ぜんぶ秦恒平文学の話

「e-magazine文庫・湖(umi)」寄稿者へ、 編輯者からの通信。  

「e-magazine文庫・湖(umi)」寄稿者へ、
編輯者からの通信。    日付を追って。
新しい手紙が末尾に。  スクロールを。


作品は、気張らないように。何度も跳ね返されると腹をきめておいて、肩の力をぬいて、気に入りのジャンルで、花びらのように柔らかい感性でお書きなさい。あせらずに。    0.10.24
 

あなたの詩には、もっと切実に胸にズーンと響いてくる作がある。この詩には、軽い諧謔の気味も、或る苦みすらもあるのですが、もひとつ、口舌の味わいに妙味がうすく、ぴしっとは決まっていない気がしてなりません。底が深いようで浅く底が抜けている。  0.10.29
 

 「に寄せて」という歌い方は、万葉以来の伝統的なものですが、なにか、趣向にもたれて、あなたの真情が素直に出ていないと思います。短歌によって何かを「論じ」ようとしているが、それは、散文で済むことです。それよりも、あなたの、歌わずにおれない「人間」としての、「女性」としての、呻き出るような素直な真情が欲しい。口先の「つくり歌」でなく、噴出するまごころの「うったえ=うた」を、厳しく、優しく、自然なことばで、表現して欲しい。三十一音にすれば歌だと、安易に考えないで、これ以外にどうにも成らないという自分を表現して欲しいのです。  0.11.1
 

メールを読みました。書きたくて書きたくて、どうにもならないほど書きたい動機につきたてられて書いた、それも抜群の表現力で書いたもの。受け入れられる可能性は、それからしか生まれません。文学賞に応募というのは、二の次三の次のはなしで、賞が念頭にあって書くというのは無理で不自然な話です。こういう材料が良い悪いということの無いのが小説というジャンルの妙味ですから、それは思い煩わなくていいけれど、書かずにおれない動機より、世に出たい欲や賞をほしい欲が先行していては、その段階で成功は難しい。「世事に疎い」から世に出られないのでなく、噴出するマグマのような動機が小説表現の技術と緊密に繋がらないから認められないのだと。強烈な動機から構想が始まり、構想が人を動かす程の巧みな技術、つまり文体・文章・必然の運び・リアリテイーの表現等へ抜群に向かうことが必要です。他に負けていては賞はとれないし、賞に拘ればもうそこでダメ。それくらいの積もりで、よけいな俗念からはなれて、何がほんとに書きたいのか、それに真っ向から立ち向かうことです。しかし、それだけでよく書けるものではない。その先はほんとうの才能の問題です。思ったままを書きました。あとは自分で考えて下さい。助言は、ここまで。返無用。    0.11.2
 

推敲の余地多大か。たわいなく感傷的で、また観念的です。詩の真実感が伝わってこない。なにかが有りそうに思われるが、詩化されていず、なんだか独り合点に空回りしている感じ。伝わっくる表現としっかりした足場が欲しい、観念的でなく冷静な。地道な散文で、活力のある生活感を具体的に表現した方がリアルな魅力が生きるかな。  0.11.7
 

参考までに、なぜ、こっちで、ああいう推敲例をあげたか、一字一句、句読点に至るまで、無心に見直して、一つでも二つでも合点して下さると、推敲という難しい関所の門が少し開くと思います。いまは、中味よりも文章がきちっと書けて推敲できることが大事かも。ダレの部分に気づくこと、文体が勢いとしなやかさとを併せ持つこと。書き急ぐよりも、佳い文体を把握するようにお薦めします。   0.11.7
 

推敲すれば一編の随筆ないし私小説として粒が立つと思う。漢語でかたくしない、また調子をとろうとしないこと。それをやりすぎると、無反省に手垢の文章が、ついつい出てきてしまいます。大事なのは、かんどころでは具体的に書き込み、読み手の想像力を誘うように。書いている身でではなく、読み手に伝わるかなと、親切に。但し説明ばかりしないこと。ひとことふたことで分かりやすくなる。会話は、とても、生きる。あとは、自分に集注しすぎず他者の「人がら」をうまく書くと膨らみます。適切な改行も。よほど必要なら行アキも。ここまでしか、読んでいないが、参考にしてください。このまま使ってくれても構いません。急ぎすぎないで。「だった」「であった」は、統一した方が端正。    0.11.8
 

全体に意識の流れが川のように流れているので、絨毯工場とか、場所の特定とかを無くした方が、全部、切れているようで繋がって行くような、連歌のような匂い付けがトータルに生きると思います。一つ一つを特定してくぎると、一つ一つの詩としての完成度が厳しく問われ、すると、面白みが落ちてしまう。旅の記録という捉え方でなく、旅の中であなたが、どう声を放ち続けていたかが分かる方が、感銘度は高く澄んで来ます。どう思いますか。全体の題は、ほんとは何でもいいのですが、一期一会の感懐としても、精神の内なる海市蜃楼なる構築物ととらえてもいい。      0.11.11
 

もう少し改行があると、もっと読みやすいかなと思いました。横書きで、液晶の画面だと、どうしても重くなります。わたしの方で組み版の技術がもっと安定してくれば、読みやすい版面が出来るかとも。小説作品への批評は、原作を知らずに読んでいますと、やや、高飛車に上滑りしてしまう感じが残りますね。     0.11.12
 

はっきり言うと、これは、いけません。一つには、推敲による煮ツメが足りません。文章がうわついて、静かに落ち着いていません。堅い漢語のつかいかたが、かなりギクシャクと定まっていません。ぬるく平凡な言い回しもあり、熱いご飯と冷たいご飯とが混じっているような不統一感、まとまって
いません。ふわふわごつごつしています。たとえフィクションでも、もっと、生身の筆者の誠心誠意から呻き出たような、地に足の着いた、堅実な、表現力のある、リアリティーのあるモノが欲しいです。かなり観念的なようで、それすら不十分で熟していません。おそらく気分はあるのでしょうが、把握がはなはだ弱いために、表現もやわにチグハグなのです。女のあなたがこれをそもそも、男=彼で書く必然の力が感じられない。月光の魅力も捉えられていないし文章は騒がしいし、あなた自身に根をしっかりおろした動機=モチーフが感じ取れない。いっそおとこでもおんなでもなく、散文詩にした方がと思うぐらいだが、この把握ではうわごとのようになります。もう一度目をかつと見開いて、自身の生活を見据えて書いてみて下さい。私小説を書けと言っているのではない、書かずにおれない深い感動をリアルに強く把握して確かに表現して欲しい。わたしの「e-m湖」にすでに掲載されている原稿を読んでみましたか。詩もエッセイも紀行も、また小説も。みな、自分の五体から絞り出すようにモチーフを見据えて書いています。そういう勇気が大切。さ、もう一度、やる気を一新して、真実感のしたたる文章をぜひ読ませて下さい。    0.11.13
 

書けるかどうか、ではない。書きたいことが有るか、それを書くかどうか、書いたものが良くなりうるかどうか。それだけのことです。書かない前には何の評価も不可能。       0.11.13
 

あなたが、横顔も厳しく自分を見つめうる題材は、何ですか。  離婚。なぜ離婚。それを自分の側に偏らず、たとえば子供の眼から、ありあり見えるように書けますか。心理分析はむしろせず、ことがらだけを目にハッキリ見えるように、淡々と書いてみては。作文は、だめ。作文はどうしても「お上手に」と浅く気取るから。書くというのは、泥を吐くのと同じ苦痛なのですが、苦痛のないものは人の胸にも届きにくい。それが、モチーフ=動機というものです。      0.11.13
 

一応、全部読み通し、こんな感じで文章の問題は落ち着くかと思いました。
作品として気になることを列挙しておきます。
一つは、敦子がまだ高校二年生であることと、大人たちとの、アンバランスです。敦子が事実以上に大人びてものを意識するのはいいのですが、その一方で、読者は年齢差という常識を意識するのも事実です。大人が高校生らしく遇しているとも、それを忘れているとも言えるのは、敦子の風采や表情が書かれていないからかも知れない。
もう一つは、山本夫妻といい独りの岩佐といい、出会いの偶然がすぐ二つ並ぶと、すこしフラツトな都合よさともいえる。それはまだいいとしても、山本、岩佐、理沙、母が、敦子とのみ「個と個」で繋がっていて、そこに有機的な、人間関係の構造が乏しいのも、全体を、敦子の生活の「挿話」めくものにしている印象があります。人物たちが引っ張り合っていない。ま、それもこの作だけではやむをえないかも。やはり、もっと大きく構造的に膨らむべき「長編の一部」の感じです。それはそれで、いいです。父親のことがもうすこしアンビバレントに出ていてもいいかな。
しかし、e-m湖umi で人に呈示するのはこれでいいと思います。これで十分という意味ではないが、あなたの書ける力の片鱗はひらめくでしょう。
読み終えてさらに手直ししたら、送って来て下さい。
題は、むしろ生活空間になった「神楽岡」という地名の妙を、暗示的に採用した方が「耕す人」より面白いと思います
省いても分かる言葉は省く。省いた方がすっきり分かるところは当然省く。文章の弾みや勢いや流れなどを念頭によく添削して下さい。   0.11.17
 

まだ、ザクザクしていますね。なかみは、これでもいいのです、が、読んで嬉しくなる文章の妙味を、もう少しまさぐってみましょう。あせらずに。     0.11.18
 

ああそうだ、わたしでも、こう直すわと納得できたところはそのまま、わたしならこう直したい、言いたいという箇所は書き直して、うん、これでいい、これで思った通りになりましたと思ったら、すぐ返送して下さい。題もよく考えて。更に大きなものの部分、一章になるとしても今は、この一編での完成度を考慮していいでしょう。
山本、岩佐、男、女という風に替えて欲しかった理由は。何としても「敦子」という三人称が一人称のように事実上なっていて、それだと、地の文が、とても高校二年生らしくなく現在の作者程度の人の感じ方で運ばれていて、それがかなり大きな齟齬を来しているとみたからです。山本とか岩佐とか呼びつけにすることで、敦子をも客観的に三人称へ引っ込ませた方が、「あなた」の小説になると思えたから。母や父のことは名前で呼び捨てにしているのですからね。
山本夫婦は東京からと明記してありますが、岩佐はどこの人か分からない。標準語が浮いてしまうので思い切り京ことばにして欲しいのです、山本との変化をつけて。同じ地域にわけありの東京人がいて、畑仕事で、その両方にひょいと出会うなんて、ほんとは都合がよすぎるものね。
父との物語が挿話的にも入っていてもよかったかと思いましたが、それは、この前後の物語になるのでしょう。敦子にも理沙にもやがて男の影が立つのでしょうし。
ま、そんなふうですが、少なくもこの辺で、公表してみても恥ずかしくなくなっていると思います。ダイナミックな構想力で迫力が出いるとは、この挿話的段階では無理ですけれど。
思い切ってさらに、しかし、少しだけ、手をかけて返送して下さい。落ち着いて読ませる力は出ています。
編輯者としてしていることゆえ、お礼は不要です。それよりも推敲の機微をよく覚えて下さい。    0.11.18
 

ほんのほんの少し手を添えていますが、気に入らなかったら、またこう直したいと思ったら、言うて来てください。もうすでに掲載しましたから、見て下さい。何かを感じ得たのと、表現にちぐはぐはないので、極力そのまま採用しました。 つづきも、読んでみたいが、慌てないで。落ち着いてまた読ませて下さい。無理矢理に書かないこと。不自然に力むのはよくないから。      0.11.20
 

掲載してみました。公表されている気分で、もう一度読み通して、さらに気になるところを直して下さい。無駄肉もとれるところはとるように。
「私」という漢字は、「わたくし」と読むのが正しく、「わたし」と読んでいる人もいますが、「わたし」「あたし」なら、ひらがなの方が適切です。「わたくし」と発声している京都人はめったにいないように思いますから。
記号に助けられずに感じかでていれば、「?」などは避けた方が日本語として落ち着くのでは。洋数字も。
ともあれ、これはこれで、一つの作品になったと思います。人にも読んでもらうといいですよ。そして、また、次へ。       0.11.21
 

画面の制約上、図版や繪を入れることが出来ないまま、具体的な「物」について語るのは難しいことです。書き手に分かっているほどには、読み手に明確には容易に伝わりにくいものですから。
これが(講演や放送でなく)第三者へ宛てた書簡体になりますと、読者には話題が更に間接的になり、自分に向けて語られていない故に、よけい親密な理解の足場を得にくくなります。
加えて、戯文化されますと、書き手の楽しみほどには、読者の楽しみとなりにくく、戯文を理解し、他人に話されていることを、ワキから自分向けに自分で理解せねばならず、しかも語られているその「モノ・コト・ヒト」が具体的に繪として見えて来にくく、悪条件のかさなってしまうのを恐れます。
読み手が親密に興味を持って惹き込まれるように、話が進みませんと、せっかくの材料が浮きあがり流れてしまいます。そこを、どうにか工夫しなければならず、やはり読者の「読める」ように「書いて」戴くのが一番だと思います。
第一の点は、深切に筆を用いていただければ、可能と思います。
第二の点は、書簡体にしても、一人一人の読者に対して語りかける調子であれば、解決できます。他人に話されているのを横から察しながら聴くのは、モノゴトに関わってのハナシで有ればなおさら、しんどいと思います。
第三の点は、戯文が、たいていは失敗に終わりやすいことを知っていますので、ごく平明で達意の文体が親切なのではないかなと思います。
そういうことを念頭に、いちばん最初になる第一回原稿を、ともあれ拝読したいと思います。一回分が、原稿用紙にすれば十枚ほどというのが、読者の理解度も興味の維持度も高いかと思います。静かに興味深く書かれた一編一編が、不揃いの妙味も生かして並ぶといいなと思います。「耳袋」はわたしの愛読書の一つです。
以上が、お願いを兼ねた感想です。存分に文芸をお見せ下さい。ご遠慮なく、ご希望やご意見をお聞かせ下さい。     0.11.29
 

それでよいのです。落ち着いて、想像力を隅々まで働かせて、目に見えるように。書かなくても分かることは書かず、説明してしまわず、簡潔に美しく表現すること。      0.12.3
 

どうもピンと来ないのです。五十首を通読し、再読三読して、ぜんたいに、心に深く触れてこないので困っています。これらが、あなたの短歌のぎりぎりの撰歌なのですか。もっと美しい、もっと真摯な、もっと律動している歌は無いでしょうか。凛々たる短歌を読みたい、読者も、きっと。   0.12.2
 

それでよいのです。落ち着いて、想像力を隅々まで働かせて、目に見えるように。書かなくても分かることは書かず、説明してしまわず、簡潔に美しく表現すること。     0.12.3
 

いちばんの御作を、嬉しいことです。早速掲載させていただきました。私の器械技術の無知と未熟で、詩作品を物差しをあてたように字数を揃えるわざがまだ手に入っておらず、版面にむらのあることをお許し下さい。おいおいに修正して行きますが、お気づきの点などあらば、お教えください。
  0.12.8
 

作品を、急ぎすぎないように。精神的に深く密着しながら、ときどき突き放して遠くからも見るように。美術にも触れていますか。美しいものに深くおどろけるように。     0.12.11
 

佳い散文を試みてはいかが。たとえば落ち着いた視線と双方向の視野から「セクハラ」とは何なのか、とか。現代の大きな問題であると同時に、ほんとうに根まで掘り下げられたことの少ない「話題」どまりになっています。ハラスメントとセックスとの繋ぎ目のところでかなり多くを見落としていないか。書いてみませんか、うまくゆくかどうか分からないが。     0.12.27
 

お気持ちのままに素直に書けていました。それでも、細部に少し眼を向けてみましたので、読み比べられて、さらに手を添えられ、納得されたところで再送して下さい。さいごの室長に姓だけを添えられては、たとえ別の名でも。ぐっとリアルになりましょう。題も、このままでよし、もう一考されてもよしと。     0.12.28
 

以来、ずうっと、読みながら、文章や表現に、それなりに手を添えていますが、まだ半ばです。その半ばまでを送って上げますから、よく読み直し、また原作と読み比べてみて、納得できるかどうか、さらに書き加えたり削ったりしてみて下さい。
  旅行記は、目的の場所やモノに対し、筆者が何をどう感じ、見聞きし、受け取ってきたか、それがハイライトです。それを自分の言葉で書き上げて行く。具体的に、生き生きと。うわべの評論的感想は、読者になにも伝え得ません。君自身の胸の鼓動を言葉で伝えて欲しい。いわゆる旅の時間経過的な手続きや出来事などは、海外の旅の体験者が多い今日、おおかた似た経験をもっていますから、本人の印象ほどは意外でもない場合が多い。個性的なそれならではの体験や感想が興味を惹きます。
  およそそういうことを念頭に、さらに手を入れて行くと、いい紀行文に必ず成って行くから、諦めずに読み直していって下さい。後半も、前半にも、大胆に手を入れて見て下さい。尋常な、日記的な説明は省いても大丈夫。目的は「カンボジア」「アンコールワット」そのものと君自身との「対決・対話」です。   0.12.29
 

私もかねがね興味を覚えていた問題です。むしろ、よく纏まっているこれを、このまま再掲させて下さいませ、読者もこれはこのままで読みやすいだけでなく、何かの際に再度参考にするにも便利です。過不足無く、よく整理されてあると感服しています。一度掲載したものをご覧下さい、これではよくないと思われましたら削除して、別儀をお考えいただきます。取り急ぎ、これから、スキャンしてみます。     0.1229
 

ホームページを驚いて下さったついでに、日吉ヶ丘から銅駝へ、高校生の美術教育がらみに、思い出やご意見を一文、わたくしの電子文庫に頂戴できますようお願いします。長さはご随意に。長くても平気ですが、写真は入りません。文章だけでやって行くつもりなので。   1.1.4
 

そう簡単に書ける材料でも主題でもないはずです。なによりも自身を客観的なまで厳しく観る目からものを観て行かねばならないから。こういう話題は自分を飾ったり甘やかしたり正当化しすぎると、そこから崩れ潰れる恐れがあります。どこまで問題の視野をつきはなして大切に見通せるか、です。集中していないと難しい。戯文にしないこと。    1.1.9
 

「e-magazine湖umi」という打って出方をしていましたが、話していたように、何月号という区別のある「月刊・週刊の雑誌」にとられやすく、正しくは「e-文庫・湖=umi」です、この呼称でご紹介下さいませんか。冊子本「湖の本」の最新刊のうしろの、サンケイに書いた原稿と「あとがき=私語の刻」とが、気持ちを正直に書いていますのでお好きにご利用下さい。    1.1.9
 

本屋さんのアルバイト、順調につづけていますか。どんな世間にも我慢はせざるをえない面があり、しんどいこともあるでしょうが、うまく付き合って下さい。
 万葉文芸の小説を二つ、読みました。「真帆」など、いい材料ですが、着想に作者が喜んでしまって、折角のモチーフを、浅く浅く創ってしまったな、惜しいな、という気がしました。
 ああいうハナシは、意外とだれもが思いつきはするのです。そう珍しくない。それをどう書き表すか、なのです。
 語り手が興奮して喋りすぎるので、リアリティーが拡散し、たぶんこうなるであろうなという方向へ方向へ、説明的に、ことが線路の上を運ばれて行く。弓のしなうような粘りがない。意外そうでいて、意外でも何でもない結末へあっさり行ってしまう。
 もう一度も二度も、同じテーマで、少し向こうへ突き放して、深く書き込んでみてはどうかと思います。
 カフカという作家のものを、読んだことがありますか。二十世紀の文学を根底で推進したとも言える人ですが、文庫本のいちばん薄そうなのを、一冊だけ買ってみては。分厚いのはいけません、とても読みづらいから。しかし、ああそうか、こういう題材がこんなふうに書かれるのかと、ふっと気づくものがあるかも知れません。
 あるいはモーパッサンの短編小説集が文庫であり、これは、凄く巧い。
 万葉文芸の二つとも、いいとは褒めませんが、わるくはないモノがあります。第一が簡潔な文章です。簡潔に書けるのは才能です。
 ただ、こういうことは気を付けて。
 簡潔なために文が乾燥ぎみになり、はねかえることもある、ということ。そうなると簡潔さがかえって騒々しさの原因にもなる。こわいところです。
 芥川龍之介の短編も、かなり、きみには参考になるかも知れないが、きみの文章の簡潔さは、いっそ志賀直哉の短編に学んで、もっと磨いていいのかも。
 あせらずに、よく推敲し、推敲することに喜びをさえ感じられるように。      1.1.22
 

じいっと原稿を見ています。プリントして見ています。推敲できていないのが気になって。もうしばらく見ています。    1219
 

具体的で雰囲気も勢いもあり、この調子の中で或るドラマが筋をひくように生きて動いてくれると、面白くなる。ねばりづよく、先へ動いてみては。勢いのあるのと、粗雑なのとはべつものです。言葉ははずんでも、作者の神経は静かにはりつめて想像力をすみずみまで。何もかも書いてしまうという意味ではありませんよ。文字配列は気にしなくてもいいです。真実感が増すと確信できる場合にはフィクションを書くことを恐れないで。   1.2.22
 

原稿を別ソフトに写し終えて改行や段落を揃えて、ごく頭のところを、思いつくまま手を入れつつ読んでゆきました。かなりの長さなので、この分で読み継いでゆくと少し時間がかかるかも知れませんが。読んだところまでを、とりあえず、送っておきます。原作の原文と、句読点に至るまで、よく照合して納得しながら、さらに推敲してみてください。
  目的地のあるときは、必然の道草でない道草的な描写や感想は、それが効果に成らず、じれったい足踏みになり読者をいらだたせます。このあとの、数行を読み始めて、これが必要かも「地図」への到着が必要かと惑って、ここで手と目とを停止しました。
  うまい映画やドラマは、省略のテンポを効かせます。絵画にも、あえて焦点や主題のために周辺を崩しておくか余白にすることもありますね。何が書きたい作品か、それを強烈に把握して、その把握を生かせる描写は、表現は押し出し、その把握を減殺し弱めてしまう無駄は躊躇無く省く思い切りが必要です。それから細部にも魅力ある筆致。呼吸。緩急の流れ。
  まだあとを読んでないのでストーリーもわたしには見えていませんが、面白いストーリーの展開してゆくことを期待しています。要するに小説を読む人は、最後にはストーリーがどうか書かれてあるのかに惹かれるのですから。それは、曲がり角がどんなふうに用意されてあるか、でもあります。楽しみたいと思います。とりあえず。     1.31
 

 何を書きたいのか、主題が見えてこない。随筆のつもりか、フィクションか。叙事に勢いはあるが、作者の姿勢は冷静に、ものをデッサンの歪みなくよく見て。作品は、とにかくも書き上げ、そして徹底的に推敲して、これならばというのを送って下さい。こまぎれの作文教室になると、わたしも時間をとられるからね。まず、何が書きたいかをよく決め、そのために効果的に書くことを引き絞って、無駄にも流れず、独り合点に説明不足にもならぬこと。以上     1.3.5
 

  いま、ざあっと目を通しました。かなりの長さで、スクリーンで読んでいると、細部についてのチェックがしにくく、プリントアウトして送って下さい、可能なら縦組みで。
  先ず気のついたのは、作の芯にいるのが、後半は「僕」という一人称ですが、前半は「わたくし」でなく、さて「路子」とも言い切れないほど放恣に「母」など他者の内心にも立ち入っています。つまり視点の統一がとれていないため、叙事が、錯雑としています。いっとそ、母の父の祖母の祖父のといっていないで、銘々に実名をあたえ、語り手は物語の外から、中から、自在に語ってゆくか、「路子」または「わたくし」に視点をきっちり絞って書いてゆくか、決めたほうがいい。これが、大きな欠陥です。
  推敲は、まだ不十分ですね。しかも全体が、事柄の説明でどんどん進んで行き、小説としての味わいや潤いは出ていませんね。ただ、物語というか筋というか、それは、有る。前半と後半との展開も、うまくすればわるくない「話」になっています。ただ小説は「話」だけではない。読める・読ませる文章です。文章で語ってゆく筋が単調に一本調子ではいけないし、余計なことにくどく足踏みしてもおかしい。その辺をもっと想像力をはたらかせて統制しかつ美しくふくらませても欲しい。   1.3.10
 

諒解。苦戦しているでしょうが、吶喊して下さい。長い作品なので、あちこち繰り返しみるために、プリントしたものも送って下さると、読みやすい。よろしく。根気のいるしごとです。じっとガマンして突き抜いて行くように。    1.3.14
 

アタマで分かっていることを、手がどう書き示せるか、です。一人の視点に絞ったとき、当然ながら一人だけの目では、察することは出来ても、見えない箇所が出来る。見えないのに見えたように書くと、ウソになる。あれもこれも書きたいなら、神の視線を持つしかないし、一人の視線に限定したなら、それによって生じる遠近法や、視野のピラミッドを崩してはいけない。
  ような、ように、という、をぜひ必要でない限り減らし削ること。「は」「が」「の」「を」「に」を適切に用いること。一言で済むことに二言つかわぬこと、安易に。
  書きたい一番の目的にふさわしいことを書き、目的に不要なことははぶくこと、適切に。   1.3.14
 

メールで送れるか、ディスクでいただけるなら、長さは特に気にしません。ただ長い場合は、プリントアウトしたものも欲しいですね。スクロールしながらあちこち検討するのは大変だから。肩肘はらずに、とにかく、双方で読んで行くことから、はじめてはいかが。何が書きたいか。書きたい何かに必要な表現を、求心的に。遠慮無く注文をつけます。楽しみに。しかし、ご家庭の日常を、読書並みに破壊に至らしめないで。    1.3.15
 

御本の巻頭論文、さっそく拝見しました。こういう検討がいろいろに始まってゆかねばならぬ時期と考えていました。わたくしの電子メディア研究会でも、その方へ関心を振り向けようとしています。ホームページの試みも、いろんな方の電子メールをあえて取り纏めて公開させていただいているのも、いくらかはその資料を提示したいからで。どのように「表現」が質を変えるのか変えないのか、新しい書き手の登場にむすびつくものかどうかと、「e-文庫・湖」は、いま、呼び水・誘い水を一心に用意しています。あなたの巻頭論文なども、こう新刊でなければ、すぐにも頂戴したいぐらいです。おゆるしがあれば、嬉しいことです。  1.3.17
 

「白川」は、ちょっと作者がさきに酔いましたね。気持ちはよく分かりました。作品、いただけると嬉しく。拝見を楽しみに。スキャンできるかたちか、メールがありがたいです。テキストで。   1.3.17
 

  一読しての概括的な感想を伝えます。あす、あさってと京都へ仕事で。持ってゆきます。作品舞台の近くへ歩いてくるかも知れません。
 風変わりな喫茶店「地図」へ着いてからは、基本線で、よく書けています。書きたいことを書いていて、書きたいことに沿ったことが書かれているから、筆がそこそこ活きているのです。その意味でカフェ「イノダ」本店から話の始まるのは、「地図」との対照として適切です。しかしイノダを出て、今出川までの道行きは、もっともっと省いて足りる。横断歩道でおばあちゃんに理沙が注意されることや、警官と学生とのイザコザの思い出などは、伏線の意味があるとしても、河原町の辻辻の話など、ほとんど無意味なのではと感じました。どう説明されても、本筋に生きてこない知らない土地のことごとしい地理的感情は、読者には煩雑で疎まれやすいものです。いかに途中を適切に書いて、「地図」に早く着いてしまうかが、腕前です。イノダ
から地図までに、筋の上で、必ず書かねばならないのは何なのかをつよく把握し、潔くムダはばっさり削れば削るほど、読者は地図の世界へ新鮮な気分で入りやすい。15行ほどでは、どうかしら。それぐらいはまた絶対的に必要なのだろうと思います。しかし、今の原稿の書き方なら、もう、いきなりポンと途中を飛び越えてしまいたいぐらい、道草がひどい。
 この一編の置かれている年代が、さりげなく巧妙に早めに示されないと、一年前とか闘争の頃とかと、作中現在と、作の外の現在との遠近法が定かでないのも困ります。 
 地図に入ってからは最後まで、だいたいに佳いですが、くどさや、ムダや、書き足りていないところが、まだまだ感じられます。しかし、この作品も、生きてくる感じは持て、安心に近いものを感じています。さらに徹底的に推敲してみてください。筋をふくらませて魅力的にするのは佳いと思います。作品の痩せてしまうのはいけませんが、ムダを書いて贅肉を付けないよう。以上、とりあえず。頑張って。  1.3.19
 

 読ませるちからを感じました、が、ぜんたいにまだ都合良く話が作られているとも言えます。絵画で、作った絵と、成った絵と、成っていてさらに瞬間風速的なプラスアルファのある絵があります。まだ、小説を「作って」いますから、無理も生じて自然さというリアリティ(真実感)が出ない。いちおう書けています。これは、一段階は掴んでいると言うことです。
 後半、前半の呼称の不統一はまだしも、前半の視点を、いろんな人物に分散してしまう不統一は、きちっと避けたほうがいい。むろん表現も整えな
いと。
 鷺娘の舞踊を家の中で母親からならうというのにも、リアリティーとしての補強が必要かも。藝事は、安易にしてしまうとウソがばれてしまいます。その点では「母」方家庭の造形がもっと大切か。路子が僕の中で鷺になるのは、鷺が路子になつくのも、路子の中に一種の「神技」的な神秘があってこそのリアリティーですから、そこを「説明」だけで済ませないで「表現」を深め読者を捉えきらないとね。唐突な、あまりにとってつけた唐突なラストに感じられかねない。
 「路子」に於いて何が書かれるべきなのか、「僕」に於いて僕の何が書かれるべきなのか、それらが読者をどう感動させることになるのか、その把握をもっと強くすると、表現も的確に強くなるのです。
 案じたよりは文章は(まだとても安心できるものではないが、)うまく行きそうです、よく推敲すれば。あとは物語のリアリティーです。幻想にもリアリティーは必要なのですよ。リアリズムの意味ではない。作者の「本気」です。真実感は、その本気の強さ、つまり把握の強さの生み出す表現の強さ・深さから、しか、生まれはしない。路子に化りきって、僕に化りきって、しかも二人を突き放して客観視してごらんなさい。まだ、未熟な人形芝居のように
動いている。作者に都合良く動かされている。 1.3.19
 

歌のことなど、賛成です。歌を書き続けながら、あなたには「批評」を、文芸でも演劇でも短歌でも社会事象でもいい、「批評」という視線を肥やしてゆくことで創作への手順を踏んで欲しい気もしていますが、そういうことは強いません。強いられてすることではないから。むしろ、やめておいた方が無難だから。ただ、書くなら、書かずにはやってられないほどのものを、噴出するように書いて欲しい。
 ホフマンの『黄金宝壺』に、水盤が出てきて、その水につけると無意味で無駄な文章は容赦なく消えて流れる場面が書かれていました。たいがいは消えて流れる、とはいえ流れない字や文が書きたいものです。
 わたしのe-文庫の、自撰五十首、いいのは、いいですよ。しかし、あなたの歌はあなたの歌でなければ成らず、たくさん読むのは佳いが、真似ることは無用です。あなたの昔の歌をまとめて見直せるのは楽しみだな。文庫に載せられるような特異性が今も見えているといいが。
 で、今の歌は、ホームページで見られるのですね。文章も、書きたいものは、書いていいのですよ、杓子定規に考えなくて佳いのです。  1.3.21
 

リアリティーという一語を東工大の学生に、翻訳せよといいましたら、なんと百数十のちがう解釈がでました。なかには正反対のものもありましたから、面白い。それほどリアリティーの把握は難しい。あなたのリアリティーを見つけだして、逃さずにその後ろ髪をひっつかむことです。 1.3.22
 

狂言、新内、能、短編、おもしろく拝見しました。新内は記憶にあるもののようでした。この四つを一つにくくって掲載してみたく、四つをくくった「題」を下さいませんか。綴じをばらしてスキャンをうまくやらないといけません。歪むと識字率がうんと落ちるので。もしも一つでもパソコンに入っていたら、その分はメールで貰えますと有り難い。     1.3.23
 

97年の歌をぜんぶ、ゆっくり読みたいので、いま、一太郎に移しました。どれを30選んだのかは見ていません。わたしの「e-文庫・湖」のスタイルでは「自撰五十首」か「編輯五十首」ですが。まずは「短歌読み」の好きな読者たちの鑑賞に、堪えるものかどうかを、吟味してみます。加え得れば、わたしがもう二十首、積み増ししてみますが。
 昔の歌を作りなおしてあるのを、少しだけホームページで見ました。これは直さない前の作の方が概して佳いようです。ふしぎなもので、実感はなかなか崩せない。措辞を調えたり修正してみても、時間が経ってしまうと、実感と実勢とが伴わないのですね。十ほど見ただけですが。 1.3.26
 

「作品」に成りそうな予感が持ててきました。題の「一本松」は、前の「神楽岡」と対のつもりかも知れないが、この作品ではあまり利きませんね。「地図」だけでも愛想がなく寂しい。「道のない地図」とか、「森へ」とか、なにか、考えてください。この作品で、何が書きたいのか、端的に教えてくれませんか。   1.3.27
 

作品を、読み通しました。およそ体を成したと感じましたので、試みに題を「森へ」と替え、第2頁に掲載してみました。ダウンロードし、プリントして、読みなおしてみてください。「神楽岡」よりも若々しいセンスで纏まったと思います。なんとなく惹かれるものがあります。さ、これを、さらに、どう拡げるか。繋ぐか。短編の連鎖になりそうですが、連鎖連作にも「貫く棒の如きもの」必要です。それは、大きな「総題」を把握することでもある。 1.3.28
 

   読みなおしてみました。おそらく、「神楽岡」を大きくとは言わないが、しっかり超えた、内容のある「森へ」であると思います。なにかしら、ハートの鼓動が感じられる。場面も、前作より豊かになりました。リアリティー。
 最初に送ってきた草稿と、わたしの読みなおしたものと、プリントをならべて、句読点一つまで、何を削り取り何を加えたか、それなりに何故だろうと吟味してください。細部の添削の意味をわかつてもらえるのではないか。
 小説は筋でもあるが、それを読ませる文章の命と勢いでもあり、短編では、そういうデテイルの生命感で読者を牽引してゆくことにになり、ちいさな躓き一つ一つで読者を突き放してしまうことになります。生き生きした想像力と、無用な歪みのないデッサン。目に見えるようにデッサン。そのためには、本筋を生かすものを書き漏らさず、本筋を邪魔するものをくどく書かないことが肝要です。
 今度の作は、手がかかりましたね。たしかに迷路に陥没してしまいそうだった。なんとか立ち直れたのは、添削。そして作にハートが感じられて鼓動がとまっていなかったから。わたしも喜んでいます。
 「作者」を感じ取って欲しいので、メールを、ここまでは差し支えないかなと思う限りを、「私語の刻」に書き込ませてもらいました。許してください。
 次へ、しっかり踏み出してください。お知り合いにも批評してもらってください。
 「神楽岡」「森へ」と並べて掲載しようかとも一度考えたけれど、まだ二作に太い紐帯が感じきれないので避けました。   1.3.30
 

 とても佳い原稿で、一気に読みました。お願いがあります。このままでは、いかにも高校の「形」の上での沿革にとどまりますが、惜しいと考えます。
お書きにくい面もあろうと思いますが、私見とお断りいただいて結構ですので、美術教育の理念・理想・実践の面に触れた一項、また、参考までにどのような卒業生を歴史的に輩出し、どのような先生方が刻苦努力されてきたのか、ほんの一例に過ぎないし主観的な理解だと断っていただいてけっこうですので、それももう一項お加え下さいませんか。すると、お原稿が、質的な面でもふわっと温かく豊かにふくらむと思いますし、読者の関心にも好奇心にも触れやすいと思います。たいへん貴重なこれは証言になりますだけに、ぜひ、この二項をざっとお書き加え、その分のみもう一度メールでお届け賜りますように。
 理念のことは、「写生」大切と。そこへ力点を置いて下さってありがたく、思われますままにご主張、ご提言下さい。  1.3.31
 

はじめの方を読みまして、この原稿は、推敲されていないと感じました。雑誌には発表されたものとお手紙にありましたが、このまま出たのでしょうか。失礼ですが、自分ならと、頭の方を一字一句想像を働かせながら手を入れてみました。細部で、推敲不十分という印象をもちましたので、ご参考までに直した箇所だけをお送りしてみます。原稿と、子細にご照合のうえ、ご自身の文体でさらにご推敲願います。これだけの短い中にも抜け字や転換ミスがかなりあります。経験を積まれた方の提示作品としては不備と判断しました。十分におしあげいただき、ぜひもう一度読ませて下さい。
 以下は、手を入れてみた文章です。けずったところは、不要ないし余計とおもったところです。書きそえたところは、印象をよりはっきりとと望んだ箇所です。誤字や抜けは補正しました。これは、あくまで、ご参考までにしたことで、失礼はお許しを。   1.4.2
 

江口さん  お手数をかけましたが、原稿の勢いが、ビーンと立ちました。貴重な証言であり提言であり、資料性も豊かで嬉しい限り。これは前校長さんとしても記念のいお仕事になりました。ご苦労をかけました、大学でも、どうぞご活躍下さい。  1.4.4
 

揃うまで待ちます。作品とは、仕上がったところで「命」が走るかどうかが見える生きもの。最後まで揃ってから読みます。ゆっくりでいいから、精魂込めて。     1.4.4
 

まだ「引き続き推敲」が終わっていないようですが、作者としてとことん納得したところで、プリントとメール原稿とを送って下さい。途中作では、読む作業がアテドなく、ムダになりますので。二の矢をのこしてはいけません。これでもう死んでもいいという作品にするのが創作です。  1.4.6
 

いま、ざっと通読しました。推敲はかなり出来ています、もう少し。前半だけでも成り立ち、緊迫感ありますね。後半になって、いかにも小説小説します。設定と展開に意外性がなく、こんなことではないかと予想したとおりにおはなしの進むのがつらいです。その点、前半は、意外性もあり、随所の表現も生きている気がしました。ただし、いま読んだばかり。もう遅く疲れてきたので、しばらく間をあけて読みなおします。あなたの手に入った材料なので、それだけに、ありきたりでない創意で冴え渡りたいものです。わるくありません。余人には描けない領地を占めているのがいいですね。
 1.4.12
 

泥眼  とりあえず、掲載してみました。うしろにも、私語にも書きましたように、作者自身の推敲を期待しています。前半の第一段落は、思うまま手を入れた例です。原作と一字一句句読点まで対照の上、わたしが何を考慮したか察して、思うままに手を入れてみてください。取り急ぎ。  1.4.13
 

さぎ 二稿受領。書き加えた導入に意気を感じました。瞠くのに、「かっと」とは、言わない方が読み手はそれを想像します。以下、プリントの届いたところで読みます。ご苦労でしたね。  1.4.18
 

 拝復  器械書きのお返事を差し上げますご無礼をお許し下さい。慣れてしまい、この方が意も尽くせ、悪筆も隠せますので。
  「e-文庫・湖umi」へご配慮の原稿プリントを頂戴しました。
 よく記憶に残っています、たんに径書房に限定されない「歴史的」な内容のもので、感銘を新たにしました。わたくしが原田さんのこれらご意向に心服していたこと、今も変わらないことは、分かっていてくださるものと信じます。
  その上で率直に申し上げて、「e-文庫・湖」に、これらをこのまま掲載した場合、現在の読者には、とりあえず、かなりの「補足説明」をしないと、良く通じないおそれを覚えます。長崎市長の「あの事件」から相当の歳月を経ています。忘れている人も、まるで知らないで来た人すらも多く、それからして、よほど「適切に解説」しないと、半端なことになります、が、その解説は容易なことではありません。
 さらに、あの出版をめぐっての紛糾も、事情の「適切な説明」には、原田さんのこの言明・言説だけで言い尽くすにはあまりに時間が経ちすぎ、例えば解同が問題にした「一文書」の原文も含まれないまま、原田さんのお言葉だけを並べました場合には、読者は、彼我の是非と判断とに窮するぐらい全てが昔の事件となり切っています。本質に於いて問題はいっこう「昔のこと」になっていないのを、この私はよく承知していますが、読者の誰にも同じ事は期待出来ません。
 これは何のことかと、知らない人に説明するのは容易でなく、また、このまま掲載して、舌足らずなままに、再び三度び、例えば解同その他から議論を挑まれたり抗議を受けました場合に、編輯者は、手元にそれに応じられる具体的な資料・情報での「対応責任」を持ちきれないであろう事は明らかです。それだけの用意を持ち得て対処しなければ編輯責任が果たせませんが、私に今直ちに出来るとはとても申し切れません。
 まったく同じ趣旨のご意見やご意向を、あの、今や解説を要する個別の事件絡みでなく、今少し広い視野からご発言いただく方が、真意も通りやすく、自然に耳にも目にも訴えうるのではないでしょうか。原田さんにそれがお出来にならない筈がないのですもの。情理を尽くして原田さんの思想がしみじみと柔らかに伝わりうるお仕事が、文章が、発言が、過去に山ほどあったと見ています。そういうものをどうぞお選び頂けますよう、編輯者として重ねてお願い致します。原田さんの「人と思想」を確かに読者に伝えたいのです。
 花どきに冷え込みます。お大切になさってください。一度またお目にかかりたいものです。日本ペンクラブにも入っていただき、ご発言ねがえればなあと私個人は切に思いますが、いかがでしょう。  二○○一年四月二日 夜

 
待たせました。かなり検討しまして、思い切ってこのまま掲載してみました。ただ、病院で火傷のからだに「路子」が目をあてるところまで、文章の勢いや整いや力点の重複などに配慮して、わたしが筆を入れました。原作とよく照合して、納得のいかぬ処は言ってください。とても澄んで清いいい文学にもなりうるし、通俗読み物に落ちこむ危険性ももっていて、きわどいままに未完成という認識ですが、ここで厳しい読者の目に触れながら作品をよりよく仕上げてゆくことも、体験していいと思いました。幸い、さしかえは、難しいことではなく、徹底的にいいものに仕上げて見てください。可能性はあると思っています。湖    1.4.26
 

お歌を選んでくださり有り難う存じます。
現在詩歌の欄だけで、三十人を越す作品が揃っています。短歌と俳句とは、すべて「過去生涯の作品から」「自撰五十」をお願いしています。手間をかけさせ申し訳ないのですが、その方が、その歌人俳人の実力と共に、歴史も浮かび上がると、とても好評です。最近のお仕事から、あるいは最近の歌集からだと、目にも入りやすく、むしろ単行本や雑誌で読まれ得ますし、また一歌集で五十首となると、どうしても撰が甘くなりますので。
玉井清弘、大塚布見子、辻下淑子、北沢郁子、高崎淳子、木山蕃、長谷えみ子、上島史朗さんら、みなそのようにお願いしてきましたので、恐れ入りますが編輯者の意のあるところお汲み下さいますよう。     1.4.30
 

エッセイが送られてきた。読んだ小説、観た映画を通して語られているのだが、一つには、多様で不特定な「読者」がまるで勘定に入っていない。いきなり「アンナ」と出てきたのがアンナ・カレーニナのことと分かるのに、読み進まねばならない。原作を読んだことのない読者、映画を観たことのない読者には、はなはだ分かりにくく、書き手の思いだけが露骨に取り纏めて書き込んである。わたしの「私語の刻」なみの主観的な日記ででもあるなら、たんに「私語」であるのならそれでもよかろう、が、随筆という自立した文藝作品の場合は、「私語」だけでは成り立たない。たとえば短歌の同人誌に短歌の話を、映画雑誌のなかで映画のことをというふうに、予測できる読者の世間が狭ければ、「私語」で通じる可能性は高い。しかしインターネットの文藝は、その点、かえって厳しい条件に適わねばならない。書き手だけが分かっているのでは感心できない。限度は有るにしても、あくまで、読み手に読んでもらうための書き手の親切心も厳しく要求される畑である。
 随筆には、ハートの柔らかみが、表現にも生きていて欲しい。漢字の熟語を叩きつけてくるような表現では、なにか硬直した演説を聴くようだ。また、漢字の熟語は一語に多くを包含できるかわりに、つい、その含蓄に、意の有る多くを安易に託してしまう手抜きになりやすい。文章の生気が記号化されて、いっそ空疎に陥ってしまうのである。そんなに気張らなくてもと宥めたくなる文章は、要するに観念的空疎に落ち込みやすい。自分の感動や印象を、くだいて具体的に伝えようとすればこそ随筆になる。そこが聴きたいと読者のおもうところを、軽便に既成熟語で通り抜けられては、随筆にならない。考え直して欲しいと思う。   1.5.17
 

 元気にしていますか。
 牡丹の花が、「ころがって」いる、という出だしには、まだひっかかっています。牡丹花は椿のようにボタンとは落ちない気がしていました。椿でも
種類により崩れるように花びらから散りますが、牡丹は崩れ散るのの美しい花のように感じていました。
   牡丹散つて打重なりぬ二三片  蕪村        1.5.24
 

十七日に返信したのですが。要旨再送。 湖。(略)加えて言えば自作短歌の背景を語るか解説するかのようになっています、が、それは面白くありません。短歌は短歌です。自立して鑑賞されたいし。力まないで自然な筆致の随筆がいいですね。論考論説ならまた話は別ですが、それでも口調が固く固くならない方がいい。才走るといいますが、それは損です。走れば必ず息切れして空疎になります。再考してみてください。  1.5.29-1
 

体験や実感は充実しているのに、表現は空疎になるということが、あるものです。実感に満ちて生き生き暮らしている人が、必ず文藝の上手にはなれない道理です。あなたも表現者の一人ではありませんか。書き手が書いて独りで嬉しがる文章もあっていいが、それは、限りなく日記にちかい。独立した随筆は、読み手が読んで嬉しくなる文藝です。空疎でない体験や実感を、空疎な文章にしてしまうのでは文藝は生きません。  1.5.29-2
 

ご存じのように私は写実派ではないのですが、写実であろうとなかろうと、作品の命はいろいろに複雑なのです。小説ならばゆるされることが、随筆にはゆるされない難しいところ、あります。
あなたのあの高崎流の随筆は、他者からは、やはりカン高く声高な日記なみの独り言で、要するに分かりにくく、説得力不足で、不特定多数の読者にうんうんと面白がってはもらえまい、少なくも書き手であり読み手でもあるわたしを全く満足させませんでした。鼻息は荒いが要するにへたでした。
最近「ですます」調で送られてきた他の人の随筆を返却しましたが、甘い気分に流れていたからです。しかし、あなたには、「ですます」調で親切に優しく書いてみるのも一法かなと、勧めたい気がすこしあります。これは、いまふとの思いつきで気にしなくてもいいですが。  1.5.29-3
 

 さぎ三稿、ていねいに読み直しました。鉛筆を手にもって。ぜんたいに、文章がとてもすっきりしてきました。全部の七八割まで読み進めながら、あれこれの編集者たちならどう反応するだろうかと想像していました。なにかに応募しても、一つ二つの関所は通れるだろうかと。それでも、まだ鉛筆がだいぶ動きました。
 助詞への過剰な期待感が、一つ。「は・も・に・が」をきれいに整理できれば細部のゆるみはきちんと整います。緩急も的確に。とくに感情や運びの急なところで無用の「は・も」を削るとすっと流れが自然になる。それと「ような」「ように」はたいていの場合ないほうがピシッとします、不思議なものです。「すぐに顔を前に戻した」の「に」のダブリなど。「危険を感じる暇もなく」の「も」など。「女の子に譲ってもらうことができたが」の「が」の重複も清潔感を損ねています。「譲ってもらえたが」で過不足ないのでは。「仕打ちを考えないわけにはいかず」の「は」も無くてよく、たぶん無意識に調子づけています。より丁寧な気がしたのでしょうが、取った方がすっきりしてイキがよくなります。「一週間ほど入院して、祖母は息を引き取った。役目を終えたかのように静かに去った。」も、「息を引き取った。」という耳慣れた慣用句は、削ったほうが遙かに静かです。
 このレベルで言い出すと、推敲はまだまだ足りません、しかし普通の読者はこんな点には気づきません。だが、もし読み比べたら分かるものです。
 もう一つは盛り上げたいときの漢語の使用が逆効果になった箇所もあります、幾つも。言いたいところはむしろ柔らかに押し鎮め、静かなところに間延びを避けてきちっとした語彙を象嵌するのも方法です。
 七八割のところで期待を持ちつつ、しかも、こうなるだろうなと予測していた通りに話が運ばれてゆく。空気が抜けてゆく気になります。
 ラストシーンへの入り方ですが、路子が舞って鷺になる。鷺が死ぬ。ここが眼目なので、予定のシナリオどおりに落ち着いてしまうのが惜しまれます。このままだと僕の愛が感動に繋がらない。それがあるから路子も鷺も生きてくる。鷺も路子も実際には、此処にいなくてもいると感じさせるリアリティー。それを僕が僕の幻想の中で確保するのが本筋かも知れませんね。ちょっとラストが現実の条件にひきずられて飛翔仕切れていないかも。死なせなくても清まはることは可能かも。そのためには、まずは鷺がいて鷺が舞い、舞いくずおれて一瞬路子になり、また鷺にかえって、と、いった幻想もありえますね。音楽は僕の胸の中で鳴り続けていればいいのかも。
 そんなことを思いながら新幹線にいることを忘れていましたよ。
 ただ私語の刻にも書いたけれど、なぜいまこれを作者は書くのだろうという点で、編集者たちや読者たちを強く引っ張る動機の必然が、どう伝わるのか。作者は一編のただ美しいお話をつくりだしたのか、この物語にどれほどの己がモチーフを注ぎ込めていたのか、それは他者にも感じられるだろうか。そういったところが一つの問題、小さくない問題ですね。   1.5.30
 

ご無事に、ご平安にと祈っております、気力は確かと伺いなによりも嬉しく存じます。力有るお手紙でした。
また詩一編、跋文一章、ともに感銘深く拝見し、早速に「e-文庫・湖imi」の第四頁、第七頁に頂戴し掲載させて戴きました。跋文は、改行が一箇所もありませんでしたが、少し読みやすくお気持ちも通りよいように改行させていただきました。さらに詩を、ご本から選ばせて戴きたいと念願しております。ご病状の平穏に推移して回復へお向かい下さいますよう切望します。   1.5.31
 

ただ今、頂戴しました御自撰五十首、そしてエッセイ「山桜」を、「e-文庫・湖」の第七また第五頁に掲載させて戴きました。さすがの御撰また文章の冴え、喜んでおります。二つの歌集の後記は、適切な場所がいますぐは見つからずご猶予を願います。ごらん戴きまして、間違いなどもし生じていれば仰せ下さい。有り難うございました。日々をますますお元気でと祈ります。  1.6.6
 

随筆受領、拝見しました。まえのよりはずっと読みやすく親切ですが、推敲は甚だ不十分です。感想も添えて、とりあえず「作業頁」に入れました。徹底的に直してみてください。 湖   1.6.8
 

岡田祥子様 湖 東淳子さんの五十首はすばらしいものでした。さすがに、と感激しています。よろしければ、その部分をダウンロードし、プリントして差し上げてください。そして御礼をお申し伝え下さい。真に力のある佳い詩人です。岡田さんも、お嬢さんも、何か書いてください。  1.6.9
 

いつもありがとうございます。川柳生涯でのご自撰五十ないし百句、どうぞメールでお送り下さい。時代にかかわってすでに風化しそうな作はお避け頂ければ幸いです。とても楽しみです。   1.6.13 
 

お手紙とディスクとプリント原稿、戴いたところです。母上の原稿であるということの分かったところで、原稿に関する予備知識になりそうな手前で、手紙は読みやめました。原稿そのものを無心に読みたいので。しばらく、時間を下さい。    1.6.13
 

すでに「朱鷺草」は掲載されています。心温かい、いい作品でした。無理なく、お上手です、とても。
一箇所、「直之さんと高山先生がきっと天国で手を取りあったにちがいない」は、「直之」という現在の父親ではなく、その父上の名の入るべきではないかと思いますが。「天国」という基督教ふうの言葉も、この地域では普通だったでしょうか。お返事を下さい。  1.6.16
 

随筆四編、申し遅れましたが、すでに四編掲載を済ませています。「私語の刻」などにも書きましたが、初めの二つには、少しだけですが手を入れました。あとの二つはそのまま掲載しましたので、さらに推敲の余地がないかお考え下さい。心温かいもので、嬉しく思いました。メールでご厄介をかけたご子息にも感謝します。ではまた。梅雨、お元気で。転ばぬようにしてください。 湖     1.6.16
 

「姦通小説」という耳慣れない言葉を耳にしたのは、大学時代の国文学の近代文学概論だったように思います。「姦通」という古めかしい言葉にある種のエネルギーを感じたのかもしれません、その言葉に導かれるようにフランス写実主義の代表作『ボヴァリー夫人』を読んだように記憶しています。人間性を解放することなく、問題を解決することなく、追い込まれて自滅的に死んでいく主人公エンマを魅力的とも愚かとも思わなかったのは、文学史的興味からの読書だったからだと思われます。(筆者原文)
「姦通小説」という耳慣れない言葉を耳にしたのは、大学時代、近代文学概論の教室でだったと思います。「姦通」という古めかしい言葉にある種のエネルギーを感じたのかもしれません、その言葉に導かれ、フランス写実主義の代表作『ボヴァリー夫人』を読んだと記憶しています。人間性を解放することなく、問題を解決することもなく、追い込まれて自滅的に死んでいく主人公エンマを魅力的とも愚かとも感じなかったのは、文学史的興味の読書をしていたからでしょう。(推敲)
「ように」「という」「から」「思う」等の不注意で安易な重複が文章をぬるいゆるんだものにしています。推敲したのですか。
 厳しいことをしつこく繰り返し言うのは、わたしにすれば、あなただからです。小説を書いたらとまで勧めたこともある責任もある。気を悪くしないで、文章を書くことの基本を考えて欲しいのです、素人さんではないだろうからです。  1.6.16
 

最初の投稿からすると、見違えるような推敲作です。それでもまだずいぶん不足や過剰や重複やゆるみが残っていました。編輯権を行使しました、一字一句、句読点に到るまで今回の投稿とくらべて、どうしても納得できぬところは言うて下さい。あの初稿を「散文詩」などと思ってはいけません。似ても似つかない、思い込み一途の詩的なメモでした。
強調したいほどの鍵言葉は、たとえば「生き抜く」といった言葉はここぞというところで使わないと、多用すると、キザに薄くなり、いやみになります。価値逓減の法則どおり、語調をあげればあげるにつれ、書き手のテンションほど感銘は読み手に伝わらず、逆にゴテゴテの装飾感を空疎に強めてしまうことだけは、よくよく体得されるといい。あなたの表現の、切れるおそれのアキレス腱かも知れませんよ。しかし、よく粘ってくれました、ご苦労さま。湖    1.6.20
 

日本語の文章は可能な限りそのように表記したく、2人でお茶を、なとどいったことを平気で書かれるとイヤですね。二十世紀、二十一世紀も、算用の表現でなく、順三、一子などと質的に変わりない汎用の日本語の名詞です。順3さん、1子さんと書かないのと同じです。一年生、六年生でもわたしは算用数字での表記は、むしろ変だと考えています。語感と美意識とから決めています。例外をもつことはむろんですが。  1.6.24
 

どうぞ、落ち着いて。待っています。頭で書いてはいけません。ハートで書くこと。  1.7.4
 

玉三郎、魅力の世界をつくれる役者ですね。よかったですね。夜の帰りが遅くなったのでは。用心して怪我の無いように。
川端康成のことを「廃器の美」と書いて川端フアンに叱られたことがあります。
たえず作品の中で胸の内をのぞきこんで心理を説明したり解釈したり重荷にしたりしていますね、それが巧いのだけれど、神経質ではあります。しかし日本語の或る佳い一面を独自に把握していて、追随をゆるさない冴えがあります。気分の衰えているときは読みたくない、とても疲れるから。
平凡ですが、伊豆の踊子 雪国、山の音が好きです、わたしは。
鷺よ。次の世界へ飛翔してください。湖  1.7.8
 

「ドイツエレジー」を、思い切って、「e-文庫・湖」の「作業頁」に全編、仮掲載しました。わたしの思惑・目論見も、そこに、また「私語」のなかに、書き込
んでおきました。
全編をつぶさに読んだわけではないのです、まだ。しかし、アタマの方から読み進んで、これは、書けている、或る程度は、と思えたのです。いいえ、あなたのは、書けすぎるほど書けています。よく書けるために長くなるのは、書けないので長くなるより遙かにいいのですが、あなたのは、書けるがために勢い長くなり気味。刈り込めるところは多いと思いますが、あまりそれを邪魔に思わせないほど、読み手を先へ先へ誘う文章になっています。それが必ずしも長所とばかりは言えないけれど、可能性を感じます。自信を持って作者は大胆に作品に斧鉞を加えてみてください。あなたが、反対でなければ、作品は、この頁にドンと居座っていて貰おうと思います。わたしからの、具体的な感想や批評はそのつど、メールします。  1.7.8
 

能褒野 (手を入れた)あれで佳いとは言いませんが、原文に比べて読むと、原文がいかに雑に書かれているかは分かると思います。手綱が使えていないのですね、うまく。   1.7.8
 

本名を名乗って書くことには、佳い意味での緊張と責任とがあらわれ、満足感も深くはありますが。ペンネームの効用も小さくはありません。ご希望通りしばらく、名前を仮のものに変えておきます。「山瀬ひとみ」と。
ピアノをひいてから亡くなられる隣人のレディーなど、よく書けています。短編に纏めうるところですが、全体の流れの中でより深く生かされているとも言えます。
ずんずん読ませるということが、即、文学性を保証しているわけでもない、そこの機微に気づいて作品と格闘されますように、健康な汗を流してください、夏らしく。
題の「ドイツエレジー」は、作者の動機に根づいていると思うものの、読者からは、より魅力的な「題」の要請があろうなと感じています。
ママへの手紙の体裁ですが、その受け手のママが、叙述が乗って来るにつれ、つい置き去りにされがちです、かと言って絶えずママ、ママでもべとつきます。かねあいを、念頭に置いて欲しいところ。ママを、ただ叙述のための軽い便宜道具にしてしまうと、手紙という趣向が浅く浮き上がりますし、重くし過ぎると過剰のおそれも出ます。書簡形式の難しいところです。  湖  1.7.9
 

「ドイツエレジー」急遽、第13頁に入れて転送し、エクスプローラで確認しました。見てください。今日、会議の帰りにホテルのクラブで読みふけってきました。よく書けています。驚いていましたが、今はかなり感心しています。 湖  1.7.9
 

手紙を書き添えて、今日の夕方、原稿を、しかるべき人に送ってみました。月曜には届くでしょう。が、むろん、こういう持ち込みは、忘れた頃になっても返事の来ない方が多いと思ってた方が無難です。他の社の編集者たちにもウェブ上で見てくれと追い追いに言うつもりです。ともあれ万に一つもアテになどせぬがクスリです。
もし万に一つ、直接に電話が来れば、あなたの判断と責任とで、自由に話し合って下さい、わたしに気兼ねは無用です。 以上 時候柄、ぜひとも心身お大切に。    1.7.14
 

いつものように、厳格に、その歌一首で立って、読めて、味わえて、心のふるえてくる歌だけを選ぼうと、昼過ぎに本が届いて直ぐ、全編を一度通読し、爪印をつけました。作者だけが感じ、作者だけが表現を楽しんだものの、ただの読者にはとても伝わらないもの、表現の普通で平凡なゆるい・ぬるいもの、どこかに類歌のありそうなもの、は、悉くはずしました。作者には価値のある私史の玉は尊重しながらもはずし、読者の胸に、ああ代弁してもらえたなと感謝し感銘できる作だけを求めました。ペダンチックなほどの精神生活も、表現として生きた作だけに目をとめました。前集に比して表現に余裕のあると見えるぶん切迫の度はゆるみ、「うつたえ」の強度や鮮度はしゃれてやや気取った音楽のなかへ淡められていました。しかし、ところどころで噴出する呻きが生きてきこえ、覆いきれない真実の思いが漏れ出ているのを嬉しく感じました。この母子は、いまは、どう暮らしているのかなあと思いつつおります。   1.7.14
 

音楽85選 この中から20ないし3O首を選んで下さいませんか。抜けた物を特にと入れられてもいいですが。出来ないようなら、わたしの好みでやります。「線描の魚」からも同じように書き出して、両方から合計50首。できれば、自撰を願います。
懐かしく読みました。早業でしょう。これはかなり甘い大選りですぞ。
出来れば、お母上の歌業からもぜひ自撰五十首を世界に発信し記録されてはいかが。あなたが選んであげてもいい、わたしの詞華集に入られること、けっして恥ずかしいこととは思いません、わたしも、実現すれば心嬉しく。いかが。 
古典の森のプロムナード からもお気に入りの一編を、ぜひどうぞ。    1.7.14
 

今日ぜんたいを丁寧に読み直し、変換ミスや打ち違いをすべて原作どおりに直しました。
      芯までさびしき一人になりてありとふたたび逢はば告げむかわれは
芯(こころ)とヨミをつけてみました。いけなければ外しますが、音足らずによみたくなかったので。 
この二百三首、こう並べて読むと、大きな「連作」効果があり、生身の女の立ち上がるようで(失礼)、佳いですよこれは。優れた文藝作品になっています。詞書きを丁寧に添えてゆけば、歌物語にも、新蜻蛉日記にもなる。立派になる。おゆるしがあれば、これらの歌のままに、あなたとはまた別のヒロインを優雅に物憂く造形してみたいほどです。五十首に絞るのはタイヘンです。絞れますか。
プロムナードでは、どの一編を最も気に入っていますか。   1.7.16
 

>リエゾン・ダンジュルーズが正しいようです。歌集のふりがなはダンジュルーズの最後のズが抜けているようです。
訂正済み。あとの処置は任せて下さい。「e-文庫・湖」の第七頁詞華集のなかに掲載・発信しておきます。
>プロムナードのは、「疾く破りてむースタンダールと土佐日記ー」でしょうか。
いいでしょう。書架からあふれかえって足の踏み場もない暑い書庫から、うまく本が掬い出せるか見つかるかが、いちばん難儀な作業です。スキャンしやすいコピープリントを送って下さると、すぐ発信原稿にできます。よろしく。
>。母は何とか、元気
ウーン。お気の毒。言葉なし。
国文学者の論文の文章が概してひどくないかと、先日、国語国文学会で苦情を述べてきました。美しい日本語の論文を書いて下さい。   1.7.17
 

受け取った、必ず拝見するが、時間をくださいませと電話で返事がありました。読んでくれるだけで、まず、満足して下さい。例のないことですから、なかなか。お元気で。またお努めください。湖    1.7.17
 

>・・。が、事実だけ述べても自分史にはなりにくいですね。
これは逆です。むしろ事実だけを生き生きと克明に積み重ねる辛抱、概念的に説明しないで生き生きと描写する辛抱こそが、自伝の感銘を呼ぶのです。安易な解説へ逃げてはいけないのです。いちばん先に「一家」の移転を書きながら、親でなく伯父から挙げていて、父のいないことに一言も触れていない不自然など、読者は確実にそこで躓きます。「非在の父」こそ、あなたの主題なのではないかと思いますが。
立ち止まっていないで、どんどん前進した方がいい。アバウトにスケッチして良い意味ではありませんが。幼年時代は、いやでもまだ周囲の大人に包まれています。周囲の大人たちの性格を、言動を、いかに幼年の目と思いで遺憾なく美化せず剔決し表現できるかが幼年期自伝のカンドコロです。そこを避ければキレイゴトでしかなく終わり意味を失います。聖域をもたぬこと。    1.7.25
 

比べて:読み直し、添削に納得したら返事を下さい。エッセイとして、欲しいから。
日本の昔の建築でも、自然そのものとして建てられた例が、多いですよ。東洋や日本では、人間をすら自然の点景とながめ、自然に生まれて自然に帰ると思ってきたようです。自然=じねん、とは即ち死=帰る意味も持っていました。この辺はまたいつか話し合いましょう。この原稿はこれで中身はいいと思いました。平易に流れるように書くといいですね。     1.8.11
 

父との別れは、文章としては、かつてなく勢いよく書けています。やはり、のっぴきならないところに身を置いて書いているから表現が強いのです。動機が生きているのですね。むろん、少し推敲した方がいい、これは一つの記念碑的文章にちがいない。
それにしても分からないところが有る。なぜ、と思ってしまう。
「貧しい」という言葉を何度も用いていますが、貧乏という意味でしょうか。貧乏はそんなにひどいことですか。「心が貧しい」という非難の物言いがあります。「幸いなるかな心の貧しい者」というイエスの肯定的な貧しいもありますけれど。
父上の人生、それほどの転変と境遇とが、実はつよい意識と自覚とで選び取られた心豊かな実現であったのではないかと、一度もあなたは思おうとしていない。「父上の貧」を言う反動で暗に「自身の非貧」が認識され、そして父を哀れむ思いを露わに表白しているわけですが、まさにそういうあなたの思いこそ、ひどく「貧しい」のではないかという見方も可能なのだと、あなた、気づいていますか。
埴生の宿もとうたわれるように、貧しく汚いと見える環境のなかで、いかなる偽善的な冨やゆとりの人より精神的にラクに「玉の床も羨まじ」と生きてきた人たちは、むろん、いくらもいました。いまもいます。
容易にあなたは信じないでしょうが、もしそれほどの父上であれば、あなたを含めて、あなたの周囲の家庭や人間に対して、強烈な厭悪や批評が有ったという余地は十分感じられます。可能性はあります。
赤い服がどうしたの、ドアの外へ手みやげを置いてきたの、最後の最期に戸外で手を合わせてタクシーに飛び乗って帰ったのと、理解できるかといわれれば、理解しにくい。「逢いたかった」動機の強さに対して、腰砕けの逃亡に近いと気がします。存命か逝去かすら確かめもしないで立ち去るなど、信じられません。存命なら逢い、不幸にして亡くなっていたのなら、その最期について問い聞き、父晩年の人生や日常がどのようであったかを、僅かでも知り、さらにまた最期の同伴者に看取っていただいて有り難うと、きちんと礼を言ってくるのなども、子として、大人としても、当たり前の作法ではないのかなと思いました。
父上が貧乏であったという意味の「貧」は察し得ますが、「心が貧しかったか」は分からない。あなたにも分からないのです。知ろうともしなかった。
あなたの振舞は、どうも心貧しいという気がします。最後の最期まで自分勝手なマインドで父上を厚かましく裁断し、自身の振舞をすこしも反省せずに「是」として、「別れ」などと眺めている。それは何か大きく違うように感じます。謙遜にドアを叩いて、大切なもう一歩二歩を、すはだかの気持ちで中へ踏み込むべきではなかったのですか。悔いは残らないのですか、ほんとうに。父上の人生を、その側にいた人たちを、あなたが軽蔑するのは不当です。人間の幸せはどうあるのか変幻自在なのだから。父上よりもあなたのほうがよっぽど不幸せであるのかも知れないのに、アパートが汚い、貧しそうという勝手な評価から、身を翻してタクシーで逃げてきたとは、とても愕きました。
あなたに偽善と虚飾はないのですか。あなたは父上よりもそんなにマットウであり得ていますか。マインドで自分を祭り上げていませんか。
そう感じました。しかし、これを書いたのはよかった。あなたが、露わに出ている点でも、鏡を見るようにもう一度読み直してみるに値します。
いつものように厳しく言いますが、言わないと気が付かないんだから。  1.8.19
 

最初に、一読いように感じた「父の非在」  あそこでこの思いがまだ書けていなかった。これこそが主題であろうにと指摘した気がします。
今度の文章は書いてよかったものです。落ち着いたら、繰り返し読み直して自問自答出来るでしょう。それすら飛び越えてね本質思考していいことです。軽蔑はきつい言葉でしたが、結果として拒絶して後戻りした。何故かを、父でなく自分の問題として。  1.8.20
 

だいたい「私語」したとおりの感想で、わるくなかったけれど、なにに感動して描いた繪なのか、その波動が伝わらない「止まっている」繪だなと。だから静物だとは謂わないので、セザンヌや安井曾太郎の静物が答えをみせていますね。
もう一つ、比較の問題として玉上さんの繪。描きたい焦点が拡散せずに描かれていて画家の生動する歓喜が伝わってきました。あれは受賞に値する生彩あるものでした。焦点、歓喜、波動、生彩。そういうことです。作の動機がなにであるかということです。
たしかに以前より前進していますが、未だ、「美しい繪だな」とは思わせない。確かに一枚の描かれた繪は存在しているけれど、生き物としてでなくただ物としてそこに置かれてある。そういう感じなのです。展覧会だから特にそれが目立つ。ふるえるような、しびれるような感動から、こう描かずにおれないという動機が立ってこないと、まさにじょうずな「お絵描き」で済んでしまう。上手だから感動するのでなく、画家の感動が伝わってくるから観ていて感動するのです。
夢中になっていたら、中休みは出来なかったでしょう、何をおいても。本来命がけなのは描く事であるはずなのだから。   1.10.4
 

やはりあなたなりに「仕上がった」ものがいいですね。それと、プリントは有り難いですね、外へ持って出ても読めるので。それとメール版も。
それが仕上がった頃に、いろんな迷いがあるようなら、一度漫然と顔を見て話してみてもいいですね、
創作は粘りです。それといいものを読んでみることも。わたしは今、余儀なく昔の良い作家の作品をスキャン原稿から一字一字校正しているのですが、大変な仕事だけれどまた、すばらしく楽しい面白い教えられる仕事です。ああ、文学ってこうなんだなあと身にしみます。藤村の「嵐」秋声の「或売笑婦の話」小剣の「鱧の皮」そして今は芙美子の「清貧の書」を。じつに機微にふれる心地です。
試みにあなたもやってみませんか、目から落ちる鱗が何枚も有るかも知れませんよ。その気になったら言うてください、スキャンテキストをメールで、原作原稿をコピーで送ってあげます。岡本かの子の「老妓抄」とか。    1.10.8

 

 

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