ぜんぶ秦恒平文学の話

能・狂言・古典芸能 2008年

 

* いまの三遊亭円歌と、上野の小店で、たまたまカウンターに隣り合って呑んだことがある。まだ「山のあなあな」を話していた歌奴の時代だったかも知れない。
昨日久しぶりにその円歌の少し若かりし日の咄を聴いた。浪曲をうまくあしらった軽快な咄であった。咄でも噺でも話でもあった。
落語家とかりに書いても、読みは「はなし・か」である。もっと略して「しか=鹿」などともいうが、彼らの藝のタチは「はなし」であり、真似れば「鹿もどき」になる。咄家の藝は「かたり」ではない。「はなし」である。
科白を「せりふ」と正しく読めない時代になって、台詞と書く人が増えている。台本の詞のつもりだろう。山科は「やましな」更科は「さらしな」。科白の「科」は、言葉でなく、躰が創りだす「シナ」つまり身動きである。科白の「白」が、「もうす」とよむように言葉の方を意味している。
「科白」は、身動きと物言いと両方の連動や調和をかかえこんだ、含みの大きい名辞。さしづめ科白表現が渾然一流なら「名優」への道がひらける。

* 旧臘のこの私語で、狂言師の語る能舞台「間狂言」への親近や敬意を書いたと覚えている。
能そのものは「謡曲」というように基本は「謡い」である。「歌い・唱い」につながるが、「語り」ではない。
狂言師の藝は「語り」藝であり「咄し」藝ではない。彼らは謡も語りにしてしまう。そこが微妙である。
その微妙さを、わたしは歌舞伎舞台での歌舞伎役者達の科白に、いつも感じる。変幻の藝として感じる。彼らは、語っても咄してもいない。むしろ分母の部分でものを「言う」ている。しかし漫才師のように砕けて「喋って」はいない。かれら歌舞伎役者のいわゆる「白=申しよう」は、かぎりなく佳い意味で混濁している。単純でなく、多くの味が入り交じっている。だから面白く、だから或る意味で融通が利いて、利きすぎて「普通」に分かりよくなる。
彼ら歌舞伎役者は、意外なほど野村萬齋のようには「語れ」ない。萬齋が「殿上闇討」を純然として「語った」ようには、秀太郎も吉右衛門も「鹿谷」や「祇園精舎」が語れなくて、台本どおりに台詞を「読んで」「言うて」しまう。しかしながら萬齋の「語り」は、途中から喋りや咄しや只の物言いに切り替えられない。高度に純粋に単一に磨かれた「語り」藝なのだ。
ところが吉右衛門でも秀太郎でも、台詞を読みながら、喋る方へ言う方へ話す方へ唱う方へ、かなり自在にいい加減に切り替えが利く。歌舞伎役者にはそんな「いいかげん」が「藝」としてゆるされていて、舞台の上で、個々の役者の「工夫」として、藝質に合わせながら独自の科白へ「仕上げ」が利く。われわれ観客は、その結果をば批評し鑑賞して、贔屓したり貶したりする。

* ひろく謂う「話藝」は、容易ならぬ深淵を蔵している。アナウンサーも役者も俳優も、またかりにも藝能につらなるタレントやタレント志望の人たちも、自身の「声・ことば」を大事に大事に素性を覚悟して発してもらいたい。
2008 1・2 76

* 今日は、喜多流シテ方塩津哲生さんのご厚意で、正午の「翁」に逢いに行く。年初に「翁」に逢う嬉しさは、ちょっと言葉にならないほど。嬉しい。
2008 1・6 76

* 喜多能楽堂に十一時直前に入り、八十七番の整理券が出た。
正面のいちばん右壁寄りに席をとったが、馬場あき子さんに見つかり。真正面真ん中のご主人岩田さんの席を譲られた。岩田さん糖尿病で不参。馬場さんと並んで『翁』を観ることになった。
夜中に二度猫たちに起こされ今朝早起きだったこともあり、また「翁」の独特の催眠効果もあり、三番叟の東次郎が案じたとおりにゆるゆるの演技で、睡魔に誘われ、黒尉になり鈴を振り出してからは何度もこっくりした。
夢は、底抜けに明るい空の下で、なにもかもクリアでモダンで気持ちよかったが、眼をあくとまだ三番叟であった。そういう三番叟もいいものであった。
塩津さんの翁は、綽々として穏和、親しみやすかった。真正面で二度三度も真向きに顔が合い、清まはりの実感豊かで、うっとりした。
梅若万三郎の翁はもっと神経質に神々しく美しいが、塩津さんの翁は、福々しく穏やかで、心温かに親しみ深い。わたしには、この方が遙かにめでたい。
祝って貰ったという実感そのものに幸福な催眠効果があり、わたしのなかに睡魔に抵抗しようという気がすこしもなかった。その方がしあわせであった、隣の馬場さんには行儀わるくて申し訳なかったが。

* 『翁』だけで失礼し、目黒から山手線で上野へ。最終日の『ムンク展』に十五分ほど行列して入る。一点一点詳細に観ようという気ははじめからなく、「ムンク」が諒解できればよかった。ああ、そうか。さもあろう。そう思いつつかなり広い会場と沢山な展示に納得して、出た。お山を一人で歩く気はなく、そのまま池袋に戻って、メトロポリタン・ホテルの地下「ほり川」で美味い鮨を食い、売店で妻の服を物色しておいて、保谷へ帰った。
往き帰りの車中、ナチスドイツとのかかわりから「ユダヤ」の歴史と、ユダヤ人に対するあまりに無惨なナチスの絶滅政策にいたるさまざまな思想的・政治的無道の経過に読み耽っていた。それと「翁」の能とが並列で同居しているわが脳裏の繪図は奇態であるが、どちらにも真っ直ぐ「気」を向けることが出来る。
2008 1・6 76

* うっとりと、まだ『翁』の幸福感がのこっていて、眠い。
明日は、大好きな七草粥を祝う。純白の粥に白い小餅、そしてかすかに刻んだ早緑の若菜。すぎてゆく「お正月」をいとおしく胸に抱くのはこの七草から十五日の小豆の粥までか。
2008 1・6 76

* 観世銕之丞さんから、観世華雪五十年、観世榮夫一周忌を記念の能会の案内があった。『求塚』を舞うと。他に宗家の舞囃子『海士』や野村萬の狂言『布施無経』が案内されている。錚々たる顔ふれの仕舞いもたくさん予定されている。
2008 2・17 77

* このところ演劇人(準演劇人)の文章をトビトビだけれどよく読んできたなと思う。
観世流のシテであると同時に新劇や映画の優れた演技者であり、また演出家として世界をまたにかけて国際的にも国内でも亡くなる間際まで大活躍された観世榮夫さんの自伝『花から幽へ』の鑑賞力の創造的であったこと、生涯「今・此処」に足をおろして真っ向揺るがなかった「意志の演技者」のみずみずしい感性に、終始わたしは息をのんで接した。
またこの二年というもの、毎月、「高麗屋の女房」さんから贈られてくる「オール読物」で、松本幸四郎と松たか子との父娘演劇人としての対話「往復書簡」を読み続けてきた。
幸四郎の演劇体験が歌舞伎舞台にだけあったのでないことは、世界的に周知のこと。シェイクスピアの四大悲劇をはじめ、ミュージカルにも創作劇にも現代劇にも真価は隠れもない。しかもこの人は、感性の上で思索し工夫を凝らす深切な演劇人である。多くの回想や思索や工夫の言葉には、にじみ出る叡智が感じられる。まずたいていの人が足下に及ばないと知って、そして励まされている、その意味では優れて指導的な役者である。
松たか子。この人についてわたしは、こう一言言えば済む。初めてテレビのスクリーンに登場(『華の乱』の今参局ではなかったか。ついで淀殿ではなかったか。)してきた瞬間の驚嘆から今日まで、一度も期待を裏切られたことのない逸材と。その感性の豊饒と用いる言葉の適切も、なみの物書きの及ばない冴えをもち、その才能の全部を、音楽も含めて演劇的表現の全面に生かしている。父幸四郎との往復書簡でも、思索も姿勢も行文もすべて役者魂を漲らせてぶっつかっていた。最終回の文章もわたしは読み終えたところだ。
いま一例をいえば、歴史学者である色川大吉さんの最近の著書だ。
この人は、青年期に新劇の演出家を心がけた人であり、夫人もその世界にあった人のようだ。だがそれを云う以前に、昔風の言葉で謂うと、真実インテリゲンチァであり、やはり豊かな感性の上に知性のかぎりを真っ向「今・此処」に注ぎ込んできた人だ。言葉も姿勢も真摯なのである、ひゃらひゃらしていない。本当のホンモノの本質をつかむためなら、尽力を惜しまない。
その一例をいえば、この敗戦後の氏は貧苦とも必死で頑張らねば生き抜けなかったが、そんな中で、中国から来た京劇を観るために、ソ連から来たボリショイバレーやチェーホフ劇を観るために、どんなに奮闘して働いて入場料を稼いだか。そしてその鑑賞体験をどれほど張りつめて見事な言葉で当時の日記に書き残していたか。
とにかくも榮夫さんでも幸四郎でも色川さんでも、勉強が廣く深い。渇くほどの熱心で視野をひろげて勉強し続けていたことがよく分かる。
2008 2・23 77

* いまや喜多流を芯になり支えている友枝昭世の会、能「求塚」の招待状も。
昭世の能、いつ見ても期待を裏切らない。有り難い。
2008 4・3 79

* 発送作業、好調に始めた。宝生流の能シテ方より週末のお誘いがあり、「加茂物狂」とあるから観たいは山々だが、やはりやりくり難しいとお断りに及んだ。何とか成るかなあという気がして、惜しい気持ち。
2008 4・14 79

* 少し季節はずれだが、吉右衛門と福助とで『東海道四谷怪談』の通し狂言がある。その昼には、染五郎の『毛谷村』などがある。
大相撲夏場所を、正面の土俵近くで、妻と観る。
それから、友枝昭世の能、『求塚』がある。
日本ペンクラブの総会がある。
病院の診察はないが、もう九ヶ月めになる審尋がある。
2008 5・1 80

* 週末、友枝昭世の能『求塚』が大きな楽しみ、大きな期待。この二人の男に恋されて身の置き所無く死んでゆき、男二人も塚の前で刺し違えて死ぬ物語には、ともすると意識からとりこぼす「盲点」がある。男達の箭の的にされる生田川の水鳥・鴛鴦である。鳥を射よ、射たほうに従うと女は言ったが、二人の男の箭は同じ鳥の同じ羽を射て殺すのである。女は途方に暮れて入水するが、何故に女はそんなむごい仕打ちを水鳥にしかけたか、その女の心理が能にどう出るか。
女と男の三角関係ばかりへ眼や思いが行きがちだが、それでは能の内に「黒い謎」をのこしてしまう。事実、女は死んでのちに、男二人の妄執に悩まされ責められるだけでない、なによりも地獄の鐵鳥に責めさいなまれる。
なんで女は、生田の鴛鴦・水鳥を的になどと男二人に強いたのか。この「女」の気持ちが凄いのである。
「鞘走らぬ名刀」と評したことのある、名手昭世の能を楽しみたい。国立能楽堂は、超満員だろう。
2008 5・21 80

* あ、能楽堂へ出かけねば。「求塚」だ。楽しみ。それだけを考える。

* 千駄ヶ谷、国立能楽堂。「友枝昭世の会」 席は、堀上謙さんとならんで。小林保治氏の顔も観た。しかしどこの能楽堂でも常連だった人たちの顔が、うんと減った。しようがない。東京で能を見初めて、四十年になるのだから。
二時、山本東次郎らの狂言「伊文字」はきちんと演じられたとはいえ、寒々しい型どおり。
続いて昭世の「求塚」は、前シテ後シテとも言うこと無し、前半はワキも三人、シテかたも三人と華やいで見え、シテが塚入りしてからの東次郎の間狂言が聴きものであった。端正で丁寧、語りの能藝、立派なもの。
この能の物語はまことはロマンチックどころでなく、凄まじいまで殺伐。わが身を求めて争う男二人に、生田川の水鳥、鴛鴦を、みごと射た方に身をまかせるという女の難題が示している複雑なイヤミには、観巧者なはずの隣の堀上さんも気づいていなかった。真実心優しい女ならばとても考えにくいむごいこころみだ。傲慢な殿様が家来に言いつけるならまだしも、うら若い女の言い出すことであろうか。
それだけで、既に異様なのであり、異様さに負けて女が生田川に入水死するのはすでに水鳥の怨霊に引きずり込まれたと観られる。同じ一羽の水鳥を左右から同時に射殺した男二人は、女の墓の前で刺し違えて死んだばかりか、同じ塚に葬られて後々までも二人の男は争って争って果てない。
むごいことに一人の男は塚の内へ刀を持ち込んでいて、もう一人は持たなかったが、持たない方は血みどろのまま塚外に現れて、道行く人の刀を強いて借り受けて塚に消え、相手の男をまた地獄にあって斬り殺したなどと言っている。
女は二人の男にさいなまれ、さらには射られた水鳥の幽霊にも徹底的にいたぶられている。後シテの塚から現れ出るサマはぎょっとする凄さ哀れさである。そして諸国一見の旅の僧たちの供養により、かすかに苦患をゆるめてもらう。その最期のあわれさは無上の凄惨。
能が果てて、シテの橋ががりを帰って行くあいだの、それのみかワキの僧たちの、後見や囃子三役達の帰って行くあいだ満場舞台と見所との濃密な濃密な針一つ落ちる音もしない美しい静寂の清寂は、あれを至福といわずに何が謂えるだろう。
能界ひろしといえども昭世の会でだけ味わえる能の醍醐味であり、万金を以てしても凡百の他の能会では味わえない。
あれが、能だ。

* 他用のある堀上さんと別れ、降り出していた雨をいとうようにまっすぐ独り保谷へ帰った。脚さばきよろしく雨中のタクシー乗り場にさっとかけつけて、傘さす要もなく帰ってきた。
2008 5・24 80

* 梅若萬三郎の『道成寺』に招待が来た。うまく日程があえば、ぜひ観たい。

* 友枝昭世で観てきた『求塚』がまだ頭にある。
一人の女を二人の男が愛し、一人を選びわびて女は死ぬ、と、男たちも女の墓の前でともに死ぬ。
こう書けば、だれもが愛の物語とおもい、どこかかすかに憧れを抱く人も有ろう、ロマンチックねえと。だが、物語は、舞台は、凄惨な死闘に終始する。この能は優艶で哀切な三番目もの、鬘能ではない。四番目もの、シテの菟名日処女(うないおとめ)は人格障害の狂女に類して描かれている。そもそも男二人を催して、生田川にうかぶ水鳥を射よと試みるような女である。心優しい女にはあるまじき殺生から、この物語は血潮にぬればんで行く。
この事実が見所でまんまと見落とされ、もしも演者にまでこの理解や自覚がなく演じられると、殺伐としているのは女を争った二人の男だけのようになってしまう。それでは、話が違う。
たしかにこの小竹田男(ささだおとこ)と血沼大丈夫(ちぬのますらお)とは、女の墓の前でそれぞれものの哀れ故に覚悟して自ら死んだのではない。二人が相闘って、烈しく刺し違えて死んだのである。それのみか死後の世界、墓の中ででも男二人は女ゆえに死闘を繰り返している。そして女を争い女を責めさいなむ。
もとより女は当然にも死なせた水鳥の怨霊、地獄の鐵鳥にも責めさいなまれて苦しみ噎ぶのである。地獄繪の凄惨、こういうのをこそ「すごい」という言葉で驚き悲しまねばならぬ。凄い、とはこれだ。スゴイのだ。
なんという能を、この作者観阿彌(世阿弥の父)は書いたことか。なぜこう書かねばならなかったか。原拠は万葉集にも大和物語にもあるが、諸国一見の旅僧たちの供養に、かすかにかすかに苦患をゆるめられた地獄の女幽霊の、顔を袖におおって深々とうなだれる塚の内最期の姿は、みるも無惨、哀れに悲しいものであった。あきらかに死なせたものの責め苦が舞台にみえた。水鳥をあのように死なせ、男二人にあのように闘わせ、菟名日処女は、どんな業を帯びていたのだろう。『道成寺』のほうがずっとロマンチックなのである。

* 分かる人にはわかるであろう。
わたしは、わたしが書くであろうフィクションのあらすじを書いてみたのである。これで足りている。
2008 5・29 80

* 早く起きたのは、謡曲『求塚』の詞章を丁寧に読んでみたかったから。感想の輪郭線を、少しく知識で太く濃くしておこうとしたのである。そして気づいたこともある、昭世の舞台、ことに間狂言に異色の補充がされていた。それは理解の、解釈の、強い補強であった、まさかわたしが夢を観ていたのではあるまい、いや夢でわたしが補強していたのなら、ますます面白い。能は文字通りの夢幻能であったのだから。そのところは、だから、ここでは言わない。

* いま、というもよし、昨今というのも、去年からとひろげてもいいが、わたしのアタマは霊獣の獅子のアタマのように火炎なりに新しい思いが三つも四つも渦巻いていて、懸命に飛散を押しとどめようと筆を使っている。どうしても心身疲労し消耗防ぎえない。自分では面白いけれども、まだ人を面白がらせるに距離がある。しんどいことだ。バイアット流には、なにものと、なにごとと、わたしは「抱擁」しようとしているのだろう。両腕で自分の胸を抱くと、きつい痛みが走る。
2008 5・31 80

☆ お元気ですか、みづうみ。 朱
お医者さんにきちんと診察していただくのはとても必要なことです。しつこいくらいに丁寧に診察を受けて、ご自身のお躰を愛していたわってあげてください。ご自身が、多くの「身内」から深く愛されている大切な存在であることを忘れないで。
私は元気ですが、楽しく暮らすなんて能天気なことはあり得ません。
先日梅若万三郎の「道成寺」を観てきました。
この日の舞台は前半乱拍子で、小鼓の声が耳障りに不調になり残念でしたが、今まで観た「道成寺」の中では一番でした。「道成寺」を観て初めて泣けてしまいました。
落ちた鐘楼が再び上がって後シテが般若の面で現れ、僧たちと争うなかで、一瞬般若の姿が人間の悲しみの極まった姿に見えました。梅若万三郎が意図して演じたものというより、無意識にシテの身体全体から滲み出た極北の悲しみと感じられました。以前どこかで、鬼は人間の悲しみの極まった姿という意味のことを書いていらしたのを思いました。
悲しみのあまり鬼にならざるを得ない人間という存在のあはれが、胸に突き刺さります。人が人である限り避けられない、鬼になるほどの悲しみに、思わず落涙したのです。この私自身もいつ鬼になるのかわからない。鬼になることから免れられる人間などいるでしょうか。
みづうみはお強い方です。さらに、お元気にお大切にお過ごしくださいますよう。

* ほんとうは京都から帰った翌日に此の同じ「道成寺」が観たかった、が、日程の詰まりにたじろぎ、招待を受ける返信が出来ていなかった。京都へは行かなかったのだが、能にも行かずじまいだった。
2008 6・13 81

* 東京を出て行く人たちも少なくない。わたしたちは、居残って染五郎・大竹しのぶの芝居や勘三郎達の夏歌舞伎を楽しむ。「半蔀」といういい能もある。
息子の代表作にもなりうる『PAIN』が「秦組」旗揚げ公演になる。前評判は上乗と漏れ聞いている。
2008 8・11 83

* 今日は「能」を観に行く。『半蔀』佳い能であり、演じるのは喜多流の塩津哲生。なかなかのシテ、もう四半世紀の余も舞台を観てきた。静かな心に誘いこんでほしい。早く起きて、少し眠い。少し朝飯前にやすんでおくか。
2008 8・16 83

* 疲れのためかひどく気が欝してきたので、日盛りと雨の不安もある街へ出るのを、からだのために中止し、部屋を片づけたり、自分とじっと向き合ったりして、終日。こういうことも必要。
2008 8・16 83

* 二時頃から三時間ほど寝入った。九月が逝く。十月は忙しい。秦の母の十三回忌。実質第一回の裁判がある。三越劇場、国立能楽堂、俳優座劇場、国立劇場、NHKホールとつづく。商業演劇、能、新劇、舞踊、歌舞伎。それに理事会と眼科検診がある。人にも逢うだろう。その間に湖の本新刊、通算九十六巻めの発送という力仕事がある。十一月へも同じ感じで流れ込むだろう。
2008 9・30 84

* 明日は橘香会、梅若万三郎の二時間に余る「木賊」を観せてもらうう。来週からは息苦しいほど気ぜわしくなる。
2008 10・3 85

* 無害だけれどしつこい夢を繰り返し観ながら、少し寝過ごした。秋晴れ。ご近所で新築の造作が続いている。もう仕上がり近いか、大きな烈しい物音だったのが、とんとんとやわらかに金槌をつかっている。鳩が啼いている。

* 目当ての万三郎能『木賊』は四時前始まり。湖の本の責了紙を宅急便に託しておいて出かける。あと十日ほどで発送用意をみな仕上げておきたい。少しずつ、少しずつ。
今日の外出は、能の他にアテがない。校正の必要もない。土曜日はどこも混んでいる。うまいものをちょっと食べて帰りたいが。

* 『木賊』はいわば現在能で、お約束の後シテ幽霊が現れる能ではない。後半に、子を見喪って傷心の父が、小一時間ものながい舞を舞う。能の序の舞はながくて艶麗だが、木賊の翁の舞ははるかに長くて、緻密な心理的反応を示しに示す、例のない難曲とされている。万三郎の沈痛な父翁は、面を着けていると思われないほどリアルな表情を精緻に傾け陰らせて、謡曲と呼応しながら微細な変化を表現し続ける。
子が親を、親が子を見失う能は幾らもある。三井寺も隅田川も櫻川もみなそうだが、それほどにそういう事件が珍しくなかったのだろう。母親が狂女となってあらわれる例が多いが、木賊は父と息子の邂逅能である。それも他に例はある。
万三郎のシテは、さすがに豊かな情感をたたえて立派だった、が、装束の選定に多大の協力を惜しまなかった夫人修子さんが亡くなり、なんとなくその影響が出ているかなと思うほど、子の衣裳をつけて酔いかつ舞う翁に、ある華やぎが失せていたのは惜しい。
子捜し親捜しの能は、どうしてもわたしの胸を騒がせてしまう。

* 驚いたのは能楽堂見所の閑散としていたこと。かろうじて入りは半分、わたしの知り合いは一人の顔も見られなかった。

* 帰り、国立能楽堂から千駄ヶ谷への途中、「五万石」能登海鮮料理の店へ上がって、会席をはずみ、「立山」三合の酒で、とっくりと楽しんできた。いい値段でもあったけれど美味しいものを食べさせた。満足した。
エドモン・ダンテスがファリア法師に譲られたとほうもない無尽蔵の宝をモンテクリスト島の二重の洞穴の奥の奥で発見するところも、うまい酒と一所に堪能していた。あの洞窟が後には幻想いっぱいの夢ににた御殿に変貌するのだが、どうやってと訝しむぐらい奇跡的。ま、それはデュマの腕前としておく。
2008 10・4 85

* 新制中学の修学旅行のまえ、父に富士山は「どれぐらい高いか」と尋ねたことがある。父は、ナミの山ならこれぐらいと、かすかに眉をあげ、「富士山はなあ」と、ぐいっと頤を高く上げた。ものの説明であれほど適切だった例をあまり知らない。
秦の父に習ったこと、教わったことをときどきそういう風に思い出す。「秦」は「はた」ではない「はだ」が古い読みだとも正確に教えてくれた。祖父も蔵書に筆で「hada」とローマ字書きしていた。
祖父から口頭で教わったことはないが、想像を超えた大量で良質の漢籍や辞典や古典の蔵書で以て、信じがたいほどわたしを裨益した。
父は、読書は極道やと嫌いつつ、なによりも自ら謡曲という美しい伝統藝を少年わたくしの耳に聴かせ、また大江の能舞台へ、また南座の顔見世歌舞伎へ行かせてくれた。
叔母は茶の湯と生け花をたっぷり体験させてくれた。短歌や俳句という創作へクイと尻を押してくれたのも間違いなくあの叔母であった。
わたしは、新門前のハタラジオ店に「もらひ子」されて、数え切れないトクを貰っていたのである。親孝行をしなかったのが今になって恥ずかしくてならぬ。
2008 10・6 85

* 前回は「羽衣」だった。今度は鬼の能など観るのだろうか。「悲しみ」の極に人は鬼になる。かならずしも嫉妬や憎悪で鬼になるのではない。そして、鬼を脱却する、心優しい素養豊かな人ほど。
2008 10・23 85

* 霜月に能『半蔀』とは季節はずれながら、昭世が演じるとなると、話はべつ。あとへつづく若い人の『道成寺』のひらきに、特別関心はない。
2008 11・2 86

* 国立能楽堂で友枝喜久夫追善、友枝会の能「半蔀」を心から感嘆し楽しみ尽くしてきた。前に「橋弁慶」あとに「道成寺」の披きがあったが、失礼した。
萬と万蔵との狂言途中から観た。狂言は、萬と万蔵ほどの当代の達者が演じてもとても爆笑には程遠い儀礼的な笑いをほんの小波のように誘う程度。このままでは狂言は伝統藝能の入門的演し物として以上には現代人をよう捉えられない。

* 友枝昭世の「半蔀」夕顔の、あれは何といえばいいのか、ただただ美しく優しく、何度も何度もいろんな人のシテで見てきたが、昭世のあれほど見事な「半蔀」にお目にかかるのは初めてである。橋がかりで、後シテ夕顔の、宿なかにいる顔が、わたしの席からは真表にまっすぐみえて、可憐も可憐、優美も優美、かすかな笑顔の美しさに、ぞくぞくっとした。装束も丈高く上品で優しく、後シテの振舞いの何から何までがあらたな愛に希望を持って健康に可憐であった。夕顔は悲劇の女人であるが、能「半蔀」は光源氏との出逢いの情景で、恋の芽生えであり、いかにも喜ばしく美しいのである、風情が。そこを演者はむろんまちがえることなく、若い命の希望とちからとを女の姿態や表情から滾々と汲み出していたのが素晴らしかった。
夕顔といえば悲劇という先入観にとらわれると、この美しい能を楽しみ損なう。昭世が一時間半に満たないこの能をこの大事な父君の追善能で演じた心根がわたしには嬉しかった。もっとも美しく健康な美の供養であった。

* 馬場あき子さんにも逢ったし、堀上謙さんにも逢ったし、ほかにもちらほら知った顔が見所にあったけれど、これで十二分と堪能したわたしは、惜しげなく『道成寺』も見捨てて、まだ明るい三時の千駄ヶ谷から帰ってきた。
能の道成寺は、過剰に緊張だけを強いられるので、人が有り難がるほどはわたしは好まない。ことに「披き」ではどうしてもぎごちない熱演になる。ベテランのシテの『道成寺』が好いに決まっている。

* 国立能楽堂には資料展示室が付属していて、これは欠かせない楽しみの場所。ことに今日は、能面がそれは沢山展示されていて、装束の美しいのと一緒に、短時間が惜しいぐらいに観入ってきた。あれだけをもう一度観にゆきたいぐらいよく纏まった展示であった。資料室だけでも観覧可能な施設である。
2008 11・2 86

* 「菊慈童」は、菊の葉におりた露の滴りが不老不死の薬となり、七百歳の長寿を保ったという祝言能の名曲。わたしの上げていた梅若研能会の切符で、松濤の能楽堂に先ず行って、それから鮨の「高勢」へ来てくれた。わたしの誕生日と重なっているのは知っていた。気の利いた「お祝い」をしてもらっていた。
2008 12・26 87

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