ぜんぶ秦恒平文学の話

映画・テレビ 2015年

* 「大門未知子」のとは別の男医「相良先生」のドラマ後半二つの手術場面を面白く観た。こっちのドラマには、以前に時代劇で気に入った女優がいい看護士役で出て呉れる。大門未知子には情緒的になれるすき間もないが、この昔風にいう看護婦さんは、少し老人をドキドキさせる。ドキドキは大事なビタミンである。
2015 1/4 159

* それにしても疲れる。睡くなる。ガチガチに励まないで、大竹しのぶテレビでも見るかと思う、が、そのテレビが鮮明に見えない。「いま・ここ」を大事に大事に過ごすだけのこと。
2015 1・10 159

* 東工大の学生で、歌舞伎役者の名前を口にしたのは一人だけだった。その女子学生は中村吉右衛門が好きと言った。ただし歌舞伎舞台の播磨屋ではなかった、「鬼平犯科帖」の吉右衛門が好きですと。
その吉右衛門が演じるその犯科帖、鬼の平三のドラマを観て休息した。時代物の芝居シリーズでは、代々の「子連れ狼」や藤田まことの「剣客商売」と並んで吉右衛門の「鬼平犯科帖」は観るに堪える一つと思ってきた。吉右衛門の情と愛嬌とがしっくりと表現される。梶芽衣子や蟹江敬三や時に歌昇(又五郎)などがしっかり脇を固めてくれる。
今夜の主役を演じた床島佳子らもしんみりと涙を誘った。
役者は、どんな深刻な役、命懸けの役にも、どこかに花の愛嬌がものを言うている。「オーラ」である。それなくて一人前にドラマや舞台を勤められる訳者なんていない。主役級でも、なかなか、光背のように「オーラ」を負うている俳優や女優はいない。なにより先ず手前味噌、高慢の自我を殺せる愛嬌(愛想ではない)の花がなければ、どう口達者に生意気でも、お話にならない。

* ほんとうに久しぶりに「花」ということを吉右衛門の芝居から、口にした。創作という実には花が匂ってなければならない。咲いて見えるだけではダメ、匂ってでないと。
2015 1・11 159

* ドラマ「NCIS」の映画手法のめざましさを楽しんだ。朝早くには、黒いマゴに輸液しながら美空ひばりの映画「哀しい口笛」を驚嘆しつつ楽しんだ。品のいい津島恵子も懐かしいかぎり。それにしてもひばりの歌唱の凄いほどの底力。あのころは十歳にもなってなかったろう。
2015 1・13 159

* 暖かい一日だった。晩は「NCIS」を楽しみ、引き続いて窓辺太郎の税務署モノ二時間をみてしまった。およそ創作はうそくさいものだが、このドラマは造りそのものをはなから敢えてうそくさく連ねる逆手で、いつもすかっとする結末へ導いている。このドラマに賛成する何よりの拠点は、内閣総理大臣も含めてすべての公僕・役人が「仕えている」のは国民だと言いきってくれること。こんな簡明で自明の政治前提をなぜ国民はしかとわがこととして認識し主張しないか。なぜ安易に「おかみ」などと阿諛追従して奉りたがるか。
2015 1・26 159

* BSアーカイブの優れた映像と構成で、エリック・サティの、時代から新鮮に浮遊した音楽と生涯とを惹きこまれ聴きかつ観て楽しめた。ありがたい贈り物だった。「楽壇余人」の瀟洒で皮肉な天成に魅された。
2015 1・30 159

* 放送大学の講義を稀に聴くことは有る。古典、美術、歴史など。概して講義としては拙な例が多く、惹き込まれたことは少ない。少なすぎた。しかし、このところ高橋和夫教授の国際政治史ふうの講話は話術もおちつき進行も均衡を得ていて適切、分かりよく聴いていやすい。つまりは面白い。今朝の「アフガニスタン」にかかわる講話は単簡かつ適確に順序だった理解を誘い出して楽しくさえ聴けた。感謝。
2015 1・31 159

* イキのいい若い女優が、地中海の北岸を、聡くも元気にも快くも旅して案内してくれた。とても愉しくとても楽しかった。今日はイスラム國での無惨な死なれを胸に刻んだ。辛かった。それだけに、この平和な平和な懐かしげな地中海の旅の景色や場面は嬉しい贈り物だった。
2015 2・1 160

* 朝、友枝昭世の「菊慈童」をテレビで観る。昨夜は染五郎弁慶、幸四郎富樫、吉右衛門義経、太刀持ち金太郎の「勧進帳」を楽しんだ。昭世は「鞘ばしらぬ名刀」と評した当代屈指のシテ方、喜多流を背負っている。わたしの湖の本もずうっと応援して貰っている。
高麗屋では、観られるだろうかと待っていた「染五郎」の熊谷、寺子屋の松王丸、そして勧進帳の弁慶まで観ることができた。さ、今度は金太郎君。どこまで観られるか、それを想うと長生きしたい。歌舞伎役者は成長期のむずかしい年頃を克服してゆかねばならない。干支でせめてもう一回り頑張って待たねばならぬか。
2015 2・7 160

* 九時から二時間のドラマ、田村正和が殺人被告と竹内結子が新米弁護士役の『復讐法廷』は近来稀な力作だった。息を呑んだ。科白をあえて殺したような抑えた正和と情意溢れて新鮮な竹内結子の胸打つ組み打ちのみごとさ、こういう「劇」をみせてくれるなら二時間ドラマも生きる。大きな二重三重の花マルをあげる。
2015 2・7 160

* あのトルネード投法の野茂選手、わたしにはイチローに先駆した最高最良のスポーツマンと見えていて、その大リーガーとしての見事な活躍を、今朝、例の「今でしょ」先生がテレビに堂々取り上げてくれていた。嬉しかった。日本の野球界は野茂選手の偉大といえる先駆者としての十二分の成績と活躍また貢献にたいし、狭量なほど冷淡な気がしてわたしはそれを憎んできた。男らしいととのったいい顔のまさしくイケメン青年だった。彼の精神力と技術を本気で後進は受け継いで欲しい。
2015 2・8 160

* 新しいシリーズになった「NCIS」を相変わらずおもしろく観た。この捜査官たち一組の噴き上げる感動、あれは無垢の「身内」感だ。わたしのいう「身内もの」の優れた映像を見せてくれて、これからも楽しめる。
2015 2・9 160

* 八時「NCIS」 九時「お宝鑑定団」で休憩した。
2015 2・10 160

* 黒いマゴに輸液しながら、美空ひばり特集の後半を観かつ聴いて、何度重ねても新鮮な感銘に時に涙溢れた。
先日も書いたか、ひばりは祇園の子でいえばまさしく乙部の娘達の意気と真実と涙とをもって天才歌手の生涯を完成した。そう、わたしは思う。確信する。この観想はもっと言葉を確かに追い求めていいものと思う。
2015 2・11 160

* Dfileの毎日晩八時のそれぞれ一時間もの「NCIS」は、見遁せない。ただの五秒とムダな画面がなく、正味せいぜい四十五分、コマーシャルで切り刻まれながら、歯切れのいい見事に面白いドラマツが堪能できる。
どれもこれも海岸の絶壁やら建物の屋上やらで事件解決の「説明」をはじめる日本製凡百の犯罪ドラマなど、比べると紙屑にひとしい下手くそな映像としか見えない。あまりにムダな説明ばかりが多すぎる。
むかしの「コンバット」また「救急救命室」の伝統を継ぐ連続ドラマのお手本に、してほしいよ日本のドラマ屋さんたち。
2015 2・16 160

* リアルとは懸け離れていようとも、昔に比べれば迫真度を巧みに強めている、ドラマの中の手術場面や患者、家族達の思いには心惹かれずにおれない。「DOCTORS」など馬鹿げたドラマづくりなのに、やはり手術前後には引き込まれ、時に熱く涙する。生死に直面することの凄みであろう。犯人逮捕、事件解決などのウソクササとは比べがたい切迫度が「手術」には、ある。
22015 2・19 160

* 歌舞伎座で観た法界坊の内の所作事「双面水照月」を妻と楽しんでテレビで見直した。吉右衛門の幽霊が錦之助と芝雀にからみつき、又五郎の女船頭が観音像の功力で抑え込む。こんな所作事を妻も今ではしんから楽しんで観る。ちょいと嬉しくなる。
2015 2・20 160

* 映画「グランブルー」完全版を見終える、何度見ても震えを覚える。エンゾ(ジャン・ルネ)にしても、ジャック・マイヨールをモデルにしたジャッキにしても、「海」の底へ帰って行くことをこそ人生と思い決めている。ふたりとも潜水病に冒され、自ら海底へ帰って行く。陸に愛する女がいて子までなしていても、なお最期と覚悟すれば海底へ帰らせてくれと頼んでいる。
なぜそんなに海の底が佳いのか、なぜいつもいつも海に身を任せるのか。陸へ、この世へ「帰る理由がないから」とジャックは恋人に云ってしまう。凄い言葉だ、が、わたしが此の映画に心底惹かれてやまないのは、この現世へ「帰る理由がない」という言葉に全身全霊で反応してしまうからだ。
2015 2・28 160

* 午後、裁判員制度を考えるドラマ「家族」が、認知症患者と家族とのかかわりをめぐって、認知症問題でも家族という観点からも裁判および裁判員制度のありようを衝いても、力作だった。家族に迷惑を懸けたくなくて死にたいと願う患者(認知症患者)を他者が死なせ得るか。
その当時、事情あって全く没交渉であった多年闘病生活のわたしの生母にも、おそらくはこの問題が関わっていたことだろうと察している。もっとも母は「生きたかりしに」と辞世歌を遺して死んでいった。どのような死であったにせよ、なすべきをみな成し済し終えて母はおそらく自死を受け容れたに相違ない。認知症ではなかった。意志の感じられる死であったろう。
実父はどうであったろう。
実兄の自死もまた母に似ていたか、強い意志の感じられる最期であったか。わたしは、意志的に兄の最期を見送らなかった。わたしを置いて自ら死んで行くのを肯定したくなかった、わたしの中で、元気なときの表情と声音のまま生かしておきたかった。わたしはいまでも兄恒彦は死んでいないと思っている。そう思っている。
2015 2・28 160

* 機械の前へ来るまで、階下で、映画「アナスタシア 追想」に感嘆していた。バーグマンとユル・ブリナーとの精確を極めた情のこもった演技。第一級の美術品を観ているようだった。最高に好きな女優と男優との機微を燦めかせて静かに落ち着いた情熱。まるまる目が離せなくて観おえてきた。
ああ、もし好きな映画、藝術として高く高く評価し感動してきた映画を十選べなどと言われたら…。舌を噛み、眼を閉じて、辞退するしかないなあ。数えれば内輪にみて三百ちかい録画をもっているが、佳いと、好きと思った作がほとんどなのだ。
好きなのが多すぎるのかなあ、映画でも美術でも音楽でも、…。
2015 3・6 160

* 十時。なんとなく茫然としている。八千草薫をマドンナの「寅さん」映画に笑って泣いたからかも。読むべき字の見えなくて読めない情けなさに、か。やすみやすみ、やるさ。
2015 3・14 160

* 黒いマゴの輸液から映画「禁じられた遊び」を見終えて泣いた。
母でも父でもない、わたしはポーレットのように「ミシェル」を捜していた、ほとんど命懸けで捜していた。
2015 3・17 160

* どうっと疲れが出たか、幾らかは呑みすぎか、寝入ってしまい白鵬の「強かった」相撲も見落とした。輸液のとき、アン・ヘッシュというコザッパリと元気な女優がハリソン・フォードと出会う軽い映画を半分ほど観ていたが、消して、二階へあがり書きかけの長編の進行に没頭、知らぬまに十一時過ぎて、眼はまったく霞んでいる。
2015 3・19 160

* あれは、ニコラス・ケ-ジか、それとシンディ・クロフォードの録画「フェア・ゲーム」を、半分まで観た。十ぺんも観ているだろう、画面は元より出てくる科白も覚えている。それでも面白く見せる通俗な娯楽作。テレビ画面が大きいので見えているが、目はなかば閉じている。閉じているのがラクなのである。鏡に写すと、眼をしかめた顔がまこと情けない。楽しいことがないものか。結局は校正しているか創作しているかで、それが一に何より。やれやれ。

* 二敗の関脇照の富士が大関豪栄道を振り回すように圧倒し、一敗の東の横綱白鵬が西の横綱日馬富士を熱戦してやぶった。二番を放送映像で観た。
白鵬をスタジオに呼んでインタビューしたのは良い、だが一言も殊勲と敢闘賞に輝いた照の富士の相撲、横綱が彼からきっした一敗の相撲にたった一言も触れないインタビュアーにも放送姿勢にも、むしろ不快を覚えた。放送という名のジャーナリズムが死んでいる。あれはNHKだったと思う。フェアでない。
2015 3・22 160

* 十時前だが、もう機械から離れ、からだをラクに、ゲラ校正しながら安定剤リーゼを頼んで、熟睡したい。さっきまで映画「抱擁」を観ていたが、松本清張のつまらないドラマに切り替えられたのでテレビからも退散。
2015 3・25 160

* 黒いマゴの輸液から、映画「抱擁」を見始めていた。原作も読んでいる。わたしが最も読みたかったと望む傾向の秀作の一つである。まるでわたしの書きよう追いかけように似ている。
2015 3・26 160

* 映画「抱擁」を見終えた。何度目か、で、今回はひとしお心に沁みた。原作を読み直したくなった。わたしの読みたい本、読みたい作品である。こういうふうに書いてみたく、こういうふうにわたしも書いてきた。「秋萩帖」を読み終えて、ひとしお胸に沁みた。
すぐれた創作世界に触れると、うそくさい安倍晋三時代など臭い煙になって失せる。
2015 3・30 160

* 晩、たまたま、十八歳未満のカラオケ王者決定戦を見つつ聴いた。審査員が採点するのでなく、カラオケの機械が得点を機械的に算定するのが興味深くて。三位までで決勝戦をし、小学五年生の少女が王者に無なったが、二位も三位もなんという歌のうまい少女達であったことか。その一方カラオケの完璧なコピー技術を作りあげるようで、歌が個性で生き生きと光るわけでない。要するに「うまい」けれど「歌」そのものが胸を打つのではない、美空ひばりの歌のように。
2015 4・1 161

* 岸恵子がマドンナの寅さんを笑って観ていたが、例によって辛くなり始め、逃げだしてきた。
2015 4・4 161

* 映画としても傑作に数えられる井上靖原作の「敦煌」後半をとっくりと楽しんだ。西田敏行の武将ぶりに初見のときから感動していた。 三国連太郎の息子佐藤某もよく働いていた。田村高広ら、懐かしい佳い男優の若い日の群像が楽しめた。
2015 4・12 161

* 作家建日子が、テレビの物識りクイズ番組に「作家・漫画家」グループの一人として参加、顔と恥とを曝していた。クイズに正解できないから恥なのではない。
「作家」のつもりなら、胸を打って人を励ます創作に励め。愛読者やフアンに落胆させ恥をかかせてはいけない。
2015 4・13 161

* 林修先生と木村拓哉クンの番組をみていて、たくさんな画面とともに色々教わった。以前から木村拓哉だけは演技者としても、人物的にも個性的なインテリジェンスの持ち主と観てきたが、あたまの廻転もはやく言葉の斡旋にもシャープなものがあり、彼をじっと観ているだけで面白かった。「イケメン」などということには興味がないも場面と機械に即応してビビッドなセンス。十六日版からの上戸彩とのドラマを注目したい。二人とも燃えるようなオーラを発していて、さもしい感じが全然無い。かなり高慢でもあるだろうが、そういう坂道をのぼっているのだろう、それはそれ。大事なことは矜持と実力。
2015 4・14 161

* 切り裂きジャックにからめた臓器移植主題の事件ドラマを観た。手堅くつくっていて、終幕には涙を誘われた。
2015 4・18 161

* 映画「ブーリン家の姉妹」をこのところ繰り返し二度観た。凄いとは、これ。佳い映画とか良くない映画とかの問題でなく、世界が凄い。けものの世界だ。イギリスはだから怖いともだから興味深いとも。しかし一見にも二見にも優に値する歴史ものである。
2015 4・23 161

* 映画「陽のあたる場所」は苦い作だった。エリザベス・テーラーの美貌と殉情とだけが全編の魅力みどころで、もともと陰気くさいモンゴメリ・クリフトは好きになれない俳優。しかも彼がまるきりスカタンであった。陽のあたる場所を望んだ気持ちは哀れに分かるが、同情や共感の余地が無い。「ブーリン家の姉妹」の姉メアリの方が、いやらしくはある、が、ギリギリいっぱい懸命に欲望し暗躍し、狡猾に生きて哀しく死んだ。「陽のあたる場所」のイーストマンが死刑にされるよりも、断頭台のメアリの方が性格として割り切れていた。
2015 4・25 161

* 「半落ち」というドラマがしっかり見せた。主役以下、柴田恭兵も樹木きりんも鶴田真由らも、みな、かっちりと芝居が出来ていた。臓器移植、死なれ死なせた悲哀や自覚の喪失、そして嘱託殺人等々の難しい問題を積み重ねながら着々とドラマが醇化していった。テレビドラマのどれもがこの水準であれば優れた文化という可能性ヵが持てるのに。
2015 4・25 161

* いまの政権独裁へ比較的キチッとした懸念と批判をしてくれているのは、膳場貴子さんがリードしているTBSでの岸井氏ぐらいか。期待を込めてこの二人の今一歩も二歩も踏み込んだ報道を期待している。
どこかの番組では識者が明瞭に安倍総理がアメリカでしてきた演説の中で、過去日本軍の海外に為した行状を、「せめて明確に謝って欲しかった、面子の問題でない、誠実な姿勢の問題だ」と話している途中で、ブチ切りにコマーシャルへ廻して二度とその発言者を写しもしなかった。マスコミの劣化、政権への翼賛化、目に余る。
2015 4・29 161

* 気疲れか。病院の待ち時間に校正ゲラを読み過ぎてか。ちょっと安心してか。夕過ぎるまでぐっすり寝入った。
晩、録画映画「ル・ポストイーノ」を静かに。それはそれは、佳ーい、映画。そして哀しい。こういう第一級の作品に心ふれていると、どこかの国の総理の大見得の演説など、ただ、うそくさい。
「選集⑧最上徳内」につづく「選集⑨」の内容を決めた。「選集⑩」も、ほぼ心に決めた。
2015 4・30 161

* 晩、「時」というこわい題の、静かに静かな凄みの洋画をみた。メリル・ストリープやニコール・キッドマンら凄みの利く卓抜な演技派女優を何人もならべ、名優エド・ハリスを芯におきながら、女流作家ブァージニア・ウルフの小説に取材の、難解で深刻だが喩えよう無く魅力ある映画を、録画からえらんで、妻と観た。
後刻、「夕日ヶ岡三丁目」とか云う好きな映画のあれで三作め位なのを楽しんだ。薬師丸ひろ子が好き。今回ではひときわ堀北真希が好きだった。人品というのは疑いなく目に見えて人の心をうつものだ。
いまひとつ、この映画で描かれる「作家」志望の描き方は、わたしの想いでは、つくりばなしめく。
2015 5・1 162

* 世界的に卓越してすぐれた歴史家として知られる、アメリカ、マサチュセッツ工科大学のジョン・ダワー教授の、TBS取材談話をたっぷり聴いた。諄々と説きすすめる談話は、みごとに整備されていて、その核心は、戦争へ戦争へ政治が舵を取ることの悲惨さ、日本の戦争から得た最も大きな宝は「平和憲法」であること、日本がアメリカのあたかも前衛を引き受けて戦闘準備に奔走することの愚かさなど、沖縄についても、戦争への深い反省からまなびとらねばならぬことも、縦横に語って、まことに理路に富み説得力豊かな内容で、身を乗り出して聴き入った。安倍総理と自民政権は、「はっきり間違っている」と云いきっていて、その論点も論旨も、すべて、わたしなどが云い、思い、憂えてきた内容を百パーセント裏打ちしていた。感銘を受けた。再放送をぜひ願うと極へ電話した。憲法記念日を明日にひかえ、TBSの志向と論調にこのところ多大の共感を持っている。朝日も、渾身の誠意と力量とで、もっとシャンと働いて欲しい。いまやNHKは政府御用を務めている。危険極まりないジャーナリズムのピンチに、ダワー教授の冷静でしかも熱と力にみちた談話は素晴らしかった、有り難かった。
安倍政権は着々とマスコミ向けスポークスマンを飼い慣らしながら、あきらかな亡国への戦略に耽っている。コメンテーターの質をよくよく見極めないと危ない。もうやがた徴兵を口にして総理に阿諛する議員が、ひょっとして女議員らが現れかねない、用心したい。
2015 5・2 162

* 渡部泰明教授の放送大学古典和歌の講義を、歌枕としての各時代の吉野山について、また和歌・俳諧の伝統に於ける「霞と時雨」について、とっくり聴いた。放送大学の講義は概して講義のすすめかたが陳腐であったり鈍重であったり独り合点に過ぎたりして時に聴くに堪えないのが混じるが、今晩の渡部さんの古典和歌の語りは聴きやすく分かりよく、大いに共感して妻と一緒にこころよく楽しませてもらった。和歌、好きだなあとしみじみ思った。
2015 5・3 162

* もう大分むかし、大阪の松尾美恵子さんが平家物語の延慶本研究を一冊にされた仕事にもすこぶる教えられた。
小説では、早稲田の文藝科で「行けよ」と背中を押してきた角田光代が、我が家で小説をこそ書けよ書けよと励ました甥の黒川創ががんばっている。息子の秦建日子も、いろんな読み物を書いては、しっかり稼いでいるようだ。読み物小説よりは、時代の水準をするどく突き抜いた劇作に期待したいが。
もう一人でも二人でも、わたしの近くから創作や批評の真摯な実力で世に出て欲しいなと願っている、のだが。
こう云ってはワルイかもしれぬが、映画「夕陽が丘三丁目」だったかの中の作家志望ないし売り出しようは、信じにくい。あのような苦心惨憺のウリは、逆にうそくさく見える。髪の毛をかきむしって地団駄踏んでみても、作家になるにはいろんな才能と開発とが不可欠。その見極めがどうなっているのか、だ。ことに「龍之介」を慕う純然の文学に花咲かせるためには。
2015 5・3 162

* 晩がた、渡部泰明さんの古典和歌の講話、それも今晩は和泉式部の名歌を数々引き合いに、男、女、子、神までふくめ生の悲しみにも死の重みにも幾重にも触れて聴き応えのする話されようだった、ふと涙ぐむほどだった。

あらざらむこの世のほかの思ひ出にいまひとたびのあふこともがな
暗きより暗きみちにぞ入りぬべしはるかに照らせ山の端の月

まことや…と胸にとどく。男なら西行でもよい、女なら和歌は和泉式部に極まると久しく思ってきた。拾遺、後拾遺また千載集の和歌を繰り返し返し読んでひたすら愛でて飽きないには、和泉式部への愛がある。

* 霞んで見えない目をやすめやすめ、今日も書いて読んで、そしてテレビもながめていた。テレビに出てくる人の見当はついても顔が見えない。
これでは、自転車が危ない。疲れる自転車での遠出は、したくても已めた方が良い。
2015 5・4 162

* 作業をつづける。その間に、趣のまるでちがう録画映画、シャロン・ストーンの「グロリア」とハリソン・フォードの「K19」とを観た。好きなシャロン・ストーンと子役とが良く、また、ソ連の原始潜水艦の原子炉故障による悲劇を描いた後者も感銘もの。
2015 5・9 162

* 竹内結子主演の刑事物映画をたいそう面白く惹き寄せられて見終えた。二流の娯楽ものに過ぎないが映画の作法はしっかりしていた。どこかで抜けているというところの無い手だれの作であった。
2015 5・9 162

*今晩は九時から、藤田まことの剣客商売を楽しんだ。小太郎・みふゆの若夫婦役も小気味よく凛々しくて、時代劇の中では、一、二に好きな連続モノ。おはるが剣客秋山を舳先に乗せ棹をつかって舟を流して行く風情が佳い。
2015 5・10 162

☆ 昨日「グロリア」を
ご覧になったのですね。私は「グロリア」は観ていないけれど、先月録画した「レオン」をちょうど見終わったところでした。「レオン」は「グロリア」に影響を受けたと言われているようですが、この映画はご存知でしょうか。
「君を一人にしない。君は生きる希望をくれた。一緒に生きよう。愛しているよ、マチルダ。」
殺し屋のレオンと少女の愛を、「身内」と呼ぶのだろうかと、レオンの最期の言葉を反芻しつつ思いました。
いつも以上に、今回の発送は気も体もお遣いになっていたことでしょう。
休日明けも終日作業でしょうか。お疲れが出ませんように。  黍

* むろん「レオン」も何度も繰り返し観ている。ジャン・レノとの出逢いだった。彼の映画としては「グラン・ブルー」がさらに優れていた。これこそ「身内もの」と謂える名品だった。「レオン」では、双方から一致の「真の身内愛」は成立していない。
2015 5・11 162

* 映画「ダイハード2」を観ていた。シリーズ作のなかで、第一作のナカトミビル事件よりも図抜けて、一等痛烈におもしろい。ブルース・ウィリスは決してこんな活劇にかぎらず渋い地味な役の佳い映画にも、冷徹な悪役映画にも、成績を残している。ガッカリはさせない俳優の一人だ。
2015 5・16 162

* しごとらしい何も今日は出来ず。晩は、何度も何度も見てきた潜水艦映画をハラハラしながら見ていた。黒いマゴに輸液したら、本など読んで、リーゼを服して、寝よう。
2015 5・21 162

* キムタクと大の贔屓の上戸彩とが演じている「アイムホーム」を時折見ている。血縁家族のあいだの微妙な断絶を問題提起の断続の中にあらわしていて、わたしのように複雑に過ぎた幼少期をへて大人になってきたモノには、ややゆるくは有るけれど大方の人には見過ごされている微妙な危機的罅割れを上手くドラマへ持ち出している。
生みの母のことをひとまずは形にした。実の父のことには、手は掛けかけてはいるが、どうなるとも分からない。母の場合は大げさには名誉回復してあげたい気持ちが働いた。それだけ、わたしの内側に愛情ではない敬意が生まれていた。少なくもわたしが懸命に整理し得た母の短歌には、真摯なつよいリズムが息づいていて、強く肯くことにためらいがない。生きる短歌、うったえる「うた」としての短歌を母は死ぬる日まで胸の奥から噴き上げていた。けっして泣き言の歌なんかではなかった。
父の遺している文章や記録は大量にのぼるけれど、終始謂えることは、歎きと逃避と敗北のグチに近い。だれもが穏和で頭のいい坊っちゃんだったと教えてくれるが、敬意はくみ取れなくて、触れて行くのはかえって気の毒という気がしてしまう。
2015 5・28 162

* 物識り小父さんが、フジテレビで、「韓国」の不思議を盛んに講釈していて聴いていた、が、なんとなく、聞き苦しい気持ちになった。なにかしら、わるく煽っているようなイヤな空気にならないといいと思う。難しい関わりを大昔からしてきた両国。ことさらに「嫌い」感情を煽ってはなるまいに、両国ともに。
わたしは韓国朝鮮半島の歴史にきわめてうとかった。せいぜい陶器くらいにしか関心がなかった、が、それではいけないと思い、随分以前に意図して買っておいた「韓国古代史」前後巻を読み始めたところだ。著者は韓国の碩学、古代史の第一人者。興味深い。叙述も確かで信頼がおける。
2015 6・5 163

* 映画「キングダム オブ ヘプン」を何度目か、また面白く観た。十字軍という西欧の発起にほとんど共感を覚えないわたしには、秀作というに値する映画だった。

* テレビト゜ラマでは、キムタクと上戸彩の「アイムホーム」が無気味に迫ってくる。 2015 6・12 163

* 昨晩、大原麗子の出た寅さん映画にしんみりした。この女優のものあわれな最期も想い出され、ひとしおの感があった。独特のひび割れたふうの美声と美貌で、好きだった。もっとも、藝の立つ女優ならたいてい敬愛するし美しくて藝達者なら言うことはないのだ、わたしは。みんな好きになれる。なんというトクな、楽しめる性質だろう、わたしは。妻と待ちへ出歩いていても、何度でも、オ、あの人美人だよと口にし、それだけで機嫌がいい。美術館ほど美しいのが揃った街なかではないにしても、美しい人に出会う幸福感はすてがたい、ただし顔かたちは美しいがバカまるだしという女性もいる、あれは論外。
我が家でいま妻もわたしも口を揃えて敬愛する女子アナは、オーラも豊かな、TBSの膳場貴子さん。二人とも「膳場さん」「膳場さん」と敬っている。

* そういえば、このところよく録画した映画を楽しんでいる。「キングダム オブ ヘブン」もよかった。今日の昼間に見た、クィネス・パルトローらの「恋に落ちたトェイクスピア」が、シェイクスピアの「ソネット集」を読んだおかげで、とてもとても興味深く面白かったし、晩に見た、大好きなジョディ・フォスター主演の「コンタクト」にも心揺すられかつ魅された。活字を長時間読んだり書いたりしていると眼がイカレてしまうので、目のお休みに佳い映画を見る。よく選んで録画してある映画に比べると、テレビドラマの低調・俗悪にはウンザリする。
2015 6・15 163

* 昨日見た映画「コンタクト」で地球人を代表して異星世界を訪れる科学者たちの資格に、「神を信じているか」が問われていた。主役の女性科学者は明言しなかったため選から洩れた。
わたしは、神について言葉では触れたくない。佛についてはやや異なる方角からの視線も信仰ももっているが、声高に語る気はない。
いま、人類の不幸が「神ないし信仰」を棘にして烈しくあらびつつき合うことにあるは周知である。わたしは、そのような神や信仰に決定的な距離を置いている。信じないし、信じたくもない。そういう人は、現代人は数にすれば圧倒的多数をしめているだろう、神は死んだか、争いの種になるだけの神にはいて欲しくない人が、断然多かろう。しかし究極、人間の不幸はそのような神の名のもとに徹底的に自滅へ向かうだろう。

* いま、もし「信仰」について謂うなら、人々はあの神様や仏様ではない、即ち「お薬・お薬めく化粧品」の類をもっとも信仰しているように思われる。
現代信仰の本尊は、宣伝に宣伝されている数え切れない「やおよろづ」の「おくすり」に他ならない。ご利益として健康と美容を恵まれるのかも知れない、が、その軽信、妄信、狂信のもたらす行方はとうから見えている。すなわち、智慧の鈍磨と喪失である。
2015 6・16 163

* 黒いマゴに輸液しながら、映画「ゴアの恋歌」を、暫くぶりに全編、一気に観た。映像、語り、唄、人物。完璧の魅惑に圧倒された。
わたしの数多い、まことに数多い、無数とすらいいたい映画鑑賞の経歴で、この一作、ベストテンの中に躊躇なく選ぶだろう。
ゴアはインド大陸にあって西欧とアジアとの絶好の中継都市。ポルトガル本国に根を置き、取り囲むインドとの軋轢の中に、いま攻防の危機迫って孤立している。
そんな背景の中での名家ソアレス家の哀愁あふれる瓦解の経緯が、語り手の思い出の中でへしみじみと蘇る。美しく、懐かしく蘇る。ポルトガル演歌の「ファド」のメロデイが心を揺さぶりながら、西欧と東洋の世界観や思想がうら悲しく泡立ち入り交じる。美しくも懐かしくも入りまじる。どこか、あのチェーホフの櫻の園や三人姉妹を思い出させるもののあはれがある。
時間を惜しみながら、しかし、テレビ画面に映る物語から身動きならなかった。痺れていた。
2015 6・17 163

* お宝鑑定団を見ていた。伊万里も竹田も、ダメなのはすぐわかった。ガレなど、マットウなのもすぐ分かった。
所蔵のもの、選集や湖の本の相当な費用に充てるため、確実な逸品からさきに、実は次々「処分」している。私存命のうちに、のちのち禍のタネに成りかねない品ほど、惜しみなく処分しておこうと決めたのである。残り物に福など、何一つ無くして置く。
とはいえ、実はそれらと取り換えても欲しいと思っている物がある。名作の、短剣か懐剣。むかし、敗戦直後に秦の母が丹波の疎開先で、箪笥の底からとりだして占領軍に差し出してしまった大小二振の日本刀が、今頃になって惜しまれる。人を斬ろうなどと夢にも思わないが、わが煩悩の雑念は斬って伏せたい。日本刀はほんとうに美しい。清い。
2015 6・21 163

* 昨日、休息しながら、ラッセル・クロウ主演の映画「グラディエーター」を久しぶりに見た。マルクス・アウレリウスの将軍と王子との烈しい葛藤と相克。グラディエート(剣闘技)は、ローマ市民最大かつ常習の逸楽であり興行であったとか。わたしは、可不可は問わずこういう歴史物の映画は勉めて観てきた。読書とはまた異なる視野を与えられるから。
2015 6・25 163

* 映画「デイ アフター 2020」を観た。前半は昨日、後半を今晩。2020とはトウキョウオリンピックの年。何が起こっても不思議でないほど地球は人間の手で弄ばれており、どんな竹篦返しがあっても不思議でない。

* わたしは一言で今の世と政治とを本意なく眺めている、即ち、「うそくさい」と。
その象徴的にうそくさい日本語を、わたしは、こう見ている、即ち、「ナント」 「マサニ」 「スゴイ」と。
2015 6・26 163

* ポール・ニューマンとエヴァ・マリー・セイントらの映画「栄光への脱出」後編を固唾を呑んで観た。イスラエルとイスラムとの共存と平和を願いあいながら、戦闘と殺戮とテロとに終始せざるをえない軋轢、その背景に支配国であった英国の、その背後の米国の、また英国が撤収を決めたあとへユダヤ殲滅の意図をもって介入してくるドイツと。なんとも謂いようのない複雑な悲しみと怒りと怨讐の念とのみが画面に停滞したまま悲劇の極を味わいながら映画は終えたが、エルサレムの現実はガンとして残る。ポール・ニューマンの最期の弔辞はみごとに美しいけれど、また限りなく力弱いまま終わるのだ。
さして、いまや、ISテロの残虐な展開。神の愛と崇高とをどう信じればいいというのか。
もっともっと繰り返し観たい映画、次の機会の放映を待望する。
2015 6・28 163

* 昨晩観た映画「栄光への脱出」が、じつは現在無惨な悲劇の横行となって殺戮の日常化激化劇が中東に、欧米に、拡大している。日本の政治家に、ただに他国追従の「一つ覚え」のような念仏を唱えているヒマに、神と人と政治との隘路をぬくフィロソフィーを培って欲しい。自称する哲学者、宗教家、教育者たちよ、胸にひびくモノを生みそして語り、率先して実践してくれ。作家達も詩人達も、創れ、書け、語れ。
2015 6・29 163

* 鑑定団で、曽我蕭白のすばらしい屏風絵を観た。若描きに類していながら圧倒的な奇想が精確な表現を得ていて感嘆した。
2015 6・30 163

* 京は嵯峨の大河内山荘の映像を観ていて、あまりの懐かしさに涙溢れて此処へ逃げてきた。京都の文化的な歴史的な価値をわかりすぎるほどわたしは分かっていて、恋しい。いつ、帰って行けるのだろう。
2015 7・5 164

* 「湖の本 126 生きたかりしに・下巻」出来てきて、発送作業に終始した。作業しながら、なでしこジャパンの準優勝に終わった健闘も楽しんだし、超美貌の澤口靖子「科捜研の女」や颯爽としたデーモン未知子の「ドクターX」なども楽しめた。しっかり頑張ったので今回の完結巻発送は、うまくすると明日で作業を終えられそう。
2015 7・6 164

* 午后、なんとはなしに途中から、森繁久弥らの映画「社長忍法帖」を見て、ひさびさに盛んに腹から笑わせてもらった。ああ、時代は、こんなにも変遷変化してきたんだ、いま、どこにこんなナンセンスにゆとり沢山な空気が残っているだろう。一つには俳優女優達の懐かしさにも引き込まれた。森繁の巧さはもとより、加藤大介、三木のり平、小林桂樹、フランキー堺らの間のいい上手い芝居、また久慈あさみ、新珠三千代、司葉子、團令子、池内淳子らの懐かしさ。あの昔にはこんなバカげた喜劇へ見向きもしなかったのに、安倍臭い空気を呑み込まされている今日には、まことに貴重な清涼剤と見られたのだから、感謝した。

* そして贔屓の松たか子がキムタクと一緒に驚異的な視聴率を稼いだ「ヒーロー」にさえ、みうしなってしまった何かへの懐かしさを覚えたのは。よくよく、今日只今の日本の政情に吐き気がしているのだ。
2015 7・11 164

 

* 映画「ランボー」の三度目か四度目の作を観ていた。妻は「ランボー」は苦手だというが、わたしは作意を貫いている傷み、悲しみに惹かれる。ベトナムで の闘いが、横柄で独善的なアメリカ帝国主義の身勝手で悲惨な経過を経、その中で命懸けで闘った兵士達は自国・故郷へ帰還しても、同朋からも国からも愛され なかった無惨さ。その悲しみと怒りとをシルベスタ・スタローンは全身で表現し、わたしは彼と同じ悲しみ・怒りをつよく共有する。シュワルツネガーの活劇 と、スタローンの「ランボー」とは質が、主張が、訴えてくる実感がまったく異なっている。見始めたら眼が放せない。
安倍内閣の今回の政策からすれば、もしもまたベトナム戦争のような戦争の際は、ランボーではない日本の若者が尖兵として借り出されかねないのだと想うと、やりきれない。
2015 7/15 164

* ショーン・コネリーやロバート・レドフォードらの激戦映画「遠すぎた橋」は無惨だった。無理な作戦の強行で兵の八千人が死に、街も住民も壊滅し、かつ がつ撤退してきた兵らに、司令官は、作戦の85パーセントは成功したんだと言い放ち、シレッとしている。後方も兵站もへちまも無い、これが「戦争」だと映 画は教える。おそらく、今度起きる大戦争は、こういう肉弾戦の以前に大量破壊兵器の使用でもっと多数が凄惨に死ぬだろう。この企画された映画放映の意図 は、安倍自民の暴走を批判していると読み取りたい。

* 憲法学的に見ると、安倍政権はすでに専制権力だという。恐ろしいことだが僕もそうだと思うと石川健治氏(東京大学法学部教授)は言われる。「私たちの国は安倍晋三らに乗っ取られた。あれは安倍政権によるクーデターだった」と。
現在完了形で言ってのけて、そのままで済ませることではあるまい。
2015 7・19 164

* 映画「ターミネーター」はシュワルツネガー映画の価値ある警告。機械に占領され毒された地球と人間の悲劇の未来、未来なき抵抗と闘争を予言する映画。電車に乗っても街にいても、うつけ顔で若いのも中年も、老いまでも機械に魂を奪われている。
ここまでは使う、この先は縁を切るという機械との付き合いが出来ない限り、人間の機械化という死現象は日ごとに広まる。おそろしくなる。
2015 7・24 164

* 田原総一朗を最高齢世代に、各世代が集ってNHKWが「玉音放送」全文を仔細に読んで語っていたのは有り難いことであった。天皇の声と 言葉とに涙が噴きこぼれた。
今年の夏は、この種の番組に「アベ政治を許さない」必死の気組みがくみ取れる。

* 終戦を国民に告げられた昭和天皇のポツダム宣言受諾および国民の復興への邁進を願われた NHKラジオ放送にかかわるドキュメンタに近いテレビ映画を観た。感動した。いわゆる玉音放送の実現に到る下村宏、当時、鈴木貫太郎内閣の情報局総裁その 他の懸命かつ聡明な努力に深い感謝を覚えた。
こういう人達が、いま、暴走する安倍好戦内閣の近隣に、党内に、閣内にいないらしいことの情けない不幸を、哭き歎かずにおれない。そして、また、

戦争に負けてよかつたとは思はねど
勝たなくてよかつたとも思ふわびしさ   みづうみ

の実感も濃い。東条内閣のまま、もし対欧米、対中国で勝っていたなら、日本の政治はどうなっていたか。おそらく天皇制なども紙屑のように劣化していたのではないか。欧米の帝国主義をはるかに凌ぐ軍政帝国主義が吹き荒れていたであろう。

* 平和憲法は、しみじみ有り難かった。よかった、ともなう瑕疵の幾らかが仮にあっても平和裡に憲法の定めに従いつつ改正可能であったろう。

* いまここに詔書全文は挙げて示さないが、わたしは、天皇の詔書の本旨において、戦争終結の万やむをえず、逸れなくして国家国土国民の存続が成しがたい という認識、それを決死の決意をもって為され成された一点において、感銘し感謝し感動するのであり、そのよの文言に多くは囚われたくないと思っている。聖 戦であったが衆寡敵せず負けたというような言い訳の部分には、文脈のひつぜんこそ認め得ても、必ずしも全面的に肯んじることはしない。
但し一点、「加之(しかのみならず)敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻に無辜を殺傷し惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至る而も尚交戦を継続せむか終に 我が民族の滅亡を招来するのみならず延(ひい)て人類の文明をも破却すべし」とある抗議表明に、わたしは、満腔の同意と謝意とを明らかにしておく。無辜の 市街の絨毯爆撃ももとより、原爆無惨非道の攻撃に対して、今日まで、日本政府は一言の正々堂々たる抗議も責任追及もしていない。ひとり昭和天皇の上のお言 葉が在るのみ。遺憾に堪えない。恥ずかしくすらある。                                    2015 8・1 165

* 気持ちが妙にザワついている。夢見が荒かったのか。「リチャード三世」を読み、建日子の「アンフェア」を読み色川さんの「戦後七十年史」を読み、玉音放送の映画を観て……心悲しむばかりだった。
よろこばしく励まされる、うれしく身に沁む、そんな美しさに触れたい。
いまこの機械に向かっている席からなら、谷崎松子夫人の、女優澤口靖子の、そして数点の絵の品の佳い美しさに見入って気持ち落ち着く。
2015 8・2 165

* 池上彰の「教科書に書かれない戦争」証言番組を感銘深く観ていた。若い聡明な人達が観て、日本の前途をよくよく考えて選択して欲しい。もうわたしは、 日本の中年には期待できない。
2015 8・4 165

* 「貴皇后」という韓国ドラマをときおり観ていたが、今夜総集編の第一屋を観た。元と高麗とにはげしい軋轢のあった頃の物語らしく、史実か虚構かも知ら ないが、秦漢の昔から中国の王朝の強い支配と感化とを受けながら独自の朝鮮半島を構成してきた世界であり、興亡と建国との歴史は日本のよりは輻輳を極めて 難解。だから興味ももてる。おもえばこの数年の内に、上古来、近世近代にもいたる韓国時代劇を意図的に観るようにしてきたが、歴史の学習には、それらから の導きも得られるだろう。
2015 8/9 165

* 録画しておいた「永遠の0」第一話を感動とともに見終えた。ここ近年のテレビ映画では最優秀作の一つだと、胸をつまらせながら食い入るように観た。こういう秀作を観ると、「相棒」などを先頭にした刑事殺しもののたぐいの芯の無さ、感動の薄さ、つまらなさが情けない。

* それにくらべプライムニュースへ顔を出した西尾幹二と曾野綾子、ことに西尾の曖昧と誤謬とを搗き混ぜた詭弁の大乱発には呆れかえった。文学を語ればしっかりした批評家なのに。道をまちがえて、自分自身を見失っている。哀れを極めていた。情けない。
2015 8/12 165

* テレビ映画「永遠の0」第二話をしっかり観た。
2015 8/13 165

☆ 永遠の0
一話ということは、テレビの特別ドラマ版の方ですね。
先日、地上波初放映された映画版の方を、見ました。
あの百田さんの原作ということは一先ず置いておくとして、どこをどんな風に切り取って語るかで、作の印象、意味ががらりと変わってしまう感じを受けました。
(まだ最後までご覧になっていないようなので、内容については触れない方がいいですね。)
こちらは上着や靴下が必要なくらいの肌寒さ。
まるで避暑地の高原のような風が、丘の下、川の方から吹き上げていました。
東京も、少しF涼しくなりましたか。
お酒、飲みすぎないように美味しく召し上がって下さい。  黍

* 「永遠の0」第三部を見終えた。ドラマとしてよく終始をととのえ素直な感動も誘った。見応えあった。
2015 8/14 165

* 橋本忍脚本、岡本喜八監督「日本のいちばん長い日」を心構えして観た。この同じ映画を過去に数回わたしは気を入れてみており、今日もこれをテレビが放映してくれるのを望んでいた。ここへ、ここへ立ち帰りながらわれわれの国を思わねばならない。

* いま賛否もろともに国を挙げて「戦争」ということを思いかつ口にしているが、重要な視点が落ちている、あるいは「戦争」以上の地獄苦を迎えかねない少なくも、もう一つのことを。その地獄苦は、世界中のどの国にも起こりえて、事実その過去例は数え切れない、即ち、その「地獄苦」とは、敵性国の兵ならびに民衆から受ける、それも多年に及ぶ解放の希望なき「被支配」のそれである。
戦争には死と激しい災禍がつきまとう。その苦痛と悲劇は言い尽くせないが、また事情異なって国土と生活とが日常・平常にわたり永く永く徹底支配され、貧 苦と屈辱・凌辱の極下に、日々・年々、悪ければ世紀を幾つもまたいで永劫苦しめられる「被支配」無惨の極みという事態が起きうる。西欧や地中海域には歴史 的にそれが繰り返しあった。ロシアにもあった。蒙古の広範囲な世界支配にもそれがあった。中国における人種間の興亡にも度々それはあった。その中国の勢力 による、時には秦の、漢の、隋の、唐の、元の、明の、清の、彼らの周辺弱小国に加えた暴虐の支配例は、いくらも指摘できる。日本も、元寇ではその凶暴に蹂 躙されかねなかったし、今次大戦後の日本が、いまなお米国のかなり露骨で厚顔独善の「支配」を受け続けていることは、だれでも知っている。
しかしながら、わが日本国も、同様な「支配」を近隣の他国に加えなかったなどと、厚顔な言い逃れは出来ない。さきの敗戦によって、一朝にして「支配」 「被支配」ところを替えた、過去海外日本人の傲慢や苦難の例は、昨日今日の放送・放映や、新聞・雑誌での証言にこと欠かない。
「屯田」ということを、昨日も書いた。勝利・支配国が、自国の兵と国民とを大量に被支配国に分散して送り込み、行政権も経済圏も使役権も持って圧倒的な被 差別日常の恒久化がはかられるとき、どんな酷薄な日々が被支配国民に起きるか、言語に絶するであろう。日本もそれにちかい「支配」を、顕著な例として、た とえば満州建国のかたちで体験してきた。朝鮮半島は、かつての地図では日本領を意味する赤色で示されていた。秀吉は明国まで切取御免の征戦を敢行し、朝鮮 半島ですでに敢えなく失敗した。
秀吉こそ無惨に失敗したが、あの蒙古・大元国の朝鮮半島・高麗国と国民になした「支配」「征服」の暴虐は想像を超えていた。その元の高麗「支配」は一面 日本「支配」への布石であもあった。九州への二度の元・漢・鮮兵による猛攻は、二度の颱風がもしなかったなら、もし別の季節であったなら、どんな惨事・大 事に及んでいたか計り知れない。
民族性が異なることも大きいが、蒙古・元の世祖フビライは、高麗の全国に、高麗国民よりも多数と想われるほども将兵と人と辣腕の行政官達とを送り込み、 遍く、各地に居坐らせていた。半島の南端、島嶼にまでも及んでいた。高麗国は王も臣も兵も人もまったく息もつけなかった、食うべきものも資材も徹底奪われ ていた。日本を攻めるとき、高麗の国土に男子国民はほとんど兵にとられ、国には女子供と老人ばかりだったという。
元と高麗とは「戦争」どころでなく、反蒙の抗戦も一部に在りはしてが、要するに大国の威力で圧倒的に臣従を強要され「支配」されていたのである。がまん すればやがて通り過ぎて行く史実だったなどとは、無縁の者の勝手な高みの放言であり、我々の国も、よほど覚悟して、聡明に、よほど宜しく外交的に対処し続 けなければ、いずれの近未来にこの凶害は防ぎきれないかも知れないのだ。
「戦争」だけではない、圧倒的な無法と圧力とで他国に「支配」されるような、政治の失敗・政治家の逆上は絶対避けねばならない。昭和天皇と当時少数ながら 聡明な臣僚とはよく「終戦」を決意してくれたけれど、近時の某・某・ぼおっとした蒙昧政治家たちが、映画「日本のいちばん長い日」のあんなあばれ将校なみ の暴発に及ばれては、国民の平和・平穏は溜まったものでない。しかも、天皇においてももはや如何ともしがたい。

* しきりに今日はそういうことを、思う。杞憂であるように願う。
2015 8/15 165

* 機械での書き仕事で目が消耗してくると階下で、郵便局へ運ぶよりも、荷造りに集中した。テレビを見ながら聴きながら、作業が出来る。フランス語のきれいにきこえる録画の映画「危険な関係」を楽しんでいた。ジェラール・フィリップとジャンヌ・モローがけしからぬ役を。

* もう目が見えない。キーの字が読めない。やすむことに。
2015 8/18 165

* グレゴリー・ペックがエイハブ船長を演じた映画「白鯨」を観た。この名作の名を恣にした作をわたしはまだ読み得ていない。いつか機を得て読みたいと願ってきた。この映画に誘われてとうとう読めるかも知れない、書庫に原光さんの訳本があるはずだ。、
2015 8/28 165

* シュワルツネッガーの「トゥルーライズ」は何度も観てきたケッサクなアクション・スパイもの映画だが、あまりケッサクすぎ、前半は観ていても照れくさくなる。途中で二階へ逃げてきた。
2015 9/2 166

* 韓国古代史研究では最高に信頼高いと定評の金丙燾氏の『韓国古代史』上下の大冊を、いま下巻六編「韓の新しい形勢 二、三世紀の韓諸国の動向」を興深 く熱心に読み進んでいる。之より前に高句麗のいろいろも学んだが、いまは百済の興起と馬韓の変遷に次いで、原始新羅と加羅諸国のことを勉強中。
いかに朝鮮半島にかんして自分が無関心で冷淡で無知であったかを身の細るほど日々誡められている。楽郎とか帯方とか語彙としては記憶にあっても、それが 中国による覇権の強硬な前陣を成し朝鮮半島の北方、西方を政治的また文化的に威圧し支配していたこと、朝鮮国の成立がそれにどれほど苦しめられまた感化さ れつつ自立への抵抗を遂げてきたか、など、まことに曖昧な合点しか過去してきてなかったと知り、恥じ入った。いわば高句麗から百済が産み落とされたような 建国事情も知らなかった、ただもう百済は日本と和親の関係にあり、天智天皇の時、百済を救援して白村江の海戦で大敗してきたこと、「任那日本府」といった 出先機関を日本は半島の南端辺に有してたらしいと程度のボンヤリとしたことしか知らなかった。
わたしは従来、韓国製のドラマ人気が日本で沸騰して人気俳優を追いかけ回す日本の女たちをいささか毛嫌いし、韓国ドラマというとチャンネルを替えて続け ていたが、「い、さん」また「トンイ」といった時代劇の大作にふと目を向けたときから、半島の歴史と王制や官制や文化風俗や、三韓と中国との緊張関係な ど、これは「知りませんでした」で済まないものの在るのに、大いに気がついた。
そしてついに、三十五年ほどの昔に念のため買って書架にしまっていた上の金丙燾著『韓国古代史』上下を手にとったのだった。
韓国の原題ドラマは依然シャットアウトしているが、歴史劇らしきは、むしろ進んで画面からも学び取れるものは摂りたいと今も思っている。
2015 9/5 166

* 晩は、長尺の映画「黒部の太陽」を惹き込まれて観た。大味と謂えばいえようが、感銘の重みはあった。わたしは石原裕次郎には何の共感も持たず に来た映 画フアンだけれど、この映画の裕次郎は、ま、管掌に堪えた。瀧澤修と柳永治郎との対決、三船敏郎の沈着な我慢、辰巳柳太郎の暴れ父、高峰三枝子の落ち着 き。宇野重吉の渋み。それぞれに懐かしく、懐かしいと言えば、佐野周司、志村喬、加藤武らの顔も見えていた。「おはなはん」も昔のママだった、あたりまえ だが。黒部の大工事は、昭和三十二年ころから始まっていた。大学で妻と出会っていた頃だ。それにしても、あれほどの関西電力による大工事は、ほんとうにほ んとうに必要であったのだろうか。ダムは、いずれは廃滅の危害を自然そのものから受けるのでは無かろうか。
2015 9/8 166

* ジャン・レネ監督の邦題「風にそよぐ草」に惹きつけられ、妻と感じ入りながら楽しんで見終えた。もう一度も二度も見直したいほど面白く堪能した。
2015 9/9 166

* 映画「めぐり逢えたら」メグ・ライアンとトム・ハンクスの佳作を楽しんだ。
2015 9/11 166

* 渡辺淳一の「ひとひらの雪」を、昔、岩下志麻と七瀬なつみの母子で観ている。今夜は、母を秋吉久美子というわたしの好きな女優が渾身の演技で徹した セックスのシーンを見せてくれたが、相手の津川雅彦も凄みがあったが、所詮は通俗な読み物感覚での男女ないし人間の理解で、生活を挙げて投じてセックスに 溺れきるのが幸福なんかでありうるわけがない。セックスの快感と幸せは測り知れず深くて或る意味本質てきだが、まともな人間として生きるうえでは、せいぜ い人生深度の一割か一割り半以上に出るわけがなく、また出過ぎては潰れてしまうだけのものである。性への耽溺をなにか絶対的な真への、また愛への同化のよ うに思うのはどんなものか。愛なきセックスと愛であるセックスとは次元が違う。映画の男女は、少なくも男は、そこが分かっていない。性のピエロでしかな い。渡辺作品を一二は読んでいるが、感心し得たことが無い。ただのエロに過ぎない。
2015 9/18 166

* 映画「ランボー」③を久しぶりに観た。日本列島がいつか、アフガン同然の烈しい国難に傷つくことのないよう、切に切に願う。わたしはもうこの 世にいないが、日本の美しい誇らしい価値ある文化が蹂躙されて跡形もなくなるようなことの無いのを切に切に祈る。甘いことを考えて戦争すれば勝てるなどと 高ぶっていたら、無惨なことになる。戦争に巻き込まれない知恵と決意こそ、国を護る。
2015 9/19 166

* もう夕暮れ、大相撲はそろそろ大関、横綱の出番だろう、わたしは、朝から折りさえあえば二階へ来て小説「チャイムが鳴って更級日記」に食いついて仕上 げに熱中してきた。熱中というと聞こえはいいが、じつは眼がすぐ疲れて見えなくて、途中何度もやかまざるを得なかった。階下で、天海祐希の刑事ドラマや例 の「相棒」などを観ていたがてれびの大きな画面の俳優達の顔さえみにくく滲んで歪んでいる。辛抱しきれなくなるとまた機械の前へ戻るが、なかなか原稿が霞 んで滲んで歪んで掠れて、うまく読めない。自分の文章だから出来るので、半ば以上はアテズッポウで字を探っている。
この調子で、いつまで眼が持つか、間に合うか、分からない。抗癌剤「ts1」が眼への深刻な副作用を持つらしいと確認されてきたのは昨今で、新聞がそん な記事を大きく出していた。自分でガンとして服用と選んだのだから文句は言えない。せめて眼鏡がもうすこし合って欲しい。いま七つ使っている眼鏡の只一つ も視力と視野とを助けてくれない。青山の保谷眼鏡へ半日一日も早く行ってみなければならない、もう土壇場に間近い。
2015 9/22 166

* 久しぶりにジョディ・フォスターの主演映画「フライトプラン」を途中から観た。ジョディの魅力横溢、有数の名優だと思っている。意志的な顔と表情だけ で感銘を覚える。下らない娯楽読み物のような映画を彼女でみたことがない。「タクシードライバー」「レイプ」「羊たちの沈黙」などみな一級の映画作品だっ た。「アクションタイプ」ではなく、「純文学」ないし「藝術映画」と謂うに近い。
2015 9/22 166

* 「だれそれが、近況や写真をどうした」の「メッセージがあるのリクエストがあるの」「だれそれがツイートしたの」とひっきりなしに伝えてくるフェイス ブックやツイッターの五月蠅さ。わたしが一度は参加したからではあるが、実はこの二つの、いや「mixi」も含めて三つとも現在理由は分からないがわたし の機械では開けない。だから何も読めないし書けない。退会したいがそれも出来ない。
少なくも、わたしへ宛てて連絡できていると思われている方は、これらソシアルネットからでなく、直接わたし宛てメールか郵便を下さい。失礼があってはい けませんので。それにしても、害あり益も多大ではあろうがソシアルネットにすっかり中毒して健常な日常生活を溺れさせているらしい人の多さに、愕然とす る。建国環境か亡国環境か。電車のなかで周辺の縦覧に七八人が機械にのめりこんでいる姿を見ると、わたしにはほとんど半死人世界かと見えてくる。

* 憎まれ口ついでに言うておきたい、どこよりもNHKで耳に障り他局でも同様な傾向は、何と謂うのか知らないが、やたらな「縮め語」の乱発である。個々 の日常会話では一つの文化現象でむかしからどの時代にもあったけれど、いま公共放送が率先日本語を乱し汚すのはまことに疎ましい。例語をあげるのも鬱陶し いので一つだけ謂えば分かって貰えよう、すなわち「シブゴジ」「アサイチ」「フタテン」など。放送局が率先その手を乱発するのは、「日本語放送」局の言葉 に対する見識としては程度が悪すぎる。なにをほめるにもおどろくにも「凄い」しか知らない日本人の質的低落はとめどがない。
2015 9/24 166

*  洒落たラヴロマンス「セレンディピティ」を観た。男のジョン・キューザックはともかく、初対面の女優が出色のオーラと健康な美しさとで大いに楽しませ た。画面に惹きつけて放さなかった。残念ながら名前は、映画題とおなじく、難しくて覚えにくかったが、ケイト・ベッキンセールときどきこの手の映画にも出 くわすのが、米映画。先日はトム・ハンクスとメグ・ライアンのを観た。良い意味の軽みでは今晩の映画、うまくつくっていた。
2015 9/28 166

* 「刑事フォイル」というイギリスの一話前後編での連続ドラマをこのところよく観ている。ナチスが咆吼し侵略し、ムソリーニのイタリアが親ナチ参戦した 頃のイギリス生活の恐ろしい混乱を凄みの下地に描いていて、なみの刑事物ではない。まったく未知、想像も出来ていなかった肌身にせまる戦争とナチスドイツ の恐ろしさを見せられている。多くを思いかつ考えさせる企画。日本のドラマにもこういう批評と落ち着いた力感にあふれた現代批評の作劇感覚が欲しい。
2015 10/4 167

 

* ひとつには十数年前の「遊楽帖」を編んでおきながら、「舞台 映画 テレビ」のテレビが、ただ詰まらないだけでなく不愉快極まる世情・政情にくわえ て、ばからしい広告があまりに多くてうんざりしてしまう。素晴らしい自然や風物や景観、また美術や文化を楽しめることもむろん有って嬉しいのだが、ひっき りなしの広告の大半がラチもない似而非薬やあやしげな化粧品ばっかりなのにも情けなくなる。わたしは大概でなく女性を男性より好いて敬してすらいるが、そ の女性達が盛んに自身の面の「皮」のつるつるにばかりうつつを抜かして見えては、かなりイヤになる。むろん美しくしかも佳い表情は見せて欲しいが、そうい う聡明で健康な佳い表情は、面の皮のつるつる、てかてかで生まれ出るようには想像できない。
わたしが、いま、そういう意味で思想信条ともいちばん遠くから敬愛しているのはTBSのキャスター、膳場貴子さんである。男性のキャスターでもTBSの岸井成格氏を信頼している。
2015 10/11 167

* 映画「奇跡」を静かに深い共感とともに見終えた。十数年前に感銘をうけて日記に書いていたのを今度の「有楽帖」で読み返していた。信仰の真摯を描いてピュアに胸へ来る映画は、有りそうで少ない。
2015 10/12 167

* 今日、一の感動は、「京舞の井上八千代」を見せたNHKBSアーカイヴス。三 世、四世、五世にわたる「井上八千代」の京舞の、みごともみごと、至芸の奥深い静かさと毅さとに、涙にくれるほどの美しい感動をもらった。三世八千代は、 わたしの秦の叔母の同級生だったし、四世八千代の子息で観世流のシテ方として活躍された片山慶次郎さんはわたしの同志社美学の親しい先輩であった。なによ りも片山・井上家は同じ新門前通りの西之町にあり、仲之町の我が家からは歩いて数分ともかからないご近所だった。五世八千代を嗣いだ三千子さんは、たぶん 小学校、中学校の後輩であろう、むろん顔見知りで、一度木挽町の歌舞伎座で出会って立ち話したこともある。
だがそんな馴染みなどは何事でもなくて、井上八千代の京舞のすばらしさ、みごとな藝の確乎として美しいことに、今日の映像はまたまた驚嘆させてくれた。
わたしは、もともと日本の芸術では、書、そして舞踊が、とびぬけて好きなのである。歌舞伎座でも舞踊の演目が欠けているとさびしいと思う。だから能にも心酔する。井上流の京舞はも能舞ともかさなりつつ完璧な女舞をみせてくれる。
なつかしくて、感動して、京恋しさが沸騰した。呆然としていた。

* 京は、舞。そして和菓子と庭。ぜったいに喪いたくない。平和が願われる。    2015 10/14 167

* 夕方、昔、李香蘭、のちに山口芳子の後半生の活躍と体験が培った戦争絶対反対の思想とに感銘を受けた。靖国神社に参拝して、ひとかどのことでもしてい るつもりの、まさしくウソクサイ自民党の女大臣、男大臣達の知性・感性・人格の低級・低俗さが情けなく浮き彫りになって厭わしい。

* 「刑事フォイル」(NHKBS3 日曜夜九時)は凄いともいうべき類を見ない完璧なドラマであり、映像であって、すこしのムダもなく一時間足らず(前 後二回一話)の進行で息を呑ませる。しかもじつに寡黙で沈着、いわゆる刑事物のうるささも、ウソクサさも、無い。しかも背後に英独戦時下の危険極まりない 世相や軍による恐慌が「恐ろしく」描かれている。総動員体制下の戦争事態が人間性を攪乱し破壊して行くなかで、警視正フォイルの三人だけのチームがほのぼ のとした温みを保ちながら沈着に、的確に犯罪を暴いて解決して行く。すばらしい。日本の刑事ドラマでこれに匹敵したただの一作も挙げることは出来ない。
2015 10/18 167

* 土曜の午前には、回り合わせのようにNHKの連続テレビドラマ「あさ」を観ている。この日に、九時半から十一時まで、十五分ドラマを一週間分まとめて みせる。大阪の大きな二つの商家、そこへ嫁いだ京都の大店の姉妹を、明治維新を背景にやがては新政府の存在もとりこみながら展開して行くであろうと予測さ れる。いまのところけっこう見せてくれる。姉は宮崎葵、妹は新人。母親は芸達者な尾上菊五郎の娘。姉の凄い姑を萬田久子が好演し、妹の舅は近藤雅臣が好演 している。懐かしい林与一も出ていて、総じてワキはがっちり藝達者がかためている。覚えられない名前の目玉の大きい元気な新人も好感の持てる科白でドラマ の先頭を驀進している。宮崎と近藤との好演が全体を安定させている。
2015 10/24 167

* ひさしぶりに映画「アメリカン・プレジデント」を快く観た。疲れが少し癒えた。アネット・ベニングの有能で聡明な愛らしさに惹かれ、大統領のマイケ ル・ダグラスまでこの映画ではすてきに見える。根本に流れる誠実な愛にもアメリカのいい一面が、いささか臆面もなくまっすぐ突き出されていて、それも佳い のではないか。
2015 10/24 167

 

* 今夜は大の気に入りの「NCIS」を楽しみながら、京都の羽生教授に戴いたとびきりの京菓子で、美味しい茶もしみじみ楽しんだ。

* もう十月も行ってしまう。
2015 10/29 167

* 朝ドラマの「あさ」をとりまとめ面白く見ている。玻瑠という名の新人女優がヒロイン「あさ」の顔に成ってきて、それで連続ドラマが活気を獲て きている。近藤正臣、宮崎葵がいい芝居をしていて、時に涙ぐませる。上からの明治でなく、下から動いて行く京都・大阪からの明治の賭と活気がうかがえる、 それがわたしを惹きつける。明治は、たしかに面白くもハラハラもさせる時代だった。
2015 10/31 167

* 卵の出汁巻きを少し食べ、特醸の三千盛を二三杯あおって機械の前へきたもののそのまま寝入っていた。

* 「刑事フォイル」を観ていた。
2015 11/1 168

* 連続TD「あさ」一週間分をおもしろく観た。明治に江戸の余喘をなめていた大阪の両替屋の若女将が明治政府の起業家とも手を結び、実家三井とも気息をあわ せて明治政府と政商との新時代を生み出して行く、活気と言えば活気、時勢の毒のあらわれとも謂えなくない巨大な流れへ合流して行くであろう物語はそれはそ れ、として、京の女の根に蓄えられていた時代革新への気力が窺えて興趣に富んでいる。
明治の宮中へ学問の師として迎えられた優秀な一少女から、一転、女権拡張の第一声をあげて気力の女性達を奮い立たせたのも、京女の岸田湘煙だった。
2015 11/7 168

* 午前中「日本沈没」という映画を観ていた。荒唐無稽と言い捨てもならない日本列島の険悪な自然環境は否定しにくい、それだけに一つの覚悟を持つ意味で も腰をすえて観ていた。上出来の映画手法とは謂いにくかったが、極限状況が人間の感性や知性や愛に迫るものはぬきさしならない。こういう映画は必要に部類 される。
2015 11/8 168

* さ、入浴してゆっくりゲラを読み、九時から「刑事フォイル」を観る。
2015 11/8 168

 

* 夜、入浴後に「刑事フォイル」を楽しんでから、機械へ来て、グノーの歌劇「フアウスト」を聴きながら、心身をやすめている。
明日は、午後、聖路加で胸部循環のCT検査を受けてくる。診察はないので、早めに解放されるだろうが、月曜なので帰りに美術館、というのはムリだろう。 食べ物の店も、三時過ぎではまとみな店ほど開いていまい。三笠会館のイタリアン、東京駅の沼津の鮓か、丸の内外のビアホールでイタリアンか。校正が出来て 明るい、気軽な店がいいならレバンテか。ところが食欲はあまり無いのだ、つい飲む方へ気が走る。

* さ、黒いマゴに輸液だ、もういちど「刑事フォイル」の一番新しい前後編を、観ながら。
2015 11/15 168

* 午前中、進藤兼人監督、乙羽信子、殿山泰司主演、モスクワ映画祭金賞グランプリ映画の「裸の島」を、魂をぬかれるほど感動の涙にくれて見入っていた。モノ クローム写真の詩的に静謐かつ底知れぬ美しさ、全編を通じてほぼ徹底したサイレント、そして苦痛苦渋の日々の暮らし・営みの際限もない繰り返しが見せる力 感。そして、裸の島に繰り返される四季と一家族に過酷に迫る死生のはげしさ。
こんなに美しい、こんなに深い、こんなにリアルに詩である静かに険しい生活映画に見入っていると、日々に垂れ流されているやすもののテレビドラマの阿呆らしさウソクササ、噛んで吐き捨てたくなる。
進藤さんには「迷走」であったか、一度書評していただいたことがある。乙羽信子は最も尊敬する女優の一人であり、殿山泰司の存在感は終生忘れえないだろ う。海、小島、櫓櫂の舟、無くて叶わぬ水。そして迫り来る病や死。「裸の島」は優れた日本映画のさらに三十傑のうちに優に数えられて良い。想えば日本映画 にも、魂を搾り揺るがせる名画がたくさん在る。選んで数え上げるのが難しいが、数え上げても見たくなる。

* 意味はなく相次いで野上弥生子原作による勅使河原宏監督の「利休」後半をじっくり観た。すべてわたしの頭の中にあるままの展開で驚きは無かったが、利休も妻女も秀吉も政所も茶々も家康も、おもしろく演じていた。
2015 11/17 168

* 昨夜から今朝へ、小津安二郎監督の名画「秋刀魚の味」を、またまたまた、しんみりと楽しんだ。柳智衆、岩下志麻、佐田啓二、岡田茉莉子、三宅邦子、加 藤大介、岸田今日子、それに東野英治郎、杉村春子、さらには渋い上手いニクい、クセの佳い男優二人、おまけに有馬稲子までちらと顔を見せてくれる。
ナンといっても柳智衆のお父さんと岩下志麻の清潔に美しい娘役の嬉しさ。
わたしらが東京へ出て来て暫くしての名作で、なにもかも懐かしく、なによりも小津監督の紛れもない映画文法のたしかさ、独特さ、面白さ。リアリズムを突 き抜いた小津様式の能とも歌舞伎とも狂言とも見えるのが無性に楽しかった。いい映画、おもしろい映画は、和洋にかかわらず少なくも二、三百保存してある。 いつでも楽しめるのだ、繰り返し繰り返して。
歌舞伎でも機会が有ればCDにしてある。家で観られるのが堪らなく佳い。
2015 11/18 168

* 木下恵介監督がスタジオでのオールセット歌舞伎仕立てで奇跡のように完成させた「楢山節考」の凄さに痺れて雪降る最期まで見入った。田中絹代、高橋貞 二の母子。望月優子の嫁。おそろしい民俗の伝えた深切かつ凄惨な真実感の凄み、人の寿命を圧倒してしまう死の儀式がひめた民衆の哀れ。身に粟立つ絶境の映 像だった。
2015 11/18 168

* 疲労感に気崩れのまま、それでも佳い映画を二つ観た。
溝口健二監督の「祇園の姉妹」は山田五十鈴十八歳の爆発的なデビュー作で、穏和な祇園の藝妓である姉(梅村蓉子)の生き方に焦れもし叱咤もしながら回転 の良いアタマと弁巧とで精彩を放ちながら爆弾のように生きる妹を演じ尽くして、じつに見応え、聴き応えがあった。なにと言おうと場所は今日の祇園花街、使 われる言葉は女も男も完璧でケチのつけようのない生の京ことば、祇園ことばで、聴いているだけで懐かしさにうっとりしてしまう。主役は京ことばかとすら思 えてくるほど、五十鈴のもの言いの怖いほどの出し入れ駆け引きに、感嘆また感嘆。徹した彼女らの側からの勝手で胴欲な「男はん」らを否定否認の泣きながら の憤怒で終わる幕切れは痛切で、たいした説得力の画面だった。幼來熟知の祇園町でもあって、懐かしさにまみれながら、フェーッと声も出そうな、事実声の出 た凄みの名作だった。
もう一つは。
谷崎潤一郎原作の「鍵」を、先々代の鴈治郎、京マチ子、仲代達也、叶順子で撮った、これまた、凄みの作で、俳優も映像も展開も万全の上に、谷崎という作 家の堅剛な人間批評のおそろしいまでの追究に、あらためて胸ぐらをつかまれ通しだった。監督の大樽の底を突き抜いたような解釈にもわたしは賛同している。
いい映画は、無尽蔵にある。いい小説は、そうは行かない。
2015 11/19 168

* 映画「山猫は眠らない」の途中から妻にBSプレミアム、市川崑監督の「細雪」に切り替えられてそのまま観ていた。この映画の製作時に新潮社で篠山カメ ラマンの撮影の写真集で四人の絢爛たる女優たち、岸恵子、吉永小百合らの撮影に立ち合い、文章も書いた。以来、何度も観てきた。
昨日の「鍵」といい今日の「細雪」といい、谷崎潤一郎にだけはかなわないとしみじみ思う。そういう作家に出会えたのをこころから嬉しいと思う。漱石でも 鴎外でも藤村でも鏡花でも秋声でも荷風でも直哉でも川端でも三島でも太宰でも、並ぶことは出来る、不可能ではない。ただ一人、昭和の谷崎潤一郎には参る。 参る、と思えることの嬉しさを、真率、感じる。
2015 11/20 168

* 眼が見えないと仕方なく音楽を聴く。聴き始めると、仕方なくどころではない惹きこまれて次から次へ聴く。グノーの「ファウスト」をはじめに、マリアカ ラスを聴き、宮沢明子のピアノ、菅野茉莉子のピアノ、グレングールドのピアノ。体のすみずみへ音の魅力が栄養のようにしみ通る。
さ、もう機械から離れよう。黒いマゴの輸液をして、TBS十一時ニュース・トゥデイ膳場貴子さんの顔を見、声を聞いてから、やすもうと思う。
2015 11/20 168

* 連続ドラマ「あさ」を十一時まで、一週間分まとめてみた。宮崎葵、堀島しのぶ、近藤正臣といった上手にしっかりつつまれて新人波瑠もモノに見えてく る。おもしろいドラマに成ってきている。炭鉱といい銀行といい東京といいアメリカといい、維新後日本の未来を照らしも陰らせもした主役がすこしは気味悪く 登場し、ヒロイン「あさ」はそんな大波へ足入れし始めている。微妙に難しく、わくわくもしアブナクもある明治の足どりを読み取って行く面白さ。出色のつく りである。京都しか知らずにきたわたしが大阪の意味にもなじんできた。九州の炭鉱までがうち重なってきている。近代が疼くように逸るように動いて行く。働 いて行く。
2015 11/21 168

* 朝のテレビで松田翔太という若い俳優の顔をみた。大河ドラマ「平清盛」で後白河院を演じ、わたしを驚倒させ讃嘆させた才能だ。
わたしが人材としての後白河院を高く評価してきたことは、わたしの読者はよくご存知だが、この後白河院の風貌(図像はあるのだが)や言動をありありと思 い浮かべることに、じつに早く早くから苦慮した思い出がある。処女作にもひとしい、最近再発見の「資時出家」でも「初稿・雲居寺跡」でも、後白河院への思 い入れは尋常でなかった。その、まことに難しくも怪物的に弾けた法皇様を、あのドラマでの松田翔太クンはあまりにみごとに見せてくれて、わたしは大いに大 いに教えられたのであった。
あの大河ドラマは評判はむしろさんざんだったと耳にしているが、わたしに言わせれば数ある大河ドラマの「第一位」と評価していいほど、台本も展開も配役 も演技も面白く、教えられた。実があってリアルに大胆、歴史へのつっこみがタダモノでなかった。清盛も抜群だった。父忠盛も、よかった。白河院、鳥羽院も もの凄く、待賢門院、美福門院、二位時子、常葉、また北条政子らの女性像も、みごとにトンガッタ強さで突き刺さってきた。それらが中で松田翔太による「後 白河院」の翔んで出方は見ものであり見事であった。それを今朝、美男子松田クンを介してありあり思いだした。
あの大河ドラマで敢闘した人達、高く胸を張って良い。

* おもに小説「清水坂(仮題)」にとりくみ、目がダメになると横になるかテレビを観るともなく眺めていた。小津安二郎の「東京物語」にまた泣かされた。 柳智衆、原節子、東山千栄子、山村聡、三宅邦子、杉村春子、香川京子、大阪志郎、東野英治郎等々、さながら郷愁にもにた懐かしい人達。美しいモノクローム の映像。

* 晩は、とりどりの「絶景」に案内されていた。
旅とまでいわない、せめて新幹線に久しぶりに乗ってみたい、日帰りでも。
2015 11/23 168

* 朝いちばんに、京都の「華」さんの鶴屋「柚餅・栗羊羹」を戴いた。大の好物、とても嬉しい。連続朝のドラマを一週間分連続で楽しみながら美味い茶で柚餅をご馳走になった。ありがとう。
2015 11/28 168

* 小津作品「東京物語」のなかで、水辺だろうか、舅の柳智衆と嫁の原節子とかがんで並んでいる繪がよく紹介されている。あんなに美しく静かに深い情景、世界ひろしといえど上を越す写真はほかに無い。
2015 11/28 168

* 昨日、日本の終戦へ、本土決戦を辞さない強硬陸軍のなかで緻密に献策・根回しをつづけた佐官らの苦辛の日々をNHKで、また背筋も凍るアメリカCIAの拷問施設や手段を内部告発し悉く追い遂られた人たちの恐ろしい証言番組もNHKで、観た。NHKにはこういうフィルム所蔵の強みがある、せっせと反好戦の空気へ警告の写真を放出し続けて欲しい。切に希望する。
2015 12/1 169

 

* 帰宅して、気分直しに録画して貰っていた映画「彼岸花」を観た。田中絹代の断然のうまさに驚嘆。山本富士子の純然とした京ことば、難波千恵子の大阪っ ぽい京都弁が懐かしかった。有馬稲子、久我美子、桑野みゆきなど品の佳い若い女優がそれぞれに美しく、佐田啓二、高橋貞二も懐かしかった。そして佐分利 信、柳智衆、中村伸郎、北竜二、菅原通済等々の渋い連中が、例の如く小津映画世界に生き生きと動いていた。里見弴の原作も読んでいる。
こういうのを観ていると、昔は、よかったなあと愚痴になるのが辛い。
昨日は溝口健二の「雨月物語」の黒白写真のしみじみと惚れ惚れする深い美しさに入り浸りながら、京マチ子、田中絹代、水戸光子。毛利菊江らに魅されていた。
ただし溝口の「雨月物語」を観て上田秋成原作の「蛇性の淫」や「浅茅が宿」を読み取った気分になるのは間違いである。あくまで溝口健二監督らの原作「雨 月物語」に軒を借りたみごとな創作なのである。そこが凄みであり、原作の物語に囚われていると、呆気なくエンドマークが来た気がしてしまうだろう。
2015 12/1 169

 

* 十時過ぎらしい。もう機械を閉めよう。気弱にならないように、と。「ドクターX」でも観て休息し「デーモン」に元気を貰おう。明日は明日。明日は明日。
2015 12/1 169

* 今日はすこし早起きし、終日いろんな仕事や作業やさがしものをして暮らした。「ランダムハート」というハリソン・フォードとアン・アーチャーの映画を 見掛けていたが、もう五度六度とみてきた映画なので、途中で失礼した。ハリソンの神経質な顔は好みでないが、アンの知性的でつよい情念と節度ある風情は愛 してきた。紋切り型の陳腐に陥らない聡明で情味深い女性である。
2015 12/4 169

* 「あさ」のドラマ一週間分をおもしろく、時に涙してしっとりと観た。十五分番組を一週分一度に観せる方式が成功しているのか、かつてNHKの朝ドラマ でこんなに感じ入って面白く観てきた作は絶無だった。そもそも、めったには観る気にもならなかった。京と大阪との商家のドラマ、姉妹のドラマ、明治という 近代の黎明期のドラマ、商売から企業へのドラマ、趣味世界のドラマ、炭鉱経営のドラマ、いりまじった人情・情愛のドラマと、設定がうまく出来ている。加え て新人のヒロイン「あさ」を包みこんで、近藤正臣、吹雪じゅん、玉木宏、萬田久子、富田靖子、そして宮崎あおいらが、まこと親切に主人公を情愛で盛り上げ ている。手ぎわで「つくられた」舞台と人物に相違はなく紙芝居の印象が拭い切れているワケではないが、不愉快という醜さを拭い去った進行なので気楽にたの しめている。そういうこと。
2015 12/5 169

* 両脚の攣った痛みのまま起きて、録画してあった大河ドラマ「平清盛」第一回を観ながらひとり朝食。やはり佳かった。物語の出のよさだけでなく、写真と して見応えがあり、白河、鳥羽、待賢門院、正盛、忠盛、祇園女御、清盛母などなど、そして清盛幼年の平太も、実在感を見せていた。平氏というまだ下層の、 しかし力も持っていた侍風情がよく表現されていて、教わる心地がした。
* 寒い、今朝は。
2015 12/6 169

* 「祇園囃子」という、懐かしい懐かしい木暮実千代と若尾文子の映画も録画した。高校時代に観た数少ない大映映画だった。原節子ははるかな聖女だった が、次いで夢中になった若尾文子は、まるで手の届きそうな愛らしいきわみの、しかし演技に腰の据わった未然の大女優だった。
「大女優」というに値したどんな十人が映画人として居たろうか。
順不同だが、山田五十鈴、田中絹代、原節子、高峰秀子、京マチ子、若尾文子、そのあとは、岩下志麻、吉永小百合、倍賞千恵子、もう一人という…と躊躇す る。山本富士子か。木暮実千代か、若くて上手くて存在感でいうなら、何人か念頭にあるけれど。「大」というのは意味深い。いい仕事はしたが森光子はわたし のなかで外れる。
十えらぶのや。順番つけるのや。それの出来るのが「京都人」やでと中学の先生は「歳末」に教えられた。批評の楽しみ。

* 「祇園囃子」 木暮実千代の深切な情味、若尾文子の一途な愛らしさ、浪花千恵子の完璧な京言葉と巧緻な現実感。感嘆久しくして涙にもくれた。溝口健二 の映画としては、「雨月物語」よりも「祇園の姉妹」よりも、佳いと思えた。昭和二十八年、わたしの高三のときの映画だ、そのころ、わたしは一人の歌人だっ た。岡井隆編著の釈迢空にはじまり斎藤茂吉で結ばれた『現代百人一首』には、上の溝口映画とおなじ昭和二十八年、わたしが十七歳の歌一首、「たづねこしこ の静寂にみだらなるおもひの果てを涙ぐむわれは」という東福寺での詠が採られている。「みだらなるおもひ」というむきだしの表現に思春期のつらい実感があ り、そんな実感を抱いて「祇園」の藝妓、舞子の悲しみに胸苦しまでの共感を寄せていたのだ、わたしもまた一人の祇園の子であった。通った中学は祇園町の真 ん中にあった。
2015 12/7 169

* 作業の間に、原節子、司葉子が母娘で、岡田茉莉子がおきゃん役、男は小津映画におきまり、佐分利信、佐田啓二、高橋貞二、中村伸郎、北竜二そして柳智 衆という顔ぶれ映画を楽しんだ。「彼岸花」だか「秋日和」だか題を忘れたが、何度も観ている。やはり原節子にしみじみした。
2015 12/9 169

* 思い立ってというのではないが、かねて尤も読みたい本の一つと目して、しかもたじろいで来た「ヨブ記」を慎重に読みはじめている。
この、すさまじい物語は、なによりも神への「幸福主義」を痛烈に窘める。神頼みという言葉があるように、神を思う人間のほぼ一人残らずが、神からの御利 益や保護や愛をもとめて「神様」を愛している信じていると言っている。つまりは神様を自己の幸福や満足の保証人にしてしまっている。「ヨブ記」は、そんな 幸福主義の神観に対する徹底的な否定、拒絶の物語と思われる。吾が為の神など絶対に存在しない。だから神なのである。神はただ絶対に存在するのであり、人 の幸福のためになど存在しない。それでもよい、それでも神を信じ愛するというのでなければ。「ヨブ」は想像を絶する苦難・受難のなかで幸福主義を完璧に脱 ぎ捨てることて、神の愛を自覚する。

* テレビに、観光寺社の神官や坊さんがしきりに出て来て、うそくさい話をとくとくとしている。おおっと心線を鳴り響かせてくれる言葉をかれらから聴けた ことがない。お経はわざわざ長ーく長ーく言葉を延ばして読むことで仏様に近づけるのだなどと、実演してみせる坊主がまことに滑稽だった。幸福主義を脱した 信仰を説く、説ける宗教人に会えない。ま、会う必要などないのだ。
2015 12/9 169

*このところNHKが、世界の異様な戦争、戦闘、露骨で憎むに足る宣伝戦、悲惨な難民、支配と虐殺等々のフイルムを続々公開してくれている。地球上がさな がら生き地獄と化しつつある。それもこれもわたしの所謂強国による「悪意の算術」が貪欲に煽り立ててきたのであり、日本までがその尻馬に乗りたがって国民 をまるで他国の「醜(しこ)の御盾」に供出しようとしている。とほうもない悪政がまことしやかに画策を逞しくしている。

* 硫黄島玉砕なんてものは、そんな美しいモノではなかった、日米軍ともに地獄であり、無数の姿死体は辱められ、張り巡らされた地下道へは「蛆虫退治」と 叫びつつ凄まじく火炎放射されていた。憎しみは燃え上がる一方だったと。宣伝は、おおかたが意図された「やらせ」「虚構」「捏造」だった、日本だけではな い、アメリカのそれは倍々に輪を掛け金もかけて猛烈だったと、証言のフィルムがぞくぞくと現れ出ている。
2015 12/11 169

 

* 今日は休息。映画「秋日和」をまたみて、女物語を縦糸にした橋田壽賀子の忠臣蔵外伝を楽しんだ。香川京子、大原麗子、斎藤綾子、小川知子ら憶えきれない橋田組の女優たちが賢明に競演して、かなりの見応えであった。

* その間にも先ずは選集⑬の初校戻しを念頭に、ゲラに手入れをしていた。そのあと、選集⑫を責了するための用意、おさおさ怠らぬようにしたい。
同時に選集⑭の入稿用意も気が抜けない。さらに湖の本129をどう入稿するか。新作の小説を念頭に置いていて、適切に進行してくれないと困る。慌てず焦 らずに。

* 刑事フォイル を最初からずうっと観ている。楽しむというより、戦争のもたらす私民たちの悲苦のさまざま、イギリスという国を呻かせていた現実がじつ に重い。ただにナチスドイツという敵国だけが悩ませるのでなく、さまざまな日常の惑乱が英国民自身のなかから沸き立っていたことに思わず怯えてしまう。戦 争のイヤさを物静かな写真が雄弁に表している。対岸の火事とは思わせない迫力と真実感。
2015 12/13 169

* 遠藤周作さんの「沈黙」をわたしは読んでいない、遠藤さんが信仰のある人と知っていたので、自然信者としての立場と思惟とで書かれるのだろうと思い、遠慮した。
映画は、観せてもらった。転んだだけでなく幕府の切支丹政策に協力していたフェレイラの時期と、シドッチ・白石の時期とでは、背景が大きく異なっている。それだけの違いが、遠藤さんとわたしとにも有るだろう、今夜はもう疲れているので、感想などは後日にしたい。
2015 12/17 169

* 昨夜建日子、猫の「うな」とともにワインを携えて来る。乾杯。日本テレビでの建日子作オムニバス風の夜ドラマを観た、が、……。
昼間、すこしずつだが映画「ロード・オブ・ザ・リング 指輪物語」の真ん中編を楽しんでいた。すばらしい映像と想像力とに感嘆また感嘆。原作者から放射 されてくる強烈な動機とオーラとが美しく伝わってくる。これぞ創作、これぞ藝術品。建日子には、顔を洗って初心に立ち帰り出直すほど真摯な創作者精神が望 まれる。いまや建日子こそ「日の出づる人」として断乎起たねば、起ち直さねば、と、父は願っている、しんどいことだろうが。
昨日は、よほどお酒を飲んだ、といっても一日で三合ほど、たいしたことはない。むろんからだにも響かなかった、仕事もした。眼を遣わずに済む仕事はわたしにはあり得ない、そこが今は泣きどころだが、あきらめて腹を括っている。
2015 12/21 169

* 映画「指輪物語」の第二、第三を深い喜びと感動とで観終えた。言語に絶する名作であり、大団円の船出、かくも美しくやすらかな死を憧れに満ちてよろこばしく描いた画面を知らない。
よかった。佳い祝日になった。
2015 12/21 169

* きのう、「炭」さんにもらったメールは、深い熱い余燼を保っている。もっぱらカトリックの信仰にふれた指摘や感想であったのは映画「沈黙」が主なる議題であったのだから当然であった。そのまま自然に流れは「親指のマリア」のシドッチ神父へ及んでいた。傾聴した。
もっとも、わたしは遠藤さんとちがい信仰を真っ向の主題にしたのでなく、新井白石という日本とシドッチという西欧世界との「一生の奇会 出会い」を書い ていた。白石の「西洋紀聞」を読んだときからそこへ関心を寄せ強い動機を持った。その必然の流れから結果としてわたしをとらえたのは、この主なる二人をは じめ登場する人物たちへの「愛、敬愛=御大切」であった。シドッチと長助・はる兄妹とのかかわりも、人としての愛と自然に導かせた、信仰という以上に、作 者であるわたしの思いを彼らに託した。
ま、そういうことだ。
映画「沈黙」の結末には、「御大切」が耀やか無かった。はっきり言って、意外であり不快であり、むしろ信仰への否定的な批評の作に思えた。そういう動機 と批評を映画の作者が持つのは構わないが、原作者は閉口されたろう。原作を読まず作者は遠藤周作と知っていたわたしは、当然、見終えて、ええっ?そうな の? と唸っていた。二度とこの映画は見たくないと即座に思った。
2015 12/29 169

* テレビ朝日の古館が、案の定、政権与党の圧に潰される。わたしの予想よりはよく粘って、とにかくも久米宏のアトを頑張ってくれたが、調子がおかしいな あとは案じてきた。案の定。こんな潰しは、五十年体制下にじつに悪賢く政権与党は何を措いてもやり続けてきて、社会党も、総評も、日教組もみな確実に潰し きったのだ、朝日も毎日もという段階へ来て、畏くもさきにNHKと日銀とを押さえ込み、いまや古館如きは何でもなくなっていて、それでも徹底的な言論封殺 は保守の微塵も譲らない堅い姿勢なのだ。ひどい時代へ来てしまった、保守の彼らの懸命さにくらべれば、土井・福島のただ憲法に抱きついただけの社会党の無 能な無策はひどかった。いまや野党は共産党しか存在しない。民主党はもはや古くて穴だらけの小風呂敷のように印象のし鮮度を喪い果てている。フレッシュな 顔をもたねば自滅はまぢかい、一刻も早く顔も政策も変えねば。
ま、よほどもよほど、国民も疲れて投げ出しかけている。しかしここで投げ出せば安倍は、往時のヒトラーを慕い、ロシア、中国の権力支配に並び立とうと露骨に出て来るだろう。わたしの誤解ならば有り難いが。

* 隠遁は出来ない、してはならない、眼を見開いて自身の人権と参政権とを守り抜かねば。
2015 12/29 169

* 十一時過ぎ、もう、やすもう。テレビでフィレンツエを叮嚀に案内して貰った。わたしが、もし一箇所と定めて誘われたら、フィレンツエへ行きたかった。
しかし、京の嵯峨渡月橋や天竜寺も見せられると、疼くように懐かしい。美しい。京都文化賞の来年二月早々の新たな授賞式に、ぜひにと府から招かれているのだが。むりかなあ。
2015 12/30 169

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