あはれ 春来とも 春来とも あやなく咲きそ 糸桜 あはれ 糸桜かや 夢の跡かや 見し世の人に めぐり逢ふまでは ただ立ちつくす 春の日の 雨か なみだか 紅に しをれて 菅の根のながき えにしの糸の 色ぞ 身にはしむ
さあれ 我こそは王城の 盛りの春に 咲き匂ふ 花とよ 人も いかばかり 愛でし昔の 偲ばるれ
きみは いつしか 春たけて うつろふ 色の 紅枝垂 雪かとばかり 散りにしを 見ずや 糸ざくら ゆたにしだれて みやしろや いく春ごとに 咲きて 散る 人の想ひの かなしとも 優しとも 今は 面影に 恋ひまさりゆく ささめゆき ふりにし きみは 妹(いもと)にて 忍ぶは 姉の 嘆きなり
あはれ なげくまじ いつまでぞ 大極殿の 廻廊に 袖ふり映えて 幻の きみと 我との 花の宴 とはに絶えせぬ 細雪 いつか常盤(ときわ)に あひ逢ひの 重なる縁(えに)を 松 と言ひて しげれる宿の 幸(さち)多き 夢にも ひとの 顕(た)つやらむ ゆめにも人の まつぞうれしき
──昭和五十八年三月七日作 五十九年一月六日 藤間由子初演 国立小劇場──
(作詞中に「我」とは「松」子夫人、「きみ」とは妹「重」子さん、「人」とはおおかた谷崎潤一郎に宛ててある。)