ぜんぶ秦恒平文学の話

美術 2014年

 

* 明日は頑張って正午の松濤観世能楽堂、梅若万三郎の「翁」へ行きたい。東次郎の狂言と仕舞いとを観て、一気に浅草線地下鉄で日本橋高島屋での「星星会」四人画展に間に合いたいものと願っている、が、さ、それだけの移動に堪えられるかなあ。渋谷駅と松濤とはかなり往復歩かねばならない。
2014 1/12 147

* 副都心線で渋谷へ。観世能楽堂まで歩いて、開場の時間前を並んで待って。もう疲れていた。
研能会、梅若万三郎の「翁」は、立派に厳粛、しかもおおどかに明るく、めでたかった。脇正面の最後列、舞台最前部が真横から視野に確保できる席をとってみた。これは成功。面箱、荘重。千歳、凛乎。三番叟はやや期待に逸れたが。鼓頭取の幸清次郎、笛の一噌幸弘、上出来。祝ってもらったという祝福感をたっぷり浴び、それまでで、堀上さんらと新年の挨拶だけして、梅若夫人にも挨拶して松濤の能楽堂を辞してきた。駅の方へ歩き、すでに疲れていた。
上京した昔いらい馴染みの「まつ川」で、少しく鰻。菊正宗。これが身に堪えた。
浅草線で日本橋の高島屋へ。「星星会」展。竹内浩一、田淵澄夫、牧進ら実力派の四人展の解散記念に過去展の全作をならべていた。大作ぞろい。しかし、視力落ち、体力払底、しかとは鑑賞できないまま、のがれるように銀座一丁目まで車にのり、有楽町線で帰ってきた。当初の心づもりでは日本橋から浅草へ、仲見世を抜けて、ひさご通りの「米久」ですきやきか、言問通りの「山勢」で寿司をと楽しみにしていたのだが、それぐらいは気も体も保つとたかをくくっていたが、とてもムリだった。
帰宅後も茫然として九時前までテレビを観ていた。

* 復調まだこんなものかと落胆した。これでは新幹線にはまだ乗れそうにない。
2014 1・13 147

* 居間の軸を、ビュフェの「薔薇」の額にかえ、真下に夢前窯の原田さんに戴いた金銀彩の大壺( 夫婦の骨壺にと創ってもらった)を据えた。
霜雪もいまだ過ぎねば思はぬに
春日の里に梅の花見つ
日比野光鳳のかな書きを添えて上村淳之の花鳥「早春」が目の前に架かっている。大雪のあとの日射し明るいが、道路はまだ夜来の雪を積んでいる。かなり寒い。都知事選に出かける。
2014 2・9 148

* 櫻より菊より梅よりも、わたしはわが家での椿の季節を喜び迎えているようだ。その椿が雪で枝折れしていた。沢山な莟をもち幾つかは赤も白も豪華に咲いていたのを妻はいくつにも分けて家の内を飾っている。花のある家が好きだ。
椿の和歌は、だが古今集以降には少ないと感じている。
わたしの目の上には井泉水さんに頂戴した「風 花」の二字額が掛けてある。受賞の翌年から雑誌「春秋」に二年間「花と風」を連載していた最中、「愛読者」として突如届けられた贈り物。『花と風』はわたしのエッセイ本の処女作となった。
和歌での「花」と「風」の仲佳さは云うまでもなく、花の大方は櫻だが薫りよい梅も風との佳いつれあいになっている。
「春風夜芳」といふこころを詠んだ後拾遺和歌集春の、
むめの花かばかり匂ふ春の夜の
やみは風こそうれしかりけれ  藤原顕綱朝臣
では風は「香」をさそっているが、櫻になると「散る」「散らす」のを嘆かせている。
櫻花さかばちりなむとおもふより
かねても風のいとはしき哉   永源法師
なまぐさい下手な歌であり、多くの家人達は、とはいえ花は散ればこそ美しくいとおしいことを風に教わっていたのだ。花を散らして新たな命をまた迎えさせるのが「風」のしごとと人はよく知っていた。散らない花はよごれてゆく。惜しみつつも花は散りゆくとあきらめていた、人は。そしてまた来る春を待ちこがれた。
春のうちはちらぬ櫻とみてしがな
さてもや風のうしろめたきに  右大弁通俊

* 「花と風」との和歌を拾い溜めてみたくなった。
2014 3・2 149

* 終日何をしていたやら。現実今日の政治その他への耐え難い疎ましさを堪えて、堪え通すためには、夢路をたどって他界へ心身を隠したくなる。
美しい物が観たい。手近に出逢える物は詩や和歌やすぐれた小説作品が汚れた鱗を洗い流してくれる。美術も、写真ではやはり物足りない。かといって街へ出れば一級の美術に簡単に出逢えるわけでない、どうしても博物館や一流の美術館に脚を運ばないと。
久しく上野の博物館にも根津や出光にも行けてない。
家の古美術を箱から出して手に取りたいと思うが、あまりに家の中が殺風景で遠慮してしまう。
2014 3・9 149

* 西銀座新橋寄りのアートセンターで妻の従妹が出展している画会を覗いてきた。小林忠という画家の「或る廃屋」が断然画境を安定させ確立していた。画家の思いが深かった。
帝国ホテルに寄って、「北京」で遅い昼食、総じて品良くあっさり味なのが、いまのわたしは淡泊なと感じてしまう。甕出しの紹興酒が美味かった。
2014 3・10 149

* いましがた「お宝鑑定団」では白鳥映雪の美人画、三宅克己の水彩画、石黒宗麿の作陶など、超絶とはいわないが心を洗うに足る名品がみられた。名品には深い「思ひ」を燃やすに足る活気と生彩とがある。「おもひ」という日本語は、古典の世界では、つねに燃ゆる「火」が感触されている。真摯に「おもひ」を深く燃やすことのできる「人、物、事」こそ生きる宝なのである。
2014 3・16 149

* 十一時になる。音楽を聴いている。だれのピアノ曲かわからない。いろいろと相次いで歌曲が来たり演奏が来たり突如として歌謡曲も来る。わたしにはもそれでよい。音楽はだいたい聞き流している。批評もできないしふかい鑑賞もできない。それだからむしろ理屈抜きに楽しめる。いまは、シューマンの歌曲らしきを美声の女性が唱ってくれている。
文学は機械でも読める。音にうるさくし構わなければあらゆる種類の音楽も機械で楽しめる。クラシックもジャズもアリアや歌曲も唱歌もわたしの機械にはこの十余年のうちにたくさん録音されていて、好き放題に思い屈したり疲れたりしたときには聴いている。
その点、絵画などの美術は、写真の限界に厳しく制約されるので、ま、こんなものという程度にしか楽しめないけれど、それでも目に入る作は、どのジャンルでも写真として機械に取り込んでいる。佳い書をもっと溜め込みたいと欲張っている。食べるご馳走、呑むご馳走よりも、健康のためにすばらしく良い。
2014 3・19 149

* 応挙という画家はわたしが敬愛する何人かのなかでランクの高いひとりである。ことに、「雪松図」に胸打たれたのを快く強く自覚してきた。
もともと「松」という樹木が、杉、檜、樅などより好きで、当代最高水準の若い女優「松たか子」が贔屓なのも、実力によるのはむろんだが、端的な「松」という名乗りを、よそながら気持ちよく愛している。彼女の舞台で失望を覚えたということが絶えて無い。希有なことである。
それは、ま、よそごとであり応挙の「雪松図」にもどってあれこれ思うとき、「松風」とは耳にも目にもする言葉だし、「雪月花」という取り合わせも、幼くから馴染んだ茶の湯の場では耳にタコほどのいわば三幅対にされている。現に叔母から伝えもつ軸物で、小堀宗中筆になる「花」「月」「雪」の簡明かつ瀟洒な三幅を愛蔵している。都ホテルでの茶会で「花」の軸をかけたこともある。あの会では、そうそう、若き日の淡々斎が「好み」の美しい松を描いた「末広棗」を茶器に用いた、あの棗は叔母もわたしも大好きだったが、松本幸四郎のお祝いに、よろこんで呈上した。これま、本題を逸れたが、「松と鶴」「松と旭」などは蓬莱山の代役をするぐらいで、元日には決まってわが家の玄関を飾る秋石画の「蓬莱図」、それはが見事な巨松に鶴と旭とを配している。
まわりくどいが、つまりは「松と雪」という組み合わせは、応挙の素晴らしい大作以前には、あまり観た記憶がない、ということ。
ところが、かねがね愛読中の『十訓抄』で、「松の貞節」という一節にひょいと出逢った。秦始皇帝が幸い松を頼んで「雨宿り」できた礼に、松に酬いて「松爵」の称と位階(五位)とを贈った逸話も、そういえば『十訓抄』の早いところで読んでいた。
で、この古典の筆者は「松の貞節」をどう書いているか、長くはない、すこし約して書き写してみる。

そもそも松を貞木といふことは、まさしく人のために、かの木の貞心あるにあらず、
雪霜のはげしきにも、色あらたまらず、いつとなく緑なれば、これを貞心にくらぶるなり。
勁松は年の寒きにあらはれ
と古人が書ける、そのこころなり

圓山応挙がこんなことを識っていたかどうか、しかし同様の感懐はきっと持ち合わせていた、だからあんな見事な「雪松図」が成ったのにちがいない。いずれこの辺の感興をわたしも創作の中で趣向に用いているのを明かすだろう。永井荷風は「 東綺譚」の女に「雪子」となづけ、谷崎潤一郎もまた「細雪」のヒロインを「雪子」と呼んで愛していた。しぜん「松・勁松」は男をあらわすだろう。 2014 3・30 149

* 能美の井口さんから懇篤のお手紙に添えて、此度選集の「発行者」に印稿を添えた「秦建日子」「建」の印を、私に吊って飾れる「秦恒平選集」の刻板二種ならびに、用意して頂いていた各刻字五印を、頂戴した。布装そのままの色板に置かれた金の五字が映え映えと美しく、柱に掛けている。やす香の写真と御舟画の牡丹にはさまれ、さらに奥に谷崎潤一郎の筆になる「鴛鴦夢圓」のめずらかな揮毫が一連を成してダイニングを飾っている。井口さん、有り難う存じます。お誕生日の御健勝を心より嬉しくお祝い申します。

☆ 五月八日、八十二歳になりました。
この誕生日に、いい思いをさせていただいたことを、しみじみと感じています。
連休中に集ってきた子や孫たちに、あの本を見せびらかして、得意になっています。
さて、過日表紙の見本を見せていただいた時、仕上りがとてもきれいにできていましたので、強くは申しあげませんでしたが、あれは「印稿」のつもりだったのです。あの字を印字して、篆刻に仕上げればと思っていたのです。お電話でそのことを申しあげたのですが、そのご依頼もなく、そのままの方がいいように思い、結果をお待ちしていました。
実は、『選集』のあとがきーー「創刊に際して」を拝見しましたところ「刻字を表題に頂戴した」とありましたので、動揺しました。そこで刻字がなければならない思い創った次第です。字体は、印稿よりやや太めになっていますが、木が損いやすいのでーー技術が至らないせいもあります。
表題のご依頼があった時(案として)お示ししたのは、篆刻によるものです。いつでも応じられるように石を準備していたのですが、前述のように、「見本」の出来がよかったので、折角材料もあるし、印稿も認めてもらったので、自分なりの記念に、彫ってみました。
額は、以前に短冊用に作ったのですが、計算違いで寸足らずになってしまったのを利用しました(ありもので失礼ですが)。ガラスまで取りはずせば、「刻字」の方も入れることができます。拙い作を飾ってくれと申しあげているわけではありません。決して私の遊びに入ってくださいと申しあげるつもりもありませんので、そこをご理解ください。
同封のハンコ二顆は、発行者へのごあいさつです。建日子さんには、ハンコの趣味はないかみ知れませんし、あくまでも、私の一方的な押しつけなので、私の気持だけお受取りくださって、適当に処置してくださるようにお伝えください。
当分このいい気分が続きそうです。本当にありがとうございました。どうぞ巻が重なること、お体お大切にとお祈りしています。
奥様、御子息様に、よろしくお伝えください。
五月八日     井口哲郎
秦恒平様

* わたくしが、いかに果報者であるかを、だれもだれもが分かって下さるだろう、心底、ご芳情に御礼申し上げ、数々のご無礼をお詫び申し上げます。
わたしはまだ手先がしびれて震えているので、まして、たださえ昔からハンコを捺すのが下手であったので、実は「印稿」を有難く使わせて頂いた。「印稿」は理想的に印影が仕上がっている。わたしが不出来な私用の印肉を用いてあり合わせの紙に捺してでは、作の出来をずれたり揺れたり損ねてしまう。また印刷所の人たちにいいように捺して下さいとは言いたくなくて、美しい「印稿」に感謝してこのように製版をと依頼した。結果的には大成功であった。その上に、今日のような品品にして頂戴できたというのは、冥加に過ぎる嬉しいことであった。井口さん、有り難うございました。『秦恒平選集」の「短冊額」、それは映え映えと私達の身近か間近かに輝いています。それも、いつかは建日子に預けて後事を託し得ればと願っています。
2014 5・9 151

* 想えば菖蒲の季節。光琳の「杜若図屏風」が根津美術館に出ているだろう。
2014 6・13 152

* ロスの池宮さん、伊勢崎の杉原君から、手紙。
池宮さん、八十三になったと。まだまだ元気に、お姉さん夫妻の分も、ご主人の分も長生きして欲しい。
杉原君、いまはウツの時期か。手紙の文言はしっかりしていて、描けない描けないと歎いているけれど、書字もシッカリしている。泣き言は幾ら言っても構わない、泣きの涙ながらも立ち向かって佳い繪を描いて欲しい。いま、彼から買い取った「黄の薔薇」の群れ咲きの繪を玄関に懸けている。力に溢れた魅力の制作で、胸を張っていいのだ。かなり劇症の躁鬱症だが、病気はいわば賜り物に過ぎない。つらければつらいと言って立ち向かえと励ましたい。
2014 6・21 152

* しきりに日本の上代美術が観たい。さもなければ東洋の陶磁器やインドの仏頭。疲れそうなのを厭うて東博に入ることも遠のいているが、いまは西洋美術館の多彩な歴史よりも、静かな日本の古仏像や古仏画が観たい。問題は、視力だが。
むかし京都博物館で動けなくなった如拙の「瓢鮎(鯰)図」や知恩院の「早来迎」などにもまた逢いたい。しきりにしきりに美しいものに逢いたい。

* いま嫌いでならないもの。昨今の中国。安倍「違憲」内閣と自民党。吐いて捨てたいほど。
2014 6・22 152

* 染織の志村ふくみさんの糸染め糸織り世界観のみごとさに朝一番に感嘆。みごとな作品世界の新鮮で宏遠なこと、目を吸い取られたかのように見入っていた。自然の情を人が静かに深く探り当てて白絹糸に染めそして織り上げて行く優美さと毅然とした共感の確かさ。すばらしい日本。すばらしい日本の自然。だいじにだいじにしたい。
2014 6・29 152

* 京岡崎の星野画廊から届いた目録「滞欧作品」は充実の蒐集に深切な開設とデータの添ったもの、生ける美術史の感を楽しませて貰った。近代日本画からの苦渋と歓喜とで生み出された謂わば報告書であり、作の出来不出来や刻印された時代性を突き抜いた質感豊かな具体的な証言集でもある。今日の眼でみても灼光のちからを感じさせる新鮮な作も数点まじっていて、思わず注文しかねなかったが、いやいや今は「選集」の刊行に手も資金もかけなくてはと踏みとどまった。

* 「原稿・雲居寺跡」を四百字用紙で36枚書き写したが、先はまだ遠そう。咲きに何事がどのように書かれていたのか、まだ思い起こせない。場所は今はまさしく雲居寺の山居で、人はと言うと、物語っている「兵衛」、「師の御房」、その縁者である「茅野どの」という娘、それに「源宰相様」と呼ばれている当人かその子息であるかの「経資」。名前だけならもう二三表れていて、そのうちに粟田の僧正様と呼ばれている「慈円」がある。泉涌寺の名も出ていて、およそどういう世間であるかはわたしには見当がつく、けれど、物語の中味も行方もまだ見えない。この世界へは、二十世紀末の「わたくし」が、タイムスリップし「兵衛」という青年に身をかえてて鎌倉時代に紛れ込んでいる。
1966年頃の文壇に、「タイムスリップ」といった怪奇な(太宰賞選者の言葉)小説世界は、地を払ってほぼ皆無と謂えたのである。おうおう、いまでこそはまるで氾濫の気味であるが。この手法は、すくなくも「清経入水」以降当分のあいだ、わたくし秦恒平の専売の手法だった。ひとは多くゆびさして「幻想」と謂いもし評もしたが、さ、どんなものであったろう。

* 九時だが、目はまったく霞んでいる。もう機械から離れ、階下で可能なら「風の奏で」を校正し、何冊か読書し、休むとしよう。 2014 7・3 153

☆ 暑中お見舞い申し上げます。
過日は 「湖の本」 120  「櫻の時代」 の御恵投にあずかり、ありがとうございました。
幾つもの新聞御連載は、ほとんど拝読しておりませず、楽しみです。
「私語の刻」を拝読しますと、観世能楽堂や国技館などへお越しになつておられるよし、ご健康大慶に存じます。
先頃、館蔵の古い狂言絵を影印本として刊行いたしましたので、お送り申し上げます。能狂言には暗い私ですが、専門家の言によると、貴重な資料のようです。楽しみいただければ幸いです。
暑くかつ不規則な気候の時節、何とぞご自愛ください。
御礼かたがた一言申し上げます。 敬具
七月十日
秦恒平先生         国文学研究資料館(館長)  今西祐一郎

* 館の影印叢書、これまでもいつも頂戴してきた。今回はその「6」にあたり、函入り大判『狂言繪 彩色やまと繪』と題されてある。
今西さんの序を読むと、この館の二代館長が小山弘志さん、三代目が佐竹昭広さんだったと思い出せる。小山さんとは能楽堂での顔なじみで『湖の本』を購読もして下さっていた。偉い先生だが「仲良し」というほどの親しさでいつもお目にかかっていた。初対面は館の招待で講演に出向いたあとの会食だった。そのときお呼び戴いた初代館長さんは、たしか同じ保谷の泉町にお住まいだった碩学小西先生であった。佐竹さんとは岩波書店の「文学」で、亡き恩師岡見正雄先生と三人で「洛中洛外図」をめぐる鼎談でお目にかかっている。そして今西さんとは、おもえば久しい、九大助教授教授時代を通しての有り難い先生であり読者でもあって頂いた。今西さんに戴いてきた貴重な研究書や論攷は数え切れない。あらためて、こころより御礼申し上げます。
で、その影印本ですが。いやもう、涎の垂れるような貴重な繪と解説とデータに満たされていて、頁を繰りながら唸っている。近所で狂言の稽古をし舞台にも立つ趣味人堀上謙さんが観れば嘆声を漏らすだろう。勉誠出版が制作している。
2014 7・11 153

* 今夜の鑑定団には佳い物が出そろって楽しめた。美術品には多方面への展開があるものの美しい、貴いという求心力があり、真実楽しめる嬉しさがある。こういう嬉しさを奪われてしまったら生き甲斐の多くを見失うだろう。
2014 7・15 153

* 備前焼 伊部の川井明子さん明美さん連名で、窯だしや横浜で個展の案内がきた。「又、お会いしたいです。暑さ厳しい折柄、ご自愛下さいませ」と。りっぱに出来た大壺を玄関に飾っている。横浜の個展へも一度出かけた。備前らしい焼きの美しい花筒や瓶が忘れられない。いまは息子が持ち帰って愛している。
2014 7・24 153

* 当代樂吉左衛門さんから、九月下旬の『(萩)新兵衛の樂 (樂)吉左衛門の萩』展 開会宴へご招待がいつものように届いた。琵琶湖畔の佐川美術館である。萩の新兵衛は好きで、いい茶碗、いい酒杯を愛蔵し愛用している。行きたいなあと嘆声が洩れるが、さ、行けるだろうか、琵琶湖まで行けば京都へも帰りたい。
2014 8・25 154

* 昨日、京都の漆藝家望月重延さんに贈って頂いた塗り盃一対をしみじみと眺めている。、「 の薄板をテープ状にして巻き上げ作った盃」と。器体は見込み漆黒、外を、やや大きい方は金と緑の、やや小さいほうは花やいだ朱で、細く巻き締めてある。指先にふれるその華奢な「たが」の感触が持った安定感にもなっていて、美しい。ありがとう存じます。薄紙に挟むように二つが重ね合わさって素朴な筺に入って届いた。
昨日の夜は体調がよくなくて、この盃で呑めなかった。今夜はと楽しみに。
2014 9・18 155

* お寶鑑定団に寛永三筆の筆頭、近衛三貘院信伊の真筆書簡が出てきて感動した。
2014 9・23 155

* 「墨牡丹」 もう八、九頁で読み終える。
わたしは、こと文学・藝術・創作に関わっての遺書を書く必要がない。「妻に」デティケートしたこの「墨牡丹」こそ作家秦恒平の遺書に相当することを此処に明記しておく。後の人は、成ろうならわたしの作品を読みまた村上華岳のいい画集を手にして彼の作品を敬愛して欲しい。
2014 9・26 155

* 京都からは十二月に美学藝術學學会の知らせ。円山応挙の「保津川図屏風」や写生図巻を特別に観られるともある、が、行けそうな気がしない。京都へは是が非でも行かねばならない取材の用もあるのだが。黒いマゴをおいて家を留守には出来ない、したくない。 2014 10・4 156

* 「湖の本」で、わたしはまだ「美術」や「美術家」に多く触れていない。近代以前の美術史や画家たちには、古代や中世を語るに連れて取り纏めては来たけれど、近代現代には、まだ。一つには書いてきた、語ってきた量が多いのと、写真を取り扱うか割愛するかに迷うのである。いまも「画家たち」そして「美術を語る」二巻分を想定してみた、が、論攷も随想も対談、講演もたくさん積まれている。執着するのではないが、はっきり、わたしの「仕事」に成っていて、放っては置けない。紙質の劣化していく初出資料をなんとかして早く電子化データにしておきたい、が、時間がない。あいかわらず妻の手を借りている。昔々は原稿の清書でさんざ苦労を掛け、今はもの凄い量の原稿の各種電子化を頼み続けている。申し訳ない、ありがとう。
こんな、ものすごいような晩年を迎えるとは思わなかった。退屈な日々が来るのだろうかと想っていた。もう七十九に手が届いているが、現況、退屈どころか働き盛りの昔と同じに沢山な仕事を二人三脚で一心に手がけている。いいことか、よくないのか、そんな斟酌は棄てている。
2014 10・14 156

* 今日、聖路加での諸検査異常なく、早く終えた。検査データの出るのに一時間はかかる。それからまだ待って待って診察になる。その待ち時間を利して、「選集④」の「廬山」「青井戸」を初校し終え、さらに「閨秀」へも読み進めた。機械に向かうよりはゲラを読む方が眼は、ラクです。
それでもいつもより早めに診察を終えた。処方薬も築地の薬局で手に入れ、たいした雨でもなかったので、銀座西五番街での当代楽吉左衛門子息の石材による造形展を見てきた。新婚の夫人とも初対面。いろいろと創作上のことなど教わってきた。
近くの三笠会館で遅い昼食。食べ物は極度に少なくし、美味い紹興酒を二合。これは、しかし、効き過ぎた。銀座から池袋へ地下鉄に乗ったが、はっと目が覚めると「銀座駅」、ただし方角が逆様の新宿中野行き。いささか胸をしめつける感じが苦しかった。
幸い、地下鉄でも西武でも、いつでも、席を譲ってくださる方が十度に八度はあり有り難い。しかし、よほどひ弱に見えるのだろう、宜しくないことだ。幸いに小雨ながらタクシーが早く来てくれて無事帰宅した。
2014 10・15 156

* 奈良菖蒲池の中野美術館が所蔵品選集を戴いた。鐵斎、栖鳳、麦僊、竹喬、とりわけ華岳、波光をよく多く揃えているほか、洋画にも、版画にも、彫刻にもよく行き届いていて、気品溢れる美術館である。前の館長が専攻の先輩で「対談」したことがある。今の館長はご子息。一度、妻と訪れたことがある。近くに松伯美術館ほか佳い美術館や古寺がある。また行きたいもの。
2014 10・30 156

* 樂の当代吉左衛門さん、萩の当代新兵衛さんとの茶碗競艶、豪華な展覧会図録を送ってこられた。子息の雅臣くんも展覧会を終えた礼状が来た。
2014 11・7 157

* 樂と萩、吉左衛門と新兵衛との茶碗などの競作、図録の大きな写真でみるだけで胸の沸き立つ嬉しさがある。琵琶湖畔の佐川美術館だ、まだ会期がある、お出でを待つと樂さん再度のお誘いがある。とてもとても、行きたい。京都まで行けば、あるいは米原まで行けば、タクシーに乗れるのでは。だが片道では困る。帰ってこなくてはならない。黒いマゴのために、妻はちょっと身動き成らないのである。こんなとき、娘朝日子がむかしのままの正気でいてくれたならと「成らんバナシ」につい沈み込む。
朝日子との旅というと、雑誌「ミマン」だったか「ハイミセス」だったかが企画の旅に朝日子が嬉々として同行、松山や鞆や柳井や厳島を編集者・カメラマンたちと楽しく巡った瀬戸内の旅を思い出す。それはもはや一場の過去の夢でしかなくなったが、実はもう一つ、瀬戸内に焦がれる思いが有る。テレビで瀬戸内海を渡す「しまなみ」(間違いかも)とかを楽しそうに写していた、あそこを、あの大橋をどうしても渡ってみたい。これは、いま書いている小説のため。だが、京都へよりも倍ほど遠いか。志賀直哉の暮らしていた尾道辺まで行って車を雇うしかないだろう。先日玄関まで見えた愛媛の読者が、中国側まで車で迎えに行きますよと切言されてはいたが、人様を煩わすのは好みでなく、寂しいほどひとりで海や島を見たいのでもある。
それにつけ、妙なことを思い出すが、いまも歌舞伎座で活躍しわたしもとても贔屓にしている市川團蔵という役者、あの歌舞伎味豊かな当代團蔵より、もう何代か前の團蔵が、瀬戸内を船旅の途中、忽然と船上から姿を消してしまい、ついに見つからなかった事件がわたしのあたまの奥の奥の方に、忘れがたくのこっている。瀬戸内海というと、わたしは古の源平相闘った史事以上に、あの「團蔵」瀬戸内での静寂な失踪を想うのである。あの事件は、わたしが「清経入水」を書いたより以後のことであったろう、だか、ハキとは覚えない。わたしの中で清経と團蔵とは切れ離れている。
2014 11・8 157

* 暗くなっての力仕事だったが、玄関に積んだ荷を西棟に運び入れた。せめて玄関だけは正月らしくと。蓬莱山の繪軸を掛けて備前の大壺をその前に、脇に花を、と。茶の間が収拾もつかずモノに溢れ、雑煮を祝うわれわれの場所があるかどうかも危うい。
西へ運び入れたついでに、紅書房で出した『美の回廊』を一冊こっちへ運んだ。選集⑥に使いたい淺井忠の繪が手で居る。
2014 12・25 158

* 小説世界に心身を浸して今日も過ごしている。疲れると、目先を変えて「繪」を語ったエッセイを次々に読んでいる、目がきかなくなるといつしか居眠りへ沈み込んで行く。なんと穏やかに心ゆくとしのせであることか。
正月のお飾りをこっちの玄関外にも、西の玄関外にももう飾った。あちこち干支の午たちにもお休み願って、未さんたちをお迎えする。繪も、あちこち、新しく掛け替えてみよう、玄関はやはり蓬莱山の長軸が佳いだろう。松篁さんの鷺のうつくしい「ゆき」をわきへ並べてみようか。ものでひっくりかえっているけれど、せめて雑煮を祝う間はめでたい掛け物を掛けようか。
2014 12・28 158

* 「繪畫」を、しきりに思っている。考えている。わたしの生涯で、「繪畫」を含む美術は、文学と併走して終始不可欠な友であった。文学の品評や選考に当たったことはないが、陶藝や美術の選者を四半世紀も続けてきた。美術・美学・美意識に触れた著述も「多い」とさえ言える。
残念なことに、いま、美術館へ入れる体力を喪っているが、先日もミレーらを見てきて疲れに参ったが、静かに時を過ごしたいとき、心底願うのは東京なら上野の、京都なら七条の博物館だ。多くを、豊かな多くをわたしは、美術工藝に恵まれてきた。いましみじみとそれを懐かしんでいる。
2014 12・29 158

* 何十年も、暮れになると、蛤と雑煮の京白みそを買いに池袋へ出るのがわたしの仕事だった。ことしは、それから初めて解放された。いかに心のどかな暮れかと感謝している。なんとか茶の間も大方片付けて恰好をつけた。玄関には花もいけられ、「蓬莱山」の掛け物も、干支飾りもできた。あとは茶の間に何を掛けるか。
2014 12・31 158

* 夜十一時。今晩も、湖の本123 入稿原稿を編輯・編成していた。ほかにも、いろんなことを。
例年 壽 の題字を「たま」で囲った横ものの軸をかけてきたが、この新春のために幕末の岸連山描く「富士と三保松原」横ものの大軸を居間正面に掛け、脇へ、構わず、昨日まで正面にかけていた、ビュフェの「薔薇」リトグラフを移した。なかなか、似合っている。
玄関の、秋石手だれの「蓬莱山」長軸にも、あえて美しい瓶花を描いた額をはんなり並べてみた。これも気持ちよく似合っている。   家中に、真新しいカレンダーが幾つも。新しい凸版印刷の大カレンダーは安田靫彦集。この機械のすぐ上には「万葉に遊ぶ」上村敦之と十二人の書家の競艶。北川美術館の「壺」特輯も井上隆雄さんの藝術的な風景写真集も、市川染五郎君の気の入った舞台写真集も。
2014 12・31 158

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