* ゆうべおそく、「サルバドル・ダリ」の伝記番組を観たのが面白く、釘付けになった。ダリにはガラという十も年上の因縁の妻がいた。ダリ世界に膚接して親密きわまりなかったことも、具体的に初めて教えられた。ダリは好みの大画家の一人であり、昔に、かなり大きめの美しいダリ真作の版画を買い、いまも居間にかけてある。居間にダリをかと驚かれるかも知れないが、その意味ではあまり問題のない、美しい無数の蒼い線で描かれた騎馬決戦図である。夢のようである。
2005 1/19 40
* かすかにあった頭痛も消えているようだ。九時半。かるく朝食をとってこよう。
* やはり今日を措いてもう観る日がないこと、観ずに終えたアトの気持ちわるさを思い、せっかく与えられた休日なのだからと、千葉市美術館まで走って、「清水六兵衛歴代展」を観てきた。お茶の水から総武線に乗り、錦糸町で快速に乗り換えた。好天に恵まれて暖かく、明るく、おれはこんなにお天気屋であったかと思ったり。とても楽しく忘れがたい半日になった。
電車が長いと校正の量もはかがいく。社中はつい仕事場になってしまう。
* 六兵衛は、初代と五代が名人で、二代三代が継ぐ。初代の自然体の造形は、まことにものやわらかに確かで、懐かしい作行き。ちいさな作り物から茶碗から水指から、どれをとっても無理な主張が少しも感じられないまま、長者の落ち着きと、ゆとり。「翁」の佳い面の魅力にちかい不動の確かさに、豊かに心癒された。絵付けも造形の確かさも申し分ない。
二代も、ほぼそれに近い。水指も茶碗も、使ったときの使い勝手の優しさが手肌に温かに触れるように伝わってくる。繪も造形もきわめて温和、巧緻。
三代は動的になってくる。力強さというよりも、やや繪も形も騒がしい印象になり、四代は海外への輸出意識も加わってくるのだろう、あてこみの造形がくどく重くなってくる。
五代六兵衛は名人であった。六兵衛の頃も、隠居して六和時代のも、大きく悠々として精緻で美しい。作品のエネルギーが天上して行くかのように、大きな作品も小さめの作品も、かろやかに伸び上がって見える。なんでも来い、なす事の総てが要所にきちっと嵌って美しいのに、ちいさくは固まっていない。造形に無用の力みもゆがみもない。色彩も繪もろくろも、仁清の名技にせまっている。
六代は、この五代の壁にぶちあたって苦闘これ努めて、技は凄みあるものの、京焼の瀟洒な味わいは棄ててかかって、大作意識で対抗する感じになり、全体に色も形も繪もみな暗く重くくどくなって、五代と並べられては叶わないなと気の毒であった。だが、一点、すこし器体が厚く重そうだけれど、絵付けの柔らかに自然で金彩の効果も抜群の、それは美しい作品があり、六代目のために大いに祝福した。
七代が、すなわち京都美術文化賞の同僚選者である、九兵衛サン。陶藝の方で七代六兵衛は継がれたものの、本来は金属をつかった彫刻家として世界的に知られ、会場にも「九兵衛」作品が並べられていた。六兵衛の名跡は子息八代目に譲られている。
* 千葉市まで走って観てきた甲斐は十分にあった。行ってなかったら、とてもいずまいが悪かったであろう。市内の三越に入っていた京料理で馴染みの「美濃吉」で、遅い昼飯をたっぷり食ってから、一路帰宅。ずうっと校正しながら。佳い時間であった。
2005 1・20 40
* 昨日日吉が丘の同窓会名簿が送られてまいりました、とたんに懐かしさがこみ上げて。そうだメールを、と。 余りに間が長かって、何からお話をさせていただいたらよろしいか。
まず建日子さんつぎつぎとおめでとうございます。さすが! 父上の血をひいて! 将来の楽しみがますます募ります。ちょうど恒平さんご活躍はじめのお年ごろなんでしょうね。
日吉の卒業生たちもご活躍です。人間国宝になられたキリガネの江里佐代子さん個展が、各地で催されますね。ご案内をいただきました。伊豆の温泉をかねて、佐野美術館へ、月末に行こうと予定しております。お誘いしても来ていただけないと諦めて。だんなと、ドライブかたがた。
私は現在進行中の制作 まとまったものはありませんが、つぎつぎ出品しなければならない展覧会がありますのでうかうかはしておれません。
この前の「自画像」から、どう展開させてゆこうかと模索をつづけております。
とりとめもなくすみません。どうぞお元気でお過ごしくださいませ。 郁
* 新幹線に乗れば三島へは直ぐ着く。わたしも佐野美術館へ行こうと思っている。東京では富本憲吉展もある。京都では京都美術文化賞の受賞者展が順に始まっている。なかでも繪の加藤明子展に出掛けたいし、その内にまた次の選考会もある、「美術京都」の次の対談もある。京都へ行けば、今度こそ橋田二朗先生にお目に掛かりたいし、いろんな仏様達にもお目に掛かりたい。そのうち、花も咲く。
2005 1・26 40
* いまどきミュシャの作品展が若い人にも人気だという現実に、わたしは妙にとまどう。パスネットのカードにも成っていて、わたしも三千円のそれを買ってはみたが。アール・ヌーボーにわたしはそう惹かれない。なにとはなく誤魔化されている気がするのだ。
* ミュシャからすると、唐招提寺の鑑真和上瞑目の座像は、圧倒的。もっとも唐招提寺の他の仏像や文書に、さほど感じるものはない。仏像ではお隣の薬師寺があまりにすばらしく、むかし新制中学の女先生に連れて行っていただいたときも、薬師寺にわたしは圧倒された、境内の風情にも。あれ以来行かないから、今の感想は言えないが。
2005 2・5 41
* 日付が変わる。さ、もう、今夜はやすもう。一つずつ、一つずつ、喪って行くのが人生だろうかと、高校時代に感じていた。間違っていたか的確であったのか、いまも正直の所わかっていない。
ほんやり目をむけている、このディスプレイの上に、村上華岳の「裸婦図」とモジリアニの「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」が並んでいる。首都圏パスネットの使い古しだが、なかなかよく仕上がっていて小さいけれど、気品は喪われていない。同じディスプレイの下には上村松園の「砧」立像と速水御舟の「炎舞」とが並んでいる。やはりパスネット・カードである。名刺大の小さな画面でも、名作は名作である、わたしのとかくうつろな気持ちも、優しく吸い取って元気にしてくれる。四枚ともたまらなく美しい。それだけでなく気品に溢れている。ほんものだなあと感じ入り、感じ入っているとだんだん力づけられる。絶対に、ライヴドアなどの話題からはこういう嬉しさは湧いてこない。
山種美術館の送ってくれるカレンダーの一月二月はやはり速水御舟の繪で、紅梅の花や蕾の枝を思い切り左に控え、悠々と墨の水輪をはらんでみごとな鯉が豊かなすがたで力強くしなっている。鯉が本当に泳いでいる鯉の繪なんて、めったにお目に掛かれない。寝に行く前に、佳いなあ…と眺めている。
ライヴドア事件にこだわるようだけれど、筑紫哲也のような年寄りや大人達までが、「秩序を乱す」というような物言いで若い堀江氏を叩き始めているのにも、わたしは呆れる。秩序などという言葉が出て来ればどんづまりもいいところだが、今の時節、正しい意味で最も秩序を乱している筆頭人は、国の憲法を踏みにじっている小泉総理だということを先に言った上でのことに願いたいものだ、政治こそ秩序の番人であり、国民は、自分たちの秩序を時代に合わせて動かして行く当事者で権利者であるはず。お忘れか。
2005 2・22 41
* 日吉ヶ丘高校の同窓生がデパートで陶藝展をしていると知らせて貰った。高額所得番付にも名前が出ていたという。エライものだと思うけれど、わざわざ出掛けて行く気は失せた。
近代美術館と工芸館とで、陶芸の富岡憲吉展、モダンアートの河野鷹思展をやっている。文句なく佳いし面白い。べつに八つ当たりするわけではないが、推薦のめだまが「高額所得」では、わたしなど誰が推薦してくれよう、呵々。
富岡憲吉はひところ小説に書いてみたいほど資料や本なども集めていた。なんで断念したか思い出せないが、陶造形の面白さよりも華麗な模様絵付の新鮮さに重点が掛かりすぎる気がしたのだったか。彼の作品は概して平面的に浅い容器が多い気がする。陶磁がいわば画面の役をしていることが多いように思う。
陶磁器の面白さはそれが抱え込んでいる空間の造形美ではないかと思うようになって、富岡からは離れたのかもしれない。茶碗などの容器の造形に魅されるのは、茶碗などのいわば「壁」体造形にでなく、その壁が囲っている「空間」造形の豊かさに惹かれるのである、わたしは。それでも、富岡憲吉の色彩感覚と構図設定には感嘆する。
河野鷹思の造形にも、あっと声が出るほど驚く。
* 風のふきすさぶ陽春で、汗ばんだ。重装備でまず眼を囲って出たけれど、幸い、花粉に痛めつけられることなく、好きなものを食べ、そして飲んで、帰りは有楽町から池袋経由、うとうと寝て還った。
2005 2・23 41
* ****展の案内到着。 自信作をならべただろう写真を見て、写真だけで判断しては危険とはいえ、これは現代陶藝家の仕事としてはずいぶん不出来です、あなたも、それぐらいは識別する眼が必要です。
今までに類似の意匠・形の品をいやほど見ています。写真の六点、どれにもオリジナルはなく、生彩と魅力に欠けた、下手な、鈍重な形、色、図案です。陶藝家の本領は器体の造形・成形の魅力と力量ですが、ここに挙げられた総てが、創意のない過去の類品のルーズな踏襲です。吹き付けてくる魅力が全くない。
京焼には 光悦・長次郎・のんこう・仁清・乾山・穎川・道八・木米・永楽このかた、清水六兵衛、六和、九兵衛、またその他数々の名人や先駆的な造形家が出ています。現代の楽吉左衛門も天才的な仕事をしています。わたしは、楽家歴代の焼き物を見に、笠間まで行きました。清水六兵衛歴代展に千葉まで行きました。写真で見る限りはるかに及ばない。
けど、問題はこの作家じゃない。あなたです。
画家のあなたには、こんなもの(写真一つにも)を、一瞥でキッパリ批評できる力、必要やと思うなあ。美校の同窓生なんて事に、いつまで拘泥しているのですか。天下に独立自立している創作者としてものを見るべきです。さらに高額所得番付がどうのといった話もいただけない。良いモノは良く、つまらないモノはつまらない。お高くなれとは言いませんが、ちゃらちゃらと軽薄に、みそもくそも一緒くたにしないでほしい。もうお義理にさいている残り時間は少ないのだし。
あくまで「写真の限り」で言っています。しかし或る程度は写真でもよく分かります。 遠
2005 2・25 41
* 山種美術館のくれるカレンダー三、四月は、速水御舟の「豆花」 関東ではこの日本画家を、わたしは殊に好いている。雑誌淡交のくれるカレンダーの三月は、桃の林。桃はバラ科だそうで。みちとせぐさ、みちよぐさなどと長寿にむすびつくことは知っていたが御酒草(みきくさ)とは知らなかった。「桃」という色についてエッセイを書いたことがある、ずいぶん昔だ。
2005 3・13 42
* 土曜には、もうなくなった或る画家の遺作展に銀座へ出る。
2005 3・22 42
* 小雨で、故幸田侑三画伯の遺作展にぜひ出掛けたかった、けれど、いっこう眼の苦痛が治まらずに肌寒さも感じたので、グズグズと出掛けずじまいに、そのかわり、「近代天皇制の確立 新しい権力のしくみ」を起稿校正し終え、さらに「大平洋戦争総力戦と国民生活」をスキャナーにかけて原稿に起こした。充実した仕事であり、満足している。
画展へは、どっちみち三十一日理事会のために銀座を通って行かねばならず、途中立ち寄って行くことも出来る。もし明日も雨もよいに花粉の舞いが落ち着いていれば出掛けてもいい。
2005 3・28 42
* 銀座文春画廊で故幸田侑三画伯の遺作展を観た。奥さんとお目に掛かり、いろいろお話しも聴いた。幸田さんの繪は、生前から或る程度継続して「知求会」展で観てきた。
この会には水芭蕉を描き続けた佐藤多持画伯もおられ、佐藤さんは最近亡くなられた。幸田さんは新世紀に入ってやがて亡くなられた。最期まで表面張力の清水のこぼれないまま静かにはりつめた清冽な具象画を描かれていたが、画学生の頃にはやはり抽象を通ってこられていて、その抽象画にも透徹した幸田さんの具象表現と端的に臍の緒のつながっていることを納得させるものがあった。物静かな、病弱ながら凛とした画風にほんとうは燃えているような詩情の把握をわたしは感じていた。わたしの華岳を書いた『墨牡丹』などがご縁になり、湖の本もずうっと講読して下さったし、その後も奥さんが支援し続けて下さっている。奥さんは銅版画家である。
むかし懐かしい文春画廊での遺作展は、寂しい中にも故人の画境で埋め尽くされて、しみじみと思いがけず長時間繪に見入っていた。わけて下さるなら買いたい作が数点あって、目星をつけておいた。しかしまた奥さんの元気な間は分散しないのがいいのかも知れない。
幸田家は父君の昔から銀座アカネヤ、製菓店で喫茶室もかねていたが、幸田さんはその父君とは幼くて死別、画業と家職との両方を兼ねていた時代もあったらしいが。
わたしより五歳の年長でしかないが、どこかに大正のハイカラな教養のうかがえそうな静かなダンディだった。わたしが繪をみにゆくと、寡黙に、しかしじっとわたしと歩をともにされて、ひと言二言の感想にもじっと聴き入るような人であった。
* こういう懐かしい美しい時間をすごしたあとは、何となくわたしも胸を開かれて、それでと言うのもヘンだが、銀座でイチバンうまい、銀座でいちばん高い、銀座でいちばん量のある「洋食」をと思い立ち、三越裏の「ミカワヤ」に入った。うまくて量があって、決して高くはなかった、いや安いよと思った洋食のコースは、デザートに至るまで贅沢で、ハウスワインも佳いのを出してくれ、満腹し満足した。
三年あまり前に、岡本かの子の小説を電子化してくれた人に、お礼の昼食を御馳走したのがこの「ミカワヤ」だったのも思い出した。アイピロウを貰ったのも思い出した。
2005 3・31 42
* maokatさん。理解しました。 Good Luck!
華岳の「平野の夜桜」 あれほど不思議な、あれほど不思議な美しさを湛えた、耽美の夢のような繪画は珍しい。桜の下の男女群集のだれひとり目をあいていない。動かずに動いている、ゆれるように画面は花見のにぎわいをもちながら、絶境無音の深みに浮かんでいる。
どんな現実の花見よりも、あれは心身内奥の花見の繪であった。おお、村上華岳!
2005 4・3 43
* 藝大の入学式は済みましたか、これからですか。どんな感じか、父兄の顔をして覗いてみたいぐらいです、どんな気分でいますか。
いい機会だから、日記を、負担にならない程度の自由なメモでいいから書き留めておかれるといい。ずいぶん役に立つものです。手帖でも、大学ノートでも。書くことがなければ日付だけでもいい。ひと言二言、単語や場所や人の名だけでもいいのです。心をおちつかせ、不思議に効く薬の役をします。
ゴッホ展、ラ・トゥール展 みました。工芸館で日本の工芸のいろいろも。
勉強はどこの校舎で始まるのですか。繪には、まなべること、まなぶしかないことも有り、自分で見つけるしかないことの方が多いし深いと思いますが、そのどちらも楽しんで踏み込んでやってくださいよ。腰が引けていると尻餅をついてしまう。わたしのぶんも勉強して下さい。そして、感じた事など聴かせて下さい。
おめでとう。すばらしい春ですように。 湖
2005 4・9 43
* 卒業生クンと出光美術館の展示場で出逢い、等伯を主にした展覧会を、一点一点解説しながら、つぶさに見て回った。勤め先では化学系の研究職で活躍しているが、古典音楽と山登りの趣味人であり、近年は近代絵画などへも目を向けている。しかし、出光系の美術には無縁とは知れていたので、絵画と焼物とで佳いモノの出ている此処へ案内した。やきものは、繪唐津や高取や薩摩、また織部や志野の、また備前の小品が出ていた。のんかうの赤茶碗も一枚出ていた。こういう質朴な国焼きの味わいを、器体の成形、釉薬の変化、絵付けの簡素などから、妙味深く楽しむのには、やはりすこし年季が必要。しかし、知識でなく、そのものにジット魅入られて関わる姿勢が、まず必要、そう覚えて欲しい。
* 絵画はとりわけて名作が並んでいたとは思わないが、雌雄の虎が求愛の図を一双に描いた、墨の筆致筆線の柔らかい屏風は、思い和ませた。柳橋図屏風の味なのが数点揃っていて楽しんだ。またよく似た波涛図屏風が二種類並べてあった。筆線の妙、色彩の華に惹かれた。松林図屏風やまた桜楓図障壁画は出ていないのだから絶対的な展覧会ではなかったけれど、気の晴れる時間が持てた。花粉で嚔を十連発もしてしまったのには我ながらびっくりしたが。
2005 4・16 43
* 面白い、興趣満々なのは、貝塚茂樹の『先史文化の発見』で、いまは中国周王朝が殷にかわって天子の政をとりだすところ。殷の発見、彩陶や黒陶の文明が見つかって行き、歴史的に確認できる最初の王朝としての殷が、起ち、また滅して行く。わたしは、殷の青銅器・祭器が好きで、出光美術館へ行って一点も出ていないときは落胆するぐらい、あの圧力の強い存在感に惹かれる。
2005 4・17 43
* ゴッホとゴーギャンの「二つのひまわり」をめぐるBSのいい番組を感動して見た。感動して泣いた。ゴーギャンが最期に遺した椅子にひまわりの繪。あれを見て、泣いた。
2005 4・23 43
* 昨日から、例の(期待して)の水彩展が始まりました。 一心で描きました40号を出品いたしました。思いがけなくもお陰様で支部長賞をいただきました。この作品は私自身描きたいものを描きたいように描いた作品で、大変な苦労がありました。が自分なりの勉強、充実した時間を持つことが出来ました。
どうせ皆様にはそんなに評価はしていただけないだろうと。ただ自分で納得のいくような描きかたができたかなーと、自己満足の仕事でした。
結果高く評価をしていただき表彰して下さいまして、信じられない気持ちですが、やはり方向的には外れていなかったのかなーと、少し、安堵しております。
これが果たして上野でも通用するかは疑問ですが、もう私にはそんなことどうでもいいのです。自分なりに納得がいくように描ければ。と。
やっとそんな心境になれました。
恒平先生のお蔭と心から感謝もうします。有難うございました。 郁
* 「やっとそんな心境になれ」るまで、ほんとうに長く掛かった、三十年余も。だが絵画という技術根底の藝術表現では、そしてその分野の教育指導に深く信頼してきた表現者では、ある意味で自然な、いや余儀ない三十年であったのであり、三十年がまるまるむだであったなどということは、決してない。しかし心ある表現者は、どこかで「自身描きたいものを描きたいように描いた作品で、大変な苦労」をし、そういう「充実した時間を持つ」ことを経て、「自分で納得のいくような描きかた」へと突き進んでゆく。そういう業を負うている。
作品をみたいが、肝腎の会場が書いてない。そういうのんきな人でもある。それが繪に出て来たのだろう。
2005 4・26 43
* カレンダーを五月にめくったら、速水御舟のすばらしい墨の「牡丹花」があらわれ、胸のふくらむ嬉しさ。真っ白い大山蓮華も美しい。花の、美しい季節。
2005 4・26 43
* 名古屋の博覧会特別展示「自然をめぐる千年の旅」を、愛知県美術館で観てきました。
太鼓判どおりさすがにいいものばかりなのが、わたしにもわかりました。
村上華岳の「松山雲煙」が、おっとりやさしくて、ビビッときました。売店の絵はがきで見た「日高河清姫図」もよかった。展示替えされていて見られず、残念でした。
「源氏物語画帖」の、男性の冠の纓の透けているのや、衣服の模様の細かいところや、女性の髮の一すじ一すじなど、とても繊細で、ガラスケースにぐっと顔を近づけてしまいました。
充実した展示会でした。
日射しは暑くなってきていますが、風の涼しい季節です。あとちょっとで本格的に暑くなるでしょう。今が一番いい時ですね。
風のスギ花粉症は、もうほとんどいいのではないですか。
わたしのヒノキ花粉の方も、ようやく外出がさほど辛くなくなってきましたよ。 花
* この展覧会には、文句なし垂涎ものの名品が揃っていて、万博協賛の一の大きな目玉であろうよと想像していた。
予告では、「信貴山縁起絵巻」知恩院の「早来迎図」金剛寺の「日月山水図屏風」雪舟の「天橋立図」狩野秀頼の「高雄観楓図屏風」久隅守景の「夕顔棚納涼図屏風」浦上玉堂の「凍雲篩雪図」大雅の「蘭亭曲水図」蕪村の「鳶鴉図」北斎の「富嶽凱風快晴」川合玉堂の「行く春」等々、国宝重文のなかでもめざましくまた珍しいみものが、ずらり並ぶらしいから、想うだに、すばらしい。ま、わたしは想うだけで済ますだろうが、出かけてみたくもある。存外、穴場で、静かかもしれない。展示替えがあるだろうから、一度に、みながみなは観られないけれど。
2005 4・27 43
* 京都近代美術館の「村上華岳展」大図録が贈られてきた。「鳶」さんのブレゼント。
告白するが華岳について初めて原稿を頼まれたとき、わたしはまだ華岳を知らなかった。依頼された原稿を断るような「もったいない」ことのとても出来ない駆け出し作家は、手に入れた某画廊の小冊子図録ひとつをにらみ据えて原稿を書いた。そしてそれからわたしの「華岳勉強」が始まったのだ。まだ会社づとめをしていた。
出張の用をつくって兵庫県美術館の展覧会や、また千葉市美術館の華岳展にも行った。河北倫明さんのを始め参考書も幾つも手に入れ、耽読した。華岳にわたしは心酔していった。華岳に化(な)りたいと思い、三百枚の「墨牡丹」を書き下ろして「すばる」に発表したのは、会社をやめた翌日、昭和四十九年九月早々だった、新潮社新鋭書き下ろしシリーズ『みごもりの湖』初版は、その数日後だった。わたしは、あの頃、一度目の噴出を体験した。
「墨牡丹」の頃、まだ華岳は世間的な知名度はひくかったが、彼こそ日本一の日本画家というほどの高い評価の人が、何人もいた。梅原猛さんとの出逢いも「墨牡丹」であった。立原正秋との嬉しい出逢いも「墨牡丹」であった。有名な画家達とも「墨牡丹」を介して知り合ったし、祇園の何必館主梶川芳友との少年来の再会も、華岳が縁であった。
NHK日曜美術館が放映を始めた五回目ぐらいに、「華岳」がとりあげられ「私の華岳」を話しに出演した。以来華岳と国画創作協会関係の仕事は、いつもわたしに集まるような時期がながく続いて、麦僊も波光も日曜美術館ではなしたし、国立東京近代美術館の大回顧展でも特別講演し、新しい読者たちに多く恵まれた。
「熊」「二月の頃」「平野の夜桜」などに始まり絶筆「墨牡丹」に至る華岳の藝術は、じつに深い。わたしの人生で華岳との出逢いを欠いていたら、どんなにか寂しかろう、それも最初は未知の画人に過ぎなかった。原稿を依頼されなかったらわたしは、出逢ったとしても、もっと遅れていて、そしてあの以降のような道は歩けなかっただろう。
出逢いとは、まこと、運命である。そういうことを十分心知ってわざわざ高価で大切な、自分用に買われたのだろう図録を頂戴したのである、ご厚意、有難し。なかを見ると、どの頁からも「線の行者」華岳の精神が噴射してくるようだ。わたしも、また観たい。東京へは来ないで、次はどこだか日本海の方へ展覧会は移動するらしい。
2005 5・3 44
* 華岳の図録は盛りだくさんな名画に溢れていて、両手に重いも重いが、やはり繪に(写真に過ぎないのに)圧倒される。
2005 5・3 44
* 今頃思いつくことだが、京都の美術賞の財団監事でもあり、信楽に強い陶藝家の展覧会が三越本店であるのを、明日の初日か、明後日病院の帰りに観てきたい。朝に午後に眼科あり糖尿病あり、やれやれ。あーあ、やれやれ。
2005 5・9 44
* 街が誘っているが。もう少し手を掛けておきたい用事があり、三越の陶芸展は明日にしようかと。
2005 5・10 44
* 今日は眼科がそんな按排で、予約の一時半よりまだ早めにもう済んでしまい、躊躇なく三越本店六階で、中信の美術財団でたしか幹事を務める勝尾青龍洞氏の陶芸展、主に信楽で焼いた相当数の花生けや壺や皿や茶碗を見てきた。信楽の土は荒いことで知られるが、窯変も剛強多彩、激越な焼き上がりが多い。馬ならたいへんな荒馬で、馭しがたい。勝尾さんはかなりそれを統御し、ときに秀逸の造形をでかしておられる。
ぴったり氏にくっつかれて一点一点の鑑賞は、勉強にもなったが、シンドクもあった。だが、凡常の展覧会にはない力感旺盛、しかも美しい作品が数点余有った。
ただ相当な、相当どころでない高価で、手を出す欲はもてなかった。
来月には京都で例の授賞式があるし、理事会もあり、そこでの再会を約して辞した。
* 日本橋から、地下鉄で竹橋へ移動し、国立工芸館で、京都美術文化賞を受賞されている伊佐利彦氏の「型染展」を観てきた。染めも織りも、たとえば焼き物に比べればわたしは疎くて、妙味を掴むのが難しい。伊佐さんには会えなかった。
美術館の方のゴッホ展は、会期末のためか黒山の人だかり、空いてればもう一度観て帰ろうと思っていたが、もう疲労していたので割愛し、竹橋から飯田橋で、有楽町線に乗り換え、直通で保谷まで帰る。
2005 5・11 44
* あすの晩に逢いませんか。若い人にそう誘われ、しばらくぶりに美味い酒を外で飲みたかったけれど、結局、もう少し先でということにした。今のうちにしておけばアトが楽になり、放っておくとたちまち困却の渕に沈みそうな作業が溜まっている。この五日までの白いカレンダーの毎日は、なかなかどうして、お宝のように貴重なのだ。ひとつだけ、友人が入選している上野の水彩画展に行ってきたい。それを明日にするか明後日にするか。
2005 6・2 45
* 日本水彩展を都美術館で観てきた、夥しい点数にヘキエキし、お目当ての作品をまず第八室でみつけてゆっくり観たあと、体力と相談してあとを観たが、莫大莫大であった。
どの展覧会もそうだが、わたしはこう思う。同じ内容でも構わない、が、「入選」作品は極度に限定厳選して展示室をとりまとめ、その外に応募「選抜作品」室を数多く置いた方がいい。「入選」が本当に名誉であると、人に明確に区別して見せ、応募選抜室の人達は、その較差を励みにつぎの機会の「入選」へ「勉強」すればいい。そして観たい人は全部を観れば好く、「入選」作品だけを観て帰りたい人はそうすればいい。「入選厳選作」と、それ以前の作との差が明確に見える方が、フェアである。名誉である。そして更に「会員作品」との比較も効く。味噌もナントカも一緒くたに莫大に並べ立てておくのは、野蛮すぎる。
国画創作協会の発足のときは、鞭撻の痛みが身に食い込むほど「少数厳選」で、それゆえに人をして襟を正さしめた。
* 水彩画は、なまじな油絵よりも、なまじな日本画よりも、日本の風土と趣味にあっているから、作品が夥しくなる理由も分かるし、見やすい、欲しくなるような作品が数多い。同時に、「上手な図画」展にもなっている。時間と体力があればもっと楽しみたかったが、そうは出来なかった。
* お目当ての作品には、明白な限界が出ていた。意欲が、画面の構成とその表現技術に集注されていて、それが繪を、美しく楽しく胸打つよりは、いくらか重苦しくしていた。漢字ばかりで俳句を書く人がいるけれど、それに似た印象で、画面に描き込まれたモチーフも多すぎ、色彩も多すぎ、構成された画面の魅力の芯が見当たらなかった。技術的に巧いのだけれど、巧さが繪を抑え込んで息苦しくしているといえば言い過ぎか。水彩画というには、油絵に類する圧力があった。よく考え抜いてよく頑張ったことは分かる、が、藝術的には、技術の努力にやや傾きすぎたか。
手厳しいが、そんな印象をもって、どこへも寄らず帰ってきた。
2005 6・5 45
* 迷宮美術館という番組を初めて始めと終わりを観た。長谷川等伯の「松林図」これはもう日本画の最高峰の一つ。そしてピカソの「ゲルニカ」圧倒的な黒白での大表現の何と云う感動と美しさだろう。藝術家の魂にはいつも「現代」を見据えて憤りかつ悲しむ激しい焔が燃えている。どんなに世離れた小さな世界に向き合っていても、人間の把握を通して、時代を見つめ自身を見つめ、社会の思潮と取っ組み合っている。そうでなくて、何が藝術か。日本の静かな花鳥画でも優れた作品は「ゲルニカ」に並びうるのである。わたしの直ぐ近くに速水御舟えがく「墨牡丹」が咲いているが、それから受ける生き生きした感動はピカソの「ゲルニカ」の感動とも、無理なく通底する。それが、すばらしい。
2005 6・5 45
* 伊藤はるみという大阪生まれ京都で学んだ画家が、樹齢数百年の老梅など「花」を描いて高島屋で展覧会をはじめている。「創画展」画家で、「NEXT}にも名を連ねていた。「生う」という文学的な主題の置き方が、画業の質を甘くしていないかやや心配でもあるが、かなりの力業で迫っている。
* 根津美術館では、「唐物茶入」展。重文を四点、重美を四点など、この美術館の地力のつよさにはいつもながら感心させられ、楽しませてもらえる。松屋肩衝、相坂丸壺、初花片衝、北野肩衝など、せいぜい掌に載せて扱うほどのモノだが、ずしんと地響きしそうな存在感、すばらしい。
* 雨に降られそうでかつがつ降られもせず、晴れやかな心地で保谷へ帰り着き「ぺると」のお兄さんとお喋りしてきた。
2005 6・22 45
* 日照りの暑さにめげず、鶯谷駅から日かげの博物館裏を、都文研まえを通って、都美術館へ。
「古代エジプト展」内覧、延々のセレモニーはロビーの椅子席でやり過ごし、入場するとすぐ、入り口にかたまった群集を奧へ突っ切って、まだ人ずくなな展示室からゆっくり見始め、先へ先へ進み、最後の展覧室まで行くと、くるりと元へ元へ戻って行きながら、いつものように二度陳列を見て行った。いつもだと、もう一巡出口までまた見て行くのだが、今日は行って戻って、入り口から外へ出た。いわば紀元前何千年も前からの考古学的な展示が殆どであり、いわゆる「美術」展ではない。個別の品や時代に特別の興味・関心のあるものはべつだが、さもなければ、佳い意味の一瞥を利かせて感受し、理解して行くことが出来る。今日の内覧の客は、詳細な「図録」がもらえるし、解説は後刻にそれを読めばいい。入場の際、めったに無い、解説用の機械とイヤホンを手渡されていたが、使わなかった。
レセプションのレストランで、赤と白とのワインをグラスに二つと一つ、食べ物はかすかに食べて、さっと外へ出た。もうよそへまわる気はなく、池袋へ戻り、保谷へ帰った。
朝に届いていた「京都文学全集」に収録される『丹波』のゲラを往き帰りに読んできた。この作品を「小説」と強弁する気はない、これはわたしがわたしの為に書いた相当正確な記録であるが、自分では、その文体・筆致が気に入っている、と思ってきた。こういう晴れがましいかたちで世に広く出るとは思いもよらなかった「湖の本」の一冊であるが、読み直して行って、思っていた以上にきちっと叙述できていて、まるで誰か他人の作に惹きこまれるように読んで行けた。このゲラを持っていたので、どこへ立ち回る気もせず、さっさと帰って行った。
* 家に、ウイスキーの買ってあるのを見つけていた、それを気持ちよく少し、いやダブルで数杯一気に呑んで、夕食後に少し横になった。眼が醒めたら十時。今日はこういう日であった。
2005 8・1 47
* エジプト展で、美しいすばらしい猫を観たのは、エジプトであるから珍しい発見ではないけれど、二十センチあまりのチンと正坐した猫の像に、思わずそばにいた学藝員にむかい「これが欲しいなあ」と云ってしまい笑われた。
人面で脚が牛とみられる女神の小像が一見正坐像とも見えたのに愕いた。夥しい展示の中で只一点。他は殆どが椅子座像まれに片立膝像。貰ってきた詳細な解説の図録を読む。値打ちもので、これがないと陳列の大方全部が正しく観てとれない。暑くても日照りでも満員でも出向いたのは、特別内覧の機会には図録引き替え券が有効だから。絵や彫刻ならそのものをまっすぐ観ればいい。しかし考古学的な太古の遺品は、やはり解説が欲しい。昨日は「二人」で観て良い機会だったのに連れは無かった。美術展は、展覧会は、一人が気儘なのである。芝居は、ときどきの感想を耳元で囁きあえる連れがあると二倍楽しめるが。
来週の月曜は、渋谷で、好きな画家「ギュスターヴ・モロー」展のオープニング・セレモニーがある。気が利いていて夕方から。でもやはり出かける頃は暑い暑いことだろう。
九日も。十一日も。十五日も。ことに納涼歌舞伎三部の「法界坊」を、勘九郎から飛躍した勘三郎と、演出串田和美とが、平成中村座でもコクーンでもない本拠の歌舞伎座でどうわたしたちを魅了するか。楽しみ。串田、蜷川、野田秀樹、渡辺えり子と他ジャンルの演出家達がこのところ歌舞伎の世界を味わっているのが新傾向。当分、この方角で成果が続いて欲しい。
秦建日子も、やがてまた舞台公演らしく、稽古が始まったと聞いている。微笑ましくもさぞ急流を抜き手で溯る気概であろう、今の若さだ、そういう時機はそういものとして大胆にゆけばいい。結局どんな梯子にも竿にもてっぺんが、突端があらわれる。問題はその機なのだ、そこでどう一歩を空へ踏み出すか。そこまでは、大なり小なり若さゆえに、もともと恵まれてある。恵みは大胆に受ければいいのである。恵みの尽きたとき、何をするか、しないか、だ。
2005 8・2 47
* 明日の夕方はギュスターヴ・モロー展のオープニング・レセプション。暑さ負けの妻は家から出ない。ひとりで行く。
2005 8・7 47
* 両手足を振り回すようにして毎日元気に過ごしている。しかし、モロー展のレセプションには行かなかった。すごい人数になるのは知れていたし、落ち着いて別の日に、二人、入場できるのだ。エジプト展ほどは図録を欲しいとは思わなかった。
2005 8・8 47
* 美術京都の対談は、要するに「対談」で済む簡単ごとのようだが、さにあらず。雑誌は準専門誌、気楽とんびに話し合っていれば済むわけではない。粟田の京薩摩など、すでに現に窯の活動が落ちてしまっているだけに、話題の掘り起こし方がひどく難しかった。
* 西洋美術館のドレスデン展は、レンブラントもありマイセン陶磁もあり、なかなか角度のするどい好企画で一見に価する。モローもある。美術の秋は始まっている。
2005 8・9 47
* 京都の麻田浩画伯の奥さんから、京都近代美術館での大きな遺作展が2007年に実現が決まったとメールがあった。最も待望していた嬉しい便り。
2005 8・11 47
* 生死の道に雪ふりしきる と賛をした版画をもらったことがあり、早稲田の小林教授にあげた。なんだかお荷物をもたせた感じだった。
いま、機械の前でまどろんだらしい、まさに雪降りしきる中にこの今のランニング姿を置いている夢を見ていた。
亡くなった東工大川嶋至教授に、幕末の森徹山描く「栗柿図」墨画の一軸を差し上げたことがある。今度中信美術奨励基金の理事長を退く道端進氏が中信理事長に就任したとき、応挙一門の誰だったか、そうだ嗣子応瑞の描いた「月鉾図」の軸を上げたことがある。
これからは、人さまに、ものをもらって貰う時機になる。
2005 8・16 47
* お宝鑑定団、おおかた繪はまちがいなく真贋の判断が出来る。ニセモノには生彩がない。昔の人は気韻生動と言った。
2005 8・30 47
* 九月七日十一時に、二ヶ月ぶりの聖路加糖尿の診察。正午には済んでいるだろう。うまい昼飯、そして午後いっぱい胸のひろがる嬉しい時間がもてるといいが。
その次週には定例理事会と、歌舞伎の通し。二十五日には宝生のシテ方東川さんが「半蔀」のシテを初めて勤めるのでと誘われている。水道橋能楽堂。二十九日には俳優座招待がある。もうだいぶ涼しいであろう。そのまえ月火水のどこかで、電子文藝館委員会の予定。この隙間へ、何としてもモロー展、根津美術館、泉屋博古館、五島美術館などを挟みたい。メガネの新調にも出かけないと。
2005 9・1 48
* 博物館で遣唐使と唐の美術が、明後日には終幕で。院展は都美術館で。松尾敏男さん、伊藤髣耳さん、両同人から誘っていただいて。
根津美術館での特別展「墨跡と中世漢画」や五島美術館の「絵画・墨跡と李朝の陶芸」に心惹かれるのだが。なんのかのと言っていると「ギュスターヴ・モロー展」を見損ねる。
2005 9・9 48
* 戸外の方がからりと秋の空気で心地よさそうに感じる。調べてみたら、招待されている美術展や演劇や催しが、十月だけで三十から四十も溜まっている。つい目も届かず失礼してしまう。都美術館、国立工芸館、菊地寛美記念智美術館、根津美術館、文化村ザ・ミュージアム、泉屋博古館分館、五島美術館など、欠かしたくない。デパートの美術案内の中にも日本伝統工芸展などがある。画廊の個展案内もむ溢れている。
どうしようかと、書きだしてみて、数の多さにおどろく。中には日の重なる招待もあり、困惑する、どっちへも行きたいのが劇団昴公演「八月の鯨」と梅若万三郎の珍しい能「三山(みつやま)」で。先約の昴をとるけれど、能は復曲された珍しい劇的な能であり、地謡も後見も観世流の贅沢なほど一流どころがならび、さらに狂言に野村萬齋が来ている。仕舞三番も言うことなしの佳い顔ぶれ。まいっている。招待座席は中正面だけれど、悪い席ではない。
2005 9・30 48
* 夜中に何本かビデオ撮りの成瀬巳喜男の映画を、今も画面を観ながらキーを打っています。「浮雲」は観終えました。この「風立ちぬ」は、監督が父を亡くし、母と田舎から上京してきた少年の頃の経験が盛り込まれているそうです。家業の八百屋を嫌う気位の高い娘役の原知佐子を観ました。まだ、観始めたばかりですが、テレビドラマ「祇園囃子」より余程オモシロイ。
九月も終りましたね。明日は「プラート美術の至宝展」フイリッポ リッピの絵を観たく、出掛けます。おやすみなさい。 泉
* わたしは、上野の都美術館、三越の伝統工芸展、根津美術館の墨跡と漢画展を、会期がせまっているので観てきたい。根津の帰りに青山の保谷眼鏡に寄りたくも。
2005 9・30 48
* 植木屋に庭木の手入れをしてもらった。
* 上野の都美術館で一水会展を先ず観る。これはと痺れる作品に、一つも出逢えなかった。穏和に綺麗な人物画がイヤに目だった。みなとても綺麗な服装で、綺麗な場所を占めている。ひと頃はそうでなかった。働く人や苦渋の画面が多かった。絵画にも薄い淡い平和と繁栄が見られるというわけか。いろんな賞が沢山あるのに、さてと頷く作品は少なかった。
三越本店に移動して伝統工藝展を観る。多彩をきわめ、楽しめた。截金の江里佐代子さんの案内だった。わりと早く会場の彼女の作に出逢い、あとは気軽に見て回った。
江里さんは高校の後輩であり、かつては仏師のご主人(この人も高校の後輩)を支える、截金装飾のいわば職人さんであった。わたしが「美術京都」の対談相手に呼び出し、その時は仏師のご主人にもいっしょに来てもらった。鼎談した。
やがて江里佐代子さんを京都美術文化賞に選んだ。それでか、脚光を浴び、とんとん拍子に、人間国宝(無形文化財)になった。それだけの仕事をしている人とわたしは自信をもって引っ張り出し、また推したのである。
* 時計を忘れて家を出ていたが、三越へ行ったら、そのあと、真向かいのビルの九階にある上野精養軒へ寄ろうと決めていた。前に妻と、加藤剛の芝居をみたあと寄った。
九階で、すいている。今日もフロアをわたしが一人借り切ったていであった。ラムチョップをメインに、オードブル、スープ、パン、デザート、みな美味しかった。ビールと、から口のシェリー酒と赤ワインをならべ、世界史を読みながら一人の昼食をゆっくり楽しんだ。親切なウェイトレスが二人で面倒をみてくれた。ああいう静かな店が好きだ。
佳い食べ物の店をみつけるのが好きだ。着る物や持ち物にわたしは贅沢は求めない。
* 地下鉄半蔵門線で青山一丁目へ、そして銀座線に乗り換え、外苑前の保谷眼鏡に寄ろうと思い立ち、一年半ほども遅れて、やっとやっとやっと眼鏡新調の前半戦を終えてきた。遠近両用と、パソコン用と。フロアにコンサルタントがいて、眼鏡の縁はこれだこれだと勧めるので、そうかそうかと任せた。眼鏡なんぞで洒落ようとは思わない。サングラスが前から欲しかったが、通販で買ったところだった。度が入っていない。今日はじめて裸眼でそれを使ってみたが、まぶしい屋外でなら何とかなりそう。しかし眼鏡屋でみると、度つきのサングラスも出来るそうで、なーんだと思った。ま、いいや。
* 時間がまにあうと観て、タクシーで根津美術館の「墨跡と中世漢画」展へ。無準師範らの鏘々と鳴り響く墨跡に敬意をはらい、また周文や祥敬や藝阿弥らの室町水墨などを心地静かに観てきた。常設の方で、入り口に十二世紀の地蔵菩薩立像がさりげなくも立派で、おもわず掌をあわせた。好きな馴染みの仏頭にも逢ってきた。佳い更紗をたくさん並べていた。近世の書はあまり感心しなかった。
見終えたときは館内にほとんど客がなく、刻限を過ぎていた。来てよかった。
むかし懐かしい庭園を谷底の池までおりて、もとおり歩いた。池の写真を何枚も撮った。
足がじんじんするほど疲れていたので、表参道から、原宿駅経由池袋へ戻って、帰宅。保谷の空に、めったにないおもしろい形の雲が、青い赤い夕空に息をひそめて渦を描いていた。
2005 10・1 49
* お宝鑑定団の後半を観ていた。最後に、年輩の婦人が富岡鐵斎の軸を出し、一目見てわたしにも贋物とわかった。婦人は多年かけて調べ、確信を持って出品していたので気の毒な結果だったが、鐵斎について調べ、鐵斎に関して確信を持つことは出来ても、所持する作品が鐵斎の真作である保証にはならない。厳しい事実が典型的に現れてわたしも身の引き締まる感じだった。
おもちゃの類は分からないが、焼物と書画とはわたしも熱心にテレビの画面越しに鑑定を試みる。たいてい当たる。
2005 10・2 49
* 眼鏡、遠近両用とパソコン用とを新調。外出用、小さく軽くなった。妻は佳い佳いと言う。外苑前の眼鏡屋から、国宝の光琳「燕子花図」をぜひまたもまたも観たくて、歩いて根津美術館まで。
午過ぎていて空腹だったので、先に、美術館前の「宮川」で天麩羅の昼食、ビールの中瓶。
で、美術館へ行ってみたら、昨日までの三連休の煽りで今日がなんと、休館。招待券にも、なるほど極小の字で書いてある。グァハハッ。
仕方なくタクシーをつかまえて渋谷文化村へ走り、「ギュスターヴ・モロー展」へ。これはもう掛け値なく期待どおりのに佳い展覧会で、十分満足。モローというと神秘的にかがやく華麗な濃彩に印象が残りがちだが、この画家の世界は巧緻に繊鋭な線で世界が把握されていることに、ぜひ気付きたい。ヨハネの首が虚空に「出現」する繪なども、バックの建物などに堅固に巧緻な線描によるモノの掴み込みが生きて生きているから、画面が底知れず発光する。
「一角獣」の無垢な女達の衣裳にも、みごとに細かに濃やかに行き届いた線での把握が、表現として精彩を放っている。モローの美しさは色彩を精神で縛り上げ輝かせているような「線」の魅力に発している。よくよくそれが分かって嬉しくなった。衝動買いほどに、「出現」「一角獣」「夕べの声」三点の大判の写真を持って帰ってきた。
二人で入れる招待状に「独り」入ったからと、受付が、一枚入場券を呉れたのは親切親切、感謝。もう一度行ける。誰かにあげることも出来る。
2005 10・11 49
* 光琳を御覧になったのですね。わたくしなら、光琳よりも、たとえば『みごもりの湖』を読むほうに魅了されます。美術に心惹かれないわけではないのです。鑑賞眼に自信はありませんが、佳いものは見分けるつもりです。ただ、ヨーロッパで圧倒され続けて、日本の繪画藝術にある種の限界を感じています。日本の繪画は感動するより、美しいと喜ぶ世界です。洗練されていても小粒のように思っています。つまり、日本美術への眼が育っていないのでしょうね。年を重ねればまた考えも変るでしょうか。建築や彫刻に関しては、日本のものとヨーロッパとに、このような落差は感じないので、ふしぎです。
わたくしには、ダ・ヴィンチ、まさに神です。神が降りてきた描いた繪です。レンブラントは、彼の人生最後の自画像の前で涙がとまらなくなりました。レンブラントの繪はいつも心臓がドキドキします。ゴッホが「ユダヤの花嫁」を観てあまりの感動に何時間も立ちつくして、そのあげくもう二週間この繪を見続けることができるなら十年命が縮んでもいいと言ったことがよくわかります。
ウィーンのブリューゲルの部屋、こんな静謐な美の場所はどこにもありません。ボッティチェリ、なんという甘美な官能。ヤン・ファン・アイク「神の小羊」ウォーすごい。まいった。ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂、ああ、目眩がしました。
焼酎を一壜ですって。まさか飲み干していらっしゃらないことと思いますが、いけないですね。どうぞ辛抱強く節制なさいますように。 秋
* 光琳は宗達からみると一段低いし小さいが、それでも優れた作者であった。このメールの人のあげている作品と単純に比較出来ないけれども、熱海MOA美術館の「紅白梅図」は決してただ美しいだけのものではない。「燕子花図」でも、とてもゴッホにもダ・ヴィンチにも描けない絵ごころである。光琳は光琳、ダ・ヴィンチはダ・ヴィンチ、ゴッホはゴッホなのである。インディヴィデュアル、分かち持ち合えないもの、をお互いにもっている。だから天才なのである。
わたしは、画面の大きさにはほとんど惑わされない。雪舟の「秋冬山水図」を写真で見ていると、よほど大作であるのだろうなと圧倒されるが、実物はちいさい。しかし実物の爆発するような大きな迫力にいつも圧倒される。日本の美術にも、なかなかのものがあるのです。
2005 10・18 49
* 雪舟についてお書きになったものを読んだことがありませんでした。雪舟について、どう考えていらっしゃるのか知りたいと思っていたので、私語、嬉しく読みました。
何年か前に大きな雪舟の美術展がありましたね。その時、強い感銘を受けました。雪舟のスケールの大きさに驚きました。線描の生彩、墨の色彩豊かなこと。ルーブルに展示しても、世界に誇らしい画家と思いました。(浅学非才、論じる資格はありませんが。)
歌舞伎、ごゆっくり楽しんできてください。 春
* 小説でないわたしの本の最初は、谷崎論を含む『花と風』で、次は十二世紀美術論『女文化の終焉』さらに、最初の連載評論は中世美術論『趣向と自然』であったから、「雪舟」については、早い時期から何度も書いている。「先師雪舟」というほどの気持ちで書いていた。折あらば、どうぞお読み下さい。
* 根津美術館の庭は奧深い。馴染みも深い。美術館が大き過ぎると、あの傾斜の急な池庭をまでめぐる元気は出ないかも知れぬが、根津に親しむ大きな魅力の一つは、展示の質が(つまり企画が)よいだけでなく、粒よりの「少数」を丹念に眼にまた胸におさめて帰ってこれること。その日観た大方が、たんに印象だけでなく作品そのものの顔で記憶されていること。おかげで、余韻を深めるほどに、庭も楽しんでこれる。雨で写真はとれなかったが、先日「墨跡と中世漢画」を観た日のを一枚、昨日のところへ入れてみた。どうも写真は大きく観たいもので、「私語」を読まれるだけの方にはご迷惑かも知れない。
2005 10・19 49
* 木挽町。 昼の部、まず「廓三番叟(くるわさんばそう)」を、太夫芝雀、新造亀治郎、幇間翫雀。三人とも踊り上手の、手変わり三番叟。期待通り、すこぶるおおどかに楽しい踊りであった。亀の踊りのキレ味の佳さ、翫の和事の味、芝雀はゆったりと。
歌舞伎踊りのおもしろさは計り知れない。
次いで通し狂言「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)」は、菊五郎の局(つぼね)岩藤が期待通り頭抜けて面白くまた恐ろしげで、下品にならない貫禄が、さすが。菊五郎が「岩藤」と聞いただけで、この狂言は当たると確信できたが、その通り。玉三郎の中老「尾上」は一貫して緊迫の悲愴美、その集中力の精度には驚嘆。すばらしい才能。そして「お初」は菊之助。とても頼もしく、とても実直。しかし尾上自害を知ってかなしみ、遺骸の背を優しくさすってやるまでの女お初の人柄の美しさが、そこから一転仇討ちまで、「菊之助」という「男」の顔とからだが露出して、わたしはそれもいいかと受け入れ、妻はもう少し評価が厳しかった。左団次の弾正役、悪は悪ながら悠然と演じ、このところ左団次の藝がおもしろみを増しているのが嬉しい。隼人の大姫が愛らしかった。
通し狂言、たいへん分かりよく、大当たり役の菊五郎、玉三郎に、懸命に菊之助がはりきってくれて大いに楽しめた、さすが人気狂言、充実した。
* 茜屋珈琲で間をやすみ、馴染みになったマスターと少し話したりし。そして夜の部へ。
* 先ず「引窓」の、配役がきりりとひきしまり、連名をみただけでこれはとにかく楽しめるだろうと。
案に違わぬ堅実な感じのいい義理人情の一幕になった。歌舞伎三婆の一「お幸」役に澤村田之助はずしりと重み。南与兵衛に菊五郎、これが実直・温厚、親孝行で、配慮にたけた武藝の達者。それでいて、そう目立とうとしない地味な男。好演。おかげでいつもはあまり高い点の出さない菊五郎に、妻は「今日の最高」という惚れ込み方。たしかに今日の菊五郎は立派に大役を二つ演じきって、爽快。
濡髪長五郎の左団次も、まずまず実直に破綻なく自役を演じた。
もとは遊女、与兵衛の恋女房お早のきびきびと人のいい清潔なとりなしも、魁春のニンにあって好演。この顔ぶれでかちっと演じる人情劇は、終始小気味よく後味も良くて、拍手。
二番目に、玉三郎至藝の人形ぶりで、「日高河入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」清姫の熾烈な嫉妬、凄い変化(へんげ)を観た。ああいう手の込んだ難しい藝をさせると、今の玉三郎は行くところ不可な何ものもなく、観客を手玉に取って、おもしろい実のある「役」を創って見せてくれる。新襲名の薪車が船頭を、やはり人形ぶりで力演、好感をもった。清姫の人形遣いには菊之助が生真面目に付き合った。この有望な若女形が玉三郎にひしとくっついて「お初」をやり、「人形遣い」を勤めていたのは心嬉しいみもの。
さて大ギリ。鴈治郎の名では最後になる「河庄」の紙屋治兵衛、むろんこれは絶品。それにわが友片岡我當が、初役ながら父仁左衛門の当たり役であった孫右衛門を演じて、期待通りにすばらしい治兵衛の兄役を見せてくれた。やはり今日一日のこれが私には「最高」に嬉しい芝居であった。小春は雀右衛門の筈が急病で翫雀に代わったが、むしろわたしたちには望ましい臨時サービスで、父鴈治郎が坂田藤十郎を襲名すれば、いずれ鴈治郎には彼が成らねばならぬ。小春は当然のように彼の本役になり、家の藝をさらにさらに磨いて貰わねばならぬ。翫雀の女形にわたしは、わたしたちは期待をかけている。
上方の遊冶郎ものであるが、さすが根に近松代表作の一つをもって脚色された狂言。じつにしっかり盛り上がって行く、が、一にも二にも鴈治郎と我當の上方言葉での絶妙の間が、イキが、ものを言った。深く深く呼吸し、佳い芝居味を満喫させて貰った。
* 疲れてしまわぬ内にと、さっさと銀座一丁目から保谷へ直通で帰宅。木挽町の楽しい一日であった。
2005 10・19 49
* 創画会に、石本正、橋田二朗、上村淳之、烏頭尾精さんから招待状が届いていて、なかなか行けないうちに会期が迫ってきた。あれこれ言っているうち、「モロー展」へは辛うじて滑り込めた。泉屋博古館(特選の日本画)、藤山寛実智美術館(当代の楽吉左衛門展)、国立工芸館(アールヌーボー展)、庭園美術館(マイセン陶器の粋展)など、招待をムダにしたくない。さて、いつ行けるか、だ。
今日、十一月の歌舞伎座も座席券が届いた。雀右衛門と冨十郎とを筆頭に、幸四郎・吉右衛門・仁左衛門・梅玉・左団次は、豪勢な顔ぶれ。仁の「熊谷陣屋」 高麗屋父子の「連獅子」 それに梅玉がまた上方ものに挑むし、小山内薫の「息子」で染五郎ががんばるだろう。なにより富十郎の鍾愛する幼い息子大クンが名披露目の舞台をふみ、富十郎他の大幹部が祝言の舞台をつくってくれるそうだ。
十二月の松たか子公演は、どうやら野田秀樹作・演出の『贋作・罪と罰』らしい。これが楽しみ。
2005 10・25 49
* 午前中機械の前にいた。午後、思い切って美術館へ出ようと思う。明日の午前に納本があれば、即、家中がいくさ場に成る。
* 妻が、付いていって上げるというので、かしこみかしこみ二人で上野へ行き、創画展を観た。
案の定、観るに堪える展覧会ではなかった。橋田二朗先生の草野の繪など美しいと謂える少数に属していて、石本正氏の半裸婦も見苦しく、上村淳之氏の鶴も、亡き松篁さんの鶴の半分も描けていない。大森運夫ほか指を折って片手に満たない程度にちょいと立ち止まっただけで出て来た。
妻が久しぶりに寄席で笑いたいというので、鈴本の昼席、中入りの少し前に入って四時半の打出しまで腰掛けていた。大笑いはなかったけれど、川柳の唱歌漫談など、満員の寄席で楽しんできた。トリは菊千代。これは話藝としては大いに物足りなかったが、話題が西行の出て来る「和歌もの」なので、おやおやと思い聴いていた。
伝へ聞く鼓ヶ瀧に来てみれば岸辺に咲けるたんぽぽの花
と歌を詠んで木蔭に臥しまどろんだ歌詠みが、夢に、山中のあばら屋に一夜の宿を求め、請われて、瀧のもとで詠んだ上の歌を披露すると、爺が一個所の手直しを勧める。伝へ聞くよりは鼓の縁で「音に聞く」がいいだろうと。歌人は閉口する。
すると婆がまた一個所の手直しを勧め、来てみればより「うち見れば」の方が鼓ヶ瀧にふさわしかろうと。歌人はぐの音も出ない。
すると少女まで現れ出て、岸辺ではあるまい、鼓に縁をもとめれば「かは辺」と直した方がいいと。
音に聞く鼓が瀧をうち見ればかは辺に咲けるたんぽぽの花
と直ったわけで、たんぽぽは、別名が「鼓草」である。なにしろ最初の歌を聴いたとき、落語じゃもの仕方ないが、まずい歌やナアと惘れていたら、そこそこに直されたのが面白かった。この歌人、じつは西行法師で、夢の三人は、住吉の神様や人丸たちであったという。笑って「鈴本」を出て来た。
横丁に入り、天麩羅の「天壽々」の店明けにとびこみ、菊正純生の冷酒で、小味な、からっと揚げた天麩羅を堪能してきた。魚づくしに扮装した初代吉右衛門をはじめ、時蔵(先々代)、染五郎(先代幸四郎)、もしほ(先代勘三郎)、梅枝(先代時蔵)らの居並んだ「戯画」の額を珍しく観てきた。良い店をみつけた。
その脚で地下鉄大江戸線に入り、妻は、遠回りして帰りたいというので、両国、大門、新宿都庁前などを大きく経由して練馬へ。保谷からは例のタクシーで帰ってきた。タクシーの運転手が「ハタさんですね」と覚えてしまっているのに驚いた。ほんとは歩いた方がいいのだが。
芝居以外に妻と出たのは久しぶりで、上野の山は好天。
* 家では黒いマゴが待っていた。
2005 10・30 49
* 午前からいま宵の六時まで、作業。京都の寿司「ひさご」から、沢山な松茸の籠が贈られてきたのを、汁にし、また牛肉ともあわせて、晩餐。体重増をあんじて大好きな松茸飯を控えている。西村五雲の「秋香」と題したついた土の香もする松茸の繪軸をしまい込んでいるのを思い出した。
2005 11・1 50
* よく晴れている。これから郵便局へ走り、それで第一次の発送は軽く一段落する。あとは、小刻みに進める。
「解釈と鑑賞」の原稿依頼があったのを、モノの下積みに見落としていて、編集の渡部芳紀さんらに失礼した。多い郵便物の収拾がつかなくて困る。要するに片づかない、いや片づけないからである。かといって人に頼むと余計分からなくなる。
今日オープンの、久しい読者の小さな個展が、銀座で。早めに行っておかないと、来週から十日ほどはいろいろ忙しい。いま、気になる散髪もしてきた。
2005 11・2 50
* 七時、血糖値116 正常。聖路加へ行き、無事に解放されたらその脚で、個展と、一つ二つ気になる美術館をたずねたい、が。
2005 11・4 50
* 節食していたので、検査後、院内食堂でステーキを食べながら『少年』を念校した。上田さん竹西さん、また田井さんの有難い文章を読んでいると胸が熱くなる。
診察後に、銀座で松井由紀子さんの小さな個展をみたが、数年前に観たときは夫君の恒男氏が健在だった。NHKのドラマディレクターであった松井さんは、わたしが作家になりたての昔から変わらぬ有りがたい読者であったが、二年前に亡くなった。湖の本はその後も由紀子夫人がつづけて読んで下さっている。
繪は、前に観たときよりぐんと胸に触れてくる抒情の詩性にあふれ、簡略に似た筆法でありながら美しい音楽が画面からよく聴こえてきて、魅せられた。感心した。さりげない小品がよくみると緻密に描かれてあり、それが画面の上で昇華されているので静かに美しいのである。感心した。恒男さんから、ワイフが繪を描いている、観てやってくれませんかと声が掛かって初めて知った。
今回は、グンと佳い内容で、二十点ほどの小品のすくなくも半数ぐらいには心惹かれた。気に入った小品を一つ、家へ届けてくれるように画廊に頼んできた。
2005 11・4 50
* 銀座の画廊で先日買った絵が家に無事届いたというので、それならと立ち寄って支払ってきた。それから「福助」で遅い遅い昼飯を食った。寿司職人がいやに若返っていて「握り」が頼りない。三年では若すぎる。飯がばらけるような寿司を食わせていてはいけない。肴は美味いけれど馴染みの職人が転勤したり店を替えて出て行ったりでは心細いではないか。
で、まっすぐ帰宅。
2005 11・10 50
* 松井由紀子さんの「底紅の木槿」花二つ描いたサムホールを買った。花を描いているが、ふつうの花の繪とちがう。ふつうの花の繪よりも「花」が描かれ詩化され、かそけき音楽がきこえる。白に底紅の花ふたつの他は昏睡したように深く沈んだ暗色だが、説明的な背景とはならずに、しかし色で誤魔化していない。小池邦夫の魚二尾の繪に替えて仕事場に掛けてみた。
この前は、色紙大の秦テルオ「京の出町雪景」を買った。これもたいへん気に入っている。残念ながらあちこち繪で飾れるような邸宅ではない。いま聚楽の壁になんとダリの美しい大きいリトグラフが掛けてある。妻の仕事場には日輪へ駆ける駝鳥の繪が掛けてある。あれこれみていると家の中に、けっこう買った繪が掛けてあるのに自分で驚いている。作者から戴いた佳い繪もずいぶん、数ある。好きな絵たちといっしょに暮らすのは心よい。
* 金沢の細川弘司君と電話で、京都での会のことも報せかたがた、話した。
2005 11・11 50
* 明日はマイセン陶磁器展のオープニングに庭園美術館へと思ったが、雀さんの大寒むメールにも影響されたか、いまごろになって、かすかに熱っぽく無いともいえない、鼻孔の奧にも湿り感がある。くしゃみも連発。たぶん、ムリしては行くまいと思う。
会期のうちに行く方が、特別の内覧会より静かなのは知れている。図録を貰えるだけはメリットだが、展覧会の図録類だけで大小何百冊と溜まっていて、これが実に重量、かつ、場所もとる。
2005 1・17 50
* 寒さに脅されてマイセン展は遠慮した。会期中に行けばよい。
「高麗屋の女房」を思うさま選んで読んで、校正した。
日本の藝能は、根底に死者の鎮魂慰霊があり、転じて生者の偕楽成の興行が表裏膚接している、それが基本だ。高麗屋の文藝にも奥さんの文藝にも痛切にそれがあらわれ、彼等の歴史と日常とは、死と生とに綯い混ぜられているのがよく分かる。だから常人には味わいがたい、涙と感動と輝きとが見える。先代幸四郎の死、その夫人松派小唄家元松正子の死、そして藤間夫人実父の死。その大きな死の影を深々と背負ったまま、幸四郎夫妻や役者の子供達も、「舞台」に立ち続ける。毅い人達の世界に触れたのを喜んでいる。
役者達の世界をよくないと非難する人もむろんいる。批評のものさしはしかし安易な一本だけではないのである。
すくなくもわたしなどは、あくまでも役者の舞台に力づけられ楽しませてもらえば有難い。この夫妻の文藝は、終始知性と感性のバランスの上に清潔であった。それで足りている。
2005 1・18 50
* わたしのこのサイトは、地の色がややくらい黄色で、それに光琳描く「寒山」図が、しっくりハマッテいる。粗衣の黒が美しい。気に入っている。
2005 1・27 50
* 「逃げ腰では、とても」と題した一文をファックスで、送稿した。校正も三つカタが付き、原稿づくりも一冊分の半分余も進んだ。家に居れば、用は前へすすむが、出かけないと躰はなまる。寝床へ入った瞬間の「背中の痛さ」は、二十分ほどもつづく。本を読んでいるうちにおさまる。この二日、腹工合もへんに悪かったが、おさまってきている。じいっと、様子をみているうちには、なにかしら、動いて行く。おもしろい。
あす布谷君がきてくれるかどうか、まだ確認できない。明後日にはインフルエンザの予防注射を頼もうと。
その翌日には狭心症検査。要するに心電図を取るのなら、経験している。そのために午後半日潰れるのかと思うとイヤだが、美術館へ行こう。いま一番二番に生きたいのは、出光の「仮名文字展」と菊池の「智美術館」でやっている当代の「楽吉左衛門展」。菊池には脚慣れていない。先ず出光へ行きたい、佳い「ひらがな」の古筆が沢山みられるはずだ。
2005 1・27 50
* それからお隣の出光美術館にあがった。「平安・鎌倉のかな」展。
和がなが主で、つまり古筆手鑑、懐紙、和歌草紙がずらりと並ぶ。いつもと見て回るのが逆順に展示してあるのに気付かず、鎌倉のかなもじから逆に時代を溯ってゆき、出光が秘蔵の「高野切」第一種にまでくると、その完璧な優美と品格とに圧倒される。大きいものではちっともない、のに、ちょっと他に較べうるものが無いほど此の「高野切」は感動的に美しい。墨の濃淡、字配り、筆線のあたたかい流れと筆圧の微妙な力感。それが地の料紙のよろしさ、表具のよろしさとマッチして、途方もない美の結晶になっている。
此処から平安の、鎌倉のかなが流れ出ていったとして、しかしあとのものは何であったのだと、ふと思ってしまうほど。
少なくも、鎌倉のひらがなは、乾いている。線も圧も、その呼吸が粗い。十二世紀にまで溯るとほっとするが、「高野切」まで行ってしまうと、もう十一・二世紀のかなもじが、ただの「能筆」に思えてしまうほど。
わたしは書が好きだが、ことにひらがなになると、書かれているのが大方は和歌であり、和歌がまた好きだから、つい読んで行く。読んで読んで和歌に感じ入ったり、美術館側の読みにも間違いがかなり有るのに気付いたり、しかし、さすがに目疲れも気疲れもしてしまう。一通りみて、わたしは完全にノビてしまった。かならず少なくも二度は会場を往返して観る展覧会だが、一度で音をあげた。ふらふらになり、地下の有楽町線にのり、池袋で乗り換えて帰ってきた。
この展覧会は、もう一度行かねばならない。出光に永く勤めて役員でもあった、妻の従姉弟から入場券を余分に貰っている。助かります。楽の当代展、マイセン展、そして根津・山種。
2005 11・30 50
* 木下恵介監督「野菊の如き君なりき」を観た。回想場面はことこどとく楕円形のなかに画面が出て、独特の映像表現になる。
人によって、よく分からない言うが、日本の「扇面」画や「団扇」絵は、得もいわれない不思議な「画面」美学を持っていて、わたしは高く買っている。木下監督の映画が、その楕円画面をわざわざ用いた動機は知らないけれども、とても優れた構図の美を成就した。その画面へ徹底して日本の凡山凡水を、野や畑の、季節の草花の、樹木の美しさを誘い込んで、夢のような風光と景色のなかで、うぶな純愛を描いた美学は、大成功している。
わたしは、映像の美学では、晩年の黒澤の計算された美より、木下が早くに実現していたこの映画などでの冒険に与している。そこには、はてしれぬ人間への愛と哀しみとが浸透している。
有田紀子の民子、田中晋二の政夫、杉村春子の母。浦辺粂子の民子の祖母。とても佳いが、それはもう演技などというものではない。画面に溶け込んだ自然の一部として彼等は生きている、野菊や竜胆とおなじように。過ぎ去って二度と戻ってこない日本の風景と純情。こんなに今では辛くて観たくない映画、だのに、始まれば観て泣かされて離れがたい。わたしなどは、かすかにかすかに、こういう日本も、こういう思いも哀しみも知っている。この作品だけでなく、伊藤左千夫はほかにも優れた小説を書き、すぐれた短歌世界を表現した。「糸瓜と木魚」という子規と浅井忠を書いたわたしの小説には、子規門の伊藤左千夫への何というか、恋めく思いの潜流しているのを、幸か不幸か人に見抜かれたことがない。
* 忘れかけていたほんとうに佳いものを、またわたしは見つけたと思う。よろこばしい。
2005 11・30 50
* ご近所の造作の大きな物音におどろかされた。血糖値、98。なぜか冬季は計測値がいくらか低い。
昨日は一日のうちに、「平安の仮名・鎌倉の仮名」「南総里見八犬伝」「野菊の如き君なりき」そして香味屋の食味、心臓・血管の方の無罪放免などうち続いて、そしていろんなメール。喪失していたと思いこんでいた記憶の、有難い再発見。平安と謂うべし。
「我、山に居て人の識るなし。白雲のうちに、常に寂々」とあるのか、弟乾山の書はおそらく市中山居の述懐であろう、そうでなくてはならない。兄光琳ははたして寒山であるのか、拾得か。
2005 12・1 51
*「平安の仮名と鎌倉の仮名」とに、なんでああも線を引いて区切ったような差が出るのだろう。鎌倉の仮名は乾いている。平安の仮名は、墨と紙とが相慕い合うようにしっとりし、文字の流れが生き物のように柔らかい。
定家は字の巧拙より書かれるなかみの正確さを大切にしたと言われる。平安の能書は書としての優麗をおしみ、万一の間違いもまちがいのままに連綿の美をいかしたと謂われる。そんなことも関係するだろうが、そればかりではあの差が理解しきれないほど、書の魅力に落差がある。不思議であったが、事実であった。
2005 12・2 51
* 2000年に名古屋で、池田遥邨のかなり大きな回顧展があったそうです。
雀はその頃、遥邨を知りませんでしたし、山頭火で宣伝されていたので、孤高の気難しい人かと思い、見に行かなかったのですわ。思い出しました。
今回、お作のおかげで、ずいぶん楽に愉しめました。
繪も、楽しくて、細かいところまで見ていると時間がどんどん経ってしまいます。額縁は素っ気ないほどかまわなくて、ユーモラスで、色が綺麗で、すっきりしていて、「あれだけ落選したのがよかったんだ」とおっしゃった内包がたっぷりと深く在って、美人が大好きというのが頷ける色っぽさが満々とあって、気持ち良くいられました。図録を読んでまた繪を見て、3時間近くいたかしら。
レストランで昼食をとり、なんとなく心ひかれた、コレクション展示室への階段を上がってゆくと、伊藤小坡があり、部屋の突き当たりに栖鳳の「獅子・虎」! 手前の壁には宇田荻邨が何枚も。血圧が上がりました。
獅子・虎は、もう、何ていったらいいか―。動物園の虎やライオンのように、繪の前を行ったり来たりしておりました。
荻邨は松阪出身でしたのね。そして、最初の師は小坡と同じだとか。初期の作品と下絵合わせて十数点展示されていて、係の方から、資料室に寄ってみるようすすめられました。1983年に開催された展覧会の図録があり、初歩的な知識を得てまいりました。
「京に長く暮らしているが」といった文章があり、ふむふむと読みました。
須田国太郎の繪が一点。信楽を描いたものが出ていました。この方についてもまったく存じませんの。京の展覧会を見に行こうと思っております。中野美術館に飾ってあるお写真が、たいそう男前で、前から気になっておりまして…。 雀
* わたしに京都を案内して欲しいと言う人、時々有るが、一緒に美術館へ行きたい人はその方が気楽なせいか、ちょいちょいある。しかし、そういうことをわたしは、めったにしない。美術工藝を観るとは、この雀さんのような「没頭」が本来で、こういうふうに観るには「独り」が何よりなのである。むろん目的があり、同じ作品を視線をそろえて観てくることに意義のある場合もある、東工大の学生と行くときは努めてそのようにして観た。口移しに育むような見方というと変かも知れないが。
普通は、独りで観る。人と一緒に行っても結局はばらばらになって観る。たいていの人は一つの美術館に三時間もおれるものでない。三時間も居れるということはそれが至福の時であったということ。
東京という街は、京都とちがい、自動車を見ないで、歩いて楽しめる場所がない。仕方なくどこかの店にお金を払って入り込み、「お茶する」などという変な日本語を体験しなくてはならない。さもなければ、飲み食いか。映画ならやはり独り観るのが本当だろう。
この界隈では石神井の三寶寺池なんて佳いところだが、最近日本刀を振り回して人に斬りつける男が出たなんて。情けない。
東福寺、清閑寺、清水寺、また永観堂、法然院、さらに金福寺、詩仙堂、曼殊院、車でまわって円通寺、さらに妙心寺、仁和寺、大覚寺、厭離庵、常寂光寺、そして天竜寺。京の初冬もまた佳い。行かなくても行ったと同じほど甦ってくる最良の記憶。
東京では、やはり演劇が一番。わたしのかつて識らない佳い東京へ、誘って呉れる人はいないか。
2005 12・2 51
* 思い立って、虎ノ門の江戸見坂上、「菊池寛美記念智美術館」で、当代楽吉左衛門の「茶碗」展を観てきた。当代は、初代長次郎や三代道入、つまり落語にも名の出て来るあの名工「のんかう」以来の、楽代々でも傑出した現代藝術家だとわたしは観ている。だからこそ、躊躇なく京都美術文化賞にも推薦し受賞してもらった。賞に真に値する受賞者とわたしは選者の一人としていささかの疑念も持ったことがない。以来、もう二十年近い。
今回の展覧会は二十世紀末からの六、七年の作をならべたが、美術館の雰囲気も宜しく展示の妙も手伝い、こんなに充実した一人作者の「茶碗展」はめったにあるものでなく、大いに楽しんだ。どの一碗でも佳いから、掌に載せてみたかった。
もしその造型の特色をいわば、「京焼」伝統の「はんなりの美」を惜しみなく趣向し活かしながら、しかも「男茶碗」の剛快さをまさに「彫・刻」しえた「力強い魅力」に在る。
趣味の造形ではない。土と火から彫刻家の手が掴みだした手強い生き物のように、一つ一つの茶碗がそれぞれ独特に呼吸している。美しいのも、不気味なのも、華やいだのも、みごとに調和したのも、動的なのも。
いわゆる楽の「赤」でも「黒」でもない、多彩であり、しかも剛強に音楽的であり、ある種の違和感をすら不協和音の美のように一碗に交響させ、そしてどれも少しも騒がしくない。総じて、造型は静かに深いつよさに満たされ、魅力は、女のやさしい美のそれではない、周辺の空間を支配し構成した豪腕な男の「知性」である。それが類いなく美しいのである。
2003年から2005年へかけて本当に美しい山が見えていた。わたしは、しばしば動けなかった。往返数度、立ち去りがたい恍惚境も。
ハイ、文句なしに佳い展覧会でした。
千葉市でみてきた「楽の歴代展」では、当代の作は数少なく、展覧会の趣旨においてやむをえなかったが、もっと「数」を観たい思いは、今日じつに適確に癒された。満足した。感謝。
* 館にレストランがある。庭が見える。茶碗の会場はシンとして人少なであったのに、レストランはほぼ満員。すこし人声がこもって静かでなく、取り澄ました割に料理はいまいちであったが、赤ワインで、魚の一品を食べてきた。
* それにしてもあの「江戸見坂」の急なことにはほとほとヘキエキした。途中で音をあげて休んだ。降りるときもああ急では脚にこたえ、痛みが抜けていると喜んでいた右アキレス腱に烈しい痛みがぶりかえした。ほとんどビッコの脚をひきずって、それでもわたしは元気に歩いた。
* 現代陶藝のあれほどのをみてしまうと、根津美術館、北九州の茶陶「高取焼」でせっかくの印象を入れ混ぜてしまうのは智慧がない。マイセンの庭園美術館へもちょっと脚がきつい。で、銀座へ戻ったが、脚休めを口実に「ニュートーキョー」に入り、牡蠣また牡蠣を肴に、ビールをしっかり飲んでから帰ってきた。
2005 12・6 51
* やがて九時半。昨日の楽吉左衛門の茶碗がまだ眼裏に在る。今朝、もう、バグワンと継体紀とを読んだ。あと一時間ほどで三宅坂国立劇場「天衣紛上野初花」通し狂言に出かける。
2005 12・7 51
* 何がムズカシイといって、身辺の片づけほど難儀なことはない。今年も、気は心、ほどほどに済ませてしまいそう。戸外は明るく、飛行機の音が遠くでのどかそうだが、風も吹くと見え、しきりにものを鳴らしている。
カレンダーをこれから新しくして行く。凸版印刷の大物は、山口蓬春画。山種美術館はどうだろう。
2005 12・27 51
* ことに土ものの焼き物に、水もくれず、からっぽのまま、掃除しない部屋に置きっぱなしてあると、埃もかぶり、かなり佳い備前や伊賀のものでも、可哀想なほど貧相に穢くみえる。
焼き物の御馳走は、新しい清い水。かたきは、乾いた埃。たいてい焼き物は容れ物である。容れ物は清い水であふれそうなのが佳いのは、女のからだを想ってみても分かるではないか。
2005 12・27 51