ぜんぶ秦恒平文学の話

舞台・演劇 2012年

 

* 四月花形歌舞伎「通し狂言 仮名手本忠臣蔵」では、市川染五郎が大きな役で昼夜活躍する。四段目では菊之助判官に対して由良之助、七段目の平右衛門松緑、おかる福助に対して由良之助、討ち入りでも由良之助。三月の「山科閑居」では父幸四郎と共演して力弥役の染五郎がとうどう大舞台で由良之助をやる。三月も予約してあり、 四月のこれも観ないでおれようか。励みになる。
そして八月には、幸四郎と松本紀保・松たか子との「ラ・マンチャの男」だ。何度観ても感銘ふかい幸四郎劇のエッセンス。帝劇の帰りには食べたいな、美味いものを。

* そうそう、いまごろ原知佐子は、新橋演舞場で、中村勘太郎が中村勘九郎に大化けするのを楽しんでいるだろうな。
三月の平成中村座。なんとしてもゆきたい。松嶋屋、気を入れて佳い平場の席を用意してくれている筈。
2012 2/10 125

* 四月演舞場、八月帝劇を、あえて、座席お願いした。恢復へ、励みにしたい。
2012 2・11 125

☆ 秦恒平さま
メールありがとうございます。
ご無沙汰お許し下さいませ。
HPを拝見し、手術後のご回復の様子をはらはらしながら拝読しております。
私どもは家族三人は元気に忙しく暮らしております。
文章は、”てんと”書けなくなっています。
絵の方も行き詰まりというか、気力が減ったというか—
でも、折しも息子の仲間とやっていたミュージカル公演活動の周辺をドキュメンタリー映画に撮ってくれる監督さんと出会い 震災の少し前に撮影は完了しました。
しかし配給ルートなどないので、自主上映会をすることになり、乗りかけた船、そのメンバーとして昨秋から忙しくしています。
お陰様で都内各所、厚木市、そして去る5 月4 日には広島で気持ちのある人々に見ていただくことが出来ました。
駅前からの道案内、チケットのもぎり、会場へのご案内 上映後のご挨拶まで、なんでもこなして頑張っています。
夫は今週はモスクワで、WANOというチェルノブイリ事故後に出来た 安全のために原発技術情報を交換する国際組織の会合に出席しています。
どうかお大事になさって下さいませ。
追伸 先のメールに書きましたように、5 月3 、4 ,5 日の広島に居ました。
着いてすぐ平和公園へ行きました。フラワーフェスティバルで賑わっていました。
広島は20年振りでしたが、まず街路樹が大きくなったなあ、と思いました。
平和公園の木々の幹もすっかり太くなっていて、文字通り植えられてからの年輪を感じました。
幼かったけれど、原爆投下の直後、もう広島には100 年は草木は生えぬ、人は住めぬ と言われたのを憶えています。
きっとそれは最悪の場合の予想だったのでしょう。
でも、その予想は当たらなかった。
広島城には、原爆に耐えたユーカリの大木がありました。
広島はこんなに美しく生きている— とてもいとおしく感じました。
2012/5/14     藤

☆ re: 椿説弓張月
メールありがとうございます
お芝居お出掛け下さり何より嬉しい事です
弓張月のお話しも御丁寧にいただき、さらに興味深く拝読しました。
博多座での「ラマンチャの男」も、さらに素敵な舞台に仕上がっています
手前味噌ですが、幸四郎さんの声がまたまた冴え渡り、たか子さんも素敵なアルドンザになっています
今回は紀保もアントニアで再度参加し、頑張っています
8月お楽しみに。
奥様に呉々もよろしくおつたえください
梅雨時にはいりますのでご体調どうぞ気を付けられます様に    藤間

* 今度でわたしは四度目か五度目を観るが、何度観ても演出の努力が生き、退屈したことがない。楽しみ。
2012 5・15 128

* 三代目市川猿之助襲名七月興行を、松嶋屋を介して予約した。ひさしぶりに名作「黒塚」が観られる。映画俳優である香川照之の市川中車襲名というおまけもある。
八月は「ラ・マンチャの男」に加えて、松本幸四郎喜寿の松鸚会がある。
2012 6・2 129

* 「 湖(うみ)の本」 112を送り出し終えていて、よかった。七月に無事、澤潟屋の三世代襲名興行が観られ、八月に高麗屋の「ラ・マンチャの男」、そして卆寿記念の舞踊などが無事に観られれば、いいが。ル・テアトル公演には、幸四郎、松本紀保、松たか子が共演し、舞踊の松鸚会では、幸四郎、染五郎、紀保、たか子の共演が観られる。この舞踊の会にわたしは二日つづけて出掛ける。
贔屓の松たか子が、菊田一夫演劇賞を受けた「ジェーン・エア」を十月に再演するという。受賞した前回公演も観ているが、日生劇場での此の再演にもぜひ出掛けたい。観られる限り、いろんな芝居が観たい。

* それにしてもなあ。眼の手術とはなあ。やれやれ。
2012 6・12 129

* いま三谷幸喜が「喜劇」である筈のチェーホフ「櫻の園」を、「喜劇」として上演しようとしているらしい。いいことだ。チェーホフは喜んでいると思う。
2012 6・13 129

* 劇団俳優座の女優さんから、公演を観て下さいと勧誘の手紙が届いた。知らない女優さんではない、わたしが書いて加藤剛が主演した「心ーわが愛」に出てくれていた。あの頃はほんものの新人だった。二十五年経っている。
芝居は俳優中野誠也が演出する山田太一氏の作「沈黙亭のあかり」。初演を夫婦で観ている。山田さんはわたしの「湖の本」にもよく声を掛けて下さる。
それにしても俳優座劇団のこれは新手の宣伝か。それとも「ヒロイン」を演じるという女優さんの個人的なお誘いかな、「秦恒平先生様 お元気でいらっしゃいますか」と手書きもしてある。
実はいつもいつも劇団招待をうけてきたが、体調を損じてこの方もう小一年、劇団公演を失礼してきた。いつも誘われると行きたいと思う、が、病院通いなどでついつい気が臆していた。

* こうして、機械に向かい文を書いているだけで、体調の不快な違和も遠のいている。
2012 6・16 129

☆ 「沈黙亭のあかり」チケット
秦先生 今日は。
山崎さんと確認が取れましたので、ご返事をさせて頂きます。いつも俳優座の舞台をご観劇頂きまして、誠に有難うございます。
今回もいつものように、お一人様、先生はご招待、ご同伴頂きます奥様は恐縮ですが、チケット代金4000円をお願いいたします。
当日、受付にてチケットと代金引き換えで、どうぞよろしくお願いいたします。
お席は前の方をご用意させて頂きます。
お身体が大変なのに、本当に有難うございます。

先生にお書き頂きました「心―わが愛」は名作中の名作ですね。
私は初演は袴、編み上げブーツのはいからさん姿で椿のシーンに女学生役として、出演させて頂きました。
再演の時は、新潟で、先生が戻ってきた時、淡い恋心を抱いている先生の従妹役を演じさせて頂きました。
どちらも、大好きな役です。
この作品に感激して、俳優座を受験、入った人もいますし、座内でも未だに「亡くなった立花一男さんのKに感動した」という人が少なくありません。
山崎さんも私も夫( 俳優座の劇団員です) もその一人、一人、一人です。
秦先生、俳優座の為に、今でもずーっと心に残る作品をお書き下さいまして、本当に有難うございました。
ご子息様は、同業者で売れっ子なのですね・・・
いつか、ご紹介下さいませ。
宜しくお願い申し上げます。
秦先生、どうぞお身体お大切になさって下さいませ。
お大事に・・・
7 月14日に向かって、体調を整え、頑張ります。
先生と奥様のご来場を心よりお待ち申し上げます。どうぞお気をつけてお出掛け下さいませ。 かしこ 俳優座劇団  縁
2012 6・19 129

* いつしかに音楽もやんだ。やすもう。
明夕、亀戸まで俳優座劇団の芝居を観に行く。無事に行ってきたい、ゆらゆらと転ばぬように。
2012 7・13 130

* 午后、有楽町線市ヶ谷経由で亀戸駅のちかくカメリアセンターでの俳優座一日公演、山田太一作・中野誠也演出の「沈黙亭のあかり」を観に出かけた。ヒロイン格で出演している早野ゆかりさんからの誘いがあり、いつものようにわたしは招待、妻の分はいつものように支払って、用意して貰っていたD列中央の角席、絶好席におさまった。
この芝居は以前初演の時も観ていて、記憶は朧ろとはいえかなり書き改められたか、演出がより良くなったか、出来映えは格段によろしく、一の拍手を送ってきた。芝居は小難しいと言うよりすこしむりに言うと「小ややこしい」筋を追いながら、静かな沈黙を基調に進んで行く。舞台はいわゆる喫茶店だが、マスターは口が利けず耳も聞こえない。工夫をこらした経営を善意の常連さんが助けもしているが、それが必ずいいとも有り難いとも言い切れない。「沈黙亭」と名のっているように、店のメリットはマスターの障害を利したかたちで客は内緒話がしやすいのである。
そういう店で事件がゆっくりと、バカらしいほどゆっくりと進行、むしろ浸潤して行く。事件は集団自殺をもくろんだ無差別殺人。それがトンマなのである。かなり自然に舞台は会場の笑いも取っていた。横で妻もよく笑っていた。事件のもう一段基底に、マスターの妻の過去の自殺、女性客の娘の過去の自殺がズンと沈み込んでいる。「死なれて・死なせて」生きるという主題が、トンマな四人組の深刻な生き方により混乱させられる。
これだけいえば「小ややこしい」劇だというわたしの共感と称讃といささかの困惑の思いは理解されるだろう。なににしてもしかし新劇を久しぶりに楽しんだ。その為に体不調を押して亀戸まで出掛けていった。よかった。大塚道子はじめ俳優さん達にも何人も挨拶をもらってきた。妻が大の贔屓の可知靖之ともお喋りして来れた。「 心 わが愛」で「K」を好演してくれた立花一男の死も聞いた。
作者の山田太一さんとも親しく挨拶を交わしてきた。

* 六時、まだ日ざしは亀戸の町にのこっていて、わたしは我が身を奮い立たせるようにして、タクシーで近くの亀戸天神詣でに向かった。『蘇我殿幻想』連載取材の昔に、一度詣でたことがある。
妻には新奇で珍らかな参拝であったと見え、池や藤棚のゆたかに広々としていて、拝殿の華麗なのにも、歌舞伎舞台をみるような花やぎを楽しんだ。
境内に店をもった老舗の料亭「若福」に入り、お任せの料理を頼んだ。これが妻にはとてもとても美味しくて、ご機嫌。
わたしは、味わいは殺されがちでも、ほとんど一通り食べられたのである、ちょいとした奇跡のようだった。場所も店も料理も一級、店の親切な饗応も茶ごころに適ってとても嬉しかった。裏千家の茶の稽古に励んでいるという料理長の料理に涼しげに梶の葉があしらってあり、懐かしい夏の茶の「葉蓋」手前を思い出し、話題がはずんだ。
とっぶりと晩景への推移も店内にいてたのしみ、満足して、料理長や厨房さんたちとも親しく話してこれた。見送ってももらった。
またタクシーで亀戸駅へ、 総武線で市ヶ谷へ、市ヶ谷からは清瀬へ直行の有楽町線で保谷へ帰ってきた。芝居も楽しみ、参拝も料亭の親切な献立にも満たされてきた。帰りの亀戸駅で、亀戸の大老舗「船橋屋」の葛餅も買ってきた。保谷駅では妻がわたしのために桃やグレープフルーツを買ってくれた。タクシーで帰り着くと、留守番の黒いマゴが玄関で元気に迎えてくれた。

* もう十一時を過ぎた。
2012 7・14 130

* 就寝前の十七冊の読書は、何度か横になるつど次々に読み進んでいる。機械の前でも何冊か読み継いでいる。
今月は、月半ばに松本幸四郎と松本紀保、松たか子父子が演じる「ラ・マンチャの男」を観る。日生劇場や帝劇で繰り返し観てきた。どんな演出の舞台になるか、楽しみ。
月末には二日続きで舞踊の「松鸚会」へわたし独りで楽しみにゆく。

* 病み痩せて腕(かいな)に寄する小皺波幾重と果てで肩に漂ふ  湖
2012 8・2 131

* 朝の、血圧97-57 (69) 血糖値 95 九時前まで寝過ごす。夢見はあるが、まあよく寝ての寝覚めは、心身が軽く明るい。朝食し服薬するとズーンと重苦しくなる。冷桃、冷グレープフルーツ、卵スクランブル少し、パンとミルクお印ほど。服薬。二階の機械の前へ。スキャナーを故障機からこの機械へ繋ぎ変えたがまだ使っていない。印刷とスキャンとにはどうか働いて欲しいのだが。
湖の本113の再校もすすめている。すこしゆっくりでもいいほどの気持ちで。
明日はオンコロジー(腫瘍内科)と泌尿器科へ独りで出かける。明後日は帝劇での「ラ・マンチャの男」です、何度も観ているのにどう演出が変わるかと、楽しみ。
2012 8・15 131

*  幸せを感じた一日。幸せに成ってきた一日。
前四列、中央角席という絶好の席をもらい、帝劇で観てきた松本幸四郎、松たか子、松本紀保らの「ラ・マンチャの男」の素晴らしかったこと、二時間余の上演時間のあいだ何度拍手したか数えきれない、何度も観てきたミュージカルなのに、今回の演出といい幸四郎、松たか子の好演は感動に感動を重ねて圧倒的であった。
幸四郎の身動きはしなやかに美しい所作・舞踊を現じ、美声の歌唱の聴きごたえはこれまででも最高のよろこびを与えてくれた。
松たか子の熱演も熱唱もかつての舞台をはるかに凌駕してみごとであり、哀れにいとおしいドルシネア姫へあばずれアルドンサを高めて、満場を感動させた。
カーテンコールは何度に及んだことか、拍手はながく永くやまなかった。
芝居は、演劇は斯くありたいシンボルと称賛したい。ほんとうに盛り上がった。高麗屋父娘たちの、ことに父幸四郎の健在をわたしは心から喜び祝福した。いやいや舞台の絶妙により、わたしも妻もかえって舞台のみんなから祝福され激励されたのである。
わたしは、以前にも書いたが「ラ・マンチャの男ドン・キホーテ」が好きである、共感する。わたしは人生に夢はみない、が、現実を超えた価値観に人間の真実を求めてきた、獲てきた。
同じこの芝居を、思えば何度も観に出かけ、わたしは真実励まされてくる。

* 幸四郎夫人はめずらしく洋服だった。わたしのものすごいほどの痩せと眼帯は、あらためて夫人も番頭さんも驚かせたようだが、高麗屋の女房さん、いつもの笑顔と気さくな歓談とで、演後ロビーの雑踏のなか気持ちよく励まされた。
築地の通院時にわたしは蝉の鳴き声に心とられていたが、藤間一家の熱演や好意に励まされ、こんなふうに述懐の歌一首をつかんだ。

蝉よ汝 前世を泣くな後世(ごせ)を泣くな
命のいまを根(こん)かぎり鳴け  遠

いま、わたしは、病とたたかいながら、こういう気持ちでいる。 2012 8・17 131

* あの「ラ・マンチャの男」が帝劇上演中八月十九日は、松本幸四郎古希の誕生日。そして1969年初演以来、ニューヨークと日本とで、上演のべ1200回に至ったことは新聞報道でめでたく承知していた。今日、その記念品が私にも贈られてきた。ご同慶に存じます。幸四郎丈はクロッキーふうの繪が描ける。その九枚と記念バッヂを貰った。
二十七・八日には松鸚会に行く。のーんびりと歌舞伎舞踊を楽しんできたい、記念バッジを付けて行こうか。
2012 8・22 131

* 午後に俳優座稽古場でのチェーホフ「かもめ」を観にゆく。
稽古場公演は密度濃く観てとれて楽しい。どうか満たしてもらいたい、感動を胸に。

* 強烈な日盛りの正午に家を出た。バスは待ちかね、来合わせたタクシーで駅へ。六本木の俳優座劇場稽古場へは一時十五分に
入った。とても見やすい三列目の通路脇をもらった。
「かもめ」を何度か観てきたが、今日の稽古場のがいちばん明瞭に内容を伝えて感銘を誘った。
舞台、演出が効果的に巧みで、場面の転換を正確に伝えてくれた。美学藝術学的な場面や台詞が静かに胸にしみて、作家の私としてはチェーホフの作意の或意味の苦々しさや難しさが面白く分かりよく活かされていた。誰もかもが幸せで無く、そのうちの誰かはけっこうずるく、誰かは恋の哀れに泣き、誰かは遁れようのない名声欲にとりひしがれ、誰かはひたすら孤独であった。チェーホフ世界はそういう人間の鬱屈や絶望を抱き込んでいて、死の影も容赦なく襲ってくる。
俳優達の誰がどうこうということは、今日の舞台では二の次である。トレーブレフが、ニーナが、トリゴーリンが。ソーリンが、ドルーンが、アルカジーナが、マーシャやポリーナやメドヴェジェンコやシャムラーエフが、どんな運命と人生に喘ぎまた諦めまた安く誤魔化しながら生きているかがくっきり見える舞台であったからは、ほぼ立派に及第点。
チェーホフの舞台劇の主要名作をすべて熟読し、いまは妻のクニッペルに宛てた夥しい書簡をわたしは愛読している。そのことも観劇にいい視座をあたえてくれていた。
からだはかなりバテていたのだが、持ちこたえた。だが練馬駅の構内で何度も入っている鮓店に立ち寄ってはみたものの、注文した鮓種も純米酒も苦くて味無くて尽くダメ。妻の注文分についてきた茶碗蒸しと味噌汁だけに「味」が有った。そして食後貧血はことにひどく、立つと目の前が暗くなった。血の気の引いて行くのが分かった。
保谷駅からは幸い五六分でタクシーが来てくれた。
2012 9・9 132

* 今日観てきた「かもめ」の中で、売れっ子作家のトリーゴーリンには、作中、「上手に書く、しかしツルケーネフやトルストイにははるかに及ばない」とレッテルが貼られている。
トリゴーリンの創作は、ただもう思いつきの継ぎ接ぎで面白づくに書かれているらしいことは、ちいさな属目や人の言葉からの着想をこまめなメモ書きしていることで分かる。おそらく彼は、彼自身の内面から噴出する主題や動機を持っていないのだ。おもしろく上手に書けるけれど、所詮トルストイには、ツルゲーネフには立ち向かえないのだ。
読み物の売れっ子作家には、藝術文学に遠く及ばぬ軽薄がつきまとって臭みのように離れない。我が命のいたみやよろこびから噴き出すような必然味が薄く軽く、要するにメモばかりに頼った思いつきの作しか書かない・書けないのだ。
トリゴーリンにしかなれないのでは情けない。ツルゲーネフやトルストイになって欲しい。建日子は、幼かった頃、ツルゲーネフの「初恋」や「父と子」を読んで感心していた。なつかしくそれをわたしは思い出す。
2012 9・9 132

* 松たか子の十月「ジェーン・エア」の日が決まったと事務所の通知が来た。
十月には、昼夜に幸四郎と、団十郎の「勧進帳」弁慶の競演があり、こんな企画にはめったに出逢えない。幸四郎弁慶に染五郎富樫が向き合えそうにないのが残念だが。怪我した彼、その後幸い順調に快復へ向かっているとも事務所は知らせてくれている。よしよし。
2012 9 10 132

* 体重65.7kg 血圧107-58(63) 血糖値 91 朝、体重65.7kg 朝、桃ひとつ 振り掛け飯一膳 服薬 強い雨 十一時過ぎの歯科治療に 江古田へ戻り菓子とブックオフで岩波文庫三冊買い、保谷駅で鮓買って帰る 昼は、葡萄七粒 鮓 機械の前へ はやめに果物と強飯の夕食 服薬 六時半、保谷支庁のこもれびホールで亡き井上ひさし作・坂東三津五郎の独演「芭蕉通夜舟」を観てきた。便が一昨日から昨日から今日も結していて、不快。

* 買ってきた岩波文庫は、ゲーテの小説「親和力」、フローベールの「紋切型辞典」そしてプレハーノフの「歴史における個人の役割」の三冊。どれも欲しかった。

* 三津五郎の独演はうまく演出されていて、歌仙に擬した三十六景のつなぎも順調で、わたしには、芭蕉伝と芭蕉俳諧の復習をしている感じだった。創作の機微におおまかに関わった構成は、創作者には面白いだけでなく反省もしきりに迫って遁れがたい興趣に満ちていたが、創作に縁の無い観客には、すこしばかり観念的な芭蕉解説であったかも知れぬ。
2012 9・19 132

* 二十六日夕刻からは妻と藤間會の初日を見にゆく。歌舞伎役者が続々現れて踊る藝を楽しませてくれるだろう。
十月には団十郎 幸四郎が昼夜で勧進帳の弁慶と富樫を代わりあい、藤十郎が昼夜義経を演じてくれる。おそらく当代一のいわば最高の熱演になるだろう。六日の通し。ともに絶好席をすでに貰っている。
十三日にはル・テアトルで松たか子の「ジェーン・エア」再演を楽しむ。やはり絶好席をもらっている・いま私の眼はどうしようも無く視力停頓、舞台に近くないと楽しみづらい。
二十日には梅若橘香會に招待が有り、万三郎の「鉢木」が観られる。先代万三郎の「鉢木」を楽しんで以来、何年、何十年が経ったろう。これも最前列真ん中の席をもう貰っている。ぜひからだを労りながら観にゆく。能舞台にまみえるのは久しぶりです。
2012 9・22 132

* 十一月の国立劇場、幸四郎、福助、錦之助らの出演、鶴屋南北の通し狂言「浮世柄比翼稲妻」を予約。さらに松本紀保や上条恒彦らの出る、師走 クリスマススペシャルコンサートも予約した。
十一月の顔見世歌舞伎も、せめて夜は観たいのだが。十月、十一月には能舞台の梅若万三郎「鉢木」 友枝昭世の「海人」にも招かれている。やがて松たか子の「ジェーン・エア」も開幕だ。よろよろでも、ふらふらでも、楽しむのは妙薬と思って出かける。
2012 9・30 132

* ゲーテの『親和力』はまだ四分一しか読んでないが、面白い。そのなかで、今夜、印象的な箴言を聴いた。
「エメラルドがそのすばらしい色で、視覚を楽しませるとすれば、いや、この高等な感覚に、いくらかの浄化力を及ぼすとすれば、人間の美しさというものは、さらにはるかに大きな力を、官能と精神に及ぼす」と。
この場合の人間の美しさをゲーテが外形や容貌の美に限っていたか、そうではあるまいと思う。わたしもまた彼の謂う「人間の美しさ」に常に出逢いたいと焦がれている。いないとは思わない、ゲーテ的に美しい人はいる、何人にも逢ってきたと思っている。それは魂の栄養であり財産である。わたしの屡々いう真の「身内」は、そういう人に近い、いや同じであると思っている。た
やすく「身内崩れ」しない美しい「身内」に逢いたいものと、今でもわたしは願っている。

* 明日もう一日家にいて休める。明後日は歯科。土曜日は日比谷の日生劇場で松たか子再演の「ジェーン・エア」が楽しみ。初演とどれほど新しい演出や演技が働くか。期待している。松たか子も「美しい人」の一人だとわたしは観てきた。
2012 10・8 133

* 十一月の俳優座公演「いのちの渚」の招待を受ける、いつものように妻と出かける。
「これまで“安全”を謳ってきた原子力発電所が東日本大震災による大事故に見舞われ、1 年半以上経過しました今も除染やがれき・汚泥処理、避難住民の今後など問題が山積みのまま、大間原発の建設再開の方針が発表されました。今こそ私たちひとりひとりがこの現実に目を向け、この問題を考えなければならない時に来ています。
福島県出身の作家・ジャーナリスト吉原公一郎氏が80年代末に実際にあった事件・事故を基に鋭く切り込んだ本作を、今回が本公演デビューとなる劇団演出部所属・落合真奈美が細やかな人間ドラマに作り上げます」と、招待状にある。応援せずにおれない。
2012 10・9 133

* さ、入浴の読書を楽しもう。そして早くやすもう。
明日は、松たか子の「ジェーン・エア」再演を楽しみに日比谷へ出向く。国際会議のため明日はまだ帝国ホテルでは食事できない。 2012 10・12 133

* 血圧112-59(71) 血糖値89 体重65.0kg 朝、牡丹餅一つ 梅干し茶漬けふりかけて白粥 ヤクルト 朝の服薬 十二時から三時 日比谷日生劇場で松たか子主演の菊田一夫演劇賞ミュージカル「ジェーン・エア」を楽しんだ はねてから画廊でビュッフェやアイズビリらの展覧を観た 御幸通りと交叉の大通りから大江健三郎らの率いる「反原発デモ行進」に合流し、有楽町まで大勢とともに歩いた 短距離ながら念願の一端を叶えた デモは長い長い長い列を成していた 遅い昼夕兼帯の食事を新有楽町ビル地下の「今半」で 食べられたら良いがと牛肉の「しゃぶしゃぶ」を 数日前から考えていた 少し贅沢にとあえて、上、特上の肉を選んだが、苦くて、肉の味まったく味わえなかった。食べられたのは白い豆腐だけ それでも頑張って、肉も野菜も麺も喉を通した 食後に抗癌剤など服薬 有楽町線で一路帰宅 観劇のあいだも終日涙目で涙溢れ視野朦朧 道路も階段も只よろよろと。疲れた。
2012 10・13 133

* 松たか子の「ジェーン・エア」は、四の五の言わない、とてもとても良かった。涙目を拭い拭い観ていたので隣席の人は感激屋の爺さんだと呆れていたかも。相手役橋本さとしの柔らかい歌声も深味が有りよかった。終幕後のアンコールが五度六度にわたる満場の満足ぶり、むべなるかなと。

* 反原発デモに少しでも合流参加できてよかった。
2012 10・13 133

* これも昨日。福田恆存先生の劇作「明暗」を嗣子である福田逸さんが演出されるということで、「同伴者」ともどものご招待を戴いた。この作は漱石の「明暗」とは関連の無い福田先生独往の創造世界。
以前には「堅塁奪取」の見事さ、面白さ、怖さに痺れた。有難いお誘いであり、ぜひ大勢に観て欲しい。建日子たちにも観てほしく、追加で注文しようと思う。
2012 11・1 134

* 今月は能楽堂をはじめ、国立大劇場、新橋演舞場、そして妻ももろとも招待されている福田恆存劇の「明暗」を、息子の秦建日子も加わって三人で観る楽しみが待っている。その頃までになんとか少しでも安定した眼鏡が出来て欲しいが。眼鏡自体に動揺があれば何度でも作り直す気でいる。この闘いは苦戦し難渋するに相違ないが、根気よく執拗に押し返したい。
2012 11・9 134

* 午後、俳優座公演、吉村公一郎作・落合真奈美演出の「いのちの渚」を観てきた。これは観落とせないと思い招待に応じて、いつものように妻と出かけた。作にも演出にも遺憾は隠せないが、この時節に真摯に「反原発」の底意を表現した舞台は、少なくも前半、息をのませるスリリングな迫力で、原発企業の特権意識が、また、原発じたいの安全神話を裏切る構造じたいの脆弱と過誤過失や、危険極まる故障突発の隠蔽工作が描き出され、原発のそもそもに機構上の、また企業上の過剰に差し迫ってきた危険や隠蔽に気づいて行く或る中間管理職の、途方も無い苦悩や、彼の家庭・家族とのまことに難儀な意思疏通の難しさが、すばらしい筆致と展開とで達成されていた。満場の客が息をのんでいた。
残念ながら後半になると、なにとなく焦点がバラケて、ことに、家庭・家族のなんともやりきれない曖昧さが、舞台の真率をかき乱し、おいおい、どうなるのと困惑さえ感じ始めていた。「原発」のとてつもない危険についてはほぼ遺憾なく息をのませるほど描けていたのに、家庭のドラマがよく描けず、よく演出されずに、求心力を見失っていた。
舞台の事件は、あの地震と津波による福島原発の惨害よりずっと以前の、どうやら実際に取材して書かれているのだが、今もなお指さす一つの不幸、遺憾極まるあの福島原発爆発、を思い出すこと無く観劇していた客は、おそらく一人もいなかったろう。ところが作者も演出家もそこへ舞台を懸け上らせる勇断をもたなかった。
終幕の寸前に暗転の儘もの凄い轟音が客席へ流され、さてこそと然るべき福島のたとえ津波とか無残に爆発した建屋の「映像」が出るかと思ったのに、願ったのに、そのまま意味の弱々しい、無残に無念に死んでいたあの管理職の妻の、夫の死の意味が分かったとも分からないままとも何とも、曖昧な呟きひとつで、棒を折ったように突然演じた俳優達が舞台にわらわらと現れて、拍手が要請された。あまりに勿体ない後半舞台の曖昧さは最期まで拭われなかった。
あの最期の直前の轟音はそれでよい、なぜそれにかぶせて福島原発の壊滅した建屋の映像を凝然と置くことで、問題意識を今日の「反・脱原発」運動や東電批判に直結させなかったか、惜しんで余りある作者と演出家と劇団俳優座のミステークであると、批判しておく。
しかし前半の舞台は、展開は、怖いほどの迫真、すばらしかったのである。
制作の方から広報紙「コメディアン」への寄稿を依頼されてきたが、率直に書いて、原稿を受けとってくれるかなあ。
2012 11・16 134

* ロマン・ロランの史劇『愛と死との戯れ』を作者の入念な「序」、訳者片山敏彦の懇切な「解説」もともに、感動して読み終えた。立派な立派な褒め称えたい名品であった。舞台でもぜひ出逢いたい。感想はまた追々に書く。

* それよりもも劇作からみで、今朝、俳優座の制作責任者から電話を受け、懇望されて書き送った原稿を「ボツ」にしたいと伝えてきた。その人個人としては満腔の敬意と賛同を惜しまない原稿だが、劇団俳優座の広報紙「コメディアン」に掲載するのは困るという嗤いたくなる喜劇的な科白であった。
わたしは提灯持ち原稿は書かない。書評でも批評でも論文でも随筆でもその点はまったくゝ姿勢で書いてきた。それと「承知」で執筆を懇望し、なんらの悪声も放たずむしろ大きく称賛し上演に感謝している原稿を「ボツ」にしたいとは呆れた。
これを出演者や所属の俳優達が読んだときの反応に憂慮しているというが、新劇の俳優達は相当に相互批評も活発なインテリ揃いのはず。わたしの短文だが真率な批評如きに震撼されるようではただの滑稽集団だという自己解体に陥るだろう。
劇団俳優座の厚意をわたしは四十年来受けてきたし、『心ーわが愛』も書かせてもらった。現にその劇もいつものように招待され、いつものように妻の分は支払いして二人で期待に胸を弾ませて劇場へ向かった。
『いのちの渚』と題されたそれが紛れもない「反原発」劇であるのを知っていた。そして前半、われわれは、満場の観客も息を呑んで舞台のちからに称賛の思いを抱き締めていた。幕間にわたしは制作の責任者によくぞ上演してくれました、感謝しますと頭を下げていた。ま、それで褒めてくれそうだと原稿依頼されたに相違ない、電話でもそう言われた。とんだ「コメディ」だった。
以下に、書き送った原稿を掲載しておく。

「いのちの渚」 いささかの批判とともに大きな拍手・感謝

作家・秦恒平

俳優座公演、吉村公一郎作・落合真奈美演出の「いのちの渚」を観てきた。これは観落とせないと思い招待に応じて、いつものように妻と出かけた。作にも演出にも遺憾は隠せないが、この時節に真摯に「反原発」の底意を表現した舞台は、少なくも前半、息をのませるスリリングな迫力で、原発企業の特権意識が、原発の、安全神話を裏切る構造じたいの脆弱と過誤過失や、危険極まる故障突発の隠蔽工作を、適切に描き出していた。
原発の、そもそもに機構・機能上の、また企業上の、過剰に差し迫ってきた危険や隠蔽に気づいて行く或る中間管理職の、途方も無い迷惑・苦悩や、彼の家庭・家族とのまことに難儀な意思疏通の難しさが、すばらしい筆致と展開とで前半達成されていた。満場の客が息をのんでいた。
残念ながら後半になると、焦点がバラケて、ことに悩み濃い管理職社員の家族三人、妻・娘・息子らの現状理解の曖昧さが、それも家庭・家族とは本来そのように頑固に曖昧なものとの表現意図かも知れぬにせよ、舞台主題「原発批判」の真率をかき乱し、観ていて、聴いていて困惑さえ覚え始めていた。「原発」のとてつもない危険についてはほぼ遺憾なく観客の息をのませたのに、家庭のドラマがよく描けず、よく演出されず曖昧に求心力を見失っていた。そう見受けた。
舞台上の事件は、昨年三月の大地震・大津波による福島原発の惨害より、ずっと以前の、どうやら実事件に取材し書かれていたのだが、その一方、不幸で遺憾極まる福島原発のあの爆発と、首都圏に及びかねなかった危機を思い出すことなく観劇していた客は、おそらく一人もいなかったろう。ところが作者も演出家も、あの悪しき恐怖を象徴的に舞台へ懸け上らせる勇断をもたなかった。終幕寸前に暗転のまま、もの凄い轟音が客席へ流され、さてこそと、然るべき福島のあの大津波とか無残に爆発した建屋群の「映像」が出ると思ったのに、願ったのに、そのまま、無残に死んでいたあの管理職の妻の、夫の死の意味が分かったとも分からないままとも、何とも曖昧に力ない呟きひとつで、棒を折ったように終幕となった。ざわざわと、演じた俳優達が舞台に出揃って、型どおりの拍手が要請された。
あまりに勿体ない、後半舞台の曖昧さは最後の最期まで拭われなかった。
あの最期直前の轟音はそれでよい、が、なぜ追っかぶせて、福島原発の壊滅した建屋の映像をたった一枚で良い、凝然と舞台上スクリーンに大写しにし、原発への問題意識を、今日の「反・脱原発」運動や「東電批判」に無言のまま直結させなかったか、惜しんで余りある。
しかし前半の舞台は、展開は、怖いほどの迫真、すばらしかった。癌の闘病中を押して六本木まで出向いても、酬われた。感謝した。わたしたちは「反原発」「原発ゼロ」のために、デモにも時に参加している「NO NUKE 」のバッジを胸に。

* 読み直して、名文どころか少し息を喘いで書いた感じが残っているけれど、どににも悪意など挿んでいない。作家でまた批評家でもあるわたしに感想寄稿を願った劇団であれば、正直に書かれていてそれが「ボツ」理由になるとは、新劇の知性としてすこし低俗過ぎないか。そんなことでは「コメディアン」の記事が、舞台への発言が「よいしょ」でなくてはならぬらしいと読者たちが眉に唾をつけて読むはめにならないか。
いろんな観劇記事は他のメディアでも読むが、文学の批評に比べれば、俳優・役者への遠慮からかずいぶん甘いと感じることが、ある。「広報」とはどういうことか。批評は受けないと言うことか。それなら病気で喘いでいても筆を枉げるわけのないわたしに執筆依頼するな、「只働きをさせるな」と願いたい。

* ロマン・ロランの言葉 『愛と死との戯れ』から  片山敏彦の訳に拠って
「藝術創作の仕事をした体験のある人は誰でも、それがまだ実らないうちに青い果実の皮を剥いではならないことを知っている。」その通り、知っている。
「『愛と死との戯れ』は私の『フランス革命劇連作』の一つである。」
「フランス革命議会の人々のあの情熱ーーわれわれの心の中では鎮静したところの情熱は他の人々の心の中でいっそう烈しく燃えている。ベルリンとモスクワはそれを味わった。」「個人の良心と国家の利益との間の確執の問題ーー『一般的福祉』と『永遠の福祉』との対立の問題ーーこの常に繰り返して起こる悲劇的な問題を目覚ました。」
「私のもっとも真実な友でありもっとも善き助言者である「善き全欧主義者」シュテファン・ツヴァイクは、作家としての私の最初の義務の一つが、「フランス革命」という血に染んだ山嶽の石を切り出す石截工夫の仕事であることを絶えず思い出させてくれた。」「そこから切り採った第一の石塊がこれ(史劇『愛と死との戯れ』)である。  (つづける)
2012 11・28 134

* 機械画面が眩しくてもうとても堪えられない、やすむことにする。
明日午後の楽しみは、劇団昴の主宰福田逸さんから夫婦招待の恆存先生作『明暗』を、サザンシアターで、建日子も一緒に観ること。感銘深い舞台が福田逸さんの演出で観られると、すこし嬉しい期待に緊張さえしています。明日で抗癌剤服用は、また一週間休薬になる。重苦しくよたよたした体勢を、しっかり立て直したいもの。 2012 11・28 134

* 昨日の恆存劇・福田逸演出「明暗」は深く考えさせる優れた出来であった、しかし理解の及ばぬまま刑事の謎解き芝居と受けとったかも知れない、とんでもない。
事実ややこしい乱脈を極めた裕福な親類一族の間で殺人や自殺も起きる。よそからは「良家」とも見えたろう一族である。そこには秘密もその暴露もありうべからざる一族間の情事や恋慕も、或いは陰湿に或いはあっけらかんと、遠い過去から現在にも断続・持続している。そんな状況の中で、まこと恆存劇らしい緻密な理解で一人一人の人間の性根がのこりなく表現され、劇の全体が「この人間 奇態な生き物」の陳列となっている。一人として見逃されず容赦なく科白を通して人物の「アク」が表現されている。胸を張って清廉の語れる誰一人も実在せず、その「あらわれ」として彼らの科・白すなわち言動の「言」は下心ゆえに拙な口ごもりがちとなり、また内心の影に押されて誰もが「おどおど」と殆ど棒立ちで立ち位置を変えて行くだけになる。福田恆存の痛烈な「人間批評」として劇は「劇しく」推移して行き、誰もが秘め持っていた人としての弱みや秘匿が明るみに出て、一組の夫婦は、久しい空しかった情事と幼子をめぐる哀れな死のゆえに、そして一人の母親も同様の持ち堪えがたい秘密のゆえに、自殺しまた昏倒死してしまう。
「明暗」の「暗」は歴々と舞台に魔のように渦巻き、「明」とはその魔を負うた人間の深淵が一刑事役の追究で暴露されてゆく中に表れると、ひとまずは、理解できそうだ。
「人間」の、ほとんどどうしようもない「魔」と「痴愚」とが、冷然と美しく深く整った「日本語」と「行儀」とで表現された、福田恆存劇の一代表作として、観客へのきつい挑戦作とも成っている。嗣子福田逸さんは、この「難しい」劇を、ともあれ適確にかつ筋を明快に通した演出に成功していた。これまた途方も無く難しい「表現」であったろう。
わたしも現に、「人間」の難しさに少しく挑んで創作に苦闘している。恆存先生の凄みに打たれてきたのは、逸さんからの励ましかとビリッと来たことを書き添えて置く。夫婦ともにご招待いただき、秦建日子にも観てもらえたのは、感謝にたえぬ有難い事であった。妻や息子にどんな理解がありえたかは、敢えて問わないでいる。「人間」を観る尺度も角度も、いろいろだから。

* 観劇のあと三人で高島屋十四階で中華料理を食べ、加飯紹興酒のうまさなども満喫、わたしも、美味い美味いとは思い切れなかったけれど、殆ど全部を腹中に納められた。必ずしも呑み助ではない建日子が加飯酒を美味いと手酌していたのも嬉しかった。
帰路は山手線以外になく池袋まで満員で、座れなかったのがちょっと堪えた。
いい一日だった。
2012 11・30 134

* 新年、俳優座で山田太一作「心細い日のサングラス」の招待が来ており、昴劇団公演の「イノセント・ピープル」案内も届いている。後者は、原爆水爆製造に係わっていた人たちのドラマだと。両方とも見に行く気でいる。
一月の初春歌舞伎も、昼夜分けて楽しみにしている。友人片岡我當の「翁」を演じる「壽式三番叟」で新年が開ける。有難し。二つめに「車引」 三つめは幸四郎と福助の「戻橋」があり、切りに、吉右衛門をはじめ友右衛門、芝雀、歌六、東蔵らの「傾城反魂香」。
夜の部は幸四郎、福助、梅玉の「逆櫓」で幕が開き、團十郎、吉右衛門、芝雀で「仮名手本忠臣蔵 祇園一力茶屋の場」が続き、大喜利は、狂言物の「釣女」を三津五郎、又五郎、七之助らで。
やはり歌舞伎はこうして演目や役者の名を書き写しているだけで身も心も動いてくる。亡き勘三郎らが教えてくれた冥利である。

2012 12・16 135

* 明日は、中野で、クリスマスらしいミュージカルを楽しく観に聴きに行く。松本紀保が出演する。
明後日の七十七歳には、国立大劇場で、中村吉右衛門はじめ播磨屋一門を芯に、面白い歌舞伎らしい歌舞伎を気持ちよく楽しんでくる。
新歌舞伎座のこけら落とし興行のメドが立ったようだ、人気沸騰か。
2012 12・19 135

* 中野サンスヘプラザで、川平慈英を座長格のクリスマス スペシヤルコンサート「ア・ソング・フォー・ユー」を楽しんできた。高麗屋の松本紀保が出ているので座席を頼んだ。春野壽美礼、池田有希子、杜けあきそれに巧者の松本紀保がそれぞれの歌唱を競いまたバックを堅めて、男性は上条恒彦、尾藤イサオらが力演・熱唱、ことに臨時のゲスト二人の歌唱の卓抜に感動した。曲はカーペンターのを主に、プレスリーのも尾藤と慈英らが爆唱、喝采を浴びた。十一人プラス二人のゲストの、流れるような演出のもとに、だれのどの歌も楽しい歌声に広い会場が沸いていた、とても楽しかった。
歌唱は人間の生理を弾ませる一種特別の器楽であり、胸にひびいて魂を躍動させる、わたしは楽器が奏でる音も愛でるが、人がうたうのが好きなのである。うまく歌われると意味の取れていない外国語の歌でも、涙を催すほど惹かれる。歌曲のコンサートにもたまに出かけるが、今日のよく仕立てられたコンサート形式の微塵停滞なく元気に優しく心地よく高潮したミュージカルは、すてきなわたしへの鼓舞でもあった。
2012 12・20 135

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