ぜんぶ秦恒平文学の話

舞台・演劇 2014年

 

* 午後、文化村コクーンで松たか子らの音楽劇「もっと泣いてよフラッパー」を観てきた。松たか子のしなやかな自在演戯、ダンスの巧さ、歌唱の優しさに十二分に満足してきた。天成の俳優と謂うを疑わない。舞台そのものが絶妙なのでも、何でもない。題がしめすような表白の女達の或るあわれは浸透してくるが、さりとて感動の演劇とは感じないし、オーラの立たない演技陣ではあったけれど、松たか子のミラクルなほどの輝きには胸をつかまれた。
思い返せば彼女の芝居をこの十年ほどに何度も何度も観てきたが、一度としてわたしを落胆させたことがない。

* 東急八階の「揚州飯店」で、しっかり夕食してきた。うまい紹興酒を出してくれた、妻も初めておいしいと褒めた。料理はたっぷり有り、黒いマゴにもいくつも土産ができたほど。ほかに最後の炒飯は、土産にして貰った。
渋谷へは保谷から副都心線の急行をつかえば、あっという間に着く。ただし渋谷地駅下はややこしい。今年は新年の松濤能楽堂の「翁」についで今日文化村の松たか子と、渋谷へは二度目。帰りも急行快速でまっすぐ帰ってきた。

* 悪玉コレステロールの退治にいいと聴いて、このところ夫婦して赤いワインを日に一杯ずつ薬のように呑んでいる。保谷駅構内にワインの専門店があり、店員に教えられて二種類二本買って帰った。
なだめつすかしつ毎度のように二人がかりで黒いマゴに、輸液。
今日は、午後からは休息の日になった。いま、機械の視野が明るい。
2014 2/13 148

* 今週はここ数日雨もよいらしいが、週末には晴れて「選集①」が出来てくる。次いで日曜に「今藤会」で一日唄と音曲を聴き、高麗屋父子と病癒えた三津五郎の踊りも楽しんでくる。帰りに麹町でまた中華料理、というよりさっぱりと蕎麦など食べて帰れるかどうか。月曜には歯医者で新しい差し歯が入る。
わたしにゴールデンウイークは何の関係も無いが、月替わりの一日、建日子が帰って来ると予告有り。「選集①」刊行を喜んで祝ってくれると嬉しい。八日まで何のアテもなく、八日夜明治座の染五郎「伊達の十役」以降になると、わたしも妻も病院通いが毎日のように続く。十五日には俳優座公演に招かれている。劇壇昴も「リア王」という佳い公演の案内を呉れている。
2014 4・20 150

* 柳君がこの連休にも新築の自宅を見に来てくれ迎えに行くと言ってきていたが、なにとなく流れていた。
明日にはわたしはまた歯医者に急行しなくては。そして八日は明治座で久しぶりに染五郎奮励の「伊達の十役」を見に行く、週明けは月火水と医療の日がつづいて木曜には俳優座公演に久々に招かれて行く。五月の後半はカレンダーが白い。そろそろ旅に出られないモノか。
2014 5・6 151

* 明朝、病院で妻が退院前に、主治医の検査結果説明を聴く。
水曜日は、午後のおそめに聖路加の眼科へ。いろいろ検査があるらしいが、何のためやら、何ともワケが分からない。
木曜日は、俳優座公演に。久しぶり。来月は劇団昴の「リア王」が楽しみ。
金曜日十六日夕方には、歯医者。歯は、疲れも加わってアッチもコッチも不調。「ネバー エンディングですねえ」と女医さん。やれやれ。
2014 5・12 151

* さて、明日は、席によっては舞台が見えない、紀伊国屋ホールでの俳優座公演。いい舞台が観たい。
2014 5・14 151

* 新宿紀伊国屋ホールで俳優座公演「七人の墓友」を観てきた。いい入りで笑いもたくさん取っていた。老若男女の七人が死後の共同墓をある寺地のうちに手に入れ、生き残ったものらが墓参を欠かさず、いずれは底の墓へ入って、みんなで仲よくあの世の暮らしを楽しみましょうと。その主筋にある一家の両親夫婦を芯にしたいろんな紛糾が絡まる。
なににしても『死なれて死なせて』の著者には、死生を問うには「軽薄な遊び半分の思いつき芝居」と見えて、感心は出来なかった。
歌人大塚陽子に、
眺めよき場所に席とり待つと言ひき遊びのごとく死をば語りき
という一首がある。
この歌は、けっして「遊びのごとく死をば語」っていた日を、懐かしんで肯定しているのではない。痛哭の思い出なのだ、「死なれる」厳しさに「死なせる」悔いすら加わっている。
「墓友はかとも」などといった当世風の軽口で済ませるには、よく生きることも、死に・死なれ・死なせることも、底知れぬ重みとともに生者をも死者をも烈しく深く襲う。
いやいや死生の問題は徹頭徹尾「生者」こそが負うた課題なのであり、「死者」に死後など在るわけがない。死後は、死なれ死なせた生者の思いに巣くう幻想である。そうと分かっていて、それでもそうは思い切れない、のも「生者」なのである。
そんな生者懸命の畏れや悲しみや重い負担のまえでは、「墓友」発想はいかにも安直。軽薄。テレビのコマーシャルのように軽々しく薄っぺらい。そのためか、京のお芝居、真率な演劇というよりも、舞台そのものが、そのまま軽いホームドラマのテレビ画面そっくりに見えて仕方なかった。
俳優座の新劇も、こんなところでうろうろしているのかと、ビックリしてしまった。

* せっかく新宿へ出てきたのだから、と、上京した新婚の昔懐かしさの残る伊勢丹に入って、七階の「南国酒家」で、幸いに佳いメニュの中華料理をこの頃としては上出来の美味しさで食べてきた。甕出しの紹興酒も美味かった。芝居のアトに妻と食事して観てきた芝居を話し合うのはもう久しい久しい習い。
2014 5・15 151

* 発送用意は着々進んでいる。明日は歯医者に。来週は早々に歌舞伎座を楽しみ、木曜には劇団昴の「リア王」を期待している。そして金曜午後には久しぶり聖路加腫瘍内科の診察を受けてくる。桜桃忌も来る。日帰りでいいからちょっと遠出などもしてみたい。妻と行った亀戸天神境内の和食の料亭などどうか、藤には遅れてしまったが。いやいや、眼鏡をさらに新調したいとも願っている。
2014 6・5 152

* あすは期待の劇団「昴」公演「リア王」。雨がひどくなければよいが。往きのバス停までさえ穏やかなら、あとは電車で劇場の下へまで行ける。福田恆存さんの全集、翻訳全集で、戯曲の巻を戴いていた。シェイクスピアをみな読み直してみたくなった。明日、その思いを力づけられてきたい。                 2014 6・11 152

* 「湖の本120」を責了で送った。入れ替わりに「選集②」の半分量、初校ゲラが届いた。露のさなかだが、夏の陣、もう始まった。気負いなく、シッカリ仕事したい。
だが、さしあたり午後は「リア王」を観に行く。福田恆存翻訳全集」第七巻の帯背に、「トルストイには『リア王』が観えなかった。」と書かれてある。福田先生の論を、観てきたあとでぜひ読み返したい。

訂正前
* 劇団「昴」公演(アウルスポット)の「リア王」を観てきた。おまけに終演後の劇団員の座談を聴いてきたが、これは全くムダであった。「リア」上演に際してシェイクスピアの読み込みにどんな苦心や工夫や発見や課題が感じられたか、そういうことを演出家や俳優に聴きたかったが、すべて無用の漫談に終始して、劇場に居残っている観客に質問一つもさせずに終えた。もし、質問が許されたらわたしは、この劇の翻訳者であり劇団創設者でもあった福田恆存さんの名刀正宗のような批評、「トルストイには『リア王』が観えなかった」とはどういうことで、それをどう受けとめながらこの「リア王」劇に演技者・演出家として臨んだかを聴かせて欲しかった。
シェイクスピアとトルストイとは、ほぼ同時代人である。ともに偉大な藝術家であるが、後者は前者がほとんど嫌いであった。
どこにそういう切れ離れが出来たのかは、人が人であるだけにたいへん大きな深い課題性をもっており、その理解に沿って「リア王」は必然演じられる。その必然を今回の「昴」びとたちはどう汲み取っていたのか、少しでいいリア王役にも、エドマンド役にも、三人の娘役にも聴かせて貰いたかった。楽屋話ではあまりにもつまらなかった。

訂正後
* 劇団「昴」公演(アウルスポット)の「リア王」を観てきた。おまけに終演後の劇団員の座談を聴いてきたが、これは全くムダであった。「リア」上演に際してシェイクスピアの読み込みにどんな苦心や工夫や発見や課題が感じられたか、そういうことを演出家や俳優に聴きたかったが、すべて無用の漫談に終始して、劇場に居残っている観客に質問一つもさせずに終えた。もし、質問が許されたらわたしは、この劇の翻訳者であり劇団創設者でもあった福田恆存さんの名刀正宗のような批評、「トルストイには『リア王』が観えなかった」とはどういうことで、それをどう受けとめながらこの「リア王」劇に演技者・演出家として臨んだかを聴かせて欲しかった。
シェイクスピアとトルストイとは、ほぼ同じ近代代人である。しいて言えば前者は中世の尻尾をまだつけたまま近代の幕を開け、後者は近代精神を禁欲的なほど完成させた人、ともに偉大な藝術家であるが、ところが、後者は、前者をほとんど嫌いであった。
どこにそういう切れ離れが出来たのかは、人が人であるだけにたいへん大きな深い課題性をもっており、その理解に沿って「リア王」は必然演じられる。その必然を今回の「昴」びとたちはどう汲み取っていたのか、少しでいいリア王役にも、エドマンド役にも、三人の娘役にも聴かせて貰いたかった。楽屋話ではあまりにもつまらなかった。

*トルストイは優れて近代に魁けた作家である。彼は、シェイクスピアを、「リア王」だけでなく多くの作を「不自然」過ぎると断案した。たしかに「リア王」は紀元前八百年も前の時代設定で有りつつ、舞台の形相はあくまで中世の騎士時代のものである。そういう不自然を咎めればシェイクスピア劇は不可解な不自然設定のオンバレードであるだろう。
だが、今日の「リア王」演出を受け容れてみれば演劇的構成感は堅実で何の緩みもない。わたしは演出に感心した。俳優の演技にも特段の不都合はなく、さりとて完璧な感銘を与えられるほど精緻でも優美でもなく、科白にも諸処に難と緩みがあった。つまり演劇的達成感は不足していた。わたしは、「リア王」にいつも泣いてしまうのだが、今日は涙が湧かなかった。胸も震えなかった。
その理由であるかどうか、演出家の弁にも、俳優諸氏の弁にも「リア王」シェイクスピアを、文豪トルストイの非難に対して真っ向応えるぞといったヨ 見込みの苦心が結局窺えなかった。座談からは、まるで裏切られた。面白くも何ともない時間つぶしのような終演後の漫談だった。もし質問が許されてもわたしは黙していただろう、あまりにチグハグだから。
わたしは「リア王」という劇がツライほどカナシイほどナサケナイほどニクイほど、好きなのである。四代悲劇では一に好き。不自然であろうが底知れぬ阿呆な父王であろうが、父親をあれほどに裏切る娘たちは、わたしは憎んで余りある。それだけに末娘のコーディリアには想いが添うのだけれど、今日の肝腎のコーデイリアは科白があまりに力不足で残念だった。

* もう少し言っておく、シェイクスピア「リア王」には中世騎士達の王への忠誠という騎士道精神や、だからこその権力闘争への阿諛や迎合の問題がからみつく。その背景には古い意味での「神」や教会も働いてくる。トルストイには「自然さ」を人間的に捉える近代人の精神がはっきりしている。サドなどの唱えかつ重んじた神ならぬ「自然」尊重の姿勢に横並びになりやすい、なろうとすればなれるところがある。ゲーテには、シェイクスピアとトルストイとのまるで中間点を占めるような意味がある。トルストイは、またベートーベンのクロイツェルソナタをも手ひどく非難した。偏狭だったのではない。トルストイには、福田さんが断案されたような徹した近代的作家だからという意味を超えて出た、超歴史的特異な達成があったのである、わたしはそう観ている。

* ま、帰りは雨にも遭わず、保谷駅から寿司の「和可菜」へ寄ってきた。この店へ来ると妻もわたしも半分家に帰ってきた気がする。
2014 6・12 152

* エリザベス・テーラーといってもあの美しい映画女優でない、同姓同名作家の作を脚本にして「クレアモント・ホテル」と題し、俳優座が稽古場で観せてくれる。稽古場の芝居は緊密さも親密さも劇場とはおおきにちがって入りこみ易い。九月、彼岸前でまだ暑かろう、台風の心配もあるが、そんなことはもう九月では云うてられない。招待嬉しく感謝して妻と出かけることに。むろん妻の席はいつも支払っています。若い人も配役されていて、名前が「保亜美」とか「Kinomi」とか。楽しみ。九月には歌舞伎座「秀山祭」も待っている。季節到来には待ったがない。
2014 7・29 153

* ロスから帰国の池宮さん、すでに京都入りしていて、電話があった。次の日曜か月曜ころに東京で会いたい、と。いつものように妻も一緒に、街で夕食したい。酒の美味いおでんの店がみつかればいいが。火曜日夕刻には歯科の予約があり、午前には「湖の本121」が出来てきて受け容れねばならない。発送で身動きならない。十一日は終日歌舞伎座、十四の日曜頃には発送も終えられるだろうが、火曜水曜と聖路加で検査と診察、木曜は秋場所、金曜は俳優座稽古場公演。体を動かす機会として歩き回らねば。その勢いで新幹線に乗り込めるほどだと頼もしいのだが。
梅若の橘香会から、十月二十六日に万三郎の「通小町」小書き「雨夜の伝」新演出で演じるのでと招待が来た。狂言は右近の「呂蓮」そして万三郎監修、小林保治作の新作能「将門」を加藤眞吾が、と。長丁場、身がもつかしらん。
2014 9・3 155

* 明日は、俳優座稽古場公演。いま、楽しみは、「仕事」「観劇」そして「読書」かなあ。そして「酒・肴」かなあ。食欲が出てきて欲しい。昨日の診察では、データ的に何の問題も現れていないと。からだのあちこちを圧されても打たれてもナンでもなかった。ただ、やはり疲れる。そして目もひどく疲れる。
2014 9・18 155

* 「墨牡丹」を原稿で読み、「誘惑」は再校ゲラで持ち、俳優座稽古場公演「クレアモントホテルにて」を観に行った。作はエリザベス・テイラー、但しあの女優とは同姓同名。ふたくちつよし脚本、森 一演出。
ホテル暮らしで老境の晩年たちを描いて、なんとも身につまされとても面白い面白いとは観ていにくかった。工夫された舞台での行き届いた森一演出がせいこうしていて小笠原良知が自然なナレーション芝居でドラマを展開させ。青山眉子を「おばあちゃま」と呼びなれながら老人のあわれとかなしみと滑稽な悲境とを小説に書こうとし続ける青年を松崎建ん語がいやみなく演じて自然に小笠原良知へバトンを渡した。上出来の脚本とも思われなかったが、破綻はみせずに、まず、観客になにごとかをしっかり思わせて幕になった。上出来とも思わないが瑕瑾もすくなく、「劇」を自然の成り行きと見せながら終えたのは手柄であろう。
来春正月には、俳優座新代表の岩崎加根子が主演のチェホフ「桜の園」が予告されていて、これは楽しみ、新俳優座の今後を明るく占って欲しいと期待する。
俳優座の芝居に招待され初めたのは前世紀七十年頃。以来、もう四十五年にちかい。いつも妻と観に行った。いつまでも観たい。大塚道子の亡くなったのが惜しまれる。

* 六本木をうろつかずに、練馬までもどって昔から馴染んだ店でロースとヒレのカツを、妻もわたしもビールで。美味しく満腹した。
保谷からもすんなり車に乗れた。ま、それでも、しっかり食べると必然疲れる。やれやれ。
2014 9・19 155

*俳優座公演へ行く。安部公房の芝居「巨人伝説」。初見参。
その後に、京都府から出て見える二人の女性と、用談がある。

* 芝居はしこしこと創り上げて熱も籠もっていたし俳優もみなしっかり演じていたけれど、生煮えでもあった。感動もせず熱い拍手も送りきれなかった。良くできた作・舞台なのに、切り込んでくる切実感がわたしには掴めなかった。客はよく入っていたが、拍手の熱は浅いままだった。
2014 11・13 157

* 秦組の秦建日子(はた・たけひこ)が十二月公演について、ネットで所懐を語っている。わたしたちも応援に見に行くことにしている。心ゆく舞台を創ればよい。真摯に心ゆくこと、それが創作という仕事の本道だ。

☆ 『くるくると死と嫉妬』、始まります! 秦建日子

あれはいつだったか。
気持ちよく晴れた秋の日だった。
私は道を歩いていて、一本の樹を見つけた。
大きな樹だった。
素敵な樹だった。
私はその樹をあの人と一緒に見たいと思った。

私は思う。
愛とは、同じ景色を見たいと思うことだ。
あの人と、同じ景色を見たいと思うことだ。
同じ景色を見たいと思っている限り、私はあの人を愛してるんだ。

『くるくると死と嫉妬』、今、自分の持てるすべてを注ぎ込んで創りました。
短期間の公演ではございますが、どうか、お時間を作って観に来て下さい。
劇場にてお待ちしています。
12/3-11 @ 東池袋・あうるすぽっと

出演 新垣里沙 丸尾丸一郎(劇団鹿殺し) 他
音楽 立石一海(作曲・ピアノ) 小山豊(津軽三味線)

<日替りゲスト>
12/3( 水)19時 折井あゆみ
12/4( 木)19時 三倉茉奈
12/5( 金)14時 寺島咲
12/5( 金)19時 鳥肌実
12/6( 土)13時 やくみつる
12/6( 土)18時 鈴木あきえ
12/7( 日)13時 小野真弓
12/7( 日)18時 片山陽加
12/8( 月)19時 中江有里
12/9( 火)14時 高垣彩陽
12/9( 火)19時 矢島舞美
12/10(水)19時 浦えりか
12/11(木)13時 矢吹春奈
12/11(木)18時 宮地真緒

アフタートークショー
12/3( 水)4( 木) 矢島舞美

お問い合わせ・オフィス・REN  03-6380-1362 begin_of_the _skype _highlighting 03-6380-1362 無料 end _of_the _skype _highlighting(平日12:00 ~18:00 )
当日券、全ステージ発売します。

* 「愛」がなにごとであるかは、まことに難しく、定義は人の数ほどになる。わたしも、こんな風に書きおいたことがある。

愛は。

愛は、一致である。一切分別が消え失せる。

愛は、焔である。無垢無数に分かたれ得る。

愛は、清水である。終に海となり一致する。
2014 11・30 157

* 「糸瓜と木魚」を読みなから「明治」という時代を遠くから眺め返している。明治初年の画家たちが思い出される。おもしろい。
しかし、もう機械の字が読めず、機械に字が書けない。十一時過ぎ。
明日には「湖の本」新刊が出来てきて、もう試薬も「選集⑤ 冬祭り」再校ゲラが届いてくる。
もう建日子が渾身の劇作・演出の舞台も開幕している。
2014 12・4 158

* 東池袋のアウルスポットで、秦建日子作・演出の「くるくると死と嫉妬」を観てきた。不感心。

* 帰途、練馬で寿司を夕食に。妻には、好きな生牡蛎を。わたしには酒は美味かったが寿司は味覚に届かず。
2014 12・5 158

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