ぜんぶ秦恒平文学の話

舞台・演劇 2006年

 

* 新宿紀伊国屋サザンスター劇場での『喜多川歌麿女繪草紙』とは、なんだか場末の小屋でのお色気小芝居めく。ぞっとしない。清潔でいい劇場だし、ひょっとしてと期待したのも空しく、じつにつまらなかった。
藤澤周平の小説は少しは読んでいるが、行儀のいい、いやみのない、しかしそれ以上のものではない時代読み物ばかりであった。富士山でいえば、六合目ぐらいのひろやかな支持読者を得ているのだろうが、一級の藝術的な高みには立っていない。光がない。そういう原作にあわせて脚色(池田政之)しているから、はなから上手に上手に造り立てた大衆演劇ふうの低調はまぬかれず、物語にも、演出(安川修一)にも、終始、何の意表に出るものも、光るセリフも、藝術家小説 (演劇)らしい彫り込みも、無い。
舞台装置と人や物の出し入れにいい流れの工夫があり、それは有難かったけれども、フツーの状況で、フツーにしか世界は展開しない。新劇の根性も魅力も、求める方が申し訳ないほど、問題外。何一つ、琴線を響かせる美しい、あるいは高らかな、あるいは確かなセリフ一つも、思い出せない。
何度も何度も、すうっと引き込まれそうに睡魔に誘われた。

* すばらしかったものも、ある。舞台装置の奧に大きく使われた歌麿作の「美人」の繪である。わたしは、しばしば舞台に退屈のあまり、歌麿の繪に見入っていた。日本の美術史が世界にも誇れるほど美しい深いみごとな線の美観と敏感。双眼鏡で眺めて眺めて飽きないのである。あんな装置あんな歌麿の前で、着物すら似合わないような女優達・男優達の演劇は、何をすればいいのか、完璧に歌麿藝術に負けて退屈だった。
そもそも中野誠也の演じる歌麿「先生」の創作の行儀は、あまりに型どおりに凡庸で、稀薄も品位も揉み込むような苦渋も感激も姿勢も感じられなかったが、それはもう天才をあつかえば、平凡な演技力でそんな機微や気魄がカバー出来るわけがない。
むろんわたしは、先日来此処にも再々書いていた、篠田正浩監督の映画『写楽』を思い出さずに居れなかった。
今日の芝居は、あの映画の足元にも及ばず、脚本の把握はあまりにフツーの思いつきを超えていなかった。舞台最後の花魁道中のちゃちなことが、すべてを象徴した。
帝劇でも明治座でも、このような「藝術家もの」はハンパに難しすぎたろうが、舞台の歌麿に対する関係者達の熱烈な敬愛がすこしも感じ取れなかった。つまりハンパなのである。つまりは肝腎の「歌麿」がとらえられて居ず、生き物の凄みとして描けていない。ただもう終始苦虫を噛みつぶしているばかりの中野誠也の「歌麿」は、彼が演じた「タルチュフ」の秀逸と比べれば、内からも外からも、ほとんど通俗普通の理解と表現だけ。歌麿の凄腕も藝の深さ確かさも、転機を迎えて越えてゆく莫大な人間力も、何一つ適切・的確には表せていなかった。
これは中野の責任ではない、原作が低調、輪を掛けて脚本と演出が低調で、ただもう上手に組み立てようとしただけ、瞬間風速の魅力をすべて欠いた失敗が負う、そういう責任であった。
「千代」を誠実に演じた清水直子、内発する男の力を感じさせた「蔦重」の河野正明らに好感をもったが、女繪双紙と称する若い女優達が、背後を終始支配している歌麿原作の繪の美人達とは、美貌はともかく「存在の質感」が似も似つかず、どれもこれも紙芝居並み。
歌麿は激越なほどの天才。しかも同じような天才が舞台に何人も現れている、そういう「時代」であったが、その時代の底力が「オハナシ」以上に表現できていない。それほどの歌麿本人の驚嘆の秀作の前で、いったいどんな「女繪双紙」なら対抗可能か、それを勘定に入れて舞台をつくり演じ演出しなくちゃ。

* ここまでいえば、わたしは、言い切りたい、こんな程度の手際の商業演劇で事足らそうといった俳優座上演の覚悟自体が間違っているか、タカをくくっているのだと。何のために俳優座がこんな芝居をなさいますかと、情けない思いをして、劇場を立ち去ってきた。

* 久しぶりに伊勢丹のわきの「田川」で河豚にしようと行ってみたら、「虎福屋」という河豚は河豚の店であったけれど<「田川」は看板をもう三年も前に降ろしていた。ま、いいかと二階に上がり、「とらふぐ」で、テッサにはじまり揚げ物や河豚ちり、雑炊までゆっくり楽しんだ。何十年馴染んできた佳い店が、また一つ消えたかとほろにがく寂しかったが、気を取り直して芝居の話や昔の「田川」や伊勢丹、新宿の話をしながら過ごした。そして一路、帰宅。黒いマゴが、機嫌をそこねながらニャーニャー鳴いて、二人が一緒に帰ってきたのを喜んでもくれた。
2006 1・20 52

* 高麗屋から、クドカンこと宮藤官九郎作「メタル・マクベス」と謂う、松たか子主演の芝居の案内がきた。建日子と同世代の仕事人らしく、わたしは若い才能の冒険にこれでいつも興味は持っている。まして松たか子の芝居である、パッショネートで小気味のいい作の工夫と演技の魅惑が満喫できるなら、楽しいことだ。建日子らも一緒に観ないかと思っている。
2006 1・21 52

* 今日は、夕方、目白で秦建日子作・演出、若い人達の「比翼の鳥」を観てから、サントリーで浅井菜穂子のピアノリサイタルは、ベートーベンなど。
2006 3・18 54

* 目白駅から六七分歩いて、建日子主宰の演劇ワークショップの発表公演「比翼の鳥」を観た。
運動量豊富な、みーんな出演させてやろう、やらなきぁという、親心? のような舞台であり、若い男女の肉体と声帯が、おめずおくせず狭い舞台で躍動するのだから、それだけで飽きずに観ていられる。
筋書きのお芝居ではない、大勢をひたすら動かせまくり、喋らせまくり、なにとなく粗筋めくストーリィを、強硬に観客席へ押しこみながらの一時間半、飽かせるひまもなく、一瀉千里に何もかもガンガン運んで行く。つまり百パーセントが演出のちからわざ。役者はそのためにほとんど酷使に堪え、いろいろに作者・演出家の、好き勝手に嵌め込まれるジグソーパズルのピースのようなもの。
男と女が出会い愛し合い、しかし本意なく別れることになる、と、片方が、男の方が、自殺しかねない。そういう自殺願望男のために「自殺予防課」なる施設があやしげに活動している。ま、そんな設定などどうでもいい、乱暴で乱脈な舞台のように見えていて、しかし、ゆるやかに筋は造られてり、荒唐無稽でもないから可笑しい。
なぜ男と女は出逢い、愛し合い、しかし別れるのか、舞台は、ある種のアピールはしようと目論んでいる。なんだか、観客席もシンとしそうなアピールとも見うけるが、バカタレ、「甘いよ」と言いたいようなアピールでもある。大甘な愛のポーズへ話を運んでゆく過程では、けっこう辛辣な批評もしてあるに拘わらず、やはり主役めく、同棲していてあげく女に悪態を垂れられてふられた男は、それでもおれは、俺一人は最後の一人になってでも永遠にお前を愛しているから忘れるななどと、アメリカへ逃げて行く女に未練なセリフを吐くのである、バカかお前。なんとも甘ったるいことを叫んで終わるのだ、バカかお前。ワケが分からん。
ところがワケなど分からなくても、ちっとも毒にも薬にもならないドラマなのであり、印象に残るのは、ただもう、若い男女が圧倒的に踊り踊り踊り、動き回って、お前ら、ようやるわという感嘆一つである。ああいう芝居は年よりの役者では出来ないし、むろん似合わない。こんな汗ばかり飛び散る芝居を観ていると、なみの新劇風の新劇は、よっぽどの舞台を創り出してくれない限り、あほらしいほど退屈してしまう。若い人達が新劇なんか、なみの商業演劇なんか観ない気持ちが良く分かる。年よりのわたしでも、風邪をひきそうに薄ら寒い新劇はこのごろ退屈でつまらなくて仕方がない。同じなら若い男女が必死のドタバタで踊り狂ってくれる舞台の方がワクワク興奮できる。演劇という劇はこういう劇動のことであり、それを内面から統御してあやまらない劇的構成と生きたセリフの呉れる感動の意味。存外に優れた歌舞伎劇にはそれが、ある。歌舞伎役者は所作という舞踊の修練を積んでいるからである。

* 正直の所、わたしは、今日は熱っぽくてだるくて元気でなかった。ぐたっとしていた。ちまちました普通の芝居なら吐きけを訴え逃げだしていただろう。そうならずに済んでよかった。
2006 3・18 54

* さて、その花見。二十九日の勘三郎コクーンのあと、三十一日の劇団昴のあと、を楽しみにしている。そして四月一日に友枝昭世の能「湯谷(ゆや)」とは、まさしく清水の花見。五日は歌右衛門の五年祭の大歌舞伎。妻の古稀。六日は日中文化交流協会がたしか創立六十五年、中央公論社が百二十年の記念パーティ。湖の本新刊の校正刷りが出て来るその頃まで、しばらく春心地に花を愛でたい。
2006 3・25 54

* 今日は「チャリング・クロス街84番地」という劇団昴の芝居を見に行く。ヘレーン・ハーフの原作をなんと江藤淳が訳したのを多少潤色、松本永実子が演出する。まっしろな頭で舞台に向かう。わたしは予め活字で舞台を説明されたくない観客である。
2006 3・31 54

* 千石の三百人劇場、劇団昴公演「チャリンク・クロス街84番地」は佳い舞台だった、こういう感銘は、歌舞伎でも、また秦建日子らの舞台でも生み出せない、独特のもの。よく書かれよく演じられた新劇ならではの醍醐味を満喫した。
主役のヘーレン・ハンフは、戯曲の作者その人で、これは実話を脚色したいわば私戯曲。劇作家であり脚本家であるアメリカ人のヘーレンが、イギリス、ロンドンのチャリング・クロス街84番地にある小さな書店に、手紙で本を注文しつづける。書店の共同経営者フランクをはじめ、店員の誰彼もヘーレンの手紙のよろしさに、まだ見ぬ友いわば「身内」の親愛を覚え、数十年に亘り交信がつづく。そのやりとりされた手紙の文面を「読む=語る」以外に何一つの科白のない芝居なのである。「手紙」という詩的結実のいわば「交互の朗読」だけで芝居が進行するのだから、詩劇かオペレッタの一種とすら謂える。俳優達の表現は、いかに手紙の文面を血肉化して発声し発語するかにかかっている。それをヘーレン役の望木(もうぎ)祐子とフランク役の牛山茂とが、称讃ものの口演で実現した。
他に書店の店員佐藤しのぶも、竹村叔子も、ヘーレンの友人で書店を訪れる日野由利加も、その他も、みな申し分なく丁寧に品良く明快・明晰に演じて、人物の流れるような動きや配置、小道具になる本や手紙のとりまわしも含めて、松本永実子の演出は、優しくも水際だって、巧みであった。舞台も、また照明の効果も、劇的内容の表現に適切に参加していた。
江藤淳の翻訳した日本語の文面が、音楽的に律を内蔵し、俳優がその律の美しさを発声にのせて、しみじみと佳い音楽にして聴かせてくれたのは、これぞ新劇の意欲でもあり、地に脚のついた公演活動だと、最高の拍手を献じることが出来、幸せであった。劇団昴は佳いなあと思わせる成果であった。
芝居の構成こそ言ってしまえば上の通りでも、主要人物の一人一人の肉体が動いて動いて歳月を閲して行く「もののあはれ」は深く、ジーンと心身に堪えてくる畏れすらあった。こういう手法もあるか演劇には、と、素人の観客は感嘆しきり。

* おそろしい強風のなかを六義園まで歩いたが、夜櫻のライトアップは、昨日まで。今日は四時半閉園で、一歩も中へ入れなかった。
仕方なく駒込駅へ歩いて、以前にも入った風変わりな中華料理の店に入り、この店ならではのローストした家鴨半羽、強烈な担々麺、中身プリプリの長い春巻で、夕食。紹興酒とビール。
歩いている内に風の冷えからか、左足が攣り初め、脹ら脛の中に大きな石が入ったみたいにグリグリと痛み、とにかく体を温めたかった。その前、劇場へむかう徒歩のさなかからわたしは全身がけだるく息が上がり、一度は路端にすわりこむほど疲労した。血糖値が高すぎるのか低すぎるのか、観劇中も違和感は相当だったが、幸い舞台の好調に助けられた。
家には七時前に帰ったが、タクシーには人が行列していたので、途中ペルトの珈琲で温まり、家まで寒風に吹かれて歩いた。脚も胸も、気分がわるかった。それでも元気だった。
2006 3・31 54

* かすかに痙攣するような頭痛がある。今日は幸い暖かい。
午後おそめから国立能楽堂で友枝昭世の能「湯谷<ゆや>」と野村万作の狂言「見物左衛門」に招かれている。昭世の能は当代最良の一つ。
昨日の劇団昴の「チャリング・クロス街84番地」はすばらしい舞台だった。アメリカの才能ある一女性が、ロンドンの一書店に多年本を注文し続け、書店も誠実に応対した、それだけの折衝を舞台に再現。真に文字通り「本」というパブリックドメインへの愛をちからに、推移し、成就し、そして終焉していった「人間の歴史のミニチュア」であった。大西洋を隔て、ただ手紙の文面だけで語られ演じられた、みごとに知的なドラマで、亡き江藤淳の訳も美しく、女性演出家の演出も美しかった。藝術が、そこに在った。
2006 4・1 55

* 五月の青山劇場、松たか子らの「メタル・マクベス」公演の座席券が届いた。くどかんこと宮藤官九郎脚本とあり、また新しいものに出会える。松たか子というのが楽しみ。
2006 4・14 55

* 新しい湖の本が、十二日に出来てくると、さきほど凸版印刷から連絡があった。十一日に、夜の部の歌舞伎がある。いいタイミング。それより前に聖路加や歯科医の診察や治療日がつづく。
十五日に、しばらくぶり「ペン電子文藝館」の委員会。総会前でもあり、出ないワケに行くまい。十八日にこれまた久しぶりに猪瀬直樹委員長が召集の言論表現委員会。またシンポジウムがしたいらしい。
その翌日、文藝家協会の総会。もう久しくこっちには出たことがない。
二十四日に松たか子の芝居、二十七日には観世栄夫の能「邯鄲」が。月末にペンの総会。一日には苦手な眼科の視野検査。そして…桜桃忌のくる六月がつづく。
ともかくも五月はかなり忙しい。合間合間をうまく利して息抜きをして元気づけないと、バテてしまう。
2006 5・2 56

* 馬場あき子さん『歌説話の世界』、島田修三氏『「おんな歌」論序説』、米田律子さん歌集『滴壺』、宗内敦氏の著書二冊、雑誌「サン(舟ヘンに、山) 板」の新刊、わたしの文章の掲載された「解釈と鑑賞」、また「淡交」や「茶道之研究」、「ぎをん」それにペンの会報等々、連日の郵便物もどっと。ふうと息を吐く。
松嶋屋からは、七月上村吉弥が歌舞伎座に出勤という通知も。これで七月も歌舞伎が観られるし、八月には例の納涼歌舞伎の案内があるだろう。
ほかに劇団昴の福田恆存作「億万長者夫人」に招かれているし、俳優座の招待もある。ガップリ四つ、お互いにいい新劇を見せてほしい。このところ俳優座は通俗読み物なみの芝居が多く、老舗の筑摩書房がマンガで躓いていった頃をふと想わせて心配だ。昴のこのまえの「チャリングクロス街84番地」はすばらしかった。
2006 5・2 56

* 俳優座稽古場公演の招待が来た。二人芝居の翻訳物「不寝番」を、大塚道子らで。稽古場は舞台と客席とが緊密に隣り合い、芝居の息づかいがまぢかに来る。楽しみ。
2006 5・4 56

* 午後は、俳優座で、久しぶりに岩崎加根子らの芝居を楽しんでくる。主役浜田寅彦老の佳い芝居が観られるだろう。ふたくちつよし作『風薫る日に』とある。亀井光子の演出。期待しているよ。
2006 5・17 56

* 浜田寅雄が入神の好演で息をのませた俳優座公演『風薫る日に』は、ここ一年の俳優座公演のなかでは「清々しい」佳い舞台をみせてくれた。岩崎加根子、河原崎次郎、小笠原良知、執行佐智子が、米寿八十八の誕生日を迎えた浜田の娘(妹)夫婦、息子(兄)夫婦で、息子夫婦と老父とは、十数年決定的な不和で、相見ていなかった。妹夫婦はあえて兄夫婦とその息子とを「父の祝い」に招んで、多年のしこりを解きほぐしたいと願い、兄夫婦達も参加すると言ってきているが、父は知らない。
こういう親子の関係なら、世間には無いことはない。現にわたしの家族でも、わたしたち夫婦は十数年娘夫婦達と断絶している。それにはそれなりの経緯があり、この舞台の家族たちは、その経緯を顧みる風に舞台を展開して行くことになる。今日の舞台が、それなりに成功したのは、その経緯の展開に、(粗筋なども知らず、前売りの評判なども知らず白紙で出掛けた私たちには)、はたと手を拍たせる説得力とリアリティとがあったから。その詳細をいまここで書いてしまうのは憚りがある、公演は始まったばかりだ。やはりそこに、余儀ない「戦争」の無残や悲惨がからんでいたとだけを言っておく。
生きて帰った老父の長いその後の人生には、なるほど、凄いものがあった。彼のその痛みに息子はウカと無思慮に触れてしまい、それが決定的な断絶、父とだけでなく、もう亡くなっている母親との間にも、うずめようのない亀裂をつくってしまっていた。それが、まことに段取りの佳い脚本の「じょうずさ」で、油がとろりと流れでてくるように、次から次へ、あまりにも巧みな「話」と「人の出入り」とで示されてゆく。
なんとも「じょうず」に途切れも滞ることもなく話が運ばれ、その調子の良さに滑り乗るようにして、達者に、ソツのない芝居の出来る俳優達が、いかにも心地よく、快く、芝居を運んで行って、渋滞しない。今日の舞台の大きい長所も、マイルドに行儀の佳い進行、激震しない進行も、その渋滞の無さ、にあった。どの一つの話柄にもムリがない。もっともで、胸を打たれる。涙もこぼれて、思わず声も漏れそうで、観ていてわたし自身慌ててしまう。隣で妻もハンカチをつかつている。
だが、殆どすべては対話と会話、つまり台詞ではこばれ、人間が動き合ってマサツする怖さはあまりない。老父の妹、孫達からは「大叔母さん」にあたる妙なお人の、つっかかる人柄や言葉が違和感を醸しだし、それも意図され巧みに置かれた騒がせ役なのであり、それヌキでのドキドキもハラハラも無い。劇的なものは、すべてが「お話」の中にあり、その「語り」にある、だけ。
ところが、その「話」と「語り」はじつに「じょうず」に書かれ用意され実現されて、指一本立てたり刺したり出来ない。申し分がない。幕になり、夢中に称賛の拍手を惜しまなかった。
だが、なんという「おとなしい」お芝居でしょうと、妻は、劇場を出たあとですぐ言い、「それでも、なにもかもじょうずに出来てたよ」と言いつつ、わたしも妻に同感だった。「清々しい」好印象に感銘を覚えたのはウソでない。しかしながら、「戦争」の無残や悲惨、それにとことん傷ついてきた男は、さらにのちのち、平和な世間や、ほかならぬ自身の家庭の中で、延々とそんな心の傷の後遺症に、ひそかに塩をすり込まれていた悲しさ辛さが、その場限りのリアリティで「小柄な感動」を呼び起こす程度で、おさまり返ってしまうのは、何故か。
妻は、なおその先にある、何かしら手荒い人間の問題にまで、言葉や芝居が及んでいないからではないですかと、言った。もう一歩も二歩も、何かをぶち抜かないと、芝居が、あれだけで自己充足し自己完結し、それは纏まりとしてケッコウ「じょうず」ではあるけれど、あらく息のあえぐ感銘を「劇場の外へ迄」持ちださせずに、ただ「清々しく」済んでしまうじゃないかと、いう意味である、わたしが翻訳し補足すれば。
歌舞伎の言葉でいう「腰のおちる」だらだらも退屈もなかった。一つの芝居の仕上がりとしては、ケチはつけられない。しかし早めの晩飯を池袋のビルの高いところで楽しんでいるとき、「風薫る日に」は、もう芝居を観てきましたという雰囲気ていどに気散じなものになり、意外につよい力をもらってきたとは実感がなかった。
何故だろう。「じょうず」に書かれた台本を「じょうず」に演じて貰った、それだけでは、ほんとうの感激や感動が与える或るつよい苦さや、苦しさや、堪らなさや、ときには憤激のようなものが、胸の奥に沸き立たないのである。
浜田寅彦演じる老父の激情を、優しい家族や友人みんなが、「でも、まあ、よかった、よかった」と安堵の表情で宥めてしまっている。例えば戦争の悲惨や無残も、幕の瞬間、若い家族達の、だあれの胸にも堪えた様子がない。つまり一家庭の「永かった親子のしこりが溶けました」という終え方になっている。
戦争という不条理への怒りよりも、家庭と親子との安堵に、めでたしとおさまりがついて、エンドになる。
それだっていいのではある、が、概して「戦争」の問題が、この程度に芝居の「あしらい」にされてしまうと、お話はめでたく終えたけれど、それでもういいのかい、戦争のことは、それでもう済んだのかいという疑問も残ってくる。
佳い芝居を観たという気持に偽りはない。しかし、新劇の問題の問いつめが、ただ「じょうず」に甘いままでは、物足りない。観ているこちらの胸へ、がつんときついしこりを「手渡し」てもらいたい。そいつを自前に解きほぐさねば生きづらいほどの「感銘」を、である。

* 「足摺岬」もそうだったが、浜田寅彦のそこに「在る」だけが、なんと佳い「モノ」であったことか。それに他の誰それと名前を挙げにくいほど、みな「清々しい」演技だった、演技というより「地」のようですらあった。その辺にもじつは演劇として問題は残されているはずであるが、それは今日は言わない。
伊勢佳世という娘役が可愛らしくて、あんな孫娘がほしいなあとつくづく思って観ていたが、女優の名前としてはソンやなあとも。
人が口にしてくれる時間が、少しでも長くかかる方がトクなのに。「いわさきかねこ」と永く口に持っているから、印象にのこる。記憶も重くなる。「いせかよ」は、あまりみじかい。日本の音韻では「いわ」「さき」「かね」「こ」だと、それぞれの間に半音の間もおかれる。「いせかよ」では、へたすると一息でおえてしまう。台詞だけではない、名前にも、よく謂う、「うみぢ」が印象に活きる。余計なことまで謂ってしまった。

* 小雨もよいに駅からタクシーで帰った。 2006 5・17 56

* 明日は散髪し、明後日は松たか子らの「メタル・マクベス」を見に行く。金曜日には俳優座の稽古場で、大塚道子らの二人芝居、これも楽しみ。土曜は観世栄夫さんの能「邯鄲」に招ばれている。来週はペンの総会があって五月が果て、六月早々に眼科の視野検査、そして京都美術文化賞の授賞式が都ホテルで、同じ日に財団の理事会、懇親会が嵐山の吉兆で。
2006 5・22 56

* 表参道のテラス風のビュッフェで、赤ワインでビーフシチューを昼食に。そして青山劇場で、「新感線」演じる、宮藤官九郎作「メタル・マクベス」を観て、聴いてきた。強烈無比のヘビメタ、頭蓋骨がひび割れそうな大音響のなかで、シェイクスピアのマクベスを下敷きの劇。
松たか子、終始好演、すっきりと清潔感をうしなわない、たいへん自然な力演に感心した。下敷きの沙翁劇が構成も筋もしっかりしているから、安心してアレンジの芝居が観ていられる。どこという破綻のない、やぶれかぶれな芝居で居ながら、行くところへ着実に行って盛り上がるうまい脚本で、痛烈な演出だった。
照明というより、ものすごい光線を、炸裂し氾濫するほど多用し、映像も、二百年後の荒廃した東京をぶきみに暗示しつつ、マクベスとデスデモナの悲劇を現代のヘビメタにのせて爆発させた。
芝居を観て新鮮に驚かされたことはしばしばあるが、今日の「メタル・マクベス」は、かつての玉三郎「天守物語」「海神別荘」蜷川・市村「リチャード三世」勘九郎「夏祭」菊五郎「達陀」高麗屋「夢の仲蔵」劇団昴「アルジャーノンに花束を」「ワーニャ伯父さん」菊之助「二人娘道成寺」などにならぶ印象深い舞台になった。秦建日子の「タクラマカン」もここに加えてやりたいが、まだまだモノが小さい。
妻は、あまりの大音響に胸をかかえ耳をかばいながら、「たいへんなところへ紛れこんだわねえ」と何度も言い、それでも何度ものカーテンコールには熱心に拍手していた。わたしも、大いに楽しんだ。舞台のこなれにガサガサした違和感のないのがめっけもので、感心した。よく演出されていたと思う。帝劇よりも廣いかと思う扇形の大劇場の、前から十列目、あれより前へ出ると音につぶされそうで、ほどよかった。眼鏡も効果的だった。
繰り返すようだが、松たか子という女優の根性のふとさと品のある熱演にはいつも感じ入る。妻の文句なしに共感を惜しまない数少ない女優である。わたしは、テレビへの初登場、その一瞥このかた全面的に称賛を惜しまない。演技の質はちがうが、宮沢りえのテレビや映画、松たか子の舞台は、二人の力量をいつも遺憾なく発揮する。

* 劇場を出ると大雨。かろうじて地下鉄で表参道から有楽町へ。「きく川」で鰻をおいしく食べて保谷へ帰った。土砂降りの中で、かつがつ幸運にタクシーに乗れた。
家に帰ると、松たか子と幸四郎の親子書簡。今月は高麗屋が娘の書簡に応えている「オール読物」が贈られてきていた。お父さんの文章はいっぱい読んでいるので大なり小なり耳に入っている。お父さんの方が少し緊張気味で、すこし勝手わるそうにぎごちないか。その点、先月号の娘の方が、ドーンと遠慮無くつよいおやじさんにぶつかっていっていた。
2006 5・24 56

* 今日は、俳優座稽古場で大塚道子ともうひとりの二人芝居。さ、どんなかなあと楽しみ。明日は歯医者のあと、その脚で観世栄夫の「邯鄲」を観る。そのあと三日間、なにとなしに休める。
自転車で走り出すまでの筋肉脂肪は相当だった(そうだ)が、今、「やや過剰」という域に戻っている(そうだ)。わたしは皮下脂肪をほとんど触知しないほど全身が堅い。立っているときの大腿側など石のように堅い。腹も堅い。散髪屋はいつも肩を揉もうとしてあまりの堅さにきまって驚きの声をあげる。指や掌で掴めないという。脂肪は体内にひそんでいる。
2005 5・26 56

* 俳優座稽古場自主公演、モーリス・パニッチ作、訳・演出は田中壮太郎の二人芝居『VIGIL 不寝番(ねずばん)』は、大塚道子の超級の名演と、若い蔵本康文の懸命の好工夫による力演・好演で、休憩を含む二時間四十分が、静謐のうちに爆裂しそうな満潮感を湛え、大成功であった。わたしも妻も、こういう新劇が好きだ、歌舞伎にもヘビメタにも商業演劇にもアングラにも、真似が出来ない。
大塚の演じる死に至る病床の老女は、始めから終いまでせいぜい三度か四度片言のようにか喋らない。台詞が無い。しかもその病床の老女のみごとな実在感の大いさや確かさや説得力には、絶賛を送らざるを得ない。参りました。いやそんな軽いモノではない、孤独に死んでゆく老女の生きる気力と幸福とを大塚道子は間然するところなくわれわれに理解させた。
蔵本の演じる甥は、伯母の手紙一本で銀行員の職をなげうって、死を看取りに、いや死を催促にやってきた。伯母に遺産をぜんぶ譲らせる遺書にまで署名させ、とにもかくにも直ぐに死ぬものと期待して待ちながら、最後の世話をしてやるのである。
ところがどっこい伯母は死のうとしないで歳月が経つ。むしろ伯母は、気弱に気のよげな甥の、早く死ねかしのいやみな台詞と、彼自身の過去をグチる思い出話を黙々と聴きながら、むしろ少しずつ表情にも生彩が浮かんでくるのだ。
甥は、三十年も離れて逢わなかった伯母に対し、冷淡なばかりではないのだった、むしろ自身の父や母よりも遙かに伯母のほうに親しみも憧れすらももっていたらしい。むかし、タクシーで幼かった彼の家へ乗り付けた伯母の姿や声音を忘れられず、彼は伯母に手紙も書き続け写真も送り続けてきたのである。そしてもう両親は不遇また悲惨に死んでしまっていた。
そういう、ややこしい伯母と甥との奇妙な共生を、舞台はものを千切ってまくほどの短い場面場面の暗転また暗転で着々と築いていって、大きなどんでん返しを実現する、それには観客も唖然として、思わず笑ってしまう者も何人もいた、妻も、わたしも、笑った。そして、そこに、この芝居の大きな深い感銘が、みるみる膨れあがる。うまく仕組まれた脚本のお手柄で、ああそうか、そうか、と人間ならではの奇妙な出逢いの深切に、静かに頭をさげるほどのモノをわたしは感じた。うまく感じさせてくれた舞台の二人や、作・演出等の関係者に感謝した。参りました。

* どんでん返しを此処に明かすわけには行かない。うれしい二時間四十分だった。稽古場を出たわれわれは、俳優座裏の、もう二十年もなじみの「枡よし」で親方夫婦や息子とよもやまの話を楽しみながら、鮨を食い、すこしだけ酒も飲んで、もう一軒直ぐ近くの気に入りの喫茶店で旨い珈琲を一杯。そしてそのまま大江戸線で練馬へ保谷へ帰ってきたのである。
さて明日は、歯医者。治療の間はたいしたことはなかったが、この数日、歯はいつも鈍い痛みをもち、かなりきついときもあった。今はなんでもない。明日は痛み止めも貰ってこよう。歯医者の後は、わたしひとり、国立能楽堂へ移動する。四時半頃には終える。そのあとも、どこかで独り楽しんで帰りたい。 2006 5・26 56

* 明日は福田恆存作「億万長者夫人」を劇団昴の招待で。とても楽しみ。
劇団昴は七月にも招ばれている。俳優座も七月招待が今日来ていた。八月の納涼歌舞伎をどうしようかしらんと迷っている。所作事が多い。三部のどこか一つを観るならやすいが、三つとも観るとかなり割高につくわりに、少し出し物が軽い。顔ぶれにもいつもの勘三郎の抜けているのが大きい。思案中。
若い子を、たとえば孫娘なんぞ連れて行くには恰好なのだが、それもママならず。
2006 6・20 57

* 三百人劇場での、「億万長者夫人」は、バーナード・ショウの作に触れて福田恆存先生の創作された戯曲であり、演劇言語の見事さに聴き惚れた。
主演の一柳みるが、色気の美しさも生きる勢いも思索の真面目さも、演戯として確かに表現してくれていて、終幕への盛り上がりによく説得され、演劇の妙味を満喫させてもらった。文藝としての作劇と演劇としての人間葛藤とが分厚く綯いまぜられて、前後三部に表された総体が、彫刻的な人模様に構造化されていたのは、すばらしいお手本に接するかのようであった。
見終えて、劇場の外へ出て、わたしはもう一度観たいと思っていた。
千石から巣鴨へ歩いて戻る途中、版画化された古い更紗の額繪を見た。幾つか欲しいのがあったが売り物でなかった。池袋東武で妻と鮨をつまんでから、帰った。
2006 6・21 57

* 八月もあますところ一週間になり、月が変わるとまたどっと忙しくなる。
さっき大阪讀賣の米原さんから大阪城の薪能を観にいらっしゃい、関係者席を用意しておきますとお誘いがあった。パンフレットに原稿を頼まれていた。気のふさぎがちな日々と察しての招待で、ふっと夢を惹かれる。どうしようかなあ。
九月には歌舞伎座で「秀山祭」初代吉右衛門の追善興行がある。高麗屋・播磨屋兄弟の競演が昼夜楽しめる。また加藤剛主演の「コルチャック先生」が国立東京博物館で公演される。招待されている。気を晴らし晴らし元気に過ごしたい。
2006 8・24 59

* 大阪城薪能の一般招待券が四枚も来たが、日が重なって行けない。三百人劇場「昴」公演は「夏の夜の夢」の招待が来た。恆存先生の訳だし、ぜひ行きたい。府中での大きな「浅井忠」展の招待券も星野画廊から届いた。秋のラッシュである。機械での仕事もあり、机がないと出来ない仕事もあり、気色の悪いヤボ用もある。
大方はだが気の浮き立つお誘いばかりである。韓国の男性の代表的な声楽家の公演が、前にもあったが、今年も。主催者のお招きが届いている。
2006 9・4 60

* 加藤剛の企画らしい、『コルチャック先生』はすこし様変わりした演出で上演されるようだ、東博のどこをどう使うのだろう。活舌の美しい俳優の特質を生かす演出なのだろうと期待する。つかずはなれず、思えば久しいお馴染みだ。
2006 9・13 60

* 小雨の中を上野の博物館へ。
今日の俳優座公演の劇場は、博物館本館一階正面、階段裏の五号室。加藤剛を中心に、他は若手の劇団員で、いわゆる「お芝居」としてではなく、「コルチャック先生と子供達」の痛切な事蹟を、いわば「能」ほどの象徴味をいかした、佳い「話劇」に仕立てた。秀逸の行き届いた台本、そしてこまやかな美しい演出で、一時間半の「時空」を感動で躍動させた。
加藤剛の企画であろう、彼ならではの実に適役、持ち味を素直に、生彩清潔にしみじみ盛り上げて、大成功といいたい。題材がすばらしく的確で、悲劇的で、しかも人を魂の奥深くから鼓舞してやまない。
甘く歌いあげすぎないかという批評もあるか知れないが、決して観念的な甘さではない。むしろ人間コルチャックの優しさがあくまで具体的に追究・表現され語られながら、加藤はじめ俳優達の動きは巧みに詩的で、能の舞台をすら髣髴させて象徴的であり、事実の持つ苛酷な無残さと、表現の詩的な洗練とがアマルガム(合金)の妙味で、堅固な主張や批評や訴えかけとして、実にうまく結びついていた。
コルチャックは、ナチスの手によりゲットーに押し込められた不幸な大勢の子供達と終始寝食をともにし、なにひとつ救いの希望ももてない無残な子供達の最期に、一抹の安心を与えようと、率先自身をナチスの惨殺の場へ投じて行く。
コルチャック自身は、最期の最後にナチスによる赦免と救命の措置がとられていた。それにもかかわらず、彼はこどもたちの安心のため、また彼等のひたむきな根の身内願望にも決然こたえて、みずから子供達の先頭を切って惨殺の場へ歩をはこんだ、究極の絶対の真の「コルチャック先生」なのであった。
それだけを言えば、加藤剛がこの題材をとりあげた意図は十分理解できるし、共感できるが、へんに安い物語劇にしないで、一種の能に似た象徴的手法でこの世紀の悲劇を一貫して語り聴かせたこと、その手法というか意図というか意志・意欲というか、が、みごとな成果を上げたのだから、私は、立ち上がってでも、久しい信愛の「剛さん」を拍手で称えたかった。
元気に若々しく、気迫と優しさとで毫末のゆるみもない舞台を引き締めた彼の統率力にも感銘を受けた。
また若い俳優達、加藤剛の子息もふくめて、真剣にひたむきに場面と役わりとを、がさつかず演じ尽くしてくれたのも、それはそれは気持ちよく、嬉しかった。
俳優座がこういう企画で気を吐いてくれてこそ、演劇の現代が引き締まる。安物のテレビドラマの舞台化みたいな新劇の通俗路線には、期待を掛ける気がしない。題材の問題ではない。時代へ向き合う真摯な姿勢の問題である。
2006 9・13 60

* 十月大歌舞伎の通し座席がとれた。若い団十郎と仁左衛門とを長老格の幸四郎と芝翫とが左右から支えて、海老蔵、菊之助などの若い花形が出揃ってくる。まだ霜月顔見世の報が這い入らないけれど、十月は堂々と豪華だ、出し物も佳い。俳優座も俳優座稽古場も劇団昴公演もある。
2006 9・16 60

* 来年二月の松たか子主演のジャンヌ・ダルク舞台を予約した。
十一月の歌舞伎座は出演者に縁がなかったが、昨日たまたま高麗屋の番頭さんと松嶋屋仁左衛門の番頭さんとがならんで受付にいたので、高麗屋に仲介して貰い、昼の部だけを頼んだ。松嶋屋は、我当の同級生で弥栄中学などと分かってみるといっぺんに、笑顔。
これで今年も東京の顔見世興行が観られる。『伽羅先代萩』の通しで申し分ない大歌舞伎。それに三津五郎がひとりでたっぷり踊ってくれる。嬉しいこと。
夜の部をやめたのは演目から。『河内山』も『良弁杉』ももう一つなので。明るい内に街へ出て、映画ぐらいもう一つ観て帰る手もある。

* 明日は新宿で俳優座公演のあとが、気の重い打ち合わせ会議。ま、仕方あるめい。  2006 10・11 61

* 今日は新宿で二つの用事。明日は糖尿の定期診察なので、今日は飲食を慎まねば。

* 紀伊国屋ホールでの俳優座公演『罪と罰』を観てきた。脚色は難しいとは思うが、おそらく脚色台本を「目読」しているほうが遙かにコトもよく分かり面白いだろうと思う。わたしは原作を三度以上読んでいるし、ソ連作家同盟に日本作家として招待されたときは、ラスコーリニコフや殺された金貸しの婆さんのいたという部屋まで、関連の場所をあちこち案内されもしたから物語も臨場感も人よりくわしく知っているとはいえ、今日の舞台では、演じられている芝居の下だか蔭だかに台本があると言うより、演技者や効果音や装置を利して「台本」をいちいちこまぎれに「説明」して貰っているような舞台に感じた。終始一貫体温の上がらない、煮えない舞台だった。
台本を読めばそれなりに内容を感じさせるのだろうが、渾然として動的な流れに盛り上がりのあるお芝居でなかった。要するに面白くなりきれないまま終えてしまった。俳優達のアンサンブルもいまいちだった。
妻の隣に老御大の浜田寅雄さんが、妻の真後ろに加藤剛さんがいた。帰り際、剛さん夫妻に先日の東博での『コルチャック先生』の素晴らしかったのを褒め、二人の健康を祝してきた。久々に親しく口をききあう機会があって、それが、今日の収穫。

* そのあとの用事は、要するに、ヤボ用そのもの。
2006 10・12 61

* 「夏の夜の夢」はおもしろくつくられたシェイクスピア人気の舞台だけれど、原作のふまえた「夏至」前夜の民俗などに、日本人は没交渉であり、その一点からも原作の妙味を汲むことは容易でない。粗筋を追うばかりになり、またそれでは日本の今日只今を利発に刺戟する何ものも殆ど無い。これはもうハナから覚悟して掛かるしかなく、その覚悟で観る分にはけっこう面白い筋書きを孕んでいる。
演出の妙味と福田先生の訳とにすっかりよりかかって観てきた。十二月には名作「八月の鯨」を再演してくれるらしい。わたしの七十一の誕生日ぐらいに観られればいいが。

* 巣鴨へもどるつもりが逆向きに三田線に乗ったので日比谷でおり、「きく川」で鰻を食ってきた。ツヴァイクの『メリー・スチュアート』と小沢昭一さんの珍奇絶倫『小沢大写真館』を、仲良く半分ずつ読みながら行き、読みながら帰ってきた。どっちもおもしろい。
2006 10・25 61

* 明日、渋谷の大きなホテルでの花柳春の会に招かれている。息子に、一緒に眼鏡を新調し、(建日子が両親に奢ると言っている)、あと一緒に食事の予定であったが、日延べしてもらい、踊りの方へ妻と出向くことにした。
いつかの正月、テレビで「細雪 松の段」を舞ってくれた人である。会にはもう一度二度招かれたことがある。肌寒い日々に、なぜともなくはなやかに姿優しい花柳春にあいたくなった。
さらに翌日には電メ研。専門家を招いて、例のホームページ全削除事件にかかわる問題点などを聞くことになる。珍しく夕刻以降の会になる。その次の日に息子と逢う。それからは湖の本の発送がおおごとで、これが無事に済んでくれないと落ち着かないが、師走は師走でいろいろ、ある。第三回目の「調停」もある。
2006 11・27 62

* 理事会で何度か発言したが、さしたることではない。
理事会の始まる前に三好徹氏から、例の文化庁から金をもらう件は「秦さんの正論が通ったよ、御破算になったそうだ」と聞いた。事実ならいいことだ。
そうそう、会費滞納者の問題が今月もリスト付きで出て、推薦者は責任上声を掛けて欲しいという。声を掛けてもいいが、推薦するときにその人の「仕事」は評価するが、財布の中身まで保証できるワケではない、いちいち推薦者にプレッシャーを掛けるなと文句を言った。会費は大事だけれど、その一方、伊藤整のように文士の集まりで会員の会費会費と言い出しちゃ、文学もおしまいだよと放言していた至言が、わたしの耳にある。経理上のことは経理がきびきびとかげでやってくれればいい、理事会の問題ではないだろうとも。
ついでに、来年は会長選挙の年だが、少しは選出方法に大枠が決まっていても佳いのではないかと、持論を持ち出しておく。なぜ会員の全員が会長選出に或る程度関われないのかわたしには理解できない。会員意向を参照するのは必要で且つ簡単にできることだ。理事投票にさいして、会長にと思う一人にだけは「◎」をつければ済む。それは飽くまで理事会の「参照意見」とうけとめればいいのではないか。

* 「ペンの日」なぜか人数も少なく熱気がなかった。わたしに熱気がなかったのかも知れない。失礼しようかと思っているうち、つかまってしまい、会場の入り口で例年のように理事がならんで会員を歓迎した。なんだか、意味不明の慣習だが。今年はNHKの基のアナウンサーが川端康成の掌小説を二編朗読した。一編で足りた。
わたしは一階の喫茶室へおり、ひとりでサンドイツチとコーヒー。会場へ戻ったら、辻井喬氏の乾杯挨拶、これが近来になく佳い挨拶だった。日本ペンクラブを「反体制」という声を聞くこともある、が、そんな声の出るときは、日本ペンクラブがおかしいのでなく日本国また日本国政府がおかしいのですという辻井氏の断定は、胸に届いた。同感だ。

* 文藝家協会から来ていた事務局伊藤女史と、没後著作権「七十年」問題で、宴会場でそうとう熱い議論をした。折り合えなかった。
福引ではやばや湯布院や別府のラーメンが当たってしまい、すぐ会場からおさらばし、東京會舘からタクシーで帝国ホテルに移動、クラブでうまいコニャック、また痛烈なウイスキーを呑む、マスターにサーモンをきってもらい、そしてエスカルゴ。酒好し魚好し。千夜一夜物語を文庫本で読み進めた。今夜は客が大勢、わたしのように一人でゆっくり食事している人はいない、みな数人連れの懇談会で。
バニラのアイスクリームとコーヒーとで仕上げ、やはり『千夜一夜物語』を読みながら帰った。
2006 11・27 62

* 天気はわるく少し冷えるかも知れないが、出掛ける。昨日に続き、今日、明日、明後日と外出がつづく。四日とも夜分へかけてというのも珍しいが、まだ十一月のうち。「秋」感覚でいいだろう。昨日は有楽町・日比谷。今日は渋谷。明日は日本橋の委員会。明後日は恵比寿へ息子に誘われている。
今し方までずっとペンで字を書いていて、少し肩凝り気味。

* 渋谷のセルリアンホテル能楽堂で、金田中の酒肴がまずふるまわれて、六時半、花柳春の「鐘の岬」を観た。荻江寿友が自ら出て謡った。能楽堂は清潔に座席もゆったりと、居心地は満点。松羽目の松がすこししつこい色なのが惜しい。妻はとびきりお洒落していたので、能楽堂の中で人の少ない内に写真をとった。
しかし、いまどき、いくら「金田中」の酒肴つきといえ、三十分の「鐘の岬」だけで七千円支払って観てくれる客は少なかろう。かといって我々のように招待して特等席を与えていて大丈夫なのかなあと、よそながら俗なことを心配した。入れ替え制で第二部では吉井勇詞の「松風」を舞うらしかった。
花柳春は上品な美人で、姿は満点。舞いとして踊りとして、切れ味で見せる藝質ではなく、おっとりと素人っぽく美しく。受付で西川翆扇が迎えてくれた。二人とも細雪「松の段」を何度も舞ってくれている。

* 駅前のビルの高いところ、ロシア料理の「ロゴスキー」で妻と晩餐。懐かしい店だ。東京へ出て来て間もない頃、一度二度線路脇にあった「ロゴスキー」店で食べているが、店が別になり、表へ出て来た。このビルに入ってからも一度二度。千葉俊二と呑んで喰ったこともある。黒ビール、ウオツカ。美味かった。コース料理もこのところでは目先かわって、ボルシチも壺料理も、なにもかも、パン以外はデザートや紅茶までみな美味かった。お土産にボルシチを二パック買って、少し汗ばむぐらい満腹して保谷へ帰った。
2006 11・28 62

* なんとも気が沈滞している、わたし自身は体力問題なく思われるが、妻が、風邪か胃腸か、元気がない。我が家は夫婦二人と黒いマゴの暮らしだから、ひとりでも調子が落ちると沈滞する。あさってには新しい本が届くのに、発送用意が滞っている。今日明日にそこそこ行き届いていないと混乱してしまう。気の晴れることがない。
七日の俳優座稽古場が「野火」そして二度目の仮縫い。十日の国立劇場は幸四郎の大石内蔵助で真山忠臣蔵。吉右衛門の十月、藤十郎の十一月も見逃した。師走の討ち入りで今年の厄を落としたいが。
2006 12・3 63

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