ぜんぶ秦恒平文学の話

音楽 2013年

 

* 朝から、一つ唄が口を衝いて出て時にヘキエキする。「母は来ました 今日も来た この岸壁に今日も来た およばぬ願いと知りながら もしやもしやに引かされて」 敗戦後、子の復員を待つ母の唄で、身につまされよく聴いた。唄っていたのが誰かもう正確に言えないが歌詞は記憶にこびりついている。「もしやもしやに引かされて」という歌句は切なかった、その切ないのが繰り返し口元に蘇る。敗戦から六十七年か。わたしは十の少年だった。丹波の山奥に疎開していた。                                                  が

* いま我々の現に抱えている原発災害のさらに拡大する可能性の大きさは、あの戦争でヒロシマ、ナガサキに浴びた原爆の黒い雨に何十倍、何百倍するか、本気で「わがこと」「我が子のこと」として考えねば、切実に。
2013 1・8 136

* いま、十時。明らかに、眼の調子も昨夜までのようにひどくない。かなりの量の仕事ができた。霞んではいるのだが、眼鏡が合っていないのだからと云えば云える。久しぶりに、沢山のピアノ曲など聴きながら仕事できた。もう休もう。
2013 1・20 136

* こんなことしていたら、寝られやせぬわい。

* おまけに、どうしたかこの頃、昔の唄が口を衝いて出て、夜中にも唄の曲や歌詞をそらんじている。生きの命の気弱な感傷であるか。
旅泊  歌詞・大和田建樹
磯の火ほそりて 更くる夜半に
岩うつ波音 ひとりたかし
かかれる友舟 ひとは寝たり
たれにか かたらん 旅の心

月影かくれて からす啼きぬ
年なす長夜も あけにちかし
おきよや舟人 おちの山に
横雲なびきて 今日も のどか

原曲はイギリス曲だが、これに大和田建樹の詞が、ことに一番がひたと溶け合って、優れて日本の唄に成りきっている。この好きな唄が、唄の一番が、隙あらばわたしの舌の根に構ってくる。母音になおすと「イオォオイ オオォイエ ウウゥウ オォアイィ」の出だしが、繊細な音色をひびかせて歌いやすく、歌詞も味わいやすく、昔から、一二に好きな唄なのである。で、無心でいるとすかさず忍び寄って、声に出よと唆す。あらがうまでもなしに唄っている。ほかにも少なくも四、五六十も好きで口を衝いて出る唱歌がある。歌詞は忘れていても曲は覚えていて、すると歌詞もあらわれ出てくる。こういう今や長閑な日常から、強いて気ぜわしい「ペンと政治」へ努めて口出しして行く切り替えは、そう易しいことでない。
2013 2・4 137

* 先日来、唄が恋しくなり、自分で出ない声をだすより人の歌うのを聴きたいと、手持ちの全集の第一巻20曲を聴いてきた。松本美和子の美声が歌う「庭の千草」、小鳩くるみの豊かで素朴な歌声「埴生の宿」、宮本昭太のすらすらとしかも情感せつない「オールド・ブラック・ジョウ」そして、伊藤京子の深みの歌唱力「蛍の光」四曲に感動した。ことに、何の期待もしてなかった「オールド・ブラック・ジョウ」に不覚にも泣いてしまった、ああ、こんなだったんだ、知っていて何も知らなかったと。そして「蛍の光」でもっと激しく泣いた。学校の卒業式だけの唄ではない、わたしの臨終の時に聴かせて欲しいと切に願われる唄であると、はじめて気が付いた。
「来世を待たない」と、確かにわたしは思っていて、今・此処の命を大切に生きている。しかし「死ぬるを定( じょう) 」との覚悟も定まり、死後には頼まないが転帰の時は遠からず来るとの覚悟もしている。その覚悟に「オールド・ブラック・ジョウ」そして「蛍の光」が津波のようにわたしを一ッ時溺れさせた。恥ずかしいことか、そうでないかは知らない、わたしは嗚咽していた。怖くてではない、なつかしい気持ちであつた。自分が半ばもう「オールド・ブラック・ジョウ」で在ることを否まなかった、だから泣けた。そして自分が「ふみ読む月日重ねつつ」「いつしか歳( 歳月) を杉(過ぎ)の戸を」「あけてぞ今朝は別れ逝く」ことのすでに「定( じょう) 」と受け入れているのに、惑いも恐れもないと思えた。だから泣けた。
とてもフレッシュな気持ち。

* 入浴後に、休息のためまた別の唄デイスクを機械に入れ、全二十曲の半分を聴いた。今回は泣けるうたはなかったけれど、巧い唄が幾つもあった。とりわけて倍賞千恵子の「かあさんの歌」と「遠くへ行きたい」は、素直な歌唱力の胸にせまる魅力があった。ザ・ピーナッツの「心の窓に灯を」も先入見を上越す美しいハーモニイが嬉しかった。ほかにも三曲ほどが聴かせた。ノートパソコンでそのまま唄が聴けるので、これが休息にいちばん。眼をただつむっていたらいい、それがいい。
2013 2・8 137

* 湖の本115の再校に専ら。視力を用いざるを得ず、不具合になやみながら努めている。ときに休憩し瞑目して唄を聴いている。
倍賞千恵子の「かあさんの歌」「遠くへ行きたい」は他を圧倒していた。多くの歌手たちは「ことば」を生かすためでなく「曲」に乗じた技巧を出そうとするから、不自然に唄が停滞したり歪んだりして景色が見えてこない。倍賞は一流の演技女優であり「ことば」の読みと感銘とを素直に豊富な美声に寄せて歌ってくれる、それがしみじみと胸に届いて感動する。
ほかに「希望」という知らなかった唄を 岸洋子が物語風にしみじみ歌っていたのと、芹洋子の「四季の歌」が、学生の作詞作曲を懐かしいまで美しく歌った。意外にザ・ピーナッツの唄「心の窓に灯を」も、よく柄にあい綺麗に歌えていた。ポーチェ・アンジェリカの歌う「忘れな草をあなたに」は詞が感傷いっぱい老境にも身に沁みた。夢にもみた。

別れても 別れても
心の奥に
いつまでも いつまでも
憶えておいてほしいから
幸せ祈る 言葉に換えて
忘れな草を あなたに あなたに

* 凌いで凌いで、過ごしています。容態を自身を観察し続けていますので、時折からだのためちょっとしたいい発見も、考え違いの発見もあります。
大震災から二年は「原発」に意識をあつめて発言して行きますが、その辺から確かな切り替えが必要です。しかかりの創作三つのどれが起ち上がってくるか、作者は作者なりに息をつめています。
抗癌剤は去年の五月一日から始めました。なぜか「一年」と限られていますので、もう三ヶ月足らずで一応の卒業となり、あとは諸検査を断続するのでは。ま、新しい五月以降に元気をもっと盛り返したい。いまは日に日に体重が減っていき、これを挽回しなくては。
このところ懐かしい唄を聴いて、心を躍らせたり静めたりしています。「文学」という意識をまだまだ持たずにいた幼い日々に、わたしに「ことば」の運用を教えてくれたのは、たくさんな唱歌でした。これに好悪の批評をきつく浴びせながら、「ことばでの表現」を覚えていったという自覚があります。蛍の光で、「いつしか歳もすぎのとを あけてぞ」と歌いながら、「過ぎ」「杉の戸」いう斡旋を感覚出来たのも嬉しかった何かの発見なら、また「時鳥はやも来鳴きて」の、日常会話では口にしない「来鳴く」といった複合動詞のおもしろみに気づいたのも幼いが確かな発見でした。そんな発見のかずかずが後々の文章表現にかぼそいながら流れ込んだのでしょう。
たくさんな唄を聞きながら、ただ過ぎし時代への感傷だけでなく、往年の「わが教科書」を、また繙いている感じでもあります。
日本丸は座礁していると感じます。危険な危険な座礁からどう遁れて無事航海が続くのか、容易ならぬ舵取りが「政治」にも、「わたしを含む国民」にも求められます。
四月、五月、六月、各三部、九回公演のうち、どれだけ座席が手にはいるか、まるで入らないか、じっと期待しています。何人もの十分芯とも花ともなる役者が次々に亡くなったのを寂しいと歎いています。亡くなった小説家の丸谷才一とも安岡章太郎ともまるですれ違っただけですが、雀右衛門、富十郎、芝翫、勘三郎、團十郎は、身肉に食い込んできましたからね。
わたしは何もかもさらけ過ぎでしょうかね。これでも、時折は気にしているのですよ。
この日ごろ、柱や壁や手すりにつかまり、外では杖を頼んでいますが、とかく、よろめいてしまう日々です。余儀ない一人での通院や外出には重々用心しています。
みなさん、日々お大切にお過ごし下さい。
2013 2・9 137

* こういう重苦しい注目から、どう気分転換するかも疎かであれないのが、わたしの日常。仕事も病気も生活もある。湖の本115『ペンと政治(二下)』は、すでにいつでも入稿可能なように原稿は整備してある。この三巻は、びっしりと内容を詰めたので、同頁でも従来一巻の1.5倍も隙間亡く収容されている。それだけ、原稿作りも校正作業もたいへんな重労働になった。
だが、気分一新は心身自由のためにもゆるがせに出来ない。眼の不調をかかえているので、読書よりもと、音楽をそのために用いて、休憩に聴いている。てきぎに感傷にも響いて涙を流すのが、眼やにではなく、むしろ眼を洗ってくれるか視野が明るくなるという余禄もある。源氏物語の生徒であり、「泣く」ことに昔から引け目も躊躇いもない。当分は、全十巻のディスクを繰り返して聴こう、楽しみたいと思う。
2013 2・10 137

* 鮫島有美子の「椰子の実」は美しいのだが、歌曲の人の悪弊というか、曲にもたれて「歌詞」の深みや豊かさや美しさを平気で犠牲にする。そのため「ことば」が聞き取れない箇所が出てくる。その点、ダ・カーボの「花の街」は素直に「ことば」を美しく届けてくる。都はるみの「嗚呼玉杯に花うけて」では、歌手のクセの強さが逆効果の書生っぽさに生きて面白くも魅力に満ちる。思わず一緒に歌っている。森茂久弥の「紅萌ゆる丘の花」は大好きだが、三高のの学生達はこんな技巧は凝らすまい。書生らしく放歌高唱したろう。
鮫島有美子の「遙かな友に」はいつ聴いても泣かされる。逢いがたい娘や孫娘を「感じ」てしまうので。
高峯美枝子は「宵待草」の憂愁をうっとりと素直に歌い上げて聴かせる。佳い歌なのだが美声三鷹淳の「平城山」はにじみ出す情感に乏しい。川田正子といは懐かしい名前、「時計台の鐘」を素朴に歌いあげている。タ゜ークダックスは何を歌っても雑ぱくになる。ペギー葉山の「学生時代」が朗らかに佳い。
2013 2・10 137

* 「仕事」幾つもじりじりと前進した。眼は、不自由している、休み休みも余儀ない。
ボーチェ・アンジェリカの「早春賦」、松田敏江の「茶摘」、クロスロード・レディース・アンサンブルの「青葉の笛」、NHK 東京放送児童合唱団の「海」、同じく「われは海の子」、ダーク・ダックスの「紅葉」、同じく「冬の夜」、「四季の雨」、NHK 東京放送児童合唱団の「冬景色」、そして、NHK 東京放送合唱団の「あおげば尊し」など、それぞれに楽しませてもらった。必ずしも往時が懐かしいばかりではない。いま、こんな歌をだれがふだんに歌うのだろう、老人達のただ懐かしのメロデイだろうと想われるが、それなら今今の唄は。知らない。そんなな断絶をのりこえて世代間のどんな情愛が可能なのだろうと、最近多発している子の親殺し、親の子殺しの報道だのが思い出され慄然とする。
2013 2・12 137

* むすんで ひらいて 手をうって むすんで  という唄は幼稚園に入って一番にならった。この原曲が、ジャン・ジャック・ルソーの作曲とは知らなかった。岩波文庫『日本唱歌集』は愛蔵の一冊、その開巻第一に「見わたせば」という二番構成の一番作詞が柴田清
煕、二番作詞が稲垣千頴で、のどかな日本の景色が歌われているが、わたしは楽譜が読めない。どんな節だろうと思いながら頁を見ると、注に作曲者のこと、加えて節は「むすんで ひらいて」と同じとあった。ちなみに一番の歌詞だけ写してみる。
見わたせば、あをやなぎ、
花桜 こきまぜて、
みやこには、みちもせに
春のにしきをぞ
さおひめの、おりなして、
ふるあめに、そめにける。
明治の唱歌びとたちは、こんな歌をまずは習い始めた。小学唱歌集初輯の巻頭唄だった。作詞の柴田清煕は「音楽取調掛」勤務、稲垣千頴け東京師範学校教員だった。こういう人たちの「作詞」から日本の唄はひろがっていった。たぶん流行歌などは遅れてはやりだしたのだろう。
原作曲があのルソーとは驚いたが、著名な唄の曲には外国出来の原曲ものが多かった。日本の唄として詞を聞いてみればいろんな愛唱唄の原曲が外国のものと知れて驚かされる。わたしの好きな「磯の灯ほそりて更くる夜半に 岩うつ波音ひとり高し」とはじまる「旅愁」も、そうだったと改めて知ったのは最近のことで。
2013 2・18 137

* 「十訓抄」がおもしろい。説経臭いのは本の目的なのだから勘弁するとして、さて、そう臭くはなくそれよりも説話の話ざまが端的に要を得ていてくどくない。上の第一は「可施人恵事」人に恵みを施すべき事と題され、そもそもから人が人にでなく、先ずは人が生類に憐れみを掛けることから語り始めていて、亀や蜂や や鯉などのいわゆる「恩返し」説話がならぶ。長々とは言わない、簡要を話してくれるのでいささかも退屈しない。機械の合間にちらちらと拾い読みして恰好の読み物である、が、追い追いに説教されるのであろう。
眼の不調で就寝前の多くのシンフォニックな読書が出来なくなっていて、抗癌剤の副作用に負かされているが、機械のそばで休み休み読んでいる本が何冊もあり、音楽や唱歌も聴いて補っている。眼がくらくなると機械の輝度をあげ、眩しくなると下げて、あれこれ工夫しながら創作にも励んでいる、いや励もう励もうと根気を養っている。
2013 2・18 137

* 古いなつかしい唄で気持ちのバランスをとり続けている。
大好きだった「雨、雨降れ降れ」「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」など、幼稚園で貰っていた(親が買ってh;wいた?)キンダーブックの挿絵も懐かしい。いま聴いている盤ではこれが早くに出てくる。この唄でも「みかんの花咲く丘」でも、たもっともっと沢山の唄に「母さん」が歌われていて、貰われっ子のわたしは顔も知らない(まったく覚えない)母なんてモノを一方で厳しく見捨てていながら、唄にあらわれるいろんな場面での「母さん」をとても無視できなかった。人に知られずどんなに泣いていたかと想い出す。
それとは違い例えば「お山の杉の子」などに現れる国策歌詞の現れる唄はみな嫌いだった。「蛍の光」のような佳い歌にも末の方の歌詞は不自然極まる国策歌詞になるのが歯ぎしりするほどイヤだった。そんなのに比べれば「夕焼小焼」や「たきび」や「花かげ」や「この道」や「あの町この町」や「ちいさい秋みつけた」などの方がどんなに少年の感傷に寄り添ってきたか知れない。

* こんなことは、いくらか書きたくはなく秘めもっていたいのだが、老境のさがなさが好きにしろよと唆すのである。いま一つにはわたしが「詩歌」の表現を覚えた早くにこういう音楽があり、いま一方には「百人一首」への少年なりの親炙・傾倒があった。
ま、今今の心境では、じつに気恥ずかしいけれど、近時の幼稚園や小学校で愛唱されているという「思い出ののアルバム」の「あんなことこんなことあったでしょ」という「思い出してごらん」という唆しに乗せられているのだ。これではバグワンに叱られ臨済にどやされても、まったくまったく致し方がない。

* ついでにいうと、むかしはそれなりに愛唱した「四百余州をこぞる」元寇の唄や、「箱根の山は天下の嶮」とか「青葉茂れる」楠公父子桜井訣別とか、敵将すてっせると乃木大将の「水師営」とか「我は海の子」などを懐かしくは思わなくなっている。勇ましさを強いられるのはイヤなのである。むろん感傷を強いられるのもかなわない。

* 少年の昔に聴き覚えた唄に、都会の都会らしい風景や光景を歌った例は無いにも等しく、せいぜい時計台のある学園とか。おおかたは、田舎住まいや暮らし、都市部にしても垣根の曲がり角などの旧住宅地など、そして、懐かしい山野や河川や風物を歌っている。都会しか知らない、都会にしか暮らしたことのない子たちには、大人にも、おおかたはエキゾチックにすら感じられるのではないか。流行歌時代になると東京や大阪や横浜などが典型的な都会として押し出てくるが。
わたしは国民学校の三年生卒業式を済ませたと思われない昭和二十年二月末から、敗戦を歴て二十一年の秋までを、丹波の山奥で疎開生活していた。農山村の暮らしをやや体験的に過ごしてきた。いちばん近い町が亀岡町、いまの亀岡市で、ときたまの用事や、また山陰線やバスで京都へ帰るときに亀岡へ出ていった。山道や、町とはいえ田中の遠い道をよく覚えているし、だからこそ沢山な唄が自分なりに追体験できるのだ、「叱られて」などでも。疎開先の暮らしはむろんラクでなかったが、今にして幸せな体験であったと思う。
2013 2・20 137

* 今日も、少しつらいと唱歌を聴いてやり過ごしていた。
全20巻の『美しき歌 こころの歌』のもう19巻を聴いてきた。聴きながらも目次に朱の一重丸と二重丸をつけてきた。丸無しのもいくつも有った。自身のためにいずれ歌唱としてのベストテンを選び、別に作詞の優れたのも選び出してみたい、その時は20巻に洩れていた唱歌からも選びたい、
わたしの戦後新制中学生の頃は、ラジオでの人気定番は歌謡曲のベストテン番組だったし、教室でもわたしたちの先生は、歳末などに自身の「読書」「友」「触れた自然」などのベストテンを選んでみなさいと言われた。自問自答の必要な知的で精神的な試みに成るからと。わたしは、テンとは限らないが、いいものを選ぶのが好きであった、今も少年の昔の師の教えを大切に思っている。
今日の第六巻で二重丸をとりあえずつけたのは、録音順に鮫島有美子の「波浮の港」 藤山一郎の「影を慕いて」 並木路子の「リンゴの唄」 伊藤久男の「あざみの歌」 藤山一郎の「長崎の鐘」 岡本敦郎の「さくら貝の歌」 美空ひばり「川の流れのように」の七曲。歌唱力と、歌詞の表現力、記憶も含めてもろもろ受ける感動、そして日本の歌、に重きを置いている。なるべく歌謡曲でなく、またあまり歌い口を弄らない素直な美しさにも。
その上で、今日の圧倒的な名唱は、藤山一郎の「長崎の鐘」と美空ひばりの「川の流れのように」が傑出していた。涙をこらえた、いや、流した。きれいな涙は眼を洗ってくれると分かっている、それで、毎日毎日聴いてきた。そういう歌に出会いたい。鑑賞も実効も期待している。
2013 2・24 137

* とうどう200曲をことごとく聴き終えた。今日最後の巻はみな外国の歌と歌詞の翻訳とで、いい歌唱はむろん有ったが、わたしの口をはさめるものでなく、撰歌からは除外する。二重丸をつけたのは、
伊藤京子の「ソルヴェイグの歌」 木村宏子の「君よ知るや南の国」 KAY 合唱団の「諸人こぞりて」 東京混声合唱団の「懐かしのヴァージニア」 立川清登と東京混声合唱団の「谷間の灯」 の五曲。歌唱と声楽の妙で選んだまで。原語で歌われる歌は、それしかない。
2013 2・26 137

* 読書がままならない。仕方ない、いい音楽を聴こう、耳には異常は出ていない。ショパンから。ついでぐれん・グールド。
2013 2・26 137

* 眼が眩くてお話にならない。

* 見えにくい時は 音楽が救いになる。岸洋子の「希望」 芹洋子の「あなたにあげる」 同じく「四季の歌」 山野さと子の「アメフリ」五十嵐喜芳の「オー・ソレ・ミオ」を聴いてから、パパロッティを聴きマリア、カラスを聴いた。気分はすかっとしたが、眼はダメ。
裸眼で『十訓抄』の「一」を読み進んだ。先入の偏見はあやまり、読みやすく判りいい王朝人の推讃・愛読にたる逸話が簡明にならんでいる。仕事合間の読書に最適の一書と覚えました。
2013 2・28 137

* 唱歌集『美しき歌 こころの歌』二百選の中からわたしが「十五選」してみたのは、順位なく、いまのところ、
松田敏江の「朧月夜」 チェリッシュの「竹田の子守唄」 鮫島有美子の「椰子の実」 都はるみの「嗚呼玉杯に花うけて」 芹洋子の「赤い靴」 山野さと子の「アメフリ」 並木路子の「リンゴの唄」 藤山一郎の「長崎の鐘」 倍賞千恵子の「かあさんの歌」 同じく「遠くへ行きたい」 岸洋子の「希望」 ペギー葉山の「学生時代」 芹洋子の「この広い野原いっぱい」 小鳩くるみの「埴生の宿」 伊藤京子の「蛍の光」 以上。
別格に、美空ひばりの「川の流れのように」 五十嵐喜芳の「オー・ソレ・ミオ」
あくまで歌詞の命をりっぱに生かした歌唱そのものの魅力で選抜してみた。別格の二人は、ひばりは流行歌のクイーンであり、五十嵐の歌唱は海外歌の魅惑と声楽家の本領を讃えたかった。
「十五選」はとても難儀だった、二重丸をつけた歌唱は少なくもこの倍は有った。歌詞と歌唱と感動を重くみた。美声だからとて歌詞の命の音を削って曲にのみ追随した、つまり歌詞の聞き取れなかった、聞きにくかった、のは捨てた。
十五曲からさらにベストテンとして順位までつけるのは、さらにさらに容易でない。
男性の歌唱を藤山一郎独りしか選ばなかったのは、総じて身構えが強すぎて聴いていも素直な喜びや感動にほとんど繋がってこないから。
その点、倍賞千恵子といい小鳩くるみといい芹洋子といいけれんみなく豊かに素直にしかも歌詞を深く読み取って言葉の命を深々と歌いあげていた。都はるみの一高校歌の歌いざまもみごとで、これでは高揚した学生達の歌声が追いかけてくるなあと信じられた。

* つぎは、ひまを見つけ見つけ全「唱歌」歌詞からの「詩」の魅力五十選を遂げてみたいなあと思う。秦さんノンキ過ぎませんかと言うひとも有ろうが、やっとそういうことをしてでも「生きている」喜びを表現していい境涯にたどり着いたのだと、これもまた若き頃の日々の創作に傾けた真剣とすこしも質的に違わないとわたしは確信しているのです。作家・批評家として、自由自在に「表現」したいのです。
2013 3・5 138

* こんなに病気に冒されシンドイのに、それでも放っておけない「収束未了」の頭に来る諸問題・諸現象・諸悪政が充ち満ちて、血反吐でも吐きそうな現実だ。情けない。つくづく情けない。

* 昨日は唱歌のはなしなどして憂さをはらしたが。
あの十五選からあえて逸らした一つに、荒木とよひさが若いときに作詞・作曲したという「四季の歌」があり、芹洋子がのびのびと歌っていた。
何故外したか。作詞が、やむを得ないのかどうか、間に合わせで寸が足りていないと感じたから。春を愛する「僕の友だち」 夏を愛する「僕の父親」 秋を愛する「僕の恋人」 冬を愛する「僕の母親」を歌い上げて、小気味よく心温まる歌ではあるが、結局はおなじ芹洋子が晴れ晴れと歌う「この広い野原いっぱい」を選んだのである。

* さように、かすかな不満をもった荒木の詩のなかで、しかし二番の、
夏を愛する人は、心強き人
岩をくだく波のような
僕の父親
とあるのには感慨を持った。
もし息子の秦建日子がそういう目でわたしを見ていくれていたら、そしてわたしの臨終の折、胸の内ででも口ずさんで見送ってくれたら、本望だナと感じた。わたしは、これで、この詩句のように生きよう、生きてきたと、少しは自惚れている。
錯覚しないで欲しい、わたしは「岩」として強く生きてきたのではない、この詩のように、ひとひらの「波」のように生きたかったし生きてきた。
「波」とは。一瞬にして川に包まれ海となってしまう「現象」に過ぎない。「波」は川とも海ともちがい、実在ではない、いわば幻像、夢のようなまさに「現象」なのだ。此の世も我が身もじつは「夢」と思う実感にもっとも接近しているのが、わたしには、「波」なのである。そんな「波」であるがゆえに、わたしは「岩」のような現実と闘うことが出来た。「現実」など何ほどのものでもない、多くの場合ほとんど「悪」であると、誰もが心の内で感じている。感じている間にもこの「悪」は千変万化してゆく。いまり日本を観ているだけでも分かるでしょう。「波」というはかない力が、しかし「四季の歌」の作詞者は、そんな「岩」を砕くと観ている、その確かさにわたしは惹かれた。
このところ、私は繰り返し、岩のような「リアル」より、はるかに確かで美しく真相をとらえる波のような「ファンタジイ」を語ってきた。
この感覚は、まだ幾らかの変遷を要するのかも知れない。が、大事にしたい。
2013 3・6 138

☆ 小宅  白居易
小宅里閭接  拙宅は町はずれでして
疎籬鷄犬通  粗い垣を鶏も犬も失敬
渠分南巷水  水は南の町内でもらい
窓借北家風  窓は北からの風を頂戴
信園殊小   信の庭とてこぢんまり
陶潛屋不豊  陶潛の家もとてもとても
何勞問寛窄  何で広い狭いが問題か
寛窄在心中  広い狭いは心まかせさ

* 埴生の宿もわが宿
玉の粧いうらやまじ
のどかなり 春の夜
花はあるじ 鳥は友
ああわが宿よ
楽しともたのもしや

* 小鳩くるみの豊か美しい歌声がする。
結婚して五十四年、いまもわが家は「小宅」で「埴生の宿」のままである。八畳の間のある家に一度も暮らしたことがない。けれど、気持ちはこんなに自由で豊かである。
2013 3・16 138

* 四六時中。寝ているときも脳裏を流れるメロディの最たる一つは、倍賞千恵子のしみじみうたう「かあさんの歌」。わたしはこういう生みの母も実の父も、養父母ももたなかった。ほとんど全部が街暮らしであったが、わずかに二年近く山村での疎開暮らしを味わった。それがいくらか感情移入にはたらいているかも知れないが、たぶんそうではあるまい、むしろ日本の歴史におしえられたもっと普遍的な共感が、この窪田聡の作詞作曲と倍賞千恵子の歌唱へ、具象化しているのだろう。
街暮らしの息子か娘か、と、山里の母と父とで呼び交わしている愛情と思慕とがみごとな階調を成している。書き写しながらわたしはこみあげるものを幾度もこらえた。
「いろりの匂いがした」「お前もがんばれよ」「せめてラジオ聞かせたい」「生味噌をすりこむ」「畑が待ってるよ」「なつかしさがしみとおる」 詩情横溢というだけではない、子と親とのいつわりない恩愛のたしかさ。
それにしても昨今、瓦礫のように砕けた血縁の犯罪が多すぎる。

かあさんは夜なべをして 手袋編んでくれた
木枯し吹いちゃ 冷たかろうて せっせと編んだだよ
ふるさとの便りはとどく いろりの匂いがした

かあさんは麻糸つむぐ 一日つむぐ
お父(とう)は土間で 藁打ち仕事 お前もがんばれよ
ふるさとの冬はさみしい せめてラジオ聞かせたい

かあさんのあかぎれ痛い 生味噌をすりこむ
根雪もとけりゃ もうすぐ春だで 畑が待ってるよ
小川のせせらぎが聞こえる なつかしさがしみとおる
* 倍賞千恵子が勲章をもらっていた。わたしは勲章沙汰を好かないひとりだが、あの寅さんの妹の「さくら」はほめてやりたかった。すばらしい日本人のシンボル、「さくら」の名が美しい。
彼女の「遠くへゆきたい」も美しい歌唱だった。小鳩くるみの「埴生の宿」も懐かしく、ほれぼれ聴いている。
2013 5・3 140

* 終日機械に向かっていると、やはり視野はうす霞む。それでも文字はなんとか読めて見えているが。もう休む。
世の中は永い連休とか。遠くへ帰省の旅の人が多いのだろう、わたしたちも昔はそうだった。ただしわたしたちは車を持たない。生涯持たないで済む。
ショパンの夜想曲を聴いていた。いまは、グレン・グールドのピアノソナタ。胸がふるえるほど、すばらしい。

* そうそう、昨夜おそく妻と、岸洋子のうたう「希望」を聴いたあと、妻のことばで、わたしの歌と詞との読みが、恥ずかしいほど初歩的に間違っていたと知らされた。その話は胸に響いた。今夜はそれをもう書けないが。
2013 5・5 140

* 昨夜、触れただけで言い及ばなかったこと。まずは、藤田敏雄の作詞『希望』を紹介したい。歌は岸洋子。十五選した歌唱のなかでも倍賞千恵子の『遠くへ行きたい』と対のようにしみじみきいていたのである、が、しみじみの見当をわたしは放恣ないし勝手につけていた。歌詞は三番に分けてある。断っておくがわたしを立ち止まらせたのは歌詞でもあるが、より大きく、岸洋子の歌唱のちからであった。それはここに再現できない。

☆  希望   藤田敏雄作詞 歌・岸洋子

希望という名の  あなたをたずねて
遠い国へと  また汽車にのる
あなたは昔の  私の思い出
ふるさとの夢  はじめての恋

けれど私(あたし)が  大人になった日に
黙ってどこかへ 立ち去ったあなた
いつかあなたにまた逢うまでは
私の旅は  終りのない旅

、希望という名の  あなたをたずねて
今日もあてなく  また汽車にのる
あれから私は  ただ一人きり
明日はどんな 町につくやら

あなたのうわさも  時折聞くけど
見知らぬ誰かに すれちがうだけ
いつもあなたの名を呼びながら
私の旅は  返事のない旅

、希望という名の  あなたをたずねて
寒い夜更けに  また汽車にのる
悲しみだけが  私の道連れ
隣りの席に  あなたがいれば

涙ぬぐうとき  そのとき聞こえる
希望という名の あなたのあの唄
そうよあなたにまた逢うために
私の旅は  今またはじまる

* 演歌ではない、おそらくは、シャンソン。それにしても、私(あたし)が向き合っているのは「希望」であり、擬人化して「希望という名の あなた」と唱っているのはまったく妻の云うとおり。当然の読みである。
ところがわたしは、「希望」を、人生の観点からして大事にも重くも観ていない。「希望」に敢えなく「かかずらう」より、「今・此処」に努めることに努め勤めてきた。わたしはこの歌に、生身の女一人の実在を思い、見果てぬ夢を旅に旅して追い続け再会したい悲しみの深さに吐息したのだった。
そういう人が、女であれ男であれ、この広い世には実在するだろう。倍賞千恵子がせつせつと唱った「遠くへ行きたい」には間違いなくそういう生身の人の深い嘆息と悲哀が渦巻いていた。その同類のようにわたしは「希望」という歌を聴いて胸しおれたのである。共感ではない、どんな「遠く」へあてなく寂しく「旅」しつづけても、「希望」とも、「信じ合い愛し合う」人とも、出会えないだろう。そう思っているから、わたしは歌声の寂しさに耳を傾けていたのである。
おまえは、そういう「希望」を持っていないのかと詰問されるまでもなく、わたしにも似た「希望」はある、あった…と云うべきだろう、「遠く」をも想っていただろう、事実わたしは高校を卒業するときに、自身で希望して「宗遠」という裏千家の茶名をもらっていたではないか。だが、わたしは「希望」も「遠くへ」も、力強い「今・此処」に立ち向かい続けることとの「同義語」と把握している、少なくも、今現在は。しかし倍賞千恵子の「遠くへ」も岸洋子の「希望」も、そこに纏綿しているかなしみやあこがれを否認してしまう気はない。
2013 5・6 140

* 夜前、機械の前を離れるとき、『共産党宣言』第二章冒頭を数頁読み、初めて「共産」の意味と主張とを理解できた気がした。
ついで陶淵明詩の「贈長沙公」「酬丁柴桑」を清々しく黙読。
今朝は岩波文庫『日本唱歌集』の詞を読んでいた。玉石混淆ながら「文部省」が盛んに唱歌を学童に提供していた。いまの「文科省」でもそうだろうか、少なくも大人の耳にはまるで届いてこない。国策唱歌はいつの時代にもめいわくだが、時代の風尚をあらわしたいい唱歌を創作するのは、教育制度を無用に弄くりまわすよりも、優れた文教である。
2013 5・22 140

* 大相撲、大関稀勢の里が大関琴奨菊に完敗の瞬間、横綱白鵬優勝が決まり、白鵬は結びの一番に横綱日馬富士に完勝、全勝優勝を遂げた。よしよし。優勝回数25回、全勝優勝10回。真に、名横綱。大鵬、北の湖、千代の富士、貴乃花、朝青龍、そして白鵬という強い横綱たちの全部を観てきた。中でも名横綱とは、大鵬、千代の富士、そして白鵬。同時代を生きてきて、嬉しかった。

* 同時代を生きて嬉しかったのは、野球なら、王、野茂、イチロー。歌なら、断然、美空ひばり。
2013 5・26 140

* 京都の学友西村肇君から病気をいたわり励ます懇篤のながい手紙をもらって、ほろりとした。もう一度また弥栄校のみんなと会えるかも知れない、というほどの気力に立ち返りかけている。もう少しもう少し体力を付けないと。体重も今の辺りに落ち着かせないと。ずいぶん大勢にご心配をかけてきたらしく恐縮このうえ無い。
いま、手元に、気張って出向いてみたいがと思案している出先が、三、四もある。
明後日十五日の太左衛さんらの囃子物の会、十九日までの「橋本成敏作陶展」 二十三日までの画家畠中光享コレクション展、二十三日日曜の「芸術至上主義文芸学会」藤村に関する講演会。も一つ、二十日二時に梅若研能会で万三郎の能「遊行柳」がある。心惹かれる。
2013 6・13 141

* 眠れず、夜中二度起き、一度は二階にあがり五時ちかくまで機械の前にいた。起床8:30 血圧134-68(53) 血糖値88 体重66.8kg 生活を始めるとすぐ右眼視野の縦揺れ顕著。両眼視野にも弱く揺れが出る。 朝食 卵納豆 西瓜 服薬後午前中寝入る 昼食前血糖値101 海老チリ 串団子二本 ヤクルト 服薬 また数十分寝入る。
午後紀尾井町小ホールでの望月太左衛さん主催の唄と囃子の会に行きたかったのに、体力も根気も振るわなかった。 正常な左眼では薄い茶色にみえるものが右眼には青白っぽく見える。
体重を66キロ台に維持したいが、味覚の戻りにつれ、これまでの何とか食べようの姿勢がアダになりかねない。食欲が出ている。
とにかく今日の昼間はよく寝入った。寝れば確実に波状視はややおさまる。しかし寝てばかりはいられない。体力のために、たじろがずもっと戸外を歩くことも覚えねば。
2013 6・15 141

* 「死なれて 死なせて」を体験している人が、じわじわと数増して行く。指折り数え、暗澹。なかには自ら死んで行く人も。

* けさも、懐かしい死者達の呼びかける「オールド・ブラック・ジョー」を聴いて、呻いた。「蛍の光」をじっと聴いた。逝く者、留まる者の臨終の歌と聴いた。
2013 6・28 141

* 「頭を雲の上に出し 四方の山を見下ろして 雷様を下に聞く 富士は日本一の山」というのが好かなかった。富士山はそんなことを思っていない。ただ在る。そして高い。それが美しい。
「見よ東海の空明けて 旭日たかく輝けば 天地の生気溌剌と 希望は躍る大八洲 おお晴朗の朝雲に 聳ゆる富士の姿こそ 金甕無欠ゆるぎなき わが日本の誇りなれ」と称えられても、富士山はわれ関せずであったろう。
ああいう時代に戻りたくないが、さりとて昨日今日暴走登山の群衆にも頬笑んでしまう。
2013 7・2 142

* 小学校を出て敗戦後の新制中学に入学したのは昭和二十三年四月だった。新しいどの教科書にもわくわくした。初めて英語の教科書を手にした。「Jack and Betty」との初対面だった。いま語るのは、だが、それではない「音楽」の教科書だった。他の一曲も記憶にない、のに、「オールド・ブラック・ジョー」が英語の歌詞もともに載っていたのは覚えている。よく唱ったからではない、まるで唱わなかったし音楽の小堀八重子先生はこのフォスターの名曲といわれる教材をトバサレた。あの当時、それを何とも意識しなかった。年をとるにつれて、何故にあの歌を中学一年生に唱わせようとしたのか文部省の気が知れなくなっていった。
去年、いまもしばしば多くの歌を聴いている大きな「歌詞集」のなかで、ほんとうに久しぶりに、というより、事実上初めてこの曲を、山上路夫訳詞、宮本昭太の歌で聴いた。聴きながらわたしは泣いた。そして、怒った。

「オールド・ブラック・ジョー」
一、
若い日も夢と過ぎ
この身は悲しく老いた
友らが神のみもとで
やさしく呼んでいる
オールド・ブラック・ジョー
すぐに行くよ みんなのところ
もうじき会いにゆく
オールド・ブラック・ジョー

すぐに行くよ みんなのところ
もうじき会いにゆく
オールド・ブラック・ジョー

二、
悲しいことはない国
苦しいことがない国
静かに眠れる国で
やさしく呼んでいる
オールド・ブラック・ジョー
すぐに行くよ みんなのところ
もうじき会いにゆく
オールド・ブラック・ジョー

すぐに行くよ みんなのところ
もうじき会いにゆく
オールド・ブラック・ジョー

* 泣かされたのは当然すぎる、この三十年に、父たちも母たちも 叔母や伯父も 姉も兄たちも 彼も彼女も あの人もこの人も懐かしい人達が次々に亡くなっていった。
断っておくが、この歌の「老いた黒人ジョー」の歴史的背後には、アメリカでの、世界での、悲しい苦しい久しい黒人差別があった。今も有るであろう。
だが、この訳詞から、直ちにあの敗戦直後の日本の少年少女が、説明無しにそれが汲み取れたとは思わない。少年だったわたしは、何となく辛い気がして、この唱歌を歌おう覚えようとはしなかった。敬遠でなく、忌避した。同時にまた「わがこと」として受けとって泣きもしなかった。ほとんど誰にもまだ「死なれて」いなかった。「死なせて」もいなかった。

* そして、今、七十七の老人のわたくしが、上のような訳詞を通し、何としても聴かずに済まぬのは、何か。恰も(=決して事実ではないのだが、)懐かしい故人である血縁や知友が、みな声をそろえ、「静かに眠れる国・神の国」から、此のわたくしに向かい、早くおいで早くおいでと「やさしく呼んでいる」声、声なのだ。
そればかりではない、我とわが内心のさも願望かのように、「すぐに行くよ みんなのところ」へ、「もうじき会いにゆく」よと、繰り返し繰り返し呼びかけ答えているではないか。
わたしは、わたくしは、そんな「呼び声」を決して聴いていない。見守られているとは感じても、「はやくこっちへおいで」などと呼ぶような人達でないと、それを信じている。感じている。
おまえは黒人ではないのだからという理由付けは利くのだろう、が、また、この歌と歌詞とを、死者たちから生者たちへの「死への誘い」と聴く人、聴き取れる人は、日本人と限らず世界中にいるに違いない。
ああ何たること、こんな妙な歌を、感傷的な歌を、まだ「人生のとばぐち」にも立っていないローティーン中学生に唱わせようとした、あの当時日本の教科書編纂者たちに、わたしは、今さらに、怒りと疑問とを突きつけずにおれない。教科書のこの歌を一言もなく「パス」された音楽の先生に懐かしい親愛と敬意とを捧げたい。

* 「オールド・ブラック・ジョー」を聴いて泣かされたことは、否定できない。しかし「故人たち」「死んだ人たち」に呼ばれてはいない。そうは感じていない。
だがしかし「死」はいつも念頭にある。今に始まらない、幼稚園に上がるかどうかの年頃から念頭に在った。わたくし独りのことではないだろう。そして今、わたしは身に、胃全摘後の癌細胞をまだ抱いているかも知れない。それが無くてももとより「死」は身近な最大の主題である。
「死」「死者」「死骸」はまったく別の概念であり、さらに加えればわれわれの最大の主題は「死ぬ」ことにある。「死別」と言い替えることも出来る。更に更には、人にもよろう、「死後」を大きく問題視する向きもあるであろう。
いま、わたしが「死ぬ・死別」を意識するとき、あたかも私のための主題歌のように耳に聞こえ来るのは、次の歌、次の歌詞である。この歌、この歌詞をしみじみ聴くとき、わたしは愛する人達との「永訣のとき」をさながら予感し体験し実感する。むろん若かりしかつては、そんな思い、全く無かったのに、である。
わたしの人生は「読む」ことに始まり「書く」ことが加わった。一番の歌詞は、まことに私の生涯を言い表すであろう。

* 「蛍の光」
一、
ほたるの光 窓の雪
書(ふみ)よむ月日 重ねつつ
いつしか年も すぎ(=過ぎ・杉)の戸を
明けてぞ けさ(=いま)は 別れゆく(=逝く)

二、
とまる(=死なれる者)も行く(=死ぬ者)も (=今世の)限りとて
かたみ(=互い・形見)に思う ちよろず(=千・萬)の
心のはし(=一端・全部)を 一言に
さきく(=幸く・先久)と ばかり (互いに=)歌うなり

* 死ぬる日、愛する人達のこの歌声をまぼろしのように耳に聴きながら、逝きたい。

* まだまだ、しかし、生きのいのちを大切に、仕事したい。楽しみたい。
2013 7・10 142

* その一方で、「怨歌」歌手ともいわれた藤圭子の飛び降り自殺には暗然とする。歌も凄かった、凄いほど美貌だった、が、その凄みを背負うたように日本の国は急速に地獄道へ堕ちていったのだった。まだそこから立ち直れていないのに、安倍「違憲」政権は、狂ったように国民の奴隷化強権に酔いしれている。国民の最大不幸は、日ごとにますます暗いかげを深めている。
2013 8・22 143

* 転落自殺した藤圭子の生涯があらまし報じられていて、その美貌と個性的な歌唱を塗り込めていた何かしらが、暗澹とさせる。その切なさはひとごとではない。
かつて新宿の高層マンションに住んで小説を書いていた女性の未然作家と話す機会があった。わたしと同年輩に思われた。その人は、会話の合間合間に何度もくりかえして、「ちゃんとした育ち」「ちゃんとした生まれ」の自身を指さすように話し、わたしはウンザリした。「あなたの場合とはちがって」と念を押し続けられている気がした。ウンザリした。藤圭子はわたしなどの何十層倍ものウンザリ感をじっと抱いていたのではないか。
2013 8・23 143

* あすも同じ国立能楽堂での梅若橘香会。
万佐晴が三老女の大曲「姥捨」を舞い、棟梁の万三郎は舞囃子「木賊」。「姥捨」はしんどいので失敬し、期待の舞囃子と、狂言と、子役の頑張る賑やかな能「烏帽子折」まで観て帰ろうか、さて、身が保つかどうか。わたしの目のために、最前列の中央席をもらっていて、穴をあけては気の毒やし。
ちかぢか紀尾井町小ホールでは望月太左衛さんの会「鼓楽」もある。招待券を二枚もらっている。鳴り物ですかっとしたいが、行けるかな。
相次いで国立劇場では坂田藤十郎、中村翫雀らの通し狂言。これは必見。俳優座意欲の批評芝居も見逃せない。
相当な運動には成る、楽しみながら。
2013 11・3 145

* 太左衛さんの会に行きそびれた。天気のことも少しきがかりだったが、紀尾井小ホールの場所に自信もなかった、ずうっと以前に一度二ど行っている筈だが。一つには夜分へ向けて独りで出向くのも少し心配だった。
十一日の聖路加腫瘍内科へは、妻も、しばらくぶりに同行することに。
2013 11・6 145

* また倍賞千恵子の「かあさんの歌」を聴いている。何十度聴いても、わたしには世界一の歌唱に思われる。あらゆる感傷を超え、子を思う親とはまさにこうであり、親を思う娘(子)とはこうだとしか、わたしには想われない。とても想われない。 *
2013 12・12 146

* 小説に取り組み、そのあと倍賞千恵子の「母さんの歌」や岸洋子の「希望」ザ・ピーナツ「心の窓に灯を」芹洋子の「この広い野原いっぱい」ペギー葉山の「学生時代」などを聴いていた、目をとじて。さ、やすもう。
2013 12・14 146

* いま「学生時代」という歌が新しく唱われるとしたら、どんな歌詞や曲になり誰が歌うのだろう。ペギー葉山の「学生時代」はいまもときおりわたしは聴いているが、ちょっと若いなあと思う。わたしは、自分で思っていた以上に『みごもりの湖』という小説に自分の大学時代を反映させていたと気が付いている。わたしがもう肩に重みを感じていたのは、生まれ、死なれ、死なせ、死んで行くことであった。わたしの大学には神学部も神学館もありチャペルもあった。しかしその方角へ歩み寄ったことはなかった。わたしは「京都」に生まれて京都を通して日本の歴史や文化や民俗に心身を預けていた。あの小説のヒロインたち近江の五箇庄に育った菊子・槇子姉妹、また菊子の友の品部迪子や槇子の友の西池静子を通して、その体験を具象化しようとしていた。わたし自身の分身かのような作家幸田靖之はむしろものの蔭に引き沈むように身を置かせていた。ペギー葉山の歌声にもいくらか共感の懐かしさはもっているが、同志社大学に身を置いていたわたしの本当の教室は「京都という日本」であり過ぎること多く、そのためにつとめて柳田国男や折口信夫らの世界を意識しつつ覗き込もうとしていた。
文学的にいえば、大学に入った頃のわたしは、源氏物語、百人一首、平家物語、徒然草でがっちり下地を造られていて、その上へ谷崎潤一郎、夏目漱石、島崎藤村がドーンと乗っかった。小林秀雄らのいわゆる評論の方へは敢えて近づかず、それよりは西欧近代の大作名作を手の届くかぎり貪るように愛読した。歌集『少年』に結晶した短歌への愛すら大学時代には見捨てようとしていた。小説でなければ、満足しなかった。小説が書きたかった。
2013 12・20 146

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