったろうか、日本の油絵で初の裸体画は、警察ないし展覧会当局による滑稽な扱いを受けた。きわどく布で隠されたまま陳列されたというが、さすがにその後そういうことはなかった。
絵のモデルというと直ちに裸体を連想させたほど、画学生も画家もヌードデッサンし、裸体画を公表した。彫刻作品ではまして裸体像は珍しくなかった。萩原守衛の有名な代表作などに観られるし、秦テルオと互いに感応した戸張孤雁の彫刻もヌードにいいものが多い。着衣の現代彫刻はむしろ少ない。
西欧の彫刻は、ミロのヴィーナスをはじめ、連綿として現代まで裸像の歴史をもっている。絵画でもそうだが、或る時代的な特色がからんでいるという。裸体画がもっぱら好んで描かれる時代と、そうでない時代とは微妙に交替しているという学説を、西洋の美術史家ヴォリンガーに学んだことがある。それから、裸体の人物と着衣の人物がさも当然のように混じる時期もあるという。そういう、戦闘する民衆の先頭に裸体の像が先駈けていたり、裸体の婦人もまじって草上になごやかに食事などしている光景の絵を、見覚えている人があるだろう。それが特に不自然でなくある種の鼓吹的な効果を持って描かれていたりする。

* 裸体を劣情の対象として描くか、また観るか。難しい問題である。日本画家の石本正も加山又造もいい裸体像を描くが、石本のはスケベーが過ぎると嫌う人もあり、加山のもなまなましいと嫌う人はいる。そのきらい、ないではない。
しかし、少なくもボッティチェリからプーサンやルノワールやマティスにいたるまで裸婦像は「美」の表現として多くを魅了して已まなかった。すばらしい裸婦像は展覧会の花である。だがどう「すばらしい」かとなると、微妙な個人差が描き手にも鑑賞者にも箇々に分かれてくる。伝えるところルノワールは絵筆をペニスのかわりに女の肉体を美しく描いたと云われる。そういう機微は否定出来ない。

* 生まれて初めてみた女のからだの美しさにまいったのは、あれで幼稚園のころか、その前かも知れないが、家の二階にあがると、着替えの最中であったか叔母ツルが、上半身をあらわにしていたその、乳房のかたち。特に色白な女ではなかった叔母は、また美女とも程遠かったのに、豊かに美しい胸乳をもっていた。稚いわたしは、実の母の乳というものを全く見覚えもせず秦家へ貰われてきていたので、また不幸にして養母の胸はあまりに薄かったので、このときの叔母の胸にはほんとうにまいってしまった。うわあっッと歓声をあげとびついて行ったのを、ありあり覚えている、むろん触れることも出来はしなかったが。

* あれは一種のすりこみ体験であったろう。女のはだかに彫像や裸像や写真で接するとき、わたしはほとんど乳房の形と美しさだけに惹かれている。母を知らないわたしのトラウマとも謂える。が、美術史的に謂っても、人類の、少なくも男子の、根の深くて遠い憧れなのであろう。ミロのヴィーナスにあの美しい乳房が欠けていたら、国立東京博物館を人は七巻半も取り巻いて観に出掛けたろうか。だが、わたしは出掛けた。レンブラントの「ダナエ」特別展にも出掛けた。劣情ではない、まさに優情であり哀情からである。

* 誰でも知っているように、インターネットの蜘蛛の巣には、すばらしい情報も多いが、愚劣極まる醜悪な画面も、底知れぬドツボの内容物となり堆積している。むろんわたしは、そんなもの知らない、見ない、覗きもしないなどと白けたことは云わない。わたしは何でも観ているし、知っている。そしてこ幸いにもそんな夥しい刺激物に、わたしは精神的にも肉体的にも殆ど反応しない。もう少し反応しないものかなあと慨嘆するほどつまらない。見ていて汚い。
わたしは、汚いもの穢れたものを直視することで「解脱」を切望し、夜ごと墓場に泣いていた老大納言国経の、いわゆる「不浄観」という修行のあるのを、生まれて初めて愛読した新聞小説「少将滋幹の母」で識った。絶世の美人妻を若い権力者時平に奪われた大納言は、墓場に腐乱した女の死骸に瞳を凝らして、苦悶からの脱却をはかっていたのである。そんなうまい手があるもんかなあと、かすかに子供ごころに感じたが、インターネットで出逢う女たちの裸ときたら、墓場の腐乱死骸にかなり似ていて、幸い悪臭のないまま見ていると、じつは、「みーんな同じ」で、曲もないバカな見せ物だとすぐ分かる。悟りが開けるとすれば、どんな人間も、裸になればみな変わりはない、という事実にだけだ。つまり、つまらないものである、この年齢にもなってしまうと。
だが、極めて稀にであるが、泥中の蓮花もかくやと清らかに匂うような女のはだか写真も混じるのである。地獄で仏のように、である。なんでこんな美しい人が、なんでこんなきたない場所に自分の裸身を曝すのだろうと、訝しい極みであるが、それほど、写真効果もあるにしても、上品で清潔な人のヌードに出逢うことが出来る。極めて極めて稀であるが。云うまでもない、たいてい乳房の清純なかたちや色に美は凝縮される。ダウンロードしてよろこんで秘匿したりする。ミロのヴィーナスを彫刻の美として喜ぶように、佳い写真として鑑賞に堪えるヌードが、たまに、ごくたまに、インターネットの泥田の蓮のようにみつかることを、わたしは、徳としている。
2003 11・24 26

* 遅ればせながら「秦テルヲ展」を観てきました。よきものお勧め、ありがとうございましました。
企画、構成、配置もしっかりしており、なかなかに充実した展覧会でした。
ーーーーー
……先日、いまにも雨が降りだしそうな、鄙の露天フリーマーケットで、野ざらし状態の油絵(10~40号)12点を捨て値で買い求めた。木枠から剥がされキャンバスのみ、経年の色のくすみも進み、厚塗りの油彩も剥離しはじめていたが、なぜか、荒らぶる魂に圧倒され連れて帰った。静物が11点、一番新しい1点は風景、画風の移ろいも感じる。10年余前に某都内デパートで展覧会をやった有名でない現存作家の画学生時代の習作(35年前ごろからの)と推察、あとは不明。
家に戻り、まず、保存不良、丸めておかれていたため波うっている布を引っ張り、一枚一枚壁にピンで止め、壁の余白いっぱいに8枚を並べてみた。さてどうするか? 下手に修復するのもいただけない。古い絵に合わせて色を塗るとあとで色が変わってくる。すでに古色をだしはじめている「ありの侭」を楽しんでみたい、気もする。せめて、木
枠に貼ってはみたいが、イタミも進み容易ではないかもしれない、額装は金をかければいつでもできる。作家の手を離れた、元絵とは様変わりした「迷い絵」の運命を考えている。どこにあっても、イタんでもイイものは残しておきたい。美しく映えるものだけが「名画」ではない、とも思う。また汚いものを拾ってきたとややあきれ顔のカミさんに、しばらく眺めていないと味はわかんないよね、と言われホッとした。
そんななか、ふと、「秦テルヲ展」を思い出し、期限2日前に観てこれた。
秦テルヲの絵は、正直言って、かなり「上手い」。枠からはみだしそうな、とくに若い時代の爆発的な作品を期待していたが、初期の暗い大作にしばらく足が止まった。あった、よかった。絵の運命と保存にも想いをはせている。テルヲもよくぞ蒐集、保存・管理されていたとも。発掘、再評価にふさわしい展覧会水準を維持できた基は、やはり作家の「力」であろう。型録から彼の経歴を読んでいる、棄教のことも。件の油絵作家の最近の絵もそのうち観てみたい、日展入選に名があがっているので。

* 何人もの人が秦テルオ展へ足をはこんでくれた。テルオを本当に追体験するのは容易でない。彼が凝視し体験した世界へは、なかなか近づけもしないからである。彼は京都の美校図案科に学んで、のちに「千総」という京都でも有数有力な染織の大店に務めて下絵を描いている。それで若い頃生計を保って母や弟妹を養っていた。彼は、だから、と云っていいだろう、何でも描ける自由さと技術の高さを持っていた。素人画家ではない、基礎が充実したプロであったが、そのプロ性に耽溺も安住もしないで、むしろ人の世の痛苦と不条理とを見詰める自分の心の震えに画技を従わせた。テルオほど画境を転じていった画家は少ない。アホウの一つ覚えのようにいつもいつも判でもついたような似た絵しか描けない絵師とちがった。展覧会を歩いて、これがみな一人の画家の作品かとみなおすと驚くほど画風も画材も画題もいろいろ。しかもそれを統一している技術が生きている。
2003 11・29 26

* 妻は朝から体調をダウンさせていて、わたし一人で六本木へとすら言っていたが、やはり一緒に出て来た。雨の路上に出たとき、大丈夫だというので、日比谷線で銀座に出、読者でもある画家鳥山玲さんの個展を清月堂画廊で観た。芸大の大学院を出て、ずっと若い頃に受賞もしている画家で、綺麗な絵を描く。工藝的なセンスに優れていて、書物の装飾や屏風や衝立を美しく創る人だと覚えている。
2003 11・29 26

*  秦さん、こんばんは。  段々と寒くなってきましたが、お元気ですか?
私は、11月から部署が異動となり、終電かタクシーでの帰りの毎日です。なかなか自分の時間が持てず、辛いところではありますが、折角ですので、むしろ楽しんで、いろいろ経験しておこうと考えています。
最終日前日に、券を戴いた秦テルオ展へ出かけてきました。
このような画家が、いたのですね。
もっともっと名前が通っていても良さそうなものですが。不勉強な私は、絵にも名にも、教えていただくまでは、全く触れる機会を得ませんでした。
画題は覚えていませんが、初めの方に展示してあった、確か工場から出てくる女工達を描いた絵を見たとき、顔すら判然としない彼女たちの抑鬱、諦念が、じわっと伝わってくるようで、思わず引き込まれそうになりました。
そして、さらにその延長上にあるのであろう、「絶望」そのものを表現しているかのような数点の絵。あれら程、人間の内面の葛藤、絶望、暗部などといったものを、赤裸々なまでに描いた絵画は、少なくとも私は、殆ど見たことがありません。
ミケランジェロのピエタなどと一脈通じるものもあるかに感じますが、テルオのものは、ドロドロとした愚かさ暗さを捨てきれない、それでいてどこかに動的なエネルギーを内包している。そういった意味で、遥かにずっと人間的、なのかもしれません。
数々の、ほとんど宗教画とも感じられる、数多くの、仏のごとき、穏やかな顔をした女性画や、聖母子画のような、母と子の絵。おそらくはテルオ自身の、「絶望」の時代を経た後の作品なのでしょうか。彼の到達したのであろう、一つの安らぎの境地には、心底ホッとしました。
しかし、何より目を引いたのは、何気ない風景や、人々を描いた絵でした。山並みや、田畑などへの視線が、なんとも深くて優しいこと。
葛藤の時代を経た後の境地に立って、きっと彼の目には、自然の営みや、一見当たり前の人々の生活が、かけがえなくいとおしいものに感じられたのではないでしょうか。
一つ謎なのは、自分と息子以外、全くといっていいほど、男性が出てこないことです。如来像のような絵ですら、やはり女性として描かれていました。
これは、テルオの絵全般にそうなのか、それとも、今回の展覧会に集められた絵がそうなのか。もう少し追求できれば、面白いテーマなのかもしれません。
ではまた、どうぞお体を大切にされて下さいね!

* ウーン! 霜月尽きて、はや木枯らしもきこえそうな深夜に、締めくくりにふさわしい卒業生君の佳いメールをもらった。初めて秦テルオの絵を観て、ここまでとらえてくれれば、画学生よりももっとヒューメンで心深く的確だと謂える。
テルオの絵は技術で云々出来ない。技術は素晴らしいものをもっていたが、もっと素晴らしかったのは人間の世間、ことに幸せを得ていなかった底辺女性達の苦悩と苦痛と絶望を共同体験するように描いて描いてやまなかった前半生の魔界体験の誠実さであった。彼はデカダンの極のように生きていると見せながら、描いて描いて描き続けておそろしく勤勉な画家であった。だから倫落の女たちの血の池に望んでいる苦渋を正確に見抜いて、リアルというよりも極めて表現的にイデアルな愛をこめて描く事が出来た。凄いほど巧いのであるが、巧いということに目が行く前にテルオの真面目さが誠実さが伝わってくる。それが徹底していたからこそ、結婚し子供が出来ると、その家庭生活を「恵まれしもの」と感謝して、妻子を宗教画のように描いてあらわし、仏の世界に、自然の精神的な生命に一転して我が身と心とを委ねきっていけた。
この彼がいうように、南山城の自然をとらえる優しいこまやかな視線と視野の深さとは、まことにすばらしい。
これほどの画家が、他の大勢の大家といわれた画家のように「有名」にならなかったのは、官製の画壇に、権威で出来る商業的な画壇に終生背をむけて踏み込もうとはしなかったからだ。
だが、何人かの優れた知性や感性は秦テルオを最期まで応援して生活の成り立つように心遣いを絶やさなかったのである。
よく観てくれました、U君。ありがとう。

* 秦テルオの練馬区立美術館での展覧会は今日十一月三十日で終幕。今度は京都で始まる。その会期の半ばに、わたしは出掛けていって講演する。その心用意が師走のわたしの宿題である。
2003 11・30 26

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