ぜんぶ秦恒平文学の話

歌舞伎 2007年

* 歌舞伎座で昼夜過ごしました。(つい、「mixi」の方に「日記」を書いてしまった。「私語」へも転記しておく。)
顔ぶれも演し物も充実し、十一時から二十一時半まで、たっぷり、でした。高麗屋の心配りで、昼は幸四郎の勧進帳に最もいい中央通路ぎわの五列目、夜は花道芝居が多く、花道ぎわ通路より七列目という絶好席をもらい、しんから楽しんだ。

勘三郎の夜の「春興鏡獅子」が圧倒的な上出来、発熱で点滴を受けていたとも洩れ聞いていただけに、昼の「喜撰」での玉三郎の共演ももろともに、終始うっとりと眼を吸い取られ、二年ぶり、こころから歌舞伎座へ「お帰り中村屋」と言えた。

幸四郎の勧進帳はお手の物。中村梅玉の富樫はすこし大人しかった。富十郎が出勤しているのだから彼に富樫を頼めたなら、高麗屋の弁慶は一段と威があったろう。しかし梅玉高砂屋の富樫などそうそう観られるとは思わないから(実際には何度と無く観ているのだが)、儲けた気がした。それに芝翫が義経で大いに位をはり、こまやかな、高らかな芝居で舞台を大きくしてくれた。
幸四郎は、夜の「金閣寺」松永大膳で大きな実悪をあくどくせずに立派に見せて感心した。弟の吉右衛門の羽柴筑前との共演だが、筑前に化けてからの吉右衛門の背筋が前屈みになりその分シナ下がってしまったのがよくなかった。

玉三郎の雪姫はさすがの工夫、この前福助で観た雪姫とは味わいも行き方もちがって、ひたすら二美しくこまかな藝であった。玉三郎は「喜撰」の祇園のお梶はユーモラスに悠々と踊り、「金閣寺」の雪姫は細い鋭いしかも華麗な線描画のように演じてさすがに魅了した。

吉右衛門の昼の「俊寛」に、奇態なほどわたしは涙腺を刺戟されなかった。観客はきっと泣く芝居でわたしもこれまで泣かなかったことはない。今日も妻はハンカチのつかいどおしだったが、なぜかわたしは最後まで泣けなかった。ホロリともしなかった。なぜだろう。吉右衛門の俊寛が過剰だったともわたしは冷静に思う。もっと抑制して観客のいい意味の感情移入に余地をのこすべきだろう、が、そんなことよりも、俊寛という人物の理解が、吉右衛門の理解とちがう。俊寛は、都の妻を殺されたと知った絶望もさりながら、少将成経と海女千鳥の結婚をほたほたと祝福したり、とにかくもあんな人のいい慈悲心や互譲心の持ち主と言うには、いかにも傲岸手で新人にも慈心にも欠けていた一種硬直し頑強な実像をもっていた。どうもその辺のところに吉右衛門ないし演出(これも吉右衛門)の理解の甘さが感じられた。
残念だがこの二年ばかり、吉右衛門の快演に出逢えていない。

なにしろ舞踊の豊富な正月公演で、舞踊好きなわたしにはもってこいであった。

昼の開幕が「松竹梅」 松は、梅玉の業平に橋之助の舎人。業平は武官の装束なのだから太刀を佩していた方が舞いも立派にみえたろうに。竹は 歌昇に三人の雀がからんだ踊り。梅は、化粧坂少将、大磯の虎、それに祐経妻の曾我仇討ちの女趣向もの。魁春に芝雀と孝太郎とが対峙した。いずれも尋常な可不可を言うほどもない舞踊ながら、はんなり=花ありのお正月幕開きであった。

夜の開幕が「廓三番叟」で、京屋雀右衛門を芯に、いわば能「翁」の廓に置き換えた「女」版。やはり魁春に芝雀と孝太郎を配しただけでなく太鼓に名人富十郎という豪華さ。彼の踊りをチラとでも観られた嬉しさ。富十郎ほどの役者を、しかしこの太鼓と「俊寛」の基康の二役とはじれったい。富樫と羽柴筑前とをやって欲しかった。

夜の終幕が黙阿弥の「切られお富」は福助が怪演。福助は「俊寛」の千鳥役と二役。切られお富は、「切られ与三」のパロデイ。蝙蝠安に弥十郎、彼の声はがさつ過ぎる。与三郎に橋之助。彼の声の割れて薄れる悪癖ははやく直して貰いたい。歌六が赤間源左を悪役で。高麗蔵が赤間の現妻に。通俗小説であり、ただもう福助に好きにやらせてそれが観て楽しめるという芝居。

昼食は、初春だもの、むろん「吉兆」の正月づくめ。めで鯛と蟹との刺身も、雑煮仕立ての碗も、紅白につくった飯も、あれもこれもしっくりと味善う(あんじょう)出来ていて妻もわたしも満足。いつもながら、弁当の時間がもう十分ながく欲しい。ご馳走を三十分で大急ぎで食べてしまうのも、かなりな贅沢だが。

昼夜の入れ替えの時、高麗屋の奥さんに雑踏の中劇場の外まで走り出てあいさつしてもらい、恐縮した。茜屋珈琲では正月ご祝儀の「花びら餅」を戴いた。お正月を楽しんだ。

芝居がはねて、タクシーで日比谷のホテルへ。クラブで例の、今夜はブランデーに終始。妻は、グレープジュースを立て続け二杯。これが卓効の疲れやすめになる。美味いサーモンをいつものように切って貰い、またシーフードのマリネも。ほっこりして、帰路に。歌舞伎座を出たときは寒かった。帝国ホテルを出たときは温まっていた。車中、妻は安息し、わたしはカッスラーの『オケアノスの野望を砕け』をほぼ読了。

そんな按配で、連載は一休みしました。 湖

* もう一時半をまわっている。今日は十分楽しんだ。
2007 1・11 64

* 高麗屋の事務所から二月歌舞伎座昼夜「仮名手本忠臣蔵」通しの座席券が届いた。また松たか子がジャンヌ・ダークを演じるシアター・コクーンでの「ひばり」座席券も一緒に届いた。二月は俳優座公演があり、本多劇場で秦建日子作・演出の「月の子供」もある。気の晴れる二月が待たれる。
2007 1・19 64

* 三月の歌舞伎座は「義経千本桜」の昼夜通しだと。幸四郎は知盛と教経で出る、我當も梶原平三景時で出る、扇雀も主馬小金吾で出る。芝翫、藤十郎、菊五郎、仁左衛門、梅玉、秀太郎、左団次、田之助、左団次、時蔵、福助等々。道行で、仁が逸見藤太を引き受け菊五郎と芝翫をたすけるというのが見もの。大きな興行。
五月には今度は染五郎が昼夜に、鳴神上人、妹背山の淡海そして法界坊では野分姫とその幽霊ついでに法界坊の幽霊も演じて奮闘する。今度こそは播磨屋吉右衛門の各役を楽しみたい。鬼平、鱶七、法界坊そして「釣女」の醜女。ほかに中村富十郎がしっかり支え、福助のお三輪が染五郎の求女にかかわる。福助の三役もみものに数えたい。
2007 1・20 64

* 「オール読物」今月の高麗屋父と娘往復書簡は父幸四郎の番。はずれず、はずさず、娘松たか子のよびかけに真っ直ぐ向き合っているのに感心する。意を迎えた何もなく、情愛あって溺れるところはすこしもない。歌舞伎役者の子への「いじめ」回想なども含みながら、その克服過程の回顧が、巧みに娘への話題に斡旋されている。同じ俳優という日常がしっかり出来ている中で、父も娘もお互いに、まっすぐ自分の仕事に精進している姿勢を見合っていて、それをことさら日ごろ口にしあうことなくても、自然とお互いを励まし合っている。父は娘を想っているし、娘は父を敬愛している。高麗屋の親子には、ときにせつないほど、求道という弦が鳴っている。父も娘も藝の戦士である。
もう一つ別のところで、娘松たか子が父幸四郎について一文書いている。それもよかった。
たかぶらない、強いて抑制もしていない、いかにも静かに聡明に父の見るべきを見、父に感じるべきを感じながら自省の実情を措辞に浸透させている。優等生ぶっていない。真っ正直だ。この若い女優、とても精神が柔らかに、聡明なんだと思う。贔屓目でなく文才にも感心する。ものを感じ取るレンズが、きれいに開いている。蜷川演出のジャンヌ・ダルク「ひばり」が、ますます楽しみだ。
2007 1・21 64

* 今日は歌舞伎座。通し狂言「仮名手本忠臣蔵」で、主立った役者が出そろう舞台、期待している。

* 歌舞伎座をはねた後、クラブに寄って一休みしてから帰ってきた。十一時。歌舞伎漬けの一日だったが、充実していて、わたしは昼の「道行旅路花聟」でこそ少し居眠りしたが、それでも清元に聴き惚れていたのだった。梅玉の勘平と時蔵のお軽では踊りに妙味がない。翫雀の伴内に点を入れた。妻は時蔵がきれいだった、よかったと。珍しく妻は昼夜ともピリッとも居眠りしなかった。それほど『仮名手本忠臣蔵』は真に名作であり、大序「鶴ヶ岡社頭兜改めの場」から観客を惹きつける。
ダメなのは十一段目のはしょりにはしょった「高家表門討入りの場」「奥庭泉水の場」「炭部屋本懐の場」で、あほらしいほど藝がない。とはいえ本懐遂げない忠臣蔵でも締まりがつかない。さてこそ真山歌舞伎の『元禄忠臣蔵』討入りは、本懐直後の義士虚脱状態を吉良家表門外で見せ始めて観客の度肝を抜くのである。歌舞伎の討入りでは、なんだか吉右衛門の由良之助が気の毒であった。それにしても吉右衛門、立ち姿を横から見せるとき背が丸く前傾している。あの姿勢はよろしくない。

* 大序は、富十郎の高師直が断然本格で、吉右衛門の桃井若狭之助の怒りを挑発して舞台に活気をよび、魁春の顔世はしっかり格を保って、台詞を言わない限り美しい女形。この優は台詞にとてもじゃない難がある。
大序へは、幕に入り方、音曲、囃子などすべて用意と位があり、物々しくもおもしろい歌舞伎になる。
さて菊五郎の塩冶判官はどうか。妻はきれいだという、このごろの菊五郎、佳いわという。綺麗ということでは仁左衛門とならんで菊五郎の美男子であることはまちがいない。ま、佳いとするか。

* 三段目「足利館門前進物の場」は何と謂うことはない、序幕で師直に怒って斬りつけるのは桃井若狭かと思わせておいて、彼には加古川本蔵という心利いた家老がおり、賢しくも師直に賄して、主君若狭大役の無事をはかっていた。
加古川本蔵はこの通し狂言では大事な役まわりで、娘小波は大星由良之助子息力弥の許嫁になっているが、つづく「松の間刃傷の場」では、塩冶判官の刃傷を事半ばに抱き留めて果たさせずに終わるという「判官無念」の因をもなしてしまう。
斬りかかろうとしていた桃井若狭がかえって師直の平謝りに拍子抜けし、何心もなかったはずの塩冶判官が、同じ場所でさんざん師直に恥じしめられ、あげく刃傷に及んでしまう。この運びの妙。判官の妻、絶世の美女顔世への師直横恋慕の不首尾がからみ、しかも判官の方は師直への賄に手配りがなかった。
同じ三段目で師直に肉薄して斬ろうとする桃井若狭を吉右衛門は好演し、入れ替わりに塩冶判官がおっとりあらわれたのをとらえ、イヤミに恥辱をあたえていじめる富十郎の師直と菊五郎判官との対決は見応え十分、大舞台の迫力満点。冨十郎という本格の大名題があればこそ、吉右衛門も菊五郎も真価を発揮して遺憾無かった。

* 四段目「扇ヶ谷塩冶判官切腹の場」は菊五郎の判官が現世への断念と執着とをこもごも感じさせながら、人間味をみせて割腹。上使は梅玉が静かに心遣いし、左団次がはねかえる。音羽屋の判官を、やはり妻は称賛し、わたしは今ひとつ深く押し込まれた感じがもてなかった。そのためか「力弥、由良之助はまだか」「いまだ参上つかまつりませぬ」をくりかえしたあとへ幸四郎の由良がやっと出てきても、三遊亭圓生語る落語「淀五郎」の痛切な緊迫が感じられなかった。なまじな落語仕込みの先入主をわたしがもっていたためか。
とはいえ、そのあと、判官の無念を無言で胸をたたいて引き受ける由良之助との今生の別れは立派であった。ここは幸四郎ならではの独壇場。
そして「切腹の場」はそのまま奥方や家臣一同の魂送りにつながり、家老斧九大夫との化かし合いのあと、「表門城明渡しの場」までの流れは、情理の彫刻家幸四郎の本藝。舞台が大きく遠ざかり三味の「送り三重」で花道をひいてゆく一人舞台は胸に迫った。

* ここで浄瑠璃「道行き旅路花聟」お軽勘平の所作になり、昼の部がはねる。今日の弁当場では夫婦で「鴨南蛮」を食べ、夜ももう一度も同じ店で、わたしは「桑名そば」妻は「牡蛎そば」を食べた。昼と夜との間には、茜屋でわたしは珈琲、妻は美しい器でなんだかチョコレート味の妙なものを注文していた。マスターが落語特集のおもしろい雑誌をみせてくれた。カウンターに噺家のこぶ平、いや今の名はたしか林屋正蔵が来ていた。

* 夜の部は五段目「山崎街道鉄砲渡しの場」「二つ玉の場」がつづく。九大夫の息子で山賊に落ちぶれた斧定九郎が、勘平の舅を殺して五十両を盗む。珍しく梅玉の定九郎がそこそこに怖い定九郎は演じてくれたのだが、猪をねらった勘平の鉄砲に撃ち殺されてからの所作の乏しさに、拍子抜けした。勘平は菊五郎、この辺の音羽屋は今一つしっくり役につかない。なにしろこの場も圓生の名演「中村仲蔵」が頭に有りすぎて、歌舞伎役者には気の毒な負担になる。

* 六段目「与市兵衛家内勘平腹切の場」は芝居としては面白い。前に勘九郎の勘平、玉三郎のお軽で観たときわたしは大泣きした。
今日の勘平は菊五郎で、お軽も母おかやも以前と同じ、玉三郎と吉之丞だった。お軽を買いに来た祇園一文字屋お才が時蔵というのが珍しく、ふつう東蔵がやる。その東蔵が仲買の判人源六というのも珍しい配役。二人とも悪くなかった。
面白い筋書きだけれども成り行きは悲惨で、わたしは夫勘平の大望のために自ら売られて行こうというお軽が哀れ、妻は勘平が哀れ、だと。
前段の、闇夜がしくんだ二つ玉の結末を、勘平はあやまって自分の鉄砲が舅与市兵衛を殺したのだと思いこむ。あげく申し訳なさに腹切りに及ぶ。こういう芝居は一度観て大泣きしてしまうと、二度目はもう泣けないのだろうか。それとも音羽屋の勘平に泣かせる力が足りなかったのか。ついにわたしはこの段で一粒の涙も目に溜めなかった。面白く観たのに泣きはしなかった。

* さて七段目は「祇園一力茶屋の場」で。なんとしたことか、この一段こそ今日の通し狂言の最高の見せ場になってくれた。
妹の遊女おかる玉三郎と兄足軽の寺岡平右衛門の仁左衛門が、熱い面白い芝居をたっぷり見せてくれた。ことに坂東玉三郎の演技は彫り込みのみごとさも、内発する可憐な美しさも、魅力溢れて力があり、こういう「演技」をさせればまだまだ当代随一の女形かとわくわくさせる。吉右衛門の由良之助も巧みで、久しぶりに佳い吉右衛門に逢えたうれしさがあった、なおその上を玉三郎は、ひっぱられて仁左衛門も、発露する本心を生き生きとみせ、魅了されての満足は、この上もなかった。二度も三度も溢れる涙を眼鏡をはずしてごしごし拭った。あの満足を、珠のように抱き歌舞伎座を出られてよかった。
楽しめた。佳い一日だった。

* 日比谷のクラブでは、もう永いつきあいだった支配人氏が急に家庭の事情で退職、うまく最後の日に顔が見られたが、寂しくなるねと、別れを惜しんできた。
2007 2・7 65

* 浄瑠璃の原作を読み返して行くと、先日の「仮名手本忠臣蔵」のどこをどう割愛して時間の調整をしていたかがよく分かり、面白さを「足し算」してくれる。加古川本蔵の娘小浪と大星由良之助の息子力弥とが許嫁にであること、塩冶判官の刃傷を抱き留めて憤懣を遂げさせなかったこと、それが障りになり両家の縁組みは不可能化しているのを、「道行旅路の花嫁」で母と娘とは山科の大星家へ押しかけの強談判に出向いて行くのが「山科閑居」。この部分を省いての「通し」興行であったのはすぐ分かっていたが、ほかに「お軽勘平」の粗忽な逢い引きなどの発端部分を、すべて清元の「道行」におっかぶせて省いていた。これはほぼ、常套。
浄瑠璃とは、という講義を今朝も起き抜けに全集の巻頭で読みふけって、おもしろく頭の中を整理してもらった。

* 舞台を観て聴いていて、この間、二つの言葉がしっかり耳にとまった。
一つは「したり」一つは「しあはせ」で。ほかにもあったが、たくさんは覚えられずこの二語を念にとどめた。
「したり」が、明らかな称賛ふくみの同感で言われていたのは、わたしの理解に同じかった。「これはしたり」などと否認・否定の意味合いで使われる言葉のようでいて、正しくは「よくした」「そのとおり」「同感・天晴れ」の意でなくてはならないだろうと思ってきたが、その通りに用いられていた。「仕出し」料理の「仕出し」も「仕出したり」つまり旨く良くした、創った、振る舞ったという称賛の意義を下地にはらんでいるはずとわたしは想っている。
もう一つの「しあはせ」は、今日では幸福・ハッピーの意義にのみ用いているけれど、忠臣蔵の舞台では、コトとコトとの「その時その場の出来」合いを意味していた。文字に書けば「仕合わせ」であろう。好きな広告ではないが、仏壇屋のコマーシャルで、女の子が合掌し、「おててとおててを合わせてしあわせ」と言っている、あれは物事と物事、ないし人と人とがたまたま、ないし意図してそのように、「仕合わせ」た事態をさして謂うている。必ずしもハッピーばかりでなく、不幸な「仕合わせ・不仕合わせ」もあり得るという含み。
漢字で「幸せ」などと決めつけてしまうのは、伝統の言葉を浅く狭く限定してしまう。そういう事が有る。漢字、文字にとらわれてのみ日本語を聴いては大きく間違うことを、繰り返し書いたり話したりしてきた。文字に書くにも、なるべく原義・原意に突き返して読んだ方が実は面白いのだ、「五月雨・小乱れ」「蛤・浜栗」「泉・出づ水」などと。
2007 2・9 65

* ほんとうに独りだとわかるとき、部屋の中でも、戸外の自然でも、ふとした階段の踊り場ででも、わたしは自分でも気づかぬうちに、ふわーっと踊っていることがある。踊ると謂うと語弊が有ろうか、つまりからだが浮かぶように、手も脚も羽になる感じだ、意識してするのではない、が、覚えは何十度と知れずある。記憶では、一度だけ通りすがりの若い女性に見つかり、くすんと、やや軽蔑の表情で通り過ぎられ、我ながら慌てたことがある。そのときを除いて、そのように心身が軽い羽のようにふわーっと浮かんで舞うときのきもちは捨てがたい安堵と安心に在る。
わたしは戦後の京の町で、夏になると盆踊りをたのしめる少年だった。あの踊りは踊りたくてする踊りだった。いま謂う全身が羽のように舞い立つのとは性質がちがうけれど、嬉しさは通っている。

* 茶の湯を好んで叔母にならい、高校生の頃には叔母の代稽古や学校の茶道部で人に教えてもいたが、茶の湯の作法とは一種の舞踊・ダンスであると、「所作」とは質的に舞踊でありふだんの「動作」とはまったく異なるものと、当時から思ったり考えたりしていた。手前作法は、ダンス、徒手体操、サーカスなどとも通じた、肉体の、身心の「演戯」だと納得していた。むろん能や歌舞伎等の演劇の演技も、新劇の演技も、いかにリアルを尊ぶ場合でも、動作ではない、「所作という表現」に参加するモノと眺めていた。踊れない身心で芝居が出来るものかと眺めていた。
「科」と「白」との「所作」次元での統一と渾然。それがあれば、表現への道がついてくる。「地金が出る」意味での「地」の演技というような物言いは軽薄すぎると思ってきた。

* 昨日観てきた建日子の作・演出の芝居が、心底楽しかったのは、若い演技者のそういう広義のダンスがかなり堪能できたからであった。
むろん異議あって、たとえば武者小路の作の『その妹』のような静かな芝居が、なんでダンスであるモノかなどという人がいれば、日本の演劇の今でも基本の一をなしている能の所作は静かで、静かだから舞ではないのかとわたしは反問するだろう。
魂のあるともないとも、たとえば人形をつかった浄瑠璃の演戯。あれは所詮動作ではあり得ない、満ち足りた「ダンス・舞踏」としての演技であろう。人の体がハツハツとした新鮮さをにおわせて、静かにまたはげしく動く美しさ。わたしは、そういう運動美が好きだ。
なぜだろう。本質的にそれが羽のように軽くて美しいからだ。
富十郎でも三津五郎でも、彼らが踊りまた舞うとき、わたしはその物理的な体重の「殺しよう」にいつも賛美の思いをもつ。軽やかは、清い美しさに舞い立つ。重苦しいは騒がしい醜さに落ち込む。
「科」の領分では、どんな激しい弁慶の引っ込みのような、「達陀」の踊りのような、またどんな静かな「雪」のような座敷舞であれ、要は質的に軽やかに舞い踊れる「所作・表現の達者」だけが、名優になる。「白」の領分では、どんな大声小声早口ため口であれ、明晰に言葉を、言葉の「詩性」を表現として観客に届かせる者だけが、名優になる。わたしはそう思う。比喩として「踊れない者に役者の素質はない」とわたしは眺めている。

* 同じ意味合いで、文体という独特の「音楽」をもたない、ただ図像的に説明している文学は、「滓・カス」だ。
2007 2・11 65

* 三月の歌舞伎は、昼夜日をかえて二度歌舞伎座へ出向くことにし、今日もう高麗屋扱い昼の部の座席券をてにした。夜は我當クンに頼んだ。三月は通し狂言『義経千本桜』で、幸四郎は知盛など、菊五郎は狐忠信など、仁左衛門はいがみの権太など。それに我當が梶原源太の押さえ役。芝翫、藤十郎、梅玉、秀太郎、左団次、福助、田之助、時蔵ら、しっかりした顔ぶれ。
2007 2・20 65

* 出前の鮨を奢って妻とふたりきりやす香を偲んだ。それから松たか子に、と言うよりお母さんの藤間さんにもらった、竹内まりやが作詞作曲して松たか子が歌っている『みんなひとり』という音盤を聴いた。ほかに松たか子が作詞作曲し歌っている「幸せの呪文」「now and then」も。 『かくのごとき、死』を高麗屋へ送ったら、すぐ何も言葉はなくこれが贈られてきた。有り難かった。
いま、となりの部屋で妻はビアノ曲「月光」のあたまを繰り返し弾いている。
2007 2・25 65

* 四月の歌舞伎座を松嶋屋に注文。
2007 3・8 66

* 中村屋の勘三郎襲名興行の二年を追いかけた特別番組を、妻と楽しんだ。門弟源左衛門の襲名も好演も記憶に新たで、その死が惜しまれる。
勘太郎も七之助も逸材。ますます中村屋が楽しめる。四月歌舞伎座、我當出勤の夜だけを頼んだが、昼の部の仁左衛門と踊る中村屋の「男女道成寺」がやはり残り惜しくて、明日にも昼の部も追加注文しましょうよと、妻。そうしよう。
2007 3・9 66

* 花粉が洟へ来ている。
田島征彦さんに昨日新しい繪本をもらった。「じごくのそうべえ」のシリーズ三冊目。元気な繪だ。
四月歌舞伎座、昼の部も松嶋屋に追加注文。どうも勘三郎と仁左衛門との「男女道成寺」は見逃したくない。
ものの下から六年前の「AERA」の表紙が出てきた。たぶん中国の映画女優なのだろう李英愛の大きな顔写真だ、大昔の物言いをすれば「スコブルつき」の「トテシャン」で、よほど見惚れ見惚れたので、本文は棄てても表紙をはずして眺めていたに違いない。今観ても気持ちのとろけそうな美女で、降参する。
きれいといえば、吉永小百合のいまいまのコマーシャルの寝顔が、すてきに綺麗に撮れているのに、中年過ぎてからのサユリストは、満悦。いやはや女優は化けるなあ。
今朝のテレビ、音羽屋の娘・寺島しのぶが外国人と結婚するという話題。寺島は話題性だけでなく女優の力量も群を抜いた逸材だけに、舞台や映画から遠ざかられるのは困る、彼女はとても家庭生活だけに甘んじる人とは思わないが。
問題は、男の子が生まれたときに歌舞伎役者として育てるという音羽屋の「期待」だが。ま、そんな成り行き、わたしの年齢では見届けられまいが。
この番組の司会者役のひとり、東ひづるとかいった女優は、デビューの昔からちょっと別格の存在感で目を惹いたが、達者な可塑性で、知的にも感性的にも巧みに化ける。この「生彩」が、女優志願者には欲しい。かしこぶっては固くなりダメなんで、バカにもはじけられる素直な聡さ謙虚さが、成功している女優にはなべてみられる。それがオーラになる。じょうずに伏し目のつかえる人と、ともするととがった顎をあげてしまう人との、差。
2007 3・10 66

* あすは歌舞伎座、名作『義経千本桜』の通しを、今回は二日に分けて観る。幸四郎の渡海屋銀平じつは知盛、仁左衛門のいがみの権太、菊五郎の狐忠信。我當も梶原平三景時で、大きい姿を見せるだろう。
2007 3・13 66

* よそやとせ(四十八年)あゆみあゆみて今朝の晴れに風光るとは妻がことばぞ  恒平

* 二人で赤飯を祝った。健康に、怪我なくと。新しい創作が日一日ふくらんで行くのも願おう。旧臘新調の服を着て、体力をいたわりながら歌舞伎座に。老境に、過ぎたるこれが楽しみ。
2007 3・15 66

* 歌舞伎座は通し狂言『義経千本桜』の、今日は昼の部。六列目中央の絶好席、しかも我々の一列真ん前の二席が終始空席とは。感謝感謝。
夜の部は別の日に。

* 開幕の『鳥居前』は大きくは盛り上がらなかった。梅玉の義経が猫背でのっそり立ち、老けた桃太郎のよう。四天王(松江、男女蔵、亀三郎、亀寿)が若々しく揃って、まずまず、助けられた。福助の静は絵に描いたような赤姫で可も無し不可も無し、では、福助にしてはよろしからず。
左団次の弁慶もこの場では気の毒千万な出方で、笑うに笑えない。忠信の花道への出からは音羽屋が、菊五郎が、若々しく舞台を保ってくれて何とか落ち込ませなかったが、亀蔵の笹目忠太ひきいる軍兵どもの、忠信に迫るも終われるも、いまいち迫力もおかしみもなく、音羽屋の、花道狐六法のひきあげに拍手するのが関の山であった。

* 「吉兆」雛祭りの献立は鯛の刺身はじめ、どの一品もけっこうで、一献白酒を振る舞ってくれてたら申し分なかったよと、マスターと笑ってきた。

* つづく『渡海屋』『大物浦』は高麗屋幸四郎の独擅場。渡海屋銀平は、今少し漁師っぽく、ざらっとくだけたまま芯が徹していいのかも知れない。「実は知盛」腹の内の悲愴が「銀平」からもう出溢れている。大きく化けて知盛であらわれたとき、おおそうか、より、やっぱりな、と観客に思わせかねない。だがまあ、あれが高麗屋の芝居なのだろう。
此処でも梅玉の義経、もう少し性根に工夫、所作に切れ味が欲しい。ぼやーと立ったままではないか。あれでは碇知盛も遣る瀬が有るまい。
山城屋の藤十郎さんは、せいいっぱいのきっちりした思い入れと歎きとで、出色のお乳の人であった。さすがになあと、やはりこの優の藝力に惹かれる。
渡海屋での相模五郎(歌六)はまだしも、大物浦注進はけっこう見せ所なのに冴えない。颯爽若侍にやってもらいたい、歌六はもうオジサンすぎて、この役のニンではない。入江丹蔵(高麗蔵)ですら、まずまずに演じたものの、颯爽も悲愴も感じさせ得ない。海老蔵や松緑ならビビビと来る役なのだが、客としては残念。いっそ松江や亀寿にさせたかった。
それでもなお幸四郎の藝にピタリの碇知盛、さすがに大きく盛り上げて拍手が沸き上がる。劇作の妙も大きい。この場の左団次弁慶の花道は、まず締めくくっていた。

* お定まりの「道行」は、なんと芝翫の静に狐忠信の菊五郎。まず当代では大顔合わせだが、芝翫がよくない。菊五郎に踊らせておいて静御前どころか露骨に「芝翫」の顔で音羽屋の藝をまるで監督・品評しながら、表情も芝翫そのものという、名優には似合わぬ行儀悪さに呆れた。静御前が口をパクつかせたり曲げたり、ときに声音をもらしたりして相手役を観ているというのは、客としては迷惑だ。菊五郎が抜群に踊りが巧いならそっちへ視線をあつめていれば済むが、あいにく今の音羽屋は必ずしも踊り手ではない。
この舞台を、断然盛り返し盛り上げて劇場感覚を一つに統べたのは、松島屋片岡仁左衛門が、華麗に、選り抜きの花四天を従えた大馳走の「逸見藤太」だった。これはおそらく初役か。じつに悠々綽々の道化芝居。完全に音羽屋と成駒屋とを食い囓って圧倒した。客はもうもう大喜び。妻も隣席でウハウハ笑い続けて喜んでいた。これあるかなの仁の徳。なみの藤太だったらたいがい眠くなってしまう。
芝翫の静でなく、せめて福助であってほしかったが、松島屋にわれわれも救われたのである。ウオオオッと盛り上がった気分で歌舞伎座を出られた。

* 大物浦のあとの幕間に、高麗屋の奥さんに声かけられ、ロビーの雑踏でしばらにこにこ立ち話。染五郎のめずらかなカレンダーを貰った。
はねてからは「茜屋珈琲」で、今日もふるいつきたいような佳いカップで珈琲をのみ、マスターと歓談、劇界のうわさ話など聴く。

* 仏蘭西料理の「レカン」にちょうどまだ一時間の間があり、デパートの松屋へ入った。妻は新調したコートに似合うブローチを買い、わたしはたまたま開催中の「シャガール展」で、無署名ながら刷りの佳いリトグラフを見つけて買った。愛蔵のダリ署名入りのリトグラフより小品だが、シャガールの美しい赤が引き立っていて、気に入った。会期が過ぎたら家に届く。
「レカン」の晩餐はさすが。すっかり馴染んだ店の人たちが、飲み物にも食べ物にもデザートにもよく気を遣ってくれた。写真まで撮ってくれた。書きかけている新しい小説のはなしなど妻としているうち、一番乗りだった店内がいつか満席にちかくなっていた。シェリーもワインもよかった。
銀座は落ち着く。
2007 3・14 66

* 四月歌舞伎座は松嶋屋に、五月は、歌舞伎座を成駒屋に、新橋演舞場を高麗屋に予約した。
四月は勘三郎、玉三郎、仁左衛門それに我當ら。昼の勘・仁の『男女道成寺』が楽しみ。
五月の歌舞伎座は豪華な團菊祭。團十郎、菊五郎、梅玉の勧進帳が、四天王も充実して期待度満点。海老蔵、菊之助の『お冨・与三郎』は待ってました。夜には三津五郎や松緑が踊り、どんな舞台になるか計り知れない羽左衛門追善の『女暫』がある。大詰めは菊、團、梅、左、時蔵、田之助ら総出演の「め組の喧嘩」。扇雀の息子の虎之介くんが、暫くぶりに成長した子役を見せてくれる。
新橋演舞場は播磨屋吉右衛門の当番で、夜の部に染五郎が出ずっぱり。『妹背山の三笠御殿』につづいて吉右衛門の法界坊。つけたりに浄瑠璃『双面水照月』で染五郎、福助、襲名したばかりの錦之助、芝雀の競演。御大冨十郎、そして段四郎、歌六、歌昇がワキを固めている。夜だけでいい。
2007 3・15 66

* すっかり真冬装束で出かけた。歌舞伎座通し狂言『義経千本桜』の夜の部。

* 『木の実』で始まる。秀太郎演ずる小せん(いがみの権太の女房)の掛け茶屋に清盛嫡孫維盛の奥方若葉内侍(東蔵)と幼少六代が従者小金吾(扇雀)とともに小憩。女房に薬を買いに走らせた不在の間に、近在鼻つまみのいがみの権太(仁左衛門)が絡みつき、無道に二十両の金を小金吾から巻き上げる。世が世でなく源氏に追われる平家の不運、次の場面では小金吾が囲まれて討たれてしまう。内侍と六代はかろうじて落ち延びる。秀太郎の小せんは評判の持ち役で、愛想のよい気の良い女ぶりが可愛くて、亭主の権太に惚れてもいる。権太も、仕様のないワルだが、女房子供をかわいがっている。仁左の上方ぶり権太には愛嬌あり、憎めない上に、いいいい男前。
成駒屋中村扇雀の小金吾は、「討死」の場面が必死でよろしい。討たれた遺骸を通りがかり鮨屋の弥左衛門(左団次)に見つけられ、弥左衛門は思うところあって小金吾の頸を斬って持ち帰る。まず無難な、二た場。

* つづく『すし屋』は人気の一幕、巧く書けている。弥左衛門女房(竹三郎)が渋い味で、可憐でストレートなな娘お里(孝太郎)を引き立てる。近頃家に置いて弥助と呼んでいる実は三位中将維盛(時蔵)に惚れに惚れ今宵の祝言初夜を待ちに待っている。もうちょっと綺麗だといいのに。
時蔵はさすが位高く、弥助から維盛に直る気合いも的確で、巧い。二人のラブシーンのさなかへお里の兄権太が母親を「だましの金の無心」に帰ってくる。母親は手もなく息子にだまされ大金を出してやり、権太は金を鮓桶に隠す。
この一幕はあらすじを書いていたら夜があけてしまいそう、次から次へと劇的に場面は変わりつ盛り上がりつ、意外ないがみの権太の悲劇へ上り詰めて行く。
仁左衛門ならずとも此処はものあわれ、親も子も、主も従もかなしい。
乗り込んできた源氏の大将梶原景時(片岡我當)の首実検に、いがみの権太は「維盛討った」と頸をさしだし、頸実見の梶原は、平維盛に相違なしと権太に当座の褒美をあたえ、とらわれた若葉内侍と六代とを縄目にかけて引き立て、帰って行く。
主君維盛を大切に匿っていた弥左衛門は激怒のあまり、息子いがみの権太めがけて刀を突き立てる。だが、権太が差し出した頸は、じつは弥左衛門が持ち帰り権太がまちがえて持ち出したあの小金吾の頸、そして内侍と六代とみせかけたのは、権太の女房と息子であった。
梶原は頼朝の意をうけて、維盛に、暗に出家をすすめて偽頸と承知で帰ったのだった、我當は梶原平三景時を立派な姿と口跡とですがすがしく演じ去った。我當、秀太郎、仁左衛門の松嶋屋三兄弟が、出色のいい舞台だった。

* 弁当幕間についで『川連法眼館』」、此処が大いに盛り上がる。
義経の梅玉、福助の静御前、秀調と團蔵との二人武士、そして誠の佐藤忠信と源九郎狐忠信の二役を、尾上菊五郎。
初音の鼓を話題に子狐源九郎のあわれな身の上話に、御殿上の吟味役静御前の福助がまさしくもらい泣きしているのが手にとるように見え、感動した。あんなに思い入れ深く、ほんとうに泣いていると見えた静御前は初めてみた。わたしは福助に惚れた。
菊五郎の狐も忠信も満点を惜しまない出来で、立派だったし綺麗だったし、からだがきっちり働いていた。気が入っていた。何度も何度も『川連法眼館』は観てきたが、福助の涙にもさそわれ、感動は今日が最上、心深く泣かされた。
そして大詰めの『奥庭』では、待ってました高麗屋幸四郎の横川禅師覚範、実は能登守平教経の舞台中央のせり上がりが大きく、義経・静、忠信その他の出そろいで、後日の見参を誓い合っての大詰め・大切りの幕引きは、通し狂言にふさわしくみごとに盛り上がった。この出と幕とのために幸四郎が待っていた、われわれも待ってました、歌舞伎の楽しさ美しさであった。あれでよいのだ、歌舞伎は。

* 満足して、タクシーで日比谷へひきあげて、クラブで小憩、あれこれ舞台の上を反芻してから帰った。オーバーコートが役立ったほどの冷え込み。しかし、胸の内は温かかった。怱卒に書いたので、これは明日にも読み直さねば。もう二時過ぎ。
2007 3・16 66

* 九大今西祐一郎教授の『蜻蛉日記覚書』を頂戴した。
『蜻蛉』は、「日記」という名の、文学史初の「私小説」であるとわたしは位置づけている。楽しんで読ませて頂く。
先日の東大竹内整一教授の『はかなさと「日本人」』や、故実相寺昭雄の自伝小説『星の林に月の船』も興味深く読んでいる。
「オール読物」の往復書簡は今月は父幸四郎。雑誌が送られてきた。今日のうちに読む。
2007 3・27 66

* 幸四郎が娘にあてた今月の往復書簡は当然のように松たか子主演の『ひばり』に触れていた。それは、自然なこと。
それでも、今度はすこしわたしにも思うことがあった。
「親娘私信の往来」なら、これでいい。十分いい。幸四郎がもし自分のブログをもっていて、そこで親娘で「私語」しているなら、それでもいい。
しかし雑誌「オール読物」は読者に読ませる出版物であるから、読者を置き去りに、もしもしてしまうことがあれば、それは観客を置き去りにした芝居と同じことになる。
藝談もむろん聴きたい、舞台の苦心にも興味は尽きない。しかしどうしても話題が、劫をへてきた大俳優の「過去」の閲歴がらみに自画自賛ふうに読み取られかねなくなると、自然、読者は、これまでにくりかえし聴いてきた、読んできた話柄をまた掴まされることになりやすい。書簡執筆者の常に「読者」を念頭にした叙事に、オオッと喝采したくなる目の覚めるような工夫やサービスが欲しくなる。
読者は、幸四郎や松たか子が、現代日本や国際社会や法律などにどんな関心を持っているかも知りたい。『ひばり』のような優れた演劇に出逢ったのだから、この際、神や信仰や宗教観なども聴いてみたい。藝人と宗教感情には久しく流れてきた歴史の水脈もあるのだから。また仲間内の仲間ぼめにとどまらない、新しいまた伝統的な藝術・藝能のフラッシュに、どんな個性的な視線をとばして、どんな内心の批評をもっているかも知りたい。
東京や京都といった都市へ、また地方の自然や生活や風習へ、また役者という立場からみた日本や海外の歴史への思い入れとか、さらには趣味の俳句をはじめ日本の詩歌のこと、とりわけ日本語のこと。また音楽のこと、歌唱藝の楽しさや苦心や、そういうことも話し合って欲しい。
また庭先の季節の色や花や、たとえば役者の日常に必要不可欠であろう「書」についてとか、目新しい見聞録とか出逢いとか、「言葉」と「しぐさ」つまり「科・白」の微妙な、みどころ・ききどころとか。そういう読者の思いや嬉しさを肥やす話題もほしい。
雑誌という場での往復書簡は、私事の披露と同時に、読者と分かち合うそういう公開性をもっている。
そんな気が、した。
2007 3・28 66

* 今夜、利根川裕氏の出版記念会がお茶の水の山の上ホテルである。返事を出し忘れていたのに気づいた。
歌舞伎関係の本が二冊出たらしい。春はいろんなこういう会があり、みながみなは付き合いきれないが、山の上ホテルなら妙に身近な気がするので押しかけていってもいいが。
この前の会では一席お祝いのことばを述べてきた。そのときに中村雀右衛門丈や、ニュートリノでノーベル賞の先生と椅子席にならんで、漫然と歓談したのも思い出せる。
そういえば井上靖文化賞の授賞式が同じホテルで先日あったのは、出席通知を出していながら失礼してしまった。
2007 3・28 66

* 十三日の金曜に次巻が出来てくると、知らせ入る。
それまでに二度、歌舞伎座に。
まず妻の七十一の誕生日に夜の部を観る。仁左衛門が孫の千之助とご機嫌で演じるであろう『実盛物語』に次いで、あの中村錦之助に二代目「襲名の口上」がある。雀右衛門や吉右衛門や我當らが祝う。美男子の信二郎にはんなりと佳い名前がつく。
若い頃の錦之助はもうけっこうであったが、『子づれ狼」の拝一刀など晩年の萬屋錦之助は立派な俳優だった。その新・錦之助を富十郎や福助がささえる『角力場』そしてお待ちかね勘三郎、我當、時蔵、錦之助、勘太郎、七之助らの『魚屋宗五郎』。
数日ゆずって、昼の部には仁左衛門と勘三郎との『男女道成寺』を大きな楽しみに期待している。
2007 4・4 67

* 歌舞伎座の夜の部は、すべて予想通り。
『実盛物語』は後年の加賀篠原の実盛最期までをきちんと視野に入れた手際もむまとまりも佳い歌舞伎で、当代断然の立役者仁左衛門がすっきりと丈高い実盛を小気味よく演じ、孫である千之助を天晴れ手塚光盛に仕立てて一緒に乗馬の晴れやかさ、こころよい歌舞伎で楽しませまたほろっともさせる。
源氏の白旗を死守した母小万を秀太郎が献身的に演じ、じつは小万の父瀬尾という儲け役を、坂東弥十郎が堂々と演じ振舞い、幼い孫の手塚太郎に討たれて、後の木曽義仲股肱の臣たる「初手柄」にさせてやる。その義仲は、つい今し方、亡き源義賢の未亡人葵御前(魁春)のお腹に生まれたばかりなのである。
亀蔵も家橘もそつなく、まちがいのないきちんとした舞台で、仁左の魅力は花満開の美しさ。
二代目中村錦之助襲名の「口上」は、親族方の上席に播磨屋中村吉右衛門や兄中村時蔵。後見役は中村富十郎で大きく決まり、列座は中村雀右衛門、中村芝翫、それに松嶋屋三兄弟など賑々しく。錦之助という名前が晴れやか。妻の誕生日にうまくはまっておめでたい。
そして夜食は「吉兆」で、献立よく、少し乾杯。
その錦之助にうまくくあてがった狂言が、『双蝶々』の「角力場」。なよなよとした二枚目の若旦那と、天下の大関取り濡髪長五郎(冨十郎)に挑む素人角力の放駒長吉と二役。新・錦之助、これをなかなか気前よくやってのけ、危なげなく新鮮であった。
「角力場」はおもしろい場面で歌舞伎味も濃く、さすがに師匠冨十郎にがっちり演じて貰えて、弟子の錦之助、眦を決する意気があった。不安なかった。
大切りは、待ってました中村勘三郎の『魚屋宗五郎』で、出色の女房時蔵とともに勘三郎芝居を堪能させた。
一人の妹を奉公させた屋敷の主君に斬り捨てられたうらみを泥酔しながら盛り上げ、ついに屋敷へ駆け込んで行く強い流れを、中村屋は、息をのばさず集中して、眼光に、魅力の芝居を表してみせた。ま、中村屋だものという安心な期待があり、期待を決して裏切らない愛すべき役者なのである勘九郎、じゃなかった勘三郎は。
勘太郎も七之助もそれなりに熱演した。片岡我當がかれらしい役どころの温厚で賢明な家老職を丁寧に演じ、新・錦之助は綺麗な綺麗な殿様役。
満足して劇場をあとに、そのままクラブに入り、サービスのお祝いシャンパン、そして例のブランデー。妻が自祝の気持ちで18年ものの「山崎」を買ってくれた。クラブ年度替わりのサービス品に佳い赤ワイン一本をうけとって、電車に揺られ持ち帰った。電車ではわたしは『宇宙誌』を、妻は猪瀬直樹著太宰治論の『ピカレスク』に熱中。
2007 4・5 67

* 歌舞伎座昼の部は、はじめは遠慮する気だった、我當も出ていないし。しかし中村屋勘三郎と松嶋屋仁左衛門との『男女道成寺』は観たかった。勘三郎のむろん魚屋宗五郎や髪結新三も法界坊も大けっこうであるが、勘九郎時代の大むかしに野崎村のお光を観て以来、勘九郎ではない勘三郎の愛らしい若女形ぶりにはいつも惚れ抜いてきた。まして道成寺の花子、まして天下の美男子仁左衛門との競演であれば、余の出し物は何であれ、やはりムリを頼んでも座席が欲しかった。我當の番頭さん、花道に近い通路脇、前から三列目という絶好席を用意してくれた。花道芝居はバッチリ。舞台も見晴らしよくて遠めがねが要らない。それでも勘三郎の花子には、ひたと眼鏡をあてて、一分一厘歪みもゆれもない表情の、透き通る美貌を堪能した。踊りも「恋の手習い」ほか陶然とさせて、みごと。
仁左衛門もすばらしい引き立て役をしてくれた。「聞いたか坊主」の所化たちも獅童の引率で勘太郎、七之助、種太郎、宗之助ら若手が華やかに揃って楽しませた。玉三郎と菊之助の『二人道成寺』のように藝術的に完璧なあんな圧倒的感銘とはちがうが、勘三郎、仁左衛門にはそれを上越す「花」と「遊び」の楽しさがある。満喫した。昼の部を追加しておいて良かったと妻も声をはずませて大喜び。

* 他がつまらなかったのではない。ほとんど期待していなかった開幕の『當年祝春駒』は、二代目中村錦之助襲名を祝う親類筋のご祝儀所作事だが、歌六の工藤祐経を中に、舞鶴の七之助と茶道珍斎の種太郎のせり上がった感じが、たぶん歌六のかっちりした貫禄のゆえか感じよく、この三人のアンサンブルのよろしさが花道を殺到する獅童の五郎、勘太郎の十郎を小気味よく引き受けて、舞台が予想よりよくまとまった。勘太郎の二枚目ぶりはさわやかで、七之助の女形ぶりも美貌を磨いてきた。はんなりと佳い兄弟役者。まだ幼い容貌の種太郎がおちついて柔らかに佳い所作をみせていたのも観客として儲けものだった。種太郎は道成寺の所化でも難なく踊っていた。期待していないこういうご祝儀狂言がとにもかくにも楽しめると、歌舞伎気分はもりあがる。
二番目の『頼朝の死」は真山青果の名作台本だけあって、心理的にも緊密に出来ている。真山歌舞伎でもし難といえば役者が必死に芝居してしまうことだが、これは防ぎようがない。で、そういう芝居に向いた役者に演じられるのがいいのである。幸四郎や我當の『大石最後の一日』もそうだし『御浜御殿』もそうだ、だれが演じてもハイになる。
今日の梅玉演じる将軍頼家も歌昇演じる畠山重保も自然にそうなる。そうなるけれども、不思議にそれでよいのである。梅玉の芝居としてもわたしは高く評価する。歌昇も、小周防の福助も、それできっちりよく演じた。
芝翫の尼御台政子がさすがに大きく強く厳しく演じ、舞台を統括していた。最近の芝翫芝居では最良の出来。旨く創った芝居だなと真山父(作)娘(演出)の気力に感じ入った。
大喜利は『鬼一法眼三略巻」から『菊畑』の、虎蔵じつは牛若丸を新・錦之助が緊張して演じ、冨十郎の鬼一法眼、吉右衛門の智恵内じつは鬼三太、時蔵の皆鶴姫、歌昇の笠原湛海らが無難に支えた。芝居半ばに、二代目錦之助襲名口上が挟まれた。めでたし。
芝居としてはおおまかなもの、こんなものだろうと予期した通りに無事に終えた。昼の部、大いに楽しめてそれもめでたし。

* 茜屋珈琲でうまい珈琲、妻はいつもの石榴のジュース。マスターにサービスして貰いながら休息。歌舞伎座をひとめぐりしているうち、楽屋入り口ちかくで中村屋の夫人とゆきあう。かすかに黙礼があった。もうよほど劇場で行き会っているということ。七之助の母上らしく美しいお人である。そのあとは銀座をゆっくり散策し、軽食して、良い気分で保谷へ帰った。
2007 4・10 67

* 五月、新橋演舞場と歌舞伎座と、両方座席券の手配ができた。歌舞伎座では昼の部に団十郎、海老蔵父子の『勧進帳』がある。演舞場の夜の部では吉右衛門の法界坊がどれくらいハジケルか。染五郎や福助がどれほど活躍するか、念裡にはどうしても平成中村座での勘九郎法界坊大活躍の記憶がある。ぜひ上を行く法界坊が観たい。
そんな気楽な楽しみばかりではない。小説がじりじりと進行して行くし、日大では五月二週連続で谷崎を話さねばならない、親鸞仏教センターのためにも長い原稿を引き受けてしまっている。「美術京都」の対談も、ペンクラブ新年度の動きにも協調しなければならない。
2007 4・13 67

* 二代目中村錦之助の襲名歌舞伎が興行中だが、言うまでもなく初代の錦之助は梨園に育って映画界に飛び出し、晩年は屋号の萬屋を姓に用いていた。映画に出てきた頃の錦之助はキャンキャン声でこうるさい役者だった。しかし中年から晩年へはたいした俳優に充実していた。歌舞伎界にずっといてくれたら、どうだったか。人気役者でありえたことは間違いない。
今夜、少しだけ市川雷蔵の映画『眠狂四郎』を観ていた。彼も関西歌舞伎の名優で大御所だった市川壽海の子か養子かで、歌舞伎で育つはずの逸材であったが、映画界にもって行かれた。いいーィ男だった。立ち姿が風を巻くように、しかも静かで妖しく、男前は水際立っていた。やはり時代劇がよかった。惜しいことに早く亡くなったが、存在感は今も小さくない。
亡き中村鴈治郎がまた歌舞伎界からわりと永く道草を食い、数々の名演技で映画の名優としても押しも押されもしなかった。彼が歌舞伎へもどったときは、嬉しいようなしかし映画のためには惜しいような気がした。
たいした作は残さなかったが中村橋蔵も甘い顔の人気の美男子だった。歌舞伎で佳い女形になって欲しかった。
大昔のことは言わないが、映画と歌舞伎とを往来した佳い役者、渋い役者は、わたしの知っている限りでも大勢いた。市川中車も坂東好太郎も。テレビが出来てからは歌舞伎の人はなにしろ性根が鍛えられているので、ずいぶん映画にもドラマにも割り込んでいた。割り込んだことのない人の方が少ないだろう。
成田屋の団十郎も高麗屋の幸四郎も播磨屋の現吉右衛門も、あの前の成駒屋鴈治郎ほどでなくても、いろいろ助っ人に出ている。フアンも喜んでいる。
雷蔵の眠狂四郎を観ていながら、たくさんなことを走馬燈のように思い出していた。

2007 4・17 67

* 成駒屋から、五月「團菊祭」の昼夜通し券が届いた。色刷りのチラシを眺めるのが佳い一服で、以前のもこれからのもいつでも手に取れる辺に散らかしてある。
何といっても昼の『勧進帳』で團と菊とが真っ向、向き合う。菊五郎の富樫は有り難い。友右衛門と、家橘、右之助、團蔵の四天王も期待できる最良の力量。嬉しくてウハウハする。梅玉の義経、ご苦労さま。
菊之助に踊って欲しかったが、海老蔵の切られ与三との『与話情浮名横櫛』お富は、初見参。楽しみ。片岡市蔵の蝙蝠安。
菊のかわりに、夜に、松緑が『雨の五郎』三津五郎が『三ツ面子守』を踊ってくれる。昼の『女伊達』も、芝翫が本気で踊ってくれるなら期待するが。このところこの大物、舞台での集中度が粗い。
前の羽左衛門七回忌追善で、なんと市村萬次郎と坂東彦三郎・河原崎権十郎三遺子の『女暫』がある。以前の「三」之助も出揃うのを楽しむとする、何といっても大荒事の歌舞伎味、濃厚。
夜の大切りは勢揃いのつまり『め組の喧嘩=神明恵和合取組』四幕八場の賑々しい顔合わせ。てきぱきと運んでもらいたい。
2007 4・18 67

* 今日は歌舞伎座で昼夜過ごしてきました。「勧進帳」の團十郎が立派でした。パリ公演とはくらべものになりません。菊五郎が富樫、梅玉が義経ですもの、うんと上等。ことに友右衛門、家橘、右之助、團蔵の四天王が、しっかり盛り上げました。最良の四天王でした。
海老蔵は『女暫』の成田五郎を、『め組の喧嘩』の力士九龍山も、立派に演じましたが、『切られ与三』は落第もの。市蔵の蝙蝠安が自在の持ち役。大の贔屓の菊之助には、湖、老いらくの恋を覚えます。もっと役をつけて出て欲しいです。代わりに、松緑君が、それぞれ気っ風のいい四役で、久しぶりに贔屓心を大いに満たされました。『雨の五郎』、舞台も美しかったです。
三津五郎の『三ッ面子守』はさすがの踊り手、堪能させました。芝翫が花をうしなった今、富十郎を別格に、壮年では踊りは三津五郎にきわまってゆくのかなと感じます。体重の殺し方のうまいこと。
萬次郎畢生の大役『女暫』は大勢に支えられて嬉しいご愛嬌。舞台番の三津五郎にしめくくられての花道は楽しんだ。羽左衛門の七回忌をいたむより、彦三郎、萬次郎、権十郎の三遺子のためにめでたい追善の大芝居でした。
そうそう大阪成駒屋扇雀の幼い子息虎之介君も熱演。少年を応援するために成駒屋に座席を頼んだ。昼は前か四列の真中央、夜は前から五列の真中央の通路脇。感謝感謝。

* 茜屋珈琲でわたしは旨い珈琲、妻は例の石榴のジュース。歌舞伎座へ来ると、観劇気分をより美味しくすべく、此の喫茶店に少しの間を惜しんで立ち寄る。
はねたあとは、車で帝国ホテルのクラブルーム。ほっこりと息をついてから帰宅。

* 脚のことを一言。けがの後、初めての外出。痛みもあり、脚をひきずって歩くが、歩行はできた。ただ帰宅の頃は、ことに右足の膝下に藁をきつく巻き付けているような腫れ感覚。そのことを気にしなければ歩ける、杖なしに曲がりなりに。せいぜい歩いて治してしまう。
週明けの谷崎講演の気がしんどい。引き受けるべきでなかった。二十一日まで、かなり出ずっぱりになる。
2007 5・9 68

☆ 脚のお見舞いを申し上げます。  麗
観劇の記、有難うございました。私が行くのは25日最終日の夜の部のみですが,日記を拝読し,幕見で昼の部も…と思いました。TVで見たオペラ座の「勧進帳」に違和感を覚えたので,また生で観たいな,と。
舅は若い頃から一幕見席に通ったとのことで,今回の團菊祭も大変興味を示し,いろいろ解説をしてくれました。今は脚と耳が不自由になり,幕見席まで行くのはとても無理ですが,7月,札幌に来る吉右衛門は見に行くそうです。
「私語」の再開を心待ちにしております。「谷崎」の講演録などアップしていただければ幸甚です。脚,どうぞお大事に。

* 麗さん   湖
昼の部の山本周五郎原作「泥棒と若殿」は、人それぞれの身分と持ち分において励めという、現状保守の観点で原作も芝居も作られ、そういう思想はわたしの好むところでないので、劇場では大受けしていましたが、なんだくだらないという気分でした。松緑と三津五郎への好感でのみ楽しめました。こういうのが通俗時代小説や時代劇のやすいモラル押しつけ、臭い俗弊で、好きません。
お富と与三で、きれいな化粧に「化粧料」をたずねた助平な男客に、菊之助のお冨さん、澄まして「資生堂ですのさ」と返事したのには満場爆笑でした。
芝翫の女伊達、貫禄ではありましたが。絡む男伊達は翫雀と門之助でした。浪速雀の翫雀が、なかなかの江戸っ子で佳い感じでした。好い鴈治郎に成るでしょうね、背丈をもうすこし遣りたい、女形にはあれでいいけれど。門之助にはオーラがどうしても立ちません。
女暫は、ご愛嬌としては十二分楽しめます。松緑と三津五郎の所作事も、気分すっきり。
お父上のご平安を。あなたも。
もうすぐ、新橋演舞場で吉右衛門の法界坊を観ます。明日の昼は俳優座へ。
脚はすこし異常なようですが、様子を観察かたがた違和感とも仲良くしてゆきます。

* 夜の部を観る麗さんには遠慮したが、この「私語」は、どうせ当分更新出来ないのだから書いておく。大切りの『め組の喧嘩』はばからしい芝居で、なんでもかんでも劇団総員が参加できるというだけ。「喧嘩」自体がノンセンスで、いささかもお役に立つ喧嘩ではない。音だけ高い、においもしない屁のようなもの。
『勧進帳』では総員の芝居に涙を誘われるのに、そういう感動は「め組の喧嘩」にはしずくもない。無意味芝居の最たるもの。虎之介坊が熱演の芝居だから観たものの、わたしはこういう無意味芝居は好きになれない。「河内山」が好きになれないのも、あれもいうまでもなく悪いヤツの上にもっと悪いヤツがいたという、それだけの芝居ツクリが好きになれない。
2007 5・10 68

* 新橋演舞場の夜の部を楽しんできた。演舞場真ん前の「笹巻き鮨」を買って入ったのが正解、魚も鮨飯もうまく、椎茸や筍の鮨もうまく、笹の香も。街へ出たら少し脚をのばしても買って帰りたいほど。

* 花道にまぢかい通路右脇、前から五列め。花道芝居の多い出し物で、絶好、高麗屋に感謝。
その染五郎、「三笠山御殿の場」では求女実は藤原淡海という典型的な美貌の二枚目だが、声がつぶれていて、これで女形はどうなるかと心配した。役者が声をつぶしていてはどうにもならない。
この芝居は、杉酒屋娘お三輪のための舞台。福助は、御殿女中たちにいじめられる可憐な娘から、恨みへ、そして吉右衛門の漁師鱶七じつは鎌足家来の金輪五郎に刺し抜かれて死んでゆこうとする憤怒、それも一転して己が死の恋人求女に対する献身になると知った歓喜と愛恋を、瀕死のまま動的に演じ通した。わたしは要所で役者の眼の奥までのぞきこむが、福助はビクともせず美しい強い表情をうかべてお三輪になりきり、心事の流れを違乱なく表現し死んでいった。福助、大きな眼も生き生き光らせるが、きれいな両手の指の先まで魅力的に使える役者で、そんなところを見ているだけでも芝居が楽しめる。
福助と比べると、気の毒だが高麗蔵の橘姫は、人によれば美しいとみるだろうが、覚えた型芝居を着々と手続き通りにやっているだけ、その表情も眼の奥までも、要するに役者高麗蔵でしかない。高麗蔵のどの芝居も、いつもそう。これを内面へまで充実させないと便利な中どころで老けていってしまう。身動きのかすかな硬さもその辺が影響している。
吉右衛門は可も不可もなし。

* 次の「法界坊」はいかに吉右衛門が名優でも、ちょっと期待薄であった。平成中村座の当時勘九郎、いま勘三郎の、串田和美演出で超大樽の底をぶち抜いたような怪演のおもしろさが、まだ、生々しい。その潜入見が底流しているだけに、顔ぶれは揃えていたけれど芝雀の娘おくみもいまいち柄が大きすぎたし、美しいはすてきに美しい染五郎の野分姫がガラガラ声のつや消しで容易に盛り上がらない。
吉右衛門はさすがにしどころ面白く演じてくれたが、「藝」で歩留まりのおもしろさ。勘三郎だと、生のままの法界坊が目の前で天成のやんちゃくちゃをし放題で、呆れかえらせるおもしろさだった。せっかく富十郎が舞台を抑えてくれても、活溌溌地の熱気の舞台に燃えてゆかなかった。

* だが大切り趣向の所作事「双面水照月」では、染五郎が立派に「法界坊の幽霊」と「野分姫の怨霊」とを演じ分けて、芝雀のむすめおくみと、錦之助の手代要助、実は吉田松若丸の相惚れの道行を、さんざんに悩ませた。法界坊のは逆恨みにすぎないが、その法界坊に殺された野分姫はじつははるばる都から尋ねてきた松若丸の許嫁で、おくみとの恋のさやあてもあった間柄、怨霊になるのもムリない。染五郎はここではあんまり喋らなくて済む役ゆえ、われわれもしらけること少なく、熱演に拍手を惜しまなかった。だが、なぜだかこのところ、染五郎のこういうきわどい役にばかり数多く出会ってきたなあと思う。彼が堂々弁慶をみせてくれる日まで元気でいたい。
この大切りでも、福助の渡し守おしづが、見せた。すっきりと丈高く、舞台を本当に魅力的にしたのは福助が芯にいたからだ。他の役者の所作に眼をそそいでいても、それがそのままおしずの役どころで、不行儀の揺らぎがない。伸びてゆく大名題の誇らしいほどの充実に感銘を受けた。
今一人、新・錦之助の求女・松若丸が、後半へ行くほどに、そして花道に芝雀と立つほどに、もの柔らかな感性の素直なよさをみせ、貴重な存在にますます成ってゆくだろう嬉しさを覚えた。

* タクシーで銀座一丁目まで行き、有楽町線で一気に保谷へ帰った。脚の痛みが行きより帰りは倍加していた。ほとんどかすかにびっこを引いて歩いた。それにも慣れてゆく。
2007 5・17 68

* 六月歌舞伎座の座席がとれたと連絡があった。演舞場での『妹背山婦女庭訓』の「御殿」につぐ場面が観られる。幸四郎が大判事。昼も夜も番組充実、梅雨は梅雨なりに胸を濡らし、しっとり楽しみたい。京都での美術文化賞授賞式を終えてきてから。
2007 5・22 68

* 歌舞伎座の昼夜座席券も届いた。チラシの顔写真をながめ、ゾクゾクしている。
藤十郎、富十郎の両国宝にならんで、幸四郎、吉右衛門、仁左衛門、梅玉、秀太郎、魁春、芝雀。
芝雀という女形は、面を照らすとまるっこい平たい平凡な顔になり、曇らせると絶世の美女に変わる。チラシの写真はその美女(これは船弁慶の義経であろうから美男)の方で、見飽きない美しさ。
幸四郎は四役。うち一度は初孫の齋ちゃんを初お目見えに手を引いて出る。「オール読物」でのムスメとの往復書簡でおじいちゃんが嬉しそう。「妹背山」は小松原、花渡しから吉野川まで。後室定高は藤十郎。幸四郎が大判事。大歌舞伎になる。
松貫四こと吉右衛門構成の「閻魔と政頼」のあと「侠客春雨傘」で藤間齋の初お目見えがある。染五郎長男、二歳とか。
夜は仁の「御濱御殿綱豊卿」に染五郎の富森助右衛門。声をしっかり治して若い高麗屋の力演を期待。次の「盲長屋梅加賀鳶」は高麗屋と播磨屋との出会い。
楽しみは大切り「船弁慶」の幽霊知盛を、父幸四郎の弁慶に立ち向かい染五郎がどれほど大きく切なく盛り上げてくれるか。妻もわたしも心を寄せて好きな、知盛。
2007 5・24 68

* 六月歌舞伎座昼夜通しは、盛り沢山の演目と、役者たちと、眞中央通路際の五列目、六列目の絶好席に恵まれた。夜は通路を隔てた左に「塩爺」さんがいた。暑いと聞いていたのでジャケットはやめ、息子が岩下志麻さんにもらった軽やかな、両腕はシースルーという色目渋いシャツ、おやじにいいよと呉れたのを、明るいズボンに合わせて着ていった。妻も、とびきりオシャレなベージュのニットアンサンブル。ラピスラズリの二重のネクレス、同じ色のイヤリング。わたしの母に貰った大きな佳い色の翡翠の指輪。まだそれらが似合う。歌舞伎座はわれわれのほとんど唯一の楽しみ場。及ばずながら佳い気分ででかけ、良い気分で帰ってきたい。生き苦しい日々、どんな他に楽しみがあるだろうと指折り数えて、観劇、読書、花を観るぐらい。酒と食欲を糖尿で厳しく抑えこまれ、頭を大石でおさえられている気分。だんだんメリ込んで行く。ハハハ

* 昼の部はいきなり『妹背山婦女庭訓』という大歌舞伎、今日の眼目の一つ。「小松原」の見初めは雛鶴が魁春、久我之助が梅玉。これは嵌り。年格好からいえば染五郎と福助などで似合いだが、雛鶴母の太宰後室定高に藤十郎、久我之助父の大判事清澄に幸四郎という大きな配役を考慮すると、ことにあとの「太宰館花渡し」「吉野川」の大きな悲劇を盛り上げるには、高砂屋・加賀屋兄弟の演じてくれる久我之助・雛鶴に分厚さと安定感が出て、世代差を超えて四人の大名題役者の四つ相撲に叶う。母が娘の首を切り、父が息子の切腹を介錯する。若い二人のそれが悲恋の「祝言」であり、背後に凶悪な権力者蘇我入鹿への母娘、父子の一致した熱い反抗、大化の改新に結実してゆく反権力の意気がひそむ。これはそういう政治劇でもある。その入鹿を坂東彦三郎。
圧倒的なのは山城屋坂田藤十郎の後室定高。存在が炎をふくオーラに包まれて、歌舞伎の女形でも屈指の大役を気迫満面に演じ尽くし、高麗屋松本幸四郎の大判事と、入鹿屋敷でも、二つ花道の掛け合いでも、吉野川を隔てた悲劇の白熱でも、互いに一歩も譲らない熱演で感動させた。その間に互いに恋い焦がれながらも入鹿の無道に屈せず潔く命を捨ててゆく梅玉、魁春が入念な芝居をそれぞれ清潔に仕上げていった。泣かされた。

* この幕間にロビーで藤間紀子さんと逢い立ち話、染五郎夫人に引きあわされた。

* 二つめの『閻魔と政頼』は狂言種を、播磨屋吉右衛門即ち松貫四が脚本を書いた。閻魔に当たった中村富十郎が六道の辻で吉右衛門の鷹匠政頼を審問する所作事で、赤鬼青鬼に萬屋の歌六、歌昇兄弟がつきあった。軽妙で、ことに名優富十郎の働きは特筆に値したが、劇作脚本の言葉にもっと洗練と佳い音楽とが欲しかった。不可はないがたいした得点でもなかった。歌舞伎座よ、富十郎にはもっと大役を配して欲しい。

* 昼のきりは、『侠客春雨傘』で、助六のモデルと目される元の札差大口屋暁雨の侠客もの。染五郎が懸命に演じたが、花道から大舞台正面で床几を独り占めしても、大物のオーラが燃え上がらない。小さい。これで彦三郎逸見鉄心斎に勝てるのかなあと心配した。
染五郎の暁雨さんには、実はすこし緊張と心配と楽しみとがあった。二歳の息子齋ちゃんの初御目見えで、お祖父ちゃんの高麗屋幸四郎が手を引いて舞台に登場、これが可愛くて無邪気でやんちゃで、満場喝采と爆笑の渦になり、お祖父ちゃんは大にこにこ、お父さんは緊張で直立していた。梅玉、仁左衛門、吉右衛門が盛り立ての挨拶を大奮発しておめでたく、暁雨と鉄心斎との達引きは、京屋中村芝雀演じる傾城葛城が悠揚迫らず仲に入って分けた。

* 昼夜の境目には茜屋珈琲のカウンターで、マスターに相手をして貰いながら美味い珈琲、石榴ジュース、そして神戸から取り寄せのケーキを楽しんだ。

* 夜の部、いきなり松嶋屋片岡仁左衛門と高麗屋市川染五郎の『御濱御殿綱豊卿』。芝雀、秀太郎がお喜代、絵島。仁は堂々の、間然するところない綱豊で舞台を大きくリードし、眼光鋭い赤穂浪士富森助右衛門を染五郎が期待通りに力演した。立派な助右衛門で、この前観た翫雀の助右衛門に優に匹敵した。赤穂では二百石どりの上士であり、甲府の殿様、次期将軍の前であれ、さほど軽輩がることはない。綱豊の「先生」である新井白石を演じた歌六は、さすがに悠然としていた。染五郎がまた演じるであろう富森助右衛門をもう二三度観てみたい。いずれは綱豊を演じる役者であるだけに、富森役をさらに大きく深くとらえておいて欲しい。仁左衛門には豊かな花があり、観るたびに楽しませる。秀太郎の右筆も萬次郎の女中ぶりもさすがであった。芝雀は、やっぱり美しく見えたり平たく見えたりするが、だんだん時蔵ふうの大きな存在になってきた。
この御濱御殿は何度観ても佳い芝居だなあと思う。理屈っぽい真山歌舞伎のなかではやはりピカ一か。

* 夜の二つめは『盲長屋梅加賀鳶』で、幸四郎の按摩竹垣道玄がたっぷり楽しめる芝居で、秀太郎が莫連の女按摩お兼をつきあう。最初に加賀鳶の連中がどうっと喧嘩に繰り出し、これを幸四郎二役の頭梅吉と、吉右衛門の松蔵とが、危うく大騒動を引き鎮める。この幕はご祝儀に大勢の役者をつかうための陽気な趣向どまり、のちのちの筋にはじかに関わらない。盲長屋のどたばたと道玄・お兼のゆすりを、先の松蔵が睨んで押し返す、はては捕り物になる。
幸四郎がまた一面の芝居ぶりを披露するので大笑いだが、さしたることのない世話物。

* 楽しみにしてきたのは『船弁慶』であった。義経の芝雀が予想通りに美形と、大将らしい落ち着きと気品で、わたしをよろこばせた。
この能仕立ての芝居は、前シテが静御前、後シテが平知盛の幽霊、一人の役者が二役を演じるのが普通。で、今夜は市川染五郎が演じ、弁慶を父幸四郎が堂々と付き合った、いや静をいさめて都に押し帰し、また幽霊知盛を凄いほどの迫力で一気に調伏した。
染五郎の大芝居に成るか知らんと楽しみにしていたが、やはり幸四郎断然の舞台になった。
だいたいが仕立て。「能」のことばが沢山取り込まれているし謡うところもある。が、幸四郎一人みごとに能の抑揚を身につけ美しく発語し謡っていたが、染五郎も芝雀も、なんで能役者に習ってこないかと思うほど、稚拙な発声・発語になり、白けてしまう。よく映画やドラマの祝言場面で「高砂やこの浦舟に帆をあげて」と当座の仲人が謡うが、これは当然ながらみなど素人の真似事、それで構わない。だが歌舞伎の舞台で能の言葉を能と同じに発声し発語するときは、幸四郎のように能役者なみの音吐朗として演じて欲しい。
染五郎の静はとてもいただけなかった。その舞をにらみ据えるように父弁慶は観ていたが、舞の妙味がまるでなかった。静は舞と歌の名手なのである。ま、染五郎静の静は美しい静にはなるだろうが、興趣津々の舞はむりかと想った通り、残念な成績だった。
しかし知盛幽霊は、さすがに颯爽、という表現は幽霊には変なのだが、そんなようにくるくると演じていた。だが、知盛は悪霊といわれつつも哀れひとしおの平家の名将なのである。大きさと哀れさと悲しさとが表現されなくてはならないが、染五郎の幽霊知盛はひたすら狂い舞うように動いていながら、もののあわれは乏しかった。調伏されつつくわあっと大口あいて真紅の口中をみせる場面も、せわしなく簡略になった。菊五郎の知盛のあの場面に出逢ったときは、隣の席で妻は思わず声を放って泣いた。哀れさ激しさは此の世のものでない感銘を強いた。今を盛りの音羽屋と、初役ではないかと思う染五郎の知盛とをすぐさま比較は成らないし、してもいけないが、この役もまた、もう何度も何度もよく工夫し鍛錬して見せて欲しい。
齋ちゃんの初お目見えがあった、いつかは、あの幼小に大口屋暁雨も富森助右衛門も知盛も確かに伝える大役が、父染五郎にはある。
幸四郎の弁慶、そして船上の芝雀義経、ともに胸に眼にしみた。よかった。楽しんで夜九時半の銀座を歩いて、地下鉄で一路西東京へ。

* 朝の脚の痛み、帰りには少し緩んでいた。昨日も楽しんだ。今日もたっぷり楽しんだ。
2007 6・12 69

* 昨夜期待の的にした「船弁慶」の知盛が、妙に気ぜわしく空回りに長刀振り回して海上を退散したある種の「騒がしさ」の理由を考えていた。
おそらく、染五郎は演技は先輩に教わったろうが、知盛と義経との関係をモノに当たって勉強などしていないだろう。知盛の義経に対する敵愾心は平家のなかでも一段と熾烈であった。彼は壇ノ浦でほぼ必勝の策を呈しながら叶わなかった。愛息知章を身代わりに源氏に討たせて泣く泣く自らは沖の御座船に逃げ帰った恥辱も忘れていない。

* 『能の平家物語』(湖の本エッセイ22)にわたしは「船弁慶」一編も書いて、源平の両武将のこみいった関係を、参考源平盛衰記によりながら、少しく解析してきた。そんなことまで若い染五郎に期待はできないが、あそこで、なぜ前シテに静が出、なぜ後シテにほかでもない知盛が出てくるのかを課題として考えねばならないところだ。義経との一騎打ちなら、強豪教経のほうがあの海戦ではおなじみであるが、海底の平龍王国を代表して知盛が現れ出たのには、それなりに知盛の方に必死のモチーフがあった。それを表現しないと『船弁慶』の本意は生きてこない。
またああもへなへなと強い弁慶にあっさり調伏されてしまっては、知盛の必死の哀れは生まれてこない。クワッと赤口をあいて絶叫し反抗する知盛の悲痛は生きてこない。感動に繋がらない。なんだか強いお父さんに、まだまだの息子が叱られてふて腐ったように花道へ逃げこんだ体であった。
わたしはすこし染五郎に厳しいが、彼に期待が大きいだけに、やはり、ここまでは言っておきたい。思いは尽くさないが、上の本の「船弁慶」の章を以下に抜いて掲げておく。校正不十分で誤記が少し残っているかも知れないが。

☆ 船弁慶 ─潮を蹴立て悪風を吹きかけ─  秦恒平著『能の平家物語』より

歌舞伎座で「船弁慶」を観ていて、となりで妻が泣き出したのにびっくりした。菊五郎の演じる平知盛の幽霊が、ずうっと黒い装束で蒼隈の顔をしていたのに、団十郎の弁慶に祈り伏せられ、ついに、ただ一度くわっと真っ赤な大口をあいて、舌を巻く。黒くて蒼い知盛がその一回だけ真っ赤に口をあけた痛烈な悲しみに胸うたれ、可哀想で可哀想でと妻は泣くのだったが、私も同感だった。「葵上」の御息所でも「道成寺」の清姫でもそうだが、祈り倒されて行くモノはどこか哀れでならない。赤い口をあくのは威嚇ではなく、無念の思いで舌を巻くのである。演出だといえばつまり旨い演出だが、そんなことは通り越して、知盛の幽霊には壮絶な哀感哀情が横溢する。「船弁慶」は能も歌舞伎でも主役はむろん知盛である。もう一人は弁慶で、英雄義経はすでに著しく矮小化され、弁慶の庇護のもとにある。能では子役が演じる。
土佐房は討ち果たしたが、義経は兄頼朝を怖れ、朝廷に、朝敵にならずにすむ手立てを懇請する。もとより朝廷は鎌倉の頼朝を憚っているが、現在都に兵を蓄えているのは義経の方で、すげないことはしにくい。院の下問をうけた公卿たちは、難儀な相手にその場限りの宣旨を与えてすぐ逆の手を打つなどは、何度も過去にしてきたことで、いまは義経の請いを受け入れ、次には頼朝の顔を立てればよろしいと、まさに「政治」的なチャランポランを平気で言うのだった。それが公家社会の源平武家をあやつってきた、たしかに常套手段だった。頼朝追討と日本国の西半分を義経の沙汰に任せるといった院宣を手に、攻め上るかと見えていた鎌倉の軍勢を迎え撃つことなく、義経らは西をめざして落ちて行く。そういう義経への都人の視線は暖かく、だが判官贔屓が始まれば始まるほど、もう義経には去年まで勢いはしぼんでいる。鬼神も避けたような義経ではもうなかった証拠に、海に出たとたんに「平家の怨霊」に船は襲い掛かられている。以降、吉野の義経も、安宅の義経も、終始武蔵房弁慶の手厚い庇護なしには道中もならなかった。
能の「船弁慶」は奇妙な前段と後半とに分断されていて、ふつうは関係の無い二幕物の狂言仕立てに出来ていると見られる。前シテは静御前で、弁慶により義経との同船をすげなく拒まれる。後シテは知盛の幽霊で、弁慶の功力の前に海底に退散する。しいて理屈をつければ、船上でさような危機の迫った時に、女連れは「何とやらん似合はぬ様」であり、主君義経の闘う気力をそぐ怖れがあると、女の同船を足手纏いに忌避したといえる。歌舞伎ではそれらしいことを、弁慶が主君にも静にも言い渡している。間を阻んで、静ははっきり弁慶に押し返されている。能の作者は賢しくも、「静」かを拒めば海は「荒れ」ようという因果を探っている。
海は、事実、荒れた。平家の怨霊は凄まじく弁慶らの船に迫り、「あら珍しやいかに義経」と呼びかけ、ひときわの執念で義経を何としても海に引き入れようと、「薙刀取り直し」「あたりを払ひ、潮を蹴立て、悪風を吹き掛け、眼もくらみ、心も乱れて、前後を忘ずる」ばかりに襲いかかったのが、知盛の亡霊だった。
なぜ、知盛か。それが一つの問題である。
宗盛父子は海には沈まなかった。重盛ははやくに病死している。瀬戸内の波間に沈み果てた平家の、知盛は事実首領であった。いや、壇ノ浦での決戦の時すでに知盛こそが平家の主将であり全軍の指揮官であった。指揮官の作戦に従い指揮官の指示にそのまま従っていたなら平家には勝つ機会があったのである。
むしろ優勢であった平家の敗戦と全滅の原因が、少なくも一つあったことでは、諸本が一致している。阿波民部大夫重能の裏切りであり、これで水軍の勢いが逆になった。また寝返りに際して成良は平家必勝の秘策を、源氏方に通報してしまい、源氏は一気に平家の芯のところへ攻勢をあつめて撃滅できた。
知盛は、阿波民部大夫の裏切りを予知して斬ろうと図っていた、が、宗盛は首を縦に振らなかった。大きな失策だったことはやがて知れて、宗盛は大いに悔いたが遅かった。秘策は知盛の、義経に対する並外れた敵愾心に発していて、ほとんど私憤にも近い敵意であったけれど、かなりに有効な、成功すれば決定的勝ちに繋がる名案であったのである。
この案を延慶本というじつに個性味豊かな読み本が、この本だけが伝えていて、荒唐無稽とも思われぬ真実感に満ちている。知盛の奇策は「唐船カラクリ」と称されているが、
早い話、安徳天皇や母后をはじめ宗盛父子や二位の尼らを、御座船の唐船から、いかにも兵士たちの兵船と見える船に御移しして、御座船には能登殿ら勇士を隠し置こうというのである。何が何でも三種の神器の欲しい義経は、御座船をめがけて自身で迫ってくるに違いなく、そのとき多数の兵船をもって義経を取り包むようにすれば、味方の船は数も多く、必ず義経を討ち取れるに違いない、と。
たわいないが、海の上の事であり、海戦は平家のほうが源氏よりも習熟している事は誰もが認めている。事実、かなり平家に優位に壇ノ浦の海戦は始まったのであった。内心は知盛は「今ハ運命尽キヌレバ、軍ニ勝ツベシトハ」思っていなかった。天竺震旦日本の別なく、並びなき名将勇士といえども、運命が尽きてしまえば今も昔も力及ばぬことである、ただ名こそは惜しい。その「名」にかけても「度々ノ軍ニ九郎一人ニ責メ落サレヌルコソ安カラネ」と思い染みていたのだ。「何ニモシテ九郎一人ヲ取テ海ニ入レヨ」「何ニモシテ九郎冠者ヲ取ッテ海ニ入レヨ。今ハソレノミゾ思フ事」いうのが、知盛必死の司令であった。執念は凄まじかった。

唐船カラクリシツラヒテ、然ルベキ人々ヲバ唐船ニ乗タル気色シテ、大臣殿以下宗トノ 人々ハ二百余艘ノ兵船ニ乗テ、唐船ヲ押シカコメテ指シ浮カメテ待ツモノナラバ、定メ テ彼ノ唐船ニゾ大将軍ハ乗リタルラント、九郎進ミ寄ラン所を後ロヨリ押巻キテ中ニ取 リ籠メテ、ナジカハ九郎一人討タザルベキ。

わたしはこれを読んだとき、お、いけるかも知れないと本気で思い、鳥肌立った。この時である、知盛は阿波民部大夫の裏切りを察知していて斬ろうと強く主張したのは。宗盛はだが聴かなかった。結果「唐船カラクリ」のことは裏切り者の口から源氏に伝えられ、平家の船は算を乱して崩れていった。その後の凄惨な成り行きは、ここで拙くまねぶことは避けよう、平家物語をつぶさに読まれたい。知盛は「見るべきものはすべて見つ」と、一族のなれの果てを見納めて乳兄弟の伊賀平内左衛門家長と、抱き合って壇ノ浦の水底に沈んで行った。
その知盛の幽霊が、風を巻き波に乗って落ち行く義経主従の船に襲いかかったのである、それが能「船弁慶」の後シテである。
知盛といい教経といい、義経を追いに追い詰めて海に引き込もうとしたが壇ノ浦では果たせなかった。この大物浦では何としてもと、勇猛の教経でなく知盛の現われたところに執念の凄さがある。逆にいえば義経一人、九郎一人に亡ぼされた平家という印象の強化法が平家物語にも、読者たち享受者たちにも共通していた。それが義経の末期の哀れをまた強め得て、ついには「義経記」のような平家物語の傍流末流物語成立へまで行く。
それにしても能「船弁慶」の前半と後半とのアンバランスは目立つ。手持ちの謡本でみれば前シテ静の十九頁分に対して、後シテ知盛幽霊は九頁にも満たない。しかも印象は圧倒的に知盛の挑みと屈服とに傾く。能でこそ静の舞姿が美しいが、歌舞伎では終幕後にまで静の印象は殆ど残らず、弁慶ののさばりだけが異様に印象に残る。静は奇妙に前座めく。なぜこんな作りが必要だったのか、弁慶の配慮と功力の大いさを表現すれば「船弁慶」は事足りているからか。いやいや、今一度、何故に弁慶はああも靜の乗船を忌避したのか考えて見たくなる。弁慶の不思議な直感に、どこかで靜という女人と知盛の怨霊とを繋いで危ういとみるものが忍び入っていなかったか。
夫婦で見て妻が泣き出し、わたしもふと引き込まれた歌舞伎の舞台では、菊五郎が靜と知盛とを前後二役で演じた。能では当たり前だが歌舞伎では必ずしも当たり前ではない。菊五郎だから静も、靜以上に知盛もよかった、泣かされた。そして感じるところが有った、この芝居や能の作者には、もともと論理整合的にとは行かなくても、靜と知盛とを根深いところで「同じ側」に眺める視線を秘め持っていたのではないかと。弁慶にすでにそれが在り、静を主君義経と乗船させることに決定的な危険と不安と憂慮を覚えていたのではなかろうかと。これは直ちには説明しきれない。しかし手がかりがまるで無いのではない。知盛ら平家の怨霊らは間違いなく今は海底の住人、陸に住む者らへの怨念に生きる海の民である。平家物語は住吉や厳島を芯に、実は想像を超えて海の神意に深く導かれた物語である点で、あの源氏物語とも臍の緒を繋いでいるのだが、シラ拍子の靜、母の「磯」は、もともとは海方の藝能に生きていた女たちであった。弁慶の怖れは、謂われなくは有り得ない深い根拠をもっていたとわたしは考えたい。

* 二日続きの快かった疲労に甘く負け、少し朝寝を貪った。さて、またこころよからぬ日々をもさもさと過ごしてゆこう。
2007 6・13 69

* あの二歳幼童のせめて初舞台が観てみたい。
2007 6・13 69

* 市川染五郎丈より、六月歌舞伎座千穐楽を迎えたこと、子息二歳齋チャンの歌舞伎座での初お目見えもことなくめでたく終えて有り難かったとご挨拶があった。
2007 6・28 69

* 七月歌舞伎座菊之助たちの蜷川演出『十二夜』は割愛した。七月は俳優座の稽古場と、昴劇団の芝居、八月は納涼歌舞伎、松たか子の『ロマンス』、九月は歌舞伎座秀山祭と、幸四郎・紀保らの企画芝居、十月は国立劇場をと、予約。他に梅若研能能会がある。湖の本も発送して落ち着いた夏でありたい。
2007 7・4 70

* 山田健太さんに券をもらって、後楽園で、巨人と広島だったかの試合を、妻と並んで観たことが一度だけ。独特の陽気にアテられた心地でわるくなかったが、飲み物のペットボトルにもテロ対策の警戒厳重だった。ああいうもんなんだろう。
野球というゲームは概して退屈だが、ドームの広いこと、その密閉されて騒然とした陽気をあれで楽しんでいたかも知れない。ネット裏の小高いいい席にいた。どっちが勝ったかも覚えていない。遠いところで選手たちがこまごまと動いていた印象だけ残っている。
やはり歌舞伎の方が席はいいし、美しいし、興奮するなあ。
2007 7・18 70

* はやく起きていたので、かなり疲労している。明日もう一日根をつめると、とりあえず、いつ本が届いても大方の発送には間に合う。次の本の用意にももうかかっている。今夜はもうやすんでもいいだろう。
あさっては俳優座の稽古場芝居がある。来週末にはもう一度眼科検診があり、三百人劇場を出て初の、劇団昴公演にも招待されている。八月の勘三郎等の歌舞伎座、そして松たか子の『ロマンス』の座席券も、嬉しいことにもう届いている。
2007 7・18 70

* 「オール読物」の高麗屋父娘往復書簡、毎月奥さんから送って貰っていて、今月はお父さんの番。齋クンの初お目見えという初の話題で、幸四郎丈の筆が新鮮に弾んでいる。
やがて月が変われば、松たか子の舞台が楽しめる。八月の納涼歌舞伎は中村屋三役の、少しサマ変わりの『裏表先代萩』が通しで観られる。
2007 7・29 70

* 八月のお盆、夕方から歌舞伎座で勘三郎らの納涼芝居を楽しむ。二十五日には三鷹で、声楽を楽しむ。
九月には四日に渋谷で幸四郎と松本紀保らとの『シェイクスピアソナタ』が楽しめる。それと歌舞伎座での秀山祭。播磨屋吉右衛門と高麗屋染五郎たちのお芝居を昼夜楽しむ。
十月は国立劇場で高麗屋の歌舞伎を観、また新橋演舞場で昼は中村屋・成駒屋らの歌舞伎、夜は勘三郎奮闘、森光子や波野久里子らのお楽しみ演舞場祭りの賑やかなお誘いが来ていて、早速予約した。妻と、食事付きで芝居を観てくるのが、結局はいちばん疲れない楽しみ。それぐらいは黒いマゴも辛抱して留守番をしてくれる。
みなさん夏休みで家をはなれて遠くへ出かけられるようだが、半ば羨ましく、半ばはご苦労さんという感じだ。「いながらの旅」も、負け惜しみでなくいいものである。創作、読書、映画、私語の刻、そしてインターネットという電子の杖の旅もある。階下へ降りればいつも妻が居て一緒にテレビを観たり談笑したり議論したりする。黒いマゴも寄ってきてそれは上手に甘える。
仕事場の二台の機械の一台は、バックアップの用にも立てながら、いつでも好きな音楽が聴けるし好きな映画が観られる。妻が録画してくれるディスクは和洋の秀作二百枚をらくに越して、日々に増えてゆく。本を読むように、いつでも何度にも分けて気軽に観られる。わたしの「煙草代わり」である。その上息子たちが顔を見せに来てくれれば云うことはない。

* その建日子が四度の瀧へ車で連れってくれると云うが、もう少し脚を伸ばして山形の村山市まで、「あらきそば」まで運んでくれると楽しそうだが。長途の車はしかし疲れるだろう。疲れてはいけないのである、妻もわたしも。
2007 8・10 71

* 明日は、勘三郎や扇雀の芝居を妻と見にゆく。この夏休みを終えたら、気がかりな、量のある大事な依頼原稿を書くつもり。帰省ラッシュの交通渋滞を報じていたテレビが、幹線道路のもうユーターン渋滞を報じている。何十キロもの車の渋滞は見ているだけでシンドい。ああいうバカゲた渦の中には頼まれても入りたくない。  2007 8・14 71

* わたしたちはこの日を、有り難いという感謝の気持ちで勘三郎らの納涼歌舞伎を楽しませていただく。

* 言語道断の酷暑、炎天に焦がされそうな三時半過ぎのバスを待つのもつらく、折良く通ったタクシーで保谷駅まで。
銀座の「福助」で機嫌良く夕飯に鮨をつまみ、時間をはかって開場の五時半に前までゆくと、歌舞伎座は開場どころか今しも第二部はね出しの大混雑。「茜屋珈琲」で小憩、六時の開演に間に合って。
まずは「花水橋」から。足利頼兼は七之助。以前魁春の頼兼で、姿の良いのに感心した。桁外れに遊び人、ほとんど酔生夢死の殿様役。七之助は、今少し鰭と余裕が欲しい。
二幕目「大場道益宅」の下男小助は、中村屋にはまり役のはずだが、あまり毒と凄みとに乏しく、平凡だった。弥十郎道益の、これまた毒のない悪党ぶりにも笑ってしまった。隣家の下女お竹、別嬪の福助に絡む彼の、大柄なあまりの尋常さが逆に印象的。この男は秘密に毒薬の手配をして曰くの金の二百両を仁木弾正等の筋からせしめていた悪党なのだが、悪党たる毒が全然にじんでも出てこない。あのただ助平な阿呆らしさに、勘三郎の小助まで毒気が脱けてしまったか。凡な一幕で、眠かった。
三幕目「足利家御殿」では、勘三郎が政岡の苦衷を、これは好演。少し小粒の政岡ながら、我が子千松を八汐にいたぶり殺されてからの、死なれ死なせた「悲哀の仕事」ぶりに、中村屋らしい実の芝居、巧緻な工夫がにじみ出て、さすがに美しく観せた。しかしながら、上超す好演は成駒屋扇雀の、まだ二度目ぐらいの、八汐。立派に派手な美貌と眼力の凄みで、けっこうに客席を怖がらせた。この役、先々代鴈治郎が当たり役であったが、当代扇雀のきっといい「持ち役」になるに違いない。感心しました。
此処の子役二人は、相変わらずの大人気、小癪なほど巧くて楽しませる。
栄御前の秀太郎は慣れたもの。それにしても政岡の本心を大きく誤解して帰って行くこの御前のアホらしさはいつもの難なのであるが、見方を変えた方が良い。あの「騙され」も、いわば政岡の藝のよさの強い照り返しを意味するのであるから、政岡が巧くないと、ほんもののアホらしさになるわけだ。そこを持ち堪えてしまうのは、藤十郎でも、玉三郎でも、勘三郎でも、藝で本当に栄御前を騙しおおせているわけである。
孝太郎と高麗蔵との沖の井ほか上女房二人の、実直な「並び」にも好感がもてた。
さて「床下」の、勘太郎による荒獅子男之助は、なにしろ冨十郎はじめ大物の好演を何度か見てきたので、若い力の大声は大声でも、勘太郎はまだ荒獅子の内面がひよわく、物足りなかった。大鼠の銜えた秘密の一巻をまんまと持ち逃げされる「残念」が失敗の残念に聞こえるのが辛い。
勘三郎仁木弾正のせり上がりから、うねるような花道の引っ込みは、中村屋の見せる最良の意地のがんばり。なにしろ柄の大きさのないぶんを、にじみ出すちからで大きく大きく彼は補わねばならない。おっと、よしよし。
大詰は、「小助対決」の場と「仁木刃傷」の場とを、場面をかえ筋も分かりよく連ね、大和屋坂東三津五郎の、座頭格の倉橋弥十郎役・細川勝元役とで、「めでたく」、通し狂言『裏表先代萩』を締めくくってくれる。それだけではちょいと勿体ないほどの綺麗役だけだが。此処でも中村屋の小助が、意外にケチに小さい悪党で終わった。しかし仁木弾正の「実悪」刃傷は奮励努力の大立ち回り。此処で片岡市蔵の老職渡辺外記左衛門の奮闘が特筆もの、いい感じだった。努力賞。

* はねて九時半。成駒屋の美しい番頭さんに、中村扇雀丈「八汐」に大いに満足した旨を嬉しく告げ、佳い席をもらっていた礼も述べて歌舞伎座を出た。
湯につかったような夜気の暑さ。悲鳴を上げながら、銀座一丁目駅から、幸い西武線直通の地下鉄にとびのって座れ、一気に帰宅。タクシーに並ぶ必要もなく、あけた玄関の内側では、黒いマゴが一声鳴いて出迎えた。おっと、よしよし。
2007 8・15 71

* 高麗屋から、九月秀山祭の座席を用意しましたと通知があり、十月には我當君が出勤して、玉三郎や仁左衛門も出るという予告を観てきた。秋から暮れへ、歌舞伎座も演舞場も国立劇場も渋谷のパルコも、はなやかだ。体力のつづくかぎり、楽しみたい。
2007 8・15 71

* 田中傳左衛門 亀井広高 田中傳次郎を中心の『三響会』公演の案内が高麗屋からあり、すぐ申し込んだ。好企画。
鳴り物、囃子。いいものだ。染五郎、亀治郎、勘太郎、七之助らも共演、能界からも観世喜正ら若い生きのいいのが出そろってくる。楽しみ。
2007 9・1 72

* 十月の、中村屋や成駒屋一統の新橋演舞場での席がとれたと、知らせがあった。昼は歌舞伎、夜はバラエティ。このところ中村屋ふうの芝居興行に批判の声も聴く。好きずきであろう、だれもがけれんでは困るし、だれもがきまじめばかりでも面白くない。訳者はニンにあった仕方で、はじけたり、つとめたり、してほしい。
2007 9・2 72

* 一日、歌舞伎座に埋もれてくる。秀山(初代中村吉右衛門)祭。当代の当番月で「熊谷陣屋」など。玉三郎・福助の「二人汐汲」も玉三郎の「阿古屋」もある。
2007 9・11 72

* 歌舞伎座の昼夜、充実していて、期待の外であった『龍馬が行く』にもけっこう説得された。染五郎のニンに合い、龍馬という希
有の「日本人」の片鱗がうかがえ、今が今の時節とも情けなく思いあわせ、やはり思慕と哀惜を覚えた。歌六の海舟も、歌昇の桂小五郎もほどよく、続編が観たいとさえ思いながら快い拍手を送った。

『熊谷陣屋』の吉右衛門は花道の「送り」に至るまで内も外も大きく、ゴッツイ熊谷の魅力を腹にしっかり溜めて、声が飛んでいたように「おみごと」だった。久々に吉右衛門の度量と爆発力にふれ嬉しかった。幸四郎の熊谷、仁左衛門の熊谷などを近年はよく観てきたが、容量の重さとその放出の迫力で、わたしは、今日の熊谷に敬服した。
この舞台は義経に芝翫、弥陀六に冨十郎という絶好の配役。また熊谷の妻相模に伸び盛りの福助を配し、この初役の相模が懸命の好演だった。情感と堪えと噴出とに品位をしっかり見せたのは、たいした努力。早く歌右衛門にしたいものだ、わたしたちの元気な内に。
冨十郎はほんとうにきっちりみせる。不思議と、亡くなった羽左衛門の最期の弥陀六が思い出され、とても懐かしかった。さりげなく歌昇の堤軍次もよく場所を弁えていた。かなめは、さすが芝翫の義経である。佳い舞台だった。役ぢからの均衡と衝突の仕方に、正確な魅力があった。芝雀の藤の方は今ひとつ。
しかし、何といっても子を殺す話はよろしくない。『寺子屋』よりは、舞台に映えた官能美がありすくわれるけれども。手に掛けて親が子を殺してはいけない、どんなリクツがあっても不快だ。
要するにいかに泪を誘おうとも、所詮、天子だの将軍だの大将だのの世界の中では、熊谷たちは、無意味なただの歯車にされている。社会のがっちり食い込んだ「ワク・仕組み・抑圧」のきびしさに対する、バグワンの謂う意味の本質的な「叛逆」が無い。勝海舟にものしかかっていた「幕臣」という「ワク」を、あの坂本龍馬は直ちに「日本人」という自覚で本質的に叛逆できた。そこが希有。社会や教育や階層や生まれつきなどというものの強いてくる、身動きならない「わく組」という抑圧や制圧の中でしか生きられない者達の「」劇には限界がある。どこかで、バカげていると思ってしまう。
「ワク組」の最たるものが「法律」というやつだ。法律家は法律の不十分な日本語に自ら縛られて身動きしないことを「遵法」と謂い、人間の限界を自ら固めてしまっている。わたしのような無法者は、情けないはなしだと慨嘆する。

さて、玉三郎の松風、福助の村雨という姉妹の『二人汐汲』は、期待通りのおもしろさのなかで、玉三郎の美しさはもとよりだが、福助の踊りの巧さが引き立って見えた。これも予想通り。福助の最近の舞台は「役」の掴み方に情味が濃い。しかも所作が正確なだけでなく、豊かに優しい。情が気持ちよくのっている。玉三郎に少しもヒケをとらなかった。よしよし。玉三郎の藝術心には心底敬服する、が、その踊りには不満もある。脇がつまり腕の使いがちいさく、そっけないのである。

* 昼の部は、かくて芝居としては大満足の充実であった。その足で、茜屋珈琲へ。うまい珈琲をすてきなカップで。この店はコーヒーカップの美術館でもある。妻は、いつもの石榴のジュース。綺麗な写真雑誌をいつもマスターはわたしたちに見せてくれる。

* 夜の部の最初は『阿古屋』で、当代、これは玉三郎しか出来ないといっていい最大の難役の一つ。吉右衛門初役の畠山重忠に責められ、清水坂=五条坂の遊女阿古屋は、琴を、三味線を、胡弓を次々に弾じてみせる。その音色の乱れなさの故に、彼女が、源氏に追われる夫、平家の景清の居場所をたしかに知らないと重忠が判決するという、いわば高度の音楽裁判。
玉三郎の絶品には一言のムダも言うまい。
吉右衛門の初役とはとても思われぬ重忠の、心清い判官の大きさ、美しいまでに好もしい。また人形ぶりで段四郎が悪判官ぶりをユーモラスに見せてくれたのは、趣向の妙。
ひたすら辛抱役の染五郎くんの榛沢六郎役には同情した。苦界に生きる阿古屋の自由なつよい愛と精神に、感銘を受ける。いわば勤め人の重忠も感銘を受けたのだろう。

次の『身替座禅』は、断然左団次の「奥方」が笑わせてくれた。わたしは中学生このかた数々の「奥方」を観てきたが、左団次の今夜の奥方ぶりを最良の一つと推したい。それにくらべれば折角成田屋「の山陰右京」も染五郎の「太郎冠者」も普通の出来で。市村家橘、市川右之助といった脇役の何でも出来る万能の役者ぶりに、わたしはいつも拍手を送る。歌舞伎舞台の楽しさだ。それにしても左団次の奥方がよかった。

三つめの、或る意味で一の楽しみにして来た『二条城の清正』が、期待を裏切らぬ力作。吉右衛門の「清正」ぶりは心魂をゆるがす力演になったし、福助の凛々しい聡明そうな「秀頼」の大成功、この二人の、親子とみまがう信頼と愛情、まさしく真の「身内」を成していて、わたしは感動した。
左団次の「家康」が、これまた不器用な左団次にしてはみごとにフクザツな表現で、つまり百パーセント納得させる家康ぶりであった。家康に酒の酌をしている、魁春演じる尼僧姿の「秀吉未亡人」は、史実的に印象ことに無残た。
吉右衛門は、死期せまる老骨の猛将が、無類に柔らかい精神と言葉とをもっていることを描き仰せていて、それだけでも感動させた。

* 二代目中村吉右衛門は、初代の「秀山祭」を、去年以上に盛り上げた。熊谷も重忠も清正も、あっぱれ好演し名演した。次いで福助の相模、村雨、秀頼の大きな進境を讃えるし、左団次の奥方と家康の秀逸を喜びとしたい。染五郎の龍馬も意気盛んに実在感を見せて刺激的だった。そして玉三郎の阿古屋は、さすがになにもかも大きく美しく、阿古屋の人間的な容量でも納得させた。芝翫の義経も冨十郎の弥陀六も、言うまでもない、さすがであった。
満たされて歌舞伎座から帰ってきた。歌舞伎座の中の稲荷社に、初めて手を合わせ詣ってきた。建日子や妻の健康と日々の無事を、そしてやっぱり朝日子のことも、わたしは祈ってきた。誰もかもの幸せを祈ってきた。
2007 9・11 72

* 十一月顔見世歌舞伎座、十二月国立劇場の案内あり。予約。
2007 9・25 72

* 新橋演舞場の中村勘三郎奮闘公演は、昼の部はさながら歌舞伎座の本格、夜の部は帝劇の娯楽という「趣向」で、期待して出かけた何倍もの魅力横溢、終日楽しめた。世話をしてくれた成駒屋の番頭さんに繰り返し礼を言ってきた。楽しめるとは期待していたが、感銘や感動までは思っていなかったのだ。有り難い期待ハズレであった。
勘三郎の「奮闘公演」と銘が打ってあるということは、裏返せば座組みに限度があるということ、歌舞伎座の本公演とはちがい大きな手駒も数少なく、その他組も手薄になる。それをどうカバーするかが、中村屋一人に期待された「奮闘」の二字の意味。勘三郎ならばと、楽しめることは大いに期待していたが、舞台の映えをあまり望んでは気の毒とは内心思っていた。ところが、嬉しいことに、それをハネ返された。
ことに昼の部の歌舞伎の充実には眼を瞠った。

* 昼の部の開幕、近松門左衛門作『平家女護島・俊寛』は隅々の科白まで頭にあって、「毎度のこと」「陰気なはなし」と、観る前から、致し方なくヘンな姿勢がこっちに出来ていた。わるいが、期待の「外」に置いていた。
楽しい芝居であるわけが、ない。島流しの三人の、ひとり俊寛だけが赦免から漏れ、孤独地獄に置き去りにされる芝居なんだもの。
ところが、あにはからん、開幕からの勘三郎の気の入り方がちがった。よこの妻に、「中村屋、えらい勢いだよ」と囁いたほど。勘三郎のまさしく孤軍奮闘の舞台だった、それなのに猛烈に感動させたのだから、えらい。そのワケは、あとで言う。

* 兄貴・勘太郎の丹波少将成経、片岡亀蔵の平判官康頼は、ま、あんなところだ、が、弟・七之助の千鳥が、妙に大きな鳥の羽をふってバタつくように見えた。島娘だからすこしガサついてもと考えたか。
もっといけないのは坂東弥十郎の瀬尾太郎で、声ばかり張り上げても、所作の間がサマにならない。下半身がひよわく、拙なこと素人なみ。左団次とか段四郎だと、もうすこしもすこしもこの憎まれ役が、大きくふくらむ。
同じ意味では、例えば富十郎の演る、抑えどころの丹左衛門尉基康が中村扇雀では、まだ、小さい。軽い。ただこの成駒屋は姿がいい。立ち役での美貌は断然ひきたって美しい。だから舞台の進行に連れてサマを成した。引き締めた。立ち役の扇雀がわれわれは好きだが、『京人形』のお人形などぜひまた観たいと夫婦でよく話している。

* ま、だが、一言でいえばこの舞台、勘三郎だけをじいっと観ていればよかった、他へは目移しの必要も取り柄もなかった。それさえ「集中」の効果になった。
だいたい、能の「俊寛」とちがい、物語に「綾」のあるこの『女護島俊寛』での俊寛幕切れの芝居に、わたしは、かねがね疑問を感じていた。誰もが知っている「オーイオーイ」で置き去りの哀れはまさるが、この芝居で俊寛は「置き去り」にされたのではない。彼は自分の意志で島に「居残り」、身代わりに、少将成経と夫婦になったばかりの可憐な島娘の千鳥を「赦免の船」に乗せてやったのである。あまりに去りゆく船に「未練」を演じすぎると、せっかくの俊寛の思いや慈悲が生きてこない。
勘三郎はそこを、美しく、説得力豊かな感動の「歌舞伎」にしてみせた。
俊寛は都に残した愛妻を、清盛の命をうけた目前の赦免上使瀬尾の手で惨殺されている。それと憎げに聴かされた俊寛には、望郷も懐郷も無残に失せてしまった。そしてその仇を、いましも必死に酬いて、瀬尾は鬼界島の渚で俊寛に殺された。
餓鬼。修羅。地獄。三悪道を現実の鬼界島ですでに経巡り終えたと述懐する俊寛は、後世は往生疑いなしと島に一人居残ったのである。
去りゆく船に名残を惜しんで叫びつつも、ついには巌上に茫然、深い静寂を面貌にただよわせてただはるかな沖をながめる、もうそこには、勘三郎の俊寛は一体の仏をすら体現し、底知れぬ境地を示していた。

* こんな幕切れ「俊寛」像を勘三郎は見せてくれた、感動いふるえた。幸四郎でも吉右衛門でも、こういう俊寛はまだ観ていない。勘三郎という歌舞伎役者の天才的な役の読み込みと藝の組み立てのみごとさを、新橋演舞場という舞台で観られるとは実は予期していなかった、私の不明であった。
すばらしい俊寛、また逢いたい俊寛であった。脱帽した。泣いた。泣いた泪は、孤独に置き去りにされた男の悲しみに同情したのではない、とかく狷介な性格が謂われてきた平家物語の俊寛に、人間の回復と優しいほど静かな諦念が読み取れて、嬉しくて泪をこぼしつづけたのだ。

* その勘三郎が、勘太郎、七之助という俊秀の子獅子を引き連れた『連獅子』のみごとさ、これは期待通りのさらに期待以上で、わたしは途中から嗚咽しそうで困った。
勘三郎獅子の凛然と美しい慈愛の深さ、強さ。子獅子二匹の颯爽、雄壮、親を敬愛して舞いに舞う所作の激しさ美しさ。久しぶりに毛振りの華麗な速度感、豊かな盛り上げ。
堪能した。最高に幸せな親子がここにいるなと思うと、わたしは湧く涙をぬぐいもならず、佳い舞台に逢っている幸福感と、見失ってしまった私自身の子獅子への哀れとで、身の竦むような悲しさも感じていた。中村屋親子のこの『連獅子』には、大輪の牡丹花の匂いたつ魅力が満喫できた。ありがとう、と、何度も胸中に礼を言った。

* 間狂言をつとめてくれた亀蔵、弥十郎が、きっちり役目をはたして、けっこうに楽しませた。こういうことになると、この二人はいつも期待通りに期待したまま、時に瞬間風速のように期待以上のおもしろい間を生んでくれる。大和屋の弥もいいが、松嶋屋の亀蔵という役者は、出てくると何か「妙」をやって楽しませるぞと期待をそそる。『シェイクスピア・ソナタ』でもそうだった。貴重な存在として、年々に役者の貫目が重く成っている。

* 三番目の『文七元結』は、これまた科白の隅々まで頭に入っている。つまり、今日の昼の部は熟知の番組であった、勘三郎でなければ今月は遠慮するかと「お休み」していただろう。名人圓生の噺で徹底的にまず頭に入れてきた芝居だ、歌舞伎舞台は、失礼だがどれほど圓生師匠の口跡から抜け出してくれるか、だ。そういつも思う。
この舞台は、アンサンブルのいい安定した芝居だった、勘三郎のよさが横溢、扇雀の例の女房役も気持ちよくはじけて活気をそえ、楽しいことなのめならず。
茶屋の大女将に芝翫がどっしり。孝行娘お七は、しのぶ。この女形はまだ並びの女中格ながらときどきこういう役で引き立てられる。それだけの味わいをもっている。やがては出世間違いあるまい。文七は勘太郎、一所懸命の魅力。父を追え、一心に追えと応援したい若獅子。

* こうも充実した大の大満足の「昼の部」になるとは、期待以上の以上で、アハハと楽しんだだけではない、三作ともに真実嬉しい、いい泪をいっぱい誘い出したくれた。芝居の上質をわたしたちは幸福に感じ続けていた。
よかったな、よかったなあと、昼夜の入れ替えを待つ間も何十度も口にした。口にさせたのだから、中村勘三郎の歌舞伎魂はほんとうに熱い。あれでよい、ただただ健康に自愛あれと願うのみ。天成の魅力をもち、本筋を外さない芝居で客をよろこばせる。幸福にさせる。それは冒険の意欲がいつもあればこそだ、その方面でもわたしたちは満たされてきた。

* さて「夜の部」の『寝坊な豆腐屋』は、がらりと変わって、まったく帝劇。
森光子を芯柱にまもって、勘三郎が奮闘して舞台を盛り上げてゆく。余裕があり、だから「科・白」ともに軽快に回転する。波乃久里子、米倉斉加年、それに扇雀、弥十郎、亀蔵も参加。鈴木聡の作はよく書けていてソツなく、歌舞伎とは全然違う現代の人情劇、母子もの。お涙頂戴なら幾らでもあげていい泪を、好きなだけ流しながら、笑って楽しむさらりとした商業演劇。
下町の「開発」をめぐる話題は珍しくないが、「民主主義とは多数決でほんとうにいいのか」という問いかけには意義があった。つねに徹底した少数派、派ですらない独り者のわたしは、その勘三郎が突き出す疑問符に共感できた。

* 独特の「投げ科白」で一貫して役の性格と働きを<こゆるぎもなく発揮していたさすがに森光子と、わたしは彼女の舞台の記憶に、この一作と出逢っておけて「有り難い」と思った。眼鏡で徹底してその眼働きを追ったが、森光子の眼は強烈で完璧で不屈だった。凄いとすら思った。
勘三郎のあたたかいモノが、こみあげるように舞台を心地よく暖めてくれる。わたしたちもいいぐあいに暖められた。
いい拍手を精一杯送って劇場を出てきた。
2007 10・11 73

* 眼はつらいが、良くなるものと信じて、点眼で堪えている。本は読めるうちに楽しみたい。今日は、国立へ幸四郎の俊寛を片目で見にゆく。早く帰ってくる。

* 幸四郎「俊寛」を成し遂げてゆく、「演技」という銘をもった彫刻刀の冴えは、たいへんなもの。気張りもゆるみも微塵もない。ただただ的確に成し立てられてゆく時空間の顫動と旋律が、即ち「俊寛」なのである。何度もの瞬間風速を爆発させながら、静まりまた激動し激発する「いま・ここ」の生命感。居残る意志を実践したまま置き去りの悲嘆と諦念との喘ぐ息づかいのまま、寂寞が舞台を被う。高麗屋に敬意を表する。
段四郎の瀬尾がやっぱりおみごとというしかない。バカげた憎まれ役なのに存在感豊かに、科白は旋律の間を活かして美しく、すると自然に身動きも美しくなる。先日の弥十郎はただただ喚いていたが、あれでは芝居にならない。段四郎の瀬尾は当代一の名演である。むろん梅玉の丹左衛門基康も対照的に立派だった。染五郎の少将、錦吾の康頼はあんなもの。比べてみるとこのあいだの勘太郎、亀蔵はあれで能くやっていたのだと思う。
芝雀の千鳥は、ま、不可ではないが可でもない。芝雀としては断然あとの通し狂言『うぐいす塚』の幾世役が嵌っていた。
いつもの「俊寛」より親切に、前に清盛館の場があり、ここで彦三郎清盛の横恋慕を振って、流人にされている俊寛僧都の妻東屋が自害する。この場があると、後半の鬼界島の場がオハナシとしてうんとよく通じる。ここで東屋に起用された高麗蔵、かなり観られたけれど、惜しいことに終始顎をだし自然に面がいわゆる「照った」芝居になる。気概とも謂えるが、あわれはうすまる。顎を引いて面はしおらせた方が似合うのではないか。もう一人の能登殿教経の松江が、とんでもない変なイントネーションで何語だえといいたい日本語をしやべるので興ざめした。

* 『俊寛』はもう圧倒的に幸四郎の舞台だったし、感動させた。拍手は鳴りやまなかった。『平家女護島』という近松芝居、観るたびに原作者に敬意を覚える。美味くできている。

* ふたつめの復活劇『うぐひす塚』は、かるいお芝居。復活に意欲的な染五郎に、幸四郎や梅玉や芝雀や東蔵等が親切に付き合った。鳴り物の隠し藝が聴き所なら、手際の早変わりが見所。ま、毒にも薬にもならない、あっさりしたお芝居であった。楽しんだ。

* どこへも寄らずにまっすぐ帰ってきた。昨夜あまり多く眠れなかった。眼は半分ふさいでいた。
2007 10・17 73

* さて、今日は歌舞伎座。昼の部。夜の『牡丹灯籠』は遠慮した。三津五郎の『奴道成寺』を見逃すのは残念だけれど。
昼には、山城屋の『封印切』で少年以来の友の片岡我當とも逢える。玉三郎の「羽衣」の天女や如何。こころから楽しめますように。

* で、楽しんできました。

* 木下順二作『赤い陣羽織』は民話劇ふうであるが、素性はたしかスペイン種の翻案。しかし日本産の民話劇にしっかり換骨奪胎されていて、歌舞伎でも、かつては先代幸四郎、先代勘三郎、歌右衛門という大物が演じて評判の秀作。それを翫雀、錦之助、孝太郎そして吉弥で演じて、あっさりと淡彩ながら楽しめた。馬の孫太郎がなかなかの役をする。
さてどうという穿った作ではないけれど、若手から中堅への坂道にある達者な役者達が新鮮な一面をのぞかせ、いやみのない気持ちの佳い舞台だった。木下順二さんとは「湖の本」を介して和やかなご縁がつづいて、本なども何冊も戴いて、そして亡くなられた。馬の通であられた。

*「茜屋珈琲」で休息。いつもの石榴が品切れで、勧められて妻は白葡萄のジュース。ちょっとわたしも口をつけたが、美味いこと。仰天ものであった。わたしは、例の珈琲党であったけれど。マスターとも歓談、三十分の幕間がたちまちに。
座席は花道にまぢかい通路際という、今日のどの芝居にも最高席を松嶋屋が用意してくれていた。楽しさも嬉しさもきわまりなし。

* 『恋飛脚大和往来』は、近松の浄瑠璃『恋の飛脚』の歌舞伎化したもの、通称「梅川忠兵衛」で、近松ならではの深刻な人間の読み込み、彫り込みにより、「封印切」「新口村」と続いて二場が演じられると、しみじみと佳い芝居を観たという感動に包まれる。数多い歌舞伎劇の中でも、繰り返し繰り返し観て飽きない名作。
わたしの希望で言うと、忠兵衛はむろん名優山城屋、坂田藤十郎に極まる。他に一人もいない。「封印切」の忠兵衛を、活かすも殺すも相手役の八右衛門で、今日は坂東三津五郎が演じた。器用な大和屋とはいえ、この役だけは松嶋屋、わが友の片岡我當の右に出る嵌り役は居ないのである、弟の仁左衛門でも、こればかりは味が変わる。我當ならではの浪花言葉、舌足らずに訥弁めいて、しかも流暢でえずくろしい間のおもしろさ、にくたらしさ。残念なことに三津五郎の半端な科白まわしはどうにもならず、自然身のこなしにも、憎体ながらなにか滑稽な上方のぬくもりが出せない。これは我當で観たかった。
花車方の井筒屋内儀おえんとなると、これはもう同じ松嶋屋、我當弟の秀太郎に極まって、他のどんな役者が演じても、あの、なんどりした、まったりした、しっかりした秀太郎には、追いつかない。何度観ても何度観ても秀太郎のおえんは極め附け。
そして梅川は、わたしの見てきた限り、当代では萬屋の中村時蔵が、圧倒的にこの役を占めて、美しく哀切である、観る度ごとに良くなって深くなって美しい。ことに「封印切」のあとの「新口村」では、時蔵演ずる梅川は、ほとんど至福を思わせるほど悲しくも美しく、ほとほと優しくて切ないのである。情が深いのである。
「封印切」では、三津五郎の分も補って、ひとしお藤十郎丈が頑張った。頑張りがよく見えた。そのぶん、我當と演じているときの喧嘩掛合いの間の流れの柔らかさ、柔らかくての厳しさが削がれ、厳しく厳しくと表現された。関西歌舞伎の特質である或るおかしみが、またそれ故の悲しみの深さが、惜しくもアンサンブルをやや欠いたために硬く成った、かも知れない。
しかししかし、「新口村」は、一段とすばらしかった。
凄いほどな大雪竹の舞台の美しさに、大坂から落ちてきた忠兵衛、梅川の、黒装束に白い顔、白い布、緋の蹴出し。単純の極みの、底知れぬ色彩美。吸い込まれそうに静かに静かに息づく佳い舞台だ。
そして極めつけは我當の演じる忠兵衛実父の、切々とした老親の悲哀と慈愛。わたしの希望で言えばと先に言うたのは、彼が「封印切」の八右衛門と「新口村」の父親役とを「二役」演じ分けてくれたなら、「最高!」という意味で。
すこし脚を弱くしている我當だが他は達者、先考仁左衛門にますます似てきた家の藝のなかでも、この慈愛と苦悩の老父役は、科白の刻みの確かさといい、人柄の美しさといい、今日もまた演技賞ものの上出来であった。嗚咽しそうに感動した。
それもそれ、時蔵の梅川が、このうえなく佳いのである、佳いと佳いとが出逢えば舞台は三倍も五倍も張りつめて美しくなる、力がみなぎる。
藤十郎の忠兵衛は「新口」では、じつに堅固に梅川と忠兵衛父との「引き立て役」なのである。その下支えが舞台の感動をひとしお簡潔に純化し、深化する。雪一色の舞台で大きな三者が働きを競い合っては、こっちが、しんどくなる。感動が分散する。背後の陋屋のひなびた小窓をみごとに生かして、あえて忠兵衛を「目んない千鳥」のクライマクスまでその蔭へ隠しておく演出の確かさにも、近松門左衛門の藝と洞察のよさがよく見える。
満足しました、「新口村」。
我當、時蔵、そして藤十郎に、感謝。眼のつらさが溢れ零れた涙で熱く洗われ、少し気持ちよくなった。

* この幕間に、ひとりひやかしていた上手の売店で、黒水晶を繊細に尖鋭に編んだネクレスに目が行き、座席の妻に買って戻った。妻は、その場で付け替えた。似合った。

* 三つめは、坂東玉三郎の、綺麗な綺麗な優美の二字を繪にしたような舞の『羽衣』。
若い凛々しいラブリンこと片岡愛之助が、とても行儀良く気を入れて漁師白龍の役をつきあい、好感好感。口跡もすずしい。
玉三郎は、もう玉三郎というしかない。夢のように美しく、夢のように「いつはりは人にあり、天にいつはりなきものを」と美しい言葉を吐いて、夢のように美しく舞い遊んで、われらが間近の花道を、夢のように天上していった。
漁師白龍の「あら恥づかしや」の一言も、やはり間違いなしに、わたし自身の遠い昔の感動を伝えてくれた。ほとんど処女作にもちかい小説『畜生塚』をわたしに書かせた原動力は、能「羽衣」の、この、天人と漁師との美しい対決の対話であった。「あら恥づかしや」の一言ほどみごとな「人間」の言葉はあるまい。
ああ、いまやこの言葉は、もう人間の唇からは干上がったのであるか。

* 我當の番頭さんに幾重も礼を言い、珍しく三好屋の吉弥が師走の歌舞伎座に来ると聞いて、勘三郎も玉三郎も三津五郎も福助も出ると知って、それじゃ頼むよと座席を予約してきた。
帰り道、五番街の静かなフレンチ「榛名」に入り、なかなか味に凝ったコースメニュを、熟成されたシェリーと年代物の赤ワインとで、デザートとエスプレッソまで十二分にゆっくりゆっくり楽しんできた。シェフのサービスもよく行き届き、いろいろにおいしく、満腹した。
有楽町線で一路戻り、あやうく降り出した雨も幸便に避け、タクシーで玄関まで。
満たされた佳い一日だった。心して、楽しいときは楽しもう、楽しいときは思うさま楽しもうと、今の苦境のわたしたちは心底思っている。そう思っている。
2007 10・19 73

* ま、色々の意味で奔命の一週間で、安定剤にも一度お世話になったりした。勘三郎、幸四郎、我當や藤十郎や玉三郎にたすけてもらった。萬三郎や銕之丞にもたすけてもらった。そういうたすけ手に恵まれているのが、わたしの、不徳ながらの徳かも知れぬ。いつも妻が一緒についてきてくれる。なにもしらぬよその目には、さぞや幸せ者にみえるであろう。いやいや幸せ者なのである。
2007 10・20 73

* 夜前は床の灯を消したのが、五時前だった。九時に起き、血糖値、108。
みるみる目前に仕事の山か出来た。儲け仕事ではないから、ご安心。
山の高さにひるんではいられない。手の着くことから、順繰りに、つまりやすみなく、やって行く。
明日は夕方から休憩する。歯医者のあと、「三響会」は前々からの楽しみ。田中傳左衛門、亀井広忠ら元気いっぱい三兄弟の鳴り物が堪能でき、染五郎ら歌舞伎役者も助勢する。亀井は能舞台ではやくからわたしの大の贔屓。田中らは歌舞伎座の舞台ですっかり顔なじみ。
そのためにも、少し眠くても今日は大わらわに。
2007 10・26 73

* 午前中、仕事をすすめる。

* 折悪しい雨風台風の接近をおして、妻と、三時予約の歯科医に。治療のあと、池袋へ出て、新橋演舞場へ。築地の地下鉄駅から地上へ出たときがいちばん強い雨と風で、演舞場までに、持った傘がふっとばないかと案じたほど。

* 「三響会」を楽しみにしてきた。高麗屋の手配で前から三列め中央の通路ぎわという絶好席がとれていた、「能」「狂言」「歌舞伎」仕立て三番の、趣向の舞台を堪能してきた。主宰は能大鼓の亀井広忠、歌舞伎小鼓の田中傳左衛門、同じく太鼓の田中傳次郎三兄弟。これへ各界から若き俊秀が寄って助勢した。
最初に能の神・男・女・狂・鬼五つの舞囃子を連ねてみせた、いや聴かせた。
広忠の例の熱演。小鼓も太鼓もうつくしく鳴り、シテは観世喜正、梅若晋矢らが意欲的に舞った。
二つめは『月見座頭』を藤間勘十郎がおもしろく舞ってみせた。歌舞伎の勘太郎、狂言の茂山逸平がアドの役を軽々とつきあった。
重層・重厚な囃し・鳴り物演奏の競艶が楽しめて、勘十郎の舞の宜しさを引き立てた。狂言まわしの語りに野村萬斎を花道せり上がりから巧みにつかい、ひとつの「狂言」活性化の試みとしても注目できた。
大キリは歌舞伎仕立ての『一角仙人』で、松本染五郎の一角仙人が力演し、立派だった。力みなぎり、人物を深くとらえて見えた。中村七之助の凛々しい美しい男役にもほほうと喜びを覚えた。市川亀治郎の女役を久しぶりにみた。テレビの大河ドラマで武張った武田信玄をやっている。なんだか女形芝居が懐かしかった。美貌ではないが巧い。踊れる役者であり、からだがよく切れて動く。
いわば『鳴神』を色仕掛けでおとす雲絶間姫の原形のような芝居であり、要所での亀治郎の目づかいや身ごなしは的確だった。
龍神二体と一角仙人のいわば殺陣は必ずしも上乗のたちまわりではなかったけれど、染五郎は終始いい気合いで、所作を、きびきびきめ、躍動感で舞台を強く立派にしたのは偉い。幕切れの見栄、みごと。
親切なカーテンコールを添えてくれて、みな、楽しんだ。さすがにというか、演舞場の今日の客は和服のよく似合った女客が多く、こういう世間もあるんだなと、きれいなご婦人がたをよろこんで観察していた。男客は一割ぐらいではないかと感じたが。
鳴り物は、ほんとに楽しい。

* 幸い雨風はすこしおさまっていて、有楽町線の銀座一丁目駅まで、そう苦労せずに歩けた。座って帰れた。前の席に、練馬まで乗って、親子づれがいた。その四つか、五つにはなるまい元気のいい可愛い女の子が、どうみても昔のやす香によく似ていて、懐かしくて嬉しくて、妻も私も眼が離せなかった。それでも車中、「湖の本」の校正もしていた。もう本文は責了に出来る。
2007 10・27 73

* 明日の朝『梁塵秘抄』が出来てくると、発送に奮闘せねばならぬ。予約がしてあり、歌舞伎座も国立劇場も俳優座も日程にある。安閑と楽しむには、よほど器量がいる。しかし楽しんできたい。明日の夜は「山科閑居」で、幸四郎と吉右衛門との顔合わせ。
2007 11・13 74

* 夜の部の歌舞伎座に。前から三列め。やや上手、通路際。この席は「山科閑居」では幸四郎演じる加古川本蔵の芝居のまっすぐ真正面になり、ほとんど視線を合わせるようにして、こくのある歌舞伎に没入できた。
本蔵の娘小浪にそそいだ父の愛に泣けた。小浪が可憐に美しいかぎりの菊之助だ、本蔵が羨ましくて泣けた。
染五郎の力弥もはまっていて、気持ちのいい息子だった。今夜の染五郎はあとの「お坊吉三」の「科・白」ともに流れ自然で美しく、上出来だった。力弥の座からも、お坊の立場からもわれわれは真正面にむかいやすく、顔を合わせるようにして芝居が楽しめた。

* 菊之助の藝質は、或る意味やや特異で、あれは音羽屋系というのかもしれないが、芝翫の母・戸無瀬の藝とやや逸れあっていたかも知れない。
玉三郎がたしか勘太郎の小浪で演じた戸無瀬は覚悟の程の稟烈でどきどきする迫力であり母の愛であった。芝翫のわるかろうわけはないが、菊之助の硝子質の藝には、母は玉三郎がぴたり合う、と思われる。その合い口のよさが、あの歴史的な名競演『二人道成寺』になったのだろう。
芝翫はむしろ由良之助妻お石にむきあっている芝居が生きていた。お石の魁春は姿よくしかも差し迫って強く、曲がりくねったセリフまわしは気になるが、品位はわるくなかった。魁春もお石役まで来ているんだなと、格のだんだんに定まってきているのを喜んだ。

* 吉右衛門の由良之助はつまらなかった。芝居に身を寄せているのかいないのか分からなかった。幸四郎の本蔵を活かす立てるためにはああするのか、しかし、自決同然に瀕死の本蔵に無言で向けられていい敬意や親愛や哀傷の思いは、ちっとも感じ取れないためずいぶん冷淡に感じられた。

* 高麗屋の本蔵役は、藝風からもはまり役で、気の入れようも勘定もきっちりついていて、説得力の大芝居。口跡にやや難を帯びやすい独特のねばり科白の、生きるときも聞き取りにくい時もあるのは、特徴、でもある。虚無僧姿から転じてお石を踏みつけ大星をののしり妻を叱りつける本蔵が、気を揉む娘・小浪には、肩に手をそえて案じるな父にまかせよという風情の優しさに、思わずくくっと泣けた。ああいうところ幸四郎は優しい。
なんといっても『山科閑居』が白眉の夜の部であった。

* 最初の『宮島のだんまり』は、今まで何度か見て、なかば辟易してきたけれど、今日は、福助が、傾城浮舟大夫で現れ、実は盗賊袈裟太郎で引っ込む花道芝居が、また舞台でも、いつもよりひと味濃厚な、新たな福助ぶりで、大柄におもしろく見せてくれ、歌舞伎味が楽しめた。けっこうであった。
だんまりは大勢の役者をだしてくれる。いつも老母役の歌江が美貌をさらりと見せていたし、またもしのぶが引き立てられて愛らしかったし、桂三のような地味役者が映えていたし、けっこう佳い一幕になったのは儲けものだった。

* 三つめの『土蜘蛛』は菊五郎の肝いりにちがいなく、気を入れていたが、全体に場面の作りや運びが、欲深。そのためにかえって印象が大味に散漫であった。
冨十郎と幼い鷹之資父子で演じた頼光と小姓役が気持ちよく、しかも細やかに演じているのがよく見え、いつもながら凛々とした天王寺屋の口跡・風貌、ともに敬服した。魔性による睡魔に襲われた中で、小姓がきっとして主君に注意をうながす鷹之資クンの気概に、拍手。

* 菊之助のために一場を用意してくれたのは嬉しいが、贔屓へのご祝儀のような場面。同じことは仁左衛門、梅玉、東蔵といった大物を番卒のにわか仕立てにも言えて、サービスのつもりであっても、これだけの役者でなら別の芝居が見たいなどと、ついこっちも贅沢が言いたかった。存外に盛り上がらない『土蜘蛛』だった。せんだって演舞場で見た染五郎の『一角仙人』の方がひきしまっていた。

* 終幕の『三人吉三』は、お嬢が孝太郎で、毛ずねをあらわす追い落としの男科白には気張った硬さがあり、「月もおぼろに」の名科白も関西なまりが出たりして、小気味いい江戸の味にはまだ程遠い。これは菊之助で見たかった。
染五郎のお坊は、先に言うたように、はまっていた。下品にならないお坊吉三のやさぐれた魅力をちゃんと掴んでいて、あのような物柔らかさににじませた虚無感は、歌舞伎役者の一つの蓄えとして貴重なものになると感じた。力弥と吉三ではまったく環境がちがう。が、一つ間違うと力弥がお坊吉三にならぬとも限らない世の中である。そういうことを一人の役者の資質として一日の内に見せてくれて、おもしろかった。

* 兄貴株の松緑が、和尚吉三でまとめ役を確かに演じた。彼の別の役をもう一つは見せて貰いたかった。今夜の花形としては、菊之助と染五郎というところか、二人は二つ役をもらっていた。

* やはり芝居は楽しい。いやなことどもも、幸い忘れたように舞台に溶け込んでいられた。よかった。
帰りの地下鉄では、席を譲られて、ラクをさせてもらった。迪子も朝から忙しかったわりに元気であった。妻が元気だと、わたしの疲れも少ない。

* 海外に出ていた息子も、無事、今夜帰国し帰宅していた。よかった。
2007 11・14 74

* 秋冷とみに速やかに、初冬を想わせる。

* きわどい問い合わせ電話を受けていて、ぎりぎりにうまく予定の巡回バスに間に合った。国立劇場へ。

* 坂田藤十郎、片岡我當、坂東三津五郎、片岡秀太郎、坂東彦三郎、中村翫雀、中村扇雀、坂東秀調、上村吉弥、片岡愛之助、片岡進之介らの通し狂言『摂州合邦辻』、名うての名作。前々から、たいへん楽しみにしていた。

* この顔ぶれですぐ分かるのは、親子兄弟の役者が犇めいていること。
大和屋筋は親子でも兄弟でも無いけれど、山城屋の藤十郎は成駒屋二人の子息を、松嶋屋の我當と秀太郎とは兄弟で、それぞれ進之介、愛之助という子を引き連れ、我當の合邦は、女房役に部屋子の吉弥を用いている。藝質がひしひしと互いに溶け合っているから、舞台は、台本の宜しさもあり、たいへん熟していて、難しげなお話しが、明快に、へんな縺れもなく説得力十分に運ばれる。感動も自然で、盛んに要所で佳い拍手が沸いた。

* 当代、玉手御前で、山城屋の右に出る人はいない。
わたしの中学生の頃から、彼は上方の武智歌舞伎で手厳しく学んでおり、父である亡き鴈治郎は玉手を伝説的な当たり役にしていた。しかもこの義太夫ものの名曲には、少なからず関西のことばが鏤められている。芝居にその味をくんでまったり生かすには、京大坂で育った藤十郎、我當、秀太郎らが断然利を得ている。松嶋屋の当主とわたしは京都祇園の中学で同級だし、山城屋つまりもとの成駒屋も、生粋上方の千両役者。
まだ大学生の頃、真如堂の前に下宿していた妻を訪ねて行くとき、黒谷下にあった先代中村鴈治郎の角家をくるりと東向きにいつも袖すり合うて神楽坂の坂道を登っていったものだ。

* 俊徳丸の三津五郎にしてもそうだ、彼のおじいさんの大和屋、坂東三津五郎は、蓑助のころから、我當や秀太郎や今の仁左衛門のお父さんである先代仁左衛門のまだ我當時代の大の盟友。ひしと並んであのころの我當と蓑助は、上方歌舞伎の花形役者であった。先代の鴈治郎、先代の富十郎、それにのちに実川延若になる延次郎がいた。女形の片岡我童も又一郎もいた。更に一段上に、市川壽海と壽三郎がいた。華やかだった。
今の三津五郎の科白にときどき上方の風情がにじみ出るのは当たり前なのである。

* 『摂州合邦辻』は、能の『弱法師』をはじめ、沢山な伝統藝能の先蹤を踏まえに踏まえて巧みに創り上げた名狂言であり、玉手御前という女人の造形は、強烈に異色の実在感を歌舞伎世界に投じている。美貌のなさぬ仲の息子俊徳丸に、ほとんどうそ偽りのない愛、よそ目には邪恋としか見ようのない恋をしかけて、烈しく追い掛ける。清姫が安珍を追いかけるよりも、母と子であり、なまなましい。
あげく毒酒を呑ませて俊徳丸の面容を損ない傷つけ、視力を奪い取ってまでも我が物にしてしまおうとする。その凄みたるや、娘を愛しむ父であり母である合邦夫妻をすら激怒させて、父は、娘玉手に一太刀を深く突き立ててしまう。
その瞬間から、舞台は大展開して行くのである。

* 玉手も父合邦も、見事であった。何度も何度も拍手を呼んで、客を感動へ感動へ導いた。
親の家である合邦庵室へ癩を患う俊徳丸を探して慕い寄ってきてからの、玉手の恋慕と居直り。その激しさ。その凄み。我當の合邦の途方に暮れたしかし情の深さと一克さ。二人の「科・白」が、生き物のように抱き合いもつれあい、舞台は異色に美しい。

* 秀太郎の羽曳野が、さすかに堪能させての逸品、巧いものだ。
翫雀の力量と雅量にも、わたしは心地よく納得したし、扇雀懸命の浅香姫が、俊徳丸への慕情と貞女立てで舞台に温みをよく添えたのも快かった。
三津五郎の俊徳丸は、芯の役ではあるけれど、いわゆる二枚目どころ、そう大きなしどころはなくて、苦労のワリにはあんなもので落ち着く。じつは俊徳丸、このハンサムな大和屋が謙遜していたほど、光源氏なみの美男子なのである。

* ともあれ、調和の取れた上手な舞台で、ひときわ藤十郎の腹の藝が光りに光り、我當の真率な情の藝が胸にしみた。満足した。期待して出かけて満たされた。
前から六列、花道へも舞台へも視野の開けた絶好席を用意して貰っていて嬉しかった。

* どこへもよらず、うまい柿の葉鮨を多めに買って、五時には帰ってきた。歌舞伎は楽しい。
2007 11・16 74

* 正月歌舞伎座の案内が来た。昼は盛り沢山。夜は幸四郎、染五郎の『連獅子』それに団十郎の『助六』が出て揚巻には福助。いよいよ歌右衛門への序章が始まる。今月の『宮島だんまり』で福助は相当に化けていた。楽しみだ。
もう一つ芝翫と冨十郎とが『鶴壽千歳』とはめでたい。昼は吉右衛門の一条大蔵と幸四郎の魚屋宗五郎が出る。
四月に帝劇で「ラ・マンチャの男」の予告も。三度目か四度目になるが、どう演出が変わるかが楽しみ。

* ああ、いけない。また。しんどくなってきた。
2007 11・24 74

* 幸四郎・染五郎フアンと思しき人たちの「mixi」足あとが増えている。歌舞伎フアンは決して少なくない。
幸四郎・松たか子が親娘で往復書簡中の、毎月の「オール読物」今月号が、一昨日「高麗屋の女房」さんの手で届いていた。今月はお父上の番で、国立劇場で「俊寛」を演じていた最中の手紙であり、冒頭から俊寛の話題であった。
高麗屋は、「俊寛」の型が、初代吉右衛門で大きく完成したことを書いておられ、まさにその通りだったと思う。そして今も俊寛を演じるのは、幸四郎・吉右衛門兄弟と、この間の演舞場の中村屋がもっぱらであり、中村屋のお父さん先代勘三郎は初代吉右衛門の実弟で、兄の薫陶あってやはり俊寛を大事に演じた人であった。むろん今の高麗屋のお父さん、先代幸四郎も俊寛はとびきりの当たり役だった。
今回の娘あての手紙で当代幸四郎は、繰り返し「俊寛の人柄の優しさ」を強調されている。
また、他の総勢が赦免の船に乗ったあと舞台で、独り残された島娘の千鳥がかきくどく場面についても、たいへん貴重な証言をされている。
あの千鳥の場面を、高麗屋はかつて「長い」と感じていたと言う、が、現在ではべつのことを思って、あの間の長さに意味深いものを認めている、と。
あの「長さ」は、一度は船に乗せられた俊寛の、このまま行くか、それとも船には千鳥を乗せてやろうかと惑い迷う葛藤の時間なのだ、と。
これには教えられた。あ、あ「いい読み」だなと思った。

* 一方 俊寛の「優しさ」ということであるが、言うまでもなく彼が船を下りた決断には、少将成経や新婚の千鳥への思いあまっての配慮がある。
同時に、たとえ京へ帰れても、もう我が愛妻東屋は死んでいるという、すべて詮無き絶望も在る。優しさと絶望とどっちが大きいと比較はならないが、絶望には亡妻への愛の深さの裏打ちがあり、それもまた俊寛の優しさへ帰ってくる評価ではある。
ただ、「優しい俊寛」像は、あくまでも戯曲の作者近松門左衛門の、解釈というよりも創作であり趣向であり、十二世紀の実像俊寛がどうであったかとは、全く別問題なのである。
平家物語諸本を調べ読んでて、容易に読み取れるのは、俊寛のいわば剛情我慢であり、我執偏屈であり、決していい人柄には書かれていない。また鬼界島に流されて以後も、成経、康頼ともに神仏への祈願行業に熱心であったのを、俊寛独りは見向きもせず頑なで無信心であった、少なくも信仰厚い高僧善知識とはとても見受けがたい人物であったと書いている。
もともと鬼界島への流罪は、公の罪ではない、清盛一人の怒り・怨みに発している私刑なのであるが、ことに俊寛に対する清盛の憎しみには、そういう俊寛の性質もかなり加わっていたらしく読まれる。彼一人を鬼界島に置き去りにする憎しみはいかにも過酷な、わざとの仕打ちであり、それが、ひいては「平家悪行」の最も象徴的な行為と世人の目にも映じて、ここから急激に平家は衰運へ滑り落ちて行く。
平家物語での実にそういう微妙な位置に俊寛事件は大事に布置されている。同時代人の目に、俊寛は平家を呪い落としたのである。その点で、讃岐の崇徳天皇と鬼界島の俊寛とは、並び立って平家の栄華を呪う大怨霊だった。金毘羅と厳島への信仰もついに平家一族の海没を救い得なかったのである。

* 俊寛のそんな怨念を、みごとに清く救いとったのが、近松門左衛門であったことになる。彼は、貞女東屋の自裁、千鳥と成経の祝言という二つの虚構を用いて、俊寛に絶望と慈悲心との二つをあたえ、餓鬼道、修羅道の苦をさながら現世でもう味わい尽くして、のこるは往生浄土のみと、自ら鬼界島に「居残った」のであり、ここに平家物語の「置き去り」俊寛ではない、別の新たな俊寛像を創作したのだった。
高麗屋さんの「俊寛の優しさ」発見も強調も、近松の「居残り」俊寛において、正確な「読み」になる。船へ未練の「おーいおーい俊寛」で終わっては近松の趣旨に添わない、それでは平家物語の無惨な俊寛のままになる。
演舞場の勘三郎も、国立劇場での幸四郎も、近松俊寛の「絶望と優しさ」に共感した頓生菩提のけはいを漲らせて、わたしを喜ばせたのであった。
2007 11・25 74

* 国立劇場で、吉右衛門や染五郎たちの忠臣蔵三題を楽しんでくる。
うまくすれば、そのあと建日子とも一緒に食事が出来そうだ。英國屋でつくった背広で、今日一日、こころよく過ごしたい。幸い好天。

* 最高裁わきの銀杏並木は、黄葉の絨毯道になっていた。冬晴れの大内山、色付いて静まっていた。

* 師走の国立劇場は忠臣蔵に趣向の、いわば三題噺。

* 一題目の『堀部弥兵衛』は、お義理にも、はなから期待の外であった。宇野信夫の作では人情噺めいた「通俗時代読み物」の域を出ないのは、何度彼の作を見ても、まず例外がない。座付作者の長い伝統にあぐらをかいた、場当たりのぬるい場面作りで、人間探求の気配は、ゼロ。たとえば貧しい子供の凧に「忠」の一字を書いてやって、「忠」という観念が、安直に概念化されるだけの芝居では、お話しにならない。
人間関係にも武士道にも武家の意気地にも、ただ概念の諒解にしたがって作劇されているだけ、批評は何もない。掘り下げてゆく視線の鋭さも疑いも、ゼロ。序幕のチャチいことも言語道断であったけれど、総じて、筋書きのアタマをなでてさすって団子を転がすような運び。舞台が、ゆるゆるの褌のようにほどけてゆく。それがさも「人情」ででもあるかのようで、二十一世紀の芝居としては、お粗末極まるぬるま湯芝居であった。
だが、それはもう覚悟の上で、吉右衛門の弥兵衛を、歌昇の安兵衛を、楽しんだのである。歌舞伎は、そういう融通が大いに利くので、つまらないからと、劇場を逃げ出してしまう必要がない。

* 二題目は『清水一角』で、これも黙阿弥らしき辛辣を欠いたもの、さしたる芝居ではない。男前の染五郎の酔態がどの辺まで徹して出るか、その反動で、瞬時に立ち直り赤穂浪士の討ち入りにどうきりりと立ち向かってゆくか。
筋書きは初めから分かり切っているから、関心はひたすら、染五郎に集まる。わるいが歌六の牧山にも、芝雀の一角姉にも向かわない。可も不可もなく、待ち受けるのは最後、槍を脇挟んで花道をゆく清水一角・市川染五郎の真正気の佳い顔ばかり。
はい、楽しみました。

* 眼目はひたすら三題目の『松浦の太鼓』で、秀山十種の一つ。初代吉右衛門のも、亡き市川壽海のも、南座で感心して観ている。小気味のいい、気持ちのいい、一種の名舞台。客席にいてうちこんで楽しめるし、分かりよく感動もする。
一幕、両国橋、雪の出逢いで、俳諧宗匠其角と、すす竹売りの赤穂浪士大高源吾との、「年の瀬や水の流れと人の身は」「あした待たるるその宝船」という付合いは、場面に嵌りすぎるほど綺麗に嵌って、しかも聴く者の胸を呪文なみに高鳴らせる。歌六と染五郎。分かり切っている場面であるのに、新鮮に惹きつけ、「好演」と言っておく。染五郎に品と位とがあり、源吾の容量を、細い体に小気味よく湛えていた。
二幕の松浦侯邸の場面は、これはもう吉右衛門のためにある。遠い昔の記憶にある松浦侯とは異なってみえる、少しく上機嫌で剽軽ですらある隠居侯の体ではあったけれど、気持ちの動きは小気味よく演じ分けられ、納得しやすく、観客の反応も親しみに溢れていたのは、今の吉右衛門の人体であり人徳であるのだと思う。吉右衛門の松浦侯、先達とはまた異なった魅力の役づくりで、わたしは終始好感をもって観た。概念的な一題目の堀部弥兵衛より断然面白く観られた。
源吾妹の芝雀も、今日はさきの清水一角姉の役ともども、実体につとめて好感がもてたし、其角宗匠も怖めず臆せずの役どころを自在に仕分けて、歌六なりの貫禄を喪わなかった。大いに、よろし。

* 問題は二幕目の大高源吾。
見せ所は討ち入りの「語り」なのであるが、「語り」藝というと、われわれは「狂言」の名手たちによる例えば「那須語り」とか「文蔵」の語りなどを識っている。それだけでなく、尋常な能の「間狂言」を無数に聴いていて、わたしなど、「いわゆる狂言」は冷えた情念だと貶しながらも、「間狂言」にはだいたい気持ちよく耳を傾けてきた。「話藝」というものに耳を貸してきた。染五郎にしても、そういう舞台を観てこなかったワケはないのであるから、もう少し狂言藝のよく煮詰めた「語り」の巧みを、映えのある歌舞伎藝として聴かせて欲しかった。あれが粒立って朗々と「面白く」語れないのでは、松浦侯らの「歓喜」と、およそツロクしてこないのである。

* ま、しかし、さすがにさすがに『松浦の太鼓』は、期待に背かぬ好狂言で、この一つだけが実は期待の今日のご馳走であったから、満足して、涙までたっぷり目に溜めたまま劇場を出てくる事が出来たのは、めでたかった。我々の記念日に、それで十分であった。

* 六時に、稽古場から馳せ参じてくれた秦建日子と、ソニービルの前で会い、三笠会館の中華料理「秦准春」で、二時間余もゆっくり食事し、歓談。銀座の路上で別れて、われわれは有楽町線で帰宅。十時前だった。

* あれから五十年が経ったのだと、ことさら二人とも口にしないが、やはり、たやすいことではなかったと、静かに思う。
2007 12・10 75

* 今日も何通か手紙や葉書をもらった。高麗屋の女房さんのも。折り返し、来年二月の初代白鸚二十七回忌追善歌舞伎を、予約。

* お葉書を戴きました。恐れ入ります。
昨日は国立劇場を楽しみました。めあては『松浦の太鼓』で、むかしむかし南座で観た思い出をさぐりながら、大高源吾も松浦侯もきもちよく拝見。年の瀬にじつに良くはまってこころよいお芝居でした。めでたく、わたくしどもの一つの五十年を祝うことが出来ました。
二月の御先代追善の歌舞伎座、心待ちにしていました。
白鸚さんは、京都の、むかしのわが家の敷居を跨いで入られた唯一の歌舞伎役者、私が手づから、おもとめの電池を手渡し代金を戴いた、ただ一人の俳優さんでした。昨日のことのように思い出せます。新門前通りの「岩波」という宿から、顔見世の南座に出勤されていました。
二月 七段目 それに 鏡獅子 楽しみです。
お正月も早々の舞台、二月へも続いて、春にはラ・マンチャも。くれぐれも皆様、お大切にと願います。
今年、たくさん楽しませて貰いました。
来年も相変わりませずよろしくお願いします。 秦 恒平
2007 12・12 75

* 松本幸四郎丈の名前でいただいたお歳暮が、和光の「しるこ」というの、ちょっと佳いでしょう。甘い味で。
2007 12・13 75

* 零時過ぎ「一番乗り」のメールをじめ、朝一番に、何人もの、「誕生日」を祝って下さる便りが届いていた。感謝。感謝。
ことに、やす香のお友達が、やす香のぶんもともに、優しく祝い、見舞ってくださり、感動。息子の連続ドラマ最終回も観ていて、「好きでした」と。ありがとう。みなさん、ありがとう。

* 心静かな一日、妻と二人で楽しんで過ごしたい。

* 歌舞伎座を終日楽しんできた。昼も夜もなかなか変化のある番組で、十一時から夜の九時四十分頃まで、十二分楽しめた。「吉兆」の食事も「茜屋珈琲」も。もう夜もふけているので、芝居の感想などは明日のことに。
2007 12・21 75

* 昨日の歌舞伎座。

* 一つめは、『鎌倉三代記』絹川村閑居の場。よく上演されるが分かりやすい舞台ではない。分かろうとなどしないで、「姫」ものでは重い役の福助演じる「時姫」の眼にものいわせた殉情や意地や強さや色気の藝を楽しみ、じつは主役なんだだけど、この場限りではあまりワケのよく分からないまま、井戸から出たり入ったりの「佐々木高綱」ことに後段の大柄な所作を歌舞伎らしいと大いに楽しめばいい。
三浦之助はひたすら綺麗な手負いの若武者。敵方北条時政の娘「時姫」にめっぽう惚れ込まれて、彼女は押しかけ女房の気味で出陣して留守の三浦の家に住み着いて彼の病の母親を看病している。京方といい鎌倉方といい背景はややこしい、が、二代将軍頼家方が北条時政らの勢いに負けてゆく物語になっているが、この場面では負けてゆく京方の佐々木や三浦が主人公になっている。
筋書きは半ば諦めて、歌舞伎、歌舞伎した場面の変化をただそのまま、そのままに受け容れるだけの芝居だが、それで十分観ていられるから歌舞伎は面白い。福助の進境いちじるしく、その「眼ぢから」に魅力横溢。その点、橋之助の三浦は、お飾りのような役ではあるが今少し役に身を入れて舞台半ばにボウと休んでしまわないように願いたい。大和屋の三津五郎は、おおらかに荒事めく所作をみせてくれた。秀調、右之助、亀蔵ら、それぞれにワキをつとめて舞台に幅をつくっていた。

* 二つめは、『信濃路紅葉鬼揃』で、通常の『紅葉狩』をサービス満点。大勢の美女、じつは怖ろしくも凄い鬼女たちが、只一人の天下の美男子、海老蔵演じる平維茂に襲いかかる。殺到する。大鬼は、御大坂東玉三郎、そして門之助、吉弥のほかに、猿之助一座の美形、笑也や春猿ら大勢を引きつれている。みんな観るも無惨な鬼女に化ける。
ま、海老蔵の綺麗なこと、これじゃ世の「女」は堪るまいよと、つい内心に赦してしまいそうな超級の美男子で、ウーンやはり梨園随一かなあ、昔の菊之助いまの菊五郎とどうだろうなどと、よけいなことを想いながら、男のくせに男の維茂に陶然と惚れ込むだらしなさ。なにしろ天下一品の玉三郎はじめ、美形で鳴らしている吉弥といい笑也といい春猿らたちが、束になってうちかかり、一人の海老蔵に、神剣で斬られて斬られて斬りまくられて、形相すさまじく真っ赤な舌を吐き、大目玉を向いて喘いで降参し、咆哮する。「凄い」とはこういうのを謂うのである。
幕切れの、玉鬼をはじめ、居並ぶ凄い鬼女たち断末魔の絶叫と形相とに、となりの妻が、ギャッと悲鳴をあげたのが面白く、何故か知らず、只一人の海老サマゆえにこっちは「溜飲」をさげてしまったのが愉快であった。
玉三郎の演出に相違なく、彼が気を入れて舞台を創ってくれると、途方もない「別世界」が幻出する。そういえば、鏡花原作『海神別荘』を玉三郎の案内で二度も訪れたが、あの颯爽とした海底の王子も、海老蔵クンであったなあ。痺れたなあ。
そうそう、美女たちのねんごろな山中の宴にすっかり睡魔に魅入られた維茂の夢に、危急を告げて神剣を与えるありがたい山神の役を、勘太郎が軽妙の所作で演じていたことも忘れては可哀想。勘太郎は器用に何でもこなす。軽くこなす。その軽くが、すこし怖いと彼を好きなわたしはやや心配するのです。

* 三つめは、師走に身につまされる『水天宮利生深川』筆屋幸兵衛を、大車輪に中村屋の勘三郎が熱演した。貧苦と窮迫の極限で発狂する浪人の父。この芝居を左右しかねないのは子方であるが、名子方の鶴松が目の見えない姉娘を絶妙に演じ、負けじといとけない妹役も凄いなと呆れるほどうまい科白づかい。子方に煽られるほどに勘三郎入魂の貧窮ぶりにはみな涙を誘われた。いまは政界を引退しているから仕方がないが、小泉内閣のお目付大臣だった「塩爺」がすぐ近くで観ているものだから、「政治がわるいぞう」「格差ハンターイ」とでも誰ぞゾメイて呉れないか、いっちょうわたしが喚こうかと思うほど、もうにっちもさっちも行かない、無理心中しかない成り行きだった。しかも隣家ではお大尽の祝儀で清元が賑やか。まさしくアタマにきた、幸兵衛が、いや勘三郎が、発狂したのである。その芝居が、まさしく凄い。怖い。
舞台は、そこまでで出来上がりで、付け足しの深川の幸兵衛入水から救われ正気に戻り窮地からも救われる場面などは、なにもかも水天宮様の御利益にこかしてしまうのだから、つまらない。絶妙の演出家がいて、この収束には別の場面づくりをどうかしてくれないかと、またしてもわたしは政治を憎んだ。

* 茜屋珈琲で、ゆっくり入れ替えの時間をすごす。マスターがいつもとっておきの芝居の雑誌を見せてくれる。白葡萄のジュースがおいしく、あとの珈琲も絶妙。

* 夜の最初は重い、いきなりの『寺子屋』、配役が若い。松王丸といえば幸四郎、吉右衛門、団十郎、仁左衛門。武部源蔵なら富十郎や菊五郎。それが勘三郎、は良いとしても、源蔵にいきなり海老蔵だ。連れて、松王丸の妻千代に福助、源蔵妻戸浪には勘太郎。歌舞伎座ではまだお目にかかったことのない若返りの配役だ、どう演じる。
愕いたのは海老蔵の源蔵で、「科・白」ともに松王丸の向こうを張る大歌舞伎調で出てきた。これまで目にある源蔵はみな抑えに抑えて派手な「科=所作」も「白=台詞」もない、地味の極のように演じられてきた。そのぶん松王丸が前半蒼白な顔色で出て、後半の悲壮な忠臣・慈父に化けて、終始大きな歌舞伎になる。源蔵も戸浪もその松王のための素地のような役作りが多かった。
海老サマはちがった、大みえ切ったはなからとっぷりの歌舞伎で演じた。びっくりした。つられて勘太郎の戸浪もひらひらと所作をして、舞台の上を二人して滑るがごとくだった。珍しい見ものであった。
福助の千代にもびっくりした。ひたすら悲しい・悲しむ母を演じ、泣き崩れている。顔を曇らせた福助が、昔の梅幸のように見えたのにもおどろいた。
こういう三人を相手に勘三郎の松王丸も、崇高なほど厳粛な松王ではなく、忠臣でありながら情も涙も暖かい人間味のある松王丸で、その泣きも、泣き笑いも、人柄と見えていた。超人的な松王丸の毅さよりも、父のぬくもりを隠さずに、忠義との板挟みの中からやはり忠義を貫いた苦しい父の顔をしていたのである。
なにもかも、お初のような印象でまとめた新版『寺子屋』として、ながく記憶に残りそう。賛成したとも反対したとも、言いにくい。若い人たちがやるとこういう『寺子屋』があり得るのだという面白さだけを胸に刻んでおいた。

* 次の所作事、『粟餅』は、三津五郎の踊りを楽しんだ。付き合った成駒屋の橋之助の踊りが、大和屋の至藝をけなげに引き立てていた。

* 大喜利は、玉三郎が肝いりの『ふるあめりかに袖はぬらさじ』で、終始玉三郎の間のいい科白を楽しみ、笑いながらの、しかしやや冗長・通俗な商業演劇ふう。歌舞伎座で観なくてはならぬモノではない。面白く笑って笑って観ていたが、もう少し間切っていいのではないか。批評もない、かといって大きな物語でもない。ひたすらに玉三郎の藝に賛同する、または遠慮をするだけの長編。有吉佐和子の原作だが、彼女の芝居は『華岡青州の妻』にしても、所詮は通俗小説の臭味を漂わせて批評味も緊密感も緩い。玉三郎だからおもしろく敬服して観ていたけれど、または望まないと思いつつ言いつつ、九時半をまわって歌舞伎座を出てきた。

* 一日六編、変化に富んでみな楽しめた。良い誕生日になった。妻は来年の干支の子の飾りを二種類買い、わたしは何と言うことなしにまたすずしい音色の鈴を一つ買いたした。自転車のハンドルにつるしておくと、小気味よく鳴って要慎にもなる。

* 正月の歌舞伎座の券も届いた。能の「翁」で明けて、はんなり、歌舞伎。俳優座の春芝居もある。
2007 12・22 75

* 晩九時から、中村屋勘三郎一家の奮闘の一年半をつぶさに追体験して楽しんだり感動を新たにしたり。ことに新橋演舞場での「俊寛」「連獅子」「文七元結」そして森光子と共演してくれた「奮闘」のみごとさ、役者魂のたくましさに、熱いモノがまたこみ上げた。
2007 12・23 75

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