* 夜前。寝ようとしていたところから、坂東玉三郎の深切な案内と解説で、歌舞伎の衣裳、おもに豪華な女衣裳をたっぷりと見せてくれて、あまりの美しさ、すばらしさ、おもしろさに寝に行くどころでなく、恍惚として魅入られた。
ところどころ玉三郎がそれを着て出演している舞台写真が出るのも、ほとんど全部を比較的何時も間近で見ているので、懐かしくも優しくもあり、接写で細部まで近寄れる色彩美、染めや織りの豪奢さ、言葉をうしない、ほおっとなってしまう。
玉三郎の言葉をよくよく吟味した美しい日本語での簡潔な解説も、聴きごたえした。西陣の織り屋などでの打ち合わせや職人気質との出逢いなども要領を得ていて、ほんとうに佳い番組であったが、出逢ったのが二時、終えて三時。これは堪らない時間帯。
寝床へはいってから今昔物語で前九年の役の源頼義らの悪戦苦闘を読み、歴史は大正時代の「日農」成立の頃の農村事情を読み、ライトを消したモノの昼の寝正月もひびいてかいっこう寝付けず、また電気をつけて、今昔巻二十六の解き放たれたような珍奇譚のかすかずに読みふけった。此の巻からはもうとてつもなく面白い話ばかりになってくる。佛教の説教臭がぬけてしまい、名もない庶民の珍妙な話がこれからぞくぞくと出て来るはずだ。
眼も休めてやらないといけないので、また灯は消したが寝られず、何も考えなければいいのだけれど、退屈なので源氏物語の巻の名を四十五巻まで思い出したり、百人一首を六十あまり思い出したり、般若心経を暗誦したり、海外映画の題を百六、七十も思い出したりして、結局寝た感触はまったくなく、八時半に起きて血糖値をはかった。87は低い。三が日の雑煮を祝い終えてしまった。
年賀状を少し書いた。少しだけ。春に湖の本を届けられる方々は失礼させて頂くとする。
* 好天。なれど、おそろしく冷え込む。下半身が痛いほど冷たい。
2005 1/3 40
* 明日は、歌舞伎昼夜。またうって変わる楽しみ。今夜はよく眠っておきたい。そして高麗屋に、六月の「ラ・マンチャの男」予約するつもり。前にも日生劇場で観ているけれど。
2005 1・10 40
* 歌舞伎座新春興行は、成駒屋中村芝翫を座頭に、高麗屋松本幸四郎、播磨屋中村吉右衛門の兄弟が揃い、華やいだ勇みの演目が揃う。中村福助もいる。市川左団次もいる。大柄な顔ぶれで楽しめるだろう、初にお目に掛かる演目も一、二ある。小一時間で出掛ける。晴れやかに暖かいことを願うが。
今月はあます三週間、二日に一度の割でカレンダーが赤い。運動にもなる。この正月、気を付けていたというのも言い過ぎだが、心配した体重増が、ま、抑えられていて、血糖値は正常。もう暫くして今年初の診察がある。
* 昼の部は、まず「松廼壽操三番叟」で、歌六の翁はさまよく美しかったが、神様の来迎とはうけとりにくい生身の男の魅力であった。なにしろ昨日に梅若の「翁」の能をみて感銘を新たにしてきたばかりでは、歌舞伎の方が俗に頽れるのは致し方がない。高麗蔵の千歳もゆるゆるする。操りの猿弥がまだしも正月風情にきりりと締まり、しかし操られる人形染五郎の三番叟は、振りも顔の作りも、上出来とは言いがたい。ま、面白くは見せてもらえて、普通の出来。
二番目の「梶原平三誉石切」は、期待していなかったが、吉右衛門の梶原が見栄えみごとな、名調子。左団次、歌昇の敵役大庭・俣野兄弟もいやみにくどくならない好演。加えて段四郎と福助の青貝師父娘が丁寧な型通りに情が添って、全体にアンサンブルよろしきを得た、おおきな歌舞伎狂言が出来ていた。大味な芝居で一つ間違うと退屈しかねないのを、吉右衛門が堂々と惹きつけて放さなかったのは、流石持ち役、家の藝。立派に楽しませた。
三番目は「盲長屋梅加賀鳶」で幸四郎の按摩竹垣道玄が「初役」と思われない先代幸四郎や松緑を髣髴とさせて、然も当代高麗屋の達者な芝居で、店先ゆすりの場なども面白くみせた。「石切梶原」の娘役梢は、愛嬌も初々しい気散じに美しい若女房ぶりを福助が可愛らしすぎるほど可愛らしくやっていたのが、ここでは、ぶっぱなしバクレン女按摩お兼を、またも福助ががらがら声と大目玉と不思議な色気のしなをつくって、巧みに演じる。初めて観る芝居だったが、初役幸四郎のこういう生世話物のさすがな巧さに感心させられた。店先のゆすり場はいろいろあるが、幸四郎の道玄は、是も一興のものと安心して言えた。三津五郎の松頭役が、いなせで結構であった。
四番目は、座頭芝翫の「女伊達」に歌昇と高麗蔵が男伊達できびきびからんで、芝翫の貫禄がひきたった。小味に小気味いい舞踊。歌舞伎の江戸の魅力横溢。
* 昼食は「吉兆」がやはり佳い献立で、煮染め仕立てに趣向した一品一品が洒落たつくり。はなびら餅の吸い物や凝った飯。満足できた。茜屋で礼の珈琲。妻は柘榴のジュース。店の特製のジャムを買って。
* 夜の部は、まるで期待しないでいた「鳴神」を、三津五郎の上人、時蔵の雲絶間姫が、ぴたりと相性良くて、こんなに面白くできる芝居なのかと、役者の変わることの大事さをつくづく実感。三津五郎のニンではなさそうに見えて、この鳴神上人、いいわいいわ、つられて時蔵のセリフの多い姫役が、色気も美観もバッチリと引き立って、セクシイな場面もなかなかのファシネーション。聞いたか坊主の秀調と桂三も軽妙に花道を引き、鳴神をおとして滝壺の注連縄をまんまと切って落とした雲絶間姫も揚々と花道をつかい、最後に火焔に衣裳を引き抜いた鳴神上人の飛ぶような六方の激しい怒りも、納得できた。拍手喝采。佳い方へ大きな期待はずれは儲けもので、ウキウキした。花道そばの席が大儲け。
二番目は、「土蜘蛛」これが今日の最高の舞台になっていて、なんだか不思議な気分。筋は知り抜いているし、期待していなかった、が、吉右衛門のぞっとする迫力の土蜘蛛、芝翫の気品豊かにさすが見事な頼光、段四郎の一人武者保昌、それに胡蝶の福助、小姓の子役児太郎ら、緊密に舞台を創り上げて、揺るぎない完成度。おもわず場内に歓声があがるほどの盛り上がりで激しく締めくくった。吉右衛門という役者の大きさが、昼の梶原平三といい、夜の土蜘蛛といい、豪快に花咲くように魅せられた。
夜のとじめは、「魚屋宗五郎」を幸四郎が手堅く初役で演じて、この多能の俳優の優れた資質を十分知らせてくれた、が、芝居そのものは締めくくりのゆるい納得しにくい結末なので、一日見た数々の場面を、大きく締めくくるには狂言自体が物足りない。酒乱の体を演じても、俳優幸四郎が解釈した酒乱のザマであり、天然の酒乱ではない。だから温度が低い。其処へ持ってきて折角殴り込んだ「殿様」の屋敷なのに、すっかり腰砕けて終わってしまう。蘆燕の父親、時蔵の女房、などむろんわるくない。それでも台本の弱みは克服しようがない。
* とはいえ終日、大いに楽しめた初春歌舞伎、芝翫、幸四郎、吉右衛門、左団次、段四郎、時蔵、三津五郎、福助、歌六、蘆燕、友右衛門、染五郎などと居並べば、堅実で柄の大きい舞台が楽しめたのは当然、当然。
で、クラブに入って、ブランデーの瓶をからにして、アイスクリームで口を冷やして帰ってきた。
2005 1・11 40
* 二月の歌舞伎座は、夜の帰りは寒いだろうと、昼だけを頼んでおいた。座席が取れたと知らせて来た。そして三月からは、勘九郎が勘三郎に大きく化ける。
2005 1・22 40
* 中村屋勘九郎改め「勘三郎」への襲名興行が、三月四月五月とつづく。三月の番組が大きくぶちぬきに新聞にも出始めていて、ワクワクする。無事に座席が得られるだろうかと気が揉める。
われわれを中村屋に近づけ、まだ小さかった勘九郎を「かんくろチャン」と呼んでは印象づけてくれたのが、亡くなった藤間由子だった。あれで実はわたしより十前後も年嵩であったのだろうこの舞踊家は、わたしに書下しの舞踊台本を内心望んでいた。「雲隠れの巻」を考えていたらしいが、わたしはその頃そっちまでに手が回らなかった。それでも強く望まれて『細雪松の段』の詞章をつくった。由子ははじめ二人舞で、のちに一人舞で国立小劇場で舞い、松子夫人を泣かせた。
藤間由子はよくわたしを歌舞伎に連れて行った。先代中村勘三郎(勘九郎や波野久里子の父)が玉三郎と「夕霧伊左衛門」を演ったときなど、中央の最前列に席をつくつてくれて、役者の息づかいまで聞こえそうに親密な舞台の魅力に酔った。
勘三郎はもしほの頃から、なんて花のある役者だろうと京都の南座以来贔屓だったが、勘九郎は親勝りに優れた役者で、わたしもむろん、妻は熱狂の贔屓ぶり。
勘九郎というと、しかし、わたしは藤間由子がなつかしい。まことに淡い作者と読者とのおつきあいではあったけれど、親類のおばさんのように感じて、いつも厚意に甘えていた。新橋演舞場で先代鴈治郎と舞った由子の「祇園のお梶」藤十郎の恋は、畢生の大舞台だった。
娘さんに翔子ちゃんがいて、これまたイキな女人で、「かんくろチャン」らとの仲間内のようであった。彼女はブティックの店をもったり宝石の仕事をしたり、すてきにハイセンスなカッコいい現代っ子だったけれど、むろんお母さん等との舞台にも出て、綺麗に舞い、和洋両づかいの才女であった。そしてあるとき、母親の由子さんに聞くと、いまは新橋の藝者になっているという。新橋演舞場に招かれ行ってみると、それは粋な黒い着付けで、囃子方のすてきなお姐さんぶりなのにビックリした。由子が少し照れたような顔つきで娘の舞台に、劇場の中を小走りに右往左往していたのも今に懐かしい。
その翔子ちゃん(抄子ちゃんであったかも。)の電話で、由子さんの亡くなった報せがわたしの留守中にあった。妻に聞いて悲しかった。お通夜にもお葬式にも行けなかったが、行けていても行かなかったろう、そういうお別れがしたいとは思わなかった。
かんくろチャンが、いよいよ勘三郎になる。藤間由子を反射的に思い出さずに居れない。「勘九郎」の名跡はぜひ大事に残し伝えたいものだ、幸い跡取りに勘太郎、七之助という逸材が並んでいる。楽しみだ。
2005 1・26 40
* 中村屋の七之助クンの泥酔と乱暴とは褒めたことではないが、つねづねそういう青年とはとても思われず、父勘九郎の勘三郎襲名祝賀によほど緊張もし疲労もしていたのであろうと、いくらか同情もしている。この大事なとき、父にも前途が、子にも前途がある。大目に見てやって欲しい、そのかわり、三月四月五月と父にも兄勘太郎にも負けない芝居で魅して貰いたい。
2005 1・31 40
* あすは昼の部だけ歌舞伎座。楽しんできたい。
2005 2・3 41
* 暖かくありますようにと、立春に願うのはふさわしい。歌舞伎座昼の部、気分ゆっくりしてきたい。そうはいうものの、朝早い一番に、もう湖の本の再校が出揃った。
* 梅玉の青山播磨に時蔵のお菊で「番町皿屋敷」は、先頃の三津五郎の播磨にいささか期待はずれだったので、多くは望んでいなかった、が、中村梅玉には向くであろうと予想にたがわず、なかなか実(じつ)のある佳い舞台にしてくれた。初役に近いとは意外。梅玉のこの頃の舞台、気の入れようがだんだんうまく発酵してきて、この数回、観るつどに胸に落ちる芝居をしてくれる。気障なところが失せ、大人の二枚目として落ち着いた色気が出ている。わたしは、気持ち、この梅玉、魁春の兄弟に内心いつも声援を送っている。二人とも応えて呉れつつある。
時蔵のお菊は持ち役といつてもいいだろう。扇雀が朋輩としてつきあい、また前の場では、我当が町奴の放駒四郎五郎をやんわりと演じた。進之介は、あれは科白からすっかり叩き直さなくては役者にならない。
とにかく此の舞台がおかげでしっとり楽しめたのは大儲けであった。
* 次の「五斗三番叟」は吉右衛門の酔いっぷりを芯にした、リクツも何もないカブキそのもの。大酒飲みの五斗兵衛を酔い潰すことで、彼を、主君義経(三津五郎)の軍師役に推挙している和泉三郎(左団次)を失脚させようという伊達の兄弟(歌六、歌昇)の大酒振る舞いに、まんまと誘われてしまう吉右衛門のお芝居、ま、おおらかなものだ。この舞台では、珍妙な二組の仕丁たちが、五斗兵衛にからみつく趣向が素っ頓狂におかしい。この舞台、実に珍しく女形がただ一人も出ないのである。ばかばかしくあはあは笑いながら楽しめばよくて、それなりに役者ぶりがよく揃い、楽しめた。
*「隅田川」が最良の舞台であった。水気濛々、見渡す限り隅田の川岸、静かに寂しい景色である。はるばる都より、失踪した(さらわれた)我が子梅若を追ってきた母(鴈治郎)と隅田のわたしの船頭(梅若)だけで演じる、悲しい悲しい所作事で、梅玉の実のある親切な律儀な所作に迎えられた、狂女鴈治郎の演技はじつに分厚く、真実味に満たされて、この役者の力を遺憾なく見せた。なんという確かな役者であろう。その肉体の力のかぎりを尽くして広い空漠とした舞台の隅々までを支配する所作の美しさ、確かさ。「隅田川」にはまた泣かされるかと構えていたのも溶けて、やはり感動し、泣いた。鴈治郎をたすけた梅玉の好演を忘れるわけに行かない、と、わたしは彼に感謝した。
* 三津五郎の七回忌追善の家の藝「どんつく」を、当代三津五郎を引き立てて、菊五郎、仁左衛門、左団次、時蔵、魁春、翫雀、秀調、菊之助、弥十郎、松緑、巳之助らがにぎやかに所作をみせ、踊りをみせ、軽業をみせてくれた。もとより三津五郎がよく踊る。やんやと楽しめばそれでよろしいい、亀戸天神の境内がはんなりと明るかった。カップ酒の大関がうまかった。
* 小気味よく歌舞伎座をはねて出て、ぶらぶら、ぶらりと銀座を歩いて、ま、簡単にと寿司の「福助」のカウンターに腰を据え、顔なじみの職人に世話を頼んで、心行くまで食べて飲んだ。妻は、ビールの小さなジョッキ一つを機嫌良く飲み干した。またどうぞの声を背中に、有楽町のビッグカメラまで歩き、DVDディスクを十枚買って、有楽町線でまっすぐ帰宅、ほっと落ち着いたのが七時ちょうど。昼の部だけというのも楽しいし、からだはラク。
松嶋屋から、三月勘三郎襲名興行の通し座席券がもう郵便で届いていた。四月の勘三郎は諦めているが、五月の「研ぎ辰の討たれ」はやはり通しで予約が出来てある。
2005 2・4 41
* 月末、月曜に新刊が出来てくる。来週は発送。そして七日には、久々の言論表現委員会と電子メディア委員会とが、同じ午後に、引き続く。その週末には病院と電子文藝館の委員会。その週を跨ぐと、いよいよ勘三郎襲名の芝居だ、昼夜の楽しみ。たしか昼か夜かどちらかは、二階席最前列、真ん中。楽しみ。
2005 2・25 41
* 今日、一の感動にふれぬまま一日を終えてはならぬと、二時半近いがまた二階へ来て機械をひらいた。
昼過ぎであったか、もう夕方に近かったか、藝能花舞台かなにかへ当代の松本幸四郎が出て話していた。弁慶などの役づくりを「彫刻」と同じと言っていたのが印象深かった。その手のしぐさなどから察すると、「彫塑」ふうに想われたが。
父の先代幸四郎つまり初代白鸚が主題の番組らしく、幸四郎は思い出を語ってくれていたが、その白鸚が生涯の最期の弁慶を演じた月のある日にNHKの録画カメラが入った。もう最晩年でからだも弱り、いまの幸四郎当時まだ染五郎は後見につきながら、父は倒れやしないかと終始気を配ってはらはらしていたが最期までやり遂げた。ことにこの撮影のあった日の弁慶は、生涯でも最も光り輝いたみごとな弁慶を演じきった、奇蹟かと思った、忘れることの出来ないまさに畢生の名演だったと。
そのフィルムが紹介された。
いやもう、わたしも妻も金縛りにあったように間違いない先代幸四郎畢生の弁慶をみせてもらったのだ、おそろしいほどの突風がその演技を包んで風は光っていた。富樫は弟の尾上松緑、この富樫もまた間然するところ無い気迫凛然、弁慶の勧進帳から、ことのついでに問い申さんあたり、テレビの画面をただ観ているだけで、ガクガクと震えてきそうな威力と魅力に圧倒されて、涙があつく煮えたのである。義経はやはり末の義弟の雀右衛門。飛び六方の後見には息子の今の幸四郎が控え、まあ、何という輝いた勧進帳であったろう。至福とはあれであった。嬉しく嬉しく愕いた。拍手が鳴りやまなかったというのももっともであった。
そんなに佳いものを観たのに書き留めないで寝るワケには行かない。
2005 2・26 41
* わたしが、新勘三郎の息子の七之助が、父の晴の三月襲名の舞台に立てないというのを気の毒に感じたことに、つよい異議があらわれた。
* 藝人なら許せて、大名なら、というのはおかしな話ではありませんか。大名に生まれたことに罪はありません。藝人にも大名にもよい人間悪い人間がいるというだけではありませんか。権力があることが悪いのですか。
以前に「私語」に勘九郎の息子の七之助でしたかの泥酔暴行事件を弁護していたのを読んだ時にも変だと感じていました。
これが政治家の息子でありましたら、あのように庇いはしなかったでしょう。偏見があるのです。逆差別です。政治家は悪で歌舞伎役者は善という。どちらも特権にあぐらをかいてはいけない点では同じではないですか。
私は歌舞伎藝術を尊敬しますが、現在の梨園の役者たちは不必要に崇められすぎていると思います。彼らの藝を認めるだけで充分のはずです。
梨園の名門の息子たちの素行には正直呆れています。あまりに甘やかされ、思い上がっています。染五郎にしろ、海老蔵にしろ、まだ二十代の独身での愛人、隠し子騒動です。梨園以外の世界では、あのようにしれっとして「藝の肥やし」とは認められません。人間として恥ずべきこと、許されぬことでしょう。いばりくさった医者でも責任とって、できちゃった結婚する時代に、何様かと言いたい。遊ぶだけ遊んでポイ棄てをして、心の痛みもなくまた新しい女では、そんな人間に真実心を打つ藝が極められるとは思えません。梨園ならしかたないと妙に庇う世間がおかしい。一度は責任とって結婚して妻子と別れたホリエモンだってあれだけ叩かれているのにです。 一読者
* 興味深い問題をこのメールは幾つか抱えている。例えば菊池寛の書いた「藤十郎の恋」が容易に割り切れない問題を抱えているように。おりしも勘三郎についで大物襲名にその坂田藤十郎を中村鴈治郎が、という前評判はすでに路線上を走っている。藝術院会員で人間国宝鴈治郎の夫人が、当代の参議院議長で、暫く前までは小なりとも一政党の党首政治家で国交大臣でもあったことは知られている。典型的に藝人と政治家とが一対になっている。そして鴈治郎丈が艶福に富んだ役者であるらしいことは、ときどき派手な噂やスッパ抜き写真になっている。
もし扇千景氏に政治家として不審な問題が生じれば世間は赦さないだろう、幸いそういう事実は表沙汰になっていない、贔屓の成駒屋のためにも有りがたい。
わたしのいわば政治家=権力に対する、「逆差別」ということが、上のメールで言われている。「権力を持って悪いのですか」とも詰問されている。わたしは、こういうふうに考えている。
* 「差別」というのは「セクハラ」とも同じで、ふつう、社会的に優位者・強者・権力者から劣者・弱者へのものです。天皇や皇族や大名や社長や政治家などへは、痛烈な「頬笑み」を伴う「批評」「批判」「毛嫌い」「白眼視」はあり得ても、「差別」はあり得ない、なし得ないのです、弱者、下位者には。したくても出来ないのでね。
かりにも大名華族と藝人とを平たく並べて差別とか逆差別とかは、言わないし、言い得ない、有りえない、のですよ。
あなたの藝能人への怒りは、わたしもより広く一般化しての話、かなり強く共有している方で、藝能人の増長ぶりへのわたしの怒りがあまり強いので、あなた差別へ逆戻りよと妻に笑われるぐらいなんですが、彼等がどういう立場にいやほど長く久しくいたか、その実態も熱心に調べ、こまごまと知っていましてね。
それに、何よりも社会的な弱い弱い立場から、われわれをどんなに楽しませてくれてきたか、それを政治家や独占資本家ら世の強者たちの強悪・偽善ぶりと同列に比べるのは、その方が恥ずかしい。一度落ち着いて、幕末から少なくも太平洋戦争までの「日本の歴史」を見直してみられたら、軍閥・財閥・藩閥・閨閥の権力と強欲とが、どれほど無辜の国民生活を惨憺たるものに蹂躙してきつづけたかを知るでしょう。
弱者から強者への「逆差別」なんてものがもし可能なら、それは素晴らしい「恵み」ですが、そんなことは不可能でした、千年も二千年も、変わることなく。今も。
* 偏見であれ無かれ、わたしは適切な権力の設定を社会的に余儀無しと思っているが、その権力を天与かのように私有して放さない権力者達の存在を、とうてい肯定し容認する気には成らない。権力は、まわりもちに活かされるべき機能であり、少数の人や階層の私物になってはならない。そういう連中が権力をもつのは「悪い」のであり、大名の子に生まれた以上仕方あるまいなどとは考えない。まして、藝人と大名を横並び平等に観るような人間観は持っていない。
はっきり言えば、もし在るとして藝人の特権は歴史的・世襲的に強いられた負の特権・特色であった、が、例えば大名や独占資本家の特権は、国民から強引に苛酷に奪い取った特権である。同列に観るのは間違っている。その上で、当節藝能人の「批判や非難」をするのはなんら差し支えないし、それはそれ、必要ですらある。それならわたしにも沢山な思いがある。
坂田藤十郎は、女形の藝をつかみたさに偽りの恋をしかけて、お梶という女性をついには死に追いやったと、菊池寛の小説は書いている。「藤十郎の恋」をどうみるか、わたしはこの話を知ってこのかた、正直、さだかな結論が得られていない。
しかし、あの程度のほぼ余儀ない泥酔の過ちに落ちた少年中村七之助、それも輝く才能を感じさせる有為の少年を、晴の舞台から追い立てる必要は「無い」と観ていることは、もう一度ハッキリ言う。そんなことに警察や検察がおおく手をかけているなら、橋本龍太郎らの「一億円」問題を、堤義明の「コクド」問題を、ぬかりなく徹底追究して欲しいと思う。少なくも七之助問題とこれらとを同列にみて、一方を庇うならもう一方も庇わないと「逆差別」の偏見だというような理窟は、全く成り立たない。軽犯罪も極重犯罪もおなじ犯罪であり同列にものが言えるなどというのであれば、これをこそモノを観ない歪んだ悪平等というしかない。
2005 3・6 42
* 新勘三郎の次男七之助が父の晴れ舞台に「後見(付き人と書いてあるが後見のことか。)」に付いて顔を見せていると聞き、喜んでいる。
昨日も幸四郎(当時染五郎)が父先代幸四郎の最期の弁慶に、後見で、花道の飛び六方までしっかり付いているのを見た。弟の吉右衛門は四天王の一人で舞台にいた。兄も弟も食い入るように父の舞台に全神経を開いている熱気と意気とがよく伝わってきて感動した。七之助もそういう後見という形で父勘三郎の藝に接しうるなら、ほんとうによかった。
2005 3・7 42
* 結婚して四十六年。快晴、爽冷。早く起きて、明治のこと、少し校正。
今日は、勘九郎改め中村勘三郎襲名興行に、木挽町へ。昼夜、楽しんでくる。よく切符が取れたなあ、松嶋屋に感謝。
* わくわく。なにしろわたしは子供っぽくて、嬉しいことは嬉しくて仕方がない。楽しみは楽しくて待ち遠しい。勘三郎の襲名のことを、わたしはこの「闇」に何度も何度も何度も繰り返して「私語」しているが、性癖であるから仕方がない。
* 襲名興行、七之助の顔はやはりどの舞台でも遂に観られなかったから、「後見」ではない、「付き人」であったのだろう、それは当たり前の話で、だが、やはり残念だった。幕開きの「猿若江戸の初櫓」では叔父さんの福助が代わっていたが、やはり長男勘太郎と次男七之助とで、猿若と出雲の阿国とを華やかに若々しく演じて貰いたかった。一生に一度の父親の襲名口上の場にも出られないのは、彼一代の悔いでまた責任もあるにせよ、お祝いの気持ちいっぱいの観客からすれば、惜しみても余りあり文字通り残念だ。
父親と家との、この上ない喜びの日に、日頃あまり呑まないという酒を慶賀慶祝の趣旨から薦められ、否み切れなかったのは息子の気持ちとしてありうることで、その酒に負けたのは不運であったが、破廉恥な罪状ともわたしは思わない。軽犯罪であり、過重のお灸を勘三郎が言うのはムリもないとして、松竹あたりにもっと物わかりのいい裁きの付けようがあったろう。高校球児にしても、弱い者ほどこんな程度の所であまりに厳重処分される。大人げないとわたしは思っている。そんな気持ちを、もっと政治家や権力者に向けて、選挙に棄権などしないでもらいたい。
ながいものには巻かれる癖に、さも自分はそんな真似はしませんからとばかりに「才能」の頭を叩きたがるのは、わたしの好みでない。愚連隊や与太者とは違うといって、本当に言い過ぎなのか。
勘太郎、よかった。「鰯売」の傾城もきれいだったし、「猿若」もこざっぱりと踊った。「猿若」では美吉屋の吉弥が例のごとく凄艶、扇雀丈の立ち役も爽やかだった。
* 「平家女護島」俊寛は近松の「歌舞伎」台本で、之とは別の、能に変わりない「俊寛」もよく舞台に登るが、今日の、幸四郎の演じた「俊寛」が、わたしは好き。面白い。鬼界が島で、流人の一人少将成経(秀太郎)が、島の海女千鳥(魁春)と相愛の夫婦になったところへ、赦免の船が入る。赦免使の一人瀬尾兼康 (段四郎)は少将と平判官康頼(東蔵)の二人しか連れて帰らぬと、俊寛を拒絶する。が、もう一人の丹左衛門尉基康(梅玉)は、じつは俊寛にも赦免状が別にあると示す。少将は千鳥とともに島に残ると言い出すが、許されない。千鳥の乗船も許されない。
それからいろいろのあやがあって、結局俊寛は自分の身代わりに千鳥をのせよと提案し、それを拒む瀬尾を斬り殺す。瀬尾は、都で俊寛の妻を殺していたのだ。
そして船は去りゆき、俊寛はこけつまろびつ名残を惜しんで船を呼ぶ。幸四郎は申し分なく俊寛の最後を演じ、身の毛もよだつほど驚いたのは、幸四郎がてっきり先代幸四郎そのままの面影に変貌していたこと。卒倒しそうにわたしは感激した。
だいたい、先代幸四郎は中学高校生のわたしに「歌舞伎」を印象づけた贔屓役者で、我が家の中へも入って、わたしの手から乾電池など買っていったような人。彼の終生、わたしは贔屓だった。最期の弁慶もそうなら、最期の井伊大老もそうだった。
わたしの頭には、先代歌右衛門、先代幸四郎、先代勘三郎は、その上に初代吉右衛門を置いて、不動のトリオであったのだ。その先代幸四郎の顔が、まざまざと当代幸四郎の俊寛に幻出したのだから、わたしは総毛立った。
この親子は、常日頃まるで違う顔だと思い続けて何十年になる。まだ弟の当代吉右衛門の方に父幸四郎の面影がかすかにあると思ってきた。
それなのに、瓜二つのあの懐かしい幸四郎の顔が最期に立ち現れて、感動の舞台を静かにしめくくった、こんな事があるのか、とわたしはそれにも泣いた。いい舞台だった。
* 口上は、例の如し。舅芝翫が新勘三郎の引き立て役となり、幸四郎、我當の順に続々大幹部が居並んだ。秀太郎、仁左衛門と松嶋屋三兄弟が揃っていたのも心嬉しく、耳寄りに面白い話も飛び出した。わくわく聴いた。
勘三郎の祝儀がまたわれわれ夫婦結婚四十六年の自祝でもあった。昼食は、例の「吉兆」。申し分なくうまかった。
* 昼の部の最後は「一條大蔵譚」の檜垣と奥殿。新勘三郎にうってつけ、つくりあほうの大蔵卿を勘三郎はあでやかに演じきり、仁左衛門と玉三郎とで源氏の忠臣吉岡鬼次郎・お京の夫妻、雀右衛門が常磐御前という、襲名狂言にふさわしいひきしまった舞台になった。つくりあほうと来れば当節勘三郎にならぶ役者はいない。わらいながら、きりりとひきしまる。昼の部、あっというまに過ぎた気がした。
* 茜屋茶廊でやすんで、夜の部を待った。
*「近江源氏先陣館」盛綱陣屋は、今日最高の舞台といっておく、他も決して甲乙はなかったが。わたしは熊谷陣屋よりも盛綱陣屋が劇的な気がしているが、一つには子役で佐々木四郎高綱の子小四郎がすてきに活躍してくれるのが、ドラマを或る意味で荒唐無稽にもまた或る意味でリアルに厳しくも仕上げているから。
新勘三郎の気のはいった盛綱は、大きく演じようとして気迫満点。大活躍を強いられた小四郎に児太郎。母篝火に彼の父福助、祖母微妙に彼の祖父芝翫と、「伯父様」こと盛綱が彼の伯父勘三郎という配役なのだから、これも、文字通りのサービス。
盛綱の妻早瀬に魁春、和田兵衛に富十郎、信楽太郎に幸四郎、座頭格の北条時政に我當など、豪勢に顔が揃って、いやもう、したたかに泣かされた。ムリな芝居をムリでなく魅せてしまうのが、歌舞伎の醍醐味。寺子屋や熊谷陣屋より、わたしはこの芝居で泣かされたいと思う。
* 夜の二番目の「保名」は片岡仁左衛門の一人舞台。若き家元の清元延壽太夫が一舞台ごとにうまくなる。今日の歌舞伎座は、出語りも御簾内も何度も何度も義太夫が代わって引き締まっていたのも印象的。
* そして大喜利は三島由紀夫作「鰯売恋曳網」 なによりこれをわたしは楽しみにして待っていたし、待って楽しんだだけの愉快さ、おかしさ。しかも玉三郎と勘三郎との数奇の恋がしみじみ懐かしくさえあった。大笑いし大拍手し、満場揺れに揺れて最後の最後のご両人の花道の引き揚げまで、大口をあいてただもう楽しみに楽しんできた。三島の歌舞伎で最高傑作であり、勘三郎以外にこれを演じる役者はいない。玉三郎の位の高さ美しさ。陶然としかつ愉快になり、歌舞伎座の外へすがすがしく流れ出た。
* クラブでは、シャンペンで祝ってくれた。妻はビールを少し、わたしは「響」と「竹鶴」とをむろんストレートでよほど呑んだが、快かった。此処はみな顔なじみ、最もくつろぐわたしたちのサロンになっている。
機嫌良く、帰宅したのがほぼ十二時前。
2005 3・14 42
* 松本幸四郎丈から六月の「ラ・マンチャの男」の座席券が届き、中村扇雀丈から五月の勘三郎襲名興行昼夜の座席を用意できたと通知があった。六月の歌舞伎座も高麗屋に頼んであり、座席大丈夫と聞いている。歌舞伎は文句なしに楽しめる。俳優座の新作招待を、受けようか、パスしようかと迷っている。
2005 4・13 43
* 五月の勘三郎歌舞伎昼夜座席券が届いた。さすがにいつもよりは座席がやや厳しいが、それでもよく手に入ったと、成駒屋さんに感謝している。六月の帝劇「ラ・マンチャの男」ももう座席が決まり、コクーン歌舞伎も、木挽町の昼夜も太鼓判をもらっている。三百人劇場で再見の「アルジャーノンに花束を」も、わたし一人でもまた観よう・観たいと思っている。
2005 4・21 43
* 勘三郎の五月芝居、幕が開いたようだ。今回、辛うじて昼夜座席はとれたが、夜評判の「研辰の討たれ」は、二階四列目。ちょっと遠いか。遠眼鏡を手放さずに楽しんでくる。十九日夜の友枝昭世「安宅」も、とても楽しみ。
六月は帝劇の「ラ・マンチャ」、初めて松たか子が父幸四郎と競演するのが観られる。渋谷では扇雀丈らの奮闘「コクーン歌舞伎」があり、ひきつづき木挽町歌舞伎座の昼夜興行が待っている。秦建日子も、初めての中野で、また新しい工夫と演出で人気の「タクラマカン」を再演すべく、猛稽古中と聞いている。どれもこれも梅雨をふっとばしてくれるだろう。
気の早い、十月日生劇場で、高麗屋親子の評判作「夢の仲蔵」も、今日予約した。大首の役者繪を描いた天才写楽がらみの舞台である。歌舞伎名人と称えられた中村仲蔵のことは、これも名人だった圓生の人情話でたっぷりお馴染み。染五郎が演じるという中村此蔵もややこしく登場するというから、高麗屋お家藝の、じっくり・がっちりした演劇的な歌舞伎が楽しめるに相違ない。
2005 5・3 44
* さ、用意をして。木挽町へ。勘三郎の溌剌襲名の舞台を終日堪能したい。
2005 5・13 44
* 降られもせず、今夜は何処へも寄らずに帰ってきた。歌舞伎座の昼夜、十八代目中村勘三郎襲名興行、十二分楽しんだ。
* 昼「菅原伝授手習鑑」の『車引』 云うまでもなく梅王丸は勘太郎。桜丸が七之助。力演。それに負けない力演松王丸は、予想外に大きく立派だった海老蔵。襲名興行よりも堂々たる、佳い松王、位もあり歌舞伎が生きていた。左団次の時平は、いまいち陰気の妖気。贔屓目に観ても口跡凛々、居丈高に座頭らしく押し出せる我當で観たかった。何ということのない歌舞伎だが、おおらかに場面の映える、一番目としては上等の芝居。
次の所作事『芋掘長者』は、ひたすら面白く楽しめばよい。配役がきっちりしていた。秀調の後室が位ありやわらかみあり、この人のこういう役どころは、最近俄然印象的で、けっこう。これからも楽しみ。
花婿選びの姫さんが赤いモノを着て、亀治郎。この役者は新鋭から中堅へかけて出色の踊り手で、うまい。舞踊がよくなってくると芝居に余裕が出来、すると、役にニンがにじみ出る。このところ、いいことずくめの女形。踊りの上手を聟にするとふれだしたこの姫さんの聟がねに、権十郎と高麗蔵が名乗り出ている、そこへ、山一つ先の芋掘三津五郎が、介添えの橋之助と一緒に名乗り出てくる。風変わりな舞踊本意の趣向芝居で、たのしい。姫さんも母親も、この芋掘を、よろこんで聟に選ぶから嬉しくなる。
三番目は中村座芝居では恒例の祝言芝居になる、いわゆる「芝居前」で、ほとんど総出演、口上がわりの「祝言」趣向。両花道を使い、男と女。筆頭立役は菊五郎、女形は玉三郎。しんがりは梅玉と秀太郎。その間に十人ずつの人気役者が男女で別れていならび、工夫と洒落との祝い口上が、観客には堪えられない楽しみ。むろん舞台正面には中村座座元の新勘三郎と二人の息子、新しい部屋子の鶴松、そして顔役の芝翫、雀右衛門、富十郎ほか、中村屋系一門が花道の珍客を待ち迎えて、揃って、客席も加わり祝儀の手打ちになる。大喝采。『弥栄芝居賑』である。
並んだ男伊達は、音羽屋以下、三津五郎、橋之助、染五郎、松緑、海老蔵、獅童、弥十郎、左団次、高砂屋の梅玉。
女伊達は、大和屋以下、時蔵、福助、扇雀、孝太郎、菊之助、亀治郎、芝雀、魁春、松嶋屋の秀太郎。
* 昼のキリは、待ってました新勘三郎、中村屋家の藝の『髪結新三』、当代の背後霊のように「先代」勘三郎の凄みが髣髴する。ぴったりの嵌り役で、江戸っ子のカンの利いた高調子には、亢奮と快感と魅力との堪らないエキスが生きる。いい男ぶりである。意外なほど下剃勝奴の染五郎が手に入った小粋芝居で、十分楽しませた。悪党の新三にいたぶられる三津五郎の白子屋手代はいまいち損な役だが、二役で変わった家主役では、その悪党新三をさんざんになぶって大枚の金も走りの鰹もまんまとまきあげる。富十郎の弥太五郎源七は元気がなかった。それより大和屋の秀調がまたも化けた車力善八役に、気の入ったいい味わいがあった。死んだ兄の坂東吉弥もじつに巧い役者だったが、秀調はそれを凌ぐ進境と活躍で「聞いたか坊主」だけでない広い役どころをしっかり押さえはじめている。黄八丈の由来にもなった白子屋お齣は、菊之助がおとなしく付き合っていた。
勘三郎の新三、けっこうでした、中村屋! 満足。
とはいえ、舞台を観てつくづく、あの三遊亭圓生が噺す長丁場の「髪結新三」は、うまかったなあと、わたしも妻も心底から異口同音。
* 昼の部は花道にまぢかい、前から三列目という好席。夜の部は一転、二階中央。視野が安定して、大切り大評判の『研辰の討たれ』のためにも、玉三郎の凄艶な『鷺娘』独り舞台にも、最初の『川連法眼館の場』にも、しっくりといい席で楽しめた。
玉三郎の「鷺娘」のよさ美しさは、喋々したくもない、吸い寄せられ吸い取られてしまう魅惑の所作。勘三郎の新三、玉三郎の鷺娘が、今日の双璧。文句なし。
音羽屋菊五郎の狐忠信は、妻はいいと褒めて涙をぬぐっていたけれど、わたしは狐のあわれも所作も上出来とはいいにくい気がした。年齢がもうムリか。それだけに二役で先に出る正身佐藤忠信の押し出しはさすがに大きく、格の正しい芝居であった。
いけないのは海老蔵の義経で、なんとも宜しくない、妻の曰く「病んだ義経」という按排であった。むろん鎌倉に追われて逼塞しているのだから元気ハツラツはムリとしても、芝居としては大舞台を上からかっちりと抑え込んで「幅」をしなければいけない役柄である。ここでも菊之助はおとなしく静御前を付き合っていた。
さて大切りの『研辰の討たれ』は、野田秀樹の脚本と演出、それだけの破壊的なエネルギーをもちこんで、平成歌舞伎として爆発的だったし、勘三郎のニンに合い観客は大喝采、大歓喜のていで、例によって福助や扇雀も有頂天にはじけまくっていたけれど、一つの芝居としては、勘三郎にめちゃくちゃ贔屓の妻が九十五点、わたしは九十点と、点はご祝儀で、甘い。面白いけれども、それなら浪花の「夏祭」や、同じ野田版の「鼠小僧」やまた「法界坊」が上越す成績だったと思う。思うけれども、むちゃくちゃ楽しんだ、笑った、喝采した、しんみりもした。
歌舞伎だもの、あれくらいカブイてくれてナンボのものじゃろうと思い、満たされて夜の木挽町へ送り出されてきた。
* さ、今夜はここまで。明日は歯医者。来週前半は校正の激しい追い込みで、後半から週初へは、また病院や、昭世の「安宅」や、会合やペンの総会等で、俄然忙しい。
2005 5・13 44
* 勘三郎芝居の余韻が身内にのこっている。六月は帝劇で幸四郎・松たか子の「ラ・マンチャの男」があり、福助、扇雀、橋之助らの渋谷コクーン歌舞伎と、木挽町歌舞伎座の昼夜があり、秦建日子作・演出の芝居もある。三百人劇場での「アルジャーノンに花束を」にも機会があるだろう。
七月はなにもないかと思っていたが、歌舞伎座で尾上菊五郎・菊之助、左団次ら歌舞伎役者たちが、蜷川演出で、シェイクスピアの「十二夜」を公演するというので、切符が手にはいるだろうか聞いてもらっている。観られれば、楽しみが出来る。十月の高麗屋芝居も、来年正月の中村鴈治郎が襲う坂田藤十郎という歌舞伎創始期大名跡の襲名興行も、もう予約した。
いまのうち私たちに出来る贅沢は芝居見物ぐらいなもの。海外へ行くには健康の不安があるし、車の運転も時すでに遅い。家を移りたいなどさらさら思わない。着飾りたい欲もないし、銘柄の持ち物など何の興味もない。食べるのも飲むのもどうせ制限を命じられているのだし、社会のお役に立つほど持っていないし、茶道具美術骨董や書物も、買い集めるどころか、今あるモノをどう処分しようかと頭が痛い。
身の回りのモノも縁故もへらして、選び抜いた少しだけで、清々しくなりたくて仕方がない。こころがけて本当に欲しいのは、われひと共に、健康と安心。こころよき平和。
2005 5・15 44
* 高麗屋から、六月木挽町の昼夜座席券が届いた。昼に、若い染五郎が片岡仁左衛門に八兵衛を付き合ってもらい「封印切」の忠兵衛を「新口村」までやるというのが、一つの期待。夜には通し狂言「盟(かみかけて)三五大切」を吉右衛門、仁左衛門ら大勢でみせる他に、富十郎が初お目見え愛嬢愛子ちゃん、また大クンと、逍遙作「良寛と子守」一幕を、他に子役何人も引きつれて演じる。おめでたい、微笑ましい一幕、これが楽しみ。天王寺屋せっかくの自愛を祈る。
梅玉、魁春、時蔵、それに秀太郎、東蔵、、秀調、歌六、歌昇らも出演、梅雨どきの一休みには嬉しい顔ぶれ。
六月は忙しいも大忙しい一月だが、楽しみもたくさん。福助、橋之助に扇雀丈のコクーン歌舞伎を観た脚で、中野へ秦建日子のすっかりリメークしたという「タクラマカン」もある。幸四郎・松たか子の「ラ・マンチャの男」も。体力も気力も新鮮に、いい六月になりますように。花粉のない京都では、叔母ツルの、命日ちかい墓参も。
2005 5・21 44
* 歌舞伎座で「髪結新三」を観てから、三遊亭圓生の独演をいろいろ聴いた。芝居咄、人情噺、それに「三十石船」のような、圓生がみごとに唄う音曲ものもほんとうに感嘆しつつ聴いた。
いまでは妻も大の歌舞伎好きで、そこそこ「通」にもなってきているから、その縁で、昔ならとくに聞きとめてもいなかった「中村仲蔵」や「猫忠」さらには「三十石船」でもとても喜ぶ。たっぷり時間を掛けた圓生一大の名演には、思いがけない多くの知識も授かってしまうのである。
* なんでもかでも、からだをハスにしてやり過ごす姿勢で観たり聴いたりしていても、なにも深くは得られない。真っ向顔をむけて、わたしは心から楽しむ、映画でも読書でも音楽でも藝能でも。人にもそうありたい、誰にも彼にもとはムリだけれど。
2005 5・21 44
* 六月になった。こんなに多忙の予想される六月は珍しい、カレンダーの第二、三、四週は、「朱い日」がびっしり居並んでいる。楽しみの舞台が六つ(帝劇ラ・マンチャ、コクーン歌舞伎、秦建日子の公演、歌舞伎座昼夜、俳優座稽古場、三百人劇場)入っている。京都もある。余儀なく午後(授賞式)、晩(理事会・宴会)、午前(対談)の三連戦を仕遂げて、とんぼ返しに新幹線で帰ってこなければならない。学会も、理事会も、授賞式も、パーティもある。桜桃忌もある。新委員会の予定が更にこれに加わってくる。それどころか、はや下巻発送(上下巻同時発送を含めて)の用意が津波のように迫っており、上巻だけの今回の、倍の労力を要する。六月を、しっかり無事に越えなくては。
2005 6・1 45
* さて、橋田先生には、そんなお体でありながら、そのあと祇園のバアへも連れて行っていただき、美味い酒をたっぷり御馳走になった。我當の息子の進之介が連れの何人かとあとで入ってきた。帰りがけに顔を合わせてきた。
その前に、そのバアのママで、祇園甲部でいい顔の藝妓、中学の一つ後輩でもある人と、少し歌舞伎談義をした。彼女は、このところ続いた「襲名劇」はみんなダメで、「あんなん、みな歌舞伎やあらへん」とこきおろすのである。そうではないだろう、とわたしは頑張ってみた。
あんた(ママ)が「歌舞伎」と思いこんでいるのは、ひと昔ふた昔前までの型通りに行儀良くって、お上品に冷え込んでいた「伝統芸能」こそを、歌舞伎と思いこんできたに過ぎない、そんな冷えた情念の型通り歌舞伎を、やっとこさ玉三郎や勘三郎や猿之助らの大きな才能で、また活気ある「カブキ」の活動精神をケレンも豊かに発揮しはじめ、つぎつぎ実験の成果をさらに錬成しているのだよ、と。藝妓・舞子のお座敷藝のお手本になるだけの歌舞伎藝では、「カブキ」の活気は燃えてこない。しんしんと眠り込まされるような歌舞伎舞台が、やっと近年面白くなりだしたので、だから、わたしは、好きな能舞台を遠のいてまで歌舞伎座へ月参りを続けるようになったのだ。
「あんなん歌舞伎やあらへん」という彼女の科白は、或る面からは理解出来ても、それは彼女達の理解が「型どおりに冷えてお高い」ことだけを暴露しているのである。
2005 6・7 45
* さて、今日はコクーン歌舞伎。勘九郎の抜けた舞台を、福助・橋之助兄弟と中村扇雀丈が、どれほどに面白く楽しく奮闘して盛り上げてくれるか。そしてそのあとは、八日が初日の秦建日子作・演出、またまた更に手と工夫を加えたという話題作「タクラマカン」を中野まで見に行く。
* コクーンの南北作・串田演出「桜姫東文章」は、東西の成駒屋三人が大張り切りの面白い舞台になった。わたしはこの芝居を、極端に狭いアングラで、また紀伊国屋で青年座のを、また玉三郎・仁左衛門(孝夫時代か)で、さらに玉三郎・段治郎で、など、なおもう一二回も繰り返し観てきたが、この芝居、可塑性に富み演出と役者次第でいろんな舞台がしかも台本通りに出来上がる。
今日の演出もたいそうカブイて面白かった。勘九郎(勘三郎)が休息中のコクーン歌舞伎を福助・橋之助そして西の扇雀で奮闘し、弥十郎・それに勘太郎・七之助・しのぶ・源左衛門らがワキを支えた。活気は湧き、扇雀丈など大いに弾けて楽しんでいた。感動などという芝居ではない、有意義ななにがあるという芝居でもないが、若い現代がそれなりに意気込んで演じる分、躍動する活気で南北の陰惨芝居がワクワクする面白さへ脱皮しているのが、あれで、よかった。なにしろ手を伸ばさなくても触れ合うほど身の間近へ来て、狭い通路でどの役者も芝居してくれるのだ、わたしたちの席は舞台へ近く花道ぎわで、絶好、この上なく楽しめた。
あの芝居が「ああおもしろかつた」と笑み零れて見おえてこれるなど、コクーン歌舞伎ならではの無い話、こわーい陰惨な舞台が普通なのだが、終始からっと勢いいい演出が、ハッキリ奏功していた。
* 雨中、すぐ渋谷から中野へ移動し、駅のわきの寿司「つねの匠」という珍しい名前の店に入ったのが当たり。妻の注文にもわたしの注文にも、神経の行き届いた上ダネ、うまい料理が出て、ぐいのみの八海山もうまかった。おかわりをした。清潔な漢字の広いゆったりした店でとても気に入った。生け簀から出したばかりの鯖の握りのうまかったこと、びっくりした。
2005 6・10 45
* 明日は、木挽町の通し。富十郎、吉右衛門、梅玉、秀太郎、仁左衛門、魁春、時蔵、染五郎、東蔵などがならび、狂言立ては昼夜とも変化がある。楽しみ。
2005 6・12 45
* 歌舞伎座の昼公演は、まず「輝虎配膳」で、秀太郎の山本勘助老母の役が、きっちりと。梅玉の輝虎も律儀に大きく出来、けっこうけっこう。なにより歌六の直江山城守が、初代吉右衛門の風貌を伝えたかのように、堂々毅然、いい役者ぶり。好き。勘助妻の吃音を咄嗟の弾琴の誠に代替させ、輝虎の刃から姑を守り抜く難しい役を、時蔵がていねいに演じた。直江妻の役の東蔵が裾捌きをあやまり足首の上をあらわしたのは艶消しだった、が総じて、かっちりした「歌舞伎」で、実力の役者たちがそれぞれの役を堅実につとめたのが、嬉しく。気持ちが、すうっと「歌舞伎座」になった。
* 二番目は「素襖落」で、吉右衛門の太郎冠者に、大名は富十郎、姫御寮は魁春。主な役者たちの無難なリクツの無い狂言で、それだけに役者がそろうと気持ちいい。とりわけ吉右衛門の自在な踊りと狂言顔が楽しめた。次郎冠者役、三郎役の玉太郎、吉之助が、食い入るように吉右衛門の所作を見ていた。
* 三番目は今日の目玉。梅川・忠兵衛の「封印切」「新口村」に、染五郎が忠兵衛初挑戦。梅川は孝太郎。実年齢で云えば、むろん鴈治郎や我當らで身請けの金を張り合うより、よほどリアルなのだが、藝は仕方がない、遠く及ばない。染五郎の意欲はとても嬉しいが、「封印切」花道の出から、茶屋の裏手へまわるまでの、「ちやり」も「いちびり」も「じゃらじやら」も、これはもう鴈治郎の芝居が眼に浮かんでくるばっりで、どうしようもない。
しかし、うかと封印を切ってしまう前後からの悲愴な忠兵衛になると、これは高麗屋系がもちまえの実の芝居でやれる道理、立派にこなして行ける。昔の杉村春子と顔の似た孝太郎梅川には、はでな美しさはないが、可憐な若さと情愛の切なさ、やはりリッパに出してくれている。及第。
憎まれ役の八右衛門を贅沢に仁左衛門が付き合っていて、これが客には御馳走さんなのであるが、八兵衛と忠兵衛との浪花言葉での激しい掛け合いはとなると、我當と鴈治郎と絶品には及ばない。とはいえ、仁の、八右衛門をむちゃくちゃ憎らしい一方には創らない理解にも、うなづけるところが有る。
仁左衛門は、「新口村」での老父孫右衛門役で彼なりに生きた。父先代をよく踏襲し、情のあるこなしで、かなりストレートに、したたかわたしたちを泣かせた。八右衛門と孫右衛門の二役を引き受けるサービスは、ありそうで無かったことと。
ここでの孝太郎も可憐で、仁左衛門との父子芝居を申し分なくサービスしてくれた。秀太郎の茶屋女房おえんは、手慣れたもの。この優は悪声なのが難であるが、梅川も何度もやっていると。今はおえんが佳いだろう、要の役であるのだ。
染五郎の初挑戦に、わたしは、大方佳い点を上げた。ちゃりやいちびりは、この若い役者の「素質のうち」であるから、今に自分の役として仕上げて行くとおもわれる。
* 幕間に、「高麗屋の女房」で知られる幸四郎夫人と、しばらく立ち話。遠い往年の先代幸四郎のことや、新門前の旅館「岩波」のことなど。この夫人は、わたしが雑誌「ミマン」に虫食いの詩歌で「センスでポエム」を連載していた三年ほど、ぴったり隣りあって趣味の連載をつづけていた。そのことも話題になった。笑顔のいい気さくな話しぶりの、想っていた通りの奥さんであった。
* 少しながい幕間に近所の茜屋茶廊に入り、コーヒーを飲む。妻はケーキも。落ち着く、きもちのいい趣味もいい喫茶店で。木挽町へ通う、もう一つの楽しみ。
* 歌舞伎座夜の部の一番目は、「盟(かみかけて)三五大切」の通し。吉右衛門の源五兵衛(実は赤穂浪士の不破数右衛門)、仁左衛門の三五郎、時蔵の藝妓小万を軸にした、派手な達引き。
鶴屋南北の作だが、すこし芝居の筋をこじりいじり過ぎていて、入り組んで面白いけれども、印象に渾然としたものがない。「桜姫東文章」や「四谷怪談」のようには練り上がっていない。
要するに、こうだ。三五郎親の主筋にあたる不破数右衛門が、赤穂義士に帰参復帰が叶うようにと、三五郎と女房小万たちが、金策する。実は当の不破その人であるとも知らずに源五兵衛が小万に惚れてうつつをぬかし出すのにつけいり、彼がようやく伯父を経て手にした大事の百両をまんまと巻き上げ、不破数右衛門に対し忠義の親に手渡すのである。それこそ源五兵衛こと不破数右衛門のための、伯父が苦辛の百両なのであった。
金を奪われ、小万も三五郎の女房と知った源五兵衛は、逆上して多くを殺傷し、ついには小万の首を切り落としてしまう。最後の最期にその因果なめぐりあわせを知った三五郎は早桶に隠れたまま自害し、また源五兵衛のあまた殺傷の罪は彼の気のいい従僕(染五郎)が総て代わりにかぶって、不破は、めでたく討ち入り義士の数に加わるのである。
こう書いてみるだけでも、ムリ筋と見えてくる。どうも芝居の印象がガサついてくるのも、むりからぬ。吉右衛門の耽溺にも忿怒にも立場にも、今一つ強い説得力が出ず、時蔵の小万、仁左の三五郎のいなせな土手風情は楽しんだものの、これは、串田和美や野田秀樹のようなもっと別の世間の才能を頼んで、新演出した方が成功する芝居ではないかと思えた。
* 二番目は佳かったよ、名優といえる中村富十郎が、無心法爾の尊い老僧良寛を、珠玉のように演じながら、富が事実老境に得た愛児大と愛子をはじめ、可憐な少女たちにかこまれての、夢のように美しい舞台を生み出した。富十郎という役者のこころよい境涯が察しられ、わたしは、深く打たれた。ありがたかった。
舞台を自在にはしりまわっては、見まねに芝居するちいさいちいさい渡辺愛子の自在自由な「存在」が、「動き」が、意図してかせずにか無心に静かな世界の温かみを、よくよく感じさせてくれた。
* 三番目は、梅玉、魁春の兄弟で、「教草吉原雀」を美しく晴れやかに、しかし静かにあでやかに踊って見せた。鳥刺しに、歌昇が、きりりといい味で割って入り、最後は梅玉も魁春も鳥と化して、舞台を盛り上げ締めくくった。儲けものの快い美しい舞台になった。
* 満足して、劇場を出た。銀座一丁目から有楽町線で、一路帰宅。佳い一日をこころよく楽しんだ。いろんな用事も済ませた、もう寝よう。二時。小田実氏から心親しい封書の手紙が届いている。明日の楽しみにゆっくりまた読もう。
2005 6・13 45
* 七月、前評判の高い歌舞伎座公演、音羽屋一党でのシェイクスピア翻案、蜷川演出の「十二夜」の座席がとれたと、成駒屋から連絡のメールが来た。歌舞伎が、カブキの命脈を大胆に表現して行くことを、歌舞伎のために喜んでいる。だから勘三郎の試みや、コクーン歌舞伎も平成中村座もわたしは歓迎した。高麗屋の「ラ・マンチャの男」も歌舞伎の試みなのである。玉三郎が新之助をつかって実現した「海神別荘」も、また「天守物語」も、あれが現代歌舞伎なのである。
八月の「納涼歌舞伎」第三部で、また新勘三郎の「法界坊」が見られる。平成中村座での串田和美演出が、歌舞伎座ではどう新工夫されるか、とても楽しみ。
そこへ、音羽屋という大所帯も若い美しい菊之助の意欲にひっぱられ、新機軸を打ち出そうという。賛成。楽しみだ。
こういう機運の先鞭は言うまでもない澤瀉屋の猿之助であったし、そういうことを言えば「ヤマトタケル」を書いて今も気炎万丈の梅原猛の功績もあげねばならぬ。
秦さんの忙しいのは、芝居見物が忙しいだけじゃないですかと言われている。だけ、というには豊かな楽しみで、否定しない。宿題は七月のうちに、夏休みの八月は遊びたいという恵まれた楽しみであり、しかしただ怠けての楽しみではない。宿題はかなり済ませてある。なにをアクセク。
2005 6・18 45
* 七月には娘朝日子が、指折り数えて四十五歳の誕生月。晴れやかに心行く日々を健康に過ごしていて欲しい。ものを見ていても、街にいても、朝日子ににた人影をみるとつい目で見送っている。孫達も元気かな。
やがて歌舞伎座の「十二夜」が来る。蜷川演出・尾上菊之助。かれがはやく菊五郎になり、いまの菊五郎には父親の梅幸を襲がせたいものだ。
2005 7・16 46
* 八月納涼歌舞伎の二部と三部との座席がとれたと、成駒屋さんから。楽しみ楽しみ。扇雀丈も大いにはじけるあの「法界坊」を、こっちも元気で観たいものと、体力考慮で一部、を外した。一部は別の日に一部だけを楽しむ気。
前は平成中村座で、勘九郎の法界坊が宙乗りになり、平場まんなか妻のところへトンできて、汗みずくの剽げた笑顔でペットボトルのお茶を宙のママ呑んで行った。妻はあっけにとられてアガッてしまい、、大の大の贔屓の勘九郎に、ひと言の声も掛けられなかった。今度は中村屋勘三郎での法界坊。新演出での活躍を期待、期待。
2005 7・18 46
* さ、シャワーを使って涼しく「十二夜」に出かけたい。
2005 7・22 46
* 歌舞伎座は蜷川幸雄演出、シェイクスピア原作を翻案の「十二夜」を菊五郎劇団が実現した。菊之助の熱心が蜷川を動かし、父菊五郎も応援して、まずは楽しい面白い舞台に仕上がっていたのが喜ばし。嬉し。
満点とは言えない、全体に豪華な佳い広い広すぎる舞台であり、停滞もしないで物語は進行してゆくのに、舞台は熱気活気烈気にまで温度をあげなかった。妻は一度も眠くならなかったわと言うが、わたしはこんなに静かであっていいワケのない舞台のある種の静かさに負け、二度ほど、いや三四度は一瞬であれとろりと睡魔に貢ぎを呉れた。何不足のない進行なのに人間の深層も肉体も意地も恋も燃え上がりにくい「湿度」に悩んでいた。そのぶん、どうしてもわたしは八十から八十五点以上はつけにくいと思いつつ、でも、楽しんだのである。
* 菊之助は男装の獅子丸実は双子の妹琵琶姫という女の男と、斯波主膳之助という双子の兄とを演じ分けて力演した。この双子は紀州沖で嵐に遭い海に呑まれ、別れ別れに助かったものの、消息も知れずに兄は、妹は死んだものと嘆いている。そして妹姫は都の大篠左大臣邸に、男装の小姓として宮仕えしているという設定になる。
菊之助は、父音羽屋にくらべ、美貌において、若い頃の菊五郎とはやや様違いの個性美の持ち主、優形。その上彼は、若衆としても女形としても抜群に美しい口跡の持ち主で、加えて父親に勝るとも劣らない綺麗な女踊りの名手であり、芝居のうま味にもソツもたるみもない。さらにこの舞台に賭けた彼の意欲は、すさまじいものと想像できる。
であるから、菊之助の「十二夜」という触れ込みに乗り気で乗ったわたしたちの期待は、十分満たされた。この若い役者の、見るたびに豊かに美しくなって行くのがまたも確かめられ、わたしは大いに嬉しがった。
とはいえ、彼の選んだ芝居は跳んだり跳ねたりの活躍ものでなかった。先にもいう、役どころが、姫である小姓であり、兄主膳之助といえどもせいぜい健康な若衆にすぎない。牛若丸ほども肉体で活躍はできない。装束も、あの二枚目「十種香」の武田勝頼と全く同じ、髷も結って高くあげ、終始色白の優形である。おまけに琵琶姫は獅子丸の小姓姿で、仕えた主君の大篠左大臣(信二郎)への恋を秘めつ漏らしつしている始末。
ところが左大臣は他家の美しい織笛姫(時蔵)に恋いこがれ、振られ続け、傷心の恋の文使いに、再三獅子丸を姫のもとへ送りつづけている。その織笛姫が男装の麗人獅子丸に一目惚れして、これまた恋い焦がれてしまう。
こんな優美というか軟弱な芝居に火をともすとすれば、脇役の左団次(織笛の叔父)、松緑(織笛へのバカな求婚者)、亀治郎(織笛の侍女)また御大菊五郎 (道化役と愚かしい執事役二役)などが大爆(はじ)けに爆けないといけない。その期待に一番応えて面白く演じたのは達者な亀治郎(麻阿)で、歌舞伎の中に類似役も少なくはないからか、水を得たように生き生きと演じ、笑わせてくれた。今まで見たどの亀治郎よりも佳い出来だった。
ビックリさせたのが、松緑(右大辨)のバカの爆けた化け方で、信じられないほど徹底的に可笑しかった。ど根性を感じた。
ところがかんじんの菊五郎がいまいち燃えてこない。なんだか、やに静かな道化であり、徹底しない執事丸尾坊大夫だった。新劇がやる「十二夜」だとめちゃくちゃ笑わせる役なのに。
わたしは、変にしんとしてしまった大舞台の原因の一つに、蜷川演出が思い切って採用した舞台全面のミラーが、逆効果も生んでいた気がしている。幕開きには歌舞伎座の二階三階が舞台の奧の大きな鏡面に映じて客の度肝はぬいたものの、舞台を総じて広い上に広くしてしまい、役者達の熱気や活気をミラーが吸い取っていたと思うのである。
もう一つは、例えば勘九郎たちが平成中村座やコクーンで歌舞伎をやるときの演出家串田和美との、また野田秀樹との、旺盛な、煮えたぎるような仲間意識・戦友意識にくらべ、菊五郎ひとりが「蜷川さん」で、他の役者はみな揃いも揃って万事「蜷川先生によく教わり」という風に筋書きの中で述懐している、そういう姿勢や意識が、どうしてもやや消極的受動的な静かな舞台づくりに結果してしまったような、気がする。そしてそれが、わたしが「蜷川演出」と聞いた時からの小さな危惧であった。歌舞伎役者達が蜷川に謙虚以上にどこか位負けしたまま取り組む、その気持ちが舞台を左右しないだろうかと。
* もう、これぐらいにしておく。「十二夜」は、決してただ軟弱で夢のような、ややこしい、ただハッピーエンドの恋の悲喜劇ではない。恋のフィロソフィーを通し、人間ののみくだす苦汁のからさも、したたかに役者にも観客にも味わわせるシェイクスピアの辛辣を隠している。役者達もそれは感じ取っていたらしい。ならば、どうか勇気と意欲で再演して造りなおして欲しい。歌舞伎座はばかげて広い舞台である。それをいわば倍にして見せてしまうミラー仕立ての舞台装置が本当に成功していたかどうか、それは菊之助や時蔵や松緑や亀治郎や左団次や菊五郎たちの成績ではなく、演出家蜷川幸雄の成功であったか誤算であったか、だ。
* 三時半にはね、「茜屋珈琲」に入ってやすみ、銀座へ歩いて「和光」で腕時計に電池を入れ、中華料理の「第一楼」で早めの夕食をしたため、七時までに帰宅した。
2005 7・22 46
*「十二夜」について書いたのは、そのあと。もう日付は変わっている。
2005 7・22 46
* 八月の三部制納涼歌舞伎は一部と、二部三部とを日をかえて見にゆく。一部の席も確保できたと高麗屋筋の連絡が来た。
九月も昼夜通しで成駒屋に予約。十月は日生劇場で幸四郎・染五郎の「夢の仲蔵」が楽しみ。十一月は紀伊国屋で幸四郎の娘たちの芝居がある。木挽町には我當が出るはず、これも昼夜予約。からだが動き、やりくりのつくあいだは、せめてこの程度の贅沢を夫婦で楽しみたいのである。旅行もしない、むろん海外へも行かない。車ももたない。家も買い換えない。稼ぎもしない。
2005 7・22 46
* エジプト展で、美しいすばらしい猫を観たのは、エジプトであるから珍しい発見ではないけれど、二十センチあまりのチンと正坐した猫の像に、思わずそばにいた学藝員にむかい「これが欲しいなあ」と云ってしまい笑われた。
人面で脚が牛とみられる女神の小像が一見正坐像とも見えたのに愕いた。夥しい展示の中で只一点。他は殆どが椅子座像まれに片立膝像。貰ってきた詳細な解説の図録を読む。値打ちもので、これがないと陳列の大方全部が正しく観てとれない。暑くても日照りでも満員でも出向いたのは、特別内覧の機会には図録引き替え券が有効だから。絵や彫刻ならそのものをまっすぐ観ればいい。しかし考古学的な太古の遺品は、やはり解説が欲しい。昨日は「二人」で観て良い機会だったのに連れは無かった。美術展は、展覧会は、一人が気儘なのである。芝居は、ときどきの感想を耳元で囁きあえる連れがあると二倍楽しめるが。
来週の月曜は、渋谷で、好きな画家「ギュスターヴ・モロー」展のオープニング・セレモニーがある。気が利いていて夕方から。でもやはり出かける頃は暑い暑いことだろう。
九日も。十一日も。十五日も。ことに納涼歌舞伎三部の「法界坊」を、勘九郎から飛躍した勘三郎と、演出串田和美とが、平成中村座でもコクーンでもない本拠の歌舞伎座でどうわたしたちを魅了するか。楽しみ。串田、蜷川、野田秀樹、渡辺えり子と他ジャンルの演出家達がこのところ歌舞伎の世界を味わっているのが新傾向。当分、この方角で成果が続いて欲しい。
秦建日子も、やがてまた舞台公演らしく、稽古が始まったと聞いている。微笑ましくもさぞ急流を抜き手で溯る気概であろう、今の若さだ、そういう時機はそういものとして大胆にゆけばいい。結局どんな梯子にも竿にもてっぺんが、突端があらわれる。問題はその機なのだ、そこでどう一歩を空へ踏み出すか。そこまでは、大なり小なり若さゆえに、もともと恵まれてある。恵みは大胆に受ければいいのである。恵みの尽きたとき、何をするか、しないか、だ。
2005 8・2 47
* 納涼歌舞伎の、今日は第一部だけ、観に行く。扇雀丈出勤の第二部、第三部は日を改めて観る。
黒いマゴがきまってあけがた四時半に、外へ出たいと動き出す。ほとんど寝入りばなに近いので、困る。けさも眼が覚めてしまい、早く起きて「丹波」の校正を終え、「ペン電子文藝館」の校正も業者に連絡し、あれこれしてまたも寝は足りないが、ま、いいか。
2005 8・11 47
* 歌舞伎座の第一部。幕あきは「金閣寺」これは雪姫の役が重い。福助が演じた。前に玉三郎で観たのが出来が良く、今日の福助は懸命に勉強中というところ。三津五郎の大膳が小柄ながら内へ気魄を噛み込むように、しっかり演じて、大柄な役者にヒケを取らない好演。染五郎の出の此下東吉は、予想以上に性根をもって大膳に迫っていた。だが後段羽柴筑前になってからは柄が及ばなくて、座頭としての乗りが薄弱だった。橋之助の佐藤正清も気抜けがしていた。求心力を要する大歌舞伎だけに一人二人でガンバッテも全体で力限りを尽くさないと、狂言に役者がまけてしまう。
次の「橋弁慶」は獅童の弁慶がまるで踊れない。薙刀は弁慶のシンボル、からだと一つのように扱えなくてはならないのに、獅童は手に付かず、もたもた。鈍重でへたでお話しにならない。身動き、つまり所作が、みな平凡な動作にしかならないのでは、どだい歌舞伎に成りようがない。義経の七之助は軽々と舞い遊んで弁慶を翻弄。獅童の歌舞伎外での人気先行が、なにより彼の歌舞伎を危うく蝕んでいる。学藝会のような埋め草の一場となった。
三番目は勘太郎が、五変化の「雨乞狐」を次々の早変わりでみせ、最期の狐で客席を沸かせ、気持ちよく幕をおろした。今日は勘太郎がさらったと妻はほめ、わたしも同意するが、女形になったときに青年の顔の出ているのが気になった。色気のある惚れたい女になれる勘太郎であったが。
しかし、とにかくも勘太郎の舞台は素直に流れていて、気持ちが佳い。
やはり見終えて、福助の一舞台一舞台の充実を楽しみとしたい。もう女形は雀右衛門や芝翫に頼っていられない。鴈治郎や玉三郎の元気な内に立派な歌右衛門が出来あがり、後続する菊之助を、梅幸にでも菊五郎にでもいいから引っぱりあげて欲しい。孝太郎には片岡我童への道が開けて欲しい。時蔵、魁春、芝雀の現状を引き立てるにも、女形福助の大成が待たれる。女形が歌舞伎を引き立てるのだから。
* 銀座三丁目のビル地下リストランテで、軽妙に美味いイタリアンを、遅い昼飯、いや夕食も兼帯で食べて、有楽町線でまっすぐ、いや快速なのを忘れてひばりヶ丘まで行き、一駅戻って帰宅した。黒いマゴが鳴きながらとんで帰ってきた。
2005 8・11 47
* 九月歌舞伎座の昼夜席が用意できた。十月の予約もした。十月はしばらくぶりに我當が出勤する。十一月の顔見世はどうだろう、まだ分からない。新年には鴈治郎の坂田藤十郎襲名興行を楽しみに待っている。来週は火曜から土曜まで外の予定がない。月曜の歌舞伎座は、わけて勘三郎達の串田戯場(ワールド)「法界坊」が楽しみ。
今週は結果三日外出した。よく食べた。
2005 8・12 47
* 明日は午後から夜まで歌舞伎座に。五日休んで日曜には友枝昭世人気の「安宅」をもう一度観せて貰う。第四週きれいにあいている。二十八日に帝国ホテルで、ハワイアンの食事をどうかと宣伝されている。妻はノーサンキューだと、わたしは一人でも行こうかなあと。翌日の利根川裕氏の出版記念会はまだ出席の返辞をしていない。三十日は四時から、三十一日は一時から言論表現委員会、臨時理事会が決まっている。二十五日も。
2005 8・14 47
* 頭の焦げそうな炎暑をおして、納涼歌舞伎の二部と三部へ。
* 二部の幕開きの「伊勢音頭恋寝刃」油屋と奥庭は、そうそう気をそそる楽しい舞台ではない、が、これが一部の「金閣寺」より引き締まって、緻密に、しどころのキマッタ舞台になり、断然楽しんだ。一つには勘三郎の万野が、佳い。うまい。メガネで覗いても隙のない芝居を、ギスばらないで美しく演じ、イヤな女は女でありながら、仲居のイヤミやニクラシサをあくどくは見せないでいて、やっぱり凄い女に仕立てている。凄艶な女に仕上げている。
福助のお紺が勘三郎の万野に負けない堂々の立女形ぶりで、私は嬉しく、驚歎した。謙抑な芝居、がふくらむように大きく出来るようになってきた。
これに対する福岡貢の三津五郎が、今一つ。カンの走った、切羽詰まってあわれな男前が芝居の芯のところの必然を出し切れなかった。彼の場合は、「金閣寺」の松永大膳の方がずっと立派だった。
橋之助、勘太郎、七之助、それに弥十郎のお鹿。それぞれにはたらいて、これは期待したよりずっと上出来に面白い歌舞伎の舞台だった。満足した。
* 二つめ、花形高麗屋染五郎と松嶋屋孝太郎が所作事の、「けいせい倭荘子 蝶の道行」は、かなり凝った筋立てが浄瑠璃で語られるのだが、ま、耳の方は半開き、理屈抜きに二人の変幻とものあはれを、蝶とも人とも観ていればすむ。蝶の等身大から眺めたていに背景の花野は大きく大きく描かれていて、舞台装置は華麗。それを存分に使って二人とも気が入った踊りだが、まだ、うまいなあとは言わせない。綺麗やなあと思わせる。孝太郎が若かりし日の文学座杉村春子に似ている。ま、このままに一舞台ごとに水準をせり上げてくる二人であり、十分舞台「蝶の道行」は楽しませてくれた。
* 二部キリの芝居は、左甚五郎の橋之助と、人形の花魁扇雀丈の「京人形」 このふたりに甚五郎女房の高麗蔵がさらりと絡んで好演。何と言っても扇雀人形が秀逸の美形と好演で、妻と二人で仰天した。よかった、よかった。人形ぶりとも少しちがう演技になる。花魁への想いはあれど金の不足な甚五郎が、魂入れて彫った花魁人形が、甚五郎と一緒に踊り始めるおもしろさ。
花魁がまた箱入りして後の立ち回りなどは無くても佳い。歌舞伎では、寺子屋や仮名手本のような大歌舞伎外題のほかに、小粋に洒落た出し物が数知れず次から次へ、こうして出て来る。初めて観た舞踊劇の新鮮さもあるが、やはり扇雀をめざましく活かした狙いが当たっている。橋之助の甚五郎も大柄にニンにあっていた。ああよかった、ああおもしろかったと言い言い、いったんハネ出された。
* 弁当を食べているヒマがなかったので、ハネ出た足で近くの公園に行き、「月を呼ぶ」という好きな彫刻のある近くのベンチで食べた。むかしシナリオ研究所に通った松竹本社の建物が目の前にすっかり新しく大きく成っていた。
* 第三部、お目当ての「法界坊」は、串田和美が両袖に人形仕立ての芝居小屋の桟敷席をつくり、われわれと一緒に一つの芝居を観るていに舞台を創ったのが成功していた。歌舞伎座は串田戯場(ワールド)には広すぎるだろう、どうするかと思っていた。舞台の上に桟敷席をつくり適切に本舞台を狭めて上演の濃密度を高めたのは賛成で、蜷川幸雄が総ミラーで広い舞台を倍に広く見せて劇性を薄めてしまった「十二夜」の失敗とは逆の、適切な配慮だった。
「法界坊」という芝居のあやしげを、のっぺら人形の大勢の観客に見守らせた不思議さで倍加し、また保証していた。それだけ我々も舞台に引きずり込まれていた。しかも人形とみえたのっぺらぼうの何人かは生き人形であったのにも笑わされた。
まずは勘三郎の徹底ぶりが鮮やかな、勝ち舞台であった。「ごもく」芝居で何でも在りのちゃんちゃら可笑しいに徹しながら、間断なく芝居は波涛のように進展して、それが大喜利では恰好の大歌舞伎にひきしまり盛り上がって、明るく終幕、そこまでの速度感と密度のよさとが成功の一因。ふつうにやると、陰惨な芝居なのである、これは。
勘三郎はきたないきたない法界坊と、二た面(ふたおもて)の美しくも恐ろしくもある幽霊と、大きな実悪鬼霊と、ま、さまざまに大サービスするものだから、客はもう笑って転げて歓声また嬌声。とどまるところなき勘三郎芝居。彼と演出串田とは、「隅田川後俤(すみだがわごにちのおもかげ)」という古典劇を、今日的に完全破壊し、また甦らせた。もう誰もこの奈川七五三助の原作を、在来普通の歌舞伎芝居として上演できないだろう、今の観客が串田と中村屋のこの「やんちゃ」芝居を忘れていない限りは。
福助の手代要助介(実は吉田松若)が、終始お澄ましの二枚目を舞台のもう一つの芯になって好演した。扇雀丈演じる永楽屋娘お組と対になる二人で、配役は二人が逆も十分考えられるが、この配役で成功したと思う。こういう冷製の澄んだスープのような美男子福助も客は観たいし、こういう、ウブで真っ正直でひたむきな女形扇雀の吹き出すようなハジケ芝居も観てみたい。納涼歌舞伎をよく盛り上げた二人は、今回の殊勲甲のうちである。
勘太郎がまたよく化けてハジケて大笑いさせた。いろいろやれる役者になった。一部の五変化狐も出色の収穫だった。弟七之助の「橋弁慶」牛若丸も「伊勢音頭」油屋のお岸も、そして「法界坊」野分姫も真面目に努めていた。わたしは殊にお岸の情を七之助の柄とみて好感した。
橋之助は柱に立つ男役として立派になっているが、大柄を意識したか大きなセリフ声をことさらに、無用に「割って」「空かして」しまう悪癖だけは直して欲しいと思う。声が藁のように空洞なのはしっとりしない。凛として実の声を練り上げてくれぬモノか。それが改まると演技にリアリティの説得力が出るだろうに。
弥十郎、そしてひときわ亀蔵の名演! が光っていた。歌舞伎役者って、なんて毅いんだろう、いろいろに。
* (もう三時前になる。)第三部がハネて、九時半過ぎ。すぐタクシーでホテルのクラブへ。
妻は新しく入ったという海外のビールを小さなコップで。わたしはブランデー、そして21年ものの竹鶴。サーモンを切ってもらい、ブルーチーズなども。結婚退職して行くという久しいお馴染みの女性と三人で歓談しながら、酒がうまかった。十時半過ぎに退散して、うまい工合に乗り継いで午前さまにならずに帰宅。佳いメールが幾つも来ていた。
そうそう妻が、新しい佳いボトルをわたしのためにキープしてくれたことも書いておかねば。なんと60.7度。
2005 8・15 47
* 九月七日十一時に、二ヶ月ぶりの聖路加糖尿の診察。正午には済んでいるだろう。うまい昼飯、そして午後いっぱい胸のひろがる嬉しい時間がもてるといいが。
その次週には定例理事会と、歌舞伎の通し。二十五日には宝生のシテ方東川さんが「半蔀」のシテを初めて勤めるのでと誘われている。水道橋能楽堂。二十九日には俳優座招待がある。もうだいぶ涼しいであろう。そのまえ月火水のどこかで、電子文藝館委員会の予定。この隙間へ、何としてもモロー展、根津美術館、泉屋博古館、五島美術館などを挟みたい。メガネの新調にも出かけないと。
2005 9・1 48
* 十二月のコクーン劇場、松たか子主演・野田秀樹演出「贋作・罪と罰」を幸四郎事務所へ予約した。
もういずれ十月歌舞伎の席が決まってくるだろう。「廓三番叟」が芝雀、亀治郎、翫雀。通し狂言の「加賀見山」が玉三郎・菊之助・左団次・菊五郎。夜は「引窓」が菊五郎、魁春、左団次、田之助。「日高川入相花王(いりあいざくら)」が玉三郎、薪車、菊之助。「河庄」がむろん鴈治郎、我當、田之助、雀右衛門という配役で、「藝術祭」らしい充実の顔ぶれが楽しみ。玉三郎に菊之助が組み付く出し物二つがあり、鴈治郎と我當の組み合わせは、師走南座での坂田藤十郎襲名顔見世興行の贅沢な先触れになる。
南座へ行きたいなあと夢見ている、正月歌舞伎座があるとは言いながらも。
2005 9・8 48
* 古稀は「自祝」しようと思い、折しも京都南座が、中村鴈治郎の坂田藤十郎襲名顔見世興行、当然ながら幸い片岡我當君がいつもより頑張って出勤することだし、応援も兼ね、昼の部だけでもぜひ観たいと、予約した。前日に京都に入り、夕食をどこか老舗で奢り、当日は、可能なら仕出しの「菱岩」に弁当を頼みたい。そのかわり芝居が済めばすぐ帰ってくる。
もう一つ師走「自祝」の日には、松たか子主演のコクーン劇が予約してある。
十一月の国立劇場に、やはり我當が通し狂言「絵本太功記」に出演するので、これも予約。歌舞伎座の顔見世興行は誰が何をやるのかまだ分かっていなくて、気を揉んでいる。明けて一月は東京での藤十郎襲名初春興行になる。これはもうとうに予約がしてある。
明後日の歌舞伎座昼夜も大いに楽しみ。吉右衛門と富十郎・福助の「勧進帳」にわくわく期待。
2005 9・14 48
* 歌舞伎座の一日。うとうとしないで済みますように。まだ五時四十分。少しでも横になり目をつぶってくるか。朝飯を食うか。
2005 9・16 48
* 今日の歌舞伎座昼夜は、期待通り夜の部の「勧進帳」に尽きた。
吉右衛門の弁慶、富十郎の富樫、福助の義経。これはいま希望できる配役の中でも屈指の好配で、吉の弁慶は言うまでもない、わたしの観てきたかぎり富樫役は、富十郎の稟烈と誠実が第一とかねて思ってきて、その思いをますます強くした。当代、天下一品の富樫と謂える。
それと、福助が観たかった、いまの福助なら最良の義経をみせるだろうと期待していたが期待に完璧にこたえてくれたと思う。位、品、情、美しさ。申し分のない義経であった。富樫と義経があの出来の佳さでは、弁慶が充実するのは当然。吉右衛門は工夫の限りを尽くして彼の言葉で「完璧」を遂げたと思う。
これだけ何度も観ていても、真実の涙を誘って舞台との別れも名残も、六方の飛びも、十分堪能させた。
由次郎を筆頭常陸坊に、若手を選りすぐった玉太郎、種之助、吉之助の四天王が、気魄満々、若さの力技好演で大舞台を盛り上げたのはお手柄であった。「勧進帳」が観たいばっかりの九月歌舞伎座であった。
* しかし昼の二番目「賀の祝」が纏まっていた。段四郎の白大夫は科白が入っていない割に体は動いて、情のありようが歌舞伎ざまに練れていた。松王橋之助、梅王歌昇、櫻丸が時蔵。配する三人女房が、千代の芝雀、春に扇雀、櫻丸女房八重に福助と、ま、こう揃えば、大芝居でこそないが堅実に活気があった。親爺七十の賀の祝いが櫻丸切腹の悲劇に押し流されて行く作劇も巧みで、もっともっともっと佳い舞台が期待できる。
* 期待はかけていなかったが濃厚な踊りで惹きつけ放さなかったのが、雀右衛門の「豊後道成寺」だった。わきをつめて手のふりのちいさい、雀右衛門流の見栄えのしない踊りでありながら、丹念に情感をにじませにじませ幾重にも重ね塗ってゆくような踊りの妙味はさすがしたたかで、高齢のハンデも乗り越えて行く「のり」の深さで、名曲清元をほぼ完全に活かしてくれた。脱帽。感謝。またたきもしないで観ていた。
* 昼のキリの「弥次喜多東海道膝栗毛」はお話しにならない愚作で、「木戸銭返せ」と言いたいほど。
夜の芝翫力演「平家蟹」もつまらないものだった。いまどき、壇ノ浦に沈んだ平家の残党がただもう源氏憎し憎しなどという芝居に、だれが惹きつけられるだろう。それは歌舞伎ですらありはしない。演出の福田逸氏がどう梃子入れしても、岡本綺堂の凡作である。
* あますところ昼の部幕開きの「根元草摺引」は平凡な出来、橋之助も魁春もまともな所作をしているとは見えない体の硬さ、科白のつまらなさ。
そして夜の大ギリ「植木屋」は、上方の和事の意欲的復活ではあるものの、すべてこれからのさらなる練り上げを待つ以外にない、煮えない未成品。梅玉の意欲は頼もしいが、鴈治郎や仁左衛門のようには、いくらなよなよ、いくらじゃらじゃらしてみても追いつかない。
*「吉兆」の昼飯はうまかったし、何といっても「勧進帳」で十分お釣りが出たので、いい芝居一日であった。
家に帰ると、予約しておいた十月歌舞伎の昼夜券が、松嶋屋からちゃんと届いていた。
2005 9・16 48
* 師走の京の南座、當る戌歳吉例顔見世興行は、古稀を自祝し、妻と、昼の部だけをみてとんぼ返しに帰ってくる。「夕霧名残の正月」の藤屋伊左衛門と、「曾根崎心中」のお初を、新坂田藤十郎が演じる。東京歌舞伎座の壽初春大歌舞伎では、もう一度由縁の月とお初を観て、夜には「伽羅先代萩」御殿と床下の乳人政岡、および襲名の「口上」を楽しむ。おっと、よしよし。ロサンゼルスの池宮さんが羨ましがるだろう。
師走には、松たか子主演の「コクーン」もある。
十一月の江戸顔見世の演目が出揃った。昼・夜、高麗屋のお世話になる。高麗屋と播磨屋の兄弟を一つ興行で観るのは珍しいし、有難い。
小山内薫の「息子」が昼の幕開きに染五郎で。期待しよう。仁左衛門の「熊谷陣屋」、吉右衛門の「雨の五郎」富十郎の「うかれ坊主」は長唄と清元で所作事。そして幸四郎の左官長兵衛で「文七元結」には鐵之助が女房お兼をやるという、これが見せてくれるといいが。
夜は嶋の「景清」を吉右衛門、「連獅子」を幸四郎と染五郎父子、そして大キリに上方ものに熱を入れている梅玉に時蔵を配した近松門左衛門の「大経師昔暦」は成功を期待したい。これには時蔵をはじめ梅枝、歌六、歌江と萬屋が揃うのも趣向のうちか。まさに昔の吉右衛門劇団である。
この月、国立劇場では我當クンの出る「絵本太功記」の通し狂言。どんな配役かはまだ聞いていないが、楽しみにしている。紀伊国屋で松本紀保の芝居もある。
十月にも、日生劇場で高麗屋父子の「夢の仲蔵」があり、歌舞伎座の十月公演も盛りだくさんに昼夜とも楽しめる番組。三百人劇場の新劇「八月の鯨」も期待しているし、下北沢では原知佐子の芝居もある。
九月は末に、ソプラノ歌手の音楽会と、俳優座公演「湖の秋」がある。
* こんなに有ってはかえってしんどいだろうと思われそうだが、それがそうではない。励みの楽しみと言って良い。
やがてデフレはインフレに転じる世の中であろうと思う。稼ぐ気のない今後の老境はけわしいものになって行くに相違なく、だから備えるというのでなく、だから楽しんでおく。励んで楽しむのではない、励まされて楽しむのである。こういう時期はそうつづくものでない。つづけば、それでけっこうだ。
2005 9・21 48
* あすは二時ごろから、水道橋の宝生能楽堂で、東川光夫さんの能「半蔀」を観るつもり。明後日は新劇「八月の鯨」を、木曜には日生劇場で幸四郎・染五郎の「夢の仲蔵」。土曜は言論委員会と電子メディア委員会が共催で、上智大学でシンポジウム。そのあと卒業生クンが家へ来て、ピアノを弾いて聴かせてくれる。火曜も水曜も、ひょっとすると金曜も。
2005 10・8 49
* 午後、劇団昴公演「八月の鯨」を観に行く。新調の眼鏡ももう出来たらしい。十二月国立劇場が「天衣紛上野初花」の通し狂言。高麗屋父子に時蔵が参加。予約した。弟吉右衛門の河内山を二度観ている。兄幸四郎では初めてになる。楽しみ。片岡直次郎には染五郎。
2005 10・10 49
* 日生劇場で幸四郎、染五郎の「夢の仲蔵」を観てくる。
2005 10・13 49
* 松緑の宙乗り
松緑の流され王崇徳院は、童顔でおっとりしてゐて、品はあるけれど、これではだめとおもひましたが、「生きながら天狗とならせ給うた」あとが、ようございました。国立劇場の客席の上をワイヤーに吊られて斜交いにわたつてゆきました。
プログラムに「宙乗り否定の家系だったので、祖父や父が枕元に出てこないか、心配」という松緑談が出てゐました。 香
* 松緑には、はやく「おやじ」っぽい肉体と相貌とをもって大人になりきって欲しいですね、すると貫禄のつく巧い役者になるでしょうね。今でもいい役者ですが、顔で損をし過ぎています。 湖
*「夢の仲蔵千本櫻」は、日生劇場によくマッチし、密度もテンポもよく、とても楽しめる佳い舞台だった。前から四列目の真ん中、舞台にも花道にもまた脚をのばすにも絶好最適の席をもらっていた。感謝。
中村仲蔵というと、三遊亭圓生の名人藝の咄で隅々まで覚えているほど、下地がある。加えて浮世絵の写楽実像探索でも、仲蔵も、また中村此蔵の名にも、なじんでいる。仲蔵は、江戸歌舞伎の世界では名跡も門地も縁故もない、彼のいうところ「犬猫同然」の最低、「稲荷町」と呼ばれる下っ端役者であった。それが、江戸三座の一つ森田座の座頭千両役者にまで実力でのぼりつめた。奇蹟というに等しい事実であった。
その森田座で初の座頭芝居を打ち上げる舞台と、舞台裏・楽屋裏の錯雑とした成り行きを、仲蔵・此蔵という師弟役者が、筋を通して盛り上げて行くのが今日の舞台。
松本幸四郎が演出し主演し、市川染五郎が父子で奮闘する。片岡秀太郎、片岡蘆燕、上村吉弥、大谷友右衛門、市川高麗蔵、松本錦吾、澤村宗之助、松本幸右衛門らが、手堅くワキをかためて、ほぼ申し分ない娯楽性も意欲もある舞台。終始、義経千本桜が面舞台に演じられている設定であり、たとえば鮨屋の権太が此蔵最期とかみあうなど、巧に段取りが進み、ほろりと泣かされてしまった。
とことん楽しんだ。昔から贔屓の幸四郎、高麗屋。嬉しいほどの芝居見物だった。染五郎も着々大きくなって行く。さらにもっと、もっと、よく「踊れる」役者にと願う。
* はねてから日比谷公園でウォールバスケットの花展などを、ひろびろとした芝生で観て、一息入れてから帝国ホテルの「ザ・クラブルーム」十五周年記念のメニュで夕食を楽しんできた。シャンパン、そして赤・白のワインがサービスされ、洋風のオードヴル、和風のオードヴル、北京料理の鮑とブロッコリーの甘煮、そして寿司源の寿司、刺身と松茸御飯など、お好みに選べる六種の料理に、芝居の感想もいろいろ、文字通りに舌づつみ。満腹。有楽町線までそぞろ歩いて、帰宅。
* ねむくなった。夜更かししても、もう、どうにもならない。
2005 10・13 49
* あすは、歌舞伎座。昼は「廓三番叟」に、芝雀、亀治郎、翫雀という踊りのうまいのが揃う。そして玉三郎が尾上、菊五郎が岩藤の通し狂言、お初には菊之助。そして夜はいろいろ。なかで人形振りでつとめる玉三郎の清姫が楽しみ。
妻の体力が元気にもちますように。
2005 10・18 49
* 木挽町。 昼の部、まず「廓三番叟(くるわさんばそう)」を、太夫芝雀、新造亀治郎、幇間翫雀。三人とも踊り上手の、手変わり三番叟。期待通り、すこぶるおおどかに楽しい踊りであった。亀の踊りのキレ味の佳さ、翫の和事の味、芝雀はゆったりと。
歌舞伎踊りのおもしろさは計り知れない。
次いで通し狂言「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」は、菊五郎の局(つぼね)岩藤が期待通り頭抜けて面白くまた恐ろしげで、下品にならない貫禄が、さすが。菊五郎が「岩藤」と聞いただけで、この狂言は当たると確信できたが、その通り。玉三郎の中老「尾上」は一貫して緊迫の悲愴美、その集中力の精度には驚嘆。すばらしい才能。そして「お初」は菊之助。とても頼もしく、とても実直。しかし尾上自害を知ってかなしみ、遺骸の背を優しくさすってやるまでの女お初の人柄の美しさが、そこから一転仇討ちまで、「菊之助」という「男」の顔とからだが露出して、わたしはそれもいいかと受け入れ、妻はもう少し評価が厳しかった。左団次の弾正役、悪は悪ながら悠然と演じ、このところ左団次の藝がおもしろみを増しているのが嬉しい。隼人の大姫が愛らしかった。
通し狂言、たいへん分かりよく、大当たり役の菊五郎、玉三郎に、懸命に菊之助がはりきってくれて大いに楽しめた、さすが人気狂言、充実した。
* 茜屋珈琲で間をやすみ、馴染みになったマスターと少し話したりし。そして夜の部へ。
* 先ず「引窓」の、配役がきりりとひきしまり、連名をみただけでこれはとにかく楽しめるだろうと。
案に違わぬ堅実な感じのいい義理人情の一幕になった。歌舞伎三婆の一「お幸」役に澤村田之助はずしりと重み。南与兵衛に菊五郎、これが実直・温厚、親孝行で、配慮にたけた武藝の達者。それでいて、そう目立とうとしない地味な男。好演。おかげでいつもはあまり高い点の出さない菊五郎に、妻は「今日の最高」という惚れ込み方。たしかに今日の菊五郎は立派に大役を二つ演じきって、爽快。
濡髪長五郎の左団次も、まずまず実直に破綻なく自役を演じた。
もとは遊女、与兵衛の恋女房お早のきびきびと人のいい清潔なとりなしも、魁春のニンにあって好演。この顔ぶれでかちっと演じる人情劇は、終始小気味よく後味も良くて、拍手。
二番目に、玉三郎至藝の人形ぶりで、「日高河入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」清姫の熾烈な嫉妬、凄い変化(へんげ)を観た。ああいう手の込んだ難しい藝をさせると、今の玉三郎は行くところ不可な何ものもなく、観客を手玉に取って、おもしろい実のある「役」を創って見せてくれる。新襲名の薪車が船頭を、やはり人形ぶりで力演、好感をもった。清姫の人形遣いには菊之助が生真面目に付き合った。この有望な若女形が玉三郎にひしとくっついて「お初」をやり、「人形遣い」を勤めていたのは心嬉しいみもの。
さて大ギリ。鴈治郎の名では最後になる「河庄」の紙屋治兵衛、むろんこれは絶品。それにわが友片岡我當が、初役ながら父仁左衛門の当たり役であった孫右衛門を演じて、期待通りにすばらしい治兵衛の兄役を見せてくれた。やはり今日一日のこれが私には「最高」に嬉しい芝居であった。小春は雀右衛門の筈が急病で翫雀に代わったが、むしろわたしたちには望ましい臨時サービスで、父鴈治郎が坂田藤十郎を襲名すれば、いずれ鴈治郎には彼が成らねばならぬ。小春は当然のように彼の本役になり、家の藝をさらにさらに磨いて貰わねばならぬ。翫雀の女形にわたしは、わたしたちは期待をかけている。
上方の遊冶郎ものであるが、さすが根に近松代表作の一つをもって脚色された狂言。じつにしっかり盛り上がって行く、が、一にも二にも鴈治郎と我當の上方言葉での絶妙の間が、イキが、ものを言った。深く深く呼吸し、佳い芝居味を満喫させて貰った。
* 疲れてしまわぬ内にと、さっさと銀座一丁目から保谷へ直通で帰宅。木挽町の楽しい一日であった。
2005 10・19 49
* いま、「高麗屋の女房」さん、藤間さんから電話をうけた。このあいだ日生劇場のロビーで会ったときちょっと「提案」しておいたことへ、心嬉しい佳い返辞であった。
* 昨日の鴈治郎・我當の兄弟ぶりが、目にも耳にもなつかしく残っていて、なんと佳い芝居だったかと、いまも、身内がじんじんする。昨日は菊五郎よく玉三郎よく、鴈治郎・我當が必至の藝で組合い抱合い、菊之助・左団次・魁春・翫雀が活躍し、田之助も芝雀も東蔵も亀治郎も喜ばせてくれた。
歌舞伎って楽しいなあと、つくづく思う。誰かが病気休場しても即座に即日代役が出て遜色ない藝を見せるのも歌舞伎や能の奥深さ。はじめてそんな咄嗟の代役を観たのは、守田勘弥「伊勢音頭」の万野であったと思う、わたしの大学へ入った頃か。感心した。
昨日の「河庄」では、治兵衛の、「魂ぬけてとぼとぼと」の花道への出がみどころだが、今の鴈治郎は、父先代の出を花道下の奈落を、父のとぼとぼ行く足取りをかすかな気配と跫音とで察しながら、「ともに歩いた」と言っている。昨日の花道の治兵衛は三代目鴈治郎としての最期の舞台であった。ひとしおの感慨である。
今度は十一月の三宅坂で、また我當に逢う。木挽町では高麗屋に逢う。
2005 10・20 49
* ちょうど「ぎをん」が届いた。綺麗な写真資料が嬉しい雑誌で、懐かしいことこの上ない。一文を寄せたのを、ここへも書き写しておく。
* 祇園と歌舞伎と 秦 恒平
京都で生まれ育ち、それも祇園の、中といっても外といえないほど近辺に育って、けれど「ぎをん」をとくべつに思う思い習いは、ほとんど、もたない。「ぎをん」を仰山に讃嘆する人や文章に出会うと、「けっこうなことや」と思うだけで、さて相槌をはずむでもない。それよりも「ぎをん」のことは、もっと広い歴史の時空で私は眺めてきた。
京都に遊所はたくさんある。昔はもっと在った。在りかはほぼ決まっていて、多く鴨や桂や淀の河原ぞいであり、また名のある寺社の門前や鳥居本である。島原の如きは近世の政策で市中に移されたもの、ふつう「あそび」のいるところは、祇園社や建仁寺のねきであり北野のねきであり鴨川ぞいであった。色も売り藝も売った。より大きくは藝を育てたというべきだろうか。
源氏物語の夕顔は、あれは娼婦宿の娼婦であろうよと推察する人があるが、忘れ形見の玉鬘は、後宮に準ずる尚侍に任じられた最高の貴女であり、生母夕顔の娼婦説に簡単には頷けない。夕顔には当時よく知られたモデルの美女「大顔」があり、夕顔がもののけにとられて死んだ「なにがしの院」が、通説の「河原院」かどうかにも異説が出ている。それはともあれ、その河原院のあった今の枳殻邸の辺に、延壽寺という古いお寺があり、じつは初代尾上菊五郎の墓がある。彼は南座より南へ河原に添うた遊郭、宮川町辺に出たといわれる歌舞伎役者であり、音羽屋という屋号も、ただちに納得できる。清水寺のある音羽山は、まさに山紫水明、指呼の間にうららかにけぶっている。久しく江戸・東京を代表する尾上の音羽屋とみてきた人が多かろう、だが、「音羽屋ぁ」の屋号は京の東山に由来するとみて、まちがいあるまい。
この師走には、南座顔見世で中村鴈治郎丈の坂田藤十郎襲名が何百年ぶりに披露される。わたしは、この吉報が噂のように報じられたとき、ほぼ三年四年後にはと聞き、なんとしてもそれまで生きていたいと待ちかねたほど、楽しみにしてきた。「ぎをん」の弥栄中学で同級だった片岡我當君もきっと出勤するだろう。演目は決まったかと、いましも番頭さんの通知の来るのを待っている。
縄手に、また新門前通りに家のあった秦の祖父は、明治の初年、南座などへかき餅を卸す仕事をしていた。家に大きな竈があり、のちのちまで特大の蒸籠(せいろう)や餅船が大戸棚の上に積み上がっていた。父は祇園の人達をアテに錺(かざり)職人からはじめて、後に日本最初期のラジオ技術認定者に転じた。父や叔母も、わたしも、今はもう無い有済小学校の卒業生であった。その父や叔母がよく言っていた。双子の創業者が興したあの「松竹」という会社のめでたい名前は、学区内の「若松・若竹」という町名からとったんや、と。あとにもさきにもない、どえらい大先輩やで、と。実否は確かめないが、学校には、寄贈されたあれこれに、松竹の名前がよくくっついていた。わたしの、中学生以来の歌舞伎好きは、知らず知らずそういう素地に育まれてきたのだろう、か。
2005 10・20 49
* 久しい読者から、オペラのお誘いがあった。息子からは、主宰している演劇塾の何回めかの卒業公演にこないかと誘ってきている。
明日は下北沢で、映画女優で親友の原知佐子の芝居がある。彼女は断続的に演劇活動をつづけている。
来月の第一週には国立で我當君が、「絵本太功記」の通しで、つまり織田信長役を演じる。芝翫が羽柴秀吉役。明智光秀役は橋之助だというから、持ち味の大柄を科白からよく引き締め、大役を成功させて欲しい。我當の息子の進之介も珍しく顔をならべる。松嶋屋の若手では秀太郎のところの愛之助、仁左衛門のところの孝太郎が心境著しいだけに出遅れが目立つ。奮励してくれるといいが。
第二週には、小山内薫の「息子」が歌舞伎座に出る。染五郎がやる。幸四郎と吉右衛門の兄弟が一つ興行で顔を揃えるのも珍しく、楽しみ。
幸四郎の姉娘が主演する紀伊国屋での芝居はどんなのだろう。師走には妹の松たか子主演のコクーン芝居もある。
いずれ吾々夫婦もからだが動かなくなる。それまでは、せいぜい楽しむ。飲み食いしなければ、芝居見物は体力も使うのであり、血糖値も上がらない。せいぜい呑まないようにしている気だが。
呑むか喰うなら、呑む方を取るかも知れない。
2005 10・21 49
* 創画会に、石本正、橋田二朗、上村淳之、烏頭尾精さんから招待状が届いていて、なかなか行けないうちに会期が迫ってきた。あれこれ言っているうち、「モロー展」へは辛うじて滑り込めた。泉屋博古館(特選の日本画)、藤山寛実智美術館(当代の楽吉左衛門展)、国立工芸館(アールヌーボー展)、庭園美術館(マイセン陶器の粋展)など、招待をムダにしたくない。さて、いつ行けるか、だ。
今日、十一月の歌舞伎座も座席券が届いた。雀右衛門と冨十郎とを筆頭に、幸四郎・吉右衛門・仁左衛門・梅玉・左団次は、豪勢な顔ぶれ。仁の「熊谷陣屋」 高麗屋父子の「連獅子」 それに梅玉がまた上方ものに挑むし、小山内薫の「息子」で染五郎ががんばるだろう。なにより富十郎の鍾愛する幼い息子大クンが名披露目の舞台をふみ、富十郎他の大幹部が祝言の舞台をつくってくれるそうだ。
十二月の松たか子公演は、どうやら野田秀樹作・演出の『贋作・罪と罰』らしい。これが楽しみ。
2005 10・25 49
* 高麗屋から、夫妻の著書がどっさり贈られてきた。『俳遊俳談』や『高麗屋の女房』など数えて十冊。市川染五郎時代の珍しい『ひとり言』もある。(他に松たか子さんの『松のひとりごと』など三冊もある。)入会が決まると同時に「ペン電子文藝館」へ加わってもらうが、作の選択は任された格好で、骨折れそう。楽しんで読んで行く。
* 藤間紀子様 ご本たくさん戴きました。お嬢さんのもあり微笑みました。高麗屋さんの染五郎時代のが珍しく、嬉しく。
沢山の中から作品として選ぶのはたいへんな宿題になったと思っていますが、今回は、私の思いで適宜選ばせてもらいます。何度にも分け、少しずつ展観させてもらおうと思います。 有り難う存じます。
ペンの事務局長に、二十五日の「ペンの日」七十年に、「入会」を歓迎してお招きするよう申し置きましたけれど、むろんご公演最中のこと、お気に掛けて下さいませんよう。時候がら お大切に。「ペン電子文藝館」秦 恒平
2005 11・3 50
* 帰ってきたら、ま、百にあまるメール。ただし七割はスパムメールで、消去また消去。大阪産経から校正の督促も来ていたり、郵便物か三日分で山のようになっていて、湖の本の払い込みがどうっと来ている分も、新しく追加で送る分も、放っておけない。そのしまつに追いまくられて、あれよあれよで日付が替わった。
あすは聖路加で眼科の検診、もうこれ以上、目もつかいたくない。あさっては国立で、橋之助の光秀、我當が春永に出て来る。どんな癇癖ぶりを演じるか、楽しみ。
2005 11・9 50
* 今日は春永(信長=我當) 光秀(=橋之助)、久吉(秀吉=芝翫)の「太功記=太閤記」の通し狂言で休息してくる。
* 国立劇場の上演形式「通し狂言」は、いわば長編読み物。歌舞伎座だと無関係に何作かを次々に上演する。つまり短編や中編を幾つか。
どちらが興奮するかといえば当然歌舞伎座の方であり、幸四郎と吉右衛門が勧進帳の弁慶と富樫を力演したかとおもうと、次の幕では玉三郎が娘道成寺を踊り、また次には仁左衛門や団十郎が義経千本桜を、また鴈治郎が紙屋治兵衛を演じているといった変わり映えの面白さに観客は、幕が開き幕が閉じるつど熱してくる。その点、通し狂言一本立ては全部が終えて幕が下りてから纏まった感動や印象を得ることになりやすく、比較的劇場の体温があがりにくい。国立は客席が静かで、時に陰気に沈みがちという評判になるのは或る程度やむをえない。珍しい狂言が纏まって復活上演されたりするメリットもあり、一概には云えないが、今日の「絵本太功記」なども、「尼ヶ崎閑居」の場ひとつで足りていると言えば足りている。通してやれば全体の筋の通りは分かりイイのだけれど。
序幕・二条城配膳の場と本能寺の場が見られるのは珍しく、これまた珍しい顔の進之介が勅使役、尾田春長に我當と父子の顔が並んだ。我當の春長はざっとあんなもの、所と役とを得て堂々と口跡も美しい。座頭格の静かな貫禄。それにくらべ進之介は、人形ぶりではじまる幕開き早々にぱちぱち瞬きなどして、相変わらずサマにならない。
饗応役の武智光秀に橋之助、これは柄にもあい儲けものの主役で、まずまず及第か。しかし、大きく強く魔をかかえた内面が、始終緊迫し外へ烈しく発光していなければいけないのに、それだけの集中力がない。演技中にエアポケットみたいな「おやすみ時間」ができてしまう。
何より物足りなかったのは、大詰め「夕顔棚の彼方より現れいでたる」の場面に、まるでドアをあけてさらさらと現れとしまったこと、迫力も魔力もありはしない。あそこも、その後母を殺してからも、光秀は、巨大な荒れ山か魔の山のように存在感で爆発しそうであって欲しいのに、橋之助、それが出来ない。むかし、のちに猿翁になった先代猿之助で観た「太十」光秀の底知れぬ威力は、凄いものであった。こわかった。
芝翫が真柴久吉、魁春が武智十次郎、孝太郎が森蘭丸と、常は女形が、揃って男役というのが趣向で、芝翫ほどの大物にどうこういっても始まらないが、魁春が、ま、期待したようにおさまっていて、大詰めで事切れる前などほろりとさせた。成功した。孝太郎の蘭丸、槍の使い方にやや颯爽としないところはあったけれど、獅子奮迅が何とも楽しげであった。むしろ本役の十次郎許嫁初菊が物足りない芝居であった。魁春と並んで芝居をすると、まだ孝太郎は大きく遅れている。東蔵の光秀妻操、吉之丞の光秀母皐月はさすがに達者。感心したのは、男女蔵の加藤虎之助正清、颯爽と面構えもサマになっていた。
歌六の四方田田島頭、右之助の阿野の局などは、脇役ながら人を得て堅実、こういう人達がいつもいつも歌舞伎では貴重だ。
* 前から三列め、花道に近く、花道芝居を手に取るようにタンノウできて、のーんびりと半日を楽しめて良かった。食堂で、珍しく牡蠣フライとワインの小瓶などとり、食事ものーんびり。国立劇場はいちばん脚の便利な劇場で、五時半には保谷に着いていて、妻も元気に歩いて、帰宅。
土日を休養して、月曜日にもう一度歌舞伎座へ。これは江戸歌舞伎の顔見世興行、昼夜バラエティに富んだ演目で、高麗屋、播磨屋が共演というのも嬉しくて楽しみ。
* こんばんは、ひさしぶりにゆっくり撮り溜めてある映画でもみて寛ごう。明日と明後日は家に落ち着いて、用事をいろいろ片づけて行く。
2005 11・11 50
* 『松本幸四郎の俳遊俳談』から、「役者幸四郎の俳遊俳談」と題して掲載されている随筆全十六編をスキャンして校正を始めた。大判の八千円もする大倉舜二撮影の写真集でもあるが、高麗屋自身の俳句と随筆集である。なだらかな達意の口語でおのずからその系譜や世間や家庭や歌舞伎・演劇が語られ、口跡を聴くようである。あれこれ混ぜないでこの一冊に集中して保存し伝達するのがうま味があると判断した。
ことに十六編中の「奥入瀬谿谷をゆく」という何でも無げな紀行の一文が佳い結晶度で、それに惹かれて全部を採った。そこへ行き着く経過をもていねいに見たいと思った。役者としての家筋にこの上なく恵まれて大きくなってきた人の、またそれなりの苦心も深く、批評の余地もむろん無いではない中で、ユニークな俳優半世紀を堅固に立派に築いている。
わたしは少年の昔からほぼ一貫して播磨屋、高麗屋系の芝居に馴染んできたのだが、はっきり言って近代の歌舞伎でそれが本流であったかどうかは微妙で、だからこそわたしは関心を失わずに来たのだった。「ペン電子文藝館」にいちはやく小宮豊隆の「中村吉右衛門論」を招待したのも、そういう思いが働いた。
2005 11・12 50
* 幸四郎の本の表帯に、「神の春とふとふたらりたらりらふ」という彼自身の句が引かれているが、「とふとふたらり」はもしや歌舞伎台本の何か手控えにでも拠っているのか。能の「翁」または「神歌」に名高い呪言・呪詞である。「鳴るは瀧の水」ともあるように瀧ないし激湍・奔流などとの近縁が推知されている。とすると「滔々」「蕩々」あるいは「どうどう」に近く、仮名遣いは「とうとう」「どうどう」で、すくなくとも「とふとふ」という仮名遣いは当たらない。これは気になった。
ついでもう一つ初代吉右衛門が祇園の茶屋「吉つや」に遺している句の一つに「冬ぎりや四條をわたる楽屋入」があると幸四郎は書いている。その軸も写真で出ているが、字は微妙に小さくて読み切れないのである。
おそらく、四條大橋を渡って、または四条大通をよぎって南座へ「楽屋入」するのであろう、「冬」だから明らかに南座の顔見世興行以外に考えられない。わたしはこの初代吉右衛門の顔見世興行で生まれて初めて南座顔見世歌舞伎を観たのである。
しかし「冬ぎりや」という句語が解せない。これは「冬の霧」か「冬限り」を歎息した「や」でしかありえないが、前者でも後者でもピンとこない。鴨川に霧がたたないでもないけれど、京の市内で、ことに南座の近辺で暮らしていたわたしの記憶では、「霧」を口にしたり嘆じたりしたことは、まず、ない。大通りで霧をみた記憶はない。四條大橋の上で川霧をけっして見ないとは言わないが、乾燥のすすんだ冬期、秋霧のようには冬霧は立たない。「冬霧」という用語もまず簡単には見ない。
わたしの率直な感想では、これは、「冬ざれや」ではないのだろうか。
叩けば鳴りそうな乾いた底冷えの京の師走は、よく「冬ざれ」という実感を催したものだ。胴震いのする冬の寒さと奇妙に乾いた空の明るさ。まして四條の橋の上では、ぞくっと来る。
冬ぎりと冬ざれ 写真では判明しないが、走り書きだと混同の可能性のあるひらがな二字ではある。「気になった」と言っておく。
2005 11・12 50
* 児雷也というと子供の頃のメンコの繪を反射的に思い出す。あの繪を見ていてもお話として理解していたのではないが、なにか荒唐無稽の魅惑を覚えていた。しかし歌舞伎は見たことがない。一度観てみたい。
* あすの歌舞伎はたのしんできたい。意地をおさえて、早々に温かくしてやすむとしよう。
2005 11・13 50
* 幸いかなり持ち直し、目覚めもラクであった。陽気はいくらか冷えているが、温かくして出かける。当月は江戸歌舞伎の顔見世興行。力の入ったいい舞台を終日楽しんできたい。師走、京の顔見世昼の部の座席券も昨日松嶋屋から届いていた。
2005 11・14 50
* 今日の歌舞伎座は期待通りの充実で、大満足。わたしの体調は完全とは言えなかったが、気分は晴れやかに、十二分楽しんだ。昼に四つ、夜に四つの狂言がバラエティに富んで目先華やいで変わり映えし、演者もみな確かで舞台がどれも安定していた。いろんな薬づけで胃の腑の工合がいいわけなかったが、結局は機嫌良く弁当も食べ酒も呑んだ。甘いものまで美味く食べた。帰りに銀座でラーメンを食べ、マオタイも呑んで帰ってきたが、おかげで寒気も咳き込みも発熱もなく、全身の痛みも帰り道では失せていた。
* 昼の部最初の、小山内薫翻案ものの、しかも洋臭をきれいに拭い去ったたった三人での歌舞伎が、じつにいい一幕目で、火の番小屋の爺が歌六、これが役者の力量底知れずよろしく、金次郎役の染五郎がニンにもあい、実に気合いよくて期待に十分応えてくれた。この実は父と子と読める二人の性格がかみあって火花も散り涙も散り、凄みもひとしおあわれも深くて、眼鏡で覗いた二人の眼光の鋭く切なく光ること、胸を抉る力があった。信二郎が捕り方で付き合った。異色の一幕もので、高麗屋の番頭さんに聞いても、めったに出ないものだそうだ、佳い物を観たと思う。
二幕目はこれはまた堂々と立派な大歌舞伎。仁左衛門が襲名以来もう七年目の熊谷陣屋。当代一の大柄な大きな役者になり、ことに今日の熊谷は生々堂々と書いて示したい真っ向勝負の正統歌舞伎を、何のけれんみもなく感動いっぱいに演じてくれた。柄も立派、科白も立派で、根は「寺子屋」とも同じ好きな芝居ではないのだけれど、したたかに泣かされ、脱帽。相模の雀右衛門、秀太郎の藤の方はさほどと思わなかったが、梅玉の義経が静かに大らかで情味が科白の語尾にまで美しいまでにじみ出たのは、出色の芝居であり、左団次の弥陀六もかれらしいさばきで無難にこなし、この男役三人がすてきに感じ佳いアンサンブル。大歌舞伎の醍醐味をしっかり見せて貰った。
三つめは、所作事が二つ、まず吉右衛門の雨の五郎が粋な舞台に粋にせり上がり、からみの四人もはなはだ誠実な演技で気を吐いた。さすが吉右衛門は悠々とお洒落に若い五郎時致をみせてくれた。すぐ引き続いて富十郎という歌舞伎踊りでは当代随一の名手の「うかれ坊主」の願人坊主、実の体重の半分ほどに軽く感じさせる文字通りの軽妙無比のおもしろさ。しかも富十郎、ひょひょうの所作に根の悲しみを漂わせて、ほろ苦く笑わせる。佳い踊りであった。感嘆した。
昼の大喜利はご存じ「文七元結」で左官長兵衛を初役の幸四郎という、観客にも儲けもの。初役というのにビックリする出来上がった、なるほどこの男なら、我が娘を身売りの身の代ともいえる五十両を、あわや身投げの見知らぬ男に呉れてやりそうな人のよさ、男気。こういう役は、初役であってもしっくり手に入って、実のある、本役以上に仕上げる俳優である幸四郎は。角海老の女将は、秀太郎が地力の好演、藤の方よりも格別よかった。澤村宗之助の娘おひさが愛くるしく、文七は染五郎。おなじ円生師匠の人情噺でも、これは「髪結新七」よりよほど気持ちの綺麗なこざっぱりと目出度い芝居、「白鶴」のカップ酒を高くさしあげて乾杯し、舞台の若い許婚者たちや左官幸四郎の好演を祝った。
* ハネ出しのとき、「高麗屋の女房」藤間さんが駆け寄って見えて、立ったまま暫時歓談して一度劇場を出て、例の茜屋珈琲で休息。
* 夜の部の一つ目は吉右衛門が松貫四の名で創っている「日向嶋景清(ひにむかうしまのかげきよ)」。力演ながら、作因に心持ち納得しないものがあり、たとえば「俊寛」にくらべて、必然の劇性を感じ取りにくかった。吉右衛門の悲歎の表現など、やや過剰に歌舞伎からもはみ出た心地がしたのは、やはり既成観念で築いてある、自身の景清像と食い違いすぎるからで。
盲目し島流しにされている景清が、苦心して尋ね来た娘(芝雀)をあえて追い返す気持ちはともかくもあれ、その娘が実は遊女に身を売ってつくった金を父のために届けに来ていたのだと知ってにわかに狂乱し、はるかに遠ざかる娘の舟に、俄に心衰えて宿敵鎌倉の頼朝に仕えてでも、娘をそのような境涯に落とすまいとする。それでは、もともと親しんできた景清像とはかなりくいちがうのである。吉右衛門の演技力には感心するけれども、しっくりこない芝居ではあった。
このまえ、幸四郎の「俊寛」にぞうっとするほど感動したのに比べて、無理筋という感、否めなかった。
二つめは、老富十郎の長男六歳の大クンが初代「鷹之資」を名乗って牛若丸を懸命に堂々と演じきる披露の舞台。常磐に御大雀右衛門、平忠度に仁左衛門、鞍馬の蓮忍に吉右衛門、源氏方喜三太に梅玉、そしてなき源義朝より預かった白鷹の鷹匠は、父富十郎。題して「鞍馬山誉鷹(くらまやまほまれのわかたか)」は御祝儀風情満点のめでたい明るさに終始し、口上もじつに気持ちよかった。
富十郎が若い夫人と再婚してこの子が生まれたと聞いたとき、どんなに富十郎丈喜んでいるだろうと、こっちまで嬉しかったし、その初舞台も、その名乗りの披露も、当の「鷹之資」よりも父天王寺屋のために、わたしたちも心から待っていたのである。ほんとうにおめでたかった。新鷹之資の六歳の立ち回り、開いた指先、踏んごむ足先まで力みなぎり、さすがに役者の子は役者と感嘆した。いい顔をしていた。
三つめはお目当て、高麗屋父子の「連獅子」で、寸分の隙も弛みもない立派に美しい獅子の舞いであった。幸四郎の舞いは大きく正しく間もゆとりも優れて凛としていたし、その父に見守られた染五郎の子獅子の懸命の力演、だいぶ腕を上げたと父をして言わしめるだけの快さであった。染五郎の舞い踊りに軽妙と悠然とした重みとがついてくれば、気合いも意欲も満点のまさに若武者、すばらしく立派になるだろう。ずいぶん意識して藝と役の幅をつけている。子獅子ぶり、颯爽、気持ちが良かった。佳い連獅子であった。
今日の大喜利は、近松門左衛門作、おさん茂兵衛の「大経師昔暦」で、梅玉の心入れの出し物であろう、時蔵と梅枝とがおさんとお玉を鄭重に付き合い、おさんの夫以春に段四郎、番頭助右衛門に歌六。分かりよく、悲劇全体の前三分の一だけで綺麗に筋を通して見せた。近松の劇的把握の凄さはさすがで、のっぴきならないハメをみごとに創り上げて納得させさせ、悲劇のすさまじさへ人間を追い込んで行く。むかし映画の近松物語で、長谷川一夫と香川京子とが演じ、お玉はたしか南田洋子、すばらしい映画であった。今夜の舞台は梅玉の茂兵衛に今一段の悲劇的深みが有ればと残り惜しいが、時蔵のおさんは上出来であわれであった。お玉の梅枝は話ながら上体があまりに前後しすぎて気になった。
歌六が、「息子」の火の番のおやじとうって変わった役でおかしく、この役者、見る度に好きになる。
* 当る戌歳、江戸歌舞伎の顔見世興行らしい豊かに力漲るいい舞台を八つも観られて、満足した。妻も終始大きな疲れを見せなかったし、わたしも、十分持ちこたえて、楽しめた。
* 明日から三日か四日は、家で休息できる。
2005 11・14 50
* 読書セラピー
hatakさん 歌舞伎で体調も改善されたようですね。泣き・笑いは免疫力を高めるという実証でしょうか。
雪降る二日間、非常に難儀な会議の座長をして、体中の関節がぎしぎしいうほど疲労困憊し、そのまま体調を崩して、ついに今日は仕事を休みました。
久しぶりにゆっくりと、「湖の本」最新刊を読み始めました。
『好き嫌い百人一首=秦恒平百首私判』、痛快です。朝日ジャーナルで作家秦恒平を知った私としては、通説・常識・生解釈をばっさりと覆してゆく痛快さが魅力です。
午後は、書棚からNHKブックス『閑吟集』を出してきて、再読。読むほどにくすんでいた身心に精気が戻ってきました。読書セラピーとでもいいましょうか、閑吟集の時代の陽気に心が共鳴して、均衡を崩していた体が平衡を取り戻してくれました。
世間(よのなか)はちろりに過ぐる ちろりちろり
ふむふむ。
新茶の茶壷よなう 入れての後は こちや知らぬ こちや知らぬ
ははは。いま日本中で茶壷の口切をしている、しかめ面が聞いたら腰を抜かすはず。
思ひ出すとは 忘るるか 思ひ出さずや 忘れねば
思ひ出さぬ間なし 忘れてまどろむ夜もなし
ああ粋ですこと。
ところで、最近米グーグルが著作権切れ書籍の全文検索を開始、米アマゾンが本をページ単位でばら売り、米マイクロソフトが大英図書館の蔵書を閲覧と、米国で図書館とネット企業が手を組んだ電子書籍事業の展開が進んできました。
学術文献の検索閲覧では、一般書籍の先を行く勢いで電子化が進んでおり、図書館では電子媒体での保存の危険性と、紙媒体での保存経費を天秤にかけて悩んでいるところです。
米ネット界の三つ巴の覇権争いがどうなるのか気になるところです。 maokat
* この後段の状況は電子メディア委員会でも把握して注目している。情報インフラの底知れない変動は足取り早く社会の各場面に荒波を立てて進んできている。
韓国ではもう新聞がおおかたIT情報の前に潰滅したと聞いていて、日本の新聞もどうごたくさご老体が頑張ろうとも、この数年内に音を立てるように崩れ落ちるであろうと観測されているが、その前に図書館事情が大きく変わる。図書は捜して手にするより、検索して読むものに変わりつつある。
もっとも幸か不幸か日本語はタテ読みがまだ普通で、ヨコ読みの機械文を毛嫌いしている人が圧倒的に多い、それが僅かに検索図書化への速度を抑えていると言えるだろう。
2005 11・15 50
* 妻は聖路加へ、わたしは留守番して、気になる連載「本の少々」随筆を二本、送った。また「高麗屋の女房」さんと、エッセイの不審個所でメールを往来。一等気にしていた初代吉右衛門の句が、わたしの希望どおり正しくは「冬ざれや四條をわたる楽屋入」であったと確認され、ああ、それで佳い句が佳い句になったと安堵した。
奥さんの出稿作品も『高麗屋の女房』から中ほどの一章分を全部もらうことにし、『私のきもの生活』から「付」を少し出してもらうことに決めた。
幸四郎丈が前回湖の本の『日本を読む』を「座右の書」にしていると聞いてよろこんでいる。わたしの書くモノはかなり伝統藝能や庶民の歴史と交叉している。どこかしら交響しあうものがあるだろうと望んでいる。
2005 1・17 50
* 寒さに脅されてマイセン展は遠慮した。会期中に行けばよい。
「高麗屋の女房」を思うさま選んで読んで、校正した。
日本の藝能は、根底に死者の鎮魂慰霊があり、転じて生者の偕楽成の興行が表裏膚接している、それが基本だ。高麗屋の文藝にも奥さんの文藝にも痛切にそれがあらわれ、彼等の歴史と日常とは、死と生とに綯い混ぜられているのがよく分かる。だから常人には味わいがたい、涙と感動と輝きとが見える。先代幸四郎の死、その夫人松派小唄家元松正子の死、そして藤間夫人実父の死。その大きな死の影を深々と背負ったまま、幸四郎夫妻や役者の子供達も、「舞台」に立ち続ける。毅い人達の世界に触れたのを喜んでいる。
役者達の世界をよくないと非難する人もむろんいる。批評のものさしはしかし安易な一本だけではないのである。
すくなくもわたしなどは、あくまでも役者の舞台に力づけられ楽しませてもらえば有難い。この夫妻の文藝は、終始知性と感性のバランスの上に清潔であった。それで足りている。
* 明日は、その高麗屋の長女松本紀保主演、鴻上尚史作「トランス」を観る。来月には高麗屋父子の「天衣紛上野初花」を観、次女松たか子の「贋作罪と罰」を観る。そのあと暫くして、古稀の自祝もかね、京都南座まで出かけ、成駒屋や松嶋屋に肩入れしてくる。中村鴈治郎は坂田藤十郎になり屋号を替えるのだろうか、それも佳いと思うが。
いい芝居をいい席で観る。わたしたちのささやかな贅沢である。いっこう稼ぎもしないで贅沢を楽しんでいる。
京都から帰ると、今年の舞台見納めは、国立能楽堂クリスマスイブの能「定家」シテは観世栄夫。どっしりと大曲でのオオトリになる。なんという嬉しさ。
そういえば来週早々の月曜には、明治座の「細雪」に招かれている。雪子役は紺野美沙子で、澤口靖子ではない。何度も同じ舞台を観ているので珍しげはないが、これまでは帝劇だった。明治座という舞台でどうなるか。そのあと、「ペン電子文藝館」の委員会
へかけつける。浜町と茅場町のこと、遠くはない。
2005 1・18 50
* 三時からの理事会、させることもなし。
電子文藝館委員会から提出の「ジャンル別展観一覧」が甚だ杜撰で、個々の脱落もあれば、なんと特別三室の一つ「主権在民史料」室の全部が欠けていた。「記録」づくりにぜひ必要な慎重さ、厳格さが全然欠けているのに、落胆した。
「記録」は、厳密で正確でなければ資料として安心して使えない。半年に一度提出するいわば晴の根本資料にこんな重大な手抜かりがあるかと、唖然とした。人のする仕事だからちいさなミスは防ぎきれない場合もある、が、館の売り物の一つの特別室分が、ぜんぶ抜けているなど考えられない。
この理事会で、高麗屋松本幸四郎・藤間紀子夫妻の入会推薦の弁を述べ、入会がきまった。同じなら今夜の「ペンの日」から形だけでも加わってもらえるよう、前もって招待状を事務局に出してもらった。今夜は歌舞伎座千秋楽で、夜の部には父子の「連獅子」もあり出席できないのは分かっていたが。しかし夫人は際どい中で時間をさしくりして顔を見せられ、井上会長や阿刀田専務理事などに紹介することが出来た。
* 「ペンの日」のパーティは、創立七十周年記念。藤村初代会長の「詩の朗読」などできもちよく始まった。井上ひさし会長の挨拶も、黒井千次文藝家協会会長の挨拶も、日中文文化交流協会会長辻井喬詩の乾杯挨拶も、反復ここに紹介することはしないけれど、それぞれに相応の内容があって良かった。
詩の朗読と会長の開会挨拶だけで、藤間さんには引き取ってもらった。「連獅子」に間に合ったかどうか。福引きの券も預かっておいたが、クジ運つたなく、番号の前後にハデな当選が出ていたのにどちらかの分がはずれ、一人の分にはなんと函三、四十㎝立方のなかに白い「お話し人形」とやら入ったのが当たり、抱え持つのもたいへん。「ちいさい孫がいます」と叫んでいる誰か知らない女会員にあげてしまった。高麗屋にもそんな小さいお孫さんはいそうになく、我が家の孫はいても上は大学生で、「お話し人形」の引き取り手はない。
* 例によって一万円の会費が払ってあっても、わたしは、大混雑の中で立食できない。ほとんど飲みもしなかった。そして八時半、疲れているのでタクシーで帝国ホテルへひとり移動し、クラブにやっとひとり落ち着き、強い酒で、おきまりの角切りステーキ、エスカルゴを食べ、ほうっと一息ついた。空腹での強いお酒がジンジン身に沁みた。キープしてあるウイスキーの一本は、1990年余市で蒸留のNIKKA。アルコール分が67%もあり、わたしはそれを生のママ飲む。生のママでないと、せっかくの酒の香も味もうすまってしまう。ま、毒をのんでいるのと変わらない、愚の骨頂だけれど、ときどき此処へにげこんで、ひとり放心したり、お行儀のいいホステスと仲良くお喋りしている。此処だとまず誰とも出会わない。
しかし以前一度だけ、家のすぐ近所の人が、某出版社勤めの接待のためかなにか数人で来て客をもてなしているのと鉢合わせしてしまったことがある。
* 千夜一夜物語を読みながら帰宅。
2005 11・25 50
* さ、明日は国立劇場で通し狂言「天衣紛上野初花(くもにまがふうえののはつはな)」を観てくる。十日は、野田秀樹演出の松たか子「贋作・罪と罰」で。ありがたい。
* 漫然と機械の整理をしていた。もう、やすもう。
2005 12・6 51
* やがて九時半。昨日の楽吉左衛門の茶碗がまだ眼裏に在る。今朝、もう、バグワンと継体紀とを読んだ。あと一時間ほどで三宅坂国立劇場「天衣紛上野初花」通し狂言に出かける。
* 幸四郎の河内山、時蔵の三千歳は、ま、申し分ない持ち役で、悠々。時蔵が恋に殉じていた、あわれ濃く。幸四郎は少し役を腹で作りすぎていたかも。
染五郎の直侍は、意欲の初役で、気はしっかり前向きだけれど、外向きにも内向きにも、柄が、ちいさい。オドシが利かない。オーラが立って舞台の空気を鷲づかみにする大きさがない。出ない。余裕がない。辛うじて表情で役を保たせているというところ、しかし、からだが十二分に動かないから演技にまだ切れ味がない。粋な男になりきらない。三千歳がああまで惚れぬくほどの男の魅力が、まだ色気としてしたたり落ちない。
幸四郎が河内山と直侍とを二役演じたことがある、が、それはつまり河内山役者ほどのモノを、直侍役者も持って表さないと、この芝居がバランスしにくいからだろう。たった独りで、大舞台の空気を、一つのからだとこころで掴み取れ・動かせという大役である、根はただのチンピラであるにもかかわらず。「鈴ヶ森」の白井権八よりもこの片岡直次郎は、芝居の組み立ての太い柱に創られている。染五郎の柱は、まだ細い。伸び盛りな若い役者の通る、これが「道」というものか。
心配していない。かならず同じ役と限らず、いろんな役を重ねて行くうち、びっくりするほど役者染五郎たる存在感が増してくる。そう信じられる実力はちゃんと出しているのである、現に。
からだが小さいのではない、今はまだ「気」がちいさい。小心の意味ではない。役者としてのキャパシティがまだ小さく、意欲だけで背のびしている。だが、それでいい、それが「時分の花」である。
* 要するに松江侯屋敷の書院と玄関先、例の河内山宗俊が凄む場面に魅力は尽きるような芝居で、黙阿弥畢生の名作歌舞伎にはちがいないけれど、ピカレスク (悪漢もの)に魅入られないかぎり、そうウルサイ芝居でも、有難い芝居でもない。とくべつの感動は何もない。あわれも特にない。「三人吉三」のように陰惨でも、フクザツ怪奇でもない。気分のサッパリした芝居で、気軽に楽しめる。
なにしろ「明治」に書かれた、黙阿弥の、歌舞伎らしい歌舞伎の最期の作。このあとには、ザンギリものが来る。「ペン電子文藝館」にも入れた「島鵆」だ。黙阿弥の「河内山」や「直侍」には、かすかにも、明治の顕官や官憲に反抗した壮士や草莽の心意気が書かれているのかも知れない。
* 左団次が一癖ある金子市之丞役であるのに、今日は、少し貧相かつ不器用に見えた。役に合わないのか。
写楽描くような彦三郎の松江侯には、賛否があろう、あれでいいとも、騒がしいとも。吉右衛門の河内山に切歯扼腕した中村梅玉の松江侯は、癇癪玉の乾きようが伝わって共感したが、彦三郎はどうしても気負ってみえ、ガサツにみえてしまう。彼のあの堂々たる口跡と異色の風貌とのために、恰好の芝居を呈して欲しいものだ。
段四郎は、高木小左衛門のような出来た老職でも、反対に愚昧な北村大膳役でも器用に立派にこなす人、今日の高木役は静かに深く演じて、場面を成しえていた。
片岡芦燕の按摩丈賀がよくはまっていて、舞台を喰っていたのが愉快。この人も、北村大膳もやれば、こういう気のいい按摩も快く演じてくれる。達者の徳。
腰元の出世役が、この芝居には千代春、千代鶴と二人いつも現れるが、京妙と段之の二人が、嬉しそうに生き生き演じて美しかった。ことに段之のあの美貌は、もっともっと大きな役で活かして貰いたい。宗之助のやった腰元波路の役などすぐにも出来るだろうが、存外着崩した毒婦などに嵌るかもしれない。期待。
御大猿之助の病気で彼の門弟筋が苦闘している。他の一座に加わって鍛え直されながら、伸びる役者は伸びて欲しい。
* 暮色の三宅坂を、デジカメにおさめおさめ、痛むアキレス腱の右脚をひきずりながら、妻と、機嫌良く永田町から一路保谷へ帰った。
2005 12・7 51
* この二十一日の京都南座についで、正月歌舞伎座、坂田藤十郎襲名狂言の昼夜通し座席が用意できたと連絡あり。待ってました!
「夕霧名残の正月」「曾根崎心中」「伽羅先代萩」御殿と床下を、鴈治郎改め新藤十郎が演じる。そして幹部総揃いの「口上」がある。つれて、翫雀・扇雀の子息兄弟も敢闘することだろう。
2005 12・16 51
* 今度は、三谷幸喜作・演出「決闘! 高田馬場」三月公演の十四日を予約した。市川染五郎・市川亀次郎・中村勘太郎の奮闘公演である。
野田秀樹・鴻上尚次・三谷幸喜。三羽烏のように謂う人もいる。先の二人の舞台は数少ないが観てきた。残る三谷の作劇ぶりも見てみたい。テレビでは二度三度出会っていて、大いに面白かった記憶がある。端倪すべからざるトボケぶりがある。染五郎、亀次郎、勘太郎。三人とも好きで、藝の意欲や巧さをわたしは熱心に買っている。競演を楽しみたい。三人を働かせるみごとな演出をみたい。
2005 12・17 51
* 古稀、七十の誕生日、六時半に目覚め、窓に東山の曙を見る。心爽やか。
* 朝食ははぶいて、八時半、荷物を預けて、チェックアウト。車で、圓山公園の「いもぼう」下まで。
そこからは朝早やの静かな公園を心行くまでそぞろ歩いて、この艶に優しい造園の粋をそこここに認め認め、楽しみ合った。せせらぐ水音の底知れぬ静けさ。花なき花木の枝がちに冴え冴えとしたすがやかさ。木々の遥かに知恩院の大きな甍。旧大倉邸のハイカラ、八坂神社境内へ導く朱の鳥居、そして鴉を絵のように青空にとまらせた名木枝垂れ櫻。
氏神八坂神社に七十の寿と平安を謝し、今後を祈り、末社末社に遙拝して、朱の楼門から四條大通りへ降りていった。
弥栄中学をのぞきこみ、紅殻塗りの茶屋一力ぞいに写真をとり、香を買い、古美術・茶道具の店をのぞいて店員と談笑、そして、十時少し過ぎて、中村鴈治郎改め坂田藤十郎襲名、師走顔見世興行の南座に入った。
* 松嶋屋の番頭さんに支払いし、私にも祝いの品をもらい、六列目真中央絶好の席に入る。東京だと、木挽町でも三宅坂でも客はみな「歌舞伎」を観る気持ちだが、南座では「芝居」を観るのである。劇場は最も歌舞伎狂言にふさわしい広さ(狭さ)であり、そのために「舞台」が「花道」が、身近に感じられる。名古屋の御園座でも大阪の松竹座でもそういう感じだが、ことに南座は芝居の味わいが濃まやかに伝わる。
* 昼の部の最初は、趣向の「女車引」で、松王妻の千代に魁春、梅王妻の春に扇雀、櫻丸妻の八重に孝太郎の所作事の、清元に、誂えたように、
「摘草や ほんの嫁菜の姉妹(おとどい)が 思ひ思ひの料理草 古来稀なる七十の賀の祝とて昨夜(ゆふべ)から 雑煮の支度提灯で もちっと精出せ合点ぢや…」
などという詞がでてくる。扇雀がなかなかの踊り上手をみせ、魁春に拮抗。孝太郎がすこし「踊り見栄」に首を大きくふりすぎるのが気になったが、はんなりと、遊び心横溢の祝言ものと観てとれて、賀の祝いの私には結構な一番目であった。
* そして新藤十郎お目見えの初狂言は、常磐津「夕霧名残の正月 由縁の月」で、扇屋の夕霧に雀右衛門がしんみりとつきあい、鴈治郎改め新山城屋は、ほんものの紙衣を着た藤屋伊左衛門。扇屋の主人三郎兵衛に我當、女房おふさに我當のすぐしたの弟秀太郎。この二人が、舞台半ば、亡くなった夕霧がふたたび冥土へ去ったところで、伊左衛門を中に、三人で趣向の「口上」となる。遙々来た私たちにとびきりのご馳走で、なんともいえず目出度くも嬉しくも、心華やいだ。芝居としては、むろん「吉田屋」の夕霧と伊左衛門纏綿の情緒が好きで、またあれは勘当もゆりて、結末がたいへんめでたい、なぜあれでなくて「ゆかりの月」かいなと思っていたが、なるほど新山城屋を中に、関西の重鎮松嶋屋の長兄と次兄とでおめでたい「口上」の祝言なら、納得した。
* 「菱岩」から届けられた弁当一人前を、場内で二人で食べた。とても一人では食べきれない御馳走で、用意の純米名酒が美味い。「菱岩」は、江戸時代半ばから京都で名代の「仕出し料理」の店、わたしの家の西町内にあり、一つ上の娘さんがながく叔母の社中であった。その縁もあり、初釜にはきっと「菱岩」の料理が縁高で出たし、茶事のときにも「菱岩」か「辻留」に料理に出張して貰っていた。
そんな店であるから「弁当」といってもまるで概念がちがっていて、大きな木の器にびっしりといろんな御馳走が二十数種もつまってくる。むろん揚げ物など混じらず、何もかも手を尽くして調理し料理した、粋で、味で、美しい食べ物が揃ってくる。
今度の京都は、芝居もさりながら「菱岩」を仕上げの眼目と思ってきた。思ったままの、それ以上の大満足で二人とも満腹した。
* 弁当幕間の次は、播磨屋の吉右衛門が当たり役、「腰越状 五斗兵衛三番叟」で、めでたき大酒の祝言劇。左右から、腹に一物の大酒を強いに強いるのが、このところいつものように、歌六と歌昇の、萬屋兄弟。よく役に嵌っていて、わたしはことにこの頃は歌六が贔屓。先代吉右衛門を思い出してしまう。
当代吉右衛門の悠々と手慣れて巧者な大酒のみのおもしろさに先だって、吾々夫婦が気持ち応援している若き尾上松緑の亀井六郎が、「小田奴」たち相手におおらかな所作の歌舞伎を楽しませる。「松緑」とても佳い佳いと言い合いながら、楽しんだ。
鴈治郎長男の翫雀が、癇癖気味の義経を頑張った。吉右衛門の五斗兵衛が大酔うのまま小気味よくあしらう「雀踊り」のけっこうなことも、言うまでもない。わたしは、壜に余していた酒を、五斗兵衛ほどの量ではないが、機嫌よく舞台と調子を合わせてみな飲み干した。
* 四番目にも所作事が二つ。先ず、仁左衛門の「文屋」に、からみつく武骨揃いの官女達がおもしろく、松嶋屋は悠然、さらさらと踊って陽気にからり。
そして次の「京人形」を、今日は御大菊五郎が左甚五郎。人形の花魁が菊之助で、これが目覚ましいまで美しく、しかも人形ぶりの踊りが硬軟まじえてじつに巧み。前には扇雀の人形を楽しんだが、菊之助の美しさは、若いことも若いだけに光り輝くようで、もっともっと長く観ていたかった。どれが好きと言われると、「京人形」の音羽屋と言いたいほどの嬉しい出来映えであった。
* さて大喜利は待ってました、二百三十一年ぶりの新藤十郎の天満屋お初と、長男翫雀が演じる平野屋徳兵衛の、近松作「曽根崎心中」が三幕。
これぞ上、方の和事の極致。扇雀時代の鴈治郎が、鴈治郎を継ぐよりも坂田藤十郎になりたいと望んでいた念願の大名跡で、渾身・懸命のお初。ああ、ああ、文句なしにおみごとであった。濃艶な京料理の味佳さに似た、深い濃い味わい。情緒は纏綿、殉情の哀愁に惹かれ引かれて心中する二人。翫雀の藝根性の太さがうかがわれる熱演も好もしく、胸に刃の最期には浄福の愛の、はかないが美しい恍惚と陶酔もうかがえて、ぞうっと鳥肌が立った。申し分無しと言っておく。
* 十時半開演の四時十分まで、六時間近い充実の大サービスに、おお満足。昼夜入れ替えの雑踏の劇場前で、「菱岩」からもう一人前の弁当を受け取り、タクシーでホテルに戻って荷物を受け出し、予定の新幹線を、四十五分ほど早めて、らくに乗車。
ほっこりして寛いだところで、味のかわるのを用心し、今度は大きめの冷たい缶ビールといっしょに、もう一度「菱岩」の弁当をゆっくり満喫した。おなじものを一日に二度食べても、なに不服もない実質の美味さ、豊富さ。京料理の本領を味善(あんじょ)う行った「しっかり」味。みずくさい、ひつこい、あじないものが微塵もないた。おいしかった。
2005 12・21 51
* 二日間の留守中もふくめて、ようやく古希の「少年」も一段落し、元のペースに戻れるようだ。
明日は、観世栄夫さんの能「定家」がある。大作で重い、じつに重い能。榮夫さん、体力の限界を渾身の気で舞われるだろう。
正月八日に矢来で観世善之の「翁」があり、つづいて九日にも松濤で、梅若万三郎の「翁」 (野村萬斎の三番叟)引き続き「賀茂」があり、久しぶり野村万作の狂言「福の神」がある。そして十三日は、木挽町での初春の大襲名歌舞伎、今度は昼夜で楽しむ。
2005 12・23 51