反・主権在民国家 終わりなき「権力のテロリズム」
「国(公)の犯罪」は、まちがいなく有り得る。「私」の犯す罪より罪深く、歴史的に、事実、幾度も有ったのである。開戦や敗戦をいうのではない。例えば 国権を笠にきた弾圧やフレームアップ(でっちあげ)のテロリズムがあり、最たる一つに明治の「大逆事件」が思い出され、また昭和敗戦前の「横浜事件」が思 い出される。横浜事件のほうは、粘りづよい運動と法の手続きにより、戦後六十年、最近、やっと再審査の細い明かりが見えた。だが、往時の被告たちは、も う、一人もこの世にいない。
大逆事件も横浜事件も、官憲の事件捏造と不当裁判の経緯はあまりに錯雑、詳細はしかるべき歴史事典などをお調べ願いたいが、ともに大規模な弾圧事件であり、国権による犯罪という暗部を多分に持っていた。ことに横浜事件では、神奈川県特高により、「中央公論」その他の筆者・編集者たちが、何の根拠も証拠も なく約五十名も検挙され、凄い拷問と白白の強要で、力ずく「事件」に作り上げられていった。表向きは共産主義思想の猛烈な禁圧とみせて、実は、「戦争政権」背後の勢力争いに陰険に利された、著作と編集への「テロ」の疑いも持たれてきたのである。
この数年関わってきた日本ペンクラブ『電子文藝館』に、故池島信平の「狩りたてられた編集者」という一文が掲載してある。大意、こんなふうに書き出されている。
<昭和二十年三月十日の空襲は壊滅的で、私は雑司ガ谷の菊池寛氏の家に転げ込み、居候した。或る日、本郷の焼跡を通りかかると、当時、『日本評論』編集 部員の渡辺潔君と出遇った。「いま『文藝春秋』をやっているんだ。君等に会ったら、聞こうと思っていたんだが、やたらにこの頃、編集者が横浜の警察へ引っぱられているが、いったい、なにがあったんだい」と聞くと、渡辺君は、「実はぼくにもよくわからないんだが、うちでも美作太郎、松本正雄、彦坂武男の三人が引っぱられた。こんどは僕のような気がするんだが、なにが当局の忌諱に触れたのか、わからないんだよ」と、深刻な顔をしている。これが世にいう「横浜事件」で、前年あたりから、『中央公論』『改造』『日本評論』の記者諸君が続々検束されていた。身に覚えのないことで引っぱられるという恐怖は相当なものであった。>
私は、これが「過去完了の事件」とは言いきれないのを、今、懼れている。昨今の政権与党の政治手法や法の制定は、個人の「保護」とか人権の「擁護」とか 美しい文字をことさら用いながら、その実は、言論表現や報道取材の自由を、また私民の基本的人権を、またもや専制と監視下に抑圧する意図を、ポケットに隠 した銃口のように、国民の方へ突きつけている。権勢保持の「公の犯罪」をそのようにして法の名の下に「國」として犯しかねないのを、私は強く懼れる。 「反・主権在民」政治の、津波にも似た不意の来襲を、心から懼れるのである。いましも用意されている国民投票法案のごとき、明治八年の讒謗律や新聞紙条令 などジャーナリズムの徹底監禁政策をホーフツさせる、信じられない条文に溢れている。
だが、それ以上に私の気にかけ懼れているのは、物書きはもとより、新聞・雑誌の記者・編集者、出版人に、あのような「横浜事件」の悪夢再来を阻もうとする、自覚や意思や方策が、声を揃え手を携えて立ち向かう気概が、有るのだろうか、という一点。
罪無き言論人や編集者を無惨に巻き込んだ「横浜事件」は、決して過ぎ去った過去完了の弾圧事件ではない。うかと油断すれば、即座に、また新たな基本的人 権の苦難時代、主権在民のなし崩しに圧殺されて行く時代の、一序曲として位置づけられかねない、コワイ事件なのであった。
忘れてはなるまい。横浜事件は、私民の平和を侵す「公の犯罪」、主権在民を阻む「國のテロリズム」なのであった。「國」という権力機構は、国民に禍する「罪」を、じつに容易に犯し得るのである。公と称して国を「私する」からだ。
監視さるべきは、国民が公僕として傭っている、「政権」「政治」の方なのである。
横浜事件 1942年、雑誌「改造」に掲載された論文「世界史の動向と日本」をもとに、「共産主義を宣伝した」とする治安維持法違反容疑で、同雑誌などの編集者や新聞記者多数が神奈川県特高課(当時)に逮捕、投獄された、戦時下最大の言論弾圧事件。