ぜんぶ秦恒平文学の話

美術 2009年

 

* いま「mixi」の、「湖」のホームを開くと、さっと栖鳳の名画が目に飛び込む。わずか三センチ四方のちっちゃい写真だが、なんというすばらしさか。それだけで、幸せになる。幸せとはこういうことでもある。日本をわたくしが切に愛するとき、わたくしをそうさせながら支えてくれるのは、無数にある日本の美と創作のみごとさ。政治でも金でも権力でもない。
竹内栖鳳にこの「斑猫」の繪があり、村上華岳に「牡丹」の繪があり、『源氏物語』や『徒然草』や和泉式部や西行の歌があり、芭蕉や蕪村の句がある以上、光悦や宗達や仁清があり、法隆寺や薬師寺や東寺や金閣や鳳凰堂や待庵があり、藤村や漱石や潤一郎の小説がある以上、また能や歌舞伎があるかぎり、少なくも日本は心から敬愛するに足る。そこから元気を得て、われわれは麻生太郎のような権力の亡者を倒さねばならぬ。巷に喘ぐわれわれの仲間たちに一刻も早く手をさしのべうる政治の体制へ踏み込まねばならぬ。
2009 1・6 88

* その脚で、地下の「ミュージアム」へ。美術展『ピカソとクレーの生きた時代』を、これはまた贅沢に嘆賞・堪能できた。この展覧会は大いにお勧めである。しかも空いていて、何往復も自在に楽しめた。
いきなり露払いのようにマチス、ドラン、ブラックらの優作が並んでいて、ピカソの点数はけっこう多く、驚嘆舌をまく傑作や名作がさりげない顔つきで堂々と迎えてくれる。シャガール、スーチン、マックス・エルンスト、ブラック、ミロ、さらにはカンディンスキーを経てパウル・クレーまで、現代絵画のおもしろい「流れ」が、適切な解説もともに、ゆっくりと楽しめる。シャープな優れた企画展だ。
二人分の招待券をもって家を出ていたのが、当たり。これで、野田舞台の消化不良が一気にこなれた。いい繪というのは、いいなあと当たり前のことを思う。
むしろ声価のまだ真には定まっていない「売れっ子」という名でする「売り出し」には、生煮えをカマされるオソレがいつもあると、また、思い知る。去年の松本紀保らがやったチェーホフもの、また染五郎をブンマワシで振り回したような阿部サダオらの新歌舞伎ふうの方が、演劇として活気にも生彩にも富んでいた。胸を確かに押された。
紀保らの、やがての『ワーニャ伯父さん』にわたしは期待している。

* 正月は俳優座の芝居を楽しみにしていたのだが、日取りがうまくアンバイしきれぬ儘、年を越し時機を逸してしまったかと、未練がある。

* コクーンのあと、東急本店の八階「タントタント」でイタリアン。妻は甘いめのシェリー、わたしはドライシェリーを食前に。あとは赤ワイン。そこそこの献立ながら、イタリアンの味わいとしては、銀座三笠会館中二階のほうが、わたしは好き。
妻は、このごろアルコール二種類でも楽しめるようになった。元気がいい。街を歩いても、なんとわたしの方が置いていかれるほど。わたしの運動能力は目立って払底気味。やれやれ。
2009 1・7 88

* そんなに遅くまで三人で話していても、建日子が仕事場へ戻っていってからもわたしは「明暗」「背教者ユリアヌス」「ローマの歴史」「千載和歌集」「今昔物語」「バグワンの老子」「旧約聖書」「法華経」「蜻蛉日記」などを、ぜんぶ読んでから灯を消した。いやな夢は見なかった。
それら読書は、とかく跼蹐をしいてくるモノを、広大な世界へいろいろな輝きと感銘とで駆逐し、やわらかに胸をふくらませてくれる。やわらかい花びらのように生きよと師の安田靫彦は弟子の森田曠平さんを薫陶・激励されたと森田さんから聴いた。「やわらかい花びらのように」と、わたしは思い屈すると自身に言い聞かせる。

* 建日子は帰ってくるつど、いま今月の写真に掲出の松篁さんの繪に、べったりつば付けて行く。よほど好きらしい。城景都の小品「文鳥」、シャガールとピカソとのリトグラフ、小池邦夫の「魚」が階下にかけてあるが、松篁の「雪」が好きらしい。わたしも気に入っている。美しいモノを身のそばにもてる幸せは大きい。やわらかい花びらが匂って散ってくる。とはいうものの、家の狭いこと。じつは足の踏み場もなくなっている。とてもお客が迎えられない  2009 2・11 89

* 東福寺内の「方丈」二字、張即之かと想うが、高校生の頃からこの二字に憧憬し感嘆してきた。この二字に会いに教室を抜け出て東福寺へ通った。その頃は観光料など払わなくて此の扁額の真下まで行けた。後年、誰方かが写真に撮って送ってきて下さった。
覚えている卒業生もあろうか、東工大の教授室で、本を置かない本棚に貼り付けていた。
写真が久々ものの中から現れたのが、嬉しく、スキャンして機械に入れた。

この二字を観ると励まされる。私・秦 恒平が理想する美も力もこの二字に在る。かく在りたい。
2009 2・20 89

* もう二月はあと二日間でにげて行く。気ぜわしい。今日もいろいろ、一見雑用のような必要なことを片づけ続けていた。
機械を、印刷で勝手に働かせていたあいだ、ふと手の届くところから取り出したのが、フラナガンの
How to understand MODERN ART
読み出したらやさしい英語で、難渋なくなんとか読んで行けるので嬉しくなった。B5判で320頁。夜の読書でなく、機械の傍で読み継いで行く本にする。なんと昭和五十三年の夏以来、一度は通読したが、たいてい図版ばかり眺めつづけてきた本だ。本文は面倒でその後読まなかったが、新たに通読したくなった。おさらいのような読書だけれど。
2009 2・26 89

* 今日、第一に記すのは、昨日戴いた陶藝家当代楽吉左衛門氏の大著『茶室をつくった』(淡交社刊)。
琵琶湖東岸に佐川美術館がある、そこに楽吉左衛門館が新たに出来、オープニングにお招き戴いていたが、よう行かなかった。この天才的な作家とのご縁は、いちはやく京都美術文化賞に強く推して受賞してもらった二十年前に溯る、が、もとより楽茶碗の家であり、茶の湯人であれば、みな浅からぬ縁を得ている。わたしもむろん得てきた。
だが、なかでもわたしは、この人の陶藝のいい意味での凄みと豊かさ・毅さを愛してきた。どこか、張即之筆の「方丈」字の理想と重なる愛である。
その人が、もろもろの茶なり風雅への問題意識をかかえたまま、館内に「茶室」を創ろうと決意したとき、言うまでもない従来在来の茶室の風貌を天地へ開放しかつ新たに構築するていの禅行であったろうと想像される。
氏はこれに五年掛け、五年の日々に呻吟し怒号し沈思しつつ日記をのこしたのである。出版されたのが、それである。自愛の所為でありしかし自己批判の所為でもあって、そこを吶喊しておそらく氏は偉大な放心にたどり着いたのだろう。
大きな本の巻頭に、彼の曰く「茶室」という方丈が写真になっている。茶の湯人はみな言葉を喪うであろう。わたしは、いま、それだけしか言えないし言うべきでないと思う。だが、出来た茶室も、日録の文も、すばらしい。

* わたしの作業は、すこしずつ。
2009 3・4 90

* 写真家・井上隆雄さんの最新の光画帖『群生海(ぐんじょうかい) 雪の景』を昨日頂戴した。この人も、京都美術文化賞を受けてもらった最初の写真家。一言でいって「詩人」である。詩は、尖鋭で大度の眼光そのもの。深い。美しくて厳しい。
2009 3・6 90

* 歌舞伎十八番のおもしろい風呂敷繪をはずし、玉に「壽」字の横の大軸を掛けた。裏千家の鵬雲斎がまだ宗興若宗匠だった時代の書画。むかし正月によく出して掛けた。金婚の三月を祝うにもってこいの一軸。
なにしろ狭い家にものが乱雑になっている。花を立てても猫が食べにくる。玄関外の大丹波と、書庫カウンターで日月金彩の備前大壺とにだけ花をたくさん立てたい。それで十分。
いましがたの手紙では、城景都氏に注文しておいた夫婦の肖像画が、九日には必ず発送と。半ばこわごわ、とても楽しみ。
2009 3・7 90

☆ 光琳 そして燕子花 1999 5・9   「美術」
* 忙しさも忙しさだが、原稿の締切もあれば、例えば美術展の期限も来る。
今日はそういう催しの多い日だったが、根津美術館の尾形光琳「燕子花図屏風」は、例年観ていてもなお一年一度の機会をのがしたくなかった。今日が展示の期限だった。えいと腹を決め、妻と飛びだした。
行った甲斐はあった。今年はひとしお力強く、美しく、揺るぎなく生き生きと燕子花の紫と緑とが、金地のうえで光り輝いていた。立ち去りがたく、二人とも熱心に見入った。
伊勢物語に取材した物語絵が、光琳だけでなく酒井抱一のもみな温和にまた大胆に、構図の妙と優美な境地をみせていたが、やはりそれらとは次元を異にした光琳孤心に燃え立つ藝術的陽気が、燕子花の屏風には決然と表現されていた。
箱根にある「紅白梅図屏風」とこの「燕子花図屏風」の二点だけしか光琳に作品が無くても、彼は超弩級の天才を誇るに足る。京都養源院の「松図襖絵」も加えたい。この三点を胸に納めてイメージするつど、私はこの日本の国を祝福し、心から愛する。
常設展の方で珠光所持と伝える南宋の磁器茶碗銘「遅桜」にも感銘を覚えた。つくろいもあり罅も入り茶渋にもおそらく汚れているのであろう、一見こぎたない夏むきの浅いこぶりの茶碗だが、まぎれもない唐物であり秘蔵自愛の当時逸品であったろう。こういうひねた唐物から和ものの侘びた茶碗へ趣味が動いていった、それが実感できて嬉しかった。1999 5・9
2009 3・12 90

* 東京駅で予定より三十分早い「のぞみ」に乗り換え、社中で、持参の書き物を読み、またカエサルの『ガリア戦記』を読み、京都着。晴天。

* スポンサーでそもそもの最初から馴染みの平林さんを訪ね、美術賞の選者を辞したいと思うということを告げてきた。平林さんは現在役職を動いて直接の担当ではないらしかったが、社の方でも財団事態の改組も含めて国の指導に対する対策も考えねばならぬ時機にあるらしく、ま、潮時かと思っていたのと符合する別の流れもあるようだった。
二十数年経って、選者も「奥期」高齢者ぞろいに成ってきており、いちばん若かったわたしも今は七十三。小倉さんが先ず退かれ、清水さんが惜しくも亡くなられ、石本さんも三浦さんも、期せずして辞意をもらされている。わたしも夙に潮時が来ていると感じていた。
またそれ以上に、さすが美術の京都とはいえ、二十数年、受賞候補者にもやや精彩を欠いてきている気がしていた。機械的に三人三人を必ず選ぶとなると、時に少し斟酌も加わることになる。
そんなことが念頭にあり、改組するなら思い切って若返らなくては、また選び方にももっと工夫が必要と思ってきた。
雑誌の方でも、わたしが巻頭の「対談相手」を選ぶのに、スポンサー企業の「顧客から選んで欲しい」などと担当者か強いてくるのでは、やりきれぬ気がして、わたしは前回から「対談」そのものを「引き受けない」と断った。わたしに企業のどんな顧客があると分かるわけがないではないか。
以前にも、受賞者選考について、できれば「この会派から」といったスポンサーの口出しがあり、あるいは「選者の先生」に受賞して欲しいなどと面妖なことまで言い出されたが、わたしは、そういうことは言われたくないと、その場で拒んだ。
こういうことが出てくると、「賞」そのものがお手盛りで汚れてくる。そういう情実を避けるようにとわたしは一言居士の憎まれ役にも任じてきたつもりだ。
2009 3・23 90

* 黄檗からは京阪電車が懐かしく、木幡、六地蔵、観月橋、中書島、丹波橋、桃山、墨染、深草、伏見稲荷、などと嬉しい駅の名前を目で耳で数えながら、四条まで戻った。
車で星野画廊に寄った。あるいは、もうこの先選考に出ないかも知れないので、わたし独りの「激励」もかねいわば特別賞として星野画廊の顕彰も考えていいのではと、異例ははっきり異例だが推しておいたんだよと桂三店主に笑って声だけかけてきた。

* 入院のあとで欠席かと案じていた石本正さんが、杖をついてでも出席され、嬉しかった。去年の選考会には新任高齢の野崎さんが出られてその後に逝去。今日は、梅原猛さ主進行役に、九十過ぎられた三浦景生さん、そして若い内山さんとわたしと、なんとか五人が揃って、まあ、ほっとした。
選考のことは書かない。「ま、画廊はね、異例すぎるしね」と当たり前に笑い話に終わったけれど、ひとり、わたしの推薦しておいた候補の受賞が決まった。
亡くなった日本画の秋野不矩さんわたしはも推した。元気な陶藝の楽吉左衛門氏も、惜しくも亡くなった截金の  佐代子さんもつよく推した。ほかにもずいぶんもう数え切れないほど大勢をわたしは推して、幸い受賞してもらった。いい思い出だ。
梅原さんは、このままで少なくもみな辞めないでもう三年やろう、と。四半世紀を念頭にされているのだろう、一つの考え方。若い選者を補充して。ま、スポンサーにも思案はあるのだろうと思う。

* で、いつものように三人の受賞者を選びおえ、別れて、新幹線に飛び乗ったのは三時十五分ののぞみだった。その頃にはだいぶ気温も上がっていた。車内で一時間近く寝ていたようだ、鼾をかいたろうか。
2009 3・24 90

* カレンダー、橋本明治の琳派っぽい一面の櫻は、見飽きずに美しい。剛胆に優美。四月になる。
2009 3・31 90

* アメリカから帰っている池宮千代子さんを、妻と新橋ちかいホテルに訪ねる。お土産に、淡海お庭窯、膳所焼の水指を用意した。裏千家十四代、わたしたちの年齢にはいちばん親身な淡々斎家元の箱書がある。古門前の美術商林から裏千家へ箱書依頼の付記がある。
膳所焼は遠州七窯のうち最高の格を誇った丁寧な仕事のお庭焼で、ハデではないがしっとりしている。持参のこれは、瓢耳の細水指。結び文につくった蓋のつまみは華奢に美しい。胸高に一部、さまよく碧みの華麗な色釉が流れ、美景を成している。陽炎園造。
ロサンゼルスで多年熱心にお茶を続け、地元淡交会でも付き合いの広いらしい池宮さんに使ってもらえば、道具がよろこぶ。なにか 軸も添えてあげたいが、と、手近に巻いてあった荻原井泉水八十八歳の朱印のある『一陽来復』の色紙形軸装を掴んで行った。昭和四十五年十二月二十三日の日付が書き入れてあり、今なら天長節いや天皇誕生日。
「一陽来復」とは目出度くて、使いやすい。色紙形は、井泉水さんからわたしへ「フアンレター」代わりに「花・風」の二大字を揮毫して送ってきて下さったのに添えてあった。これは佳いと家で表具に出し軸装しておいたもの。わたしは気に入り気軽に愛用してきた。

* 結婚しようという頃、この池宮さんと姉の大谷良子さんにずいぶん力づけられた。そんなことも「年譜」を校正していて思い出した。二人ともわたしより四つから六っつほど年上で、良子さんの方が茶の湯、生け花の叔母の弟子だった。わたしと仲良しだった。この人もアメリカに渡って結婚し、惜しくももう亡くなっている。
お互いにもう少し長生きしなくてはならぬ、お大事にお元気でと、祈りながら池宮さんと別れてきた。

* 歌舞伎座前から三井ガーデンホテルまで歩いた。昨日ほどではないが汗ばんだ。三人で一時間半ほど歓談して別れてきた。お土産にブランデー「ヘネシー」や「ゴディバ」のチョコレート、それにティシャツを貰ってきた。
六本木まで車を拾い、どこへも寄らず地下鉄一本で練馬へ。駅構内のなじみの店ですこし早い夕食にし、その足で保谷へ帰宅。

* 茶道具は建日子にのこしても仕方がない。繪は建日子にも好みがあり、もう何点も、望まれては遣ってある。どう飾っているのか仕舞いこんでいるのか知らない。上村松篁の『雪』をいつも欲しがるが、これはまだ当分わたしのそばに掛けておきたい。
本は荷造りすれば送れるが、茶道具や額物はこわくて郵送しづらい。持ち歩くのもしんどい。茶の友は関西には何人かいて、東京ではめったに付き合いがない。売り買いしない。が、さてさし上げるとなると、茶の湯のほんとうに好きで分かっている人にと願う。かなり気がかりな「お荷物」になっている。
2009 4・12 91

*ときどき小雨にもなる都内へ出れば、わたしがいちばん落ち着くのは、人けの殆ど無い国立東京博物館の本館常設展で。企画展でなら目玉になるような名品逸品が無数に、静かに、展示されている。蟹歩きさえシンドくなければ、ここが最良の美と放心との時空。
疲れて食べたくなると、西洋美術館のレストランに席をとり、ステーキの定食で、静かな庭へ向いて本を読む。そして小雨の音を傘に聞いて少し公園をあるいて鶯谷へ出る。蕎麦の公望荘で少し酒を飲む。足下から電車に乗れば池袋へまっすぐ。
帰りの西武線が蒸し暑くて汗になった。
2009 5・7 92

* 堂本印象の、画題は「晴日」、あやめ一輪の爽やかな軸を居間に掛けた。
2009 5・12 92

*  十六 敦盛  (写真割愛) この美しい能面が少年であるとは信じられないだろう。この面、真正面から尋常に見ればむしろややふっくらした普通の顔つきにしか見えない。カメラマンと一緒に長い時間探りに探り、ついにこの角度のこの表情を見つけた。膝下に公達敦盛を組み敷き真上から覗いた「熊谷直実の男の目」で撮影したのである。こんな美しいこんな優しい少年をわたしは知らない。短編集『修羅』の函を飾った。湖の本エッセイ27『能の平家物語』の口絵にもした。
2009 5・28 92

* 東京會舘の画廊で、とても気に入っていたアイズビリの「裸婦Ⅶ」20号が、まだ残っているかと先日聴いてみたが、売れてしまっていた。ときどき此処に気に入ったものが出る。
関心のアイズビリは案内葉書の中に入っていた小さいものだったが、すばらしい線が綺麗に出ていて、捨てがたく、切り出して目の前に立ててある。機械にも大きめに取り込んであり、疲れると目をやっている。
昨日機械に取り込んだ「十六」も大の気に入り。ちょっと公開が惜しくもう引っ込めた。
出会った美術作品が、幸いに撮影できまた気に入ると写真を保存している。ずいぶん、増えている。いろいろに分類してあり、疲れるとスライドショウを楽しんでいる。「黒いマゴたち」も「木の花・草花・家の花」も「さまざまな外出」も。
ライカマウントのニッカカメラに執着し、叔母の茶室での手伝いを条件に当時五万円あまりのを買ったのが大学に入った頃で。
先日来も昔からの大きい分厚い重いアルバムをみていると、数十冊も有る。有るのは分かっていたが、再確認。
昔から写真は大きく焼いた。つまり、ちょっとした自慢ぎみだった。黒白のよく撮れた写真がいまも好き。しかしみな片づけておいてやらないと、建日子は処分に音をあげるだろう。全部機械に入れて仕舞いたいが。
2009 5・29 92

五月、築地明石町

* 好んで「生彩」ということばをわたしは使う。聖路加への路傍に観たこんな花に葉に色にわたしは生彩のはげましを受ける。立ち止まらずにいない。
2009 5・29 92

* いま、家の中で目をやすませ和ませてくれるのは、カレンダーの「アラスカひぐまの母子たち」。じいっと向き合う。いい写真だ。
今年のこのカレンダーは、動物たちのむしろ小さめの写真が壮大自然の中でクリアにとらえられ、素晴らしい。山に見下ろされた静寂・静謐の海で、飛沫もたてずザトウクジラの半身を高く海面へもたげた写真もよかった。見飽きなかった。今月のひぐまたち。すてきに胸温かい。
2009 6・6 93

* 徳力冨吉郎という画家、版画家と生前親しかった。国画創作協会の昔の人だから、大先輩であるが、一度お出まし頂いて「美術京都」で対談した。その以降、ひとしお親しいお付き合いがあった。あるとき突如荷が届いた。大きく軸装された徳力さん描く精妙な「鮎」新作の墨絵で。嬉しかった。それは、徳力さんがよほど良い墨を手に入れられ、それに惹かれて「画之」かれた繪であるらしい、「乾隆甲子年程君房製墨」と画中にある。
なにしろ中国画のすばらしい「あの繪」が観たいとなると老躯をいとわず即座に立って大英博物館へ飛んで行くようなお人であった。気に入れば即座に墨をおろして季節の鮎を描き、描けば美しく表具して私にまで呉れるようなお人であった。
いま、五月の堂本印象「晴日 菖蒲」の軸に替えてその徳力さんの「鮎」を居間に掛けている。繪の清潔にせめてふさわしく部屋を片づけておきたいと恐縮しながらも。

* 美術館や博物館や画廊でガラス越しに絵画などを観るのも嬉しい時間だが、くつろいだ時間に、のびのびした思いで、或いは屈託を胸に抱いたまま、まぢかに自愛の繪など、やきものなどに観入ったり手にしたりする安らぎは譬えようがない。
よく創られたカレンダーの写真ですら、まぢかに観ている繪は懐かしい。煙草を吸わないわたしは、ときどきボーゼンとした姿勢で、好きな栖鳳の「蛙」や「斑猫」を眺めている。カレンダーのその月が通り過ぎてもわたしは繪だけきりとって部屋の壁におさえたり、漫然とその辺に置いておく。
東工大での教授室もそうだった、カレンダーから切り取られた美しい繪が無造作にその辺に何枚も置かれていて、部屋にやってくる、話に来る学生君たちが坐るソフアのまぢかに、ご馳走のようにはんなり散らばっていた。時には、それが話題になることもあった。
あの頃から仲良かった学生の一人は、当時は登山とクラシックに熱中していたが、十数年、いまではなかなかの美術愛好家にもなっていて、その伝えてくる話題がすこしずつ深まっている。ひょっとして今では、彼の目や思いにかなった繪など「買って」愛蔵し楽しんでいるかもしれない。
2009 6・11 93

* 九十一歳の染色家三浦景生さんの、表具したいようなお手紙を頂戴した。茄子の浅漬けの繪入り、長文の毛筆。
2009 6・30 93

* 絵本作家の田島征彦さん、湖の本表紙の城景都さんらの個展案内が届いていて 心そそられるが、京都や刈谷での開催で。
2009 7・3 94

* 舟(牛車)洗いの雨もあがった。
懐紙の題に「星河秋興」と読める。軸装されている。七夕は、昔の暦では初秋。正二位雅章に、達筆ながら後生の藤原と書き添えたのが読める。調べたことがあり判明しているが忘れた。
上の句は「あまの川つきのみふねの追風も」であろう。「***すゞしき雲のころも手」か。三字やや読みにくく。
手洗いで、「笹の葉さぁらさら軒端に揺れる」と口ずさみ、ちゃんと二番まで歌えたのにびっくりした。この頃はあっというまに物忘れして名前など思い出せないのに。

「星河秋興」懐紙 割愛
2009 7・7 94

* 京都美術文化賞を一九九四年(平成六年)に授賞した中野嘉之さんが、昨日、「墨・和紙の協奏」と題し、池崎義男氏と協力の写真集を贈ってきてくれた。中野さんの「墨」に托した造形美が息を呑むみごとな勢いで、感嘆。「濤」「流光」「揺れる幻映」「白い風」「波の音」「漂う風」「流れる音」 疾風怒濤をさながらに、まだ人間の生まれる以前はるかな太古のまさに物凄い水の世界を髣髴とさせて深い。烈しい。美しい。
ああ、美術展を見遁して惜しかったと悔いた。
2009 7・7 94

* 文化村コクーンの下で、「だまし繪展」も観てきたが、好みでなく、むしろ不快感に負けて気分を損ねた。妻がここで体力銷沈し、あわてて上の喫茶室で休息した。水分を入れ、強壮剤をのみ、小食。わたしはコーヒー。
そのままもうどこへも脚を伸ばさず一路渋谷から保谷へ。駅で、いいショートケーキとパンを買ってかえり、とっておきのフランスワインをあけて夕食にした。
金澤の戸水さんからちょうど贈られてきたご馳走の中からからすみを戴き、また讃岐の岡部さんに頂戴したすばらしい桃の冷やしたのを、頬の落ちそうにおいしく戴いた。
これで、上下巻とも恙なく百巻を送り出した内祝いにした。よかった。
2009 7・14 94

* 徳力冨吉郎さんに戴いた墨の画幅「鮎」に黒いマゴが「関心」をもってくれ過ぎる形勢に、恐縮して軸を巻き収めさせてもらった。
代わりに、ダリの、目に染みる青い線がみごとに回旋しながら乗馬疾駆の騎士二人が長鎗をむけて対決している、躍動の美のリトグラフ大作を持ち出し、ならべてシャガールの朱の美しい幻想的なリトグラフも横にならべてみた。
下の棚には無造作に備前ほかの大小の瓶が三つ置いてある。間い間いに干支の小さな丑たちが邪魔に成らずに憩っている。
玄関正面には、四条派呉春の嗣子景文の極めの付いた優作、花にだけほのかに彩色した墨畫の河骨と蜻蛉の軸を掛けてみた。繪は長軸の下の方に柔らかな筆づかいでいとも涼しげに描かれ、上の余白が嬉しい。叔母の遺品、はじめて箱から出してみて、いま、とても気に入っている。
古典文学全集のうえには城景都から買ったふくふくしい白い手乗り文鳥のつがい二羽を芳醇の筆で描いた額繪が掛けてある。この繪が、むしろ日増しにちからづよく美しく見えてきて喜んでいる。
ダイニング作業場には、ことにわたしが愛蔵の、ピカソ黒一色繊細な線の小さい版画が掛けてある。そのすぐ近くに澤口靖子にもらったモノクローム真正面の美貌が掛けてある。我が家の前でおじいやんが撮った亡きやす香が高校生のときの写真もいつも目にある。
2009 7・15 94

* 「志賀直哉は文学でも美術の方でも、「研究」をあまり好まなかった。博物館や展覧会の会場へ入つて作品を前にすると、説明は一切読まず、いきなりその物に見入つてしまふ。」
阿川弘之さんはそう書いておられる。さもあろうと手を拍った。
作品と解説とを同時に読んだり、イヤホンガイドを聞きながら繪を観たり芝居を観たりする人が多いが、そういうことはしない。直哉の姿勢に近い。
庭園を観ても仏像を観ても料理を食べても、なべてその場で「説明」されるのがハッキリ言ってわたしは嫌い。断るか、いったん遠のく。自分でソレそのモノに真向かいたい。
気をつけたいのは、親しい人といっしょの時、その人が初心であればあるほど、自分からつい「説明」したり「感想」を語りかけたりし過ぎないことで。手引きというが、まずはその前へ誘うだけで足りている。

* 芝居や繪の感想もわたしは、はなはだ大まかに済ますように、むしろ努めている。芝居なら役者の評判だけで成るべく済まそうとするし。おおまかでいいと思っている。どうせ半端な知識をこねまわしてひとかど専門家のようなリクツを立てたがるのはヤボもいいとこ。
志賀直哉が奈良に住んでいた頃、仏教美術研究会のグループと一緒に兵庫県甲山の如意輪観音を見に行って、馬鹿馬鹿しい思いをさせられたことを書いた随筆がある。阿川さんも引いておられる。
「仏像を厨子から出して貰ふと、皆はそれでも五六分は静かに眺めてゐたが、それからは観音様を逆様にして懐中電灯で腹の内側を調べたり、巻き尺を出して肩からひぢまで、ひぢから手首まで、寸法を計つてノートにつけるやら、まるで洋服でも拵へるやうな騒ぎで、私はさういふ連中との美術行脚は一遍で懲て了つた。」(美術の鑑賞について)

* 研究者には相応の理由がある、が、直哉の気持ちにわたしは近くて、そういう穿鑿の人たちと行を倶にしたくない。「つや消し」なのである。向き合う嬉しさが失せるのである。美しく良き物にわたしは、直哉もそうだったに違いない、知識を求めていないのである。

* その一方わたしは、皆既日食にもとくべつ関心がない。珍しい出逢いとは分かるが、そうなるリクツは分かっていて、神秘とまでは驚かない。
2009 7・23 94

* 城景都さんとのお付き合いは久しく、その間に、たくさん繪を戴いていたのを、取り出しては見入っている。表紙繪を一新するかどうか。城さんの意見も聴いてみたい。百巻までは創作のもエッセイのもわたしが選び出して城さんにもらい受けた比較的静謐温和な繪であったが、むかし、これなどどうですかと戴いていた「べつの繪」もあり、その放胆で艶美なことにたじたじしながら惹かれている。
2009 7・26 94

* 俳優の小沢昭一さんに、岩波新書の『道楽三昧』頂戴。小沢さんに頂いた本が、かれこれ十冊になろうと。のこらず、興深く読んでいる。
五島美術館から、いま、茶の湯を彩る食の器『向付(むこうづけ)』の美しい図録が送られてきた。展覧会には行けなかったが、これでよほど楽しめる。
2009 7・27 94

* 城景都さんと連絡が付いた。わたしの執心している美しい繪を、自由につかってくれて良い、必要があれば自分が新たに手を掛け修正してもいいと。感謝。
2009 8・2 95

* 秋。マチス原画の線はもっと 生命感があって見事なのだが。大学生のころから好きで。「お月様幾つ 十三七つ」の仙厓さんも佳いでしょう。千葉の勝田さんといっしょに出光美術館で出逢っている。勝田さん、お元気ですか。
2009 9・1 96

* 建日子には、車で、安曇野の「碌山館」へ連れて行って欲しいと思っている。碌山彫刻の原作が確かに観られるのであれば。常念や穂高も仰いでみたい。

* もともと「安曇」という文字やことばはわたしの文学生活に太く根をおろしている。『冬祭り』の冬子は安曇(あど)姓で、作はさまざまに、安曇と水・海の縁を追求している。長野県の「安曇」は早く早くからわたしの頭に鎮座し続けてきた。臼井先生の大河小説『安曇野』とは直には関わらぬ「私」事の関心であるが、なぜか早く死んだ彫刻家、天才的なロダンの弟子碌山守衛の彫刻と事跡には、心惹かれる。安曇野の秋が懐かしまれる。
2009 9・11 96

* 歯医者へ。
帰りの脚を上野へ向け、「ローマ・ポンペイ展」の西洋美術館に入り、まず「すいれん」で、樹々と枝葉と落ち着いた壁との庭を長めながら、ワインのある昼食。ついで展覧会を観た。ま、想っていた程度の出展で、絵画より彫刻、彫刻より工藝に目を向けた。超弩級のガラスの骨壺が在った。

* 都美術館へ。
上野の公園を妻と歩くと、きまって幼かった可愛かった朝日子が、ここで「突如、初めて歩いた」弾けるような嬉しい光景を思い出してしまう。いま目の前のことのようにくっきり思い出せる。

* それが目当てで来た一水会展で、堤彧子さんの入選作をとくと見る。
昨日案内をもらい、なかに写真が入っていて、出展作だろうがあまりに植物などリアルなので、繪だろうか、スナップ写真かな、ちがうのかと妻としげしげ観て、「繪」だと結論を出してみると、なかなか面白いので、ぜひ見に行こうと即決。
おもしろいモチーフも使って、繪は、在来の堤作品の域をグンと一段奥へ突っ切って深まり、コンポジションの興趣はこれまでで最良でなかったか、
「佳いねこれ」
「おもしろいわ、とっても佳い」
と二人とも満足してきた。画面中央で奥行きをつくりかつ前面を区切って印象を誘っている花など、もうちょっと上手でもいいのだが。
ま、とても満足して観てきた。出向いた甲斐がありました、秦さんの「佳いで賞」を献じてきた。

* もうこれ以上は疲れるので、鶯谷駅へ歩くこともせず、上野駅から池袋経由で帰ってきた。車中、わたしはせっせと校正し、妻は志賀直哉全集の初卷を面白そうに読んでいた。

* 日生劇場、歌舞伎座、歯科、西洋美術館、都美術館、上野公園の写真、みなよく撮れていた。
2009 9・19 96

☆ 記念すべき101号に弊社代表 城景都の作品を引き続き、ご利用いただき大変感謝しております。
以前、ご相談のメールをいただきまして、折れ山の件など、心配しておりましたが、とても美しく掲載していただき、安心いたしました。
代表も早速、嬉々として来客の方々にお見せしております。
今回の、表紙が一新された「湖の本」を弊社のホームページのトピックスとして紹介させていただきたいと考えております。毎回、お願いばかりして申し訳ございません。
掲載内容は表紙の画像と「湖の本」のご紹介を予定しております、是非ともお許しをいただければと願っておりますが、もし支障がありましたら、掲載はいたしませんので何なりとお申し付けくださいませ。
どうぞご検討のほど、お願いいたします。
今後ともJ.K版画工房を、宜しくお願いいたします。
2009 11・16 98

 

しい表紙絵は、むかぁし、城景都氏にもらって秘蔵していた繪を宛てたのだが、むろん、「湖」底の女と想いさだめていた。想い描かせる掌説をわたしは新聞三社連載の『冬祭り』のなかで、七曜の、「水」と題して書いている。サービスに、ちょっと掲げておく。

☆  水   秦 恒平

男はあむけに寝ていた。空はきれいに晴れていた。ちぎったような雲が大波にみえ、刷いたような雲は小波にみえた。
高いところを速い大きな鳥が翔んで行った。たくさんの鳩も、一度、二度輪を描いて翔んで行った。魚みたいだと男は想った。
雲が波で、鳥が魚で──、すると、あの真っ蒼な天ははるかな水面だ。男は波を乗せてゆっくり流れる水面を、気が遠くむなりそうにじっとあおむいたまま見あげていた。
男はまた想った。あのきれいに蒼い遠くが水面なら、自分は深い深い水の底に横たわっているのか。そうだと男は自分で自分に返事した。
男は愉快だった気分に、すこし不安なかげが落ちかかるのを感じた。あの遥かな高いところから、どうしてこう深々と沈んでしまったのか。男はしだいに息苦しかった。起った。地を蹴っては腕をあげ、物狂おしく揺った。天は高く高く、眼にしみる蒼さではればれと照っていた。
女が来た。
女は男の話を聴き、うす笑いを浮かべて、面白いじゃない、と言った。男はすこし青い顔になって女をにらんだ。
女は山へ遊びに行きましょうよと男を誘った。山には鏡のように澄んだ深い池がある。池には魚もいる。泳ぐこともできる。女は上機嫌で、笑談らしく言った、水の底がどんなか、あたし魔法を使って、あんたを小石にしてその池に沈めてあげる。
女と男は、それから、山へ出かけた。鏡のような池は、山ふところに蒼空を浮かべて、ひっそり崖のしたに沈んでいた。あれは空を翔ぶ鳥か、水を泳ぐ魚かと、きらきら光るかすかな影を男は指さして女に問うた。女もうしろから覗きこみ、自分でたしかめて来るといいわと笑い声ともども、男を池につき落とした。男は黒い一つの石ころとなって池の芯をまっすぐ沈んだ。
池の水はそれは澄んでいた。遠い水面が明るく蒼く輝いていた。雲か波か。魚か鳥か。石になった男はやはり分別をつけかねて、じっと、潤んで光る一枚の鏡を見あげた。その鏡を、女の顔が笑ってのぞいているのを、男は遠い想い出のようにつくづく見た。男は女を愛していた。
突如、白く燃えたかげが宙を飛んで、鏡はこなごなに割れた。だが無数の破片はやがてもとの一枚の鏡にみるみるもどる、と、さながら蒼空を舞う天女のように、裸形の女が悠々と、欣然と游ぐ姿をうつしだした。
身に水垢を生じながら、石になった男は池の底からまじろぎもせず、女のまぶしい姿態に見惚れていた。
水の底も住めば天国でしょう。
女は朗らかに笑った。男は女の声を聞いていなかった。
ああ、なんと美しい乳房の、水にさからいつむつむと盛りあげたあの、まるいはずみ。
大粒の真珠を見え隠れに光らせ、しなやかに屈伸する二本の脚のあわいに一条の翳を沈めて、なだらかにふくらんだ双つの丘。
だが──美しいその裸形に、へそがない。
男のくらい沈黙に気づくと、女は深く水をくぐって池の底から石の男をすくいあげ、そっと地上へなげ返した。
へそなんか、無くてもいいさ。
男は、池の芯へ大声で叫んだが女の姿ははやかき消え、一枚の、天上とも池底とも知れぬ澄んだ鏡が、刻々とひび割れて行った。

* こういう「掌説」が六十編以上ある。城景都氏の繪と競作の展覧会がいつか出来れば嬉しいが。誰か、スポンサーはいないかな。
2009 11・17 98

* 梅原猛さんから湖の本101への礼状が届いてビックリした。神坂次郎さんからも。大学の研究室等からも二十校ほどもう受領の礼信が。
読者の払込票も好調に。二倍大の大冊におどろき、「凶器」という題におどろき、そして城景都の、ある人によれば官能的というより「官能そのもの」の裸婦像にも、内々案じていたより、「ひょう!」と声を発しながら「美しい」「すてき」と目下好評で、ほっとしている。
心身健康でャンとしていなかったらとても書けない創作・フィクションと読んで下さっている。ありがたい。「新出発」とも認定されている。ありがたい。表紙製版もふくめて制作費の請求書もガーンと倍大であるが、読者のみなさんからも応援を戴いている。ありがたい。そして励まされる。
2009 11・18 98

* 横浜そごう九階の画廊「ただ」へ、妻と、親友堤彧子さんの水彩画展を観に出かけた。きのうとはうって変わった好天。品川から東海道線を利用してラクに着。

* 水彩が本来の人ではない、やはり油絵渾身の作を観たかったが。水彩の二、三佳作もあった。水彩は水彩で、わたしは前から関心深い。何故か。日本人の、どうしても油絵で出せない、しかし日本画では描けない、そういう独自に質も技法も洋画や日本画と異なる「水彩世界の構築と探求」が、どう堅固な表現として絵画として結実するか、その期待。水彩画とはそういう探求の分野だと観てきた。異様なまで高度に難しい研究課題が「水彩」にはまだ残っていればこその、「水彩」の選択でありたい。大下藤次郎の昔からの日本水彩画が、日本画でも洋画でも遂げ得ないどんな特異な画面を新世紀の「文化遺産」として遺しうるか、それが仮題であり願いなのである。単なる「絵の具」の選択とは問題が違うと想っている。突破して行かねばならぬ隘路は、或いは「線」との交響あるかも知れない。この辺は、金澤にいる細川弘司くんに教わりたいものだ。
それでも、あれだけの個展へ作品を結集させたのは、たいした画家の努力であった。もうこれでオシマイなどと言わず、がんばってまた水彩も油絵も観せて欲しい。

* 天気はよし、せっかく横浜へ来たのだしと思えども、地理を知らない。偶然、海上の乗り合いバスのあるのを見付け、山下公園まで船で往復してきた。公園前のニューグランドホテルのレストランで遅めの昼食。ワイン。また横浜駅へシー・バスで戻って、東海道線で品川・池袋経由、帰宅。六時半。温かい一日だった。乗り物では、権田さんに戴いた『松本清張論』に読み耽っていた。
2009 11・23 98

☆ 裸婦   藤
心構えが出来ていないうちに冬になったようなこのところの寒さでしたが、今日の雨が上がった後はやっと暖かさが戻り、ほっとしました。元気です。夫は今月は二度も海外に出かけることになり、さすがに”ほっこり”しているようです。
新装なった101号をいただき、御礼のおたよりをと思いつつ、御作品のテーマの重さになんと申そうかと—–日が過ぎてしまいました。
で、そちらは置いておいて、以下は新しい表紙への感想です。
表紙を変えるとおっしゃったときの秦様の口振りから、なんとなく、今度は裸婦だろうと予感していました。
城景都さんはこのような素晴らしい裸婦をお描きになるのですね。
私も昔絵を習っていた頃に、一度だけ裸婦を描きました。
今思えば可笑しいほどのおくての女子中学生だったから、石膏像が生身になったくらいの感覚で描いていたものです。だからその美しさ(モデルさんは若い細身の方でしたが)に感動するよりも人体として見つめていたようで、帰りの市電の中ではまわりの人の裸体が衣服を通して透けて見えるように感じました。
裸婦を今ならもっと違った視点で描ける気がする、描きたい気持はあります(残念ながら機会が無いのですけれど)。
人体は美しい、いくつになっても裸婦を美しいと感じる感性を保ちたい。
みなさまの感想の中に、電車ではカバーして読むとあって、ふむふむ。
通信教育を受けていたとき、先生のデモ作品の裸婦のデッサンが抽選で当たりました。かなりの大きさがあり、とても気に入っているのですが玄関や居間にははばかられて、私のアトリエとも言えぬような汚い部屋にひっそり、こっそり置いて眺めています。
そうそう、モリジアニ展で買った裸婦を印刷したTシャツも、色も絵柄もお気に入りなんだけれど(自分に似合うと思うのだけれど)、客観的に見て、70過ぎたバアさんが着た姿をイメージすると気後れし、結局箪笥に眠っています。裸婦ってなかなか悩ましい。
どうかお身お大切にお過ごし下さいませ。

* こう観ていただけて、心を安くした。万々無いと思ったが、もし「不潔」と眺める人がいては困ると。健康で、まっこうケレン味のない充実した裸形とわたしは好感をもった。人魚ではない、しかし「湖底の女」像としてイメージにかなった。城景都氏のちからも若くみなぎって、過剰なものが無い。いまもそう思っている。
原画の背景はややダークにしてあるが、製版上の費用を節約したくて、思い切って真っ白に抜いてもらった。

* ためらいなく、こんな話題にも思うままを告げてきてくださるのが心づよく、すばらしい。カバーをして読んでいると言われると、いくらか笑って予期していたことなので構わないが、その人も繪の描ける人だっただけに、やはり、ふむふむと感じた。
2009 11・25 98

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