ぜんぶ秦恒平文学の話

 母と『少年』と    秦恒平

      

 なにがきっかけであったのか、中学一年時分から、私の通学鞄には余分に四冊のノートがいつも入っていた。詩と短歌と俳句と散文を随時に書きこむためだ。概ね励行していた。しかし三年生時分には一冊に減って、短歌だけが残っていた。そういう少年であった。
 昭和二十六年に高校に入り二十七年、新校舎に移った。近くに泉涌寺、東福寺があった。下京一帯が見渡せる高い丘の上に校舎は建っていた。広い空がいつも明るかった。
 短歌と茶の湯――高校の三年間はそれだった。寺々をよく訪ね歩いた。受験勉強はしなかった。かけがえのない三年間だという、今想えばちょっと気味のわるい覚悟があの当時の私にはあって、むしろ教室の外で、自分ひとりの眼や耳や手や脚でおぼえられるものの方に熱心であった。授業より「京都」を尊重していた。
 茶の湯へは叔母が道案内をしてくれた。が、短歌はひとり歩きで、時おり国語の先生に見てもらうだけであった。幸い、歌集『鈍雲』などの歌人である上島史朗先生(「ポトナム」同人)に現代国語を習い、また国文学者である岡見正雄先生(もと関西大学教授)に『枕草子』などを習っていた。同好の先生がた数人で歌会をもたれていたのにも何度か誘っていただいた。が、結局はどの結社や集団とも没交渉で済んだし、短歌をつくる友だちとも出逢わなかった。
 ひとり歩きといえば、私の場合は、小説もそうであって、昭和三十七年夏から書きだしたが、それ以前にも以後にも、同人誌とか同人仲間とかのつきあいは一度も経験がない。師といえる人に教えを乞うたということもない。小説もそうなら短歌もそうで、学んだのは古人から、先達から、古典から、というしかない。
 私の短歌は小学校四年と六年生の時分に各一首残っているのが古く、中学時代にも数は多いが、のちに歌集にした『少年』(不識書院、一九七七)では高校へ入って以後の作品に限定し、その採った歌数も極度に寡くした。歌数を絞るというのは、歌集を自撰する人の当然の態度だと私は思っている。月々に何冊も届く寄贈歌集のうち、よく撰んでいないために、あたら印象をぬるいものにしてしまっているのが多いのは、惜しいと、よく思う。
 むろん私の『少年』は、いくら撰んでも心稚い未熟なものに過ぎなかった、明らかに奇妙な、間違ってさえいる用語や語法も含んでいる。が、それなりに昭和三十九年の私家版第一集『畜生塚・此の世』の中に小説四篇と併せ、巻頭に収録して以来、豪華限定本、普及本と、都合三度も本になってかなり読まれるようになっているのは、まさに少年期の思い出のためにも、私の文学経歴の一つの証しのためにも、望外のよろこびとなっている。
 歌集の小見出しは、高校時代に限っていうと「菊ある道」「山上墳墓」「東福寺」「拝跪聖陵」「光かげ」「夕雲」「弥勒」「あらくさ」とつづいている。都合百四十首たらずとなっており、あと八十首たらずが、大学時代そして小説以前(二字に、傍点)の作として付け加わっている。私の歌が初々しいのか古めかしいのか、は分からないが、まちがいなくやはり私の小説の根になっている。竹西寛子さんに「根の哀しみ」と評された、まさしくそれ(二字に、傍点)が『少年』を一面に蔽っている。余儀ないことと、嘆息するのほかはない。

  此の路やかのみちなりし草笛を吹きて仔犬とたはむれし路

 これは私の作でなく、滋賀県能登川町の繖(きぬがさ)山麓に建っている阿部鏡(きょう)の歌碑である。昭和二十八年ごろ、私の高校三年生時分、阿部鏡が漂泊の大和路から久々に郷里へ辿り着いたおりの歌を長女の千代が、遺された歌文集『わが旅 大和路のうた』から撰び、昭和三十七年に心こめて碑にした。
  阿部鏡(深田ふく)が、生別し死別していた私の生母であったと、正確に知ったのは、わずか三年前(一九七六)のことだ。前川佐美雄氏に私淑した歌詠みなどと、知る由もなかった。実業の名家阿部氏に生れ、寡婦になってのち不思議の恋に身を焼いて四十一歳で私を生み(昭和十年十二月二十一日)、愛人と離され子も奪われて独居四十四歳、日本で初の保健婦養成学校に入学し、奈良県下や京都の施設で恵まれない老人や子供の健康を劬りつづけてのち、病苦けわしく三年間臥して昭和三十六年に六十七歳で死んでいた。歌集は末期の頑張りで出版にこぎつけたもの、だがごく最近まで、私はそういう母の歩んだ道をすこしも知らなかった。知ろうという気がなかった。
 あの頃私はこんな歌を詠みつづけていた。

  歩みこしこの道になにの惟ひあらむかりそめに人を恋ひみたりけり  (十六歳)
  山かひの路ほそみつつ木の暗(くれ)を化生はほほと名を呼びかはす  (十七歳)
  絵筆とる児らにもの問へば甃(いし)のうへに松の葉落つる妙心寺みち
  かくもはかなく生きてよきことあらじ友は黙って書(ふみ)よみやめず
  木もれ日のうすきに耐へてこの道に鳩はしづかに羽ばたきにけり    (十八歳)
  胸まろき鳩の一羽に畏れゐて道ひとすぢに暝れそめにけり

『昭和萬葉集』(講談社刊)にこんな歌を寄せていることを、母は泉下でなんと惟っているだろう。
 その母なる阿部鏡の作歌を今すこし挙げさせていただく。

  玩具店のかど足ばやに行きすぎぬ慈(いつく)しむもの我に無ければ
  穂がけ路(ぢ)を提灯三つもつれ来ぬ明くるを待てぬ病人あるらし
  吾子(あこ)に語るごとくもの言ふ此の頃のたぬしきわれは犬の飯盛る
  生も死もさだめにありと悟りたる如くに説きしわれにしあるを
  奥山は暮れて子鹿の啼くならむ大和の国へ雲流れゆく
  十字架に流したまひし血しぶきの一滴をあびて生きたかりしに

 (昭和五十四年十月『昭和萬葉集』巻十 月報8)

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