* 午後、NHKが美空ひばりの、今までにないユニークな大特集を放映してくれた。釘付けにされ、泣いて泣いて、目の縁が燃えそうに熱かった。
呆れる人もあろう、だが、昭和の天才といえば、彼女が一人だけである。そのひばりとほぼ同時代を歩いてきた。すでにスターになりつつあった「色の黒いちっこい雀みたいなヤツ」を幾重もの人の輪をかいくぐって、さわれるほど間近に見たわたしは新制中学に入って、さ、一年生か二年生だった。真夏で、パンツ一枚の素足に近かった。家からすっとんで行った。初恋が芽生えたような出逢いだった。
* 何度も同じことを書いている。
今日の、かつてなかったことは、建日子が一緒に、観て、聴いていた。建日子はひばりなんぞ初体験に近いのだ、が、誰とかと誰とかと誰とかとを足してまだそのずっと上を行くなあと嘆賞してくれたのが、じつに嬉しかった。
ひばりの声や演技や歌唱力は褒めるのもヤボ、わたしが心酔してきたのは美しい日本語の発声・発語であった、どんな歌い方をしても日本語が明晰で崩されない。それだけでなく、アアと歌えばアアの意味と深みとが伝わってくる。青いといえば優れて青く、なみだといえばひとしおになみだが感じられ、一語一語の深みと表象とが見える。正確なだけでなく、言葉がただの指示・説明でなく、表現と象徴とに達している。くだらない歌詞と曲とが、ひばりの天才により名曲に化ける。歌そのものに泣かされてしまう。
* 泣きながら、拍手しながら、だがなんでひばりにこう惹かれるのだろうと思い続けていた、今日は。
こんなことを言うのは憚った方がいいのだが、わたしが真実「死なれた」と嘆いて身に刻んだ人は、それは何人もある。ある、が、だが、思うつど泣かされるのは、やす香と、死んだネコとノコと、そして美空ひばり。それほど同行者の思いが「ひばり」にはあり、そのセンチメントがどこに湧いて出ているのか、わたしはこれまで自分で自分に封印してその先を考えなかった、が、今日は、泣きながら、封印が溶けてしまう思いにとらわれていた。
* わたしがひばりの存在を知り、ひばりの歌「唄も楽しや東京キッド」「わたしは街の子巷の子」「りんごの花びらが」「角兵衛獅子」などを聴き始めたころ、わたしは「孤児感覚」に苦しんでいた。「もらひ子」であることの不条理に乾くほど苦しんでいた。ひばりの歌う歌詞の中に、今はいない「父さん」「母さん」を恋い慕う言葉が出るだけでわたしはひばりに一体化する感情を押し殺すのに懸命を必要とした。ひばりは歌がうまい、天才だと思う方へ方へ自身をリードした。そういう気持ちがわたしの独特の「身内」観を育んだ。血縁よりはるかに濃い慕情を、他人達の中へ注ぎ込みたかった。ひばりのレコードを買う金などどこにもなく、しかし、わたしは現にわたしを魅する「身内」の存在を日増しに身近に疑わなくなっていった。
* こんなことは、誰にも言わず気取られもしなかったと思うが、今日、わたしは思わず妻と息子とに、気恥ずかしい告白をしてしまった。肩の荷がかるくなった。
多くの作品や文章の中で、わたしは久しく強がってきた。現実の父や母を恋い慕ったのではやはり全然無かったのだけれど、かっこ付きの「父」「母」にわたしは恋いこがれ、苦しいほどであった時期をもっていた。そこから救い出してくれた人達にたいする感謝は親の恩に匹敵したのである。
* 晩は一転、東天紅の料理で、紹興花彫酒を堪能した。建日子がいて、ネコが、マゴとグーと二匹いて、妻と、私。いい歌を聴き嬉しいメールももらい、心晴れて佳い元日だった。「mixi」日記には、この時代…わたしの絶望と希望、を語った。
2007 1・1 64
* 「瑤泉院の陰謀」という風変わりな忠臣蔵の後半を観た。主役の稲森いづみがベテラン達に支えられて、予想したより役に嵌って美しいのに感心した。討ち入り前から討ち入り後日談が正徳二年ごろまで続くのに少し呆れ少し感心していた。きわものでなく、けっこう批評性のある娯楽編に成っていた。たぶんわたしの観た後半だけで足りているのではないか。
歳末から年始へ、あいかわらず忠臣蔵には人気があり、わたしたちも人気を少し支えていたわけだ。そうさせるだけの「文化的複合」で忠臣蔵はたしかにある。忠臣蔵はバカにできない。外伝や雑多なバリエーションそのものにも意義の生じる余地がある。
2007 1・2 64
* これという何もしないで、静かに時を過ごしていた。
タイトルは知らない、宮沢りえ、中村勘太郎、阿部寛らが「瀬戸内寂聴伝」のようなドラマをやっていた。ご本人を見知っているので、宮沢りえが、演技では文句なくうまいがなんだか終始人違いな感じがして弱った。男どもはまずあんなものか。
人によれば、簡単に小説家に成れるんだと勘違いした人もあるかもしれない。
いずれにしても、わたしの歩んだ小説家への道、また小説家になってからの道がよほどちがっている。しかし出家という瀬戸内さんの決意とわたしの湖の本という「出世間」の決意とは結ばれている同質性が、ある、だろうか。ただし瀬戸内さんはいわば愛染無明との別れであり、わたしは出版資本との別れであった。
昔も今もまだ大きくは変わっていない、物書きたちは出版資本に認められ飼育されて「ナンボ」の道をまだ歩いている。
わたしの場合は「作品」が先ず識者に認められ、出版の側から文学賞付きで文壇に招いてくれた。応募すらしなかった。そして人も呆れるほど沢山な本を次から次からと書いた。そして潮時と観てわたしの方で文壇や出版の世界から、いわばあっさり家出した。出家した。
以来二十年余が過ぎて、わたしは変わりなくわたしの「今・此処」を日々に歩んでいる。文壇からも出版からも消え失せたわけではない、なにひとつわたしが拘束されていないだけだ。
そんな人生でありたいと、ほぼ願ったとおりに暮らせているのが有り難い。
2007 1・6 64
* 近頃では珍しく録画しておいたエディ・マーフィ『ネゴシエーター』をまるまる観た。エディを観たというより彼の恋人役があまりに可愛い黒人ですっかり魅了された。以前に『ハドソン河のモスコー』に出ていたマリア・コンチータ・アロンゾもすこぶる可愛かったけれど、今日の(残念無念名前が分からない)黒人女優の健康な可愛らしさも一級品だった。たった一人の女優の愛らしさが、一作の映画の存立を左右する。そういうこともあるから、配役は大事だ。
* もう一本、寅さんの「縁談」映画を観た、マドンナは松坂慶子。
岩下志麻と藤純子とこの松坂慶子は、はじめてテレビの娯楽ドラマで一目見て、将来大きな女優になるよ間違いないよと予言した。岩下と松坂とはまちがいなかった。
今日の映画の松坂慶子、しんみりした。
それ以上にわたしたちを楽しませたのは、瀬戸内、高松沖琴島の看護婦役。家出した光男の恋人役をした女優。名前が分からないが、よかった。寅さんの体調が少しつらくなっているのを、光男がよく助けている。暮らしを基盤にした人生時間のいろいろな堆積が、どの人物からも共感され、しみじみとする。流れる涙は、ほとんど自分自身の泪と等質。その辺が、あの歌舞伎「俊寛」の舞台ではあいまいになった。あれでは泪が乾いてしまった。
2007 1・13 64
* デンゼル・ワシントンとジーン・ハックマンという好みの顔合わせで潜水艦映画をやっていた。後半を観た。ジュリア・ロバーツの映画も同時にやっていたが男優に魅力がない。
このごろ映画一本をみな見終えることがすくない。録画中のものだと、テレビの前をたってしまう事が多いし、よくよくでないと全部は観ないで機械の前へもどり、自分自身の仕事をつづけている。
2007 1・18 64
* 一日、冷えるなあと思いながらあれこれと仕事を重ね、夕食のあと眠気に負けて十時まで寝入ってしまった。起きたら篠原涼子の派遣社員のドラマをやっていて、すこしムリかなと思った、本マグロを彼女が(すこしヨロヨロと)さばく芝居を観た。『推理小説』の雪平夏見女刑事のキャラをそのまま延長して人物をつくっているのがほほ笑ましかった。
* 「派遣社員」は当節最もアップ・トゥ・デートな話題であり関心をもっていた、が、篠原という女優のキャラクターに少し作劇が依存し過ぎているかも知れない。こんなのも一つ出来ていいが、出来れば今少しリアルにこの問題に落ち着いてメスを入れるドキュメンタリー・タッチの作も欲しい。
2007 1・2464
* 昨日、ジャック・レモンとウォルター・マッソー、ソフィァ・ローレンとアン・マルグリットののどかに面白い喜劇タッチの映画を楽しんだ。
私生活でも仲良しのジャック・レモンとウォルター・マッソーには、ジャックが監督作品の『コッチおじさん』というじつに嬉しい佳い映画もある。
みんな老境の老をかくさないで、地のままのように魚釣りや結婚式を柔らかに楽しそうに演じていた。
2007 1・26 64
* 日本アカデミー賞とかいうので、中井喜一、佐藤浩市らの『壬生義士伝』を観たが、ばからしいような間抜けた通俗映画にあきれ、観ていられなかった。演技的にも、脚色も、駄目。これなら、ギリシァ神話に取材した、タイタンとペルセウス・アンドロメダらの奇想の神話映画の方が、ヨッポド、マシ。
ま、わたしは新撰組に対し、赤穂浪士の百分の一の評価もしない、好きでないのだから、観たのがはなから見当はずれだった。それにしても、映画に対して偏見はない。どんな設定の二流娯楽モノでも映画づくりが優れていたら私は楽しむ。楽しめなかったのは映画がよくなかったのだと断定するしかないぞ。
2007 2・1 65
* 離れ業、本を読んで校正し構成しながら、今夜は映画『マトリックス レボリューション』を観た。何度観てきたか分からない。それでもこのところ、念頭にこの「三部作終編」が纏わり付いていた。
ネオと彼を愛するトリニティとが、世界の「ソース」に深く深く進入して、根底のゆがみを正そうとする。現実世界はよからぬ世界支配意志で「電気的な仮象の機械」化され、世界そのものが大きな「プログラム」と化している。それを嫌った人間たちは地下深くに都市を造り隠れ住んでいる。だが地上から地下への機械的奇怪な侵略は苛烈で、人間の世界は滅亡に瀕している。
ネオとトリニティとは、そういう世界苦の根源からの克服のため、世界の底根へと、「ソース」へと、命を賭して飛翔する。
これまた劇画にほかならないのだが、その思想の下絵と基盤には、キリスト教も仏教もあり、『ゲド戦記』の世界観・人間観とも膚接していると読める。
わたしがこの映画の「終編」にとくに最近心とらわれていたのは、一つには現実の地球世界への、また日本の政情や世情への厭悪や懸念があまりに強いからと、思わずにおれない。
『イルスの竪琴』も含めて、ないし鏡花世界や荷風処世などへの思い傾きも含めて、わたしの中に、たしかに現実や世間を厭悪し嫌悪する気持ちの強いことは、否めない。
しかし同時に、リアルな「今・此処」から断乎逃げ出さない視線・視野の確保にも、わたしは努めている。そのために歴史を思い、また機械文明の行方と人の理想とを、また死生命とを、大事に思索や行為から手放そうとしない。その「執着」を執着として厭い嫌う気を、むしろわたしはまだ前面に出せない・出そうとしない「困った自覚」を、イヤミなほど持している。わるく悟ろうとするより、悟りへの憧憬を捨てて、まだまだ「今・此処」のなさけないリアルに向き合っていようと思うのだ。
それにしても映画の中でネオとトリニティの為しえたことは、為そうと挺身したことは、本当は、政治が、政治家がしなくてどうするのか。
世界が深い芯のところで歪み、病み、苦しんでいる。この認識はポピュラアになりかけている。そうして風説のまま風化しかけている。
2007 2・3 65
* ロバート・デュボアとリチャード・ハリスという老境絶妙の組み合わせに、シャーリー・マクレーン、サンドラ・ブロックという大の贔屓の二人が寄り添った映画『潮風とベーコンサンドとヘミングウェイ』を、眼も耳も放すこと出来ずに見終えた。
春愁ににて非なるもの老愁は 登四郎
うっとりと眠り込みたいように穏和な海辺。静かに静かに静かな海辺。孤独を抱きしめてなお春情に疼いている老人ふたりに、寂しくも心暖かに新たに生まれた男の友情。ふたりを静かにいたわっている二人の女たち。そして音もせずおとずれるカタストロフ。
日は日へ、夜は夜へ。何も変わらぬように何かが変わって行く。
何という妙な映画の題であろう、だがもし「老境」とか「老いらく」とか「たそがれ」とか謂われたら情けない。
ハリスは死んでいた。なぜだろう。彼の絶叫に声もなくそっと寄り添ってたシャーリーとの、よろよろの一夜が、ハリスを幸福に燃え尽くさせたのであって欲しいとわたしは願った。今も願っている。
佳い映画であった。シャーリー・マクレーンもサンドラ・ブロックも優しかった。ハリスもデュボアも溜まらなくいとしかった。彼らの写った鏡の奥の奥にわたし自身の顔も写っていた。
* 「インスパイア」という言葉に一種の信心を寄せてきた。藝術家なら多くが分かち持っている思いだろう、もし「抱き柱」というなら、何か「力ある天恵」にインスパイアされたい、息を吹き込まれたいという願いは、創作者のいわば「抱き柱」だ。凛々と力のわき起こる実感を、わたしも、何度も何度も何度ももった、過去に。まだ持てる、その機がまだ来ると思っている。いや願って待っている。
悲しいかな老境には励みの力が乏しい。人は嗤うかも知れないが、妻に、子供たちに、より大きな喜びを励ましを満足を与えてやりたくて励んできたのは事実であった。それをわが力にし、ものを創りものを書いていた。その必要が無くなったとは思わないが、その力は無いに等しいほどとうに弱まってしまい、そういう意味の励みを心身にもう感じない。
いまわたしを真に励ましてくるモノは何だろう。
名誉でも金でもない。自己満足でもない。あのハリスのマクレーンか、あのデュバルのサンドラか。前者なら、死なねばならない。後者なら別離。
「ベーコンサンド」は物理的・生理的な命しか育まないだろう。ハリスにとって「ヘミングウエイ」は喪ったもののシンボルであった。
2007 2・6 65
* 宵寝のまえ、ペルセウスとアンドロメダの映画をすこし観ていた。ローレンス・オリビエの演じる「ゼウス神」にご対面。この神の名だけはおなじみだ。彼は、という人称はふさわしくないが、彼は白鳥に化けて美しいレダを犯し、たしかあのトロイのヘレネを生ませている。『ファウスト』第二部のヒロインだし、バリスとともに夫王をのがれ、やがてトロイ戦争の原因をなしたといわれるヒロイン、そのはずだ。印象的な繪も観たことがある。
いま謂う映画では、ゼウスは、アルゴス王秘蔵の箱入り娘ダナエを、レンブラントの繪にもある、黄金の雨になって犯し美貌のペルセウスを生ませている。娘をうばわれた父王は怒ってダナエと赤ちゃんとを柩に入れ、荒海にあてどなく押し流してしまう。母子に執着したゼウスは母と息子とを平和な島に救いとらせ、アルゴス王を憎んでその国土を徹底破壊してしまう。
少年ペルセウスは神意に愛されりっぱに勇敢な青年に成長し、美しい処女アンドロメダを愛するが、彼女は、ゼウスに憎まれタイタン(怪物)に姿をかえられている婚約のある男をもっていた。タイタンの母神はアンドロメダの運命をにくんで、きつい呪いをかけていた。美青年ペルセウスは、そのきつい呪いとタイタンの怪力とに立ち向かわねばならない。天馬ペガサスや神に与えられた兜や楯や神剣が、そして詩人や、知恵ある黄金の梟がペルセウスを助ける。やがて見るも恐ろしい、いや絶対に目を見合わせてはならないメデューサの首、毛髪のすべてが蛇のメデューサを、ペルセウスは斬りに行かねばならない。
そういう映画だ、もう、一度はもう観ているのだが。
ギリシァ神話にわたしはなじみ薄いが、こういう神話への感度はたっぷりもっている。平たく謂えば大好きだ。なによりこの映画の結びようがいいと好感したのは、アンドロメダもペルセウスもペガサスもみな天上の大きな星座と化し、今も夜空に輝いて在ること。 2007 2・11 65
* 『恋におちたシェイクスピア』を観た。グゥイネス・パルトロウ、ジュディ・デンチら女優が颯爽としていて、シェイクスピアの作劇を、恋を、ひきたてる。ロミオとジュリエット、十二夜にからんだ洒落た映画。世評ほど持ち上げないが、楽しんだ。
2007 2・14 65
* 二度目の映画『デイ・アフター・トゥモロー』を観た。保存版に。
「環境」ということは、ペンに環境委員会もあり、シンポジウムも催し熱心に取り組んできたが、京都議定書を批准しないアメリカ等に対する抗議をした記憶がない。この映画などこの問題への告発であることは確かだ。娯楽映画と言うには予言性も濃くシビアだ。自分たちだけの当たり前の権利かのように核兵器をもったり、気候の危機を知りながら当座の自国政権の利益のためだけにすべきことをしない国など、わたし個人としては一度滅びればいいと思っている。
没後著作権七十年などというのも、そんな大国の政府とディズニーなど一部企業のむき出しのエゴに追随し追従している不出来な創作者たちの、ただの堕落の露呈で見苦しい。死後に五十年も保護されたら十二分だ。それよりも作者が生きている間の創作と生活とを互助的に守る工夫をすればいい。
2007 2・16 65
* さして期待もなく見始めたニコラス・ケージとティナ・レオーニの『天使のくれた時間』を楽しんだ。娯楽作ながら巧んだおもしろさが巧んだままに伝わり、小癪なほどうまかった。主演の二人も二人の子供たちも佳い感じ。
* 夕方には、六十年にも及んで継続観察された或るアフリカ象の一群れの映像を観た。六十一歳と推定される母象を中心に四ないし五世代の女系家族がいろいろに賢く生きている生態。
群れと群れとの間で子象の拉致や奪回の闘いがあったり、絆の堅さ強さと正確に身に付いた生きる知恵や、群れの中の死者を悼む葬礼を思わせるほどの哀悼の表現など、いろいろ教わった。感動した。
象だけの言葉が用いられている。まるで思想をすらもっていそうに感じられる。
2007 2・20 65
* ミラ・ジョボヴィツチの映画『ジャンヌ・ダルク』を面白く見直した。ダスティン・ホフマン演ずる「神=良心」らしき役をして、映画ではジャンヌを厳しく批判する。そして「赦す」。赦されたジャンヌは火刑台上から燃え立ち昇天する。
「教会」の信仰と「神」の信仰とが大きく亀裂・断絶し、前者が「権威・権益」として後者を圧倒し尽くしていた時代、ジャンヌの大きな錯覚・幻想にも似た「神」への信仰は、それ自体が異端で、悪魔の所行とされた。
ジャンヌのとらえていた「神」は、幻想であり妄想である。しかも彼女には、信実の神への愛と畏れとが生きていて、神に嘉(よみ)されるに足りた。
火刑から五百年後にジャンヌは法王庁により聖別されたというが、法王庁の説明を聴いてみたい。
* わたしが、根から、国王だの貴族だの特権的な坊主だのを嫌うようになった決定的な契機は、新制中学で学校から連れて行かれた、イングリット・バーグマンの天然色映画『ジャンヌダーク』を観てからだ、あの映画はわたしを震撼した。
2007 2・23 65
* きのう、録画してあった永瀬正敏・松たか子・田畑智子らの『隠し剣鬼の爪』という映画をみた。前に観た真田広之・宮沢りえの『たそがれ清兵衛』や、まだ観ていない『武士の一分』との三部作だとか。『たそがれ清兵衛』は秀作だった。ゆうべのも悪くないがおとなしかった。
侍ものは、ことに宮仕えの下級武士ものは気がつまっていやだ。「すまじきものは宮仕え」と昔から聞き覚え、また体験もして、絶対的にイヤだった。わたしの今の毎日は、たとえ不十分で不如意であろうとも、企業や官庁や出版資本への宮仕えをきれいさっぱりうち棄てた喜びにも溢れている。
「主君」「家来」という言葉が大嫌いだ。どっちにも成りたくない。
2007 2・27 65
* ゆうべ、山谷に外国人が大勢旅泊ないし長期滞在して「東京」を満喫しているルポを観た。不思議と心明るく心嬉しい、元気づけられる映像レポートだった。
小さい畳が三枚ていどの、外国人には信じられない狭さの畳部屋に、「これで十分さ」といわせている。安上がりでもあり、陰気な偏見や先入見からまるで自由自在に山谷を利して、闊達に楽しんで東京や日本に親しんでくれている。
ああ、こういう自由になり方があるんだと、わたしは終始元気に見守っていた。盛り場のいわゆる暴力的な悪意や危険も、此処ではすくない。
このところ北海道でも白馬でも、たくみに外国への宣伝の浸透をはかりながら外来の客を闊達に迎えている報道を何度か見てきた。
2007 2・28 65
* そのあとバレーの『ジゼル』を、最後まで楽しんだ。『白鳥の湖』以上にわたしは『ジゼル』が好き。
日本人の演じるバレーが隔世の感ふかく美しくなり洗練されてきている。プリマドンナと相手役とだけが外国人で、少しの違和感もなく日本人出演者たちも優美に踊ってくれた。
2007 3・5 66
* 昨夜、寝がけにふとテレビをつけたら、エド・ハリスらの演じる宇宙船飛行士誕生譚が始まって間なしのようだった。以前一度観たことがある。もう一度観てもいいなとかねて念裏にあった、だから、長い映画をつい観てしまった。朝刊を配達のバイクの音が聞こえていた。さすがに寝床での読書はムリだった。
2010 3・8 66
* 「湖の本」の初校を大略手早く終えて、印刷所に送り返した。あとがきと表紙の入稿が残っている、が。土日の二日を跨ぎたくなく、一気に集中。自転車で宅急便を出しに行ったら間一髪間に合ったのもよかった。
録画しておいた『トラ・トラ・トラ』を観た。懐かしい顔が大勢。ひときわ田村高廣が、また三橋達也が。山村聡が、特殊撮影の完璧なのに驚嘆。
機械は十分ではないが、なんとか自力で少しずつよくしたい。旧親機と新本機とにMOドライヴが稼働したのは心強い。
旧親機が音声を出してくれない。「ME」をOSとして一万円支払い親機に入れたというのに、音声が出ないというのが分からない。「サウンドカード」を買ってこなくてはという話だった。さしこめば簡単なモノですという話で、ではと有楽町で買って帰ったら、組み立て機械をほどいて中で接続しなければ役に立たない。そんな真似は出来ないので、断念した。
なんとか旧親機でもホームページの書き込み転送が出来るようでありたい。コンポーザも用意したし、最新のホームページ内容もみな親機にコピーしたし、FFFTPも用意した。その三者が一つのトータルとして稼働してくれない限り、バラバラのままだ。
2007 3・8 66
* 一仕事のあと、映画『ディープインパクト』の後半を観て、また感動。このあいだの『デイ・アフター・トゥモロー』もよかったが、今夜の映画は人間模様がいろいろによく描けていて、感動させる表現に富んでいる。芯にいる意欲的な新人キャスター役のティァ・レオーニが、やはり先日観た『神様のくれた時間』での好感度ともダヴって、しきりと胸をゆすった。
こういう、いまや少しも荒唐無稽ではない「地球終末の危機モノ」に強く心惹かれるのは何故だろう。もうもうあんまり情けない、張りのない人間社会がいやさに、同じならこういう絶対的な人類危機のなかへ溺死してしまいたいようなヤケクソが起きるのだろうか。
そういう良からぬ荒廃へ押しやられそうな時、雀さんの行脚の記は、わたしをふと安堵へ掬いあげてくれる。
2007 3・10 66
* 昨日、今日、興に惹かれ二度まで同じノーマン・ジュイソン監督の『月の輝く夜に』を観た。主演はシエールそしてなんとニコラス・ケージ。映画の魅力は、観て分かってもらうしかないが、こんなに洒落ておもしろい傑作はそうそう無い。
シエールという女優の品の良い底知れないコケットリーの魅力に参った。好演などというものでない、演じられた役とはとても思われないリアリティの確かさ、美しさ。いつもやんちゃ坊主のニコラス・ケイジが無我夢中にシエールの女に吶喊していた。
二人だけの映画ではない、一家四人に犬も五匹。そしてロレッタに求婚する兄と弟も、ロレッタの両親も、親族も、誰も誰も適材適所。余裕綽々、緻密に艶冶に流れるように。敬服し嘆賞し楽しんだ。
映画ってほんとうに面白い。
2007 3・11 66
* 再校の朱字合わせをしながら、ケビン・コスナーとケリー・プレストン主演の『ラブ・オブ・ザ・ゲーム』を観た。二人の主役が好感度抜群、すがすがしい感動に満たされた。スポーツものはあまりのめりこめないのだが、実話感とラヴストーリーとがマッチしてイヤミのない娯楽映画に出来上がっていた。『追いつめられて』などのむかしケビン・コスナーはそう好きでなかったのに、『ダンス・ウイズ・ウルヴズ』などの辺から彼の清潔な男っぽさが好きになり始めていた。
この映画では初めてみたケリー・プレストンの知的な清潔感と情の深さ熱さは、それ以上に気持ちが良かった。すてきに良かった。
しかしわたしのように、見る人、出会う人ごとに好きになっていては、もし十人選べといわれたら、どうしよう。
昔、中学の先生に二学期のおわり、何でもいい、読書でもいい、好きな人でもいい、大晦日になったら今年のベストテンを選んで順番をつけてみよと教えられた。十えらぶのは出来るが順番を付けるのは難しい、が、それをするのが「批評」というものだと。たしかに難しかったが、真剣に試みたものだ。
海外の主演級の男女優とも、体調のいい時ならこの老人、各百人ほどは名前をそらんじて口にすることが出来るが、十人ずつ選んで順番をつけろといわれたら難しい。しかも試みてみたい気がするぐらいだから、魅力があるのだ。日本人のそれは、あたまから、考えないことにしている。あまり間近くて、夢をこわすから。ハハハ
2007 3・16 66
* 出版記念会は結局不参。リュック・ベッソン監督の『2001年宇宙の旅』を聴きながら、作業。また下関から届いたホームレスと連帯した歌のディスクを聴いて、作業。また雑誌「ひとりから」の、憲法を守り抜こうというメッセージも聴いた。
2007 3・28 66
* 宵から、録画してあった『船を降りたら彼女の島』という日本の映画を、観るともなく観ながら仕事をしていた。とても静かな、とても佳い映画で、木村佳乃がみちがえるほど素朴な、東京から親に結婚すると告げに帰ってきた娘役。父親が大杉漣、母親が大谷直子、ともに胸にしみる好演。さすがだ。脚本と監督は磯村一路。愛媛県下の瀬戸内海に浮かぶ島の映画。落ち着いていた、なにもかも佳い意味で。
ひきつづいて植木等の無責任男映画がはじまったが、観るに堪えなかった。コメディアンとしては高く買えない。晩年に近づいて落ち着いた老け役をこなしていたころの植木が敬愛できた。
2007 3・29 66
* しきりに風が鳴っている。なにとなく放心していて、用もはかどらない。こういう日は、ゆるりと過ごそう。ジョン・ウエインの『駅馬車』とエディ・マーフィの『ネゴシエーター』を観た。両方ともヒロイン役の女優が美しかった。ふたりとも胸もとが魅力的。
なにといっても女性の胸は永遠の魅力。しかしながら某姉妹などのバケツをふせたような巨乳は気味悪い。ああいうのを売り物にし買い物にするやからの気が知れない。
シンプルなセーターやブラウスやシャツのまま、あっさり襟もとをくつろげたり、胸の線をそれとなく美しくみせている人に出会うと、自然心ひかれる。
もうよほど昔のことだが、こんな歌に出逢った。
いつまでも美しくあれといはれけり日を経て思へばむごき言葉ぞ 篠塚純子
この歌を、もらった歌集で初めて目にしたとき、ウムと唸ったのを思い出す。男は、まるで当たり前のように、また祈るように、こういうことを平気で女の人に口にしてきた。むごい気持ちでいうのでは、ない。やはり祈るような気持ちというのが近い。「美しくあれ」のポイントは、男どもにより色々異なるのであろうが、女の人は、なにを男に美しくあれと求められるのがいちばん「むごい」のだろう。
写真はいる
夜色 京祇園八坂神社石段下(四条通) もっとも懐かしい故郷
(手前左右に、東山通。左方が祇園町南側 右方が祇園町北側)
2007 3・31 66
* 田原総一朗の司会で人の話を聴いていると、要するに強引な田原節を押しつけられている。耳を傾けたい人の発言にも、田原は自分の言葉をさきへさきへ押し被せ、人の発言を妨げる。気に入らないと即座に否定し否認し没にしてしまう。この辺は、わが言論表現委員会の委員長に似て、もっとひどい。番組をつづけて聴く気を阻喪する。マスコミと「その筋」とで、「有卦にいっている(気の)人」の、高慢な病気である。
2007 4・1 67
* 春の花は桜だけではなかった。桃も梅もまだ咲いている。鉄砲水仙、花にら、クリスマスローズ、連翹、木蓮、しゃが、チューリップ、はやくも皐月までちらほら。数え切れない。
明日は妻が妹や従妹と、母方叔母を見舞いに行く。留守の午後をひとりで、西武線の奥の方、秩父までも探花の遠足に出かけようかなと思ったが、寒くて雨もよいの予報。それなら家で映画を「耳」で観て仕事しながら、骨休めをしよう。江古田の「リヨン」かひばりヶ丘の「ティファニー」まで午を食べに謂ってもいい。これで三日間、アルコールを自然に絶っている。エヘン、えらいものだ。
* 京都のホテルで観てきた映画『K19』をもう一度観た。ハリソン・フォードがソ連原子力潜水艦の館長を演じて、感動のクライマックスへねばり強く幾重にも盛り上げて行く。あれで良いと思う。
ジュリアン・ムーアという女優は、『理想の結婚』などで概して苦手であったが、『エデンの彼方』では、人種差別のまったくない魅力溢れた理想的レディが、男色の夫に去られ、心惹かれた黒人の大学出の庭師を偏見の街から駅頭に見送る難しい役を、騒ぎ立てずにしっとり演じてみせ、感じ入った。
2007 4・2 67
* 一日冷え込んでいた、冷え冷えと雨も。留守居をして、のんびり。発送の作業をしたり、デジカメの写真を整理したり、録画した映画を観たり。今日は、若い若い美男子のシャルル・ボワイエと、ジーン・アーサーという忘れかけていた美女の、すこぶるつきロマンチックな恋物語『歴史は夜つくられる』を観た。全然ちがう物語を予想していたので大いに間が抜けたけれど、二昔どころでない昔々の上品なメロドラマを楽しんだ
2007 4・3 67
* 作業がぐっと進んだ。あと五日かけて、全部とは行かないまでも九割がた発送用意は仕上がるだろう。
午前中作業の片手間に、デニス・クエイドの『ドラゴン伝説』を、午後は植木等のばかばかしい映画を聞き流しにし、つづいて、今も連続ドラマ「ER」に出ているインド人女優が主演の『ベッヵムに恋して』をちらちら観ていた。
晩には、イングリット・バーグマン、イヴ・モンタン、アンソニー・パーキンスという豪華版で、『さよならをもう一度』をとくと楽しんだ。画面で四十歳というバーグマンの美しい悩ましさ、愛の歓びと哀しみ。幸福であることの、女にも男にも共通の難しさ。なかなか綺麗につくっていた。
ゆっくり湯につかって、『宇宙誌』『世界の歴史』を楽しみ読んだ。
2007 4・7 67
* 最近のテレビコマーシャルで不快な御三家がある。
ことにむかつくほど不愉快なのは、「たんすにゴンゴン」のもの。この商品に対しわたしは全く異議も異論も苦情もない。不快きわまるのはコマーシャルの画面。
若い嫁らしいのが「おかあさん」と猫なで声で、トイレにいるらしい姑にドアの外から「たんすでゴンゴン」の耳よりの評判を強いて話して聴かせようとする。姑は「その話あとにしてくれない」と穏やかな声で迷惑そう。それからが凄い。演じているのは、あれは自称小説家タレントではないのか。トイレのドアに鼻こすりつけて、「いいッ」「いッ」と憎まれ顔を、繰り返す繰り返す。その地金むきだしの憎体で下品な顔の殺伐とした不快さ。トイレのなかのお姑さんが可哀想。あの嫁は一生の不作もいいところ。醜悪さにむかついてチャンネルをよそへ回す。
* 作業続行。その間に映画『しのび逢い』は例のジェラール・フィリップ。どうしょうもない色男青年の孤愁と、きれいな女たちの綺麗に着飾って脂ぎった性欲。甘そうで塩ッ辛い、辣腕の作品。
もう一つの『フレンチカンカン』はジャン・ギャバンがすてきで、フランソアーズ・アルヌール。小粋で楽しい映画に創れていて、さすが。
がっかりしたのは『男たちの戦艦大和』とやら、これは往年の『トラトラトラ』の重厚でスピーディーな映画作りの緊迫と巧緻からすると、戦艦からしてベニヤ板作りかと想ってしまうほど何もかも、脚本も演出も若い男優たちの演技も、からっきしヘタもヘタ、見てられなかった。ダメだなあ、こんなじゃ。
2007 4・8 67
* 用意は、まだまだ。根気仕事だけれど、じりじりと。午前中、ジェシカ・ラング、エリザベス・シューらの映画『従妹ペ゛ット』をちらちら観ていた。バルザックの原作にただただ驚嘆した遠い記憶がある、『従兄ポンス』もあった。「凄い」という感想が当たっている。映画はまだしも甘かった。
2007 4・9 67
* 夕方、三国連太郎演ずる岩手暮らしの老父、永瀬正敏また和久井映見らの出演する『息子』という映画を、機械に開いて、観た。胸にしみいる作であった。助演していた大勢、原田美枝子、浅田美代子、中村メイ子ら女優陣も、いかりや長助、田中邦衛ら男優陣の一人一人も好演で、監督・脚本の山田洋次らが手塩にかけて創り上げた立派な映画作品、映画の純文学という風情であった。
先日の『船を降りたら彼女の島』という映画も、しんみりと佳い仕事であったが、『息子』も断然負けていない。あれは瀬戸内海の島、これは岩手の雪国と埼玉の下町。日本映画、バカなにならないなあと嬉しくなる。
バカげた金をかけてラチもない新選組のような時代劇をつくるより、よっぽど良い。三国も永瀬も和久井も大好き。
2007 4・12 67
* 往年の名画『勝手にしやがれ』が、やはり見応え有った。ジャン・ポール・ベルモンドなんて好きではないが、一つの時代を代表してみせる個性が横溢、加えて魅力満点のジーン・セバーグが不可解にクールに冴えた女ヒッピーぶりを、美しく見せてくれる。ラストの秀逸、何度観ても印象にながくのこる。「勝手にしやがれ」という吐き捨てた台詞が、とてつもなく痛烈な現世・世間・此の世へ「去り状」のように聞ける。気がついてみると、「勝手にしやがれ」「勝手にしやがれ」と日々吐き捨てながらブッシュだの金正日だの安倍晋三だのの名を浮かばせたメタンのような泥流を足下ににらんでいる。いつ押し流されるか知れない。
* 田原総一朗らの番組も気色悪いが、おなじレベルで言えないにしても、藝能人とやらを、高価につくテレビ画面で好き放題に遊ばせてやり、それを見させられている視聴者という立場にも、ほとほと嫌気がさしている。
藝能人というのは、質の高下はいかんともしがたいにせよ、少なくも「藝」でもってわれわれ私民の壽福や快楽を祝ってくれるべき存在であり、藝をみせていないときは、今少し謙遜に楽屋裏で大人しくしていて欲しい。藝人の無自覚なせいもあるが、電波マスコミに巣くっている能のないサラリーマンたちに見識も良識もないからこういう逆立ち現象が起きている、これは知性の、感性の、自堕落なのである。同時に、われわれ私民の民度も、地に落ち卑屈になっているといわねばならぬ。
優れた藝をみせてくれる藝人たちを、わたしは、どんなに愛しているか、尊敬しているか計り知れない。しかし今テレビ画面に氾濫しているおおかたは、藝のない、藝にはるかに程遠い、藝ぢからと根こそぎ無縁な「ダダラ遊び」「わるふざけ」の場面ばっかり。掃いて捨てられたら、どんなに気分がすっきり良いだろうと、わたしなどにそんな思いをさせるのは危険なことだ。藝への差別に反発の創作や批評をつづけてきた、わたしに。
2007 4・15 67
* 二代目中村錦之助の襲名歌舞伎が興行中だが、言うまでもなく初代の錦之助は梨園に育って映画界に飛び出し、晩年は屋号の萬屋を姓に用いていた。映画に出てきた頃の錦之助はキャンキャン声でこうるさい役者だった。しかし中年から晩年へはたいした俳優に充実していた。歌舞伎界にずっといてくれたら、どうだったか。人気役者でありえたことは間違いない。
今夜、少しだけ市川雷蔵の映画『眠狂四郎』を観ていた。彼も関西歌舞伎の名優で大御所だった市川壽海の子か養子かで、歌舞伎で育つはずの逸材であったが、映画界にもって行かれた。いいーィ男だった。立ち姿が風を巻くように、しかも静かで妖しく、男前は水際立っていた。やはり時代劇がよかった。惜しいことに早く亡くなったが、存在感は今も小さくない。
亡き中村鴈治郎がまた歌舞伎界からわりと永く道草を食い、数々の名演技で映画の名優としても押しも押されもしなかった。彼が歌舞伎へもどったときは、嬉しいようなしかし映画のためには惜しいような気がした。
たいした作は残さなかったが中村橋蔵も甘い顔の人気の美男子だった。歌舞伎で佳い女形になって欲しかった。
大昔のことは言わないが、映画と歌舞伎とを往来した佳い役者、渋い役者は、わたしの知っている限りでも大勢いた。市川中車も坂東好太郎も。テレビが出来てからは歌舞伎の人はなにしろ性根が鍛えられているので、ずいぶん映画にもドラマにも割り込んでいた。割り込んだことのない人の方が少ないだろう。
成田屋の団十郎も高麗屋の幸四郎も播磨屋の現吉右衛門も、あの前の成駒屋鴈治郎ほどでなくても、いろいろ助っ人に出ている。フアンも喜んでいる。
雷蔵の眠狂四郎を観ていながら、たくさんなことを走馬燈のように思い出していた。
* エドワード・ノートン畢生のというには彼は、若いどころか初の映画出演であったらしいが、恐怖をおぼえるほどの名演技で観客を圧倒した、いやいやリチャード・ギア演じる弁護士もローラ・リニーの検事も、また学究の心理指導士も裁判所もおしなべて圧倒した『真実の行方』を、ひさしぶりにまた観て、また圧倒された。裁判の場面も、最後の牢の場面も、これぞもの凄い。
たいていの映画は、アメリカ映画は、むりにも結末をつけてしまうが、総員をみごとにだまして無罪を勝ち取った青年が、このあと何をするか、だまされた連中がどう立ち向かうのか、こんなに後日譚の欲しい映画はない。
* さて、いささか気も引けるが今夜は、この辺で、もう十一時半であるのだが、機械のまえから退散する。本を読みに行く。
2007 4・17 67
* そう思う一方で、さっき見終えてきた、キム・ダービー主演『いちご白書』のラストの印象が、強烈。
わたしの気分の動きにもよるが、時として、この映画を歴代映画史の第一位においていることもある。むろん気分の出入りでフィックスではないが。
わたしは、いまも、こういう「抵抗」に生きた学生たちの意気を、信愛している。
広いホールで、星座のようにまるく幾重にも学生たちが座って唱歌し、ダイ・インする。殺到した重装備の警官隊が、そんな彼らの頭上へ容赦なく催涙ガスを濛々と吹きかけ、叫喚の修羅場に転じて、根こそぎ暴力的に検挙されてゆく若い人たちのはねあがる肢体の悲鳴。
ああいう時代で全くなくなってしまった今日、若い人たちは、いつか生まれくる自分たちの子や孫を、今何をして、精神の自由や肉体の権利の崩壊・悲惨から守るというのだろう。
今しもわたしたちの孫・曾孫世代は、大人に問われて、この五十年のうちに「人類は、滅びる」と、六割もが、回答するというではないか。まさかと誰が言えるのか。
* 映画『ラスト・コンサート』のヒロイン、パメラ・ビッロレージにしたたか泣かされた。白血病で余命三ヶ月のいかにも「健康そうな」少女の、幸福な終焉。やす香のことを思い出し、せめてこういう数ヶ月を贈ってやりたかったと。バメラのいい顔。懐かしさに、わたしは痺れる。
2007 4・21 67
* 溝口健二監督、田中絹代、久我美子、大谷友右衛門、進藤栄太郎、浪花千恵子ら、京の島原『噂の女』を、この機械で観た。田中絹代の神技のような母女将役に、寒気さえ覚えた。こんな濃密でリアルな美しい映画をつくられては、最近観た『戦艦大和』だの『海猿』だの『壬生義士伝』などの薄っぺら、アホらしくて観ていられない。モノクロの画面の底光りした世界の深さ、巨匠の把握と表現の確かさ。『船を降りたら彼女の島』も『息子』もりっぱであったが。
ヘタなスペクタクルはやめた方がいい。
2007 4・22 67
* 『ラスト・サムライ』を二度目観て、今回ひとしお面白く刺激的に映画が楽しめた。渡辺謙、真田広之、小雪、それに、あれはチャーリー・シンか。とほうもない虚構でありながら、そのツクリ味がこの映画に限って、明治初年の日本の難しさももろともに、いろいろの読みを誘ってくれ、興趣を覚えた。批評的なねらい目の独特な刺激をわたしは高く買う。『壬生義士伝』などのアホラシサとはだいぶ出来が、格がちがう。ツクリモノがそれゆえに真実を手痛く示唆してしたたかな作だった。
2007 4・24 67
* 昨日、そして今朝また、ブラッド・ピットがアキレスを演じる映画『トロイ』を楽しんだ。日頃は凄い悪役を演じるショーン・ビーンが今わたしの関心のまとになっているオデュッセウスを演じていて、頗る刺激された。
ずうっとホメロスの『オデュッセイ』をそれは興趣ゆたかに読み継いでいるさなかなので、映画『トロイ』はタイムリーに眼にとびこんできた。
以前『トロイのヘレン』を観たが、あれは絵物語のラヴロマンスだったが、今度の此の大作は、わたしの好きな歴史ふうのスペクタクル。満足した。トロイの馬も見極めてから、就寝まえに読む『オデュッセイア』はひとしお面白く読めた。ヘレンの夫のメネラウス王は、映画ではトロイの王子のヘクトールに討たれていたが、あれは映画の作法、ホメロスでは彼は奪い返した妻ヘレンと一緒にオデュッセイの息子テレマコスを客人として城に迎えている。
映画ではメネラウスはパリスに奪われた妻を奪い返して、殺すのだと言っていた。ゲーテの『ファウスト』では、エレーンは夫メネラウスに殺されようとしていた。
2007 4・30 67
* 『エネミー・オブ・アメリカ』というウィル・スミス主演、ジーン・ハックマンも出ている怖い映画を面白く観た。悪意の野心をもった国家権力ないしそこに巣くう悪政治家が、衛星写真も含めてIT情報機能を独占的に駆使し、政敵ないし善意の私民を追いまくればどんなことになるか、を、技術的にも組織的にも物語に繰り込んで、ことこまかに展開していた。
サイバー・ポリスどころのレベルではない、なにしろアメリカだけでなく、どの現代大国も、躍起になって個人の情報を掌握しつつ機械的に身動きの出来ないように踏ん縛りたくて仕方なく、その体制をほぼ完璧にしている国を数えれば十本の指で足りないだろう。日本政府も、それがやりたくてやりたくて堪らない。われわれの知らぬ組織の働きで、精度はもうかなり高められているに違いない。「アメリカの敵」という映画の題が「アメリカ」自身を指さして警告していることは言うまでもない。
日本の政府を、権力を、「日本の敵」にしてしまわないように、若い人よ、もっと自身の基本の権利と安全とを大事に守ろうとし給えよ。
2007 5・1 68
* 要するに晩春にうっとりとして、何にも手が出ない。すこし歩いてくるかな。
* 歩きもしなかった。何をしていたのか思い出せないほど。
長谷川一夫の大昔の、正しくはわたしが高校二年の頃の時代劇映画の駄作を見た。
時代劇映画にも秀作がある。『羅生門』『阿部一族』『七人の侍』『用心棒』『笛吹川』『山椒大夫』『近松物語』『上意討ち』『切腹』『写楽』『たそがれ清兵衛』『雨あがる』などいろいろ。これらは観ていて「時代劇」という呼び方をたぶんしないのではないか。
時代劇俳優と呼ばれる大物達が大勢いた。映画としてはほぼどうしようもない駄作ばかりを娯楽時代劇として並べていたが、その中で、長谷川一夫だけはなぜか贔屓だった。『源氏物語』『近松物語』だけでわたしは忘れない。
今日の『修羅城異聞』だったか、長谷川一夫の眼づかいの色気と、若かったとびきりの美貌とに、もう一度逢っておきたかった。
* じっとがまんして、待つ。波はうねってくる。日付が変わるまえに機械を閉じ、また本を読んで、寝る。いや、一時間ほど必要なスキャンをしてみよう。音楽を聴きながら。
2007 5・7 68
* 大好きなリノ・バンチュラの『男と女の詩』を、引きずられるように一度で観通した。
どんな映画でも、録画ものはたいてい二度に分けて観ているが、ときどきそれをさせない映画がある。「男と女」との続編のような、けれど世間は大違いのこの映画のフランス流に洒落た味が堪らない。ラストの切れ味のおもしろさ。「二人を愛せる」と言い切る女の、深いというか大きいというか、はたまた、こわいというか。
利己主義に似て「己」を超え、個と個とに徹してゆく。言葉でごまかしたり、つまりは逃げをうったりより、ずっと毅いし潔い。好きだ。魅力を覚える。女優の名前、憶えられない。顔はしっかり記憶した。
リノ・バンチュラの映画では、題は変だが、アラン・ドロンと競演して一人の若い女を男二人で爽やかに清く愛した「冒険者」がすばらしかった。が、「男と女の詩」も、勝るとも劣らない。あの男の魅力に匹敵するのは、スペンサー・トレーシーとジャン・ギャバンか。ジョン・ウエインでは甘い。
おかげで、まる一日、谷崎のこと、何の用意もできなかった。もう二日しかないが、なんだか見切り発車になってしまいそう。その方が良いかもしれない。
2007 5・11 68
* 『若き日の信長』は市川雷蔵と森一生監督の秀作。若い日の林成年やなんと松本幸四郎ではない市川染五郎、それに金田一敦子や青山京子などはるかに遠くなった好い顔ぶれ。モノトーンの写真が美しい。角度のいい視野をきちんとはかったように把握して、表現に無用の揺れがなかった。
2007 5・12 68
* 少し気楽にデニス・クエイドと、すてきな奥さんレイチェル・グリフィスの野球映画『オールド・ルーキー』をほろほろと涙を散らしながら楽しんだ。気持ちの良い娯楽作であった。若い頃よりも、三人の子をもってからの父親が、絶好の剛速球が投げられたなんて信じにくいのだけれど、これは実話だもの。OK。
2007 5・19 68
* 変わりなく海外の連続ドラマ『ER』は、好んでよく見ている。昨夜の「救出」は文字通り凄かったが、感動も誘い、上々。現場の医師や看護士たちに出入りはあるが、アビーもコバッチュも、その他何人もまだがんばっている。もう我々に彼や彼女たちは、ドラマの演技者でなくなっている。アビーを演じているモーラ・ティァニーを『真実の行方』で弁護士助手としてみつけたとき、ケリー部長を演じているノーラ・イネスを『ディープ・コンパクト』でみつけたとき、最近では小柄なインド人医師が女子サッカー映画の主人公なのをみつけたときなど、まさかと、びっくりしたほど。どの医師も看護士も気に入って贔屓にしている。
命が、緊急の病傷・血・内臓そして死と密着している待ったなしの衝撃に、観ながら体を硬くしているときも多い。そして、スタッフたちの人間としての彫り込みのよろしさ。おどろき。共感も、ときに厭悪すらある。
2007 5・22 68
* ベルナデット・ラフォンというあまり観ない女優の『私よりも美しい私』とかいう珍しい題のブラック・ユーモアの映画に吸い寄せられた。しまいまで席を起てなかった、ずいぶん笑わせてももらった。男を性的に翻弄し殺人も窃盗もテンデ気にしないアッケラカンとした犯罪女性の物語。フランス語の音楽的な聴感にもふと魅せられる。
2007 5・22 68
* フランソアズ・トリュフォー監督の、昨日は『恋のエチュード』を、今日はジャンヌ・モロー主演の『黒衣の花嫁』を観た。作風は似ていたが、魅力あるジャンヌ・モローの女よりも、昨日の、どの俳優の名も知らない姉妹と男との淡泊なようで執拗な味わいのロマンスの方が印象にやきついた。姉妹を愛した男、姉妹から愛された一人の男の、いわば失恋というか喪失というか、フクザツな味わいに舌のしびれる美しい映像であった。
何度も何度も観てよろこんでいる、ミシェル・ファイファーの『レディ・ホーク』を新しい映像で録画した。胸にしみいるレジエンド。この女優は不思議に妖しい魅惑をたたえた個性。ことにこの、昼間は鷹に夜は美女にと魔法を掛けられている物語で、深みある表情を輝かせる。彼女の恋人もまた、昼は騎士に夜は狼にと魔法を掛けられ、二人はほんの一瞬昼夜の境目でしか顔が見られず共に旅をしている。旅の幾変遷の果て、彼らに無道な魔法を掛けた邪恋暴政の大司教の宮廷へ宮廷へのりこむ。こういう作品は手放せない。
2007 5・25 68
* 『白と黒のナイフ』は、グレン・クロースの弁護士とジェフ・ブリッジスの被告とで、面白く見せた。どんでんがえしというほどもなく予想できた結末だったのが残念。『真実の行方』の痛烈なひっくり返しは今でも恐ろしいと思うが、あれに比べれば淡泊で工夫がなかった。しかし裁判場面は見せた。検事がはなから悪役めくのもこの映画を一流の感銘作にしなかった。
2007 5・28 68
* 評判になった『華氏119』とかいうアメリカ人監督によるブッシュ政権批評の映画を半分ほど観ていて、ブッシュのアメリカが恥ずかしい以上に、あんなのに尻尾をふりつづけた、ふりつづけている日本の総理大臣に惨憺たる絶望を新たにした。あんな手合いからすれば、明瞭に「日本の憲法を守る」といわれた天皇さんにわたしは感謝する。
あんまり情けなくて、映画は半分でやめてきた。
2007 5・31 68
* 起き抜けに、昨夜録画しておいた「KEWAISHI」つまり化粧師という興味深い映画を観た。雑誌「青鞜」の発刊された時機の、鏡花でいえば『貧民倶楽部』系の、体制に媚びない反骨の作品。背景に代議士田中正造の活躍した鉱毒事件がおいてある。こういう映画のつくられるのを頼もしく嬉しく感じた。たんなる美学におぼれた作でなく、体制権力の驕慢にきっちり批判を向けながら、地に着いた意志をもっている。主役の化粧師など俳優の名も知らないが好感のもてる演技で、女優陣がそれぞれの持ち分をしっかりまもって映画効果を盛り上げていた。
所詮はかない抵抗だと如才ない阿諛社会は嗤って見過ごすだろうが、こういう酵母種が世間の底にひそかに沈澱していつか民衆の爆発にひきがねをなせばいい。
マスコミでは、かろうじて鳥越憲太郎らがきちんとしたことを話し続けている。希望は捨てない。しかし、むなしさは一頃に百倍千倍して気は萎えがちになる。
アメリカも、日本の政治も、そして中国も。醜いほど厚顔。
* 昨日のムーア監督『華氏911』は苦い嗤いとともにほとほとウンザリと生きる気力を奪いかねないルポルタージュ映画だった。あれに比べると今朝の「化粧師」は胸に清水の糸をひいて流れる嬉しさがあった。人間の劇が持つくらい美しさがあった。
2007 6・1 69
* 休息はどうしても映画になる。
ヒロシマとヌベールと題してもいい、ひょっとして原題はそんなところではないか、日仏合作『二十四時間の情事』が、エマヌエル・リヴァと岡田英次とのフランス語対話劇。男女の戦争体験を重ね合うように深く深く愛し合う「ヒロシマ」での一昼夜。女は日本へ反戦映画の女優として来ており、彼女には故郷ヌベールで、戦中に敵ドイツ兵と心から愛し合った思い出、同朋に女の髪をきられ軟禁のリンチを受け、恋人も射殺されるという、忘れがたい過去を抱いている。ヒロシマ原爆の惨禍への体験的参加をとおして女は、行きずりの男と、しかし運命のように痛みを分かち合う強い恋に落ちる。痛みで痛みを磨りおろすような恋である。静かな、胸に食い込んでくる二人の会話が、場面転換を縫って長く知的な火花も散らして、つづく。岡田英次が終始フランス語で、エマヌエルもむろんフランス語で、かすかな落差の言語音楽がみごと画面を縫い上げる、目をそらせなかった。
* 夜には青年ジェイク・ギレンホールに、婚約者の娘の両親ダスティン・ホフマンとスーザン・サランドンというベテランが助演して。まさに死なれて・死なせて・生きるドラマを、やはり静かに濃く描いて、泣かせた。婚約者の娘が結婚式の三日前に殺される。娘の恋人である青年と娘の両親とのむずかしい仮の生活が始まり、青年は町のべつの娘と出会う。その娘には娘に店を預けたまま兵隊に行って数年帰ってこない恋人がある。
これまた、死なれて死なせて、生きるストーリイ。佳い作品だ。
* カンヌで見事に受賞してきた女性監督の『殯の森』も、素直に深みのある感動作なのだろう。昨日観た『KEWAISHI』も優れてまっすぐ彫り込んだ秀作だった。
佳い作品は、つよいモチーフを感動させるだけの内容と表現とで彫琢する。底荷があって出来ることだ。軽々とした持ち前の才気だけでは、いい映画もいい文学も生まれようがない。ただ「仕事師」ではだめなのだ、姿勢が真率でなくては。
2007 6・2 69
* リチャード・バートンとクリント・イーストウッドのややっこしい『荒鷲の要塞』を観た。雪山のすごみのある写真に魅された。何のための作戦だったかと思い当たるのに少し間の抜ける映画でもあるが。
2007 6・4 69
* ヘンリー・フォンダと名優チャールズ・ロートンらの『の』ナントカという佳い映画を見た。病弱のアメリカ大統領が、新しく選んだ国務長官の信任を上院・委員会に求めた。賛成と反対とのはげしい攻防が一種の討論劇のようにくりひろげられる。同じヘンリー・フォンダの『十二人の怒れる男たち』に似ている。後者はべつとして、先の映画ではそれが「政治」に深く関わってくるのは事実として、政治とはかくも口舌=言葉の争闘であることを浮き彫りにしてくれる。たしかに言葉がハバを利かすのだ、此処でも。そういうわたしの思いを表出するのも言葉。人間の堂々巡りは言葉ゆえに滑稽なほど避けられないが、せめて良い言葉もありつまらない言葉もあるのだと、目をあけ耳を澄ましていたい。
2007 6・8 69
* 『ニューオーリンズ・トライアル」という「銃」を主題の裁判映画をおもしろく二日掛けて観た。ジューン・キューザックとレイチェル・ワイズの若い二人を芯に、ダスティン・ホフマンとジーン・ハックマンの大物が対決する。銃社会を維持すべく陪審員を大がかりに監視し籠絡し勝つためには超巨額の金を動かす、その悪辣な策士社会をジーンハックマンが好演し、弁護士ホフマンも陪審員の一人キューザックと恋人レイチェルも死力を尽くす。
陪審員制度の背後にこんな闇社会がほんとうに蠢くのかどうかは知らないが、わたしは今毎夜、「アメリカ」がアメリカとして成り立ってゆく歴史を読み続けていて、頭の中でその興味が幾割かを占めている。アメリカの歴史をよく知ることは、今日を批判する前提としてほぼ絶対的に必要なこと。
世界の映画で日本で観られる多くがアメリカ製、そしてフランス映画がついでいるようだ。アメリカ製の現代映画は、どんなにくだらなくてもアメリカを証言していると思って観てきた。『勇気ある追跡』でも『ダンス・ウィズ・ウルヴズ』でもそうだ。『ダーティー・ハリー』も『ランボー』も『ダイ・ハード』もむろん『マトリックス』や『アメリカン・ビューティ』もそうだ。
アメリカ史に触れて行きながら、映画好きのわたしの楽しみは色濃さを増す。
2007 6・9 69
* 『Uボート』を観た。潜水艦映画には名作が多いが、傑出した作になっていて何度観ても感銘を受ける。
戦争映画は、つとめて観る。戦争に対する憎悪がしっかり心身にこびりついてくれるように、だ。好戦的な、また戦争を感傷的に感情的に賛美的に描いたモノは避ける。極限状況の中で乾いたリアリティーの生き生きした戦争映画こそ、反戦を訴える。若い人たちに本当に観て欲しいのは、これら反戦につながる熾烈な戦争映画だ。
2007 6・15 69
* 朝食のまま観た映画、クロード・ルルーシュ監督の『遠い日の家族』は藝術作品だった。音楽と小説による映画。ユダヤ人家族へのナチスの迫害と不幸とをからめた二組の家族の愛の悲劇と再会に、「生まれ変わり」という東洋的な実感が大切に加わる。こまやかに輻輳する時制(テンス)の音楽的効果。深い静かな感動。すばらしい作品は在るものだ、こういう感銘を、小説からはもう久しく受けたことがない。大胆にいえば、小田実の『終らない旅』に似た思いがある、荒削りであっても。
佳い朝になった。
2007 6・16 69
* 夜前、ふと妻と、ひばりの『東京キッド』を観た。ひばり十二歳当時の映画で、わたしが最初の最後に祇園白川、吉井勇の歌碑のまえで「黒いちっちゃい雀みたいなヤツ」と出逢った頃だろう。
作中、余裕綽々しかも素直な発声で、やわらかに幾つものうまい歌を聴かせる。驚嘆のほかないが、特別出演していたエノケンの「藝」にも感心した。なるほどこれはたいした「藝」だと、二人してたっぷり笑った。こういうコメディ映画では有名な監督だった、斎藤寅次郎とかいったか、幾昔もの映画づくりの手際を興深く見せてもらった。
アチャコの藝には惹かれなかったが、妻が、藤山寛美の「藝」へあれが導いたかもという感想には頷いた。
映画はわたしの新制中学二年から三年生へのころに制作されていた、昭和二十五年。わたしはひばりに奇妙な「初恋」を覚えながら、人を慕い、与謝野晶子の源氏物語、谷崎潤一郎の新聞連載『少将滋幹の母』を読み、はじめて「襲撃」という小説を書いて先生に見せたら、目の前で破られてしまった。
中学の教員室が、一団の父兄たちに襲撃された光景を、校舎内から目前に見ていて書いた。祇園甲部の郭をひかえた運動場南の塀を、続々と半裸の男たちは乗り越え乗り越えて職員室に殺到した。大事に至る前に先生方は収束されたらしいが、どんな話し合いがあったかまでは知らない。
2007 6・17 69
* 夕方、スペイン映画『トーク・トゥー・ハー』を観た。胸にしみいる愛があった、名作というに恥じない。女闘牛士、バレリーナ。二人とも植物人間になってしまう。死んでいった女闘牛士と生前深く深く文字通り死ぬほど愛し合っていたライター。意識のない寝たきりのバレリーナを全身全霊で愛し妊娠させ、結婚したいと漏らして投獄され、悲しみのあまり自殺する、男看護士。看護士とライターとは病院内で深い友情を結んでいた。看護士はバレリーナが出産後にめざめていたことを知らずに自殺し、自分の家をライターに遺していた。ライターは、家の真向かいのバレーの稽古場にあらわれた、まだ若いそのバレリーナの笑顔に再会する。
俳優も女優も一人として名を知らない。胸にしみた。今日へ一日また生きて、よかった。
2007 6・17 69
* ケリー・グラントとデボラ・カーとの『めぐりあひ』前半分を見た。これほど真正面からのロマンスはもう今では珍しい。
デボラ・カーは魅力と気品にあふれ、航海の中泊まりで、ケリーの祖母にあいにゆく場面は何度見ても気持ちよく、ジンとくる。こっちがもう祖母並みに成っているから余計だ。もうそこまで観たら足りていると言いたいほど。
やはり映画史に語りつがれる大柄に佳い映画の一つ。ジーン・セバーグやデヴィッド・ニーブンと共演した映画や、「王様と私」などよりも、デボラ・カーはこの作で生き生きと働いている。
ケリー・グラントという色男がまたわたしは好きで。この映画ではやはり二人で祖母を訪ねてのチャペルでの祈りなど、「頭に来る」ほど、よろしい。オードリー・ヘップバーンとでも、エヴァ・マリー・セイントとでも、このかっこいい男優はいやになるほど男好きもする。
2007 6・18 69
* 「パーティカル・リミット」という、雪山のスリリングも度のすぎたほどものすごい映画に度肝をぬかれていた。スコット・グレンやイザベル・スカルプコがやっていた。
読み物では『北壁の死闘』など好きで、映画も見たが、映画としては今見たこの方が凄みがあった。どうやって撮影するのかしらんなどと素人の誰もが思うことを何度も思い、口走る。
これに比べると市川雷蔵の渾身の大殺陣には脱帽するが、映画の妙として『雄呂血』は今ひとつテンポがなく、物語も淡泊単調で工夫がない。八千草薫がいかに愛らしい頃の映画といえども、殺陣のほかには取り柄がなかった。しかし生前さほどと思わなかった雷蔵がだんだん好きになっている。『若き日の信長』が断然よかったので。
2007 6・23 69
* ヘレン・ミレンの『エリザベス一世』前編を観た。開幕すでにスコットランド女王メリー・スチュアートは、息子にも裏切られイングランドに幽囚の身になっていた。
この前編は、処女女王エリザベスと愛人レスター伯との、ややこしい友愛とも擬似愛ともいえる内縁を縦軸にしている。
フランスからの求婚者カソリックのアンジュー公との、彼女としては相当望ましかった結婚は、国民の反感により成らない。
司教や貴族たちの陰謀に負けたフリをして、ついに女王メリーを断首の刑に葬り、そしてスペインの無敵艦隊に勝利したのと、レスターの死とをラストシーンに、後編へ繋いだ。
ツヴァイクの希世の名著『メリー・スチュアート』やモロワの名著『英国史』を、さらに世界の歴史を熟読したあとで、この劇映画自体は、さほど賞賛できないおおざっぱな平凡作に見えたけれども、とにもかくにもわたしはこういう歴史映画はつとめて、好んで観る。
神が与えて戴冠した隣国の国王を、同じ隣国のそれも「世界一の親友、姉妹」と言い交わし書き交わしていたイングランド国王が、まんまと断頭の刑に死なしめた。これほどのドラマは空前にして絶後であったこと。その土壇場で演じたエリザベスの狡知の悲嘆は文字通りにもの凄かった、ツヴァイクの筆で。
今夜の映画は、それには遠く及ばなかったが、みものであった。 2007 6・25 69
* ヘレン・ミレンの『エリザベス一世』後編を、機能より遙かに面白く興味深く観た。レスター伯の継子であったエセックス伯が、老い行き老いたる女王の琴線を揺さぶり続けながら、王位を窺って断首され、そして女王もやがて絶息する。
凄いとか、凄絶といった形容詞はエリザベスの性格ために用うべし。しかも此の女王の率いたイングランドは、歴世稀な、奇跡のような隆盛に赴いた。彼女の本音はともあれ、この女王ほど国民と議会とに愛された国王は珍しく、すべてがそれに支えられたと謂えるだろう。
前後編を通じて、見応えのある映像になった。ヘレン・ミレン渾身の演技にただただ脱帽。花さんは、後編だけでも観たかしらん。 2007 6・26 69
* あいかわらず右脚、痛い。
* 明日とまちがえて、危うく眼科検診をミスするところでした。午後で助かりました。
エリザベスの後半は、凄みもあり堪能しました、観ましたか。ヘレン・ミレンに脱帽。上下編を通してよく計算された構成でした、が、やはり後半が緻密でした。前半のレスター伯にくらべると、後半彼の継子のエセックス伯はちんぴらのようで、いま一つグッと差し込んできません。イングランドというのは凄い歴史の国です、議会制などの深く学びたい面も、いかにも食肉人種のすさまじい面も。「ジェントルメン」という歴史的にすすどい階級の、紳士というあやしき仮面が、もう素顔に張り付いて素顔そのもののようです。
病院がすんで脚が痛くなかったら、浅草辺を歩いてから帰ろうと思います。
2007 6・27 69
* バート・ランカスターとジャンヌ・モローらの『大列車作戦』を食い入るように観た。フランス絵画の至宝を大量ドイツへ奪い去ろうとするドイツ上級将校の野望に、命がけに対抗したフランスの鉄道員たちの、英雄的な犠牲の山また山。敢然と闘い抜いて、最期の最後に首謀のドイツ軍大佐を銃で撃ち抜くバート・ランカスター。映画の初めに、フランス鉄道員たちの言語を絶する働きに心からの謝辞を贈っていたのを、わたしも忘れない。好きなバート・ランカスターの数々の映画の中でも、屈指の適役、見応えある秀作。
2007 6・30 69
* あ、あ、と思う間にもう日付は変わっている。
『天使に音楽を…』とかいう、人気のない教会で聖歌隊聖歌をリズミックなソウルに革新していった黒人ウーピイ・ゴールドバーグ主演の好きな映画を、後半だけ楽しんだ。
2007 7・2 70
* 録画しておいた『マリ・アントワネットの首飾り』を観た。フランス革命に火をつけた有名なスキャンダルの映画化で、ヒラリー・スワンクが運命に翻弄される。王妃マリー・アントワネットも断頭台への一路を滑り落ちてゆく。同じ宮廷でも、スコットランドやイングランドの宮廷とは露骨にちがう。これは二度観たい映画ではなかった。
2007 7・3 70
* 二時間おきに目が覚め、五時過ぎに起きてしまった。血糖値 122 は、まあまあ。そのまま仕事しながら映画『愛に翼を』を流していたが、少年イライジャ・ウッドを芯に、ドン・ジョンソンとメラニー・グリフィスがというつねは元気印の二人が愛児を死なせた切ない両親役を静かに烈しく演じてあわれあり、女性監督のセンスのよさが画面ににじみ出て、胸にしみる感動作に仕上がっていた。起きてきた妻も一緒に二度観た。仕事も出来た。二階へ上がってきて、まだ八時を少し過ぎたところ、朝飯前の早起き仕事が効率よかった。しかし眠くなってきた。
2007 7・4 70
* 眠さと闘いながら、バート・ランカスターの『終身犯』にも衝撃をうけた。きりりと引き絞った画面展開の中で、辛うじて死刑判決から免れた一人の終身犯が、意表に出た獄中人生を送る。バート・ランカスターならではの渋いねばり強い男っぽい生命力と潔さと。小学校三年生ほどの学歴しかなくて、不自由な獄中で世界的な鳥類学者になり研究書も出版し高く評価されながら、あくまで釈放はされない。予測もつかなかった展開の奇抜さとリアリティとに驚いた。実話か。
2007 7・4 70
* 『マーキュリー・ライジング』はたいそうな題だが。感覚のきわめて鋭敏な自閉症のマイコ少年が国家保安局自慢の秘密兵器でもある超難解な暗号をたやすく解読してしまった尖鋭なサスペンス・ドラマ。ブルース・ウィリスが持ち前のタフネスを活かして熱演する一級の面白さ。
ジェニファ・アンダーソンの『ママは美人警官』はたわいないお色気もの。ただしこのママ、相当な魅力。
雷蔵の『剣鬼』は読み物原作の駄作。不運な役者であったなと雷蔵が可愛そうになる。映画を聞き流し、流し見しながら発送の用意を進めてゆく。
2007 7・6 70
* ラクロの『危険な関係』はたしか岩波文庫にも昔から入っていた気がする。読まないが、読んだような気にさせさせられる作で、『クルーエル・インテンションズ』は原題での映画化作品と謂えるだろう、きわものの駄作であるが、ただヒロインのサラ・ミッシェル・ゲラーが破天荒の悪女でありながら、とてつもない美女、いや美少女で、義弟の美少年ライアン・フィリップも、リース・ウィザスプーンも歯が立たない。それだけは値打ちモノの映画で、ときどき一人でこっそり観てもいいなと思わせる、実にけしからぬ味の映画、こんなのをテレビで放映するかなあと呆れさせた。
映画を観はじめて、およそ人間関係も、先の見当も、すぐついた。日本語でよく似た、ながい小説を読んでいた気がする。ヨッポドちがうけれど谷崎の『卍・まんじ』にもちかく、こういう人間把握からとほうもない地獄も表現できるだろうと思う、ラクロの原作を読みたくなった。同じ意味でナボコフの『ロリータ』も読んでみたい。我が家のナボコフ本には『ロリータ』が入ってなくてガッカリした。映画化されたスー・リオン主演で脇にジェームズ・メイスン、シェリー・ウインタース、そしてもう一人名優を配した『ロリータ』は、今日の『クルーエル・インテンションズ』より数段上出来だった。ケビン・トレイシーとアネット・ベニングでアカデミー賞をとった『アメリカン・ビューティ』も、筋はずれるが渋い良い映画だった。
こういう映画からみると、あの古き良き時代だかどうだか『若草物語』などは、もう夢の彼方という感じになった。原題の女はスカーレット・オハラの後を嗣いで追っている。
2007 7・10 70
* ウーピー・マグダレンの『天使の歌声2』もよかった。音楽とダンスの魔力がこう自然に発散されては堪らない。
2007 7・14 70
* 珍しい広島の秘酒ももらい、「虎屋」の水羊羹ももらい、黒いマゴとも仲良くしている。『マイ・ガール』という、死と生とをていねいに描いて落ち着いた映画を観た。やす香を想いながら。一年前の悲しかったこと。悲しがるのはよそうと妻と話している。やす香のために可愛そうだから。元気にやす香らしく向こうで生きているのだからと。
2007 7・16 70
* ゆうべマキリップを思いの外長く読み、それからまた『ゲド戦記む』第一巻も読み進んだので、寝たのは明け方。そして七時半に起きた。血糖値、118。まずまず。そのまま作業に入った。
一日宛名ラベルを封筒に貼っていた。その間に、メル・ギブソンの『パトリオツト』を観ていた。アメリカ独立前の英本国と植民地十三州との激戦。メル・ギブソンには秀作『ブレイヴ・ハート』もあるが、歴史感覚と自由な人権の主張に敏感な、これも彼らしい優れた意図の感銘作。凄絶な展開の中にハートの熱がみなぎった。
2007 7・17 70
* 「今・此処」は沸騰。左奥歯の噛み合わせわるく、キクキク鳴る。
それでも坂田藤十郎出演の藝能インタビュー番組は面白かった。NHKの女アナウンサーの笑顔もよかった。ああいうところで男のアナウンサーだと、教室での勉強じみていけない。シュワルツネッガーの『コマンドー』は何じゃこんなもんだったかと思うほど平凡。
2007 7・21 70
* 真田ヒロユキに惹かれ、中国映画らしき『PROMISE』を観た。真田にならゆるせる役どころで、こういう「タケル」男の顔がわたしは好き。但しこういう映画をつくりながら今の中国は世界覇権の夢を追っているかと想うと、物騒だ。しかしこの映画などに観られる白髪三千丈ふうに徹底した誇大ロマンチシズムは中国の古い伝統で、毛沢東中共時代の政治的な映画は歴史的にはまだ瞬時にちかい一過性のもの。そのなかで心に残る佳い作品が幾つも生まれたが、プロパガンダにだけ精出したシロモノも少なくなかった。
香港のカンフー映画などの逆効果もあってか、今夜のこういう夢物語が復活し始め、そこに愛や露骨な性が表現され始めていること、覇権や武力や陰謀のかすかな裏打ちに過ぎなくても、現代中国の変貌と速やかな爛熟をみせている。
たんに映画だけでいえば、わたしは『大黄土』『恋人の来た道』「この子は誰ですか』などを評価しつつ、今夜のこの手の映画などを通して、中国伝奇の伝統にも会釈する好奇心を捨てていない。だてに『西遊記』「白蛇伝』などは書かれていなかった。
2007 7・22 70
* どの本もおもしろくて夜更かしし、あと眠りはしたが浅く、暗闇に溶け込んでいたり、しらしら明けを感じながらかなり永く床の上で静座していたり、仰臥のまま両脚を十五度ほどあげて三百数えたりしていたが、五時すこし前に起きてしまった。
映画『PROMISE』の後半を観ながら、自分で素麺をゆで、冷やし、朝飯にした。朝飯前の血糖値は、103。
2007 7・23 70
* 『アポロ13号』の生還を観た。何度めかだが、時間が経つとまた観たくなる。劇的という言葉の真髄が見えるから。
韓国とイラクのPK戦に至るサッカーの後半四十分ぐらいからあとを観た。PK戦は、心臓にわるい。
2007 7・25 70
* 安倍政権に怒りのノーを突きつけて、心友であった小田実さんに昨日死なれ、亡き九兵衛さんの魂の籠もった一周忌の美しい湯呑みを今朝頂戴し、心ゆく一日を街で過ごして帰宅、嬉しいお便りを目にした。
そして、もう一つ。転記させて下さい。
☆ スウェーデンの巨匠、イングマール・ベルイマン監督、死去 麗
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=264523&media_id=14
初めて好きになった人は忘れられない。遠い日の思い出でも,こうして昨日のことのように,語ることが出来る。
当時私は小学生。ふと目に留まったTVの洋画劇場の「予告編」が,1週間頭から離れなかった。題名は『沈黙』。翌週,教育上悪いと言う母親と大喧嘩の末,ラストシーンのみを見ることが出来た。列車の故障で,言葉のわからない外国に足止めを喰った,姉妹の話。妹の息子も一緒だ。
若く水気の多い(瑞々しいではない)母親と少年が,車窓に向かい合って座る。病気で外国に居残ることになった少年の伯母であり母親の姉である女性からの手紙を少年が読む。
「この国のことばをひとつ,あなたに教えます。―ハジュク(精神)―。」
後に全編を見た。ことばの通じない外国という閉塞状況の中で,病弱でストイックな姉と奔放な妹との反目が,どんどん煮詰まっていく息苦しさ。欲望は,耐えて抑圧することで様々なものに昇華する,ただし,悲しみや苦しみを伴うけれど。逆に,欲望を解き放っても,生み出すものや得るものは何もない,などと感じたのを覚えている。
ベルイマン映画との出会いだった。初めて好きになった監督だった。
それからなぜか,この監督の映画を,しかも白黒の隠々滅々としたものばかりを選んで観る日が続いた。神保町の岩波ホールには,若い頃,手弁当で通ったものだ。『冬の光』『恥』『ペルソナ』…。ベルイマンの故郷,北欧には,白夜のような明るい夏と,太陽が出ない暗い冬がある。そして,ベルイマンは,この「夏」と「冬」のような,対照的な映画が作れる稀有な監督だった。『ファニーとアレクサンデル』やオペラ映画『魔笛』が夏の白夜なら,私が好んだ方は,さしずめ北欧の冬だろう。もちろん夏のほうも,いい映画だと思ったが。
もう,そのどちらも観ることは出来ない。
遺作となった『サラバンド』は未見だが,夏と冬,どちらの部類なのだろう。追悼の意も込めて,早く見る機会を持ちたいものである。
* 白皚々の雪原から、高貴で柔美な魂が青草のほつほつと見える映画ではなかったろうか、戦慄にも似た旋律の啓示に、息を呑むことの多い映画世界であった。わたしはそう感じた。訃報は一つのまたも啓示のごとく届いた。
* かくて、七月尽。
2007 7・31 70
* 昨日、昭和三十三年、わたしたちが上京する前年の映画『暖簾』を二度繰り返し観て、満たされた。森繁久弥と山田五十鈴・乙羽信子、それに中村鴈治郎、浪花千恵子その他いま眺めると藝達者な錚々たる顔ぶれで、娯楽映画としては重厚なロケーションと快適なテンポのカメラワークに魅了される。もっとも私にも妻にも昔懐かしさが多大に働いてはいる、なによりもみごとな大阪弁の心地よさ。原作の小説は突きつけられても多分読むまいが、川島監督等の映画藝術としては申し分ない一級品。
2007 8・8 71
* このところテレビで放映の、山口百恵と三浦友和の文藝映画を、なるべく観てきたが、一番楽しみに待ったのは『春琴抄』だった。たどたどしい演技ながら、さすが正宗白鳥が、また川端康成が絶賛した原作のちからで、また多分に「百恵と友和」という実の夫妻の大きな好感度も加味されて、わたしは不覚にも佐助が自ら目を針で刺した辺りから、落涙していた。二人の至福の「一体」がいとおしくなった。
『潮騒』『風立ちぬ』『伊豆の踊子』などは、映画としてもすべてやや甘かった。原作の甘さにもよることが、谷崎の原作と比較してよく判定できた。『春琴抄』のはらんだ「劇」は、烈しく極限へむかって爆発する。劇的という文学の効果が、他の諸作品ではどきどきするほどは、感涙を催すほどは伝わらない。味わえない。
しかしまあよくも此の二人で撮りに撮ったもの。あれでは百恵と友和とが「みごと」に結婚したのが当たり前に思われる。最も成功して、長く人の胸に好感を伝え続けた「作品」がふたりの『結婚』という実生活での創作であったなあと、よそながら嬉しくなる。わたしは三浦友和という男が、俳優として以上に人間的に好きなようだ。器量が大きい。
2007 8・10 71
* 映画『麻雀放浪記』を観た。映画としては上出来で、鹿賀、真田ら男優も、加賀まりこ、大竹しのぶら女優もいい演技をかなりリアルというより自然に見せてくれた。ああいう世界にも何分かの「理」も「美」も「意気」もあるに違いない。そういう意味で描かれた人間のあらけなさも貧しさもよく描けていた。共感はしなかったけれど。小説にならない素材が無いように、映画も何だって描ける。この映画も殺伐とした情味の世間を深切に描き切って成功していた。わたしには、だが、それだけのことだ。
2007 8・11 71
* 朝昼兼帯の食事を十時半頃に。そして休憩に映画の『ダロウェイ夫人』を半分ほど観ていたが睡魔に征服されて畳の上で、ゴロリ。四時過ぎまで眠っていた。幾らでも寝られるナア、眠たいなあと夢うつつに眠っていた。
2007 8・14 71
* 深夜、映画『日本のいちばん長い日』を観、朝、妻ともう一度観た。
この映画をわたしは機会が有れば繰り返し観てきたが、今日は、ひとしお痛切に六十二年前を想起し、溢れるものを堪えられなかった。
何にしても「此処」からわたしも歩き出したという実感がある。
敗戦の日とともに思い出すのは、誰よりも強烈に阿南陸軍大臣のいちはやき自決であった。他のことは御前会議も何も一少年の耳目には容易に届くわけもなかったが、新聞の報じた陸将の自決は峻烈に敗戦と結びついた。
わたしは敗戦を呆然と心細くは聞きながら、必ずしもくらい一方の思いではいなかった。丹波の山村の、日盛りの農家の前庭へ出て「玉音放送」なるものの聞き取りにくい機械的な音声を耳の端に聞き止めたあと、「戦争に負けた」らしいという実感に被さってきたのは、「これで京都へ帰れる」というかすかな開放感だった。わたしは飛行機のように両手を広げて夏空の下をぐるぐると駆け回ったように覚えている。
* 映画は、この手の大作の中ではかなり緊密な緊迫をよく劇化していて、ほとんど「映画」を観ているという感じを与えないほど、場面のいちいちから訴えてくるものが血肉化されている。今から思えばわらうしかない場面すらも、わたしを嗤わせるよりは、深く傷つけ悲しませる力を帯びていた、わたしは、日本の最期という「儀式」を受け容れるように画面の前でせつなかった。
* 六十二年。かるい感慨ではない。たやすい道のりでもなかった。先人へのいたましい哀悼と感謝の思いが厳然とある。靖国参拝をパフォーマンスの具に供し、しかも戦争体験をだるま抜きのように忘れ去ろうとする賢しら人たちの、戦前復帰を思索し画策する者たちの、愚と傲慢を憎むのである。
* 三発めの核爆弾をも日本人と日本の国土とが受けずにすむために、何の努力が必要か、たやすい問いでないのは分かっているが、問いかつ行動しなければ済むまい。
* 異様な暑さへも我々は刮目し対処しなければ。あの敗戦の頃の日本では、一夏に三十度を超す酷暑はせいぜい多くて数日であったように覚えている。しかしこの植生豊かな日本にして、四十度という夏がいずれ常態になるかもしれない。命も守らねば。地球も守らねば。そのためにも一人一人が聡明を保たねばならない。
* わたしたちはこの日を、有り難いという感謝の気持ちで勘三郎らの納涼歌舞伎を楽しませていただく。
2007 8・15 71
* 夜前、宮沢りえと原田芳雄との映画『父と暮らせば』を、ひたむきに観た。感銘深甚。小説なのか戯曲なのかも知らないが井上ひさし原作にも敬意を惜しまない。ヒロシマ、ナガサキの原爆を書いた作品は少なくない。なかでも、しみじみと胸にしみいる感銘作としてこれを、わたしも妻も、掛け値なく敬愛。
大好きな宮沢りえに、心奪われていた。原田も大の好演。たしか舞台では、すま・けいが佳い父親役を演じていた。
* 小説や演劇に「幽魂」がかたちを得てあらわれるのは、昨今ではちょくちょく在る、だが、わたしが『清経入水』で太宰賞をもらった昭和四四年ころは、まず、鉦と太鼓で捜しても例がなかった。選者の先生のお一人ははっきり、「現代の怪奇小説」と評しておられたし、先輩の吉村昭さんのように「事実」を重んじる作家からは、こういう行き方は「よく分からなかったよ」とのちのち苦笑されたほだ。むかし泉鏡花も、そのように、時代の大方を幽霊登場で戸惑わせていた。わたしの作では『蝶の皿』『秘色』『みごもりの湖』『初恋』『北の時代』『冬祭り』『四度の瀧』『秋萩帖』『鷺』など数多く、みな現代小説でありながら、自然に、ふつうに他界の人たちが登場してくる。
だが、今は此の映画や舞台もしかり、ほかにもドラマや映画にふつうの趣向として、よく「他界の存在」が現れ活躍している。リアリティは優に確保できると「時代」が理解してきたのだ。
2007 8・17 71
* いつしかに、もう宵。いろいろなことを、いろいろに一日していた。もう七時前。いま、身の真横の子機で、『父と暮らせば』が映っている。音楽なら平気だが、映画の画面を観ていると姿勢が崩れて、親機で書き仕事が出来ない。子機の置き場所を四十五度ほど動かすと、仕事しながら映画も観られる。誘惑される。
宮沢りえと原田芳雄との会話が耳には懐かしく、心嬉しい。りえは、なんでこう懐かしいのだろう。
2007 8・17 71
* 清水美沙、遠野凪子らの深川辺か或いは品川か、何にしても岡場所ものの映画『海が見ていた』を観はじめた。が、なんだか吉岡宏隆と遠野凪子との客と遊女のなかが出逢いから不自然で、いったん途中で逃げ出した。山本周五郎の作から黒澤明が脚本を書いていたというが、人情の運び方が変にわざとらしい。なまぬるい。
それでも思い直してまた観て行った。清水美沙というさほど美しくもなく少し間延びのした感じの女優は、にもかかわらず不思議に実在感を画面につきつけながら興趣の映画やドラマを創ってみせる。この映画でも清水の存在がヒロインである遠野や、イロになる永瀬正敏の味わいを支える。
奥田瑛二の悪をはじめ脇役がしっかりかためていて、こんな情も厚ければ行儀もまずまずの女郎屋ってあるのかな、あってもいいかなどと納得しながら、クライマックスの颱風と大汐のあららかさを受け容れていた。見おわってやっぱりなんだか都合のいい映画だなとは思いつつ、わるい気はしていない。だが周五郎ものは、どうも芯がぬるく弛くて、なかなかとことんは感心させてくれぬ。
2007 8・18 71
* たとえば吉永小百合たちの『ひめゆりの塔』といった映画を、わたしは、どうも素直に観ていられない。戦争場面が、ではない。戦争のことなど観念的にしかまだ頭にない純でお行儀の良い女学生たちの、ブルーマ姿の学校場面などが、気恥ずかしくて、観ていられないのである。
何故だろうと思いつつ、思い当たるのが、つまり時代や教育(家庭教育・社会教育)によって、拒みようなく強く「枠づけ」されてしまった人たちを観るのがイヤなのだということ。
清く正しく美しくといった女学生も、戦時の、みんな同じ顔した少国民も、兵隊さんも、学校教師も、政治家も。みな、「自身」をやすやすと見喪って時代や社会の鋳型どおりの「枠」内に安住している。
身空ひばりの『悲しき口笛』や『東京キッド』を観ていると、ひばりの演じる少女だけでなく、あの時代の「美空ひばり自身」が、時代の古くさい鋳型の「枠づけ」から、めちゃくちゃにハミ出ている。天才が「枠」をあたりまえに蹂躙し粉砕すべく発揮されている。しかし当時のPTAのオバさんたちが、どんなにひばりを罵倒していたことか。
「らしい」だけの存在が、きらいだ。
学生らしい学生、先生らしい先生、作家らしい作家、ニートらしいニート、会社員らしい会社員。世の中の秩序や安全のためには「らしい」方がややこしくなくていいのであろうが、ウンザリだ。「枠」への叛逆。それなしにどうして本当に「生きている」と言えるのだろう。
2007 8・19 71
* また繰り返し『海は見ていた』をじっくり観なおしていた。
今日はなんにも出来ない日だったが、ひょっこり夜になり建日子来訪。日付の変わるまで親子三人でもろもろ歓談。
建日子は「二人乗り」の新車で来た。二人しか乗れないのに、車はそこそこの大きさ。遠くへでも連れて行くよと誘ってくれた。が、助手席に並ん
で、ひとなみよりデカい男二人の走りは、イキでないし、いかにも窮屈そうやなあ。
2007 8・19 71
*映画『父と暮らして』を観たあとで、映像の『ディープ・ブルー』を観たり聴いたり。そしてうとうとしていると、夢にも寂しい寂しい世界がみえてくる。海は豊富な生の源泉であるけれど、激烈で深刻な死の世界でもある。また蘇りの世界でもある。いつか自分もそこへ流れ込む世界である。幻惑と残酷との世界である。暗黒である。地獄である。そんなところにも数限りない命が存在する。
2007 8・20 71
* 夜前、映画『赤い靴』を観た。モイラ・シアラー。こんな題の映画があるとは覚えていたが、単純なバレエ映画と想っていたし、ま、そうには違いないがアンデルセン童話に取材したバレエがしっかり描き出され、いずれは悲劇的結末と予測していたものの緊迫したカタストロフとなり、劇映画として成功していた。ただしいかにも幾時代も昔の作柄で、なによりもバレエ自体が今日の水準に遠いのは致し方がないか。しばらくぶりに妻と夜ふけて映画を観た。
2007 8・31 71
* ウォーレン・ビーティーとハル・ドナーの映画『ブルワース』が、つくりはやや粗いが胸にせまる強い発想と面白さとで惹きつけた。はじめは意図もくみにくくコリャ何ジャと辟易気味であったのが、ぐいっと取り込んでくれた。
2007 9・1 72
* メラニー・グリフィスとドン・ジョンソンの、それにイライジャ・ウッドが事実上の主役をする『パラダイス 愛に翼を』を、わざわざ選んで観ていた。
淳で、柔らかくて、温かいものが、観たい。欲しい。そう思って。
心優しい、ほんとうに天国のような佳い世間だ。最後に、泪が来た。泪はある種の目の病にわるいと、落語で聴いた。右目尻の、かすかにだがニチャついて霞む不快感が、なかなかとれない。
2007 9・5 72
* 映画『ディープ・ブルー』をそばで流していると、海にひきずりこまれそうな気がする。劇映画『グラン・ブルー』に粛然と感動したことが思い出される。改訂に帰って行く主人公がいくらか羨ましかった。
* 一九四一年、ゲリー・クーパーとバーバーラ・スタンウィックとの『群衆』は、観ていなくても、そばでただ画面と声とが流れているだけでも、優れた意図に貫かれた映画だと判るほど。こんな映画を、アメリカは、開戦の昭和十六年につくっていた。
2007 9・6 72
* 北海道の「麗」さんも胸に迫る日記を書かれている。が、わたしはいま、書き写し読み直す元気がない。いま、わたしの肌も神経も、出雲の兎のよう。落ちてくる焼け石をだきとめていた、あの若い弟神のよう。それでもその兎は癒された。それでもその神は癒された。
わたしは癒されたいのか。それとも癒えるまではどんな苦痛にも耐える気か。
* 永い生涯に、ああ羨ましいと思ったことは、幼時から近時までむろんいくらも有った。だが、なかでも印象的に忘れられずにいるのは、「団蔵入水」であった。歌舞伎から身を退いた老優は西国遍路に向かうと告げて旅立ち、そして誰知らぬうちに船から消えていた。わたしは、何度もその静かな最期を想った、一つの事実として。
団蔵の最期は、わたしが「清経入水」を書いたよりアトのことだ、記憶ではそうだが、いま確かめることはできない。あの浩瀚な平家物語のなかからとりわけて自分があのような公達清経の入水死に真っ先に筆をつけたことが、なにやら意味ありげに団蔵の死に受けた羨ましさと重なって思い出されるが、たぶんわたしは、そういう真似はすまいと想う。ただ、ともに羨ましかったということは、消え去らない。
映画『グラン・ブルー』に魂を鷲づかみされるほど共感し、あの真の闇の海底に帰って行く主人公を、わたしもまたあの彼を愛した女と同じ思いで見送ったことが思い出される。羨ましかった。たしかあの女は男の胤を宿していた。わたしもまた何かしらそういう胤を自身の身内にまだ胎動のように感触しているのだから、死ぬわけには行かないのである。それだけのことであるが、それだけが大切だとは知っている。
2007 9・7 72
* マイケル・フォックスという小柄なハンサム俳優は、いろんな映画で活躍してきたが、レーガン大統領と同じ、パーキンソン病に苦しみながら健闘していることを、彼へのインタビュー番組で知った。インタビューの間に彼は二分間中座して「服薬」してまた登場した。二分間すると飲んだ薬が効いてくると。そのあと、あきらかに少し話し方だけでなく、上体にかすかな動揺がみえていた。彼は研究機関に多額の寄付をつづけているという。
彼は「弱虫」ではない。わたしも「弱虫」ではなく生きたい。
マイケル・フォックスとジュリー・ワーナーの『ハリウッド・ドク』は、優しい映画であった。
2007 9・7 72
* 黒澤明映画を鳴り物入りでリメイクした『天国と地獄』は、期待通りではなかった。使った時間が長い。長さに甘えて緊迫のテンポが表現できなかった。そのためにさほど息苦しく息詰まる展開にならず、たぶんに情緒的であった。佐藤浩市も鈴木京香も阿部寛も佐藤満も、ま、犯人役の妻夫木もわるくなく、みなむしろ好演なのに、脚本はゆるく、演出もいまいちムダを溜め込んでいた。
黒沢の原作映画をわたしは残念なことに観ていない。観ていたら、たぶんもっと今夜の作品に落胆したことだろう。
* 明日は『生きる』だそうだ。この原作映画は、わたしの映画鑑賞の一原点であった、それこそ胸ぐらをとって揺さぶられ、志村喬とたしか小田切みきとに、声を絞るほど泣かされた。少年だった、わたしは。さ、幸四郎が、どれだけ観せてくれるか、楽しみたい。
2007 9・8 72
* フェルメールの内覧とレセプションの招待が来ている。新国立美術館など、「新」とついた施設には行くヒマがなかった。このところよく一緒に頑張った妻と、一息つきに、出かけてみようか。六本木というのも、気が晴れるか。ただ内覧とレセプションというとむやみに混雑し、何を観ているのか分からないときも有る。レセプションの方を失礼する気でピークを外すのがコツだが。
「真珠の耳飾りの女」と謂うたか、前に妻と池袋で観たフェルメールの映画を、昨日NHKが放映した。録画した。
2007 9・25 72
* 池脇千鶴主演、名優田中裕子と沢田健二が夫妻の漫才師役の『大阪物語』に、感嘆。平田準と謂うたろうか、監督のセンスの冴えにも感嘆。この映画の主人公は「大阪」だ。それにしても映画へ入って行くトッパナの少女役池脇のうまいこと、センスのいいこと、たしかなこと、総身に粟立ってくるほどの芝居ぶりに、降参、絶賛。
加えて田中裕子である。なんという演技の光る女優だろう。大竹しのぶ、宮沢りえ。いやいや女優陣には堪能させてくれる人たちがけっして少なくないのだが、田中裕子の奥行きと幅とには、豊かさ確かさには、絶賛を禁じ得ない。
2007 9・26 72
* 『真珠の耳飾りの少女』はフェルメール同題の畢生の名画の一点。この少女を、すばらしい映画にした。静かに静かにみっちりと追究した希有なばかりの藝術・藝術家作品。寡黙で深い情熱と知性をひめたスカーレット・スワンソンの少女像は絶品。フェルメールを厳しく寡黙に演じた俳優も好演以上の存在感。
佳い物をまたみせて貰った。映画館でも観た、妻と。この繪もあの『牛乳を注ぐ女』といっしょに観られたら幸せであったのに。
2007 9・27 72
* エリザベス・バークレーの主演映画『ショー・ガール』に感嘆した。セクシーだからではない、きわめてマットウだから。この生きようには心臓をグイと掴まれる。
2007 9・30 72
* マレーネ・ディートリッヒ、ゲリー・クーパー、アドルフ・マンジューの映画『モロッコ』に感嘆。映画ファンに久しく愛されてきた理由が分かる。ディートリッヒの魅力と貫禄、その所作の美しさ、豊かさ。史上最高の女優哉と思わせる存在感の美しさ。
むりな筋立てだとは思うけれど、それを成り立たせる表現の力。映画の純文学か。
すこし見かけていた例えばショーン・コネリーとキャサリン・セタ・ジョーンズの泥棒映画゜エントラップメント」など、どれほど金を使って作ってあっても商業映画の通俗読み物の域を出ない。同じならシャロン・ストーンの氷の魅惑と美しいセックス・シーンの『氷の微笑』の方に、極限の悪に膚接した魅力があるが、モノトーンの『モロッコ』が描き出す必然の力には勝てない。『情婦』のディートリッヒも立派なものであったが、『モロッコ』の彼女には愛を覚える。ゲリー・クーパーもアドルフ・マンジューもともに好演してくれた。
映画の端的な魅力に比べると、翻訳で読んでいるグレアム・グリーンの『事件の核心』は核心に入ってくるのが遅い。同じグリーンの『情事』には、もっと求心力があり、胸にこたえて感銘が酸のように身を灼いたものだが。
2007 10・7 73
* もう幾日にもなるだろうか、「お宝鑑定団」を見ていたら、山本五十六連合艦隊司令長官が、真珠湾攻撃に成功した武勲の部下に与えた和歌一首の、軸であったか屏風であったかが、鑑定されていた。
由来からも書の生彩からも真筆に疑いはなかった。鑑定した田中大氏は丁寧に理由を述べてその歌も読み解いてくれたが、真珠湾を劈いた我が軍の意気が聞こえてきたというほどに読まれて、それは正しい。ただ、結句結語の一音を「よ」ですと強調していたのが、可笑しかった。
私の目には明らかに「由」のくずし字とみえて、「ゆ」 つまり「その方角から」を意味する助詞に相違なく読めた。勇壮な男歌の結句を結ぶ一音が「よ」とは、いかにも歌の響きが弱い。正確な言葉として覚えていないのは当方も弱いが、「真珠湾から」または「戦場から」ハッキリきこえてきたと歌われていたと、そう、わたしは読んだ。あの字は「よ」とは読めなかった。
2007 10・8 73
* ニコール・キッドマンとジュード・ロウの『ライス・マウンテン』は、大作ながらいまいち物足りなかった。南北戦争ものは不愉快な成り行きをどうしても強いられるのだが、それでも『風とともに去りぬ』は、それなりに映画としての花があった。ニコール・キッドマンは美しい女優だが、あまりにするどい顔立ちなのが、この映画ではかえって損をしていた。もう一度ぜひ見たいほどには感じない。
2007 10・8 73
* 映画『雪国』が、なつかしい。岸恵子、八千草薫、池部良。浪花千恵子、森繁久弥、多々良純。久保明もいた。
2007 10・12 73
* 映画監督ベルイマンは、凄みを湛えた精神をささげもつようにして、死んだ。どの映画も身をこわばらせて、引き込まれた。
☆ 夫婦は幻覚を共有し,同じ狂気に堕ちる(イングマル・ベルイマン監督『狼の時刻』感想)。 麗
イングマル・ベルイマンは,私が初めて好きになった監督である。去る7月30日に89歳で死去した。日記にも,それについて記した。(7/31 日記)
その後,TVで特集も組まれず,東京あたりで細々と催される追悼上映も,最果ての地では縁もない。何でもいいから見たいもの,と焦がれていた。しかし,インターネットとは便利なもので,未公開3作品のDVD-BOXを発見。早速注文して,自宅で見た。
3作品の中のひとつ,『狼の時刻』は,サイコ・スリラーとしても楽しめる映画だ。精神的に追い詰められた夫を気遣う身重の妻が,耐え忍ぶ生活の中で,徐々に夫と同じ幻覚を見,狂気に引きずり込まれていくさまが描かれている。
夫を演じたのは,マックス・フォン・シドウ。『エクソシスト』の神父役でお馴染みだが,ベルイマン作品には多く出演し,性格俳優として名演を見せている。妻を演じたのは,ベルイマンにとってのミューズとも言える女優,リブ・ウルマン。この撮影中,彼の娘を出産した。二人は結婚しなかったが,ベルイマンの遺作まで関わり続け,藝術家同士の絆で結ばれていた。
スウェーデンの孤島で暮らす若い夫婦。夫は画家で,身重の妻がいる。生活の苦しさと創作の行き詰まりから,閉塞した日々を送る二人。
夫の留守中,庭先に現われた謎の老婦人から,夫の日記の存在を知らされる妻。読み進めるうちに,日記に記された,夫の幻覚と妄想に,自身も引き込まれていく。
島の所有者という貴族の城に招かれ,パーティに出た二人。先の老婦人をも含む城の住人たちは,冥界の使者とも,吸血鬼とも,人食いともイメージされる存在である。そこで,夫の昔の恋人についての話が出る。心を乱される二人。取り乱す夫。怯える妻。その日を境に,夫の不眠が重篤になり,錯乱の果て,自ら命を絶つ。妻は,夫を失う代わりに,狂気の淵から生還できた。
夫を気遣い,耐え忍びながらも,徐々にその狂気に侵されていく妻は,けなげで痛ましかった。ラストシーン,妻の独白。
「男と女が一緒に暮らしていると、だんだんそっくりになってくるという。愛する人と同じものを見、同じことを考えたいと思う。幻覚まで共有してしまったの?」
愛する者と同じものを見,考えたいという願いは,幻覚まで共有し,行き着くところは,同じ狂気,なのかもしれない。映画の題名は,日本で言えば,丑三つ時。悪魔が跋扈し,人間を,狂気に引きずり込む時間なのだそうだ。
「明けない夜はない」
と言う。
* ヴィトゲンシュタインの哲学は、超高層ビルのおもむきであるが、その一切で指し示しえたメッセージは、「哲学ではどうにもならないことが在る」ということであったと、最大の敬意をこめてバグワンは指摘している。
バグワンが落としてくれた眼の鱗は何枚あるか知れないが、これは大きな大きな一枚であった。
2007 10・14 73
* グローバルなレベルで予想される最大事件は、言うまでもない「地球熱化」だろうが、宇宙規模での大事故は、たぶん大流星か大彗星との衝突だろうと思われる。可能性は必ずしも小さくない。
映画『ディープコンパクト』はそれをうまく描いた。
『アルマゲドン』はすこしもたついたが、そこそこの衝撃をもっていた。けちくさい戦争など絶対にイヤだが、アルマゲドンの洗礼ならいっそうけてもいいかなあと心弱く思ってしまうほど、イヤな現世になっている。だが、ホメタことではない。
2007 10・14 73
* 今夜から息子の新しい連続ドラマだとか。題も覚えられない、なんだかガサツな出演者の前売り口上を、さっき、ちらと見聞きした。しょせん静かに人間の内奥の闇を覗き込む手の仕事ではない。
* 十時から半過ぎまでみていたが、浴室へ。
第一次第二次バルカン戦争から、オーストリア皇太子夫妻の暗殺までを読み、さらに第二次インターナショナルの推移を読んだ。帝国主義の支配者側の強欲非道の暗闘をイヤほど読んできた。これから暫くは、下からの抵抗の動きを読んでゆく。日本からは日露戦争のあと、片山潜が参加している。議長と二人壇上に立ち、万雷の拍手が五分は鳴りやまなかった有名な話は聴いてきた。
2007 10・18 73
* 大作『ヒトラー 最期の十二日』を、多大の興味で観た。いま、世界史は、第一次大戦前のイギリス帝国主義によるインド植民地化の強圧の歴史と抵抗のあらわれを読んでいるが、この巻を通過すると第一次、次いで第二次の大戦になり戦後の世界になる。なぜヒトラーのドイツが第三帝国といったかはおよそ承知しているが、より詳細に現代史へ入ってゆきたい。そうすればこの映画の意味ももっと見えてくるだろう。『ニュールンベルク裁判』までも観たくなる。『シンドラーのリスト』もいい作であったが、今日のは、まともにヒトラーの終焉を描いていて凄みがあった。だがもっともっと周辺の歴史から煮詰めていってもう一度ここへ来たいものだ。
* もう眼が限度へ来ている。やすみたくなった。
2007 10・21 73
* 建日子からメールがあった。いま返事を送った。階下の作業に移動する。建日子の連続ドラマ「ジョシデカ」とかいう二回目が始まっている時刻。
2007 10・25 73
* ブルース・ウィルスの『スリー・リバーズ』を久しぶりに見直して、初めて見たときよりおちついて面白く受け取れた。耳に聴きながら、仕事も捗らせた
2007 10・26 73
* キャサリン・ゼタ・ジョーンズは美人女優に数えられるのか知らんが、ほとんどオーラが感じられない。『アメリカン・ビューティなんとか』という映画でも、ちっとも美人でないがオーラのぎらぎらしたジュリア・ロバーツの後塵を拝してしまっている。こわいなあと思う。
2007 10・29 73
* シンディ・クロフォードとウイリアム・ボールドウインとの『フェア・ゲーム』は運びがスピーディでもたつかず、キューバ系KGBの悪ぶりに凄みも技もあり、繰り返し観ても上出来に面白い映画娯楽作。
2007 11・1 74
*井上真央と謂ったろうか、若いよく知らない女優が、祇園の峰子を主演した特別版らしいドラマ『花いくさ』を、録画しておいて観た。祇園甲部の物語である。
わたしの通った祇園石段下の戦後新制中学は、昭和二十三年三月までは小学校で、そこに祇園甲部乙部の子女が通っていた。同じ年の春から新制中学になり、その他市部からの子女も通うようになった。わたしはその年の新一年生だった。
同じ市部でも、わたしのように、いわゆる祇園町(ぎおんまち)へは、背中合わせに家のワキの抜け路地一本で通れた者もいれば、山科に近いあたりから祇園石段下の学校まで通ってくる子もいた。ドラマは、ヒロイン学校生活などきれいに抜いて、徹して祇園甲部の内情だけを描いていた。
テレビ映画として上出来の演出とも脚本とも私は思わなかったにもかかわらず、印象的な幾つもの場面を介して、私の胸をなんどかクッとつまらせたことも白状しよう。たとえばヒロインが地唄の「黒髪」を舞いはじめた出だしの唄声と三味線を聴いて、わたしは落涙した。名曲の誉れ高い「黒髪」であり、ほんまものであったから、またほんまものが相応の舞台装置の中で出たから感激したのだろう。井上真央の舞におどろいたわけではない、が、地方を努めていた老妓(失礼!)名取裕子の三味線を構えた姿にも惹かれた。だいたいこのきゃんきゃんした女優はそう好みでないのだが、このドラマでは扇の要役にいて、じつに佳い味わいで人のよさと賢さとを演じ、第一等の出来、五来監督の映画で花魁を演じていらいの好演だった。すこし点をひくとすれば、京ことばができない。置屋「岩崎」のお母さんの白川由美なみにみな話してくれないと困る。ヒロインも、重いワキたちも、京ことばのひどさで興をそぐこと甚だしかった。山村紅葉などにせめて終始付き添わせて、教えればいいのに、ちょっとオレに声をかけてくれたら祇園の言葉なら完璧に教えてやるのにと、いらいらした。
それでも名取裕子、井上真央は懸命に演じて、何度か感動させた。
歴史的な映画監督たちの歴史的な祇園ものの名画、廓ものの名画を見知った眼には、映画としては二級であったが、もう一度チャンスをやりたい気がした。名取の大人しいねえさん藝妓を、もう一度みたいと思う。
とにもかくにも京都を舞台にするのはまだしも、それなら、京ことばの徹底的な習得を義務づけて配役して貰いたい。
祇園て、「ほんまにあんなんか」と聞かれる。そういうことに、わたしは答えない。
わたしは祇園町と背中合わせに暮らし、お座敷前の舞子や藝妓たちと、同じ廓うちの銭湯の湯につかっていたような子供だったけれど、それだけにあの街で遊んでみたいとは、ゆめ思わないできた。
同じ祇園といいながら、甲部があり乙部があるという、それだけで、本質的に親しめない世界であったから。
井上真央の演じたようないわば「甲ぶりッ子」は、廓に縁のないわたしのようなヤボな少年からは、かなり「ケッタイ」な存在であった。
藝は抜群と聞いていたのに、敢然甲部を脱出し、高校に入り大学に入り先生になっていった若い後輩を、一人、わたしは記憶している。「そう決めました。賛成して下さい」と謂われた。中学の茶道部にその子はいて、大学生だったわたしは母校に茶の湯を教えに行っていた。
2007 11・25 74
* 昨日はあんまりしんどかったし、ビートたけしの『点と線』は後半で足りていると、今夜は腰を据えて観た。
前半を観なかったのが惜しいとも、それはもう無くてもよかったとも思いながら、引き込まれた。
そしてクライマクス。おときと佐山との殺人すら否認したまま、安田夫婦が青酸カリ心中し、汚職の真相はすべて闇に葬られ、大臣も局長もさらに一段二段の栄達か…となったとたん、わたしは激怒にとらわれ、前の食卓をひっくり返したくなり、泣いてしまった。何度こんな口惜しい思いをこの戦後させられて来たろう、わたしたち国民は。
何人も何人もの暗い死が国の犯罪、政治家の犯罪を押し隠して、無辜の者の死や不幸をさらに蹂躙し続けてきた。
ビートたけしの演じた刑事の無念が無念だと思うより先に、わたし自身の胸の奥で焦げ付いていた無念が火を噴いたように、わたしは激情にかられそうになり、泣いて鎮めた。
* わたしが、日本の文豪はと聞かれると、藤村、漱石、潤一郎と答え、しいてもう一人というなら松本清張を付け加えながら、清張を読むのはあまりに辛くて口惜しくて、救いが無くて、カタルシスがなくて、ファシネーションに徹して欠けていてと「悪口」を言わずにおれないのは、要するにこの『点と線』の話の持って来かたが、松本清張の長所でも特徴でもあり、後味の悪いことも無類だと唇をまげてしまうのである。
だが、ドラマづくりは堂々として立派で力が漲っていた。以前に松本サリン事件に取材した映画を試写で観たが、あの大味な薄味とくらべると、緻密に本腰の入った写真もしっかりした、配役も演技もみな気のはいった「一級品」であった。
こんなテレビドラマが創れるなら、少なくも志のある作者たちは、どうか、やすもののオモチャみたいな消耗ドラマから立ち直って、観客の喜怒哀楽をピュアな情熱としてハッサンさせてくれるモノを、見せて欲しい。
* 芯にいた刑事ふたりはもとより、柳葉と夏川結衣との夫婦役も堅実であった。警察とか捜査とかいうものをナメたようなドラマが多すぎる中で、後半しか観ないドラマだったが、衿をただしていた自分が気持ちよかったし、激怒し悔しがってぶち切れかけた自分もゆるせた。
2007 11・25 74
* 昨日は『上意討ち』『風林火山』今日は『日本のいちばん長い日』で三船敏郎の見続け。『上意討ち』は佳い映画だったが収束が物足りなかった。武家社会の理不尽をいうなら、テレビ映画として創られた『阿部一族』の緊迫の方が優れていた。しかし黒白の画面は美しく、三船のほかに仲代達也、加藤剛、司葉子ら今にして思ういい顔ぶれで、楽しめた。いや、楽しい映画ではやはりなかった。むしろ『風林火山』の方も佳い顔ぶれで、なにしろ戦、戦の殺伐だから、『上意討ち 拝領妻始末』などいう主題より陰湿感がない。が、大味なもの。三船の山本勘助が信玄室に騎士道的に愛をささげているなど、微笑ものである。
その点三船が陸軍大臣阿南惟幾を演じる、敗戦の長い長い一日は、何度見ても胸の重さといいつらさといい、眼が放せない。こういう映画は、むりにもわたしは繰り返し観ておくことにしている。
そういえば三船の演じる新納鶴千代を描いた『侍』も観たが、熟していなかった。
2007 12・13 75
* イングマール・ベルイマンの『秋のソナタ』が胸を抉った、イングリット・バーグマンとリヴ・ウルマンの母娘。優れたピアニストのゆえに意識して・無意識にも、言語道断の孤独なエゴイストである母親と、母親を愛する故にこころから憎んでいる自身が憎い姉娘。姉の思いを裏側で裏打ちしたような不幸な病に落ちてしまった、妹娘。
最良の演技者でみせる科白と表情の画面。おそらくはソナタという楽曲の巧みを画面で表し得た藝術映画が、人間の孤独の底を抉り抜いて畏怖に満ちる。
2007 12・13 75
* 今から、秦建日子脚本のドラマがある。
* 二時間ドラマは、ゆるゆると始まり、ゆっくり盛り上げ仕上げていた。秦建日子らしい気の優しい、人を励ますドラマになっていた。
概念の概念らしさに頼る気味のあった作者が、今回はわりとよくその臭みを消していた。情感を、自然に物語の進行にあずけて無理なく思いを運んで行きながら、淡泊すぎて大味なお話に陥らせなかった。
北海道の少年、沖縄の少女のほかに、誰が演技者としてうまいなどと一人も指ささせないまま、それゆえに克ち取れたリアリティー(実感)が、素直に視聴者の胸に生きたのではないか。いわば「年賀状」の宣伝ドラマであろうけれど、構わない。臭みにならず、ムリなく生かせていたのだから。
暫くぶりに秦建日子ドラマを観た。いま連続中の『ジョシデカ』とか謂うのは殆ど観ていない、が、今夜の二時間特別ドラマは、これまでの建日子の二時間もので、初の合格作品だった思う。水族館の即物的な大きさやみごとさが迫力となり、しかも物語との間に木に竹のような齟齬も乖離も生んでいなかった。言わず語らず、秦建日子の体験的に葛藤もしてきたであろうメッセージも、邪魔にならない巧みさで、熱く発信されていたように、わたしは聴き取ったつもりだ。
作者は「体験」をおろそかにしないで、懸命に生かしている。それ自体が才能となり、体験をなまで用いないで、烈しくはないが温かい、ウソのないドラマに換骨奪胎している。なまぬるいとか、センチだとか、きれいごとだとか言う人も在ろう、けれど、わたしは贔屓目でなくそれはちがうと思っている。「不可能」「希望」「命」といった概念化すれば出来てしまい、それゆえに痩せてしまうおそれのドラマを、痩せさせずに「情感の海」へ溶かし込んだのは、必然の表現として、あれでよいのだとわたしは賛成して観た。佳いドラマ、ひょっとして、「目標」として次はこれを追い越し乗り越えればいいというほどの作に仕上げた。「いま。ここ」の仕事に成った。
ドラマの表情は、決して深い彫り込みではない。つるりとまだめりはりなく平たいし、毒々しいほどのつらい汗も作者はかいていない。「不可能」といった言葉を否定的に、いや肯定的に強く乗り越してゆくには、今少しえげつない苦難があるものだという思いは、わたしにも、ある。いずれそこを歩いて歩いて地道に歩いて越えて行かねばならない。その難路を行く作者の「脚力」を、信頼し期待させるだけのものは、今夜のドラマ、にじみ出させていた。そう思って次をまた期待する。
2007 12・14 75
* 建日子のドラマの感想、夜前は眼が半ば塞がっていて、書きっぱなしだったのを、いま、読み直し手も入れた。
* とはいえ、夜前就寝前に妻と、イナ・バウワー、トニー、ザイラー共演のスキー・スケートのロマンチックなドイツ語映画を楽しんだ。「イナ・バウワー」の名は日本の女子選手がオリンピック・スケートで金メダルをとったときの人気技としてひろく知られたが、たいそう可愛らしい女優役でトニー・ザイラーだけでなく、わたしたちをも魅了した。気分のいい娯楽映画であった。
いろんなものを好んで観ていながら、近日の印象から言うと、断然ベルイマン監督映画の『秋のソナタ』の彫り込みの確かさや激しさ深さに今も胸を圧されている。あのような域に達するには「人間」を見据える度胸がいる。
2007 12・15 75
* 晩に、妻と、もう一度ベルイマンの『秋のソナタ』を観た。胸板を烈しく叩かれる気がした。凄くもあった。疲れた。
* はやくやすんだ。
2007 12・16 75
* わたしはケンプにもピアノ演奏にもほとんど縁のない者だが、東工大で仲良くなった「松」クンの、こういう述懐を聴くのが、楽しい。そういえば、わたしの乏しい持ち盤にはケンプの演奏は一枚もないようだ。
話は変わるが先日続けて二度観た映画『秋のソナタ』で、娘のリブ・ウルマンと母親で著名なピアニスト役を演じていたイングリット・バーグマンが、ショパンの同じ短い曲をそれぞれに弾いたのを聴いたが、おっそろしく難しい音楽だったので、たまげた。
2007 12・19 75
* 岡山から珍しいお酒「破天」、群馬から食べよいソーセージ類を戴く。広島の理史くんが選んでくれた純米のお酒もじつに美味しかった。それで疲れが抜けていって寝たのだと思う。酒に油断はしていないが、百薬の長という信仰だか信頼も確かにちらと生きている。
* 今夜で、息子の書いていた「ジョシデカ」なる連続ドラマが終わるらしい。十時から、おしまい編を、観よう。七十一歳最後の晩の酒の肴にしよう。
2007 12・20 75
* 晩九時から、中村屋勘三郎一家の奮闘の一年半をつぶさに追体験して楽しんだり感動を新たにしたり。ことに新橋演舞場での「俊寛」「連獅子」「文七元結」そして森光子と共演してくれた「奮闘」のみごとさ、役者魂のたくましさに、熱いモノがまたこみ上げた。
2007 12・23 75
* イングマール・ベルイマンの『野いちご』を観る。かんたんに感想など言ってしまいたくない深々と胸にしみる映画であった。『秋のソナタ』もすばらしかったが、勝るとも劣らない。出逢えて、ありがたい。
2007 12・24 75
* もう幾つ寝るとお正月、とは、待っていない。もう幾つか寝た時分には、お正月さんはまたどこかへ帰ってゆくだろう、と想っている。なにも片づかないし片づけようともしていない。
けさ、妻が、かつてない強いめまいに時間永く襲われて、少し途方に暮れた。首をかしげるとめまいが来ると言う。首や背をさすり、幸い視力にも言語能にも歩行にも変化はないというので、救急車は呼ばずに、平静にやりすごすことにし、午後になって落ち着いた。そのあいだ、『瑤泉院の陰謀』という稲森いずみ主演のながいドラマを観ていた。意識を症状から逸らし逸らし姿勢の自由を復旧させようとしたのである。
お互いに、もういつ何が起きるか知れないのに、正月のために無用にからだを使いすぎることはない。このドラマは、数多い忠臣蔵
もののなかでは異色で、後半部を以前に観たことがある。余り馴染みのなかった若い女優がしっかりと所作の芝居を演じて出色であった。
だが、わたしはわたしで、眼が乾ききったつらさで、あまりものがマトモに見えていない。
つまり徹底的にこの際は「やすめ」という天の声の正月だと思い、怠けて過ごすことにしたい。
* このところ亡き伊丹十三監督、宮本信子主演の『マルサの女』や『ミンボーの女』などを続けざま観てきて、今日は『マルタイの女』だった。今挙げた三作が面白かった。宮本信子という女優にふっと心惹かれた初めの頃、あれはまだ建日子が幼稚園ぐらいの頃、家中でホテルオークラのプールへ泳ぎに行ったときだ、宮本信子とプールサイドで出会ったことがある。
まだテレビの初期の頃だが、伊丹十三が主演の源氏物語が放映されたことがあり、驚嘆し傾倒した記憶がある。監督は伊丹ではなく今井正ではなかったか。とにかくわたしがいろんな形で出逢ってきた「源氏物語」のなかで異色出色の優雅で洒落て批評的な作であった。
* あ、おかしい。悪性の咳込みが襲ってくる。もう、機械を離れよう。
2007 12・29 75
* 『瑤泉院の陰謀』第二部は以前に観て、意外の出来におどろいたことを書いた記憶がある。いわば『義士外伝』ものの一種に類しているが、瑤泉院というじつは日本人女性の中で女性からも内心に羨ましいと観られる希有の女性の言動、しかも受け身でなく自ら踏み込んだ形から、内蔵助たちの仇討ち実現が、描かれて行くのは類例がない。つまり義士達の「武士道」という以上に主君未亡人に対するいわば「騎士道」が描かれていて、そういう例は、日本の歴史では他に一例もかつて有ったためしがない。ここでは瑤泉院はたんにマドンナではない討ち入りへの「策士」であり「同士」なのである、浪士達との愛ある一体感が、微妙に微妙な内蔵助と瑤泉院(=遊女一学)との情緒纏綿の交会として描かれてさえいる。その視野は、通例
の「上杉」をワキへのけて、柳沢吉保、そして次期将軍の甲府綱豊家や京の近衛家との結ばれに構想され、狂言まわしの人形役に六代将軍の側室となる「きよ=のちの左京の方」が遣い回されている。なかなか凝っていて面白い。北大路欣也の内蔵助役はもともと嵌っている上に、抜擢の瑤泉院役稲森いづみが、堂々と乱れない役作りで好もしい。
おかげで、心おきなく暮れの繁忙をよそにみていられた。
* さらに感銘を得たのは、「原典『平家』を聴く会」事務局の古場さんに頂戴した「巻第一」のDVDを観て聴いたこと。まだ全部ではない。中村吉右衛門の「祇園精舎」野村萬斎の「殿上闇討」島本須美の「禿髪」筑前琵琶上原まりの「吾身栄華」そして平野啓子の「祇王」まで。
平家物語は、古代からの講式に拠って謂うなら「読む」のであるが、この「平家読み」を今日の語感で「読む」と思うとやはり誤解が起きる。今日ふうの只の「朗読」でいいように思えてしまう。学問的な由来からはともあれ、やはり、根に「ものがたる」というあの「語り」の語感を見失って聴いてはならないだろう。わたしの期待はそういう意味の「語りの藝」にある。「群読」という試みが木下順二さんの『子午線の祀り』ころから盛んであったが、ここでも「読む」意味が、無自覚な傍観者たちには徹底しきれなかったように思っている。せめて「語り読む」とでも謂うふうに考えていていいのではなかろうか。
で、圧倒的に語り読んで聴かせたのは、野村萬齋と平野啓子とで。これぞ「読み語りの藝」というもの、堪能させた。他は、吉右衛門始めただ古典をふつうに、少し畏まって朗読しただけ。
また筑前琵琶は、あれは古風にまがえた現代の唱歌のようでしかなくて、平曲を聴き馴染んだ耳にはやはり今度もただ興ざめであった。
萬齋は、さすが鍛えた藝で「殿上闇討」を髣髴させたし、平野啓子は長編の「祇王」を、古典語のすみずみまで明瞭に、しかも情況と情感とをともに髣髴・沸騰させ、ただひとり台本無しの「読み語り」一筋に、じつに美しく美しく品よく格式あわれにあくまで語り澄まして、そぞろ涙をもよおさしめた。期待通りみごとな平野入魂の藝で、さ、これにどれほど匹敵して、次は、片岡秀太郎が「鹿谷」を語ってくれるだろうかと、胸が今から波打つ。
平家物語の流布本または「覚一本」を読んでいると思うが、この水準で真実競演が楽しめるのならば、「巻第二」以降もぜひ聴いてみたいと思う。版元「ハゴロモ」の、手もかけ、気も入った会心の製作だと言っておく。
佳いものを戴いたと、とても喜んでいる。
2007 12・30 75
* 昨日、日本史には女性崇拝の騎士道の顕著例は見あたらない、その意味でもドラマ『瑤泉殿の陰謀』に注目したと書いた。それを妻と話題にしていたときも、むろん『南総里見八犬伝』のことが出ていた。
ただしあの場合はただに慕わしき女性ではなく、厳格にいえば八犬士たちの「母」が崇拝されている。無垢の無欲のまま女人を思慕し拝跪し男が身をささげた高貴なほどの事例は、残念ながら見あたらない。坂崎出羽守には欲と面子がある。「狐忠信」の静への思慕などを辛うじて数えておくか。
第三部も、おもしろく観た。
2007 12・31 75