ぜんぶ秦恒平文学の話

お静かに  日本人の美意識  

 

この企画(哲学一日アート大学七回 日本の美の思想)の中で私に与えられている課題(最終回 日本人の美の思想)は、申すまでもなく、小さいモノではありません、むしろ、大きすぎる問題です。だから、容易でないのは当たり前です、が、だから、いろんな話しようがあるとも申せます。易きにつくというのではないが、思いつくまま話してまいります。
うたい文句によりますと、自分から言うたことですが、「さわがし」に対する「しづか=静・閑」、「きたなし」に対する「きよし」に喜びを覚えてきた、と。「禅寂」といったことも念頭に、静と清への思慕から、日本の美の思想に向かえればと思います、と、こう、予告しておりました。
旨い具合にそんなところへ辿り着けるものかどうか、根がもの書きです、話し手では有りませんので、多少、書いて用意したものに、目をあてながら、話しますことを、おゆるし願います。

かなり若く、まだ小学生のうちから、裏千家の茶の湯になじんでおりました。叔母が町屋での師匠をしておりまして、ま、かなり気の入った門前小僧でした。叔母は、遠州流のお花の先生もしておりました。生け花は、とくに、優れた技倆をもっていました。
町屋での稽古場ですから、社中といえば、近在のおばさんや娘さんが大方です、叔母は、お茶の稽古場でも、侘びの寂びのと、難しい理屈はほとんど言いませんでした。和敬清寂とも、口になどしません。ま、その是非はともかく、今謂う、この「和敬清寂」という、いわば茶の湯の看板のような標語ですが。

和も敬も、また寂も宜しいとして、三字めの「せい」を「静か」と書く人もいます。利休の七則でしたか、それは「清い」の方でして、「静かな」静と寂では、意義が重なります。一文字ずつに意義を帯びさせるのなら、清い方が、当然よいと、私も感じてきました。
しかしまた、清いと静かとも、同じ「せい」で、日本語の語感では、親密な親類のような文字であり言葉です。静かなものは清く、清いものは静かである。そう、感じてきた歴史が、ある、と言いきっていいのではないかと思います。同時に、それらはまた、日本人の美の趣味から申しまして、美しさの基本の性質のように受け取られてきた。清らで静かなものが美しいのだ、と。美しいものは、静かで清らである、と。
そして逆に、騒がしく濁ったものは、醜く、悪しきものであるという、裏側の価値観も、これまた自然に了承されていたと思われます。
その例証をたくさん拾い上げてみる必要すらないぐらい、それは、美の感受・享受の根底に敷かれたコモンセンスのようであった、少なくも、時代を遠く遡れば溯るほどそうであった、と言えそうに思います。山や水の自然から、深く受け入れてきた好みとも、そこから形成された古神道的な感化による美意識とも、推察して、大過ないものと思われます。

また叔母の話をしますが、叔母が生け花を教えるときに、生け花を挟んで弟子と向き合う場所から、というのは、つまり活けられた花の、真裏側から、自分は手を出して、弟子の活けぶりを、ちゃつちゃと手直ししていました。これはたいへんなことなんですね、しかも、ぴしっとサマを成してゆくのです。そういう腕前でした叔母が、生け花でも茶の湯でも、殆ど唯一、口にした批評語は、「騒がしい」のはあきませんえという、それだけでした。言外に「静かであれ」と言うていたわけでしょうが、そうは口にはしませんでした。ただただ「騒がしい」のはいけない、よくありません、と。
ところで、別の生活場面では、叔母に限らず、身の回りにいました京都の大人達は、なにかの挨拶の際に、よく「お静かに」と申しました。たとえば父や私などが、外出すべく、「行ってきます」と言うと、打ち返すように、「お静かに」と、母も叔母も申しました。来客が、帰って行く際にも、そう言っていました。なにごとも起きないで、平らかにという、呪祝の言葉かのように私は聞き覚えて育ちましたが、さて、自分では、どういう実感で同じ「お静かに」と言ったかどうか、はきとしないのですけれど。
しかし、「騒がしい」のはよくない、「静か」なのがよい、静かであるとき、人は、ある「清まはり」の祝福を受けるのだという、ほとんど無言の教えを、霧の降り積むように、身内に蓄えてきたには間違い有りません。その体験が、およその根拠となり、体内に落ち着いてしまっていると、言えば、多少は言い過ぎかも知れませんけれども。

その辺までを前置きにして、ぐるりと一巡りして、またそこへ、うまく話が戻せますかどうか。いま少し、茶の湯の縁で話して参ります。

「一期一会」という、日本の思想としてはかなり個性味のつよい思想があります。日本の思想は、大概が、背後に外来思想を持っていまして、その換骨であったり、奪胎であったりすることが多いのですが、換骨奪胎という応用性の濃い中で、かなりいい線へ繋いで、日本固有の面持ちをもった一つが、「一期一会」であろうと思います。
一期一会は、もう先年来、コマーシャルの言葉にすら現われるほどですが、語義は、たいてい誤って通用しています。私はそう観ています。つまり、文字通り、一生涯に一度っきりのことと理解されています。「会」の字が、いわば出逢いの意味に受け取られています、が、本来の意義から、これは、大いに逸れています。違うゃないかと、私は、早くっから「異論」を唱え続けてきましたが、根づよく、まだ、誤解のまま通用しています。

驚くことに、浩瀚をもって知られた『大辭典』(昭和十年・平凡社)に「一期一会」という語は出ておりません。世上に流布し始めたのも、そう古いことではない。
言葉としては、幕末の井伊直弼『茶湯一会集』に謂うのが、最も今日でもよく知られていますが、利休の高弟で、秀吉に惨殺された山上宗二が、どんな茶の湯も「一期ニ一度ノ会ノヤウニ」と書いていたのが、たぶん初例でしょうか、『山上宗二記』の茶湯者覚悟十体の一条に、「道具開キ、亦ハ口切ハ云フニ及バズ、常ノ茶湯ナリトモ、路地ヘ入ルヨリ出ヅルマデ、一期ニ一度ノ会ノヤウニ、亭主ヲ敬ヒ畏ルベシ」とあります。もっとも、この言い方は、更に先行して、千利休の師の一人でありました、室町末から安土時代の茶人、武野紹鴎の『紹鴎遺文』中「又十体之事」にあるのと同文の、いわば祖述であったようです。
はっきり「一期一会」と用いたのは、伊井直弼の『茶湯一会集』が、やはり最初らしい。和敬清寂などにくらべても、そうそう世に出て知られた言葉ではなかったわけですね。
この言葉の理解のために興味深いのは、今謂う武野紹鴎の言葉として、「一期一碗」という物言いも、また伝えられています。
紹鴎によれば、茶人は生涯に何千度も茶を点てたり喫んだりしますが、その一碗一碗を、一期に一度の一碗「かのように」せよ、という言明であったろうと思います。宗二も、直弼も、全く同じ趣旨を、表向き「茶会」という「会」に寄せて、謂うているわけで、井伊直弼はこのように書いています。
「抑、茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへば幾度同じ主客交会するとも、今日の会に再びかへらざる事を思へば、実に我一生一度の会也。さるにより主人は万事に心を配り、いささかも麁末なきやう深切実意を尽し、客も此会に又逢ひがたき事を弁へ、亭主の趣向何一つもおろかならぬを感心し、実意を以て交るべき也。是を一期一会といふ」と。
ですが、そこで上澄みを浅く掬って理解を停止してしまうワケには行かないんですね。こういうことです。
一期は、一生のことでよいが、その一生に只一回きりの一度一会だとは、宗二も、直弼も、決して言っていないんですね。ちゃんと「ノヤウニ」と言っている。

われわれの日常は、日本の四季自然が、うるわしくも、年々歳々繰り返しているのと同じく、いわば際限のない「繰り返し」を生活しています。そう枠づけられて生きています。清水の舞台から飛び下りるようなことは、めったに有るものでなく、また、それは思い切り次第で、一度だけなら可能なこと、不可能ではないこと、なんですね。
しかし、普通は平々凡々の繰り返しを生きている。退屈し、陳腐に凡庸になるのも無理ない日々を、繰り返し返し生きているわけです。昔は、今よりも、もっとそれがはっきりした生活の下絵になっていました。
茶人とて、たいていは、そんな具合に、繰り返し何百千碗ものお茶をたて、それでよしとしているのなら、その茶はさぞや不味いにちがいない…それではいけないと、紹鴎先生は、「一期一碗」に気を入れて、茶はたて、茶はのむようにと教えられた。
山上宗二は「一期ニ一度ノヤウニ」茶の出会いは、常に、心清新にと覚悟していたし、井伊直弼も、深切に先達の教訓を、敷衍していたんです。もし同じ場所で、同じ道具で、同じ顔ぶれで、また明日「一会」の茶湯を建立しようとも、単なる繰り返しでなく、あたかも「一期」に「一会」かのように、清新に出会おうと。繰り返しの一度一度を、一期一会、かのように、実現し、成就しようと。

茶の湯にかぎった話ではありません。どんなことも、所詮は「繰り返し」であることを免れようがない。その繰り返しの一度一度を、あたかも「一生に一度、かのように」清新に繰り返せるか、と、われわれは、取り巻く自然の呼び声として、日々に、問われています。その自問が「一期一会」であり、その自答も「一期一会」なのであって、一生に一度ッきりの機会、出会い、のことと限ってしまうのは、ほとんど誤解というのに等しいのですね。
繰り返すぐらい簡単なことはないようで、これほど難しいものは、ない。だらければ、たちまち足下に地獄が口をあく。文字どおり退屈する。

それにしても宗二も、直弼も、一会の「会」を、茶会・機会・会合の「会」とばかり用いていたのでしょうか。これも、違うのと違いますやろか。
一期一会の「会」と、あの祇園祭りの祇園会、あの「会」とは同じ意味でしょうか。社会の会は「しゃかい」ですが、法会の会は「ほうえ」だし、会得の会も「えとく」です、が、会議の会は「かいぎ」と読んでいます。出会いという「会」もある。
一期一会の「え」を、出会いや会議の「かい」のように、茶会という「かい」かのように、さも直弼は書いていますけれど、「一期一会」の背後には、それよりも、「一会一切会」という、頓悟・覚悟、の意義が隠れているのでは無かったでしょうか。『碧巌録』でしたか。この「会」は、端的に「会得」の「え」を意味している。一事に徹すれば、他もまた、と。
私は思うのですが、必ずや紹鴎や宗二の示した「ノヤウニ」の四文字は、一期の「一会・一碗・一事・一度」のもつ意義を喝破した、まさに「一会一切会」「一明一切明」の証語であったことでしょう。「一期一会」は、その、まさに、おみごとな換骨奪胎、転用であったとも言えるでしょう、それあればこそ、紹鴎も、利休宗易も、山上宗二も参禅していた。

なるべく、野狐禅に遁走しないように、話題を、自由に創ってゆきたいのですが、今も申しましたように「一期一会」には、日本の、典型的に四季を繰り返す自然が下敷きになっています。かなり日本出来の思想として、深いモノを持っていて、なにも茶の湯だけのものではない。優れた茶の湯人には、それだけの懐があった、覚悟があった、そういうことです。
では、一期一会は、日本人の「美意識」にも触れているでしょうか。「繰り返し」「繰り返す」ことの負荷=マイナスを、そのままで逆転させる点だけ見ましても、明らかに、優れた美意識への接点をもっています。

何度も語ってきました古証文を請け出して見ますが、ご承知の謡曲、「鉢木」を話題にしましょう。徳川時代、ことに武士達に好まれて、よく演じられた曲目です。なぜ好まれたか。あれは、梅松桜の鉢木にちなんで、鎌倉より直々に領地を得た、佐野源左衛門常世のいわば出世物語ですから、当然でしょう。
しかし、あの能の感銘はもっと別のところに、実は、あるのではないか。大雪の夜に宿を借りた、貸した、貧しい佐野源左衛門は、何処の誰と知れぬ突然の旅僧の寒さしのぎにと、他に馳走とてなく、秘蔵の梅松桜の鉢木を伐って、燃して、客僧に暖を与えます。その親切もいかにも感銘深い事ですが、さらに云えば、この主人公ならば、この痩せ浪人源左衛門ならば、もし、同じ場面が、同じように明日もう一度繰り返されても、明後日再現されても、可能な限りは全く同じに、心して、大事の鉢木を、見知らぬ客のために火に投じるであろうと想わせる、その心事に、必然思い及ぶ、そのことにこそ深い感動を覚えるのではなかったでしょうか、「鉢木」という能の真の魅力は。
「一期一会」とは、そういう覚悟、そういう実意の深さ、を意味しています。繰り返しをただの繰り返しにせず、幾たび繰り返そうとも、恰も、一生に一度のこと、「かのように」に、振る舞えるという意味でなければ、たいしたことではないんですね。一生に一度こっきりの思い切りや振る舞いでは、さしたることとは云えない。
いかに深く心新たに繰り返せるか、それが感動の源になっている。それが、私の「一期一会」説です。根に、「繰り返し」という「日本」事情が、西欧的な伝統では問題にされない、陳腐や退屈と同義語になりかねない「日本」事情があり、申すまでもなく、我が国土の四季自然がかかわっています。

井伊直弼や山上宗二とは、ほぼ無縁の人でありますが、しかも彼等と同じといえるほど、繰り返しの意義をよく悟っていた近代の人に、谷崎潤一郎のあること、昭和八年に彼の書きました「藝談」という論文のことは、それこそ、繰り返し、私は書いたり話したりして参りました。役者などの藝談ではありません、が、「藝」という創造行為について語っておりまして、日本や東洋の美の理想は、新しいもの新しいものを追うのではない、一つの価値有ることを「繰り返し繰り返し」追究するのだと云っています。くわしくはその「藝談」なり私の谷崎論なりをご参照願いますが、一つ申せば、有名な彼の『細雪』のなかで、或る意味で同時代批評家たちの理解が得られなかった、というか、鼻白ませた、と云いましょうか、そういう二つの場面がありました。
一つは、蒔岡四姉妹の二女幸子と夫貞之助との新婚旅行で、夫に好きな花はと問われた新妻は、言下に「桜」と答え、では魚はと聞かれて、やはり即座に「鯛」と答えたというところです。ま、なんと陳腐な、平凡なと、露骨に云うた人もいました。
も一つは、平安神宮の花見の場面です。豪華絢爛の絵巻だけれど、なんとまあと、ま、その辺で絶句した。そこで立ち止まって、その先までは踏み込まなかったんですね、多くの批評家も、読者も。
花見の場面では、谷崎は、慎重に、蒔岡家の人達が、例年の行為を、例年同じ場所で、意識してでも繰り返す気持を、印象的、いいえ象徴的に、まさに一期一会の事例として書き表しています。
そしてまた云うまでもなく、日本の桜も鯛も、文字通り、繰り返し繰り返してなお常に新鮮で良きもののシンボルとして、採り上げられていると読めるのです。はんなり、はなやかであるが、騒がしくなく、清らなもの、人の思い・心を、静かな深みへ誘うものとして。

しかし、また、静かでないと見えるものごとでも、また美しく心に触れてくることを、日本人は見知ってきました。
例えば、久方の、光のどけき春の日に、静心なく花の散るのを、「美」と眺めることを知っていましたが、それとて、神代の天津神々が、地上を眺めて、ウルサイ蠅がぶんぶんと騒ぐように乱れ醜きものどもよといった感想とは、根本異なる、美への視線が生きています。

この辺で思い切って「心」の話へ話題の重心を動かしてゆきましょう。
心というのは、さ、どうでしょうか、根は、静かに清いものなんでしょうか。それとも騒がしく、乱れがちに、濁ったものなんでしょうか。

「動揺する」といえば、たとえば地震のような状態より、心理的な不安などを意味する用例の方が多いようです。「こころ」は揺れたり動いたり、また騒いだり乱れたりする。
先に挙げました百人一首で知られた、久方の光のどけき春の日に「しづ心なく」花の散るらむ、とある「静心なく」とは、花の散りざまにそんな「こころ」のありようを重ねた表現ですね。「不動心」とも「平常心」ともよめる「静、心」と、「動き・揺れ・騒ぎ・乱れる、心」とが、どっちも、同じ「こころ」なんですね。
さらに、「こころ」は、浮きも沈みもする。浮かれも弾みもする。伸び縮みもすれば、湿りも乾きもする。はしゃぐこともあり、萎れることもある。それらがみな「静心」を要(かなめ)に据えて、扇の骨がひらいたように布置・配置されている。
「こころ」は、ある単一の平たい状態としてのみ、把握したり承知したりは出来ないんで、ほぼ絶え間なく、定まらない視線に似て、揺れ動いているわけです。
が、その根というか要というか、元の状態として「静心」が失せているわけでも、ない。
座禅を組み、禅定といえるほどの境地にまで達すると、なにより脳波や、心電図が、文字どおり「静心」なる状態を、波形で、目に見せてくれます。座禅の効能がいかがなものか、体験的には何も知りませんが、実験されたその真ツ最中の「静かな」直線を見たときは、感嘆しました。
同時に、こりゃ無理だ、とうていこんな境地に、私などは、立ちも座りもなるものでないと観念した。我々風情にとって生きるとは、まこと、さまざまに「心を騒がせ」ていることに、他ならない。
「こころ」と「心臓」とを単純に同一視は、さすがに誰もしていない。しかも、動揺のあまり「心乱れ」「心騒ぐ」状態と、破れ鐘をつくように「心臓」が激しく脈打つこととは、しばしば重なって、同時に起きる。一方で他方を代替しておくというわけには行っていない。
そして、面白いほど、同じように同じ程度に「心臓」の鼓動も「こころ」の動揺も、やがていつか静まっています。かならずしも、強い刺激に耐えられず衰え弱まる一方、というのでもない。「こころ」は、あまりに定めなく、つまり静かなままでもいられないが、動揺したままでもいられない。そんな「こころ」の動きに、われわれの「心臓」は、比較的忠実に伴奏を繰返しているようです。

日本人は「間」という言葉が好きであす。「間」に関する発言は、それぞれのジャンルで、独特に鍛練され洗練されていて、特異な芸道論や武道論の芯になっている事例が多い。
もっとも、裏返しに言えば、ジャンルごとに、かなりほしいままな「間」の理屈ではありまして、普遍性のある日本の「間」の本質論といえるほどのものは、まだまだ、あまり見た覚えががないのも確かです。

時「間」空「間」という。時空を総合する「間」の微妙を、たとえば「静-心」から解いてみせることは出来ないもんでしょうか。「静心」を要点ないし起点にした「こころ」の動揺、ないし活動のリズムとして、「間」を生理的に問うた議論が十分に行われていないのが、私にはやや物足りない。
文章の「間」は、例えば句読点の微妙な間隔から読みとることも可能ですが、それが文体形成にどうかかわるか、など、ただ書き表わされた文章からだけ、現象的に判定するのでなく、書き手の「こころ」の弾みかた動きかた、強いて言い換えれば、「心臓」の働きの、強い弱い・早い遅い、過剰過少等からも検証すべきだろうと思うんです。冗談でなく、脈拍にも、間伸び・間抜け・間違い、不整脈というのが、ある。
以前に、ある、勝れた臨床医にいわれたことがあります、あなたの文章は、えらく息が長い。つまりセンテンスが概してたいへん長い。よほど息をつめて長い文章を書いているのだとしたら、健康である証拠でもあり、その一方、心臓や肺をいたわる用意も、必要だと思いますよ、と。

息に乱れがあって、長いセンテンスを維持するのは、確かに難しい。おそらく歌唱でも、音曲でも、朗読でも、書でも、そうだろうと思います。
視線の運びにも、それは、影響をおよぼすに相違なく、「ゆったり」眺めるのと「きょときょと」するのとでは、端的に、脈拍の「間」の在りようが関係しているでしょう。裏返せば、「こころ」が、静かか、騒がしいかが反映しているのでしょう。
だが、座禅・禅定の人、のように、いつも「心静かに」いるということは、容易でない。静かに、静かにと思い、願い、焦る、それがはや「こころ」の波立ちなのであり、波は、容易に騒いでくる。荒れてくる。もう一度申しますが、私の幼時、といっても国民学校時代まで、日常に、しばしば「お静かに」という挨拶を耳にしました。だれかが騒ぐ、それへ、静かにしなさいととがめる言葉では、なかったのです。
たとえばいま外出しようという折り、また客が立って帰ろうという折りなどに、「お静かに」と声を掛けたり掛けられたりしたのです。バタバタしないで。けがをするよ……と注意する気もちがあったかも知れません。が、ちょっと様子はちがっていた。何としても、「お心、静かに」の気味に聞えていた。

話は、ポーンととびますが、あの、夏目漱石作『こころ』の「先生」は、つまり静かな「こころ」の持てぬ人でした。下宿の「お嬢さん」に恋をして、以来、つねに「心を騒がせ」ていました。
ことに友人の「K」を死なせてからは、愛した人を「奥さん」にしながらも、いつも「心の落着かない」人でした。まさしく、自分で自分の「こころ」を御しかねた。
そんな『こころ』という作品のなかで、作者は、「お嬢さん=奥さん」に限って、ひとり「静」という特定の名前を付けています。他は「先生」「K」「私」「父」「母」という按配です。
愛する「静」ゆえに痛ましくも「静心」のもてなかった男の、悲劇。その悲劇を綴った本を、この作者は、みずから念入りに装丁しまして、表紙に窓を開け、荀子の「心」の説を、抜粋していました。

古来、老子の「道」や荀子の「心」の説の重要なキイ・ワードが、実に「静」一字にあることは、原典に当って確かめることが出来ましょう。
当たり前の話ですが、禅=ディアーナは、即ち寂静=静かな意義を体しています。藤原定家のたしか法名が、寂静ではないが、たしか明静じゃなかったでしょうか、同義ですね。彼は之を『摩訶止観』冒頭の二字に得てた筈でして、定家も又、概して「静かな心」にはなりにくいたちの詩人でした。
日本の創作は、私の叔母なども含めまして、静かさを貴び、騒がしきを憎みました。「静か」「騒がしい」は、「清ら」「をかし」「おもしろし」などと匹敵する、基本の批評語でした。しかもいわば「心術」に触れて、この批評は、直ちに容易に、人柄へも及びました。「静心なく」という詠嘆に、余儀ない、日々の「悔い」が籠もるのは、凡庸の思いに「心根」のあまり揺らぎやすいのを、つくづく知らされているからでしょうか。

今少し、夏目漱石の「心の問題」に触れて参りたい。あらまし作品はご存じのことと思ってお話しいたしますが、「奥さん」「お嬢さん=静」の軍人遺族の家へ、帝大の学生だった「先生」が下宿します。彼は両親に死なれ、遺産の大方を叔父一家にかすめとられたのを怒って、人間不信のあまり、家郷を、完全に捨てて来た学生ですが、たまたま入った素人下宿の母子家庭になじんで、「お嬢さん」を好きになる。
そのまま婿入りしていれば何ごともなく済んだものを、やがて彼は、自分より貧しく、自分より不幸だと思うばかりに、親友の「K」を、自分の賄いで、同じ下宿に連れて来ます。養い親からも、実の親たちからも、離縁され勘当されて、どう取り付き把もない、頑なな「K」は、いつかやはり「お嬢さん」が好きになり、事もあろうに「先生」に告白してしまいます。
「K」と「お嬢さん」の接近に、事実以上に神経を擦り減らしていた「先生」は、恋する「K」を、さながら出し抜き、「奥さん」に、「お嬢さん」を下さいと申し込んで、承諾を得てしまいます。貯金利息の半ばを費し暮らして、なお経済に余裕のある「先生」と、貧寒たる「K」とでは、情の如何にかかわらず、優劣は、分明だったでしょう。だが、青年の純情を問うなら、「先生」が「K」を裏切った事実は動かない。かくて「K」は自殺します、久しい「先生」の友情に、ただ感謝の言葉を遺して。恋の詐術は、あるいは許されてもいいのかも知れません。しかし「先生」は自身を責め抜いて、「奥さん=静」との夫婦愛に生きる意欲よりも、「K」に殉じたいほどの決意のみを深めて行く。
その頃から「先生」の家庭に、ふとした事情で帝大生の「私」が頻々と出入りするようになり、親しみが深まり、「先生」の「私」に対する信頼がほぼ決定的になった頃から、「先生」は、はためにも暗い影をはらんだ不幸な過去を、「私」独りに語って聞かせて、いいと、思うようになる。聞いて欲しい、分って欲しいとすら、思うようになります。
折しも「私」は、卒業して故郷に帰り、父もほどなく重い病いから危篤に陥って、重ねて「明治」という時代までも逝ってしまう。そして東京では、ついに「先生」が、「奥さん」を独りのこして、宿執の自殺を遂げ、かねて就職の世話を希望していた「私」のもとへ長い遺書が届く。「私」は、遺書を見るなり、瀕死の父と家郷を打ち捨てて東京へ奔るのですね。

「先生」は「明治」に殉じた。「奥さん」は「先生」に殉じてあとを追った、などという、それでは『こころ』という題の作品が意味を成さない読みが、妙に通用していますが。「私」などは、ただ遺書を受取る必要だけで作品に登場しているとも、そういう人たちは言うのですが、名作を、台なしにしたいのか、と思いますね。「私」は、もっともっと重要な人物であります。

「先生」と「静」とは、所詮「幸福であるべき」実は不幸な一対の男女でした。最初に「K」の割り込むのは、辛うじて「先生」もしのぐ。ですが、あたかも一人二役めいて、「K」を、ちょうど、やわらかに裏返した感じの「私」が、あらたに登場し、実に自然に、それ故に当然、深く意識下に沈んで、美しい「奥さん」と若い「私」との間に信頼と愛とが育って行く…のを、「奥さん=静」の夫である「先生」は、認めざるをえなかったのです。
「K」をかつては追い落した「先生」も、今度は、「私」の存在に、却って静かな安心を得ながら、「奥さん=静」を、さながら預ける気持ちをも籠め、「私」への遺書を書いたのですね。
この只一人実名の「静」という名は、明治天皇に殉死した乃木大将の夫人静子に擬したなんぞというよりも、わざわざ自装本の表紙に刷り込んだ荀子「心」論の、殊に一眼目である、「静」の説に宛てたものと見たい。乃木夫人に宛てて何の「こころ」の研究になりましょうか。
第一、「静さん」の、「先生」後追い死を暗示する字句など、微塵も作中に認められず、逆に、「私」と「奥さん」とが、出逢いの最初から、どんなに親しく、心惹かれ合っていたかは、内証に事欠かないんです。結論として、問題作であり漱石代表作の一つである『こころ』の行く先は、生き残った、互いに年若い前途ある二人の、死者にゆるされた「愛」の確認に、至らざるをえまい、と思われるのです。二人の間には、既に子供の誕生も、かすかに話題に、現実になっていると読めるのです。それはもうこの頃では、ほぼ定説のように認められつつあります。

我といふ人の心は我一人、我よりほかに知る人はなしと、谷崎潤一郎に、頑強な述懐の歌一首がありまして、だいたい、誰もがそう思っています。しかし、そんな、我と我が心が、我一人には自在にコントロール出来るかとなれば、とてもとても、どうにもなかなか成るものではない。

『心』の「先生」は、何とかして「静かな心」を持ちたいのに、それが出来ない、という深い惑いにとらわれて、死んでゆきます。静かな心を期待させる運命的なシンボルのように「お嬢さん=奥さん」だけに漱石は、「静」という名前を与えたんです。荀子、ないしもっと幅広く、漱石は老荘の教えに、また彼自身も参禅していますように、「禅那」寂静に、明らかに間近な意識をもっていました。しかも、彼はその「門」の前に佇んだなり、引っ返すより他になかった体験、の、持ち主でした。
少なくも、「門」や「彼岸過ぎ迄」や「行人」や「心」を書いていた時期の漱石は、「則天去私」なんて、とても不可能なほど重苦しく生きていた人です。その漱石が、『心』初版を自分で装丁しました時に彼が表紙の窓に埋め込みましたのは、「心の説」の引用で、そのトップに、荀子「心」の説を捉えています。その言句は荀子の「解蔽編」に見えています。
人間の「心」とは、いつ知れず、汚れ歪んだボロを何枚も纏い付かせているような状態だと、荀子は、言うのです。さまざまな偏見で蔽われているのが「心」なんだと。だからその偏った蔽いを、ボロの一枚一枚剥ぎ取って、純真無垢な「心」に人は立ち戻らなきゃ、道を知ることまた難し……と。
さてその「心」ですが……。心の中は、いつも、いろんな事や物でいっぱいなのに、しかも、虚、つまりカラッポな、なお幾らでも収め取れる状態をもっている。
また、四方八方、天上へも地底へも、いつも限りなく向かえていて、しかも、壱、つまり、ただ一つ事に打ち込める状態も備えている。
それから、これが肝腎のところなんでしょう、心は、いつも活動していながら、その心棒のところに、不思議と「静かな」状態を、しっかり持している。それが肝腎要になっている、と。荀子は、そう、この解蔽編で説いています。いわゆる、虚、壱…そして、静の説です。
ところが…ほかの何を措いてもですよ……。小説『こころ』の「先生」には、その「静かな心」ッてのが、持てなかった。

漱石作『心』に関わって大事なのは、「静」の一字を、「心」のもっとも貴い在りようと認めている点だと思います。それを、作者は「奥さん=お嬢さん」の名前に据えまして、じつにその周囲に「先生」「K」そして「私」という三人の運命の男を意味深く配することで、人間の『心』の研究、を果そうとした、果した、というわけです。

それにしても、いま世間を一人歩きして、これは、あんまり呑気過ぎてないかと思われる相手に、この「心」があります。とにかく、「心」を持出してさえおけば、善玉で、意味深長で、頼りありげに、高等だと謂わんばかり。新聞雑誌も、テレビもラジオも、「心」のぺージや番組を必需品のように抱き込んでいます。なんとも「心よげ」に「心ある」「心暖まる」ようだけれど、さて、そんなにも、「心は、頼れる」ものでしょうか。
心が頼れないで、どうして、日々、まともに暮らして行けるものかと考えておいでの方が、多いようです。しかしその一方で、まこと、我も、人も、共に、心ほど「心もとない」ものは無いなあと、「ほぞを噛む」思いで痛感されている方も、決して少なくあるまいと思います。

ところで、いま「ほぞを噛む」という言葉を使いました。後悔しても及ばない。本当に臍を噛むわけではない。私は、この種の言葉を「からだ言葉」と命名し、以前に『からだ言葉の本』(筑摩書房)を出し、辞典も添えたことがあります。例えば「頭が痛い」「骨を折る」と、事実骨折しまた頭痛がするのを、「からだ言葉」とは申しません。現に頭痛が無くても「頭痛鉢巻」とか「頭が痛いよ」とぼやき、骨は折れていなくても、「骨を折ったのに。骨折り損だ」などという場合は「からだ言葉」になります。
人体各部の名称からは、夥しい「からだ言葉」が、湧いて出たように出来ています。「目が届く」「鼻が高い」「口はばったい」「二枚舌」「歯向かう」「耳ざわり」「眉をひそめる」「唇さむし」「首にする」「顔が利く」「面の皮が厚い」「額を寄せて」「頭越し」「頬かむり」「喉もと過ぎれば」「顎を出す」「目くそ鼻くそを笑う」「唾をかける」「空涙」などと、およそ、首から上だけでも何百とある。首から下へも「胸三寸」「腹芸」「肩で風を切る」「乳くさい」「手が利く」「足が早い」「及び腰」などと、仰天するほど「からだ言葉」は生まれ出ていまして、ことに「手」には、千にも及ぶ「からだ言葉」が、まるで生え出ています。「頭」と「目」にも、たいへん多い。
私は、日本人の「からだ」感覚や「からだ」認識を調べるのに、こういう「からだ言葉」の丁寧な検討が抜け落ちていては、たいへん「手ぬかり」なのではないかと、ずっと主張してきました。
「からだ言葉」の特徴は、少なくも、二つある。
体中で「からだ言葉」を生まない部位が、まず無いという事実。無数に有るのに、意味の分からない表現が、殆ど無いという事実。いつの間にか識って、使って、ずいぶん便利をしています。もう一つ、あんまり気持ちいい意味の「からだ言葉」が少なく、どれも辛辣な批評味を帯びています。
この二つの事実を、うまく説明するだけでも、日本人の「からだ」についての感じ方、考え方の、大事な要点が見えて来るのではないか。
「ことば」とは、暮しの現場を流れる血液のようなものであります。「からだ言葉」ほど、多用し慣用されている材料を、もっともっと大切に、「日本人」理解に、利用し活用してもらえれば、あまり観念的な、ややっこしい「からだ」論から、より有益な実体論の方向へ、転じ得るかも知れない、と、久しく、私は考えて来ました。
その「からだ」と、いつも一対・対極に在るかに思われている「心」ですが、さて、ほんとに「心は、頼れるか…。」実は、かなりもかなり、「心もとない」のではないか。
「心もとない…」とは、即「心は、頼れない」という意味を謂う言葉では、ありませんが、「心細い」「心丈夫とはいえない」意味である以上は、やはり「心頼みにできない」ことになり、回り回ってやっぱり「心は、頼れない」というのに近い、意味合い、を持って来ます。詭弁でも何でもない。これは事実であります。
だが、現に「心丈夫」とか「心強い」という物言い…も、ありますからね。「心頼み」というのも、要するに「頼もしい心」を感じさせる。

私は、こういう「心」のさまざまな、いろいろな状態を、これをまた、無数に表現している日本語に注目して参りました。是を、ひとまとめに「こころ言葉」と呼んで、これも、辞書にまとめたり、書いたりして来ましたし、こういう「こころ言葉」の数々を、具体的に把握し、理解してこそ、日本人の「心」観……「心」を、どう把握し、どう考え、「心」と、どう付き合って来たかを、より具体的・実際的・生活社会的に考察してもらう必要が、あるのではないか、と、提唱して来ました。

「心」って、何? 突然そう聞かれて、とっさに答えられる人が、そう大勢は有るまいと思います。どう思案してみても、なかなか「とりとめない」のが、どうも「心」というものです。これかと思うと、あれになる。そうかと思うと、そうではなくなる。
いま「心静か」であったのが、ふっと「心騒ぎ」「心乱れ」「千々に砕け」て、「心ここにあらず」という有様です。いとも「心丈夫」な「猛き心」「強い心」で、「心堅固」に「心強く」いた「心算=つもり」なのに、一瞬にして「心弱く」「心細く」「心沈んで」しまい、ついに「心病ん」だり「心狂気」に陥ったり、してしまいます。
「明るい心」が一転「暗い心地」になる。むろん、これと真っ逆様にもなり得る。「清い心」の人だと思っていたのに、じつは「きたない心」だったと分かったり、「心安い」と「安心」していたのに「心変わり」して、裏切ったり、裏切られたりする。
「心」というヤツ、じつに「とらえどころ」無く、現に、あれもありこれもあり、いろんな相反する意味の「こころ言葉」が、心の「とらえどころ無さ」を、じつに雄弁に証言して、余りある。
その「とらえどころの無い心」を、どうか「把握」したい、把握した気になって何とか「心静か」にありたければこそ、「こころ言葉」が、いろんな意味、いろんな面でこうも必要になり多産されたのでしょう。

現に、われわれは、在る筈の無いものを、敢えて在るかのように、「心」に、いろんな性質を付け加えて、説明して来ました。具体的な、余りに具体的な、例えば色や、形や、構造や、行為を付け加え、表現して来た。例えば「心構え」というように、「身構え」に同じ姿勢を、心にもとらせています。構造的な「構え」まで持たせています。
「心」には、「内」も「外」も、「奥」も「底」も、「隅」も、在るのだと観察して来ました。「心根」という根があって、根は深い「心の闇」に通じ、闇の中には「心の鬼」までが棲んでいると考えて来ました。
「心掛ける」ことも「心を尽くす」ことも「心を残す」ことも「心を宥める」ことも「心を見る」ことも「心をやる」ことも「心を通わせる」ことも出来るし、「心を休める」ことも「心を隠す」ことも「心を秘める」ことも出来る。「熱く」もなり「寒く」もなり「冷え」もし、「心温かな」こともある。そのように観察してきました。

いったい、どれが「心」のほんとうの在り様かというと、とても、どっちかへ、またどれか一つへ、決めてしまえるものではない。
さらに「気」や、「情」「精」「神」「霊」「魂」「モノ」などに熟している「こころ言葉」までも拾って参りますと、まざまざと、われわれの「心」の複雑さが、まさに「心の形・象」かのように、夥しくも、目に見えて来るのですね。
「無心の境地」を貴いという、が、また「無心」といえば、金品を人にせがむ意味にも、日本人は用いてきたではありませんか。
「心」なる日本語を、強いて定義づけよういうのが、もともと無理なんです。「心」とは、「必定まらない」もの、どうにでも変わってしまうもの、「不動心」「無心」「一心不乱」のときも、「大きい心」「広い心」でも有り得るけれど、これが、一瞬に揺れて騒いで、「心ここにない」「あやふやな心」「頼りない心」に、「狭い心」「ちっぽけな心」に、ぐらぐらと、変わってしまう。変わること、変り易いこと、自体が、「心」というものであり、一定(いちじょう)ではなく、まこと不定(ふじょう)のものと考えた方が、肯綮に当たっていると、そう考えた方が分かりが早いのだと、云わず語らず、日本人は知っていました。その証拠のようなものじゃありませんか、わたくしの名付けました「こころ言葉」とは。

むろん、修行や修養で「心を磨き」「心を鍛える」ことの出来た、立派な実例は、古来多かった。ですが、なまなかの「心根」「心掛け」で出来たことじゃあ、ない。ただもう悩ましいのが「人の心の持ちよう」だということになります。
「心」という一字一語を、ただトクトクと、掲げておきさえすれば、貴い、美しい、気高い、ご利益ありげな…もの・こと…かのように新聞、雑誌が、「心のページ」を持ち、特集し、現に氾濫していますが、どれほど、効果が上がっているというのでしょうか。「心」に対し、へんな固定観念を持ち、やみくもに「信心」してみても、それは、どこかで、間抜けて、間違って来ます。

仏教では、人の「心」は、迷いの根源だとしている。「心」も、「愛」も、どっちかといえば人を迷惑に陥れる、難儀なものの方に数えあげてあります。
「心」こそが、人間の自我(エゴ)の根底をなしていて、人を惑わしているのだと分かってしまった方が、どんなに佳いか知れないんです。「心」という「惑わし」からの「真の自由」を得た方が佳いんです。
「静かで清い心」とは、そういう、実に「無心」正に「無心」を謂うものと分かってしまった方が、本当に佳いんです。わたしは、そう感じています。

つまり、「心は頼れるか」は、正しい問いなんかではなかったんです。自分の心は、あなたの心は、ほんとうに「静かであるか」と問うのが、本筋なのでした。
荀子は謂います、心は森羅万象に関わり得るが、また、只壱つの事に集中できると。また無尽蔵に蓄え得るが、また一瞬に虚に返せると。しかも、心の芯の一点は、実に深い「静」を湛えて揺るがない、と。「虚」「壱」「静」の、この最も大切な「静」に関わって、人の「心」の不安を抉った、抉ろうとした作品が、小説が、あの夏目漱石の『心』でした。

人間の「心」を研究した作品だと、作者は、新聞連載の予告に書いていました、が、さ、その結果は、どうだったのか。
文明論ふうの批評には多く飾られてきたこの小説ですが、根本の「心」に則した作品論は、実に乏しいと私は見ています、私は。
「静かな心」ほど、作者にも、作中のあの「先生」にも望ましいものはなかった。容易に、だが、得られはしない。
たぶん、漱石『こころ』の結論は、人の求めてやまない「静かな心」なんてものは、死ぬまで手に入らないという、絶望、であったかも知れません。そんな気が、私にはします。

「静かな」は、この小説の重要な「鍵」言葉になっています。「静」という、作中「先生の奥さん」の名前は、かくも深い意義を持っていました。そして「静」の存在を、「先生」や「K」には手の届かない、深い深い「悩みの種」として、悩ましく、其処に置いたのです、夏目漱石は。
少なくも作中の「先生」は、静という名の「奥さん」に象徴された「静かな心」が、ついに保てなくて、自殺しなければならなかった。「幸福であるべき一対の(不幸な)男女」であったことを、証ししてあまり在る「心」の悲劇でした。「静かな心」は、この作品にも、我々人間にとっても、見果てぬ「夢魔」なのでしょうか。

深入りしたついでに、漱石の書いた女性に、「清」の名の与えられた例が、大事な例が、少なくも二例あります。ご承知のように『坊ちゃん』の乳母が「清」で、これは軽々しく見過ごせない、ある種の永遠性を、坊ちゃんに対して帯びたばあやです。もう一人、則天去私の作と謂われる、未完の絶筆作、『明暗』のヒロインが、「清子」です。
「清」いが、「静」かと、音通の基盤を共有していることは、他にも類字がありますが、他方の極に、「汚」い「穢」れや、「騒」がしいものとの、相対・緊張の関係で、意識的にも無意識にも捉えられていまして、静かに深く「清まはる」ことを喜び謹んで迎え、騒ぎ立ち、浅く「汚れ濁る」ことを、避け、退けたいと願う心性──。
まさしく「日本の自然」のありよう、四季自然の運行に学び・まねびながら、果ては、人間の心術や、気稟の清質に、ことを及ぼしていった美意識、というものが、ま、およそ基本の線を敷いていました。そして、その助走陪線の体にして、「にぎわふ」といった「趣向」する意向が、また、絶えず通底した価値の試行錯誤として、存在した。
陰気な静かさや清さではなく、陽気をはらんだ静かさや清さ、を求めるためには、そこへ「にぎわひ」が参与した方が効果があったでしょう。度が過ぎれば「けれん」の騒がしさに流れたり、走ったりする、が、その間際のぎりぎりまで、静かさと清さとの淵にまで、賑わふものを欲深く呼び込みまして、かくて、花有り、つまり、はんなりした美意識を満たしていたい、楽しみたい、というわけです。
その際に、最上の理想的な「きよら」な理想までは、たとえ届かなくても、二流の、次善の、つまり「きよげ」なもの、で満たされておくも、また良しと腰を引いて、「融通」を利かすところが、日本人の美意識の、優しさ柔らかさであり、「いいかげん」に、「適当」なところ、だ、とも言えるでしょうか。
ま、この辺にさせて戴きます。  (2002..1.31草稿了)

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