ぜんぶ秦恒平文学の話

美術 2006年

 

* 冬の乾燥が呼吸器を侵す。

* 改めて福盛君の自画像に見入った。背景の色彩が効果的に美しく、シャツの色とのコントラストも大胆に嵌っている。質感ある帽子の柔らかさも佳い。いずれにしてもこれらは自画像の二次要因であり、肝腎の顔が、眼がしっかり把握されていて感心している。ただこれだけのまさに上半身の自画像で、構図にも何の衒いも作為もない。しかしこの繪が、そこそこの大きさに描かれていて展覧会場に出ていれば、わたしは一票を投ずるだろう。

*『お父さん、繪を描いてください』の下巻末尾にあらわれる、作中の「山名君」があり合わせボールペンでほぼ一、二分で描いた顔、わたしの顔の繪も、本が間近にある人は見て欲しい。
福盛君によれば、「山名君」が新制中学のむかし、華やかに新聞紙上に声名をあげた「八坂神社拝殿図」は、中学の図画のクラブでの課題作であったとか。朧ろな記憶にあるが、当時の同窓性では他に桑山嘉三君、小山光一君がやはり繪の上手であり、桑山君は今でも繪を描いている。小山君は惜しいことに消息がない。
福盛君の証言によれば、それでもあの「山名君」の力量はあまりなまでに抜群であったという。
福盛君また「お父さん、繪を描いてください」と言われて奥さんをうしなわれたという。奥さんもやはり中学の同期で、面影に記憶がある。あの小説の題は『自画像』であってもよかったのだが、『お父さん、繪を描いてください』も捨てがたい好題であった。かなり頑固な「つくり」を押し通して書いたが、もの創りの苦しい厳しい内景外形を描いた、ザラにはない長編であったと思っている。「山名君」との再会に、また切ない別れに今も感慨深い。

* 美ヶ原では、「あけぼの」を六、七の写真に撮ったのが、さながら氷の床に膝をつくほど痛い寒さであったけれど、まさに高山の頂上に在る思いで、胸にのこった。新年、「春曙」の揺曳であった。下界でみた「あけぼの」は、やはり京都。寝たる姿の東山を染めて曙光きざすのを、鴨川べりの宿で寝もやらで見入った。咲く花の匂うように美しかった。
2006 1・11 52

* 朝食は抜き、九時過ぎ、地下鉄を使って市役所前、寺町御池の「中信画廊」へ。
今季三人の日本画、陶藝、漆藝受賞者美術展のオープニング・テープカット。梅原猛、石本正、清水九兵衛、三浦景生、そして私、の各選者列席。ま、例によって大層な祝電だのの披露される、率直にいえばかなり形式的にものものしい儀式であった。
集まっている殆ど全員は動員された中信の社員たち。選者をのぞく他の美術関係者は数人。これは、今少し主催者側が趣向をもって工夫した方がいいと思うのだが、スポンサーからすると、そうまでする必要も意義も無いのかも知れない。
美術展には、私をのぞく四選者が賛助参加作品を出している。石本さんは例の半裸婦。九兵衛さんは造形作品、三浦さんは染色の屏風。そして梅原さんは「花鳥風月」みたいな字を書き三浦さんに装飾してもらっている。
肝腎の受賞者作品だが、わたしは、吉川弘氏の日本画八点を面白く観て、氏とすこし踏み込んで「線と色と」について話し合った。
陶藝と漆藝には感心しなかった。藝術にはどんな材質どんな造形の場合にも飛翔する魂のよろこびがあり、それがファシネーションであろうが、今日観てきた陶「藝」にも漆「藝」にも本質的なそのかろやかさと美しさが不足していた。

* 今回の京都行きはこれだけのお役目であったし、明日には俳優座公演が控えているので、一度荷物を置いたままのホテルの部屋にもどり、例の耐震偽装問題での国会参考人聴取中継をほんの少し聴いていたけれど、すぐ京都駅へ。そして晴れやかな東海道新幹線の空を眺めたりしながら、帰ってきた。
保谷駅ではたいへんな強風だったが、さいわいすぐタクシーに乗れた。

* 今年初めての粕汁が炊かれていて、家の夕食で心落ち着いた。今日聖路加へ行ってきた妻ののど風邪は軽快してきている。新幹線でも駅でもどこでも風邪・咳。くしゃみの人がまぢかに多く、ひやひやした。
2006 1・19 52

* ベルリンのボーデ美術館所蔵の眩暈のしそうな逸品を次々にテレビで見ていて、時を忘れた。デューラーにあんな名作があったか、レンブラントのまあすばらしいこと、……。佳い物は、佳いのである、リクツではない。
2006 1・23 52

* 須田国太郎展   藤
秦様  日陰の雪も殆ど消えたようです。我が家は一同風邪とは縁がなく元気に、夫はスキーを楽しんでおります。
先程、秦さんのHPを拝見して須田国太郎展の話が出てきて、その前に見た同展の感動が急に蘇りました。
京都展はお人が少なかったようですが、東京展は直前にNHKで放送したからかもしれませんが、平日午前中にもかかわらず適当な数の観客で、それも初老の紳士(つまり私と同年輩くらいの男性)が大半だったのが印象的。
日本の絵画の伝統や、京都の風土と西洋の知性が、なんとも心地よく解け合っていて、須田画伯ご自身は最後まで「これでよい」と満足はしてはおられなかったと解説にはありましたが、私が明確にはわからぬままに求めていたものが、そこに具現されていて、嬉しかったです。
須田さんとか須田先生と私の絵の師は呼んで居られましたが、こどもの私にはそのお考えや苦悩はわからず、ただ独特の色調だけはしっかりと焼きつけられていて、いつも竹橋の近代美術館常設展でその色に出会えるのが楽しみでした。そして須田先生というと何故かピンクのダチョウが目に浮かぶ謎も今回解けました。「走鳥」というその作品に再会したのです。
初めてヨーロッパへ行き彼の地の景色、建物、人々を見たとき、西洋絵画・油絵がその中から生まれ育ったことを強烈に感じました。日本人の京都育ちの自分が油絵を描くこと自体に、無理があるのではないか、もし自分が呑気な旅人としてでなく、絵の勉強に来ていたとしたら、ショックを受けて絵が描けなくなるのではないか—と思いました。
最近また絵を描き始めて、いまだにその思いはどこかにあってグジグジとしていたのですが、須田先生の作品に接して、ああそうか今の自分のままで油絵を描いて良いのだとすっきりと納得できて、晴れ晴れと、工藝館から北の丸公園を抜けて家路につくことが出来たのでした。
明日から2月、どうかお身お大切にお過ごし下さいませ。   2006/1/31

* 須田さんの繪は、なまやさしいものでない。無駄な抵抗なくその深い深い色彩の魅惑にすなおに吸い取られたほうがいいと想ってきた。色彩も華麗なのではない。地軸からしみ出てきた地球の体液のように濃い。そして原形が原料の豊かさで掴まれている。
2006 1・31 52

* 平成館の「書の至宝」展 なんと一時間待ちと。
驚嘆して退散するしかあるまい。しかし本館は空いていて、佳いものが揃っている。
西洋美術館はロダンとカリエール。素晴らしい好天で、日なかは温かいが、じつはひどい冷え込み。
上野の夕暮れもだいぶ日が長くなり、鈴本を通り越して横丁の「壽々亭」の天麩羅がうまかった。蕗の薹のほのかな苦みが佳い春だった。この店が気に入っている。
2006 2・9 53

* 額縁を手に入れれば、そのまま飾れるみごとにデザインされた咲く梅の木を染め抜いた「てぬぐい」を頂いた。
歌舞伎座の売店に額縁がある。あれがあれば、このあいだ菊之助の舞台から撒いてくれた『二人娘道成寺』のてぬぐいも飾れる。飾りてぬぐいは溜まっている。その中でもこの「梅樹」染めは美しい。
2006 2・28 53

* 入浴。十一時前にチェックアウトしてしまい、荷物だけ預けて、さてアテはなかったが、二時からの会議を念頭に、タクシーで岡崎の近代美術館へ。ドイツ表現主義彫刻の偉才エルネスト・バルラハを観た。まちがいない異彩の偉才で、彫刻作品の一つ一つが説得力豊かな抜群の彫技・表現、一つ一つの題がおもわず唸らせる。「笑う老女」は噴き上げるように笑っているし、「戦士」は果敢に刀を抜いて吶喊しているし、「縛られた魔女」はまさしく魔女。寂しいとあれば凍えそうに寂しく、歌う男は歌い、物乞いの男女は明らかに物乞いをしている。神様までが揺らいでいた。
説明的にではない。表現は男性的に大らかに毅く、マッスの魅力を活かしたまま大きく、鈍重でなく、目を瞠る生彩ある姿態の躍動を彫刻している。時代を超えたほんものの彫刻の魅力で、わたしは、今朝、途方なく儲けものをした。あ、これで午前は満たされたと思った。
外へ出ると真澄の青空に平安神宮の大鳥居が眼のさめる美しい赤に振り仰がれ、愉快だった。
神宮広道の西側をあるいているうち、星野画廊の真向かい、サキゾーという縮緬をおもに扱う店先に、もっぱら墨をつかってはんなりと模様を描いた、決してうるさくないヴラウスを見つけたので、入って買った。これからの外出にうまく着こなせばお洒落が楽しめるだろう。
青蓮院まえの路地の奧にロッジふうのテラスレストランが素朴に店を開けていた。入って、グラスワインで、味付けの風変わりなビーフシチューで昼飯にした。パンもサラダもおいしかった。こんなとこにこんな変わった店が出来てたかと物珍しくもあった。
青蓮院の大楠をデジカメにおさめ、足任せに歩いて、結局白川の石橋うえから浅翠もはなやいだ柳並木と比叡山をみまもってきた。そのまま新門前の鐵斎堂で繪を観て、菱岩のわきの切り通しからまた白川へ出、吉井勇の歌に敬意を表し、縄手の「梅の井」主人三好くんとしばらく話したあと、歩き疲れたので車で、会議場のあるビルへ向かった。

* 梅原猛、石本正、清水九兵衛、三浦景生氏、新しく内山武夫氏が加わって、これで二十年目の京都美術文化賞の受賞者三人を選考した。日本画、彫刻、そして造形とでもいう三部門から選んだ。女性一人。
書の人が二人候補になっていたが、わたしは、書の審査はムリだ、書と建築とは、やはりこれまで通り審査対象からは外したいと発言し、全員の同意があった。審査を終えてから、珍しく、何とはなしに談笑の時間があった。
一時間半はやく、新幹線の時間をきりあげて、七時には帰宅。
櫻はほとんど観られなかったけれど、花粉の害もなく、天気にも恵まれて気持ちのいい、ノンビリとした佳い京都だった。やはり春になると、この「選考」にだけは、やや緊張して出かける。恙なく終えて、よかった。
2006 3・24 54

* 芝居はねて、まっすぐ渋谷から地下鉄で日本橋高島屋へ。六階の画廊で「石本正展」の初日。裸婦を中心に花もすこし。さすがに天才画家の力作揃いで、しかもみな新作、それもこの一年間で描いた新作と謂うから、驚嘆。なやましい姿態の裸婦たちに、イヤに思わせぶり文学的な題の付いているのがスケベイ爺さんらしいが、繪はきりりとしまり、足腰のまがった老画家の創作とは思われない、エロスの昇華。すべて、線のもつ確かな毅さと清さでモチーフが確保され、微塵のムダもバカな遊びもない。女達の肉は、ししぶとに豊かに弾み、締まり、美しい。しかもあやうく情欲をそそりかねない描写力の深さ。脱帽。
会場で、旧知のブリジストン美術館長富山秀男さんに久しぶりに声かけられ、むろん石本さんにもお祝いを申して、満たされた心地で会場を出た。
上野広小路まで地下鉄に乗り継ぎ、風月堂で軽く夕食をさきにとり、やがて黄昏色の濃さまさる上野の山へ、連ね連ねた紅灯に誘われながら、うち重ねうち重ね満開の櫻匂う木の下を、妻と、さまよい登っていった。もうすっかりの夜桜が紅を含んで、低い雲のように波打ってどこまでも続いた。
繪にも花にも満足して、上野駅から一路保谷へ帰ってきた。つよい風のかなり冷たい三月末であった。
2006 3・29 54

* 上野はいま美術展の花盛りで、ことに西洋美術館のロダンとカリエール展、東博平成館の天台の至宝展、都美のプラド展が三つどもえにしのぎを削り、とても一度には観きれない。わたしに入りやすいのはロダンとカリエールで、この組み合わせはコロンブスの卵のように、実現してみればもっとも至極な、世界でも初の試み。この美術館には「すいれん」という落ち着いて晴れやかなレストランもあり、レストランにはわるいが腰を据えて校正もしやすい。
今日はいいお天気で心地よかった。

* 銀座美術館で京都の玉村咏さんが出て来て染めの着物の展覧会を昨日から。
京の高瀬川ぞいの「すぎ」で出逢い、雑誌「美術京都」で対談もした気鋭の染色家、染めの技術はすばらしいものを持っている上に、着物に関して独特の眼も。正直の所、わたしは染色美にも、つい繪として向き合ってしまうヘキかあるが、この人、若いがなかなかの実力とみている。
銀座美術館のちかくに京の田舎料理と看板を出した店を見つけた。風情の店内で。いい米の、炊きたての白飯を喰わせて、これが美味い。気に入った。

* 帝劇モールの「香美屋」にも貸し切りのようにして座りこんだ。
2006 4・26 55

* 第十九回京都美術文化賞は、日本画、彫刻、ファイバーアートの三人に授賞した。梅原さんの選評は、日本画に偏って絶賛したが、若い受賞者には、「ほめ殺し」になるのを少し私は恐れた。また受賞者の挨拶もそれを受けて上気したような按配であった。後刻、高島屋の「NEXT展」で、たまたま話題の密林の象群を描いた実大作もみてみたが、絵画からの感動は感じなかった。若き日の村上華岳が描いていた、画面一杯の「坐牛」をみた迫力や感銘には遠く及んでなくて、残念だった。写真を利用していないかというのも気になった。写生の生動が汲み取りにくく、大画面がなんとなく装飾的に按配されていて、その必然味も感じ取れなかった。ま、たまたまの一点でものを言うのは気の毒だが、授賞に値したと思っているけれども、やたら若者を絶賛し、作者をわるく躓かせたくない気がする。
「NEXT展」は遠い以前の「横の会」のつづきのようなものだが、三十人ぐらいの作品のなかで、まずまずと思えたのが五人もない、いたく失望。気にしていた堀泰明の繪が「玉三郎」を描いているのだが、通俗で、美しくも品位もなく、玉三郎の舞台をしげしげといつも嬉しく見ている者の眼には、何一つ画家の手柄が画面に光っていないのにガッカリした。玉三郎が時間を掛けてモデルに立ったとは思われない、とすると写真を描いたか。実否は知らないけれども玉三郎の「た」の字も描けていない。愚俗であった。
美しい線を描けている佳作もなかにはあったけれど、気負っているわりに、この会もつまらないことをやっている。竹内浩一君や中野繁之君など参加もしていない。

* 選者仲間の石本正さんや清水九兵衛さんと話せるのが、なにより刺激的にありがたいパーティだった。
石本さんの秘話には、時にドキッとするいいものがある。梅原龍三郎にプライベートな何か思いあまった衝動から、すすんで裸像を描いてもらった某有名女優が、そのとき梅原画伯から記念にもらった立派な翡翠の身装品を、梅原さんの亡くなったあと、私すべきでないと遺族に返したという話など、石本さんの話し方もあるが、佳話であった。
九兵衛さんは、彫刻の仕事にピリオドをうち、陶藝に専念しますよと。熱心に茶碗を創っている、秦さんにあげたいが酷評されるからなあと。酷評は藝術家の妙薬じゃないですかと笑うと、そりゃそうだと大笑い。そのうち戴けるだろう、前にも戴いている。
2006 6・2 57

* お忙しくお過ごしのこととぞんじます。日水展 昨日はじめて行ってきました。
やはり思ったより良くなかったでした。 窮屈な感じ。のびのびしたところがなく。
マットをもうすこし大きくいれるべきでした。部屋は9室で入ったすぐでした。
それでわざわざ見ていただくのは申し訳ないきもちで一杯でございますので、どうぞ無視なさってくださいませ。むしろ油絵のほうがましだったかもと自己批判しております。   郁

* 創作者が自信をもって公表したのですから、堂々としている方が自然ですよ。へんにイジイジと尻込みしていると、少し情けないか、少しイヤミになります。おおらかに、シャンとして毀誉褒貶には素直であればそれでいいのではありませんか。
ただ、あの写真で見た限り、わたしも成功作とはみませんでした。
かんじんの花が繪の真ん中で生き生きと存在を主張し得ていなかった。繪の何処に中心があるのか、何を観て欲しくて、他のあれこれが、どう、繪の中心・眼目のために効果的に働いているのかが、さっぱり分からない繪だと感じました。なんだか画面一杯にたくさん・いろいろ描かれているけれど、結局はそれらが寄ってたかって繪の中心を狭く貧しくしている感じでした。
花の描き方も粗末で、魅力ある美しい繪には成ってないなと残念無念でした、但し写真を見ての咄嗟の感想ですから、アテにはならない。
つまり相変わらず、モチーフがどうしたの、その配置がどうのと、「技術的」「構成的」に繪を造っているのでは。画家のふきあげるような美への献身や感動や批評の乏しい画面になっていますが、優れた繪にはやはり作者自身の感動があり、その強さが、観るわたしたちをも感動で動かすのですよ。
しかし、それにしても、泣き言はいけません。公表しておいて泣き言を言うのは、なまじな言い訳よりも卑怯になります。
土曜に京都から帰り、今日は家内と歯医者に行き、堀切菖蒲園と柴又帝釈天にも行ってきました。
それよりも、例の「盗作」問題についてあなたの理解を、ぜひ聴かせて下さい。  湖
2006 6・5 57

* 宗達の屏風に風神雷神図がある。光琳にもある。二人の近縁からしても、偶然一致の図柄ではあるまい。光琳は宗達を「盗作」したか。したとも言える。「模写」したともいえるが、そう忠実な模写ではない。むしろ彫刻と絵画というジャンルのちがいはあるが、三十三間堂本堂裏のながい通路に、夥しい彫刻群がならび、その中の風神雷神は、宗達の繪と、どちらかが「模写」ないし「盗作」したと思われるほどよく似ている。
黄不動と呼ばれる国宝画には、不動が空中に立っているのと岩座に立っているのとあり、不動像だけでいえば、寸分違わない。どちらかがどちらかの「模写」ないし「盗作」である。だがだれもせいぜい「模写」かとは言うても「盗作」とは言わない。そんな概念がなかった。
和田義彦氏の場合は、「盗作」である、素人なら百人が百人そう言い切り、わたしでも言う。
しかしながら美学的には問題が無くもない。「構図」というのが、絵画作品においてどの程度絶対であるかという問いかけは、少なくも学問的には有効である。結論がどう出ようとも、である。
真似られた画家によっては、構図ぐらい呉れてやるが、あの色遣い、あの線の引き方を盗まれては叶わないという秘儀が有るのではないか。そういう画家もいるのではないか。「構図」なんてモノは素人の領分だが、玄人にはもう少し別の秘密があると、じつは、素人にわるくちを言われる玄人は、やせ我慢か傲慢か知れないが、たいてい似たような言い訳をして「素人にはわかるか」と嘯いてきた。わたしのような素人の口の悪いのは、そういう言い訳を何度も聞かされている。ああそうですか、そこへ逃げるわけですかと何度も思ってきた。

* 和田氏の件ですが、あのニュースを聞きました瞬間驚き、あきれ果てました。あの国画会の幹部のあの方が、と。
一枚とは言わず何枚も何枚も酷似の作品が出てくるとは大きな衝撃でした。力のない私などでさえ、必死になってモチーフを見つけ、そしてそれをどう表現すればいいかと、いつもいつも悩んでおりますのに。
他人の絵を全くそっくりに描いて、どうしてそれが絵画なのでしょうか?
まじめに向かい合って入選 落選を繰り返している創作者の心をふみにじるどころか、落胆の底につきおとされたような衝撃! よーくこれで、ながーイ年月通用してきたものだと。又、文化庁の大きな賞をまんまと貰われたのかと。お役人のかたもなにをなさってこられたのかと、憤りの他ありません。藝芸術など存在しない、通用しない世の中になってしまったのか? やり切れない気持ちで一杯です。
そしてご本人の、盗作ではありませんと言い切る あつかましさ 神経のなさ! こんなかたが美術界を支配しておられたのかと。そう思うだけで公募展を含め、美術展の行く末のさびしさ! むなしさ! を感じ入ってしまいます。 今すこしで創作意欲を失うような事件ではないかと私はおもいました。
恒平先生の和田画伯へのご意見には、私は賛同することができません。ああいう見方もあるのかと? 驚きでもありました。自信の持てない創作者のつぶやきなのでしょうか?
つたないメールではございますが私の率直な意見です。ごきげんよろしく。 郁

* 例の盗作について、和田氏がどのように語っても「盗作」と世間はみなすでしょう。どのように彼のオリジナルなものが加えられているとされても、構図の、ものの形の、あれほどに同じは、駄目です。アマチュアでも恥ずかしい。今、藤田嗣治をみたところですが、他の画家の影響も感じられますが、盗作とは違います。  鳶

* あと、自分で繪の描ける親しい人は「藤」さん。どんな言葉が用意されているだろう。いちばん聞きたいのは「お父さん」画伯、そうそう、奈良にも繪の確かな旧友がもう一人いた。しまった、橋田先生にも聞いてくればよかった。

* 鳶は、「世間はみなす」と書いている。「世間」の一人として当然わたしもそう見なしている。ただ「恒平先生」は、いますこしべつの観点、「世間」ではなく「プロの言い訳」に注意を向けていたのだが。
郁さんはプロだし、鳶はセミプロである。しかし二人とも「世間」なみにものを言っている。むろんそれでいいけれど、もうすこし、ほほうという見方もあれば聴きたかった。
「私などでさえ必死になってモチーフを見つけ、そしてそれをどう表現すればいいかと、いつもいつも悩んでおりますのに。」
この郁さんの絵画制作姿勢に、わたしなど、やはりそれだけでいいのかなと、物足りない思いもする。「モチーフ」といえば、私など文学の徒は、やむにやまれない人生や思想上の動機をいうのだが、画家の場合、それは何の花であるとか花瓶であるとか人形であるとか敷物であるとか林檎や葡萄であるとか、を意味しているらしい。それらを按配し、画面上に構成して、線や色で描いて行くのが絵画であるらしい。
たしかにセザンヌの繪もマチスの繪もそのように描かれたかと見える。だが、それは画面上に「構成」されたのだろうか、リクツめくが「再構成」されたのではないか。この差はかなりの距離差でも深度差でもあろう。
安井曾太郎のバラは、バラというモチーフを「構成」した繪ではなく、モチーフをさらに「再構成」したからあんな藝術になりえているのではあるまいか。セザンヌもマチスもそうなのではあるまいか。モチーフの「構成」なら「構図」でたちどまる。「再構成」なら「構図」を超える。超えてしまわれれば「構図」なんてたいした問題ではないと、あの画伯は「プロの言い訳」をしているのであろうと、わたしは聴いた。但し「世間」はそんな言い訳を聴く耳というか眼というか、持ちあわせないし、実は持つ必要がないのである。だから、「プロの言い訳」は所詮「世間」には通用するわけが無くなる。和田氏の言い訳は「盗人たけだけしい」と聞かれるだけで、同じプロならかすかにも理解できるだろうが、それは世渡りにはヤバイ話でしかない。黙っているか世間に賛同する方が無難で「正しい」ということになる。わたしの観測である。
2006 6・9 57

* 金澤の細川画伯と先夜ながなが電話で話したあとへ、今日長い手紙と何枚か最近の画蹟を、丁寧な写真に撮って送ってきてくれた。眼をうばう、みごとな風景画、そして花の繪。嬉しい。よく描いた。さすがである。原画を一枚でいい、買いたくなった。リヒアルト・シュトラウスの歌曲「FOUR LAST SONGS」をエリザベス・シュワルツコップの歌っているCDも贈ってくれた。このごろ、始終これに聴き惚れていると。感謝。
2006 6・12 57

* 先日来の和田画伯の件について、こういう友人の意見を耳にしました。
彼女はもともと和田氏の絵がとても好きで、いつかの画廊でみた絵など、買いたい欲しいと思ったほどで。しばらく考えたそうです。小さな花の絵で、本気で欲しかったそうです。
こんな事態になってとても残念、どうしてあんなに力のある画家が真似たりしたのか? イタリア人の絵よりもよほどすばらしいではありませんか? 引き込まれるような絵であり、けれどあれ以降は、どこへいっても外されていて、見ることが出来ない、残念残念 との意見です。 郁

* 金澤在住の「お父さん」も長い手紙をくれたが、これはもう手紙そのものが難しい。

* わたしにも、もう一つの意見がある。京都美術文化賞の候補にノミネートされてくる画家の中にも歴然と実在するが、スケッチしないで写真を無数に撮り、それをアレンジしている、ないしそっくりそのまま構図にしている例は、あれもいわば自然からの、又は写真からの「盗作」に準じはしないか。
わたしは、写真に頼ってスケッチしないで描く画家を、少なくも現在のところ、全く認めないでいる。もしこれを認めて、「依写真絵画」を容認するなら、人の構図をつかって人の原作より遙かに美しく仕上げる道も容認しなくてはならなくなり、盗作問題はややこしくなる。
海外へ旅して、スケッチのかわりに写真を撮りまくり、帰国してから写真を繪に置き換えているだけのプロの画家は、人数まで特定は出来ないが、かなりいることは画蹟が語っている。わたしは、依写真絵画の美術的な値打ちを、ほとんど認めていない、よほどの藝術的加工と変容の段階を経たモノは別にしても。
わたしが、和田氏を弁護はせず、しかも彼の弁明や実作がかかえているらしい美学的課題性に、まだ、いまも着目しているのには、「依写真絵画」のことが念頭にあるからである。
2006 6・13 57

* 幸い対談は三好閏三氏の積極的な協力もあって、予定し期待していたとおり、おもしろい対話が堪能できた。弥栄中学以来の同期同窓であり、心やすさもあり趣味も好みも考え方も近く、話題は多岐に亘っても混乱しなかった。その上三好氏は、茶道具の秘蔵品をいくつも持参して見せてくれた。
白隠さんと伝える鰻の繪賛一軸といい、瀬戸の肩衝茶入れといい、さらに東山三十六峯の三十六あるという茶杓のうち「円山」と銘のある大文字山の松で削ったど茶杓といい、目の法楽にあずかった。対談の中に、今日にちなんだ趣向の茶席一会の会記も、また茶事のための献立表も載せられるだろう。
美も美術も創る人だけの物でなく、むしろ享楽し堪能し愛好する人達のものである。楽しまれ用いられ活かされて美しい物が生きてくる。その典型的な実例を、この京の町衆のひとりからまちがいなく語って貰うことが出来、おお満足して、その脚で京都駅へ直行、予定より数十分早いのぞみで帰ってきた。よく寝たし、また『永遠の処女』も心長閑に嬉しく読み進んだ。
2006 7・5 58

* 昨日京都の星野画廊が送ってきた図録、「忘れられた画家シリーズ30」『没後78年増原宗一遺作展』「夭折したまぼろしの大正美人画家」は、正真正銘のすばらしい発掘で、眼を吸い取るほどの画境。岡本神草や甲斐莊楠音らを凌ぐ凄みを描いて、なまなかの美人画とはとても謂い得ない天才を輝かせている。秦テルオともどこかで魂の色を通わせているが、恥ずかしながら是ほどの画家の名前も作品もまったく知らなかった。鏑木清方門の師も一目置いたであろう画人で、ひと言で言えば、最も佳い意味で「凄い」し、人によれば「怕い」であろう。「春宵」「舞妓」「藤娘」「手鏡」「五月雨」「七夕」「夏の宵」「夕涼」「浴後」「両国のほとり」「落葉」「鷺娘」などとならぶと、尋常な美人画の題目であるが、一作一作はもっともすごみのある、鏡花や潤一郎の大正の作に通底する悪魔性も隠している。
「夏の宵」という二曲の屏風が凄い。この一冊しかない『宗一画集』のなかに黒白の図録として遺された「舞」「三の糸」「悪夢」ことに蛇をからませて立つ「伊賀の方」の二図や「誇」はその美しい凄さに肌に粟立つ心地でいながら、深い官能美は、やはり鏡花にも潤一郎にも共鳴する。こんな画家に出会うとは、ただもう、驚嘆。
こういう極めて貴重な掘り出しの仕事を、夫妻でつぎつぎにやって行く星野画廊の業績は、文化勲章ものである。これを京都で見てこなかったとは、痛嘆。

* この天才画家増原宗一の発掘に較べれば、偶々手に入れた「オール読物」五月号の「発掘! 藤沢周平幻の短篇」なんてものは、「無用の隠密」も「残照十五里ヶ原」もただの通俗読み物を半歩もでていない。手慣れた措辞に渋滞のないところは、他にも満載されているくだらない通俗小説のヘタなのに較べれば、三段も五段も優れているのだけれど、こと文藝としてみれば講釈の達者という以外のなにものでもない。これでも比較的藤沢周平は何作か見る機会があった方だが、おはなしの上手以上の感銘など雫も得られなかった。藤沢にしてしかり、「力作短編小説特集」など、どこが力作なのやら、まことにくだらない。「オール読物」に載っている作品は「つまらない」と言うのですかと、このまえ、自称エンターテイメントの、大家らしき人に顔色を変えて迫られたが、この号で見る限り、優れた作は優れた作ですよとすらも、ただ一作として言いがたかりしは、如何に。
2006 7・7 58

* このところ、なにげなく困憊したわたしを慰めてくれるものに、身のそばの、山種美術館のカレンダー七・八月分の繪写真、竹内栖鳳描く「緑池」といっても分からない、つまり水中からわずかにあたまだけだし、まさに蛙泳ぎしている蛙の繪である。
池らしいリアルな写生ではない、ただ濃淡の緑から黄色へのむらむむむら描きの水面下に、蛙はからだを沈めたまま、左脚は鋭く曲げ、右はながく伸ばして水の上へとがった横顔を覗かせている。画家の視線はほぼ右後ろにあり、蛙も池も静かで繪はじつに美しい。栖鳳の落款も朱印もにくらしいほど適所をしめて、それもまたとびきり美しい。
こういう繪の美しさに触れていると、華麗にして複雑な、賑やかな大作に近寄りたくなくなるからこわい。古池に蛙のとびこんだ水の音も吸い取られて、しなやかな蛙泳ぎの音もしない。静寂、また清寂。
2006 7・23 58

* 暫くぶりに夕方から新有楽町ビルの故清水九兵衛追悼展に出掛け、奥さん、ご子息八代目六兵衛さんにご挨拶してきた。京都でのご葬儀に弔辞を求められていたが、ちょうどやす香の永逝と時をともにしていたので失礼させて頂いた。ついこのあいだ、京都美術文化賞の授賞式や晩の嵯峨吉兆での理事会でもご一緒してあれこれお喋りを楽しみ合ってきたのに……、はかないお別れとなった。
会場は、さすがに文学系の人は一人も見かけなかった、そのまま失礼して久しぶりにクラブに行き、66年もののすこぶるうまいブランデーを、サーモンを切って貰って、たっぶり呑み、そのあとクラブの特製だという鰻重を頼んで食事にしながら、九大の今西教授にわざわざ送って頂いた、或る古典の、ながい研究論文を半分近く読んできた。
アイスクリームとコーヒーをゆっくりと。クラブは客が多かった。ホステスを二人も連れ込んでいる社用族もいた。
2006 8・25 59

* 土田麦僊は画家として最高に近い域にあったが、まだ鈴木松年の膝下にあり、松岳と号していた十七歳頃の「幽霊図」が、紳助の「お宝鑑定団」に登場し、喫驚。初見。驚嘆した。
2006 8・29 59

* 萩の、三輪壽雪の陶藝は魅力に溢れていた。わたしは、日頃、ぐいぐいやりたいときは、壽雪創る豪快で品位高い大盃で酒を呑んでいる。土味にぶあつに白雪が絡んだようで、器胎も凡でない。
萩焼がわたしは好きで、叔母から佳い茶碗を二枚相続している。蹴上の都ホテルで大きな茶会をしたとき、その萩の茶碗を贅沢な替え茶碗につかったのを懐かしく覚えている。床には、小堀宗中の月一字の軸をかけた。

* 久しぶりに、中華料理で、マオタイ、佳い紹興酒を楽しんできた。次の新刊のために用意した原稿を街で読んできた。

* 九月に、三鷹で、音楽=声楽の会のお誘いがあった。八月は、もう一日。不快なことの多い八月であったが、今日は久々に街に出て、ながく畳んでいた羽をひろげてきた。美しいものを見るのは楽しい。気稟の清質最も尊ぶべしと芭蕉は言う。
2006 8・30 59

* 明日は、聖路加。そして歯医者。観たい展覧会もいくつもある。その中でも、東工大の院を出て、就職して、さらに東京藝大への再入学を志し、三年目の試験にパスして油絵を目下勉強中の「叡」さんが、仲間と展覧会をひらいているので観て下さいと言ってきている。ぜひ行きたいが。
院展同人の松尾敏男さん伊藤ホウ耳さんから招待状が来ている。ぜひ観たいが。三輪壽雪の茶碗はもう一度も二度も観てみたいが。
しかしまたどうしても片づけねばならない原稿の仕事が、目の前に二つ、ある。クワッ!
2006 9・3 60

* 大阪城薪能の一般招待券が四枚も来たが、日が重なって行けない。三百人劇場「昴」公演は「夏の夜の夢」の招待が来た。恆存先生の訳だし、ぜひ行きたい。府中での大きな「浅井忠」展の招待券も星野画廊から届いた。秋のラッシュである。機械での仕事もあり、机がないと出来ない仕事もあり、気色の悪いヤボ用もある。
大方はだが気の浮き立つお誘いばかりである。韓国の男性の代表的な声楽家の公演が、前にもあったが、今年も。主催者のお招きが届いている。
2006 9・4 60

* つい郵便物を二三日でも放っておくと、何が何日に来ていたのか分からなくなり、整理に辟易する。「招待もの」が、そんなためについ不義理のタネになる。身辺が散らばってしまうのもいい気分でない。遠方の催しだとハナから諦めてその地方の読者に差し上げているが、なまじ東京や近辺だと、行きたいと思って、そのまま逸機する。日時の決まった観劇などは予定に入れてあるから良いが、美術展のように期間のあるものが、かえって油断して、ムダにしてしまう。美術展は、ヨコへヨコへ蟹歩きを強いられる、あれが疲れる。混雑していると、何を観ているのか分からない。府中の浅井忠、砧のルソー、藝大の日曜美術館三十年など、そうそう院展も、三輪壽雪も。だれか連れと約束してしまえば出掛けるのだが、ひとに強いて約束してもらう気も重いので。
つまりは機械の前でする仕事の量があまりに多いということ、こちらを制御しないといけない。
2006 9・13 60

* 上野にはいくらも観て帰りたい美術展はあったけれど、妻を疲れさせてはいけないので、博物館の一階常設展だけをひとめぐりした。
キリガネや彩色の美しく残った仏像の幾つかに引き寄せられた。
尾形光琳国宝の「八橋蒔絵硯箱」も、正宗や長船の太刀もまた精緻な刀装品も、そして高村光太郎の「老人の首」やラグーザのたぶん妻お玉をモデルにしたのだろう片方の乳房の美しいみごとな仕事着の「日本の女」像も、それぞれに、懐かしかった。
妻は、中宮寺から出ていた「紙造」という珍しい文殊菩薩像のお顔が、実母の面影に酷似していると懐かしがっていた。わたしはその隣の、泉涌寺から出ていた阿難像の、やや顔を本尊へ向けているらしいきりりとした容貌と美しいキリガネの残翳に、視線を奪われた。またあまりになにもかも美しすぎる観音立像に、かえって心騒ぐような思いもしてきた。
あれもこれも沢山沢山観たからといっても、仕方がない。胸に残る数点を身にしみて抱いて帰ってくればいいんだと、やはり思う。本館の二階へ行けば、佳い絵などたくさんあるのは分かっていても、あれで満足だった、やや明るんだまた小雨の本館前庭へ、傘をさして歩み出た。

* 思い立って、博物館の真前からタクシーにのり、根岸柳通りの、静かな、とっておきの良いレストランへ行き、空腹をフルコースで満たし、たっぷり注いでくれる赤ワインで楽しんできた。
2006 9・13 60

* ちょっと時間を掛けていた「美術京都・対談」の手入れ原稿を、いま事務局へ返送した。もともと対談や座談会より、わたしは一人で責任の持てる原稿書きや講演のほうが好きだ。おしゃべり言葉自体が冗漫で曖昧に成りやすい上に、踏み込んだ中身を理解しにくい人がアテズッポウに取りまとめて原稿を作ってくれると、呻くような滑稽な読み違い聞き違いが出て来て、呻いている内に作業の気が萎えてしまう。ぜんぶ書き下ろした方が早いなあと嘆いてしまう。ま、ナントカ、した。
2006 9・17 60

* 昨日、冥界の「お父さん」の繪が金澤から届いた、薔薇。今まで描いた中でいちばん好きだと。花のいのちのそよぎをとらえて、目を吸い取るような出来映えに妻と感嘆。そして、克明な手紙も読んだ。
2006 10・1 61

* 申し込んでおいた『雅親卿恋絵詞』が届いた。フフフ…。幸か不幸かもうわたしの役には立たぬ。
以前、或る国立の大学教授お二人と小学館版の「日本古典文学全集」にかかわって、鼎談したことがある。そのときに一人の先生が、用の済んだ後の歓談のために、それは見事にやわらかに描かれた枕絵巻を持参して見せてくださった。あれにはだいぶ負けるし、なにより原本のかなり精巧なしかし複製に過ぎないのだから仕方ないが、巻物で繪と詞とを我が物で読むのは初体験。妻には見せないが、いずれ息子にやってしまう。息子は見ないかも知れないが。
2006 10・4 61

* 薔薇の繪を五十パーセント大に拡大してみると、その把握の精緻におどろく。精緻というと細かに描いていると思いがちだが全くちがう。命の把握が精緻にトータルなのである。画家はいみじくも「思い通りの効果」をこう言うている。

* 何度も、もうこれは失敗だなと考えたりしたのだが、やっと『これだった!』と言いたいイメージに近づいた。
完成したのではない。重要なイメージが発生したのだ。そうなると、完成するかどうかなどは消えてしまった。つまり、仮りに完成しなくとも、イメージは消えないからだ。むしろ下手に完成させて、その結果、イメージが消えたりしたらそれこそ絶望的である。
この、イメージが発生すると、その繪から目が離せなくなる、ということを体験する。つまり、その繪を眺めてばかりいることになる。これは重要なことである。忘れてはならない。
イメージを発生させた繪とは、視線をそこに釘づけにするのである。

* ごつごつした物言いであるが、素晴らしい「秘密」を語ってくれている、この画家は。しかしこの「イメージ」という通常な一語の含蓄を酌むのは、たいていではない。ものの見えぬ人には寝言のように聞こえるかも知れない。画家は形の精緻へ完成しようなどとつゆ願っていない。命の精微な「ゆらぎ」をそのまま捉えていたい、捉えうれば眼はもう繪から離れられない。
2006 10・17 61

* > こんな問いかけが来ています。
> いつも、ふと感じることなのですが、芸術・・・例えば華道などで、
>  何を表しているのですか??
>  こんな事を表現しています。
> そー言った物を見るたび、聞くたびに、デザインや、表現と言う物には、そー言った
> 事が必要なのかな? と、思います。確かに、なるほどって思ったりする事もあるの
> ですが、あえて何か足さなくても、心で良いと感じる物であれば良い様な・・・け
> ど、世間ではそー言った何かを付けないと良いとは言えないのでしょうか? それだ
> けでは自己満足。表現では無いのでしょうか・・・そー言った要素を満たして初めて
> 技術、芸術と呼ぶのでしょうか?
>あなたは、どう思いますか。 湖

「作品は誰のものか」ということのように思います。  珠
表現は誰もがいろいろな方法で試みるでしょう、私も作ります。
試行錯誤の製作には、思いや目的、分析した結果からの方法..など ”自分はこう考え作った” というまず ”自分” という「個」があると思います。
それはまず第一歩。
芸術は技術の話ではなく、もっと ”他者” の近くにあるものだと思います。
作品そのものではなく、作品とそれを受け取る他者との間に生まれるその空間が思いがけず心震わせるとき、そこに芸術がみえるのではないかと思います。
だから私は動かない物にだけ芸術が在り得るのではなく、人の行為など瞬間過ぎゆく現象にも芸術は在り得るのではないかと…。
誰もが芸術を求めて彷徨い「言葉」を尽くすのでしょうが、作品自身が受け手と交感をはじめていれば「言葉」は不要でしょう。
ただ受け手によっては、「言葉」を聞くことによって作品と受け手との間の空間がより色濃くふくよかになる場合もあるのかもしれません。
作品は、作者が手を離した瞬間から受け手に向かっていくのではないでしょうか。受け手が作品と対峙してみえてくるそれが芸術..、そう思ったら ”みる” ということの重大さに今更ながらに気がつきます。作品の前では謙虚になって自分と作品を対峙させられるように、日頃から奥深き鍛錬が必要なのですね。
”拝見させて頂きます”の言葉の奥にあるもの、そこへ難しいけれどゆきたい。

* 動かない造型のほかに演劇、舞踊、体操ないしは茶の湯の手前作法にも藝術または藝術味がある。ときとして日常の人と人との情理をともなった関わりの瞬間にもそれがあるということをこの人は云おうとしているなら、尊いことだと思う。

* わたしは、この問うてきた人に、こう答えておいた。

* ここで、華道が一例にあげてある何か理由があるのか、察しがつきませんが、云われている「華道」が、伝統的な、投入れ 盛り花、また生花などとは別趣の、いわゆる「造型」「オヴジェ」風の花術についていわれているとすれば、同様の質疑は、ことに前衛彫刻やオブジェ造型の現場でもされているし、絵画でも、極度のアブストラクトやシュールなものにふれると、頻繁に同じ質疑がされていると思われます。もっともっと普通の作品に対しても同じ質問、同じように答えている場面に、よく行き当たります。
沢山な個人展覧会のお誘いが来ますが、物書きのわたしもビックリするような、まるで「詩」かあるいは「演説」かのような「ことば」で、自身の創作について書き込んだ葉書や郵便物の多いのに、苦笑することがあります。
展覧会に行くと、作品の題に、じつに凝った題がついていて、それだけの「文学的な」苦心を、むしろ絵筆なら絵筆の「表現」に集注したらと苦笑する例もあります。
作者が自作について自己批評したり反省したりするとき、たいてい内心の「ことば」に翻訳してされている例が多いはずで、これは余儀ないことですが、個展に出掛けたところ、作者にぴたりとくっつかれてあれこれ苦心談や説明をされますと、とても落ち着いて観てられるものじゃありません。
むろん尋ねている方もあります。「何」を表しているのですか?
この質問は、たとえ答えて貰っても、多くは得られない、作品というのはそういう表面の「何」という現象だけでは片づかない謎をふくんでいるからです。説明されても無意味で、自分の眼で観て、直観するしかない。直観を豊かにするためには、結局「深く観る」以外にないんですね。
文学でも造形美術でも、「説明的」なものはどうしても浅い。説明の付かない或る魅力を、説明的な「何」とか「彼」とかの奧から、彼方から、汲みとらねばならない。いや汲むという以上に一度は作品の前に自身を「明け渡さねば」ならない。その意味では、努めないで聞いてもダメ、努めないで口で説明しても、両方とも、得るところはあまり無い。有っても本質的じゃない。
以前或る美術展で講演しました題が、『絵の前で<わかる>と<みる>と』でした。その「枕」にこんなことを話しています。

落語に『抜け雀』という、亡くなった志ん生師匠なんぞの旨(うま)かった咄(はなし)があります。小田原の宿場で宿引きをしていた、気のいい小宿の主(あるじ)が、見るからにこきたない若い男を引き止めます。のっけから、内金に百両も預けようかなどと言う男です、が、発つとき払いで結構でございますと、宿の客にしてしまいます。朝に昼に晩に、酒を一升ずつ飲んではごろごろ寝ている客を、おかみの方が気にします。せめて五両でも内金をと亭主にもらいにやりますと、案の定この客、一文ももっていない。仕事をきいてみると繪師だと言う。大工ででもあるなら家の傷みを直させることも出来るけれど、「繪なんか、みたって、わからないし」と亭主は困ってしまいます。この亭主の「わからない」という言いぐさを、お耳にとめていただきましょう。
それでも自信に溢れた若い繪師は、これも宿賃の代わりに旅の経師(きようじ)屋に造らせてあったまっさらの衝立(ついたて)に目をとめまして、亭主のイヤがるのも構わず、手練の墨の筆を走らせます、と、そこに五羽の雀が生まれ出る。けれども亭主は申します、「何が描いてあんのか、わからない繪ですな」と。雀だと聞いてやっと頷き、「そういや雀だな、わかりましたよ」とも。
で、この雀五羽を宿代のカタにおき、繪師は江戸へ向かうのですが、この雀たち、毎朝、朝日を浴びますと、チュンチュンと元気に鳴いて衝立から抜け出し飛んで遊ぶんですね。「抜け雀」の題のついている所以(ゆえん)でありますが、じつに生き生きとしている。 ま、咄は、私の口から聴かれるんじゃつまりませんから、みんな端折りますけれども、ここで、宿の亭主が「繪をみてもわからない」と言い、また「何が描いてあるのか、わからない繪だ」と言う、そして「雀か、あぁわかった」とも言っている。ま、これくらい世間でもよく聞く言いぐさは無いんでして、繪を「みる」と「わかる」とが、たいてい対(つい)になりまして、途方もなく厄介な関所になっている。これは、ひとつ、ぜひ、考えてみなけぁならんと、そう久しく考えて参りました。
いったい、どういうことなんだ、繪を「みる」と繪が「わかる」とは、と。どうにも気になって叶わんなと。
ま、こういう難儀にアブナイ話題には、専門家は、ふつうお触りになりません。かと言って、放っておいていい問題でもないことは、こんなに大勢お集まり下さったことからも察しがつきます。手に余るかも知れません、が、みなさんの方でもご経験で補い補い、お聴きください。ひとりの自由な小説家の言説を、半分は冷やかすぐらいにお楽しみいただくということで、私も、気楽に、でも真剣に、お話ししてみようと思っています。

で、以下話して話し終えてきたのですが、「何だかわからん」客にに対し、言葉で解説する作者や演者じゃ、一般に、仕方ないんです。せいぜい「雀だ」ぐらいで済んでしまいまして、作品の秘密には関わってこない。この絵描きは名人でしたから別段の噺が進みますけれど、一般に「何が」「わからん」に対し、「これだ、これこれ」などと説明し始める作者の作品には、豊かな謎なんて、魅力なんて、無いのが普通でしょう。無いから、気楽に表面を説明してくれる。
自分のもっている動機(モティーフ)や主題(テーマ)について、作品の説明としてでなく、つねづね考えたり語ったり書いたりすることはありますね、それが藝談、藝術論になっている例はいくらでもあります。たいてい深い自問自答の苦慮や思慮のなかから生まれています。「説明」することじゃない、「説明」してしまったら停まってしまう。
ま、そんなふうに考えています。華道ではよく分かりませんが、作者が、作品を成し遂げるまでに、ある体験的な基盤や強い契機というものが、むしろ佳い仕事にほど必ず有ります。それをあらかじめ知っていると、非常に深くまで作品が見て取れる、読み取れるということがあります。批評や評論にはその効用がありますが、作者が自身の作品に簡明にそれを添えていてくれたのが有りがたい例は、志賀直哉などに佳い例があり、ほかにも在りますね。わたしは作者のエッセイは大切に好んで読んでいます。
しかし作品をその場で指さすように「何が」「何を」と聞いたり話したりは、イヤですね。自分でも答えませんね、普通は。ま、先ずはよく「観て」下さいとかよく「読んで」下さいと云います。

* こんなわたしのくどい話より、先の人の、物静かな述懐が適切に機微をこたえている。
2006 10・27 61

* 京都の星野画廊から『日本人の情景』という画冊が贈られてきて、この種のものでは、書画骨董の思文閣の図録が網羅的で目の法楽だが、星野画廊のは、主人夫婦の眼識にみごとに淘汰されての珠玉ぞろいなので、面白いったらない。ちょっと収録されている画家達の名前をあげてみよう、何人ご存じか。
山口草平、小川千甕、平井楳仙、伊藤快彦、守住勇魚、国光宣二、辻晋堂、秋田江陵、菅禮之助、小笠原豊涯、竹村白鳳、笠木次郎吉、青木大乗、森田恒友、恩田耕作、黒田重太郎、桑重義一、劉栄楓、三露千萩、島成園、森守明、矢野雅蔵、斎藤与里、西村更華、岡村宇太郎、中井吟香、飯田清毅、石原薫、幸田暁治、久保田米僊、松山致芳、太田喜二郎、吹田草牧、寺松国太郎、大石輝一、御厨純一、浅井忠、牛田鶏村、河合新蔵、織田東禹、榊原一廣、奥瀬英三、八條弥吉、斎藤真成、鮫島台器、横江嘉純、五姓田芳柳、五姓田義松、田村宗立、平福百穂、北蓮蔵、柴原魏象、千種掃雲、寺本萬象、三宅鳳白、小西長廣、甲斐莊楠木音、玉村方久斗、潮司、高嶋祥光、秦テルオ、赤井龍民、堀井香坡、野長瀬晩花、辻愛造、山口八九子、上山二郎、中村貞以、竹内夢憂樹、北野恒富、岡本更園、松村綾子、林司馬、不染鉄、柴田晩葉、山田馬介、上田真吾、谷出孝子、下村良之介、藤田龍児。
おお、途中でやめたくなった。三十二人はわたしにも分かる。のこりの人は、初めて知った。略歴をみれば、いくらか有名で知っている人が、知らなかった人よりも勝れているとか、当時格別働いていたとも言えない。これはもうわたしが「ペン電子文藝館」で心掛けたのと同じ、力有る湮滅画家の発掘と復権をねがう画廊の心意気だ。
繪を一つ一つ見て舌を巻く。じつに面白い。もう一遍作のよしあしを挙げ始めると、キイを叩く手がしびれてくる、機会を改めるが、こんな面白い繪が、画家達が埋もれていたと思うと、惜しい、惜しい。わたし流に、これだけ多くから、好きなベスト10を選んで眼識と批評を吾から吾に試みてみたい気さえする。
星野画廊創業三十五周年記念特別展だそうだ、拍手喝采を贈らずに居れない。欲しくて堪らない繪もあるのだよ。京都へ行きたくなる。
2006 10・30 61

* 今日、もう一つ嬉しいことがあった。「美術京都」が届いて、巻頭に「梅の井」主人三好閏三君との「対談」もさりながら、論文に、東工大の教室や教授室でおなじみだった、その後も湖の本やメールや「MIXI」でもお馴染みの早川典子さんが、『古糊』という主題で、すばらしい研究成果を紹介してくれたのである。
日本の美術、ことに紙本や絹本の軸物も屏風なども、またそれらの修復にも「糊」それも絶対的に佳い糊がどんなに大事な必需品か、少し想像を働かせれば容易に見当が付く。見当はついても、その「糊」づくりにその道の家も人も信じられない積年の苦労と秘製・秘蔵を余儀なくされてきた。糊は灼けもし乾きもする。優れた作品の隠れた支えの糊効果がやわいものではお話しにならないし、醜く、黒ずんでも困る。
早川さんらの研究は、だが、そういう「古糊」の化学的・科学的秘密を明らかにするだけでなく、その一方ですばらしい「古糊」の「上」を行くほど上質に精錬された糊の製作・製造に踏み込んでいた。
「美術京都」にぴたりだと原稿依頼したとき、早川さんは第二子出産を控えていたのだった。だが、書いてくれた。赤ちゃんも無事に生まれた。そして佳い原稿が掲載できた。
2006 12・1 63

* 「器」は陶磁器の基本形で、碗と皿と壺とが、また基本形。ためらいなく此の碗は最高、此の皿すばらしい、此の壺なら欲しいと思えるようになれば、半歩前進。そのあとは、最高と思ったよりもまだ最高が、素晴らしいと観たよりさらに素晴らしいが、欲しいと思った彼よりこれが欲しいが、次々に目の前を通過して行くのに堪え忍んで、最高の域を、すばらしいの深みを、欲しい欲しいの洗いかえを続けて行く。器ほど簡明で器ほど奥深い難しいものはない。しかし器は秘蔵してしまってはしかたがない。しかし毀してもいけない。
陶器の器を洗って無造作に伏せて置いてはいけない。時に糸底の欠けていたりが時代物の景色になっている例は有るが、器の口づくりのおよそに欠いたものや傷つけたものは、あつかった人のあらけなさを想わせ、情けないものである。
2006 12・14 63

* 『岩佐なを銅版画蔵書票集』を戴いた。吸い込まれる美しさ、精緻さ。久しいお付き合いの中で、季節ごとに戴き続けていた蔵書票がずいぶん沢山になっている。岩佐さんは、H氏賞詩人でもある。ついでに言うと、男性である。
岩佐さんと同じようにユニークな藝術家で、わたしは原光さんとも久しいお付き合いがある。原さんはボードレールや『白鯨』その他の優れた翻訳本を立派に自家出版の一方、世界的に活躍の山岳や海洋の写真家で、豪快で鮮鋭な画像を創りつづけている。
岩佐さんとも原さんとも文字どおり「一面識」だけであるのに、とても久しい。お二人ともに最初から「湖の本」を応援して戴いている。
2006 12・29 63

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