京都の街なかに生れ育って、さて「丹波」は、と事改まれば第一感が「寒い雪の山国」ということになる。あてずっぽうでもなく、さきの大戦争のさなか、私 は二年近くそんな丹波に疎開していた。当時の亀岡から谷底を潜るように一里半、子ども心にたしかにそこは寒かったし、雪の山国にも違いなく、京都からは 「真北」というのが動かぬ実感だった。山城の北に丹波そして丹後と、細長い京都府はこの三国が北へ北へ三階重ねの、まっすぐな塔のようなものに想い描けて いた。
そんな私に、京焼こそは親しかった。見る機会も使う機会も多かった。叔母が茶人だった。私はといえば、まあ半茶人だった。
京焼の発祥は青蓮院あたり、粟田近在であったようだ。粟田口といえば刀鍛冶を思い起すが、いずれ火に縁の濃い手仕事、的はずれな推測ではないだろう。青 蓮院の南に知恩院があり、西を白川が南流し、また西流する。
私は、その西流する白川沿い、南寄りの知恩院新門前通で育った。東大路から西は縄手まで、異人さん相手の美術骨董を商う店が多く、ほかは大概が仕舞屋 の、むかしはごく閑静で、ちょっとハイカラな通だった。表へ出ても、東から西へ人の子ひとりの影もない道筋に、霏々と雪が降り乱れていたり、真紅に夕焼け が路上を焦がしていたり、しとしとと終日白い雨が降りやまなかったり、真東に東山が青い衝立に見え、真西には薄霞んで遠い西山のふくらみが見えるだけの、 そんな静かな町なか育ちを私は今もいとおしいまで大事に記憶しているが、さてその記憶の「京」を越えて「丹波」はとなると、漠然と「北」の方をただ想い やっていた昔が甦える。大文字の晩は物干しから、「妙法」の朱い二字にふと瞼の焦げる思いをしながら、あの真の闇の北山から奥が丹波、大江山の鬼はまだそ の奥の丹後に棲んだと信じていた。
だが、この思いこみは、明らかに半分以上間違っていた。
新門前通のわが家から早朝自転車で出て、ともあれ、東海道中双六はここで上りの三条大橋まで行く。五分とかからない。その先は何が何でも西へ三条通を 突っ走る、と、太秦広隆寺の門前を通り抜け間違いなしに嵐山の渡月橋へ辿りつく。一時間とはかからなかった。文字どおり朝飯前にまた東山の麓まで悠々帰っ て来れた。保津峡を越え、亀岡、園部を経て日本海まで行く国鉄山陰線が、そう真西を向いて走る私の自転車路と途中直交し、二条駅近辺ではたしかに北へ線路 を伸ばしていたのだから、丹波は「北」という思いこみにも一理あったものの、それが誤解の一因だった。山陰線は二条駅を出るとやがて完全に西へ折れ、花園 駅、嵯峨駅を経て真西へ向いたなり、少くも亀岡駅までいささかも「北」へ向かわない。
この事実を、私はついぞ大人になるまで自覚しなかった。戦時中はめったに汽車になど乗れず、バスか父の自転車かで老の坂を越えて丹波へ行った。その老の 坂がわが家からむしろ南寄りの西に当っていることすら、意識したことがなかった。あの時分、気がかりなことは他にいっぱい有った。
或る時、ふと地図の上で少年時代の思い出多い疎開先を指の先で探り探り、「丹波」「丹波」「北」「北」と呟きながら、まるで見当外れなのに気づいた。 ちょっと、のけぞる思いだった。まして私の寒い「雪の山国」は、なるほど、それが体験的真実に相違ないものの、京の真西の亀岡からなんと「南」寄り、戦時 中は京都府南桑田郡だったその杉生なる村落が、戦後思いもよらぬ大阪府高槻市に編入されているしまつだった。
事のついでに旧丹波一国をよくよく見ると、私が子どもの折に京都市のほんの北山裏ほどに想っていたのがまったく誤解で、むしろ兵庫県の北部で広く張り出 している東西に横長な大国だった。たとえば丹波福知山はかろうじて京都府だが、デカンショ節で知られた丹波篠山は兵庫県だった。
「丹波」と聞いて、京都と兵庫とどっちを想い浮かべる人が多いのか、私は知らない。が、いささか日本の歴史をすら飯の種にしている昨今、この旧国名の分布 を現府県の配置に重ねて学校で大事に教えているか、憶えさせているか、気になってきた。教えていないのなら生徒諸君が自発的に覚えてほしいと思う。たとえ ば一地方の風土的特徴を大づかみに体感する上で、はるか昔からの「丹波」一国を、京都府と兵庫県とに分断してしまったことの理非得失はよくよく慮る必要が あるだろうし、この際「丹波焼」などの素性を理解するにも、どうでもよくは済ませない。私が犯して来たような初歩的な錯覚から、どんな奇妙な誤解も生れか ねないからだ。
十五世紀半ばに、嘉吉の乱といって将軍足利義教が守護大名の赤松満祐に暗殺される椿事があった。満祐はそのまま自領播磨へ遁れた。
播磨国、いわゆる播州平野などと呼ぶにつけて、あとへつづく耳になじんだ地名は赤穂であり、とりわけ姫路であるだろう。が、いま京都から姫路へ向かうの に、瀬戸内海に沿った国鉄新幹線を利用していない人はあるまい。かりに鉄道がなくても同じ道を行くのが最適の最短路と現代人なら思いやすく、私みたいにう かつな京都人なら、京都から姫路までは真西に一直線くらいな錯覚もしていかねない。
ところが赤松征伐に京都を出陣したのちの宗全、山名持豊の軍はためらわず丹波路をとっている。持豊の場合、山名家としての或る利益判断がこの出征には絡 んでいたので一概なことは言えないが、それでも当時、中国路といえば京都から丹波へ、そして三草山を越えて播州平野へなだれこむのが、最適かどうか、少く も最有力の常道の一つに違いなかった。三草越えとは丹波亀岡から篠山経由、今田町より鴨川沿いに高原性の十里谷を播州加東郡の社町や瀧野町へと突き抜ける 道中をいい、源義経が平家一ノ谷の柵へ急襲したのもこの道を経ての話だった。まして亀山(亀岡市)に居城をもった明智光秀が中国出陣の際など、この三草越 えに出てこそ当然なのを、主君信長の御前に御馬揃えと称して逆に真東へ老の坂を越え京都入りしているのは、「敵は本能寺」以外にありえなかった事情をまっ すぐ物語っている。
「丹波」はかくて「山城」の北に、地図の上で直立しているわけではなく、その意味では、ぐらりと左へ、西北の方角へ傾いでいる。傾いだまま北の因幡や出雲 へも南の摂津や播磨へも太い道を分けている。篠山城がその分岐の要点を占めていた、だからこそ徳川幕府は諸大名の合力をえて築城に意を注ぎ家康の子を初代 の城主に入れもした。言いかえれば出雲路と播磨路とを抱きこんで丹波は神話時代からの文化を、山背へ、また大和へ運びこむパイプの役割を果していた。思い 出すがいい、崇神天皇の御代に遣された名高い四道将軍のその四道とは、北陸、東海、西海と並んで、「丹波」ではなかったか。
その「丹波」一国の中で、それでは「丹波焼」の古窯がどう分布していたか、継承ないし影響が言われる前代の須恵器の窯址とどんな位置関係にあるか、山陰 系か山陽系か、文化的な系脈や素性の点で改めてこの辺がたいへん気になってくる。
今日の丹波焼は周知のように四斗谷川沿いの立杭(兵庫県今田町)にしか残っていない。篠山を南下した中国路が丹南町の古市でまた摂津と播磨へ振分けられ るその股ぐらに位置し、開窯の昔の丹波古窯は純然丹波の産というより、むしろ摂津、播磨と三国の、きわどい交点、いずれかと言えば摂津路寄りに国鉄福知山 線の藍本駅から西、また相野駅の近在に、集中していた。須恵窯址はこれに対し古市の西の辰巳とか、立杭より南の三本峠に近い花折や稲荷山に近い古城とかに 残っている。三本峠も稲荷山も丹波焼にはいわば原点ほどの意味をもつ古い窯址であってみれば、所詮須恵器以来の潜流を鎌倉時代に至って確実にまた汲み出し た「丹波焼」なのだと認めていい。西の、備前焼との親密な関係もむろん想ってみずに居れない。たぶんに「丹波焼」とは山陽文化圏に咲いた生命ながい一輪の 名花と眺められ、いかにも京都の焼物とは、思いにくい。
そうは言うものの、たとえば仁清のことを私は思いだす。仁和寺の日記「御室御記」の慶安三年(一六五〇)十月十九日の条に「丹波焼清右衛門来」とあるの は、仁清が同時代の文献に名をあらわすごく初めの記事だったが、この「丹波焼」をどう読むか。野々村という名のりを仁清の出自と見て、兵庫県下の現在の今 田町や三田町に当るいわゆる古丹波の窯場とは似も似つかぬ、これこそ京の真北の北桑田郡美山町辺でたぶん葉茶壷を造っていた、今は跡形もない古窯の職人 だったろう、ということになっている。学者は大概そう言っている。
しかし仁清を野々村出身と確証する資料も、否定する材料もない。その前半生はまったく不明というしかない仁清だから、しかもあれだけの天才的造形家で あってみれば、北桑田のこれまた頷ける物証の殆どない美山界隈の一焼物師が、いきなり京都へ出て、しばらく粟田辺で修業して、早速あの一代に冠絶する仁清 の名作にまで到達するといった話は、なかなか信じにくい。たとえば篠山にも近い丹波綾部に、京都粟田口の流れを汲む国定という刀鍛冶の名工が住み直刃の佳 い太刀などを遺しているが、同じ粟田口に芽をふいた京焼発祥とも絡め、丹波の清右衛門が先ず粟田口へ身を寄せたことに就て、思い切って鍛冶と焼物との親戚 づきあいからも大胆な視線をむけてみたい気がするが、「御室御記」ははっきり「丹波焼」と書いている。
改めて地図を見よう、京都府美山町と、今日に残る丹波焼唯一の窯場の兵庫県今田町の立杭とは、ずいぶん離れている。府と県とに隔てられればいっそう疎遠 に見える。だが、もともと同じ丹波国の内という眼で見直すと、十七世紀の三十年、四十年代、かりに焼物を志すとして美山野々村の清右衛門が、まだ窯の烟も 細々と試行錯誤期の京焼に惹かれていきなり出府したか、それとも同じ丹波国内の、当時京焼よりよほど伝統も実績もある立杭方面の陶藝に刺戟を受けていた か、そう俄かに断定できない気がする。
以前、丹波丹後を旅した折、あの一帯にむかし、「津の国行き」という言い様で大坂方面へ奉公に出る人の多かったことを知った。俳人の蕪村の生母なども津 の国行きの一人だったが、たしかに丹後、丹波からは京都へ入る道以上に播磨や摂津へ南下する道が何本も通っている。同じ丹波という国の内で野々村から立杭 や稲荷山方面へというのも、名にし負う「丹波焼」という牽引力がある以上、清右衛門の勉強心にとってそう不自然な道筋と思われず、事情にくわしい「御室御 記」の筆者が、あいまいにただ丹波育ちの「焼物師」「壷屋」ならば「丹波焼」でよかろうと筆を走らせたようには想えない。瀬戸、常滑、信楽、伊賀、備前な どと並んで、丹波焼といえば、そう軽々に由緒知れない他の地窯と混同されていい窯場ではなかった。京の茶人もそんなことはよくよく承知だった。
それにしても、仁清の色絵とただ焼締めの丹波焼とではあまり違いすぎるという気味はある、が、古丹波全部が必ずしも無釉の焼締めでなかったこと、そのろ くろ技も土質のわるさと反比例して、たとえば備前や信楽と較べ、丹波は抜群に精巧で丁寧なものを備えていたこと、が、よく認識されねばなるまい。
たしかに「古丹波」の占める時期は、鎌倉以来江戸末期まですこぶる長い。江戸末に限って「中丹波」という呼び様も必要なくらい、同じ丹波焼にもこの間に ずいぶん作の違いが出て来ている。とりわけ仁清の修業期と考えられる慶長以後の丹波焼は、熱効率のわるい中世以来の穴窯で半月の余も焼きつづけねばならな かった、いわゆる稲荷山時代を脱却し、名高い蛇窯、独特の登り窯、が四斗谷川沿い西の山腹に数多く築かれた。その結果「古丹波」そのものの作行がまるで一 変し、にわかに多彩な生産を誇りはじめ、灰釉、赤土部釉などの意図的な使用がすっかり定着したばかりでなく、桃山時代以来のろくろ成形が技術的にも一気に 完成の域に達した。輪積み、焼締め、玉縁といった古来お定まりの丹波焼のイメージからすると、眼を疑うばかり自在な造形、装飾、施釉で多方面の用途に応え る製作が相次いだ。そのみごとな成果は、篠山の丹波古陶館や立杭の陶藝会館に美しく揃っており、その造形に籠められた趣向の面白さ、眼を瞠るものがある。 強弁すれば仁清や京焼とのつながりがかなり見えて来る。
「丹波焼清右衛門」という記事にこの上の深入りする気はないが、立杭の窯を見てこないかと勧められた胸の内に最初に動いたのは、なぜか仁清だったことは隠 す気もない。それに京の丹波と兵庫の丹波は違うのか、やはり同じかも眼に見たかった。今田町の立杭窯は、疎開していた旧南桑田郡樫田村字杉生から、ものの みごとに真西へ直線を引いた線の上に乗っかっていて、京都東山と杉生間の距離にして三倍の余も遠く、播州焼とも摂津焼とも呼んで呼べなくない場処に、今も 巨大な蛇窯を這わして焼物を焼きつづけているのだ。
さて、そんな丹波立杭窯へ道不案内の者がどう尋ねるか、窯場というものの例に洩れないその辺が大の難儀、というのも、丹波焼が観たいならただ立杭だけで なく、是が非にもやはり篠山町にあるみごとな丹波古陶館が見過ごせない。大正の末から古丹波蒐集と研究に生涯をかけた中西幸一翁のコレクションを軸に、お よそ七百年にわたる丹波焼の逸品名品がじつに周到に分類してあり、展示してある。篠山という古い城下町の風情よし、古陶館の建物も雰囲気もちょっと類のな い気稟の清質をたたえて、応対にも、至極上品で親切なお嬢さんが受付に控えてくれているのだ。が、この篠山と立杭との間が、遠いというでなく何とも往来の 便がよくない。立杭だけ、篠山だけなら国鉄福知山線で相野ないし篠山口で下りればバスの便があるけれど、両方を兼ねるとなると結局、如何様にも自動車を頼 るに若くはない。
思案も何も、私は迷わず新幹線で姫路まで行って一泊、次の朝早く、かねがね父君が丹波焼に御執心とか聴いていた地元の友人に厚かましく道案内を頼み、つ いでに彼女の車に乗せてもらって、一散に播丹連絡有料道路から中国縦貫の自動車道を東へ突っ走った。往年の三草路をそのまま逆にというのではないが、ほぼ 同じ趣向で吉川町のインターチェンジから北行し、西相野、三本峠を越えて立杭まで二時間余、これがはるばる東京から出向く私に可能な、まず、唯一で最短の 探訪行路だった。
Nさんは自分でも姫路市内に窯を築いている。備前にも立杭にもふだん足を運ぶという斯の道に門戸を張った作家だ、ものも訊ける、ものを選んでももらえ る。けっこう一石で二鳥三鳥も落とす気で私はいた。事実この取材、十分快適に事が運んだ。ありがたかった。
東播から北摂へ、そして南丹へという道筋は高からぬ山あいの、文字どおり日本の「田舎」の景色佳さを、たっぷり抱きこんでいた。凡山凡水、眺望は広くな いが静かで程良く翳っていて、奥深くまで十分耕されている。湧き立つ興奮はない。しかし黙然と己が心の内をひとり覗きこみ、思わぬ反省に頷くことのできる 優しい田舎──。たまたま広大なソ連へ三週間近い旅から帰って間なしだったこともあり、ひそやかな立杭の里の、コスモス咲いて風そよぐ秋の日のうつろう静 かさには、声を喪ってしみじみひとり佇ちつくす思いがあった。
嬉しいことに、丹波焼そのものが想像以上に佳かった。私は一とまわりもある窯変美しい壷を買い、灰を被った大ぶりの花生を買った。笑窪の佳い徳利とぐい 呑も買った。このぐい呑、ためしに冷酒をついでもらうと山清水のように見込みが澄んで光る。選択が当を得ていたかどうか、Nさんは微笑って見ていたが、と にかく安かった。窯場は幾らか知っている。が、たかが知れた私のポケットマネーで、全額支払ってあとが差支えない程度の値段は珍しいのである、思わず窯元 に頭を下げた。
選んだ丹波焼は、いろいろ有るのに、結局、無釉ないしかなり自然に灰を被った体の焼締めばかりだった。値段も含め、他に理由も無くはないが、要はろくろ 一つの造形を大事に思い、土と火との色佳い素膚を面白く思ったからだ。それと使い手。一と目見てわが家の部屋なり壁なり棚なりとの釣合いを私は考える。釣 合わぬは不縁の何とやら、最後はこっちの器量で決めるしかない。
立杭窯や丹波焼の、このうえ細かな解説は私の任でない。ただ観たまま思うままを言えば、評判以上に立杭の仕事は、どの窯元も手綺麗だった。土質に恵まれ ない、その分、腕にも気合いにもつつましやかな努力を重ねたのが伝統になっていて、ろくろは上手だし、窯に火を入れてからの辛抱のよさ、勘のよさが焼物の 形や色に、不自然でなく佳くあらわれている。都雅というのではけっして無い、のに、わるく田舎じみない、無理のない品物がどの窯元にも揃っていた。コー ヒーセットのような物を手にとっても、カップの底や口あたり、ただ穏やかというのでない親切さが形の工夫になっていて、Nさんが、はなから目がけて来た急 須など格別使い手がいいという惚れこみようだった。
京都に”近い”んだなァという、ちょっとこみ入った感想がつくづくと湧いて、しかしそれがとくべついや味でも負いめでもなかった。分りよく言えば、功罪 いずれと断定できないが総じて立杭は、職人風な作家或いは作家風な職人の仕事をしている窯場だったと思う。花器、茶器、酒器、食器から装飾品を含め、さら に土管、植木鉢、酒樽様の工業品まで生産されている。めずらかに煙突なしの登り窯も、ただ伝世の遺物でなく、立派に今も使われ、四十メートルに及ぶ蛇体を 山腹にうねらせていた。火勢のすさまじさは、近隣に夥しい黒焦げの立木の膚にまざまざうかがわれた。
トタン屋根で蔽って積みに積んだ松割木のいい香りがぷんと鼻へ来る。なつかしい「丹波」の香りだ、古い社の聳え立つ梢から山鳩が翔び立ち、花青い露草の かげでしきりに虫が鳴く。虚空蔵山の山すそを四斗谷川にかぶってけぶったように竹やぶが居流れ、人けない街道に沿って大根畑の畦に朱い曼珠沙華が咲き群れ る。刈田にもまだ刈らぬ田にも寂しいほど淡い日ざしが落ちては翳って、つと足もとを白猫がはしる。小紫の菊が揺れ、谷間の村里にかすかにラジオの声も聴え ている。そしてあっちで、またこっちで、今日も火の入った窯の烟が、鈍雲の空へもくもくと呑みこまれていた。ひとり畦に立って眺める左右の山なみが、なん どりと優しい。北へ、小野原の方へ重畳する山また山の影も、青に青を重ねてなんどりと美しい。
丹波焼には、穴窯の昔から傘徳利やエヘン徳利や葉型壷の好趣向があった。竹筒に独特の白釉を容れて筆の代りに、器胎一面に万葉仮名を書くような佳い趣向 もあった。登り窯の頃から赤土部釉がひときわ丹波焼を色佳く豊かにしはじめ、十八世紀後半にもなると、墨流しなどの技が面白く仕上がる。臍徳利、浮徳利、 海老徳利などと凝って盛沢山な器形が、存分に使って楽しい成形の手ぎわを誇る。
丹波陶磁器協同組合に所属の窯元が立杭に四十数軒、登り窯は十八も働いている。
職人の反復の利く手仕事と、創意に賭けた作家気質の一品仕事との、きわどい間を上手に歩いている。それなりに成功もしている。が、このさきへんに鼻が高 くなれば、民窯として丹波焼の骨太さが華奢に骨抜きされてしまわぬとも限らない微妙な段階を立杭の窯は、今、歩いているようだ。是非を言う資格など私に無 いと承知で、だから、いわゆるきちっと造った”丹波口”の、窯変に祈願を籠めてただ焼締めたような、赭くかりかり膚の照った壷を買い、胸のふくらんだ笑窪 の佳い丹波らしい徳利を私は買った。
分ってもらえるかどうか、先に立杭の山を見て、私は「なんどり」という形容詞をわざと使った。それは、花生などを買った窯元の、もう息子の手仕事に生活 をゆだねて、ゆったり隠居したふうの老人が口にした、批評の言葉だった、「なんどりした味が無いとナ、あかん……」と。
同じ「なんどり」という言い方を、もう一軒やはり立杭の、七十歳にま近いという昂然とした作家タイプの職人さんも口にした。姫路在のNさんは「聴いたこ とのない言葉です」と言う、が、私は京都で育って東京へ飛び出すまで、たしかに何度も同じこの「なんどり」という言葉を自分も使った覚えがある。が、すっ かり忘れかけてもいた。
大辞典には、なごやか、おだやかの意味、「などり」の音便と説明してあるが、それ位では足るまい。外から決めつけたものでなく、機をえて内からふくらむ 力ある生命の泉が、見るから自然に、見るから無理なく柔らかに、毅い、しっかり締った線を盛り上げる。形を定めてゆく。この生成の確かな、また確かな故に なごやか、おだやか、円やかな美しさ。それが「なんどり」とした魅力なのだ、言ってみれば仁清の、あの壺の姿、形、線、そして膚。
丹波焼が、やはり私には京焼の間違いない佳い背景に想え、たとえそれもまたど素人の錯覚であろうとも、はるばる立杭の里を尋ねて久しぶり耳にした、「な んどり」というためらい無い批評の言葉に、私は快くしびれることができた。