* 「迷走」上下巻の発送を終えた。この作品は筑摩書房で出したときも驚かれたが、むしろ今回の方がもっと驚かれるだろうと思う。
一つは私の作風のなかでの特殊感だろうが、これには、すでに「やはり秦さんのものだと思った」という感想ももらっていて、作者としてもそのように自覚して書いていたのだから問題ではない。問題ではないというが、「こういうナマナマしいものは書くな」「こういう私ごとめくものは書くな」「真剣に私小説を書け」などと、いろんな注文を聞くのも作者の立場であり、時には「これを書け」と指示されることすら有る。私は、聞き流すわけではないが、囚われないようにしてきた。
何と言っても、今度の作品では、まる四半世紀を経て「状況」がいかに変わらないか、また、いかに変わって見えるか、「問題」はもっと深刻にそのまま残され、またの大爆発を優に予感させるという点で読者を驚かせるだろうと私は思っている。「労使」「組合」は今では死語かのように気が萎えてしまっている。その一つの象徴があの旧社会党のあと影すら失せたような衰亡の姿に認められる。
この四半世紀の「テレビ人種」が寄ってたかっての「社会党」壊しはすごいほど執拗だった。それなりの責任が社会党にあったのだが、また労働者の意識の変容変質とそれは同義語的進行だった。それもこれも、この「迷走」期の「やりすぎ」の反動のように評価できなくはない。評価はしかるべき人がすればよろしく、私はただ出来るかぎりの証言を残して置いただけで、すこしも古びていないことを作者として驚いている。読者も驚かれるであろうと思う。
1999 2/1 3
* 湖の本の通算第六十巻がもうすぐ届く。午後から早速発送の作業になる、家の中が戦場になる。本は重い。左肩をしつこく痛めたままなので、玄関に積み込まれた本の包みを荷造りの場所に移すのが重労働になる。心臓の弱い妻には手伝わせられない。
なんでこんなことをと、情けなく思う気持ちも湧くことがあるが、途方もなく大事なことをしているという実感のほうが年々に強まっている。「湖の本」はわたしの創作であり批評の行為である。他の誰にもできない。少なくも、出来なかったことだ。
1999 8・31 4
* やっと『能の平家物語』初校を終えた。フロッピーディスク原稿がそのまま利用されたゲラなので、もっぱらルビの追加にだけ頭をつかった。
先日も友人から、昔の本の総ルビだったのを懐かしむメールを貰った。今度の新しい湖の本が、もともと、『ちくま少年図書館』の一冊で、こうもとビックリするぐらい編集部でふりがなをたっぷりつけてあったのを、踏襲して置いた、それへの反応でもあった。愕きながら歓迎している読者もいまのところ多い。少年らのために書いたとは言え、「日本史」であり、「中世論」でもあり、易しくはない。子どものものだと思って大人が読むと、大人とはいえなかなかの歯ごたえで、引き込まれて夢中で読んだという感想も届いている。故安田武のような手練れの読み手が、かつて感じ入ってくれた本である。ルビは大人の役にもしっかり立っていたようである。
昔の本が総ルビであったことが、幼いわたしの読書にどんなに裨益したか、計り知れない。ひらがな、カタカナが読めれば、総ルビならば難しい漢字の本でも、曲がりなりには読めた。『百人一首一夕話』などを愛読できたし、『通俗日本外史』が大声で音読できた。国民学校の低学年でも可能だった。
それに、ルビの振り方のおもしろさに驚いた体験もある。つまりアテ読みの妙味である。明治の作家のものには、その方面の興味を満足させる作品が多かった。漱石でも鏡花でも紅葉や露伴でも。一葉でも。つまり「ルビ」はたんにその通りの読み方を指示するだけでなく、「表現力」としても使い道がある。それをあっさり抛ってきたのは惜しいと思う。
1999 9・9 4
* 『能の平家物語』の再校が出そろった。三十年前に『清経入水』で受賞し、三十年目に平家物語にゆかりの仕事が本になる。十一月中には出来るとか。原稿を通読した写真の堀上氏が、「おもしろい」と電話をよこされた。おもしろおかしいモノは書けないが、借り物の原稿も書かなかった。結局は難しいと言われるだろう、か。
* 或る読者が、新作を含む「秦恒平・掌説の世界」を自力で出版したいと一度は言い寄越されたものの、とてもナミの造りでは本がもたないと、弱気に尻込みして仕舞われた。無理もない。写真かイラストか繪との競作にしたいのが、夢だ。夢の夢かな。
1999 9・23 4
* あすから新しい湖の本の発送に入る。例年の「月刊ずいひつ」のエッセイはもう送った。十二月のスケジュールは、二十一日の六十四歳誕生日頃まで真っ赤に予定が入ってきた。忙しそうではあるが、収入とは何の縁もない。一頃から見ればわたしは半分も稼いでいない。もうそんな稼ぐなんて事が、つくづく面倒になった。貰うべきはきちんと貰うけれど、幸い夫婦二人であり、いまほど私自身ラクに生きていられた時期は過去にはなかった。いつも、もっともっとと前に出ていた。その「もっと」が人を腐らせる。今は忙しさは忙しさのまま、じっと、それをも眺めている。そういう自分がいて、良いことと思っている。
1999 11・25 4
* 本の発送作業に没頭していることで、気持ちが救われている。それでも、とても気持ちが寒い。
テレビで赤穂浪士念願の討ち入りにも立ち会ったし、ひきつづきスーザン・サランドンらの巧みにそつのない映画「依頼人」も、発送作業をしいしい楽しんだ、が、ふっと兄のことを考えている。もう二日ほどは作業が続いて霜月も尽きる。
* 今度の本は、「丹波」つまり我が生涯にあって特異な体験となった二十ヶ月の戦争疎開生活を、小説でも物語でもない、いわば自伝の一部かのように書き出してみた。戦時ではあったが、年齢的にまた環境的に「戦争」と色濃くは触れ合わなかった。むしろ農山村の「自然」と「農暦」とのつき合いが私に刻んだものを、丹念に掘り起こして置いたのである。この時期は私の戦時国民学校三年終了から戦後小学校五年生の二学期までにあたる。
書いていて気がついたことだが、この年頃にわたしは初めて「親」や「大人」を批評的に眺める視線を持ちだしたようである。いろんな意味でいまの自分の文学生活の根になったものと出会っている。その一つが「蛇」だと思うので、先日の金澤での泉鏡花についての講演録を『蛇ー水の幻影・泉鏡花の誘いと畏れ』と題して一冊の中に取り入れた。大きな提言だと思っている。
1999 11・28
* ようやく発送の肉体労働を終えた。肉体労働ではあるが送り先の一人一人に思い入れて丁寧にするので、気草臥れもしたたかある。初めの頃は手順も手探りで無駄な労力が多かった。さすがに手順は体で覚えてしまったが、十四年にもなるうち、体力も気力もどうしても衰え気味になっている。かきたてかきたて自分を励まさないでは出来ない作業であり、途中で気が萎えたりすると、とても厄介なのである。ま、今回も無事に済んだ。送り届けた先々でどんな風に自分の作った本が迎えられているかを想像するのは、おそろしいような楽しいような。
晩くにやっと荷を送り出して、夕食後に器械に来ていた沢山なメールを読んだ。
1999 11・30 4
* ある人から贈られた本をみていたら、サルトルの言葉が出ていた。サルトルはノーベル賞もなにも、拒んで受けなかった哲学者であり作家で、「人がわたしに与えてくれる名誉より自分の方がすぐれていると思っていた」と常々語っていたと。痛烈な言葉だ、斯くありたいものだ。大江健三郎はノーベル賞は受け、文化勲章は受け取らなかった。その文化勲章をほくほくと受け取る人もいる。勲章の方が自分より大きいと思っているのだ。
* 本が出てケアレスミスにすぐ気が付いていたが、俊寛らと鹿谷に集うた一人の平康頼を「沙石集」の著者と『能の平家物語』に書いてしまったが、『宝物集』である。当たり前の話だが、三木紀人さんに注意していただいた。有り難い。佛教説話集として沙石集が好きなもので、手拍子で書いて確かめなかった、校正でも見過ごしていた。湖の本のあとがきでは、東工大をまんまと「東大工」といきなり間違えて気が付かずじまい、本になって「ウヘッ」という有様。恥じ入る。
1999 12・14 3
* つい先日も誰方かが、「あなたは作家になるべき人であった」と言われたが、何故とは問い返していない。そうかも知れないが、分かるとも分からないとも言える。
これでわたしも、ずいぶん大勢の作家を識ってきた。作品だけでの作家も多いが、接した人も多い。深く敬愛し畏怖した人もあれば、まるで信頼しない作家も少なくない。作品を深く認めて尊敬する人となると、そんなに大勢いるわけがない。これは仕方がない、誰もがお互いにそんな按配であるに違いない。
そういうことは別にして、それでも自分は、よほど他の作家たちとはちがう神経をしているようだと思うことがある。資質的にひとり己れを高く謂うのではない。変わっていると想うのであるが、作家はたいてい変わっている存在だった、昔は。この頃はフツーの人の方が多いのかなと思うぐらい無頼な人は少ない。面白くもない。わたしだって、そう見られているかも知れないが。
自分の変わりようを、うまくは表現出来ない。文学を愛している、が、自分の人生をもっともっと強く愛している、それに執着しているのかも知れない。人生で出逢った大勢の人、大勢ではないかも知れないが、親密に触れあえてきた何十人、百何十人かも、五百何十人かも、千人かも知れない、「魂の色の似た」いろんな人たちへの思い出を、ほんとうに大事に大事に感じ続け、文学への愛もそれを超えはすまいと自覚している点で、わたしは変わり者の素人作家である気がする。
そういう人たちが先ず在ってわたしは「文学」してきた。死んでしまった育ての親たちも、実の父母も、兄も、異父姉兄もそうだが、生きて元気な何人も何人もの一人一人と、わたしは、いつでも、どこにいても、向かい合って生きて来れた気がする。一人一人を、ONE OF THEMなどと思ったことはない。兄の言葉を信奉して用いれば「個と個」「個対個」の一期一会である。
1999 12・16 3
* 湖の本の「跋」文を「湖の本の事」のページに公開する。新刊のエッセイ18.19巻、創作の42巻分から書き込んでみた。「創作余談」として購読者が「一番先に読みます」と言って下さる、いわば人気の頁である。
1999 12・25 3
* 以下は歳末号「出版ニュース」に請われて発表した原稿のままである。これがわたしの「闘い=ゲリラ」であるからは、挫けずに書いておくのだ。何と闘うのか。「出版」とか、ちがう。この仕事はむしろ「出版」を助け補っている。人がおのがじし抱いている「弱さ」わたし自身の「弱さ」と闘うのだ。
* 再び・作者から読者へーー作家の出版
秦恒平・湖(うみ)の本 十四年の歩み
結果として私版の文学全集を成しつつある「秦恒平・湖(うみ)の本」の刊行に、読書界から、このところ、関心を寄せて下さることが増している。何故だろうか。
一九八六(昭和六十一)年の桜桃忌を期して創刊第一巻『定本・清経入水』を出した、その巻頭に、大略以下のような所感を私は掲げていた。
*
「帰りなんいざ、田園まさに蕪れなんとす、なんぞ帰らざる」と陶淵明は『帰去来辞』に志を述べた。いまこそ、親しんだこの詩句に私は静かに聴きたい。
文学と出版の状況は、ますます非道い。良い方向へ厳しいのでなく、根から蕪れて風化と頽落をみずから急いで見える。
幸い私は、この十数年に都合六十冊を越す出版に恵まれてきたが、また、かなりの版が絶えてもいる。絶えかたも以前よりはやく、読んでいただく本が版元の都合一つで簡単に影をうしなう。数多くは売れないいわゆる純文学=芸術の作者はあえなく読者と繋がる道を塞がれてしまう。私は、「帰ろう」と思う。
もとより創作をさらに重ね、機会をえては出版各社から本も出し、商業紙誌にも書いて行くことは従来と変りない。が、もともと私家版から私は歩き出した。今、私にどれほどの力があろうとも思えないが、望んでくださる読者のある限り、その作品が本がなくて読めない…という事だけは、著者の責任で、無くしたい。
読者は作家にとって、貴重な命の滴である。一滴一滴が、しかも大きな湖を成すことを信じて作家は創作している。作家と作品とは、そのような母なる「うみ」に育まれ生まれ出る。
本は、簡素でいいのである。版の絶えている作品の本文を正し、時には新作にも必要の場をひらき、そして本の常備をはかりたい。作者から直接に(出費を願って)読者へ、また、読者から直接に(作品を求めて)作者へ、もっぱら口コミを頼みに、可能な限り年に数冊。「創作」の自由と「読書」の意志とがそうして細くとも確かに守れるのなら、そこへ、私は「帰ろう」と思う。久しい読者との、さらには新たな読者との重ね重ね佳い出逢いを願わずにおれない。
*
いつごろこの「湖の本」を発想しただろう。最初にはっきり口にした場面なら、よく記憶している。筑摩書房の三人か四人の編集者と、当時社屋は駿河台下にあったので、あの辺のにぎやかなそば屋へ昼飯にでかけた。
「自分の本を自分で再編し復刻して、本が手に入らず困っている読者に、自分の手から送って上げたい、が、採算はとれっこない。ま、贅沢に遊び回る私ではないが、遊びの金を宛てるぐらいの覚悟でやってみようかな」と。
筑摩の人が賛成したとは覚えていない。賛成するわけはなかった。
幸運にも、太宰賞いらい、人が驚くほど私の本は数多く出版されていた。何年もの間、年に四冊も五冊も六冊も出ていた。小説は慎重に書き、エッセイや批評は大胆に数多く書いた。日に五枚、年に千八百枚程度だったが、右から左に単行本になっていった。
だが、たくさん売れる作風ではない。熱い読者がいるとよく編集者に励まされたが、そういう作者に、不特定大多数の読者は却ってつきにくい。出した本はさっと無くなり、その後は手に入りにくい。版元に増刷は強いられない、割高についてしまうからだ。
で、版元の肩代わりを私がして上げよう、そうすることで、作品と読者とへの作者の責任を取れないかと思った。「読みたい本が、本が無くて読めない」という情けない思いを読者に、とくに地方在住の佳い読者たちにさせるのは、今日の出版の、余儀ないとはいえ大きな責任放棄だとわたしは感じていた。
泣き言を言って引っ込むのが嫌いで、出来そうもないことを人に頼るのも好きではない。赤字出血は仕方がない、飲み食い遊びを控えれば足しになるわけだし、手持ちの技術で本は作れるからと、むかし編集制作者だった私は、自分で自分に鞭をあてた。慎重に計画し、八六年六月に創刊にこぎ着けた。予想外に反響と支持は大きかった。幸運だった。
以来、十三年半を経て「湖の本」は、創作42巻、エッセイ19巻、通算61巻に達している。この間に出していった市販の新刊著書も、通算すれば百冊に及ぼうとしている。現役作家として終始働いてきたし、江藤淳の後任として東工大「文学」教授も定年まで務め、今は日本ペンクラブ理事を二期め、京都美術文化賞の選者も十数年務めている。九八年四月からは新たな文学活動の「場」としてホームページ『作家秦恒平の文学と生活』を開き、約三千枚の各種の原稿を日々更新しつづけ、また発言しつづけている。
そういった中での、多年「湖の本」の停滞なき持続には、どんな意味があるのか、意味はないのか、その評価は当人のする事でなく、ただ「事実」を挙げるにとどめたい。
「作者から読者へ ー作家の出版」と表題して本誌に寄稿したのは、創刊から半年後の、一九八七年初めだった。「湖は広くはならないが、深くなった」と、作品を介して読者と作者との直の関わりが支えた「刊行事情」を、率直に報告した。エッセイのシリーズが創作に伴走し始めたのは、もう二年後、やはり桜桃忌に、第一巻『蘇我殿幻想』を読者の手に届けて以来だが、これが成功した。巻頭に私はこんなふうに述懐した。
*
この三年、言うまでもないが、私は孤独ではなかった。刊行の作業は予想を超えて厳しいが、どれだけ多くのご支持に支えられて来たことか。無謀とさえ見られた『湖の本』がもう三年・十二冊を送り出し、幸いに今後の継続を可能にしているばかりか、あらたに『湖の本エッセイ』の刊行もごく自然の流れで、読者に待たれるようになった事実が、それを証ししている。感謝にたえない。と同時に、このような、いわば悪戦苦闘に内在し潜勢している文壇や出版への「批評」を、すくなからぬ方々が察してくださるのだと思いたい。「湖」が広くなったとは、言わない、しかし、深くなっている。良き繰返しの一度一度を、一期を賭して繰返したい。
これからは、「小説」のシリーズに「エッセイ」のシリーズが伴走することになる。私のエッセイは、小説と両翼を成している。それも読者は、よくご存じであった。
*
そうはいえバブル景気は砕け散り、出版と読書にも深刻に影響した。「湖の本」も継続読者の葉の散り落ちるような脱落に見舞われ、一と頃の三割がたも人数が減ったし回復できていない。だが製本部数は減らさなかった。思い切りよく全国の大学の関係講座や図書館に寄贈して行った。資金的な出血をすこしでも押さえたいのはやまやまでも、もともと利潤の上がろうわけがない私家版であり、私の仕事をより広く知ってもらう意味では、「大学」に寄贈と決めたのはすこぶる正解だった。在庫をもち、読者の希望に応じ即日送り出すという当初の思いも、間違いなく果たし続けてきた。城景都氏の傑作画に飾られた簡素に美しい造本も、旅行者には恰好の友とされ、また作品内容を吟味しては贈り物に利用されることも多くなっている。僅かながら外国にも読者があり、石垣島から稚内まで、口コミひとつでひろげた読者の網は、目は粗いけれど、日本列島をくまなく覆っている。部数は減ったが、現在九割五分までが親密な「継続」購読者であり、作家、批評家、編集者、新聞記者、学者、研究者、教師、他の芸術家にも支援を得つづけてきた。
だが苦心も工夫も必要だった、それでも維持するのは大変だった。
最初にもし百人の読者がいたとして、次回は、減る人と増える人とが同数だと前回分維持であるが、初めの内は、手をかけなくても、勢いで右肩上がりが期待できた。だが長くは続くわけがない。口コミしか頼れない以上、手をかける必要は巻数を増すにつれ、ますます深刻になった。
一度送金してもらっても継続の意思の判明しない人、次は要らないと告げられていない人には、必ず次回本を送った。気に入らなければ「送金の必要も返送の必要もありません、本の好きな人に払い込み用紙も添え差し上げて下さい」と、送った。本そのものを人目に広めたく、また一冊でも勝手下さった読者に感謝の気持ちもあった。一冊分の支払いで二冊届ける結果になることがずっと多くても、それでよいとした。このおかげで、その後「継続購読」して下さった方も、かなりあったのだ、無ければ、部数は減る一方になる。
注文は受けていないが、この本はこの人にはどうかなと、趣旨または依頼を添えて送るのも大切な工夫だった。気が動かねば、「返送・送金に及ばない、誰かに差し上げて下さい」と明記のうえ送った。こんな本を出しましたからと、本を見てもらう、手に取ってもらう。手紙だけで頼んでも何の役にも立たない。代金の送金をはなから諦めて本を届けてしまう、それでなければ新しい読者には出逢えないのである。
だが、そういう「送れる先」を見つけ出すのが、何よりナミたいていの苦労ではなかった。この苦労を厭わなかったのが、十三年半を、かつがつ維持させた。そこで生じる若干のトラヴルを怖れていては、自滅して行くだけであった。作品と本とに自信をもち、押すべきは押さねば維持できない。それは情熱に類することであって、商行為ではなかった。収入増にはまるで結びつかない、いわば「タダ本」を撒くことにしかならないのだ。だが、撒かれた「本」が口コミの材料となり「湖の本」の存在が少しずつ知られて行くと、数は増えなくても、大きく減って行くのをなんとか防いでくれていた、と、その実感が今にして持てるのである。
親切な読者に「紹介」を願うことも諦めてはならぬことだった、紹介が紹介を生んで、思いがけぬ連鎖の網目が広く出来てくる。これが有り難い。感謝しきれないほど有り難い。手繰って行けば、多い人なら数十人にも、もっと多くにも、輪を広げて貰ってきたと思う。
どんな内容の本が、どんな順番で、刊行されてきたか。読者との約束事がどうなっているか。それは私のホームページ
http://www2s.biglobe.ne.jp/~hatak/
の「湖の本の事」という頁で御覧願いたい。最新刊の創作第四十二巻は、未刊の新作『丹波・蛇』を平成十一年十一月末に刊行した。前者は敗戦前後のいわゆる疎開生活に焦点を結んで、自伝の一部を成してゆく。この少年時代の二十ヶ月が、創作生活への基盤とも推進力ともなったことの自覚を動機にしている。後者「蛇」は、「丹波」と深く連携して作者の思想形成に寄与した重い主題を、敬愛する泉鏡花論に重ね、金沢市での石川近代文学館主催講演会で話した講演録である。併せて、異例だが「参考」に、妻迪子の「姑」一編を敢えて加えてある。
ところで先ごろ新宿紀伊国屋ホールで「オン・デマンド出版」のシンポジウムがあった。講演したP.グルマン氏の話を聴きシンポジウムの各パネラーの話もつくづく聴きながら、いつのまにか「秦恒平・湖の本」が出版時流の最先頭をきって走っていたのだと思い当たった。本が売れないと出版社は言い訳をするが、売れる本だけを売れるにまかせ、売れにくい本でもなんとか売ってゆこうという工夫も努力も棚上げしていたに過ぎないのだし、これでは出版文化の実質が腐ってきたのも無理はない。私は、そんな非道い澱みから身をのがれて、自力で、読者と連帯のきく潮目に棹をさしてきた。べつの見方をすれば赤坂城や千早城に籠もった楠正成の悪戦苦闘に異ならず、落城はもう目前に相違ない、が、はからずも「紙活字本」にかわりうる「電子本」が、出版の流れを大きく動かそうと登場してきた。六波羅探題も鎌倉幕府も安閑とはしていられなくなっている。
だが目下は、私一人の事情で思い、また、私と立場の近い純文学作家、愛読者と実力とを十分手にしている作家たちからすれば、著作権があいまいで不利の予想されるな電子本方式よりも、各自に工夫を凝らした「湖の本」方式で絶版本に息を吹き返させ、新刊も世に問える「場」も手中にしてゆく方が、実質、実りがあるのではないかと、そんな気もしている。
ただ、我が「湖の本」の場合、既成の文芸出版社の露骨な敵意にも堪えねばならなかった。私を世に送り出した筑摩書房にさえ、作家生活三十年の一冊を、何を出すとの一顧の検討もなく拒絶されてしまう。文庫本一冊の企画もないことと「湖の本」の十四年・六十余巻の持続とは、どうみても「質」的に均衡をえていないと、私が言わなくても然るべき人が怪訝に思ってくれる。グルマン氏らの報告や討議の中でも、物哀しいまで既成の出版権力への遠慮が語られていたが、いわゆる「出版資本」の固陋な認識やバッシング意識は想像を絶して根強いのである。同じそういうことが、実験段階に入っている「電子書籍コンソーシアム」にも「オン・デマンド出版」にも生じないこと、排除と独占の論理で新世紀の新出版モラルが汚れないことをぜひ願いたい。
1999 12・28 3