* 二月は歌舞伎でなく、松たか子の舞台を観る。三月の歌舞伎は夜の部に、五代目中村雀右衛門を芝雀が襲名の口上があり、五代目「金閣寺」の雪姫に幸四郎 が松永大膳を仁左衛門が此下東吉、山城屋が慶壽院尼、梅玉が狩野之介という大歌舞伎で、歌六と錦之助も。大喜利の所作に、鴈治郎、松緑、勘九郎の「関三 奴」、幕開きには橋之助、菊之助の「相撲場」。
五十八年目の結婚記念日に観たい。大学の頃、専攻の仲間らと南座へ歌右衛門の「娘道成寺」を観に行った日、後見にまだ大谷友右衛門だった後の四代目雀右衛門が出ていて、食い入るように歌の踊りを観ていたのを、昨日のように思い出す。新五代目のこの三年がほどの進境は目覚ましく、この襲名、まことにおめでたい。月をあらためて是非立派な道成寺を観せて欲しい。
2016 1/12 170
* 松本紀保が、昭和に七年自死した年若き作家久坂葉子を演じるという。観たくて、予約した。
2016 1/16 170
* 十二日には、ひさしぶりに松たか子の待ちかねた舞台、作は野田秀樹。めずらしく建日子も観たいというので、三席並んで楽しむ。こういう機会がもっと多く有ると佳い。
2016 2/5 171
* 楽しみに待ち望んだ、野田秀樹作演出、松たか子主演の「逆鱗」を秦建日子も誘って三人で観にゆく。
* 野田仕立ての台本は弓の達者のよう。ゆるゆると人魚を追いつかまけつ極端なまで遊び心を漂わせて慌てず急がず、そしていつか矢をつがえ、引き絞り、狙い 定めて射放つ。「人魚」の物語が「人間魚雷」への痛切歎きと怒りとに変じている。劇場を埋め尽くした若い人、中年の人、初老の人でさえもあの軍政権による 我が「人間魚雷」の強行暴発は直かの記憶にはあるまい、いま八十の私たちも国民学校以前の聞きかじりでしかなかったが。それだけに野田秀樹の用意は新調で 死かも激しい祈願をさえ籠めていた。感じ入ってわたしは瞼を泪で熱くした。松たか子や阿部サダヲらの熱演好演に拍手を惜しまなかった。いい観劇になった。 いくらか寸を短く、短兵急に攻めていたとも云えないではないが、この「アベノリスク」でこてこてに焦げ付いている昨今を背景にみれば、やはり露わなほど主 題「逆鱗」の訴求は必要なことであった。
建日子と一緒に観たのも、お互いに、よかった。松たか子、期待に背かない力演で、しかも演技にゆとりも静かさもちからも漲っていた。
* はねたあと芸術劇場の近くの地下に、大きな生け簀のある広い生魚店に入り、たっぷりと山盛りの刺身などを堪能した。今夜は建日子も飲めたし、よく食べ た。池袋というのは、我々にも建日子にも最も出逢いやすい場所。閉店の十時半まで、心地よく食べかつ話して楽しんだ。黒いマゴにも肴のお土産を忘れなかっ た。
2016 2/11 171
* 「選集第十二巻」刷了。三月十日の出来は確実になった。三月にはいると病院通いもあるが、松本紀保が夭折作家久坂葉子を、俳優座の岩崎加根子の助演を得て主演する舞台、それに歌舞伎座の春歌舞伎もある。はんなりと好い春の訪れを待ちたい。
しかし、あまり間もあかずに「湖の本創刊三十年」記念の第129巻が出来てくる。またまた体を働かせた力仕事になる。本は、重いですねえ。
この記念の巻には、さらに桜桃忌を期した三十年記念の巻にも、すこしく頬の綻ぶ期待がある。
2016 2/24 171
* 芥川賞候補最年少と伝説になってきた久坂葉子を描いた芝居を、松本紀保が演じる。幸四郎の長女、市川染五郎、松たか子の姉で、ゆったりと弾み も奥行きもある佳い舞台を何度も観てきた。岩崎加根子との競演というのも楽しみ。夭折というしかない作家で、年齢だけで言うとわたしより何ほども年かさで はなかった「葉子」が、いま、何をうったえるのか、見届けてきたい。
2016 3/4 172
* 高円寺の劇場で松本紀保主演、岩崎加根子特別参加の「葉子」を観てきた。主演、助演、特別出演、力演であった。わきの人たちには弱い気味があらわれ、こと に開幕早々の駅員達の芝居が学芸会レベルの薄さだったのには、先行きをよほど心配したが、ま、印象を持ち直して、劇は展開した。主として、最年少芥川賞候 補に挙げられ騒がれた若い作家久坂葉子が、迫る電車の正面へ身を投げた大晦日最期の一日を劇化しつつ、今日時レベルに御節料理を懸命につくっている老女を 配したまま舞台は展開する。作劇の方法はかならずしもリアルでなく、観念の操作にも熱心であったが、結果的には、(一作家として半世紀以上仕事をし続けて きた実感から観てしまうと、)もう、小説がまるで書けなくなってしまっている作家落第生の、死に神に引きこまれたような列車への投身自殺を「どう批評する か」に芝居は尽きてしまうのだった。久坂葉子という熟さなかったちいさな果物のような女性に与えてきた「レジェンド」のほぼ無意味だったことを、この劇作 の作者は、「実は死ななかった久坂葉子」という「老女」を最後にもちだし、何とか批評的にモノ言わせていたのだが、あまり説得的でなく、とってつけたよう な「劇」のおさめ方に終わっていた。「死んだから騒がれた、死ななかったら伝説になどならなかった」という老女の自白はきつい批評だが、盛り上がりに欠け て、なんだか洒落オチじみてしまった。紀保熱演の「久坂」に気の毒なような「せこい、かるい」批評に終わっていた。
同人誌「バイキング」の象徴的存在だった作家島尾敏雄のまえで葉子はたわいない思慕と欲求から狂態を見せていたが、(舞台上の島尾役もひよわい物書き としてしか造形出来てなくて実に落胆したが、)要は、久坂葉子は「レジェンド」足るほどの書き手として、精気も根気も能も無く、「書けない病」に落ちこんで いただけだったと言うしかないと、舞台の成り行きはおよそそのように暗に批評しつつ、そんなに「小説を書く書けないが大事なことなのか」というあたりへモノを言わせようとしてい た、と、わたしには見えた。
その解説役に、岩崎加根子の扮した「老女=死なずに生き延びたという久坂葉子本人」がツクラレていた。とってつけた手品のようであまり見事な劇的造形とは見えなかった。
わたしは、根から、伝説化していた久坂葉子の「書き手」としての魂と才能と、それでも崩れ死んで行かねばならなかった真実に対面したかった。
しかし舞台の上の事実は、「最年少の芥川賞候補」に祭り上げられただけの、その実は、到底書き続けられないひ弱い才能の露呈、それをいかにも才走った文学少女の昂ぶった興奮と絶望とで「死」を自ら招き寄せ、つまりはそこへ逃げ落ちてしまったに過ぎないのだった。
太宰治の死は死、かれの文学は通俗におちることなく最後までほんものの作家だった。
久坂葉子は書けなかった、書き続けられなかった作家で、潰えたのだ。候補に祭り上げ、さらにちやほや祭り上げ「レジェンド」に仕立てた男文壇のよけいな お節介が、もしかしてもっと健康に地道に「書き続けられる」才能へ延び得たかも知れないのを、押し潰したのだと云えようか。可哀想に。
舞台で叫んでいた葉子の文学への意気は。批評は、「芥川賞」に象徴された文壇への侮蔑的な否定は、云えていたのである。葉子は、何かしら鋭く分かっていたのだ、が、いくに分かっていても「書き続けられねば」お話しにならないのが作家というモノだ。
* いやいや、劇団や俳優さんには申し訳ないが、この『葉子』という舞台をわたしは文学の、作家の問題として観に出かけたのである。それこそが問 題だった。耀く「久坂葉子」を実は知りたかった。この劇作からは、見つからなかった。他の劇作家の手でべつに「久坂葉子」舞台が出来るなら、それも落ち着 いて観たい、みせて貰いたい。(後刻、この一文、読み直し再検討したい、が。)
* 「書けない」「描けない」「創れない」苦しみは創作者の業病である。志賀直哉ほどの文学者も、暗に「書けない」苦しみを下地にして新しい小説を書いた りしていた。身につまされ、読んでいて苦しかった。励まされもした。小説家の場合、その上になかなか作が売れる物でなく、作を発表できない、本にならない という逼塞感に苛まれるのが常だ。しかし、書きたくて堪らないモノが身内の底から衝き上げてきて書かずに済まない、それが作家だ。書けなくて死んだ作家 は、何人も例がある。苦しいものだ、書けないのは。しかし他の理由はともあれ、書けなくて作家が死んでしまうのこそ逃亡だと、傷ましくはあるが、結句わた しはそう思ってしまう。
2016 3/4 172
* 今日も、幾つもの「読み」「書き」仕事をすすめながら疲れては居眠りして視力をたすけて、もう九時半。今まで戯曲「こころ」を読み耽っていた。まさし く漱石先生の作をかりて秦 恒平の思いを籠めている、科白の一つひとつにも情景にも。舞台では、こんな長大な台本は実現しがたく、むろん今一つ「上演台本」を創ってもあった。その方 は、いますぐは見つからない、どこかに埋もれてしまってるらしい。幸い、一部適切に簡略にされてあるがNHK藝術劇場版のコピーがやはり何処かには在るは ず。
大きな違いの一つは、海と小島とを眺めながらの文字どおりにわたしの「身内」の思いを、「島の思想」を、原作戯曲では「K」が語っているが、舞台では 「先生」役の加藤剛さんの強い希望で、個々の持ち場をというより、主な科白をごう「先生」が語り「K」は聞き役に回っている。どう考えたって「先生」から こんな「身内」観が出るワケはないのだが、そこがスターシステムの上演の機微であった。わたしは反対はしなかった。観客から怪訝の声も一度も聞かなかっ た、そういうものだ、現実は。
今回「選集」に入れたい戯曲「こころ」は、わたしの原作の儘である、当然。しかも上演時にホンの少し書き加えた場面や科白も、「湖の本」第二巻の二刷りのおりに付け加えていたかも知れない。その辺は明日の仕事で確かめられるだろう。
2016 5/4 174
* 戯曲、漱石原作『こころ』のほかに、当然にも、原作を脚色した加藤剛さんら俳優座劇団が希望の舞台台本『心 わが愛』も、用意しなくてはならなかっ た、いやいや、この方が本来の「注文」であり、戯曲の方はわたしが是非に書き置きたかった。上演時間などに、また出演の劇団員などにとらわれずにわたしは 漱石の小説「こころ」の解釈・理解、その表現に取り組みたかった。ふつう新劇の舞台は、よほど長くても二幕構成で三時間未満であり、わたしの書いた戯曲は 倍近くもの分量と場面を持っていた。
台本の方も、稽古が始まると、演出や俳優からの希望で、新たな場面を加えたり、また省いたりかなり日に日に動的に変容して行くのはあたりまえのことで、 だからたいへんとも、おもしろいとも云えた。ウームと唸ってしまうような追加や削除や変更希望にも付き合わねば済まない、それが演劇の現場だ。
いま、戯曲も文字に組み上げ、台本も現場感を生かしたまま決定稿にちかく落ち着けようとしている作業、懐かしくも、たいへんでもあって、面白く新たな刺戟を受ける。
今では、息子の秦建日子の方がすっかりこういう方面のプロになっているのだが、俳優座で『心 わが愛』の幕が開いたときは、まだ早稲田の一年生であった が、彼ももう目前に五十というトシを迎えかけていて、指折り数えるまでもなく、わたしが戯曲を書いたり台本を作ったりしていた五十歳に近寄っている。思え ばわたしも長生きしてきたんだと、すこし呆れる。そうそう戯曲『こころ』はわが「湖の本」創刊の年の創刊『清経入水』につぐ第二巻めの刊行だったのだ、ま さに俳優座の幕があがるその時の仕事だった。つまり「満三十年」昔のことだ。長生きしたなあ、わたしも「湖の本」も。
2016 5/20 174
* 俳優座公演『心 わが愛』台本を復刻している。書き下ろした戯曲『こころ』は明確に私独りの作であるが、台本は、表紙に、「原作・夏目漱石」「脚色・ 秦 恒平」とはあっても、稽古期間中、演出や演技の方から日々に手が入ったり、加わったり削られたり変えられたりと、変身してゆく。あくまで脚色者として提言 したり同意したり難色を示したりしなければならない。「戯曲」と「脚色・台本」との間には微妙な綱渡りの綱が張られて行き、はらはらしたものだ、関心もし たりとんでもないと思ったり。しかも最終的には私の「作ないし脚色」なのであった。
読み返していて、舞台演劇の舞台での成立過程は、まことに微妙な遊動性に揺すられ続けるのだと納得させられる。
書き換え、書き加え、かき消し等々、そして演出者や俳優へ注文もつけていた、つけられてもいた。そういうメモも残っていた。
2016 5/26 174
* 今月はこのあと、月末に、師匠の「つか芝居」を建日子が初演出の舞台がある。
そして七月一日からは、選集第十四巻の送り出しになる。この巻はバラエテイのそれなりに面白い一巻になっている。
2016 6/19 175
☆ 父の日おめでとうございました。
体調はいかがでしょうか?
来週から舞台の本番が始まります。
初めての、つか先生の作品です。
劇場にて、お待ちしております。
本番終わったら、近いうちにまた保谷にも行きますね。
☆秦建日子☆TAKEHIKO HATA☆
* つかこうへいの弟子として、はじめて先生作の本を演出するので、緊張も一入だろう。がんばっていい舞台を創り上げて下さい。
2016 6/21 175
* 朝からがんばって、選集⑭送り出しの用意、大方調えた。すこしく気分ゆっくりのままに、月末を骨休めしたい。三十日には、久し振りに秦建日子演出の「つかこうへい」作のラク日の芝居を見に行く。
思い出す、建日子がはなばなしく、つかさんの弟子の一人として劇作・演出を始めた頃、わたしはちょうど東工大教授の日々だった。噂を聞いた学生が駆け 寄ってきて、羨ましいですと云うので、「ナイショだぜ、ボクは小説のときははた・こうへい、芝居のときはつか・こうへいなんだよ」と小声でいうと、跳び上 がってびっくりされたのに、びっくりした。ハハハ
2016 6/25 175
☆ 「リング リング リング」に拍手喝采。
秦様・迪子様
天気予報にウロウロさせられる昨日今日ですが、お二人様のお身体の調子は如何でしょうか。
昨日建日子さんの公演「リング リング リング」を中学3年生の孫娘と一緒に見せていただきました。
ダンスのレッスンをしている彼女もとても迫力ある舞台を楽しんでいました。主役のキンタロウーさんも知っているようで私などは知らない物まねやギャグに受けていました。
建日子さんのつかこうへい氏に寄せられている熱い思いのご挨拶を生の声で聴き、人と人との出会いにも感激していたようです。
つかこうへい氏に出会われたころの「プラットフォーム」の舞台からのご成長ぶりを見せていただける幸せを感じていました。
熱い思いでの脚色、演出での舞台から伝わってくるメッセージに、心動かされて見せていただきました。
ありがとうございました。 練馬 持田 晴美
* ありがとう存じます。
2016 6/26 175
* 体重が、70キロへ リバウンドしないかと案じていたのに、65キロ台へ落ちこんできた。
体重も体力も落ちこんでいる。
一つには、食が、まるで進まない。食べる楽しみが満たされないとは、情けない。
月末の建日子演出の「つか芝居」、七月初めからの「選集」送り出し、そして歯科通いを控えて、なんとか気力も体力も回復しておかねば。
この月末に会いませんかと誘われていた東工大卒の柳君、丸山君にも、連絡の来る前に、この際、お断りした。
2016 6/26 175
* 明日は建日子演出の芝居を見に行くが、一日、保谷へ顔を出そうかと電話呉れた。一日朝から、選集の送り出しで、家中のどこにも座ってもらえる場所がない。今回は、パスとあきらめた。
2016 6/29 175
* さて、いよいよ建日子が恩師の芝居「リングリングリング」を初演出の舞台を観に。新宿へ出かけます。
* 新宿、全労済ホール・スペースゼロで、つかこうへい七回忌追悼特別公演、原作・脚本つかこうへい、脚色・演出秦建日子、出演キンタロー、芹那ほかの 『リング・リング・リング』を観てきた。いつもは建日子作・脚本・演出劇で、ひとの作・脚本を脚色演出したのは初体験だったろう、しかし、生前のつかこう へいに心酔師事し、その七回忌に期待されての初の機会であり、生涯に大きな意味と足跡をのこしたことになる。懸命・渾身の仕事であったことはよくよく感じ 取れ、観客の一人としても、まずは、慶びたい。
* 今日が千秋楽であったからかどうか分からないが開幕前に建日子が舞台へ出て、恩師との出会いや感激の記憶を、気持ちこまやかに、いい言葉でうまく観客に語ってくれた。ほんとうに自立し成長した「秦建日子」がもはや危なげなく舞台の前面中央に立って話していた。
* つかこうへいの芝居は、もう十数年以上もまえに、瀧野川とか謂ったあたりまで妻と一度だけ見にいったが、やかましい印象だけを記憶してみな忘れてい る。テレビで「熱海殺人事件」とかを観たが、テレビ画面で観る舞台からは、評判の高い作だったろうに、ほんものの感銘は受け容れにくかった。映画もなにか 観たかもしれない、が、記憶に残っていない。
つかこうへいの小説は文庫本で数作よみ、やはり同じ小説家として近づきやすく、どれにも強い好感をもった。むろん、彼と我との小説の「表現」は乖離して はいたが、つかさんのハートには純乎として共鳴・共感できるモノがあった。彼は秦建日子の父親が秦 恒平であることは知っていたし、どこかの劇場で言葉を交わしたこともあった。私の眼識たしは彼に心から感謝を述べ、彼は穏和に頭を下げていた。
思いがけない惜しい限りの死が彼を襲い、秦建日子はさぞや寂しくも哀しくも心細くもあったろう。つかこうへいは、わたしよりもよほど若い人であるはずだった。師匠の役はとてもできないが、つかさんの代わりにも、わたしが長生きしてやらねばと思ったことであった。
* で、今日の舞台であるが。
* まるで間違っていて、実は、それぞれにそれぞれの方法があるのだろう、けれども、芝居を喜んで観に出る機会の多いわたしには、今日の舞台以前にも接し てきた幾人かの、幾つもの劇作・演出家の舞台から得た印象が渦巻いていて、あげく、当節の新演劇における「当世風」とすら言い切れそうな「或る整理整頓し た理解」が出来ていそうな気がしている。素早く断っておくが、それは、劇団俳優座や劇団昴の芝居とはいわば「別種の方法・主張」をみせていた。
* 割り切った見方を、敢えて口にしてしまおう。
開幕して、二時間の芝居なら一時間以上。三時間の芝居なら二時間をかなり過ぎるまで。彼らの舞台は、よく謂う「おもちゃ箱をひっくりかえした」みたいな 雑踏・騒然、科・白のぶちまけ・かきまぜ・のまま進行して行く。俳優座や昴での舞台とは、また歌舞伎や、沙翁劇などとは、似ても似つかぬ大騒ぎ・小騒ぎを ネタに煮込んだ「猛烈なごった煮」のさまを呈する。そういう「ていたらく」が「絶対先行条件」のように舞台狭しとぶち撒かれる。
そしてである。
上演時間の押し詰まって行く中で、突如、まさしく、それぞ「劇的」に、途方もなかった混雑の奥から魔法の糸をふうっと手繰るように、物語が「核芯の筋と主張」を掴みだし、一気に、かなり説明的でもあるのだが、分かりよい劇の高揚と解決とが導かれる。
よく云ってそれまではただ面白がって舞台を見聞きしていた、或いは「うへえ叶わんなあ」「なんじゃこれ」と音をあげかけていたう観客が、ここへ来て、 ぎゅっと芝居の収束力に胸や腹やハートをつかまれてしまう。感動という、共感という、そんな躍動が「ウソのように」目の前で弾けるのにひっ掴まれたように 観客は「同化」してしまう。「そうなのか」「そうなんだ」という良い意味「降参」の心情や理解を舞台へ喜んで観客はなげこみ始める。そして大団円、終幕の 拍手を観客は熱く心用意する。
* こういう「作り」の芝居を、いくつも観てきた。
最近では、池袋の大きな劇場で観た松たか子の芝居がそうだった。
野田秀樹や、クドカンらの芝居からわたしは、上のような今日的な舞台のいわば「キマリ作法」めくものを、何度か感じた。
むかし遠くまで出かけ、つかこうへいの芝居を観た印象を、今にして思い起こすと、要するに雑然騒然のごった煮をギャグや大声や舞踏や格闘などの「科・ 白」、すなわち「科=肉体の躍動」「白=破裂音・騒音めく聴く必要すら無いほどの言葉」を、先ずは三分の二もの長時間、手を変え品を替えて舞台にぶち撒 き、その「ごみ屋敷」のようなギャグと乱雑の舞台を、ある時点から急速に、一気に、魔術的に「理解と感動」へ引き絞って行く。嗤ったり呆れたりただ面白 がっていた観客の眼に、ウソのように「劇」の狙いが見え始め、びっくりするような熱い涙が湧き出す。
* 今日の舞台も、概要をいえば、そのように構成演出されていて、ひたすら「やかましく」進行し、その果てに、激しいが静かな納得と感銘とを与えつつ収束していた。
* 少し憎まれるかも知れないが、現代の先頭で沸騰している若い演劇的才能の「手法」が、意外なほど解りやすい組み立てで、かなり皆さん右へ倣えしているのだなと、ちらと思ったりもしている。
「表現」の「方法」という点では、通俗読み物は論外としても、文学といえる小説表現者の方法は、はるかに「さまざまに異なって出てくる」「出てほしい」という感想を、小説家のわたしは、あらためて、持ち始めた。
但し明言せざるをえない、今日凡百の小説家に「方法」を探究する者のはなはだ稀であるということも。
2016 6/30 175
* 劇団俳優座でこの二、三十年にわたしがもっとも注目し期待し迫力に富んだ活躍を秘かに喜んできた女優の一人から、速達の、いい手紙を受け取った。とく べつ何の用有ってではない、挨拶をしたい、せねばと思いつつ歳月を過ごしてきましたという、それだけのことだが、気持ちの良い熱い手紙であった。
この人、演技する女優であるだけでなく、オリジナルの劇作また演出も手がけていい実績を残している。
こんな人と建日子の秦組芝居とがぶつかれればいいのになと、内心夢見てきた。顔を合わして話し合える機会が有れば楽しいが。
2016 7/2 176
* 黒いマゴの輸液に腎・肝の水薬もまぜて、毎夜、欠かさない。生き長らえてほしいと、切に祈り続けている。
* 待望の、松たか子主演の公演が十一月コクーンで決まっていて、予約を終えてある。黒いマゴがなんとか達者に、留守を守ってくれますように。
2016 7/11 176
* 建日子が黒いマゴの終焉を惜しみ悼み、われわれを心配して二度三度電話をくれている。
建日子、十月には一つの劇場で日替わりに二つの芝居(一つは再演、ことつは新作)を「秦組」公演するらしく稽古で大忙しらしい。いい舞台が成りますように。
2016 9/8 178
* 秦建日子がどこやら一つの同じ劇場で、大幅に手直しした旧作と、意欲の新作とを二つ演出・公演していて、つまりは二度出向くことになるのだが、二つと も見て欲しいと。息子孝行に、妻と二度出かける。働き盛りのもう壮年、せいぜい生きのいい意気の籠もった感銘作をみせて欲しい。小説、舞台、テレビ、映画 と、手を広げている。心ゆく仕事をしっかり続け、なにより怪我も事故もなく、病気しないで欲しい。願わくは、(小声で云うが)マゴの顔もみせて欲しい。父 も母も寂しいのです。
2016 9/29 178
* 昨晩は池袋で、秦建日子作演出一ヶ月ロングラン二つの舞台公演のうち、ダンス・ミュージカル
「月の子供」を妻と楽しんできた。「月の子供」は建日子の作劇のなかでも訴求力のある「財産」ゆえ大事に手を加えるといいねと云ってきた。その話劇を思い 切ってダンス・ミュージカルに創り替えたのが成功していて、エネルギイが焔と化し、元気なしかも哀れ深い物語を歌とダンスで編み上げて行く。幾昔もまえの 「戯曲集」の読者達には伝えようもなく、ダンス・ミュージカルは「ことば」で以上に、つまり「科・白」の「白 ことば」以上に「曲 うた」「科 うごき」 で表現され進行されてゆく。文字だけでは収まっていない。ダンスや音楽を楽しみ、かつ、台詞をすらダンスやミュージックに溶け合わせて楽しまねばモノが見 えてこない。
広くはない舞台に相当な人数が交錯し変幻しつつ劇がすすむのに、全員がよく踊りよく歌っていて、しかも主要人物たちが、行き届いたアンサンブルで葛藤し 合っていたのは、稽古の成果と見えた。そんななかで、むかしコインロッカーの中に生み捨てられ、孤児院で育ち、その両親を捜している少年役が、天才的に実 にダンスも歌も台詞も読みも、全ての間の生かし方も巧いのに驚嘆し、終始その子に心奪われていた。桑名で撮ってきた映画「クハナ」で監督した建日子が見つ けてきたらしい。
わたしは、これで、もともとダンスも歌も、好き。歌舞伎でも舞踊・所作事は文句なしに楽しめる。
この「月の子供」なら、もう一度観てもいいなと思っている。
* 終えてすぐ劇場を出て歩いていたあとを作・演出家の建日子が追いかけてきた。路上で、数分
話しあって別れてきた。池袋駅前の老舗の「服部」で久し振りにカレーと珈琲を。妻はハデなアイスクリームを。
家ではネコ・ノコ・黒いマゴが三人で仲よく留守番をしてくれていた。安心。一つ家の内でまぢかに少しも変わらず、みな一緒に暮らしている感覚が嬉しく、しょっちゅうテラスへ目をやっては声を掛け合っている。
2016 9/30 178
* ショウの「聖女ジャンヌ・ダルク」は「シェイクスピア以後の英語で書かれた最大の戯曲」とさえ言われている。今夜は、読み耽りたい。わたしの勘ではこ の戯曲、ミラ・ジョボビッチ主演の映画「ジャンヌ・ダルク」の原作であるかと思われる。あれはいい作であった。ダスティン・ホフマンも異色の登場だった。
はるかにそれ以前には、新制中学三年生のころ学校が映画館で全生徒にみせてくれたイングリット・バーグマンの「総天然色」「ジャンヌ・ダーク」がいわば 映画体験の原点、根底の感動になった。ジャンヌ・ダークがわたしに棲みついたというほど。わたしの西欧の歴史へ関心の芯にこの聖女が居坐ってきた。松たか 子がコクーンで大熱演したみごとな「ひばり」、あれもすばらしく印象的なジャンヌ・ダークだった。あの舞台一作だけでも、わたしは、松たか子を最も優れた 名優の一人に数える。
2016 10/5 179
* ショウ戯曲の大作「聖女ジャン・ダルク」読み終えた。いい作に出会えたと、感謝している。ミラ・ジョボビッチの映画も見直したくなった。
とほうもなく重たい全集本ではあるが、ソフォクレスやエリオットの戯曲も読んでみたくなった。
2016 10/10 179
* 十一月、喜多流友枝昭世の能「野宮」国立能楽堂招待、俳優座の早野ゆかり「常陸防海尊」稽古場公演招待 があった。
十一月は歌舞伎座顔見世月で芝翫一家襲名の舞台だが割愛し、松本記保の「治天の君」 松たか子のコクーン公演を予約してある、聖路加も二科診察予約があり、たぶん加えて「湖の本132」も「選集第十七巻」の発送も賑やかに逼ってくるだろう。
日本ペンクラブも、二十六日のペンの日に、何だか表彰するのどうのと言ってきている。これは、ま、従前の名誉会員にしてくれる意味であろう、永年会費を払い続けた会員であったと、それだけのことと思っている。
2016 10/12 179
* 晩、また、先日も、秦建日子作・演出「月の子供」を観に行った池袋の奥の劇場へ、二作をぶっつけ一ヶ月公演している別のもう一作を観に妻と出かけた。題して「AND SO THIS IS Xmas」
と。「これは戦争です」とも副題してあり、二時間余の爆弾テロ劇、いや「演技の劇画」であった。ちょろりと「戦争のできる國にしたい総理」への軽蔑と嘲笑 もあらわしながら、かなりこみ入った人間関係を通して、「愛」を表そうとしていた。劇場も吹っ飛ぶかという爆発の轟音を数度も表し、相当に多様な人数と人 間関係とを絡み合うように超特急の演技交換で表現していた。演出というめんからだけ観れば、これまでの旧作を飛び抜けて巧緻に出来ていた。演者たちもまこ とに達者に忠実に演出に応えていて感服した。
ただ、総じての印象では、舞台を画面に用いた突起的な「劇画」に終始し、胸に沁みてくる切なる感動や感銘は二の次に終わっていた。さらには、かすかに、 かかる爆弾テロ行為を迎え入れてしまいかねぬ「危険訴求」すら観客の胸に残すかも知れぬおそれも、わたしは持った、かすかにではあるが。そういう「危険訴 求」は大衆の無意識にもちやすい安易や軽薄に結びつきやすいだけに、かすかに胸が冷えもしたのである。
* それにしても、建日子、うまくなった。だからこそ、うまさという上滑りに自負が固まり、人間味の創作、深い愛や真実の表現を置いてけぼりにしないよう 気を付けて欲しい。その意味でも、映画「クハナ」の素朴で、すこし素朴に凭りかかりすぎはしていたが、あのような健康な批評性こそ、今後の創作に益々大切 だと思う。
* いい席を用意してくれていたが、冷房が降ってきて、寒かった。二時間余りの舞台の途中、二度腕時計をのぞいた。体調の落ちて行くのがわかった。夕食抜きで出てきたのも堪えたか。
妻と雑踏の夜の池袋をのがれ出て、西武八階の食堂街へあがったが、今夜も、うまい食に当たれなかった。不味い牡蛎フライだった、ビールで呑み込んできた。
2016 10/21 179
* 昨晩、建日子のなかなか巧みな戯画っぽい「劇画」を観てきたまま、今日、すこしだけ連続ドラマの「夏目漱石の妻」を観ていた。記憶の限りでいえば、今 年なテレビで観たドラマでは此の「夏目漱石の妻」が第一等、映画では、題をすぐ思い出せないほど、静穏に、哀切に、温かくしみじみと描き撮られていた反戦 映画が第一等であった。「劇」するから演劇だといいたいなら、その「劇」とはそもそもどんな劇であるのか、静かに考えてみる時も持ち合わせねばいけない。
最近、だれかが嘆いていた、自作の「詩」を「絶叫」して読みあげる会があるのだと。わたしも昔、そんなのに出くわし、ばからしさに会場を立ち去った思い出がある。詩でも演劇でも小説でも、絵画でも、真実大切なのは、「何」か。
2016 10/22 179
* さ、十一月の松本紀保、松たか子 姉妹、それぞれの異色の舞台が楽しみ。
久々に、名手友枝昭世の能舞台にも招んで貰っている。
早野ゆかりが主演の俳優座稽古場公演にも、観てほしいと招かれていたのに、申し込む機会を逸してしまった。惜しいことをした。
それもこれも、しかし健康しだいのこと。十一月七日には「湖の本」132が出来てきて送り出さねばならない。いま、発送用意が怠れない。無事に間に合う といいが。送り出せるといいが。建日子に気働きのいい嫁さんがいてくれたらなあと、心底、希望してしまうが、ま、仕方ない。妻にひどい疲れが溜まらないよ うにと心底祈っている。
2016 10/29 179
* 三軒茶屋で、松本紀保ほかの「治天ノ君」を観てきた。二時間半、幕間のない舞台が、速いと思うほどに推移して、能のように完璧・簡潔な構成と演技、明治と 昭和にはさまれた大正ないし大正天皇への優れて深切な理解、大正をはさんだ明治と昭和ないし明治天皇と昭和天皇に対する適確な表現と優れて辛辣な批判が、 劇作・演出・演技の三面からみごとに実現されていて、感嘆した。りっぱに藝術的・創造的・批評的な舞台であり、初演時、讀賣演劇大賞選考委員会特別賞はじ め優秀男優(西尾友樹)・女優賞(松本紀保)、優秀演出家賞(日澤雄介)を總なめしていたのが「当然」という、感銘深い秀作であった。遠くまで出かけて良 かった。最前列中央角席を用意してもらえていて、わたしにも、舞台や演者がよく見えた。
幕の後、ロビーで主演女優と会える段取りがされていたけれど、雑駁な挨拶をしてしまってはいけないので、遠慮し、失礼してきた。
池袋まで帰り、西口のホテルで食事してきた。赤ワインとシーバスリーガルのダブル・ストレートで、シーフードのコースを味わってきた。幸い食べやすかった。
* 今日も三軒茶屋までの電車往き帰りに座席を譲ってもらった。杖つきの白髪よろよろは、よほど弱々しく見えるのか。しかし有り難いのである。
2016 11/3 180
* 夕刻、「百合子さんの絵本」というすばらしいテレビ映画に感動した。薬師丸ひろ子と、中車、じゃなかった香川照之という好きでじつに美味い二人の戦時 劇。ノルウエーの駐在武官として露独事情の探査を命じられた、その実は該博な西欧知識により第二次大戦への日本軍突入を危ぶみ続けて左遷されていた香川と その妻とは、ドイツの動きを対ソ連と観測して、的確な情報を夫婦協力して送り続けていたのだが、陸軍参謀本部は英独戦先行と呼んで香川情報をハナから疎ん じ続け、ソ連の対日戦線への参戦情報まで、ヤルタ会談情報まで握りつぶしていた。
* むろん原作も脚本もその時代背景も鮮烈であるが、なによりも巧い女優・男優が演じるとこうも感動を盛り上げるかと、涙あふれるのにも堪えて、じつに気 持ち深くかつ嬉しく観おえた。一昨日の松本紀保らの能様式の舞台劇「治天ノ君」といい、今日のテレビ映画といい、秀逸というに尽きた。佳いモノは佳いので ある。卑俗なガサツなものでは胸に疼いてのこる感動が湧かない。ことしは、もう一本、劇映画のなんとかいう題の戦時モノに感心したのも忘れがたい。「作」 は世に山ほど溢れている、が、真に「作品」に富んだ創作はめったには無い。創作者はこのことを、「作品」という「気品」をシカと追求し表現せねば、無意味 というに近いことを真実心がけたい。
2016 11/5 180
* また二日家で休息して、腫瘍内科退院後の診察に、水曜午前、聖路加へ。十一日金曜朝には「湖の本132」が出来てくる。発送用意はほぼ出来ている。夕 方には沼袋まで歯科へ通う。本の発送にどれほど体力が使えるか、ながく掛かっても無理の無いように二人で頑張る。十五日には楽しみにしてきたコクーンでの 松たか子公演に出かける。じわじわと師走へもう目が向いている。「選集第十七巻」を送り出して今年の力仕事は終える。來手年も再来年も鬼が笑い怪獣が笑っ ても、わたしたちの日々は変わらない。ゆっくり、怪我なく歩みたい。倒れたら、おしまい。
「虚空裏に向って釘橛(ていけつ)し去るべからず」と、臨済和尚に真っ向打たれている、「虚空に釘を打つような真似はするな」と。ハイハイ。
2016 11/6 180
* クロネコやまとに荷を渡しても、どういう事情でか、発送されていないという。経営に無理が重なっているのか、従業ら問題が出ているのか、分からない。
ま、わたしは、身を休めることを主にしたい。
もうすぐ、待っていた松たか子の芝居を観に行く。先日の姉・松本紀保の『治天ノ君』は秀逸であった、負けない面白い舞台を期待している。
今月半ば以降は、月曜ごとに聖路加の診察がある。月が変われば、五日に「選集⑰」が出来てきて、送り出したあとの師走は、かなり寛げる。思い切り、創作へ重きを置く。一度、遠くないあたりまで新幹線に乗れないものか。
2016 11/13 180
* 俳優座が正月初笑いにと、モリエールの抱腹絶倒フランス古典喜劇「病いは気から」へ招いて呉れている。胃全摘から五年の私、笑えるかな。
2016 12/17 181
* たまたまテレビで、蜷川演出の「ハムレット」の舞台を、ひとしきり、非業に殺されていた亡き父王の幽霊から王子ハムレットが復讐をせまられる場面だけ観ていた。平幹治朗の語りに引き込まれて。
沙翁劇の科白を聴き、また読んでいると、この世で「演劇」といわれる世界は、天にも届く沙翁劇をはるかな頂上に、余の群れははるかな麓で右往左往してい るかに見える。言うまでもなく日本には能があり、近松門左衛門もいたし、現代には福田恆存や三島由紀夫がいた。そさそされはされと認知して深く頷くけれども、か りにもわたしなどが、戯曲を書いたことがあります、上演されたこともあります、などとは、恥ずかしくてバカらしくて言つてはならないことに思われる。猛毒 をはらんだ神かのように沙翁は文字取りに「もの凄い」世界を突きつけてくる。遁れ得ず、引き込まれる。
それにしても酷い。読んだばかりの『タイタス・アンドロニカス」の通称とも副題とも謂えるまさしき「凌辱」(殺しと犯し)との烈しさに読みながらわたしは肌を冷たく硬くした。
いま読んでいる「リチャード三世」では、開幕していきなり殺しと犯しとが宣言され、殺された王子の美しい妻アンを、殺したグロスター(リチャード三世)が、葬列のさなか、旺盛で剣呑極まる雄弁一つで、さながらに犯して自身の妻にしてしまう。
いまテレビで垣間見た場面によっても、王子ハムレットの父王は、父の弟である現王に殺され、王妃は現王の妻となっている。
沙翁劇ではむしろこのような愛憎・害被害の輻輳はナミの事であり、だが何故にそうなのかと「人間」の暗く深い淵の底を覗き見るという勇気を人は持ちにくい。持ちたがらないまま沙翁をはるかな高みに鬼である神かのように振り仰いで柏手だけを貢いでいる。
2016 12/30 181