作家研究の究極は「年譜」だと思う。どれほどの年譜が書けるか。研究者の実力はそれで計られる。
年譜には、よほど思い入った「方法」が無ければならない。方法をしかと定めて書かれたような年譜は、高田衛氏の『上田秋成年譜考説』以来、 めったに見られない。荒正人の残した夏目漱石の年譜などが僅かに記憶にあるが、徹底して詳しいというだけでは方法があるとも言えない。それでも、詳しい年 譜の詳しくて誤り少ないのは、ほぼ無条件に有り難い。
いわゆる略年譜は、専門書のためにはむしろ害の方が大きい。割愛の仕方に必ずしも定見なく、誤って誘導されると多くを見間違えてしまう。ぜひ「方法」を明かして欲しい。
作品との関わりといえども、ただ公表の年次を羅列しただけでは困る。人との出会いも抜けては困る。まして私生活が創作に及ぼすところは想像以 上に大きい。そこをさらりと流されてしまうか、まるで無視されるのは困る。作品への批評にも、言うまでもなく同時代のも、時期を経てからのも、また没後の も、ある。年譜にそれらを組み入れる格別の工夫が大切だろうに、そういう配慮が、創意が、ほとんど用いられない。
いったいに、年譜といえば「生涯」のそれを思い過ぎている。そんなことの可能になるのは、よほど研究が各方面から綿密に積みあげられて後のこ と、むしろ、それへ至る段階としても、一人の作家の或る重要な節目の「時期」を、前後に幅をみながら「十年」ほどの長さに区切ってなりと、その半ば中ほど の「五年」ほどは徹底して「年譜化」するといった、辛抱のいい克明な努力が欲しい。
川端康成でいうならば、例えば作品『雪国』を軸にした前後十年ほどを集中検討して、せめて中軸の五年分ほどは至れり尽せりの年譜化を試みてみ る、又はノーベル賞受賞を挟んだ最晩年までを、徹頭徹尾、年譜化してみる。そういう、より可能な集中の努力を積んで、また並べかつ鍛えて、その結果として 「作家」をめぐる全容を、克明な、使用活用に耐える豊かな「年譜」に仕立てて貰いたいものである。
未踏の沃野が、そこに在る。
未踏の沃野が、そこに在る。